徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔92〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(3)吉備路から倉敷、そして福山まで

旧下津井駅と保存車両

吉備津神社~旧吉備国の総鎮守

吉備国の総鎮守。のちに備中国の一宮

 「吉備」の名を聞くと「吉備ダンゴ」や「吉備真備(きびのまきび)」をすぐに連想してしまうが、実際に吉備の地を訪れたのは今回が2回目。もっとも、1回目はほとんど通過しただけだったことから、「立ち寄った」のは初めてといっても過言ではない。

 吉備は古代の地方国家のひとつで、大和や出雲などに比肩されるほど大きな勢力を有していた。かつて「真金吹く吉備」と称されたが、真金とは鉄のことで、吉備は鉄の一大産地であった。

 諸説あるが、一般には製鉄技術は朝鮮半島新羅説が有力)から出雲に伝わり、砂鉄が多く産出される吉備の地が鉄と、同じく半島から伝わった須恵器の一大生産地として栄えたと考えられている。

拝殿までの長い階段

 今となっては吉備の名を聞いても、関東に住む人にとってはどのあたりに存在するか不明のようで、先に触れた「吉備ダンゴ」や「吉備真備」を知っていても場所は見当がつかないという人の方が圧倒的に多い。

 古代の吉備国は現在の岡山県全体、広島県東部、兵庫県西部、香川県島しょ部を支配していた。律令制が敷かれてからは令制国として備前、備中、備後、美作(みまさか)の4国に分けれらた。

 私が少しだけ歩いた「吉備路」は、岡山県北西部から総社市の間にあり、総延長21キロの「吉備路自転車道」が整備されている。また例年「そうじゃ吉備路マラソン」が開催され、フルマラソンから子供たちが参加できる中距離走などが行われているそうだ。

 吉備路には里山が多く、清々しい心持ちで散策できる。以前に紹介した「山辺の道」や「葛城の道」、はたまた「竹内街道」のように、古代の歴史に思いを馳せながら一歩一歩、踏みしめ噛みしめながらゆったりと歩んでみたい場所である。

拝殿まであと数歩

 と言いつつ、私の旅はいつも急ぎ足になってしまうので、今回は、旧吉備国の総鎮守にして、令制国時代は備中国の一宮であった「吉備津神社」を訪ねてみた。

 主祭神は、孝霊天皇の第3子であった大吉備津彦命。伝説によれば、鬼ノ城を拠点として周辺の地域を荒らしまくっていた温羅(うら、おんら)と弟の王丹(おに)を討ったのがこの大吉備津彦命であり、温羅の首はその怨念を鎮めるために吉備津神社の「釜の下」に封じてあるとのこと。

 その一方、温羅は半島(おそらく新羅)からの渡来人で製鉄技術を吉備に伝えた人物とされている。ともあれ、この温羅退治の話が「桃太郎伝説」の淵源になっている。

国宝の拝殿

 吉備津神社は吉備中山(標高162m)の西麓にある。駐車場は標高わずか3.1mのところにあるが、先に挙げた写真のようにやや長めの階段を上った場所(標高19.6m)のところに拝殿や本殿がある(ともに国宝)。

境内はちょっぴり今風

 下の写真にあるように本殿はいかにも由緒あり気なのにも関わらず、上の写真のように境内には「祈願トンネル」などという今風の名前を付けた絵馬を掲げる施設が設けられている。

国宝の本殿

 境内は山の斜面にあるので、少し高い位置に上がって、そこから国宝の本殿を眺めた。足利義満が造営を命じ、1425年に遷座した。信仰心がまったくない私が見ても、その姿を神々しく思えてしまうほど見事な建物である。

回廊

 神社の境内は南北に細長く、北側に本殿があり、南側に摂社が点在している。本殿と摂社群をつなぐためか、写真のような屋根付きの回廊が設けられている。一瞬、この姿に長谷寺の登廊が重なった。

回廊の総延長は398m

 回廊の長さは398mあり、回廊の左右に摂社が並んでいる。この回廊は天正年間(16世紀後半)に建造されたとのこと。いくつかの摂社を覗いてみたが、本殿の佇まいに圧倒された私には、さして興味を抱く建物は存在しなかった。ただ、回廊そのものに興趣があり、さらに一部に牡丹園があって開花を始めた花たちに関心を示した。

◎吉備路を少しだけ歩く

里山の風景が続く吉備路

 先述のように「吉備」の名を聞くと「吉備真備」を直ちに連想する。これはずっと以前からの条件反射で、山陽自動車道を西に進み、岡山ICを過ぎた先に「吉備SA」があるのだが、私はほとんど何の用事もないのだけれどそのSAに立ち寄ってしまうのである。

 それでは吉備真備(695~775)がどんな人物であったかと問われると返答に窮してしまうほど、彼の業績には関心がない。ただただ「きびのまきび」という音が好み名だけなのかもしれない。

 同時代の有名人で彼に直接関係した人物を挙げれば、「阿倍仲麻呂」「玄昉」「藤原仲麻呂恵美押勝)」「藤原広嗣」「鑑真」といった錚々たる人がいて、それぞれ日本史には欠かせない存在であり、出来事とも容易に結びつくが、はて、吉備真備が何をしたのかすぐには浮かんでこないのだ。それでいて、日本古代史で著名な人物を一人挙げよと問われたならば、私は聖徳太子ではなく真っ先に吉備真備と答えてしまう。

再建された備中国分寺の南門

 そんな吉備真備ではなく、よく整備された吉備路を散策すると、写真にある「国分寺」が見えてくる。奈良時代備中国分寺が廃されたのち、天正年間に備中高松城主の清水宗治が再興し、さらに18世紀前半の宝永年間に再建されたのがこの国分寺である。この寺は令制国時代の国分寺とは直接、繫がりがある訳ではなさそうだが、この名を冠する以上、概ねこの寺辺りにいにしえの国分寺があったと推察できる。 

再建された五重塔

 国分寺と言えば五重塔を欠かすことはできない。この塔は19世紀半ばに再建されたものであり、高さは20mある。

吉備路にはサイクリングロードが整備されている

 写真から分かるとおり、国分寺の前には「吉備路自転車道」が整備されている。道路脇には田畑があり、今では懐かしさを覚えてしまうほど姿を見ることが少なくなったゲンゲ(レンゲソウ)がよく咲いていた。

 こうして五重塔のある景色に接すると、心は8世紀に遡ってゆき、結局、吉備真備の名が浮かんでしまうのである。

◎下津井~私のすきなもうひとつの倉敷

むかし下津井回船問屋

 吉備路からは倉敷市街が近いのだが、まずは倉敷の南端部にある下津井に向かうことにした。国道429号線から山陽道の倉敷ICに入り、すぐに倉敷JCTから瀬戸中央自動車道に移り、その道路を南下して児島半島へ向かった。児島ICで下りて半島の南端にある下津井の町に入ったのだ。

 この下津井の町は私のお気に入りのひとつで、倉敷市の美観地区よりもこの港町に訪れた回数は断然に多い。もっともそのうちの7,8回は瀬戸大橋下周辺にある離島や岩礁に渡るため渡船の基地がある下津井港を訪れたのだが。が、そんなときでも釣りの取材を終えて協力してもらった地元の釣り名人と分かれた後は必ず、時間が許す限り町の中を散策したものだった。

 下津井は現在、倉敷市に属している(1972年以降)が、その前は児島市に、さらにその前(1948年以前)は児島郡下津井町として独立した自治体であった。

 地図を見ていただければすぐに分かることだが、下津井は四国の坂出にかなり近く、それゆえに瀬戸大橋の北端が下津井にあるのだが、その坂出との間には広島、本島、与島、釜島、六口島、櫃石(ひついし)島など塩飽(しわく)諸島が並んでいる。それゆえ下津井は漁業基地として、風待ち・潮待ち港として栄えたのである。

 かつては回船問屋や宿場、遊郭などが数多く立ち並んでいたようで、写真の「むかし下津井回船問屋」と名付けられた資料館には、往時の繁栄が偲ばれる史料の数々が展示されている。

町並みは少し寂しい

 町中の路地にも回船問屋だった建物は残っており、1986年には岡山県の町並み保存地区に指定された。が、私がよく通っていた頃に較べると町並みは徐々に寂しくなっている。また、訪れる観光客の姿はほとんど見掛けなかった。

1991年に廃止された下津井電鉄

 下津井に立ち寄ったときには必ず、下津井電鉄線の下津井駅跡に出掛けている。下津井電鉄軽便鉄道として1911年に開業しているが、写真の下津井駅は14年に開通された。

 この路線は、JRの茶屋駅まで続いていて、その駅で、「本四備讃線」や「宇野線」に接続していた。また途中には児島駅があった。

 児島の名前を聞くと、高齢層のほとんどは「児島湾の干拓」を思い浮かべるだろう。この地区の干拓は江戸時代の初期から始められ、1963年までその事業はおこなわれていた。

 また、宇野の名前からは「宇高連絡船」を思い浮かべる人は多いだろう。玉野市宇野港から高松港を結ぶフェリーがあり、四国から本州に渡るための重要な手段だった。が、1988年に瀬戸大橋が全線開通したために利用客は激減し、1991年に廃止されてしまった。その影響もあり、下津井電鉄線も役割を終えてしまったのである。

いろいろな車両が保存されている

 通常であれば、廃線となってしまえば車両は解体されるか朽ちてしまうかのどちらかであろうが、ここでは「下津井みなと電車保存会」が下津井電鉄株式会社(鉄道事業からは撤退したが、バス事業は継続している)の協力によって駅や車両の保存展示をおこなっているのである。そのため、廃止されてから30年以上たっても、車両は随時ぺインティングされていることで、往時の姿を保っているのである。

ホースヘッドが特徴的

 前述したように、下津井では瀬戸内海に浮かぶ島や岩礁に渡るために写真の渡船(瀬渡し船)を利用した。ここの船は他の地域では滅多に目にすることができない長い鼻(ホースヘッド)を持っている。これは、瀬戸内海は干満差がとても大きい(3mは当たり前)ために、磯に降りるときと磯から上がるときとでは場所も高さもまったく異なることが通常だからだ。

 潮が低いときに磯に渡った場合、潮が満ちてくるとその渡った場所がクロダイを狙う良いポイントになるのだ。このため、荷物は常に最上段に置き、必要なものだけをもって釣り座に向かうことになる。

 このように、干満差が大きいということは船は磯際まで寄れないことが大半となることから、このような長い鼻が必要となるのである。

 瀬戸内海で釣りをしなくなってからは十数年経つが、この長い鼻を持つ船を目の当たりにすると、この地域ならではの磯釣り体験をしたときの様子が、数日前の出来事であったかのように思い出される。

下津井田之浦港と瀬戸大橋

 下津井町は概ね4つの地域に分かれているが、田之浦と呼ばれている場所は低地が少なく、すぐ背後には鷲羽山が迫っている。人家は少ないが、写真から分かる通り「常夜灯」が設置されており、ここが天然の良港であったことの証左になっている。

 現在では、この港の真上に瀬戸大橋が架かっているが、よく見ると、手前側と島の向こう側では主塔の形が違うことに気付く。手前側は「吊り橋」で、向こう側は「斜張橋」なのである。

 田之浦の南沖には「櫃石(ひついし)島」と「岩黒島」があり、下津井から櫃石島までは「下津井瀬戸大橋」(吊り橋)で、その先が櫃石島高架橋と岩黒島高架橋(ともに斜張橋)となっている。

 なお、それぞれの島にはインターチェンジが設けられているが、住民や関係者しか利用できないため、観光客が島に渡るためには路線バスの利用が通常となる。もっとも、磯釣り客は前述の渡船で磯付けしてもらえるが、これは特殊な利用法である。

瀬戸大橋を通る本四備讃線

 瀬戸大橋の全貌を見て取るには鷲羽山(標高133m)の第一、第二展望台から眺めるのが通常だが、私は全貌よりも道路の下を走るJR本四備讃線に興味があるため、鷲羽山の中腹を走る県道393号線をを使って、大橋近くにあるパーキングに出掛ける。

 かつてはそのパーキングの近くに山に上る道があり、それを使うと鉄道のほぼ真横に出られたのだが、残念ながら、近くに市の施設が出来たこともあって道は消滅していた。それで仕方なく、さしあたり鉄道が一番見やすい場所を県道をうろついて探し、どうにか撮影できたのが上の写真である。

鷲羽山中腹から下津井の町を眺める

 県道393号線からは、下津井の町の姿も見渡すことができる。この写真から分かるように、下津井にはいくつもの港湾が並んでいる。

 下津井といえば晩秋のタコの天日干し(下津井ダコ)がとくに有名だが、ママカリ(サッパ、コノシロの子供)、トラフグなどもよく知られた存在だ。

 磯釣りのためにわざわざ遠征する機会が無くなった現在(鮎釣りでは各地に遠征するが)、こうして下津井の町を眺めるのはこれが最後となるかも知れない。そう考えると一抹の寂しさを覚えたので、今一度、下津井の町を車で走り、この日の宿泊地である倉敷美観地区へ向かった。 

倉敷美観地区を散策

美観地区と言えば倉敷川一帯

 倉敷市といっても面積はとても広くて約356平方キロである。東京の八王子市は広いことで有名だが、それでも186平方キロにすぎない。そのため、倉敷市の人口は約47万なので人口密度は1321人。対して八王子は約58万人で人口密度は3109人。倉敷市は、中心部以外は山ばかりと思える八王子市の3分の1の密度しかない。これは倉敷市が周辺地域の合併によって市域が拡大したこともひとつの要因と考えられる。ちなみに、我が府中市の人口は約26万で、人口密度は8900人である。

 先に紹介した下津井も行政区域としては倉敷市だし、干拓で有名な児島市もその一部は倉敷であり、水島コンビナートのある玉島市も現在は倉敷市に属している。さらに吉備真備を輩出した真備(まび)町も倉敷なのである。

 こうしてみると、倉敷といえば「美観地区」をまず思い浮かべるが、白壁の町並みだけが倉敷なのではなく、一大工業地帯も、綿花栽培地も、ジーンズの発祥地も、ブドウ栽培も、干しダコの町も、吉備真備も、横溝正史も、みんな今では倉敷なのである。

 とはいえ、今どき流行りの”夜の工場見物”のために倉敷まで出掛ける人は極めて稀で、やはり大半の観光客は「美観地区」の散策を目的にしているのではないか。

白壁ではない建物も魅力的

 現在の倉敷市街や工場地帯(水島コンビナート)、それに児島地区の多くは浅海か干潟だった。それらの干拓を進めたのが秀吉の五大老の一人である宇喜多秀家(1572~1655)であった。倉敷には「島」の名が付く町が多いが、それは実際に島だったからであり、それを陸続きにしたのは宇喜多秀家の業績である。ただ、秀家は関ヶ原の戦いで西軍に加担したために八丈島に遠島となり、そこで生涯を閉じた。

 美観地区周辺の標高を調べると、倉敷駅前は3.4m、大原美術館前は2.7m、アイビースクエアは4.5mである。また、鶴形山(標高40m)にある阿智神社の境内は38mなので、干拓前にはこの山は浅海に浮かぶ島だった。

今では当たり前の存在となった人力車

 干拓事業が進んで港が整備されると、倉敷は幕府の天領となり代官所が置かれた。そのため、この地には年貢米が集積されるとともに一大商業地として発展したのである。

 現在に残る白壁、なまこ壁、黒壁の建物は、江戸時代に建てられた大商家の蔵が元になっている。そもそも倉敷の名は、蔵屋敷町を語源としていると考えられている。

 倉敷の古い町並みが人気を博したためかどうかは不明だが、今では日本各地に古い町並みの保存がおこなわれ、その多くが観光地化している。今回の旅では、倉敷だけでなくいくつかの保存された町並みを紹介することになる。先に挙げた下津井も規模は小さいながらそのひとつに数えられる。

 美観地区だけではないが、ある程度の広さを有する町並み保存地区では近年、必ずと言って良いほど写真のような人力車が「活躍」している。私は利用したことも利用するつもりもまったくないが、一例として価格を調べてみると、1区間12分で一人4000円、二人5000円とのこと。

 また、美観地区の中心を流れる倉敷川には「くらしき川舟流し」があり、大原美術館前にある今橋から美観地区が終わる高砂橋の間300mを6人乗りの小舟で往復(20分)する。大人500円也。

 コロナ騒動明けということもあって、外国人観光客の姿が目立った。私が定宿にしているホテルは外国人観光客のツアーの団体が利用していたこともあり、8割近くが外国人だった。人力車ではそれほど多く見掛けなかったが、小舟のほうは外国人の姿の方が多いようだった。

細い路地に妙味有り

 倉敷川の両岸や道の両側に商店が並ぶ場所では観光客を溢れるほど見掛けるが、写真のような何もない路地には人影は疎ら。こうした場所にこそ町の良し悪しが表出する。倉敷では隅々に至るまで景観が整えられており、地域を挙げて「美観」を守っている点に好感が持てる。

 この地は全国的に知られる町になり、若い層も相当数、訪れるようになっている。その一方で年配者の姿も多い。「古き良き時代」が果たして実際に存在したのかは不明であるけれど、美観地区の現在を見る限り、そうした時代もあったのかもしれないという良い意味での幻想を抱くことができる。

メタセコイアと蔦の壁

 美観地区の隣にあり、倉敷紡績クラボウ)の工場があった場所に造られた「アイビースクエア」も人気の場所である。古い壁に蔦(アイビー)が絡み付いた景観は、白壁とは異なる印象を見る人に与える。白と緑と茶色の異なる姿が倉敷を訪ねる人々に強い印象を心に刻み付けるのである。

 私は美観地区側からこの場所に訪れたので、写真にあるメタセコイアの姿も目にすることができた。現在では至るところで目にすることができるが、少し前までは「生きた化石」と呼ばれた高木である。この樹木も幹や枝は茶色で葉は緑色であり、蔦の絡まる壁と同じ色彩なのがとても魅力的であった。

アイビースクエアは元クラボウの工場

 アイビースクエア内にはいろいろな店が並んでいるが、一部はホテルにもなっている。私は一度だけ利用したことがある。もちろん内部は他のホテルとさほど変わらないが、それでもレンガ壁がよく目に付き、ここがかつて工場に用いられた建物であったことを思い出させてくれた。

 なお、このアイビースクエアの敷地内に代官所跡が存在する。別の表現をすれば、代官所跡に工場が建てられたのだ。

鶴形山に鎮座する阿智神社

 先述したように、倉敷の市街の多くは浅海か干潟だった。が、写真の阿智神社は標高40mの鶴形山の山頂近くにあるので、古くから海上交通の守り神として崇められた。

 阿智の名は、4,5世紀に伽耶から渡来した阿知使主(あちのおみ)に由来する。半島から17県(あがた)の人々を連れてきて、吉備国などに機織りをはじめとする大陸の進んだ技術を伝えたとされる。

 写真から分かるように、境内には岩そのものを神として崇めている。これを磐座(いわくら)といって古神道における自然崇拝のひとつである。

 写真にはないが、本殿の裏手には「阿知の藤」と呼ばれる藤棚があった。満開前だったのでとくに掲載はしなかったが、アケボノフジとしては日本一の巨木で岡山県の天然記念物に指定されているそうだ。

神社境内から家並みを眺める

 標高38mの境内から美観地区の家並みを眺めてみた。このように、美観地区には歴史のある建造物がまとまった形で保存されているので、何度も散策しているはずなのだが、初めて見る路地と多く出会う機会がある。

雨の美観地区もまた良し

 私は美観地区にあるホテルに宿泊した。翌日は雨の予報だったが、まずはホテルの敷地につながった場所にある「大原美術館」を訪ねる予定だったので、とくに雨降りは障害にならなかった。写真のように倉敷川沿いのもっとも賑わいを見せるはずの通りにも人影はさほど多くはなかった。比較的早い時間なので、雨というだけあって出足が遅いだけかもしれないが。

人力車は商売にならず

 雨降りになってしまうと人力車を利用する人は少ないようで、あちこちで客待ちをする姿を見掛けた。写真のように、客を探すためか場所を移動する車夫もいた。

何故かデニムストリートは大人気

 倉敷川沿いにある「倉敷デニムストリート」だけは何故か混雑していた。倉敷市というより旧児島市は国産ジーンズ発祥の地とされている。児島は綿花栽培が盛んな場所であるため繊維の街として発展してきたこともあって、日本ではいち早くジーンズの生産に取り掛かったのだろう。児島は現在は倉敷市に属し、かつ児島よりも倉敷の方が通りが良いため、児島デニムではなく倉敷デニムを名乗っているのだと推察される。

大原美術館で名画に遭遇!!

 この日は大原美術館見物を予定していた。大塚国際美術館で『エデンの園』に出会って以来、遅ればせながら私の美術館通いが始まった。倉敷に、それも美術館の隣(同じ敷地)にあるホテルに泊まり、しかも美術館の入場券付きで予約していた。

 美術館に入る前に美観地区を散策したが、上に記したようにそれなりに強い雨だったこともあり、散策は早々に切り上げて美術館に入った。雨降りということもあり、美術館内は結構な混雑振りであった。

 大原美術館は、倉敷出身の実業家であり慈善事業家でもあった大原孫三郎(1880~1943)が設立した日本で最初の私立西洋美術館だ。慈善事業家として「大原奨学会」を運営していた彼は、現在の岡山県高梁市成羽町出身である児島虎次郎の絵の才能を見出し、奨学生のひとりとして財政援助をおこなった。

 児島は東京芸大飛び級で卒業し、大原の依頼を受けて西洋絵画の収集にあたった。もちろん、児島自身も画家としての能力を十分に発揮し、多くの名画を残している。

 1929年、児島が47歳の若さで死去したこともあり、大原はその翌年、児島が西欧で買い付けた数々の作品や児島の残した絵画を基にして「大原美術館」を開いた。

 この美術館にはモネの『睡蓮』、エルグレコの『受胎告知』、ロートレックの『マルトX夫人』などの名作が展示されていたが、私はさして感銘は受けなかった。

 が、館内の一角にあった児島虎次郎の作品群を目にしたとき、あの『エデンの園』に出会ったときに近い衝撃を受けた。大塚国際美術館は”本当の偽物”が展示してあるために撮影は自由だったが、ここでは撮影禁止のため、私が感動してしばしその絵の前に張り付いてしまった作品を撮影することはできなかったので、ここではその作品名を挙げるだけなのが残念だ。

 『里の水車』『朝顔』は今のところ、日本絵画では筆頭の作品だと個人的に思っている。もっとも、観賞歴が少ないので、これからまだまだ多くの名画を目にする機会があると思うが、これらの作品を超えるものにはまず出会えないと考えている。とにかく、光の扱い方が天才的なのである。

 私は物を立体的に認識する能力が欠落しているため、唯一、光の存在が欠損した能力を補ってくれるのである。それゆえ、上に挙げた児島の作品は光の取り入れ方が傑出しているため、私にも、その作品から多くの”物語”をイメージできるのである。

 大原美術館に入ったことは大収穫であった。児島虎次郎に出会えたことで、私の絵画に対する興味はいや増しになっただけでなく、今回の旅の後半には、児島の生誕地に造られた「高梁市成羽美術館」に立ち寄ったのだった。

◎笠岡でカブトガニに出会う

浅口市の三ツ岩

 大原美術館にて豊穣な時間を過ごしたことで倉敷を離れ、次の目的地に向かった。笠岡市にある「カブトガニ博物館」が興味深く覚えたため、そこに立ち寄ることにした。国道2号線を西に向かえば移動時間は短くて済むが、それでは単調すぎることから、途中から2号線を離れて南下し、瀬戸内海沿岸を走る県道47号線に出ることにした。

 途中には「沙美の浜」という洒落た名前の海岸線があるようだったが、小雨続きだったこともあって見晴らしは良くないために車を停めただけだった。その地で地図をよく見てみると「三ツ岩」という「名所」が寄島の地にあることが判明した。「外れ」の可能性は否定できなかったが、とりあえず立ち寄ってみることにした。

 地形からすると寄島は明らかに離れ小島であったはずだが、本来の海岸線から砂州が伸びたことで周辺を干拓して島とは陸続きになった。結構広い干拓地であったが、とくに利用されることなく、寄島近くにグラウンドと公園が整備されているだけでほぼ空き地になっていた。

 寄島は北東から南西に向かう細長い島で、北側は81m、南側は69mの山がある。その南西側の沖に、写真の三ツ岩があった。三つの岩はすべて幅15mで高さは10m。それが6mの間をおいて並んでいるのだ。花崗岩から成り立っているその岩へ干潮時には歩いて渡れるそうだ。

 生憎の天気のためにさほど綺麗には見えないが、明るい日差しを受けたときにはそれなりの見応えがあるように思えた。沖に突き出た寄島のさらに沖にあるため、瀬戸内海の海としては透明度が高かったことからそう考えられたのだ。 

カブトガニ保護の看板

 ずっと西に進んできた県道47号線は笠岡湾に突き当たると右に大きく曲がり、今度は湾内の「神島水道」と呼ばれる入り江の左岸を北上する。この水道は東の御嶽山(標高320m)と西に栂丸山(つがのまるやま、306m)をピークとする神島(こうのしま)との間にある。

 ただ、現在の水道はかなり幅が狭いが、神島の北側には広大な干拓地があるので、以前は相当な広さの干潟があったと思われる。この干潟が「カブトガニ」の生息地であった。

 カブトガニは食料にはならないために以前は厄介者扱いされてきたが、約4億年前から姿を変えずに現在まで生き続けてきたことが分かり、笠岡市では貴重な生き物として保護することになり、国の天然記念物に指定された。

 「生きた化石」とはいろいろなところで形容詞として用いられるが、この言葉が最初に使われたのはカブトガニについてだった。

この浜(神島水道)にカブトガニが生息

 写真のように神島水道には小さな島や入り江が存在するが、この場所の北側に前述した国が推進した広大な干拓地がある。そこには小さな空港や道の駅があるが大半は利用されず、荒地のまま残されている。しかもその干拓地の標高は-6mから-2mという海抜ゼロメートル地帯なのである。

 狭くなった神島水道に生息するカブトガニを守るべく、先の写真のように水道の浅瀬や砂浜での潮干狩りは「禁止」されている。

なかなか興味深かった博物館

 笠岡市では国の干拓事業のために激減したカブトガニの保護や育成、市民の啓発活動を推進するために1990年、写真の「笠岡市カブトガニ博物館」を設立した。カブトガニをテーマにした博物館は世界でもここだけにしか存在しないそうだ。

 建物自体もカブトガニの姿をモチーフにしているが、それだけでは集客力はあまり強くないと考えたのだろうか、隣には公園が整備され、そこには実物大の恐竜の模型が展示されている。

只今、包接(交尾)中

 カブトガニは水温が18度以上ないと活動しない。この辺りでは6月中旬から9月いっぱいまでが活動期で、それ以外の時期はやや深場の砂の中に潜って冬眠する。

 内陸性で泥の溜まった海底を好み、こうした場所は激減しているためもあって生息域は限られ、日本では笠岡市佐賀県伊万里市とが主な生息地になっている。

 カブトガニ命名されているがカニの仲間ではなく、私が大嫌いなクモの仲間(鋏角類)に属している。祖先は4億8千万年まで遡れることから「生きた化石」と呼ばれている。

生きた化石”の化石

 博物館には、写真のようなカブトガニの化石が展示されていた。カブトガニの仲間は現在、2属4種が発見されているが、日本には「カブトガニ」の1種だけが生息している。

博物館の隣にある恐竜公園

 先にも触れたように、カブトガニの祖先は4億8千万年前から生息し、一方、恐竜は2億4千年前から6600万年前まで(鳥類を除く)生息していたので、長い間、カブトガニと恐竜は同時期に活動していた。

 そうしたこともあってか、博物館の隣には恐竜公園が整備されており、また、博物館内にも恐竜の骨格などが展示されている。

 ここの恐竜は他に見られるような遊具として存在する訳ではなく、恐竜学者の協力を得て、細部にまでこだわり、かつ「実物大」に再現している。ただし、化石には色素は残らないので、体色だけは学者の想像によるものである。

 私が訪れたときには何組かの家族連れが見物に来ていたが、お目当てはカブトガニよりも恐竜の方であるように思えた。

博物館と首長竜

 博物館前には「海ゾーン」と名付けられた池があり、エラスモサウルスという首長竜が長い首を水面上に現わしていた。

福山市鞆の浦を散策

仙酔島に向かう市営渡船

 小雨模様ではあったが、私は宿泊地の福山駅前に直行せず、福山市の観光名所のひとつである「鞆の浦(とものうら)」へ向かった。その際、福山市街地は通らず、笠岡湾を埋め立てたまま半ば放置状態にある干拓地を通った。先に触れた海抜ゼロメートル地帯で、かつてはカブトガニの一大生息地であったことからなのか、この地は「カブト」という字名が付けられていた。

 鞆の浦は、福山と尾道の間にあって瀬戸内海方向へ大きく突き出た沼隈半島の南端に位置する。風光明媚な場所で、8世紀半ばの『万葉集』に8首登場するなど古くらか知られた場所であった。

 とりわけ、写真にある仙酔島方向の景観が美しい。その島には福山市の市営渡船が通じているが、その船は大洲藩所属で、坂本龍馬率いる海援隊が運行していたときに紀州藩の明光丸と衝突し、鞆の浦まで曳航中に沈没した「いろは丸」を模している。

 私が仙酔島を眺め始めていたとき、「平成いろは丸」は島に向かう最中であった。乗客は若い女性がひとり。画になりそうな光景だったことから私はシャッターを押した。

”対潮楼”がある福禅寺

 写真の福禅寺は、江戸時代に朝鮮通信使の一行が立ち寄って休息を取った場所である。写真のように高台にあって瀬戸内海に対しており、見晴らしのとても良い場所だ。

対潮楼に上がる

 福禅寺の瀬戸内海側は「対潮楼」と名付けられている。朝鮮通信使はこの景観に触れて「日東第一形勝」、すなわち日本で一番の景勝地であると言ったとされている。

対潮楼から仙酔島を眺める

 私も対潮楼に上がり、仙酔島をはじめとする島々の姿を眺めた。日本一美しいかどうかは別にして、確かに見応えのある景色であることは確かだ。

 実は、私は何度かこの仙酔島に渡ったことがある。ただし、市営渡船利用ではなく、福山港から磯釣りのための渡船で渡り、この島でクロダイ釣りをしたことが何度かあった。潮通しが良く、しかし、沖が荒れ気味でも内湾に近いために波静かなので、いつでも竿が出せるという魅力がある島なのだ。

 もっとも、島の南側で竿を出しているので対潮楼からは見られることはなかったが、市営渡船で島を訪れた人たちにはしっかり見られた。

鞆の浦には狭い路地がたくさんある

 鞆の浦には写真のような細い路地がたくさんある。なにしろ、福山から尾道に向かう主要な県道47号線ですら、市街地の一部では車がすれ違えないほど狭いのだから、市街地内の路地は車自体が進入できない道がたくさんあっても不思議はない。

 それらの道の一部は観光地にもなっており、多くの賑わいを見せるが、私は写真のような変哲のない路地が好みなのだ。

鞆の浦港の眺め

 瀬戸内海の中間に位置する鞆の浦は、江戸時代には港町として、潮待ち港として栄えた。現在ではその地位は尾道港に奪われたが、そのことがかえって江戸時代の風情を今に伝えることになっている。

 写真にある常夜灯はこの港のシンボル的存在であり、観光客がもっとも多く集まる場所だ。

 私はその場所には立ち入らず、対岸からその姿を眺めた。岸壁の足元にある海を覗くと、50センチほどのクロダイが海藻を食んでいた。この魚の姿に触れたとき、仙酔島で竿を出していたときの様子が鮮明に蘇ってきた。

福山城に初めて登城

ホテルの窓から城が見えた

 鞆の浦見物を終えて、この日の宿泊地である福山駅南口に向かった。途中で鞆の浦の磯へ向かう渡船の発着所になっていた福山フェリー港に立ち寄ってみたが、以前よりも一層、閑散としていた。さらに駅近くにある釣り仲間が経営していたビルの前を通ってみたが、テナントはほとんど撤退していて、彼が経営していたスナックも閉じていた。まったくもって、芭蕉の言葉ではないが、月日は百代の過客である。

 ホテルは観光客で大いに賑わっていた。禁煙室を希望していたが生憎の満室で、その代わり、最上階の広い部屋、おまけにキャッスルビュー側を用意してくれていた。

 写真は、ホテルの部屋からの眺めである。写真にはないが、ホテルと城との間に福山駅がある。

初登城

 雨が収まって来たようだったので、福山城まで出掛けてみることにした。ホームは高架上にあり、駅下には商店が並んでいた。その間を通って駅の北側に出るとそこに本丸に通じる坂道があった。

 坂を上ると筋鉄御門が見え、それをくぐると本丸広場に出る。天守は城主の水野勝成が造らせたもので、大規模な近世の城郭としては最後期になるもので1622年に竣工した。

 が、残念なことにアジア太平洋戦争で米軍の空爆によって焼失してしまった。そのため、現在の天守は1966年に造られた鉄筋コンクリート製である。中は博物館になっており、上層まで上ることができる。

八方よしの松

 博物館には入らなかったが、その周囲を散策してみた。一番気に入ったのは写真の「八方よしの松」だった。幹や枝が変化に富んでいるため、どの方向から見ても姿形は異なり、しかもそれぞれに美しさを見て取ることができるところから、そのように名付けられたそうだ。確かに名前負けしていない見事な肢体だった。

ライトアップされた城

 城内をうろついているときにまた雨が降り始め、今度はかなり強い降り方になってきた。そこで、城から引き上げホテルに戻った。

 室内からは椅子に腰掛けていても城郭がよく見えた。雨は止みそうになく、広場で遊んでいた子供たちも皆、姿を消した。

 私は溜まりに溜まった写真を整理することにした。それには城の姿が邪魔になるため、カーテンを閉めた。

 写真整理がひと段落したことから、雨の様子を伺うためにカーテンを開いた。明日は大好きな尾道しまなみ海道に出掛けるので、天気が気になったからである。

 そこに飛び込んできたのが、ライトアップされた福山城の姿であった。幻想的であり、その一方で玩具にも見えてしまう不思議な佇まいにしばし目を奪われた。

 キャッスルビューの部屋を開けてくれたことの感謝のために、夕食は駅中にある「すき家」ではなく、ルームサービスを利用することにした。それほど高額のものではなかったのだけれど。