◎久し振りの安曇野
府中から中央道などを使えば3時間足らずで安曇野に出掛けられるので、以前は数年に一度はその温かさに包まれた姿に触れるだけのために訪ねたものだった。10代の頃は何度か黒部ダム(当時はクロヨンと呼ばれていた)に出掛けたので、安曇野は通過するだけだったが、臼井吉見の『安曇野』という小説を読んでからは、安曇野そのものが目的地となったことから、それ以降はダム巡りは2度しかしていない。今回は、安曇野と糸魚川を巡るのが主眼の旅だったこともあり、まずは安曇野が最初の目的地となった。
安曇の名は、746年の「正倉院御物の布袴銘」に「信濃国安曇郡前科郷戸主安曇部真羊 調布一端」とあるのが初出である。ただし、安曇という地名は全国各地にあり、大和国、摂津、伯耆国、筑前国、近江国(ここでは”あど”と読む)、美濃国(ここでは厚見)、三河国(ここでは渥美)など。また、氏族としては山城国、淡路国、讃岐国、播磨国、隠岐国、豊後国、筑前国、武蔵国などに見られる。
安曇氏の出自としては、『新撰姓氏録』(815年)に「海神綿津豊玉彦(わたのかみわかつとよたまひこ)の子「穂高見命(ほたかのみこと)の後なり」と記され、『日本書紀』には「海人の宰(みこともち)に任じられた」とあるので、海人族であるのは確かなようだ。元は出雲に住んでいたとのことなので、朝鮮半島から渡来した氏族の末裔というのが事実に近いと考えられる。
そんな海人がなぜ、信濃に移り住んだのかは謎であるが、おそらく糸魚川市にある姫川を遡って、北アルプスの豊富な水が生み出した複合扇状地や盆地に移動したのだろう。このルートは「塩の道」としても良く知られ、かなり前に本ブログでも、このルートで日本に初めて馬が持ち込まれたということを紹介したように、日本海と内陸部、さらに武蔵国や美濃国を結びつける重要な道だったのである。そうした点から、安曇族の一部が、すこぶる景観の良い、そして水に恵まれた安曇野の住み着いたのだろうことは容易に想像できる。
中央道・安曇野インターを下りて、まずは安曇野を象徴する山である常念岳に挨拶するために北アルプス方面に向かったのだが、その途中にあった「安曇野水車公園」がいかにも安曇野の特徴のひとつをよく表現しているように思われたので、私はその場所に車をとめ、公園やその近辺を少しだけ散策した。
大小、様々な水車が所狭しと並べられていたが、私が一番気に入ったのは水車とは全く関係のない、シロクマくんと、ハロウィンに使うであろうカボチャを掲げたサルとであった。私にとって、サルはライバルであると同時によき隣人?なので、その姿に触れただけでも、えも言われぬ嬉しさがこみ上げてくるのである。
公園の近くに展望の良さそうな細い道があったので、常念岳(2857m)と対面するために歩いて移動した。
前常念岳に春、徳利を手にした常念坊という雪形が現れることから「常念岳」の名前が付けられたそうで、この雪形が現れたときにこの地域では田植えが始まると言われている。
北アルプスの山々のうちでは登りやすい山としてよく知られており、ここで登山の基礎を身につけてから、槍ヶ岳などの本格的な山に挑むのがこの地の人々の仕来りだという話を何度か聞いたことがある。もっとも、私には山登りをする趣味はないので、撮影地点から比高が2209mもある常念岳には、たとえ初心者向きの山であっても登ることは決したなかったのだが。
ただし、ピラミッド形のピークをもつこの山は安曇野のどこにいてもすぐにその存在が分かる。まさに、安曇野のランドマークなのである。
信濃なる 有明山を 西にみて こころほそ野の 道を行くなり 西行
ひと声の ゆくへもみえて 有明の 山ほととぎす 月に鳴なり 塙保己一
ほのぼのと たかねの雪も あらわれて 朝日になりぬ 有明の山 柳田国男
有明山(2268m)は北アルプスの山としては標高は低くその姿も単調なので、登山者にはまったく興味の対象にはされていないが、上のように歌人や文人には数多く歌われている。また、この山を詠んだ漢詩も三十三編もある。
こうしたことから、常念岳が安曇野のランドマークだとすれば、有明山は安曇野の心の山なのである。もちろん、信仰の対象にもなっており、修験者の山としての歴史も有している。つまり、里がこの世の世界であるのに対し、北アルプスの山々は異界であり、その入り口に有明山が存在しているのである。
そう思うと、常念岳は点として存在するのに対し、有明山は面として我々の前に広がっているのである。今回、この山の姿にじっくりと触れたことから、私にとって北アルプスで好きな山を挙げよと問われた際には、かつてなら槍、穂高、白馬、大天井、鹿島槍と答えていたが、今回以降は有明山と即答するはずだ。絶対に。
荻原碌山(本名は荻原守衛、1879~1910年)の存在を知ったのは臼井吉見の大作『安曇野』を読んでからである。彼の芸術活動を支えた相馬愛蔵・黒光夫妻を知ったのも同書である。しかし、相馬夫妻が開いた「新宿中村屋」は小さい頃からよく知っていたが。
府中人は新宿に行くことを「東京に行く」と言っていた。東京はあくまで多摩の田舎ではなく、立派なデパートや店舗がある新宿や銀座でなければならなかった。そして、カレーや中華まんは中村屋のものでなければならなかった。
そんなことから、『安曇野』という作品には大いに知らされることが多かったけれど、やはり一番に関心を抱いたのは荻原碌山の生き様であった。とはいえ、私には美術鑑賞力が全くないので、碌山美術館の存在を知ってはいても、その中に入って碌山や彼の芸術活動を支えた高村光太郎の作品群をわざわざ目にするまでには至らなかった。
しかし、いつまた安曇野を訪れる機会があるかどうかは分からないので、私の鑑賞眼は度外視して、碌山の作品に触れてみることにした。
碌山の彫刻作品はすべて石膏で造られていたが、1958年に碌山美術館を開館するにあたり、そのすべての作品をブロンズ化した。そのため、彼の代表作のひとつである「労働者」という作品も、写真のように野外に展示することが可能になった。
美術館はいくつかの棟に分かれているが、碌山の作品は写真のような教会風の建物の中に収められている。
萩原碌山(萩原守衛)は安曇野で生まれ少年期をこの自然豊かな土地で過ごした。16歳の時に心臓病で倒れたこともあるが、その後は地元の名士であった相馬愛蔵が結成した東穂高禁酒会に入り、多くの人との交流が生まれた。
1897年、相馬愛蔵は東京から嫁をもらった。その人物こそ、碌山の生き方を決定づけた相馬黒光であった。彼女は明治女学校を卒業したばかりで、相馬家に嫁いだ際にはオルガンや油絵用具を持参するなど、田舎の生活にはおよそ似合わない出で立ちであり、その姿は碌山にとって衝撃的だったようで、その黒光との出会いが碌山の心に大きな影響を与えた。人の出会いはすべて偶然でしかないが、その出会いが生き方を変えてしまうほどまでの波紋を与えてしまうとき、それは運命と呼べるのかも知れない。
1899年、碌山は洋画家を志して東京に出た。そして本郷にあった不同舎に入塾した。そこには、のちに若くして日本の美術史上の大傑作を次々と生み出した青木繁(1882~1911年)がいた。碌山は31歳の若さで死没したが、青木繁はさらに3歳若い28歳でこの世を去った。1910年に碌山が、翌11年に青木繁が亡くなった。このことは日本の美術界にとっては大損失であったことだろう。
碌山は1901年にニューヨークに渡り絵画の技法を深め、さらに03年にはパリに渡った。そこでロダンの「考える人」に出会い芸術の持つ奥深さを知ると同時に、絵画から彫刻へと転身することを決断した。
06年にニューヨークに戻った碌山は、彫刻の技法を習得するためには人体学を深める必要性を痛感し、その学習も専念した。その甲斐があって、パリで開催されたアカデミー・ジュリアンの展覧会では5回連続、彫刻の部で入賞した。
アカデミー・ジュリアンでの最終作品が写真の「坑夫」であった。第3回文部省美術展覧会で賞を得たこの作品を高村光太郎は激賞した。「この展覧会に来て、初めて一箇の芸術作品に接したような感じがした……この作品には人間が見えるのだ」と高村はのちに語っている。
文覚(1139?~1203?)は俗名を遠藤盛遠といい北面武士として鳥羽上皇に仕えていた。しかし、同僚の妻に横恋慕し、その同僚を殺害しようとしたが誤って妻を殺してしまった。そのことが切っ掛けとなって出家し、真言宗の僧となった。
空海を崇拝していた文覚は空海の旧跡で荒廃していた神護寺や東寺の修復に努めた。が、後白河法皇の逆鱗に触れたために伊豆に配流された。そこで源頼朝に出会い決起を促したとされている。
碌山が帰国後の第一作として文覚を選んだのは、僧侶としての彼ではなく、同僚の妻に横恋慕した遠藤盛遠が、恩人の妻である相馬黒光に愛情を抱いてしまった自分の生き写しのように思えたからであろう。
そうした罪意識と苦悩を、碌山は文覚に見出したことから彼を彫像の対象に選んだのであろう。その点で、文覚という作品は自分の心を外面化したものであると考えられる。そう思うと、この文覚は頼朝に決起を促した存在としてではなく、心に罪悪感を抱き続けた人間として表現されている。
デスペアとは絶望の意味である。碌山が愛した黒光には夫や子供がいて、その夫には愛人がいる。さらに、黒光は次の子を孕んでいた。こうした情況に碌山は苦悩し続けながら作品を生み出そうとしていた。ある面、彫刻に没入することが碌山に取って絶望からの逃避行動であったかもしれない。
これをキルケゴールの有名な言葉を使って(といっても、キルケゴールが言いたかった本来の意味とはほとんど重なってはいないような気もするのだけれど)表現するならば、このデスペアを製作していた時の碌山はまだ「絶望して自分自身であろうとしない」状態だったのだろう。それゆえ、モデルの女性は顔も体も完全に伏してしまっているのである。
これに対し、碌山の最後の作品である「女」は顔を天に向けている。これは「絶望して自分自身であろうとしている」状態だと表現しうる。彼は自分の死がそう遠くないことを予期した上で、この作品を造り上げている。
デスペアも女も言うまでもなく黒光をモデルにしている(想像上で)が、実は、碌山の内面がモデルであることは論を待たない。
私はこの二つの作品を前にして、かつて本ブログで大塚国際美術館にて『エデンの園』という絵画と対面し、生まれて初めてというべき芸術に対する感銘を受けたということを取り上げたが、そのときと同じぐらいの衝撃を受けたのであった。
ただ、このことは、臼井吉見の『安曇野」を何度も読み返していたことで、碌山と黒光との関係を知っていたという点も大きく作用していた点で、『エデンの園』のほうが、衝撃の継続性は長続きしているのだが。
ともあれ、遅ればせながら、「碌山美術館」に立ち寄ったことだけを取り上げても、私の安曇野訪問は大収穫であったと十分に表明できるのである。
◎早春賦の碑と御宝田遊水池(ごほおうでんゆうすいち)
学校での音楽の授業はまったく関心がなく、教科書に出てくる歌をきちんと歌ったことは一度もないが、なぜか、この『早春賦』だけは今でも歌うことはできる(一番だけだけれど)。そこで、穂高川の右岸にこの早春賦の歌碑があるというので立ち寄ってみることにした。
この歌の詞は吉丸一昌という人物が生み出したそうっだ。歌が出来たのは1913年とのことなので、今から100年以上も前のことだ。吉丸は旧制中野県立大町中学校の校歌の作詞を依頼されたことから安曇野を訪れたのだが、その時の体験がこの詞を生む契機となった。その後、この作品は歌は大町実科高等女学校で愛唱歌として歌い継がれるうちに全国に広まることになった。
それだけでなく、これも誰もが知っている『知床旅情』は、この歌との類似性が指摘されるに及んで、さらに知名度は上がった。
歌碑のある場所には大きな石が3つ置いてあり、それぞれ、歌詞と楽譜と由緒書が刻んである。
周囲は小公園として整備され、ベンチなどが置かれているが、早春賦そのものとはあまり関係がなさそうなおじさんたちがそこを占領していた。この歌碑が目当でなければわざわざ訪れるような場所にあるのでないため、それも致し方ないのかもしれない。
それにしても、安曇野はどの場所に居ても絵になるようなところばかりであるのが羨ましいかぎりである。
次は、近年ではもっとも訪れる人が多いと思われる「大王わさび農場」に向かう予定ではあったが、近くに「御宝田遊水池」があることを地図で発見したため、少しだけ立ち寄ってみることにした。
犀川の右岸にあるここには毎冬、白鳥が飛来することから「犀川白鳥池」と同じぐらい人気のある場所らしいが、5月には白鳥は存在せず、その代わりに、土手にはヘビがたくさんいた。アユ釣りをしているとよくヘビが川を渡る姿を目にするので、この長虫の存在には免疫ができているために特に逃げ出したいとは思わないが、かといってお友達にもなりたくはない。
白鳥は存在せずとも、北アルプス方面を眺めれば、その美しさに十分すぎるほど満足できる。水と豊かな緑、そして白雪を頂いた山並み、本当に贅沢な自然である。
◎大王わさび農場を歩く
今や、安曇野では一番の集客力を誇っているのが、写真の「大王わさび農場」である。年間では120万人が訪れるそうだが、私が出掛けた日には外国人観光客が数台のバスに乗って押し寄せてきていた。
入口を撮影したときはたまたま入場客が途絶えた刹那だったので、いささか閑散としていると思われるかもしれないが、このあとすぐに団体客が到着したのだった。
わさび農場は入場無料なので、とくに入場券を購入する必要はなく、多くの場所に立入ることができる。もちろん、わさび田の中に入ることはできないが。
写真は、クリアボートで透明度の高い蓼川(たでかわ)を行き来する(乗船客が全員で漕ぐ)ものだが、この日は前日が大雨であったために隣の万水川からの影響を受けて濁り水が入り込んできていたことから、透明度は大きく低下していた。そのため、この一時間後にボートの運行は中止となったようだった。
確かに、透き通った流れを期待して大枚1200円(繁忙期は1400円)を払い、かつ自分で漕ぐ必要のあるボートを、多摩川並みの透明度の川を行き来するのは面白くもなんともないはずだ。
一方、わさび田の中を流れる水は100%が湧水なので、写真のように透明度は極めて高い。わさびは年間を通して12度程度の水温でなければ育たないため、当然のごとく他の川の水が入り込まないようにしっかりと護岸されている。
わさび田から流れ出た水は100%湧水なので、田の外に出ても写真のように相当に高い透明度を保持している。先に挙げたクリアボートが行き来する蓼川の濁り度とは大きく異なっている。
暖かい陽射しを受けてしまうと湧水といえどもわさびの株の間を流れているうちに水温が上がってしまうため、田の一帯は黒い遮光シートに覆われている。約60万株がある(収穫量は毎年130トン)わさびを覆うシート群の姿もまた、ある面では見応えがある。
5月はこいのぼりの季節でもあるので、写真のように「幸いのかけ橋」の南側にはたくさんのコイたちが空に向かって泳いでいた。
大王わさび農場は、1917年に開拓がはじまった。砂利ばかりの荒れ地を整備して、23年に古畑、26年に大王畑、35年に新畑が完成し、約15万平米の敷地を有する日本最大のわさび畑が完成した。
わさびには周年、約12度の水が必要となるが、この荒れ地には北アルプスに育まれた豊かな伏流水が多くあったため、開墾さえすればその水を利用してわさび田を造ることができるとこの地の人々は信じて作業を続けたのである。今では年間に約120万にが訪れ、安曇野随一の観光地になっている。
「大王」の名は、古くから安曇野の地にいた魏石鬼(ぎしき)八面大王に由来する。坂上田村麻呂に倒された大王はあまりにも強かったため、その遺体はバラバラにされてあちらこちらに埋められたそうで、このわさび田のある場所には胴体が埋められたと言われている。
中央政府には忌み嫌われた大王であったが、安曇野では先に挙げた有明山を中心にして古くから安曇野一帯では篤く信仰されていた存在であったらしい。坂上田村麻呂といえば「蝦夷征伐」でよく知られているが、安曇野も元を辿ると半島から渡来した出雲族の末裔なので、中央集権化には反対をしていたのかもしれない。
ともあれ、八面大王は安曇野の地では愛された存在でもあったため、その胴体が埋まっているとされるこの地に「大王」の名が付されたのは、けだし当然のことと思われる。
大王屈のすぐ隣には、大きな岩が積み上げられた高台がある。「大王さまの見張台」と名付けられたこの高台は展望がよく、ずっとわさびたちの生長を見守っている。
一部に遮光シートがめくられている場所があったので、よく育っているわさびの姿を見ることが出来た。極めて美しく澄んだ水に守られながら、わさびたちは立派に生長し、やがて私たちの食生活に良い意味での刺激を与えてくれるのである。
私はわさびそのものは購入しなかったものの、わさび味のソフトクリームを食してみた。ほのかにわさびの味がするだけでなく、傍らには生わさびが添えられた美味しいソフトだった。日差しの強い日だったこともあり、このソフトクリームは心も体もソフトに癒してくれた。
写真左手に見える鳥居から入るのが通常なのだろうが、駐車場は境内の脇にあることから、写真の場所から境内に足を踏み入れた。信仰心のない私には、いわゆる仕来りは通用しないのだ。
穂高神社は穂高見命(ほたかみのみこと)を御祭神とし、海神(わたつみ)族を祖神(おやがみ)とする安曇族が開いたとされている。奥宮は上高地、嶺宮は奥穂高岳山頂にあるとのこと。なお、上高地(私も行ったことがある)や明神池は観光地として絶大な人気があるが、そこは穂高神社の神域であり、上高地の名は「神垣内」を語源とするそうだ。
本殿は、写真の拝殿の奥に三殿が並んでいる(そうだ)。中央に「穂高見命)、左手に綿津見命、右手に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が鎮座している。
この三殿は二十年ごとに一殿ずつ造り替える式年遷宮を1483年以降より欠かさずおこなっているとのことだ。
鳥居と拝殿の間には、写真の立派な神楽殿がある。様々な行事がここで行われるようで、四方から内部を眺めることができる。造り自体は見事なもので、極めて存在感を感じさせるものであった。私は拝殿はやや遠目から眺めただけだが、この神楽殿はしげしげと見入ってしまった。
拝殿の西隣には神池があった。前日の大雨が影響してか、池の水が相当に濁っていたのが残念だった。北アルプスの天然水が流れ込んでいるはずなので、透明感を抱かせるものであってほしかった。
若宮社とは通常、本宮の摂社・末社として主祭神の御子を神に祀るものを言うが、ときには、非業の死を遂げた怨霊を慰め鎮めるために祀った社を言う場合もある。
この若宮は後者の意味を有するもののようで、天智天皇の命によって水軍を率いて朝鮮半島に渡り、白村江の戦いで戦死した「阿曇比羅命」を祀っているとのことだ。
安曇野と言えば「双道体道祖神」が多いことでもよく知られている。確かに田んぼ道を歩いていると石造りの小さな道祖神によく出会うし、古い道を車で走っていてもそれらを見掛けることも多い。
この神社には、写真のようにかなり大きなステンレス製の双道体道祖神が置かれていた。「松本平から安曇野にかけての地方ほど、道祖伸信仰の盛んなところはない」という言葉通り、道祖伸は安曇野を象徴する存在のひとつである。
◎国営アルプスあずみの公園
常念岳に源を有する烏川が生み出した扇状地の扇頂付近の緩やかな斜面を利用して整備されたのが「国営あるぷすあずみの公園・堀金・穂高地区」である。ここを訪れるのは今回が2度目であるが、一度目は敷地があまりに広大な割には山々の姿を眺める場所が少ないためにすぐに退散してしまった。が、今回は安曇野では最後に訪れる場所となったことから閉園時間まではあまり余裕はないものの入場してみることにした。
ただその前に、公園の少し上流付近に「人面岩」なるケッタイな自然の造形があるというので、公園に入る前に林道を少し進んで眺めてみることにした。
川の左岸から右岸側の岩に「人面」らしき姿があるとのことだったが、私にはどう見てもただの岩にしか見えず、その姿から「人面」を見出すのは困難に思えた。ゲシュタルト的に言えば、一度見出すことが出来さえすればあとは「人面」にしか見えなくなるはずなのだが、十分ほど眺めても無理だと分かった。ともあれ、写真撮影だけはしたので、もしかしたら、時間を経れば突然、人面を見出すことができるかもしれない。
烏川の水を利用して、水のある豊かな広場が演出されている。この公園は「自然と文化に抱かれた豊かな自由時間活動の実現」がテーマになっているそうだ。確かに、たっぷりと時間をとってのんびりと園内を散策すればその「豊かさ」にめぐりあうことは可能なように思われたが、セッカチな私には、それを見出すのは困難なように思われた。
ここの上部域には「段々花畑」が整備されており、いろいろな種類の花が植えられているのだが、春の花の開花は終わり、花畑では夏の花の準備に忙しいようで、苗の植え替えを大勢の人がおこなっていた。仕方なく、最下部にある池を巡ってみたのだが、残念ながら地元の公園にも咲いているような花にしか出会うことはできなかった。
ただ、段々花畑の隣には、写真のような豊かな雪解け水が、段々に造られた水路を伝って下り落ちていた。この水の多くは常念岳が抱いていた雪が解けたものであることを思うと、こればまぎれもなく安曇野の天然水であって、この水が荻原碌山や相馬黒光の生活を支えていたのだということに思いを馳せることができた。
その思いが想念されただけでも、この公園に立ち寄った甲斐があったということを実感した。