徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔26〕タマちゃんを求めて~多摩川中流散歩(1)

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多摩川中流に架かる是政橋

 「タマちゃん」そして「ウタちゃん」は何処に?!

 2002年8月、アゴヒゲアザラシ多摩川の丸子橋付近に現われて大騒ぎになったことがある。新聞やテレビではその海獣の動向が連日のように報道され、多摩川の河原は見物人や報道陣や私のようなやじ馬で大賑わいとなった。その迷入アザラシは「タマちゃん」と名付けられ、「タマちゃんソング」や「タマちゃん音頭」など便乗企画まで現れた。

 この動きは東北地方にも広まり、同年9月に宮城県歌津町(当時、現在は南三陸町歌津)を流れる伊里前川の河口付近にはワモンアザラシが現れ、ここでは「ウタちゃん」と名付けられた。河口近くにあった汐見橋は「ウタちゃんはし」と名付けられ、そう呼ぶことで歌津の名を全国に広めようとしたかったのか、青く塗られた橋の主桁には白いペンキで「ウタちゃんはし」と書いてあったような記憶がある。実際、このころは取材でこの近辺を年に数回は訪れ、わざわざ何度かこの橋を渡ったことがあった。ウタちゃんを探すことはなかったが。

 石巻市から国道398号線を北上して女川町、雄勝町を抜けて北上川の河口付近を抜け、現在の南三陸町の中心である志津川そして歌津、本吉町を通過し、気仙沼市に入った。2011年、東日本大震災による津波でもっとも大きな被害を受けたところへ、2000年代前半にはよく通っていたのだった。それゆえ、ニュースでよく取り上げられた被災前の女川や雄勝の町並みも、北上川右岸にある「大川小学校」の校舎も、町ごと流された志津川も、奇跡的に橋は残ったが家並みは完全に流失した歌津もすべて記憶にしっかりと収納してある。写真データもPC内や外付けハードディスクに残してあったはずだが、どちらも故障して今現在は復元不可となっている。

 「タマちゃん」や「ウタちゃん」に人々は何故、あれほど熱狂したのだろうか?それには大きく、時代背景に要因があると思われる。1990年ころにバブルが崩壊し、人々は夢から覚め、一転、今度は冷水を浴びることになった。それでもなんとか名目GDPは97年まで増加した。が、その年を頂点に2016年まで、1997年の実績を上回ることはできなかった。17、18年こそ1997年をわずかながら超えているが、これは実に「統計上のからくり」ともいうべきもので、内容不明な「その他項目」が増加した(1997年は減少された)ためであって、実質的にはまだ超えてはいないのだ。

 こうした閉塞状況を打ち破ってくれるだろう存在に人々は期待を抱いた。「異なるもの」の到来を希求する心性が「メビウスの輪」のように働き、従来の感性では否定的であったものへの肯定感が現実を揺り動かす要因になった。それが小泉政権民主党政権誕生につながり、また日常の中に非日常を求める心情が「タマちゃん」や「ウタちゃん」現象として現れたのだった。

 しかし、東日本大震災を経験した私たちは、大きな非日常は幸福ではなく大なる災いをもたらすことを知り、やがて日常の中に埋没するとこで些細な幸せ感を抱くことに満足することになった。それが現在まで続く「奇妙な安定」意識であり、何もしないことが現政権の支持理由になってしまったのだ。反面、50年に一度という災害が毎年発生するようになった今日、人々は内奥に「異化」を再び求める傾向性が生じ始めている。この「異化現象」を善き方向に導くため、今こそ新たなる「タマちゃん」の顕在が必要になってきているのである。

 そこで私は、多摩川の河原や土手、その周囲を歩き、真なる「タマちゃん」がこの地上に再びめぐり来る気配を探し求めることにしたのだ。

多摩川について知っていることなど

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多摩丘陵に登り、多摩川を概観した

 多摩川は私の育ての親である。小学校に入る前から多摩川の河川敷、砂利穴で遊び、小中学生の時は流れの緩い場所を探してフナやコイを釣り、南武線の鉄橋に無断侵入して多摩丘陵側に行って山でターザンごっこをした。高校の教員を辞して後、半年間、コイ釣りに専念した。河川敷に居住するホームレスといわれる素敵な人々とも仲良しになった。彼らの幾人かは川の増水で流され行方不明となり、人の存在の不条理を知った。ここで半年間学んだことが、その後の釣り人生を決定づけた。今、私がこうして立派な怠け者になれたのは、多摩川が育んでくれたお陰なのである。

 多摩川山梨県甲州市笠取山(標高1953m)にある水干(みずひ、標高1865m)に源を発し、138キロの旅を経て東京湾に注ぐ。江戸時代は都市部の重要な水源であって、豊かな水を保持するために水源付近は天領となり森林地帯はしっかり管理されていた。明治期になり一時、荒廃したものの20世紀に入り、東京府が本格的に水源地森林経営案を具体化し、1913年には青梅町(現在の青梅市)に水源林事務所を置き、多種類の広葉樹による混交多層林を維持管理することで水源地の保水力を守ってきた。

 多摩川でよく知られているのは、流域で織物業が盛んだったこと、アユが名産だったこと、砂利の採集がやり放題だったことなどだ。

 万葉集に「多麻河に さらす調布(てづくり) さらさらに 何ぞこの児の ここだ愛しく」(詠み人知らず)とあるように、この川に面する地域では古くから織物が盛んだった。調祖にはその地の産品が選ばれるが、「調布」の地名から分かるように多くの流域では「布」が納められていた。川の名にあるごとく、ここでは「麻布」が特産品(葛布も)であり、のちに綿布、さらに絹織物が盛んになった。「調布」の名は現在では調布市が有名であるが、古くは青梅市の南部一帯も「調布村」であって、現在でもこの地に架かる橋の名前に「調布橋」として残っている。また下流部では高級住宅地として知られる田園調布の名もある。その他、府中にある「染屋」、調布にある「布田」「布多」「染地」などの地名は、織物業が盛んだったころの名残といえる。

 多摩川がかつて「清流」(玉のように美しいので玉川と呼ばれたという説もある)だったころは天然アユの遡上が多く、とくに府中付近はアユ漁が盛んで、将軍に献上されたり、租税としてアユが納められたりした。また、長良川でおこなわれている「鵜飼い」と同様なものがおこなわれていたこともあったらしい。工業化・都市化が進んで川が汚染され、アユの遡上は絶滅状態にあったが、最近では水質がかなり改善され、それに伴って天然アユの姿が多くみられるようになった。

 砂利採集はかつてとても盛んであり、一時は日本の採集量の3分の1ほどがこの川から運び出された。多摩川に沿って鉄道が何本か走っているが、その起源は川の砂利を運搬するために敷かれたものであった。河川敷の多くには砂利を掘った穴が残り、「砂利穴」として、大きなものは「競艇場」になるほどであり、小さなものは子供の遊び場となった。しかし、砂利穴にたまった水の低層はとても冷たく、ここで遊ぶ子供が犠牲になったこともあった。このため、私の子供時代は「砂利穴遊び」は禁止されていた。が、もちろん、そんな決まりを守るはずはなく、水遊び、釣り、度胸試し(蟻地獄のように穴から這い上がるのが難しかった)などの道場として盛んに利用した。

 府中市には武蔵国国府があった。というより、国府があったから「府中」と呼ばれるようになった。国府跡は大國魂神社付近にあるが、この神社は国府ができる500年以上前に創建されたという説がある。「たま」は霊魂の魂であり、聖なるもの、清らかなものを象徴している。この神社は府中崖線のすぐ上にある。ということは、かつて、多摩川はこの神社のすぐ下近くを流れていたこともあったのだ。それゆえ、この川は魂の下を流れる川、すなわち魂川⇒玉川となったという説もある。なお、国府につきものの国分寺はこの神社から2キロほど北にある。このことに関しては、すでにこのブログの「国分寺崖線」の項で触れてある。

多摩川の渡り方

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関戸橋は現在架け替え中

 府中付近の多摩川には深場はあまりなく、増水時以外は歩いて渡ることも可能である。今回挙げた写真は台風19号後のものなので、平水時より水は高く、また濁りが強いので渡渉は不可能だが、普段なら浅瀬を選べば出来なくはない。もちろん、現在の私は絶対におこなわないが。

 子供のころはこの川をよく渡った。理由はとくになく、あるとすれば向かいにある多摩丘陵(私たちは向山と呼んでいた)で遊ぶためだった。府中崖線や国分寺崖線での遊びは日常化しつつあったので、異界を求めて向山まで出かけたのである。今思えば、これもひとつの「タマちゃん現象」なのであった。

 川の渡り方は幾通りもあった。一番簡単なのは写真の「関戸橋」か下流にある「是政橋」を徒歩か自転車で渡るもの(もっと簡単なのは電車に乗ることだったが子供のときはすこぶる貧乏だったので電車賃がなかった)。次は両橋の間にある「大丸用水堰」付近を徒歩か泳ぎで渡るもの。さらに、自転車を曳いて渡ることもあった。

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南武線多摩川橋

 最も危険だったのは鉄道の橋の端を歩いて渡ることだった。橋上の端には点検作業のための狭いスペースがあり、電車が通過するときには作業員の身を守るための待避所もあった。このため、もちろん違反行為なのだが、かつては運行本数がかなり少なかったので見つからずにここを歩くことが可能だった。今なら常時監視されているため逮捕されることは必至だろうが、私が子供のころはこの困難に挑むことが誇りだったのだ。

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京王線多摩川橋

 南武線の橋梁のほうは何度か成功した。しかし、京王線のほうは運行本数がやや多かったためかいつも失敗に終わった。途中で必ず電車と出会い、大きな警笛を鳴らされるのである。そうなると急いで走って逃げるしかなく、かといって川に飛び込むわけにもいかなかった。このときほど、川の水深の浅さを恨んだことはない。京王線に乗ってこの橋を渡るたびに、あの頃の悔しさが蘇ってくる、今に至っても。

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左岸の土手上から関戸橋と向山を望む

 今回は京王線多摩川橋梁から下流の是政橋との間を歩いた。まず憎っくき京王線の橋梁を左岸の土手上から撮影し、すぐ下流にある関戸橋方面に向かった。 関戸橋の向こうには多摩丘陵の連なりが見える。今は公園や住宅、それにゴルフ場が造成されているが、かつては樹木に覆われた、ただの小高い山だった。その山に分け入り、ターザンとしての修行やタマのサルとしての自立を画していたのだった。今は昔である。

台風に荒らされた河川敷を歩く

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河川敷から橋と山々を望む

 台風19号がもたらした大雨によって多摩川は増水し、知人が住む府中市四谷辺りでは越水まであと1.5mほどにまで迫り避難指示が出されていた。写真はその12日後の関戸橋下の河川敷の様子だが、そこにはまだ多くの爪痕が残っていた。この日は空気が比較的に澄んでいたため、橋の向こう側には私が大好きな山並みがかなりはっきりと見て取れた。手前側の山並みは左から景信山、陣馬山、醍醐山、生藤山、市道山、臼杵山、さらに馬頭刈山から多摩地区のランドマークである大岳山(キューピー山)が見える。中ほどには三頭山や御前山があり、左手後方には大菩薩連嶺が姿を見せている。右手の白い建物が視界を遮っているが、もう少し上流側から見れば東京都の最高峰である雲取山(標高2017m)も望める。多摩川左岸の散策は、これらの山々に接することができる(蓋然性がある)のですこぶる楽しいのだ。

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左岸の河川敷にある木々の根元は流れ着いた枯草や小枝に覆われていた

 少しだけ下流に移動した。この辺りには、沖積低地のすぐ下を流れる伏流水が河原から顔をのぞかせる場所があるはずだ。しかし、河川敷の様子は大増水前とは一変してしまったため、目印となっていた樹木たちの姿を見出すのに苦労した。上流から流れ着いた草や枝やゴミが木々にまとわりつき、かつての容貌を失わせてしまっていたからだ。

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伏流水はこんこんと湧き出し、汚れてしまった水たちを清めていた

 それでも本流に近づくと、その手前に、透き通った湧水が美しい流れを形成している場所が見て取れたので、自然の回復力に安堵した。

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以前より湧き出る水の量は多かった

 湧き出し口を探すと、かつて見ていたときよりその数は多く、そして流量も増していた。大量に降った雨が地面に染み込み、その圧力で地下に蓄えられていた清水を普段より強く押し出していたのだろう。それは、汚れ切ってしまった流れを早くに清めようと、見えざる力が湧水に勇気を与えているかのようだった。

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私が釣りバカへの道の第一歩を踏み出した場所

 この辺りの様相はかつてとは大きく変わってしまったけれど、決して忘れることができない場所なので、全体像からここであることは十分に認識できた。35年前、私はここで釣りへの接し方を大転換させた。よくある釣り好きから「釣りは人生そのものである」というコペルニクス的転換を図った場所なのである。私は単なるバカから、釣りバカへと大跳躍した。 

  * * *

 元大工の棟梁は非常に辛口で、いつも私が仕掛けを投じる姿を見ては「下手くそ!」と背後から罵声を浴びせてきた。棟梁の横にいる元職人のゲンちゃんは、毎度のことながらゲラゲラと笑うだけだった。それを気に留めることなく、私の左隣で竿を出している支店長は黙々と川面を見つめコイからの魚信をひたすら待っていた。一方、右隣りにいる久我山の旦那は、ホームレスのノボルさんに豪華弁当を与えていた。

 35年前の8月、事情があって教員を辞めた私は、本格的に釣りバカへの道に踏み出そうと思案していた。目標は磯釣り師であったが、まずは修行の第一歩として多摩川の河原でコイ釣りに専念することにした。9月1日に修業が始まった。まだまだ仕掛けの投入が不得手だったので、コイ釣りはその練習に最適だったのだ。当時、多摩川左岸の脇を走る沿線道路は未完成で、車止め付近は路駐可能だった。コイ釣りは意外に荷物が多いので、土手近くに止められるのはとても便利だった。

 先客がいた。2人が竿を並べ、あとの3、4人は見物人のようだった。いずれも顔見知りのようなので少し割り込みづらかったが、これも修行の道と考え、彼らの脇で竿を出すことにした。餌のダンゴを作り仕掛けをセットした。一投目、ポイントがよくわからないので正面20m沖に仕掛けを投じることにした。しかし、人指し指で押さえていた道糸を離すタイミングが早すぎ、餌は右手のほうに飛んで行ってしまった。

 「素人だな」。見物人のひとりが私にはっきり聞こえるようにその言葉を投げつけ、そしてすぐ脇まで近づいてきた。彼の横には背の小さな職人風の男がいた。そ奴は無礼にもただゲラゲラ笑うだけだった。私を罵倒した男は少しだけ右足と右手が不自由なようだった。私は彼が命じるまま仕掛けを再度セットし、竿を構えた。「初心者は斜めから投げるより、竿を真後ろに構えて正面に振り下ろすように餌を投じればいい。それなら距離はともかく正面に飛ぶから」と、私の構えを修正させた。確かに正面に飛んだ。しかし、道糸を離すタイミングが少し遅れたため、仕掛けを川面にたたきつけるような勢いで飛んでしまったため、餌のダンゴは割れて釣りにはならなくなった。あの小男はさらに大声で笑った。

 そんなこんなで、私は彼の前で30回ほど仕掛け投入の練習をさせられ、少しだけだがコツをつかんだような気がした。そのあとも夢中で練習を続けたが、いつのまにか2人は姿を消していた。隣りで釣りをしていた折り目正しそうな老釣り師が私に声をかけてきた。「あの人は脳梗塞を患う前は大工の棟梁をしていて、横にいた小男は彼のところで働いていた職人です」と教えてくれた。私が指導されたように、その老紳士も彼に馬鹿にされ、揶揄われながら釣りの指導をしてくれたそうだ。元日銀マンだったその人物は、定年退職後に彼の地元にある小さな銀行に勤め、その年の3月末で仕事を辞し、4月からコイ釣りを始めたそうだ。棟梁からはなぜか支店長と呼ばれていると教えてくれた。私は当初、きちんとYさんと呼んでいたのだが、いつの間にか棟梁に倣い、私もYさんのことを「支店長」と呼ぶようになってしまった。

 もう一人の商人風の男は有名メーカーの高級磯竿をずらりと並べ、餌作りや仕掛けの投入はすべて、彼に付きしたがっている若い男(ノボルさん)にやらせていた。コイがハリに掛かり、道糸が走り出して竿が大きく曲がり始めると、それまで用意していた椅子に座ってのんびりと構えていた商人風の男の出番となった。この釣り人もここの常連のようで、支店長の話によれば、久我山に住む金持ちで、自宅の庭には大きな池があり、全長70センチ以上の大型ゴイが釣れたときだけそれを持ち帰り、池に放すそうだ。すでに50匹以上いて、100匹になるまでそれを続けるとのことだった。

 ノボルさんは釣り場の近くにあるアパート暮らしだったが、仕事を辞め家賃を滞納しているうちに河原に住み着いてしまったそうだ。2年ほど前から、久我山の旦那が釣りに現われると釣りの世話をするようになったという。旦那が居眠りをしているときは魚の取り込みまで自分でおこなう。そんなときは、旦那にもらう豪華弁当を受け取ったときよりうれしそうな顔になる。彼もまた、大いなる釣りバカだった。それを旦那も知っているようで、時折、ノボルさんが魚が掛かったことを彼に告げたときも、わざと寝ているふりをしていた。

 たまに現れるホームレスのAさんとBさんは、釣ったコイを欲しがった。30センチほどのものが好みのようで、いつもそれを持ち帰って、橋の下の「自宅」で焼いて食べるそうだ。ある時など、よほどお腹がすいていたのだろうか、魚を渡すとAさんはその場で生のままかぶりついたことがあった。私はそれを止めるように言い、「ここで少し待ってて」と告げて、車で当時、関戸橋横にあったスーパーまで行き、弁当2個とワンカップ大関2本を購入して釣り場に戻った。弁当はA、Bさんに渡し、日本酒は棟梁とゲンちゃんに渡した。A、Bさんはすぐに無言で立ち去り、ゲンちゃんはいつものように酒を一息で飲み干した。

 翌日、Aさんだけが現れ、昨日のお礼だと言って、手にしていた折詰を私に差し向けた。中河原にあった「大国」という料亭から(正式にはそのゴミ箱から)もってきたとのことだった。「なかなか旨いぞ」というのだが、私は彼に「今は満腹なので後で食べます」と告げて有難く頂戴した。本当に有難い(滅多にないという意味)経験だった。

 * * *

 こんな風に、左岸の河原ではこれらの人々と約半年付き合い、私は釣りの技術を磨き、人の存在の深奥を知った。人生は不可解であるが大いに愉快でもあった。そして翌年の4月から予定通り磯釣りの世界に飛び込み、今度は式根島神津島、新島、八丈島などへほぼ毎週通うという生活を始め、またまたヘンテコな人々と出会うことになった。

 多摩川左岸でのあの風変りな人々との触れ合いは、今でも決して忘れることのない素敵な半年間であった。高校教師という日常化された生活から飛び出した私は、河原に通い続け、そこで多くの「タマちゃん」と邂逅し人生の目的まで見出すことができたのだった。

府中市郷土の森公園を訪ねてみた

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府中市郷土の森博物館の本館

 多摩川の左岸にある府中市の是政地区には数多くの砂利穴があった。それを埋め立てたのちにできたのが府中市郷土の森公園である。1987年に開園したというから、その近くで釣りの修行をしていた時期の2年後である。その際に、未開通だった川の左岸の沿線道路が開通した。もし、この計画が2年前に完成していたら、私はあの場所ではコイ釣りをしてはいなかっただろうし、そうであるならばあの素敵な人々との出会いはなかった。そう思うと、少しだけ「運命」というものを感じた。また本来、存在しないはずの時間の存在を、理性ではなく感性は受け入れた。

 郷土の森公園には「交通公園」「市民プール」「総合体育館」「バーベキュー場」「観光物産館」などがあるが、なんといっても「郷土の森博物館」がここの中心的存在だ。博物館といっても建物内にすべてあるというものではなく、野外型の施設で、14haある敷地全体が「博物館」なのである。もちろん、郷土資料展示施設とプラネタリウム施設は写真の本館内にあるが、その他は府中市の自然の有り様を敷地内にコンパクトに再現し、そのなかに様々な移築復元建築物、遺跡、崖線、小川などが展示されているのだ。樹木や花々も多く、とくにウメやアジサイの開花期は見事だ。博物館の入場料は大人300円で、プラネタリウムは別料金となっている。

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母校の一小の旧校舎の一部

 博物館に入ると右手に本館があり、左手に移築復元建築物の並びがある。最初に目にするのが「旧府中町立府中尋常高等小学校校舎」の玄関周りと教室の一部だ。校舎そのものは1935年に造られ、79年まで現役だった。途中から市立第一小学校(私の母校)の校舎として使われた。もちろん、保存されているのはほんの一部にすぎず、私が通っていたころは6学年で千数百人の児童が在籍していたので、かなり細長いコの字型の校舎だったと記憶している。この中にも入ることは可能で、教室内の造作も見ることができる。私の場合、授業を聞いた記憶がほとんどないので、教室に入ってもとくに感慨はなかった。わずかにあるとすれば、それは叱られた記憶のみである。

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府中町町役場庁舎

 写真の建物はなんとなく覚えているような気がした。もっとも、昭和の時代に造られた(今だって変わらないが)公共施設の外観はどれも似たり寄ったりなので、記憶違いかもしれない。

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旧島田家。商家。

 この建物はかつて旧甲州街道沿いにあったような気がする。しかし、この建物の様相も「歴史的町並み」が保存されている地区に行くと、多くの場所でよく見られるようなものなのかもしれないため、記憶の混同が作用している可能性もある。身も蓋もない話だが。

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旧田中家住宅。呉服店

 呉服店を営む大商家で、たぶん、府中を代表するお大尽だったのだろう。この建物の奥座敷は、明治天皇の御座所としても使われていたそうなので、格式も高かったはずだ。当方にはまったく無縁なことなのだが。

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旧河内家。ハケ(崖)上にあった養蚕農家

 説明書きには「ハケ上の養蚕農家」とある。ハケとはずいぶん前の「国分寺崖線」のところでも述べているが、段丘崖の地方語である。この家の場合は立川段丘にあったはずなので、このハケとは府中崖線を指すことになる。上の4つの復元建築物とは異なり、この農家の佇まいだけには感慨を覚える。私には田舎が似合うし、こうした風情の他人の家で、よく悪戯をした記憶があるからだ。これだけは間違いのない思い出だ。

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府中の誇り、川崎平右衛門

 川崎平右衛門定孝(1694~1767)は立派な人物だったようだ。府中にはもったいないくらいの存在である。しかし、彼がいなければ多摩地区や川崎市は今とは異なる風景が展開されていたかもしれないということを考えると、少しぐらいは感謝の念を抱く必要はあるかも。しかし、彼がいなければ私は別の私であったかもしれず、それはそれで少し残念なような気もする。もっとも、そうであれば別の私は今の私の存在を認知できるはずはないので、そう考える必然性はないと言えるだろう。

 閑話休題。押立村の名主の長男として生を受けた定孝は、1742年に発生した多摩川の大飢饉に際し、貧窮した民を救うべく私財まで投じて、多摩川の治水や武蔵野新田の開拓を推進した。武蔵府中の郷土かるたの「き」の項には「ききんを救った平右衛門」とある。また、大国魂神社の修復にも尽力している。

 のちには、現在の岐阜県瑞穂市において長良川の逆水で苦しんでいた農民の田畑を救う治水事業をおこない、また島根県にある石見銀山の経営にも従事した。写真の定孝像の右手は瑞穂市石見銀山方向を指し、かの地の安寧を祈っている彼の心情を表現しているとのことだ。

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崖線から湧き出た滝を模したらしい

 府中市には滝らしい滝はないはずだが、府中崖線には「瀧神社」(府中市清水が丘)があり、小規模とはいえ絶えることのない清水が湧き出てわずかな段差を作って流れ落ちているので、これを「滝」と呼んでも間違いであるとは言えない。博物館内の庭にある段丘崖を模した場所では明らかに立川段丘から落下している様子を表現しているのでやり過ぎの感はなくもない。が、こうしたデフォルメは私は嫌いではないので、瀧神社への敬意を込めて、「よくできました」の判を押すことにしよう。 

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水遊びの池にある噴水

 上の「滝」から流れ下る沢の先には「水遊びの池」があり、暖かい最中には多くの子供たちがこの池の中に入り、写真の噴水を浴びたりしながら愉快そうに遊んでいる姿を見かける。が、この日は晴れていたとはいえ気温は20度前後だったこともあり、さすがに子供をこの中で遊ばせている家族はいなかった。背後から日が差し込んでいたため、噴水が作る霧の中に小さな虹が見えたので写してみた。

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郷土の森公園内には古代蓮などが植えられている池がある

 先述したように、「博物館」は郷土の森公園内にある有料施設で、一方、写真の広場は出入り自由な公園になっており、その中心に写真の蓮池があり、「行田蓮」を紹介した回のときに触れた「大賀博士の胸像」はこの池の傍らにある。今の時期のハスはすっかり枯れていてみすぼらしいが、来年の夏にはまた見事な花を咲かせてくれる。もちろん、ここの蓮池の中心は「大賀ハス」である。大賀博士も府中に所縁がある人で、やはり郷土の誇りだ。

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郷土の森公園には「つり池」がある。貸し竿、餌、利用料はすべて無料

 公園の北側には写真の「つり池」がある。開園期は4~10月なので現在は閉園期に入ってしまったので利用できないが、なんと、ここは利用料だけでなく貸し竿、餌、タマ網まで無料で借りることができる。池にはかなり大きなコイが泳いでいるので、手軽な場所でコイ釣りの醍醐味を体験することができる素敵な場所だ。撮影日は10月後半の平日だったので、釣り人はほとんどが常連さんのようだった。

大増水が残した爪痕

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バーべキュー場として開放されている河川敷にも増水の跡が残っていた

 郷土の森公園の南側にある多摩川左岸河川敷の一角はバーベキュー場として開放されている。写真のようにまだまだ増水後の荒れ果てた様子が残っているものの、平日にもかかわらず結構な人数が野外活動を楽しんでいた。写真手前側に大きく写っている樹木はクルミで枝々には多くの実を付けていた。もうすぐ「収穫期」を迎えるので、例年、たくさんの人々がクルミを求めて集まってくる。

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整備された河川敷の土台部分の「蛇籠」が露出していた

 ずっと以前の是政の河原は、写真のような「蛇籠(じゃかご)」が敷き詰められていた。石をぎっしり詰めた金網の籠を並べて河原の土台にしていたのだ。私が子供時分に遊んだこの河原はこの蛇籠だらけであり、かなり歩きづらかった。それが面白かったのたが。昨今はこの上に小石、さらに土で固められているので表面は平らになっているため、バーベキュー場として利用しやすくなっている。子供たちがこの広場内を走り回っても比較的安全なのだ。しかし、この度の増水で表面が削り取られ、かつての姿が露出した。凹凸があるので遊び場としては少し危険だが、河川敷などというものは自然に土が積もって草木が育つか、人の手が加わったとしても、こうした蛇篭河原のままでいたほうが変化があって素敵なように思えるのだが。

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河川敷に整備されたサッカー場や野球場は無残な姿になっていた

 多摩川の河川敷の多くは公園・広場としてだけでなく野球場やサッカー場としてよく利用されている。上に挙げたバーべキュー場から武蔵野南線橋梁との間にはサッカー場と野球場があって、とくにサッカー場は平日にもよく利用されていたようだ。しかし、台風19号の増水によってしっかり洗い流され、写真のような無残な姿をさらけ出してしまっていた。当面、復活する状況にはないようだ。ここをよく利用する人には残念なことだが、優先順位の高い復興事業があるので致し方ない。

 河川敷は増水時の湛水(たんすい)場所として確保されている。こうした場所は自然のままが一番良いのだ。浸透性が高いため保水力が確保されるので越水や決壊を防ぐ可能性が高まるからだ。しかし、こうしてグラウンドとして整備されてしまうと浸透率は低くなり、その結果、水位は容易に高まり越水の危険性が増加する。

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野球場の東端。橋梁の乱流を受けたためにとくに被害はひどい

 野球場の東側はかなり深くえぐられていて水圧の威力を実感させられる。前の写真から分かるようにこの場所のすぐ下流側には武蔵野南線南武線の橋梁がある。川の流れは橋脚にぶつかり乱流を発生させる。このため、橋脚の前方にある部分の土地がより大きな水圧を受け、このように被害を増大させるのだ。橋脚があることで流れの断面積が小さくなるので乱流の発生は必至で、だからこそ、川の氾濫はこうしたこうした構造物の前後でよく発生する。野球場の破壊だけで済んだのは幸いだったのかもしれない。

是政橋から多摩川右岸方向を散歩する

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是政橋は府中に掛かる橋とは思えないほど端正だ

 府中街道に架かる是政橋は長い間、粗末なコンクリート橋で、しかも片側一車線しかなかったため、いつも混雑していた。もっともこれは是政橋に責任があるわけではなく、府中から川崎方向に進むには、橋の先に南武線の踏切があり、さらに大丸交差点という渋滞ポイントがあったためだ。写真から分かるように南武線南多摩駅周辺やさらにその先の多摩丘陵一帯は宅地開発が進み、かつての「のどかな風景」を望むことはできなくなってしまった。そしてこの是政橋の美しい姿だ。もはや「多摩の田舎」とは表現しづらくなった。一方、外観だけ整えることを優先するのは田舎者の性といえなくもないが。

 是政橋は2011年に完成し、4車線となった。また、わが愛する田舎電車の南武線も高架となったため踏切もなくなり、東京競馬場の開催日を除けば渋滞は激減した。橋の工事は1998年に始まった。13年かかって完成にこぎつけたのである。全長は約400mの斜張橋だ。

 ところで、是政は人の名前である。かつて横山村と呼ばれていた土地を開拓したのが井田是政で、是政の地名は彼の名にちなんでいるのだ。是政の祖先をたどると「板東武士の鑑」といわれた畠山重忠にいきつく。是政は小田原北条氏の家臣だったが、北条氏が豊臣秀吉によって滅亡したとき、彼は八王子城を離れて横山村に移り住み、その地を開拓した。地名から姓を受けたり、姓から地名がつけられたりすることはよくあるが、名からつけられた地名というのは珍しいかもしれない。

 井田是政の墓所東京競馬場のコース内にある。競馬好きや呪い話が好きな人なら誰でも知っている話だ。東京競馬場の第3コーナーはこのコース特有の最後の長い直線が控えているため、ここで各馬はペースを上げてレースの主導権を握ろうとする。そんな重要な場所なのに内側に大きな樹木があるため、客席からはとても見づらくなっている。この木は「府中の大ケヤキ」と呼ばれているが実際にはエノキだ。当然、伐採対象になるはずなのだが、井田家の子孫が日本刀をふるって反対しつづけ、さらにその木の枝を切った職人が急死したという話も流布し、その後、伐採を引き受ける人はいなくなったらしい。その樹木のある場所こそ、井田是政の墓所なのだ。

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右岸側から見た南武線橋梁

 是政橋を渡り、今度は多摩川右岸側を大丸用水堰方向へ西進した。再び南武線橋梁に出会った。川の本流は右岸側を流れているので、増水跡がこちら側からよく分かった。橋脚のかなり高い部分に枯草や小枝が絡みついているので、そこまで水かさが増したようだ。橋梁の真下辺りの土手は他の部分よりやや低くなっているので、ここでは土手まで水が上がった痕跡があった。

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柿の木の向こうを走る南武線

 橋梁をくぐった。橋の南詰に数本、柿の木があった。秋は柿の実の季節だ。ポピュラーな果実は周年、市場に出回っているが柿の大半は季節限定だ。大好きな果物なので、手に入る時期にはほとんど毎日のように食する。食べるだけでなく、柿が実っている木を見るだけでも嬉しくなる。写真の木は実が少なかった。それでも青空にはよく映えていた。そこで、南武線の電車と一緒に写そうとカメラを構えて電車が来るのを待った。かつての南武線であればそれは一日仕事になるが、近年の南武線はまるで都会の電車のように本数が多くなった。少しだけシャッタースピードを抑え、南武線が鉄橋上を疾走する躍動感を演出した。今、南武線は疾走するのである。時代は確かに進んだ。この電車は、私が時代を認識するためのメルクマールなのだ。

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大丸用水堰を右岸から見る

 是政付近の河原で象徴的存在なのが写真の大丸用水堰だ。稲城市川崎市方面に多摩川の水を送るための取水口がこの堰にある。向かいの府中市側は固定堰だが、手前側は可動堰になっている。この写真は可動堰を管理するための建物の脇から写したもので、ここから上流部には土手はなく、多摩丘陵の崖が堤防の役目を果たしている。このため、ここから上流部に移動することはできない。

 増水時の写真なので水は濁りその量も多いが、通常は比較的透明度は高く、歩いて渡ることが可能なほど水量は少ない。私が子供のころはこんな立派な可動堰はなかったし、管理も行き届いてはいなかったので、渇水時には、この堰堤下を歩いて、あるいは自転車を曳いて府中と多摩丘陵との間を往復したものだった。 

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助かった人の新居

 堰より上流側には行けないので、左岸まで戻ることにした。右岸の土手上には一軒?の新居があった。少し前まで左岸側の河原にはテント小屋やあったが、台風襲来前にここに移動してきたのだろうか。上流にある日野市の河原では一人の犠牲者がでたが、ここに転居してきた住人は無事だったようで安心した。 

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大空に向かう練習をする人

 左岸に戻り、郷土の森公園付近まで来たとき、パラグライダーを広げて風を把捉する練習をしている人の姿が目に入ったのでしばらく様子を見ていた。風はさして強くない日だったが、パラグライダーがうまく風をつかむと上昇する気配を見せる。河原では上昇気流はほとんどないので大空に舞い上がることはできないのだろうし、この老人?も地面から離れる気持ちはないようだった。あくまでも訓練にすぎないのだろう。

 それにしても、あの「風船おじさん」は今、どの空を飛んでいるのだろうか?1992年11月23日が旅立ちの日だったので、もう27年間も飛行を続けていることになる。飛び立った2日後には消息が不明となった。大半の人は墜落したと考えている。しかし、船の名は「ファンタジー号」である。船長の鈴木さん(本名は石塚)はまだ79歳だ。十分に飛翔し続けることは可能だ。たかだか食料がなくなったくらいで、ヘリウムガスがなくなったぐらいで飛行を中断するわけがないのだ。今風に言えば、鈴木さんは星になっているのかもしれないが、しかし、日本の、いや世界の危機に際しては必ず、天から舞い降りてくるはずである。彼もまた、「タマちゃん」なのだから。

 それが、異能の人の宿命なのだ。 

〔25〕岬めぐりは三崎めぐりなのだ(後編)でも、それだけではないのだ!

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城ケ島の名勝・馬の背洞門を望む

城ケ島めぐりは三崎めぐりだし岬めぐりでもある

 三浦半島へ磯釣りに行くといえば城ケ島へ出掛ける、ということと同義語というほどではないが、その確率はかなり高い。思えば、このブログの第1回目は城ケ島釣行を素材にしたものだった。もちろん、三浦半島には城ケ島の磯に匹敵する磯釣り場はいくつかある。前回に少し触れた諸磯(もろいそ)がそうであるし、近々に触れることになるだろう剣崎(つるぎざき)や毘沙門の盗人狩(ぬすっとがり)、それに宮川湾にある観音山下の磯などは釣り人だけでなく、ハイカーにもよく知られている存在だ。ただ、城ケ島の磯によく出掛ける理由は、よく釣れるからというより、上記の場所に比べるとアクセスが良いというのが一番だ。ただそれは、釣り人のために提供された利便性の高さというわけではなく、この島を訪れる観光客を当てにして整備されたものなのだが。

 城ケ島は三崎港の南沖にあり、おおよそ300~500mほど離れている。三崎港も城ケ島の北側も埋立地なので、両者の距離を正確に定めることはできない。島の面積は約1平方キロ(このうちの約20%が埋立地)、周囲の長さは約4キロで、東西は1.8キロ、南北は0.6キロと東西方向に細長い。城ケ島の住所表記は三浦市三崎町城ケ島なので、城ケ島めぐりは三崎めぐりの一環になる。城ケ島に行くには1960年に完成した城ケ島大橋を利用するか、三崎港の観光施設でもある「うらり」横から出ている城ケ島渡船を利用するか、あるいは京浜急行三崎口駅からバスにて出掛けるかのいずれかになる。

 島の東側には安房崎、西には長津呂(ながとろ)崎、南には赤羽根崎、北には遊ヶ崎があり、島めぐりは十分に岬めぐりとなる。今回はすべての岬をめぐったが、移動にはそれなりの距離と途中の岩場にはかなりの凹凸があるので、島内各所にある駐車場を利用した。現在、島内にある県営駐車場はすべて関係づけられているので、最初に停めた場所でワンデーパス(1日450円)を購入すると、その日の内ならどこの駐車場もパスが通用するために余計な駐車料金が掛からないようになった。今回は4か所の駐車場を利用したが、安価で便利な反面、めぐるポイントと駐車場との間は必ず往復しなければならないので、歩く距離の短縮には決してなっていないのも事実だ。ただ、往復行動は同じ通過点でも景色の見え方が異なるため、一方通行では見逃してしまうポイントの発見という楽しみがあった。

まずは安房崎周辺を徘徊した

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南房総方向に突き出た岬の先端にある安房灯台

 城ケ島は神奈川県の南端にあり、かつ東京湾口に近いため、航海者にとっては重要なランドマークなのだろう。大きな船舶であれば島のはるか沖合を通るのでさほど問題はないが、小さな船は岸近くを通るので、ここに島がある(浅瀬も多いので)という目印は安全のために必要だ。そのためか、1648年、この安房崎に最初の「のろし台」が設けられた。のちに島の西側にある高台(現在、城ケ島灯台がある場所)に「のろし台」が移されたため、ここのものは廃された。

 写真の安房灯台は1962年に造られた。高さは約12mある。標高1.5mのところに設置されたいるが、南の風をまともに受ける場所にあるので、波が荒いときには灯台に近づくことは出来ない。私が訪れたときは波は高くなく、しかも干潮時だったこともあって近づくのは容易だった。

 この灯台は、かつて「のろし台」があった場所に建てられたわけではない。理由は簡単で、この場所は1923年9月までは海中にあるか海面ギリギリのところにあったからだ。つまり、関東大震災によって三浦半島の南部は隆起し、約1.4m高くなったため、写真にある岩場はほとんど被り根(干潮時に露出する岩礁帯=暗礁とも)だったものが、灯台を建設できるほどの海岸段丘に変化したのだ。

 前述のように、最初の「のろし台」は1648年に造られている。城ケ島は1703年に1.6m、1923年に1.4m隆起しているので、380年ほど前というと現在の海面より3m高い場所が当時の汀線だ。したがって、それより少なくとも10mほど高い場所でなければ「のろし台」の役目は果たせないだろう。すなわち、現在の汀線のより13mほど高い位置にあったと推察できる。といっても、さほど根拠のある設定ではないのだが。

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安房崎ではもっとも人気のある釣り場=潮見の鼻

 灯台のある先端部より北側に位置し、同じように房総半島方向に突き出しているのが、「潮見の鼻」と釣り人が呼んでいる岩場だ。安房崎周辺では磯際の水深が一番あるために人気場所なのだが、この日は海が凪いでいるためか、ここのような北側(写真でいえば左側が深く右側が浅い)を狙う釣り場は敬遠されたようで、釣り人の姿はなかった(奥まった水垂れ方向のところに一人だけいた)。

 地層を見れば、ここの成り立ちはすざまじいものであることが分かり、小さな断層があれば、岩場を2つに割いてしまうほどのやや大きめの断層がある。黄土色の斑点はマッドボール(偽礫)といって、未固結のシルト(砂泥)がちぎれて礫のようになったものだ。

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水垂れ近辺から安房灯台方向を望む

 写真にはないが、左手にはやや高い岩場があり、そこが釣り人の間で「水垂れ(みずったれ)の磯」と呼んでいる場所だ。その磯に上がる手前から安房崎方向を見たのがこの写真で、城ケ島の東側は三浦層群のうちの「初声層(400~300万年前)」から形成されているのだが、一部にはスコリア質凝灰岩(黒めの層)と黄土色のシルトの堆積層が露頭している。通常、初声層はスコリアと軽石質砂礫の互層が多いのだが、安房崎でもこの水垂れ近辺には後述する「三崎層(1200~400万年前)」で顕著な地層が見られる。それにしても、数多くの断層といいスランプ構造といい褶曲といい差別侵食といい、大いに興奮してしまう景観である。いやまったく。

 城ケ島は地質学の教科書的存在なので釣り以外の目的でも訪れたくなる。が、私の場合、磯釣りのほうがプライオリティは断然高いので、今回のような徘徊目的でなければなかなかこうした場所に目をやることはない。この島には地学の教科書的な特徴が多く見出せる場所があるのだが、そこを訪れると地質学の話ばかりになり、それでは「ブラタモリ」の二番煎じになるので、そういった「名所」はあえて避けているのだが。

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水垂れの磯から水垂れ方向を見る

 水垂れとは、岩の隙間から湧き出る清水のことで、城ケ島をこよなく愛した源頼朝は、茶をたてるときも書をしたためるときも、この清水を使ったとされている。 頼朝の時代からこの石清水は絶えたことがないとされてきた。大正時代の初期に三崎に住み、やはり城ケ島を愛した北原白秋は「水っ垂れの 岩のはざまに 垂る水の せうせうとして 真昼なりけり」と歌っている。

 右手に見える小さな港は、水産技術センター横から入り、新潟造船の南側に至る道の突き当たりにある。かつてはこの港横から遊歩道が整備されていて、汀沿いに歩くと水垂れの磯や安房崎まで進むことができた。かつて、安房崎での釣りの際にはよく使っていた小径だった。しかし、2002年の台風によって岩や崖が崩れたり橋が崩落したため、遊歩道は使用不可となってしまった。写真にあるコンクリート橋はその名残だ。

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水っ垂れに近づいてみた

 水垂れの石清水が湧き出る部分には、さらなる崩落を防ぐために金網フェンスが張り巡らされている。この日は写真にある穴から水がチョロチョロと流れ出ていたが、実は、頼朝も白秋も見ていて決して絶えることはないと考えられていた石清水も、2011年に途絶えてしまったそうだ。2011年といえば東日本大震災があった年で、5月頃に清水が湧き出ていないことが発見されたそうだ。私が訪れたのは台風19号の大雨の後なので、大雨によって地中内に溜まっていた地下水が圧力を受けた結果、浸み出てきたのかもしれない。ここでも地層について触れたいが、長くなりそうなので止めた。

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安房崎から赤羽崎方向を望む

 安房崎の南側に出た。潮見や水垂れのある北側とは異なり、南からの荒波を受けるために切り立った海食崖が続いている。足元の海岸段丘は大地震で海岸が隆起したからこそできたものなので、関東大震災前はこうして岩場を歩くことは出来なかったに違いない。初声層の上にはローム(赤土)が高く積もっているのがはっきりと分かる。ただし上部には樹木が見られない。これは南からの風があまりにも強いので木々が育つことを許さないためだろう。右手前の岩場からは大きなトカゲが顔を出している。というより、岩がトカゲの顔のように見えるというのが正解で、前回に紹介した諸磯の犬やウサギと同様、自然は優れた芸術家でもある。

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城ケ島公園から海を望む

 安房崎を離れ、直上にある県立城ケ島公園に戻った。この公園は城ケ島の頂上部にあり、標高は約30mで上部は比較的平らだ。城ケ島はかつて海底にあり、堆積物がフィリピン海プレートの沈み込みによってできた付加体だ。海底にあったときに波の浸食作用によって上部が平らになり、それがそのまま地上に現われて島となったと考えられている。現在の高さは約30mだが、前回に述べたように三崎の地形は紀元後に起きた4回の大地震によって約7.5m隆起している。城ケ島には弥生時代の遺跡がある。したがって、そのころの人々がここで生活していたときは、この島の標高は約20mだったのだ。

 東京湾の玄関口に近い場所にあるこの島は軍隊にとっても格別に重要な存在であったようで、1899年には明治政府によって要塞地帯に指定され、1905年には望楼ができ、1927年には砲台が設営されている。現在、砲台は残っていないものの、軍隊が使用していた場所は、1958年に県立公園として整備された。

 もっとも、こうした地理上の特性を利用したのは明治以降の政府だけではなく、すでに16世紀、安房の当主であった里見義弘はこの島に砦を築いていた。そのため、以来ここは城ケ島と呼ばれるようになったらしい。

 公園の高台から崖下をのぞいてみた。高所が苦手なので、やや腰を引いた場所から撮影した。それゆえ、海食崖の様子は写ってはいない。代わりに、少し沖に点在する岩礁帯が入っている。次に大地震が来た場合には(そう遠くないことかもしれない)、かつてがそうであったように、海岸線は1~2mほど隆起するので、写真にある岩場は海岸段丘として顕在化し、ここを観光客や釣り人が歩きまわるだろう。

 なお、この海食崖はウミウの生息地として知られ、冬場には多くのウミウたちが崖で群れを作る。

遊ヶ崎に白秋碑を訪ねる

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白秋碑と城ケ島大橋

 城ケ島大橋は、遊ヶ崎の直上を走っている。岬のような陸の出っ張りを利用するとピーヤ(橋脚)の建設が容易になるからだろう。なお、向かいは三崎町の中心街のひとつで、向ヶ崎地区である。

 詩人の北原白秋は1910年に初めて三崎や城ケ島を訪れ、とても気に入ったそうだ。私的なもめ事があり、13年に白秋は向ヶ崎にある異人館に移り住んだ。一年弱であったが、この地域にいろいろな足跡を残している。もっともよく知られているのが「城ケ島の雨」という詩(詞)で、これは芸術座の音楽会に用いる舟歌として創られた。やがてレコードが発売されて大ヒットしたらしい。当然、スタンダードナンバーになったはずなので、私も小さい頃に聞いたことがあるような気もする。しかし、どんな歌だったかまったく記憶になかった。そこでユーチューブで探し、美空ひばりバージョンで聞いてみた。なるほど、聞いたことがあるような気はした。感想はただそれだけ。

 詞の中に「利休ねずみの雨が降る」というのがある。当然、「利休ねずみ」とは何だということになる。雨だから「音」か「色」か、だ。ねずみはチューチューとうるさいので大雨かもしれないが、利休は茶人だから静寂を好みそうだ。ということは音ではない。すると色に相違ない。スリランカなら「赤い雨」が降るが、城ケ島の雨は何色か?ねずみだから灰色だろうが、利休がよく分からない。茶人だから茶色か?ウーロン茶ならそれでよいが、利休とは結び付かない。やはり茶は緑色と考えてよいだろう。調べてみると、「緑がかった灰色」とある。やはり利休=緑だった。しかし、利休とは直接、関係はないようで、江戸時代の後期に流行った色らしい。城ケ島は岩礁帯=灰色と、草や樹木=緑に覆われている。無色透明な雨が城ケ島の風景を映し出して「利休ねずみ」の色に見えたと考えるのが妥当だ。これでは、ごく当たり前の答えで面白くないのだが。

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白秋碑と三崎港

 白秋碑は、彼が住んだ向ヶ崎を見通せる場所である遊ヶ崎に建てられた。1949年のことだ。白秋は42年に没しているが、戦争中だったために碑の建設は遅れた。また、城ケ島大橋建設のために碑は遊ヶ崎から少しだけ移動させられ、岬の西側の現在地にある。夏場であれば観光客はこの砂浜で水遊びをするので少しだけ賑わうが、それ以外の時期には訪れる人は少ない。北原白秋の名を知る人は確実に減っているだろうし、ましてや「城ケ島の雨」を知る人はもはや圧倒的少数派だろう。

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大橋下から通り矢岸壁をのぞむ

 対岸に見える岸壁は「通り矢」のもので、三崎港ではもっとも東に位置する。もちろんここも隆起した海岸線を造成したもので、白秋が作詞した時代にはこのような岸壁はなく、写真に見える海食崖が連なる荒々しい海岸線だったはずだ。だからこそ、「城ケ島の雨」の2番には「通り矢」の名が出てくるのだろう。

城ケ島の住宅街を歩く

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島の住宅街は北側にある

 城ケ島地区の人口は600人ほどだろうか。観光地だけに昼間人口はもう少し多いと思えるが。南側は荒々しい海岸線が続くので居住には厳しいために住宅はほぼない。大半は島の北側斜面のふもとの平地に住宅がある。宅地から北側を望むと三崎の中心街にある建物や、三崎港に係留されている大型船舶の姿を見ることができる。かつては大半の人が漁業に従事していたのだろうが、住宅街を歩いてみると、さほど漁師町という感じはしない。海岸線にあるごく普通の住宅地という趣である。

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常光寺と保育園

 住宅地の奥に常光寺があった。浄土真宗本願寺派の寺で、境内には遊具施設があった。東側にある建物は保育園として使われているようで幼子の声が聞こえた。写真の遊具はここの子供たちが利用しているのだろう。寺や神社の境内は、いつの時代も子供たちの格好の遊び場である。

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住宅街の正面にある城ケ島漁港

 住宅地を出て北に向かうと目の前に城ケ島漁港がある。対岸は三崎港なので、こちらの漁港には小さな漁船があるばかりだ。この港は少しずつ綺麗に整備されつつあるが、対照的に賑わいはなくなりつつあるようだ。一方、向かいに見える三崎町の中心街は、一時よりも回復傾向にあるのかもしれない。

 沖では水中観光船の”にじいろさかな号”が花暮岸壁前に差し掛かったところであり、これから城ケ島大橋を潜り抜けて宮川湾方向に進んでいく。その船の向こう側には「うらり」の建物が見える。右手には出航を待つマグロの遠洋漁業船が停泊している。

 少しずつ寂しくなっていく城ケ島漁港だが、三崎港が波静かでいられるのは城ケ島が南からの風や波を防いでいるおかげでもある。三崎港の発展は、実に城ケ島に支えられているといっても過言ではない。

島の賑わいは西側に集中している

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この商店街を抜けると城ケ島灯台や長津呂崎に出る

 土産物店、食堂やレストラン、ホテルや民宿などは島の西側に集中する。バスの終点は西側にあり、観光名所もこちら側に多い。車で島を訪れる人は先に述べたようにあちこちの駐車場を一括料金(ワンデーパス)で利用できるので東西南北の各名所をわりに手軽に散策できるが、バスや三崎港からの渡船利用の場合は西側を起点とせざるを得ない。それゆえ、どうしても店もまたこちら側に集まってしまうという具合である。

 写真は、観光地・城ケ島のメインストリートとでもいうべき小径で、バス停からこの道を使うと城ケ島灯台や長津呂(ながとろ)崎に比較的早く行くことができる。以前はこの道の両側にほぼ隙間なく土産物店や食堂が並んでいたのだが、近年は観光客の減少からか高齢化で後継ぎがいないためかで店の数はかなり減っている。さらに、ここ数年、台風による高波がしばしば店の中まで押し寄せ、多くの店舗が浸水被害を受けていることも、この動きに拍車をかけているようだ。

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荒波にも比較的強く、駐車場からも近い灘ヶ崎の磯

 写真の「灘ヶ崎」は城ケ島バス停のすぐ西側に伸びている岩場で、水深は北側(三崎港向き)のほうがあるためもあり、南からの強風で長津呂崎では釣りが不可能なときにも磯釣りが可能なポイントとして知られている。また、写真のように地層の露頭が明瞭なため、城ケ島の地質の特徴を容易に知ることができる場所としてもよく知られている。

 先にも述べたように、島の東側は「初声層」だが、ほぼ中央の赤羽崎付近を境に西側はそれよりも古い三崎層が露出している。黒っぽいスコリア質砂礫岩と黄土色のシルトの層が明瞭で、スコリア層はやや硬くシルト層はやや柔らかいために差別侵食されて凹凸が激しいのでとても歩きづらい。地層の傾斜は70度から60度あり、写真の左側(南側)にいくにしたがって傾斜は緩くなる。

 右側(北向き)で何人もの釣り師が竿を出している。ここは先端部のほうが水深があるからだ。観光客はこの様子を見るためか灘ヶ崎の付け根から先端部に向かって歩き出すのだが、たいてい、激しい凹凸に負けて途中で戻ってくる。私はもちろん、面倒なので一歩も進まずに撮影した。磯の先に見える赤灯台堤防は居島新堤といい、南西から寄せてくる荒波から三崎港内を守っている。写真では分かりづらいが、磯と堤防とは離れているので、ここを小型の船舶が行き来する。大中型船舶は赤灯台の右手を通過する。三崎町側には歌舞島堤防があり、もちろん、そちら側には白灯台が立っている。

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灘ヶ崎から京急ホテル方向を望む

 灘ヶ崎の付け根付近から南側を見ると、城ケ島を代表する宿泊施設とレストランがある「城ケ島京急ホテル」、それに高台にある城ケ島灯台の上端部が視界に入る。この辺りは海岸段丘が明瞭で、ホテルの前の磯が一番低く、ホテルがある場所はそれより二段高く、そして灯台はさらに高い場所にある。

 灘ヶ崎の付け根からホテルや灯台方向に行けなくはないが、海岸線は非常に複雑に入り組んでおり、かつ道なき道を進むことになるので、無謀なことが好きな私でもその行動をとったことは一度しかない。上に紹介した小径を通り、観光橋方向に進めばホテル脇に、直進して右手にある階段を登れば灯台に出る。

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現存する城ケ島灯台は二代目だ

 城ケ島灯台は、1870年、日本で5番目の洋式灯台として造られた。一番目は以前に「横須賀」の項のところで紹介した観音埼灯台である。いずれもフランス人技術師のヴェルニーの設計によるものだ。ここの灯台は初代が1923年の関東大震災で倒壊したのち、27年に再建されたものである。

 灯台に付属する設備が入っている建物の壁には、「JOGASHIMA」の文字でかたどった城ケ島の図があり、2つの赤いハートは灯台のある場所を示している。ハートの上には「JOGASHIMA   LIGHTHOUSE」の文字がある。右が安房灯台で、左がここの城ケ島台だ。

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灯台本体にもペイントがある

 城ケ島灯台がある場所は「西山」といって、かつて安房崎にあった「のろし台」に代わってここに「のろし台」が作られた。東京湾に入る船はおおむね西側からくるので、安房崎よりもこちらの場所のほうが船員にとって見やすかったのだろう。その「のろし台」が廃されて、明治初期に洋式灯台が造られた。

 灯台本体にはペイントがある。長津呂(ながとろ)湾とそこから伊豆半島方面を望むと富士山が見えるので、それをデフォルメしたものが描かれている。灯台の管理者はなかなか粋な計らいをする。

 ここは高台にあるので長津呂の磯の景色が一望できる。灯台があるのだから当たり前の話かもしれないが。ところで、長津呂は「ながつろ」ではなく「ながとろ」と読む。釣り人の大半は「ながつろ」と言っているが。伊豆の石廊崎にも長津呂があり、こちらは「ながつろ」と読むようだ。おそらく、ここでも以前にはそのように呼んでいたに違いない。土地の人もほとんど「ながつろ」と言う。しかし、行政側の誰かが秩父の「長瀞」があまりにも有名なので、ここもそれにあやかろうと「ながとろ」と読むように統一したらしい。これはあくまで土地の人に聞いた話だが。ありそうな話だし、実際、市や県が設置する看板や地図には必ず、「ながとろ」という”かな”が振ってある。

長津呂から赤羽崎まで

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奥深い入り江になっている長津呂湾

 灯台から階段を下って長津呂の磯に降りた。写真の入り江が長津呂湾で、この奥深く波静かな入り江が長津呂の名の由来だ。津は入り江や港を表わし、呂は元来は背骨を意味するが、風呂のように「室」を表わすようなときにも用いる。また、津は「津代(つしろ)」と表現されることも多く、「つしろ」が「つろ」に短縮され、「津代」に代わって「津呂」と表記されるようになったとも考えうる。

 この湾は長津呂の丁度、中央部に深く切れ込んでいて、湾の北側(京急ホテルがあるほう)が長津呂崎、南側が長津呂の磯と釣り師の間では区別している。本ブログの第1回目は長津呂湾口の北側で釣りをした場面が題材になっている。その際の写真は長津呂崎方向を写したものだ。

 上の写真の地層の向きを見ていただきたい。右(海側)からの地層はやや左下に傾斜し、左(陸側)からはやや右下に傾斜している。こうして向かい合って傾斜した状態を「向斜地形」という。つまり地層が横からの圧力を受けたために褶曲(しゅうきょく)し、その中央部分がへこんでいるのだ。それが波に侵食されて割れ目となり、さらに広がって深い入り江になったと考えられる。仮にこの褶曲が上方に働けば(これを背斜地形という)長津呂湾は出来なかった、もしくはまったく異なった湾形になっていたかもしれない。

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長津呂の磯の釣り場

 長津呂の磯は写真のように足場が高い位置にあるので釣りやすい。もっとも、ここは南からの荒波をまともに受ける場所なので、足場が低くては危険極まりない。この日は「べたなぎ」といってよいほど波静かなので写真右手に立っている人は余裕の構えだが、通常でも波しぶきぐらいはかかる場所で、少し風が出てくると足場を波が洗うようになる。北西の季節風が強くなる11月後半からは岩場が乾いている状態などまずはない。それに、岩の表面にはノリが生えるのでとても滑りやすい。

 写真からも分かるように、岩場は右にいくほど低くなっている。この傾斜は背後にある長津呂湾まで続いている。これが逆向きに褶曲していたならば釣り場の足元は前下がりになってしまう。すると容易に波が這い上がってくるために危険性が極めて高まる。岩場がこうした状態であったならば、ここが釣り場として選ばれることはまずなかっただろう。

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やや内陸側から長津呂の磯を眺める

 この写真は、やや内陸側から長津呂の磯を撮影したものだ。岩肌の色に注意していただきたい。先の写真のように波打ち際の岩は黒っぽいが、内陸部の岩は黄土色の部分が多いことが分かる。これもまた差別侵食によるもので、波打ち際は常に荒波にさらされるので硬めのスコリア質部分が残り、内陸部は波が届かない位置にあるので、柔らかめのシルト層でも侵食されにくいためである。もっとも、今後、風雨にさらされ、人の行き来も無数に行われれば、やがて黒い岩肌が現れるようになるだろう。そんなときまで、人類が存在していればの話だが。

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長津呂崎から赤羽崎を望む

 長津呂崎が島の西側に突き出している岬なら、赤羽根崎は南に突き出している岬である。長津呂崎は海岸段丘といっても凹凸がかなりありとても歩きにくい。赤羽根崎に近づくと今度は砂浜があるので地面は平らになる。しかし、砂浜は足を取られるので、やはり歩くのは大変だ。長津呂から赤羽根崎までは500mほどの距離なのだが、こうした道行なので荷物なしでも15分ほどの”苦難”を覚悟しなければならない。それでも老若男女が赤羽根崎を目指すのは、そこが「エルドラド」であるからではなく、写真にある洞門があるからだ。

 人は何故、岬を目指すのだろうか。理由は単純。それは、他の人が目指すからだ。という訳で、私も目指した。

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馬の背洞門は島随一の観光名所

 海食洞門である「馬の背洞門」は城ケ島の象徴的存在で、古くから人気スポットだったらしい。関東大震災前は、この穴を通る小舟が観光名物だった。震災前は海岸線が今より1.4mほど高かったため、小舟がこの穴を通過することができたのだ。今は徒歩で通過する。

 写真をよく見ると、左端にも小さな穴があることが分かる。穴を塞ぐ岩状のものが見えるが、これは岩ではなく釣り人の姿だ。この赤羽根崎周辺も磯釣りのポイントなのである。周囲の水深はあまりないが、滅多に釣り人が出掛けることがないので”場荒れ”していないのだ。私もここで2回釣りをしたことがある。両回ともまずまずの釣果だったが、3度目は絶対にないと断言できる。荷物がなくても、駐車場からの距離まで考慮に入れると20分ほど掛かる。これに釣り人はチョー重い荷物が加わるので30分間の「死の彷徨」を覚悟しなければならない。しかも、後半には恐怖の砂浜歩きが待ち構えているのだ。洞門というより地獄門である。しかも、この門をくぐり抜けても待っているのは大型魚ではなく中小の魚の大群である。これなら、さして苦労のいらない長津呂湾での釣りのほうが格上のような気がする。数は少ないものの、型物はこちらのほうが多い(と思う)し。

 この赤羽根崎は島の東側の「初声層」と西側の「三崎層」との境になるので、地質学的にも貴重な存在だ。写真にはないが、左手には大きな断層が見える。洞門の地層はこの島では珍しく水平である。左手には火炎構造らしきものも見える。その他、ここは城ケ島の地質の特徴がすべて揃っていて、フルコースを堪能できる。ただし、その分、健脚を強いられるが。

 私には、まだ訪ねるところが残っていた。ここで疲労度100になるわけにはいかないので、今回は洞門には近づかず砂浜の手前から望遠レンズで洞門周辺を撮影した。次回があるかどうかは不明だが。

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釣り人の帰還。いかにも”疲れた”という感じが表出されている

 城ケ島最後の徘徊場所として、私は三崎港向きの岸壁を選んでいた。赤羽根崎近くから海岸段丘を上り下りしながら長津呂崎まで戻り、そして商店街のある小径を南に向かった。前方に、長津呂崎付近で釣りをしていたのだろうか、重い荷物を背負った老釣り師がとぼとぼと歩いていた。荷物はだらしなく傾いている。今にも落ちそうだが、もはや彼にはそれを直す気力もなく、ただただ駐車場にたどり着こうとあえぐばかりだ。

 そう、これが釣り人の典型的な姿である。何故、これほどくたびれ果てるまで釣りをするのだろうか?朝方には颯爽として磯に向かったはずなのに。この敗残兵はきっと今は後悔しているに違いない。それでも懲りずに、明日には次回の釣行に希望を抱き始めるのだ。そしてまた次回も敗れ去る。釣りはまったく非合理である。非合理ゆえに、釣りの道は極楽には向かわず、地獄の一丁目へと続くのだ。釣りは自虐的趣味なのである。

三崎港向きの岸壁で見たことなど 

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三崎港向きの岸壁はお手軽釣り場として人気がある

 この岸壁は北向きなので波静かなことが多い。本当は違反なのだが、車を横付け可能なので徒歩10歩程度で竿を出すことができる。平日のためか年配の常連が多いが、休日には家族連れで大賑わいとなる。この時期は一年でもっとも小魚が多く、そして足元にも無数の魚が寄ってくるので、お手軽仕掛けでも簡単に釣ることができる。多くの人の狙いはアジで、10~15センチ程度のものが数釣れていた。

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有料釣り場。マダイやハマチが釣れる

 初めて知ったのだが、岸壁には「海上釣り堀」が出来ていた。2015年オープンというからもう4年前である。そういえば、この岸壁をのぞくのは久し振りだった。いつもはバス停横の駐車場に車をとめ、長津呂崎に向かい、そして敗れて帰還するので、岸壁をのぞく機会はなかった。10数年前まではよく堤防釣り場の取材をおこなっていたので、年に数回はこの岸壁を見て回ったものだったが。

 マダイ、ハマチ、シマアジ、ヒラメなどが狙える釣り堀で、竿は無料で借りられる。釣り放題3時間の料金は入場料込みで11000円(税込み)、エサは別料金がかかる。釣った魚はスタッフが活締めしてくれる(無料)。何も釣れなかった場合でもマダイを一匹もらえるらしい。

 こうした釣り場は西日本で盛んだったが、十数年前から東日本の湾内でもあちこち見かけるようになった。ここの釣り場は平日でもそれなりに人の姿があったので、休日はかなりの賑わいを見せるのだろう。私は房総半島や伊豆半島の某所で2度、海上釣り堀釣りを体験したことがある。双方とも某釣り具メーカーのテスト兼取材だったために無料で釣りが出来たが、自腹ならまずやることはないだろうと思った(個人の感想です)。理由は簡単で、私は釣った魚は食べないからだ。つまり、食べる目的で釣りをしたことはないのだ。

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ハマチ、マダイの養殖イケス

 岸壁の一角には三重県漁連が経営する「養殖イケス」があった。正式には駿河湾で養殖したものをここに運び込み、出荷調整するためのイケスのようだ。このイケスの存在は前から知っていた。一時は下火になっていて”廃業”したのかと思ったが、久し振りにのぞいてみると、以前より盛んになったように思えた。三重には釣り仲間が何人もおり、そして何十回となく釣りに出掛けていた(主に尾鷲や志摩半島方面)ので、「三重漁連」の名を見ただけで、なぜか親近感がわいてしまうから不思議だ。

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この日の出荷品目は活締めハマチ

 一匹ずつ発泡に入れられたハマチは3キロクラス。箱に「30」「31」とあるのは重量表記なのかは不明だが、私のような釣り人の感覚からすると魚の重さに違いないと思った。「沼津」とあるのは、駿河湾で育てられた魚であることを意味しているのだろう。

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死んだ養殖魚。これも台風の被害のひとつだ

 イケスを丹念にのぞくと、死んだ魚が浮いているのがあちこちで見られた。これは病気によるものではなく、台風15、19号の影響と考えられる。普段は波静かな場所でも、台風による大きなウネリで湾内は相当にざわつき、イケスは大揺れだったはずだ。そのため、魚同士の衝突、魚体が網に擦れることによる傷害、それにイケスの揺れによるストレスなどが複合的に作用して死に至ったと考えられる。自然界であれば、魚は海中深く潜ることにより、上記のトラブルはすべて防ぐことができる。

 そういえば、15号来襲直後のニュースで、南房総・勝山漁港のマダイの養殖イケスが壊滅的被害受けたことを報じていたことを思い出した。人知はまだまだ自然には遥かに及ばないのである。

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城ケ島から三崎口へ向かう路線バス

 城ケ島めぐりを終えたので帰途につくことにした。城ケ島バス停には多くの観光客がいて三崎口行きのバスに乗り込む最中だった。ややくたびれたオジサンとますます元気なオバサンの姿が目立った。普段より利用客が多いような気がしたが、この日は城ケ島と三崎港を結ぶ渡船・白秋号が運休していたのもその理由のひとつかもしれない。

 城ヶ島めぐりという岬めぐりを終え、三崎口に向かうのか、それとも途中下車して三崎港に向かい三崎めぐりをするのかは不明だが、旅は家に帰るまでが旅で、それは運動会と一緒だ、と、校長先生は朝礼台の上から定型文を語るのだろうか。

三崎周辺の岬めぐり最終章

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三崎の玄関口・三崎マグロ駅

 京浜急行三崎口駅は三崎めぐりの玄関口である。過疎化や観光客減、それに自然保護によって京浜急行の油壷までの延伸計画は断念されたようなので、この三崎口駅がこの先もずっと京急の終点であり続けるようだ。かくなる上はこの駅をもっと売り出す必要があり、写真からも分かるように三崎口駅は「みさきまぐろ」駅を名乗るようになった。「口」をカタカナの「ロ」と読ませ、三崎マグロ駅に変更された。当初は2017年10月から12月までのリニューアルキャンペーンの一環としておこなわれたものだが、好評だったためか、現在でも駅名標は三崎マグロ駅のままである。たしかに、三崎といえばマグロであり、マグロの文字を前面に押し出すことによって、観光客にマグロを食べさせたり土産に買わせたりする印象操作なのだろう。効用がありそうなキャンペーンだ。

 2008年から電車の接近メロディとして「岬めぐり」が採用されたが、17年に「城ケ島の雨」に変更された。前回述べたように、三崎口から三崎港行きのバスからは海は見えないし、城ケ島行きなら城ヶ島大橋を渡る刹那に「窓に広がる青い海」を望むことはできるものの、「砕ける波の激しさ」までは見て取ることはまずできない。強風時ならそれも可能かもしれないが、今度は大橋は通行禁止になるので、「それも叶わないこと」なのである。三崎口は終点なので、電車はゆっくりと入線する。ならば、「城ケ島の雨」のようなゆったりとしたテンポの曲でもいいのかもしれない。

 もっとも、「岬めぐり」は京急から消えたわけではなく、三浦海岸駅の接近メロディとして採用されたようだ。三浦海岸駅からなら三崎東岡行きに乗れば、金田湾や江奈湾辺りで「窓に広がる青い海」を見ることができるし、「幸せそうな人々たちと岬を回る」こともできる。

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黒崎の付け根にある旧初声港

 三浦市の北外れにある黒崎を訪ねた。城ケ島は曇天だったのにここに来てから晴れてきたのではない。単に別の日に訪れたからである。初声(はっせ)は開発が進んでいない場所で、以前から高校はあったもののそれ以外には建物は少なく、やがて東側に総合体育館はできたが、国道の西側は野原のままだった。それが、広大な野原の一角に大きなホームセンターができたことにより、国道もやや混雑するようになった。

 ホームセンターに車をとめ、海に向かった。海近くまで車を入れることは可能だったが、戻る際には黒崎の上部にある畑を歩く予定だったので、ここにとめても大差はなかったからだ。もちろん、駐車料金の代わりにホームセンターで少し買い物をしたので、「無断駐車」ではなかったはずだ(と思った)。

 写真の旧初声港は小さなボートが幾艘かあるばかりで、ほとんど使われている形跡はなかった。かつては堤防からの釣りは可能だったが、現在は金網フェンスに囲まれており釣りは禁止されているようだ。扉が少し開いていたので港に三歩だけ足を踏み入れ、写真を撮った。右手に見えるのが和田長浜、左が荒崎に続く磯だ。高台の「ソレイユの丘」にある観覧車も見える。

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黒崎海岸から和田長浜を望む

 海岸伝いに歩き黒崎の先端方向に向かった。海岸からは和田長浜海岸の全貌が見て取れた。右手奥にはうっすらとだが大楠山の姿もある。

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黒崎海岸から先端方向を見る

 前方左手に見えるのが黒崎だ。黒崎はドラマの撮影場所として有名で、海岸線には人工物が少ないので、時代劇で海岸のシーンを撮影する舞台としてよく使われている。最近ではテレビそのものを見ないが、以前は時代劇だけはよく見ていたので、「また黒崎が使われているよ」と何度も思ったものだ。ただし、写真の黒崎は北方向から見たもので、ドラマに使われているのは南側である。

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黒崎の鼻は磯釣りの名所

 黒崎の高台から先端部を見た。「黒崎の鼻」と呼ばれている海岸段丘で、上部が比較的平坦なのは、ここが海中にあったときに波によって削られたためだろう。それが隆起して釣り人のための大舞台となった。ただし、北西の風には弱いので、冬が本番の磯釣りには不向きな場所だ。季節風が吹く前の今ならカツオやイナダといった回遊魚が狙えるはずだ。

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黒崎の天辺に広がる大根畑

 ドラマの舞台となる南側の海岸線には寄らず、細道を登って黒崎の天辺にでた。一面に広がる畑では大根の苗が植わっていた。三浦市と言えば大根が有名である。しかし、根の太い三浦大根はほとんどなく、青首大根が大半である。三浦大根は根が深く、掘り起こすのが大変だ。一方、青首大根は根が浅いから収穫が容易なのである。というより、根の上部が出てきて浅く植わるから首回りが青く(ほんとは緑)なるのだが。

 写真の電柱が続く道を東に進むと三崎マグロ駅に至る。私が写真を撮っているこの場所は黒崎の天辺ではあるものの、もはや岬の上部ではなく、初声の畑の大地そのものでもある。

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黒崎の南にある三戸浜海岸

 黒崎の南にある三戸浜海岸にも立ち寄った。以前にはよく、三浦市に住む知人と堤防釣りに出掛けた場所だ。お手軽釣り場だが、メジナクロダイの良型が釣れるのでかつては穴場的存在だった。大根畑の先にある小さな港だけに、地元の釣り人以外にはほとんど認知されていなかった。また、港の北側には写真のような砂浜が広がっているので、堤防釣りには不向きとも考えられていたのである。

 ところで、三戸浜は「みとはま」と読む。三戸は「みと」もしくは「みなと」の短縮形に漢字を当てたもので、地域(例えば静岡県沼津市)によっては「三津」を使う。津だけで港を意味するということは長津呂の項で述べた。それでは「三」は何を意味するのだろうか。港は三方を陸に囲まれているからという訳ではない。二方では港にならないし、四方では船が入れない。そもそも、三方を囲まれているからこそ港なのだ。なので、”三”をわざわざ強調する必然性はない。つまり「三」は単なる接頭語で「御」で表すこともあるものに過ぎない。そもそも、三浦もかつては御浦と表記されていた。「津」や「浦」だけでは場所の特定が難しいし、とくに「津」だけでは使用しづらい。三重県の津市は例外的に「津」だけだが、これは県庁所在地になるほど全国的知られているので、三や御を付ける必要がなかったのだろう。

 「御」は尊敬語というより丁寧語として用いられる。食べ物は貴重で有難さを感じる必要があるので「御飯」であり「御味噌汁」であり「御付け」である。朝と夕または夜は日常の一環なので御はつけない。しかし、昼は日常の中の非日常的存在なので、御昼と言われる。同様に、港は重要な存在なので「みと」=御津=三津になったのだろうし、これが転じて「三戸」にもなり「水戸」にもなったと考えられる。 

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初声港(三戸浜漁港)は釣りが盛ん

 港内側は小物釣りを楽しむ人が大勢いた。夕暮れ時はアジ釣りの地合いなので、続々と人も魚も集まってくるようだ。堤防の高いところにも人がいる。海側には大きな消波ブロックが入っているのでそこに降りるのは危険極まりない。そのブロック上にも釣り人は数人いたが、大半は、夕日を眺めるために堤壁の上部に乗っているようだ。

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三戸浜から夕陽を望む

 私は高所が怖いので、堤防の付け根にある小さな浜から夕陽を眺めた。三崎めぐりと岬めぐりはここが終点だ。

 心はすでに、次に徘徊する場所を求めている。明日もまた徘徊できるかと夕陽に尋ねた。オレンジ色の光の中から哲学者カントが現れ、次の言葉を私に告げた。

 きみはできる、なぜならすべきだから

 

〔24〕岬めぐりは三崎めぐりなのだ(前編)

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網代湾を望む

岬(三崎)めぐりを三崎港から始める

 今から40数年前、「岬めぐり」なるフォークソングが流行った。ギター1本あればスリーフィンガーで簡単に演奏できるので、友人らとよく唄った記憶がある。どこにでもある若者の感傷をテーマにした曲だが、よく話題になったのが「この岬はどこを舞台にしているのだろうか?」ということだった。曲調と歌詞ともどもやや軽めの内容であることから(1)特定の場所はなく、どこの岬でも妥当しうるというもの。(2)東京から比較的手軽に行ける伊豆半島や房総半島で、伊豆なら石廊崎、房総なら野島崎あたりと主張するもの。(3)軽さを擬しているところが怪しく、実は心に相当なダメージを受けているはずなので、津軽の龍飛崎とか高知の室戸岬、それとも能登の狼煙崎、果ては北海道の宗谷岬礼文のスコトン岬であると強く語るもの、などがあった。私はもちろん(3)を主張した。私には歌詞と同じような経験があり、実際に龍飛崎や下北の大間崎に出掛け、さらに恐山にも行った。さすがに「いたこ」の口寄せまでは体験しなかったけれど。

 この歌に触れたときにはいつもこうした議論になってなかなか収拾がつかないので、私が実相を究明することになった。コウタローはもはや東京競馬場を走ってはいないだろうが、コウタロウーと大学の同窓だった知人がたまたま音楽の業界にも足を踏み入れていたこともあって、彼ならば調査可能だろうと考え真相究明(というほどおおげさなものではないが)のための調査を依頼した。彼とは北海道の礼文島のボロ民宿で知り合い、それから何度か国分寺界隈で会うようになっていた。彼は私以上に放浪癖があるためなかなか捕まえることができなかったが、いざ対面が実現すると、その馬鹿々々しい頼みにはあっさりと応じてくれ、さらに答えもすぐに出してくれた。

 「三浦半島だよ」と知人は告げた。以来、「岬めぐり」は私の持ち歌からは消えた。

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三崎港と京浜急行三崎口駅とを結ぶバス。岬には寄らない

  私は使ったことはないが、電車・バス利用で三崎港に行くとすれば京浜急行三崎口駅からバスを利用することになる。バスは国道134号線を進み、引橋交差点を右折して県道26号線を南に進んで三崎港に至る。このバスには乗ったことがないので詳細は不明だが、普通の車でこの道を使った場合には道中では海を見ることはできない。高さがあるバスの車窓からならばちらりと海を見かけることはあるかもしれないが、いずれにせよ、「窓に広がる青い海」には出会えない。つまり、このバスでは「幸せそうな人々たち」と同行する可能性はあったとしても「岬めぐり」はおこなえない。その代わり、三崎港バス停で降りれば、三崎めぐりが堪能できる。

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三崎フィッシャリーナ・ウォーフ(うらり)の全景

 「うらり」は海(う)を楽(ら)しむ里(り)、魚(う)を楽(ら)しむ里(り)から作られた言葉らしい。「すかなごっそ」といい「うらり」といい、三浦半島の人は造語が好きなようだ。ここはまた「みうら・みさき海の駅」としても登録されている。最近では「うらり」よりも「みさき海の駅」のほうが認知度は高いかもしれない。いずれにせよ、この館内には産直センターがあり、「さかな館」「やさい館」として、三浦半島で採れた新鮮な農水産物を販売している。

 この写真からも分かるように現在、三崎港がある場所の大半は埋立て地で、関東大震災によって隆起(1.4mも高くなった)した海岸線を埋立てて造成したものである。

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三崎港といえばマ・グ・ロ

 三崎港の水産物といえば、すぐにマグロが思い浮かぶ。マグロの水揚げ量だけでいえば銚子港や焼津港、清水港には劣るかもしれないが、漁港の規模を考慮に入れると、これら三港より単位面積当たりの水揚げ量は上回っているだろうと勝手に想像している。

 さかな館にはマグロを取り扱う卸問屋がいくつも店を構えており、良心的な価格でいろいろなマグロの部位や加工品を入手することができる。私自身は購入したことはないが、マグロ好きの知り合いは、かなりお買い得だと語っていた。

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三崎館本店の歴史を感じさせる佇まい

 三崎港の周囲にはマグロ料理店が多く軒を並べているが、もっとも目立つ存在が港の前にある写真の店だ。ここは日本で最初に「まぐろのかぶと焼き」を提供した老舗で、いろいろなマグロ料理を食することができる。私は一度だけこの店に入ったことがあるが、個室でゆったりと料理を味わうことができたという記憶がある。

 この店は明治期の創業だが、関東大震災によってかつての建物は倒壊し、震災後に建てられたものである。正面の板壁の建物がもっとも古いように思えるが、実はここがもっとも新しく1955年頃に建てられた(正式には大幅な増改築)ようだ。わざわざ古風に見えるように造られているところが興味深い。

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海中散歩?が楽しめる「にじいろさかな号」

 うらりが「海の駅」を名乗るとおり、すぐ横にある岸壁からは写真の水中観光船「にじいろさかな号」が運行されている。ここを出て花暮岸壁の横を通り、城ケ島大橋をくぐって三崎港を離れる。といっても港のすぐ東側にある八景原の磯の前で停泊して船内展望室から海中を観察することになる。

 八景原の磯は宮川湾の西側にあり、磯際は水深があまりないので釣り場としてはC級ポイントだったが、この観光船が運行されるようになってからはよく「餌付け」(釣り人はこれをコマセと呼ぶ)が施されるために魚影が濃くなった。このため、釣り場の格付けもCマイナスからBマイナスに上昇した(私の勝手な判断だが)。

 この観光船は利用したことがないのでどんな魚を見ることができるのかは不明だが、この辺りの磯ではメジナクロダイウミタナゴが常連で、ときにはマダイやイシダイが顔を見せるかもしれない。観光船は全行程が40分で、利用料金は大人1300円とのこと。

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三崎港と城ケ島とを行き来する城ケ島渡船

 水中観光船の隣からは対岸にある城ケ島とを結ぶ船が出ている。正に「うらり」は海の駅である。三崎港めぐりだけでは物足りないと思う人はこの渡船「白秋」を利用して島に渡る。城ケ島へ歩いていくためには城ケ島大橋を利用するしかないが、三崎港の中心街から橋の北詰までは結構な距離があるので、城ケ島にもちょっと出掛けてみたいと考える向きには渡船利用が無難だ。片道は大人300円だ。私は取材で2度ほど利用したことがあるが、波静かな湾内の行き来なので船が苦手な人にも、ごく小さな船旅を体験することができる。

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釣り場としても人気がある花暮岸壁

 三崎港内には堤防釣りができる場所があるので、家族連れや仲間同士でここに出掛けてくる人が結構いる。写真の花暮岸壁は大型マグロ船が遠洋航海に出掛けるときに利用される桟橋だが、そのとき以外は一般にも開放され、かつ構内には駐車スペースやトイレもあるので、平日でもかなり賑わう。秋は一年でもっとも小魚が多い時期なので、簡易な仕掛けでもイワシ、小サバ、小アジなどがよく釣れる。

 花暮の名の由来は不明だが、ここから城ケ島の桜を眺めつつ日々この地で暮らした、ということから花暮と呼ばれるようになったという俗説があるらしい。

 なお、写真に見える橋が「城ケ島大橋」だ。島に渡るときは有料(歩行者、自転車は無料)だが、来年には無料開放される予定とのこと。橋上からは三崎港の全貌に接することができるので、歩いて渡る人を案外、見かける。

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中型マグロ船の停泊地にもなっている北条湾

 三崎港の中心街を離れ少し東側に進むと北条湾にでる。かなり奥深い入り江のため、湾内はとても波静かだ。ここは狭塚(さつか)川(鮫川)が造った入り江で、紀元後、4回の大きな地震で三崎地区が隆起(紀元前より7.5mも高くなった)する前はもっと大きくそして深い入り江だったようで、ここがかつて三崎港の中心だったと考えられている。

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漁港の市場横にある超低温冷凍倉庫付近にも釣り人が多い

 三崎漁港の西側にはマグロを冷凍保存するための大型倉庫がいくつもある。写真は市場横にあるもので製氷設備などもある。この倉庫の周辺は午前中には大型トラックが行きかうが、午後からは仕事の車の数はめっきり減り、代わって釣り人の車が増え、岸壁のいたるところでのんびりと竿を出す風景が展開される。この岸壁は大型船も接岸されるので足元から水深がある。このため、お手軽釣り場といってもときには望外の大物が顔を出すこともある。 

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相模国三浦総鎮守に位置付けられた海南神社

 三崎町のやや高台にある海南神社は、藤原資盈(すけみつ)や地主大神などを祭神として866年に創建されたとされている。当初は花暮の磯(資盈が漂着した場所)付近に御本宮が建てられたが、982年に現在の地に移転したとされている。本殿は朱に塗り直されているのでやや軽めに見られがちだが、三浦郡の総社であったという風格は境内のあちらこちら、そして参道の風情などから見て取ることができる。

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海南神社のおみくじはマグロ形

 三崎を代表する古い神社だけに、おみくじもまたマグロ風だ。もっともこれは昨年からはじまったばかりのようで、町興しの一環だそうだ。この「鮪みくじ」は日本ではここだけとのことだが、それはそうだろうと思うほかはない。が、三崎といえばすぐにマグロを連想するので、こうした形になるのも当然とも思えてしまう。写真のものはおみくじが引かれた後で、原形はおみくじが腹に入ったマグロがビニール袋に入っていて、これを横に置いてある小さな釣り竿でこれを釣り上げる。おみくじ釣りの初穂料は300円也。

三崎港を離れて西海岸線を北上する

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三崎港のすぐ北にある二町谷漁港

 三崎港バス停がある場所から旧海岸線を西に進み、造成中?の三崎新港に突き当たると半島の西海岸に沿って油壷方面まで北上する道路がある。その名も西海岸線である。住所名は三崎町ではない場所もあるが、その辺りの店名などでも「~三崎店」と名乗る場合が多い。あまり認知されていない町名を付するよりは三崎店を名乗るほうが地理的には分かりやすいとの合理性からきているのだろうか。ともあれ、今回は岬めぐりでもあり三崎めぐりでもあるので、海岸線を移動してあちこちをめぐり訪ねてみた。

 三崎新港のすぐ北にある小さな漁港が二町谷(ふたまちや)港だ。現在では南側は新港に抱かれているが、かつては南北を西に突き出た岩礁に抱かれていた小さな入り江だった。

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堤防釣り禁止の海外(かいと)港

 二町谷港のすぐ北側にあるのが海外(かいと)港だ。南側は小さな岩礁帯の上に造られた突堤、北側は西に大きく突き出た諸磯(もろいそ)の岬に包まれている。ここの突堤はかつてクロダイの港釣り場であったが、不埒者が続出したために現在は釣り禁止の措置がとられている。

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地質学的にはとても貴重な海外のスランプ構造

 海外港の北側には、地質学フリークにはつとに有名な露頭がある。「海外のスランプ構造」といえばその世界の住人にはすぐにピンとくる。スランプは「不調」と置き換えられるのが通常だが、地質学でもそれは同じで、ただし人間では精神面だが、地質には心がないので、堆積層の乱れを指すことになる。

 写真の斜面は西海岸線の北側にある切通しのもので、1000万年ほど前の「三崎層」の断面である。以前にも述べたことがあるが、この三崎層はフィリピン海プレートの沈み込みによってこれより古い葉山層群に付加されたもので、大地震などによって隆起して地上に姿を現したものだ。

 地層をよく見ると、層のずれ、つまり断層があることが分かる。学者の分析では、この横幅約30mの露頭の間に10数か所の断層があるとされている。また、地層の液状化とにともなった褶曲(しゅうきょく=地層の乱れ=スランプ)構造が数か所見られる。

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とくに貴重な褶曲面を拡大

 写真は、その褶曲構造がもっともはっきり分かる場所で、液状化した地層が海の深い側(左側)にすべり落ちるときにこの部分に負荷がかかり乱れが生じたものと考えられている。今一度、全体を確認すると、ここのものより規模は小さいものの、いろいろな場所でこうした乱れを発見することができる。

 私は元来磯釣り師なので、こうした露頭には随所で触れることがあり、とくに三浦半島伊豆半島の岩場では当たり前のように見かけてきた。いずれも、その形成が付加体だからである。というより、日本列島そのものが付加体なので、こうした「地の乱れ」はどこでも見られるだろうし、今、私がいる足元の土中にもこうした乱れは必ずあるだろう。いや、日本全体にこのスランプ構造は広がっていて、これが日本社会全体を「スランプ」状態に落とし込んでいるのかもしれない。

歴史、地質学、そして釣り人にとっての宝庫、諸磯(もろいそ)

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独特の形状を有する諸磯埼灯台

 諸磯(もろいそ)は観光地として名高い油壷のすぐ南にあり、西に大きく突き出した岬がある。現在はこの岬一帯に観光資源があるが、人家の多くは内陸(というほどでもないが)の高台にある。磯からは少し離れているように思われるが、この高台に「諸磯貝塚」や「諸磯隆起海岸跡」といった遺跡がある。今回は岬を中心にめぐったためここには立ち寄らなかった(思いのほか、海岸付近で時間を取ってしまったのが本当の理由)。貝塚が内陸にあるということは、ここが紀元前には汀線であることの証だし、隆起海岸跡には穿孔貝(せんこうがい)があけた穴が4段に渡って存在する。穿孔貝は汀線に沿って岩などに穴をあけて生息するので、ここがかつての汀線であり、4段あるということは、紀元後の大地震によってここが4回隆起したことの証拠にもなっている。

 今回はその遺産には直接触れず、諸磯の海岸線を散策した。20世紀末頃によく、ここの岩場で釣りをした経験を思い出したからである。かつては磯近くまで車で入り、空き地に駐車して釣りに出掛けたのだが、やはりここでも不埒者が多く、別荘地の入口付近に無断駐車するものが増えたために現在では駐車スペースはほぼなくなった。このため、磯までは民宿街にある有料駐車場に車をとめて少しだけ歩くことになる。

 細い道を海岸に向かって歩き岩場に出ると、写真の諸磯埼灯台が目に入る。細身で真っ白に塗られたその姿は蝋燭のようで趣き深い。伊豆半島や富士山の姿、そして落陽が望めるので一度、ここを訪ねたことのある人は晴れた夕間暮れどきには何度も出掛けたくなるそうだ。

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諸磯の岩場は磯釣りの好場所

 灯台のある場所から少し南に進む。岩礁帯は相当に不成形なので、断崖下を歩くことになる。このため、見た目以上に時間がかかり、かつ釣り道具などの重い荷物がある場合はかなりの苦労を強いられる。今回は釣りのために訪れたわけではないので荷物は少ないが、それでも移動には老骨に鞭打つことになった。

 ここでのA級ポイントである先端部には釣り人がいた。この周囲は比較的水深があるので釣りやすいはずだ。写真でもわかる通り、ここに行くにも凹凸が激しい場所を歩く必要が生じるため、中望遠レンズを使ってズルをして撮影した。

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諸磯の断崖

 断崖部分に目を向けた。この様相から、諸磯が隆起海岸であることがよく分かる。露出した断面から、地層の不整合やスランプ構造がいたるところにあることが確認できる。この地層の成立過程を考えるだけでも頭が痛くなりそうだが、それでも見とれてしまうのである。

 この断崖の上にはまばらだが人家や別荘地がある。よく見ると屋根部分に被害の跡がある建物が確認できた。やはり、台風15号の被害は大きかったようだ。なにしろ、この高台には風を遮るものはなにもない。海や地面が穏やかであれば、のんびりと日の暮れる景色を眺め、ときには崖下で釣りを楽しむという生活も良いであろうが、日本の場合は常に地震や台風に留意しなければならないので、時折、訪ね歩いてみるというのが無難だろう。それにしても、さらに台風19号の被害を受けなければ良いのだが。

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磯の岩場が造成する生き物たち

 スコリア凝灰岩と泥岩、砂岩からなる岩場は比較的脆いので、風雨そして激しい波にさらされるために変形が激しい。それはときとして自然の芸術家になる。何度もここを訪れているはずなのだが、写真にある造形には初めて気が付いた。釣り出陣のときは海の様子ばかり気になり、帰りはとぼとぼと敗残兵のように下ばかり向いて歩くので、今まで気が付かなかったのだろうか。

 波打ち際には大きな犬が鎮座し、その上には小ウサギが乗っていた。足を前方に投げ出した犬の前にはアダムスキー型円盤が墜落している。ただし、この犬は朽ち果てかけたUFOには興味がないようで、磯の先端で釣りをしている人の姿をずっと見つめ続けていた。もしかしたら、かの釣り人はこの犬の飼い主なのかもしれない。すると、犬の上にいるのはウサギではなくネズミなのかも。とくに理由はないのだが。これも一種のゲシュタルト崩壊なのだろう。

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諸磯港岸壁はのんびり派向きの釣り場

 諸磯港岸壁の先端部ではウキ釣りと投げ釣りを楽しむ人の姿があった。向かいに見える岬は網代崎の先端部で、さらにその先には荒崎海岸が見える。冬場は北西の風が吹き荒れるので大波が立ち釣りどころではない。この冬の季節風から港を守るために、沖には消波ブロック帯が形成されている。が、南風が多い今の時期はとても穏やかだ。というより、いささか穏やかすぎて魚たちものんびりとときを過ごしているようで、3人のおじさんたちの遊びには参加する気分にはなっていないようだった。

油壷界隈を歩く

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諸磯湾奥には諸磯ヨットオーナーズクラブがある

 油壷湾は狭義には北側の網代崎と南側の名向(なこう)崎との入り江を指すが、広義には名向崎と諸磯との間にある諸磯湾を含む場合がある。名向崎は網代崎と諸磯との間にあって長さは両岬より短く、油壷湾と諸磯湾の出入口は共通だからである。とくに網代崎の南端部が大きく諸磯側に張り出しているため、この出入口をかなり塞ぎ、荒波の侵入を防いでいる。地図や航空写真で見ると、狭義の油壷湾の出入口は大きくL字状になっていることが分かる。したがって、油を流したような靜かな入り江を指し示すこの表記は、こちらが元祖と考えられる。

 ちなみに、油壷京急マリーナは諸磯湾内に位置するが、諸磯ヨットオーナーズクラブよりも停泊地は沖側に位置するため、諸磯ではなく油壷を名乗っている。まぁ、浦安にあっても東京を名乗る遊具施設場もあるので、細部は問わないのが大人の対応だろう。 

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名向崎の先端部に至るためのトンネル

 名向崎は、私が釣りによく通っていたころは秘境の趣きがあった。以前からヨットクラブはあったが、岬の先端方向に向かう道は狭く、そして昼なお暗く、進むにはある程度の覚悟を必要とした。途中には写真にある素掘りのトンネルがあり、その先に小さな造船所があるばかりだった。その手前の空き地に車を置き、磯伝いに歩いて先端部に出て釣りをした。また、写真のトンネルの手前にも素掘りのトンネルがあり、それを使うと油壷湾沿いに出ることができた。道には草が深く茂り、ヘビの姿もよく見かけた。何やら恐ろしげで、一人では絶対に行くことができない釣り場だった。いずれの場所も他に釣り人の姿は見かけたことがないというほどで、三浦に住んでいる知人ですら、ここの存在を知らない人がほとんどだった。

 今回、久し振りに訪ねてみたが、昔日の面影はさほど残ってはいなかった。先端部に至るトンネルこそ残ってはいたが、油壷湾側に出るためのトンネルは通行禁止の措置がとられていた。高台には現代的な、いかにも保養地といった風情の建築物があって、もはや私にとって、名向崎は秘境ではなく、油壷湾を形成する片方の岬という存在以上ではなくなってしまったようだ。 

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西海岸線から油壷湾を眺める

 侵食谷によって形成された油壷湾は名前が先行し、多くの人はその存在を知っているが、ここを訪ねる人はそう多くはないようだ。後出するマリンパークはよく知られた存在だが、昨今では他に大きな水族館が多数造られている以上、ここの存在価値は相対的に低下しているようだ。したがって、油壷を訪れる人はヨット関係者以外はそれほど多くはないのかもしれない。

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油壷湾の湾口付近。左手が名向崎

 網代崎先端にはマリンパークがあるが、その手前の左側に「油壷駐車場」がある。マリンパークを利用するならこの先にある専用駐車場が便利だが、網代崎一帯を散策する場合はいつも、この駐車場を利用している。

 駐車場のすぐ先には国土地理院の験潮場へ降りる道がある。これを使うと油壷湾の岸辺に出ることができる。周辺は平らな岩場が多いので、かつてはここでクロダイ釣りをよくおこなった。写真は験朝場前から湾口を眺めたものだ。左手の森が名向崎の先端部、右手が網代崎の南突端で、正面に見える高台は諸磯の岬である。こうして3つの岬が出入口を塞いでいるために油壷湾内はいつも波静かなのだ。 

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油壷湾の湾奥を眺める。右手が名向崎

 一方、こちらの写真は上同所から湾奥を眺めたものだ。右手の高台が名向崎で、かつてはみられなかった新しめの別荘?が建っていた。

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京急油壷マリンパークの入口

 網代崎の先端部にあるのが京浜急行が出資しているマリンパークだ。かつては先進的なイベントをよくおこなっていて話題になったが、現在は大規模な水族館が東京・横浜などに続々と登場したため、こうして入口を改めて眺めていると、ひと時代前の水族館であるとの印象は否めない。私は2度だけここに入ったことがあるが、とくに印象は残っていない。規模がさほど大きくないため、生物の存在を身近に感じることができたということ、周囲の眺めが良かったことなどがわずかに思い出される。それすら、記憶違いである可能性もなくはない。

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マリンパーク下にある胴網海岸

 マリンパークの駐車場横から北側の海岸線に降りることができる。正面に小さな砂浜があり、左右に岩場がある。ここは知る人ぞ知る磯釣り場で、大型魚こそ望めないが、中型の魚たちは結構、釣れるので、のんびり竿を出したいと思うとき、初心者に釣りを教えるときなどに訪れたことがある。

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新井城跡下の岩場

 こちらは胴網海岸から初声地区方向を望む場所だ。やはり磯釣りの穴場的存在で、先の場所に先行者がいる場合はここで竿を出すことになる。もっとも、自分の経験ではそのようなことは一度もなかったが。この辺りも土地の隆起が顕著なので、かつては断崖絶壁であって、こうして海岸線の岩場に降りることはできなかったはずだ。

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石碑だけが残る新井城跡

 小網代崎にはかつて「新井城」があった。写真の碑はマリンパークの駐車場のすぐ脇にある。マリンパークがある場所も、東大の臨海実験所がある場所も、かつてはここに新井城があった。その遺構も残っているようだが、一部は実験所の構内にあるために開放日以外には見ることができない。

 新井城は三方を海で囲まれた天然の要塞といった趣が感じられる、ここにあったとすればの話だが。東側のみ陸続きで、大手門の前には「引橋」があった。「国道134号線から引橋交差点を右折して県道を進むと三崎の市街地に出る」という三崎港までの案内によく出てくる、あの”引橋”である。 

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相模三浦氏最後の当主、三浦道寸の墓

 小名を荒井といったらしいので荒井城とも呼ばれる新井城は、1247年頃、三浦介を継いだ佐原盛時の時代に築城されたと考えられている。最後の城主である義同(道寸)は養父である三浦時高を1494年に討って城主となった。その後、小田原北条氏を成立した伊勢新九郎北条早雲)と戦い、三年の籠城の末、1516年に落城した。道寸は自害し、息子の義意(よしおき)は討ち死にした。義意(荒次郎)の首は小田原まで飛んで行ったという伝説が残っている。また配下の者は揃って自害し油壷の海に身を投じた。彼らの血潮が湾の海に油のように漂ったということから、油壷と呼ばれるようになったという説もある。

網代湾あれこれ

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網代湾にある高級リゾート、シーボニア

 初声(はっせ)地区と網代崎の間にある入り江が小網代湾で、ここも冬季をのぞけば波静かな場所である。諸磯や油壷がそうであるように、この湾にも有名なマリーナがある。シーボニアマリーナといい、シー(海)とボーン(生まれる)から作成された名前だとのこと。マリーナのほか、リゾートマンションや宿泊施設、レストランなどがある。実は、ここには入ったことはなく、今回もまた、ただ見るだけだった。駐車料金の1000円を払って敷地を徘徊しようとも一瞬だけ考えたが、リゾートマンション群だけ撮影すれば十分と思えたので節約した。

 葉山マリーナや逗子マリーナには何度も出掛けたことがある。そこに行くときは「観光」目的なのでそれなりの風体で臨むが、シーボニア近辺に出没するときはすべて釣り目的のため、小汚い服装では入ることが躊躇われたからだ。思い返せば、こうした贅沢な場所を訪れることは可能な限り避けてきた。というより高級な場所のほうが私を拒絶したというのが正解かもしれない。結構、毛だらけである。

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こちらは庶民的な小網代

 一方、隣にある小網代港は釣り船が多く、庶民的な場所だ。この堤防には何度か釣りで訪れたことがある。釣れたという記憶はない。一度など、私にはネコザメの死骸が掛かり、同行者には生きた猫が掛かった。死んでいても魚は魚と私の勝利を主張し、彼はたとえ猫でも生きているので俺の勝ちを主張した。釣り人というのは自我の塊なのである。

 この堤防は現在でも全面釣り禁止という訳ではないようだが釣り人の姿はなかった。いたるところに釣りを制約する看板があるため、トラブルを避けてこの場を選択しないのだろうか。それとも、死んだ魚や生きた猫はターゲットではないと考えてのことなのだろうか。

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網代港から小網代の森を望む

 小網代湾の奥には大きな森がある。小網代の森といって70haの敷地がある。森の中央には「浦の川」が流れ、森林地帯、湿地帯、干潟があり、その中を散策できる。ありのままの自然というより、よく管理された自然が維持されているといった風情だ。現在(10月10日)は台風15号の被害によって入場口や散策路が制限されている。今回の最後にはこの森を散策する予定だったが、その日は全面立ち入り禁止だったので、やむなくこの写真をもって旅の終わりとした。

 三崎(岬)めぐりは想像していたより時間がかかった。今回の項だけでも2日間を要したが、まだ超大物の城ケ島めぐりが残っている。その前に、台風19号が新たに刻む危険性のある、苛虐された地を訪ねるのが先になるのだろうか。

〔23〕見捨てられた半島~親愛なるものへ

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市原市のゴルフ場横にある住宅地。今もそのまま!

 台風15号の襲来は間違いなく天災である。人の力では台風の上陸を阻止することも、家を担いで他地域に移動することもできない。

 だがしかし、台風による被害の多くは、そして人々の苦難の大半は人災である。停電や断水は大きな自然災害である以上、完全に避けることはできない。復旧の遅れも、技術的困難さを考えると致し方ない面もある。が、政府や各自治体や東電の対応には誠意が感じられず、被害者の苦悩を一層深めている。菅官房長官は9月20日の記者会見で、「最も適切な態勢を構築‥‥」と語り政府の対応には問題がなかったと語った。これだけで、政府の対応は0点だったということが分かる。まだ被害者の苦労は始まったばかりである。先の見通しがまったく立たない中で、政府の側が今までの措置を「適切な態勢」だったと判断したことは、もはや国はこれ以上何もしないということと同義だからである。

 実際、政府に何が出来たかと言えば、おそらくそれほど多くのことはできなかった蓋然性が高い。しかし、為政者は謙虚でなければならない。常に、もっとより良い行動ができなかったのかということを己に問い続けなければならない。人間の行為ゆえに100点満点の達成は絶対にありえないが、しかし満点を目指さずして何を目指すのだろうか?

 そういえば、いつごろからか、この国は「自己責任」の社会となってしまった。被害者は常に自己責任を要求される。しかし、統治者側には自己責任意識はなく、他者にのみ自己責任を強要するのだ。もはや、この国は「希望の国」ではないのかもしれない。

 25,26日の両日、房総半島の西南地区を回ってみた。メディアだけの情報では現地の実情が分からなかったからだ。2日間ではほんのわずかな地域にしか触れられなかったが、かつてよく出掛けていた場所を中心に立ち寄ってみた。記憶にあるかつての姿と、台風15号による痛恨の爪痕が残る今日の姿との落差に愕然とせざるを得なかった。停電は大方、解決したとはいえ、まだ電力復旧のための人や車が多くいて、作業を続けていた。被害を受けた建物の屋根や壁はブルーシートで覆われていたが、改修作業自体はほとんどおこなわれてはいなかった。

 「ぜんぜん職人の数が足りず、修復工事を頼むことすらできない」と住人は語ってくれた。今年中の修理はまず無理で、来年のいつ頃になるかもまったく見通しが立たないようだ。「修理もだけれど、それよりもパートの仕事がなくなったことの方が心配」と語る人もいた。確かに、店の多くは閉じたままだった。観光地の被害も大きいため、これからの行楽シーズンには多くの集客を望めないようだ。

市原市のゴルフ練習場鉄柱倒壊による災害

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練習場から住宅地方向を見る

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練習場と住宅地との境にある道路から

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鉄柱が破壊した住宅と車

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ネットに覆われた住宅

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鉄柱が屋根に突き刺さる

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こちらの家も鉄柱の被害を受ける

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被害を受けた電柱を取り換える工事

鹿野山神野寺君津市)の被害状況

 神野寺は鹿野山中にあり、6世紀末、聖徳太子の開創によるとされ、関東最古の寺といわれている。境内は広く、また周囲の眺めも良く、晩秋の紅葉の季節に出掛けてみたい場所だ。近くにはマザー牧場もある。

 神野寺の被害は大きく立ち入れない場所があるが、それでも境内には散策可能な場所も多いので、復興協力のためにも参拝に出掛けてほしいと思う。

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山門はとくに被害はない

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本堂の外観にも被害は見られなかった

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本堂横にある旧護摩堂は倒木による被害を受けていた

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鐘楼は屋根の被害が激しい

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重要文化財の表門は完全倒壊した

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奥の院は屋根の被害を受ける

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道場も屋根に被害

内陸部の被害

 今回は主に海沿いを見て回ったが、神野寺に立ち寄った折に、内陸部も少しだけ見て回った。房総半島には険しい山こそ少ないが、丘陵地帯が多いので電気の復旧作業には多くの困難を伴ったようだ。

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電柱を新設するために切り倒された木々

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丘陵間の平地には風が吹き抜け、家屋に大きな被害をもたらした

 房総を訪ねたときはよく「久留里城」に立ち寄った。城自体というより城周辺の眺めが良いからだ。しかし、今回は城までの道路が崩落の危険性が高いとして通行禁止の措置が取られているため、城に近づくことはできなかった。

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眺めの良い久留里城の天守

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この崖崩れの影響で、道路が崩落する危険性が高まった

金谷港と保田港周辺

 金谷港(富津市)は、先の回で紹介した横須賀の久里浜港とを結ぶ東京湾フェリーの発着所があるところだ。ここでは港近くの観光施設で大きな被害が発生した。また、金谷の南にある保田港(鋸南町)では漁協直営店で房総の海の幸をリーズナブルな価格で提供してくれた「ばんや本館」が大被害を受け、営業再開の見通しはたっていない。

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金谷港に入るフェリーと、復旧活動に尽力する自衛隊

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屋根に大被害を受けた観光施設(25日)

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めくれ上がった屋根の鉄板を取り除く作業がやっと26日に始まった

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合掌造りの古民家で極上のコーヒーを提供していた人気店も甚大な被害を受けた

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浜金谷の通りで復旧作業をおこなう消防団自衛隊

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保田港の「ばんや」の再開時期は不明

安房勝山港(鋸南町)周辺の被害

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勝山漁協周辺

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屋根が吹き飛ばされた漁港の水産施設

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港の北側にあった施設も完全倒壊。そこに行くための道は崖崩れで通行不能

 富浦(南房総市)周辺

 富浦といえば「房州びわ」の産地として名高い。びわの収穫期は5,6月なので台風による直接的な被害は受けなかったものの温室などの設備が大きなダメージを受けたため、来年以降の収穫への影響が気がかり。また、富浦には豊かな漁場もあるが、港の施設が大きく破壊されたため、水産業への悪影響も心配だ。

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電線、電話線の復旧作業

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国道沿いの商店はほとんどが休業中

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被害を受けた中学校の校舎

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中学校の体育館は使用不可に

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温室の被害が大きいびわ農家

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満杯になりつつある災害ゴミの臨時集積場

那古船形港(館山市)と北条湾岸(館山市

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船形漁港にある直売所。東側から見ると被害は少ないようだが

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南側から見た直売所。当分の間、休業を余儀なくされた

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漁港北側にあるごみ集積場

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大きな被害を受けた漁港北側にある住宅

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館山北条海岸沿いにある釣具店。以前、よく立ち寄っていた店

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北条海岸沿いにある不動産店。いまだにこの姿

南房総最南端の白浜町周辺

 25日は野島埼灯台が目の前に見えるホテルに宿泊した。8階建てのこのホテルは海に面しているため南からの強風をもろに受けたため、1階のガラスが全部破損し、フロントや売店が使用不能に。運よく業者による応急の復興工事がおこなわれ、21日に営業を再開したとのこと。それでも、上階のガラスの一部が破損したため使用不能の部屋がかなりあるとのこと。まだ宿泊客数は例年の半分以下なので風評被害が心配とのことだった。

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白浜の旅館の被害。まだ後片付けの途上

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ホテル裏の住宅にも被害は広がっていた

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被害を受けた住宅の後片付けをするボランティア

館山市布良(めら)港周辺の被害状況

 被害の大きさに圧倒されたのが館山市の布良地区。国道410号線は白浜の海岸線から右の大きく曲がり、高台を北上し館山市街地に向かう。その曲線部の下の段にあるのが布良地区で、その存在を知らない場合はまず目に留まることはほとんどないと思われる場所にある。しかし、私のような釣り人には良い堤防釣り場として広く認知されているため、当然のことながら、今回も港に至る細い道を下って家が立ち並ぶ地区まで入り、そこで被害の大きさを知ったのだった。車を港の構内に置き、カメラを持って歩き回ってみた。

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ブルーシートに覆いつくされた町

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漁どころではないということがよく分かる

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災害ゴミの山はいたるところにあった

 以下、町中を歩いたときに目に留まった様相を並べてみた。

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岩井袋~捨てられそうになった集落

 岩井袋は安房勝山と岩井海岸の間にある小さな集落である。台風の被害はまず市原市君津市木更津市などの様子がニュースで伝えられ、次にネットの世界で南房総の被害の甚大さが広まるにつれ、館山市南房総市鋸南町の被害が報道されるようになった。小さな集落だが、もっとも壊滅的な被害を受けたのは岩井袋だった。これもネットから発信されたことで、ようやくニュースにもその名が挙がるようになった。私自身、岩井袋をすぐに思い浮かべることはなかった。かつて、堤防釣りや磯釣りでよく通った場所なのに。

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ドコモの移動基地局車によってかろうじて通信手段が確保されていた

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嵐によって傷付いた車はいたるところに見られた

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役所による聞き取り調査がやっと始まった

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漁が再開されるのはいつになることやら

 一人の男性が集落を歩いていた。私は少しだけ話を聞いた。家の中は滅茶苦茶。ブルーシートだけでは雨を遮ることは出来ず、家の中はカビだらけ。漁に出掛けることもままならず、ただ毎日、隣人と愚痴をこぼすだけ。
 この自己責任の国は弱者に厳しい。被災者は「棄民」と同義語だ。いずれ、そう遠くない時期に東京を直下型地震が襲う。一部の富裕者は外国にのがれ、大半の一般人は見捨てられる。

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 親愛なるものへ、こう告げよう。千葉の「棄民」は明日の自分である、と。 

〔22〕これっきりではなかった!ここも横須賀

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地質学的に貴重な存在である荒崎海岸

横須賀西海岸を探訪する

 近代的横須賀は東海岸東京湾側)にあるが、私がより慣れ親しんでいる横須賀は西海岸側、つまり相模湾に面したほうに多くある。東京湾側はすでに紹介したように大半が埋立地であるのに対し、相模湾側は自然海岸のままだし、自衛隊の施設がある場所以外のほとんどに立ち入ることができるからだ。決して好場所とまではいえないが磯釣りが可能な岩場もある。小さな漁港が多くあり、かつては堤防釣り場として賑わっていたところもあった。残念ながら、その大半は現在、釣り禁止となってしまったが。空気が澄んでいる日には富士山や伊豆半島伊豆大島がよく見え、とくに夕方には全景が茜色に染まり、まことに見栄えのする景観が眼前に広がるのだ。釣り場としては合格点には届かなくても、景色の豊かさには十分、合格点が与えられるし、ことに夕景は満点に近い。

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砂浜が広がる和田長浜海岸

 和田長浜海岸に来た。ここは三浦市との境にあり、写真の砂浜の大半は三浦市に属し、撮影場所辺りから手前側が横須賀市となる。東京湾側と異なり人工物が少ないためか、海水はかなり澄んでいる。陽気はすっかり秋の気配が漂っているため、海遊びの人は少なかった。 

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横須賀側の和田長浜は岩場が多くなる

 同じ和田長浜でも横須賀側は岩場が多くなる。干潮時にはタイドプールが多くできるので、海辺の生物を観察するのには絶好の舞台となる。ただし、岩場は洗濯板状で凹凸が激しいのでかなり歩きづらい。磯遊びには足ごしらえをしっかりしないと危険度が高くなる。撮影場所には何かを祭っているような石組みがあり、花も添えられていた。この辺りで亡くなった人への手向けなのかもしれない。

 写真の背後あたりの場所から岩場が水際までせまり、本格的な磯場の風景が連続する。岩場は入り江奥にある小さな港まで続く。この暮浜港には一時期、堤防釣りのためによく通ったものだった。

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和田長浜と荒崎との間にある暮浜港

 暮浜港はかつては栗谷浜港と呼ばれていたが、夕方の景色がとくに美しいためか「くりやはま」の音に近い「くれはま」の名が当てられるようにもなったらしい。もっとも、私がよく通っていた20年以上も前では、ここが雑誌などに紹介されるときはほとんど「栗谷浜」の名称が用いられ、「暮浜」とする記事は滅多に見かけなかった。そこで私は、この港を新聞や雑誌に紹介するときには必ず、「暮浜」を用いることにした。それが切っ掛けになったのかどうかは不明だが、最近ではほぼ「暮浜」の名が定着したようだ。

 私が「暮浜」の名前にこだわった理由は、写真にある白い建物が大きく関係していた。その建物はかつても今も「介護老人保健施設(通称老健」)として利用されている。私が老健という施設を間近に接したのはここが初めてだった。とくにこの施設に関心があったわけではない。この小さな港に出掛けるためにはこの建物の横を通るしかなく、また港には車を置くスペースが少ないため、よくこの老健横の空き地に駐車していたからだった。

  施設横を通るとき、施設横に車を止めるとき、釣りをしながらときにふと建物のほうに目をやるとき、荷物を取りに車に戻るとき、いつしか私は老健の利用者の姿を追い求めるようになった。それは、将来の自分の姿を見出したいがためだったのかもしれなかった。が、利用者の姿を見かけることは滅多になかった。介護を要するお年寄りが利用しているのだから外に出て散歩する機会は少ないのだろう。しかし、それだけではなかった。窓際にいて、港や海を見つめているお年寄りの姿も見受けられなかった。そうなると、ますます利用者の存在が気になった。目の前に綺麗な海辺が広がっているにもかかわらず、それに接する時間はほとんど有していない。そんな姿に、人生の暮方の「あわれ」を感じてしまった。それゆえ、この港は「暮浜」と呼ぶのがふさわしいと思ったのだ。

 このころ、たまたま横浜市金沢区老健でボランティア活動をする機会を得た。施設長や職員を説得して、近くにある公園に利用者が出掛ける機会を増やした。外に出られない人のために窓の外にある庭を整備して花壇を造り四季折々の花を植えた。たとえ「人生の暮方」であっても、自己の外部には違った世界が広がっているのだということを忘れずにいてもらうために。

 久しぶりに暮浜港に立ち、老健の窓に目をやった。相変わらず、人の姿は確認できなかった。ふと考えた。もはや私の半分は、あの窓の内にいるのだということを。

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荒崎は地質史の最前線にある

 荒崎でもよく磯釣りをおこなった。大物が釣れるというわけではないし、なにより足場が悪い。先端部に出るだけでも一苦労だ。それでもここへしばしば訪れたのは、写真のような地形に出会えるからだ。

 荒崎は、三浦半島の先端部にある城ケ島、三浦市中心部、剣崎などと同じ「三崎層」にあり、三浦半島を構成する地層では葉山や武山を構成している葉山層群についで古い。鎌倉や逗子、横須賀市街などはこの葉山層群の上に積もった泥岩層(逗子層)にある。

 三浦半島は海底にあった堆積層がフィリピン海プレートに乗って南から北に移動し、本州に押し付けられて地上に現われた付加体であり、泥岩とスコリア凝灰岩が交互に積もった層がそのあとから南からやってきて葉山層群に押し付けられて現われたのが三崎層だ。その後、多くは初瀬層や宮田層がその上に堆積したため、三崎層が地表に現れているのは前述した荒崎や城ケ島、三浦市街、剣崎などだ。プレートの移動は現在でも続いているので、将来、城ケ島は三浦市街とは陸続きになるはずだ。

 ともあれ、荒崎は南からやってきて三浦半島に押し付けられた付加体(世界でもっとも新しい付加体のひとつ)なので、地層はその力で大きく湾曲し、さらに上層が侵食されたため、写真のように斜め60度ほどに切り立っているのだ。スコリア凝灰岩は暗色で泥岩は淡色なので、地質のサンドイッチが明瞭だ。スコリア凝灰岩は硬いが多孔質のため脆くもある。

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荒崎の高台。三崎層の上にロームが積もっている

 荒崎には高台が多い。三崎層の上にロームが積もり、そのロームを土台にして樹木が茂っている。こうした地層の不整合は荒崎のいたるところで見られるため、たとえ釣果が芳しくなくとも、荒崎では違った楽しみを見つけ出すことができるのだ。ありのままの自然に触れるのは本当に面白い。その不思議さ奥深さには毎回驚嘆するし、そしてまたさらなる不可思議なものに出会う楽しみをたえず抱かせる。

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ドンドン引きは荒崎海岸の代表的存在

 写真の細長い入り江は「ドンドン引き」と呼ばれている。引き潮のときは海水がどんどんと引いていくからとか、波が高いときは入り江奥に当たる波の音がドーンと響くからなど、名前の由来はいくつかあるようだが、この自然が削り出した光景には圧倒される。反面、この入り江の出入り口周辺(写真上方)は水深があるために磯釣りに適したポイントなので、釣り人は造形そのものに感嘆するよりも、その造形による恩恵にあやかりたいという気持ちのほうが優先順位は高い。

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荒崎海岸の入口にある荒井港

 荒崎海岸から北上すると、小さな漁港にいくつか出会う。その最初が写真の荒井港だ。荒崎海岸バス停の目の前にある。かつてはここも興味深い堤防釣り場だったが、御多分に漏れず、現在は釣り禁止となっている。以前はここで大型のクロダイがよく釣れたのだったが。手前に見える岩場の造形から、ここが荒崎海岸の延長上にあることがよくわかる。

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荒崎海岸北側から大楠山を望む

 荒崎周辺は公園としてよく整備され、駐車場も付設されている。その公園の北側には水産研究所があり、さらにその北側の岩場は冬場をのぞけば波穏やかなことが多いため、格好の磯遊び場になっている。しかし、観光客のほとんどは荒々しい海岸に触れることを希望するためか、こちら側で人の姿を見かけることはほとんどなかった。私自身、この場をじっくりと歩き回ったのは今回が初めてだった。岩場の形状は先の写真と同じように、大きく斜めに傾いた地層が整然と並んでいる状態で、とても歩きづらい。写真に見える荒井港対岸の岩場も、私が撮影のために立っている場所と同じく、荒崎海岸と同時に形成された地層だ。

 写真の漁船は、荒井港の北隣にある漆山港に帰るものだ。この北にはさらに新宿港がある。船の向こうにみえる山は「大楠山」といって三浦半島一の高さを誇る。かつては242mの高さと言われており、私が最初に登ったときもこの高さの表記があったが、現在では241mに訂正されている。山頂の左手に見える白い塔は国土交通省の「大楠山レーダー雨量観測所」のもの。かつては大楠山の頂がランドマークだったが、現在ではこの塔が山頂にとって代わっている。

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この地域の中心的存在である長井港

 荒崎公園をはじめとして暮浜港、荒井港、漆山港はすべて横須賀市長井にある。写真の長井港はこの地区の名がそのまま付いていることから分かるように、この辺りではもっとも大きな漁港だ。港の構内には水産会社の直売店だけでなく、漁協直営のレストランや売店もある。かつては堤防釣り師の数も多かったが、近年では観光客のほうが目立つ存在だ。写真にはないが、北側の突堤はまだ釣りが可能なようだ。周囲が岩礁帯なので釣果もそこそこ望める。

 港の北側には団地があるが、その向こう側には小田和湾と名付けられた大きな入り江がある。その入り江の奥には陸上自衛隊の基地や学校、航空自衛隊分屯基地などがあり、ここはヨコスカの一角なのである、ということを忘れさせない存在となっている。

少しだけ海を離れた~ここもヨコスカ

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かつて基地だった場所にできたレジャー施設

 和田長浜の北側から長井港の東側、つまり長井地区の内陸部にあるのが「長井海の手公園(愛称ソレイユの丘)」だ。開園したのは2005年で、私が暮浜港や荒崎海岸によく通っていたときはまだこの施設はなかった。海岸線の道はとても狭く、かつ荒崎海岸行きの大型バスや水産関係の車がよく通るためにこの道を避け、高台に走る農道を利用して海にでたものだった。そのころ、ソレイユの丘がある場所は大半が空き地で、一部が航空自衛隊の無線施設として使われているだけだった。空き地は南北に細長く伸びていたことと、一部、滑走路らしきものが残っていたので、かつては飛行場として使われていたのだろうという予想は立った。実際、戦前は海軍の第二横須賀航空基地として使われ、戦後は一時、在日米軍の住宅地になっていた。

 通う回数がめっきり減ったころ、この場所で何やら工事がおこなわれているということには気付いていたが、さほど関心は抱かなかった。それが広大な公園として整備されたのには少なからず驚きを禁じ得なかった。場所がかなり辺鄙だったからである。もっとも、公園になったのは農道の南側で、北側には広大な駐車場があるものの、それ以外に施設はないようだ。

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園内には農場が広がる

 愛称から、そして建築物の造形から、フランス南部の風景を模しているということはすぐに分かった。高台にある公園とはいえ、南と西側はすぐ海である。つまり、相模湾は地中海というわけだ。園内には今回、初めて足を踏み入れたが、プロヴァンス風の建物や遊具施設があるとはいえ、多くは農場のようだ。確かに、フランスは農業国でもあるので、この景観からフランスの香りを感じられなくはない、かも?

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ソレイユといえばすぐにヒマワリを連想する

 公園を入ったすぐ右手(西側)にはヒマワリ畑が広がっていた。すでに秋を迎えていたが、ヒマワリはなんとか枯れずに咲いていた。もっとも、ここを訪れたのは台風15号が来る直前だったので、強い風によって現在はすっかり倒れてしまっているかもしれない。この日はかなり大勢の職員が畑を見て回っていたのは、今から考えれば台風にどう対処するべきかを皆で苦慮していたのだろう。

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園内を巡回するロードトレイン。ただし有料

 園内は結構広いし、遊具施設があちこちに点在しているので歩きではある。このためか、写真のように園内を巡回するロードトレイン・ソレイユ号が走っている。ただし、利用料は1回310円(9月20日現在)するので、短い区間の利用だと歩いたほうがお得に感じる。入口ゲートからは南に石畳の道が伸びていて、プラタナスの並木道になっている。写真のように道に沿って花壇が続き、その色彩がよくソレイユ=太陽に映えていた。この時期は桃色のペチュニアが敷き詰められていた。この花は徒長しやすいが、よく手入れされているようで間延びは見られなかった。また、適度に四季咲きベゴニアが使われていて、このアクセントも美しかった。ペチュニアもベゴニアも様々な色があるのだが、あえて単色にしている点が見事で上品さすら感じられた。これもフランス仕込みなのだろうか?

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キッズ広場にある遊具。これは無料

 ちなみに、入園料は無料なので、散策にはもってこいの場所なのだが、なにしろ車利用でなければ行き来にはとても不便だし、しかも駐車料金は1000円(9月20日現在)なので、そう簡単には利用できないと思ってしまう。

 遊具は「芝そりゲレンデ」「ゴーカート」「観覧車」など多くあり、「ふれあい動物村」「農業体験」などで楽しむこともできる。また、レストラン、ショップ、キャンプ場、温浴施設などもあるので、ここで1日を過ごすこともできそうだ。ただし、「八景島シーパラダイス」と一緒で、入場料は無料だが、施設利用はほとんどが有料なのが少し厳しいか?

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ソレイユの丘がある高台から三浦三山を望む

 ソレイユの丘を離れ、農道を北に走った。東側には「三浦三山」が見えた。左から「武山」「砲台山」「三浦富士」と名付けられている。

 武山は標高200m(実際には206mあるらしい)。大楠山と並んで三浦半島では著名な山である。この三山のある地区の字名は「武」なので、この武山がこの辺りではもっとも目立つ存在なのだろう。砲台山(標高204m)はかつて、その形状から大塚山と呼ばれていたそうだが、昭和初期、その山頂付近に海軍が砲台を設営したために砲台山(通称?)と呼ばれるようになり、この名が定着したようだ。今でも砲台跡や弾薬格納庫跡が見られるようだが、これに接するためには歩いて登らなければならない。三浦富士は通称で、地図には富士山と記されている。前回、名前だけは知っていたが、その存在を確認したことはなかったと記した山だ。この三山の光景ならば以前から何度も目にしていた。この中に富士山がそびえて?いるとは意外だった。だがしかし、どのように見れば、これを富士山と判別できるのだろうか?今もって不明だ。

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ファーマーズマーケット・すかなごっそ

  「帰りに、すかなごっそに寄りますか?」。城ケ島や剣崎に仲間と釣りに行き、駐車場で別れる刹那、横須賀在住のオッサンにこう聞かれた。寄るも寄らないも「すかなごっそ」がいったい何物だかがまったく分からなかった。この言葉をそのオッサンから何度か聞くうち、いつも「安い」という文句が入るので、店らしいという想像はついた。しかし、横須賀弁には疎いのでそれ以上のことは分からず、オッサンの日ごろの行動を思うと、「危ない店」とも考えられた。

 仲間との釣りは現地集合なので、いつものように国道134号線沿いにある釣り具店で餌を購入し釣り場に向かおうとしたときだった。釣具店の対面には農協が経営しているマーケットがあるのは知っていた。釣りのときは集合時間が早いので店は始まっていないのだが、その日は少し遅れて行くことになったので、店は始まっていた。交通量が比較的多い道を右折進入する車のために道は少し渋滞していた。このため、釣具店前から国道に合流するのに少し時間がかかった。そのせいもあってか、マーケットの入口にある看板が目に留まった。初めてのことだ。それには「すかなごっそ」と記してあった。かのオッサンが何度も口にしていたものの正体がこのときやっと判明した。「人は見たいものしか見ない」ということを改めて実感した。もっとも、「すかなごっそ」が何物かは分かっても、その意味するところは不明のままだ。イタリア語かも?

 この日も帰りにオッサンは「すかなごっそ」に寄るかどうかを聞いてきた。スーパーには寄る用事がないので「いいえ」と答えた。今までは正体が不明だったので曖昧な返事しかできなかったが、このとき初めて、明確に否定することができた。

 彼と別れた直後、スマホで「すかなごっそ」を調べてみた。「すか=横須賀、な=菜、ごっそ=ごちそう」から生まれた造語で、横須賀で採れた新鮮な野菜はなによりのご馳走という意味のようで、このファーマーズマーケットはそれを扱うJA横須賀が経営する農産物直売所だったのだ。

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すかなごっその店内。結構、賑わっていた

 今回、初めて店内に入った。平日の午後でありながら結構な賑わいを見せていた。別棟には、水産物を扱う店もあった。横須賀は水産物の水揚げも多いので、この分野でも流行りそうだ。「すかなごっそ」の水産物版だが、「すかすごっそ」ではなく、「すかなごっそ・さかな館」というようだ。言葉は言霊で、すでに「すかなごっそ」は当初の意味を離れ、横須賀産の新鮮な商品を取り扱う店という意味に拡大しているようだ。それなら、「な」は名詞扱いにして「肴」を当てれば「横須賀の肴(副食品のこと)はご馳走である」という意味になる。また「な」を格助詞として扱えば、「な=の」になり連体修飾語を形成するので、「横須賀のご馳走」となる。せっかく、「すかなごっそ」という言葉が生まれ拡散しているならば、後者の解釈を使って、農産品や水産品のみならず、パンやプリン、ケーキ、カレー、ハンバーガーなども含め、横須賀産のすべての食品に応用できる。余計なお世話だが、私が横須賀市民ならそう進言する、あの小僧にも。

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衣笠山公園内にある衣笠神社

 国道134号線を北上し、「武駐屯地」前にある渋滞の「名所」である林交差点を右折し、衣笠方向に向かった。目的地は衣笠山公園だ。この公園は桜の名所として人気が高いが、それ以外としては近隣に衣笠城跡があるくらいだろうか。

 衣笠山公園を訪れるのは2回目だ。1回目は学校の遠足でここを訪れたという記憶しかない。小中学校のどちらかだろうがそれも分からない。小中学校の同級生に会うことがあるので衣笠山遠足のことを何度か尋ねたが、誰も記憶がなかった。府中市からわざわざ遠足で行くような場所ではない。隣の衣笠城址であれば「三浦一族の本城」があったところなので、日本史には少し出てくるだろうが、小中学生レベルの話ではないはずだ。しかし、衣笠の地名は私にとっては極めて身近なもので、衣笠インターは三浦半島へ出かける場合は必ずといっていいほど使うし、渋滞で有名な衣笠十字路ではいつも苦虫を噛み潰しながら混雑に耐えている。この衣笠の地名に触れるたび、ここへは遠足できたということを思い出す。だが、それがいつだったかはまったく思い出せない。

 2回目?であるが、今回は自分の車で公園の駐車場まで上がった。とても細い道だ。こんな道を大型バスが通れるはずもなかった。でも、遠足なのでバス以外で行くはずもなかった。ふもとでバスを降り、山道を登った可能性はあるが、そんな苦労をした記憶もない。

 駐車場脇には衣笠神社があった。14世紀に三浦氏が信州の諏訪神社勧進して創建したそうだが、今の形になったのは17世紀、衣笠村の人々が農漁業の守護神とし尊崇するようになってかららしい。

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笠神社狛犬はすべて目が赤い

 建物自体はいかにも古い神社といった趣で特筆すべきものはなかった。しかし、写真の狛犬が意外だった。写真のものは大鳥居をくぐったすぐのところにあるものだが、境内には小さなものを含め、何対もの狛犬があったが、そのすべての目が赤く塗られていた。写真からも分かるように、この狛犬自体は新しく作られたものではなく、それなりの年季が入っている。目には赤い石が埋められているわけではなく、いかにもペンキで着色したということがすぐにわかるものだった。他の狛犬の目も同様で、赤く塗ること、そのことのみに意義があり、美しく丁寧に塗るという主義はまったく感じられなかった。

 周囲には誰もいないので目を赤くする理由を尋ねることはできなかった。そこでスマホでこの神社の由緒などを調べたのだが、赤目の理由は記してはいなかった。別の項にここを訪ねた人のブログなどがあったのでそれを読んでみたが、やはり多くの人が赤目について触れ、その理由を知りたがっているようだったが、今のところ、その理由を明らかにした人はいないようだった。

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衣笠山の山頂広場にあった桜の木

 衣笠山の山頂に向かった。この道では何人かの人に出会ったが、いずれもハイカーではなく、山道をトレーニングに使っている人ばかりだった。山頂には展望台があった。が、周囲の樹木は背が高く、この時期は枝葉は生い茂っているので、景観はよくなかった。説明書きには三浦半島が一望できるとあったが、ほとんどは樹木が立ちはだかっていて、一望ではなく0.1望といった感じだった。

 桜の名所なので広場には多く植えられていたが、写真のものには「大介桜」の木札が付けられていた。これは衣笠城合戦で畠山重忠に敗れた 三浦義明(仮名大介)に由来して名付けられたものだろう。この公園の桜は日露戦争の慰霊のために植えられ始めたらしいので、古いものは樹齢は110年以上ある。ソメイヨシノの寿命は60年説が有力だが、実際には130年のものもあり100年以上はざらのようだ。この大介桜はここでは一番古株らしいので、最初期に植えられたものであるとすれば、現在112歳となる。頑張って生き続けてほしいものだ。

 それにしても、衣笠山遠足の記憶は蘇ってこなかった。ただし、次に湘南の海に立ち寄ったということは思い出した。ただ、それだけ。

再び、西海岸を訪ね歩く

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佐島の丘から小田和湾を望む

 再び海に向かった。県道を西に進み林交差点に出て右折し国道134号線を葉山方向に向かった。左手には自衛隊の駐屯地や市民病院などがあり、それを過ぎると「佐島入口交差点」に出る。これを左折し海に向かった。佐島は半島状に西に突き出たところにあり、小田和湾を北から抱いている。この佐島にも高台があり、三浦半島の起伏の激しさを感じさせる。

 私が佐島によく通ったのは堤防釣りをするためで、佐島マリーナから南東に伸びる堤防が釣りのポイントだった。マリーナからはここに行くことができないので、佐島漁港から渡船を使って渡るのだ。この渡船業を営む店が佐島入口交差点に近い場所にあるため、佐島から北からではなく南から入るのが便利で、いつも横浜横須賀道路の衣笠インターから林交差点に進みここを右折して北へ進んだ。つまり今回、衣笠山公園から佐島に向かっているのと同じルートなのだった。

 しかし、ここによく通っていた20年ほど前とは決定的に変化した点があった。何もなかった高台がすっかり開発され、「湘南佐島なぎさの丘」として綺麗な住宅が立ち並んでいたのだ。住宅が造られ始めたのは2006年ころで、いまでも土地の整備が進んでいる。一区画は200~300平米あり、かなりゆったりとした敷地の中に最新の建物が並んでいる。思わず価格を調べてしまった。完成価格で3000~4000万円が大半だ。これが高いのかリーズナブルなのかは不明だが、東京や横浜方面に通勤する人には不向きかもしれない。なにしろ駅までが遠いのだ。

 横須賀市東京湾側の開発が圧倒的に進んでいるのは交通の便が良いからだ。京浜急行が海岸線近くを浦賀三崎口まで走っているし、高台近くであっても横須賀線が通っている。一方、西海岸側には鉄道の便はなく、ここ佐島からでは横須賀線衣笠駅京急逗子線新逗子駅まで出なければならない。しかも前者には衣笠十字路という難所が控えているので、朝夕のラッシュ時は身動きが取れない。開発業者はアクセス方法としてバスにて新逗子駅まで28分と表記しているが、このルートも葉山大道交差点や長柄交差点という準難所があるので、ラッシュ時は時間計算ができない。

 不動産会社もその点は了解済みらしく、余裕のあるリタイア組の移転先か富裕層のセカンドハウス的なものと位置付けているようだ。そうであれば、アクセスの不便さはあまり苦にならず、ここの立地条件は大きくプラスに働くことになる。景観は相当に良く、空気も海も澄んでいるので快適な生活が送れる。車で移動すれば新鮮な農産物や水産物が近いところで手に入り、少し足を伸ばせば横須賀や横浜の市街地にも、葉山、鎌倉、江ノ島といった観光地にも出かけられる。それでいて自宅では静かな暮らしを送ることができる。もっとも、こうした生活ができるのは恵まれた少数者だけであろうが。

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風光明媚な佐島港

 佐島港は横須賀市の漁港の拠点的存在だ。写真は小型船舶の係留場だが、表側には中型の漁船が並んでいる。道路沿いには水産品を扱う商店が立ち並び、結構な賑わいを見せている。市場をのぞくと「大楠漁協」の名前が目立つ。漁港名は佐島であっても 漁協名は大楠だからだ。地域名としての大楠は今はなく、先に紹介した大楠山や、小学校、中学校、高等学校の名として残っている。1943年、横須賀市編入される前は三浦郡大楠町が存在していたからである。

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市場の前にある突堤では釣りが可能

 近年では漁港では釣り禁止措置が取られている場所が多いが、ここは現在でも釣りは可能で、仕事の邪魔にならない限り車の乗り入れも黙認されている。この日は5名の釣り人が竿を出していた。釣果はさほど芳しくないようだったが、皆、それなりに楽しそうだった。この港は遊漁船の基地にもなっているので、釣り人には寛大なのかもしれない。

 写真の右手に見えるのが「佐島マリーナ」で、正面に見えるのが、私が以前によく渡っていた佐島沖堤である。佐島マリーナにはプレジャーボートの係留施設のほか、ホテルやレストランが併設されている。私は船に弱いため、釣り以外では船には乗りたくないのでこうした施設は無縁の存在だ。以前、この辺りはよくウロチョロしていたので、同じ海好きでも釣り人(とくに磯釣り師)とヨットマンとの佇まいの違いを実感させられた。前者は地を這うような、後者は天を遊弋するような世界に生きていると思えた。私の場合、地を這うというより、岩場に這いつくばる生活だったし今も似たようなものだ。

 佐島マリーナのすぐ横に天神島と笠島があり、前者には天神島臨海自然教育園がある。島とはいえ陸とは地続きのようなもので天神橋を渡ればすぐのところにある。今回は久しぶりに散策しようと思ったのだが、あいにくこの日(火曜日)は休園(月曜日が休園、ただし月曜日が祝日の場合は火曜日が休み)していて渡ることができなかった。なお、この島はハマユウの北限地とされている。

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敷居が高い芦名マリーナ

 写真のマリーナは佐島マリーナのすぐ北側にある。かつては芦名マリーナと呼ばれていたが、現在は「湘南サニーサイドマリーナ」が正式名称だ。というより、2001年に芦名マリーナが買収されたのが名称変更の理由だ。写真のようにおしゃれな建物が並び、一見さんお断りといった風情で、一介の老釣り師が立ち入れる場所ではなさそうだ。実際にはレンタル事業もおこなっているので私のような極貧生活者でものぞくぐらいはできるだろうが、空気が私の普段、吸っているものと大きく違うようなので、遠くから眺めるだけにした。

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運慶の真作が5体ある浄楽寺

 海沿いの道から再び国道134号線に戻った。国道はまだ少し内陸を走っていて、秋谷海岸から葉山町にいたるところから海岸を左に臨みながら北上する。

 佐島から国道に出たすぐのところに「浄楽寺」がある。別伝もあるが、1189年、鎌倉幕府初代侍別当であった和田義盛が七阿弥陀堂のひとつとして造営したとされている。この寺は2つの点で有名なので少しだけ寄ってみた。写真からわかるようにさほど大きくはなく、屋根瓦の何枚かは台風15号の影響ではがれており、本堂前には近づくことができなかった。

 この寺でよく知られていることのひとつは、東大寺金剛力士像の制作などで著名な運慶の作品が5体も所蔵されていることだ。運慶の真作とされているのは31体なので、ひとつの寺に5体あるというのはとてもすごいことだろう。運慶は奈良の興福寺の再興に尽力していたが、1186年に北条時政の依頼により静岡の韮山にある願成就院において阿弥陀如来像などを造り、そして89年に和田義盛の依頼によって浄楽寺の阿弥陀三尊像などを作成している。その後は奈良に戻り東大寺の再興に尽力している。運慶の作品は浄楽寺本堂裏の収納庫に安置されているが、いつでも拝観できるわけではない。春と秋の御開帳の際か、一週間前までに予約をしたものに限られるそうだ。なお、収納庫には北条政子が献納したと伝えられている銅製の懸仏も納められている。

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前島密の胸像。前島の墓は浄楽寺にある

 もうひとつは、近代郵便制度の父といわれる前島密の墓がこの浄楽寺にあるということだ。前島密の名を私が知ったのは、小学生の頃に切手収集をおこなっていたことによる。1円切手の肖像が前島だったからである。最初は名前が読めなかった。「蜜」を「ひそか」と読めるようになったのは切手収集という趣味のお陰だ。「趣味は人生を救う」のだろう。前島の胸像は郵便ポストになっており、ポスト部分に「郵便は世界を結ぶ」とある。この「郵便」も「切手」も「葉書」も前島が定めたものだ。

 前島は新潟出身だが、晩年は浄楽寺の敷地内に「如々(じょじょ)山荘」を造りここで暮らしていたそうだ。焼き肉を焼いていたかどうかは不明だが、多分、そういうことはなかっただろう。なお、前島夫妻の墓は浄楽寺の収納庫奥の墓地にある。

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よく整備された前田川遊歩道

 前田川は大楠山の沢に源を発し、後出する秋谷海岸に流れ込む。全長3.4キロほどの短い川だが、そのうちの1.4キロにわたって遊歩道が整備されている。国道134号線から少し入ったところにある「お国橋」から遊歩道が整備され、ところどころに板張りの道や飛び石が並び、とても歩きやすい道になっている。道の途中からは大楠山の登山道があり、そのまま源流部に進むか大楠山に登るかの分岐点となっている。ただし、9月20日現在、源流部方向に進む遊歩道は崖崩れで通行不能となっているようだ。前田川の流れはもう少し澄んでいるはずなのに、水は少し白濁し、川底に泥が堆積しているのはこの崖崩れの影響だろう。

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かつては釣り人で大賑わいだった秋谷港堤防

 秋谷港に出た。ここに前田川が流れ込むため海水が白濁している。通常は透明度がもう少し高いのだが。漁港はこの左奥あり、写真の突堤がかつて横須賀を代表する堤防釣り場だった場所だ。かつてはどの場所でも釣りができたが、現在は大幅に制限され、写真の突堤の先端部の沖向きだけとなった。しかも午前7時から午後3時のみと時間制限され、さらに漁協の都合で全面禁止になる日もあるそうだ。私が訪れたのは火曜日で、この火曜日は港内に入ることすら禁じられている。

 こうした制限が課せられたのは釣り人側の背信行為だった。危険な消波ブロックに上がって転落事故を起こす。こうなると漁は中断され、漁業関係者は捜索作業に駆り出される。ゴミは捨て放題、堤防上には臭い釣り餌を撒き散らしたまま、係留されている漁船に悪戯をするなどは当たり前だった。漁港内には車を止め放題で作業の邪魔をしても平気だった。こうした悪徳行為が重なったため、漁協側は大幅な制限に出たのだ。当然のことだ。秋は回遊魚の季節で、本来ならばカツオやイナダ、大サバなどがこの堤防では釣れ盛るのだ。自業自得とは、この現在の秋谷港堤防の空間を言うのだろう。

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秋谷港から立石公園まで広がる秋谷海岸

 秋谷港と北側に見える立石公園をつなぐのが秋谷海岸だ。この海岸と国道とは間が少しあるので、その狭い土地に民家が林立し、細い路地が入り組んでそれらを結んでる。私はこの道が好きで以前はよく徘徊していたのだが、今回は海岸の小径を使って立石公園に向かった。右手の丘は湘南国際村につながる子安の丘で、その向こうにあるのが葉山牛で名高い葉山の丘である。その左に突き出ているのが長者ヶ崎で、今回の小さな旅の終点である。

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高さ12m周囲30mの立石

 安藤広重が「相州三浦秋屋の里」と題して富士山をはるかに望む風景画を残したことでも知られる奇岩、立石は岸周辺が小さな公園となっており、あまり広くはないが無料の駐車場がある。あいにく、この日は湿気がやや多いせいか晴れていたが視界は良くなく、伊豆半島の姿もうっすらと見えるばかりで、肝心の富士山は姿を現さなかった。それでも、この立石を見るだけでも価値を感じるのか、それとも駐車場横にあるお洒落なレストランが人気が高いためにそこに訪れる人が多いためか、駐車場は順番待ちの車が列を作っていた。

 立石は高さ12m、周囲が30mの奇岩で、日本各地にこうした立ち姿の岩が残っている。そのほとんどはマグマの貫入が造った柱状のものが侵食作用によって残ったことによるものが多い(和歌山県串本の橋杭岩がその典型)が、この立石はそれとは異なり、海中で起きた火砕流が堆積したものが侵食作用で削られてできたものらしい。これと同等のものは千葉県の鴨川漁港横にある荒島にも見られ、そちらはまだお椀状の島として残っている。が、将来は侵食作用が進み立石のようになるだろう。もっとも、その頃には立石は消え、人類もまた消えているだろうが。

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釣り場としても知られる梵天の鼻

 立石公園から西に伸びるのが「梵天の鼻」と呼ばれる岩場で、写真の場所のほか、右側にももうひとつ鼻が伸びている。岩場の高さはあまりないので波の高い日や満潮時には危険だが、ここは磯釣りの好場所として知られている。写真にも先端部で竿を出している釣り師の姿がある。私も一回だけここで釣りをしたことがあるが、小さなメジナが多数釣れた。なお、ここも立石と同時期に堆積した凝灰岩によって成立したと考えられている。

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湘南国際村から大楠山を望む

 先に「佐島の丘」を紹介したが、この湘南国際村はその先駆け的な存在だ。ただここは規模がとても大きく、三浦丘陵に大きな爪痕を残している。私の好きな作家は湘南の景色をこよなく愛しているのだが、この開発によって丘陵地帯が大きく削り取られ、その上に巨大な人工物を築き、なおかつその計画が失敗に帰していることを指し「人類の汚点」とまで非難していた。

 1994年に造られたこの人工村は葉山町横須賀市にまたがる丘陵地帯を削り190haにも及ぶ広大な土地開発をおこなった。その名の通り国際的視野に立った学術研究、人材育成、技術交流、文化交流を掲げているが、そのほとんどが計画通りには進まず、赤字続きで計画の多くはとん挫し、今では森の再生事業をおこなっている始末だ。

 住宅地は結構広がっているので、雄大な景観を求めて移り住んだ裕福な人がいるのだろう。不動産会社のサイトをのぞくと中古住宅が売り出されていた。築23年で敷地240平米のものは3000万円台の後半で、築19年で敷地が600~800平米の物件では1億6800万円というのが数軒あった。JR逗子駅行きのバスは一時間に1,2本程度。かなりの高台にあることから自家用車での移動は必至だ。

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長者ヶ崎の横須賀市

 長者ヶ崎は相模湾に400mほど突き出た岬で、この南側が横須賀市、北側が葉山町となる。南からやってきた葉山層群の上に積もった逗子層が乗った地層がたまたまここだけ侵食されずに残って岬を形成している。基本的には泥岩層でここだけが周囲より硬かったために残ったのかもしれない。かつては海岸線を歩けたが、現在は崩落が続いているので先端方向へは行くことができない。先端部に島があるが干潮時にはかろうじて歩いて渡ることができた。以前のことである。

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長者ヶ崎の葉山側。ここは有名な海水浴場だ

 長者ヶ崎の北側は葉山町になるので、ここは横須賀ではないが、あえて触れておきたい。18歳になってまもなく、私がはじめて海釣りを体験した場所だからである。

 釣り好きな友人がどうしても海に行きたいと私に乞うてきた。私が自動車の免許を取得したからである。川釣りの道具は所有していたが海用は持っていなかった。一方、友人はその兄が釣り好きだったのでそれを借りる約束を取り付けたらしい。もう一人も同行することになり、中学校時代に三馬鹿と教師や同級生から言われていた3人で三浦半島に向かった。今のようにナビはまったくないので道路地図を頼りに道を進んだ。釣り場は決めていなかった。というより、3人とも海釣りは初めてなので、どこを釣り場にして良いか分からなかったのだ。人生、行き当たりばったり。これは昔も今も不変だ。

 写真の長者ヶ崎が見え、その付け根に駐車場があった(今もある)ので、そこへ車を止めた。3人は磯釣りをやりたかった。が、その前にリールの使い方を練習せねばならなかった。そこでまず砂浜でリールの使い方を練習し、それから長者ヶ崎の岩場で磯釣りをしようということになった。

 今の道具とは異なり、使い方は結構複雑で、仕掛けは前になかなか飛ばなかった。糸は絡み、投げる練習よりもトラブル解決の方に時間がかかった。結局、何も釣れずに別の場所を探すことにした。リールというものを使わずに釣りができるということなら堤防しかないと考え、しかし、三浦半島の地理は皆目分からなかった。このため、相模湾側はあきらめ、東京湾側に向かうことにした。東京湾側なら堤防はたくさんあるだろうと考えたからだ。

 逗子まで戻り、そこから半島を横断して東に向かった。あれこれ探しているうちにたどり着いたのが野島周辺だった。そこでは竿先に糸を結び、リールを使わずに釣りができた。小さいながらカラフルな魚が数多く釣れた。今でこそ野島周辺は私にとって庭みたいなところだが、どこで竿を出したのかは不明だ。景色には覚えがある。しかし、それがどの辺りかはまったく分からない。野島周辺は造成が進んでいるので半世紀前の地形は残っていないのかもしれない。いや、記憶違いかも。

 記憶はまったくあてにならない。夢が勝手に刷り込まれたのかもしれない。写真や映像が自分の見た景色と記憶されているのかもしれない。今浮かぶ過去の映像は今、勝手に生み出しているものに過ぎないのかもしれない。そうであるなら、私は今しか生きていないのかもしれない。今は今として認識したときはすでに過去になる。となれば、私は今、生きていないのかもしれない。 

〔21〕これっきりですか?ここは横須賀

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浦賀港の渡し舟

横須賀には「軍港」と「ヨコスカ」以外の顔もたくさんある

 はるか以前に、横浜市金沢区に少しの間だが住んだことがある。金沢区のすぐ南側は横須賀市で、かつ三浦半島へは取材、磯や堤防釣りでしばしば出かけていたため、横浜市民でありながら、横浜よりは横須賀のほうが身近な存在だった。先の「ヨーコ」の項では横須賀市の一面を紹介したが、あのときのヨコスカは私がよく知っている横須賀とは少し異なる有様をあえて取り上げた。横須賀市街をうろつくと「軍港」とアメリカ化した「ヨコスカ」という生活様式が眼前に迫ってくるが、それらはさほど、私の関心を惹きつけなかった。もちろん、米軍や自衛隊の基地、首相官邸で結婚記者会見をした間抜けな代議士の存在について、私は否定的な意見を有している。しかし、これに類似したことは何も横須賀だけに限ったことではなく、日本全体を覆う「宿痾(しゅくあ)」ともいうべき事柄なので、ことさら横須賀の項で取り上げる必要性をとくに考えてはいない。それより、「軍港」でも「海軍カレー」でも「ネイビーバーガー」でも「小泉」でも「ドブ板」でもない、私がより好ましいと思ってきた横須賀の表情を取り上げてみたいと思い今回、改めてその地を訪ねてみた。

 横須賀市はかなり長い海岸線を持つ。東京湾側はもちろんのこと、相模湾側にも横須賀市は面しているので、「海の町」であることは事実だ。というより、横須賀のいう名前自体が「横に長い砂浜」を意味しているので、これは当然のことかもしれない。千葉県の鴨川市には「横渚(よこすか)」という地名や交差点名がある。東京方面から鴨川市へ車で出掛ける人であれば、多くの場合、「鴨川道路」を南下して鴨川市街を目指す。この道は外房を走る国道128号線に突き当たるが、その周辺が鴨川市の中心部の横渚で、交差点名も横渚である。お目当て?の「鴨川シーワールド」は前原横渚海岸にある。そこにも、横に長い砂浜が広がっている。

 福島県には須賀川市がある。この須賀川は「中通り」にあり、すぐ北側は郡山市だ。つまり、ここは内陸なので海には面していない。しかし、市内には東北を代表する一級河川である阿武隈川が流れている。ここには大河川が造った広く長い砂(小石?)場があったので「須賀」と名付けられたのだろう。静岡県掛川市には「遠州砂丘」と呼ばれる長大な砂浜海岸がある。ここは「大須賀海岸」と名付けられているが、かつては横須賀といわれ、そこには「横須賀藩」があったし、「横須賀城跡」が残っている。

 このように、横須賀は神奈川県の「専売特許」ではなく、長い砂浜を有する場所ではよく使われている地名なのだ。それはちょうど、旧国府があった場所はどこでも「府中」と呼ばれていたのと同じごとく、にだ。

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馬堀海岸からはショッピングモールが林立する横須賀平成町がよく見える

馬堀海岸と走水

 今回の小さな旅は「馬堀海岸」から始まった。長い間、「横浜横須賀道路(通称横横道路)」は佐原ICまでだったが、2009年に馬堀海岸ICまで延伸された。この横横道路は国道16号線のバイパスという位置付けで、北側は無料区間である「保土ヶ谷バイパス」につながっている。ところで、国道16号線は東京環状道路なのだが、横須賀の観音崎と対岸の千葉県富津市との間は未通であり、完全には環状になっていない。この間には「浦賀水道」があり莫大な建設費が必要なため、工事は永遠におこなわれないだろうと考えられるが、将来、地元出身の代議士が首相になった場合はこの限りではないかもしれない。景気対策の美名のもとに。

 この馬堀海岸は、私がよくこの辺りを訪れていたときには堤壁と消波ブロックだけの海岸線だったが、現在では広い幅を有する堤防が設けられ、その上には遊歩道が整備された。横須賀の海岸線は、一番北側の「追浜(おっぱま)」付近は工場・倉庫街、その南は自衛隊・米軍基地や施設、市役所以東は平成埋立地に造られた大型ショッピングモール群となり、自然海岸線はまったく残っていないが、その東端にある大津港以東は、堤防・消波ブロックに囲まれていたにせよ、かつてはここに横須賀=長い砂浜があったことを思い起こさせた。それが、この海岸線も綺麗に整備されてしまったことで、人工海岸線は馬堀海岸まで延び、写真のように、この東端だけがかつての姿を残している。

 もっとも、整備される以前の海岸線も実は埋立後のもので、元々は砂浜海岸だったのであり、現在、国道16号線が走っている場所は海の上か、砂浜の波打ち際だったと考えられる。したがって、写真の岩場の東側こそが元来の海岸線の始点であると言えなくもない。このことは、グーグルマップの航空写真図を見るとよくわかる。京浜急行馬堀海岸駅の北側に広がる住宅地は、明らかに埋立地上に造られたという様相が見てとれる。

 写真の辺りの場所からは三浦丘陵が海岸線まで迫っていて、それまで埋立地の平坦な場所を走っていた国道16号線は、明らかに起伏が感じられる道になり、カーブもきつくなる。南側の丘陵上には防衛大学校があり、カーブの先には旗山崎という岬がある。その岬に抱かれているのが走水港だ。

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遊漁船や漁師船の基地である走水港。向かいに見えるのが旗山崎

 この港の所在地は潮がよく動くし、海底は砂地混じりの岩礁帯なのでクロダイ釣りには絶好のポイントと考えられるのだが、かなり前から、というより私がこの場所を知ったときにはすでに「釣り禁止」になっていた。職漁師船の重要な基地なので、釣り人には荒らされたくはないと以前から考えていたのだろう。残念だが、それは正しい判断だったと思える。

 「走水」の地名は、この場所からは地下水が豊富に出たことに由来するらしい。この辺りの地質は、古い逗子層(鎌倉、逗子、三浦半島北部などの地表)の上に新しい横須賀層が乗っている状態である。この横須賀層は上部が礫層で下部が砂泥層のため、この間に水がたまりやすい。それで湧水が多いのだと考えられている。実際、明治初期にフランス人技師のヴェルニーはこの湧水を横須賀製鉄所の用水として使うため、レンガ造り貯水池などを残している。現在も水は湧いており、「ヴェルニーの水」(走水水源地)として地元の人などに利用されている。

 一方、『記紀』には、日本武尊が相模から上総に渡る際、「こんな小さな海など一跳だ」といって神の怒りをかったために海が荒れ、それを鎮めるために弟橘媛が命を投げ打って入水したことで渡海できたという故事から、「走水」という名が付けられたという説もある。

 この走水と対岸にある富津岬との間は東京湾ではもっとも狭い場所なので、当然のごとくこの辺りの潮はとても速く動く。それゆえに「走水」と名付けられたという話を聞いたことがある。私自身はこの説がもっとも有力だと思っているのだが。

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この神社は日本武尊弟橘媛命を祭神としている

 しかし、走水神社の説明によると、弟橘媛命の入水により風も波も穏やかになり、船は走るように進んで無事に上総国に着いたことから走水と呼ばれるようになった、とある。つまり、船が水の上をスイスイと走ったから「走水」と言われるようになったと考えているようだ。ここでは「入水」そのものではなく、入水の結果を強調しているのだ。もっとも、由来を『記紀』から採っている点には変わりない。

 上記の三説のどれが正しいのかはわからない。第二説では『記紀』の記述を取り上げて説明しているので、このあたりがもっとも適切な解釈ように思える。が、しかし、「馬堀」の語源を調べると、第一説が妥当であるとも思えるのだ。

 「馬堀」の語源は、主なものとしては3つある。ひとつは、この辺りには馬が多く放牧されていたというもの。二つめは、丘陵(防衛大がある辺り)から海岸線を眺めると「堀」のように見えるからというもの。三つめは、馬が足で地面を掘ったところ、そこから水が大量に湧き出てきたことからというもの。ひとつめは問題外として、二つめはかつての海岸線を想像すると考えられなくもない。前述のように馬堀海岸は埋立てられて現在は直線的な海岸線になっているが、丘陵のふもとのラインは結構、エグれた曲線になっている。名付けられた時期は当然、埋立て前だろうからこの曲線を「堀」に見立てることは可能だ。しかし、かつては砂浜だったらしいので、そうすると「堀」とは考えない蓋然性は高い。なおこの説の場合、「まぼり」の「ま」は「馬」ではなく「真」であったとするようだ。「真」にはとくに意味はなく、語調を整えるときに語頭に置かれる場合が多いので、ここでは問題にはならない。

 三つめの「馬が掘った」というのはかなり説得力がある。実際、この地の言い伝えには、上総の暴れ馬が浦賀水道を渡ってこの地に泳ぎ着き、喉が渇いたので地面を掘ったところ清水が湧き出た。それを飲んだ馬は駿馬になり戦で大活躍したというものがあるそうだ。この地には馬頭観音があり、「蹄(ひづめ)の井跡」の碑があり、名馬「池月」の像まである。これだけなら単なる伝承で終わってしまうが、この馬堀の隣にあるのが走水で、先述のように「ヴェルニーの水」が現在でも湧き出しているのである。この説を採れば、「馬堀」も「走水」もその語源は一挙に判明する。だからどうした、と言われると返す言葉は何も浮かばないのだが。

観音崎公園

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浦賀水道の航行を見守る観音埼灯台

 横須賀市で、もっとも東側に突き出た場所が観音崎だ。ここは東京湾の入口にあたるので、航海者にはとても重要な場所となる。浦賀水道東京湾ではもっとも狭く、かつ潮が速い場所なので、大型船舶はここを通過するときは航路幅が制限(右側通行)され、速度も12ノット以下に落とさなくてはならない。以前に何度も述べたように、私は東海汽船を使ってよく伊豆諸島へ磯釣りに出掛けたが、帰途、浦賀水道に入ると船は減速するので、客室内にいても東京湾内に入ったということがエンジン音で分かる。そんな危険個所に観音崎はあるので、高台にある観音埼灯台が船の航行の安全を見守っている。

 観音埼灯台は日本で最初の洋式灯台として1869年に完成している。設計者は走水のところでも挙げたヴェルニーで、レンガ造りの四角な灯台だった。ちなみに、ヴェルニーは千葉県の野島埼灯台や神奈川県の城ケ島灯台なども設計している。いずれの灯台関東大震災などによって倒壊し、写真の観音埼灯台は3代目である。

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観音崎の岩場。遠浅なので磯釣りには適さない

 観音崎一帯は公園として整備され、横須賀美術館観音崎自然博物館、花の広場、レストランなどがある。また、高台一帯には遊歩道も多く、江戸末期に造られた砲台の跡などを見学できる。海岸線にも遊歩道があり、砂浜や岩場に降りることができる。撮影日は真夏日だったので駐車場近くの砂浜では水遊びを楽しむ人々が多く見られたが、遊歩道を少し歩いたところの浜は人影は少なく、写真のように「プライベートビーチ」状態のところもあった。

 岩場が多いので磯釣りでも楽しみたいところだが、周辺の海は遠浅なのでこの手の釣りには不向きな場所だ。磯遊びには適するかもしれないが、何度も述べるようにここ一帯はとくに潮が速いところなので、入江の外に出るのはとても危険だ。のんびりと海にでも浸かりながら、浦賀水道を航行する大型船舶の行き来を眺めるのには最適な場所だろう。

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鴨居港の高台にある能満寺境内には会津藩士の墓がある

 観音崎から浦賀港に移動する途中、鴨居港の高台にある能満寺に「会津藩士の墓」があることを思い出したので立ち寄ってみることにした。20年以上も前になるが、この辺りにはよく取材に来ていたので、細かな道まで覚えているはずだった。が、釣り場としても有名だった「かもめ団地」付近の景観がすっかり変わってしまったため、寺のある場所を失念してしまい、地図で再確認しなければならなかった。ボケはかなり進行しているようだ。

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能満寺から鴨居港を望む

 以前、私がこの高台に来るようになったのは、写真のような景色が望めたからだ。鴨居港は走水港同様、釣り禁止場所だったので、港内をのぞくだけだったが、たまたま山の方を見たとき、「あそこからなら良い景色に出会えるかも」と考えたのが最初だった。折角だからと寺の境内を散策したとき「会津藩士の墓」を見つけたのだった。はじめは浦賀会津藩との結びつきが不明だったが、調べてみると、江戸時代の後期に一時、会津藩観音崎周辺の防衛に当たっていたということが分かった。そのため、走水や鴨居の寺には「会津藩士の墓」があるのだということを理解した。

浦賀港を訪ねる

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浦賀湾は幅が狭いが奥行きがあり、港には絶好のロケーションだ

 観音崎の南西側すぐのところに浦賀湾がある。奥深い入り江なので、港にするには絶好の地形である。江戸幕府は当初、江戸へ出入りする船舶のチェックは伊豆の下田でおこなっていたが、東北地方からの物資を運び込む東廻り航路が盛んになったことなどの理由もあり、1720年、下田奉行所に代わって浦賀奉行所が開設され、以来、浦賀は交易活動の要衝となった。
 19世紀になると異国船の姿が目立つようになったので、浦賀奉行所は交易の管理だけでなく異国船目撃情報の収集もおこなうようになった。そこで、幕府は会津藩白河藩に命じ、会津藩三浦半島側、白河藩は房総半島側から警備をおこなうことになった。会津藩は鴨居と三崎に陣屋を置き、観音崎浦賀湾の出入口にある燈明堂(和式灯台)の背後にある高台に台場(砲台)を築いた。

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和式灯台である燈明堂。観音埼灯台が造られまで東京湾の安全を見守った

 この燈明堂は1648年に建設され、堂内では照明として油を燃やした。当時の建物は崩壊して石垣のみが残っていたが、1989年に復元された。この周辺は公園として整備されている。燈明堂がある燈明崎は、観音崎の岩場よりは水深があるので磯釣り場として一時は結構、人気があった。この日は釣り人の姿は皆無だったが、この岬の周囲には砂浜も数か所あるので、そこでは多くの外国人家族が海水浴を楽しんでいる姿があった。

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御座船をイメージした愛宕丸が活躍する浦賀港の渡し船

 浦賀港は細長い入り江なので、対岸に住む人が反対岸にある病院やスーパーに出掛けるのは結構な遠回りになる。そこで活躍するのが写真の渡し船である。218mの距離を行き来するのだが、地元の住民にとってはとても便利なようで、始まりは1725年ころとされている。つまり、浦賀奉行所ができてすぐのことだ。最初は浦賀や鴨居、久里浜の住民が維持管理していたが、明治に入ってからは東西浦賀の町内会が共同管理し、さらに大正時代には浦賀町の運営になった。1943年に浦賀町は横須賀市と合併したため横須賀市営となり、現在では横須賀市が民間に委託して運営されている。冒頭の写真にあるように、料金は大人・高校生は1回200円だ。

 渡船と聞くと、私の場合はすぐに広島県尾道市のものを思い出す。ここ10年程は出掛けていないけれど、かつては毎年のように尾道を訪れては意味もなく渡船に乗り、尾道水道を行き来した。多い時には1日に5往復したこともある。それだけではなく、夕方や夜にもわざわざ渡船場まで出掛け、帰りを急ぐ人々や自転車、車を乗せた船の灯りを飽きることなく眺めていた。それは映画のシーンのような光景でもあったが、実際、いろいろな映画にその渡船は登場している。見る人たちの旅情をかき立てる風景だからなのだろう。

 「浦賀の渡し」は、そんな尾道の渡船とは比較にならないほど小規模だが、やはり浦賀に来ると、この船のある景色に最低でも30分は見入ってしまう。船の旅は本当に心地良い。時間がゆったりと流れることを実感できるからだ。もっとも、時間が実在するか否かは哲学の永遠のテーマなのだが。

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浦賀港西岸の渡し船乗り場

 渡し船は一艘だけなので、東西どちらの乗り場にいるのかは現場にいかなくては分からない。時刻表はなく、船は此岸にいなくても利用者が乗り場近くにあるブザーを押せば、船はすぐに迎えにきてくれる。もちろん、たった一人の利用でもOKだ。

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船から浦賀湾の出口方向を眺める

 船から湾の出口方向を眺めると、右手に高台が見えるがそのふもとから少しだけ突き出た岬があるのがわかる。それが燈明崎で、その先端部に燈明堂がある。燈明堂ができたのはこの渡し船が開通したときより早い。したがって、夕方にこの船に乗って岬方向を眺めると、燈明堂の灯りが視認できたはずだ。300年近く前にこの渡船を利用した人は、その明かりにどんな想いを託したのだろうか。

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願いが託せる叶神社

 叶神社は浦賀湾の東西にある。どちらも叶神社を名乗っているが、便宜的に東叶神社と西叶神社と呼んで区別している。写真は東叶神社で、西叶より少しだけ規模が大きい。私は西浦賀地区に駐車していたので、渡し船に乗って東浦賀に行き、この神社を少しだけ見学した。

 叶神社は平安時代末期、源氏の再興をを願った京都の文覚上人が応神天皇を祭神として建立したといわれている。これが西叶神社で、建立後、願いが叶って源氏が平家を滅ぼしたので「叶神社」と呼ばれるようになったそうだ。江戸時代に浦賀村が分かれて東浦賀村ができたとき、自分たちにも叶神社が欲しいと思い、勧進して東叶神社が建立されたとのこと。

 最近では、東西叶神社が縁結びの神として人気があるらしい。西叶神社にお参りしてお守りを購入すると2色の勾玉(まがたま)が手に入る。渡し船を使って東叶神社にお参りしてお守りを購入すると2色のお守り袋が手に入る。このお守り袋に勾玉を入れて持っていると良縁に出会えるらしい。つまり、願いが叶う神社という訳とのこだ。話としては極めて単純だが、神社の名前、それに渡し船という「道具立て」が見事である。ここでは、浦賀湾は天の川の役を演じている。さらに燈明堂に灯がともっていたなら、演出度は満点だろう。

 東叶神社の境内には、「勝海舟断食の地」の標柱があった。1860年、日米修好通商条約批准書の交換のため、アメリカの軍艦ポーハタン号とともに太平洋を渡った咸臨丸は浦賀港から出港した。日本人の手で太平洋を渡るのは初めてだったので相当の覚悟が必要だったのだろう。そのため、艦長である勝海舟はこの東叶神社で断食修行をおこなったのだとされている。もっとも、勝は船酔いが酷かったので、断食をして腹をスッキリさせておく必要があったのかも。

ペリー上陸の地、久里浜

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ペリーはこの砂浜に上陸した

 久里浜は平作川が河口部分に造った砂浜海岸で、浦賀湾のすぐ南側にある。南東側に開いた湾なので風にはかなり強い入り江である。平作川の河口付近には開国橋が掛かっており、ここが日本の「鎖国」が終わる端緒を作った場所であることを表示している。

 1853年7月8日(新暦換算)、浦賀沖に現われた4隻の黒船は幕府や人々に衝撃を与えた。浦賀奉行所は与力の中島三郎助を米艦隊旗艦の「サスケハナ」に派遣し、米側の意向はアメリカ合衆国大統領フィルモアの親書を渡すことが目的であることを知った。ペリー側は幕府側の最高位の役人に親書を渡すことを要求したが、幕府側はこれを拒んだ。そこで米側は武装した短艇を出し、浦賀湾の測量を始めた。さらに、短艇ミシシッピ号の護衛の下、江戸の湾内へ侵入するなどの「脅し」をおこなった。それに屈し、老中首座の阿部正弘は親書を受け取ることを決断し、7月14日、ペリー一行は久里浜に上陸した。一行は浦賀奉行所に赴き、親書を渡すとともに「一年後の再来航」を告げた。浦賀を離れた黒船はすぐには引き返さず、江戸が見える横浜の小柴沖(八景島シーパラダイス付近)まで進入し幕府を威嚇したうえで引き揚げた。 

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ペリー公園内にある記念碑

 ペリーが上陸した地である久里浜には「ペリー公園」が整備されている。1901年、日米友好協会が建立した写真の記念碑や、1987年に開館し、昨年にリニューアルされたペリー記念館がある。碑文は伊藤博文の手によるもので、アメリカとの戦争中には敵国の記念碑は屈辱的として引き倒されていたらしいが、戦後にはすぐに復元された。碑文ではペリーを日本開国の恩人と称えている。今では毎年7月にペリー上陸記念式典、久里浜ペリー祭花火大会、開国バザールなどが開催されている。いかにも、激しやすく冷めやすいこの国ならではの一連の動きではある。

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久里浜と金谷とを結ぶ東京湾フェリー

 久里浜といえば、私にとっては「開国の地」以上に「東京湾フェリー」の存在が身近でかつ重要だった。ここしばらくはご無沙汰だが、一時はほぼ毎月のようにこのフェリーを利用していた。1997年にアクアラインができてからは時間的にはそっちのほうが有利になったが、当初は片道4000円だったので、フェリー利用ならば運転からは解放され、のんびりと海の景色を眺めていられるということもあり、まだこちらに優位性があった。が、アクアラインが3000円になるとフェリーの利用回数は少し減り、2009年に800円になるとフェリーの利用はほとんどなくなった。

 久里浜・金谷間は約40分で、料金は片道3990円、往復7100円(5m未満、運転手一人分含む)で、10月からはそれぞれ4100円、7400円となる。運行本数はシーズンにもよるが、基本的には1日12便で、朝夕は1時間に1本といったところ。鴨川や勝浦といった外房に出掛けるときは房総半島を横切って進むためにアクアライン利用が絶対になるが、館山や南房総に出掛けたときは、帰途はフェリーに乗りたくなることがある。また、乗るつもりはまったくなくても金谷港に立ち寄り、フェリーの姿に触れることもある。船の旅はいつでも非日常的な「特別感」があるからだ。

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船を降りても旅はまだ終わらない

 久里浜港に立ち寄ったとき、フェリーの到着を待つために30分ほど港内をうろついた。フェリー港周辺は以前から釣り禁止だったが、漁港の護岸は釣り可で、子供連れや老夫婦がよく車を横付けして竿を出している姿を見かけた。が、今では漁業施設に代わって大型のホームセンターができてしまったため、かつてののんびりとした光景は今はなく、ただ日常化された景色だけが残された。

 フェリーが到着した。平日の日中にも関わらず、降りてくる車の数は想像していたよりも多かった。船を降り、舗装された道路に出た瞬間、人も車も非日常から日常へと移行する。多くの人にとって旅はまだ終わってはいないのだが、旅自体の「質」はここで大きな変化を遂げる。この質的転換を楽しめるのがフェリー利用の醍醐味なのである。

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「くりはま花の国」の入口風景

「くりはま花の国」を散策する

 久里浜のもうひとつの楽しみは「くりはま花の国」の散策だ。久里浜港を見下ろせる高台にあり、その名の通り、四季折々、さまざまの花と接することができる。入園料は無料で、駐車場と園内にある施設の一部が有料となっている。入口は丘のふもとにあるため、移動には結構な体力を使う。一般の公園とは違い、体力を向上させる目的で訪れる人が多いようで、花でも眺めながらのんびり過ごすか、といった雰囲気はない。月曜日以外の10~16時には蒸気機関車型の「フラワートレイン」が運行されているので、苦労せずに丘へ上がりたい人は片道300円で利用できる。ただし、丘の上も起伏は案外激しいので移動は必ずしも楽とはいえない。

 9月はコスモスの季節なので、その開花を楽しみに出掛けたのだが上旬はキバナコスモスばかりで、通常の秋桜は準備中だった。台風15号の影響はかなり大きかっただろうと思われるので、開花状況はウェブサイトで確認するとガッカリ度が少なくて済む。また、駐車場も第一と第二とに分かれており、秋桜目当てならば第一駐車場を利用しないと移動に難儀する。今回は久里浜港の次に立ち寄ったので第二駐車場を利用した。写真はその駐車場から園内に入ったところのもので、ここから長い上り坂が始まる。

 白い花穂を揺らしていたパンパスグラスが陽に輝いていて見ごたえがあった。南米大陸が原産で、草原地帯を「パンパ」と呼ぶことからこの英名が付けられた。標準和名はシロガネヨシというが、その見た目から「お化けススキ」という人も多い。このヨシの周りをコバノランタナペチュニアニチニチソウなどが取り囲み、別にキバナコスモスの一群もあった。

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花の国の高台から久里浜港を望む

 丘を登る途中に展望台がある。久里浜港を一望できる素敵な場所で、ここに来るだけでも坂を上る価値がある。東京湾フェリーがちょうど離岸したところで、適度な場所までバックしてから港を出て、対岸にある房総半島の金谷港を目指す。向かいに見える丘陵は鹿野山やマザー牧場がある場所で、写真にはないが、この右手には鋸山に代表される丘陵があり、そのふもとに金谷港がある。

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久里浜沖にあるアシカ島。かつて、毎週のようにここに通った

 横須賀火力発電所のすぐ沖にある2つの小さな岩礁が通称アシカ島で、灯台のある小さな岩礁が「アシカ島」(右側)、海象観測ステーションのある大きな岩礁が「笠島」(左側)だ。ここへは平作川河口付近から出ている渡船でいく。潮がよく動く場所なので、磯釣りには絶好のポイントで、クロダイメジナ、イシダイが狙える。5~10月はコマセが禁止なので渡らないが、11~4月はクロダイメジナの好期ということもあって、一時は仲間と毎週のように出掛けた。ここで知り合い、その後、磯釣り仲間として伊豆諸島に出掛けるようになった釣り師も何人かいた。私にとって、「磯釣りバカ」への道場的存在だった。 

 手前にあるのが横須賀火力発電所で、かつては東京電力が頭に付いていたが、現在はJERAが付く。東電と中部電力とが50%ずつ出資して作ったエネルギー供給会社だ。現在は新規の発電設備を建設するための整備をおこなっているところで、私がかつてアシカ島に通っていたころの面影はまったくない。アシカ島が混雑するときは、この発電所のすぐ沖にある堤防でも釣りをしたものだったのだが。

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ゴジラは第一作で観音崎沖に出現し、現在は花の国で充電中

 ゴジラは1954年の第一作目に観音崎沖に出現した。そのことから地元では観音崎のたたら浜にゴジラを模したすべり台を作ったところ大人気となった。老朽化して廃されたのち、横須賀市民がゴジラの復活を目指して寄付金集めをおこない、1999年、この花の国の「冒険ランド」で復活を遂げた。高さは9mで、お腹にある階段を上がってしっぽの方に滑り降りる。冒険ランドの遊具施設は現在改修工事がおこなわれているため利用できないが、このゴジラは柵の外にあったので利用は可能かもしれない。中をのぞこうと思ったのだが、改修工事関係者がゴジラの前にいたので、のぞくことができなかった。

 ゴジラの前方には高圧線鉄塔がある。通常であれば鉄塔はこのゴジラに破壊されるのだろうが、他の遊具設備が改修中なので、この日のゴジラは微動だにしなかった。それにしても、ゴジラには鉄塔や高圧線がよく似合う。

津久井から野比へ 

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津久井浜から久里浜方向を望む

 久里浜の南側から三浦市の金田漁港まで長い弓形の砂浜が続く。東から野比海岸、津久井浜、三浦海岸、金田海岸と名付けられている。このうち、前二者が横須賀市に属する。写真は、ちょうど、横須賀市三浦市の境目から撮ったものだ。もちろん、市境は便宜的なものなので、海岸線が分けられていることはない。

 津久井浜や三浦海岸ではウィンドサーフィンを楽しむ人で賑わっていた。津久井浜側よりも三浦海岸側のほうが人数は圧倒的に多かった。海に違いはないので、多分、駐車場が三浦海岸側に圧倒的に多くあるため、単に利便性の違いに過ぎないと思われるが。私にはまったく興味がないので、理由はそれしか思い浮かばなかった。 

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津久井にあった庚申塚

 津久井浜から少し内陸に入ってみた。「三浦富士」の存在が気になったからである。富士があるのは知っていたが、本家の富士のような形の丘はこの一帯では見かけたことがなかったので、今まで見たことのなかった角度から丘陵地帯を望んでみようと考えたからだ。道はどんどん細くなり、しかし、たまにある路肩がやや広いスペースには決まって畑仕事に精を出す農家の軽トラックが止まっていた。ナビではこれ以上先には道がないというところに差し掛かったとき、写真の庚申(こうしん)塚が目に留まった。軽トラが前後から来ないことを確認しつつ、あわてて撮影した。

 あとで分かったことだが、庚申塚の先にある大きな木の向こうの丘が三浦富士のようだ。撮影の際、そちらに向かう細い道があることは目に入ったのだが、軽トラではない私の車では両側をこすりながら走らねばならないと思われたので、それを行くことは断念した。やはり、車の移動では、細かな旅では肝心なところで機動力が発揮できない。

 庚申塔はどこにでも見られる習俗のひとつで、民間信仰の一種と考えられている。庚申とは十干十二支の組み合わせで、庚は金の陽、申も金の陽を表わすため、庚申の日は金気が満ちて人の心が冷酷になりやすいとされたらしい。このため、庚申の日(60日に一日)は禁忌の日とされ、心穏やかに過ごさねばならないと考えられた。こうした戒めがなぜ庚申塔として各地に置かれているのかは不明だが、三浦半島では丘の上に写真のようなまとまった塔が置かれているのをよく目にする。庚申塔が丘にあるので庚申塚とも呼ばれている。そういえば、秩父地方でも何度も目にした。信仰というより習俗と考えれば、深く意味を探る必要はないのかも。挨拶だってひとつの習俗にすぎないのだから。なぜ「おはよう」なのか「さようなら」なのか、考え始めるときりがない。

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思い出が数多くある野比海岸の曲がり角

 野比海岸に来た。ここの海岸線はここからこの角度で見ることに意義を感じている。そんな風に考える人は、おそらく、私以外にはほとんどいないだろうが。

 1988年から94年にかけてフジテレビで計14話、放映されたドラマがある。『季節外れの海岸物語』という作品だ。片岡鶴太郎が主人公で、可愛かずみ田代まさし、渡辺美奈代、古尾谷雅人が脇をかためた。湘南海岸にある喫茶店のマスターである圭介(片岡鶴太郎)が毎回、異なる女性に恋をしてそして失恋するというドラマで、「寅さん」の湘南版であった。『男はつらいよ』と異なるのは、舞台が湘南で、ドラマが展開されるとき、バックにはサザンや松任谷由実の曲が常にといっていいほど流れるという点である。また、鎌倉、逗子、江ノ島、葉山の著名な風景が登場し、湘南の海を知っているものにとっては実に懐かしく感じられる作品だった。

 視聴率はそれほど高くはなかったが、一部には根強い人気があり、一時は何度か再放送された。しかし、今ではまったくおこなわれず、ビデオ化もされていない。まず、サザンやユーミンの作品が多く用いられているので著作権問題がクリアーできないこと、田代が不祥事を連発したこと、可愛や古尾谷が自殺したことなどがソフト化されない理由だ。もっとも、ユーチューブならば今でも見ることができる。

 なぜ、湘南を舞台にした作品が横須賀の野比海岸と関係があるのか。理由はものすごく簡単で、舞台となった喫茶店は、実は本物は野比海岸にあり、海岸が出てくる場面でも野比津久井浜がよく使われていたからだ。江ノ島を背景に片瀬海岸を歩いていても、重要な場面になると野比津久井浜に変転することがしばしばあった。そして、別れゆく女性が車で遠ざかるときは、写真の野比から久里浜に至るコーナーが出てくる。振られた圭介は、久里浜方面に遠ざかる車を見送るのだ。湘南はいつも人と車とで賑わう。ロケは大変だ。その点、野比津久井浜は人影がはるかに少ないので周囲に気兼ねなく撮影ができる。おそらく、そう考えたに相違ない。

 つまり、このドラマは湘南と三浦の両方の海をよく知っていると、話の展開だけでなく撮影場所まで推理できるという楽しみがあった。それゆえ、私にとっては見ごたえのある作品として今でも記憶に残っているし、今もときどき、ユーチューブをのぞいている。

 実に、いい趣味を持っている。これで、いいのだ。

 

〔20〕秩父困民党に学ぶ(2)~蜂起の流れを知る

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困民党軍は音楽寺から市街地へ駆け下った

困民党はコンミューン党である

 困民党は「借金党」「赤貧党」「貧困党」「負債党」などとも言われていたらしいが、やはり「困民党」の名が彼らの運動組織にはもっともふさわしい。困民は困窮民の省略形だろうが、私には「困民」=「コンミューン」に思えてならない。この考え方は研究者や文筆家、日曜歴史家にもよく見られ、困民党は大宮郷(現在の秩父市)で束の間の「無政の郷」(コミューン、コンミューン)を建設したといった表現はかなり多い。これは、彼らが「世直し」だけでなく「世均し(ならし)」をも目指したというところからきているのだろう。実際、前半戦は参謀長、後半戦は総理として戦った信州北相木村の菊池貫平は「拙者らは富者に奪ひて貧者に施し、天下の貧富をして平均ならしめんと欲するものなり」と述べている。

 菊池と一緒に秩父困民党軍に参加した井出為吉(25歳)は、北相木村豪農の息子で、若くして村会議員、戸長、学務委員などを務めてたり、学習会や討論会を組織したりしていた。1970年に井出の生家の土蔵から「仏蘭西法律書」「仏国民法契約編」「仏国革命史」「英国スペンサー社会学」「ボアソナード性法講義」など多くの書物が見つかっており、井出が15,6歳ころからこうした書物をよく読んでいたことが分かった。井出は困民党軍では「軍用金集方」の任についていた。軍が高利貸しや豪農から集めた強借金の受領書には「革命(党)本部」の名があるが、これは井出が書いたものとされている。また、井出は南佐久地方ではもっとも早く自由党に参加しているが、この頃にはすでに自由党本部には何の期待も抱いてはおらず、「自由党ニハ違イナケレドモ、他ニマタ一社ヲ設ケタシト存ジ」と語っている。北相木村といえば長野ではもっとも辺境の地なのだが、こうした場所にも優れた人物は輩出されるものなのだ。というより、優れた人材はどこにでも存在するのだが、あとはその人が誰によって、何によって認められるのかということに過ぎないのだとも言える。

 菊池や井出が困民党軍の理論的リーダーだったとすれと、彼らは1871年、フランスで起きた「パリ・コンミューン」の動きは当然知っており、これを秩父の蜂起軍に活かそうとしたということは当たり前のごとく考えうる。

 パリ・コンミューンは1871年、普仏戦争に敗北したフランスのパリで、2月26日から5月28日の3か月間、プロレタリア独裁自治政府を創った社会主義革命運動である。フランスは基本的には農業国家であるため、資本主義の発展は他の西欧諸国に比してかなり遅れていた。工業も伝統的な手工業が中心で、労働者はまだ社会の中核的存在にはなってはなってはいなかった。

 当時のフランスには大きく分けて3つの運動勢力があった。ひとつはフランス大革命以来の伝統である「ジャコバン的直接行動」をおこなっていた小市民や農民の勢力、ひとつは「財産は剽窃である」として大資本家や金融資本の搾取を批判する「プルードン主義」、ひとつは暴力的過激主義を標榜する「ブランキスト」グループだった。こうした勢力が、「公務の管理を自己のうちに掌握することによって、時局を収拾すべき時がきた」と考えてひとつの流れにまとまり、わずか3か月間とはいえ、コンミューンを成立させたのである。

 パリ・コンミューンにあったこの3つの勢力・思考・行動は秩父困民党軍にも見られる。高岸善吉、坂本宗作、落合寅市の3人は直接説諭請願運動を早くから始め、同時に多くの困窮農民を組織に加えていった。信州から加わった菊池貫平や井出為吉は「世均し」を標榜して富の平等化を図ろうとした。新井周三郎は高利貸し宅を襲ったり、警官隊と闘ったり、あるいは殺人を犯すなどの暴力的行動を果敢に実践した。

 初代総理の田代栄助、副総理の加藤織平、在地オルグを徹底した高岸、坂本(彼は後半からは菊池グループに加わる)、落合などの運動は「自由民権運動」の延長線上に位置付けることができるし、菊池や井出は「社会主義運動」、新井ら過激派グループは「暴力革命運動」と区分して考えることは可能だ。つまり、後の『自由党史』で秩父困民党の運動を「実に一種恐るべき社会主義的性質を帯べるを見る」と自由主義者が批判したことは真っ当な見方なのである。実際、社会主義的方向性を目指していたのだった。また、困民党の蜂起が長年、「秩父暴動」と呼ばれていたことを批判し、民主主義活動家たちの努力で「秩父暴動」が「秩父事件」と言い換えられるようになったが、実際にはかなり暴力的な運動だったのである。前回にも触れたが、1884年10月の段階ですでに「腕力にうったえ、中山道の鉄道破壊、電信機切断、高利貸しの家を破壊して貧民を救う」という意見が出ており、困民党を組織する過程でも「武力行使」は提案されているのである。

 つまり、困民党の運動は社会主義的であり、かつ暴力的である。この限りにおいて、困民党の蜂起は「秩父暴動」という位置付けが正しいのである。政府や自由党、後の民主主義勢力は「暴動」をマイナス面としてとらえているが、マイナスは容易にプラスに転換できるのである。地球磁場が逆転する「チバニアン」のように。

11月1日の動き

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3000人が集結した椋神社境内

 椋神社には1日午後8時に集結する予定だったが、警察の動きがかなり活発に見られたこと、風布村の蜂起が早かったこと、新井周三郎らが金崎村永保社の襲撃をおこなったことなどから、神社への集合時間は前倒しになった。小前耕地に住む神職の宮川津盛宅に泊まった田代栄助も午後4時には神社に到着した。参加者の逮捕後の供述によれば、椋神社に集まった人の数は500~1500人というものが多い。新井周三郎のように3000人と述べているものもある。鎮圧側の責任者ともいうべき鎌田冲太(ちゅうた)警部はその回想録で参加者を3000人余としているので、この3000人が事実に近いようだ。現在では主催者側発表の方が警察発表よりも多いのが通常だが、この時代では主催者側のほうが少なく見積もっているというところが面白い。

 午後7時頃より、田代栄助から「役割表」が発表された。

・総理    田代 栄助  51歳   大宮郷

・副総理   加藤 織平  36歳   石間村

・会計長   井上 伝蔵  30歳   下吉田村

・会計副長  宮川 津盛  56歳   上日野沢村

・参謀長   菊池 貫平  37歳   長野県北相木村

・甲大隊長  新井 周三郎 22歳   西ノ入村

・甲副隊長  大野 苗吉  22歳   風布村

・乙大隊長  飯塚 森蔵  30歳   下吉田村

・乙副隊長  落合 寅市  35歳   下吉田村

・上吉田村小隊長 高岸 善吉 35歳  上吉田村

・上日野沢村小隊長 村竹 茂市 45歳 上日野沢村

・下日野沢村小隊長 新井 紋蔵 31歳 下日野沢村

・軍用金集方 井出 為吉  25歳   長野県北相木村

・小荷駄方  小柏 常次郎 42歳   群馬県上日野村

・伝令使   坂本 宗作  29歳   上吉田村

・伝令使   門平 惣平  31歳   上日野沢村

 など、約70人の幹部が名を連ねた。

 この後、菊池貫平によって、「軍律5か条」が発表された。

第一条 私に金円を略奪する者は斬

第二条 女色を犯す者は斬

第三条 酒宴を為したる者は斬

第四条 私の遺恨を以て放火其の他乱暴を為したる者は斬

第五条 指揮官の命令に違背し私に事を為したる者は斬

 といった、簡潔ながら厳しい規律を参加者に課した。

 組織の役割分担が明示されていること、組織の規律が厳しく定められていることから、秩父困民党軍は一揆的色彩も、一部跳ね上がりの暴徒的色彩もさほど帯びてはおらず、正しい目標と規律、それに暴力装置を身に着けた人民の軍隊と呼ぶのが相応しい。また、参加者は全員が白ハチマキ、白タスキを付けていた。軍の指揮者は羽織、袴の正装で臨んだ。小隊は村ごとに組織され、隊ごとに小旗が用意されていた。

 午後8時ごろ、蜂起軍は二手に分かれて小鹿野町に軍を進めた。田代や新井が率いる甲大隊は下吉田から下小鹿野村に入り小鹿野町へは東から進出した。この間、高利貸し宅を放火した。一方、加藤や飯塚が率いる乙大隊は下吉田から井上耕地に進路を取った。やはりここで高利貸し宅を放火した。その後、巣掛峠を経て西から小鹿野町に侵攻した。小鹿野町では警察分署にある書類を焼き捨てたり署内の破壊をおこなった。また、高利貸し宅を襲い、放火したり打ち壊しをおこなった。なお、放火の際には濡れたムシロを用意し、隣家への類焼を防いだ。

 その後、諏訪神社(現在の小鹿神社)に集まり夜営した。

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小鹿神社の本殿。この神社は「バイク神社」として有名

 小鹿神社(おしかじんじゃ、おがのじんじゃ)には若者の参拝客が多かった。聞けば、小鹿野町はオートバイによる町おこし事業をおこなっており、この神社は「バイク神社」としてツーリングを楽しむ人々には名が通っているそうだ。

 私がこの神社に立ち寄ったのは「安全祈願」をするためではなく、「秩父困民党結集の森」の碑を探すためだった。しかし、境内をあちこち歩いてみたが碑は見つからなかった。案内板も見当たらなかった。参照した資料には「結集の碑」があると書いてあったのだが。小鹿野町にとっても小鹿神社にとっても困民党は「負のレガシー」なので撤去してしまったのかとも考えた。

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結集の森の碑ではなく看板だった

 この神社は国道299号線のバイパスの北側にある。バイパスに面した場所には赤い大鳥居があり、ツーリング客にもすぐに神社の存在が分かるようになっている。その大鳥居の脚の部分に写真の看板があった。碑ではなく看板だったのだ。あらためて資料を確認すると、確かに「秩父困民党結集の森の看板」と記してあった。手入れの行き届いている大鳥居と神社の石柱に対し、このくたびれ果てた看板との対比は、そのまま小鹿野町や小鹿神社が抱いている「バイクで町おこし」と「困民党」との今日的価値の落差を表現しているようだ。

 困民党とは関係がないが、国道299号線について触れないわけにはいかない。日本には魅力的な3ケタ国道が多くあるが、この299号線はその代表的な存在だ。起点は長野県茅野市にあり終点は埼玉県入間市だ。起点こそ上位の152号線と重なるが、山坂道に入ってからは299号線として蓼科高原を通り、麦草峠(標高2127m)を通過すると今度は八千穂高原を佐久市へと下る。「メルヘン街道」と名付けられストレート部分がほとんどないこの道はとてもスリリングで、いかにも運転自慢が好みそうなルートである。もちろん景観も良い。佐久からは武州街道と呼ばれ、やはりカーブがきつく十国峠(標高1351m)越えという難所がある。群馬県上野村に入っても難所は続く。というより、こちらのほうが道は険しい。志賀坂峠(標高780m)を越えてしばらくするとやっと道は落ち着き、小鹿野町の市街地へと進む。

 上野村群馬県ではもっとも人口の少ない村で、かつ居住可能な場所がほとんどないほど山が険しいところだ。1985年8月12日午後6時56分、通称「御巣鷹の尾根」に日航123便は墜落したのである。この事故を切っ掛けに上野村の存在は全国に知られるようになった。私はこの事故以前によく神流川(かんながわ)へ渓流釣りに行っていたので、事故現場付近の自然の苛酷さは認知していた。この事故を知ったことで、私は人生の大転換を図った。それだけに、上野村神流川、国道299号線は今となっても、私には極めて近しい存在なのだ。

 なお、渓流釣り師で哲学者でもある内山節(たかし)も、よく著書の中で、国道299号線や上野村のことを語っている。彼も、神流川での釣りの行き来には299号線を使っているのだ。

 299号線はやがて秩父市内に入り、正丸トンネルを抜けて飯能市に入る。ここもまた曲がりくねった道が続き、飯能市街を抜けてバイパスに入るとやっと道は落ち着くが、そこでまもなく終点となる。つまり、国道299号線は紆余曲折の道なのであって、わずかに正気になるのが小鹿野市のバイパスと飯能から入間へのバイパス部分だけである。ドライブ好きには、実に楽しい道なのである。

11月2日の動き

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小鹿神社前から武甲山方面を望む

 甲乙の大隊以外にも周囲の村への駆り出しに出たものもあった。駆り出しとはまだ参加していない人々に決起を促すもので、風布村の大野苗吉などは「恐れながら、天朝様に敵対するから加勢しろ」と触れ回って村人を動員したのだった。小鹿野集結のときの駆り出しの際には、「徳川の世にするから加勢しろ。出なければ火を付け斬殺する」という脅しを受けたという証言もある。が、これは取り調べの際の証言なので、罪を逃れるための「言い訳」だったかもしれない。

 坂本宗作や高岸善作らは、まだ困民党に人を出していない日尾や藤倉、三山、河原沢といった群馬や長野に近い山奥の集落に赴き、各村の戸長役場を襲って公証割印簿を焼き払い、家々からは火縄銃や刀、軍資金の調達や一戸一人の参加を要求した。この結果、数百人単位の人々を集めている。こうした強制的な駆り出しは、困民党もまた江戸時代の農民一揆の伝統を受け継いでいたと言えるのかもしれない。

 2日の午前6時ころ、困民党軍の本隊は小鹿神社を出発し、大宮郷に向けて軍を進めた。鉄砲隊を先頭に、竹槍隊、抜刀隊、大隊、小隊などが続いた。一方、進軍中にも随時、秩父盆地の最深部にある村々に駆り出し隊を派遣し、中には大滝村まで遠征したものもいた。

 午前11時、困民党軍の先頭部隊は荒川左岸にある長尾根丘陵の小鹿坂峠に達した。この長尾根丘陵一帯は現在、「秩父ミューズパーク」として整備されている。広さは375haにも及ぶ。この公園の北端部分に小鹿坂峠があり、この周辺は「旅立ちの丘」と呼ばれている。これはもちろん、ここから困民党が一気に駆け下り大宮郷秩父市)を制圧したことに由来する、というわけではない。秩父市の影森中学校発の卒業式ソングである『旅立ちの日に』が全国的に有名になったからだろう。この曲は卒業ソングの定番となり、現在では教科書にも載っているらしい。旅立ちの丘からは秩父市街地が一望できるし、武甲山の右手下あたりに影森中学校があるのが確認できるかもしれない。歌詞には「白い光の中に山なみは萌えて」とある。「山なみ」は、秩父の周囲はすべて山なのでどこを示すのかは特定しづらい。「白い光」は、無残にも北側の山肌が石灰岩を産出するために大きく削られた武甲山が発する白い悲鳴を通した光なのかも。たぶん違うだろう。

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秩父札所23番音楽寺

 小鹿坂峠を少し下ったところに秩父札所23番の音楽寺がある。困民党軍はこの辺りにいったん兵を留めた。荒川の武ノ鼻(竹ノ鼻とも)口で警察が指揮する銃を構えた守備隊が配備されているという報が入ったからである。そこで困民党軍は斥候を送り、時機が良ければ2発の砲声を合図とし、一方、本隊は音楽寺の鐘を乱打し、それを号砲として長尾根を一気に下って大宮郷に侵入するという手筈をとった。

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音楽寺から市街地を望む。11月であれば見通しは良いはずだ

  斥候が武ノ鼻を渡ったときには警備隊の姿はなく、見物人が少しいるだけだった。そこで、斥候は鉄砲を2発放った。正午ころだった。この合図を機に音楽寺の鐘は乱打され、蜂起軍は坂を一気に駆け下った。

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乱打された音楽寺の鐘

 鐘楼の横には現在、「お願い 鐘は静かに撞いて下さい」との立札がある。たぶん、困民党を真似て鐘を乱打する観光客がいたのだろう。

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秩父市街地方向に下る小径

 音楽寺の前には市街地方向に下る小径があった。写真のように現在は舗装されているが、おそらく困民党軍はこの道を駆け下ったに違いない。様々な資料を参照したが、いずれもこのときの様子を「鯨波をあげて」とか「鯨波声をあげて」とか「ときの声をあげて」と描写している。

 秩父盆地は狭く、高い山々が四方を取り囲んでいる。それでも、近代化の波が押し寄せる前は、山間の人々も市が立つ日には山を下り他の集落の人々と交流していた。狭い耕地(小集落)に住む人々にも他の耕地との行き来きはかなりあったはずだ。峠の向こうにはまた峠があったが、谷間に住む人々には峠を越えたつながりがあった。しかし近代化は人々を山間に押し込み、ひたすら生糸生産をおこなわせた。その結果、困窮した。

 彼らが坂を下って大宮郷を制圧するというのは、困窮からの解放だけでなく、人間存在の解放でもあった。その解放を勝ち取る「喜び」が「ときの声」になったのだろう。11月2日は、経済的に精神的に困窮する人々の『旅立ちの日に』なったのだ。「はるかな空の果てまでも飛び立つ」という高揚感に心は埋め尽くされていたのではなかったか。理想の世界を創るという志に。

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かつての武ノ鼻の渡しに掛かる武之鼻橋

 困民党軍は写真の武之鼻橋が掛かっている辺りを渡って大宮郷に侵入した。まずは裁判所や警察署に乱入し、書類を引き裂いたり焼いたり戸外に投棄したりした。また室内を破壊した。裁判官や警察官は名栗村へ逃亡した。その後、軍は郡役所を占拠した。

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困民党軍が宿営した秩父神社

 大宮郷を制圧した困民党軍は秩父神社境内に集まった。荒川近辺で様子を伺っていた田代栄助は午後4時ころ秩父神社へ赴いた。そして、本陣とした郡役所には午後6時ころ入った。

 大宮郷でも高利貸し宅を襲い、打ち壊しは5軒、焼き払いは4軒おこなった。とくに「刀屋」を営む稲葉貞助に対する破壊については多くの記録や証言が残っている。この稲葉は、貧民から身を起こし、わずか10年で5万円を蓄財した悪徳高利貸しの典型だったからだ。田代栄助は「現在の貸付金の半額を放棄し、残り半額を年賦償却とし、かつ軍用金として1000円を差し出すなら破壊は止める」といったが,稲葉側からは「50円を差し出すので破壊は免除してほしい」という回答があった。これでは納得できないので破壊を指示したところ、今度は「450円と証書類を一括して差し出し、これで勘弁してくれ」との再回答があった。しかし、こうした貪欲な稲葉の態度に困民党軍は納得せず、結局、稲葉宅を破壊したのだった。

 また金持ち宅には軍用金集方の井出為吉が赴き、「貧民を救うために兵を挙げた。おいおい、警察や憲兵隊が繰り出してくるだろう。是が非でも戦闘しなければ貧民を救済することができない。よって軍用金を無心する。首尾よく本懐を遂げたときはことごとく返金するが、不幸にして戦死したときは香料として恵みに預かりたい」と述べて、5軒から1220円を差し出させて「革命本部」と記した領収書を渡した。

 大宮郷では火薬・弾丸の補給もおこなっている。これには軍用金を当て、きちんと支払いをおこなっている。

 駆り出しも広範囲におこなわれた。とくに横瀬(よこぜ)村(現在、あしがくぼ果樹園がある辺り)では念入りにおこなわれたようだ。各戸一人ずつ出ることを要求し、応じなければ役場や民家を焼き払うという脅しもおこなわれたらしい。これに対し、村人は昼間は秩父神社まで出かけ、夜にはまた家に帰るという行動をとったという記録が残っている。駆り出しは、「正丸峠」越えて飯能町(現在の飯能市)までにもおこなわれた。こうして、困民党の軍勢は2日夜半から3日にかけて、最大では約一万人が集結したと言われている。

11月3日の動き

 一方、警察側は1日の午後3時ころには皆野村の宿屋に仮本部を置き、鎌田冲太警部を中心に情報収集をおこなっていた。が、戦況は警察側に不利だったので仮本部を寄居町まで戻し、あわせて埼玉県庁の書記官が内務卿の山県有朋憲兵隊の派遣を要請した。この結果、3日の午前中には憲兵隊が秩父からの出口である寄居の守りを固め、さらには熊谷、小川、川越、名栗などにも憲兵隊を配置した。

 困民党軍側は2日夜半から3日にかけて幹部会議をおこない、今後の運動方針を議論した。田代、菊池、井出はいったん信州に行き軍の基盤を固めるという方針を提案したのに対し、加藤、高岸、落合は東京への侵攻を提案した。議論の結果、東京への侵攻が決まった。まずは川越に出てから浦和の県庁を襲い、その勢いで東京に侵攻するというものだったらしい。

 田中千弥が記した『秩父暴動雑録』には「暴徒ガ言ヲ聞ケバ先ツ郡中ニテ軍用金ヲ整ヘ、諸方ノ勢ト合シテ、埼玉県ヲ打破リ、軍用金ヲ備ヘ‥‥沿道ノ兵ト合シテ、東京ニ上リ、板垣公ト兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変シテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ、人民ヲ安楽ナラシムベシ‥‥自由党ノ兵ハ、汝等ノ父、汝等ノ兄ナリ‥‥」とある。これは田中が2日に記したものである。困民党軍の理念の中にはすでに、東京に進出して自由で平等な世の中を築きたいという目的があったのだ。作家の井出孫六は困民党が決起した年を「自由自治元年」としている。これには困民党をあまりに理想化していると批判されているが、困民党に対して中立的な立場を取った田中千弥の記録にあるように、困民党の「暴徒」の中にはこうした理念に基づいて行動した者がいたことは事実であろう。たとえ、板垣や自由党に対する思い入れは幻想であったとしても、だ。

 3日、憲兵隊の来襲に備えて困民党軍は編成替えをおこなった。とりあえず、大宮郷の守りを固めるためだった。甲隊は加藤織平や新井周三郎が率い、小鹿野や吉田からの襲来に備えて武ノ鼻口へ移動した。乙隊は菊池貫平や飯塚盛蔵が率い、皆野方面からの襲来に備えて大宮郷の北にある大野原に移動した。丙隊は田代栄助や落合寅市が率い、大宮郷に留まってその防衛に当たった。

 が、甲隊は、憲兵隊や警察隊が下吉田村へ大勢で進出したという知らせを聞いたことで、武ノ鼻を渡って小鹿野方向に移動してしまった。また、乙隊は熊谷方面で一揆が起こり寄居や野上、皆野の憲兵や警察までが出払ったという知らせを聞いたことで、皆野村への移動を開始した。どちらも誤報だった。しかし、甲隊も乙隊も戦線を伸ばし、甲隊は下吉田村へ、乙隊は皆野の旅館(1日に警察隊が仮本部を設置した場所)に本陣を構え、田代栄助もここに移動した。

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親鼻の河原は現在、長瀞ライン下りの出発点になっている

 午後4時ころ、寄居から金崎村に偵察にきた30人ほどの警官・憲兵隊と、親鼻の渡しを警備していた困民党軍の鉄砲隊との間で銃撃戦がおこなわれた。かたや最新の村田銃、かたや旧式の火縄銃であった。が、新式の村田銃に用いられた弾薬が旧式のもので合わなかったためか弾は出ず、憲兵・警察隊は短銃を用いた。一方、困民党軍の火縄銃は飛距離が50mほどしかなかったのでこの銃撃戦は20分ほどで終わり、困民党軍側に一人の負傷者が出ただけだった。その後、偵察隊は本野上村まで撤退した。

 一方、下吉田村まで戦線を伸ばしていた甲隊は皆野村の対岸にある大淵村に入り、大淵から野巻付近で野営した。

11月4日の動き

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長楽寺の門前で困民党本陣が瓦解する切っ掛けとなった事件が起きた

 4日未明、甲隊は国神耕地に向けて出発した。国神は宝登山の南にあり、ここには北の児玉町に抜ける新道があり、途中の出牛(じゅうし)峠に至ると、野上を背後から襲える道にも出られる重要な場所だった。

 しかし、出発すると間もなく、1日の下吉田村役場の戦いで捕虜にし、そのまま甲隊が引き連れ、新井周三郎の説得によって困民党軍に加わることになった青木与一巡査が、新井から与えられた刀で新井を背後から襲って重傷を負わせたのだ。

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長楽寺門前の真向かいには青木与一巡査の碑がある

 新井はなんとか反撃し、青木巡査を殺害した。写真にあるように、この現場近くの路傍には「青木与一巡査の碑」がある。

 負傷した新井は、3日に自身が小隊長を解任した上日野沢村の村竹茂市に担がれて皆野村の本陣まで運ばれた。その後、新井は困民党軍の誰かに担がれ、標高500~600mほどもある山か峠を越えて、生まれ故郷である西ノ入村(現在寄居町西ノ入)の明善寺まで運ばれた。そこで治療を受けていたが、住職の密告により9日、新井は逮捕された。

 困民党軍には魅力のある人物を多数見出すことができる。様々な書物や資料を読むと、いろいろな識者がそれぞれに焦点を当てたい人物を発掘していることが分かる。ある人は「田代栄助」に肩入れし、ある人は「井上伝蔵」、「菊池貫平」、「井出為吉」、「坂本宗作」、「落合寅市」に思いを寄せるが、私の場合は「新井周三郎」に一番の魅力を感じている。彼はここに挙げた人々とは異なり、「異界」の人物だった。田代、井上、坂本、落合は秩父盆地内に暮らし、菊池と井出は南佐久の山間に暮らしていた。しかし、新井は秩父盆地内でもなく峠の向こうの山間でもなく、東秩父連山の外にある集落で育った。困民党軍の多くの人々が持つ「山影の情念」(松本健一の言葉)は新井にはさほどなかったはずだ。 

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新井の家跡付近から東秩父方面を見る

 新井周三郎は男衾(おぶすま)郡西ノ入村に生まれた。実家は村きっての豪農だった。地元の小学校を優れた成績で卒業した。性格はとても温和で、彼があのような過激派に転じるとは誰も想像していなかったそうだ。上京するのは18歳の時で、和漢洋学を学ぶとともに剣の道も修めた。その後、地元に戻って小学校の教員になった。事情があって辞めることになったが、たまたま石間(いさま)小学校に空きがあるということを知って加藤織平宅を訪ねた。1884年9月初旬のことだった。 

 加藤宅には高岸善吉、坂本宗作、落合寅市、小柏常次郎らが集まって何やら相談をしていた。それを聞いていた新井は、大きな借財を抱えて困窮する人々の苦しみと覚悟を知った。「教員ノ念ヲ断チ、イチニ細民救助ニ尽力セン事」を決意した。西ノ入に戻った新井は、地元で負債延期の請願運動を組織し、高利貸しが返済の延期に同意しないときは打ち壊しをおこなうことなどを提案している。なお、この西ノ入で新井と一緒に行動した人たちは困民党の蜂起軍に加わっている。

 困民党軍の動きの中で新井周三郎の名が出てくるのは10月12日(13日説もある)の井上伝蔵宅での会議のときだ。個別交渉では問題は解決しないので、これからは集団行動で強く迫ること、準備金強借などの非合法活動を始めることを決議したときである。14日、新井は坂本宗作らとともにさっそく横瀬村で高利貸し宅を襲っている。15日には自宅に戻り、自分の兄をそそのかして仲間と一緒に地元の高利貸し宅を襲っている。

 困民党の会議では加藤織平が強硬な意見を発していたが、彼の主張の背後には新井の提言があったといわれている。また、田代栄助は31日になっても蜂起の延期を提案したが、これも加藤らの主張で正式に翌日の決起が決まったが、ここでも新井の働きがあったとされている。事実、1日の蜂起が決まるやいなや、31日の深夜、新井は大野苗吉、村竹茂市らとともに金崎村にある金貸し会社の永保社を襲っている。

 ただし、新井は単なる過激派ではなかった。仲間に対する強い思いれと、高い革命思想を有していた。次のことは新井がどれだけ優れた思想と志をもっていたかを示す事例として松本健一などがよく取り上げている。

 自由党員になるためには2名の自由党員の連署が必要だった。当時、秩父自由党のリーダーは井上伝蔵だったので、もう一人の署名が必要だった。新井は仲間12人の志願書をもって党員の福島敬三を訪ねた。新井の仲間12人は文字が書けなかった。そこで福島は「政事思想ヲ有セサルモノハ幾人アリトモ其用ヲ為サザル」と言って署名を断った。「いやしくも貴重な自由の2字を冠する者が借金党ごときの者にだまされるのは自由党としてはもっとも恥ずべきものだ」と困民党を切って捨てるような発言をおこなった。これに対して新井は、「仮令ヘ(たとえ)己レノ氏名ヲ記シ得サル者トイエトモ、其志シサヘタシカナル以上ハ幾人ニテモ自由党ヘ加入セシムル議ヲ主張」した。新井にとって、文字が書けるか否かは志においてはまったく問題ではなく、その人がどんな理想を有しているかが重要なのであった。

 新井は18歳で上京し、翌年には地元に戻って小学校の教員になっている。田舎の秀才がせっかく東京に遊学できたのにわずか1年しか滞在していない。また、彼が通った剣道場には板垣や星亨なども顔を出していたという。彼に上昇志向があればそのまま東京に留まり、多くの人脈を形成することは可能だったろう。しかし彼はそれをしなかった。この1年で、何か期するものが生じたのかもしれない。

 新井は地元に戻り、寄居町の教員となった。田舎の子供たちがいかに苦しい生活状況に置かれているかを肌で感じた。彼は山間の学校に移った。そこでさらに人々の苦境を知った。そしてこの苦境と戦う人々に出会った。「天下ノ政治ヲ直シ、人民ヲ自由ナラシメント欲シ、諸民ノ為ニ兵ヲ起ス」と考える人々とともに戦うことを決意したのだ。

 論語子路篇には「子曰く、中行を得てこれに与せんずば、必ずや狂狷(けん)か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり。」とある。中庸の人などめったにいない。ならば「狂者」のように進取の気概がある人か、「狷者」のように付和雷同しない人と接することを孔子は勧めているのだ。何かを打ち立てるためには狂者でなければならないのだ。新井周三郎はこの「狂」に目覚めて困民党軍に加わり、思想的、行動的なリーダーとなったのだ。ここに私は、吉田松陰との同質性を見た。

 が、志は達成せず、1885年5月17日、熊谷監獄にて処刑された。享年24歳。

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新井が傷の治療をおこなっていた明善寺はこの先にあったと思われる

 新井の生家はすでにない。JR八高線折原駅の近くに新井家はあった。が、生家があったと思われる場所は工場になっていた。その写真を撮っても仕方がないので、新井の生家があったと思われる場所の前から東秩父の山方向にカメラを向けてみた。彼が幼いころに通った小学校は山のすそ野にあった。その学校があった場所に明善寺もあったはずだが、見つけることはできなかった。グーグルアースで探しても寺らしい場所はなかった。上の2枚の写真は、新井がかつて見ていたと思われる風景である。鉄塔や高圧線などの建造物はなかったし、家々の形は異なるだろうが、山容はさほど変化はないと思われる。

 写真にはないが、彼の家は関東平野の西端にあり、写真の反対側に行けば、すぐに広々とした平地に出られるのである。それでも彼は山々の方に進むことを選んだ。どうして、人は「峠の向こう」に魅入られてしまうのだろうか?

 

秩父困民党(3)に続きます。しかし、「十石峠」が現在通行止めなので、次回(9月10日ころ)には間に合わないかもしれません。