徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔89〕よれよれ西国旅(9)奈良盆地を西から東。そして最後は滝見物

大和多武峰談山神社

奈良盆地を西から東へ

當麻寺の三重塔(西塔)

 天川村の旅館で極めて心地よいもてなしを受けた私たちは、奈良盆地にある立ち寄り場所に向かった。「一言主神社」「當麻寺」「大神神社」「山辺の道」「箸墓古墳」「石上神宮」などを想定していたのだが、夕食後にグーグルマップで翌日のルートを確認していると、途中に「水平社博物館」があることに気付いた。

 友人もその場所に行くことに激しく同意したことから、最初の目的地はそこに決まった。次は予定通りに一言主神社へ行き、折角なので葛城山に上って(ロープウェイで)奈良盆地大阪平野を展望しようということになった。

 二か所、立ち寄り場所が増えたので、當麻寺には出掛けられたものの、私が密かに希望していた「二上山」や「竹内街道」の散策には時間が不足してしまった。

石舞台古墳

 翌日は明日香界隈に出掛け、その地の空気を胸一杯に吸い込むことで、古代日本の有り様に思いを馳せる予定でいた。が、友人が「高松塚古墳」と「石舞台」を見たことがないので立ち寄りたいという希望を申し出たため、それを実現することにした。彼は、この日の晩に奈良を離れて横浜の自宅に帰ることになっているからだ。

 私にとっては馴染み深い場所なのだが、目的場所などはさして問題ではなく、さしあたり、明日香に自分の身を置くだけで私は十分に満足できることから、それを実現することにした。

大神神社の祈禱殿

 明日香を離れ大神(おおみわ)神社に向かった。もっとも、神社そのものに興味がある訳ではなく、大神神社から石上神宮へと続く「山辺の道」(実際には、海柘榴市(つばいち)から石上神宮なのだが)に絶大なる関心があったので、大神神社に向かったに過ぎない。

 ただ実際は、あまり歩き慣れていない友人が疲労感を抱いてしまったため、せめて景行天皇陵や崇神天皇陵ぐらいはとの予定が大幅に短縮され、これからが山辺の道の白眉となる以前に最寄りの駅に向かうことになってしまった。

 ただ巻向から三輪駅まで、短距離ではあるけれど、久し振りにJR桜井線(万葉まほろば線)に乗れたことには満足した。

 「秋の日は鶴瓶落とし」という言葉があるように、晩秋は陽が短いので、明るいうちに訪ねられる場所はそう多くない。車をとめて置いた大神神社の駐車場に戻ったときには日はかなり傾いていたため、友人と巡る奈良の旅はここで打ち止めとなった。

室生寺の山門

 一人旅に戻った私は、「石上神宮」でニワトリと戯れ、南下して「談山神社」、その後は東に進路を取り、「長谷寺」、そして写真の「室生寺」というように、あたかも修学旅行のようなルートで、紅葉の奈良路を堪能した。

赤目四十八滝の不動滝

 最後の宿泊場所は三重県名張市に決めていた。「名張毒ぶどう酒事件」の真相解明が目的ではなく、「赤目四十八滝」を少しだけ覗くことが主眼であった。

 長旅で疲れが蓄積されていたこと、450キロを運転して帰ること、途中の御在所SAで土産の『赤福』の新商品を購入することを思うと、滝見物は急坂に入る直前に位置する「布曳の滝」までに留めた。

 以上が、「よれよれ西国旅」の最終回の主な立ち寄り場所であった。

◎真の平等を求めて~水平社博物館・「人の心に熱あれ、人間に光あれ」

水平社博物館に初めて立ち寄る

 写真の水平社博物館は奈良県御所市柏原にある。1986年に「水平社歴史館」として開館し、1998年に現在の名に改称した。

 全国水平社はこの地に生まれた西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作が中心となって1922年に設立された。彼らは、被差別部落出身というだけでおよそ考えられるあらゆる社会的差別を受けた。水平社宣言の起草者である西光は部落差別のために中学校を中退せざるを得なくなり、一旦は画家を目指して上京した。その後帰郷して阪本と協力して19年に「燕会」を結成して部落内部の改革運動に取り組み、21年には水平社の設立趣意書である「良き日の為に」を書き、翌年の水平社宣言の草案を起草し「荊冠旗」を考案した。

 水平社運動は戦前、国家社会主義運動に取り込まれてしまい、42年には解消の憂き目にあった。が、戦後に松本治一郎を中心に「部落解放全国委員会」が設立され、55年に「部落解放同盟」として現在に至っている。

 私が友人と知り会ったのは、大学での「狭山差別裁判糾弾闘争」が切っ掛けだった。彼は常に闘争の意義やその進め方を理論的に指導し、私は敵対勢力を追い払うための用心棒的な役割を担った。

 人は自分の誕生を選ぶことはできない。そして自分の存在は他者によって、社会によって位置付けられていく。被差別部落に、障がい者に、在日朝鮮人に、少数民族に、女性に、黒人に生まれてきたのは自分の選択ではない。しかし、他者は、社会は、こうしたまったく自分がその出自に関与できない存在者を下位に置くことによって自分の利益を拡大しようとする。それゆえ、既存の社会はほとんどすべて「差別する側の論理」で成り立っている。

 自由は「差別する自由」を含み、人も生物である以上、「平等」であることはあり得ない。そうであるゆえ、逆に差別を限りなく小さくしてゆく自由も、他者の権利を、いやその存在自体を自分と平等とみなすことは可能だ。

 私は「カント主義者」なので、彼の道徳律でもっともよく知られている以下の言葉を常に念頭に置いて行動していく覚悟がある。実際には限りなく難しいことだが。

 「汝の格率が、常に同時に普遍的立法に妥当しうるように行為せよ」

博物館の向かいの西光寺にあった「人権のふるさとへ」の看板

 博物館の向かいには「西光寺」がある。西光万吉(本名は清原一隆)はこの寺の住職の長男として生まれた。西光寺のある地域は江戸時代、死んだ牛馬の処理=”清め役”を命じられた場所になった。このことで地域は「穢れた場所」という扱いを受けるようになり、被差別部落に位置付けられてしまったのである。

 そのため、西光寺は”穢寺”の扱いを受け、この寺の子として生まれた西光万吉は学校からも生徒からも他の地域の人々からも差別を受けたのである。

 現在、西光寺周辺は「人権のふるさと公園」になっている。博物館と西光寺の間を流れる満願寺川には、写真の「ようこそ、人権のふるさとへ」の看板が掲げられている。

 差別される側に自分の身を置いてみた状態をイメージすることは可能だ。民主主義の理念のひとつに「入れ替え可能性」がある。自分を”差別される側の人間”に入れ替えてみて、それでも十分に耐えられるかどうかを考えてみる必要がある。

 差別される側の人間に接したとき、「もしも私が彼、彼女だったら」と考えれば、差別がいかに非人道的であるかが理解できると思う。

一言主神社

二の鳥居

 「葛城の道」がある。奈良盆地の東側には「山辺の道」があり、そちらは日本最古の道と言われ、私が大好きな山道であるが、盆地の西側の葛城山麓には、やはり歴史のある道があって、散策するには絶好の古道だ。

 その「葛城の道」は、葛城山麓から南に下って風の森神社へと続くのだが、その中間付近にあるのがここに取り上げた一言主神社で、歴史のある神社であり全国にある一言主神社の総本社であるにも関わらず、境内はさほど広くない。ただ、参道はかなり長く、写真の二の鳥居の300m以上東に一の鳥居があるので、往時は相当に広大な敷地を有していたと思える。

階段を上がって境内へ

 境内には正面の階段を上がって行くが、右手に写っている細い道が葛城の道で、ここからなかなか趣のある道が続いていく。今回は時間の関係でこの道には進まず、境内を散策することにした。

ぼけ除け「幸福の像」~近年はあちこちで見掛ける

 この神社の歴史は古く、『古事記』や『日本書紀』にも登場する。

 雄略天皇葛城山で狩りをしていたときに大神が顕現し、『古事記」には、「吾まづ問はれたれば、吾まづ名告りせむ。吾は悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城一言主の大神なり」と述べて神力を示したそうだ。一言の割には少し長い気がするのだが、まあそれは良しとしよう。

 祭神は「葛城一言主大神」と「幼武尊(雄略天皇)」で、地元の人々には「いちごんさん」とよばれて尊崇されているそうだ。

イチョウ(樹齢は1200年)

 一言主大神は、役小角役行者)によって金峰山葛城山との間に橋を架けるために使役されたというから、意外にも働き者だったようだ。ただ、顔が醜かったこともあって、昼間は働かず夜のみ働いたというから、案外、気が小さい神なのかもしれない。

本殿

 大神が奥ゆかしい面があったためか、写真のように本殿は総本社の割には意外にも小振りである。この点には好感が持て、私があえてこの神社に訪ねたかったのはこれも理由のひとつであった。

芭蕉の句碑

 境内には樹齢1200年の大イチョウのほか、写真の松尾芭蕉の句碑がある。

 『笈の小文』には「彼の神のみかたちあししと、人の口さがなくいひつたえ侍れば、

 猶見たし 花に明行 神の顔 

 という句を残している。芭蕉らしく洒落の効いた句である。

葛城山

天神社

 葛城山大和葛城山)は金剛山地にあり、奈良と大阪の境にある。金剛山と並んで古くから知られた存在で、どちらの山にもロープウェイが開通していたが、金剛山のものは古くなって修復には巨額の費用が掛かるということで廃線になった。そのため、楽をして山地上に上り、奈良や大阪の景観を楽しむには葛城山が選ばれることになる。

 標高は959.2m。ロープウェイを使えば6分で上がることができるが、往復1500円は少し高いように思えた。

 山頂駅のすぐ近くには写真の「天神社」があった。頂上付近にはブナの原生林があり、古くから「天神の森」と呼ばれていたらしい。祭神は「国常立尊」。境内からは土器や土師器の欠片が発掘されていることから、古代の祭祀遺跡でもあるらしい。

葛城山

 頂上はよく整備され、写真のような標識と、何故かポストが立っていた。ここからハガキや封書を送ると、「葛城山頂」という消印が押されているのかも?

 周辺は草原が広がっており、また周囲には山ツツジの木が数多く植えられている。これを記している5月が花の見ごろのようで、ロープウェイは満員御礼状態になるそうだ。

奈良盆地を望む

 空気が霞んでいたのと、大阪側は逆光だったためにまともな写真は撮れなかった。一方、奈良盆地側は何とか撮影可能で、写真のように手前の畝傍山(199m)、東側の天香久山(152m)、北側の耳成山(140m)といった大和三山の姿が見えた。

 また、東方向の谷沿いには集落と国道165号線が続き、後で紹介する長谷寺室生寺赤目四十八滝はその国道に近い場所にある。

當麻寺当麻寺、たいまでら)

仁王門(東大門)

 當麻寺二上山(にじょうさん、ふたかみやま)の東麓にある古刹。奈良盆地の東縁には三輪山大神神社、西縁には二上山當麻寺と、対になって語られることが多い存在である。

 この寺には国宝や重要文化財が数多くあるが、そのいくつかは”無造作に”と思えるほど、気軽な気持ちで国宝や重要文化財に接することができる。

 東大門の近くに有料駐車場があるのでそこに車を置き、友人と境内散策をおこなった。敷地の中には10数の塔頭があるので、広々とした感じはあまりしない。非道く歩かされるほどでもなく、かといってせせこましい感じもせず、見物には誠に具合が良い。

 なお、当寺は真言宗と浄土宗の二宗の寺である。

国宝の梵鐘

 門から境内に入ると、正面に写真の「梵鐘」(鐘楼)が見える。680年に建造された日本最古の梵鐘であり、国宝に指定されている。写真から分かるように誰もが簡単に近づくことができる存在であり、国宝という看板が出ていなければただの古めかしい小さな鐘撞堂ぐらいにしか思えないところにこの建築物の良さがある。

国宝の本堂

 そのまま西に進むと金堂と講堂が並び立っており、その間を抜けると写真の本堂に突き当たる。

 本来は金堂が本堂の地位にあるはずなのだが、本堂(曼荼羅堂)に安置されている根本曼荼羅が本尊の役割を担っているため、こちらが現在は本堂に位置付けられている。本尊というと仏像がほとんどだが、ここでは曼荼羅図が本尊というかなり珍しい寺なのだ。

 平安時代末期以降、阿弥陀信仰が盛んになったため、当麻曼荼羅図(国宝)が崇められるようになった。当時の曼荼羅図は「中将姫説話」が広がるとともに評判を博した。私たちは、その中将姫説話を題材にした折口信夫の『死者の書』で、その中将姫が織ったとされる「曼荼羅図」をイメージすることができる。

 この曼荼羅図は「蓮糸曼荼羅」と考えられてきたが、実際には、絹糸、平金糸、撚金糸などを用いた綴織であることが判明している。最初のものは損傷が極めて激しいが、調査によって7世紀ごろに唐で織られたものと考えられている。

三重塔(西塔)

 境内には三重塔がニ棟あり、それぞれ、西塔、東塔と呼ばれており、ともに国宝である。

 写真の西塔は平安初期に建造されたもので、素材はケヤキである。高さは25.2m。 

三重塔(東塔)

 東塔は奈良時代末期に建てられ、素材はヒノキである。高さは24.4m。

 両塔を見比べてみると意匠に微妙な違いがあり、同時代に造られたものではないことが分かる。

塔頭の西南院(さいないん)

 西南院は、「中之坊」と並んで當麻寺塔頭ではよく知られた存在で、こちらは「関西花の寺」として人気が高い。もっとも、私たちが出掛けた11月は花の少ない時期なので、特別に”珍しい菊”の展示会がおこなわれていた。

 江戸初期に造られた「池泉回遊式庭園」は小規模ながらなかなかの見応えがあった。借景として西塔を利用しているので狭さを感じさせない。

 私の大好きな「水琴窟」があり、よく響く雫の音は遠く白鳳時代までの1400年の歴史を感じさせるものだった。若い時分には庭園などまったく興味がなかったが、ジジイになってからはその良さが少しずつ分かりかけてきた。

菊の展示がおこなわれていた

 展示されていた菊はいずれも改良を施されたものであった。10数種あったが、その中では一番、写真のものが艶やかだった。

大阪冬桜

 脇には写真の「大阪冬桜」がかろうじて花開いていた。10から11月に咲き始め、春に多くの花を身に纏うという二期咲きの桜だ。桜は春のものだと思っている人がいるようだが、実際には一年中、いろいろな種のものが開花している。

◎古墳を訪ねる

高松塚古墳

 明日香に足を踏み入れた。私はずっと以前からこの地を散策するのが大好きで、とくに目的場所はなくとも、ただこの地に自分の身を置いているだけで満足な心持になる。

 予備校生時代には古代史の研究会に顔を出していたということは本ブログでは何度か触れているが、ほんの一瞬、将来は歴史学者にでもなろうかと考えたこともある。しかも古代史を専門とするのだから古文書が読めなくてはならない。古い資料を分析するには根気のいる作業が必要となる。受験勉強を放り出して何度か学会にも顔を出したが、議論の内容はほとんど理解できなかった。某教授から文献を借りて見開いたものの、そもそも文字を読み取ることすらできなかった。古代史研究家になるための素養がまったくないことが判明したので、最終的には磯兼アユ釣り師になった。

 釣りだって根気が必要だが、釣りには偶然性がまとわりついているため、私のような怠け者にも十分に務まるのだ。それでも、古代史好きには変化はなかったので、折をみては奈良、京都にはしばしば出掛けた、竿を持たずに。

 高松塚古墳は国営飛鳥歴史公園の中にある。石窟の中の壁画が有名で、とくに色彩豊かな女子群像はこの古墳を語る際には必ず登場する。

 写真の二段式円墳はもちろん、近年になって造り上げたもので、7~8世紀初頭の終末期古墳の形を模している。 

歴史公園は散策に恰好な場所

 1962年、村人がショウガを貯蔵するために60センチほどの穴を掘ったところ四角い凝灰岩の切り石が出て来た。その凝灰岩は二上山産のものであるということは判明済みだ。72年に橿原考古学研究所らの調査でほぼ全貌が明らかとなり、74年に壁画群は国宝に指定された。

 壁画は直接、石面に描かれたものではなく、厚めに塗られた漆喰層の上に描かれているため保存にはかなりの神経を必要とする。

 墓の埋葬者は同定されておらず、天武天皇の皇子説、石上麻呂説、朝鮮系王族説がある。

石舞台古墳

 ある面では、明日香でもっともよく知られた古墳だと思われるのがこの「石舞台」である。古墳というと円墳にしても前方後円墳にしても土盛りの姿をイメージするが、ここは石室がむき出しになっており、土盛りがきれいさっぱり消えてしまっているからだ。

 調査から、この古墳は方墳だったことが判明している。1933~35年に綿密な調査がおこなわれ、堀の形状から形が推測でき、日本では最大級の大きさだったとのことだ。

中をのぞく

 横穴式の石室には、写真のように立ち入ることができる。全体は30数個の花崗岩でできており、推定では2300tもの石が使われている。石室の広さは長さが7.7m、幅が3.5m、高さが4.7mある。

 石は近くにある多武峰(とうのみね)から運ばれたそうだが、7世紀のことなので人力以外には考えられない。

死者の眼

 埋葬されていた人物は蘇我馬子(入鹿の祖父)説がもっとも有力とのこと。

 周囲の岩も大きいが、天井に置かれた石は巨大で、天上部だけで77tもの石が使われている。孫の入鹿は645年の「乙巳の変」(大化の改新)で暗殺されてしまい、蘇我氏の権力はやや縮小してしまった。祖父の馬子はこの石室の中で永遠の眠りについていた。馬子の眼には、乙巳の変はどのように映ったのだろうか?

大神神社

大鳥居

 大神神社(おおみわじんじゃ)は大和国一之宮で、日本最古の神社といわれている。標高467m、綺麗な三角形の姿をしている三輪山御神体としており、拝殿はあるが社殿を持たない古代神道の形式からなる。

 私はこの大神神社には何度も訪れているけれども、目的は神頼みではなく、日本最古の道と言われる「山辺の道」のひとつの起点がこの神社になっているからである。

 とはいえ、写真のような巨大な大鳥居(高さ32.2m、標高は69m)は見応えがあり、深閑とした森に包まれた参道を歩くのは心地好いので、単に山辺の道を歩くためだけに訪れているという訳でもない。

 大鳥居は1986年に竣工し、当時は日本最大の鳥居と言われた。ただし、2000年に熊野本宮の大斎原(おおおゆのはら)に高さ33.9mの大鳥居が出来たことで、日本一の座は奪われてしまったが。

 それにしても、大鳥居と、その背後に見える三輪山の取り合わせは、信仰心がまったくない私であっても、どこかしら敬虔な心情が生まれてくるから不思議だ。

二の鳥居

 大鳥居から二の鳥居(標高は78m)までは道の左右に駐車場や商店(三輪そうめんの店など)が並び、さらにJR桜井線の踏切もあって、日本のどこにでも見られる参道の風情だが、写真の二の鳥居から社殿まではそうした日常的なものは存在せず、木々に包まれながら心安らかに散策が楽しめる。私には参道であっても単なる散歩道にすぎないので。

拝殿までの道

 拝殿は標高96mのところにあって、参道はなだらかな坂道(階段)が続いてゆく。人々はいろいろな思いや願いを抱きながらのぼってゆくし、願いが叶いますようにと下ってゆく。

 受験の合格や交通安全、結婚や出産祈願なら具体性があるので願いが成就したかどうかは分かりやすいが、幸せになれますようにだとか、無事で一年を過ごせますようにとかやや抽象的な願いは、神様はどのようにふるまってくれるのだろうか。私には「願い」はまったくないので関係はないが、「幸せ」や「善悪」の基準なんてまったくないので、つくづく神様も大変であろうと、神に同情したくなる。

賑わう拝殿前

 古い記録(古事記や日本書記)によれば、大神神社の祭神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は、出雲の神である大国主神の前に現れ、国造りを成就するために三輪山に祀られることを望んだという。このため、崇神天皇の時代には国造りの神、国家の守護神として篤く祀られたとのこと。

 三輪山全体が御神体であるが、頂上には大物主大神、中腹には大己貴神(おおなむちのかみ)、麓には少彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮座している。

水の神である市杵島姫神

 友人も私も参拝はせず、「山辺の道」を進むことにした。祈祷殿や儀式殿の前を通り、山間の道を進んだ。

 まもなく、磐座(いわくら)神社に出た。磐座とは古神道における信仰となる岩のことで、三輪山の天辺には奥津磐座、中腹には中津磐座、麓には辺津磐座がある。

 さらに進むと狭井神社の鳥居に出た。狭井神社の鳥居の近くには「鎮女池」があり、その水の神として弁才天が祀られている。ここには「市杵島姫神社」という、写真のようになかなかオシャレな社がある。

 なお、狭井神社の裏手には「三輪山登山口」がある。コロナ禍ということもあって登山は禁止されていたが、この5月10日から再開された。 

檜原神社

 檜原神社(ひばらじんじゃ、桧原神社とも)は大神神社の摂社で天照大神を祀る。三つ鳥居が特徴的で、大神神社同様、社殿は存在しない。

 垂仁天皇の御代、大神は皇女の倭(やまと)姫命に後を託し、自らは伊勢の五鈴川の川上に御遷幸した。今の伊勢神宮の内宮のある場所だ。このため、檜原神社は「元伊勢」とも呼ばれている。

檜原神社の注連柱の間から二上山を望む

 写真のようにこの注連柱から西側を望むと二上山が見える。春分の日秋分の日には、三輪山の天辺から昇った太陽は、この二上山の間に沈む。このことも當麻寺の項で触れた『死者の書』のモチーフになっている。

 ところで、日本最古の官道と言われる竹内街道(たけのうちかいどう)は難波を起点として、その二上山を迂回するように東に進み飛鳥へと進む。

 二上山の東麓に當麻寺があることはすでに触れている。當麻寺には訪れたが、二上山竹内街道には今回、出掛けることはできなかったことは少し残念ではあるが、いつかその地を訪れるくらいの時間はまだ残されている気がする。

◎桜井線に乗る

道の傍らに咲いていた花と唐辛子

 檜原神社を過ぎて三輪山の麓の道を進むと、県道50号線に出る。この県道は三輪山龍王山との境を通る道で、この道を少しだけ西に進んで今度は北にゆく細い道に入るのが山辺の道のコースなのだ。が、友人はかなり疲れた様子で、これ以上北に進むことは無理そうだった。

 私の場合、この日は天理市に宿泊するのだが、彼は夜中に走って横浜に帰る予定なので無理強いはできない。という訳で、山辺の道を進むことは諦めてJR桜井線の巻向駅に向かうことにした。

 道すがら、あちこちの畑を眺めていたら、大きな唐辛子が実っている姿を発見した。その傍らには「サルビア・レウカンサ」(メキシカン・セージ)が目いっぱい、花を広げていた。

 この先の山辺の道には前方後円墳がいくつもあるのだが、墓よりは花の方が心も体も休まるだろうと、畑の道をゆっくりと進んだ。

古代遺跡でよく知られる巻向にある駅

 巻向(纏向)遺跡は、弥生時代から古墳時代にまたがる遺跡が数多く発見されており、それが「邪馬台国畿内説を支えている重要な遺跡群である。個人的には「箸墓古墳」に興味があり、その前方後円墳は「卑弥呼の墓」と考える向きもある。

 それはともかく、周囲には「方形周溝墓」も多い。この墓の形式は朝鮮半島に多いものなので、古代日本文化は大陸の影響を強く受けていることが判明している。

 友人は、箸墓古墳には少し興味を示したため、「電車の窓からよく見えるよ」と知らせた。

なかなかスマートな車両

 桜井線は奈良駅高田駅とを結び、途中に三輪駅や桜井駅がある。「万葉まほろば線」の愛称があり、現在では桜井線というよりまほろば線の方が通りが良いらしい。

 写真の車両は奈良行きなので、私たちが向かう三輪駅とは反対方向なので乗り込むわけにはいかない。私たちが乗車する高田行きが来るまでは50分ほど待つ必要があった。

 私がもっともよく奈良にまで出掛けてきていたのは20から30年前ぐらいなので、桜井線には相当に古めかしい車両が用いられていたが、現在では、どこに行ってもスマートな車両が使われている。ローカル色が薄らいでいるのは残念なことだが。

寂し気な三輪駅

 三輪駅に到着した。僅か一駅なのでほんの短い乗車だった。この駅で降りたのは再び大神神社に出掛けるためという訳ではなく、大鳥居付近に止めていた車に戻るためだった。

 大神神社の最寄り駅である三輪駅だが、写真のように田舎の小さな駅にすぎない。日本最古の神社の最寄り駅にしては寂しさを覚えずにはいられない。とはいえ、自分たちもたまたま電車を使っただけなのだが。これが、前方後円墳が多くある場所まで出掛けていたら、バス便のほうが便利なので、電車には乗らずじまいだったはずなのだから。

石上神宮

石上神宮への参道

 友人とは、天理市にある私が宿泊するホテル近くにあったラーメン店で別れた。別れの宴にはラーメンと餃子が用意された。いかにも今風のラーメン店という風情だったが、意外にあっさりとした味付けだったので、老人の口にも合ったものだった。

 私が天理市に宿を取ったのは中島みゆきファンだからという理由ではなく、次の目的地が石上神宮であったこと、友人が横浜に帰るには東名阪道に近いこと、という双方にとってメリットがあったからで、けっして天理教の信者という訳ではない。私は無信仰(もしくはアホダラ教徒)で、友人は一応キリスト者である。

大鳥居

 石上神宮は日本最古の神宮で、二番目が伊勢神宮と言われている。祭神は「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」で、石上神宮の名は記紀にも登場している。

 私が何度もこの神宮に立ち寄っているのは信仰心からではなく、すでに述べているように「山辺の道」の起着点でもあるからだ。もっとも古道はずっと北まで続いているようだが、はっきりとした道筋は不明のため、散策路としての山辺の道はここが起着点として扱われている。

 写真のように新しめの大鳥居があり、参拝者は出入りする際にはきちんとお辞儀をする。私は信仰心がないので、基本的には鳥居の横を通り抜ける。ここのように横に通れる広さがあれば良いのだが、ない場所も多いため、そのときはできるだけ隅を足早に通り過ぎることにしている。

出雲建雄神社拝殿(国宝)

 ”草薙剣の荒魂”が祀られている。天武天皇の御代に光り輝く剣の夢を見た神主がその地に行くと、「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降って皇孫を安んじ庶民を守ろう」という託宣があり、神宮前に祀ったといういわれがあるそうだ。

 石上神宮の摂社であるが、ここの名前を聞くとなぜかこの拝殿をイメージしてしまうほど、よく知られた存在である。 

楼門方向を眺める

 次に印象深いのは右手に写っている「楼門」だ。鎌倉時代後期の造営と考えられている。国の重要文化財に指定されている。

 国宝の拝殿は鎌倉時代初期に造営され、国宝に指定されているが、私にはほとんど印象に残っていない。

 なお、布留、高庭を御本地として祀っていたために長い間、本殿を持たなかったが、1913年になって建立された。

 また、神宮に保管されている「七支刀」は教科書にもよく出てくるほど有名で国宝に指定されている。4世紀頃の作で、百済で製作されたと考えられている。

ニワトリは神の使い

 私がこの神宮で一番気になるのが写真にあるニワトリ(東天紅烏骨鶏)で常に放し飼いにされており、人が近寄っても逃げる気配は全くない。この神社では神の使いと考えられているそうだ。全部で30羽ほどいるとのこと。

 ニワトリたちが餌を食べている道が「山辺の道」の起着点で、ここから約15キロの道を歩くと大神神社にたどり着く。

◎談山(たんざん)神社

大鳥居

 日本唯一の木造十三塔を有する談山神社は、石舞台古墳の東方にあり、石舞台の前を通っている県道155号線を東に進めば神社に到達する。しかし、途中の道が狭く、結構曲がりくねっているため、石舞台見物と談山神社見物とを組み合わせる人は案外少ない。それでも、談山神社は紅葉が美しいことでもよく知られているので、私が訪れた日は駐車場が満杯になるほどの混雑具合だった。

 私はこの日、石上神宮に立ち寄ったので石舞台経由ではなく、国道169号線を南下して桜井市に出てから県道37号線を進んで神社に向かった。こちらの道も車の数はかなり多く、とくに観光バスの姿が目立った。

紅葉真っ盛り

 中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちに藤原鎌足)は藤の花が盛りの頃、この寺の本殿の裏山にあたる場所(当時、寺はなかった)で極秘の談合を行った。

 「中大兄皇子中臣鎌足連に言って曰く、鞍作(蘇我入鹿のこと)の暴虐をいかにせん。願わくは奇策を述べよと。中臣連、皇子を将いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花のしたに反乱反正の謀を談ず」と『多武峰縁起』にある。

 これによって645年の乙巳の変(いっしのへん)が起こり蘇我入鹿は暗殺され、天智天皇藤原鎌足大化の改新を断行した。

 「多武峰→談峯→談山」とこの地の名が変化したと言われているが、乙巳の変を談合した場所だから談山と呼ばれるようになったと考えるほうがすっきりする。

談山神社と言えばこの塔

 669年、鎌足の病が重いと知った天皇は、鎌足に「大織冠内大臣」という最高位を授け、藤原姓を与えた。

 678年、鎌足の長男の定慧和尚が遺骨の一部を多武峰山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称した。さらに701年、神殿を建てて鎌足公の御神像を安置した。これが現在の談山神社の始まりといわれている。

 境内には美しい建築物がいろいろとあるが、私も含め、そうした構造物よりも自然が織り成した紅葉美に目を奪われていた。

 現存している十三重塔は室町時代に再建されたものであるが、この塔が境内の中心にあることで、この姿に触れると、ここが談山神社であるということがすぐに誰にでも分かる。

 この後に触れる長谷寺でも室生寺でも、そうした象徴的な建造物を有している。

紅葉見物客に賑わう参道

 撮影時には人影はまばらだったが、これはほんのいっときのことで、実際には数多くの観光客で賑わっていた。おそらく、紅葉見物が大半で、この寺の由緒にはさほど関心は有していないだろう。十三重塔は別にして。

長谷寺

長谷寺を象徴する景観

 なぜか知らねども、写真の景観を見ただけで、私には「長谷寺」であるということがすぐに分かる。それだけこの寺に数多く訪れていると言ってしまえばそれだけであるが、さして変哲のない姿だけれど、長谷寺にしか持ち合わせていない建物の配置があるような気がするのである。

 今回は車で訪れたが、参道が狭いこと、しかしその参道の景観も興味深い存在であることから、この寺に来るときは桜井駅に車を置いて、わざわざ「近鉄大阪線」に乗って長谷寺駅までやってくることが幾度もあった。

山門

 長谷寺は寺伝によれば686年に僧の道明が初瀬山の西の丘に三重塔を建立したことに始まり、727年には聖武天皇の命で東の丘に本尊の十一面観音像を造っている。平安中期には観音霊場として栄え、藤原道長が参詣したという記録もあるそうだ。

 初期は華厳宗、そして法相宗、やがて新義真言宗と変遷し、根来寺が焼かれた際には多くの僧が長谷寺に逃げ込み、やがてここは新義真言宗豊山派の総本山となり、約3000の末寺を持つに至った。

 写真にあるように山門からしてとても立派なものだが、これは1885年に再建されたものである。

この寺を象徴する登廊

 長谷寺でもっとも特徴的なのは写真の「登廊」だろう。これは春日大社宮司、中臣信清が子の病気の平癒を祈願したところ無事に回復したお礼として寄付したものだそうだ。山門から本堂まで399段の階段があるが、そのすべてが屋根で覆われている。

紀貫之の「故里の梅」

 途中に、小さな祠とともに写真の歌碑と梅の木があった。これは紀貫之が植えた梅の木の子孫と言われている。長谷寺は『源氏物語』や『枕草子』に登場するほどよく知られた存在だったので、当然、多くの歌人がこの地を訪れて歌を残している。

本堂

 本堂では、「弘法大師生誕1250年」を記念して、本尊の十一面観音像が公開されていた。高さが10mもある大観音像ということで、特別料金を払ってでも拝観しようとする人々が数多くいた。もちろん、私は見物していない。

室生寺~女人高野

室生の里へ

 室生寺長谷寺同様、明日香、桜井方面に出掛けた際にはほぼ必ずと言って良いほど立ち寄ることにしている。というより、明日香、山辺の道、長谷寺室生寺に行って初めて奈良に身を置いたことを実感するのであって、東大寺法隆寺興福寺は二の次である(鹿とは遊びたいけれど)。

 現在は室生トンネルが出来てアクセスが良くなり、駐車場も太鼓橋近くに整備されているのでずいぶんと楽になったが、やはり「室生の里」に出掛けるなら、室生川に沿って走っている県道28号線の曲がり道を進みながら里に出会うのが極上の楽しみであり喜びである。

 室生の里は標高350mほど。上述した長谷寺は本堂が216m地点なので、紅葉は一層、進んでいると思っていたら、実際、見事と思えるほど色鮮やかな木々に囲まれていた。

太鼓橋が見えて来た

 駐車場に車をとめ、しばし室生川を眺めた。もちろん、川の流れを見ると魚を見つける行為に走るのだが、この時も、紅葉を目にするよりも川の中の探索の方に時間を費やした。魚を見つけたところで釣りをする訳ではないのだけれど。

 前方には「太鼓橋」があり、その橋を渡って境内に入る。その前に、やはり橋の上から流れを見つめるのだけれど。

三宝

 写真の三宝杉周りの紅葉が一番見事であった。三宝杉の名はあるが、そのうちの一本は倒れてしまったため、現在は二宝杉の状態になっている。

金堂を見下ろす

 室生寺真言宗室生寺派大本山である。開基については諸説があってはっきりしたことは分からないが、個人的には天武天皇の勅願によって役小角が開いたという説が好みだ。一方、8世紀後半に興福寺の僧の賢環(けんけい)によって開かれたというのが有力らしい。

 山岳寺院なので役小角の名が登場してくるのは十分に考えられるが、小角の存在自体にあまりにも突飛な点が多いので、真実性が薄いのは致し方ないのかもしれない。平安時代には興福寺の別院として山林修業の場として用いられていたというから、後者の説に真実性がありそうだ。

 江戸時代になって真言宗の寺となった。当時、高野山は女人禁制だったが室生寺は女人の参詣が許されていたことから「女人高野」と呼ばれるようになった。少年時代、室生寺が女人高野という別名を持つと知ったとき、その寺には尼僧ばかりいるのだと思い、しかも五重塔が小さく可愛らしいことも女性に合わせて建造されたのだろうとまったくの思い違いをしていた。

 子供の頃から現在に至るまで、私は「サル的存在」なので、そうした考えを抱くとしても、それは私の理性または悟性がそう思わせるのではなく、サルとしての感性がそのように働いてしまうのだ。

 江戸時代には綱吉の母の桂昌院室生寺に多大な寄進を行い、それによって堂宇は大幅に修理改善がおこなわれたそうだ。

 なお、長い間、この寺は真言宗豊山派(総本山は長谷寺)に属していたが、1964年に豊山派から独立して真言宗室生寺派を打ち立て、その大本山となった。宗教に限らず思想界はには分派活動が付き物である。どんな違いがあるかは不明だが、当事者にとっては些細な違いほど大きく誇張される。

開祖?の役小角

 弥勒堂の中には、写真の役小角像が安置されている。が、ここでは「神変大菩薩像」として扱われている。伝説にすぎないかもしれないが、確かに役小角もこの寺に関係していることは確かなのだろう。

国宝の五重塔

 国宝の五重塔は屋外にある木製の塔としては日本一小さく、現存する塔としては法隆寺の五重の塔の次に古い。800年頃に造られたと考えられ、高さは16mしかない。木造の五重塔で一番高いのは東寺の塔で54.8mもある。

 しかし、その立ち姿は実に美しく、まったく破綻がない。やはり「女人高野」に相応しい存在だ。もっとも、そう呼ばれるようになったのは800年以上、後のことであるが。

 なお、奥の院を除けば、この五重塔が境内では一番高いところにあり、標高は386mである。

国宝の金堂

 五重塔の次に魅力を感じるのが写真の金堂である。斜面上に建てられているので、手前の舞台側を柱で支えた「懸(かけ)作り」がいかにも山岳寺院の風情を醸し出している。

 建物自体が国宝であるが、内部にある「釈迦如来立像」(高さ2.4m)と「板絵著色伝帝釈天曼荼羅図」の2点も国宝に指定されている。

 後者は、金堂来迎壁(金堂内須弥壇の板壁三間の間に取り付けられている)にあるため、釈迦如来像がその前部を覆い隠していることから、見られるのはごく一部にすぎない。

 また、「伝帝釈天曼荼羅図」という表現は、あくまでも有力な仮説で、室生寺が元々室生竜穴神の神宮寺だったことから、「竜王曼荼羅」もしくは「請雨経曼荼羅」ではないかという説もある。

 いずれにせよ、平安時代前期のものなので詳細は不明のようだ。

紅葉の盛り

 山門の入口側よりも出口側からの方が紅葉が美しかったので、同じ山門を撮影するにしても、この向きから撮影する人の方が多かった。

 おそらく、この寺が一番綺麗に見えるのは真冬の雪が積もったときだろう。シャクナゲが境内にはたくさん植えられているのでその開花時期(4,5月)も良いだろうが、やはり堂宇が雪を抱いているときが際立って美しいと思われる。しかし、雪の中の運転は苦手なので、一生、目にすることはできないと思う。

◎初めて赤目四十八滝を訪ねる

赤目四十八滝は近い

 今回の旅の最後は三重県名張市に宿を取っていた。名張市から自宅までは約450キロで、大半は高速道路ということもあって、5,6時間あれば十分に帰れるので、赤目四十八滝は翌日の午前中に見物しようかと考えたが、宿に入ってもとくにすることがないので、室生寺の次に回ることにした。事実上、今回の旅の最後の目的地であった。

オオサンショウウオがいっぱいの博物館

 滝の入口の手前には写真の「赤目自然歴史博物館」があった。滝のある滝川(宇陀川の支流)にはオオサンショウウオがたくさん生息しているということで、この建物の内部にある水槽には多数のオオサンショウウオが飼われていた。

オオサンショウウオには名前が付いていた

 いろいろ居たオオサンショウウオの中では、写真のものが一番、愛想が良かったので撮影してみた。本来は夜行性なので明るい場所に入れられて迷惑そうだったが、なんとか撮影に応じてくれた。

乙女の滝

 四十八滝といっても実際に四十八あるかどうかは数え方にもよるのだろうが、「四十八滝」は全国各地にあるように複数の滝を有している渓谷を「四十八滝」と呼ぶそうだ。

 私が訪れた日は渇水が続いていたようで、写真の落差1mの「乙女滝」を滝と呼んで良いのかどうかは見る人の判断に委ねられるだろう。

千手滝

 この「千手滝」は流れが無数に枝分かれしているため、あたかもそれが千の手のように見えることから名付けられた。もう少し水量があれば、ごつごつした岩の間から無数に枝分かれした流れが手を伸ばしたように見えるかも。

布曳の滝

 一番感動したのは、この「布曳(ぬのびき)の滝」。落差30mあるが、その流れが一本の布のように見える。シャッター速度を遅くすればこのような写真は簡単に写せるが、この滝の場合、普通に写しても布を曳いているように見える。 

 「布引」「布曳」の名の付いた滝を数多く見てきたが、ここの滝ほどその名に相応しいものは見たことがなかった。

 駐車場の標高は300m、この滝は390mのところにある。案内図によれば滝は500mほどのところまで続くようだが、この滝の姿を見れば、あとは見学不用と思えた。疲労感があったことも事実なのだが。

柱状節理も見事

 滝群のあるこの川は、室生火山群が形成した流紋岩質溶結凝灰岩を削って流れを生んだもの。凝灰岩質が高い場所は多く削られるため、滝は数多く形成される。その代わり、地質が均一に近いために落差の大きな滝は生まれない。

 それでも、周囲を見渡すとかなりの高低差がある崖があり、そこには柱状節理を明瞭に視認することができる。この崖から水が流れ落ちれば、相当に見応えのある滝になるはずである。

 とはいえ、さしあたり「布曳の滝」を目の当たりにすれば、満足度は極めて高い。

不動滝

 帰り道に目にしたのが「不動滝」。実は一番最初に目にするのが、この落差15mの滝なのだが、下から見るよりこうして横から見た方が迫力を感じられた。

 赤目渓谷は古く、役小角が修行の場としており、のちには忍者の修行場だったそうだ。確かに、伊賀や甲賀は比較的近くにあるので、忍者が訓練をするには適した場所なのかも。実際、ここは「忍者の里」として売り出し、「忍者体験」というのもできるそうだ。

 ということで、私の四国・紀伊半島の旅はこの地で終了した。4月中旬から下旬にかけて「山陽の旅」をおこなっている。また、5月中旬からは15泊16日の予定で東北地方を巡ることになっている。

 とりあえず、次回からは「山陽の旅」に移る。しかし、旅の途中になるので、更新は遅れ気味になるかも。

 私の場合、死ぬまで「旅の途中」なのだけれど。