徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔41〕多磨霊園~夢見る死者が眠る公園

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ゾルゲの墓

 私は夢をよく見る。夢といっても、将来、ユーチューバーになりたいだとか、花屋さんになりたいだとか、飛行機の運ちゃんになりたいだとかの類ではない。眠っているときに見る夢である。以前から眠りが浅く、齢を重ねるごとにさらに浅くなり続けているためか、夢の出現度は高くなり、一晩に豪華ニ十本立てなどということも珍しくない。もっとも、目が覚めるとすぐに場面の大半は記憶から消え去ってしまうため、夢を見たという意識は残っているもののそれは半覚醒時までのことで、その内容を起床後まで覚えていることはあまりない。たとえ朝食に紅茶に浸したプチ・マドレーヌを食したとしても思い出すことはないのだ。ただし、それでもごくまれに強い印象を受けた夢があり、粗筋であれば何年間も記憶しているということもなくはない。

 これを記している日は約9時間(私の平均睡眠時間だ)寝ていたものの夜中に2度も目を覚まし、そのたびに夢の内容を追憶しようと試みたのだが、すでに薄ぼんやりとしており、思い出す前に次の眠りに入ってしまった。ただし、起床前の夢の内容は意外にはっきりと覚えていた。夢の中で私は政治・経済の授業をしており、生徒たちは私の話にとても良い反応を示していたのだった。こんなことは実際の教員時代にはまったくなかったはずなので、目覚めてみれば、やはり夢に違いないという確信を持てた。

 いったい、夢はいつ見ているのだろうか?最近の大脳生理学の知見によれば、夢は眠っている間、ずっと見ているそうだ。かつては大脳皮質がより強く活動しているレム睡眠中にのみ見るとされていたが、現在ではより深い眠りであるノンレム睡眠中にも夢を見ている状態にあることが分かっているらしい。もっとも、記憶に残る夢は覚醒直前に見たものに限られるそうなので、私が豪華二十本立ての夢を見ているのは、睡眠中に19回も半覚醒しているということなのかもしれない。さらに、夢の続きを見たり夢の中でさらに夢を見ていたりという経験が何度もあるので、これまた、浅い眠りに由来すると考えられなくもない。平均睡眠時間が約9時間ということ自体、眠りの質が悪い証左といえるのかも。

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墓石に刻銘されていた「眠」。墓石も夢を見るか?

 夢の中で、これは夢であるという思いを抱きながら夢を見ているときもある。そんな場合では、夢の中にはもう一人の自分がいて、自分が自分の行動を客体視しているのだ。眠っている最中に今、夢を見ているという認識があるので、「これは夢である」という判断が夢の中でなされているのだが、「それは夢だった」という確定がおこなわれるのは目覚めた刹那なので、やはり夢は覚醒しなければ「夢を見た」という体験を自覚することはできないのだろう。 

 さしあたり、夢は目覚めたときにそれが夢であったと知るのであるとするのならば、人生の最後に見た夢は、それが夢であったとは確認されないまま永遠に保持されることになるのだろうか?夢を見た当のものはもはや目覚めることはないのだし、残されたものは彼・彼女の最後の夢の内容を知るすべを有してはいない。死とともに夢もまた消え去ると考えるのが通常だろうが、死者が夢を見ていないということを他者は知ることはできない。なぜなら、生者の夢すら他者には知ることはできないからだ。こんなとき、脳科学者は脳の働きの有無から死者の夢の存在を否定するあろうが、科学が判明できることなど現象のごく一部でしかないのにもかかわらず、まるですべてが分かるかのように科学者は夢のような説明をするのである。

 夢とは少し異なるが、「デジャヴ(既視感)」も不思議な現象だ。初めて見る光景であるのに、それをすでに過去に見ているという感覚を抱く体験だ。実際、多くの人が経験したことがあると語る現象だが、その原因には諸説あるようだ。私がその説明に妥当性があると思うのは以下の2つである。

 ひとつは夢との関連性だ。写真やテレビ映像などで印象に残る景色を見たとする。ある日、その景色が夢の中に現われる。ただ、夢はその景色をとくに印象深い部分だけ切り取って再構成しており、しかも夢の記憶は、そのまま心の深くに眠ってしまうことがほとんどなので、夢に出てきた光景が現実に見たものと異なっていることに気付くことはない。その後、現実世界で新たに印象深い景色に触れたとき、夢の記憶と眼前に展開されている景色との高い類似性を心が覚えると、デジャヴが生じるという説だ。初めて恋した美少女の面影をいつまでも記憶していて、映像か何かである美しい女性を見るとその映像を通じてかの美少女のことを思い出すというのと似ていなくはない。もっとも、こちらはデジャヴというよりプライミング(意識の流暢性)に近いかもしれない。

 もうひとつは、肉体的疲労と精神的緊張を感じているときに印象深い光景に触れると、視覚情報の差異が生じやすく、その結果、初めて見ているのに、神経回路のズレによってすでに過去に見ているという錯覚を抱くというもの。一般にはこの説が有力だとされている。

 はるか昔のことなのに今でも鮮明に覚えているが、私は20代前半のときに摩周湖見学に出掛けてニ度、驚いたことがある。一度目はこのデジャヴに驚き、実は、高校時代の修学旅行で摩周湖見学に来ていたということをほどなく思い出して、また驚いたのである。私の場合、デジャヴよりもジャメヴ(未視感)の体験のほうがはるかに多い。ただ忘れっぽいというだけなのだが。

多磨霊園はディズニーの2.5個分

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多磨霊園の正門(表門)

 多磨霊園の敷地の大半は府中市にあり、北西のごく限られた一部だけが小金井市に属する。府中市が誇る大規模な公共施設は3つあり、ひとつは多磨霊園で、あとは府中刑務所と東京競馬場である。つい最近までは関東医療少年院があったのだが、残念ながら昭島市に移転してしまった。こうした大規模施設が府中に造られる理由は簡単明瞭で、田舎には広大な空き地があるからだ。しかも平地が多いので開発は容易だ。多磨霊園と刑務所と少年院は洪水が滅多に発生しない安心・安全の立川段丘面にある。一方、競馬場は多摩川の氾濫原であった沖積低地にある。競馬場は大洪水の前の避難は容易だろうが、霊園、刑務所、少年院は避難先の確保が難しい。霊園、刑務所、少年院を自然災害に遭遇する危険性が低い段丘面に造ったのは企画者に先見の明があったといえる。というより、府中にはそれだけ何もない場所がそこかしこに多くあっただけなのだが。

 多磨霊園は1923年4月1日に開園した。敷地面積は128haある。東京ドーム27個分の広さだと言われるが、あまり参考にはならない。東京ディズニーランドが51haなので、ディズニーの2.5個分といったほうが合点がいくかも。ディズニーは「夢と魔法の王国」がキャッチコピーだが、遊園地の夢なぞしょせん、はかない。それに対し多磨霊園は、「はかない」どころか墓は無数にある。私はディズニーやUSJには一度ずつしか行ったことはないが、多磨霊園へは100回以上出掛けている。

 多磨霊園はただ墓石が並んでいるだけの墓地ではなく、西洋式の公園的な要素を取り入れた日本最初の霊園である。開園当初は「多摩墓地」を名乗っていたが、1935年にはその成り立ちに相応しい「多磨霊園」に名称変更した。敷地面積は開園時は100haだったが、1939年に拡張工事がおこなわれて現在の敷地面積になった。

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26区の向こうに見える森が浅間山

 広げられた場所は浅間山の東裾部分が含まれているため、新しく造られた最南西端の26区の標高は56mあり、発足当初の最西端である4区の50mと比較してやや小高い場所にある。図面で見ても、当初に造られた部分の区画は整然としているが、拡張された部分は取って付けた(実際そうなのだが)形になっており、原図を引いた設計者の意図からはやや外れた形になっている。多磨霊園を仮に「庭園」に準えるとするなら、当初は平面幾何学的図式で造られた「フランス式」、拡張後は模様に乱れがあり、自然な、かつ立体的である「イギリス式」とでも評することができる。個人的には今の形のほうが好みである。もっとも、拡張前の姿を見たことはないのだが。

 公園風墓地を名乗るだけあって、園内には緑が多い。高木の多くはアカマツだが、ソメイヨシノも多くあり、春には桜の園になって花見客でかなり賑わう。4、5月にはツツジの園になり、6月はアジサイの花が目立つ。7月初めの今現在は、アガパンサスの群生がよく似あう。

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南北を貫くバス通り。一般車も多い

 南北には一本、バス通りが敷地を貫いており、乗用車を含め交通量は比較的多いが、その道以外には車は少なく、墓参に来る人、仕事中に園内で休息を取る人、墓関係の仕事人、そして私のような自転車や徒歩、車で墓見物に訪れる人、ジョギングを楽しむ人、歳の差を気にせず不倫を重ねる人などの姿を見掛けるばかりで、暮石や緑を渡る風はとても心地良い。

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京王線多磨霊園駅

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多磨霊園表門(正門)バス停

 霊園には車、自転車、徒歩で訪れる人が多いようだが、公共交通機関もそれなりに整備されている。代表的なのは京王線多磨霊園駅であろう。私は鉄道では京王線を利用することがもっとも多いので、小さい頃から多磨霊園駅はとても身近な存在だった。とはいえ、多磨霊園に行くためにこの駅を利用したことは一度もない。駅から霊園の正門までは約1.6キロあるので、駅から霊園まで歩くのは大変だし、たとえ正門までやっとの思いでたどり着いても今度は広大な園内を歩き回らねばならない。したがって、京王線を利用して出掛けるとするなら、駅からはバス利用が一般的だろう。

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西武多摩川線多磨駅

 中央線沿線に住む人なら西武多摩川線多磨駅が便利だ。中央線・武蔵境駅多摩川線に乗り換え、2つめの駅が写真の多磨駅となる。以前はローカル線に相応しい古ぼけた駅舎だったが、最近になって様変わりした。駅の東側に東京外国語大学武蔵野の森公園などができたので、おんぼろ駅舎は似合わなくなったとの考えによるのかも。多磨駅からは徒歩約5分で霊園の正門に着く。

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東八道路のすぐ南側にある小金井門

 霊園の北側には「小金井門」があり、ここは東八道路のすぐ南側にあるために車で訪れる人はこの入口を利用する人が多い。なお、正門は「表門」、小金井門は「裏門」とも表記されている。実際、管理事務所、みたま堂、合葬式墓地などは正門のすぐ近くにあるので、正門が表門、小金井門が裏門とされる理由は確かにある。

多磨霊園を訪ねる

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正門を入ると写真のロータリーに出る。右手に見えるのが「みたま堂」

 私が霊園へ散策に訪れるときはほぼ100%、自転車で行く。家から浅間山の北東側にある西門までは直線距離で約2キロあるので徒歩ではややきつく、広大な園内を巡るときには自転車利用がとても具合が良いのだ。自宅を出て「府中の森公園」を突き抜けて浅間山の北側を通って西門に至るというのが通常のコースだ。が今回は、まず京王線多磨霊園駅に寄って、バスのコースをたどって正門から入った。

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パンフレットが入手できる管理事務所

 正門を入るとすぐ右手に写真の管理事務所がある。墓に埋めてもらう予約をするわけではないので事務所に用はないのだが、ここには霊園の案内図などの資料が置いてあるので、その入手を兼ねて立ち寄ってみた。

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遺骨の一時預かり、長期収容施設である「みたま堂」

 管理事務所の北隣にある大きなドーム型の新納骨堂が「みたま堂」(1993年完成)である。ここには墓所が見つかるまで遺骨を一時保管してもらえる施設と、長期(30年、更新あり)収蔵してもらえる施設があり、今年の1月現在、一時保管場所に2554体、長期収蔵場所に10556体収容されている。

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みたま堂の正面。ここで線香をあげる

 みたま堂には初めて立ち寄った。といっても入口に立って写真を撮ったのみ。私には参拝する習慣がないのでここにしばらく佇んでいただけだが、それでも少しだけ、居住まいを正したいという気持ちを抱いたことは確かだった。

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ロータリーの西側にある休憩所・売店

 ロータリーの西側にはやや古めの小さな建物がある。墓参に訪れた一団が手向けの花を購入し、借りた水桶を手にして墓に向かっていった。この小さな店の西隣に合葬式墓地(2003年完成)があり、そのさらに西側に芝生墓地がある。

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雑草が生い茂った芝生墓地

 霊園の敷地には限りがあるので、先に挙げた「みたま堂」や写真の芝生墓地などコンパクトに収まり、かつ手入れの簡単な墓地が増えているようだ。家族制度は崩壊しつつあり、家族のつながりそのものが希薄になっている現在では、こうした様式の墓地ですら用はなくなり、霊園そのものも、さらなる様変わりを強いられることだろう。

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名誉霊域の碑

 ロータリーの北側には「名誉霊域」がある。その名を象徴するがごとく、道幅にも区画にも他の場所とは異なり、かなりのゆとりを感じさせる。

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名誉霊域通りと我が愛車

 名誉霊域に面した場所には著名人の墓が多い。多磨霊園には名の知られた人の墓が多いといわれるが、これは広大な敷地に数多くの人が眠っていること、郊外であっても一応は東京都にあるので、名を知られている人が埋葬される割合が比較的高いという理由が背後にあると考えられる。今年の1月現在、埋葬体数は44万8655体なので、その中に著名人が多数いるということは不思議でもなんでもない。都心部にある青山霊園なんかは、さらにその割合は高いのではないだろうか。なお、名誉霊域に面した場所の著名人は政治家や軍人が多いのが特徴的だ。

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各所にある標識。これが墓探しの参考になる

 霊園の墓地は26区に分けられ、各区画の内、道路に面した部分は1種、内側は2種、さらに側、番に区分されている。例えば、本項の冒頭に挙げた「ゾルゲ」の墓は”17区1種21側16番”にある。管理事務所で入手できる案内図や道路の交差点に表示されている地図を頼りに大まかに場所の見当をつけ、小区画には上記の写真のような標識があるので、墓探しはそんなに苦にならない。ちなみに、写真の標識は「西園寺公望」の墓の横にあったものだ。標識には最後の「番」だけは表記されていないが、「側」まで分かればあとはその小区画を見て回れば、お目当ての墓は簡単に見つかる。

 ただし、名誉霊域には上記の区分の例外があり、7区の特種がそれである。この場所には「東郷平八郎」「山本五十六」「古賀峯一」の墓がある。いずれも説明は不要なほどよく知られた海軍軍人である。東郷の死は1934年、山本は43年、古賀は44年なので、時代背景もあって特別な場所に墓が建てられたのだろう。

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名誉霊域通りにある萬霊供養塔

 名誉霊域通りにはシンボル塔、写真の萬霊供養塔、忠霊塔が立ち並んでいる。シンボル塔はよく目立つ存在であり、かつては噴水塔としての役割を果たしていたが、現在では老朽化が進んでおり、事故防止のためか周囲をフェンスが取り囲んでいるのであまり良い景観ではない。その点、高さ12mもある巨大な灯篭は1941年に造られたとは思えないほど立派である。もっとも、この大灯篭は建設当初は正門近くに設置されていたのが、2002年に現在の場所に移築された。その際に手を入れられたから古ぼけてはいないのだと思える。

私が霊園を訪ねる訳は?

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お墓の例(1)

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お墓の例(2)

 私が多磨霊園内を散策場所に選んだのは10年ほど前のことだ。それまではバス通りを車で通ったり、霊園に北側にある「運転免許試験場」へ免許の更新をしたり、3度の免許証紛失による再発行のために自転車で出掛ける際に、霊園内を通過するときぐらいだった。これは浅間山も同様で、家からは両者より少し遠い位置にある多摩丘陵にわざわざ出掛けていたのは、その近くには多摩川があるからだった。浅間山には湧水がほんの少しあるだけだったし、多磨霊園は敷地が広大であるにも関わらず池がない。この「水の不在」が、ここを遊び場や散策場に選ばなかった理由であった。

 しかし、たまたま10年前、「ムサシノキスゲ」を探しに浅間山に出掛けた際、なんとなく多磨霊園の敷地内まで足を伸ばしてのんびりと徘徊してみると、その景観の「複雑さ」に魅せられてしまったのだった。『作庭記』には庭の価値は石の配置で決まるといったことが記されているということは前回に少しだけ触れたが、確かに、多磨霊園には石が無数に配置されており、そのどれもがひとつとして同じものはなく、だがしかし、総体としても個別にもここが霊園であることを強く表現していた。もっとも、それは当たり前で、ここにある石の多くは「墓石」なのだから。

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壁墓地も細部の姿はひとつひとつ異なる

 先に挙げた芝生墓地も、13区にある写真の壁墓地も、限られた敷地を合理的に使用する新しい形式のお墓で、一見するとどれも同じように見えるが、細部の意匠は案外異なっている。しかも、この墓のひとつひとつを守っている人々の意志がそれぞれの墓の姿に反映されており、地面から伸びる草たち、添えられた花束、刻銘された文字、石の輝き具合など、どれひとつとして同じ表情を有しているものはない。墓の形相はそこに眠る人々が現世に残した生き様を反映しているとも考えられるのだ。

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墓にあるのは墓石だけではない

 こうして、墓の様相の違いに気づくと、墓の姿かたちを見ることに俄然、興味が湧いてきた。通常、お寺にある墓地だと、たとえそれに興味を抱いたとしても散策地に選ぶことにはやや気が引けるが、多磨霊園はなにしろ公園風墓地なので通路もゆったりと取ってあるので散歩気分に浸れるし、宗派にはこだわりがないので変化に富んだ細工も多く見られるため、出掛けるたびに様々な発見ができる徘徊場所なのである。もちろん、緑が多いことも私の好みに合致しており、いろんな風媒花、虫媒花、鳥媒花、獣媒花を探す楽しみすらある。

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石灯篭(1)

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石灯篭(2)

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墓の主の胸像

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忘れられた墓

 ひとつ上の墓のように手入れが行き届き、立派な胸像まで飾られたものがある一方で、上の墓のようにすっかり忘れ去られたものも結構ある。全体が葛にほぼ覆われた状態で、今は人の手がまったく入っていない憐れな姿だが、墓自体は、敷地の広さといい、建造物の大きさといい、かつては立派に輝いていたであろう石碑といい、ここに眠る人や家族はさぞかし名のあった存在だったと想像できる。が、そうした人や家族の記憶でさえ、時の流れの中では消滅してしまうのである。しかし、考えてみれば最初期に造られた墓であったとしても、霊園の歴史はまだ100年も経ってはいない。儚い墓である。

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墓の主は関係する人々の中に生きている

 墓碑銘の「またね」は意味深である。墓参する人もいずれは眠りにつくので、墓の中でまた会えるということなのだろうか?たぶんそうではなく、人間(じんかん)は生死の幅の中にあって、人が墓の主の存在を心に思い浮かべるだけで、その主は他者の中に「実在」するのであり、その限りにおいていつでも会えるのである。ただし、時を経ることで主を思う人もまた死に至る。そうして、主に関係する人のすべてが地上から消え去ったときに人間(じんかん)の幅はゼロになり、「またね」は跡を絶ち、墓石は葛に覆われていく。

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若くして散華した人の刻銘

 後に挙げるが、著名な軍人や政治家の墓には立派な肩書が刻銘されている。それは確かに名誉なことだろう。しかし写真の兵士の墓のように、たとえ地位は低くとも、家族にとっては十分に誇れる「死」であり、平和の礎になった「死」であり、悲しい「死」であり、悔やまれる「死」であったという思いが込められた刻銘も多くある。

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素晴らしい業績を誇る墓碑銘

 写真の記念石碑は墓石の数倍の高さがある。「開発者」というだけで素敵なのに、さらに、ただの電気炉ではなく「高周波」の電気炉なのである。それがどんなものであるかは皆目、見当がつかないが、こうして立派な石碑に刻銘されるだけの素晴らしい、そして価値のある業績であるに相違ない。なにしろ「高周波」だ。

著名人の墓を探し歩く

 墓石には多くの場合、〇〇家之墓という刻銘がある。その近くに墓誌があり、その墓に眠る人の名が刻まれている。私は霊園内を散策するとき、この〇〇家の〇〇を見て、かつて出会った人の記憶を呼び覚ますことがよくあるし、それを頭の体操にしている。私には人の姓名を覚えることがほとんどできないという「特技」がある。何しろ、教員時代にクラス担任をしていても一年間、名前を覚えられなかった受け持ちの生徒が3割ぐらいいた。顔の記憶はあるのだが、名前とその存在とを結びつけることができないのだ。これは現在も同じで、今でも出会った人の名前がなかなか覚えられない。そのことで「ボケが進行したな」とよく言われるのだが、実際は、ボケが進行したのではなく、もともとボケていたのだ。

 ところが、墓石の〇〇を見ると、突然、過去に出会った人の姓名と顔が浮かんでくるのである。例えば、「赤城家之墓」が目に入ると、そういえば赤城という姓の釣り仲間がいたことを思い出し、するとその人の顔や佇まいだけでなく、釣りの時の仕草、語り口調まで記憶が呼び覚まされるのである。これは実に大いなる発見であって、このことも私の「墓巡り」の興味のひとつになった。△△家之墓を見れば△△くんや△△さんを思い出し、「まだ元気でいるだろうか」とか「もう死んじゃっただろうな」とかを思いながら次々に墓碑銘を見て歩くのだ。実は姓名は記憶しているのである。ただし、その人と出会ったときに記憶を呼び覚ますことができないだけだったのだ。私にとっての現実は、夢の世界とさほど違わないかもしれない。

 こうして、霊園内の墓碑銘を見て歩くと、家族名ではなく個人名を刻銘した墓も見掛け、中には著名な人のものも目にすることがあった。友人からは「多磨霊園には有名人の墓が多くあり、管理事務所でもらえるパンプレットに墓の場所が記されているので探すのには便利だ」と聞いてはいた。しかし、そうした方法での墓探しには興味がなく、偶然の出会いに妙味があると思っていたので、とくにパンフレットを入手する気持ちにはならなかった。反面、知った名前を発見し、その人物について思いを巡らせると、忘れていた記憶が呼び覚まされ、好奇心が増幅するという楽しみが生まれたのも事実だった。

 それからは、△▼家の刻銘からは人生の中で出会った人のことを想い、著名人の墓からはその人物に関連する出来事や著作物や言動などを思うというように、霊園に訪れるという動機付けがいよいよ増大したのだった。

 今回は、このブログの読んでくれる貴重な人への参考になればと考え、初めて管理事務所でパンフレットを入手し、それに記されている著名人墓所の所在地一覧から数十人を選び、墓巡りをおこなってみた。私にとっては、最初で最後の計画性のある霊園探訪だった。先に述べたように霊園には「区・種・側」が記された標識が設置されているので、墓探しはそんなに困難ではなかった。例えば、「新渡戸稲造」の墓であれば「7区1番5側11番」とパンプにあるので、まずは7区に行き、交差路に設置されている地図で1種と5側の場所を確認してそこを目指していけば「7区1番5側」の標識が見つかる。あとはひとつひとつ墓碑銘を見ながら「新渡戸家」もしくは「新渡戸稲造」の名を探せば良いのだ。ただし、著名な人の墓であるからといって墓の規模が大きいとは限らず、見過ごしてしまうことも多少はあった。

 以下、撮影した著名人の墓は40柱ほどある。誰もがよく知っている歴史上の人物もあれば、個人的に興味はあるが世間一般にはそれほどよく知られているわけではないという人の墓もいくつかある。それぞれ、その人物について解説を加えていけばよいのだが、そうなると本項の完成がいつになるか分からない。したがって、解説は省いているものが多い。というより、私の解説よりも本項を読んで頂いている奇特な方々のほうがより詳しく知っていると思っている。なお、適宜、私の感想を加えていきたいとは考えている。

 死者の墓(生者の墓があるかどうかは不明だが)に出会い、たとえ死者であっても、その人物について思い巡らすことができる限りにおいて、その人物たちはそれを思う人の世界に「内在」しているのだということを、改めて再確認していただきたい。

内村鑑三(1861~1930) キリスト教思想家

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私の愛読書である『代表的日本人』の著者

所在地:8区・1種・16側・29番

 内村鑑三の墓の存在は以前から知っていた。彼の信条は教員時代も予備校講師時代も「倫理」の授業でよく取り上げていた。しかし実際は彼についての解説書を数冊読んでいただけで、その著書を直接、読むことはなかった。「無教会主義」も「不敬事件」も「ふたつのJ」も足尾銅山鉱毒事件にコミットしたことも、日露戦争に際しては非戦論を貫いたことも、新渡戸稲造とは若い頃に出会い、彼の勧めでキリスト者になったことも、解説書に皆、それらについて記されていたので、授業でそれらの事柄を表面的に解説していたに過ぎなかった。

 が、『代表的日本人』をたまたま読む機会があり、それを切っ掛けにして内村の宗教観を理解することに努めてみた。すると墓誌にある「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そしてすべては神のために」という言葉が、著書を読む前とはまったく異なる意味をもつものとして私に立ち現れてきたのだった。

 『代表的日本人』は、内村の思想を知るには最良の著作だと私は考えている。とくに私のように無信仰の人間にとっては。

岡本太郎(1911~96) 芸術家

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お墓も芸術だ

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父・一平の墓

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母・かの子の墓

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岡本家の墓

所在地:16区1種17側3番

 芸術についてはまったくの門外漢なので、岡本太郎の名前を聞いても「芸術は爆発だ!」と「太陽の塔」ぐらいしか思い出せない。岡本家の墓を訪れると、父親の一平の墓も、太郎の墓も彼らしさが滲み出ており、それぐらいしか知らなくても、ここが岡本太郎に関係する墓所であることはすぐに分かる。

 がしかし、岡本太郎は本当に有能な芸術家なのであろうか?そう考えたとき、若い頃に知ったある言葉を思い出した。正確ではないが大意は次のようだった。「ベートーベンの曲に犬が吠え付いたとしたら、悪いのは犬のほうだ」。

 芸術を理解するのは簡単ではないし、その価値を誰もが分かるとしたら、それは芸術ではなく大衆芸能であろう。良き芸術家を育てるためには幼いうちから良いものだけに触れさせることが大切であるとされるが、それは確かなことだと思われる。私のようにマンガやテレビの娯楽もの、映画は植木等の無責任男シリーズ、音楽は藤圭子グループサウンズだけに触れて育つと、古典芸術の良さをまったく理解できない大人になる。子供の頃から私はクラッシック音楽に吠え付く犬であったし、現在もさして違いはない野良犬である。それゆえ、岡本太郎の良さは未だに理解できないのである。「なんだ、これは!」

 村野四郎(1901~75) 詩人

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府中出身の詩人

所在地:8区1番14側

 村野四郎は府中市出身の数少ない有名人の一人である。旧多磨村上染屋(現府中市白糸台)生まれだそうだ。わが愛する詩人である室生犀星が村野を高く評価したということ知ったときに彼の詩集を購入したという経験があった。が、今回、その本を探してみたけれど発見できなかった。購入したという記憶にあるが、その本を開いたという記憶はまったく残っていない。

 最近はほとんど利用しないので今でも使用されているかは不明だが、京王線府中駅の下りフォームでは接近メロディとして村野作詞の『ぶんぶんぶん』が使われている。もっとも、メロディはボヘミア民謡なので村野とは直接には関係しないが、それを聞くと『ぶんぶんぶん』の詞を思い出すので、村野に関連するものとしても誤りではない。

 本ブログでは26回の「多摩川中流」の項で川の左岸にある「郷土の森」を少しだけ紹介し、その中で「旧府中高等尋常小学校」の校舎について述べているが、その中に「村野四郎記念館」があることは触れていない。実際、私はその中をのぞいたことはない。村野四郎について調べてみると、1969年に「府中市の歌」を作詞したと記されているのを見た。が、そんな歌が存在することは今回、初めて知った。

 かように、村野四郎について私が知ることはほとんどないが、室生犀星が評価してるというからには、優れた詩人であるということは事実であると思う。

東郷平八郎(1848~1934) 海軍軍人

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神格化された軍人

所在地:7区特種1側1番

 東郷平八郎については本ブログの第15回(ヨーコを探して港へ)で少しだけ触れている。そのときは東郷についてではなく戦艦三笠のことが主だったが、それでも東郷の銅像を写真に収めてはいる。

 東郷は死後に神格化され、乃木希典が神格化されて乃木神社が建立されたのと同じように東郷神社が建てられている。一方、東郷の別荘があった府中市清水が丘には東郷の生前の願いだった法華経の道場である日蓮宗の寺が建立された。これを「聖将山・東郷寺」という。「聖」といい「将」といい、神格化とは異なるが、やはりそれなりに開基である東郷を尊崇していることは確かである。この寺の境内は私の散策場のひとつであり、黒澤明の『羅生門』に登場する山門のモデルとなったといわれている山門は見事な姿をしている。また枝垂桜の存在もよく知られており、3月の開花期には大勢の人が訪れる。 

山本五十六(1884~1943) 海軍軍人

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「悲劇」の軍人

所在地:7区特種1側2番

 私の子供時代の愛読書は『少年サンデー』と『少年マガジン』であり毎週、欠かさずこの2冊を見て(購入費用は兄が出した)、科学や戦争、スポーツについて学んだ。山本五十六は当然のごとく戦記物の「悲劇のヒーロー」として扱われていたので名前はよく知っていた。が、個人的には「滝城太郎」により好感をもっていた。というより、作者の「ちばてつや」の描き方が素晴らしかったのだろう。とくにラストの「信子」と滝の母親が大分駅に到着するシーンが劇的な感動を与えてくれた。『紫電改のタカ』と山本五十六とは何も関係はないが、日本海軍という共通点だけはあり今回、山本の墓を訪ねた際に、滝城太郎と信子のことを思い出したのだった。

古賀峯一(1885~1944) 海軍軍人

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消息を絶った軍人

所在地:7区特種1側3番

 古賀峰一の墓は前の2人のヒーローに比べてかなり見劣りがする。彼も「元帥海軍大将」であったし、前の2人とは同格で、山本五十六の死後、連合艦隊司令長官の任に就いている。同じ名誉霊域の7区特種に存在するだけにその違いに驚かされる。一説によれば、彼の妻が立派な墓に建て替えることに反対したとされている。古賀は戦死ではなく彼の乗った飛行艇が消息不明となり、その後に殉職扱いとなったことがその理由のひとつらしい。 こういう墓があって良いし、改築されずに残っていること自体、心温まるものを感じてしまう。

田山花袋(1872~1930) 小説家

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自然主義派の小説家

所在地:12区2種31側24番

 田山花袋群馬県館林市出身である。田山の作品はその独特の「暗さ」が好きで、『布団』や『田舎教師』は私の愛読書に加わっていた。田山が館林出身であるということは、以前、館林市が誇る「つつじが岡公園」を訪ねた際、その近くに「田山花袋記念文学館」があるのを見つけたことで知るに至った。敷地内には田山の「旧居」も残されていたが、私としてはこの手の記念館に立ち入ることは滅多にないはずなのに、そのときは文学館も旧居もじっくりと見学した。向かいには「向井千秋記念子ども科学館」があり、本来はそちらのほうを好むのだが、そのときばかりは田山花袋の暗さのほうを選んだ。 

 上に挙げた作品は再読したいと思っているのだが、なにしろコロナ禍の影響で読みたいと思う本を数多く購入してしまったためにその機会はたぶん訪れないだろう。ちなみに今、読書中なのは、坂靖の『ヤマト王権の古代学』、三中信宏の『系統体系学の世界』、エーコの『薔薇の名前』である。私はいつも、複数冊を同時並行に読む。それぞれ、田山の作品のような「暗さ」はないが「重さ」があって興味深い。

向田邦子(1929~81) 小説家、脚本家

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向田家の墓

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向田邦子のための墓碑銘

所在地:12区1種29側52番

 おもにテレビドラマの脚本家としてよく知られている。今回、彼女の作品を調べてみたが、私にも知っているドラマが数多くあった。もっとも、実際に見たことがあるのは『時間ですよ』のみだった。墓碑銘には「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」とある。これは森繁久彌の書を刻銘したそうだ。向田は飛行機嫌いであったが取材であちこちに出掛けなければならず、結果、51歳のときに台湾にて飛行機事故で死去した。 

大賀一郎(1883~1965) 植物学者

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大賀ハスで名高い

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博士を称える墓碑銘

所在地:20区1種33側15番

 大賀博士については第16回の「古代蓮」の項で触れている。今年の7月も私の母校である府中一小の北側にある「ひょうたん池」では「大賀ハス」が開花している。 

堀辰雄(1904~53) 小説家

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ロマン派小説家

所在地:12区1種3側29番

 

塚本虎二(1885~1973) 伝道者、聖書研究者

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やや荒れた墓が切ない

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読みづらくなった墓碑銘

所在地:8区1種6側

 

高橋是清(1854~1936) 政治家

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二・二六事件で暗殺

所在地:8区1種2側16番

 

西園寺公望(1849~1940) 政治家

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最後の元老

所在地:8区1種1側16番

 

中野正剛(1886~1943) 政治家

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陽明学派だった中野正剛

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中野正剛の業績を称える墓碑銘

所在地:12区1種1側2番

 

呉茂一(1897~1977) ギリシャ古典研究家

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翻訳本でお世話になった

所在地:5区1種1側9番

 

北原白秋(1885~1942) 詩人、童謡作家

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詩人としての評価も高い

所在地:10区1種2側6番

 

ゾルゲ(1895~1944) ジャーナリスト、諜報員

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ゾルゲの略歴が刻銘されている

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ゾルゲ事件連座した人々

所在地:17区1種21側16番

 

尾崎秀実(1901~44) ジャーナリスト、評論家

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ゾルゲ事件にて刑死

所在地:10区1種13側5番

 

南原繁(1889~1974) 政治学者、元東京帝国大学総長

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内村鑑三の弟子のひとり

所在地:3区2種11側2番

 

鈴木梅太郎(1874~1943) 農芸化学

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鈴木家の墓

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業績を称える石碑

所在地:10区1種7側8番

 

徳田球一(1894~1953) 政治活動家、弁護士

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簡素に見える墓石

所在地:6区1種8側13番

 

長谷川町子(1920~92) マンガ家

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町子の名前は墓誌に刻銘されている

所在地:10区1種4側3番

 

美濃部亮吉(1904~84) 政治学者、元東京都知事

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美濃部家の墓

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美濃部亮吉墓誌

所在地:25区1種24側1番

 

江戸川乱歩(1894~1965) 小説家

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少年向きの作品もある推理作家

所在地:26区1種17側6番

 

鶴見俊輔(1922~2015) 思想家、評論家

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俊輔の名は墓誌にある

所在地:5区1種12側

 

賀川豊彦(1888~1960) キリスト教社会活動家

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賀川は松沢教会の共同墓地に眠る

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賀川の名は墓誌にある

所在地:3区1種24側15番

 

川合玉堂(1873~1957) 日本画

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玉堂美術館は吉野街道沿いにある

所在地:2区1種13側8番

 

児玉源太郎(1852~1906)

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司馬遼太郎の小説では評価が高い

所在地:8区1種17側1番

 

新渡戸稲造(1862~1933) 教育学者、思想家

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内村鑑三とは札幌農学校の同級

所在地:7区1種5側11番

 

竹内好(1910~77) 中国文学者

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魯迅研究者として名高い

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好の名は墓誌にのみ残る

所在地:10区1種14側

 

辻邦生(1925~1999) 小説家、フランス文学者

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北杜夫とは旧制松本高校で同級

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福永武彦とは学習院大学で同職

 

樺美智子(1937~60) 大学生

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父親は著名な社会学

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墓石よりも墓誌が目立つ

所在地:21区2種32側14番

 

仁科芳雄(1890~1951) 物理学者

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日本の量子論の先駆者

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弟子の朝永は師匠と共に眠る

所在地:22区1種38側5番

 

中村元(1912~1999) インド哲学者、仏教研究者

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私が尊敬する仏教学者

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墓碑銘にはブッダの言葉が刻まれている

所在地:9区1種17側

 

下村観山(1873~1930) 日本画

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狩野芳崖に学ぶ

所在地:3区1種9側5番

 

小泉信三(1888~1961) 経済学者、元慶應義塾塾長

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リカード研究者として共産主義を批判

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父親の信吉は福沢諭吉の直弟子

三島由紀夫(1925~1970) 小説家、政治活動家

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平岡家の墓

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墓誌三島由紀夫の名が刻銘されている

所在地:10区1種13側32番

 

     * * *

 私は、つい最近、後々まで記憶に残るであろう総天然色の夢を見た。

 私はある川に鮎の友釣りに出掛けた。川の名は不明だ。私は川の南岸にいた。川は北岸に向かって深くなり、しかもコケ付きの良い石は北岸側に無数に並んでいた。南岸上からは北の好ポイントまでオトリ鮎を送ることはできないので、川の流れの中に立ち込んで竿を出した。オトリはやや流れに押されながらも北岸側にある石群まで泳ぎ着いた。ほどなく、目印が2mほど素早く上流に向かって走り、同時に強烈な手ごたえを感じた。私は竿の弾力を最大限に活かすために竿を起こそうとしたがそれはかなわず、掛け鮎はオトリを引き連れてぐんぐんと上流に向かって泳いでいった。私はそれに付き従うように上流に向かって歩を進めざるを得なかった。

 数十mも上ったのだろうか。鮎の動きは弱くなった。手に感じる抵抗感から、引き抜きは不可能であることを確信するほどの大型鮎と思えた。それゆえ、竿を十分に溜めて鮎が弱るのを待った。しばらくそのままの状態が続いたが、いっぽう、私は自分の周りの風が強くなってきたことを感じた。川の表面が波立ち、やがて渦を巻き始めた。私は竿を両手で強く握り、風に翻弄されまいと抵抗した。風の正体は小さな竜巻だった。

 私は見た。竜巻がオトリ鮎と掛け鮎を川面から巻き上げる姿を!鮎を竿に繋ぎとめていたラインが切れ、両鮎は北岸側に飛ばされ、河原にある木の枝に引っかかった。

 思わず、私はこう叫んだ。

「鮎の不時着」 

〔40〕八王子の城跡を歩く(3)悲劇の八王子城(後編)

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麓にある管理棟。左に行くと御主殿跡、右に行くと本丸跡

豊臣秀吉との決定的対立

 1578年頃より、北条氏(後北条氏、小田原北条氏。以下北条氏と表記)と真田氏とは沼田領問題で抗争が続いた。沼田領は北関東の要衝で関東平野の北西の縁にあり、北に進んで谷川岳連峰にある清水峠(標高1448m)を越えて下れば新潟(越後)の南魚沼市街に入る。北条氏にとって沼田領を支配することは単に上野国を治めるということだけでなく、越後や信濃からの防御点を確保することにつながる。一方、真田氏にとっては、沼田領のある東上野を支配することで領地のさらなる拡大を図る拠点にもなる。こうした地政的な価値を有した場所だけに、沼田領は北条⇒武田(実質は真田)⇒滝川一益(実質は織田)⇒上杉⇒真田と、めまぐるしく支配勢力が変転した。

 1582年の本能寺の変後、真田昌幸は情勢を見て一時的に北条氏側に就いたものの、やがては徳川家康側に転じて沼田領の確保を図った。一方、徳川氏と北条氏さらに上杉氏は、武田家の滅亡と織田信長の死という混乱に乗じて甲斐、信濃、上野の支配権を巡って戦いを始めた。これを天正壬午の乱(1582年)という。この争いは上杉氏と北条氏、徳川氏と北条氏との講和(家康の娘の督姫と北条氏直(5代目)との婚姻など)によって終結し、領地問題はいったん解決した。

 この講和によって沼田領は北条氏に帰属することになったが、これに納得しない真田昌幸は家康に抗議した。家康は沼田の替地を昌幸に提案したが、受け入れずに徳川氏側を離れ上杉氏の配下に移った。85年、徳川氏は真田氏の上田城を攻め、北条氏も沼田城に攻め入ったが、真田氏側はよくこれに耐えて領地を死守した。

 87年、上杉氏は台頭著しい豊臣秀吉に降った結果、真田氏も豊臣側に降った。これにより秀吉の全国統一の障害は関東を仕切る北条氏と奥州の伊達氏だけとなった。そこで秀吉は、家康に命じて大名間の死闘を禁じる「惣無事令」を発することにした。この惣無事令に関しては研究家の間には異論が多いようだが、秀吉がこうした動きに出たことは確かなようであり、その背景には北条氏が沼田領への侵攻を止めないという点がひとつにあった。

 89年7月、秀吉は沼田領問題を決着するための裁定をおこない、沼田の3分の2は北条氏へ、3分の1は真田氏の支配領になることに決した(真田氏はその替わりに信州の伊那郡を得た)。そして、この裁定は北条氏政(北条氏4代目)が年内に上洛することで発効することになっていた。こうした動きによって、沼田城には北条氏邦鉢形城主、氏政の四男)の重臣である猪俣邦憲が城主として入り、沼田城の支城であった名胡桃城(利根川右岸の山城、沼田城とは5キロの距離)には真田氏の重臣である鈴木重則(鈴木主水)が城主として入った。ところが同年11月、沼田城主の猪俣は策略によって名胡桃城を奪取し、これを恥じた鈴木重則は自害に至った。

 北条氏政は上洛を渋り、さらに北条氏による名胡桃城強奪を「惣無事令」違反と考えた秀吉はこれを奇貨として11月、ついに北条氏の本拠地である小田原城攻めを決した。これに対し、北条氏は臨時の小田原評定を開き、北条氏邦は積極的侵攻策で豊臣・徳川勢と戦うことを、一方、北条氏の重臣である松田尾張守は小田原籠城策をそれぞれ提案した。北条氏の軍事外交権を担っていた北条氏照八王子城主)は、当初は弟の氏邦同様に積極策を主張したもののほどなく沈黙し、なぜかその後の発言はまったくなかったらしい。その理由ははっきりせず、病気説や捕囚説などがあって諸事情により評定には出席していなかった蓋然性が高いとのことだ。

戦いは八王子城へ迫る

 秀吉は翌年の小田原征伐を決め、徳川家や真田家など諸大名に5カ条の宣戦布告文を通知した。家康は北条氏とは姻戚関係にあることもあって征伐への参加には戸惑いを見せていたものの、12月10日に聚楽第で開かれた軍議に参加し、北条氏との仲介を断念し戦いへの準備を進めた。一方、北条氏は氏直の名で各所にいる家臣や国衆に対して翌年の1月までに小田原城に参陣せよとの通知を発した。

 こうして90年の2月、豊臣側の約21から22万といわれる軍勢が小田原に向かって出立した。小田原城攻めに関してはいずれ小田原城に訪れる機会があるのでそのときに触れたい。ここでは八王子城の戦いに関係する軍勢の動きを追うことにする。

 八王子城に攻め入ったのは北国支隊と呼ばれる3万5000の軍勢である。前田利家勢18000、上杉景勝直江兼続勢10000、真田昌幸勢3000などが主体で、信濃松代城に集合して碓氷峠を越えてまず、松井田城(群馬県安中市)に攻め入った。守る大道寺政繁は3月20日、碓氷峠にて迎え撃とうとしたが、35000対2000の戦いではどうにもならず、結局、籠城戦を続けることになった。約一か月、猛攻撃によく耐えたが4月22日、降伏して開城することになった。大道寺政繁の軍勢は北国支隊側につくことになり、その先導役を任されることになった。

 北国支隊は5月22日には武蔵松山城(埼玉県吉見町)を攻め落とし、松山城にこもっていた軍勢を支隊側に組み入れ、すでに戦いが始まっていた鉢形城(埼玉県寄居町)に向かった。一方、小田原城包囲を完遂した秀吉軍は、北条氏邦(4代目氏政、八王子城主氏照の弟)が籠城戦を展開している鉢形城へ家康傘下の浅井長政本多忠勝の軍勢を送り、北国支隊と共同して攻め続け、結局、鉢形城は6月14日に落城した。

 北国支隊はいよいよ、北条氏の最大で最強の支城と目されていた八王子城に軍を向けることになった。前田利家率いる北国支隊は、これまでは硬軟両策で降伏や開城を認めて籠城兵の命を助けてきたが、八王子城は一気に力攻めで落とすようにと秀吉からの命を受けていた。しかし前田利家はできれば多くの犠牲者を出したくないと考え、攻撃の前に降伏・開城を求めるための使者を派遣した。が、その使者は刺殺されてしまった。これによって強硬策が展開されることに決定した。

 北条氏照には4500の家臣がいたと考えられているが、精鋭の大半は小田原城籠城策のために八王子城にはおらず、城に籠っていたのは約1000(500とも)の家臣と、守備兵として集められた農民、番匠、大工、鍛冶職人、石切職人、神官、僧侶、山伏、さらに家臣の妻子などであり、合計で3000だったといわれている。八王子城に残っていた有力な家臣には、本丸防御担当の横地監物、小宮曲輪担当の狩野一庵、中の丸・松木曲輪担当の中山家範、山下曲輪担当の近藤助実、金子曲輪・柵門台担当の金子家重、松木曲輪担当の大石照基などがいた。

八王子城跡には3回訪ねた

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本丸跡にある祠

 私が八王子城跡を訪ねたのは今年が初めてだった。その存在はずいぶん前から知っていたし、八王子城山(深沢山)の腹の中を通る圏央道の「八王子城跡トンネル」は馴染み深いものだった。地図でもその場所は何度も確認していたし、グーグルマップの航空写真でその地形も調べてはいた。しかし、昨年まで訪ねることはなかった。理由は簡単で、山道を登るのが大変そうだったからだ。私は山を遠目に見るのは大好きだし、山の名前やその成り立ちを調べるのは趣味のひとつでもある。しかし、登ることには興味はなかった。疲れるのは嫌だし、虫に襲われるのが怖いし、高いところが苦手だからである。北条氏照の前の居城であった滝山城ぐらいなら、登るルートによって異なるものの比高はせいぜい40~70m程度なので、心地よい疲労程度で済むので十分に許容範囲だった。しかし、八王子城跡となると、駐車場の標高(例によって標高の分かる国土地理院のweb地図による)は236m、本丸跡は460mと、比高は224mもある。おまけに森が深いので虫からの攻撃に耐えなければならないのだ。御主殿跡(標高267m)であれば比高は30m程度なので楽ちんだが、それでは八王子城跡を訪ねたと威張ることはできないので結果、それまで出掛けることはなかった。

 しかし、滝山城跡で出会ったボランティアガイドの3人が、北条氏照についてより詳しく知りたいのなら、八王子城跡にも行ってみるべきだと強くそして熱心に勧めてくれた。この言葉だけなら単に聞き流すだけなのだが、別れ際に3人が異口同音に語った内容が私を惹きつけた。「八王子城跡からは午後3時半までに下山する必要がある」とのこと。その理由がふるっていたのだ。「3時半すぎると”怖い思いをする”ことになる」そうで、それは「亡霊が出る」ということだった。3人はボランティアガイドにうってつけの勉強熱心な人たちであり、とっても生真面目な人柄であった。私のような無知な人間に対してさえ、滝山城の魅力を分かりやすく説明してくれた。その3人が真顔で亡霊の話をしたのだ。この顛末は本ブログの36回目「滝山城跡を中心に」の最後に触れている。

 残念ながら、私は亡霊にも幽霊にもUFOにも宇宙人にも神にも出会ったことがない。そういう存在と出会えた経験がある人はとても幸せだと思う。そういう邂逅がない不幸な私は、老い先は短いしこのまま魅力的な体験がないままこの世を去るのは誠に残念なことだと思っていた。そこに、亡霊との出会いの機会があることを3人が教授してくれたのである。これは「もう行くしかない!」と、私は決心を固めたのだった。

 224mの比高は克服可能だ。ゆっくり登ればいいのだから。時間はたっぷりとある。遅い時刻になればなるほどチャンスは増大するのだから。ただ、問題は「虫」の存在だ。これは無視できない。もっとも、私の嫌いな虫は「ヘビ」と「クモ」なので、人出の多い日曜日に出掛ければ奴らも人が怖いだろうから出陣数は少なく、たとえ遭遇したとしても何とか攻撃をかわせるのではないかと考えた。さらに登山道から絶対に外れなければ奴らとの接近確率はゼロに近づくのではとも思った。人の道からは外れても山の道からは外れない。この覚悟をもって八王子城跡に挑むことにした。

 それでも決意が揺らがないように、城跡登山の話を知人にすると、彼は「ヘビ」は虫ではないという言い掛かりをつけてきた。無知ほど恐ろしいものはない。「ヘビ」は虫以外の何物でもない。そもそも「虫」という漢字は「マムシ」を象形したのもであり、狭義の「虫」はマムシを指すのである。広義の「虫」は本来「蟲」と書いていた。それが後世に簡略化されて「虫」となっただけである。人の心を蠱惑(こわく)する「蜻蛉」や「蝉」や「夜の蝶」にはすべて虫偏が付いているが、この「虫」は元来、「蟲」だったはずだが、そうなると画数が多すぎて書ききれなくなるので省略形が用いられたにすぎない。ちなみに、ヘビの「蛇」だけは省略形ではない。さらに言えば、蛇中の蛇こそ真虫=マムシなのである。

 というわけで、とある日曜日、私は車で八王子城跡へ向かった。道筋はよく知っていた。城跡の近くにある元八王子町や恩方町は私の散策地に加わっていたからである。ただし、都道61号線にある「八王子城跡入口」交差点があることは知っていても、そこを西に曲がることがなかっただけだ。

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根小屋地区を通る道。その先に城山が見える

 交差点から城跡の駐車場までは約1.3キロ。この道は八王子城の「根小屋地区」と呼ばれていた場所にあるもので、かつては道の両側に家臣の居宅が並んでいて、一部には農地もあったようだ。庶民の住む町自体は現在の元八王子町あたりにあった。写真のやや右手に見えるのが八王子城の本丸がある深沢山(現在の(八王子)城山)だ。あの山に登るのである。ここから見れば、電柱よりも低いではないか、と言っても何の慰めにもならない。

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駐車場入り口にある碑とその先にある城山

 駐車場に到着。前述したようにここの標高は236m。ここから写真にある道を進むとほどなく管理棟に至る。本項の冒頭に挙げた写真がその管理棟(標高242m)だ。 ここには八王子城跡を案内してくれるボランティアガイドが詰めていて、北条氏照の居宅跡である「御主殿跡」まで解説付きで案内してくれる。

 ここで少しだけ迷った。先に本丸に行くか、それともまず足慣らしも兼ねて御主殿跡に行くか、である。八王子城について熟知することが最優先であれば、まずガイドを頼んで御主殿跡に行き、そこで得た情報を携えて本丸に向かうというのが常道だと思う。しかし、私の優先順位は「亡霊との出会い」が第二位であった。散策そのものが第一位で、八王子城を知ることは第三位である。つまり身体的行動が一番で知的行動は三番、その間に好奇心が入る。もしかしたら、亡霊とは身心の狭間にある存在なのかもしれない。

 ここに来る数日前から八王子城跡について下調べをしていた。ネット検索では、八王子城跡と入力すると「心霊スポット」の情報が無数に出てきた。私はこういったものにはまったく関心がないのですべて無視したが、もし仮に「亡霊」が存在するとするならば、それはこの世に対する恨みや心残り、無念が原因であると考えられる。そうであるなら、戦場で散った人々よりも、心ならずも死を選ばざるを得なかった人々のほうが、その想念はより強いと考えうる。それゆえ、戦場となった山上の曲輪や本丸、御主殿跡よりも、大勢が自害したとされる「御主殿の滝」周辺において亡霊との遭遇の機会が高いと考えられる。何しろ、午後3時半までは十分に時間があった。という理由から、私はまず本丸に向かうことにした。

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本丸へ至る登山道入口

 ガイドブックによると、管理棟から本丸跡までは約40分掛かるとされている。これは平均的な人々の平均的なペースでの登山時間なので、私のような怠け者はこの倍の時間が掛かると想像される。帰りは下りなので所要時間は40分とするなら、往復で約2時間、山頂で1時間ほど探索しても合計3時間だ。出発時間は午前11時なので、道中が無事であれば午後2時には管理棟まで戻ることになる。それからすぐ近くのガイダンス施設を見学し、午後3時過ぎに御主殿跡、御主殿の滝へ向かうことができる。そちらのほうは道がよく整備されているようだし、高低差もあまりないので体力的には楽だし、虫に襲われる心配も少ない。そうしてその辺をブラブラしていれば、午後3時半という「未知との遭遇」時間に突入することができる。我ながら、実に明瞭なロードマップであると感心してしまった。

 管理棟のすぐ裏手に、上の写真にある登山道入り口がある。本来なら真っすぐ行ける道があったらしいのだが、昨秋の大洪水で谷川に架かる橋が崩壊してしまったため、少しだけ迂回して入り口へと進むことになった。城山(深沢山)全体が八王子神社の境内でもあるので、入り口には鳥居がある。この地点の標高は250m、残り210mだ。日曜日とあって訪れる人は多いが、その半数は登山者スタイルである。そういえば、私が参照した資料の中には、本丸へ行く場合はスニーカーではなく、トレッキングシューズの使用が安心・安全だとあった。しかし、私はスニーカーとサンダル(便所サンダル)しか所有していない。それでも、滑り防止のため、できるだけ底がすり減っていないスニーカーを着用してきた。新品の便所サンダルもあったけれど、さずがに登山向きではない。私にもそのくらいの常識はある。

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最初の登坂路。これがかなり厳しい

 標高275m地点(推定)。この坂が厳しかった。戻るなら今の内だと思った。が、前を行く人は私を簡単に追い越してワシワシと登っていく。振り返れば、ハイカーらしき小集団が私に近づいている。私だけが落ちこぼれになりそうなので、背後の集団をパスさせてから、私はシズシズと歩を進めた。というより、そのような状態でしか進むことが叶わなかった。

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第一関門の金子丸(曲輪)にたどり着く

 きつい上り坂が続き、もはやこれまで、と思いかけたとき、第一関門である「金子丸」が見えてきた。坂が途切れている状態が視認できたからである。

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尾根を削平して造った金子曲輪

 金子曲輪(標高314m)の名は、金子家重を中心とする「金子一族」がこの曲輪を造成し、さらに八王子城攻防戦ではこの曲輪で前田利家軍と死闘を繰り広げたことからその名が付けられたとされている。金子姓は埼玉県入間市にある金子という地名に由来する。八高線金子駅があり、周辺は狭山茶の産地としてよく知られている。お茶を扱う有名な店に「金子園」があるが、そちらは金子の土地とどういう関係があるかは不明だ。

 金子一族は武蔵七党のひとつである村山党から派生した。村山の地名は「武蔵村山市」や「東村山市」が継承している。狭山丘陵の南に村山があり北に金子がある。金子一族は15世紀半ばに北条氏康(北条氏3代目)に降り、氏康の息子である北条氏照に伴っておもに下野国方面の戦いに加わっていた。くだんの金子家重がこの金子一族の出身であるかは不明だが、「氏照=八王子城」の関係を考えれば無縁というわけではなさそうだ。

 金子曲輪は尾根筋を削平して造成しただけに細長く、尾根を登る道以外の周囲は急な角度に落ち込んでいる。この斜面を必死に攻め登る前田軍は曲輪から転がり落ちる大石のためにかなりの犠牲者を出したと言われている。

 金子曲輪の所在地の標高は314m(推定)。本丸まではあと146m上る必要がある。そう考えると大変そうだが、もうすでに78mも上ったと考えれば意気軒昂になる。もっとも、その時点では標高は分からず、ただ、そこが三合目付近だということを知っていただけだが。

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登山路の足場はとても脆い

 金子曲輪で少し休憩をとり、次に目指す「柵門台」(標高365m)に向かってオロオロと歩を進めた。写真から分かるように足場はとても脆く、砕けた小石があちこちに散らばり、70から80度に傾いた堆積岩の角が露出している場所も多く、転ぶと怪我は必至と思われた。

 城山は関東山地に属し、地質は四万十層群の小仏層に属している。約一億年前にできた海成層がプレートの圧縮によって盛り上がったものなので、堆積層が大きく傾斜している。基本的には砂岩と泥岩の互層だが、泥岩層は脱水して固結した頁岩(けつがん、シェール)や千枚岩になっているために剥がれやすいのだ。シェールといっても間にガスは含まれていないのでオイル漏れはないだろうし、もしそれがあればますます滑りやすくなる。

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柵門台。ここに下からの道が集まる要衝

 八合目の柵門台に到着。ここの標高は365m(推定)。駐車場との比高は129m、本丸との比高は95mなので「六合目」ぐらいが妥当だと思われるのだが、石標にそうあるのだから致し方ない。しかし、誰かの悪戯か風化かは不明だが、「八」はなんとなく「六」にも見える。さらに言えば、私の場合は駐車場を起点にしているにすぎないし、城山(深沢山)の標高は三角点の位置からか446m(この場合は後述する小宮曲輪付近の場所を頂上としていると考えられる)とされているので、446÷10×8=356.8なので、柵門台の位置は標高の8割相当になる。

 こんなことを考えても道中が楽になる訳ではないのであまり意味はない。それよりも管理棟から金子曲輪に至る行程より、金子曲輪から柵門台に来るときのほうが、体はずいぶん楽だったような気がした。少しだけだが、山道に体が慣れてきたのかも知れなかった。

 柵門台の名の由来は不明らしいが、この場所は新道と旧道、北側にある陣馬街道(案下道)からの登山道、御主殿を見下ろす場所にある山王台からの道の合流点になっている。それだけに、この場所は金子曲輪に続く第二の要衝と考えられる。

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山腹の至るところに石碑があった

 柵門台から頂上までは九十九折れの道となる。そのためもあってか傾斜はやや緩やかになったような気がした。斜面には写真のような石碑が数多く建てられていた。ここがかつては神護寺山と呼ばれる霊山であり、修験者の修行の地であったことを思い出させてくれる光景だ。

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木々の間から都心の様子が望めた

 山頂が近いのか、ときおり、木々の間からは麓の景色が望めるようになった。八王子の市街地だけでなく、やや霞んではいるものの遠くには都心の高層ビル群も見て取れた。

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九合目付近にある「高丸」

 九合目付近には尾根を削平した曲輪があり、それには「高丸」の名があった。陣馬街道側に向いているので、「搦め手(からめて)」からの攻撃に備えて築かれたものかもしれない。ここから石を転がせば、敵に(一部は味方にも)打撃を与えることは容易なはずだ。斜面があまりにも急で崩れやすくなっているため、先端部は立ち入り禁止になっていた。もっとも、たとえ立ち入れたとしても私には怖くて近づけない。

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九・五号目からの眺望

 高丸を過ぎて道がほぼ平坦になる場所(標高432m)に出ると、視界が一気に開けた。東・南側では斜面が急な場所の尾根を横切るように造られた道だからだ。写真はその地点から東北東を望んだものだ。写真の中央部を横切って見える丘陵地は加住丘陵で、この中に滝山城跡がある。その向こうに見えるのは狭山丘陵で、写真では判明しづらいが西武ドームも確認できた。写真にはないが、筑波山も視認できた。八王子城攻防戦の前には敵の動きを確認するため、周囲の木々はすべて切り取っていたはずなので、視界はさらに良かったはずだ。そのことは敵(北国支隊)も当然、知っていたはずなので、戦闘は深夜に開始されたのだった。

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中の丸から八王子神社に向かう階段

 先ほどの場所からは道は少し下り、そして中の丸(標高429m)に到着した。西側前方に階段があり、それを上がると八王子神社の建物がある二の丸(標高435m)に至る。

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二の丸に鎮座する八王子神社

 二の丸には八王子神社が鎮座している。神社については本ブログの37回・悲劇の八王子城前編にて触れている。

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本丸を南側から守る松木曲輪

 北条氏照の家臣団では随一の実力を有していたと言われていた中山家範が守備についたのが写真の松木曲輪(標高439m)で、眼下には御主殿がある。現在は休憩所・展望台として整備され、登山客はここでの眺めを楽しむ。記念撮影場所でもある。到着時、おばちゃんハイカーの一群がベンチを占拠し、大声で〇〇が見える、△△はあれかも、などと喧騒の最中だった。

 そう、私がここを最初に訪れたのはコロナ騒ぎが拡大しつつあったもののまだ「自粛騒動」が始まる少し前だった。それが、追加撮影で2度目に訪れたときはすでに資料館や管理棟は閉鎖され、さらに3度目は駐車場すら利用できなくなっていた。その結果、資料収集が遅れ、本項の記述が伸び伸びになってしまったのだ。というのは単なる言い訳で、真相は花の撮影が面白かったこと、磯釣りが佳境に入っていたこと、ネットフリックスの『愛の不時着』にはまってしまったことが主な理由なのだが。

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横浜方面の眺め

 松木曲輪からは横浜みなとみらい地区の高層ビル群が見えた。中央にそびえているのはランドマークタワーだ。その背後に横たわっている山並みは房総半島である。実際にはかなりぼやけて見えていたので、350ミリの望遠レンズを用い、さらに輪郭をはっきりさせるために強めのフィルターを使用している。色は変だが、建物や山並みの様子は少しだけだがくっきりとしたようだ。

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相模湾や江の島が見える

 目を相模国方向に転じた。白く光って見えるのは相模湾で、やや左側にある2つの盛り上がりは江の島だ。左側の盛り上がりの上にそびえるのは「江の島展望灯台(シーキャンドル)」である。

 往時、八王子地域に住む庶民の大半は海を見たことはなかっただろう。戦国時代の末期、農民や職人は心ならずも城建設や城の守備兵に徴収され、そこで初めて城山に登り南側の景色を望んだとき、八王子からも海が見えるということを知ったに違いない。多くの人は命と引き換えに。

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標高460mのところにある本丸へ至る道

 松木曲輪から一旦、八王子神社のある二の丸にもどり、そこから階段や登山路を使って本丸の地まで上がる。最後の登り道だ。

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本丸の全景。かなり狭い

 本丸は標高460m地点にある。城山の頂上にもかかわらず平坦なのは造成したためだろう。広さは250平米、80坪弱である。通常、本丸というと堂々とした天守閣がある場所を想像するが、ここにはそういったものの痕跡はなく、そもそも広さがまったく足りない。資料によれば、ここには見晴らし台程度の建物があったようだ。八王子城そのものが権威の象徴というより防御に徹した砦という意味合いが強かったので、策略家であった氏照としては当然の造りだったと考えられる。ここは八王子城に残った家臣団のまとめ役だった横地監物吉信が守備していた。

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八王子城落城のカギとなった小宮曲輪

 小宮曲輪(標高445m)は三の丸とも呼ばれ、狩野一庵が守備していた。ここは私が登ってきた道の真上に位置するため、山頂曲輪の中では重要な防御拠点であった。正面から攻め上る北国支隊の主力の攻撃をよくしのいでいたものの、背後から忽然と現れた上杉軍によって制圧された。それにより守備側の体勢は一気に崩れ、結果、八王子城は落城した。

ガイダンス施設、そして御主殿跡を訪ねる

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城跡に関する情報が集約されているガイダンス施設

  城山からは一気に下り、無事に管理棟まで戻ってきた。時刻は午後2時少し前。松木曲輪で地元の老人(散策と体力維持を兼ねて週に3回は城山に登るそうだ)と話し込み、八王子城跡の見どころを詳しく教えていただいた。彼にとって「亡霊話」は価値領域に加わっていないようで話題にはまったく上らなかった。

 その老人から得た情報をさらに肉付けするために、駐車場の東にある「ガイダンス施設」を訪ねた。解説パネルや映像、さらに氏照やその家臣が使用していた鎧・兜などの武具(のコピー)などの展示品も多く、北条氏の歴史、氏照の生涯、八王子城の歴史とその模型など、とても分かりやすく、そして興味深いものが多かった。

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ベネチア製レースガラス器の複製品

 なかでも、ベネチアで作られたとされるレースガラス器の複製品が私の目を惹きつけた。日本でこのレースガラス器(の破片)が出土したのは八王子城跡のみらしく、氏照が単に有能な軍事外交家として歴史上に存在していたわけではないということの証明として、このガラス器がよく取り上げられるからである。

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大手門があったとされる場所

 ガイダンス施設を後にして、最終目的地である「御主殿跡」を訪ねることにした。管理棟の南にある林道を城山川沿いに西に進むと、写真の「大手門跡」に出る。八王子城跡一帯は国有林として保護されていたが、1951年に国の史跡に指定されて以来、何度も発掘調査がおこなわれている。写真の大手門跡は1988年の調査で、門の礎石や敷石などが発見された。現在は埋め戻されて広場のような形に整備されているのでその姿を見ることはできない。写真にある遊歩道のように整備されている道が御主殿に至るかつての道(古道)だとされている。

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古道は次に挙げる曳橋に続く

 古道は城山川から少し離れた場所にあるが、かつての城山川は水量が豊富だったと考えられているので、やや高い場所に道を造るのは当然のことと考えられる。

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城山川右岸から曳橋を望む

 古道は川の右岸に沿って造られ、写真の曳橋(ひきはし)を渡り、左岸の高台にある御主殿跡に至る。当時のものはもっと簡素で、位置ももう少し低い場所にあったと考えられている。曳橋の名から分かるように、綱で引けば簡単に橋を壊すことができるように造られていた。これは御主殿を敵軍の侵入から防ぐための当時では当たり前のように造られていた様式である。

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復元された虎口

 曳橋を渡り少しだけ下流方向に進むと、写真の虎口(出入口のこと)が見える。当然のごとく「枡形虎口」になっており、敵軍が進入してきたときは左右にある土塁上から攻撃する仕組みになっている。これもまた、当時ではごく普通に見られる様式である。そういえば、根小屋地区の一角にも道路がクランク状になっており、それは氏照が再興したと考えられている宗閑寺(神護寺、第37回に写真あり)付近にその姿は今でも残っている。その道の形状から、そこにも大手門があったと推定されている。

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当時の形を復元した冠木門

 虎口の階段を上がると写真の冠木門(かぶきもん)があり、これをくぐると御主殿(城主の館)の敷地内へ入る。

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敷石だけが残る城主の館跡

 1590年6月23日の戦闘で御主殿は焼け落ち、後には廃墟となって時が過ぎた。土砂が覆い、緑が育ち、御主殿跡はまったく姿を消した。それが発掘調査が進むにしたがって礎石が見つかり、それらには焼け焦げが残っていたことから、館のものであることが判明した。それらは調査が終わると埋め戻されているので、写真に見える石は形も位置もすべて復元したものである。したがって、焼け焦げを見ることはできない。本物はこの地下に眠っている。

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庭園跡も復元されている

 調査の結果、石の配置から写真の場所には庭園があったと推察されている。平安時代に記されたとされる日本最古(世界最古とも)の庭園書である『作庭記』によれば、庭の価値は石の配置で決まると考えられていた。写真の配置が優れたものなのかどうかは私にはまったく不明だが、庭園でありそれには池もあったということが判明しているようだ。池には遣水(やりみず)が付き物だが、これは城山からの湧水を利用したと想像される。滝山城跡にも大きな池が2つあったが、それらは飲料水や生活用水としても利用されていた。こちらの池はその規模からいって、庭園を彩るものだったと思われる。

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会所跡

 調査の結果、ここには会所があったと考えられている。写真のものはもちろんすべてが復元されたもので、これからその会所の広さが想像できる。ここでは、城主と重臣が集まって重要な会議が開かれていただろうし、戦闘直前には多くの人々がここに詰めて入念な準備がおこなわれていたと考えられる。

八王子城落城

 1590年6月22日、北国支隊の主力である前田軍は元八王子の月夜峰(現在、共立女子中高がある辺り)に陣を構え、搦め手から攻める上杉・真田軍は下恩方付近に陣を構えていた。無血開城を要求した前田利家は使者が殺害されたため、実力で城を落とすことを決定した。戦いは22日の夜半に開始することが決まった。しかし、この夜は霧が濃かったようで、実際に戦闘が始まったのは23日の午前2時ころだったという説が有力だ。

 大手口から攻め入ったのは大道寺政繁(元松井田城主)が先導する軍勢だった。大道寺は北条党であったが、松井田城落城後は北国支隊の先導役を務めていた。攻め手は約15000とも35000ともいわれるほどの軍勢、一方の城の守り手は約3000。しかし武士は500~1000ほどで、あとは戦闘経験がまったくない農民、職人や婦女子だった。氏照は小田原城に籠り、4500といわれた家臣団の大半も城主にしたがって小田原城にいた。

 金子曲輪や山王台が落とされたものの柵門台辺りで戦闘は膠着状態となった。とくに小宮曲輪の守りが固く、多勢であるはずの攻め手は打開策を見いだせずにいた。そんなとき、搦め手から攻めていた上杉軍の武将である藤田信吉の配下に属していた平井無辺が八王子城の地理に詳しいということを藤田に告げた。八王子市の北隣に日の出町がありそこに平井という地名がある。平井無辺はその地の出身だったのだろうか、藤田にしたがう前には北条側いて八王子城の普請をおこなっていたことがあった。大道寺のように戦闘に敗れてやむなく秀吉側についた者は何人かいたが、平井のように秀吉陣営に寝返ったのは平井ただ一人だったと考えられている。それだけ、北条側の結束力は強かったのだ。

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搦め手の拠点のひとつになった心源院

 搦め手は下恩方に拠点を構えていた。写真の心源院も搦め手側に占拠され、拠点のひとつになった。北浅川(当時の名前は案下川)の支流である滝沢川(当時は滝の沢)は八王子城の北側を流れ下る谷川だが、その途中に東沢という小さな谷川があり、それを伝って登っていくと小宮曲輪の北側(つまり裏手)に出ることが可能だった。よほど地理に詳しいものでなければ知らない小径で、小宮曲輪を守備していた狩野一庵の部隊も背後はまったく固めていなかったのだった。平井無辺が先導する上杉勢はこの小径を利用して、攻め手がもっとも苦労していた小宮曲輪を一気に攻め落とした。

 先述のように小宮曲輪の標高は445m、一方、中の丸は429m、二の丸は435m、松木曲輪は439mと、小宮曲輪を制すれば他の山頂曲輪に攻め込むのは容易だった。勝敗は決した。本丸にいた横地監物は落ち延び、檜原村辺りで自害した。その他の重臣はいずれも戦いの場所で戦死、もしくは自刃した。

 こうして、難攻不落といわれた八王子城は僅か一日で落城した。平井無辺の裏切りがなければ八王子城は相当の期間、持ちこたえたと考えられている。しかし、歴史に「もし」はない。

 八王子城で生け捕りにされた人々のうち、小田原城に籠城する者の父母妻子は小田原に送られた。戦死した中山家範や狩野一庵などの首は小田原に運ばれて河原に晒された。かくして小田原勢は戦意を失い、7月5日、小田原城は開城され、北条氏5代100年の歴史は幕を閉じ、同時に戦国時代は終了し豊臣秀吉の天下統一が達成された。

御主殿の滝にて思うこと

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御主殿の滝への降り口

 御主殿跡を出て御主殿の滝に向かった。城山川の右岸は切り立った崖になっていて人を寄せ付けず、河岸への降り口は左岸側、つまり御主殿跡の直下にあった。写真にある通り、墓碑があり新しい卒塔婆もあった。新しめの花も手向けられていた。

 御主殿は火を放たれ、完全に焼け落ちた。戦闘で命を奪われた者もいた。山林の中に逃げた人もいた。逃げまどう人の一部は捕虜になったが、捕虜になることをよしとしない人々は自刃し相次いで滝の下の淵に飛び込んで命を絶った。氏照の正室の比佐もその一人だったという説があるようだ。このため、城山川は3日3晩、流れが血に染まって真っ赤だったという言い伝えが残っている。

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水量の乏しい御主殿の滝

 滝の水量は乏しく、多くの人々が入水したといわれる淵もない。河原の全体の様子を見れば私のような釣り人にはすぐ分かることだが、かつては水量が豊富だったということは簡単に判明できる。河川敷の広さを見れば、かつての流路や流量は容易に推定できるのである。流量が減った理由はただ一つ、圏央道の「八王子城跡トンネル」工事が原因だ。施工側もそのことはトンネル設計時点から分かっていたようで、帯水場所を傷付けないように設計し、かつ工事を進めたのだ。しかし、現実には帯水層は大きく破損し城山川は水の多くを失った。現在、リニア新幹線のトンネル工事が静岡県の反対でストップしているが、これも理由は同じで、そのまま工事を進めれば帯水層は破壊され、大井川は多くの水を失うからだ。

 ともあれ、こうした顛末から「亡霊」や「心霊」話が生まれたのだろう。が、私は3度、ここを訪れているが、そんな気配はまったく感じられなかった。当たり前の話で、亡霊や心霊の存在など、マルクス・ガブリエルの言葉を借りて表現すれば、私の「意味の場」にはないからである。人は、2つ丸が並んでいるだけでそれを顔としてイメージする場合がある。「幽霊(化物)の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるように、人は恐怖心からススキをお化けに見間違えることができる存在なのだ。幽霊の実在を認めている人のみが幽霊は「意味の場」に現われ、それに出会うことができるである。

 亡霊や心霊とはいったい誰のことを指しているのだろうか?妖怪でもそれに名を与えなければ、仮に出会ったとしても「出たな妖怪、何か用かい?」というだけだが、それらに「砂かけばばあ」「子泣きじじい」「いったんもめん」といった名が付与されることで具体性を帯び、実在性が高まり、認識が共有できる。しかし、亡霊にはどのような名を付けるのだろうか?「比佐の亡霊」と名付けることは可能だが、比佐がそこで自害したという証明は不可能だ。他の名もなき人々がそこで自害したということは事実だろうが、その名を特定できる人のみが亡霊として現れるのだろうか?

 ホモサピエンスは誕生以来、1000億人を数えるという話を聞いたことがある。その数が正しいかどうかは不明だとしても現存するH.サピエンスが80億人だとすれば、今まで920億人が死んだことになるが、その中で納得して、あるいは好んで死んでいった人はどれほどいるのだろうか?大半は「心ならずも」死んでいったはずだ。とすれば、この世界には920億の亡霊や心霊が存在することになる。なぜ、八王子城跡の御主殿の滝付近に偏在する必要性があるのかまったく理解不能だ。

 こういった話をすると、「お前はその存在を信じてないからだ」と言われる。結局、信仰のレベルになる。あるいは「お前はまだ出会ってないからだ」とも言われる。とするなら、亡霊は”a priori"な存在となる。経験に先立つ存在であり、経験がその存在を証明することになるなら、それは帰納的(inductive)な推理にすぎず、今まで仮に亡霊が存在したとしても、これからもそれが存在し続けるとことに確然性はなく、単なる蓋然性にすぎないことになる。

 私は亡霊にも幽霊にもUFOにも宇宙人にも神にも出会ったことはないが、それらはすべて経験的存在ではなく「純粋存在」だと考えている。つまり、アプリオリな存在ではなく、超越的(transzendental)存在なのだ。それゆえ、それらの普遍性は証明できず、その存在を信ずる人々の「意味の場」にのみ実在することになる。私の価値領域にはそれらは含まないので、興味の対象としたときにのみ存在するだけである。

 ただし今回、私が亡霊との出会いを感じることができたならば、以後、亡霊は純粋存在でありながら私の意味の場の中に立ち現れてくるようになる。しかしそれは経験を越えた存在なので、いつでもどこにでも現れるといわけではなく、私が恐れを抱く、たとえば虫が襲ってくるような深い森の中で、あるいは暗い薄野原で、亡霊は私に呼びかけをするようになる。そんな場面に遭遇したとき私は、それに応答し、名付けをすることになるだろう。親近感を増すために。これ以上、恐怖の対象を増やしたくないので。

 が、そんな出会いが生じる可能性は限りなく小さい。なぜなら、純粋存在に出会えるほど人生は長くない。

〔39〕「つゆのはしり」に濡れながら思うことなど

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東八道路のガードフェンスで見つけたツキヌキニンドウ

9月入学というバカげた議論

 ここにきて新型コロナの新規陽性者の確認数が減ってきており、残る5都道県の緊急事態宣言の解除がおこなわれることになった(一時的だと思うが)。これは国民の大半が素直に大型連休中に自粛行動をおこなったこと、各自治体が数多くの公共施設や駐車場を閉鎖して市民の移動を制限したこと、相変わらずPCR検査を限定的におこなったことなどの「成果」によるものだろう。これに加えて、天候が高温・湿潤方向に進んでいるため、ウイルスの活性が低下していることも理由のひとつに考えられる。コロナ禍の終息はまだ数年先だろうが、一時的な収束に至る蓋然性は高まった。

 コロナ禍に対する一連の行動で政府の無能ぶりにはますます磨きがかかり、さすがにのん気な国民も内閣支持から離れつつある。その一方、目立ちたがり屋が多い知事連中への期待感が高まり、彼女・彼らのパフォーマンス行動に拍車がかかっている。国民の為政者への「お任せ度数」は不変なので、そう遠くないうちに国民の不平不満は、今度は知事連中に向かっていくことは必定だろう。

 私が今、いちばん不満に思うことは、検事長の賭けマージャンでも、やっと届いたアホノマスクでもなく、学校の9月入学への移行の動きである。9月入学という考え方はずっと前からあったようだが、さして大きな議論にはならずにいた。ところが今年の4月、現役高校生が自分たちの学校生活が実質的に短くなっていることへの不安や不満から9月入学の署名活動などが始まり、これに呼応するかのように新自由主義から国民社会主義に転じた現知事や元知事らが同調の声を上げ、さらに「やってる感」をとにかく出したい首相や閣僚や官僚が、21年秋から9月入学に移行できるかの本格的な検討を始めているのである。これが実現すれば、今の児童・生徒の学年末は来年の7月まで延長されることになり、新コロで臨時休校となっている分の授業数を取り戻せるというのである。

 夏・秋から新学期が始まるというのは欧米標準であり、日本がこれに倣うと生徒・学生の海外留学に連続性が生まれること、春入学では真冬が受験シーズンとなり例年、大雪や季節性インフルエンザの流行で多くの受験生が障害を受けているが、これが回避できること、初夏の卒業になれば欧米と同時期になるので、国内だけでなく欧米各国から優秀な人材を確保できると経団連は歓迎の意向を表明していることなど、そのメリットを挙げている。

 愚か!というほかはない。楽しい学校生活をできるだけ長く過ごしたいという高校生たちの心情は理解できなくはないが、そんなことはいっときの感傷に過ぎない。勉強の遅れを問題にする向きもあるが、今時、勉強の機会は学校以外にもあるし、むしろ、学校の授業が本来の「学習意欲向上」の妨げになっている場合のほうが多いのではないか。海外留学を本気で考える優秀な生徒であれば、学校などには頼らず自らの努力で克服可能だろう。そのために学校が用意できることは、さしあたり「飛び級制度」であろうし、それ以外には考えられない。確かに、受験期が6月頃であれば大雪や季節性インフルエンザ禍は回避できる。が、その替わりに大雨、台風、大洪水という災難が襲う場合がある。どのみち、日本は自然災害からは逃れられない運命にある。海外から優秀な人材を確保できる企業が日本には今、どれだけあるのか。むしろ、優秀な人材ほど海外に流出しているのではないか。そもそも、仮にそうであるなら、新卒一括採用を止めれば良いだけの話だ。

 さらに言えば、今度のコロナ禍が5月いっぱいで収束する蓋然性は極めてゼロに近い。欧州やアメリカなどではやや落ち着きを示しつつあるが、ブラジル、ロシア、南米各国、サハラ以南のアフリカ、オセアニアなどはこれからが拡大期と言われているし、現に感染者増加の動きは加速しつつある。北半球はこれから夏を迎えるのでウイルスの活性は低下するかもしれないが、南半球ではこれから涼しくなるのでウイルスは活性化すると考えられている。したがって、欧米諸国に見られる一時的な収束観測は完全な終息とはまったく異なり、第2波や第3波は欧米だけでなく日本にも晩秋頃には必ずやってくるだろう。そうなれば再び臨時休校となり、たとえ学年度を7月まで伸ばしたところで足りなくなるかもしれないのだ。

 そもそも歴史上、ウイルスの根絶は不可能であり、今回の「SARS-CoV-2」も同様で、ワクチンの開発とその配布が世界全体に行き渡らない限り、コロナとの共生すら実現できない。現に、ワクチン開発が進んでいる季節性インフルエンザであっても毎年、世界では約65万人が犠牲になっている。

 9月入学のような大改革は平時に熟議し、新たな制度に移行するためには万全の態勢で臨まなければならない。拙速な議論は慎むべきだろうし、今政府がおこなうべきことは、早急で意味のある経済対策、第2波に備えるための医療体制の充実ではないか。

 学校制度でいえば、そもそも、新年度が「春」に始まるのは当たり前のことではないか。台風がやってくる頃に「明けましておめでとうございます」などという馬鹿者はどこにいるのか。

 暦の起源はローマ暦にあるとされる。前8世紀半ばに作成された「ロムルス暦」(ロムルスは伝説上のローマ建国者の名前)は1年を10か月に分け、1月を「マルティウス」(軍神マルスのこと)、2月を美の神に由来する「アプリーリス」、3月を豊穣の神から「マーイウス」、4月は結婚の神から「ユーニウス」と付け、5月からは面倒になったのか「5番目の月」「6番目の月」と続け、「10番目の月」で終わっている。1か月を30か31日にしているのであとの約60日には月名はない。なお、「マルティウス」は英名では「マーチ」になり今の3月である。つまり、気候がやや暖かくなり、そろそろ戦争や農耕を開始する頃が年の初めであり、刈り入れが終わり、寒くなったので休戦状態に入る冬はお休みになるので暦には記さなかったのだ。

 その後、これでは不便だということで、前8世紀後半の「ヌマ暦」(ヌマはローマ2代目の王の名前)で、11番目の月の名を「ヤヌス」、12番目を「フェブルス」と横着をしないで神の名を付けた。

 前2世紀の半ば、暦を大きく改正しなければならない出来事が続いた。イベリア半島での戦争(ルシタニア戦争など)である。今までは執政官は「マルティウス」の月の半ばに就任式がおこなわれていたが、その戦争は冬場にも続いていたので、もう少し早い時期に就任式をおこなって政治的・軍事的体制を整える必要が出てきた。そこで、冬至(12月22日頃)の次の月を1月にすることになった。冬至は昼が一番短い日なので、1月から昼がだんだん長くなると考えると年の始まりに丁度良いと考えたのだろうか。このため11番目の月(ヤヌス)が1月(英名ジャニュアリ)、12番目の月(フェブルス)が2月(フェブラリ)となったのである。このため、たとえば9月(英名セプテンバー)は7番目の月(セプテンベル)である「7=セブン」が、10月(オクトーバー)には「8=タコの八ちゃん)が現在にも残っているのだ。

 以上のように、気象学的には冬至の次の月を1月とするのは当然のようだが、人間の文明の歩みという点から考えると、農作業を始める時期を一年の出発点に置くのはごく自然のことである。春分点から夜より昼が長くなるので、これを農作業を始める時期と考え、春分点(3月20日頃)の次の月から本当の新年が始まると考えるならば、4月を始業の月とするのは至極当然のことなのである。学校の新学期、入学式が4月にあるのはほぼ100%、理にかなっているのである。

 春はフランス語では「プランタン」、イタリア語では「プリマヴェーラ」、スペイン語では「プリマベーラ」であり、これらはいずれも”pri"で始まる。この"pri"は一番目を意味する。春が一年の始まりと考えるのは、ローマ暦の成立過程から考えても当然すぎるほど当然のことなのである。

 4月の初め頃といえば桜が満開になる時期である。近年では温暖化のためか3月下旬に満開になってしまうことがあるが、それはそれで卒業の時期に当たるので大変に御目出度い。卒業・入学という人生の切れ目を桜とともに迎えるというのはハレの日に相応しいというものである。万葉集の頃こそ「花」は梅を指すことが多かったが、平安期以降、現在に至るまで「花」といえば「桜」である。私はナショナリスト愛国者)ではなくパトリオット(愛郷者)なので、郷土の花である桜を「人生の花」とするのは必然的であると考えている。

 これが7月卒業、9月入学になったら、どんな花と結びつくのか?7月の花は、ハイビスカス、サルスベリ、ヒマワリが代表的だ。ハイビスカスは華やか過ぎ。サルスベリは浪人生には可哀そう。ヒマワリでは日和見主義者になりなさいの比喩になる。いずれも卒業花には不適だろう。9月の花はヒガンバナキンモクセイ、コスモスあたりか。ヒガンバナは葬式には良いが入学式にはどうか?キンモクセイはトイレを連想するのでハレの日には不向き。唯一、コスモスは良いかも知れない。コスモスの別名は「秋桜」だからだ。ただし、コスモスを「秋桜」と書くようになったのは1977年からで、それまでは「大春車菊」が日本名だった。コスモスは明治期に渡来した外来種なので標準和名は存在しない。コスモス≒秋桜になったのは、さだまさしが作詞作曲して山口百恵が歌って大ヒットした有名な曲による。それゆえ、秋桜にかなをふれという問題が出たら「コスモス」は不正解で、「あきざくら」が正解となる。こんなことは「芸」の世界ではよくあることで、中原中也が「含羞」と書いたら「がんしゅう」と読んではだめで、「はじらひ」と読まねばならない。ただし、漢字のテストのときは「はじらひ」と書くとバツになる。ともあれ、コスモスを入学式の花とするのは「外国かぶれ」と同義である。

 コロナ禍のために5月の東北旅行は中止、5月20日の興津川の鮎釣り解禁は延期、植物園、自然公園、図書館はそろそろ再開される可能性は高いがまだまだ制限は多そう。それでも、6月1日にはあちこちの川で鮎の友釣りが解禁となるので、楽しみはまたひとつ増える。相変わらず、三浦半島での磯釣りは面白いし、例年よりも家にいる時間が長いので読書の幅が広がったし、徘徊中に道端や野原で春や初夏に咲く花を観察する時間は例年以上に増えた。いつもとは違う春から初夏だったが、数々の新しい発見や体験があったという点では、いつもの年と同じぐらいの充実度はあった。

ホタルブクロ(蛍袋、チョウチンバナ)

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ホタル狩りは遠き日の記憶

 キキョウ科ホタルブクロ属の多年草。日本各地の山林や野原に咲く。日当たりが良い場所を好むが日陰場所でも生育する。種や子株から増えるが、成長が早いので数年後にはこの花だらけになることもある。

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花弁には斑点が多くある

 学名は"Campanula punctata"で、種小名の「プンクタータ」は斑点が多いという意味だ。花弁の表側からでも斑点は確認できるが、釣鐘の内側をのぞくと斑点がたくさん確認できる。この花はホタルが飛び交う時期に咲き、子供たちは捕らえたホタルをこの花に入れて持ち帰ったというところから「蛍袋」と名付けられたとされている。そううまい具合にホタルを捕まえた場所にこの花が咲いているかどうかは不明だが。なお、花色は紫が多いが、白やピンクのものもある。

オオキンケイギク(大金鶏菊)

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初夏の土手を彩る雑草

 キク科ハルシャギク属の多年草。北米原産で、日本には鑑賞目的で明治中期に移入された。公園や河原の土手、高速道路の法面などに植えられ、かなり大型の花で鮮やかな花色とその群生が見事なので一時期は珍重されたが、繁殖力旺盛なことから在来種を駆逐してしまうという理由から、現在では「侵略的外来種ワースト100」に認定されている。

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雑草とて、群生は素敵だ

 花の姿がキバナコスモスに似ているので、観賞用としてこれを庭や道端に植えて大切に育てている人も多い。しかし、現在は栽培、販売、譲渡が禁止されている。この花を育ててみたいと考えている人は、河原の土手などからこっそり根っ子ごと引き抜いて持ち帰っているようだ。多摩川の土手を散策していると実際、そのような行為をおこなっているオバサンやオジイサンを何度か見掛ける。これは違法なのだが、あくまで「キバナコスモス」であると主張すれば「事実の錯誤」として認められるかもしれない。

オトメギキョウ(乙女桔梗、ベルフラワー

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名にし負わばいざこと問わんベルフラワー

 キキョウ科ホタルブクロ(カンパニュラ)属の多年草クロアチア西部の石灰岩質の崖に自生する。草丈は低く10~15cmほどで横に這うように茎が伸び、上向きか横向きの花をたくさんつける。ベルフラワーの別名がある通り、花は釣鐘形をしている。和名が乙女桔梗となっているように花は小さく、形はキキョウに似ている。花色は写真のものが多いが、白色や青に近いもの、紫が強いものなどがある。花言葉に「感謝」というのがあるが、これは花が教会の鐘に似ているかららしい。属名の「カンパニュラ」は以前にも記したように「釣鐘」を意味するので、教会だけでなくお寺の鐘でも良いと思う。

ガウラ(山桃草、白蝶草)

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他人の庭で盗み撮り

 アカバナ科マツヨイグサ属の多年草。流通名のガウラも標準和名のヤマモモソウも、旧属名が"Gaura"=ヤマモモソウだったためにそう呼ばれていた。現在でもガウラの名で流通しているが、この花を好む人(私もその一味)はハクチョウソウの名で呼ぶことが多い。これは写真からも分かる通り、花の形が白い蝶に似ていることによる。

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別の庭で見つけたガウラの満開の姿

 背丈は1m以上にもなるが茎はとても細いのでいつも風にそよいでいる。花の命は3日ほどと短いが長い穂にたくさんの花を付けるため、全体としての花期は案外長い。今の時期は南風が強いときが多いので、白い蝶たちはいつも飛んでいるように見えるが、彼女らは茎に囚われているため、大空を舞うことなく、ほどなくして萎れてしまう。「白蝶は哀しからずや」である。

 花色は白がほとんどだが、改良園芸種としてピンクや赤、さらにその複色のものが出回っている。それらも美しいが、白蝶草の名にあった白色がもっとも素敵だと思う。

ヒペリカム・カリキナム(西洋金糸梅、ビヨウヤナギ)

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ビヨウヤナギの名前で知られる

 オトギリソウ科オトギリソウ属の半常緑性低木。ビヨウヤナギ(美容柳)の名前で流通しているが、厳密には種が異なる。本種はビヨウヤナギと同様にキンシバイの仲間で、野生化して樹高が低くなり、花は大きく咲き、雄蕊が長く伸び(キンシバイの雄蕊はカールする)て見応えがあるため、近年ではあちらこちらで見掛けるようになった。枝は横に伸びて地面を覆うように生長するためグランドカバーとしても利用されている。写真はルミエール府中(府中市立図書館)の建物の周囲に植えられているもので、開花が始まったところ。枝先には多数のつぼみを有しているので日いちにちごとに花数は増えている。これには蜂も大喜びの様子だった。

カリブラコア

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ペチュニアの改良小型品種

 ナス科カリブラコア属の一年草(原産地では多年草)。夏の花として定番であるペチュニアの近縁種で、かつてはペチュニア属に含まれていたが現在は独立した。南米原産で、日本では「サントリーフラワーズ」が数種類を掛け合わせて1980年代に園芸種(ミリオンベルシリーズ)として発売した。ペチュニアより小型で花数も多いため人気種となった。初めは単色だったが改良が進み、現在では数えきれないほどの花色のものが発売されている。また、ペチュニアとの掛け合わせもおこなわれているために花の大きなものも出回っている。さらに、八重咲き品種も増え、現在ではペチュニアの人気を凌駕しているようだ。なお、写真の花は「ホーリーカウ」という商品名で出回っているもので、国分寺市の某所の家の前に咲いていたものを盗撮した。 

ムギナデシコ(麦撫子、ムギセンノウ、アグロステンマ

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風にそよぐナデシコ

 ナデシコ科ムギセンノウ属の一年草。地中海沿岸が原産地で、日本には明治期に移入された。属名の"Agrostemma"のアグロは畑、ステンマは王冠をあらわす。花は大きく、しかし茎は非常に細いので、少しの風でもゆらゆらとなびき写真撮影に苦労する花だ。この頼りないが美しい王冠は、現地では畑作に邪魔な雑草として扱われている。

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お願いだからじっとしていてくださいね

 花色は写真の紫系がほとんどだが、ピンク系や白系もある。今回、白系も何度か見掛けたのだが、いずれも風が強い日だったので撮影は断念せざるを得なかった。標準和名はムギセンノウ(麦仙翁)だが、園芸の世界では「アグロステンマ」や「ムギナデシコ」の名前で流通している。欧州では雑草だが日本では立派な園芸種。が、実際にはかなり野生化している。

アップルゼラニウム(スィート・センテッド)

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センテッド・ゼラニウムの仲間

 フウロソウ科ペラルゴニウム(テンジクアオイ)属の多年草。数多いゼラニウムの中では「センテッド・ゼラニウム(ハーブ・ゼラニウム)」の仲間として分類されている。葉の香りは「ミント」「ストロベリー」「レモン」「ローズ」などの種類があるが、本種は仄かにリンゴの香りがするために「アップル」の名が付けられている。

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仄かにリンゴの香り

 縦長に咲く花はかなり小さく、1から2cmほどしかない。ゼラニウムといえば近年では絢爛豪華な花弁を競っているが、本種は写真の通り白地に僅かに紫が入るといった奥ゆかしい色彩であり花数も少ない。花だけでなく葉っぱも小さく、しかも匍匐性があるので管理はしやすい。なお、最近ではリンゴの香りがしない改良種の「アップル・ゼラニウム」も出回っているようだ。こうなると、なんのための改良?なのか不明だ。

シモツケ(下野)

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名前はその花が最初に見つかった場所に由来する

 バラ科シモツケ属の落葉低木。学名は"Spiraea japonica"。属名はギリシャ語で螺旋を意味する。これは果実の形に由来する。種小名に「日本の」とあるように日本が原産地である。最初に発見されたのが下野(現在の栃木県)だったことから「シモツケ」と命名されたとされている。

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こちらは赤色が強いタイプ

 雄蕊が長く毛羽立っているように見えるが、小さな花の形から想像できるように、以前に紹介した「ユキヤナギ」や「コデマリ」と同じ仲間である。小さな花がまとまって咲くものを「複散房形花序」というが、ユキヤナギコデマリのように形は整っておらず、大小に違いだけでなく不整形のものも多い。

 花色は白、ピンク、赤で、今回は赤色のものが多く見つかった。東八道路の歩道の植え込みには赤色のものだけが延々と続いて咲いていた。一方、野川公園内ではピンク系が多かった。個人的には白系が好みなのだが、今季はまだ発見に至っていない(ホームセンターや園芸店では見掛けているが)。6月いっぱいまで咲き続けるので、残りあと一か月、白系との出会いが楽しみだ。

ハゴロモジャスミン(羽衣ジャスミン

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香りは存在に先立つ

 モクセイ科ソケイ属の半常緑つる性の花木。中国雲南省原産。学名は"Jasminum polyanthum"で、いわゆるジャスミン茉莉花)の仲間。種小名からわかるとおり花数はとても多く、満開時には全体が真っ白になる。香り(匂い)はかなりきつく、この花が咲いているときは香りが風に運ばれて届いてくるので、かなり遠くからでもその存在が分かるほど。秋のキンモクセイといい勝負である。比較的新しい存在なのだが、見た目の美しさと独特の香りから一気に広まり、つる性ということもあって塀やフェンスに絡ませて育てている姿をよく見掛けるようになった。通り道にあるのは歓迎できるが、近隣にあると少しだけ迷惑に思う人もいるかも。

ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)

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初夏には欠かせない雑草

 アカバナ科マツヨイグサ属の多年草。メキシコ原産で岩場の多い乾燥地帯に自生する。日本には江戸時代に観賞用として移入された。マツヨイグサ(待宵草)の多くはその名の通り、昼間は花を閉じていて夕方に咲くのだが、本種は日中に開花するのでヒルザキツキミソウの名がついた。近年は空気が一時期に比べると澄んできているので昼間でも月が見られるのだが。花色は写真のピンクのものがほとんどだが、中には白、黄、オレンジもあるらしい。夜咲きのマツヨイグサは黄色の花が多いが、いちばん多く見られる昼咲きタイプの白花は私の場合、未発見である。

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ツキミソウにはアリンコがよく似合う

 近縁種のアカバナユウゲショウの白花タイプは今年になって開花場所を発見したが、本種では未発見なので、これが6月の花探しの課題になっている。写真のようにピンクが薄いものが多くあるし、本種のほとんどは野生化しているので発見は近いかも。 

ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)

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香りと色変わりが楽しめる

 ナス科バンマツリ(ブルンフェルシア)属の熱帯性常緑低木。ブラジル原産で特に改良園芸品種はない。和名から分かるとおり、かなり香りが強く(ハゴロモジャスミンほどではない)、南米原産で、香りはジャスミン茉莉花)に似ているという特徴を有する。つまり、匂い+外国産(蕃)+ジャスミンのよう(茉莉)という具合に命名されたらしい。

 花色にも特徴があり、咲き始めは濃い紫で、次第に色が褪せて薄紫になり、最後には白色になって枯れるという変化を遂げる。アジサイのように七変化とまではいかないが、香りだけではなく色彩の変化も楽しめるという具合の良い植物だ。

 が、万事良好というわけにはいかず、樹木全体に毒性(アルカロイド)を含み、仮にこの植物の果実を犬や猫、幼児や私のような食いしん坊の大人が食べてしまうと激しい痙攣を起こすことがある。以前にも述べたが、観賞用植物の多くが毒性を有していることは案外、知られていない。「食べるな危険!」

ドクダミ(蕺菜(しゅうさい)、毒溜め、十薬)

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八重咲きだが匂いは同じ

 ドクダミドクダミ属の多年草で一属一種。東アジアや東南アジアに広く分布し、薬草や食菜に用いられている。湿り気のある半日蔭や日陰に自生し、地下の根(ランナー)が広がって増えていくので退治が困難な雑草だ。しかし、今の時期は真っ白な花を咲かせ、これがなかなか美しい。ただし、葉や茎に独特の臭気(良い香りという人も稀にいる)があるため、かなりの嫌われ者なのでこの花をじっくりと眺める人はあまりいない。

 ドクダミといえば「ドクダミ茶」が有名だ。あの独特の臭い(匂い)は乾燥させたり煮たりすると消えるため、今度はドクダミがもつ効能が浮かび上がってくる。江戸時代の儒学者である貝原益軒が「十種ノ薬ノ能アリ」と記しているように、傷口の止血・再生、風邪や便秘の治療、高血圧の予防、冷え性対策だけでなく、鼻に詰めると蓄膿症にも効くとされている。殺菌効果だけでなくウイルス対策にもなると考えられているので、新型コロナ感染予防の効果もあるかもしれない。私が今のところ「SARS-CoV-2」に侵されていないのは、もしかしたらドクダミ好きが理由のひとつかもしれない。

 ところで、写真のドクダミの花は通常のものとは異なり「八重咲き」タイプだ。ただし、通常のドクダミも写真の八重咲のものも、白いのは花弁ではなく総苞片(そうほうへん=蕾を包む葉っぱが変化したもの)である。通常のものは苞が4枚なのに対し、八重咲きタイプは苞が多数あり、蕾が生長するにしたがって順々に開いていく。写真のものは蕾の頭頂部がまだ白い苞に包まれている状態で、これが完全に開き切ると、通常タイプと同様に緑色の花部が姿を見せる。

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苞が完全に開いた状態の花

 通常タイプのドクダミの苗を購入する人はいないが、八重咲きタイプのものは貴重なので園芸店やネット通販(たとえば楽天で一苗750円+送料)で取り扱われている。写真は近所にある団地の植え込みで見つけたもので、無数にあるドクダミの花の中、ほんの数株だけが八重咲きだった。八重咲きになる理由は不明のようで、突然変異といっても先祖帰りしてしまうものも多いそうなので、来年の今頃は同所で八重咲きのドクダミは見つけられないかもしれない。が、来年の今頃まで生きて再び八重咲きドクダミと出逢いたいという希望が生まれた。ドクダミは、精神の薬にもなる益草である。臭い(匂い)は少し気になるが。 

サルビア・ガラニチカ(メドーセージ、ガラニチカセージ)

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かなり大型になるサルビア

 シソ科アキギリ属の多年草。南米原産で、パラグアイに住むグアラン族の名に由来して「ガラニチカ」と名付けられた。日本では「メドーセージ」の名前で流通しているが、これは「サルビア・プラテンシス」のことで、ガラニチカをメドーセージと呼ぶのは日本だけのことらしい。ガラニチカとプラテンシスは花色や長い花穂など似ている点が多いので流通業者が誤って呼んでしまったのがその理由らしいが本当のところは不明とのこと。

 本種は草丈が1.5mほどにもなる大型のサルビアで、一般種であるサルビア・スプレンデンス(赤い花)やサルビア・ファリナセア(ブルーサルビア)など小型のものとは姿はかなり異なる。しかし花が唇形である点は共通なので、サルビアの花をよく知っている人は同定可能だ。

 「サルビアの花」といえば、1969年に早川義夫が発表し、72年に「もとまろ」がカバーして大ヒットした曲が有名だ。今はジジババになり果ててしまった人々が若かったころにはよく口ずさんでいた。歌詞には「サルビアの紅い花しきつめて」とあるので、これは「サルビア・スプレンデンス」の唇形花のことだろう。「サルビア・ミクロフィラ」か「サルビア・エレガンス」かも、などという議論は巻き起こらなかった。当時、サルビアといえば大概はスプレンデンスしか知らなかったし、大半の人は園芸花には興味はなかった。 

ブラシノキ(カリステモン、ハナマキ、ボトルブラッシュ)

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見たまんまの名前

 フトモモ科ブラシノキ(カリステモン)属の常緑性高木。オーストラリア原産で改良園芸品種が多くある。英名は”ボトルブラッシュ”で、まさに見たまんまの名前が付いている。花期はさほど長くないのでこの存在を知らない人は多いようだが、一度でもこの花の姿を目にしたらその存在は忘れないし、名前も忘れようもない。

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これだけブラシが揃えばパイプ掃除には困らない

 独特な花形から改良が進んでいるようで、園芸品種の中には白花、桃花(写真)、薄紫花のものもある。ブラシノキであればやはりこげ茶色の花が欲しいところだが、今のところ見掛けたことはない。重そうな花をたくさんつけるので、風が強い時には倒木の危険があり、その対策として支柱を立てているものをよく目にする。賢明な措置だろう。 

ハクチョウゲ(白丁花、六月花)

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生垣によく用いられる

 アカネ科ハクチョウゲ属の常緑低木。学名は"Serissa japonica"であるが、原産地は東南アジアで、日本には江戸時代に移入され園芸種として改良がおこなわれた。中国では「六月花」、英名は「june snow」とあるように初夏に小さな白い花を多数付ける。樹高は1m前後で、高くても1.5mほどなので生垣によく利用されている。

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小さな花はかなり美しい

 写真のように白花で薄い紫のラインが入る。一重咲きが基本形だが、改良園芸種が多く、花が薄いピンクのもの、二重咲き、八重咲き、葉に白い縁が入る(斑入り)ものなどがある。今の時期の生垣といえばツツジ、サツキ、アベリアが一般的だが、満開になった白丁花は、小さな白鳥が群なす如くに美しい。

ヤグルマギク矢車菊コーンフラワー

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開花期間が長い花

 キク科ヤグルマギク属の一年草。ヨーロッパ原産で、日本には明治の中期に移入された。学名は"Centaurea cyanus"で、"centaurea"はケンタウルスが語源。ケンタウルスがこの花を薬草に使用していたという伝説に由来する。また、ツタンカーメンの棺の上にはこの花とハス、オリーブが置かれていた。ヤグルマギクは人類最古の栽培植物のひとつだと言われている。"cyanus"は「浅葱色」という意味。小麦畑によく咲いていたことから「コーンフラワー」の名があるが、最高級のサファイアを「コーンフラワーブルー」と呼ぶようにこの花の「浅葱色」は自然界の中でもっとも美しいと考えられてきた。ドイツの国花である。

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花とミツバチ

 和名のヤグルマギクはそうした花色とは関係なく、花びらの形が矢羽の風車に似ているからである。もう少し良い名前を付けてあげればもっと人気の出る花だと思うのだが。花色は青が多いが、紫、ピンク、白、黄などもある。写真は一重咲きだが八重咲き種もある。草丈は60から70cmほどだが、園芸用に改良された矮性種は30cmほどとコンパクトに収まる。

 なお、生命力が強いので、逸出して野生化したものも多く、写真も畑の近くに群生していたものを撮影した。ミツバチは美しい色に誘われてやってきたのではなく、ただ蜜を集めるためだ。ミツバチにはこの花はどんな色に見えているのだろうか?

カルミアアメリシャクナゲ

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花の形が印象的

 ツツジ科ハナガサシャクナゲカルミア)属の常緑性小高木。北アメリカ東部原産で、日本には1960年代に移入された比較的新しい品種である。属名に「シャクナゲ」の名前があるが、シャクナゲの仲間ではない。カルミアの名前は植物学者のカルムに由来する。花色は白、赤、ピンク、紫があるが、どれも相当に美しい。

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こう見えてもツツジの仲間

 写真から分かるとおり、蕾は金平糖のような形をしている。色は花弁が開いたときよりもずっと濃いものが多いので、開花時よりも蕾時を好む人が多いらしい。雄蕊の状態にも特徴があり、通常時に雄蕊は花弁のくぼみの中に収まっていて、昆虫が飛んできたときにその刺激で雄蕊はくぼみから飛び出して花粉をまき散らす。なお、葉っぱにはグラヤノトキシンが含まれているので、ペットなどが葉っぱを口にすると嘔吐や神経麻痺の症状を起こす。 

マツバギク(松葉菊)

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グランドカバーに最適

 ハマミズキ科マツバギク属の多年草マツバギクの名で出回っているが、狭義のマツバギクはランプサス属を表すが、交雑が進んでいるので広義にはデロスペルマ属も含まれる。花の姿かたちも個体ごとに変化があるので品種名は表記されず、商品名が示されることが多い。原産地は南アフリカで日本には明治初期に移入された。

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かなり強烈な花色

 花色は紫、赤、白、ピンク、黄、オレンジのほか複色もある。写真から分かるとおり、いずれも強烈な花色をしている。グランドカバーによく用いられ、明るい日差しを好み、満開時には花の絨毯ができる。高温や乾燥にも強いために逸出して野生化しているものも多く、道端や土手、道路の法面などに群生している姿をよく見掛ける。

 

ニゲラ(クロタネソウ)

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糸状の葉と苞が特徴的

 キンポウゲ科クロタネソウ属の一年草。地中海沿岸から西アジア原産。日本には江戸末期に移入された。ニゲラはラテン語のニガー(黒)が語源になっており、これは果実が黒いことに由来する。和名はそのままクロタネソウになっている。なお、種はバニラの香りがするが、アルカロイドを含んでいるので薬草として利用されることもある。

 花は白、ピンク、青、紫などがあるが、花びらに見えるのはガクであり、実際の花弁は中心部に隠れていて糸状の苞が包み込んでいる。葉っぱも針状なので、花に糸くずが絡んでいるように見える。英名のひとつには"love in a mist"というのがある。糸くずが絡んでいるという表現より、霧の中にあるというほうがこの花の特徴をよりよく把握しているのかもしれない。

ジャーマンアイリスドイツアヤメ、レインボーフラワー)

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アイリスの仲間ではもっとも豪華

 アヤメ科アヤメ属の球根植物。ヨーロッパで野生化して交雑が進んでいたゲルマニカ種を元に、さらに園芸種として改良された。交配育成が盛んなので花の色彩や形態が多数あり、これが「レインボーフラワー」といわれる所以である。学名は"Iris germanica Hybrid"とあり、交配育成種であることが明記されている。

 花色は、白、赤、ピンク、オレンジ、青、紫、黄などのほか複色のものもたくさんある。草丈は100cmほどになる大型種で見栄えが良い。日照と乾燥を好むので、半日蔭の湿潤な場所では枯れたり腐ったりする。歩道や公園などで育成されているのをよく見掛けるが、素晴らしく見えるものと見すぼらしいものとがある。これは花の責任ではなく、環境の問題である。なお、根茎(球根)は横に伸びて生長するので、株数はどんどんと増えていく。 

ダッチアイリス(オランダアヤメ)

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控えめなアイリス。色は豊富

 アヤメ科アヤメ属の球根植物。スパニッシュアイリスを元にいろいろな品種を掛け合わせてつくられた改良園芸品種。学名は"Iris×holandica"である。内側の花片が立ち上がって咲くのが特徴的。ジャーマンアイリスより小型(丈は50~60cm)で、水はけの良い日向に球根を植えておけば毎年、きれいに咲いてくれる。花色は白、黄、青、紫のほか写真のような白・黄や青・黄などの複色のものもある。

バーベナ(美女桜)

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種類も色も豊富なバーベナ

 クマツヅラ科クマツヅラ(バーベナ)属の一年草または多年草南北アメリカ原産で約250もの品種がある。姿かたちはいろいろで、毎年、種まきが必要な一年草もあれば、植えっぱなし可能は多年草(これをとくに宿根バーベナと呼ぶ)もある。年々、改良が進んでおり、品種名というより商品名で販売されているものが多い。写真は「ピンク・パフェ」という商品名で流通している宿根バーベナだ。「花手毬」「タピアン(またはテネラ)」という商品の人気が高い。草丈は20~150cmと、匍匐性の強いものから高性種まである。強い日差しを好む花なので、日陰に置くと花付きは悪く、茎はひょろひょろ(これを徒長という)になってしまう。 

ジギタリス(フォックスグローブ、狐の手袋)

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薬草、毒草としても有名

 オオバコ科ジギタリス(キツネノテブクロ)属の二年草または多年草。西ヨーロッパ、南ヨーロッパ北アフリカ原産。属名の"Digitals"はラテン語の”digitus"(指)に由来する。デジタル、アナログのデジタルも同じ語源。全草にジゴキシンという毒があり、とくに循環器系や神経系に大きなダメージを与える。かつては薬草として利用され、強心剤や利尿剤に用いられていた。このジギタリスの成分は現在では化学合成されている。

 草丈は180cmにもなるが、50cm程度の矮性性の改良種も出回っている。花色は白、ピンク、オレンジ、黄、紫、茶、複色などバリエーションは豊富。特徴的な花の形、豊富な色合いを有するので、食べさえしなければなかなか見ごたえのある草花だ。その「危険性」から、実際に目にする機会はあまり多くない。ごく稀に野生化したものを見かけるが、絶対に「見るだけ」にしたい。

ツキヌキニンドウ(突抜忍冬、トランペット・ハニーサックル、ノニセラ)

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花が特徴的なつる性植物

 スイカズラスイカズラ属の常緑つる性花木。北アメリカ東部および南部原産で、日本には明治の中期に移入された。きわめて特徴のある花は甘い香りがする。アーチやフェンスの脇に植えるとよく絡んで成長する。つるは長いものでは3mほどにも伸びる。

 対生する枝先の葉が基部が合着してあたかも葉っぱを突き抜けているように見えるために突き抜き、スイカズラの仲間だが冬でも落葉しないので忍冬、あわせて突抜忍冬と説明的な名前を有する。写真は東八道路の府中自動車試験場(多磨霊園の北側)付近にあって自動車道と歩道とを分離するためのガードレールに絡みついて咲いていたもの。結構な距離に植えてあるので試験場に更新手続きで、霊園にお参りや散策で訪れる際には、この変わった名前と風変りな花をもつ植物にも触れていただきたい。 

ムラサキツユクサ(紫露草)

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朝に咲き昼には萎れる

 ツユクサムラサキツユクサ(トラデスカンチア)属の多年草。北アメリカ原産で日本には明治時代に移入された。原種は少なく、一般に見られるのは交配種か交雑種で、「アンダーソニアナ」とも呼ばれるオオムラサキツユクサである可能性が高い。花色は写真の青か紫が多いが、ピンク、白、複色などもあり、葉っぱの色も黄色味を帯びたものもある。挿し木、株分け、種で簡単に増えるので梅雨期にはあちらこちらで目にする機会は多い。野生化したものも至るところで見られる。朝方に開花するが、日差しがあるときは昼には花を閉じる。が、曇天や雨天時は夕方まで開いている。萎れているように見えても、翌朝にはまた元気に開花する。花芽も次々に付けるので、株全体の開花期はかなり長い。

トキワツユクサ常磐露草)

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小さな白花が印象的

 ツユクサムラサキツユクサ(トラデスカンチア)属の常緑多年草南アメリカ原産で日本には鑑賞用目的で昭和初期に移入されたが、現在ではほとんどが野生化したために帰化植物として扱われている。やや湿った日陰に群生している。

 常磐(トキワ)の名が冠されているのは、この植物が常緑性だからである。常磐は「常に変わらない岩」を意味し、転じて「永久に変わらないもの」を指すことがあり、そのひとつに「常に緑色を保つ=常緑性」というのがある。常磐を「じょうばん」と読むときには地域名を表し、これは「常陸(ひたち)」と「磐城(いわき)」の総称である。 

 

キキョウソウ(桔梗草)

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ぺんぺん草が枯れるとこの花の出番

 キキョウ科キキョウソウ属の一年草。北米原産の帰化植物で、いわゆる雑草扱いされているが、写真のとおり花は小さいがかなり美しい。英名は「Common Venus'looking-glass」で、「ビーナスの鏡」という洒落た名前が付けられている。

 開花は5月中旬頃から始まって今が盛りとなっているが、実は4月頃から花を付けている。しかしこれは閉鎖花といって種を作るだけが目的のため、花は開かずにまず自家受粉して果実を先に作って子孫を確実に残しておく。今頃は開放花を咲かせ、昆虫などに花粉を運ばせて遺伝子交換をおこなう。可愛らしい花だが、したたかな戦略を有する植物である。高さは30から50センチほどにひょろひょろと頼りなげに生長し、初夏の南風にいつも体を揺らしているが、こうした見掛けが儚そうなものほど、実は生命力が豊かだったりする。私の場合は頼りなさそうに見えるが、実は、実際には見た目以上に頼りない。

ヒメヒオウギ(姫檜扇)

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フリージアに似ていないフリージアの仲間

 アヤメ科フリージア属の球根植物。南アフリカ原産で日本には大正時代に観賞用として移入された。現在では多くが逸出して野生化している。これは、こぼれ種でもよく増えるからでもある。茎はかなり細いが、それに比して花径はやや大きめで2.5センチほどある。6枚の花弁のうち、下?の3枚の内側に濃い赤色の模様が入るのが特徴的だ。この模様がある側が「下」と言われているので、撮影の際はこちらが画面の下側になるように注意を払うことになる。

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個人的には白花を好む

 ヒメヒオウギの名はヒオウギに似ているがそれよりも小型であるところから名付けられたが、本種とヒオウギは別種で、こちらはフリージア属なのに対し、ヒオウギヒオウギ(ベラムカンダ)属である。動植物は見た目の類似性で分類するか血縁関係で分類するかの双方がある。かつては見た目が中心だったので、ヒメヒオウギヒオウギと同属とされていたが、遺伝子の違いから別属になり、見た目が異なる(類似点もあるが)フリージア属に入れられた。これは人間も同じで、私や私の知人などは見た目や行動からは「サル」に近いが、遺伝子の関係か(この点は隠匿されているので不明だが)一応、人間とされている。もっとも、どう分類されようが私は私だし、友人はぎりぎり人間の範疇に入るとされている。 

 

ハイアオイ(這葵)

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花と小さな虫

 アオイ科ゼニアオイ属の多年草。ここでは一応、ハイアオイの可能性が高いのでこの名前を挙げておいたが、「ナガエアオイ」「ウサギアオイ」というよく似たものがあり、図鑑などで調べても同定されておらず、調べるほどに研究者の間でも混乱していることがよく分かる。ヨーロッパ原産の帰化植物であること、ゼニアオイ属であることは間違いないようであるが、交雑が進んでいる可能性もあり、しかも大多数の人はこの植物には興味を持たないので、このまま混乱が続くような気がする。本項で挙げた花の中で唯一、私が名前を知らなかったものなので興味を抱いたのだが、いまのところ、これ以上に調べる手立てはない。

ワルナスビ(悪茄子)

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意外に目につく雑草

 ナス科ナス属の多年草アメリカ南東部原産で現在ではほぼ世界中に帰化している雑草。日本では植物学者の牧野富太郎が発見、命名した。繁殖力が旺盛で駆除が難しいこと、葉や茎に細かなトゲがあること、ミニトマトに似た果実をつけるが有毒であることなど、ワルの名に恥じない存在だ。外国でも「悪魔のトマト」「ソドムのリンゴ」などの名前がある。毒は果実だけでなく葉や茎にもある。ソラニンという物質で、これはジャガイモの芽や緑色に日焼けした実の部分に含まれていることでよく知られている。花自体は案外、キレイなので目を惹きつけるが、くれぐれも見るだけにしたい。

 

〔38〕季節は初夏へ~アカシアの雨はまだ降らない

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ニセアカシアの花

アカシアの雨ではまだ死ねない

 「願はくは アカシアの雨にて 夏死なん 皐月の末の 望月のころ」

 もちろん、これは贋作であり、元歌は西行の誰もが知る作品である。

 西行芭蕉福永武彦中島みゆき、カント。この5人が私の心の師である。花を巡る季節になると、私は『山家集』とカメラをバックに入れて彷徨する。車で移動中は中島みゆきの曲が流れ『誕生』や『ファイト!』に涙することもある。今はコロナ禍で残念ながら遠出は自粛中なのだが、緊急事態宣言が解除された暁には山野河海に旅立つ予定だ。当然、『おくのほそ道』と『実践理性批判』は必須の携行品となり、眠られぬ夜のために『草の花』や『忘却の河』も忘れない。

 ところで、ニセアカシア(贋アカシア、ハリエンジュ)である。一定年齢以上の人は「アカシア」と聞くとすぐに西田佐知子を思い、『アカシアの雨がやむとき』の曲を心の中で、もしくは実際に歌い始める。大の大人が「犬の唾液」のように反応するのは、西田の気だるそうな歌い方と、「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい」と始まるその驚愕な歌詞にあった。発表されたのは1960年、安保闘争の年だった。闘争の高揚感に続く敗北感と西田の歌い方、戦慄の歌詞に己が人生の悲哀・悲嘆・憂愁を重ね合わせたのだろうか。ガキンチョでかつサルだった私は西田の歌を聴いても、その時にはまだ何も感じなかった(唯一、この歌手は下手くそだと思った)が、この曲がスタンダードナンバーとなって遍満するに至り、それと同調するように私がサルからヒトへと化生する過程でこの歌の真諦を解するまでになり、己の成長を自覚した。

 美空ひばり青江三奈ちあきなおみ小林旭石川さゆり美輪明宏天童よしみ藤圭子研ナオコ山崎ハコ氷川きよしなど錚々たるメンバーがこの歌をカバーしているが、歌は下手だったけれど西田の声が有した独特の凄みは、誰も遥かに及んではいない(藤圭子がやや近いかも)。

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ニセアカシアは大木に育つ

 『アカシアの雨がやむとき』の「アカシア」は「ニセアカシア」である。本当の「アカシア」は広義には「ミモザアカシア」を指し、「フサアカシア」(狭義のミモザはこちらのみ)や「ギンヨウアカシア」(園芸種としてはこちらが人気)が代表的だ。それらは3、4月ごろ、枝先に小さな黄色い房玉のような花を多数つける。フサアカシアはかなりの大木になるため、現在ではやや小ぶりで、銀色の葉っぱを有し花色がより派手なギンヨウアカシアに人気が集まる。街で見かける大半のアカシアはこちらのほうである。

 ニセアカシア(標準和名はハリエンジュ)はマメ科ハリエンジュ属の落葉性高木(アカシアはマメ科アカシア属)で、写真のような花を5、6月に咲かせる。学名は"Robinia pseudoacacia"である。種小名にある"pseudo"は「~に似た」という意味なので、”pseudoacacia"で「アカシアに似た」ということになり、「ニセアカシア」は種小名を直訳したものになる。北アメリカ原産で日本には明治初期(1873年説が有力)に入ってきた。近縁種の「エンジュ(槐)」に似ているが小枝に棘があるために「針槐(ハリエンジュ)」と名付けられた。が、「アカシア」の名のほうが通りが良いためにこの名で広まった。

 しかし、明治末期にオーストラリアから移入された「ミモザアカシア」が本当の「アカシア」であると分類学上で定義されることになったため、ハリエンジュのほうは「アカシアに似た」ものに分類されてしまった。それゆえ、「ニセアカシア(贋アカシア)」と呼ばざるを得なくなったのだ。

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ランチパック・はちみつ&マーガリンの「アカシア」の絵

 「蜂蜜」といえば断然、アカシアから採集されるものが有名で、市場占有率も高い。しかし、この「アカシアはちみつ」はアカシアからではなくニセアカシアから採集される。ミツバチは、ミモザアカシアではなくニセアカシアの花の甘い香りを好むのである。しかし、「ニセアカシア蜂蜜」とは誰も呼ばない。

 写真は山崎製パンのヒット商品である「ランチパックシリーズ」の『はちみつ&マーガリン」のパッケージを撮影したものだ。絵にはきちんと「ニセアカシア」の蝶形の花が描かれているが、つい最近までは「アカシア」の黄色い房玉の花がイラストにあった。「ミモザアカシアからは蜂蜜は採集できない」ということをある養蜂家がヤマザキに指摘したところ、ヤマザキ側は潔く誤りを認め「ニセアカシアの花」の絵柄に訂正したのである。私がランチパックシリーズを購入したのは今回が初めてだ。もちろん、ヤマザキの行為に感服したわけではなく、上の写真を撮るためというのがその理由だ。ただ、ヤマザキの「ロイヤルブレッド」シリーズは安価な食パンの中では一番のお気に入りなので、敬意を表して同時に購入した。

 秋田県鹿角郡小坂町はかつて小坂鉱山の煙害に苦しんでいた。銀や銅の精錬のために工場は多くの煙を排出した。それによって山や町から緑は失われてしまった。緑化対策と樹木を失ったことによる山の崩壊を防ぐ目的などのため数多くのアカシアを植林した。アカシアは成長し、また繁殖力が旺盛なため数を増し、小坂町は緑を取り戻した。毎年、6月上旬にアカシアは無数の花を咲かせて人々の心を和ませた。そればかりではなく、アカシアから採集される蜂蜜は小坂町の特産品となり、品質も「日本一」と評されるまでになった。今年は残念ながらコロナ禍のために『第37回アカシアまつり」は中止が決定された。それでもニセアカシアの数が約300万本あるといわれるこの町はきっと、アカシアの花の甘い芳香に包まれることだろう。蜂蜜の町、小坂町のアカシアは「ニセアカシア」ではあるが、人々はこの恵みを与えてくれる木を「アカシア」と呼ぶ。それで、いいのだ。

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花弁はまとまったまま雨のように降る

 ニセアカシアの蝶形の花は、花弁があまり分離せずに多くはまとまったままで散る。そのため花びらは風に舞わずに、散るというよりボタボタと落ちるのである。この情景を「アカシアの雨」と言う。とはいえ、花弁自体は小さく軽いので、「アカシアの雨に打たれて」も「死んでしま」うことはない。おそらく、豆腐の角に頭をぶつけて死ぬよりも困難なことだろう。

 作詞した水木かおる(男性です)は東京都出身なので、ニセアカシアの花が5月初旬には咲き、中下旬には散り(落ち)始めるのを見ているはずだ。彼は『アカシアの雨がやむとき』以外にも『エリカの花散るとき』(西田)、『くちなしの花』(渡哲也)、『夾竹桃』(牧村三枝子)、『二輪草』『君影草すずらん~』(川中美幸)といった花にまつわる詞を多く作っているので、花についての興味関心は人一倍強かっただろう。当然、『アカシアの雨がやむとき』のアカシアは「ニセアカシア」であり、ニセアカシアの雨が花の散りざまであることも知っていたはずだ。ただし、5月の下旬ともなると東京では「梅雨の走り」があるため、この「アカシアの雨」は花散らしの雨も含意しているかもしれない。

 ところで西行の歌である。

 「願わくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」(『山家集』上 春 77)

 これは西行の「白鳥の歌」というわけではけっしてない。『山家集』は彼が50歳ころから編集を始めており、この歌は上巻の77番(底本は『陽明文庫本』全1552首)に入っている。編集作業は何度も繰り返しておこなわれているので、77番にあるからといって50歳になる前に作られたとは限らないが、晩年の作品ではないことは確かなようだ。有能な「北面の武士」であった西行(本名は佐藤義清)は23歳のときに妻子を捨てて出家し、生涯をかけて「和歌即真言」を目指した。釈迦は「きさらぎの望月のころ」(涅槃会では2月15日)に入滅しており、西行は自らも釈迦と同じころに満開の桜の下で死にたいとの願いを歌に託した。実際、彼は建久元年(1190年)の2月16日(新暦では3月31日)の満月の日に死去した(享年73)。この偶然(西行にとっては必然)は京の人々を驚愕させ、藤原俊成藤原定家慈円など当代最高峰の歌人はそれぞれ、この作品に対する返歌を創作している。

 「願い置きし 花の下にて 終りけり 蓮(はちす)の上も たがはざるらむ」(藤原俊成

 さすれば、仏門の対極にいるこの私は、いつ死ねば良いのだろうか。磯釣り場で死ねば本望だろうが、そうなると同行者に迷惑が掛かるし、ましてや死体が磯から海に転落すると、その捜索に近くの漁船も駆り出されることになり多大な損害を与えてしまう。それなら西行に倣って花の傍らで死ねば良いかもしれない。「四季咲きゼラニウム」か「ベゴニア・センパフローレンス(四季咲きベゴニア)」が横にあれば、ましてや日当たりの良い場所にあれば、これらの花は一年中咲いているので365日、いつ死んでも良いことになる。

 いや、せっかく『アカシアの雨がやむとき』を取り上げたのであるから、やはり、ニセ「アカシアの雨に打たれて」そ「のまま死んでしま」うのが良いだろう。何しろ、写真に挙げたニセアカシアの花は、多磨霊園の敷地内に咲いているものなので。近くには火葬場もあるし、誠に具合が良い。

ユウゲショウ (夕化粧、アカバナユウゲショウ

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大半がアカバナユウゲショウ

 アカバナ科マツヨイグサ属の多年草南アメリカ原産で、日本には明治時代に観賞用として移入された。現在は大半が野生化し、野原にも道端にもよく咲いている。名前はユウゲショウだが、実際には日当たりの良い日中に開花し、夕方には花を閉じる。この花も私の大好きな種類のひとつで、この花に出会うのが5月の楽しみのひとつになっている。

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シロバナは貴重な存在

 アカバナユウゲショウの別名があるが、希に白花もある。前回にはヒメオドリコソウの白花を紹介したが、ユウゲショウの白花もなかなか見つからず、今季はなんとか、一か所で発見することができた。人通りも車の通行量もあまり多くない路地の一角に、写真の白花は数輪だけ咲いていた。

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アカバナとシロバナの共演にミツバチも参加

 撮影中、うるさく飛び回っていたミツバチも一緒に写されたがっていたので、白花を手前に赤花を背後に置いてシャッターを押した。なお、白花であっても通称はアカバナユウゲショウであり、それゆえにアカバナのシロバナタイプと呼ぶしかない。

ムサシノキスゲ(武蔵野黄菅)

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浅間山にのみ自生するキスゲ

 ワスレグサ科(ユリ科とも)ワスレグサ(ヘメロカリス)属の多年草。科名も属名も混乱を極めているらしい。学名は、"Hemerocallis middendorffii ver.musashiensis"とすることが多いが同定はされていない。属名の”へメラ”は一日、”カロス”は美しいを意味し、一日だけ美しく咲くというところから名付けられた。種名の”ミッデンドルフ"は植物学者の名前。尾瀬で有名なニッコウキスゲに極めて近い種類だが、そちらは一日花なのに対して、こちらは開花の翌日まで咲いている点が異なる。

 ムサシノキスゲの名は、府中市にある浅間山にのみ自生する花であることから「武蔵野」の名が付けられた。浅間山が周囲の地形と異なる成り立ちをしている点については以前に触れている(cf.32・普通の府中市)。簡単におさらいしておくと、古相模川が形成した多摩丘陵の御殿峠礫層が北東方向に伸び、その後に古多摩川によって丘陵地が分断されできた残丘が浅間山なのである。したがって、立川段丘の中でもここだけが地質が異なるためか独自の「生態系」が維持されたので、日本で唯一のムサシノキスゲの自生地となったと考えられなくはない。

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毎年、大型連休中に咲く

 写真の花は花弁の幅がやや広めだが、細身のものもある。花弁は6枚だが、4枚のものもある。ムサシノキスゲ自体が多様なので、実はニッコウキスゲとまったく同じ種類で、ただ自然環境の違いから生態が少しだけ異なるのだという考えもあるらしい。前回取り上げた「ワスレナグサ」も普通は一年草として扱うが、寒冷地では多年草に分類されるという具合に。

 ムサシノキスゲが咲く浅間山は全体が「都立浅間山公園」に指定されており、5月中旬まではこの花だけでなく「キンラン」や「ギンラン」も開花している。さらに東側にある陸橋を渡ると、多磨霊園の敷地内に至る。その陸橋上から撮影したのが、冒頭に挙げた霊園内に咲く「ニセアカシア」だ。

アブチロンチロリアンランプ(ウキツリボク、浮釣木)

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アブチロンの人気種

 アオイ科アブチロン(イチビ)属のつる性本木。ブラジル南部原産の熱帯・亜熱帯性常緑植物なので冬場は落葉することもあるが寒冷地でなければ越冬は容易だ。つる性なのでフェンスや塀沿いに植えてある姿をよく見かける。5月から本格的に咲き始め晩秋まで花を付け続ける。アブチロンの仲間は多いのだが、実際にアブチロンの仲間で見掛けるのは写真の「チロリアンランプ」が大半だ。赤いガクの下に黄色い花は私のような釣り人が用いる「ウキ」によく似ているために「浮釣木」の名で呼ばれることもある。なお、人気種ではありながら、いまだに品種名は付けられていない。 

ゼニアオイ(銭葵、コモン・マロウ

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タチアオイに先駆けて咲く

 アオイ科ゼニアオイ属の多年草。ヨーロッパ原産で中国経由で江戸時代に日本に移入された。当初は観賞用であったが後に逸出して野生化したものも多い。というより、現在では道端や野原に野生化したものを見る機会のほうが多いかもしれない。花は相当に美しく、花言葉には「初恋」「古風な美人」とあり、この点も私好みである。

 花には保湿作用、抗炎症作用、抗老化作用のある成分が含まれるためにスキンケア、洗顔液などの化粧品の素材に用いられているようで、私ですら聞いたことがあるような商品にも用いられているようだ。また、ハーブティーにも利用されている。

 ゼニアオイは花が「五銖銭」と同じ大きさなのでそう呼ばれるようになったとされている。ちなみに、五銖銭とは中国の前漢武帝のとき(前2世紀後半)にそれまでの半両銭に代わって鋳造された青銅貨幣で、唐の初期(7世紀前半)に開元通宝が造られるまで流通していた。

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まあるい葉っぱ、ゼニやで!

 ゼニアオイは、原種のウスベニアオイの変種とも改良園芸種であるとされているが、両花の区別はかなり難しい。ゼニアオイのほうが紫色が強く、葉っぱが円形に近い。一方、ウスベニアオイの花はやや赤みがあり、葉っぱには深い切れ込みがあるという点で見分ける。しかし、野生化したものには交雑種も多く判断はかなり困難だ。このため、真正のゼニアオイを野原や道端で見つけたときに好事家は、「ゼニやで、ゼニや」となぜか関西弁で喜びを表現する。上品な態度とは言い難いが、もちろん、私も同様に反応する。

ハナビシソウ(花菱草、カリフォルニア・ポピー)

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ポピーの仲間は群生すると見事

 ケシ科ハナビシソウ属の一年草。学名は"Eschscholzia californica"で、属名は博物学者の名前、種小名は「カリフォルニアの」を」意味する。名前の通り、カリフォルニア州の花に定められている。花色は写真のようにオレンジや黄色のものが多いが、白、ピンク、赤のものもある。花期は4から6月と長く、病虫害にも強く、さらに乾燥にも強いため、植えっぱなしにしておいても花を楽しむことができる。標準和名は花菱の家紋に似ているからだとされている。 

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この花はカリフォルニア州の花

 ポピーの名はケシ科の植物の総称で、科名の"Papaveraceae"に由来する。papaverは「粥」を意味し、ケシの乳液は催眠作用があり、これを乳児が食べる粥の中に入れて眠らせるという習慣があったらしい。ケシの実はヨーロッパでは約7000年前から農産物として利用されており、日本でも「あんぱん」の上に使われており、食用の「ポピーシード」はネット通販で購入できる。

オオアマナ(大甘菜、オーニソガラム、ベツレヘムの星)

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近年は野生化して群生しているものが多い

 キジカクシ科オオアマナ(オーニソガラム)属の球根植物。ヨーロッパ原産で日本には明治末期に観賞用として移入された。園芸店でも球根が売られているが、大半は逸出して野生化しているものを見かけることが多い。群生していると見事で、純白の花が次々と咲き上がってくる。花言葉には「純粋」や「無垢」などがあり、それは見たまんまである。英名は「ベツレヘムの星」であるが、これは以前に挙げた「ハナニラ」にも使用される。和名は「大甘菜」であり、いかにも美味しそうな名前であるが、実は有毒植物らしい。毒性はあまり強くないようだが、わざわざ危険を冒してまで食する必要はないと思われる。

シャリンバイ(車輪梅)

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こちらはベニバナシャリンバイ

 バラ科シャリンバイ属の常緑性低木。関東以西に多く、暖地の海岸近くに自生する。庭木や公園樹のほか、煙害に強いためか垣根や街路樹によく用いられている。葉は厚みがあり、分枝する様が車輪のように見え、花はウメに似ているので「シャリンバイ」と名付けられた。

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街路樹として植えられていたシロバナシャリンバイ

 花色は、白か薄いピンク。どちらも清潔感があり、花のひとつひとつはさほど美しいとは思わないが、まとまって咲いているときはかなり見応えがある。この点もウメににているかも。なお、樹皮から作る黒褐色の染料は、奄美大島の特産品である「大島紬」に使用されていることでも知られる。

ヒメジョオン(姫女苑)

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ハルジオンに遅れて生長・開花

 キク科ムカシヨモギ属の一年草。北アメリカ原産で、日本には江戸末期に観賞用として移入された。当時の名前は「柳葉菊姫」、現在はハルジオンと一緒に「貧乏草」。以前に挙げたハルジオンよりもやや遅くに生長をはじめ、こちらのほうがより大きく育つ。やや弱弱しい感じのハルジオンに比べ、ヒメジョオンのほうが大振りのためもあって壮健に見える。

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こちらはハルジオン。違いが分かりますか?

 上の写真はハルジオン。ヒメジョオンとハルジオンの区別は意外に難しい。環境が良ければハルジオンは立派に育つし、日陰のヒメジョオンは頼りなくもある。

 両者を区別する観点は以下の3つ。第一は花の様子。頭花の周りにある「舌状花」が異なる。ヒメジョオンのほうがやや太めで若干の隙間がある。第二は茎の違い。ヒメジョオンは茎の中が髄で詰まっているため茎を触ると硬い。ハルジオンは中空のため触ると簡単に潰れる。第三に葉の基部。ヒメジョオンは茎をほとんど抱かないのに対し、ハルジオンは茎を抱くように付いている。

 私は貧乏が染みついているので貧乏草の区別は容易に判断できる。貧乏草の茎を潰しながら歩いている徘徊ジジイを見かけたら、それは私である。 

ヘラオオバコ(箆大葉子)

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群生する雑草

 オオバコ科オオバコ属の一年草。ヨーロッパ原産で日本には江戸末期に侵入した。葉の形が竹ベラに似ているところから名付けられた。長い花穂は下から上に咲いていく。白く見えるのは雄蕊。この時期は河川敷、道端、原っぱに群生する姿をよく見かける。

 この雑草は薬草として使われることがあり、咳を鎮めたり痰を取り除くといったほか利尿作用もあるらしい。また、葉っぱは食用が可能で、やや苦みのあるホウレンソウという具合らしい。

 キツネアザミ(狐薊)

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ぽつりぽつりと咲く雑草

 キク科キツネアザミ属の越年草で一属一種。アザミに似ているが、この草の葉は薄くて棘もない。多年草ではないからか爆発的に増えることはなく群生もしない。例によって多磨霊園を散策しているときに撮影したのだが、あちらこちらに咲いているというより、ぽつりぽつりと見掛けるといった存在だ。雑草なのに奥ゆかしい。中国原産で、日本には農耕技術とともに渡来したと考えられている。アザミのようでアザミではなく、毎年、違った場所に咲くというところからキツネの名前が冠されたと言われている。が、こんな草花は他にもたくさんあり、そのすべてに「キツネ」の名があるわけではない。何かキツネにつままれたような話だ。だったら、タヌキでも良いのではないだろうか。

マツバウンラン(松葉海蘭)

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風にそよぐ雑草

 オオバコ科(ゴマノハグサ科とも)マツバウンラン属の一年草(場所によっては越年草)。学名は"Nattallanthus canadensis"で、種小名から分かるとおり北米原産で、日本では1941年、京都市で初めて採集された。「ウンラン」に似た花を付け、松のような姿をしているところから「マツバウンラン」と名付けられたとされている。

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細い茎の先端部に花を付ける

 茎はとても細く、天辺近くに花を穂状に付け、それが種子になるとさらに上に伸びてまた花を付ける。最大では50センチほどの高さになるが、茎はさほど太くはならないので、いつも風に揺られた状態で咲いている。撮影者泣かせの花なのだが、近接して花を眺めても、やや引いて群生した様子を望んでも風雅な佇まいであると思える。この雑草に関心がない人はその存在に気付かないが、多磨霊園の敷地内の多くにも、多摩川の河川敷や土手にも、そして、あなたが住んでいる場所の近くにある空き地にも今、この雅な花は群生し、南風にそよいでいる。

 ノヂジャ(野萵苣)

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姿は知らず、名前も知らず

 スイカズラ科(オミナエシ科とも)ノヂシャ属の一年草(越年草とも)。ヨーロッパ原産で、日本には明治中期に移入された。花の直径は1.5ミリほどで、いくつかが花束のようにひと塊になって咲く。よく見ると(よく見ないとその存在にすら気付くことはない)、なかなか美しい姿をしている。写真は多摩川の土手で撮影したもの。いざ探してみると、ところどころに群生しているのが分かり発見は容易だった。ただし、土手上は風がよく通るので撮影は困難を極めた。

 花の存在は知らなくても、その名前は知らなくても、スーパーの野菜コーナーにいくと、その若葉が販売されていることを知っている、あるいは食したことがあるという人はいるかもしれない。仏名は「マーシュ」、英名は「コーンサラダ」で、欧米ではサラダによく用いられているそうだ。栄養価はかなり高いので、上記の名前で日本でも人気になっているのかも。私はサラダには興味がないので不明だが。 

オヤブジラミ(雄藪虱)

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姿は見るが誰も気に留めず

 セリ科オヤブジラミ属の越年草。日本の在来種で、朝鮮半島、中国にも自生する。草全体は50~70cmほどの高さに生長するが、茎から分枝したその先に散形して花を付ける。花は小さく2ミリほどだが果実は縦長で5、6ミリ(最大で8ミリ)ある。近縁種にヤブジラミがあるが、こちらは開花期が遅く花の数は多い。

 果実が成長すると表面に棘が密集し、これが動物や人間にくっついて移動し、異なる場所に落ちて芽を出し、生育範囲を拡大する。これを「動物散布」というが、俗称では「ひっつき虫」という。これには「オナモミ」が有名で、子供時代にはこれを他人の背中などに投げつけてくっつけるという遊びをよくやっていた。オヤブジラミの実の場合は小さいので投げ合って遊ぶことはできないが、野原などを歩いていると知らぬ間にスラックスや靴下などにこの実が「ひっつく」場合がある。この「ひっつく」性質から名前に「シラミ」が付けられたとされている。

ギシギシ(羊蹄、オカジュンサイ、ウシグサ)

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やや湿り気のある場所に群生

 タデ科スイバ属の多年草。やや湿り気のある場所が好みなのか、多摩川の河川敷や土手、さらに沖積低地を流れる小川の近くに群生する。繁殖力が旺盛なので、普通の原っぱでも見掛けることは多い。名前が特徴的だが、その由来は諸説ありすぎて「不明」というほかはない。ひとつの茎から数多くの花穂を伸ばし、小さな花を無数に付ける。花といっても花弁はないので極めて地味である。花穂は緑色をしているが実りの時期になると茶褐色になる。写真のものは色が変わりはじめのもの。

 薬草としても知られ、根は「羊蹄根」と呼ばれ、便通を良くしたり炎症を抑える働きを有するとのこと。そういえば、土方歳三の生家は炎症に効く「石田散薬」を製造していたが、これはタデ科タデ属の植物を原料にしていたことを思い出した。また葉っぱの脇から伸びる新芽は食用になるそうで「オカジュンサイ」の別名がある。タデ科の植物なので「タデ食う虫も好き好き」と考えると納得するほかはない。

ムラサキツメクサ(紫詰草、アカツメクサ、赤クローバー)

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花と虫

 マメ科シャジクソウ属の多年草。ヨーロッパ原産で日本には明治初期に牧草として移入され、のちに野生化した。デンマークの国花。高さは20から60cmで個体差が大きいが、一般にはシロツメクサよりも大きくなるものが多い。これは、本種のほうがやや暖かくなってから育つことによるのかもしれない。花は球形の集合花序で大きいものはゴルフボールぐらいの大きさになる。クローバーというと「四つ葉探し」をよくおこなうということはシロツメクサの項で触れたが、本種のほうが葉っぱも大きくなるため、これの四つ葉を探せばより大きな幸せをつかむことはできるかもしれないが、「禍福はあざなえる縄の如し」なので、より辛く厳しい災いを招くかもしれない。今季のコロナ禍のように。 

コバノタツナミソウ(小葉の立浪草)

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なぜか壁際で見掛ける

 シソ科タツナミソウ属の多年草タツナミソウの矮化種で、タツナミソウは40cmほどに成長するがこちらは大きくても20cmほど。一般には紫の花を咲かせるものが多いのだが、なぜか今季に見つかる花は白花がほとんどだった。紫のものもないではなかったが私が見つけたものはいずれも貧相だったので、シロバナのみの掲載した。

 半日蔭を好む草花なので、建物の陰など壁際、塀際で見掛けることが多い。野原でもよく探せば見つけられないことはないが、大抵は背の高い草たちの陰にひっそりと咲いている場面に出会う。写真のものは公園の端に繁茂する雑草の陰に咲いていたものだが、なにしろ名前に反して高さがないので、ほとんど這いつくばった状態で撮影した。

セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草)

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一度見掛けると、やがて気になる存在に!

 キンポウゲ科オオヒエンソウ属の一年草。中国原産で日本には明治期に渡来したが、近年になって逸出して野生化した。繁殖力が旺盛なので、最近では至るところの野原で見掛ける機会が多くなった。学名は"Delphinium anthriscitolium"で、属名には「イルカ」の名がある。日本では「飛燕草」、つまり花の形が「ツバメの飛ぶ姿」に似ていると考えて命名されたが、学名は「イルカが泳ぐ姿」からの連想によるものだ。なお、葉っぱは「セリ」に似ているが、これは毒草なので、くれぐれも食べないようにしていただきたい。

ギンラン(銀蘭)

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浅間山で見つけた小さなラン

 ラン科キンラン属の多年草。落葉樹林内に生育し、菌根菌という菌類と共生しているため、ギンランが育つ環境は限定的である。高さは15から30cm程度で、下に挙げるキンランよりもかなり小さく花数も少ない。また、花も写真のように開花に至らないものが多い。これは、キンランよりも菌類に依存する割合が高いので生育環境が大きく制限されるためであると考えられている。絶滅危惧種に指定されている。

キンラン(金蘭)

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ギンランよりも存在感あり

 ラン科キンラン属の多年草。上のギンランと同じ環境下で生育するが、菌類に依存する割合がギンランに比べると低いためか、より大きく成長し、高さは30から70cmほどになる。花もよく開花する。こちらも絶滅危惧種である。

 キンランとギンランはムサシノキスゲの自生地である浅間山で撮影したものだが、三者はほぼ同時に花を付けるので大型連休の前後はこれらの観察者で賑わう。都立浅間山公園に指定されているため三者の花はその管理下に置かれているが、入場はまったく自由なので盗掘は多く、ペットや人間に踏み荒らされた跡もよく見掛ける。

キランソウ(金瘡小草、ジゴクノカマノフタ、医者いらず)

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目立たないが綺麗な花

 シソ科キランソウアジュガ)属の多年草。日本在来種で、朝鮮半島や中国にも生育する。根出葉は円盤状に広がり、茎を上方に伸ばさない。地面にへばり着くように咲いているので野原にあっても目立たず、大半は踏みつけられる。唇の形をしている花は小さいが濃い紫色をしており、しかも集団で咲くので、地面に紫色の塊りがあれば開花したキランソウである可能性がないわけではない。原っぱで遊んだり散歩したりしている人がふと立ち止まって足元を見ていたら、この花が咲いているかお金が落ちているのを見つけたかのどちらかである。そのまま腰を下ろして地面を眺めていたらキランソウを発見、腰を下ろす前に辺りを見回したらお金の発見である。3から5月、私はこの花を探して野原をうろつくのであるが、キランソウはすぐに見つかるが、お金を発見したことは残念ながら、まだない。

アジュガ(セイヨウキランソウジュウニヒトエ

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最近では野生化しつつある

 シソ科キランソウアジュガ)属の多年草。花の形から分かるように、上に挙げたキランソウの仲間である。これはヨーロッパ原産の"Ajuga reptans"を園芸種として改良したもの(ちなみにキランソウは"Ajuga decumbens")で、キランソウとは異なり茎は直立し、その周囲に多くの唇形花を付ける。ランナーを伸ばして次々に花穂が生長するので、アジュガ林を形成する。花色は青紫が大半だが、ピンクのものもある。また葉っぱもカラフルなので、花の無い時期はグランドカバーとして利用される。

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野生化したジュウニヒトエ

 写真のジュウニヒトエ十二単)もキランソウの仲間で、姿はアジュガと同じだが花色は白か薄い紫。花穂の姿かたちから「十二単」の名が付けられた。色が派手で群生しやすいアジュガは園芸種として利用されることが多いが、葉も花色も地味なジュウニヒトエは園芸種として育てられる機会は減り、多くは逸出して野生化している。名前は艶やかだが存在はお淑やかである。 

〔番外編〕コロナ禍の中、季節は春から初夏へ~花散歩

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4月下旬から秋まで咲き続けるサルビア・ミクロフィラ

コロナ禍の中で思うこと

 コロナ禍である。釣り場に近い駐車場はほとんど閉鎖されているので釣行はままならない。植物園、自然公園などが閉鎖中なので春の山野草の開花に触れる機会を多く逃した。大学の研究会や講座、私的な集まり(例えば哲学カフェ)も皆、中止になったため頭の体操の機会がめっきり減った。近隣にある市立図書館が閉鎖されているため、調べたいことがあっても資料不足で不満足な愚者状態。

 不愉快なのは変な言葉が飛び交っていることだ。「濃厚接触」「ソーシャルディスタンシング」「3密」は、その言葉を見たり聞いたりしただけで”げんなり”してしまう。「濃厚接触」は、”close contact"の訳語だろうか。おふざけで使う場合なら構わないが、社会的用語としては馴染まないような気がする。とはいえ、実際に医学用語として用いられているし、他に良い言葉は思いつかないので致し方ない。何しろ、医学用語には「日和見感染 ”opportunistic infection"」という言葉もあるぐらいなので。

 「ソーシャルディスタンシング」は社会的距離拡大戦略のことらしいが、社会との距離拡大は「孤立」を意味することに繋がるので曲解される恐れがある。この反省から「フィジカルディスタンシング」(物理的距離拡大戦略)に置き換えようという提案があり私としてもこちらのほうが断然に良いと思うのだが、いまひとつ広がりは見えない。

 上記の2つの言葉は気に入らないが、意を汲めば言いたいことは伝わってくるので、許せないわけでは決してない。が、「3密」だけは酷いとしか言いようのない言葉である。どこかの首相は奥方の参拝行動に「3密ではない」と擁護したようだが、彼の頭脳では「1密」や「2密」では問題はないと判断されるようだ。ならば、換気が良く、間隔を空けたパチンコ屋は「3密」に該当しないから問題はないとすべきだろう。ウイルスは直接接触や飛沫接触によって感染する(させる)場合があるので、これをできるだけ避けるのが良いと考えられるだけであって「3密」はダメだが「2密」なら大丈夫というものではない。ところが、「3密」を政府やメディアがしばしば声高に叫ぶため、「3密」とそれ以外という区分が生まれ、本末転倒の観念が形成されている。「可能な限り、物理的・身体的距離を取りましょう」で十分だと思われる。それ以上でも以下でもない。

 「3密」は嫌な言葉だが、「六波羅蜜」についてなら以前、それに関する書物を何冊か読んだことがあるし、「蜂蜜」については最近、「ランチパック・はちみつ&マーガリン」のパッケージのミスについての微笑ましい話題があった。

 というわけで、コロナ禍のために釣りには週に2回ほどしか行けず、植物園や自然公園からは締め出され、観光地に出掛けるのは気が引けるので、必然、近隣での徘徊が増えている。ただうろつくだけでは生産性が低いので、カメラを持って出掛けて目に留まった花の姿を撮影している。意外な花が意外なところに咲いているのに気付き、あるいは気付かされ、これがコロナ禍の下での大きな収穫になっている。これも、いいのだ。

ゼラニウム(ゼラニューム、匂い天竺葵)

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ゼラニウムとしてはもっともよく見られる品種

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清潔感のある白色も魅力的

  フウロソウ科ペラルゴニウム(テンジクアオイ)属の多年草ゼラニウムについては以前、「ゼラニウム・フェアエレン」のところで述べている。写真のものはゼラニウムの仲間ではもっとも普通に見られるもので、花色はこれ以外にも白や赤のものが多い。標準和名に「匂い天竺葵」とあるように、葉に独特の香りがあり、これを香ばしいととるか臭いととるかでこの花を好むか否かが分かる。

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こちらは花の形が珍しい園芸種

 写真のゼラニウムは花弁が深く切れ込む星形に改良されたもので、”ファイヤーワークス”などの商品名で販売されている。

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こちらは園芸種のペラルゴニウム

 ペラルゴニウムは花色や花弁の形を変えてゼラニウムよりも派手さを競うように改良されたもので、園芸店やホームセンターでは豪華な鉢植え品として販売されているのをよく見かける。通常のゼラニウムは花の多寡は別にすればほぼ周年、花を咲かせる四季咲き種だが、このペラルゴニウムは春から初夏までの一季咲き品種なので、路地植えよりも中大型の鉢植えのもののほうが管理しやすいのかもしれない。写真のものは路地植えされているものを撮影した。なお、ペラルゴニウムのぺラルゴは「こうのとり」を意味するようだ。

シラン(紫蘭、紅蘭、白笈)

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もっともよく見られるランの花

 ラン科シラン属の多年草。初心者にも簡単に育てられるということでこの時期にはあちらこちらでこの花が咲いているのを見かける。地下茎は「偽球茎」と言われ球形というよりは平らな形をしている。この地下茎が良く育つため、知らないうちに株が大きく育つ。さらに種子をよく作るので野生化しているものを見かけることがよくある。

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この角度から見ると「ラン」であることがよくわかる

 うつむき加減に咲いているため、この花がランの仲間であることを気付かない人も多いようだが、写真のように下から見上げるようにすると、普通の人がランの花をイメージするのと同じ形であることが分かる。ありふれた存在であっても美しいものはやはり美しい。

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多磨霊園で見つけた白色のシラン

 シラン(紫蘭)の名の通り紫のものが大半だが、園芸種や交雑種には異なる色や形のものがある。紅色や白色、黄色など異なる色をもつ花もあり、それはそれで見応えがある。大型連休中(私の場合は一年中休みだが)に多磨霊園内を散策していたとき、白色のシランを見つけた。背中合わせの墓石の間に咲いていたので撮影には難儀した。

コデマリ(小手毬)

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ユキヤナギが咲き終わるとコデマリの出番となる

 バラ科シモツケ属の低木。中国東南部原産で、日本には江戸初期に導入された。和名は花序の形から名付けられた。まったくもって妥当な名称である。

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可能な限りの近接撮影

 花の形から分かるように、春先に咲く「ユキヤナギ」と同じ属である。ユキヤナギの花が散ったころ、今度はこの花が咲き始める。花序の形が、あちらは柳のようであり、こちらは手毬のようである。違いは大きいが、花にあまり関心のない人は区別が付かないらしいが、そもそも興味がないので花の名前への拘りがないのは当然のことだ。私がAKBとなんとか坂との区別がつかないのと同等である。

ヤマブキ(山吹)

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一重咲きのヤマブキ

 バラ科ヤマブキ属の落葉性低木。学名は”Kerria japonica"であり、種小名に「日本の」とあるように日本原産の植物である。以前に挙げた「ウンナンオウバイ」によく似た花を付けるが、あちらは黄色でこちらは山吹色である。葉も特徴的で、薄くてギザギザした形をしているので区別は容易だ。ヤマブキは山吹色をしているが、ヤマブキが山吹色なのでヤマブキと名付けられた訳ではなく、ヤマブキの花色から山吹色という名称が生まれた。山吹色から派生したのは「小判」である。

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ヤエヤマブキといえば太田道灌

 上の写真は「ヤエヤマブキ」で、一重咲きのヤマブキの改良園芸種。学名は「Kerria japonica "Pleniflora"」。ヤマブキは一属一種であり、園芸名の「シロヤマブキ」はまったくの別属。花色こそ白だが雰囲気がヤマブキに似ているので「あやかりヤマブキ」である。これは「ブダイ」や「ネンブツダイ」がタイの仲間ではなく「あやかりダイ」であるのと同じ。といっても、釣り人やダイバー以外、これらの魚の存在はほとんど知られていないが。

 八重山吹についてはずいぶん前の「越生」の回(第7回)で触れており、当然のごとく「太田道灌」との関係も記してあるのでここではとくに触れない。

オステオスペルマム(アフリカンデージー

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明るい日差しを好む花

 キク科オステオスペルマム属の多年草。アフリカ原産だが耐寒性もあるので冬場でも日当たりが良い場所では開花することもある。写真から分かるように花弁が萎れたものもあれば花芽が育ちつつあるものもあるので、全体としての花期はかなり長い。花色は紫、白、桃が中心だが、近縁種の「ディモルフォセカ」との交雑によってさまざまな色のものが作出されている。ただし、ディモルフォセカは一年草なので、交雑種はオステオスペルマムの純種に比べて花の命は短い。

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私の好みは純白

 オステオスペルマムとディモルフォセカとの区別は園芸歴が長い人でも区別は難しいようだ。私はこれらの花たちの愛好家であった(ゼラニウムの次ぐらいに好んでいた)から当時は両者を簡単に見分けられたのだが、交雑改良園芸種が多数出回っている今日ではほとんど区別がつかない。そこで、写真にはオステオスペルマムの代表的カラーである「紫」と「白」とを選んだ次第なのだ。

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ディモルフォセカを見つけました

 スズラン(鈴蘭、君影草、谷間の姫百合)

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誰もが良く知る可愛い花

 キジカクシ科スズラン属の多年草。写真もそうだが、街で見かけるスズランはヨーロッパ原産の「ドイツスズラン」であることが多い。幸せの国・フィンランドの国花であり、札幌市や釧路市など市の花とするところも多い。見た目だけでなく香りも良いが、毒草なので可愛らしいからといって食してはいけない。

 日本原産のスズランは花が小さく葉に隠れるようにひっそりと咲く。「君影草」の名はこの「恥じらい感」から付けられたのだろうか?

ヒメエニシダ

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特徴的な咲き方をする花

 マメ科エニシダ属の低木。エニシダ属にはいろいろな種類があり、通常のものは樹高が2~4mほどに成長し、花色も多い。西欧ではエニシダの枝は箒の原料に使われる。魔女の乗る箒はエニシダが素材である。それゆえ、「キキ」が乗る箒もエニシダだと想像される。ところで、日本で「エニシダ」の名で販売されているのは写真の「ヒメエニシダ」で鉢植えが多い。撮影したものは路地植えされたものでかなり大型に育っているが、それでも樹高は1mほどである。

アメリカフウロ(亜米利加風露)

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葉っぱは目立つが花は小さい

 フウロソウ科フウロソウ属の一年草。4、5月の道端でよく見かける「雑草」で、葉っぱは結構、目立つ存在なのだが花は5、6ミリのサイズ、しかも写真にある通り色は地味で花数も少ないので、路傍に咲いていてもまずは気が付かない。私も以前は気にも留めなかったが、いったんその存在を知ると毎年、この草の開花が気になる。小さな花が無事に開いているとなぜかほっとした気持ちになる。何週間後、この花の存在を忘れ去る。そして初夏が訪れる。名前に「アメリカ」とあるのは、原産地が北アメリカだからで、これもまた帰化植物である。

ヒメツルソバ(姫蔓蕎麦、ポリゴナム)

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グランドカバーによく用いられる

 タデ科イヌタデ属の多年草。ソバの花に似てツル性の植物なのでツルソバ。花は小さな金平糖のように可愛らしいので「姫」。これを連結してヒメツルソバとなる。ヒマラヤ原産で、以前は「ポリゴナム」の名前でグランドカバー用の園芸種として販売されていた。現在は野生化したものも多く、コンクリートや石垣の狭い隙間からでも顔を出している姿を見かける。花期は春から秋で、晩秋には葉は紅葉し、冬には地上から姿を消す。しかし早春には葉を茂らせ、また小さな花を無数に咲かせる。生命力旺盛な半雑草といったところか。

ナガミヒナゲシ(長実雛芥子)

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今どきは、あちらこちらで群生して咲いている

 ケシ科ケシ属の一年草。地中海沿岸地方を原産とし、日本には1960年頃、輸入貨物の中に種子が入っていてそれが発芽したと考えられている。写真には咲き終わって結実した芥子坊主がたくさん写っているが、この果実の形が他のケシの仲間のものより長めなため、長実雛芥子と命名された。果実の中には無数の芥子粒(種子)が入っているので、翌年には爆発的に数を増やす。それだけでなく、この植物はアレロパシー(他感作用)活性が高いために、他の植物の生長を抑制する働きをもつ。ナガミヒナゲシが群生するのはこの作用による。

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近年、急増殖中の「雑草」

 ケシの仲間なので花自体はかなり美しい。写真のものはオレンジ色だが、かなり赤みの強いものもある。この花を増やすのは簡単で、花をひとつ、茎の部分からチョン切ってきて、適当な場所に放り投げ捨てておけばよい。たとえ未結であっても種子は自然に育ち、翌年には発芽に至る。まったくもって「厄介」な帰化植物である。

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白系を発見。色が褪せただけかも

ムラサキサギゴケ(紫鷺苔、サギシバ)

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可愛らしい雑草だが、よく踏みつぶされる

 ハエドクソウ科サギゴケ属の多年草。写真のように花は紫だが、ときおり白花を見かけることがあり、そちらは「サギコケ」と呼んで区別している。解説書には湿ったあぜ道に多いとあるが、日当たりの良い野原にも咲いていることが多い。匍匐性があり、地面を這うように育つので、花が小さいこともあって存在に気付かれずに踏み潰されることが多い。よくみると素敵な花なので、ぜひともこの花の存在を知ってほしい。

ニワゼキショウ(庭石菖)

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初夏の野原を彩る「雑草」

 アヤメ科ニワゼキショウ属の一年草。北アメリカ原産で、明治の中期に日本に入り帰化した。直径が1cm前後の小さな花なのでこれもまた、サギゴケと同様にその存在を無視されることが多い。今回は白系が大半だったが、やっと多摩霊園の敷地内で紫系を見つけた。

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紫系のニワゼキショウ。アリンコ付き

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5月になるとこの花を探しに徘徊する

 中央の黄色とその周辺の紫が特徴的で、なかなか美しい花だと思うのだが。今回、住宅街の道端で撮影したのだが、通行人の多くは怪訝そうな顔(皆マスクをしているのでそんな感じがしただけだが)をして通過していった。野草にもいろいろな表情をもつものがあるので、雑草を探し求める道草には中ぐらいの夢がある。

ツタバウンラン(蔦葉海蘭、ツタカラクサ

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この花も人知れずに咲く

 オオバコ科ツタバウンラン属の多年草。地中海地方原産で、大正初期にロックガーデン用の園芸植物として日本に入り、その後に逸出して野生化した。名前に「ツタ」があるとおりツル性の植物で、石垣に隙間などに密生して不等間隔に花を付ける。この野草も大半の人は目もくれないが、相当に可愛らしい花である。黄色の2点が目のようで、その姿は鳥を思わせる。ツルに絡んで飛び立つことができない花ではあるが、いつの日か、鳥に転じて大空を舞う日がくるかもしれない。

コバンソウ小判草

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多磨霊園の敷地で大量に咲いていた

 イネ科コバンソウ属の一年草。ヨーロッパ原産で日本には明治初期に移入された。写真のように30~50センチほどの茎が直立し、その先に数個から十数個の円錐花序を付ける。この小穂の形が小判に似ているところからこの名が付けられた。

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本物の小判なら大金持ち

 写真は私の徘徊場所のひとつである多磨霊園の敷地内で撮影したもの。日が少しだけ傾き、斜光が小判を照らし、山吹色ではないが輝きを見せていたのは確かだ。他の雑草よりも数は多く、墓地の周囲の至るところに茂っていた。これは霊園の北側を通る「東八道路」でも同様で、路側帯の空地には無数の小判が輝いていた。この小判が本物であれば私は大金持ちになれるだろうか。他の人も同様に考え、彼・彼女らが手にした小穂がすべて小判であるとするならば金の価格は無に等しいものになるため、誰もが手にするものは富ではなく単なる空夢である。

ハナミズキ(花水木、アメリヤマボウシ

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街路樹としてよく見かける

 ミズキ科ミズキ属の落葉高木。北アメリカ原産で、学名は”Cornus florida"。種小名に「フロリダ」とあるようにアメリカを代表する花で、日本に「桜前線」があるようにアメリカには「ハナミズキ前線」がある。サクラと同様に庭木だけでなく街路樹に用いられることが多く、府中市では桜並木よりも花水木通りのほうをよく見かける。これは日本人が「ハナミズキ=花見好き」だからであろうか?

 1912年に当時の東京市長尾崎行雄がワシントンDC(ポトマック河畔の桜並木)にソメイヨシノ3100本を贈り、3年後、その返礼としてハナミズキが日本に送られた(ハナミズキ花言葉は”返礼”)ことから日本に定着した。 実は尾崎は、その3年前の09年に2000本を贈ったのだが虫害のためすべて焼却されてしまっていた。

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色のバリエーションは少ない

 サクラと異なり、ハナミズキは色のバリエーションは少なく、普段目にするのは3種ほどである。ソメイヨシノと同様、枝に葉が茂る前に花が咲き、花自体もひとつひとつはかなり大きいのでよく目立つ。花期はソメイヨシノが散った頃からポツリポツリと開き始めるので、花見好きには桜⇒花水木と花見を連続して楽しむことができる。

 なお、花弁に見えるのは葉っぱが変形した「総苞」で、実際の花は中心部の緑色に見える小さな塊である。

ナスタチウムキンレンカ金蓮花、ノウゼンハレン)

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この種類はあでやかな色をもつものが多い

 ノウゼンハレン科ノウゼンハレン属の一年草。標準和名は「ノウゼンハレン」だが、一般には「ナスタチウム」または「キンレンカ」と呼ばれている。黄金色した蓮のような葉をもつ花、ということで金蓮花と名付けられたようだが、後の挙げる「キンセンカ」と語音が似ているため、趣味人は「ナスタチウム」の名で呼ぶことが多い。ナスタチウム(Nasturtium)は英名なのだが、このナスタチウムオランダガラシ属の学名で、オランダガラシの仏名は”Cresson"、つまり栄養価の高い野菜として知られるクレソンを指すのでややこしい。

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ナスタチウムは花色のバリエーションが少ない

 この植物はハーブとして花や葉、茎が利用される。香りや味がクレソンに似ているところからナスタチウムと呼ばれるようになったそうだ。

 つる性の植物で、葉をよく茂らせる。花色のバリエーションは少なく、赤や黄色、橙色そしてそれらの複色といった程度。以前に比べると人気は低下しているようで、今回の徘徊でもなかなか見つけられなかった。

スミレ(菫)

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スミレの原点のような存在なのだが

 スミレについてはすでに「タチツボスミレ」「アリアケスミレ」「ニョイスミレ」について触れているので詳細は省略する。写真のスミレは私たちが思い浮かべる「スミレ」の形や色そのもので、スミレの原点ともいうべき存在である。しかし、実際にこのスミレを見る機会はほとんどなく、コロナ禍もあって例年以上に近隣を徘徊する機会は増えているが、このスミレを見つけたのは2度しかなかった。今の子供たちがスミレを思い浮かべそれを絵にするときは、きっとタチツボスミレを描くに違いない。スミレの葉っぱは細長い楕円形、タチツボスミレは丸い心形。描かれた葉っぱの形でどちらのスミレなのか判断できる。否、今はスミレの絵なんぞまったく描かないかも。

オドリコソウ(踊子草)

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ヒメオドリコソウよりかなり大きい

 シソ科オドリコソウ属の多年草。以前に挙げた「ヒメオドリコソウ」よりもずっと背が高くなり、大きなものでは50センチほどの高さにまで成長する。それに比して花の形も大きくなり、ヒメオドリコソウの場合の踊り子は葉の間から恥ずかし気に舞うが、こちらは堂々とした立ち姿で演舞する。

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踊り子に最接近

 花に近接してみた。意外に繊細な形と色合いを有しており、「雑草」と」一刀両断に切り捨てるのはもったいないような気がする。実際、オドリコソウに触れられる場所はあまりなく、道端で発見する機会はまずない。写真は「野川自然観察園」脇に咲いていたもの。観察園内には自粛閉鎖中で入れないが、写真のオドリコソウは園外へ逸出したもので、フェンスの外に繁茂していた。

シロバナヒメオドリコソウ

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その存在は知っていたが

 オドリコソウもヒメオドリコソウも花色はやや薄い赤紫が定番なのだが、希に写真のような白花を有するものがある。それは知識として知っていただけで、実際にその純白の踊り子に触れたのは今回が初めてだった。ヒメオドリコソウは春の到来を告げるメルクマールの花のひとつとして存在していることは以前に述べているが、それだけにこれの開花には注視し続けてきたのだが、今まで白花に触れることはなかった。

 場所は東京農工大学・府中キャンパスの南側にある通りの南側の歩道上の植え込みの一角。ツツジの周りに雑草が育ち、その多くはヒメオドリコソウでありオランダミミナグサ、アメリカフウロである。その日は花水木の開花状況を調べていた。基本的にはやや上方を見ていたはずなのに、なぜかある場所では足元の様子が少し変であることに気が付いた。しかし、そこにあるのは上に挙げたツツジか雑草だけなのでそのまま通りすぎた。しかし、心には違和感が残ったままだったので、100mほど進んだ後に引き返し、その違和の根源を探すことにした。そして見出したのがこのシロバナヒメオドリコソウだった。一角に密生していたヒメオドリコソウはすべてシロバナだった。が、それ以外の場所にシロバナはなかった。

 以来、この花の存在は大型連休に入ってすらずっと気になり、シロバナを探し続けているのだが結局、二度と見出すことはできずにこの花の季節は終了した。来年、当該場所で再びシロバナと出逢えることが、生きながらえる大きな動機付けと希望になった。

シロバナタンポポ(白花蒲公英、ニホンタンポポ

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見掛けることが少なくなったタンポポ

 キク科タンポポ属の多年草。「ニホンタンポポ」の別名があるように日本在来種で、北海道には限定的に存在し、南西にいくほど数が多くなる。タンポポは英名では「dandelion」と言い、ライオンの歯という意味になる。葉っぱのギザギザが歯に見えるかららしい。すると、このタンポポは「white dandelion」となる。これが白花であるということは「ホワイト&ホワイト」という歯磨き粉を使ってホワイトニングしたからだと考えられる。何しろ、この製品を作っているのはライオン株式会社だからだ。

 通常よく見る黄色のタンポポは明治末期に日本に移入された帰化種がほとんど。外来のセイヨウタンポポの外側のガク(総苞)は開き、在来種はそれが閉じている点で区別が可能と言われている。しかし、在来種も花期の終わりごろには総苞は開き気味になるので区別は意外に難しい。まあ、シロバナであれば在来種なので、ナチュラリスト、いやナショナリストシロバナタンポポを愛でよう。ちなみに、私はナチュラリストでもナショナリストではないが、シロバナのほうが好みである。

シラー・カンパニュラータ(ヒアシンソイデス、釣鐘水仙、スパニッシュ・ブルーベル)

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近年は野生化しつつある

 キジカクシ科ヒアシンソイデス属(ツリガネズイセン属とも)の球根植物。学名は"Hyacinthoides hispanica"で、ヨーロッパ、北アフリカが原産地。かつてはシラー属に分類されていたため流通名に「シラー」の名前が残る。標準和名は「ツリガネズイセン」というが、釣鐘は花の形から、水仙は葉っぱの形に由来する。カンパニュラはラテン語の"campanula"すなわち「釣鐘」を意味し、まさに見たまんまである。

 植えっぱなしの園芸品種として人気があり、群生させると見事だ。精力旺盛なのか、近年では野生化したものも多くみられ、今時分は雑草の間からニョキニョキと顔を出して派手な色で咲き誇る。写真のような青紫色のものが大半だが、ピンクや白色のものも出回っている。

シラー・ぺルビアナ(大蔓穂)

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多磨霊園内の墓石の前に咲いていた

 キジカクシ科シラー属(ツルボ属)の球根植物。学名は"Scilla peruviana"といい、スペイン南部で発見されたこの植物がイギリスに持ち込まれる際、その船名が「The peru」だったところから種小名に「ペルー産の」という意味の言葉が用いられているが、原産地はペルーではない。傘状の花序をもち、周辺部から咲いていくので、写真から分かる通りこの株の場合、中心部は未開花である。

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最接近してみると

 6枚の花弁は反り返り、6つの雄蕊は立ち上がっているので実際の花を見ると立体感があって美しさを一層、際立たせている。この花は紫系だが白系も流通している。白系は今年は未発見だが。なお、これも多磨霊園の墓石の横に咲いていた。多磨霊園は私の花季行では重要な御狩場なのである。

イチリンソウ(一輪草、一華草)

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スプリング・エフェメラルの掉尾を飾る

 キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。代表的な「スプリング・エフェメラル」であるが、カタクリニリンソウよりも花期はやや遅いので、場所によっては晩春から初夏にかけて花を楽しむことができる。5枚の白い花びらは花弁に見えるが、実際には萼(がく)片(萼花弁とも)である。梅雨に入る前に葉っぱは枯れ、翌年の早春まで眠りにつく。儚い春はこの花とともに終わる。

フジ(藤)

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春の終わり、初夏へようこそ

 マメ科フジ属のつる性落葉花木。学名は”Wisteria floribunda"で、種小名の”floribunda"は「花の多い」の意味である。花色は紫が多いが、「シロバナフジ」や「アカバナフジ」といった改良種も流通している。藤棚といえば「あしかがフラワーパーク」が関東ではもっとも有名だが、今年はコロナ禍で休園中。5月7日に営業再開の予定だったが、「緊急事態宣言」が延長されたため再開日は未定となった。残念なことであるが止むをえまい。

ナヨクサフジ(弱草藤)

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最近よく見かけるようになった雑草のフジ

 マメ科ソラマメ属の一年草で一部は越年する。ヨーロッパ原産で1940年代に帰化した。飼料・緑肥用に栽培されることもあるが大半は雑草化した。花はかなり美しく、なかなか存在感のある草花だ。

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よく見ると案外、綺麗です

 弱(なよ)の名前通り、花ひとつひとつはすぐに萎れてしまうが、次々に開花を続けるので全体としては数多くの花を付けているようにみえる。この草花は「アレロパシー効果」を有しているので、周囲の植物を駆除し縄張りをどんどん広げていく。以前はそれほど目につく存在ではなく、この花を見つけると何か「得」をしたような気分になったが、近年では「あそこにも咲いていやがる」という感覚をいだくことが多くなった。

ワスレナグサ(勿忘草、忘れな草

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な忘れそ

 ムラサキ科ワスレナグサ属の一年草。英名は”forget-me-not"、独名は”vergissmeinnicht"、和名は”忘れな草”でみんな同じ。花言葉は「私を忘れないで」でこれも同じ。これは、中世ドイツの物語から名付けられたと考えられている。

 若い騎士は彼女のために、ドナウ川ライン川とも)の岸辺に咲く小さく美しい花を採りに行き、誤って川に流されてしまう。騎士は力を振り絞って摘み取った花を彼女の元に投げ、「私を忘れないで」という言葉を残して流れに消えてしまった。

 この物語から分かることがひとつある。この花は岸辺に咲く=湿地を好むということだ。ワスレナグサを育てる場合、水切れは厳禁なのだ。

 個人的にはこの話よりも、映画「男はつらいよ」の第11話、『寅次郎忘れな草』のほうが印象深い。リリー(浅丘ルリ子)が初めて寅さんシリーズに登場した回だ。寅さんはリリーから花の名前を聞かれたとき、「タンポポでしょ」といい加減に答え、妹のさくらにたしなめられた。

 ノーヴァリスの『青い花』はワスレナグサをイメージして書かれ、プルーストの『失われた時を求めて』ではワスレナグサは重要な場面に何度も出てくる。イギリスのランカスター家の家紋に用いられたこともある。欧州ではとても愛されている花のようだ。私も何度かこの花を育てたが、いずれも水切れで枯らしてしまった。枯れる前、花は私に向かってこう叫んだことだろう。「な忘れそ!」

 ワスレナグサはブルーの小さな花が特徴的だが、何が愉快なのか白、ピンク、紫などの改良種が出回っている。

ハハコグサ(母子草、ごぎょう

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注目されることは少ないけれど

 キク科ハハコグサ属の二年草、もしくは越年草。ハハコグサの名前より春の七草のひとつである「ごぎょう(御形)」のほうが世間には知られているだろう。ただし、「ごぎょう」がこの草だと知っている人は少ないかもしれない。若い苗が食用になる。母子草の名前ゆえか花言葉に「無償の愛」というのがあるそうだ。若いときに身を人間のための食料として投げ出してしまうのだから、確かに「無償の愛」と言えるだろう。ただし、「春の七草」として販売されている場合は有償である。

サルビア・ミクロフィラ(チェリーセージ

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近年、見掛けることが多くなった紅白種

 シソ科アキギリ属の常緑性小低木(多年草とも)。一見、草のようだが茎の底部は木質化する。高さは1・5mにも育つので、高くなった場合は茎の下部を切り戻すと毎年、こんもりと咲くようになる。種小名には"microphylla"とあり、これは「小さな葉」を意味するが、実際には決して小さくはない。原産地がメキシコのチワワ州なので、犬のチワワのように「小さい」という意味なのかとも考えたが、地名のチワワは「乾いた砂の土地」を表すので「小さい」とは関連性がない。もっとも、砂粒は小さい。

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純白もあります

 かつては、赤い花が特徴的(本項の冒頭の写真参照)だったのだが、現在では改良種である「ホットリップス」が多く流通しているためか、紅白の花をもつものが増えている。さらに交雑種なのか、ひとつの木(草)から赤、紅白、白の三種の花を付けるものもよく見かける。

 英名のチェリーセージ(ベビーセージとも)から分かるように、葉はハーブとして利用される。

キンセンカ(金盞花、カレンデュラ

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あまり見かけなくなった古典種

 キク科キンセンカ属の一年草。以前に紹介した小型の「カレンデュラ・冬知らず」は、その名の通り越年するので多年草として扱われる。花は大きく10cmほどにもなる。一重咲き、八重咲きがあるが、近年では写真のような八重咲きタイプが圧倒的に多い。花の中心は写真のように花弁と同じ色のものと異なるタイプのものがある。花色は黄色か橙色が大半だが、複色タイプのものも見掛ける。

 以前はどこの庭や公園にもよく植えられていたが、最近では見る機会がかなり減った。群生させると豪華だし花期も比較的長いので、人気が復活すると良いとおもうのだが。なお、この花もハーブとして利用される。

イソトマ(ローレンティア)

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繊細かつ優美

 キキョウ科イソトマ属の多年草一年草とも)。開花期は長く、次々と写真のような細身の星形の美しい花を咲かせる。とてもキレイな花なのだが、近年はほとんど見掛けなくなった。これは茎から出る液が有毒で、皮膚がかぶれたり目に入ると失明する恐れがあることから敬遠されているのかもしれない。何しろ、花言葉にも「猛毒」とある。

 バラのように「美しい花には棘がある」が、イソトマのように「美しい花には毒がある」ことは、園芸の世界では実はよくあることなのだ。

〔37〕八王子の城跡を歩く(2)悲劇の八王子城(前編)

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8年前に建てられたガイダンス施設内の展示(現在はコロナ禍で休館中)

八王子城造営にいたる時代背景

 天正18年(1590年)6月14日、現在の埼玉県寄居町にある「鉢形城」は豊臣勢の北国支隊ら35000の兵に包囲されながら約一か月間の籠城戦を戦ったものの遂に開城した。城主の北条氏邦(氏照の弟)は降伏したが、北国支隊のリーダーであった加賀の前田利家豊臣秀吉に彼の助命嘆願をおこなったことで許され、後に氏邦は前田家の家臣となった。

  鉢形城が落ちたことで、残された北条側の支城は八王子城のほか、忍城(埼玉県行田市)と津久井城(神奈川県相模原市)だけとなった。忍(おし)城について本ブログでは、行田市古代蓮や古墳群を見るために訪れた際に触れている(cf.16・古代蓮の項)。忍城は北条氏に従属する国衆である成田氏の居城で、「浮き城」とも呼ばれた難攻不落の城だった。八王子城(6月23日)や津久井城(6月25日)が落城した後も石田三成率いる秀吉軍からの攻撃に良く耐え、結局、小田原城の開城(7月5日)が決定されたことで忍城も籠城を解くことになった。津久井城は北条家当主に支配権があるものの実際の領地運営の多くを城主(内藤家)に委任されていた。八王子城の落城後に徳川軍の本多忠勝が中心となって津久井城に攻め込んだが、大きな抵抗もなく落城した。

 八王子城北条氏照が造営した山城である。先の「滝山城」の項で述べたように、1569年の武田軍の侵攻によって滝山城は落城寸前にいたったこともあり、より守りが強固な城の必要性を氏照は痛感していた。その一方、彼は北条側の軍事外交権の一切を任される立場であったため、城建設に実際に着手したのは80年代に入ってからとされている。70年代は北条氏が4代当主氏政(氏照の兄)のもとで領域を下野(栃木県)や下総(千葉県)にまで広げた時期で、下野の小山領や下総の栗橋領は氏照の支配下に組み込まれた。かように氏照にはこの時期、頼りないダメな兄の氏政に変わって北条家の勢力拡大のために奔走していたので、八王子城の造営を指揮する余裕はなかったと考えられる。

 八王子城の構想自体は1570年代にはすでにあったとされ、77、78年頃には根小屋地区(家臣団の集落地)の建設が始まっていたという説がある。さらに、『新編武蔵風土記稿』には、「天正6年(1578年)北条陸奥守氏照、滝山の城をここに(深沢山のこと)引移しける時、當社(牛頭山神護寺のこと)を城の守護神と定めける」とあり、八王子城への移転を78年であると記している。もっとも、79年の武田勝頼との戦いではあくまで滝山城を本拠にする予定だったようなので、要害地区(城の中核部分)そのものの建設はまったくといいほど進んでいなかったと考えられる。80年の3月に氏照は、織田家へ家臣の間宮綱信を使者として派遣したが、その際、間宮は安土城をつぶさに見学し、その地で得た知見を八王子城の造営に生かしたとされている。とりわけ、石垣の構築法は安土城に酷似していると考えられている。このように、70年代には八王子城の萌芽はあったものの、本格的な工事は行われていなかったと思われる。

 氏照が八王子城造営に最終的なゴーサインを出したのは82年(本能寺の変があった年=”十五夜に(1582)本能寺の変を知る”と年号を暗記した)だという説がある。この年に武田軍は織田軍に攻め込まれ、武田側の要衝であった高遠城(長野県伊那市)を守っていた武田勝頼の異母弟である仁科盛信が、織田信忠(信長の長男)軍に殺害され僅か一日で落城した。この高遠城の敗北によって武田側は一気に劣勢に追い込まれ、同年に武田氏は滅亡したという経緯があった。これを知った氏照は織田軍、さらに豊臣秀吉軍に対抗するために鉄壁の守りを有する山城の建設を急ぐことになったと考えられている。

 八王子城が氏照の居城であったことを示す史料は『狩野宗円書状』が初見らしい。これは天正15年(1587年)3月に記されたもので、遅くとも87年には城としての体裁がそれなりに整っていたようだ。それより早い時期に氏照が八王子城に入っていたことを示す確実な証拠はないらしいが、史家の間では傍証から84年頃には滝山城から八王子城に移ったと考えられているようだ。これは、氏照に関して残されている史料からは84年以降、「滝山城」の文字が一切、現れなくなったからとのことだ。八王子城移転は84年説、87年説があるにせよ、この城の規模はとても巨大な(敷地面積は400ha以上)もので、しかも山城であるために、落城した90年6月の時点では未完成だったする説は非常に多い。

なぜ、八王子城なのか?

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八王子城は深沢山(現在は八王子城山)に造営された

 北条氏照はなぜ、平地にではなく、時代に逆行するような山城をあえて築いたのだろうか?なぜ、八王子の深沢山に城を築くことにしたのだろうか?

 戦国時代の後半期ともなると、城は軍事拠点としてだけでなく政治・経済の中心地的な意味を有するようになる。そもそも室町時代貨幣経済が急速に発展した時期でもあった。貨幣経済そのものは鎌倉時代に中国から「宋銭」が入ったことで盛んになり始めていたが、室町期は中国から「永楽通宝」が入って日明貿易勘合貿易)が盛んになり経済は大いに発展を遂げた。優美で煌びやかな北山文化金閣寺が代表的)、簡素で洗練された東山文化(銀閣寺が代表的)が室町時代に栄えたのは、その背後に経済発展があったからと考えられる。

 戦国時代は群雄割拠の混乱期であり経済発展は一時、停滞していたこともあったようだが、戦国大名はその力を蓄えるためにも農業政策を重視したことも確かである。当時の言葉に「ただ草のなびく様になる御百姓」というのがある。当時の農民はある点では身軽なので、領主の悪政に対しては、いつでも村を捨てる(逃散)覚悟があった。それゆえ、支配者は農民との良好な関係を保つよう努力した。氏照が築いた滝山城であれば、先の項で述べたように城内の中腹には2つの池があったのだが、これは家臣団のための溜池というばかりでなく、谷戸に住む農民のための農業用水としても用いられた。後述するが、これは八王子城でも同様で、城内を流れる城山川にはいくつか堰を築いて池を造り、この水を下流に住む農民に提供していたと考えられている。

 話を元に戻す。上記のように経済の発展から城は平地に造り、天守閣や御三階櫓(やぐら)から庶民の暮らしを睥睨するという姿が一般的になって来てはいたのだが、氏照には武田勢、さらに織田や秀吉勢の攻撃から守り抜かねばならないという事情と、安土城の鉄壁な防御態勢を学習済みであったことから、あえて守り優先の山城の構築を考えたことだと思われる。

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八王子城の出城があった小田野城

 八王子の深沢山は地理的に絶妙な位置にある。北側には案下道(現在の陣馬街道)、南側には古甲州道が通っている。いずれも、甲斐から武蔵に抜ける重要な道である。案下道には和田峠、古甲州道には小仏峠がある。1569年の滝山合戦では小仏峠を越えてきた武田勢の別動隊である小山田信茂の軍勢の奇襲に苦戦を強いられた。この反省から小仏峠側の守りを固める必要があったのだ。一方、案下道側には氏照が育った大石家の浄福寺城(八王子市下恩方町)があり、さらに家臣の小田野源太左衛門が居る小田野城(八王子市西寺片町、真下に都道61号線・美山通りのトンネルがある)という出城があった。

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深沢山九合目からの眺め。関東平野が一望できる

 後述するが、八王子城跡のある場所の多くは国有林となっているために現在は樹木の伐採が禁じられており、登山ルートの大半は見通しが良くない。しかし、写真の通り九合目付近(標高約430m)は足元が切り立った崖になっているためか樹木がほとんどないので関東平野がよく見渡せる。城があった当時は周囲の状況を知るために当然、樹木の大半は伐採されていたはずだ。西側には景信山(標高727m)、南側には高尾山(標高599m)があるために見通しは良くないが、北側の案下道方面、北東側の滝山城、拝島方面、東側の武蔵国衙(つまり府中)方面、南東の鎌倉方面は登山道の至る場所からはっきりと視認できたと考えられる。そうでなければ、敵の動きは察知できないからだ。

氏照と宗教

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八王子城中の丸跡に建つ修験者像

 氏照は小田原北条家の軍事外交権を掌握していた武闘派という面だけでなく、様々な宗教政策を用いて自らの領地に住む民衆の人心掌握を図っていた。実際、八王子城が落城する際の戦いには多くの宗教関係者が参加していた。 八王子市を代表する寺で、童謡『夕焼小焼』の鐘の音の候補のひとつとされる「宝生寺」(cf.18・浅川旅情後編)の十世頼紹、西蓮寺の六代住職の祐覚、大国魂神社(当時は六所宮)の大宮司の猿渡(さわたり)盛正はこの戦いに北条側で参戦して戦死している。

 また、氏照の配下には多くの修験者・山伏がいて、八王子城小田原城との伝令役、敵方(上杉勢、武田勢、豊臣勢)の動きを探る間諜役として活躍していた。そもそも、深沢山そのものが修験道の聖山であり修行場であった。八王子西部の山間地には熊野修験の霊場が多く存在し、もっともよく知られているのは深沢山の隣にある高尾山だろう。また、周辺には「今熊神社」や「熊野神社」が数多く存在している。

 修験道の開祖といえば有名な役小角(えんのおづぬ、役行者)の名が挙がる。奈良の吉野山から紀伊・熊野山中への大峰奥駈道を開拓したことで知られている人物だ。その流れをくむ本山派修験宗の総本山は京都にある聖護院である。聖護院といえば「聖護院八ツ橋」「聖護院大根」「聖護院かぶ」などがとても有名だが、私にとっては府中一中時代の修学旅行の宿泊先が「聖護院御殿荘」だったということにもっとも強い印象があり今でも記憶にある。京都や奈良で何を見学したのかは全く覚えていないが、修学旅行専用列車が「ひので」だったこと、その夜行列車「ひので」の車内で学年一の美少女に頭を強く叩かれたこと、そして件の御殿荘の部屋で枕投げどころか布団投げをおこない「ふとんがふっとんだ!」と叫んでいたことなどが懐かしき記憶として鮮明に残っている。

 15世紀後半に著された『廻国雑記』は北陸、関東、奥羽地域の寺や名所を巡った紀行文で、当時を知るための史料的価値はきわめて高いという評価があるが、これを著した道興准后は聖護院の門跡であった。この作品は表面的には歌枕を訪ね歩く旅の様子を記録したものとされているが、道興准后の真の目的は、各地を巡って熊野先達の組織化を図るというものだったとされている。こうしてこの時期に、八王子方面を支配していた大石氏、ついで北条氏照が修験者との結び付きを強固なものにしたのだろう。

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八王子城跡の登山道入り口にある鳥居

  深沢山には「八王子神社」がある。開祖は普賢菩薩・妙行で、山頂の岩屋で修行中に牛頭天王と八人の王子が現れ、八王子権現社の設立を勧請したという。牛頭天王は京都祇園社の祭神であり、日吉山王権現とも称される。日吉(ひえ)は比叡=比叡山を表し、天台宗の本山であると同時に山岳信仰の中心地でもある。また牛頭天王スサノオの本地とも考えられているので、この宗教的立場は山岳信仰天台宗神道が融合したものである。妙行が開いた八王子権現朱雀天皇に認知され、牛頭山神護寺(現在の宗閑寺)の名が与えられた。この信仰は八人の王子を祭神とするため、ここの地名は八王子と称されるようになった。

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八王子市の名の由来となった八王子神社

 八王子神社の社殿は八王子城跡・中の丸にある。なにやらうらぶれた様相ではあるが、この山は前述のように国有林となっているので改築・新築は容易ではないのかもしれない。屋根の一部が折れ曲がっているのは、昨年の台風15号の強風によるものだろう。

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隙間だらけの社殿の中をのぞく

 隙間だらけの社殿の中をのぞいてみた。中には小さいがそれなりの風格をもった社があった。バラック風の社殿はこの立派?な社を保護するための覆いと考えれば、うらぶれた外観も了解可能かもしれない。そう、平泉・中尊寺金色堂を守る「覆堂」のごとくに。いや、それにしてもみすぼらしい。ここは市名の発出点なのに!

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望遠レンズで高尾山方面をのぞいた

  二の丸(松木曲輪)からは八王子山岳信仰の親玉格である高尾山が見える。写真は標準換算350ミリの望遠レンズでのぞいたものなので、肉眼ではもう少し小さく見える。写真にある建造物はケーブルカーの駅舎かと思われる。

 深沢山(現在の八王子城山)と高尾山との間には古甲州道が通り、現在では中央自動車道首都圏中央連絡自動車道(通称は圏央道)とが通っている。中央道は古甲州道に並行しているので深沢山と高尾山との間の谷底を走っているだけだが、圏央道は両者をトンネルを使って串刺しにしている。ラジオで交通情報を聞いていると、高速道路の渋滞情報ではよく「圏央道八王子城跡トンネルで〇キロ渋滞」「圏央道・高尾山トンネルで△キロ渋滞」というアナウンスが流れる。両者のトンネルの間はわずかばかりだけ地上に顔を出し、そこには中央道とをつなぐ八王子ジャンクションがある。中央道のほうは地表を進むのでまだましだが、圏央道のほうは青梅側から合流するにせよ厚木側から合流するにせよ、トンネルを出るとすぐ側道に入らなければならないため、トンネル出口付近の事故はとても多い。心霊スポット好きの知人はこれを八王子城の悲劇の祟りだと言うのだが……お前の頭のほうが祟られているのでは、と反論したくなるが……最近では大人の対応をしている。

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神護寺があった場所には氏照と家臣団の墓がある

 氏照は1559年頃に由井(現在の八王子市域)の領主として浄福寺城に入り領国支配を開始した。それまでは由井源三を名乗っていたが、この時期からは養子先の大石姓を用いるようになった。

 61年には高尾山に椚田(くぬきだ)谷の一地域を寄進した。その背景には、当時は越後の上杉謙信と関東の地の争奪戦をおこなっていたため、武運を祈願し、あわせて人心収攬を図るという目的があった。62年には青梅の金剛寺に門内不入権を与え寺領を安堵した。65年には座間の星谷寺に竹林伐採を禁じる制札を立てた。これも寺領が外部の者に荒らされないよう保護したものだ。同年、府中の高安寺に寺中棟別銭免除を認めた。いわゆる不輸権の承認である。67年には八王子の大寺である宝生寺を滝山城下への移転を勧告した。これは未達成であったものの、城下に著名な寺を置くことで人心の掌握を一層、推し進めようする考えに基づいている。69年頃に牛頭山神護寺を深沢山の麓に建立した。さらに71年には神護寺境内での殺生、竹木伐採、乱暴狼藉の禁止をおこなった。81年には高麗郡(現在の狭山市)にある笹井観音堂の年行事職の任免権を氏照が得た。この観音堂は聖護院本山派の武蔵国の拠点のひとつであったため、氏照は修験者・山伏との結び付きを一層、強めることになった。

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神護寺は現在、宗閑寺と呼ばれている

 中世、寺社の力はとても強く、ときには将軍や朝廷の存在を脅かすほどの存在であった。鎌倉時代の初期には新仏教の浄土宗・浄土真宗臨済宗曹洞宗などが武家や庶民の間に広まり、それに対抗すべく、旧来からある天台宗真言宗も勢力を拡大し政治に対抗した。例えば1414年の『高野山文書』には以下の下りがある。「部外者の検断吏が境内に入り、そのに逃げ込んだ誰かを罪人だと称して、問答無用で理不尽に殺害することは認めない。犯罪者であることが事実だとしても、高野山の沙汰所の許可を得てから逮捕せよ」。これは、高野山境内の入口に立てられた制札の文言である。

 中世の寺社は「アジール」としての性格を有していた。アジールは「平和領域」「避難所」という意味がある。「駆け込み寺」「縁切寺」も一種のアジールである。一般には「平和聖性にもとづく庇護・およびその庇護を提供する特定の時間・場所・人物」とアジールは定義されている。

 アジールの背景には宗教的・魔術的観念が必要不可欠で、アジールには周囲よりもオレンダまたはハイル(ともに神的な力を意味する)が凝集されており、オレンダ・ハイルに接触した人間はアジールの保護を受ける。これを「感染呪術」とか「接触呪術」といい、人々が神仏に触れたり(ex.とげぬき地蔵)、神社仏閣に参拝したり(ex.初詣)、お札やお守りを有するのはオレンダに感染し、自己の安寧を図るためだ。

 塀に「立小便禁止」と記すより、鳥居の絵を描くと効果があるとされているようで、今でもときおり見掛けるが、これもアジールの一種と考えられる。観念的動物である人間は鳥居に立ションするのは憚られるが、犬には信仰心がないので効き目はない。私の場合はオレンダには感染しないので鳥居の絵は通用せず、むしろ的になる。とはいえ、緊急避難時以外は塀に立ションはしないが。近代になると社会は合理化が進み、政治も「伝統的支配」や「カリスマ的支配」から「合法的の支配」へと移行する。ウェーバーはこれを「脱呪術化」と呼んだ。

 氏照は先に述べたように寺社勢力を取り込むことによって領地支配の安定化を図った。しかし、それだけでは民衆の心を真に掴むことはできない。そのためもあってか、1573年には西蓮寺内にある「御嶽権現」の落成を祝って「龍頭舞」が氏照の命によっておこなわれ、以来、この行事は現在でも伝統芸能として八王子市石川町で挙行されているそうだ。また、やはり現在、狭間町でおこなわれている「獅子舞」は90年に氏照から獅子を拝領したことが起源とされている。このようの、民衆と一体となって祝い事をおこなう。これもまた「ハレの時と場所」を共有するアジールの一種と考えられる。

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宗閑寺の梵鐘は八王子城合戦に備えて供出させられた

 小田原北条氏とは直接のつながりはないが(最近の研究では伊勢新九郎は北条氏の遠縁であることが判明している)、鎌倉時代に執権政治をおこなった北条泰時は1232年に「御成敗式目」を制定している。この第一条は「神社を修理して祭りを大切にすること」、第二条には「寺や塔を修理して僧侶としての勤めをおこなうこと」とある。第三条に至って「守護の仕事について」の定めが出てくる。御成敗式目武家社会の伝統や慣習を明文化したものであるにも関わらず、冒頭には「宗教政策」についての定めがあるのだ。また、小田原北条家の祖である北条早雲伊勢新九郎)は北条家の家訓として「早雲寺殿二十一箇条」を定めたが、この第一条は「仏神を信じなさい」とある。やはり、冒頭には宗教について述べている。ことほど左様に、この時代は政治と宗教が密接に関係していた。

 「御成敗式目」は中学校社会科にも出てくる(多分?)ほど日本史では基礎中の基礎知識なのだが、これが制定されるようになった背景は案外、知られていない。当時、1230年に始まった「寛喜の飢饉」が猛威をふるっていたのだ。30年7月には岐阜や埼玉で降雪があるなど冷夏と長雨続きだった。だが、31年には一転して酷暑となり、「天下の人種、三分の一失す」と言われるほど不作の連続だった。こうした領民の苦難を精神的に救済するため、何よりもまず為政者が神仏の敬うという方策がとられたのである。併せて改元がおこなわれて「貞永」に変わった。「御成敗式目」が「貞永式目」とも呼ばれるのはこのことによる。

 氏照もまた早雲に倣い宗教や宗教家を保護したが、それには限界があった。豊臣秀吉との対立が深まりつつあった1587年、鉄砲、大筒、弾丸の材料が底をついたため寺社にある梵鐘の供出を開始したのである。牛頭山神護寺の鐘も例外ではなかった。さらに本来、公界者(俗界と縁を切った者)であるはずの修験者・山伏を伝令や間諜に使い、俗世間に引き戻した。また、農民も八王子城建設に駆り出され、さらには兵士に加えられた。

 アジールとしての八王子城は一転、戦場へと転化したのである。

 

*後編に続きます

〔番外編〕花に誘われ春紀行

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春の妖精・カタクリの花

花の命は短いけれど

 前回でも述べたように3月下旬は、今や山野草の代表格となったカタクリの花が満開になる時期だ。例年は埼玉県小川町にある「カタクリニリンソウの里」に訪れ、山の斜面に植えられているカタクリと、手前の平らな場所に群生して咲くニリンソウに逢いに出掛けているし、今季もその予定だったけれど、当日に急用が入ったために午後からしか時間が取れなかったので埼玉まで行くことは断念し、代わりに前回に紹介した武蔵村山市にある「野山北公園」の『カタクリの里』を再訪した。

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カタクリの花の群生

 3月下旬、野山北公園の丘の斜面に植えられている無数のカタクリは、全体としては7、8分咲き程度で、完全に花を開いているものもあれば開花途上のもの、まだ蕾状態のものもあった。ここの規模は小川町のそれの5分の1程度だが、見ごたえは十分にある。公園並びに周辺には散策コース、丘の斜面に設えられた遊具施設、運動場、無料釣り堀、それに立ち寄り温泉もあるので、多彩な楽しみが体験できる場所だ。カタクリは”スプリング・エフェメラル”(儚い春)の象徴的存在なので、花に触れる期間は短いけれど、春の到来を実感するためもあって「カタクリの里」周辺を訪れる人は多い。

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まだ開花途上のものも多くあった

 私の場合は「カタクリ」と「野山の散策」の二つの目的だけにここを訪れるが、それでも年に7,8回はこの里山に出掛ける。もっとも、カタクリは春のひとときを楽しませてくれる花だし、野山の散策は五月蠅い虫と長虫が姿を現さない冬・春に限られるので、カタクリに触れると、その年の「野山北公園」詣は終了となる。

 花の命は儚いけれど、地下で命を繋いでくれている間は再び、次の年も私の目や心を楽しませてくれる。近い将来、私はここを訪れることはできなくなるだろうが、花はそんなことには関わりなく、季節の廻りにしたがって人々を和ませる。

ゼラニウム・フェアエレン

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ゼラニウムには無数の品種がある

 フウロソウ科ぺラルゴニウム(テンジクアオイ)属の多年草で、種類の多いゼラニウムの仲間では「センテッド(ハーブ)・ゼラニウム」に分類される。葉や茎に香りがあり、バラ、オレンジ、レモンのような芳香を有するものが多い。写真の”フェア・エレン”はパイン(松)の香りがすることで知られている。

 ヨーロッパの集合住宅の窓辺には”ウインドウボックス”が設えられており、ここには花を置くという習慣がある。窓辺を花で飾るというのは個人の趣味というより市民としての公共心を表現することに結び付けられている。そこに飾られる花の大半は四季咲きの「ゼラニウム」であり、夏場はこれに「ペチュニア」が加わる。

 日本でも長年、園芸品種を育てている趣味人は四季咲きのゼラニウムを好んでいるようだが、新興住宅地を徘徊して玄関や庭先にある花に接してみると、この花を見かけることは案外少ない。くだんのゼラニウムはもはや古典種であって、今の人の心を惹きつけることはないのだろうか。残念なことである。今の時期はパンジービオラが盛りだが、少しずつチューリップが開花し始め、その花期が終わると次は初夏の花の代表格である「ペチュニア」がポットやプランターの主役に躍り出ることになる。

 ゼラニウム(Geranium)の属名は現在ではペラルゴニウム(Pelargonium)だが、18世紀の博物学者で「分類学の父」(ラテン語二名法を確立)と呼ばれているスウェーデンのリンネがこの花をゼラニウム属に分類したため、今でも園芸店や園芸家には「ゼラニウム」と呼ばれている。園芸品種名としてのゼラニウムには、四季咲きのゼラニウム(古典種)のほか、多彩な花色をもつ改良種で一季咲きの「ペラルゴニウム」、蔓(ツル)性品種である「アイビーゼラニウム」、そして写真に挙げた「ハーブ(センテッド)ゼラニウム」の4種に大別される。私が20年ほど前、園芸にどっぷりとはまっていた頃は、いつもメインの花として四季咲きゼラニウムを庭やプランターに置き、ハンギングポットにはアイビーゼラニウムを用いることが多かった。

キジムシロ(雉筵)

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ヘビイチゴミヤマキンバイと同じ仲間

 バラ科キジムシロ属の越年草もしくは多年草。春から初夏にかけて日本全土の野山に咲くありふれた花で、ヘビイチゴミヤマキンバイと同属。花の大きさは10~15ミリ程度とひとつひとつは小さいものの、緑の葉の上に咲く黄色の花弁がよく目立つ。ミヤマキンバイ(深山金梅)は高山植物として大切に扱われるが、本種やヘビイチゴは雑草扱いされるので注目されることはまず少ない。しかし、よく見るとかなり美しい存在である。

チオノドクサ(雪解百合) 

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早春から咲く球根性多年草

 キジカクシ科チオノドクサ属の球根性多年草クレタ島キプロス島、トルコが原産地。耐寒性があるので植えっぱなしでも例年、晩冬には目を出し、早ければ2月には花を咲かせる。スイセンと同じ季節の花と思えば良い。

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青紫の花びらが美しい

 写真のものは「ルシリエ」「ルシリアエ」「フォーベシー」などと呼ばれている品種で交雑が進んでいるためか色の濃淡がかなりある。また、花色が白やピンクのものもあるが、個人的にはこの花弁の先端が青紫で中心部が白色のものが好みである。

カレンデュラ”冬知らず”(ヒメキンセンカ、ホンキンセンカ

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開花期間がとても長い

 キク科カレンデュラ属の多年草で原産地は地中海沿岸。キンセンカは改良品種がとても多く、寄せ植えや切り花としてよく用いられる。ここで取り上げたキンセンカはその仲間の中ではもっとも地味なもので、”ハーブ”として重用される以外は野草化し、道端でも見掛けることがよくある。

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日があまり当たらないときは花弁は閉じ気味

 「冬知らず」の品種名がある通り寒さにはかなり強く、日当たりの良い場所では1月頃には開花し6月頃まで咲く。学名は"Calendula arvensis"で、属名のカレンデュラの語源はカレンダーである。カレンダーは”帳簿”を意味するが、この花と帳簿との関係は不明だ。写真のように、曇りのときは花は半開き状態だが、ひとつ上の写真のように日当たりが良いときは花弁を目いっぱい開き、花の中心部も笑顔になる。

オダマキ(西洋オダマキ

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改良品種が無数にあるオダマキ

 キンポウゲ科オダマキ属の多年草。50センチほどの高さに直立し、上部に多数の花を咲かせる。日陰でもよく育ち多くの花を咲かせるので日当たりの少ない庭やベランダで育てることが可能だ。

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オダマキは交雑しやすいので、多数の花色がある

 セイヨウオダマキは元々、交雑種から育成されたものなので多数の品種があり、花の形や花色が異なるものがとても多い。

 山野草として扱われる日本原産のオダマキには、高山植物として扱われる「ミヤマオダマキ」のほか、「ヤマオダマキ」などがある。こちらは高さが10~20センチほどで、うつむき加減の美しい花を咲かせる。

オランダカイウ(阿蘭陀海芋、カラー、リリー・オブザナイル)

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カラーの仲間だが湿地を好む

 サトイモ科オランダカイウ属の球根性多年草。カラーの仲間はその立ち姿と清楚な花を有することから切り花やブーケ(花束)に用いられることが多い。カラーの語源はその花の形が襟や袖の形を整えるカラー(collar)に似ているから、清楚な美しさを有するのでギリシャ語のカロス(美しい)に由来するなど諸説ある。カラーは色が豊富だが"color"を語源とするわけではない。

 切り花やブーケに用いられるカラーは乾地で栽培されるものだが、「オランダカイウ」はエチオピアを原産地とするものでカラーの原種の中では唯一、湿地に育つものである。「リリー・オブザナイル」の別名があるようにアフリカでは大切な花とされ、エピオピアでは国花に指定されている。この花の学名は”Zantedeschia aethiopica”であり、種小名に「エチオピア」の文字がある。なお、写真は国分寺崖線の湧水を集めた「お鷹の道」に沿って流れる小川に自生するカラーを撮影したもの。

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オランダカイウは大きな仏炎包を有する

 カラーの花は「花弁」ではなくガクが変化したもので、その特徴的な形から「仏炎包」(ふつえんほう)と呼んでいる。後に挙げるが、「ミズバショウ」もこの「仏炎包」を有する。

ベニバナトキワマンサク(紅花常盤万作、アカバトキワマンサク

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赤い花は通常種が変異したもの

 マンサク科トキワマンサク属の常緑性低木。常緑性なので冬でも少し葉は残るものの春になると新しい葉が生長する前に写真のような花を付ける。通常のトキワマンサクははクリーム色の花を咲かせるが、突然変異で赤い花を付けるものが出来て、現在ではこの「ベニバナ」のものが主流になっている。写真のものはやや花が少ないが、マンサクの語源と言われる「豊年満作」のように枝いっぱいに細い帯のような花を付けるものも多い。 

ムラサキケマン(紫華鬘)

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ホトケノザに似た感じの花。毒草として知られる

 ケシ科キケマン属の越年草。やや湿った木陰などで見られる「雑草」。花の形は「ホトケノザ」に似ているが、こちらの草のほうが花数は多く、とくに頭頂部には写真からも分かる通りビッシリと咲く。花冠は筒状でその長さは10から20ミリ程度。先端部は唇形状に開く。草全体が有毒でアルカロイド成分を有する。この特性から薬草に分類される。これを食した場合の中毒症状は嘔吐、酩酊状態、昏睡、心臓麻痺などがある。ただし、現在のところ死亡例は発表されていないらしい。

シャガ(射干、胡蝶花)

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やや湿り気のある木陰に群生する

 アヤメ科アヤメ属の多年草。中国原産だがかなり昔に日本に入ってきたためか、学名は”Iris japonica"になっており、種小名には「日本の」とある。山里のやや湿った木陰にはどこにでも見られるが、この草花は種はできず地下茎のみで増えるため、人為的に移植したか、種を作る中国産のものが移入されているのかは不明なようだ。

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花は清楚でなかなか美しい

 花は白地に青とオレンジの模様が混じりなかなか美しい。今回は国分寺崖線下の小川、府中崖線下の小川、小金井の貫井神社境内などで群生する様子を観察した。数年前は武蔵村山市の六道山公園の散策路でこの花の大群生が見られたので今回、久しぶりに出掛けてみたのだが、残念ながらすべて撤去されていた。葉っぱすら見掛けなかったので、地下茎ごと撤去されたようだ。種子はないので、今後はシャガの群生を見ることはできないだろう。残念なことである。

 シャガの大群生といえば、奈良の吉野山の斜面を思い出す。数年前までは毎年、吉野山へ桜見物に出掛けていたが、山頂から下る際はいつも谷沿いの道を使った。そこには一面、シャガの大群生があった。一目千本のヤマザクラはこの上ないほど見事に咲くが、その陰にあっても、シャガの凛々しい花の群生は負けず劣らず見応えがあった。

ヤブレガサ(破れ傘)

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葉の形が破れた傘のようにみえる

 キク科ヤブレガサ属の多年草。山里の林の日陰場所で目にすることが多い。茎は高さ1mほどまでに伸びる。花は初夏に付けるが10ミリ程度の小さな花なので、開花に注目する人はまずいない。私自身、この花には何の関心も抱かない。

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ヤブレガサの新芽

 この山野草の魅力は地中から顔を出し始めた新芽の姿形にある。私は今の時期に山里へ散策に出掛けたときは木陰に入るとこのヤブレガサの新芽を探すことがしばしばある。新芽は写真のように綿毛に覆われ、破れた傘をすぼめたような姿をしている。これが愛らしいということで、自然のものだけでなく改良園芸種まで出回っている。斑入り(ふいり)のものがとくに人気が高いらしい。山野草の世界はかくも不可思議である。

カキドオシ(垣通し、連銭草)

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ツル性の草花なので地面を這うように育つ

 シソ科カキドオシ属の多年草。花は10~15ミリ程度の大きさなのでこの花の存在に気が付かない人がほとんどだ。しかし、一度でもこの存在を意識すると毎春、野原でこの花を見つけることが楽しみのひとつになる。現実には、日本全国のどこにでも自生し、身の回りにある野原や道端でも簡単に見つけることができる。

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群生するカキドオシ

 そう、あなたがよく遊んでいた春の原っぱには、こんなにも小さいが、これほどに愛くるしい「雑草」が地べたを覆っているのだ。そして、まったく存在に気づかず踏みつぶしていたのだ。

カウスリップ(黄花九輪桜)

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残念な名前だが花はとても美しい

 サクラソウサクラソウ属の多年草。標準和名の”キバナクリンザクラ”ならその姿に相応しいが、英名の”カウスリップ”はとても残念で可哀そうな名付けである。cow-slipは「牛の糞」という意味になるからだ。それでもこの花は食用にもハーブとしても薬草としても用いられる。イギリス人は「牛の糞」を口にするのだ。一方、ロシアではこの花を「初花」と名付け、春の到来を告げる存在と位置付けた。属名がPrimula、すなわちプリムラ=プライムなのだから「初花」であっても何の不思議はない。

 姿形は、以前に取り上げた「プリムラ・ポリアンサ」に似ている。というより、プリムラの原種がこの花なのだ。園芸種のプリムラよりはやや背が高くなり花付きも今一つといった感じだが、写真からも分かる通り、本家本元ならではの深い味わいがある。もっとも、この品種の姿そのままに花付きを良くしたり花色を変化させたりした改良種もある。そちらのほうは何やら徒長(間延び)したプリムラのようで、個人的には好みではない。

ミズバショウ水芭蕉

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近年は至るところで栽培されている

 サトイモミズバショウ属の多年草ミズバショウ尾瀬の結び付きは誰もが知るところで、この花を見るためには「はるかな尾瀬遠い空」まで出掛けなければならないと思っている人は案外多い。実際には、池(沼)を有する「身近な公園」でも多く栽培されている。写真は「カタクリ」の項で挙げた武蔵村山市の野山北公園のもので、3月中旬から4月上旬頃が見頃だ。本場?の尾瀬では5月から6月上旬が見頃となる。低地では春が来ると、高地では夏が来ると思い出す花なのだ。今年はコロナ禍が拡大中なので、尾瀬ミズバショウも落ち着いて咲き揃うことができるのではないか?

 オランダカイウのところでも触れたが、白い花のように見えるのはガクが変化した仏炎包。花は中心にある「ツクシ状」のものでこれを肉穂花序(にくすいかじょ)という。ミズバショウの名は沖縄や奄美地方に群生するイトバショウに葉の形が似ており、清らかな水辺に生育することからこのように名付けられた。なお、イトバショウの葉の繊維は「芭蕉布」の原料になる。

イカリソウ(碇草、錨草、淫羊藿(いんようかく))

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名前の由来はその花の形にあることは言うまでもない

 メギ科イカリソウ属の多年草。たとえ、この花の名前を知らなくても船のイカリに似ているということはイメージされるはずだ。耐寒性があり日陰でもよく育ち花色がきれいな山野草として人気が高い。また、薬草としてもその効能はよく知られており、強壮薬として用いられる。中国名は「淫羊藿(いんようかく)」であり、その名前から推測できるように精力剤の原料となる。

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白花が特徴的なトキワイカリソウ

 写真のトキワイカリソウイカリソウの近縁種。人気の花ということもあっていろいろな原種や近縁種、改良種が見いだされている。初心者にも育てやすいということもあり、春の山野草として安定した人気を誇る。”夕映”や”多摩の源平”などという洒落た名前をもつ品種は愛好家の間で評価が高い。

スミレ(菫)

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タチツボスミレ~最近では一番多く見かける

 スミレ科スミレ属の多年草。スミレの狭義の学名は"Viola mandshurica"で、スミレ、や写真に挙げたタチツボスミレ、アツバスミレなどが種小名の”マンジュリカ”に属する。野原や山里、ときには公園や路地でよく見かけるスミレはタチツボスミレ(立坪菫)の場合がほとんど。葉が丸みを帯びた心形であればタチツボスミレ、葉が長楕円形であればスミレだと区別がつく。もっとも、スミレの仲間は原種だけでも60種ほど、さらに交雑種も数十種あると考えられているので、道端に咲いているスミレが園芸種のこぼれ種から生育した可能性もなくはない。なお、種小名の「マンジュリカ」は「満州の」という意味である。

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白い花に青紫のすじが美しいアリアケスミレ

 スミレ=Viola=ヴァイオレットなので花の色は紫と思いがちだが、写真のアリアケスミレのように白色のものもあり、アツバスミレは白と紫のバイカラー、キスミレはその名の通り黄色などの種類もある。世界では約300種もあるらしいので、スミレの世界は深さも広さもある。

 アリアケスミレの学名は”Viola betonicifolia"なので、狭義のスミレ(マンジュリカ)には属さず、通常は「スミレの仲間」として区別される。写真のスミレは愛好家の渾身の作なので色のバランスがとても良いが、花色は変異しやすいためどんな色の花が開くのかは育ての親の楽しみでもある。

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花弁のよじれが特徴的なニョイスミレ

 写真のニョイスミレ(如意菫、ツボスミレ、”Viola verucunda")もマンジュリカではないスミレの仲間。写真のように花弁がよじれて咲くのが特徴的。花は白を基準に紫色のすじが美しい。故志村けんの歌でよく知られる東村山の庭先にある多摩湖(実際には東大和市)の東側にある狭山公園の道端で見つけた。一帯は無数のタチツボスミレが満開状態だったがその一角だけにニョイスミレの群生があった。広大な公園の敷地の中で、ここだけにタチツボスミレではない種のスミレが咲いていたのである。合掌。

ショウジョウバカマ(猩々袴)

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湿った谷間に咲く人気の山野草

 シュロソウ科ショウジョウバカマ属の多年草。日本北部、サハリン南部、千島列島南部を原産とする山野草。原産地から分かる通り耐寒性はとても強い。半日蔭のやや湿った谷間に咲く。また、雪解け水が流れ込む平地にも生息する。背丈は10~20センチほどのかわいらしい野草で、園芸種としても人気がある。ただし、花期が終わって種子を作り始めると花茎は30センチ以上に伸びることもある。花は赤紫色が基本だが、ピンクや写真のように白色のものもある。

アミガサユリ(編笠百合、バイモユリ、貝母)

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絶滅危惧種に指定されている山野草

 ユリ科バイモ属の蔓性の多年草。地下に鱗茎をもち、梅雨時期から休眠する”スプリング・エフェメラル”である。全草にアルカロイドを含む「毒草」であるが、この特性を利用して「薬草」として用いられることも多い。中国原産で700年前から栽培されていた。日本には江戸時代の享保年間に移入された。現在は野生化しているものもあるが、園芸種として販売されてもいる。近縁種にはクロユリなどがある。

ノウルシ(野漆)

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ウルシの名があるだけに有毒だ

 トウダイグサ科トウダイグサ属の多年草。かつては河川敷や湿地帯で群生していたが、開発が進んだことでその姿を見る機会は激減した。名前に「ウルシ」が付いているとおり毒草だが、本来のウルシとはまったく関係はなく、葉や茎からウルシに似た乳液を出すことから名付けられたようだ。この液体に触るとかぶれを起こす。花弁やガクはなく、花のように見えるのは葉の一部であり、雄蕊や雌蕊を包むような形になっている。これを「杯状花序」という。

ミミガタテンナンショウ(耳形天南星)

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独特な仏炎包をもつ花

 サトイモ科テンナンショウ属の球根性多年草。学名は"Arisaema limbatum"で、種小名の「リムバートゥム」は「耳の大きい」という意味。球根は有毒ながらでんぷん質を多く含むので食用とされることもある。 仏炎包の左右に張り出しがあるので、この特徴から「ミミガタ」の和名が付いた。山野の肥沃な場所によく生育するため、里山の散策では案外目にすることがある。

タンチョウソウ(丹頂草、イワヤツデ

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花や葉の形が独特な山野草

 ユキノシタ科タンチョウソウ属の多年草中国東北部朝鮮半島の渓谷の岩場などに自生する。耐寒性が強いために育てやすく、山野草の園芸種として人気があり改良種も多い。花色は白だが、改良種には咲き始めは赤色に染まるものもある。葉の形が「ヤツデ」に似ているので「イワヤツデ」という別名があり愛好家にはこの名のほうが通りが良い。タンチョウソウの名は、その花のつぼみが赤みを帯びていることに由来する。

ユキワリイチゲ(雪割一華)

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花も美しいが名前も良い

 キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。本州西部から九州の山林などに自生する。山野草として人気があるため園芸店で入手できる。地下に根茎があり、夏場以降は地上から姿を消す”スプリング・エフェメラル”の仲間。花付きはあまりよくないので、イチリンソウの仲間では育成がやや難しいとされている。近縁種にはイチリンソウニリンソウキクザキイチゲアズマイチゲなどがあり、いずれも春咲きの山野草として人気は高い。

ドウダンツツジ灯台躑躅、満天星)

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春は花、秋は紅葉が楽しめる

 ツツジドウダンツツジ属の落葉性低木。原産地は日本だが現在、自生地は少ない。ただし庭木、街路や生垣の低木としてよく用いられているので目にすることは多い。白い小さな壺形の花は葉が出る前に咲く。丈夫な木なので日陰でも育つが花付きは悪くなる。春は無数の小さな花、秋は赤く色づく葉が楽しめるので日当たりの良い場所で育てたい。

フリージア

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花色だけでなく香りも良い

 ユリ科フリージア属の球根性多年草。香りがとても良いので切り花や花束としてもよく用いられる。園芸種としても評判が良いためか改良種も相当に多い。花色は白、ピンク、赤、黄、オレンジ、紫、複色など多数あり、さらに一重咲と八重咲とがある。”ポート・サルー”、”スカーレット・インパクト”、”ハネムーン”などといった品種名で多数のものが出回っている。

ブルーベリー

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ブルーベリーは味も良いが見た目も良い

 ツツジ科スノキ属の落葉性低木。北アメリカ原産。ブルーベリーは果実がよく知られているが、花も意外に美しい。水はけの良い酸性土壌を好むので日本の庭木には最適だ。春には花を楽しみ、収穫後は味を楽しむ。ブルーベリーは目に良いとされているが根拠に乏しい。しかし、美しい花を愛でるのは目に良いことは確かだ。

ネモフィラ・マクラータ

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青い斑点が可愛らしい

 ”ネモフィラ・メンジェシー”についてはすでに触れている。「ひたち海浜公園」の大群生は今が見頃だが、コロナ禍のために今季は入園できない状態にあるようだ。個人的には写真の”マクラータ”が好みだが先にネモフィラを取り上げたときにはこの品種が見つからなかったということを述べた。が、先ごろ見つけたので撮影してみた。

ヒトリシズカ

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ヒトリシズカが賑やかに咲く

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茎が緑色の品種

 ヒトリシズカについてもすでに取り上げている。今回はその群生と、茎色が通常種とは異なるものと出会ったので撮影してみた。