◎久し振りに山陽路を巡る。帰りは寄り道も
山陽路にある名所や私の好みの場所には何度も訪れているが、いずれも瀬戸内海沿岸の取材か、あるいは九州・四国取材の途中に立ち寄っている。そのため、十回以上訪ねている場所もあれば、一度しかない場所、中にはただ通り過ぎるだけだった場所、予定はしたがまったく立ち寄っていない場所も多かった。
そんなこともあって、今回は14泊15日の予定(当初は15泊16日で計画を立てていた)で山陽路をやや細やかに訪ね歩いてみた。とはいえ、一か所に長く留まるというのは私の好みではないので、宿泊場所は毎日変えた。そのため、下関にたどり着いてもまだ日にちは残っていたので、帰りは山陰の一部や中国地方の内陸部も訪ね、最後は一気に帰途に着くには疲労度が高かったことから、近江八幡市に宿泊をして、休息を取りながら府中に帰ってきた。
この間、約2900キロを運転し、15日目をのぞくと一日の平均歩行数は15000歩となった。以前なら一日20000歩は軽く超えていたが、やはり年のせいか、はたまた車での移動が多かったためか、歩行数は今一つ少なかった。それでも、毎日、欠かさず最低10000歩を自分に課していたので、毎日9時間ほどの睡眠が取れた。
初日は神戸に宿を取った。2時間弱に1回の短い休息を取り、しかも道路はほとんど渋滞しなかったため、6時間ほどで兵庫県に入ることができた。このため、一気に神戸に入ることはせず、芦屋から六甲山に入り、しばし山稜を走り、それから南下して神戸市に入った。
私の神戸での定宿はメリケンパークに建つ有名なホテルで、神戸以西や以南の取材の帰りにはほぼ必ず利用していた。取材中は良くてビジネスホテルで、釣り宿や民宿がほとんどとなるため、なかなか熟睡することはできない。それゆえ、最後だけは少しゆったりできるホテルに泊まると疲れが相当に低減するので、余裕をもって帰途につけるのだ。それが今回はその定宿に最初の日に宿泊し、これからの長旅に備えることにした。
ホテルからは南京町や元町、メリケンパーク、ハーバーランドのいずれも徒歩圏にあるので、4時間ほどで見学を終えることができた。
翌日は神戸市街を離れて西に進んだ。「須磨」や「舞子」の地は何度も目にしているが、すべて通り過ぎるだけ。しかし、歴史上ではよく登場する地名なので今回、初めて訪ねてみた。実際、特筆すべき点はないのだが、格別に何もない、その点にかえって好感を抱いた。
明石市は通り過ぎたこともなかった。山陽自動車道は明石市のかなり北側を走っているし、国道2号線を使うことがあってもそれは岡山市以西だった。
明石市の名が全国的に知れ渡っているのは、ひとえに東経135度線が明石を貫いており、日本の標準時が「明石基準」になっているからだ。しかし、東経135度線は明石市だけ通っている訳ではなく、第76回で「日本標準時最北端の塔」を紹介したように、「明石」が重要なのではなく「東経135度線」が重要なのだ。
とはいえ、日本標準時を語るときには必ず「明石」の名が付いて回るため、初めて明石市を訪ねてみた次第だった。
明石の次といえば姫路城で、ここには何度か訪れているが、白い化粧を施されてからは行ったことがなかった。そこで、白くなった城の姿に触れるべく、姫路市に宿を取った。ただ、城自体には前日に訪れていた。が、時間がやや遅くなったために登城することはできなかった。
もっとも私の場合、城を見ることは比較的興味があるが、城内に入ることは滅多にしない。お寺や神社同様、それらが存在する風景が好みなのであって、寺社や城郭そのものは、さほど私を惹きつけないのである。こうした理由から、姫路市に宿泊しても翌朝は城の姿を遠目に眺めただけで次の目的地に向かってしまった。
たつの市の東隣に「太子町」があることは知っていたが、それが聖徳太子所縁の地であることを初めて知ったことから、その地に立ち寄ってみた。
赤穂城跡は何度も訪れている。史実かどうかは別にして「赤穂浪士」物は結構、読んだりドラマで見たりしているからだ。ただ今回は、赤穂の近くにある「唐船山」に興味があったので、赤穂城はついでに見物したというのが正しい言い方だ。
「閑谷学校」は「足利学校」ほどではないにせよ、ずっと以前から関心があった。ただ、備前焼に興味があれば別だが、結構な山間にあり、かつ近くに別の名所旧跡がある訳でもなさそうなので、今まで訪れてはいなかった。足利学校なら本ブログですでに紹介しているように、森高千里関連で、あるいは田中正造関連で、ついでに訪れることができるので、何度も出掛けているのだが。
岡山市内には一度だけ宿泊したことがある。後楽園や岡山城といった名所があるが、いずれも通り過ぎただけなので、今回はじっくり見学するつもりだった。しかし、その前に出掛けた「牛窓」があまりにも魅力的な場所であったために多くの時間を費やしてしまったことから、岡山市内見物は比較的短い時間に終わってしまった。それでも「市電」に乗ることができたのは幸いだった。
岡山市から倉敷市は近くにあるが、今回は山陽路を訪ねることが主目的のため、すぐに倉敷には移動せず、吉備路を散策した。吉備津神社など収穫は大きかった。
岡山市内で宿泊しない理由は、ひとえにすぐ近くに倉敷があるからだ。倉敷は美観地区が有名だが、その一角にある大原美術館には入ったことがなかった。私の定宿は美観地区のすぐ隣にあり、割引券を貰えるにもかかわらずだ。しかし今回、本ブログで触れている「大塚国際美術館」での衝撃的な出会いがあり、この年になってやっと絵心が芽生えたために、大原美術館に初めて入った。そこでまた強い衝撃を受けたのだった。
倉敷の美観地区は外国人観光客だらけで、しかも、私の宿泊したホテルも外国人旅行客の団体様御一行に支配され、日本人は少数派であった。
しかし、瀬戸大橋直下にある「下津井」は観光地としてはほとんど知られていないこともあり外国人の姿は皆無で、かつ日本人観光客もほとんどいなかった。そのこともあり、美観地区よりも下津井で過ごした時間の方が多かった。私が倉敷を訪れる理由の最大点は、下津井の「何もない」小さな漁村をのんびりと散策することにある。
瀬戸大橋の近くにある島々へクロダイ釣りに出掛ける際の基地が下津井漁港にあることで、この漁村の存在を知った。これは釣り取材の極めて有意義な副産物であった。
倉敷から福山まではいつも直行してしまうのだが、今回はあえて瀬戸内海沿岸をのんびりと走ってみた。その結果、いくつかの発見があった。中でも、笠岡市にある「カブトガニ博物館」は興味深いものだった。
福山市では駅前にあるホテルを利用した。以前によく利用していたホテルが満室だったことから、このホテルにせざるを得なかったというのが実情だった。部屋は高層階でしかも城側だったので、部屋の窓からは復元された天守閣がよく見えた。
ライトアップされていることは知らなかったが、夜、雨の様子が気になったことからカーテンを開けた。すると、写真のようにライトに輝く城郭が浮かび上がっていたのだった。ホテル側の計らいなのか、はたまたたまたまなのかは不明だが、北向きの部屋だったことが幸いした。
尾道は瀬戸内海沿岸の町ではもっとも好きな場所だ。また、この町からは「しまなみ海道」が愛媛県の今治市に向かって走っており、この海道を走るのも大好物なのだ。が、今回は生口島までに留めた。次の大三島も「大山祇神社」があるので立ち寄りたかったが、この島からは愛媛県に属することから、想いを断ち切ってUターンした。
写真の「因島大橋」は因島と向島を結ぶもので、橋の姿も下を流れる速い潮も明石海峡大橋の小型版。周囲の景観を含めれば、こちらの方が佇まいとしては優っていると思われる。
尾道だけは3泊ぐらいしないと満足できないが、今回はわずか1泊に留めた。それゆえ、尾道で味わえる多くのものは我慢し、もっとも好みの尾道水道見物を中心にした。
写真の渡船は尾道市街と向島を数分で結ぶもので、私は大抵、1日10回ぐらいは利用していた。定期的に走っている渡船は3本あり、それぞれが特徴的な形の船なので、乗るだけで幸せいっぱいになってしまう。もちろん、眺めているだけでも見飽きることはない。
今回は時間の関係で僅か2回しか乗れなかった。それでも夕方にはホテルから出て、明かりを灯し始めた渡船の姿をしばし見つめた。
早ければ今秋に四国西部の旅をおこなう。その際は「しまなみ海道」を利用することになるので当然、尾道にも滞在することになる。目的地は四国であっても本州と行き来しなければならない。それゆえ、尾道が経由地になることは確実である。
尾道から竹原市に移動し、「まちなみ保存地区」を散策した。倉敷の美観地区を小型化したような町並みだが、古き良き時代の建築物をしっかり守り抜いていた。
次の宿泊地は広島市街であったが、瀬戸内海沿岸を西進したので、必然的に呉市に入った。呉といえば大小さまざまな島に恵まれていることから天然の良港が多い。そのこともあって昔は水軍(海賊)、近代に入っては海軍、そして現在では海上自衛隊の拠点になっている。
しかし、私が興味を抱いて呉に立ち寄ったのは基地見物が目的ではなく、本州と倉橋島とをつなぐ「音戸大橋」と、倉橋島と江田島とをつなぐ「早瀬大橋」であった。とくに後者は、橋近くのからの眺めだけでも素晴らしかったのだが、たまたま話をすることになった大型バイクで旅を続けている人に、山の上からの景色はさらに見事だと教えてもらった。
車のすれ違いが困難なほど狭い林道を15分ほど走らなければならなかったものの、そんな苦労など簡単に吹き飛んでしまうほど魅力的な景観が広がっていた。つくづく、人との偶然の出会いはときとして大きな幸せをもたらすものであることを痛感させられた。
広島市の中心街に宿を取った。平和記念公園や原爆ドームは徒歩圏内にあったけれど、翌日、わざわざ市電に乗ってそれらを見学した。サミットの開会前ということで、看板の取り付けやら庭の手入れやらで大勢の人が狩りだされていた。
原爆ドーム前では多数の観光客が群がって写真撮影をしていた。外国人の姿がやたらに目立っていたが、修学旅行中の中高生を含めて日本人の姿も多かった。
が、写真撮影の際、子供たちや同行者に笑顔とVサインを強要する姿が多かったのには驚いた。原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」とあるが、どうやら、この国は再び「過ち」をしでかしそうだ。
厳島には何度も渡っているが、厳島神社を間近で見るのは初めてだった。何しろ以前は、島には大竹港から渡船で渡り、厳島神社とは無縁の地で竿を出し、クロダイやメジナを狙っていたのだ。
それが今回は連絡船で渡り、写真のように大鳥居の撮影に勤しんだのだった。瀬戸内海は干満の差が激しいので、干潮時はこうして鳥居が砂地の上に建っているような姿になるのだ。
今回のサミットでは、海の中に立つ大鳥居の姿がテレビ画面に映し出されていたが、こうして鳥居周りに砂地が現れる時間に会議をおこない、ついでに参加者全員で潮干狩りでもすれば、平和を語るに相応しい舞台になっただろうに。残念なことである。
翌日は岩国に宿を取った。いつもなら市街地にあるビジネスホテルを利用するのだが、今回は釣りとは無縁の旅なので、錦帯橋の東詰め近くにある旅館に宿泊した。
錦帯橋にはさして好印象はなかったが、宿のすぐ近くにあることからじっくりと眺めることができた。そのためか印象も変化し、なかなか趣があると思うようになってしまった。
橋の上から錦川の流れを眺めたが、流れの強い場所では若鮎がコケを食んでいる姿を見掛けた。そう、アユ釣りの解禁は近い(この時点では)のだということを実感した。もっとも、この川に竿をもって出掛けてくることはないだろうが。
岩国の次は周防大島(屋代島)に立ち寄る予定だった。が、瀬戸内海の海の色が今一つ良くない(気に入らない)ので、大島大橋の見物だけに留めて島巡りはキャンセルした。その代わりに柳井市見物をおこなうことになったのだが、これが正解だった。
なかなか充実したぶらぶら歩きだったこともあるし、次の光市から周南市にかけての海岸線には工業地帯が続くこともよく知っていたので、少しだけ内陸地を移動することにした。
すでに次の宿泊地である山口市にあるのだが、藤の花が魅力的な名所が存在することを知ったことから、山間の細い道を走ってみた。確かに満開であったならば相当に見応えがありそうなロケーションではあったものの、肝心の花自体が二分咲き程度だった。
そんなこともあって早めに山口市街に入り、いくつかの名所を巡ってみた。近頃は「庭園」に興味を抱いているためもあって、まずまずの成果を得た。
市の中心部には、ザビエル記念公園やザビエル記念聖堂があった。ザビエルに関心を抱く人は少ないように思え、人影はまばらであった。そういう私も公園はともかく聖堂は外観を眺めただけで中を覗いてはいないのだが。ただ、建物の立派さには驚かされた。
山口市内に宿を取ったのは懐かしい思い出があったことも確かだが、それ以上に秋吉台や秋吉洞に近いということが最大の理由だった。
秋吉洞には20年以上も訪れていないが、見物客が想像以上に少なかったことの方に驚かされた。近年ではあちこちに鍾乳洞が発見、公開されていることもあり、秋吉洞の相対的価値は低減しているのかも知れないが、それにしても、あまりにも人影がまばらだったのには寂しい思いを禁じえなかった。
それは秋吉台も同様で、たまたま修学旅行の高校生が展望台に集まっていたものの、一般客の姿はほとんどなかった。カルスト地形は他でも見られるが、秋吉台ほどの規模のものは他に存在しないだろう。
夏が近づくにしたがって下草が大きく生長してしまうために石灰岩の群れはやや見づらくなってしまう。その点、春先はまだしっかりと岩が無数に林立している様子が見て取れる。この時期にこれほど訪れる人が少ないというのは残念な限りである。
関門海峡を目にする前に「長府」を訪れ、やはりここでも「庭園」を堪能した。続いては壇之浦古戦場を目にする予定だったが、その前に「火の山公園」に立ち寄った。山頂まで車で行けるし、そこから眺める関門海峡は見応えがあるという情報を入手したからだ。
写真のように、壇之浦古戦場は関門橋とセットで眺めるとやや見栄えがする。壇之浦だけでは、ただ普通の海岸線にすぎないからだ。さらに、すぐ近くにある「赤間神社」には壇之浦の戦いで入水・崩御した天皇の陵(みささぎ)がある。
下関には「唐戸市場」があり、新鮮な海産物が大量に取り扱われているが、私はその賑わいを目にしただけですぐに退散した。
下関市の西端近くにある「老の山」に到達したことで一応、山陽路の旅は終了した。と言ってここに住み着くわけにはいかないので、翌日から帰り旅が始まるのだ。神戸、姫路、岡山、倉敷、福山、尾道、広島、岩国、山口、下関と10泊した。当初の予定ではあと5泊する心積もりだったが、ひとつ外せない用事が入ったために残りは4泊となった。
萩、津和野の2泊は外せないので、その後の予定を変更し、新見と近江八幡に宿を取った。そのため、目星をつけていた中国山地内にあるいくつかの名高い渓谷には立ち寄ることができそうにもなく、代わって新規の見物場所を探すことになった。
下関から萩への移動は当初の予定通り。ただし、コースは変更した。岩国の宿で食事の片づけをしていたオバちゃんに翌日は「周防大島」を見物すると話したとき、「そこもいいけれど、下関からの帰りには必ず、角島大橋を渡って見なよ」と言われたからだ。角島の存在は知っていたけれど、2000年に竣工したその橋については知識がなかった。
そこで、ネットで調べてみると確かに魅力的な橋のようだった。そのため、この橋と角島でやや多めに時間を費やすため、長門市で過ごす時間を削ったのだった。
宿泊地に萩を選んだのは、ひとえに「松陰神社」があり、そこで吉田松陰先生に御挨拶を申し上げるためだ。といっても、神社そのものや「松下村塾」にはさして関心はなく、さらに言えばその思想にすら共感するものはそう多くない。ただただ、松陰先生の生き方に心動かされるものがあるからだ。つまり、自分とは正反対の生き方・考え方を貫いたという点にひたすら憧れを抱くのである。併せて、自分の駄目さ加減を少し反省するのである。さしあたり、反省するだけなのだが。
神社では見習いの巫女さんが舞の練習をおこなっていた。そんな姿に見惚れてしまった私は、やはりダメかも知れない、と思った。
津和野に立ち寄った第一の目的は、写真にあるように堀を泳ぐ大きなコイたちに出会うためで、二番目は森林太郎と西周の生家に立ち寄るためである。とりわけ後者は哲学の勉強のときにお世話になっているからだ。
津和野のような小さな町でも外国人観光客が数多く訪れていた。とはいえ、森鴎外記念館や西周旧居には、外国人旅行者の姿はまったくなかった。というより、両者を訪れていたのは私ひとりだけだった。
新見市に宿泊地を変更したのは大正解だった。高梁川中流にある井倉渓谷は石灰岩質の高い山々が造り出した見応えのある渓谷だった。そこに井倉洞があるのは下調べで知ってはいたが、訪ねる予定はなかった。が、新見市に宿を取ったために井倉洞まで比較的近いことから見物する時間ができたのだった。
鍾乳洞の規模は秋吉洞とは比べものにならないが、鍾乳石と間近に接することができること、高低差があるので秋吉洞より迫力があることなど、ここを訪れたことは大正解だった。それにしても知名度が低いためか、見物客は私ひとりだけだったのは寂しい限りであった。
もう一泊することができれば、久し振りに嵯峨野や南禅寺を歩いたののだが、日程が短縮されたことで京都見物(宿泊する予定は元々なかった)はパスして、井倉洞から一気に近江八幡市まで移動した。
時代劇ファンが少なくなったことも関係しているのだろうか、日牟禮八幡宮界隈を訪れる人の数が随分、減少しているように思われた。「藤田まこと」が亡くなって以来、時代劇の質が急低下したことも一因かと思われる。
以前はよく、藤田まこと主演の時代劇を見ていた。とりわけ、「剣客商売」は大傑作だった。そのロケ地として「八幡堀」がよく使われていた。また、近くにある琵琶湖の内湖の代表格である「西の湖」もしばしば登場した。
山陽路の旅とはまったく関係がないが、最後の宿泊地に近江八幡市を選んだことで、”心の澱”がいくらか晴れたような気がした。
◎まずは神戸に向かった
予想よりも神戸には早く着きそうだったので、六甲山へ寄り道をすることにした。が、久し振りの名神高速吹田JCTだったので中国自動車道に移るコースを間違え、そのまま名神を突き進んでしまった。そのため、当初は宝塚ICで下りて「明石神戸宝塚線」から六甲山陵を走る予定だったがそれを変更し、名神高速の終点から阪神高速3号線に移って芦屋出口で一般道に出ることになってしまった。
芦屋市街を北に抜けて六甲山へは南麓から入り、「明石神戸宝塚線」に到達した。お陰で、写真のように芦屋市の高級住宅街を通ることになった。「東の田園調布、西の芦屋」というぐらい立派なお屋敷が並んでいた。私は貧相な家にしか住んだことはないし、そもそも府中にはお屋敷街といったものは存在しない。
別に羨ましいとは思わないが、珍しい光景ではあるので、途中で車を路肩に停めて写真撮影をおこなった。もっとも撮影場所は、芦屋ではごく普通の家並みなので特別上等な場所という訳ではなさそうだったが。
六甲からは兵庫県方向を眺める予定でいたし、実際には写真もそれなりのカット数を撮影したのだが、なにしろ太陽が眩しすぎてはっきりとした街の姿を写すことはできなかった。やはり、六甲からの撮影は夜景に限ると思えた。
こうなると六甲を走り続ける意義を感じられないので、予定より早く山を下り、神戸大学の横を通って国道2号線に出てから西に進み、メリケンパーク内にあるホテルに向かった。
それにしても、神戸にある高校や大学に通う生徒・学生は大変だろうと思った。何しろ、多くの学校・大学が坂の途中にあり、しかもその坂はかなり急なのである。私だったら、入試の時点で通うことを断念したと思う。
ともあれ、ホテルの敷地内に車をとめ、チェックインはおこなわずにそのまま散策に出掛けた。
まずは南京町に向かった。やや遅めの昼食をとるためではなく、神戸版の中華街を見物するためである。横浜の中華街はとても広すぎて、何度出掛けても道や店の在処を覚えることはできないが、神戸の中華街はとてもコンパクトなので散策に適している。
ここには何度も訪れているが、実際に利用したのはただの一度だけで、あとは単なる”ひやかし”だった。記憶が確かならば、かつてはアジア系の人の姿が多かったのだが、今回は欧米系と思われる人の姿が目立っていた。
写真の場所が中華街の中心部で、待ち合わせ場所などにも利用されているようだった。昨今はどこでもそうなのだが、SNSの影響か人気店と不人気店が極端に分かれているようで、順番待ちの長い列ができている店と、店内がガラガラの店とに見事に分かれているのだ。
私は一時期、食道楽だったときもあるが、その時分でさえ、並んでまで食べたいとは思わなかった。今は食にはほとんど関心がないため、とにかく安くて早いのが一番で、味はほとんど問題にしない。
中華街のすぐ隣に神戸・元町がある。ここもかなりの賑わいを見せていたが、半分以上は南京町に立ち寄ったついでに見物といった感じで、店内にはさほど客の姿はなかった。横浜の元町には結構おしゃれな店が多いし、かなりの高級品を扱っている店も存在するが、神戸の元町は庶民が集う街といった塩梅なので私には身近な場所に思えた。といって、買うものは何もないのだが。
海岸側に移動し、まずはメリケンパークを覗いてみた。東端の護岸は1995年の大震災でかなり破損した。その一部をそのままの姿で保存し、写真のようなモニュメントを設置して97年に竣工した。大震災からは28年が経過しているが、この地の人々にとってはまだまだ最近の出来事として記憶に残っているはずだ。
関東人としては、阪神淡路大震災といえば高速道路の倒壊が鮮明な記憶として残っているが、関係者が被災していない私にはどこか他人事のような感覚でいる。それよりもこれから遠くない将来に発生するであろう東南海大地震の方が心配事である。
もっとも、関東人には直下型地震、あるいは富士山大噴火のほうが切実だろうか。それは一秒後の来るかもしれず、三十年後、いや百年経っても発生しないかもしれない。自然現象にとって、一秒後も百年後も、ほとんど誤差の範囲なのだから。
かつては「モザイク」は”独立”した存在だったような気がするが、現在は道路を挟んで西側にある”umie”と一体化したようである。が、後者はリーズナブルでかつ誰もが知っている店舗が大半を占めているが、モザイクの方は相変わらず、やや高級でオシャレな店が多いようである。
外観はごく普通の建物のように見えるが、いざ中に入ると写真のように開放感を抱かせるような造りになっている。もちろん東側は海に面しており、テラスからはメリケンパークを出入りする観光船の姿、メリケンパークを象徴する3つの建物、すなわち、私が宿泊しているホテル、神戸海洋博物館上部にある船の帆を模した巨大なモニュメント、ポートタワー(現在は改装中でパネルに覆われているが)の姿を見て取ることができる。とりわけこの3つの建物は、神戸港を紹介する写真では必ず登場するといって良いほどよく知られた存在である。今回の2枚目の写真がそれである。
モザイクの内部もかなり凝った造りになっており、店舗の大きさは一律ではなく、その名が象徴するように、小片が平面充填(この場合は立体充填かも)されてモザイク状に見えるのである。
海とは反対側の一階には意匠の凝ったカフェが立ち並んでいる。水の流れも取り入れてあり、その両岸には盛りだくさんの小さな樹木やよく目立つ草花が植えられていた。
メリケンパークの先端部には「BE KOBE」と名付けられた公園が整備され、家族連れで賑わっていた。写真にはないが、公園の端には「スターバックス」が構えていた。
久し振りに訪ねたメリケンパーク、ハーバーランドだが、かつて以上の賑わいを見せていた。頼もしさを感じるとともに、常に時代の最先端にあらねばならないという、港町神戸の宿命感を見て取ってしまった。
◎須磨浦から舞子浜へ
翌日、メリケンパークを出発して西へと進んだ。最初の方で触れたように、須磨、舞子は素通りするか、もともと通過しない道を選ぶかのどちらかであるが、今回は山陽路を行く旅なので、この両者に触れないわけにはいかない。
須磨は『源氏物語』以来、「寂しい場所」と印象付けられており、『おくのほそ道』で芭蕉は、西行の歌枕を追って敦賀の種の浜(いろのはま)を訪ねた際、
寂しさや 須磨に勝ちたる 濱の秋
という句を詠んでいる。寂しいとずっと言われ続けてきた、つまり”寂しい”の代名詞となっている場所の須磨よりもこの敦賀の浜はさらに寂しい場所だと感じたようだ。
なお、この浜(現在は色浜)については本ブログの第74回でほんの少しだけ触れている(写真付き)。
芭蕉の句風を継承している江戸時代中期の俳人である与謝蕪村は、この須磨の地で、
春の海 ひねもすのたり のたりかな
との句を詠んでいる。
上の写真は、「須磨浦公園」にあった蕪村の句碑である。やはり師匠同様、須磨浦の印象には変化がないらしい。
須磨浦の谷は源平合戦の「一の谷の合戦」がおこなわれたところ。美少年、かつ笛の名手だった平敦盛が熊谷直実に首を取られたことでよく知られ、『平家物語』を題材にした能や幸若舞で取り扱われることが多い。
悲劇の美少年が戦死した場所ということで、写真のように、須磨浦公園のすぐ西隣には写真の供養塔が建てられている。
舞子浜は松原で全国的に知られた場所。強風に晒される場所なので、松の幹や枝があたかも舞をしているように見えるところから舞子浜と名付けられたという説がある。
ここの松原が美しい場所かどうか判断は難しい。何しろ、写真のように、この松原の真上には巨大な建造物(明石海峡大橋)が通っているからだ。
松原はおそらくとても美しいだろうし、明石海峡大橋も建造物としての美しさを感じることができる。だからと言って、両者が揃ったならばより一層、輝きを放つということでは決してない。
◎時の町、明石市に初めて立ち寄る
明石市に足を踏み入れたことがない人でも、明石市の存在を知らない人は滅多にいないはずだ。東経135度線が明石市を通っており、協定世界時からは丁度9時間(15度で1時間なので)の違いがあり、これを日本標準時として定められたからである。
19世紀にグリニッジ天文台の窓枠の中心が経度0度とされ、世界標準時(グリニッジ標準時)だったが、現在では協定世界時(UTC)が用いられ、グリニッジ子午線は西経0度00分05秒の位置にあり、現在の本初子午線からは西へ約102.5m離れている。ただし、慣用的にグリニッジ標準時という表現を使うことはよくあるし、日常生活には何の問題もない。
東経135度の子午線を通る場所は日本には無数にある(なにしろ線なので)はずだが、たまたま明石が最初に「子午線の町」として手を挙げた(1910年に日本で最初に東経135度の標識を建てた)ことから、日本標準時は明石標準時と呼ばれるようになった。
もしこれが豊岡市や福知山市などが自分たちの方が最初だと主張していたならば、明石の名はこれほどまでに全国に知れ渡ることはなかっただろう。
東経135度を通る町は、上記の3市を除いても、北から京丹後市、丹波市、西脇市、加東市、小野市、神戸市西区、淡路市、和歌山市とある。これらの場所にも日本標準時子午線の標識はある。
子午線の町を象徴するように、1960年に明石市には市立天文科学館が135度線上に建てられた。館内にはプラネタリウム、写真のようないろいろな時代の時計の展示など、時や天文に関する学習ができる設備が整っている。私も数十年ぶりにプラネタリウムを覗いてみた。星座に関することが大半であったために既知のものばかりではあったものの、束の間、満天の星の世界に触れることができた。
写真のように、天文科学館の中に東経135度線が通っているので、床には、はっきりとした表示がなされていた。
もっとも、2002年に、UTCにより経度0度の位置が変わってしまったため、天文科学館の東経135度線は今となっては正確に135度を表わしている訳ではなく(おそらく他市のものも同様)、明石市の場合では西に120mほどのところに135度線が通っていることが判明している。
ところで、天文科学館のすぐ裏手の山には、写真の「柿本神社」があった。柿本人麻呂を神として祀っている神社である。実は、人麻呂(人麿、人丸)については人物像がよく定まっていないようなのである。が、歌人としては著名な歌を数多く残しており(伝説かも?)、三十六歌仙の一人に挙げられている。百人一首には、誰もがよく知っている歌が採用されている(第3番)。
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
百人一首はほとんど記憶にないが、1から3番ぐらいまでは何とが覚えている。高校時代にテキトウに描いたレポートに対し、教師が「お前の文章は”の”を続けるので読みにくい」と文句をつけてきたとき、私はこの歌を例に「こんな短い歌ですら”の”を4回も使っているではないか」と反論した。それでも納得しないようなので、1番の天智天皇の歌も引き合いに出し、この歌もやはり”の”を4回も使っている」と教えてやった。
これには教師も反論できず黙って去ってしまった。が、レポートの成績が上がった訳ではなかった。もちろん私は、成績を良くしてもらっては困るのだった。何しろ、「オール5」を目指していたからである。が、実際にはなかなか難しく、教師の中には最低でも「7」を付けてしまうお節介ものがいたからだ。そのため、私の評定平均は5.2ぐらい(5段階評価にすると2.6)になってしまい、オール5の達成は実現しなかった。
それはともかく、柿本人麻呂も「東経135度」の人だったのである。やはり、人麻呂は神に近い不可思議な存在だったのであろうか?
明石城は天守閣は存在しない(天守台はあるが天守閣は造られなかったらしい)が、写真のように2棟の櫓が再建され、古い石垣とともに明石駅からも展望できる場所に建ち、県立明石公園として整備されている。とくに桜の木が多く植えられている。
明石初代藩主の小笠原忠政(忠真)は信長と家康の二人を曾祖父に持つ名門の出で、徳川秀忠の命で、西国の外様大名を牽制するため、1619年に城を築いたとされる。
やはり、明石市は日本標準時の町になるほど、古くから重要な場所だったのである。
◎白くなった姫路城を訪ねる
姫路城は外周の道路からは何度も眺めたことがあるが、城内に入ったことはこれまで一度しかなかった。その時は城郭内も観て回る予定にしていたのだが、『平成の大修理」中だったために入場できる場所が限られていたことから結局、入らずじまいだった。
大修理が終わって白い漆喰が全面的に塗られたため、文字どおり「白鷺城(はくろじょう、もしくはしらさぎじょう)」となった姫路城を今回、初めて目にした。宿は姫路駅の北側にとっており、ホテルから城までは徒歩圏内にあった。
駅の北口からほぼ真北に大手前通りが伸びていて、その先に姫路城の大天守が見える。もちろん城の方が先にあったのだから、この姿を鉄道の利用者に見せるために城の真南に駅を置いたと考えられる。
大手門通りを真北に進み、大手門前の堀の位置までやってきた。この間、ずっと正面に天守閣の姿があった。徐々に形を成長させながら。
大手門の前には「桜門橋」が架けられている。これは2007年に復元したもの。
現在の大手門(高麗門)も1938年に造られたもので、かつてのものとは形も位置も異なっているとのこと。
姫路城の原型は14世紀、美作国の守護大名であった赤松貞範が姫山(古くは日女道、もしくは日女路の丘)と呼ばれていた場所に城(姫山城)を築いたというのが定説になっているようだ。
1580年には秀吉が石垣を用いた城郭を築き、名前を姫路城に改めた。さらに1601年に池田輝政が入城し、ほぼ現在のような形に築き上げ、本多忠政のときに現在の形になった。
明石城同様、西国の外様大名を牽制するための重要な位置にあったため、有力な譜代大名をこの地に置き、守りを固めたのである。
江戸時代に建造された多くの城はアジア太平洋戦争の際に空襲で焼失した。が、姫路城も焼夷弾が天守に落とされたものの、運良く不発だったために往時の姿を留めることができたのである。
圧倒的な大きさを誇る城だが、今回もまた城郭内には入ることなく、主に石垣を見て回った。秀吉の時代にはまだ野面積みで石垣が構築されたため、ひとつ上の写真のように荒々しさというか野性味を感じさせる。これは黒田官兵衛が普請した石垣と考えられている。
一方、池田輝政の時代になると「打ち込み接ぎ」が中心となり、さらに「切り込み接ぎ」と「進化」し、接合部も算木積みによる美しい曲線を描くようになった。
個人的には野趣あふれる野面積みが好みなので、その姿が残る場所を探して石垣巡りをおこなった次第である。
翌日は当初、城郭内に入ることにしていたが、夜に地図を見ていると他にも興味深そうな場所がいくつか見つかったため姫路城内初見学は止めにして、翌朝は大手前通りを通過する際に城の姿をチラリと見ただけで、姫路城に別れを告げた。
その白さがあまりにも「造り物」のように思われ(実際に造り物なのだが)、さして好感が持てなかったというのも一因であった。