◎仁科三湖
私は糸魚川市を目指して北へ進んだ。安曇野、そして高瀬川が開析して造った大町の平地を過ぎると今までの開けた道とは異なり、道の左右からは山が迫ってくる。その先にあるのが、木崎湖(標高760m)、中綱湖(819m)、青木湖(825m)のいわゆる仁科三湖である。
私の友人は、よく生物の調査でこの三湖を訪れたらしいが、私の場合はただ国道148号線を北に進むばかりで、立ち寄ったことは一度もなかった。が、今回は少しだけ時間的な余裕があるし、友人からは何度も三湖の話を聞かされていたこともあり、このままその姿をしっかりと見ぬままで死んでゆくのも情けない話なので、少しばかり寄り道をして、それらの姿に触れてみることにした。とはいえ、三湖とも国道からはそう遠くない場所にあるので、「寄り道」といったほどの時間は要さないのだが。
「仁科」の名は、木崎湖の南に小さな「仁科郷」があるばかりで、それ以外にとくにこの三湖に仁科の名を付する理由は不明だったが、いざ調べてみると理由は意外に簡単明瞭であった。伊勢神宮領仁科御厨の荘官であった仁科氏が、かつてこの地域を支配していたからとのことだ。
もっとも、仁科氏が何故仁科を名乗ったのかは不明のままだ。「科」は傾斜地を意味し、実際、蓼科や明科、豊科など長野県には科の付く地名は多い。さらに言えば、信濃の「信」だって、もともとは「科」を用いていた。
ただ、「仁」のほうは定かではない。一般に「仁」といえば儒教の最高徳目を現し、さらに「人」や「果実の核」を意味することもある。「真心や思いやりのある傾斜地」では何のことかさっぱり分からない。
仁科三湖はかつて「断層湖」と考えらえていた。ここにはあまりにも有名な「糸魚川静岡構造線」(糸静線)が走っているからである。しかし、近年の研究では、農具川が度重なる崖崩れによって埋め立てられた「堰止湖」であると考えられている。
仁科三湖の周囲にはキャンプ場が多く、水遊びや釣り客で賑わうそうだ。雪解け水や伏流水が多く流れ込むこともあって透明度が高い湖だと聞いていたが、私が見た限りでは噂とは異なり、どこにでもある湖と同じ程度だと思えた。また、標高の高い場所にある湖としての「神秘性」も感じられなかった。
それでも、周囲には緑が多く、なにより、ほど近い場所に北アルプスの峰々が連なっていることから、すこぶる景観の良い場所もあったことは事実である。
写真は農具川で、青木湖に源を有し、中綱湖、木崎湖を結んで、大町市の南端で高瀬川に合流する。その高瀬川は安曇野の明科付近で犀川に流れ込み、その犀川は長野市内で千曲川に、その千曲川は新潟県に入ると信濃川に名前を変える。ということは、農具川は信濃川水系に属し、その三次支川ということになる。
仁科三湖ではもっとも大きく、さらにもっとも北に位置する青木湖畔からは北アルプスの姿がよく見えた。私には山の名はよく分からないが、位置関係から写真にある雪を抱いた峰は白馬岳である可能性が高い。
◎白馬三山を望む
次の目的地は小谷村(おたりむら)だった。ただし、途中にとても良い景色に触れられる場所があるので、国道148号線をそのまま進まず、大糸線の飯森駅のすぐ先にある交差点を左折して、県道33号線(白馬岳線)に移動して八方尾根スキー場方向に進んだ。
私はスキーはまったく行わないので、この周辺にあるスキー場に足を踏み入れたことはないが、兄や姉は若い時分によく出掛けていたので、八方尾根や岩岳、栂池(つがいけ)の名はしばしば耳にしていた。
スキーに全く関心がない私が、なぜ八方尾根方向に寄り道をするかというと、上の写真にある景色を眺めるためである。八方尾根と岩岳とをつなぐ道路の途中に松川が流れていて、その川に架かる「白馬大橋」(標高758m)からの景観がすこぶる素敵であることを今から10数年前に知った。以来、特別に急ぎでない限り、糸魚川方向に進むときか糸魚川から安曇野方向に進む際には必ずと言って良いほどこの橋に立ち寄っているのである。
橋の上から白馬三山(左から白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳)が松川の流れの上に浮かんでいる。生憎、大雨の後だったために川の流れは白濁していたが、晴天が続いた日に橋の上に立つと、極めて透明度の高い流れと美しい傾斜を有する稜線とのコントラストに圧倒されるのだ。
もちろん、橋の上に車を駐車するわけにはいかないので、橋の両詰めにある駐車スペースに車をとめ、橋上だけではなく、河原に降り立ってこのパノラマに接するのである。本項の冒頭の写真は川の右岸から川と山を眺めたものだ。
さらに八方尾根方向を眺めると、写真では分かりづらいが、パラグライダーがゆったりと空を旅している姿が見て取れた。私の場合、そのパラグライダーを見ると、今では必ず、『愛の不時着』を思い浮かべてしまうのだが。もっとも、ここから北朝鮮まで飛んでゆくことはあり得ないだろう。
◎塩の道(千国(ちくに)街道)を行く
「敵に塩を送る」という言葉は誰もが知っており、しかも送った人物と送られた人物も、もちろんよく知られている。しかし、その塩が送られた道が、この項で取り上げる「塩の道」(千国街道、松本街道、糸魚川街道、安曇野街道、仁科街道)であったことはあまり知られていない。
もっとも、今日では上杉謙信が武田信玄に塩を送ったということは後世の作り話であるということが定説化しているので、あたかも事実であったかのように話をすると失笑される蓋然性は高いので、あくまで「なんちゃって話」に留めて置きたい。
しかし、糸魚川から松本盆地まで塩が送られていたことは事実であり、おそらくそれは数千年前からおこなわれていたはずである。なぜなら、日本では岩塩が産出されることは滅多にないため、内陸に住む人々(縄文人?)は海辺の人々から塩を調達する必要があったからである。
上に挙げたようにこの塩の道は「千国街道」として知られているが、2002年に「松本街道」として国の史跡に指定された。個人的にはこれはとても残念なことだと思うが、この道を全国に広めるためには「千国」よりも「松本」のほうが遥かに知名度が高いためにやむを得ない措置だったのかもしれない。
それはともかく、私は白馬大橋を離れたあと、この塩の道の一端に触れるべく、栂池(つがいけ)から県道433号線(千国北城線)を「千国の庄」方向に進んだ。途中で「この先工事中のために通行止め」との標識があったが、その通行止めの箇所がどこだか分からなかったので、かまわずにそのまま進んだ。
まもなく、「牛方宿」(標高756m)という標識が目に入り、ひとつ上の写真にある「牛方宿」とかかれた古い建物(1800年頃のものらしい)と、上の「塩倉」と書かれた建物(幕末頃のものらしい)が見えたので、その傍にあった空き地に車をとめて見物することにした。
「牛方宿」は宿場の名前ではないようで、牛方、つまり牛の背中に塩の入った2俵を積んで山道を進む人と牛のための休息所(宿泊所)を言うらしい。この辺りは沓掛(くつかけ)という地名なので、あえて宿場名を言えば「沓掛宿」となるようだ。
塩の道は遊歩道としてよく整備され、近年ではハイキング客が多いらしいが、道はともかくとして往時を偲ばせる建物は案外少なく、千国街道にある建物としてはよく保存された貴重な建物だとのことだ。
人間は寄棟造りで、間口が6間、奥行きが10間の牛方宿に泊まり、牛と塩は塩蔵に置かれたそうだ。塩蔵の中は見られなかったが、1階に牛が、2階に塩の入った俵が置かれたらしい。
すぐそばに写真にある「塩の道」の標識があったので、少しだけ歩いてみることにした。
写真では分かりづらいが、結構な斜度のある山坂道なので傾斜のきつい場所では牛が、傾斜の緩い場所では馬が使われたそうだ。もっとも、雪のない時期(1年の半分は雪道となる)は牛や馬を用いたが、積雪の時期は人が塩俵を担いで街道を行き来したとのこと。なお、塩俵は1俵で47キロの重さがあったというから大変な重労働であった。
塩の道を使って内陸に塩や海産物を運ぶ人を歩荷(ぼっか)という。かつて歩荷は「かちに」と訓で読まれていたそうだ。なお、馬や牛を使って荷物を運ぶことを「駄荷」と呼ぶとのことだ。
歩荷と同じように荷物を背負って運搬する人に強力(ごうりき)がいるが、現在ではおもに登山者のための荷物を運ぶ人をそのように呼んでいるようだ。また、歩荷は地域によって他の名前で呼ばれることがあり、「丁持ち」「持子」「オネコ」「サンド」「仲歩」「物荷」「棒架」「北荷」などが知られている。
いずれにせよ、険しい道を重い荷物を背負って進む歩荷の安全を祈願するためか、道の随所に写真のような道祖神が置かれていた。
◎千国の庄資料館
千国の名は、現在では小谷(おたり)村のいち字名に過ぎないが、かつては皇室と関係の深い六条院領・千国庄が置かれていたこともあり、姫川上流一帯ではもっとも開けた場所であった。そのためにここには政所が設置されていた。その後、千国街道が整備され、北回り船が糸魚川に立ち寄るようになってからは数多くの物資が千国街道を通って松本盆地に運ばれるようになった。
戦国時代(永禄年間と考えられている)には、この千国の庄に口留番所ができ、当初、その守衛には千国氏がその任にあたった。
北回り船によって糸魚川にはいろいろな物資が入津した。塩は地元のものは少なく、多くは瀬戸内海産の物がほとんどで、そのほか、乾物、越中の木綿や金物、能登の輪島塗、加賀の九谷焼、九州伊万里や唐津の陶磁器なども港に入り、千国街道をへて松本盆地に運ばれた。一方、信州からは麻、漬けわらび、たばこなどが入った。
こうした物資の出入りをチェックするために番所が置かれたのだが、その番所の姿やかつての生活様式を再現するために、千国には現在、「千国の庄資料館」が設置・一般公開されている。
先に挙げた「牛方宿」からは2.5キロしか離れてはいないのだが、県道433号線は牛方宿から1キロ先のところで通行止めになっていたことから、私はいったん県道を栂池方向に戻り、さらにグーグルナビにしたがって隘路を下り、何とか国道148号線に出て(白馬大池駅付近)から3.5キロほど北上し、千国駅付近から県道433号線に入って、目指す資料館に到達することができた。
受付所の後方には大きな建物があり、ここには番所の姿を復元した様子だけではなく、往時の栄華を再現した数々の品々が展示されていた。
資料館の2階には、かなり豪華な民芸品や調度品が数多く展示されていた。盆暮れには市がたち、その際には無商札で商売がおこなわたために、その賑わいは大変なものだったらしい。なにしろ、村の人は商人に商売をする場所をその時に貸すだけで、一年分の炭や油を賄えたほどの収入が得られたそうだ。そうして豊かになった在郷の人々は、写真のような品々を手に入れることができたのだった。
一方、千国街道の険しい山道を重たい荷物(47キロの塩)を担ぐための背負子(しょいこ)が一階の奥に展示されていた。
さらに、姫川でサケやマスを捕獲するための用具も展示されていた。
険しい山道は牛に頼る必要があったが、比較的平坦な道では馬が使われた。もっとも、雪の多い地方なので、一年の半分は先に挙げた歩荷、つまり牛馬には頼らず、山人の汗と力によって運ばれたのであった。
資料館の庭には、往時の農民たちや牛の姿を再現した像が置かれていた。比較的豊かだったとされる千国の人々だったが、それでも今では想像もつかないほど困難な作業を強いられていたことは確かではある。
◎フォッサマグナパーク
今から50年以上も前のことだが、大学の夏休みに友人と能登半島先端の珠洲市に帰省しているやはり大学の友人の家を訪ねるために国道20号線、19号線から147号線、さらに148号線を使って糸魚川方向に進んだ。
小谷の中心部を過ぎると国道は長いトンネルに入り、北小谷に近づくとやっとトンネルから開放された。その時、左手の崖下に姫川の広い河原、さらに左岸側には相当に広めの荒れ地が視界に入った。私も友人も、その姿を見て「フォッサマグナだ!」と叫んだのだった。愚かにも、それまでは(そのあとしばらくも)、フォッサマグナは線であり、「糸魚川静岡構造線断層帯」の別名だと考えていたのである。まぁ、「フォッサマグマ」と言わなかっただけ少しマシだったかもしれないが。
今回の旅の目的のひとつに「フォッサマグナ」についてより深く知るということがあった。さすがに、今ではそれが「線」ではなく「面」、それも立体的な面?であることは認識している。
フォッサマグナの名付け親は、「ナウマンゾウ」の発見でも知られているナウマンで、ドイツのマイセンで生まれ(1854年)ミュンヘン大学で学び、20歳のときに博士号を得た。その翌年、明治政府に招聘されて文部省の金石取調所⇒東京開成学校⇒東京大学⇒地質調査所で日本人に地質学を教授した。
1875年の秋、来日するとすぐに日本の地質調査旅行に出かけた。碓氷峠、軽井沢、浅間山などを調査した後に南に下り、野辺山のすぐ南にある平沢峠付近から南アルプス方向を望んだとき、眼前に広がる景観に驚愕したのだった。ひとつ上の写真が、ナウマンが目にしたものに近い場所から撮影したものである。彼が見たとされる場所には現在、多くの樹木が覆い茂っているために、南アルプスの姿は見られなくなってしまっているために、写真の場所はそれよりもやや高度の低い地点なのだけれど、おおよその姿は捉えていると思われる。
平沢峠の標高は1448m、そこから斜面を下ると標高600mのところに釜無川が流れ、今度は地面が急激に盛り上がり、甲斐駒ヶ岳(標高2967m)、北岳(3193m)、鳳凰三山(2841m)など、3000m級の山々が連なっているのである。
ナウマンは、こうした地形は世界のどこにもないと考え、ドイツに帰国したのちに論文でこの地形を「グロッサー・グラーベン」(大きな低地帯)と記述した。が、しかし、グラーベンは地質学では「断層」を意味するため、彼はその名を改め、ラテン語で「フォッサ・マグナ」(大きな地溝)と表現したのである。「断層」でも「地溝」でもあまり変わりがないように思えるが、前者だと「線的」、後者だと「面的(立体的)」になるので、ナウマンは初めからフォッサマグナを断層ではなく、もっと大きな広がりを有する場所だと考えていたと思われる。
フォッサマグナ・ミュージアムには翌日に出掛けるので、この日はフォッサマグナ・パークにだけ立ち寄ることにした。姫川の支流である根知川の右岸近くにあり、国道に造られた駐車場からよく整備された山坂道を10分ほど歩くと、写真ではよく見慣れた糸魚川・静岡構造線(糸静線)の露頭が見られる場所に到着する。
フォッサマグナ自体は「大きな地溝」であって、その位置は確定していないが、その西端は糸静線であることがほぼ定説化している。一方、東端は諸説ありすぎて同定は困難を極めている。
写真は糸静線を意図的に露出されており、日本列島の東西の相違点がしっかりと確認できる。西側(左手)は約3億年前の変斑糲岩(へんはんれいがん)で、東側は約1600年前の安山岩でできている。その間に2mほどの断層破砕帯があるが、何度となく圧縮を繰り返しているためなに岩が粉々に砕かれ、砂礫や粘土層になっている。
糸静線の露頭までの山坂道からは、大糸線の気動車が根知川を渡る鉄橋を糸魚川に向かう姿を見ることができた。近年のJR線の気動車も電車同様に新規のものに順次、入れ替えられているので、今一つ、ローカル線という感じがしない。一両編成という点を除けば。
◎小滝川と明星山と
フォッサマグナ・パークを離れ、次の目的地である小滝川を目指した。この川には天然の翡翠(ヒスイ)がある。というより、1938年にヒスイはこの川で発見されたのである。
フォッサマグナ・パークから国道を南(小谷村方向)に進み、4キロほどのところにある姫川を渡る橋の先のY字路を右折して、県道483号線(山之坊大峰小滝線)を進む。その道の途中に三差路があり、そこで県道と分かれ、「平山線」と名付けられた林道を進む。地図で調べた限りかなり狭そうな道と思え、対向車があるとすれ違いに難儀すると思われた。が、実際には行きも帰りも車とは一台もすれ違わなかった。
途中に、「高浪の池展望台」という場所があり、たいそう眺めが良さそうな場所だったので、車をとめて景色を眺めた。写真のように眼下には池があり、その先に石灰岩でできた特徴的な山容を有する明星山(標高1188m)があった。
小滝川では、この山の南麓と川が接しているところでヒスイの原石が産出されるのである。
明星山は丸ごと石灰岩でできた山であり、約3億年前のサンゴ礁が隆起したものである。この険しそうな山容から、ロッククライマーに人気があるそうだ。小滝川と並んで、この山の姿に触れたくて、私はこの地を目指したのである。
日本では、この小滝川と、近くにある青海川でしかヒスイの硬玉は産出されない。もっとも、この川であればどこにでも存在するという訳ではないそうで、下に挙げる場所にほぼ限られるそうだ。
川が明星山とその向かいの清水山の北西麓によって川が絞られた荒瀬付近にのみヒスイは存在するそうだ。
ヒスイはこのきつい流れによって砕かれ、それが小滝川からその本流である姫川に流され、最終的には糸魚川周辺の海岸線にたどり着いて、そこで大半が発見・採集される。
ここにはまだ大きなヒスイの原石があり、中には5から10立方mものが存在しているそうだ。もっとも、この周辺ではヒスイの採集は禁じられているので、ヒスイを探すなら、ヒスイ海岸と呼ばれる糸魚川周辺の海岸線がお勧めである。
なぜ、この場所でしかヒスイが産出されないかと言えば、ヒスイは蛇紋岩中に存在するからである。この蛇紋岩は地殻の下のマントルに多く含まれる橄欖岩(かんらんがん)が水分を含んで変質したもので、この岩が地表に現れるのは稀でプレート境界付近に限られると言われている。これらの場所ではマグマが上昇しやすいため、それに乗って蛇紋岩も上昇し、たまたまこの小滝川近くに蛇紋岩とヒスイが地表に現れたのだと考えられているのだ。
この池は南南西にある赤禿山(標高1158m)の地滑りによって出来たもので、標高は540mのところにある。大きさはあまりないが鬱蒼と茂った森に囲まれているので、なかなか神秘的な雰囲気を醸し出している。
もちろん伝説に過ぎないだろうが、ここには体長が4mと3mもある2匹の魚がいると言い伝えられているそうだ。写真の絵にあるように、4mのものは浪太郎、3mのほうはみどりと名付けられている。
湖畔にはその強大な魚を現すモニュメントが設置されていたが、その姿から想像するに、ここに住んでいるという魚はコイに違いない。
コイには「登竜門」という言い伝えがあるので、ナイアガラやエンジェルフォールを登りきるものには4mの大きさが必要かもしれない。
池の周囲はよく整備され、散策に適した場所になっている。写真の大木はアオダモで、通常では5m前後のものが多いだけに、これだけ大きくなるものは珍しい。
成長が遅いこともあり、幹は非常に硬く粘り気のあるので、木製バットの素材としてよく使われる。これだけ大きいとさぞかし多くのバットが生産されるだろうが、ここでは池を見守る「神」的な存在として扱われているので、永遠にここで育ち、巨大ゴイを見守っていくのだろうと思われる。
◎旧市振宿~芭蕉の名句が生まれた場所
一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月
これは芭蕉の『おくのほそ道』のなかでも、もっとも興味深い作品である。私はこの作品を初めて知った時(15歳のとき)、なかなか色気のある句だと思った。が、それはただこの句を表面的に理解したに過ぎず、芭蕉の作品には実際に体験したこととは異なることを表現したものが多いことを理解したとき、この句は芭蕉の心象風景を言葉にしたことに気づいた。
こうした芭蕉の句風は、「古池や」から始まったと言われている。実際にあったことをそのまま言葉にするのではなく、ある事象に触れたときに心に浮かび上がった風景や感情を十七文字の言葉に託すのである。
それゆえ、親不知子不知の難所を越えた場所にある市振の関の宿に泊まったとき、ただ隣の部屋から女性の声が聞こえただけなのに、それを「遊女」に置き換えたのかも知れず、さらに言えば、浜から聞こえてくる波の音を「遊女の声」として心に写っただけだったかもしれないのだ。
その意味で、この作品は芭蕉の句風(蕉風)の完成形と言えるかもしれない。そう考えるようになった私は、糸魚川を訪ねるとき、糸魚川を通過して富山に向かうとき、必ず、この市振に立ち寄るのであった。すでに桔梗屋は存在していないけれども、私には芭蕉の姿が心に写るのである。
親不知は海岸線ギリギリまで山が迫っているけれど、それを越えた市振にはわずかではあるけれど、歩きやすい平地が存在している。
写真の先には境川が流れ込んでいて、それからは越中(富山県朝日町)になる。
市振の海岸には、2人の年配者が海岸線を歩いたり、ときには海の中を覗いたりしていた。もしかしたら、ヒスイを探していたのかも知れなかった。
振り返れば、親不知海岸が目に入った。そこは北アルプスの北端部で、山がそのまま海に落ち込んでゆく場所だ。写真から分かるように、今では山腹には国道8号線のシェルターやトンネルが続いている。そこには平坦な場所などないのだ。こうした難所を越えてきたからこそ、芭蕉は上記のような名句を生むことが出来たのだ。
今では自動車で簡単に越えることができるし、写真にはないが、山中には北陸自動車道が通じている。
便利になってしまった分だけ、人の心象風景は貧しくなり、今は見えるものだけを、しかもそれは表面だけ、何者かが加工したしたものだけの世界を生きるようになってしまったのである。
私もそのひとりになり果ててしまった。要反省!