◎太子町の斑鳩寺を訪ねる
奈良の當麻寺の西には二上山があり、その西麓に太子町がある。こちらがより古い明日香だったと考えられており、奈良の明日香に対し「近つ飛鳥」とも呼ばれている。この辺りも大好きな場所のひとつなので、「太子町」と聞くと大阪にある町を思い浮かべてしまうのだが、今回に訪れたのは兵庫県の太子町である。
うかつにも、私は兵庫に太子町があることをすっかり忘れていたのだが、姫路の宿で次の日の予定を考えていたときに太子町の存在を思い出したことから、まずはじめにそこを訪ねることにした。
太子町というぐらいなので、もちろん聖徳太子に関係する場所であることは言うまでもない。7世紀初頭に太子が推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)や法華経を講じたことから、播磨国の水田100町(360町とも)を与えられた。太子はその地を鵤(いかるが)荘と名付け、政所とひとつの伽藍を建てた。これがここで取り上げた斑鳩寺の淵源となった。
最盛期には七の伽藍、数十の坊院を有していたそうだが、1541年、出雲尼子氏の侵入で全焼してしまった。再建されたのは1565年だったとのこと。その際、法隆寺の別院から天台宗の傘下に入ったという。
聖徳殿前殿の左右には2頭の白馬が置かれている。確か、聖徳太子の愛馬は「甲斐の黒駒」だったはずだが、ここには白馬だった。もっとも、太子は甲斐の黒駒に乗って天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国に赴き、富士山を越えて信濃国に至り、3日を経て都に帰還したというから、黒駒は単なる伝説にすぎないのかも。
一方、孔子の愛馬は白馬であったことはよく知られている。落語の『厩火事』のネタになっている。また、『絹本著色本證寺本聖徳太子絵伝』には白馬に乗った聖徳太子が描かれている。こうしたことがごちゃまぜになって太子と白馬が結びついたのかもしれない。
1565年に再建されたもので現存しているのは、写真の三重塔だけである。高さは25mあり、細部の意匠も見事に施されており、なかなかの存在感があった。
法隆寺の夢殿を模した奥殿中殿があり、ここに木造の太子立像、日光・月光菩薩像など国の重要文化財が保存されている。
地元の人々は、現在でもこの寺を「お太子さん」と呼んで大切にし、地元の誇りにしていることがうかがわれた。私にとっても望外の出会いであった。紙の方の聖徳太子はとっくに消え去ってしまったけれど。
◎兵庫県で一番低い山~唐船山に初登頂
赤穂城跡を目指した。その前に、千種川(ちぐさがわ)河口左岸にある兵庫県で一番低い山(全国では19番目)である「唐船山(からせんやま)」に登頂することにした。標高は19mで、登山口は5mの位置にあるので比高は14mだ。
ところで、山はどのように定義するのだろうか。一般的には、高さがあってかつ他と区別されているものを言う。なので、子供が地面に土を盛ったものも立派な山である。ただ、他の山と比較するときはそれなりの基準が必要であって、兵庫県あるいは全国で、というときには国土地理院地図に掲載されていることが一応の目安になっているようだ。
この点で言えば、日本一低い山は仙台湾にある日和山で、標高は3mである。ただこれは人工的に造られた「築山」で、自然に出来た山であれば、徳島市にある弁天山で標高は6.1mだ。
唐船山は赤穂海浜公園の西隣にある。公園の有料駐車場に車をとめ、私は登山を開始した。写真のように、この山には立派な登山道(階段)が整備されている。
比高は14mなので、途中で休むことなく登頂に成功した。右側の標識にあるように、かつてここには番所が置かれていた。山頂近くに地面が少し掘られた跡が残っており、それが番所があった痕跡になっている。
この山は「ドンドン山」の別名がある。地面が柔らかくなっている場所があり、そこを足で強く打ち付けるとドンドンという音がするのがその理由だとのこと。その昔、唐の船がこの浜に漂着し、やがてその船を覆うように土が積もったことで山が出来たため、山中には空洞があり、それゆえドンドンと響くのだそうだ。
山を観察すれはすぐに分かるが、周囲は砂岩が大きく露出している。この上に船が乗り上げるのはとても大変なことであろう。
左岸の岩礁が少し沖にあり、千種川が運んできた砂が沖に伸びて陸続きになったというのが真相だろうが、それでは面白くもなんともないので、そうした言い伝えを今日まで継承しているのではないか。
◎赤穂大石神社と赤穂城跡
まずは赤穂城跡内にある「赤穂大石神社」を覗いてみた。ここは赤穂神社と大石神社が合体してできたもので、浅野家やその後を継いだ森家と赤穂浪士と中折した萱野三平を祀っている。
鳥居前の参道の両側には四十七士の石像が並んでいる。写真からも分かるように、これは近年になって造られたものである。なお、下の写真は大石良雄(内蔵助)率いる表門隊で、反対側には大石主税率いる裏門隊の像が名前入りで並んでいる。
以前は、年末になるとテレビでは赤穂浪士を扱った番組(忠臣蔵)をやっていて、私も少年時代には欠かさず見ていたものだった。なかでも堀部安兵衛がお気に入りで、動きの遅い大石良雄をもどかしく思った。
もっとも、あまりにも事細かな描写に、いささか閉口したのも事実である。実際にあったことなど誰にも分からないし、そもそも討ち入りが正当か否かも賛否が分かれるところである。
それゆえ、長じてからは赤穂浪士ものにはほとんど興味はなくなった。それでも何度も赤穂城跡に訪れており、今回もまた出掛けていったのは、彼らの行為がカントの言う義務にかなったものであるかどうかを考察したいからなのだ。
写真の神門をくぐり中を少しだけ覗いたが、相変わらず、お参りはしなかった。写真にもあるが、「大願成就」の幟旗はいたるところに掲げられていた。確かに、身内にはひとりの犠牲者を出すことなく(二名が負傷しただけ)仇討ちを達成したとすれば「大願成就」には違いない(史実だとして)だろうが、そこには偶然性が大きく作用していたと考えられる。
大きな願いを達成するには多くの幸運に恵まれなければならないし、仮に成就できたとして、それが本当に心底から願っていたものだったかどうかは後になってみなければ分からない。いや、それはずっと不明のままであろう。
赤穂大石神社から移動して、写真の本丸門、本丸櫓門に向かった。本丸内に入っても建造物はほとんど残っていないが、どんな施設がどの位置にあったのかということは床面に記されている。
本丸庭園は美しく整備されている。その先に見えるのは天守台の石垣で、天守閣は存在していない。というより、元々、構築されなかったのだ。
天守台は「展望台」として上がることができる。写真からも分かるように、本丸内にはいろいろな施設が存在していた。そのどれもが姿かたちを残していないため、私にはそれらを想像することさえできない。
本丸厩口を出て、やはり施設らしいものがほとんど存在しない二之丸をしばし散策した。
山鹿流兵法や朱子学を批判して孔孟の思想に立ち返るべきとする古学派の祖である山鹿素行(1622~85)は赤穂藩との関りが深い。1652年に浅野長直(浅野内匠頭の祖父)に仕え、整備中であった二之丸の縄張りについて助言を与えた。また、古学を確立して朱子学を批判した(『聖教要録』の記述)ことで保科正之の怒りをかい、1666年から10年ほど、赤穂藩に配流されている。
このときも浅野長直は彼を厚遇し、大石良雄(大石内蔵助)はその門下に入った。一説には、赤穂義士の活動は山鹿素行の影響を強く受けているためだとするものもある。
こうした赤穂藩と山鹿とは縁が相当に強いことから、二之丸跡の一角に写真のような像が建立されているのだった。
赤穂城跡の隣には、写真の歴史博物館があった。5連の土蔵の形をしているのは、この地に赤穂藩の米倉があったからだそうだ。
赤穂義士にはやや食傷気味だったために立ち寄ることはしなかったが、後で調べてみると、「塩と義士の館」を謳い文句にしていることが分かった。義士はともかく、赤穂の塩に関しては興味を抱いていただけに、館内を覗かなかったことを反省した。
製塩法については興味があり、今は地震騒動で揺れている能登の「揚げ浜式製塩法」を体験したことがあった。一方、赤穂の製塩法は「入浜式塩田法」でやり方はまったく異なっている。
これは、日本海側は干満の差が小さい一方、瀬戸内海は干満差が非常に大きいことから入浜式を可能にしているのであって、赤穂の方式が効率的なのは、自然環境によるところが大きい。
なお、赤穂藩が製塩で有名になったのは浅野家の時代ではなく森家からで、一説によれば、生産量は10倍ほど伸びたそうだ。こうしたことも、博物館に立ち寄って調べたり質問したりして理解が深まったかもしれない。残念なことである。
◎閑谷学校に登校
海を離れ、今度は内陸に向かった。写真の「閑谷学校」を見学するためである。実は私は学校は大好きだった。ただ勉強が、授業が、あるいは人の話をジッとした姿勢で聞くのが大嫌いなだけなのだ。なので、私の学校生活は休み時間と放課後に力点が置かれていた。
それはともかく、学校と聞くとまず「足利学校」を思い浮かべる。この学校については本ブログの第6回で触れている。一方、閑谷学校は1670年、藩主の池田光政によって開校された「日本で初めての庶民のために学校」だとのこと。
足利学校の開校時期は諸説あるが、一般には1432年、上杉憲実によって再建されたとある。ということはそれ以前にもあったことになり、極端な説では、839年に小野篁が開いたというのがある。これなら最初の学校は「足利学校」になりそうだが、実は、空海が開いた「綜芸種智院」は828年に開学している。これが正しければ、足利学校よりも古いことになる。
が、日本には天智天皇が開いた「大学」がある。これは671年に始まっている。それゆえ、日本最初の学校といえば「大学」にとどめを刺すようだ。それゆえ、閑谷学校では「庶民のための学校」という但し書きがあるのだろう。
閑谷学校の存在やその位置についてはずっと以前から知っていた。山陽自動車道を西へ進むとき、備前ICから和気ICとの間に「閑谷トンネル」があり、そのトンネルに入る直前に備前焼の煙突が見え、このトンネルに「閑谷」の名前が出ていることから、このトンネルの近くに閑谷学校があるということは見当がついていた。しかし、この辺りにとくに用事はなく、また焼き物は餃子や焼きそばならともかく、陶磁器についてはまず関心がなかったため、備前焼と言われてもどんな特徴があるかすら知らないままでいた。
それが、山陽路を中心に巡る旅は今回が人生最後になるはずであることは確実そうなので、わざわざ閑谷学校まで足を運んでみた次第だった。
古い時代に造られた建物の屋根にはその大半が備前焼の瓦が用いられている。一枚一枚、瓦の色は微妙に異なるため、素人の私にもその美しさに見惚れてしまったほどだ。
備前焼の淵源は朝鮮半島から伝来した須恵器の製法にある。須恵器は窯を用いて高温で焼くことができるので水を通さない器や瓦を造ることができる。須恵器が伝わる前は土師器で、これは野焼きで火を入れるために低温でしか焼けないために水を通してしまうこともあった。須恵器の製法は平安時代に定着し全国に広まった。
写真のように、備前焼の瓦は光の当たり具合でも見え方が変化するため、こうして屋根を見ているだけでも閑谷学校の良さを得心できるのである。
閑谷学校の建物の大半は国の重要文化財に指定されているが、写真の講堂は国宝に指定されている。通常、講堂は回廊のみが見学を許されているが、年に何度かは一般向けに講堂内で論語などの講義があり、その際はピカピカに磨かれた床に触れることができるそうだ。うらやましい。
通常、私はこうした施設には上がることはほとんどしないのだが、外から透明の漆が塗られた堂内の床の輝きを目にしたとき、まったく躊躇せずに上がる講堂、いや行動に出てしまった。
ほとんどの窓が開放されているので、堂内をいろいろな角度から眺めることができた。光の当たり具合によって、さして変哲のない床や壁や天井やらがが、色鮮やかな装飾を施された煌びやかな内装よりも美しく見えるのである。
本項の冒頭の写真は、講堂の床の輝きがもっとも顕著に見える角度から見たもので、何もないことの豊かさが鮮明になる姿であった。
上の写真は、また別の角度から眺めたものである。光線の具合によって、あるいは見る位置や角度によって、床があたかも生き物のように千変万化するのである。
この講堂の姿に触れられたことだけでも閑谷学校にやってきたこと、いや山陽路を訪れた意味や意義を見出すことができたといっても過言ではないだろう。
石垣も写真から分かるとおりなかなか工夫されている。綺麗な曲線を描いているのである。もちろん、これは表面が磨かれているのだろうが、「庶民のための学校」のためにここまで意匠に凝るというのは生半可な覚悟で出来るものではない。
閑谷学校は1870年に閉校となったが、73年に備中松山(現在の高梁市)から山田方谷を招聘して閑谷精舎として再開。1903年には旧制私立閑谷中学校となり、05年には写真にある新校舎が完成した。
21年には岡山県に移管され、48年には学制改革によって閑谷高校となったが、64年に閉校となった。
現在は閑谷学校資料館となって開放されている。この校舎は私の小学校時代の建物のようだったので、懐かしさを覚えたこともあり中を覗いてみた。こうしたことも普段ではなかなかしないのだが、どうやらすっかり講堂の床の美しさに魅入られてしまったようだ。
美は、ときとして私を知性的存在にする。
閑谷学校で豊穣な時間を過ごしたのち、再び海に向かうことにした。地図で場所を探しているときに”日本のエーゲ海”という言葉を見つけたからだ。閑谷から県道261号線を南下すると「岡山ブルーライン」と名付けられた播磨灘に近い場所を走る快適そうな道がある。その道を西に進み邑久(むらひさ)ICで下りて県道39号線を南下すると海岸線に出る。そこに”日本のエーゲ海”があるというのだ。
エーゲ海と聞くと私の年代では「ポールモーリア」の楽曲を思い起こす。『エーゲ海の真珠』と『オリーブの首飾り』の2曲はとくによく聞いた。久し振りにこの2曲を聞こうとユーチューブで見つけ、スマホでその音楽を流しながら目的地をめざした。”牛窓”の地にはギリシャ風の建物やオリーブ園があることから、”日本のエーゲ海”と呼ばれているらしい。もはや本物のエーゲ海に行く気力や体力は残っていないが、日本にあるのなら行くことは可能だ。
2曲のうち、とりわけ後者は”エーゲ海”をイメージさせるだけでなく、マジックの際のバックグラウンドミュージックの定番として流される。そのため、どちらかといえば海よりも手品を思い浮かべてしまうのだが。そうすると、耳元には『だめよあなた♪♪』という詞が入り込んでしまうのであった。
牛窓町の海岸線に到達した。いくつかオシャレな建物やカフェがあったが、取り立ててエーゲ海をイメージさせるものは存在しなかった。そこで私はヨットハーバーのある東海岸へ向かった。が、これもまたごくありふれたハーバーにすぎなかった。そのため、さらに車を東に向けると、古い漁師町のイメージをふんだんに纏った路地に迷い込んでしまった。かりに対向車があったとすればすれ違うことはまったくできないほど道は狭かった。
やっとの思いで通り抜けた場所に建っていたのが、ひとつ上の写真にある「灯篭堂跡」の古めかしくもあり由緒あり気な建築物だった。エーゲ海というより、日本の田舎の古い漁村の原像といういうべき景観が、そこには展開されていた。
エーゲ海はどこだ!
対岸には前島という東西に細長い島が横たわっていた。ここを干満の差が激しい潮が行き来するため、写真のようにいつも急流が走っているようだった。
私は灯篭堂横の小さな空き地に車をとめ、少しだけ猫たちと戯れた後、集落内をうろついてみた。ギリシャ風のものはまったく目に入らず、存在するものはすべて、日本の古き良き漁村の佇まいであった。
港には小さな漁船が数多く停泊していた。早い潮から港内を守るべく一本の長い突堤が潮の侵入を防いでいた。
その堤防から一人の釣り人が竿を出していた。地元のオジサンといった風情だったので当地には詳しいだろうと思い、釣果だけでなく、エーゲ海はどこにあるのか訪ねてみた。
おじさん曰く、そんなものは存在せず、ただ高台にある「オリーブ園」がしきりに”エーゲ海”を強調しているとのことだった。「俺はエーゲ海に行ったことがないのでそれが本当なのかどうかは見当もつかない」というような内容を、そのオジサンは地元言葉で話してくれた。
そんなものより、牛窓神社の境内はヤマツツジが満開なのでそれを見に行った方が良い、という素敵なアドバイスを頂戴したので、砂浜海岸の先にある神社へと向かうことにした。
海岸線近くに一の鳥居があり、それをくぐって緩やかな階段を上がり、森の中を進んだ先でヤマツツジが高台を覆っていた。
確かに、見事としか言い表せないほどツツジは満開だった。通常のツツジに較べると色の変化は限定的だが、こうして満開になってしまうと反って自然な造形美が目や心の中に入ってくる。
境内は高台にあるので、眼前には前島だけでなく数多くの島の姿が視界に入ってきた。エーゲ海を「多島海」と日本語に置き換えるなら、たしかにこの牛窓の地はエーゲ海を名乗っても良いかも知れないとも思えた。
そんなとき、またあの「だめよあなた♪♪」の歌詞とメロディが心と胸に浮かび上がってきた。
そうなのだ。この景色はなにも”エーゲ海”に例える必要などまったくなかった。日本の瀬戸内海として十分に誇れば良いのだ。何しろ、ここ牛窓は岡山県瀬戸内市にあるのだから。
閑谷学校と牛窓、この日は望外ともいえるとても良い出会いがあったので、いい心持で宿泊場所である岡山駅前のホテルに向かった。
岡山市街に入った場所で、丁度その時に写真の路面電車に遭遇した。路面電車には広島市で乗る予定にしていたが、岡山市にも走っていたことをすっかり失念していた。それが、信号待ちをしているときにその姿に出会ったため、当初はホテルでゆっくり写真の整理をする予定だったことを変更して、路面電車に乗ることにした。
ホテルは岡山駅のすぐ近くにあり、ホテルの玄関を出たところに「岡山駅前電停」があった。路線は2系統あり、ひとつは「東山電停」行き、もうひとつは「清輝橋電停」行き。といっても、それがどの方向に向かうのか不明だったため、地図で確認しつつ駅前電停を折り返す電車の姿を、写真にあるように撮影したり眺めたりしていた。
2系統のうち、東山行きには岡山駅前から二つめに「城下電停」があり、その停留所が岡山城と岡山後楽園の最寄り駅だということが判明した。当初は、翌日にそれらの見学に出掛ける心積もりであったが、何としても路面電車に乗車したくなった。それゆえ、岡山城見学だけなら比較的短い時間で済みそうだったことから、写真の車両に乗ることにした。
城下電停といっても岡山城はすぐ近くにある訳ではなく、直線距離にして500mあった。おまけに駅は交差点のすぐ西側にあり、しかも幅広の道路の中央にあるため、信号を2つ越える必要があった。結局、徒歩では10分以上掛かった。
信号待ちが面倒なので、地下に造られた通路を利用したが、これが結構な高低差があったため、日中にかなり歩いた体には結構、きついものに感じた。
写真は、岡山城と後楽園との間を流れる「旭川」に架かる橋で、「月見橋」と名付けられている。この橋を使えば、岡山城の「北口」と後楽園の「南口」との行き来に便利なのだそうだが、何の風情も感じられない無粋な鉄橋であるのが残念だ。城も庭園も岡山市を代表する存在なのだから、両者を橋渡しする重要な建造物にはひと工夫もふた工夫も欲しいところだった。
岡山城は「令和の大改修」で綺麗に復元され、昨年の11月にオープンしたばかりなので、建造物の多くは新品同様である。
天守閣は黒塗りの下見板で覆われているため、写真から分かるとおり黒い姿をしている。このことから「烏城(うじょう)」という別名がある。これは姫路城が真っ白なので「白鷺城(はくろじょう)」と呼ばれていることと対になっている。
宇喜多秀家が岡山という名の丘に秀吉の指導の下に1590年から天守閣の造営を始め、97年に完成したとされている。派手好みの秀吉が関わっているだけに金箔瓦が多く使われていることから「金烏城」とも呼ばれていたそうだ。
私は旭川側から登城することになったため、写真の廊下門から城内に入った。廊下門の名は、藩主の御殿がある本段と政治をおこなうための中の段とを結ぶ藩主専用の廊下が櫓門の中にあったことが由来になっている。
城内には見所がなかったわけではなかった。また、時間の関係で天守閣の中には入れなかった。もっとも、中には売店や博物館などがあるとのことだったので、とくに内部には興味を抱かなかったが。
それに対し、写真の石垣は結構、見事なものだったのでしばし目を奪われた。この石垣がある側のすぐ横には旭川が流れている。このため守りがやや手薄になることから高い石垣を築いたのだと思われる。資料によれば、高さは14.9mあるそうだ。
石垣を見上げ続けていたために少々、首が痛くなってきた。辺りも次第に暗くなってきたことからホテルに戻ることにした。もちろん、帰りも路面電車を利用した。運賃は120円だった。
写真は横断歩道上から岡山駅前電停に入る電車を撮影したものである。後ろ側には岡山駅の姿が見えている。
岡山城そのものにはさほど興味を抱けなかったが、路面電車に乗車できたことで満足度は決して低くはなかった。
◎岡山後楽園
翌日はまず、岡山後楽園に向かった。その後は吉備路に向かう予定だったので、路面電車ではなく車で移動した。
後楽園は日本三名園のひとつに挙げられている。あとの二つは、金沢の兼六園と水戸の偕楽園である。さらに、この三名園を上回る庭園として高松の栗林公園が挙げられることもある。
岡山後楽園に入るのは今回が初めて。これにより、上記の四名園にはすべて訪れたことになった。それぞれの庭園にはそれなりの趣があるが、私の好みで順位を付けるとすれば、栗林公園、兼六園、後楽園、偕楽園の順番となる。もっとも、これは印象度の高い順番であって、死ぬまでにもう一度訪れてみたいかと聞かれれば、すべて否と答えるだろう。
いずれの庭園も広さがあるので散策にはもってこいの場所ではあるが、庭園としての魅力はもっと小規模の場所の方が上回っている。大きな敷地で大きさを誇るより、小さな敷地で大宇宙を想像させることにより価値があると思えるからだ。もっとも、駄作も相当数あるのは事実だが。
庭園の中心に写真の唯心山(ゆいしんざん)がある。ここにはツツジやサツキ、それに石が適度に配置されている。ツツジの開花期が近かったこともあって、それなりの美しさを披露していた。
沢の池をはじめとして池も多く配置されている。ただしそれほど興趣が沸くものではなかったので、私は魚を探すことに専心してしまった。
唯心山に上った。山の上からは庭園の大半が展望できる。こうしてみると、庭内にはそれなりの変化があって、私のような素人には決して分からない良さを有しているのだろうか。所詮、私のようなサルには人間の造形を理解するのは困難なことらしい。
後楽園を離れる前に、今一度、唯心山を眺めた。この角度から眺めると、その背後には岡山城のやや派手な姿も目に入ってくる。借景である岡山城もこの庭の引き立て役になっている。
この部分だけを上手にまとめて造形してくれたならば、私はもう少し、この地を気に入ったかもしれない。
133000平米もの広さは、権威を覚えてしまうので私には不要だ。もっとも、それはサルとしての私の感想にすぎないが。