徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔109〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(4)山形城、立石寺、亀岡文殊、米沢城跡など

この場所で芭蕉は「閑さや~」の句を着想したらしい

◎日本一公園(楯山公園)からの眺め

気宇壮大な公園名

 月山を離れ、この日に宿泊する山形市へ向かった。国道112号線を寒河江川に沿って東南東に進み、当初の予定では寒河江市に入り、その地の高台から月山の全容を眺めるつもりでいたが、相変わらず月山山頂は雲の帽子を被っていた。

 そこでルートを変更して、大江町にある「楯山公園」に向かうことにした。この公園の高台からは最上川の大蛇行が見られるとのことで、写真にあるように通称は「日本一公園」といい、「最上川ビューポイント」に認定されている。

 それにしても、「日本一公園」とはよく名付けたもので、その誇りの高さに敬服してしまった。

確かに眺めはかなり良い

 写真のように、北上してきた最上川は、この高台に衝突するために行く手を南方向に360度近く変更させられるのである。日本一はやや言い過ぎだとしても、確かに景観は相当に良い。

 公園一帯は地元の豪族である大江氏が城を築いた場所で、正式名称は「左沢(あてらざわ)楯山城史跡公園」と言い、この「日本一公園」はその敷地のほぼ南側に位置する。

 最上川左岸の左沢(写真では川の右手)をなぜ「あてらざわ」と読むのかには諸説あるようだ。一番説得力があるのは、左沢が川の左岸側にあり、右岸側を”こちら”とするなら、左岸側は”あちら”となり、川の”あちら”が転化して「あてら」になったとするものだ。

 ともあれ、「佐沢」は難読地名のひとつには違いない。

大蛇行する最上川

 川の右岸側(日本一公園からすればあちら側)の一部には河原があるが、蛇行直前の右岸には砂岩・泥岩の互層が見られ、しかもかなり褶曲していることがよく分かる。

 それはともかくとして、佐沢の崖が最上川を大蛇行させたことは事実であるにせよ、何故、こうなったのかはよく分からないというのが実感であった。

◎霞城(山形城)公園内を少しだけ歩く

山形城跡への出入口

 ホテルに入るにはまだ時間があったので、JR山形駅のすぐ北側にある山形城跡(霞城(かじょう)公園)に立ち寄ってみた。建造物はほとんどなく、いずれ本丸のあった場所を整備するための基礎的な発掘調査がおこなわれているばかりなので、城をイメージして出掛けるとがっかり度は高い。

 その一方、かつては51万石の大大名の城郭があった場所なので、敷地は広々としていて、散歩をする目的であれば失望感は少なくて済む。

 復興された建造物は敷地の東側に集中して存在するので、写真にある堀に架かった橋を渡って城の中に入ることにした。

橋の下には新幹線も走っている

 写真は堀に架かる橋だが、手前にはもうひとつ橋があり、その下には山形新幹線仙山線左沢線(あてらざわせん)が走っている。お堀の水は澱んでいて奇麗ではないので、私は鉄道の線路のほうに興味を抱いてしまって、そちらの見物に時間をかけてしまった。

二ノ丸東大手

 敷地内に入ると、写真の「二ノ丸東大手門」が姿を現した。もちろん、守りを重視するために枡形虎口をしている。往時はお堀に張り出す形の「外枡形」だったそうだが、1991年に竣工した現在のものは内升形という普通のものになってしまっている。

城主・最上義光顕彰詞碑

 二ノ丸に入ると、そこは広場になっていて、その中心には写真の「最上義光(もがみよしあき)」の像があった。後ろ足の2本で立ち上がっている姿はなかなか結構なものだったので、東大手門よりは存在感に溢れていた。

 最上義光(1546~1614)は山形藩51万石の初代藩主。関ヶ原の戦い(1600年)では、伊達政宗とともに東軍(家康側)につき、西軍側の上杉景勝と戦って(出羽合戦)勝利し、山形の地を安堵された。

 身長が180センチ(推定)もあった義光は武術はもちろんのこと、文化人としても優れており、『伊勢物語』や『源氏物語』を愛した。また数多くの連歌を残し、仏教の保護もおこなった。のちに挙げる立石寺の再建も、義光の時代におこなわれた。

 全国的な知名度はないが、なかなかの傑物であったことは確かである。

山形市立郷土館

 中には入らなかったが、建物自体には魅力を感じたことから、いろいろな角度から見て回った。1878年に洋風をまねて造られた県立病院(済生館)で、1904年に市立病院に移管された。1966年に国の重要文化財に指定されたことから、建物を霞城公園内に移設・復元されたとのこと。71年に市立の郷土館として利用され、郷土史や医療関係の資料が保管、展示されている。

 日本全国に増殖中の高層ビルはどれもみな同じような姿で誠につまらない造形物であるが、このような明治期の建物にはそれぞれ個性があって、見ているだけでも清々しい気持ちになる。 

山形城を発掘調査中

 山形藩は51万石を誇る大藩であったことから、さぞかし立派な城郭を有していたと思われるが、その大半は姿を消してしまっている。現在はその復元の第一歩として発掘調査などがおこなわれているようだが、私が見た限り、なかなかはかどってはいないようだ。写真の通り、半ば“ほったらかし”状態のところが大部分なので、「城」を期待して訪れるとがっかり度は高いが、公園として考えるなら、結構な広さを有しているので、足腰を鍛えるには格好な場所かもしれない。

立石寺(山寺)を散策

JR仙山線山寺駅

 芭蕉ファンにも関わらず、近くには何度も訪れているにも関わらず、立石寺(山寺)の境内に足を踏み入れるのは今回が初めてだった。何しろ、奥の院までは1050段の階段を上る必要があると聞いていたからだ。

 しかし、今回初めて立入ってみて、1050段といっても階段には段差があまりないので、その段数の割にはさほどの苦労はいらなかった。実際、写真の山寺駅や境内の一番下の標高は237mで、もっともよく知られている開山堂は367m、奥の院でも401mなので、比高は最大でも164mしかなののだ。

 ちなみに、東京郊外にある高尾山は標高は599mだが、その玄関口となる京王線高尾山口駅は190m地点にあるため、比高は409mとなる。それゆえ、立石寺奥の院までは高尾山登山の40%の労力で済むことになる。

 もっとも高尾山にはケーブルカーがあり、それを使えば比高270mを稼げるので、実質は139mとなるのだけれど。これは開山堂までの比高130mとほぼ同等である。つまり、ケーブルカーを使った高尾山登山と同程度の労力で立石寺の主だった場所が見物できるのだ。これを知っていれば、もっと早くに立石寺を訪ねていたはずだ。いまさらながら、自分の阿保度加減に呆れる始末だった。とはいえ、遅まきながらも立石寺訪問が実現したので、それはそれで満足度は高かった。

 写真は仙山線山寺駅で、山形駅からは20分、仙台駅からは50分の所にある。もっとも私は車で出掛けたので、駅はただその姿を見るだけに立ち寄ったのだけれど。

参道にあった看板

 平日にもかかわらず、立石寺には大勢の個人客、団体客、見物客、参拝客が訪れていた。860年に慈覚大師円仁が開基したといわれる天台宗の寺であるが、断崖の上に立つ見応えのある寺だから大勢の人が集まるという訳ではなく、やはりその大半は芭蕉の句に惹かれてこの地を訪れるのであろう。そんなことから、芭蕉は写真の看板のように団子にもなってしまうのであった。

 私はその看板に興味を抱いただけで、団子には関心がなかった。それゆえ、どんな形をした、あるいはどんな味の団子だかは不明だ。もしかしたら、セミの形をしていたかも知れない。食味は「セミ味」でないことは確かだけれど。

麓から釈迦堂を望む

 まずは麓から山を見上げた。以前に感じた時よりは高さはあまり感じられなかった。写真にある釈迦堂は修行者以外は立入ることのできない場所で、標高380mのところにある。私が撮影している場所は237m地点なので、比高は143mである。

 主だった建物は急峻な崖の上にあるので、どうしても山坂道を歩く必要がある。今回の旅の主要な目的地のひとつなので、麓から見上げて”はい、おしまい”という訳にはゆかない。

おくのほそ道の標識

 写真のように、参道には小さなお堂と、「奥の細道」の標識があった。芭蕉は『おくのほそ道』と記しているのだが、象潟にもあったように漢字で『奥の細道』と記している場所がかなりあった。どちらでもいいような気がしないではないが、芭蕉ファンとしては少し気になるところではあった。

いよいよ境内へと進む

 この場所に、立石寺の境内に入る階段がある。ここでは入り口と出口が分けられているので、「登山者」はここからお山に入ることになる。

 石標には「山寺」とあるがこれは通称で、正式には「宝珠山立石寺」という。芭蕉の頃は「りょうしゃくじ」と読んでいたようだが、現在では「りっしゃくじ」という。

最初に目に付くのが根本中堂

 まず最初に出会うのが、写真の「根本中堂」で、ここが33万坪の広さを有する寺全体の本堂である。1356年の建造で、ブナ材を用いた建物としては日本最古のものと考えられている。

 ここには慈覚大師作と言われる「薬師如来坐像」があり、比叡山延暦寺から分灯された「不滅の法灯」が灯っている。

 私は相変わらずお参りはしないので、ただ遠目から眺めただけで、すぐに次の場所に移動した。

芭蕉

 立石寺知名度を全国に広めたのは、ひとえに芭蕉の句であろう。

 閑さや 岩にしみ入 蝉の声

 この句を知らない人はまずいないと思うが、誰もが単純に疑問に思うのは、セミがガンガン鳴いているので、決して「静か」ではないだろうということだ。そのため、このセミニイニイゼミだろうかアブラゼミだろうかという実に下らない論争まで起こった。ニイニイゼミのほうが鳴き声が小さいので、大方はこちらのセミに軍配を上げているようだが、これはただ、この作品の表面をなぞった解釈に過ぎない。

 芭蕉の句が大きく変わったのは、以下の句からだと考えられている。

 古池や 蛙飛びこむ 水の音

 これは芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る3年前の作品である。件のセミ論争に加わる人は、この句をただ、古池にカエルが飛び込む音を聞いた、というように解釈しているのと同じことになる。そうであるなら、「古池や」ではなく「古池に」でよいことになる。

 「や」はいわゆる「切れ字」で、「古池や」と「蛙飛び込む水の音」とは次元の異なる表象なのだ。それゆえ、古池にカエルが飛び込んだという情景を句にしたのではなく、カエルが飛び込む音を聞いた時、芭蕉は古池を心象風景として抱いたのである。

お馴染みの句が刻んである

 同様に、「閑さや」は芭蕉が心に浮かんだ世界であって、実際にはどんなに騒々しくセミが鳴こうとも、彼が触れた立石寺の情景は、森閑とした世界として心に思い描かれ、それゆえにセミの鳴き声すら岩に染み入ってしまうほど静謐な景趣に思えたのである。

 これは余談ではあるが、下に続く写真から分かるように、立石寺の岩は角礫凝灰岩からなり、至るところにタフォニや風穴が存在する。そうした造形であればこそ、騒々しい音でさえ、それらに吸い込まれていくように思えた。岩肌が一種の吸音板のように。

随行者の曽良の像もあった

 芭蕉随行した曾良(河合惣五郎)は、深川を出る直前に髪を剃った。写真の像から分かる通り、旅の最中はずっと「くりくり坊主」で通したようだ。

 剃り捨て 黒髪山に 衣更

 これは、芭蕉一行が日光の黒髪山の麓に立ち寄った際、曾良が詠んだ句として「おくのほそ道」で紹介されている。芭蕉曾良についてはじめて紹介したもので、「このたび、松しま・象潟の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且は羇旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃て黒染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て(よって)黒髪山の句有。衣更の二字、力ありてきこゆ。」と記している。

念仏堂

 念仏堂は「常行念仏堂」とも言い、慈覚大師円仁が中国の五台山竹林院で授かった五台山念仏三昧法を日本に持ち帰り、比叡山に常行念仏堂を建てた。そして、この立石寺にもその必要性を感じて建立した。

 この念仏三昧法とは、90日間、阿弥陀如来の周りを念仏を唱えつつ、心に阿弥陀如来を念じながら歩くという修行法らしい。

 いよいよこの山門から立石寺登山が始まる。料金(ここでは巡拝料という)は300円と思ったよりも安かった。長い長い階段が始まるが、先に触れたように一段一段の段差はあまりないので、気苦労は不要だ。何しろ、ケーブルカーを使って高尾山に登る程度なので。

空也塔」が立っていた

 空也と言えば、称名念仏を日本で最初に唱えた人物としてよく知られている。空也塔は念仏信者が建てるものだが、念仏を最初に日本に導入した慈覚大師円仁との関係から、空也の存在も欠かせないと考えた人がここに建てたのかもしれない。もっとも、空也の場合はひたすら念仏を唱えさえすれば浄土にゆけるという信仰だったので、円仁の念仏三昧法とは異なるように思えるのだが。

奥の院まで続く階段。全部で1050段

 写真のような階段が、開山堂や奥の院まで続く。確かに一段一段の高低差は小さいので、考えていた以上に苦労は少なかった。

落石?の場所もある

 それに、写真のように落石なのか、あえてそのままにしたのかは不明だが、とても幅の狭い場所があったり、脇に塔婆が置かれていたりして、変化に富んだ道が続くので、次にはどんな景色が展開されるのだろうかと好奇心すら湧いてくる。

ところどころに石仏が置かれている

 写真のように、小さな石仏が置いてあったり、凝灰岩を削って磨崖碑を刻んだりしてある風景にも出くわす。

せみ塚

 せみ塚は、1751年に地元の壷中(こちゅう)をはじめとする芭蕉を敬愛する人々が、芭蕉の句をしたためた短冊を土中に納めるとともに写真の記念碑を建てた場所。ここから開山堂などがある百丈岩が眺められる。

 ここ辺りで芭蕉は「閑さや~」の句を着想したといわれている。先にも述べたように、一帯はいかにもセミが元気よく鳴きそうな場所である。芭蕉が訪れた時間には人気(ひとけ)が途絶え、境内は森閑とした空気に包まれていたため、たとえセミたち(どんな種類でも全く問題はない)が大合唱していたとしても、芭蕉の心の中の世界では、その声はすべて凝灰岩の岩肌の中に吸い込まれていったのである。

磨崖碑もよく見かける

 巨大な凝灰岩の岩肌が大きく削られ、写真のように数多くの磨崖碑が刻まれている場所が数多くあった。その下には、何本もの塔婆も捧げられていた。岩の上部にはセミの声を吸い込んだタフォニの存在も確認できた。

 なお、この岩の佇まいから「弥陀洞」とも呼ばれている。

仁王門が見えてきた

 標高329m辺りに至ると、336m地点にある仁王門が見えてきた。間もなく、私が目指す開山堂に到達だ。

立派な仁王門

 仁王門は1848年に再建された、山中の建物のなかではもっとも新しいものである。ケヤキ材がふんだんに用いられ、この仁王門は1848年に再建された、山中の建物のなかではもっとも新しいものである。ケヤキ材がふんだんに用いられ、左右の仁王尊像は運慶の弟子たちによって造られたとのことだ。

開山堂と納経堂

 芭蕉の存在をのぞけば、この開山堂と納経堂の姿が立石寺にある数多くの建造物の中ではもっともよく知られているだろう。この姿を見ただけで、ここは立石寺であると大半の人が判断できる。

 開山堂はその名の通り、百丈岩の上に立つ開祖慈覚大師円仁の御堂で、この崖の下の自然屈の中に大師の御遺骸が金棺に入れられて埋葬されている。

 御堂には木造りの円仁尊像が安置され、朝夕には食販と香が絶やすことなく供えられているとのこと。

納経堂は山寺のシンボル?

 隣にある納経堂は、山内にある建物の中ではもっとも古いものと考えられている。奥之院で4年かけて写経された法華経がこの中に納められている。

 この赤い小さな建物こそ、立石寺を代表する存在であり、私自身、この姿に触れるためにこの寺を訪ねたといっても過言ではない。

眺めが良い五大堂

 開山堂の隣にある五大堂には密教系の五大明王が奉られている。「不動明王」「降三世(ごうさんぜ)明王」「軍荼利(ぐんだり)明王」「大威徳明王」「金剛夜叉明王東密系)または烏枢沙摩(うすさま、台密系)明王」を言う。立石寺台密系なので、後者を奉ってあるのだろうが、実は、五大堂からの眺めがすこぶる良いので、肝心の五大明王には目を向けることはなかった。

修行者だけが立入れる釈迦堂

 開山堂近くからは釈迦堂の姿を見ることが出来る。先に述べたように、現在では修行者しか立ち入りができない。ましてや、私のような不信心者にはその姿を見ることすら許されないのかもしれない、そんなことはないだろうけれど。

五大堂から山寺駅を見下ろす

 写真は、キャプションにある通り、五大堂の舞台から仙山線山寺駅を望んだものである。私は車でやってきたので駅は眺めただけ。写真の左端にあるパーキング(個人経営)に駐車したので、この項の冒頭にあるように山寺駅に立ち寄るのは容易だった。

平安時代の摩崖仏

 山を下る途中で、写真の摩崖仏が目に留まった。上るときには気が付かなかったほど小さな存在ではあったが、なにしろ平安初期に彫られたものというから約1200年の歴史を経ているということになる。現在でも仏様に見えるように残されているのは奇跡としか思われない。

 左の柱には「伝・安然和尚像」と表記されている。ちなみに、安然(841?~915?)は円仁の弟子で、延暦寺で研究を続け、『大日経』を元に天台密教を完成させたといわれている人物だ。

立石寺の本坊

 出口付近には、立石寺の本坊が建っていた。本坊とは住職の住む僧院なので、一般の見物客には無関係な存在なので、写真撮影だけをおこなってすぐに移動した。

 初めての立石寺登山は実に実りが多かった。時間の関係で奥之院見物は省略してしまったが、開山堂、納経堂、五大堂には再度立ち寄ってみたいと考えているので、その際は奥之院ものぞいてみようと思っている。怠け者のたわごとかもしれないけれど。

◎天童公園

天童といえば将棋の駒の産地として有名

 将棋にも天童よしみにも特に興味はないけれど、立石寺から天童までは意外に近く、かつ、天童公園は高台にあるので、月山を眺めるには格好の場所と思い、「人間将棋盤」にも少しだけ興味があるので立ち寄ってみることにした。

 天童市は全国の約90%を超える将棋駒の産地で、天童織田藩が高畠にあったときから駒の生産を始め、天童に移ってからはこの地で生産を続けた。

 高級品にはホンツゲの素材を使い、文字を彫り上げた溝に漆を何度も入れ、木地の高さまで漆を埋め込む。さらにプロの棋士が用いる「盛り上げ駒」ともなると、さらにそれに蒔絵筆を使って、漆で文字を盛り上げる。

人間将棋

 天童市では毎年、桜の咲く時期に、天童公園にある人間将棋盤を使ってプロ棋士の対局がおこなわれる。駒には甲冑や着物姿に身を包んだ武者や腰元がなり、写真の白地の将棋盤が用いられる。階段には大勢の観戦客がそこに腰掛け、対局の様子を見物する。

 周囲には約2000本の桜があり、その開花期に催されるため、その様子はニュースなどで必ずと言って良いほど取り上げられる。

将棋塔

 写真は、人間将棋盤の上方にある「将棋塔」で、王将の文字は大山康晴十五世名人の揮毫が元になっているとのこと。現在では藤井聡太氏が棋界を席巻しているが、私が若いころは、将棋の名人と言えば大山康晴と伝説の坂田三吉であった。

 大山康晴氏はタイトル戦を19連覇したが、この2月に藤井聡太氏が20連覇を達成して大山氏の記録を更新した。そんなニュースに触れた時、久々に「大山康晴」の名前を聞き、とても懐かしく思った。

 ちなみに、私は将棋ではほとんど負けたことがない。なぜなら、負けそうにになると将棋盤をひっくり返すからだ。それゆえ、私と将棋を打つ相手は誰もいなくなった。

さくらんぼ畑と月山

畑から月山を眺める

 天童公園からでは月山の姿があまりよく見られなかったため、公園を離れて県道23号線を寒河江市方向に進んだ。とにかく西に進めば月山の姿は常に視界に入るので、撮影に適した場所を探すにも便利だったからだ。

 写真は最上川を渡る直前の場所から月山を撮影したものだ。白い雲が山頂にかかり始めたので、寒河江に行く前に撮る必要性を感じ、県道の路肩に車をとめ最上川右岸の土手近くで撮影ポイントを探した。

 左のビニールハウスはさくらんぼ用のもので、正面の土手は最上川右岸のもの。その向こうに月山の雄大な姿が存在している。

 雲の峰 いくつ崩れて 月の山

 『おくのほそ道』に芭蕉の句は50あるが、その中でもこの句はかなり印象に残る作品である。月山の姿を見るまではそれほど良い作品とは思えなかったが、実際に月山を初めて目にしたとき、この句の宇宙観を理解することができた。「不易流行」が『おくのほそ道』で芭蕉が追い続けた俳句における世界観であるが、この句においても、数多くの積乱雲が頂点にまで発達せず(流行)、月山として結実した(不易)という有様が見事に表現されているのだ。

朝日連峰を眺める

 高台に移動した。写真のように、西側には大朝日山を中心とする朝日連峰の山々も見られた。広義では月山も朝日連峰に連続すると考えられるが、狭義には、朝日連峰朝日山地)は隆起山地であるのに対し、月山は火山活動によって生まれたものなので「月山・朝日山地」と区別される。なお現在では、後者の考え方が主流になっている。

さくらんぼの里

 寒河江市(さがえし)の名を聞くとすぐに「さくらんぼ」を連想し、私が訪れた「さくらんぼの里」の石碑にも「名産日本一」とあるが、実際には、寒河江市の生産高は山形県でも第3位である。もっとも、山形県さくらんぼの収穫量は第2位の北海道の8倍、第3位の山梨県の10倍と他を圧倒しているので、山形で第3位ということは日本でも第3位であることは確実だ。

 日本一は言い過ぎかもしれないが、山形には「日本一公園」があるくらいなので、多少の誤差は十分に許容範囲であろう。あるいは生産量ではなく味が日本一かもしれないので。

山寺方向の眺め

 この「さくらんぼの里」の正式名称は「寒河江公園つつじ園」ということで、斜面には数多くのツツジが植えられている。その向こうには寒河江市街が見え、さらに最上川が造った山形盆地が広がり、その先に奥羽山脈の山並みが続いている。

これは出来が悪そう

 さくらんぼ畑を探した。別に盗み食いが目的ではなく、ただ山形の代表的農産物を目にしたかっただけである。ネットが張られているハウスの中にはサクランボが実っていたが、写真のものは身の付きがあまり良くなく、そんなことはしないけれど、盗み食いをする気持ちにもなれなかった。

これは美味しそう

 一方、写真のものがなかなかの実り具合で、これならば食べてみたいような気がした。

◎瓜割石庭公園

石切り場

 この日の宿泊地は奥羽本線高畠駅構内にあるホテルだった。今回の旅の最後の宿だ。本当は米沢市内に泊まる予定であったが、目ぼしいところはすべて満室だったことから高畠にしたのだ。もっとも、米沢市内までは南に10キロ弱なので、旅の最後の見学地である米沢城跡まではさほど遠くはない。

 折角、行ったことのない高畠に泊まるので、周辺に面白そうな場所がないかと調べてみたところ、ここに挙げた「瓜割石庭公園」が見つかった。写真にあるように、単なる石切り場跡なのだが、その壁面に特徴がありそうなので出掛けてみることに次第だ。

 ここでは「高畠石」が1923年から2010年の間に切り出されたそうだ。高畠石の名前は初めて聞いたが、「大谷石」と言えばかなり多くの人が認知していると思う。

 火山灰や砂礫が海中に沈殿・堆積しそれが凝固してできた石で、軽石凝灰岩とか浮石凝灰岩に区分されている。軽くて柔らかいので加工しやすい反面、耐火性や防湿性に優れているため、家の壁や塀などによく用いられている。古墳時代の石室もこの軽石凝灰岩でできているものが多い。

安全を祈願

 石切り場はとても危険で重量なことからか、写真のように安全を祈願するために多くの石仏が置かれていた。

石切り場の内部

 石切り場の内部はよく整備され、ここではいろいろなイベントが開催されるらしい。

 現在でも細々と石は堀り出されているそうだが、私が訪れたときには何も作業は行われていなかった。高さ30mの崖にはまだまだ多くの石が眠っているようである。大谷石のように地下から掘り出した結果、地面が陥没するといった事故が発生するという心配がないのが何よりである。

◎旧高畠駅~山形交通高畠線の名残

高畠駅

 写真の旧高畠駅は、1922年から74年でまで運行していた山形交通高畠線のもので、私がこの日に宿泊するJR高畠駅とは4キロ近く離れている。

 その高畠線は糠ノ目駅(現在の高畠駅)から二井宿との間、10.6キロを結んでいた。この地域は製糸業が盛んであったことからその運搬のために開通された。1929年には電化されたので、それなりに賑やかな路線だったのかも。

 ところで旧高畠駅舎だが、写真からも分かるように高畠石がふんだんに用いられている。この石は時を経るにつれて黄土色に変わってゆく。それゆえ、建物には重厚さを感じることができる。

かつて使用されていた車両を展示

 旧高畠駅の隣には広場があり、そこに写真のようにかつて使用されていた車両が展示してあった。前方は貨車をけん引する機関車で「モハ1」と呼ばれていた。一方、後方には客を乗せる電車で「ED1」と名付けられていた。いずれも、高畠線が開通したころから使用されていた車両である。

駅前広場は格好の遊び場

 駅前広場は写真のように結構な大きさの敷地があり、私が出掛けた時には小学生が5,6人、広場の端で遊んでいた。

 美しい駅舎と時代を感じさせる車両。その双方との出会いは私の心を決して少なくないほど豊かにしてくれた。

 なお、廃線となった路線跡の多くは、サイクリングロード「まほろば緑道」として整備されている。

◎亀岡文殊~日本三大文殊のひとつ

山門

 亀岡文殊(松高山大聖寺)は、旧高畠駅南側2キロほどのところにある。奈良の「安部文殊院」、京都の「切戸文殊」と並んで、日本三大文殊に数えられている。安部文殊は前を通っただけだが、切戸文殊は、本ブログの第75回で、天橋立を紹介した際に少しだけ紹介している。

 「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があるが、確かに「ノーム・チョムスキー」「エマニュエル・トッド」「マイケル・ハート」の三人が集まれば文殊菩薩には敵わないにせよ、相当な良き知恵が生み出されそうだ。一方、「森、麻生、二階」の三人が集まれば、金がらみの悪知恵しか生まれないだろう。ことほど左様に、ただ三人寄っただけでは良き知恵が生まれるとは限らないし、往々にして対立して喧嘩別れするのが落ちだろう。

なぜか八十八カ所の石仏が並ぶ

 文殊菩薩は「文殊師利」(モンジュシリー)と言われ知恵の菩薩と考えられ、慈悲の菩薩である「普賢菩薩」と並んで釈迦の脇侍(わきじ)を務めていた。

 知恵には縁遠い私であるし、また文殊堂をお参りしたぐらいでは知恵などつくはずはないと確信しているが、この境内を目にしたときになかなか興味深い風情を感じられたので、境内をじっくりと歩いてみることにした。

 まず最初に目に付いたのは、「四国八十八カ所霊場」から分霊されたとする石像が並んでいる場所に立ち寄った。とくに理由はなく、駐車場のすぐ目の前にあったからである。

 とはいえ、本ブログでは何度も紹介しているように、四国八十八カ所といえば私の大好きな場所のひとつで、もちろん、例によって訪れはするが参拝はしないものの、今までに何度となく出掛けているし、今年も5月に西四国見物をする予定なので、その際にも十数カ所の札所を見物するつもりだ。

すべてに霊場の名が刻まれている

 弘法大師像の隣から、一番の霊山寺から八十八番の大窪寺までの名前が刻まれた石像が並んでいる。寺の名前に触れただけで確固たるイメージが湧く場所、これが「本当に札所なの」としか考えられない場所、まったくと言って良いほど印象に残っていない場所、札所で出会った人々との会話など、いろいろな事柄が懐かしく思い出された。

これが本当の石灯籠

 参道の脇には、写真のような見事な石灯籠があった。大きな地震が来れば倒壊は必至だと思われるが、文殊の知恵で設計されているので、その点は了解済みなのかもしれない。

信夫の里の独国和尚像

 独国和尚は写真にあるように宮城県の女川出身で、1824年に女川山の尾根伝いに三十三観音碑を建てたことで知られている。晩年は福島の信夫山の麓で過ごしたことから「信夫の里の独国和尚」と呼ばれた。

 若い時は亀岡文殊のある松高山・大聖寺で修行したので、参道には和尚の石像が置かれている。

 私が気になったのは、その横にある「徳一上人碑」だ。「会津の徳一」と称された上人は807年に中国五台山から伝来した文殊菩薩平城天皇の勅命でこの地に安置した。

 もっとも、徳一は最澄との「三一権実論争」があまりにも有名なので、徳一側に味方する私としては、そのことばかりに関心を抱いていたので、彼と文殊菩薩との関係は、この地に来て初めて知ったことである。

 『法華経』を根本経典とする最澄は「一切悉皆成仏」という一乗論をとるのに対し、法相宗の立場をとる徳一は、声聞、縁覚、菩薩には悟りの境地は異なるという三乗説を主張した。これは論争というより、最澄が徳一にあてた手紙からそうした違いが明らかになったもので、特に両者間で論争があったわけではない。

 私はいくつかの資料を当たってみたが、どう考えても徳一の考えが正しいと思われたが、日本的な仏教としては最澄の考えのほうが分かりやすい。何しろ「草木国土悉皆成仏」といって、草や木、土にまで仏性があるというのだから。そうであるなら、修行などはまったく不要になってしまうのだ。いや、信仰心すら無用である。何しろ草や木や土には心識はないはずなので。

ここにも芭蕉の句碑が

 芭蕉の句碑があった。写真にある句だが、芭蕉がいつ詠んだのかは不明だ。彼の句としては凡作に属すると思われる。『おくのほそ道』にある50作品に比べると相当に見劣りがする。鬼才、芭蕉連句師として無数の作品を残しているので、このレベルのものも決して少なくはない。

十六羅漢

 参道の右手には、十六羅漢像があり、その後ろにかなり形の良い鐘楼堂があった。

本堂

 写真は、個々の本堂で、屋根の倒壊を防ぐための支えがやや邪魔に思えたが、それはそれで致し方ないことである。

清らかな水が誇り

 私は参拝する気持ちが全くないので、本堂の裏手にあるという清水を見にいった。写真のように「知恵の水・利根水」というらしいが、水道の蛇口のようなところから水が出ていたのには少し興ざめであった。

湧き水とエゴの花

 その利根水は小さな流れを造っていて、その清水の上にエゴの木の花が数多く浮かんでいた。私としては、知恵に恵まれなくとも、この姿を見られただけで十分に満足できた。

三尊

 本堂を一周して、参拝場所に再び出てきた。折角なので、大日如来(中央)、虚空蔵菩薩(左手)、普賢菩薩(右手)を眺めてみた。もう少し近づけば虚空蔵菩薩の顔が蝋燭に隠れてしまうことはなかっただろう。

 私が、いかに仏像を尊顔する気持ちが全くないという証拠写真でもある。

かなり侘しい大師堂

 参道には、写真のような大師堂があった。四国八十八カ所霊場を巡ることが大好きな私だが、これほど見栄えのしない大師堂を見た経験はまったくない。そのことがかえって新鮮な思いを抱くことになった。

名前は知らねども

 参道には、いろいろな姿の仏像が置かれていた。その中でも写真のものは白眉の存在であった。きっと、有名な僧がモデルになっているのだろうが、恥ずかしながら私の知識では名前は浮かばなかった。文殊堂にやってきて、何も拝まずに帰ってゆく不信心者には、さしもの文殊菩薩も知恵を授けることはできなかったようだ。

参道に並ぶ石仏

 参道には、いろいろな姿の石仏が置かれていた。すべて表情が異なるので、一体一体の姿をじっくりと眺めた。信仰心がない私のような人間にも、ここの石仏群には心を洗われる心地がした。

 そういえば、知恵のお寺ということで、合格祈願のお札が数多く納められていた。個人名が表記されていることもあって写真撮影はおこなわなかったが、苦しい時の「仏頼み」は決して卑しい行為ではないことは確かだ。

 この寺ではないが、国立市にある天神様も「学問の神様」として受験生やその関係者が数多く訪れることで知られている。私はたまたま受験シーズンのときにその場所を訪れたが、無数に奉納された合格祈願の札を見て回った。その一枚に「合格祈願」の格が木編ではなく人偏になっているものがあった。私の知識ではそれが間違いか否かは不明だが、おそらくこれを捧げた受験生は不合格だったに違いない。

 しかし、たかが受験である。失敗ぐらいは蚊に刺された程度のことだ。ただし、基本的な漢字ぐらいは正しく覚えよう。

◎米沢城跡公園を歩く

上杉鷹山座像

 今回の東北の旅の掉尾を飾るのは「米沢城跡」である。当初は折角なので、最後は会津若松にしようと考えていたのだが、翌々日に急用が入ったため最後の宿は高畠駅構内にあるホテルとなった。

 米沢城跡の前は何度か通ったことがあったが、城跡内に立ち寄るのは今回が初めてだった。旧二ノ丸にある駐車場に車をとめ、城の本丸跡を目指した。駐車場のすぐ近くには上杉神社の摂社である松岬神社があった。ここは上杉鷹山上杉神社から分祀するために建てられたもので、のちには直江兼続なども配祀された。

 その神社のすぐ近くに、写真の上杉鷹山の座像があった。鷹山と言えばすぐに藩政を立て直した名君として知られ、内村鑑三の著書『代表的日本人』で取り上げた5人の中に選ばれている。

 もっとも、私は個人的には本ブログの第98回で紹介した山田方谷のほうが圧倒的に優れた改革者だと思っている。

舞鶴橋の欄干の不思議な形の岩

 写真の舞鶴橋は二ノ丸と本丸との間にある堀に架けられたもので、この橋が大手口となる。なお、舞鶴の名は米沢城の別名が舞鶴城であったことからそう呼ばれるようになったとのこと。

 私は、橋の欄干に写真のような不思議な形をした岩が置かれていることに興味を抱いた。橋の長さは5m、幅員は7mと長さよりも幅のほうが広いという特色を有するが、そんなことより欄干の親柱に用いられている奇岩のほうがはるかに私の目を釘付けにした。

本丸内に入る

 本丸内に入ると、真正面に上杉神社の姿が目に入った。大きな灯篭の脇には「昆」と「龍」の文字が記された大きな旗が掲げられていた。これはもちろん、上杉謙信にちなむもので、彼は戦の際には必ず、この文字を記した旗を掲げていた。

 昆は軍神の毘沙門天を表わし、龍の文字はあえて「懸かり乱れ龍」の文字で書かれていて、不動明王を表している。謙信は真言密教に造詣が深かったことから、この二神を尊崇していたのだろう。

上杉神社

 大鳥居をくぐって上杉謙信が祀ってある上杉神社境内を少しだけ散策してみた。

 上杉謙信にはさほど興味を抱いてはいないが優れた武将であったことはいくつかの資料を当たってみるだけでその能力の高さを見て取ることが出来る。天下を取るだけの才はあったが、しかし、時代が悪かったし、越後を地盤としたこともその能力を十分に発揮できずに病没することとなった。

 何しろ、南西には武田信玄が、南東には北条氏康という、やはり謙信に勝るとも劣らない名将が同時期に存在したことも、謙信が苦労せざるを得ない情況を生んでしまったのである。

 もっとも、そうした名だたる武将が各地に存在したことで、ある種、彼らを華やかに見せたという側面も否定できない。言ってみれば、「面白い」「興味深い」時代であったればこそ、戦国時代の歴史を語る人々が彼らを名将に仕立て上げたことは事実である。つまり、混乱が名将を生んだのであって、名将が混乱を生んだわけではないというのが、歴史の正しい理解の仕方だと私には思われる。

 豊臣秀吉だって、今の時代に生まれていれば、ただのサルとして生涯を終えた蓋然性は極めて高い。

上杉鷹山立像

 神社の近くにも、上杉鷹山の像が置かれていた。彼の「なせば成る~」の言葉はあまりにも有名ではあるが、まあ、彼の政策がそれなりの結果を出したからこそ、この言葉の意味が価値あるものと解釈されるのであって、私のような凡人が何かをなしたとしても、誰にも評価はされない。もちろん、私にはそれで十分なのだけれど。

上杉謙信

 上杉鷹山以上に知名度の高い謙信だけに、やはりこうして立派な銅像が設置されている。

上杉景勝直江兼続

 謙信には実子がいなかったので、彼が病死したのちに家督相続の争いが起こり、その結果、上杉景勝が後を継ぐことになった。彼は豊臣秀吉五大老の一人として会津に入封したときは120万石の大大名であり、米沢6万石は配下の直江兼続に任せた。

 しかし、関ヶ原の戦いでは石田三成側の西軍に立ち、徳川側についた最上氏と争ったことで、景勝は30万石に減封されて米沢の地に入った。大幅に領地は縮小してしまったが、景勝は配下の者をすべて引き連れて米沢に入った。

 そこで、直江兼続は食料を増産するために最上川流域を整備して田畑を増やし、実質的には51万石の生産高を確保した。

 こうした景勝と配下の兼続との関係は非常に良好であって、兼続の功績によってなんとか米沢藩は人減らしをせずに維持することができた。こうした兼続は歴史通の人には良く知られる存在で、2009年のNHK大河ドラマ天地人』の主人公になった。

 なお上杉神社の隣には稽照殿(けいしょうでん)が1919年に、焼失した上杉神社の再建とともに創設された。ここには謙信の遺品をはじめとして景勝、鷹山の遺品だけでなく、直江兼続に関するものも数多く展示されている(らしい)。

 私が訪れた日には直江兼続展が開催されていた。結構な数の人が稽照殿に吸い込まれていったが、それだけ、直江兼続の存在、大河ドラマの影響は大きかったのだろう。ここ数年の作品は見る影もないが。

      *    *    *

 こうして、私の東北地方14泊15日の旅は終わった。6月から10月はほぼ鮎釣りに没頭するために観光の旅はほとんどしない。3月は近場を訪ね、4月は草加から松島まで、芭蕉の足跡を追う旅を予定している。もっとも、寄り道のほうがおおくなりそうだけれど。

〔108〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(3)象潟から酒田、そして月山へ

西施像。あまり美人には見えないけれど

◎象潟や雨に西施がねぶの花(芭蕉

蚶満寺(かんまんじ)にある芭蕉

 「江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟(きさがた)は憾む(うらむ)がごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。」

 芭蕉が「おくのほそ道」に出掛けた際、とくに目にしたかったのが太平洋側の松島と日本海側の象潟(現在は「きさかた」と清音で読む)であった。ともに歌枕として名高い場所であるが、松島はそのあとに平泉や出羽三山などに立ち寄っているので当然、立ち寄るべきルートの内にあったが、象潟は酒田(最上川の河口)からわざわざ北上して足を伸ばしている。それだけ、芭蕉にとって象潟は重要な場所だったのである。

 象潟の 桜は波に うづもれて 花の上漕ぐ あまの釣り船

 この歌は、芭蕉が敬愛してやまなかった西行の作品である。そうした場所であるからこそ、彼はわざわざ北へ向かったのだろう。ちなみに、おくのほそ道の最北点がこの象潟である。

象潟は、おくのほそ道ではもっとも重要な場所のひとつ

 私が象潟を知ったのは、16歳の誕生日を迎える約ひと月前のことだ。担任が勧めるままに入った学校は自宅から一時間半掛かり、しかも都内にあるので満員電車を乗り継ぐ必要があった。入学してからひと月もたたないうちに学校には絶望し、毎日、遅刻、中抜け、早退を繰り返していた。

 が、国語教師の授業だけはなかなか面白く、あまりさぼらずに出席した。教科書を無視して好き勝手に授業を進めるその教師は、『おくのほそ道』を教材に使い、件の「象潟」の句について詳しく解説したのだった。とりわけ、この句に登場する中国四大美女の一人である西施の悲しい生涯についての話が興味深かった。

 私は中学を卒業するまで、本というものを全く読まなかったので、私が本らしきものに接したのは『おくのほそ道』が初めてだった。ちなみに、2冊目はプラトンの『ソクラテスの弁明』、3冊目はデカルトの『方法序説』だった。

 私はこの時期、まったく思いもよらなかった初恋が成就し、駅や街、そして彼女の家でとりとめもない話をするのが唯一の喜びであった。口数の少ない彼女は私の話をよく聞いて笑ってくれていたが、私自身、女性との話は結構、苦手だったため、ほとんどとりとめのない内容ばかりだった。

 彼女は中学校でも評判の美少女であった。そのため、私は彼女と西施の存在が重なって思えるようになった。そして西施の生涯が悲惨であったのと同様、私のようなサル人間と付き合うことは彼女には不幸なことだと考えるようになったのである。

 そんなこともあって、私は現実からの逃避先を求めていたのだが、象潟の存在を知った時、私はその地を徘徊先に選んだ。最小の荷物とお金をもって、学校を抜け出して午後に上野駅に向かった。象潟へ行く路線をきちんと調べていなかったが、とにかく北を目指すには上野駅発の列車に乗れば何とかなるだろうと安易に考えていたのだ。

 持ち金から考え、普通列車にしか乗れないことは分かっていた。結局、その日は宇都宮駅まで行き駅舎内で一夜を明かした。その駅に置いてある時刻表で調べると、象潟に向かうには新潟経由が良いということが分かった。そこで、郡山から磐越西線を使って新潟を目指すことにした。が、なぜか会津磐梯山の姿を見たくなったことから途中下車してしまい、しかも6月中旬なので雨が強くなり、山は見られないし、傘はないし、人家もほとんどない場所に出てしまったため、その日は会津若松まで行くのがやっとのことだった。ここでも駅舎内に泊まった。

 磐越西線は本数が少なかったこと、次第に体力や気力が衰えてきたことから、翌日は新潟駅に到達するのがやっとだった。しかも新潟駅では終電後は駅舎が閉鎖され始発まではそこに立入ることは不可だった。仕方なく私は雨中、駅の近辺を徘徊し、何とか雨がしのげる公園を見つけ仮眠をとることにした。

 そんな時、警察官がやってきて職務質問された。明らかに家出人と思われ、実際、家出人とほぼ同様の存在であったのだが。私は学校から発行された身分証を持っていたために署に連れてゆかれることは回避でき、始発列車で自宅へ帰ることを条件に、解放された。この件があったことから象潟行きは断念を余儀なくされた。以来、ますます学校への足は遠のき、遂には自主退学することとなった。

 肝心の象潟行きと言えば、18歳になってからすぐに運転免許を取得し、まずは伊豆半島巡りで運転技術を磨き、その年の秋に宿願の象潟の地に足を踏み入れることができた。その翌年の夏に再び出掛け、「ねぶの花」=ねむの花咲く象潟の風景に接した。西施は居なかったけれど。 

蚶満寺(かんまんじ)の山門

 蚶満寺(おくのほそ道では「干満珠寺」と表記されている)の開基は不明だが、慈覚大師円仁が整備されたとの言い伝えがある。

 現在ではこの寺の境内へは歩いて行くことが出来るが、能因法師(10~11世紀)や西行(12世紀)、それに芭蕉がこの寺を訪れた時(1689年)には、いずれも船で寺に至っている。

 象潟の地は2500年前に起きた鳥海山の大噴火にともなう山体崩壊によって岩屑雪崩(がんせつなだれ)で海が埋まり、それが波による浸食を受けて入り江が形成された。大きな岩は流れ山となって数多くの島(九十九島、つくもじま、くじゅうくしま)が入り江に浮かび、それが東の松島と対比されるような景観を呈したのである。

 やがて入り江は砂州に囲まれ、古象潟湖と呼ばれるような姿になった。それゆえ、能因も西行芭蕉も、寺の境内には船で渡ったのである。

 しかし、1804年に発生した象潟地震マグニチュード7から7.5と推定されている)によって地面が2mほど隆起したため象潟湖は干上がり湿地帯となってしまったのだ。

 これは正月に発生した能登地震と同じような逆断層によるズレによって地面が隆起したのである。今回の地震では輪島では5mほど隆起したが、象潟地震では2mほどだったと推定されている。

 ともあれ、現在、私が見た象潟は芭蕉が目にした姿とは全く異なっているものの、周辺を散策すると、かつてはここが水の上にあったことを推察することは可能だ。 

蚶満寺の庭園

 寺の境内には、写真のような池が造られている。この姿は、おそらく湖上にあった古えの姿を再現しようと造成されたものと思われる。

 先述したように、蚶満寺の来歴には不明な点が多いが、鎌倉時代に執権の北条時頼から田地の寄進を受けているので、出羽の国ではそれなりによく知られた寺だったと考えられる。

 この寺は六郷家が支配する本荘藩の領地であった。藩の財政にゆとりななくなった時に象潟地震が発生し、先に触れたように象潟の湖は隆起して湿地帯になった。そこで、藩では九十九島(九十九森とも)の豊かなクロマツの森を伐採し、水田として利用して藩財政の立て直しを図ろうとした。

 これに反対したのが蚶満寺24世の覚林で、彼は京に上り閑院宮家に嘆願して、寺を宮家の祈祷所にしてもらうことになった。安易に象潟の開発をさせないという目論見であった。この覚林の動きに激怒した六郷家は、覚林をひそかに捉え浪人として獄死させたのであった。

 これにより象潟の水田開発は進んでしまったものの、なんとか多くの森は残されることになった。命を懸けた覚林の勇気ある行動が、どうにか豊かな自然を守ることが叶い、現在、陸地化してしまったとはいえ、かつての面影を残すこの地、すなわち、能因が西行が、そして芭蕉が愛してやまなかった象潟の風景を心の中でイメージすることが出来るのである。

西施像

 中国の春秋時代、越国の勾践(こうせん)と呉国の夫差(ふうさ)は、海水の大逆流で有名な銭塘江を挟んで対峙していた。会稽山(かいけいざん)の戦いで屈辱的な敗北を帰した勾践は汚名をすすぐため、領地から美女を集めて夫差に送り、彼を骨抜きにしようと策略した。その中の代表的な美女が西施であった。

 勾践の思惑通り、夫差は美女に溺れ政治がおろそかになったために越国の勾践は「会稽の恥」をすすぐことができたのだった。反面、西施は袋に入れられ長江に捨てられるという運命となった(諸説あり)。

 西施は胸を患っていて、苦しさで何度も顔をひそめることがあった。それが一層、美しさを際立たせるということを知った近所の醜女が、西施の真似をして顔をひそめたところ、より醜く見えたので皆に笑われた。この逸話は「ひそみにならう」という言葉として現在でもよく用いられる。

 その他、呉越の戦いでは、「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」など、故事成語として今でも生きている言葉がある。

 写真の西施像が美しく見えるかどうかは議論が分かれるところだろうが、冒頭に挙げた白い衣服を羽織った像よりは愛嬌があって良いかと思う。まあ、日本の「おかめ」だって一時は美人の代名詞として使われたことがあるので、美醜は価値観の相違ということになろうか?

象潟の記念碑

 象潟の地は、1934年に国の天然記念物に指定されている。写真は、それを顕彰するために建てられた記念碑。碑には「紀年」の文字を用いているが、現在では「記念」を使うことがほとんど。しかし、意味はまったく同じなので、何の問題はないし、「紀年」と記されていることで、かえって歴史を感じさせる。もちろん、下の「潟象」も古えの記し方である。

 碑全体が傾いていることもあいまって、時代を感じさせる良い記念碑だといえる。

芭蕉が訪れたころは入り江だったのだが

 写真のように、原っぱや水田の中に流れ山が数多く並んでいる。いずれも、鳥海山の山体崩壊によってこの地まで運ばれてきた「流れ山」で、かつてはその一つ一つが小さな島を形成していた。

流れ山が造ったかつての島

 それぞれの流れ山にはクロマツが大きく成長し、小さな「島」に大きなアクセントを与えている。

かつての島も今は田畑の中の丘

 写真の流れ山のように全体が木々で完全に覆われたものもある。九十九島の別名が九十九森であったことがよく分かる流れ山のひとつである。

 こうした「流れ山」が、かつては入り江に浮かんでいたことを想像すると、確かに松島に比肩できるほど見事な景観だったのだろうが、仮にそのままの姿で現在残っていたとしても、やはり明るさを感じさせる松島に比べ、「寂しさに悲しみを加へ」るような印象を与える「陰の景観」だったと思われる。

 そういえば、私が初めて「自裁」を考えたのも、18歳のときに初めてこの景色に触れたときのことであった。

 無念なことに、徘徊老人となり果てるまで生きてきてしまったのだけれど。

羽越本線を走る列車

 次の目的地に行こうとしていたとき、すぐ横を走る羽越本線の列車が通り過ぎていった。もちろんはるか昔のことなのでこんなに奇麗な列車ではあるはずはないけれど、私が15歳の時に、きちんと下調べをして象潟への逃避行が成功していたならば、この羽越本線をつかって象潟駅に到着していた蓋然性は高い。

 そうであったとすれば、私はその時に象潟の海に消えていたかも。もっとも、私は泳ぎは得意なのでただの海水浴で終わったかも……

道の駅・象潟ねむの丘

 蚶満寺境内を出て羽越本線と国道7号線を渡り、少しだけ北方向に進むと、写真の「道の駅・象潟ねむの丘」に出る。

 1998年にオープンしたこの場所はとても敷地が広く、中心部には写真の建物がある。1階は物産館、2階はレストラン、4階は展望温泉「眺望の湯」、6階は展望塔というように、道の駅としては異例と思えるほど設備が充実している。蚶満寺には私のほか、一人だけ見物人がいたが、この道の駅には大勢の人が集まっていた。

 ところで、この道の駅は何故、「ねむの丘」と命名されているのだろうか?ネムノキはマメ科ネムノキ属の落葉高木で、日本では特別に珍しい存在という訳ではなく、私の近所の公園でもよく見掛けるほどありふれた存在である。それゆえ、ここがネムノキがとりわけ豊富という訳ではなく、やはり芭蕉の句に関係しているのだとしか考えられない。

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

 ネムノキは6,7月に水鳥の羽のようなふわふわとした花を咲かせるが、花芯近くは白く周辺に行くにしたがって淡いピンク色に染まる美しさをもつ。ただ、とても儚げに見える花であり、雨に当たるとすぐに散ってしまう。また、葉は小さな鳥の羽のような形をしており、羽状複葉なので夜になると葉を閉じる就眠運動をおこなうことで知られている。

 こうしたネムノキの特性を西施の生涯に結び付けた芭蕉の句は、傑作という以外に言葉が浮かばない。芭蕉が師と仰いだ西行の和歌を先に紹介したが、その歌は西行でなくとも作れそうであるが、芭蕉の句は、彼以外には決して生み出すことはできなかっただろう。

 西施が胸を病んでいてしばしば目を閉じるような仕草をしたこと、絶世の美しさを有してたゆえ、戦争の「道具」に用いられたことなどを完全に理解していたからこそ、西施と、「寂しさに悲しみを加へ」た象潟の地勢と西施とをネムノキを用いて両者を結びつけることができたのだ。

 ねむの丘の建物の裏手(海岸線側)には象潟公園が整備され、その中央に冒頭に挙げた西施像が置かれていた。ただ、残念なことにその像に目を向ける人はほとんどいなかった。

象潟漁港

 天気に恵まれれば象潟漁港からは鳥海山がよく見えるのだが、この日は雨雲が分厚く空を覆っていたので、山は裾野までも姿を隠していた。

 そういえば、西施は大根足が唯一の欠点であったため、常に裾の長い衣を身に着けていた。そんなことを思い出したためもあって、裾野まで雲を纏った鳥海山もまた一興のように思えた。

◎吹浦の十六羅漢

吹浦港高台にある芭蕉句碑

 吹浦にやってきた。芭蕉は酒田から吹浦を通って象潟に向かったが、私は象潟から南下して吹浦に立ち寄ってから酒田に向かった。

 あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み

 芭蕉はこの地(山形県遊佐町吹浦)を題材にして上の句を詠んでいる。温海山(標高736m)は、鶴岡市のさらに南にある山で位置としては月山の西隣にある。それゆえ、この句は吹浦で詠んだというより、酒田の沖に舟を浮かべ、夕涼みをした体験を元に作ったと考えられる。酒田は北の吹浦と南の温海との中間に位置する町だからだ。吹浦という名から夕涼みに適した柔らかな風が、芭蕉には心地よかったのだろう。

 写真の句碑は、酒田ではなく遊佐町にある吹浦港の北側にある高台に設置されていた。ここは下に挙げる「十六羅漢岩展望台」近くの広場であり、羅漢岩を見学する際には、この広場に車をとめるのがもっとも便利なのだ。

吹浦の出羽二見

 吹浦漁港の北側の海岸線に、写真の「出羽二見」と名付けられた岩が並んでいる。これは伊勢の二見ヶ浦の岩に似ていることから、それになぞられて名付けられた。二つの岩を結ぶ注連縄は、漁師たちの海上安全を祈願して取り付けられたそうだ。

 5月と8月には、注連縄の中央に夕日が沈むといい、これを見た人には良いことが起きると言われているそうだ。もっとも、中央と言っても見る角度によって時期は異なると思うのだが。きっと、どこかに見るべき場所が定められているのだろう。

羅漢像その1

羅漢像その2

羅漢像その3

羅漢像その4

羅漢像その5

 私はこの場所にきたのは出羽二見を見るためではなく、岩場に彫られた十六羅漢岩を見学するためだった。上の5枚は、その羅漢像を見て回り、印象に残ったものを掲載した。

 羅漢とは、修行者では最高の位で、部派仏教(いわゆる上座部仏教)では、預流(よる)、一来、不還と上位にゆき、阿羅漢果(略して羅漢)を得ることが修行の最終目的を果たすことになる。

 大乗仏教では、最高の境地を得た16人の羅漢が有名で、稀に十八羅漢や第一回仏典結集に参加した五百人の釈迦の弟子を五百羅漢ということがある。

 この場所には、十六の羅漢だけではなく、釈迦、文殊菩薩普賢菩薩、観音、舎利仏、目蓮の6つの像もあり、合わせて22の像が凝灰岩に刻まれている。

 これは吹浦海禅寺21世の寛海和尚が1864年に、遭難した漁師の諸霊の供養と海上安全を願って発願したもので、5年の歳月をかけて完成させた。和尚自らは托鉢をしながら石工たちを指揮した。

 完成してからは160年以上の歳月があり、日本海は冬期には荒波が諸像を襲い、合わせて岩はややもろい性質があるために形が崩れているものも多かった。

 私には、3枚目に取り上げた写真がもっとも気になった。といっても、羅漢像そのものより、その後ろの岩がサルに見えたからである。これは不信心のなせる業で、信仰心に厚い人には、そんなものには目が行かないと思う。

◎酒田港日和山公園と山居倉庫

ここにも芭蕉像があった

 酒田市街にやってきた。最上川の右岸にある日和山山頂には公園が整備されている。日本各地の港の近くには日和山と名付けられた高台が数多くある。この高台から海の様子を観察して、帆船が出航できるか否かを判断する。すなわち、日和を見極める場所なので、高台は日和山と呼ばれるようになったのである。

 現在は最上川河口には長い堤防が整備されているのでこの場所から河口付近を観察するのはやや不便である。もっとも、今では帆船はないし、日和も気象台が調べているので、日和山としての役割は終え、現在ではそれなりに広く見晴らしの良い公園としてよく整備されている。

芭蕉の句碑

 最上川の河口と言えば、芭蕉の次の句があまりにも有名であり、公園内には写真のような芭蕉像と句碑が置かれている。

 暑き日を 海に入れたり 最上川

 この句の初案は 「涼しさや 海に入れたり 最上川」であった。

 最上川を題材にした芭蕉の句では

 五月雨を あつめて早し 最上川

 があまりにも有名だが、この句の初案も「五月雨を 集めて涼し 最上川」であった。

 この二つの句とも、初案では「涼し」を使っていたが、最終的には「涼し」を双方とも外している。これは、芭蕉が「涼し」という主観性を排除し、より広大な世界を語るために別の言葉を使ったのである。こうした点が芭蕉の句が優れていることの証左になっている。

 芭蕉が師と仰いだ西行は和歌で自らの心内を素直に表現したが、芭蕉はわずか17文字で、単なる心象風景ではない宇宙観を表現したのである。人としての魅力は西行が勝るが、芸術的センスでは芭蕉のほうがはるかに優れていると私には思われる。

最上川河口方向を望む

 写真のように高台からは最上川の河口近くを望むことが出来る。先述のように現在は長大な堤防が沖まで走っているため、この場所は河口から2.4キロ遡ったところに位置する。

日枝神社の山王鳥居

 公園の隣に写真の下日枝神社があった。例年、5月20日に行われる酒田祭りは上・下日枝神社例大祭で、1609(慶長14)年から途絶えることなく続いているとのこと。

 日枝(ひえ)神社の名は、比叡山に由来しており、神仏習合の名残りがその名に留められている。

 私が関心を抱いたのは神社そのものではなく、写真の山王鳥居で、神明鳥居の上部に三角形の合掌、あるいは破風のようなものが加わっている点である。この形は東京都内にある日枝神社でも見ることができる。

 新品同様の鳥居だったので、少しだけ調べてみたところ、以前の木造のものは1964年に強風で倒壊したとのことで、現在のものは1981年に再建された。

 奥にある隋身門(髄神門とも)は歴史を感じさせる立派なものであると見受けられたが、私は不信心者なので、この山王鳥居の見物で満足した。

酒田の観光名所である山居倉庫

 酒田の観光名所としてもっとも有名なのは、写真の山居倉庫だろうか。私は酒田には何度も宿泊しているが、この倉庫群を間近に見て歩くのは今回が初めてである。酒田市内に宿泊するといっても、男鹿半島に行く途中で鳥海山に登り(車でだが)、そのあとに象潟に立ち寄って西施を偲んでから男鹿に向かう、あるいは鶴岡市の海岸線の沖にある磯に渡るため、または酒田市の沖に浮かぶ飛島に遠征するためのいずれかであって、町中を歩いたことはほとんどなかった。もっとも、山居倉庫自体はよく目に付く存在なので、酒田に泊まれば必ず視界には入った。

こちらが表側

 庄内平野日本海側有数の米どころで、その収穫した米を保管する倉庫が写真の「山居倉庫」である。酒田市の観光地としてはもっともよく知られている場所で、1893(明治26)年に旧藩主の酒井家によって建てられた。

 白壁、土蔵造りの倉庫は9棟あり、米18万俵(10800トン)が保管できるとのこと。ひとつ上の写真にあるように、倉庫内が高温にならないように南側にはケヤキが35本植えられている。今では樹齢は150年以上にまで生長しているため、このケヤキ並木単体でも十分に見応えがある。

湿気防止のための二重屋根

 倉庫の屋根は写真のように二重になっている。これは、内部の湿気を除去する働きをしている。

酒田では一番人気の景観

 新井田川に架かる山居橋から倉庫群を眺めるのが一番良い景観に思われた。2021年には国の指定史跡になったが、倉庫としての役割は翌22年に終えている。

 なお、建物の一部は観光物産館「酒田夢の倶楽」や「庄内米歴史資料館」に用いられている。

土門拳記念館

記念館の外観

 土門拳(1909~90)は1909年に酒田町(現在の酒田市)で生まれた。7歳の時には一家で東京へ、9歳の時には横浜に住んでいるので、酒田市との縁は短い。しかし、74年に酒田市土門拳酒田市名誉市民第一号に認定している。それだけ、写真家としての土門は数多くの名作を世に出しているからである。

 1980年に酒田市土門拳記念館の設立を決定し、83年に開館された。それにこたえ、土門は13万5千点にもおよぶ作品を記念館に寄贈している。もちろん、展示してあるのはその一部に過ぎないが、ほぼ全作品を貯蔵してあるのは写真家冥利に尽きるのではないか。

特別展示室

 私が訪れたときには、「名取洋之助土門拳」というテーマで二人の代表作が展示されていた。双方とも非常に強い個性の持ち主であった。1935年に名取が主宰する『日本工房』に土門が入社を許されたものの、39年には「喧嘩別れ」といった感じで、土門は日本工房を退社している。

 これはアメリカの『ライフ』誌に掲載された名取の作品の一部に土門のものが混じっていたことが切っ掛けとなっていたようだ。しかし、両人とも主義主張がはっきりしていただけに、いずれ分かれることは定めだったとも言える。

 しかし、喧嘩別れの状態になっていても、名取は土門の作品を、土門は名取の作品を、それぞれ激賞に近い形で評価し合っていたとのことだ。 

お馴染みの写真その1

 土門拳が最も愛してやまなかったのは1939年に初めて訪れた『室生寺』だった。

「たった一回の室生寺行が、ぼくに一大決心をなさしめた。日本中の仏像という仏像を撮れば、日本の歴史も、文化も、そして日本人をも理解できると考えたのである。」という言葉を彼は残し、それが1963年から75年に出版された『古寺巡礼』(全5巻)であった。

 78年には、初めて「雪の室生寺」を訪ねることができた土門は、上の一番左にある傑作をものにすることが出来た。

 ここに展示されている古寺の写真はすべて、あまりにも有名なので私が言葉を用いる必要はまったくない。

 私の姉が寺巡りが大好きだったこともあって、自宅には『古寺巡礼』が何巻か置いてあった。それを何度も目にしていたことで、私も長じてからは寺巡りが趣味のひとつになった。ただ土門のように、仏像から何かを引き出すような才能はまったくないため、私の写真に芸術性は全然といっていいほどなく、ただ単にシャッターを押しているというものばかりである。

お馴染みの写真その2

 この2枚の写真も、知らない人はほとんどいないと思われるほどよく知られた作品である。左が『筑豊のこどもたち』(1960年)、右が『ヒロシマ』(1958年)の代表作である。

 土門は「絶対非演出の絶対スナップ」をモットーに独自のリアリズム論を主張していた。その一方、「写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。そこが難しいのである。」とも語っている。

 それゆえ、彼の作品は「写真は肉眼を越える」という言葉通りのものが多い。

 私も仕事柄、「なんちゃってカメラマン」を数十年おこなってきたし、現在も本ブログのように写真を何枚も掲載しているが、腕のほうはまったく上達が見られない。「お前の写真は説明的で、学校の先生が撮るようなものばかりだ」と知人に言われたことがある。そういえば私は、「釣りバカ」一本筋になる前は学校の先生をやっていたのだった。現場では同僚からも生徒からも、もっとも先生らしくないと言われ続けたが、写真だけは先生らしかったのかも。それもダメレベルだったけれど。

サギも見学に来ていた

 記念館の横には大きな池があり、鳥たちもよく飛来していた。ときには、写真のようにサギも写真見物に来るようだ。今回のように特別展が開催されているとき、入場料は1200円となる。さすがのサギも詐欺を働くことはできないようで、このように場外から見つめるだけしかできないようだ。

いささか立派すぎる建物

 確かによくできた記念館であったが、こうした近代的な建物が土門拳には相応しかったのかどうかは少しだけ疑問が残った。

 もちろん、中身の問題ではなく、その佇まいである。なんとなく西洋美術館を想像させてしまうのだ。

 矢張り、土門拳の金字塔である『古寺巡礼』に倣い、お寺的な要素が欲しかった。あるいは、「山居倉庫」風でも……。

湯殿山総本寺瀧山寺大日坊

大日坊の山門

 出羽三山は西の熊野三山と並び称されるほど、古くから信仰の山として崇められていた。元来は自然崇拝の山岳信仰の地であったが、のちに仏教、道教儒教などが習合した修験道の山として無数の人々が、神々の峰、精霊の山としてこの地を訪れた。

 羽黒山(標高414m)は現世利益、月山(1984m)は死後の体験の場、湯殿山(1500m)は新しい命をいただく場所と考えられたようだ。羽黒山には出羽(いでは)神社、月山には月山神社湯殿山には湯殿山神社があり、芭蕉は当然ながらこの三社に詣でている。

 涼しさや ほの三日月の 羽黒山

 雲の峰 いくつ崩れて 月の山

 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもとかな

 信仰心はまったくなく、かつ体力もない私には山に登る気持ちを表出することはないが、せめてその麓ぐらいは訪ねてみようと、まずは湯殿山の遥か下方にある「湯殿山総本寺瀧山寺大日坊」(標高339m)へ出かけてみた。

 ここは「徳川将軍家祈祷所」を掲げているのであまりありがたくない気持ちもあったが、歴史は古く802年に空海が開山としたといわれる由緒のある寺なのである。かつては「教王喩迦寺」という寺号で、湯殿山が女人禁制であったために、空海はその麓に女人のための湯殿山祈祷所としてこの寺をひらいたのだとのこと。

 往時はかなり立派な建物が林立していたようだが、明治8年の火災によって焼失してしまったため、現在ある本堂などはその後に再建されたものである。しかし、山門(仁王門)だけは離れた場所にあったころから焼失を免れ、写真のように、歴史を感じさせる姿を今に残している。

 棟札には鎌倉時代のものが残されているが、専門家によればその造作などから、鎌倉時代以前のものと推察されている。開山当時のものかどうかは不明だが、1000年の時を経ていると考えても不思議ではない。

石仏群に魅了される

 下に挙げるように、本堂などは明治の大火以降のものなので、ごく普通の建物であってとくに目を惹くものはなかった。そうした建物群よりも、私は参道に並んだ写真の石仏群に関心を抱いた。この石仏はすべて表情が異なっている。それがどういう意味を有するのかは不明だが、それでもこの寺が掲げる以下の言葉に、この石仏たちが語る内容がしっかりと表れている。

 心を無にして瞳を閉じると 尊い仏の教えが聞こえてくる

本堂

 本堂はただ外から眺めただけ。相変わらずお参りはせず、少しだけ境内を散策した。大日坊といえば、真如海上人の即身仏があることでも知られている。他にも二体あったそうだが、それらは焼失してしまったとのこと。

 真如海上人は96歳のときに土中入定し、千日後に掘り出された。現代でも6年に一度、衣替えがおこなわれているそうだ。

 ともあれ、後述する月山も含め、神社には立ち寄らず、この大日坊訪問でお茶を濁した。湯殿山神社も、羽黒山の出羽(いでは)神社も、その近くまで道路が整備されているので、実際にはそれほど苦労せずとも訪ねることは可能だ。ただ、今回は時間の関係もあり、そちらは省略してしまった。再び東北を訪れることが可能であれば、次はその2つの神社を訪ねてみたいと思う。もちろん、参拝はしないけれど。

◎月山湖

月山湖の「月の女神」

 月山に向かった。それには国道112号線を使って、月山湖に至る必要がある。その湖の北側から国道112号線の旧道(六十里越街道)と県道114号線を北上すれば、月山湖スキー場まで車で行ける。旧道の入り口の標高は417m、スキー場の駐車場は1193mなので結構、高低差はある。その途中には、山形県立自然博物館(標高808m)があるので、そこにも立ち寄る予定でいた。

 その前に、月山湖(正式には寒河江ダム)のほとりで少しだけ散策した。休憩所には、写真の「月の女神」像があった。金色がこのモニュメントに相応しいかどうかは判断できないが、月山にはそれなりに似合うと、私には似つかわしくないやや甘めの判断をした。

大噴水

 月山湖でもっともよく知られているのは、写真の大噴水で高さ112mまで噴出され、これは日本一の高さを誇るとのこと。

 高さ112mの「112」は、いろいろな意味を持つ。寒河江ダムの堤高が112m、すぐ横を通る国道が112号線。これだけならそれほど感心しないが、ダム建設のために移転を余儀なくされた家が112戸となると、偶然にしてもあまりにも出来過ぎかと思える。そのためもあってか、この噴水の竣工は、11月2日の11時20分に敢えて設定したとのこと。

 この日は、この角度からでは光が足りないので、単なる水柱にしか見えないが、光の当たり具合では水たちは七色に輝くだろう。

こちらのモニュメントも気に入った

 別の場所には写真のモニュメントもあった。晴れ渡っていれば、モニュメントの背後には月山の姿が見えるはずだ。芭蕉の句の「雲の峰いくつ崩れて月の山」の通りの姿を月山はしている。私は、初めて月山を目にしたとき、すぐにこの句を思い出し、芭蕉の風雅な写実性に感心したものだった。

山形県立自然博物館

雪解け水が沢(石跳川)を生む

 私は月山を目指した。とはいってもスキー場付近までで、そこから頂上まではまだ比高は800mほどあるけれど。もっとも、山の姿を心に沁みさせるには、ある程度の距離が必要だ。例えば、私が富士山に登らないのは、登山道からは富士山の優雅な姿に触れることが出来ないからだ。とはいえ、本心は疲れるのを避けるためなのだけれど。

 標高808m付近に「山形県立自然博物館」があった。月山を目指す道からは少し離れるけれど、あえて立ち寄ってみることにした。月山登山は面倒でも、この自然博物館が整備した散策路は、月山が生み出した造形美の一端に触れることができる実に素敵な場所であった。

 写真のように山の雪解け水や伏流水が生み出した石跳川の清冽な流れに沿って散策路は続いており、トレッキング姿の老若男女が結構な数、訪れていた。私は軽装なので、ちょっぴり徘徊しただけだが、それでも十分に豊かな自然の中に身を置いていることを実感できた。

水芭蕉の群生

 写真のように、水芭蕉が群生している場所があった。水芭蕉のひとつひとつは決して美しいものとは思えないけれど、群生した姿は見栄えが全く異なり、集合美というものを表現してくれている。

山野草も多く咲いていた

 水芭蕉の咲いている場所は湿地帯に限られていたが、写真のオトメエンゴサク(ケシ科キケマン属の多年草)は至る場所に咲いていた。花言葉に「妖精たちの秘密の舞踏会」というのがあるが、それはそれはなかなか言い得て妙な表現であり、この場所に咲き誇るオトメたちはあらゆる場所で舞踏会を開催していた。

 私の目に簡単に留まるぐらいなので”秘密”でもなさそうなのだが。この花もまた、ひとつひとつではさほど目立たないが、これらが群生している姿は極めて艶なる景観であった。

残雪による造形美

 道々には残雪が多く、その中に朽ちかけた木々や岩たちが雪上に姿を現していた。写真の樹木は幹は枯れてしまったものの根は残り、そこから新しい枝を伸ばしつつあった。枝は雪の重みで曲がってしまっているもののその先は天上を目指している。光を求めて。

地蔵沼

 自然公園を出て県道に戻り、秋の紅葉が美しいと評判のある地蔵沼を少しだけのぞいてみた。もちろん、紅葉のシーズンではないので、ブナ林の緑が沼を囲んでいた。晴れていれば水面に月山の姿が映るはずなのだが、それが見られなかったのが残念ではある。

月山山頂を望んだのだが

 月山スキー場にある駐車場を目指した。スキーをする訳ではなく、少しでも山頂に近づきたいという一心であった。が、スキー場の姿は見えたものの、山頂付近は雲に覆われたままであった。

見えたのはスキー場だけ

 駐車場には結構な数の車がとまっており、雪上にも人の姿が散見された。私はスキーは生涯で2時間ほどしか経験した事がない。学校のスキー教室では、2時間程練習した後、無謀にも結構な角度の斜面を下ろうとしたとき見事に転倒し、足を捻挫したため、以後は宿泊所待機となったのだった。以来、スキーをやろうとは一度も思わなかった。

 思えば、学生時代に山中湖へスケートをしに行った帰りに中央道で大雪に見舞われて、見事にガードレールに激突したのであった。幸い、私を含めた4名に怪我はなかった。以来、スケートからも撤退した。それゆえ、私のウインタースポーツと言えば、磯での寒メジナ釣りを指すようになった。

 月山の山容を間近に見られなかったのは残念なことではあったが、その姿は頭の中にしっかり留めてあるし、雲に隠れていることは県道を走っている当初から、いや月山湖から望んだ時点から分かっていただけに、がっかり度はさほど大きくはなかった。

 次の日は山形市街や立石寺などを巡る。天気予報は晴れを告げていたので、月山の全貌に触れることは可能かと思われた。

 そうした期待を抱いて、私はスキー場から離れた。捻挫もせず、ガードレールに激突もせずに。

〔107〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(2)男鹿の地層や「なまはげ」に触れ、そして秋田市街へ

男鹿ならではの地層が見られる

◎半島の北端にある入道崎を見学

入道崎は半島の最北端に位置する

 男鹿半島の最北端に位置する入道崎にやってきた。眺めが良いだけでなく、磯釣り場が点在しており、のちに紹介する名礁の「水島」も存在する。この辺りは潮通しが良いので、釣り場としては魅力的だが、何しろ足場が低いためによほど好条件に恵まれないと磯に渡ることはできない。実際、私は何度もチャレンジしてみたものの、渡礁することはできていない。

 入道崎周辺は男鹿ではもっとも古い岩石から成り立っている。火山噴火物が固まってできた溶結凝灰岩は約7000万年前のものであり、一部には約9000万年前の花崗岩も残っている。

 日本海が出来始めたのは約2000万年前なので、この入道崎の前身はユーラシア大陸の東端にあった。恐竜が絶滅したのは約6600万年前なので、この辺りの岩場は恐竜が生きていた時代にあったことにある。

ここでも「なまはげ」がお出迎え

 入道崎の駐車場の近くには、写真のような店舗が並んでいる。ここでも男鹿名物の「なまはげ像」が出迎えてくれるが、「海鮮なまはげ丼」というのはいったい、いかなる代物なのだろうか。店舗の看板には「ウニいくら丼」とあるので、こうした海鮮品が盛られているのだろうが、もしかしたら、なまはげのミニチュアが添えられているのか、それとも店員がなまはげの恰好をしているのか少しだけ興味があったのだが、いざ、その実体を知ると「がっかり」する可能性が高いため、想像するだけに留めておいた。

灯台の配色はよく目立つ

 この入道埼灯台は「日本の灯台50選」に選ばれているが、確かに白黒の配色はなかなか素敵で、しかも夕陽を望むのには格好の場所に位置するため、選定された理由は十分に納得できる。

 入場料300円を払えば灯台に上ることはできるが、灯台に上らなくとも岬の先端部は標高22~33mあるので、周囲の眺めはすこぶる良い。

 なおこの灯台は北緯40度線上にあり、そのことを示す標識が置かれている。

岬の西側は浅瀬が続く

 写真のように、岬の西側の崖下には浅瀬が続いている。露出している岩礁が数多くあるが、沖にある横に長い岩場は周囲が比較的水深があるために磯釣りは十分可能で、実際、写真では少し分かりづらいが、2人の釣り人が竿を出していた。この日は凪が良いので、安心して釣りができそうだ。

標高僅か1mの水島

 秋田を好んで旅行をした菅江真澄はもちろん、この水島を目にしたはずだ。

 この島は標高1mしかないが、日本海は干満の差が小さいので、この日のような凪の日には渡礁してクロダイ釣りをすることが可能だ。入道崎からは660mの距離にあるが、島自体は、一帯が隆起したときに波蝕台となったその名残だろうか。

東側には急峻な崖が続く

 東側には急峻な崖が続く。崩れた溶結凝灰岩は荒波にさらされ、海岸線には丸くなった石が転がっている。この石は非常に硬く熱に強く一度熱すると冷えにくいので、石焼料理に用いられる。私も何度か、地元の釣り人にその石焼料理をご馳走になったことがある。

 ガスコンロで熱したフライパンで焼くのと同じことなのだが、やはりこの地ならではの石焼のほうが美味しく思えた。料理は舌だけで味わうのではなく、見た目や雰囲気でも味わいは随分と変わってくる。

 こうしたことは生成AIに読み込むことはできても、AIに実感させることは不可能である。

海底透視船乗り場

 4月中旬から10月までの季節限定だが、入道崎からは海底透視船が運行されている。写真に写っている水島との間を行き来するもので、海の底を眺めながら約30分の豊かな時間を過ごすことができる。様々な魚や海藻類の揺らめきなどとの出会いは良き想い出になることだろう。

この崖は「鹿落とし」と名付けられている

 この崖は「鹿落とし」と名付けられている。男鹿には多数の鹿が生息しており、ときには増えすぎてしまうことから、鹿たちをこの崖(海まで20から25mの高さがある)に追い詰めて海に落とすことで数を調節していたそうだ。今では多方面からの非難を受けるため、こんな営為はとてもできないだろう。

◎1500万年前の地層が見られる西黒沢海岸

西黒沢海岸の景観

 入道崎から次の目的地である西黒沢海岸に向かった。県道55号線(入道崎寒風山線)を西南西に4キロほど進むと、左手に海岸線に出られる細い道がある。小さな集落があるが、この道を使うのはそこに住む人か、西黒沢分港(畠漁港)に用事がある人か、私のようなその地の地層に魅せられた好事家ぐらいだろう。

 実際には、港には一人の漁師らしき人はいたが、海岸線を見て歩く”好きもの”は私だけであった。

広々とした波蝕台

 ここでは、写真のように約1500万年前の海底面が露出している。1500万年まえというと丁度、日本海が現在のような姿になった頃なので、海で堆積した地層をこうして目にすることが出来るのだ。

波蝕の様子がよく分かる

 波打ち際は段々になっており、波によって浸食された様子を見て取ることができる。

ここも大きな波蝕台だったのだろう

 目を少しだけ漁港方向に転じると、水面下ギリギリのところに広く、そして平たい沈み根を観察することが出来る。先に見た「鵜ノ崎」では岩場が洗濯板のようになっていたが、ここでは平らなまま残っていることから、この辺りは褶曲を受けていないことが分かる。

化石を探したのだけれど

 化石が多数発見されている場所なので、私も少し探してはみたものの、貝殻らしきもののほかは取り立てて特筆すべきものは見当たらなかった。資料によれば、ホタテガイの仲間、カキやウニ、松ぼっくりパレオパラドキシアというカバに似た哺乳類のあごの骨も発見されているそうだ。

 私にはじっくりと観察する能力が欠けているので、今までの長い人生でも「発見」というものを体験したことがない。ごく稀に未知のものに出会ってたと思っても、実は勘違いだったということがそのすべてで、せいぜいのところ、1円玉を見つける程度なのだ。

先端部はきれいに磨かれていた

 こうした地層面に出会うと、自然ほど芸術的なセンスを有しているものは存在しないということが理解できる。所詮、人間が生み出したものは、どんなに優れた作品であっても、せいぜいのところ、自然にとっては「染み」程度のものでしかないのだろう。

 もっとも、その「染み」ですら私には生み出すことはできず、はたまた、その「染み」にも、ときには大きな感動を受けてしまうのだが。本ブログで言えば、第80回で取り上げたリヴィエールの『エデンの園』のように。

◎安田(あんでん)海岸も地層の宝庫

50万から8万年前の地層が見られる安田(あんでん)海岸

 写真の安田海岸は、北浦と五合里との間にある。と言っても、地元の人以外はそれだけでは全く場所の見当が付かない。前回に男鹿半島の成り立ちに触れた際、半島は元々島であって、北側の米代川と南側の雄物川が運んだ土砂が砂州となって陸繋されてできたと説明した。その北側の砂州が伸びたところに五合里海水浴場があり、そのさらに先にあるのが安田海岸だ。

 それゆえ、西黒沢から安田までは直線距離で10キロ、実際には車で県道55号から国道101号を東に進み、浜田集落に入ってから左折して海岸線に出るため、実際には13キロほどの距離になる。もっとも、この辺りの道は混雑とは無縁なので、時間的には20分もかからずに移動できるのだが。

 海岸線には狭い駐車スペースがあるが、そこには地質に興味がある人しか訪れることはない(海水浴シーズンは別だろうが)ので、私が行ったときには他の車は見掛けなかったし、砂浜にも人影はなかった。というより、砂浜には人の歩いた足跡さえまったくなかった。

整然と並んだ地層もある

 駐車スペースから海岸に降りて、地層がよく見える場所まで数分、歩くことになる。それはどうということはないのだが、途中に小川があり、私の行く手を遮った。後で調べて分かったことだが、解説にはしっかり「途中に小川があるので、長靴の用意が必要」という但し書きがあった。

 小川の幅は狭いところで3mほどで、河口付近では浅いが幅は相当に広くなる。おまけに砂浜なので、足を取られることは必定だ。といって、幅の狭い場所は流れはやや早く、深さもそれなりにある。55年前なら私はスポーツが得意だったので、走り幅跳びの要領で飛び越えることは可能だろうが、今ではその半分の長さでも超えることは不可である。

 周囲を見回した時、太さが15センチで長さが3mほどの枝木が見つかった。それを渡せば良いと思ったのだが、それはなかなか重く、渡そうとしても流れに押されて向こう岸まで届けるのに難儀した。ただ、その枝はへの字の形だったので、向こう岸近くのに底に差すことは可能だった。ただ、それだけでは私が枝に乗ったときに動いてしまうので、周囲にあった細い枝を何本か集めて枝を固定した。その甲斐があって、私は小川を渡ることが出来た。なお、その太い枝は帰りにも必要があるため、流されてしまわないように渡った側の岸に引き上げておいた。そんな苦労の甲斐があって、私は上の写真のような地層を目にすることができたのだった。

 ここの地層は1万年から160万年前のものを見ることが出来るが、主なものは8万から50万年前の「鮪川(しびかわ)層」という砂層が主体のもので、その間に泥層や亜炭層(植物の炭化がやや進行したもの)がある。

 なお、安田海岸の地層は基本的には右肩(西側)上がりである。これは西側の地面の隆起が進んでいるからと考えられている。

不整合に重なる地層もある

 もちろん、長い年代を経ているのだから、地層は単純に右肩上がりになっているわけではなく、写真のように褶曲を受けた上に水平に重なった地層を見ることもある。

白っぽい帯が見える

 地層の重なりに中に白っぽいものが挟まれて帯のようになっている場所がある。

白いのは貝の化石

 この白いものの正体は貝の化石で、これが何層にも重なっているのである。資料写真で見ると、この化石の層ははっきりしているのだが、何らかの理由で化石の量はかなり少なくなっている。

この地層から、地球が生き物であることが想像できる

 ともあれ、写真のような地層を眺めていると、生き物は単に動植物だけでなく、地球全体が過去から現在に渡って生き続けていることが分かる。

 この安田海岸で地層を眺めていると、サピエンスが現在、この大地に跋扈していることなど、ほんの短期間に過ぎないことが実感される。その短期間に、サピエンスはこの地球環境を大きく改変してしまっているのだが。

真山神社と「なまはげ館」

真山神社の山門

 男鹿を代表する真山と本山は、第12代の景行天皇(70~130年)に仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)が男鹿山に立ち寄った際に、湧出山(現在の真山と本山)に登り、使命達成、国土安泰、武運長久を祈願するために、ニニギノミコトタケミカヅチノミコトの二柱を祀ったのが信仰の山となった始まりとされている。

 もちろん、景行天皇武内宿禰は伝説上の人物と考えられているので、上記の話ものちの人が作り上げたに相違ない。

 景行天皇の御代というと、わが府中市にある大国魂神社も、この天皇の代に始まったとされる。これほどこの天皇が持ち上げられるのは、その子にヤマトタケルがいるからであろうか。もちろん、それも伝説にすぎないのだが。

拝殿への階段

 それはともかくとして、平安時代初期に活躍した円仁(慈覚大師)がこの湧出山を二分し、北を真山、南を本山として山岳信仰霊場としたのが始まりともされている。

真山(標高567m)への登山道

 真山神社では、なまはげが登場する「なまはげ柴灯(せど)まつり」という特異神事が1月3日の夕刻に境内でおこなわれる。伝承によれば、平安時代末期から続く祭儀とのこと。境内に柴灯を焚き上げ、この火によってあぶられた大餅を受け取るために下山するなはまげは、この神の使者(神鬼)の化身だと言い伝えられているそうだ。

 また、2月の第二金から日曜日には、男鹿市の行事として、真山神社を会場に「なまはげ柴灯祭り」が開催される。

 かように、真山神社なまはげとは切っても切れない関係にあることから、下に挙げる「男鹿真山伝承館」や「なまはげ館」が、神社の麓に置かれているのである。

なまはげの玉」と名付けられたモニュメント

 なまはげ館に立ち寄る際、林の中に写真のようなモニュメントが置かれているのを見つけた。大理石の大きな球に、モザイクで男鹿の海と山と夜空、それに三体のなまはげが表現されている。

 初めは今一つピンとくるものがなかったが、一旦、海と山と夜空となまはげの姿を見出だしてしまうと、それは見事な意匠だと感心させられた。

 林の中にあるため、やや人の目に付きづらい場所に置かれているのが残念なことだと思った。なまはげ館に行く人は多いのだが、この「なまはげの玉」の存在に気付く人は意外に少なかったのだ。

男鹿真山伝承館

 2013年に下に挙げる「なまはげ館」がオープンしたので、写真の建物は「男鹿真山伝承館」として、なまはげの行事を体験できる「なまはげ習俗学習講座」などが開設されている。

なまはげ館」と名付けられた立派な建物

 ところで、「なまはげ」とは一体、何を意味するのだろうか?私は60歳過ぎからとみに頭髪が薄くなり、現在は「ぜんはげ」に近い状態になってしまったので、中途半端に頭髪を残していても往生際が悪いので、バリカンでわずかに残った髪の毛をほぼ頭から消し去っている。

 ただ、「なまはげ」はいわゆるハゲとは関係がなく、「ナモミを剥ぐ」というのが語源だそうだ。

なまはげ館」の入場口

 「ナモミ」とは、寒い日に囲炉裏端にかじりついて何もしないでいると手足に火斑ができる。これは怠け者の証拠なので、この温熱性紅斑=ナモミをはぎ取るというのが「なまはげ」の役割なのだそうだ。つまり、「ナモミを剥ぐ」ということから「なまはげ」という言葉が生まれたのだ。

 この「なまはげ」は国の重要無形文化財ユネスコ無形文化遺産に指定されているが、秋田県ではこれを「ナマハゲ」とカタカナ表記している。が、ここ男鹿では通常「なまはげ」と平仮名表記している。

入り口でお出迎え

 「なまはげ館」に初めて入場した。出迎えてくれたのは写真のなまはげ君で、髪の毛はフサフサなので、ハゲとは無関係であることがよく分かる。

色々なお面が手作りされている

 なまはげの風習は男鹿市のみならず、八郎潟にある三種町、のちに紹介する「道の駅・てんのう」がある潟上市などに伝わる民俗行事で、200年以上の歴史があると言われている。

 「泣くゴ(子)は居ねガー」「悪いゴ(子)は居ねガー」と、とくに子供たちを相手に脅す?風習は、おそらく知らない人は居ないであろうと思えるほど有名である。

 このなまはげが被るお面は手作りされ、写真のようにいろいろな表情のものがある。

地域によって異なる姿をしている

 先に挙げた地域には148もの地区があって、その80もの地域でなまはげの行事がおこなわれているそうだ。

私が子供だったら真っ先に襲われそう

 それゆえ、地区によってなまはげの姿や表情は相当に異なっており、私が想像していたなまはげの姿よりはるかに多種多彩で、誠に豊かである。

 私は「悪い子」の代表のような存在だったので、近所にあった幼稚園では兄や姉、また近所の同年代の子供たちがほとんど入園したにもかかわらず、私だけ入園を断られたと親から聞いたことがあった。もちろん、私にはそんな窮屈な場所に行くつもりもなかったが、今にして思えば、その幼稚園はキリスト教系であったので、信仰に反するのではないのかと思う次第である。

 もちろん、私が男鹿生まれだったとすれば、真っ先になまはげの標的にされたのではなかろうかと思う。

八郎潟調整池と道の駅・てんのうにある「天王グリーンランド

八郎潟調整池と水門

 八郎潟についてはすでに触れている。17000haもの広さが埋め立てられてしまったため、かつては日本で2番目の広さを誇った湖沼の面影はまったくない。南部の調整池はまだ幾分、かつての姿を少し残しているが、北部の東部承水路や西部承水路は埋立地の外周を取り囲んでいるだけなので、その名の通り、水路にふさわしい姿になってしまった。

 写真は、南部に残る調整池のもので、船越水道と調整池との間にある防潮水門の姿である。

水門のはるか先には寒風山が

 写真は、防潮水門を調整池側から見たものである。水門のずっと先には寒風山が見える。先には、その寒風山頂から見た調整池の姿を掲載している。

天王スカイタワーから白神山地を望む

 船越水道を越えると、地名は男鹿市から潟上市になる。写真に挙げた場所は「道の駅・てんのう」のもので、ここは相当な広さをもった場所で、道の駅としての施設のほか、「天王グリーンランド」という公園を有している。

 道の駅の象徴として高さ59.8mの「スカイタワー」があり、無料で最上階の展望室に上がることが出来る。写真はそのタワーの展望室から北方向にある白神山地を望んだものである。

公園内にある大きな沼(鞍掛沼)

 天王という地名は珍しいと思えるが、東京近辺には横浜市保土ヶ谷区にある。また、品川区にある「天王洲アイル」は新しい観光地として脚光を浴びている。ことほど左様に、「天王」と付く地名を全国で探してみると、意外にも多く見つけることが出来る。

 秋田県天王町は2005年に近隣の2つの町と合併して潟上市となったが、字名としてはしっかり残っており、「道の駅・てんのう」というように、潟上の名よりも天王のほうが現在でも通りはよいようだ。

 天王の地名の由来はすべて共通しており、「牛頭天王」に関係している。日本ではスサノオの化身が牛頭天王であり、神仏習合から言えばスサノオの本地が牛頭天王となる。それゆえ、全国各地に「牛頭天王社」が存在し、それがもとになって天王町を名乗っているのである。ただ、天王洲だけは、江戸時代に漁師の網に牛頭天王の面が入ったことから、そのあたりの海を「天王洲」と呼ぶようになり、それが今日まで至っているのだ。

いささか卑しすぎる沼のコイ

 「道の駅・てんのう」には、天王グリーンランドというかなりおおきな公園が付随されていたので、少しだけ散策してみた。写真のように公園には鞍掛沼という大きめの池があり、たくさんのコイが放流されていた。

 池には「鯉の鑑賞デッキ」が整備され、ここは餌やり場になっていることから、写真のように数多くのコイが蝟集していた。こうした姿はいろいろな池で見ることが出来るが、これほどまでに卑しく集まっている姿も珍しい。

意味不明のモニュメント

 池に掛かる橋を渡り、南側にある「八坂の滝」「歴史の広場」を訪ねてみることにした。写真のように池には船がつないであるが、マストには赤い身体をした人間らしきものが座っていた。解説文はなにも存在しないので、この存在の意味を理解することはできなかった。

三内丸山の大型掘立建物はここにあった!?

 「歴史の広場」には弥生時代を思い起こさせる竪穴式住居などが再現されていた。が、一番目に付いたのは写真の大型掘立建物で、これは明らかに「三内丸山遺跡」のものが元になっている。とするならば、ここは縄文の世界なのかもしれない。

スサノオの本地は牛頭天王

 「八坂の滝」の前には、いくつかのモニュメントが置かれていた。写真は橋の近くにあったものだが、スサノオが牛に乗って進軍している姿が再現されている。もちろん、スサノオの時代に馬は存在しない(日本に馬が入ったのは4世紀頃と考えられている)ので、牛が重要な乗り物?なのだ。

スサノオ櫛名田比売稲田姫

 スサノオは奥出雲に出掛けた際、老夫婦と一人の娘に出会った。老夫婦には8人の娘がいたがすでに7人が八岐大蛇に食べられ、今回も残った櫛名田比売も食べられてしまう運命にあるとのことだった。そこでスサノオはその娘を嫁にもらう代わりに大蛇を退治するという約束を得た。 

退治された八岐大蛇

 見事、スサノオは約束を果たし、写真の八岐大蛇を退治したのであった。

 こうした伝説を折角、モニュメントとして残したのだから、せめて、グリーランドの職員には、周囲の雑草を退治していただきたいと、切に願った次第である。

風力発電施設と久保田城

県道56号線(秋田天王線)に沿って並ぶ「大型扇風機」

 翌日は、昔からの知り合いが男鹿の磯で身内を中心にした釣り大会を開催するということなので、その様子を取材するために男鹿市に近い場所に宿を取った。が、当日は生憎の大雨となってしまったので、取材は断念し、秋田市内を少しだけ見て回ることにした。

 とはいえ、土砂降りの中で見学に回るのも気が進まなかった。とはいえ、宿にいてもすることがないので、車で少しだけ出掛けることにした。

 もっとも気になっていたのが、県道にずらっと並ぶ風力発電の風車で、寒風山の山頂から秋田市街方向を眺めた際には、必ず、この姿を撮影しようと心に決めていた。が、この悪天で見通しが相当に悪くなったことから、「ずらっと並ぶ」姿を撮影することは叶わなかった。

今後の主力となるだろう洋上風力発電

 一方、秋田沖では洋上風力の開発が本格化している。脱炭素には、太陽光と風力発電が主力になるのだが、日本では風力ではかなりの遅れをとっている。それを挽回するためには洋上風力の開発が必至なのだ。

 ただ、日本の海には遠浅の場所が少ないため、着床式を設置する場所には限りがあるので、どうしても浮体式が主力とならざるを得ない。が、技術的には困難な点が多いために計画されているほど進展は見られない。

 しかし、気候変動対策にはこの開発が不可避なので、技術者たちには頑張って効率が良く、しかも安全な浮体式の風力発電設備を多く完成していただきたいと切に願っている次第だ。

久保田城の本丸跡

 久保田城跡(千秋公園)に入ったのは今回が初めて。私の秋田市街における定宿はこのすぐ隣にあるホテルで、ホテル名にも「キャッスル」が付いているにも関わらず、城内に足を踏み入れたことは一度もなかった。

 今回もとくに興味があったわけではなく、ただ雨が非道くて行き場所がなかったことから、時間つぶしをするために立ち寄ったというのが実際なのであった。

 城主の佐竹氏は江戸時代の大名の中では最も由緒があり、それに次ぐのは薩摩の島津氏で、後の大名は、戦国時代の混乱に乗じて成り上がった者たちばかりで、ほとんど「どこかの馬の骨」が、たまたま成功して城持ちになっただけだ。

久保田城表門

 佐竹氏は長い間、常陸国にいて、54万石とも80万石とも言われるほどの大勢力を誇っていた。が、関ヶ原の戦いでは西軍についたために本来ならば大名の地位を追われるはずであったが、家康が「名門好き」であったことが幸いして、1602年に秋田に移封され、かつ20万5千石に減じられたものの、大名の地位は守られた。

 もっとも、秋田は米、木材、金銀が豊富にとれる場所であったため、実際には20万石をはるかに超える豊かな藩だった。

 1603年に窪田にある神明山に城造りを始め、翌04年には完成した。これは石垣はほとんど使用せず土塁で済ませたこと、天守はなくていくつかの櫓(やぐら)を建造しただけだったことから完成が早かったのである。

 1645年に窪田城から久保田城に名称変更した。このため、一般には久保田藩と呼ばれている。

 1880年の大火で、城内の建造物はほぼ焼失した。それゆえ、写真の本丸表門は2001年に再建されたものである。 

復元された隅櫓

 写真の隅櫓は1989年に再建されたもので、こちらは表門のような木造ではなくコンクリート造りになっている。

千秋公園の胡月池

 本丸・二の丸は千秋公園として無料で公開されている。二の丸には写真のような池が整備され、大雨でなければゆっくりと散策したいと思わせるような造りである。

久保田藩最後の藩主・佐竹義堯(よしたか)像

 本丸の中央には、最後の藩主である佐竹義堯公の像があった。ちなみに、現在の秋田県知事は佐竹敬久氏であるが、名字から分かる通り、佐竹一族の出身である。

 いよいよ次回は、半世紀以上前から私がもっとも行きたいと思っていた象潟から始めることになる。

〔106〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(1)男鹿半島周遊~男鹿駅から海岸線を走る、そして男鹿水族館へ

男鹿と言えば「なまはげ

ジオパークと生態系公園

男鹿は地質学の宝庫

 男鹿半島は私の〇番目の「ふる里」である。もっとも、私にとって本当のふる里は府中市であるが、放浪癖のある私には、居心地の良い場所を発見してしまうと、そこが〇番目の「ふる里」になってしまうのだ。

 ここで紹介する男鹿半島も、いずれ触れる象潟も、すでに何度か紹介している和歌山県古座川町の小川(こがわ)も、奈良の山の辺の道も、長野の安曇野も、京丹後の久美浜も、倉敷、尾道、鳴門も、みな「ふる里」なのである。

 男鹿の場合は、そのに住む人々があまりにも温かい心性を有しており、また地質学的に特異な存在であり、大型のクロダイが数釣れるところから、勝手に「ふる里」と称しているのだ。もっとも、男鹿の魅力はそんな半端な言葉では言い表すことができないほど深い魅力に満ちているのだが、心中を具現化する能力に乏しい私には、他の語を継ぐことができないのだ。

男鹿市若美庁舎の2階にある

 私が宿泊した大潟村のホテルからほど近い場所に「男鹿半島・大潟ジオパーク」があるとのことなので出掛けてみた。写真の庁舎の2階にあり、かなり広いスペースを取って様々な展示をおこなっていた。ただ、観光客には寄りにくい場所にあるためか、見学客は私ひとりだった。そのためもあって学芸員の方が懇切丁寧に説明してくれることになり、私にとっては歓迎すべき出来事となった。約2時間、付きっ切りで案内してくれ、また、私の拙い疑問に対してもきちんと回答してくれた。そのためもあって、私は話に夢中になってしまったことから、室内の写真撮影を失念したことを後で気づいたほどであった。

 ジオパークは日本各地の至るところにあるが、内容が充実している点では、この「男鹿・大潟」と群馬県の「下仁田」が双璧であると思えた。

資料は豊富、解説は丁寧

 男鹿半島には、かつて日本がユーラシア大陸と陸続きであったころからの地層が数多く残っていることで、地質学ファンには堪らない場所である。

 日本はかつて、海洋プレートの沈み込みのときに、その上部が削り取られて大陸の東岸に付加された。その最後の付加体が、中央構造線の下部(東京もその一部)である。もっとも、日本列島が形成されてからも、今度はフィリピン海プレートの沈み込みによって付加されたものとして伊豆半島丹沢山地があり、いずれは大島も八丈島も付加されると思われるので、日本全体が付加体だといっても過言ではないのだけれど。

 日本が大陸から離れたのは約2000万年前とされているが、その理由はまったくと言っていいほど解明されていない。さらに、日本海が現在のように広くなったり、列島がやや折れ曲がった形になっている原因も諸説ありすぎて定説と言えるものはまったくない。個人的には「ホットリージョンマイグレーション説」が正解に近いと考えているが、それはあくまで素人の推察にすぎない。

 1500万年前は、まだ男鹿半島は浅い海の底にあり、1000万年前には沈降して、一時は海底2000mほどのところにあった。

 それが徐々に上昇し、本州と陸続きになったのは1万年ほど前の縄文時代の頃だ。それが6000年前の縄文海進によって半島の付け根部分が水没して島となった。が、北からは米代川、南からは雄物川が土砂を海岸まで運んできたために砂州が伸び、2000年前の弥生時代には南北の砂州が島とほぼつながり、やがて現在のような長靴型の男鹿半島が形成されたのである。つまり、男鹿半島は陸繋島であり、南北の砂州が埋め残した場所が八郎潟だ。つまり、八郎潟海跡湖に定義される。

 こんな話を学芸員の方に教えてもらい、さらに大陸と陸続きであった痕跡の残る場所や、男鹿の変遷を見られる場所などを指摘していただいた。実は、その大半の事柄は私にとって既知のものであったし、とりわけ、海岸線については釣り場探しも兼ねてよく出掛けていて知っていたのだが、彼の熱心な説明に敬服して、私にとっては例外的なことであったが、その解説をひとつひとつ頷くように聞き入っていたのであった。

 というわけで、ジオパーク見学は収穫の多いものであり、24年の5月にも男鹿に出掛ける予定でいるので、この場所には是非とも再訪したいと考えている。

生態系公園の温室

 八郎潟の多くは1957年に始まった干拓工事で埋め立てが進み、64年に工事が完了したときには、その規模はかつては琵琶湖に次ぐ大きさであったものが、現在では日本で18番目のサイズに縮小し、名前も「八郎潟調整池」に変更された。

 その埋立地に写真の秋田県農業研修センター・生態系公園があるというので、初めて訪問してみた。公園自体は散策に適しているような場所だが、埋め立て地の多くが未開発の場所なので、わざわざ公園まで出掛ける必要はないと思えたが、そこに温室があるということなので、それを目当に訪ねてみた次第だ。

マンデビラ(商品名はサンパラソル)

 温室の中には、珍しい熱帯性植物や、普通の花壇でも観られるような数々の植物が育てられていた。ここは「研修センター」なので、普通の花の育成も重要なのだろう。とはいえ、花も私の趣味のひとつで、以前にこのブログでもしつこいくらいに花たちを紹介しているので、ここでは、以前に触れていない種類のものを取り上げてみた。

 写真のマンデビラはキョウチクトウ科マンデビラ属の多年草。つる性で、高さは30センチから3mにまで伸びることがある。春から秋にかけて長い間開花する。南米原産の植物なので耐寒性は弱く、8度以下になると枯れてしまうことがある。

 サントリーが「サン・パラソル」の名で発売して人気を博したことから、マンデビラの名よりもサンパラソルで流通していることが多い。 

フェイジョア・クーリッジ

 フトモモ科アッカ属の果樹。ウルグアイパラグアイなどが原産地。果実は10月下旬から12月中旬に収穫される。キュウイに続く果実として日本にも輸入されたがほとんど広がりを見せていない。

 グレース、マンモス、トライアンフ、クーリッジなどの品種があり、写真のクーリッジが食味が良いとされている。写真のように花が美しく、丈夫な常緑低木なので、庭木や公園樹に用いられることがある。

ニューサイラン(40年に一度咲く花)

 キジカクシ科フォルミウム属の多年草。茎はなく、地面から革質の鋭い葉を扇状に伸ばす。葉からは繊維が採れ、織物、マット、漁網などの原料にもなり、原産地のニュージーランドでは重要な産品になっているとのこと。

 花は40年に一度咲くといわれるほど珍しいそうで、この温室ではたまたま花芽を付けていたため、「注目」の張り紙が傍にあった。私にとってはとても幸運なことで、少なくともこの場所では二度と花を目にすることはできない。偶然の出会いに感謝である。

バロータ・スペキオサ

 ヒガンバナ科キルタンサス属の球根植物で夏に開花する。原産地は南アフリカのケープ地方。属名のキルタンサスは花筒が曲がっているところから名付けられた。

 写真のように、クンシランによく似た美しい花を咲かせることで、日本でもまずまずの人気がある。

◎男鹿駅界隈

男鹿ではおなじみの釣具店

 大潟村を離れ、寒風山に今一度寄ったのちに、男鹿駅を目指した。写真は20数年前からお世話になっている男鹿を代表する釣具店で、店長は釣りの名手で磯釣りの全国大会で優勝した経験をもつ。

 ここにくれば男鹿の釣況はすぐに入手できるが、今回は釣りで訪れたわけではないのでどこの釣り場が良いかの情報を聞くことはせず、まずは久方ぶりの邂逅を喜び、互いの近況報告をおこなった。とはいえ、店長は地元ラジオ局の取材、翌日は友人の結婚式への出席が控えていたため、ゆっくりと語り合うという訳にはいかなかった。

 24年には釣り具を積んで、5月末の船川港祭りの時期に合わせてこの地に出掛け、久しぶりの男鹿磯でのクロダイメジナ、ホッケ釣りと、地域色豊かな祭りを楽しみにして再度出かけてくるという約束をして、私はすっかり様相の変わった男鹿駅周辺を探索することにした。

男鹿駅の出入口

 釣具店のすぐ西側にあるJR男鹿駅に立ち寄った。そのあまりの変貌ぶりに驚いた。かつての駅舎は古民家風を装っていたが、2018年に建てなおされたものは、いかにも今風という感じで、これが男鹿駅である必然性はまったく感じられないのである。

 駅の利用者が急増して、今までの木造駅では乗降客が溢れかえってしまうのならば、防災上の観点からも致し方ないかもしれないが、実際には利用客は私がよく男鹿を訪れていた時に比べると急減している。

 2000年代は1日の乗降客数は550~650人、10年代は270~550人に減り、22年は247人まで減じているのである。

 この新駅舎は、駅前周辺の整備事業と関係しているものと考えられた。駅の南側には「道の駅・おが」が出来ていた。それと連携するためか、駅の出入口は、以前は西向きだったが、新駅舎は南向きになっているのである。

ここにもなまはげ像が

 新駅舎の西側ロータリーには、写真のなまはげ像があった。これは男鹿の民俗を代表する存在なので、駅前にあって当たり前なのだが、以前にあったものより小振りになってしまったようで、もはや、なはまげだけでは観光客を呼び込めないと考えたのかもしれない。

 そうだとすれば、残念なことである。

男鹿線には未だ乗車せず

 列車の姿も大きく変わった。かつてはローカル色豊かなディーゼル車(気動車)であったが、2017年に導入された「ACCUM」(交流用一般型蓄電池駆動電車)に置きかえられていたのである。

 これならば、ディーゼルでなくとも架線は不要で、しかも音も静かだ。が、ローカル線のイメージが欠落してしまったため、情緒や郷愁を感じることはもはやできない。

 私は男鹿線には一度も乗車したことがなかったが、下に挙げる定宿の古典的ホテルからはしばしば男鹿駅を眺めていたし、そもそも駅前ロータリーによく車を止めていたことから、いつかは男鹿線に乗ろうという思いがあった。が、この「電車」や駅舎からは是非とも乗ってみたいという気持ちは完全に消えてしまった。

跨線橋から男鹿駅方向を眺める

 かつて、駅の出入口は西向きだったことから、駅のすぐ北側には跨線橋が造られていた。しかし、出入口が南向きになってしまったために、跨線橋そのものはまだ残っていたものの、利用者はほとんど皆無に近い状態なので、それはすっかり古びたものとして放置に近い扱いになっているようだった。

 その跨線橋から男鹿駅と電車を眺めてみた。電車の向こう側にある白い平面的な建物が新駅舎である。

かつてはここにもサケが遡上した

 跨線橋の近くには、写真の小さな水路がある。現在はコンクリートの三面張りになっているが、かつては自然のままの小川といった感じだった。そのためもあり、こんな小さな流れにも産卵のためのサケが遡上し、地元の釣り仲間はこのサケを網で捕獲して、卵を数多く手に入れていた。もちろん、違法行為なのだが地元の人々は結構、普通の行為として収穫していた。

以前はよく利用した古典的ホテル

 写真は西側のロータリー兼駐車場に面した場所にある古いホテルである。私が初めて男鹿に宿泊したときこの古めかしいホテルを利用した。というより、男鹿駅近くにはこのホテルしかないため、朝早く起きて地元の釣り人とともに釣り場に向かうには便利な場所にあったからだ。

 3階建てだが、宿泊できるフロアは3階部分だけだ。部屋は狭く、設備は相当に年季の入ったものであったが、昔の建物は壁が厚かったので、昨今のビジネスホテルとは異なり、隣の部屋の人が発生する声や物音はほとんど聞こえなかった。もっとも、宿泊客も少なかったというのが最大の理由だが。

 今回の旅でも久し振りに利用してみる予定だったが、近年はレトロブームなのか、単に安いからなのかは不明だったが、部屋は埋まっていて予約することはできなかった。話によれば、息子の代になってサービスが良くなったというのも理由のひとつらしい。

さびれた駅前通

 駅の出入口の向きが変更されたためか、ロータリーに面した駅前通りはすっかり寂れ果てていた。その理由は簡単明瞭で、周囲に近代的施設ができたからである。

 駅の向かいには「道の駅・おが」が出来、その中には観光施設の「オガーレ」がある。また、男鹿マリーナの北側には「ОGAマリンパーク」が新設され、船川港の構内には「男鹿ナマハゲロックフェスティバル」なる会場も造られていた。

 こうして男鹿駅周辺は、もはやどこにでもある何の変哲もない場所に変わり果ててしまった。男鹿に限ったことではないが、日本全国、町は金太郎飴のようにどこに行っても同じような表情になってしまった。

◎鵜ノ崎海岸

泥岩層の海岸が沖合まで続く

 男鹿駅周辺を歩いても私の目を惹くものは特になかったため、市街を離れて半島の魅力が満載の海岸線を見て歩くことにした。先にも触れたように、半島は長靴の形をしているが、見ごたえのある海岸線は靴のかかとからつま先部分にある。ただ、地層という点では甲の部分も見逃すことはできないが、それらについては次回に触れることになる。

 最初に出会う魅力的な海岸線は”かかと”部分に位置する「鵜ノ崎海岸」だ。写真のように、ここは浅い海岸が沖合数百m続いており、傾斜した泥岩層の端の部分だけが顔を出し、干潮時には洗濯板状(鬼の洗濯板とも言われる)に見える。これは波によって削られたもので、波蝕台と呼ばれている。もっとも、1000万年前は水深2000mの地点にあり、それが次第に隆起して現在の位置まで盛り上がった。

 深海層に在った際にケイソウ類の植物プランクトンが大量に発生し、その死骸が泥になって積み重ねられた。その時代には秋田県内の各地の海でも大量発生したことで、これが石油の源(石油根源岩)になった。そういえば、この海岸線に接したとき、かつて秋田は新潟と並んで石油の生産地として知られていたということを思い出した。

大きな褶曲を受けて盛り上がる

 写真のように泥岩の固い部分がやや盛り上がって残っている部分がある。かつて、夏の暑い最中に、竿を担いでこの岩まで歩いて渡り、ここから溝(満潮時の水深は1.5mほど)にスイカを餌にした仕掛けを沖まで流し、クロダイを狙ったことが何度かあった。クロダイは悪食で有名なので、夏場はスイカを好物にしているのである。

一部には丸い小さな岩が顔を出す

 写真のように、海をよく見ると、泥岩の端とは異なる半円形、もしくは球形をした岩が点在することが分かる。

望遠レンズでのぞくと姿がよく分かる

 その姿は望遠レンズでのぞいてみるとよくはっきりと分かる。この日のこの時間は生憎と満潮時なので半円状にしか見えないが、大潮の時、とりわけ春の大潮時には、この海岸線はほとんど干上がった状態になるので、その際には楽に沖合近くまで歩いて行くことが出来、かつ、球形をした数多くの岩の塊を間近で目にすることができる。

この丸岩(小豆岩)が一番有名

 この丸岩は小豆岩と呼ばれ、形が可愛らしく見えることから「おぼこ岩(おぼことは小さい子を意味する)とも称されている。

 岩が球形なるのは、ケイソウ由来の泥にカルシウムやマグネシウムを含む炭酸塩鉱物が混じるからで、とても硬い塊(ノジュール、コンクリーション)になる。

 なお、カルシウムは死んだクジラ由来のものだという説がある。

小豆岩(おぼこ岩とも)のモニュメント

 私のように、満潮時に訪ねた見物客には、今一つ小豆岩のイメージが湧かないので、岸辺の公園には写真のような小豆岩が展示されている。大潮時の干潮時に訪れると、写真のような丸い岩があちこちに点在している姿を見て取ることが出来る。

 洗濯板状の岩の行列だけであれば、この海岸が「日本の渚百選」に認定されることはなかったと思われるが、この小豆岩の存在が、この海岸が日本でも珍しい光景を展開し、人々の関心を惹きつける。

 とはいえ、この日、海岸を見物していたのは私だけだったが。

◎館山崎のグリーンタフ

知る人ぞ知る館山崎の海岸

 鵜ノ崎海岸を離れ、次の目的地に向かった。その場所は県道59号線(おが潮風街道)から少し離れた場所にあるため、先の鵜ノ崎海岸のように、海岸線を走って入れば自然と目に入るという訳ではない。そのため、よほど地質に関心がある人でなければ、わざわざ訪れることはないかもしれない。しかし、地質学にとっては極めて重要な役を果たした貴重な場所なのである。

 ここへ行くためには県道から「椿漁港」に入って、しばらく構内を走ってから海岸線に出る必要がある。そうすると、写真のような崖が目に入る。ここが「館山崎のグリーンタフ」と呼ばれる火山礫凝灰岩が造った崖である。

 この崖が存在することで、県道は海岸線から少し離れ、しかもこの崖の上あたりではトンネルになっているため、なんとなくそこには崖があることは分かっても、ここが世界的にも貴重な場所であることは、興味のある人にしか知られていないのだ。

緑色凝灰岩がよく目立つ

 ここは2100万年前の火山噴出物から形成されたもので、大量の火山灰や火山礫が積もってできた岩場である。

 風化が進んでいるために少し分かりづらいが、岩はやや緑がかった色をしている。熱による変性を受けて緑色に変色したのである。これをグリーン(緑)タフ(凝灰岩)と地質学の世界では呼んでいるが、このグリーンタフの名は、この岩から名付けられたのである。緑色凝灰岩は日本、いや世界の至るところに存在するが、その英名であるグリーンタフの名は、この場所が嚆矢なのである。

この岩もグリーンタフ

 林の中にもグリーンタフが存在していた。東北をよく旅行して数多くの記録を残した菅江真澄(1754~1829年)は、この岩を「まいたけ岩」と名付けたことで知られている。のちに、この緑色凝灰岩がグリーンタフと名付けられたということは、さしもの菅江にとっては想定外のことだっただろう。

◎潮瀬崎の奇岩~名勝・ゴジラ岩など

男鹿の中でも人気が高いゴジラ

 潮瀬崎は男鹿半島ではもっとも南に位置し、写真の「ゴジラ岩」があることから観光客がよく集まる場所として知られている。県道沿いに駐車スペースがあり、必ずと言って良いほど数台の車がとまっている。

 もっとも、この辺りは基本的には波蝕台になっており、鵜ノ崎とは異なり足場が海面から1,2mあるので、磯釣りの名所としても知られている。そのため、訪れている人が皆、ゴジラ岩見物を目的としているわけではなく、ゴジラよりもメジナクロダイを目当にやってくる人も少なくない。

 晴れた夕方にここを訪れると、美しい夕陽をみることができ、さらに角度によってはゴジラが太陽をくわえていたり、口から火を放っているように見えることもある。

 個人的には決してそうは思っていないのだが、一般には、男鹿半島の自然の景色と言えば、概ね、このゴジラ岩が第一に取り上げられる。

三角形の岩が双子のように並ぶ

 ゴジラ岩と並んでよく取り上げられるのが、写真の「双子岩」で、三角形の帆のような形をした岩が仲良く並んでいる。

これはトカゲ岩?それともカエル岩?

 写真の岩に名前があるのかどうかは不明だが、たまたま顔と思われる場所に小さな丸い穴が開いているため、何かの動物の顔のように見えるのだ。それはトカゲのようでもいありカエルのようでもある。

凝灰岩と泥岩層の境

 この潮瀬崎は3500万から3000万年前の噴火によって積もった火山礫凝灰岩から成り立っているが、写真のように凝灰岩の層の下の泥岩層が露出している場所も存在する。写真ではその層が整合的であるが、中には不整合に重なっている場所もある。

 その他にも不思議な形をしている岩がいくつもあり、ゴジラ岩だけ見て帰るというのはとてももったいない。地質に興味がなくとも、いろんな形をした岩を見て回り、自分が興味を抱いた岩の姿に名前を付けてみるのも面白い行為である。

 いざ名前を付けてしまうと、どんどんそのように見えてくるから不思議だ。それを他者に告げても多くは納得してくれないが。これも錯視のひとつだからだろう。

◎戸賀湾のマールと男鹿水族館

 潮瀬崎の先から海岸線は断崖絶壁が続くようになるため、県道は山坂道に入ってゆくことになる。その坂道が始まった場所に、冒頭に挙げた「なまはげ立像」がある。私の場合、男鹿には両手両足の指を使っても数え切れないほど男鹿には立ち寄り、大抵、その像を目にしているのだが、写真撮影をおこなったのは、実は今回が初めてだった。

 ただ、この像を目にすると、道はしばらくの間、山坂道になり、海は遥か下に存在することとなる。それはここに取り上げる戸賀湾まで続くことになる。もっとも、途中に海岸線に降りられる場所があり、そこは加茂漁港と言って磯釣りの基地としてはあまりにも有名な場所である。

 その漁港から小さな瀬渡し船に乗って、眼下に続いている磯に渡礁して釣りをおこなうのだ。大半は地磯(陸続きの磯)なのだが、よほど根性があるか命知らずの人でない限り、歩いて磯に降りる人はいない。

 今回は磯釣りにやってきた訳ではないので、加茂港には寄らず、戸賀湾の高台にあるマールを見物した。マールとは水蒸気爆発の結果で生まれた火口のことで、基本的には一回の爆発で形成されたものを指す。内陸にあるものはその河口に地下水などが溜まり湖や池を形成する。

二ノ目潟

 日本でもっともよく知られたマールは伊豆大島の波浮港か、伊豆の伊東にある一碧湖だろうか。波浮港は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の『波浮の港』で、一碧湖は、昭仁上皇が皇太子の時期に、寄贈されたブルーギルを食糧増産のために放流し、その理念に反し、在来種を食い荒らす害魚となってしまった原点の湖として知られている。

 男鹿半島の戸賀地区にはマールは4つあり、そのうちの3つは「目潟」と名付けられている。写真は「二ノ目潟」であり、「三ノ目潟」はその下方にあるはずだが、森の中を進まないと目にすることはできない。クマとは遭遇したくないので、「三ノ目潟」との対面は行わなかった。

一ノ目潟

 写真の一ノ目潟は、直径が600m、水深が44.6mある。6~8万年前の噴火でできたと考えられ、噴出物のなかには地中深くにあるカンラン石が含まれており、日本でも貴重なマールとして注目されている。

 実は、四ノ目潟も存在する。一つ上の写真に写っている入り江がそれであり、一般には戸賀湾と呼ばれている。マールの西半分が入り江になったためにマールだとは気付きにくいが、約42万年前の噴火で形成されたもので、航空写真や地図で湾の形を確認すると、確かに半円状になっていることが分かる。

水族館の外観

 男鹿水族館GAOは2004年に落成した。Gは地球、Aは水、Оは海を意味するとのことだ。この水族館に立ち寄るのは初めてだったが、映画の『つりバカ日誌・15・ハマちゃんに明日はない!?』の舞台になったことはよく知っていた。というより、男鹿での釣りでよくお世話になった人々がエキストラで撮影に数多く参加していただけでなく、知り合いの釣り人が「釣りの指導」をおこない、さらには、夜はしばしば西田敏行などと宴会を開いていたという話を聞いていた。西田は映画のまんまの人物で、三國連太郎は意外にもかなり気さくな人物だったという感想も聞いたことがあった。

 あまつさえ、画面に登場する生きたマダイ(ハマちゃんが釣りあげた魚)を養殖場から数十匹仕入れることもしたという裏話も知人が話してくれた。

 ということは、この水族館は鈴木建設が造り上げたことになっているのだ。

メインの巨大水槽

 どこの水族館にもあるように、ここでも入り口付近に写真にある巨大水槽が設置されていた。この中には男鹿の海でよく見かける魚たちが入れられており、この点に好感が持てた。規模で言えばここよりも大きな水槽は全国各地で見ることができるが、地域に特化している場所は意外に少ないのだ。

 何事も大きければ良いという訳ではなく、地域に根差した様態を有していることが重要で、巨大なものは地域性を失った大都会にある水族館に任せれば良い。

ここにもゴジラ岩が

 巨大水槽の中には、男鹿の岩場が再現されていた。写真の岩は明らかに潮瀬崎のゴジラ岩を模したものであろう。

チンアナゴ

 チンアナゴは四国から沖縄にかけての暖かい海に生息するウナギ目アナゴ科の魚なので、男鹿の海に生息することはまず考えられないが、温暖化が進むにつれて、この海で見られるようになるのはそう遠くないことかも。

 もっとも、この魚が正式に認知されたのは1959年のことというから、その生態については不明な点が多々あるので、もうすでに男鹿の海にいるという可能性はまったく排除はできない。 

ヤドクガエル

 このヤドクガエルはコスタリカからブラジルの熱帯林に生息するので、男鹿とはまったく関係がないが、興味深い存在だったのであえて掲載してみた。

 大きさは2.5センチほどだが、毒性はかなり強く、中には一匹で十人の成人を致死させることが出来るほど。毒は餌とするアリやカブトムシなどの昆虫を介して生成されるようで、生息域とは無関係な場所で育つと毒は持たなくなるそうだ。ということは、水族館にいるこのカエルは無毒だろう。

 なお、この毒から抽出させる成分には鎮痛剤として利用できることが分かっており、現在、その研究が進められているとのこと。

ミズクラゲ

 クラゲを飼うことが静かなブームになっている。私としては、クラゲは敵のような存在で、泳いでいるときに何度が刺されたり、釣り場一面にクラゲの大群が流れ着いて数時間、釣りを中断させられたりしたことがあったからだ。それゆえ、クラゲを食べることはあっても飼育する気持ちはまったくない。

カラージェリー・フィッシュ(タコクラゲ)

 それにしても、水族館や熱帯魚店などでクラゲの姿を見るのは嫌いではなく、時には一時間以上も見入ってしまうことがある。その際は、クラゲそのものに興味があるというより、果たしてクラゲは「この私(この場合はクラゲ自身)の存在」を認知しているのか否かを考えさせられるからだ。

 この私が私であるということは、私の過去の記憶に由来する。それは一時間前でも一年前でも五十年前のことでも良い。年々、物忘れが酷くなってはいるものの、それでも過去の、とりわけ象徴的な事柄は鮮明に記憶しており、それらのいくつかは同じ時を過ごした知人に聞いてみても確かな事実として私の内に存在する。

 今から約60年前に流行った植木等の無責任男の映画は同級生の親が経営する映画館で、友人たちと無料で入り、大笑いをしながら見て、自分もあのような大人になりたいと一大決心したことは今でも鮮明に覚えているし、小学校時代の友人に尋ねても、確かにお前は植木等に憧れていたという証言を現在も得ることが出来る。その限り、「この私」は確かに現在しているのである。

インドネシアン・シーネットル

 しかし、海を(ここでは水槽の中)漂うクラゲたちは、「この私の存在」の自覚があるのだろうか、と、いつも気になるのである。犬や猫にも尋ねることはあるが、ほとんどの場合、答えの代わりに私の前から立ち去り、一部は吠え付くのだ。

 が、クラゲの場合はまったく無反応で、ただ漂うだけなのである。その限りにおいてクラゲには「この私」の自覚はなく、現在そこに「ある」だけなのだろう。

ホッキョクグマ(シロクマ)

 この水族館で一番人気があるのは写真のホッキョクグマ(豪太くん)のようだ。水族館や動物園のクマというと寝ていることが多いのだが、私が訪れたときは結構、活発に歩き回っていた。

 メスのマキとの間で繁殖行動が見られたようなので、長い間、マキの様子を観察していたが、今年(24年)になって、今回は行われなかったそうだ。

 23年は「熊騒動」で日本中が沸きかえったが、それでも、こうしてシロクマ君の行動を観察していると、凶暴さよりも可愛らしさを感じてしまう。これも人間から見た意識に過ぎず、クマからしたら狭い場所に閉じ込められて見世物にされ、誠に迷惑な話だろうが。

 それでも、彼の動作を見ていると愛着が湧いてくる。その不条理な点こそが人間らしさなのかもしれない。

水族館裏の岩脈

 水族館の裏手には、写真のような岩脈が幾筋も走っていた。凝灰岩の割れ目をマグマが貫入して冷え固まったものである。本ブログでは、和歌山県串本町の「橋杭岩」や古座川町の「一枚岩」(古座川弧状岩脈)をすでに紹介しているが、この岩脈はそれらの小型版といったところである。

 ずっと先になるだろうが、いずれ周囲の凝灰岩が削り取られ、この岩脈が「橋杭岩」のような姿になる可能性は高い。もっとも、そのころには人類は絶滅しているので、それを目にするのは人間以外の存在だろうけれど。

〔105〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(7)小泊、十三湖、鯵ヶ沢から十二湖、そして秋田へ

岩木山ともお別れ

◎眺瞰台から小泊へ

眺瞰台から龍飛崎を望む

 五所川原市のホテルに三泊した。私の部屋は最上階の岩木山側だったので、部屋からは「お岩木やま」がよく見えた。冒頭の写真は三泊目の夕方に撮影したもの。翌日は鯵ヶ沢に出て、それから津軽半島の西海岸を南下するため、この角度から岩木山を眺めることは、もうない。もっとも、西海岸からでも岩木山はよく見えるが、太宰に言わせれば、「西海岸から見た山容はまるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影はない。」そうだが、私には、どの角度から見てもこの山は他に類比するものがないと思えるほど素敵な姿をしていると思っているのだけれど。

 ところで、龍飛岬には五所川原に入って三日目に出かけたのだから、冒頭の写真を撮影する前に龍飛も小泊も訪ねているのである。前回は龍飛岬で、というより「津軽海峡冬景色」の歌碑で終わっているので、今回はしばらくその続きとなる。

 まずは国道339号線を使って小泊に向かった。大宰が小泊を訪れた時代(1944年)にはこの道は通じていなかったということはすでに触れている。道が開通したのは1984年のことで、大半は陸上自衛隊の力を使って山を切り開いた。

 龍飛崎から小泊までは「竜泊(たつどまり)ライン」という別称がつけられ、この約20キロの区間は冬期には厳しすぎるということで、例年、11月中旬から翌4月下旬までは閉鎖されている。

小泊半島方向を望む

 歌碑がある場所の標高は72.3m。そこから少しの間は道は下り、58m地点まで降りる。それからが大変で、中山山地の尾根筋を九十九折れの道が続き、標高505m地点まで上昇する。

 その最高地点の場所に、写真の「眺瞰台(ちょうかんだい)」と名付けられた展望広場があり、北を見れば龍飛岬、津軽海峡、北海道」の姿が目に入り、南を見れば小泊半島の全貌が視界に入る。

 この20キロの「竜泊ライン」は私のお気に入りのひとつで、以前によく小泊半島に釣りに出かけた際には、半日は釣りを休んで、この道を使って龍飛岬まで出かけた。もちろん、帰りも三厩方面には出ずに、竜泊ラインを使って小泊から定宿にしていた五所川原のホテルに向かったものだった。

西海岸に落ち込む七ツ滝

 坂本台と名付けられた展望台を過ぎると、道はほどなく西海岸に出る。この西海岸沿いの道は5キロほど続き、小泊の集落に入って行く。

 その途中にあったのが、写真の七ツ滝。高さは21mとそれほどないが、写真からわかるように流れは七段を経て下ってくる。滝の横には上部に出られる道があるようだったが、私は体力を温存するために、上流部へ上ることはしなかった。

西海岸から中山山地方面を望む

 滝の上部に行く代わりに、海岸線を眺めることにした。海は浅い岩礁帯が続き、その先は山地が海岸線に落ち込んでいるため、道はやむなく山の中を通っているのである。先に触れた吉田松陰宮部鼎蔵は、海岸伝いを歩き、そのあとは山中に入り、苦労の末に龍飛岬へ向かった。ひとえに、日本の海防を憂う一心から行動であった。

この小さな磯で釣りをしたことがあった

 小泊半島側の海岸線もやはり浅瀬が続くが、ところどころにやや大きめの岩礁があった。海が荒れていて、半島の先端部に出られなかった際には、この辺りにあるやや大きめの岩礁に乗って磯釣りをしたことが数度あった。決して大きくはないが、40センチ程度のクロダイはよく釣れた。

泊漁港から中山山地を望む

 竜泊ラインから離れ、私は小泊漁港へと足を向けた。港の東端に出て、半島や北海道の姿を眺めた。かつては毎年のように津軽に訪れ、多くは半島の先端まで出掛け、海峡と北海道を眺めた。景色は変わらないけれど、その景色に接する私の心情は毎回、異なっていた。

泊漁港は相当に広い

 小泊漁港イカ釣りをはじめとして刺し網、延縄の基地としてよく知られ、マイカメバルヤリイカなどの水揚げでは日本海に面した漁協では屈指の存在である。私は食さなかったが、小泊は”イカの街・小泊”を売りにしている。次回に訪れる機会があったならば、イカを食してみようと、あとから考えた次第である。

小説『津軽』の像記念館横の広場

 太宰が『津軽』の取材で最後に、そしてもっとも訪れたかった場所が小泊である。そこには、乳母の「越野たけ」が住んでいるはずの場所だった。

 「三つから八つまで、私はたけに教育された。」「こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢ひたいと切に念願をしてゐたのだ。」「私はたけのゐる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。」

 そうして大宰は、五所川原から津軽鉄道を使って終点の津軽中里まで行き、そこから一日一便しかない小泊行きのバスに乗り、二時間、立ちっぱなしで小泊に到着した。

 太宰はたけを探した。歩いている人に尋ねたがすぐには見つからなかった。小泊には越野姓が多いようだった。そこで彼は、前に金木にいたことがあるというと、それなら分かるといい、たけの家を教えてもらった。家を訪ねると留守で、しかもしっかりと鍵が下ろしてあった。田舎では少しの外出では鍵はかけないはずだ。

 落胆した彼であったが、筋向いの煙草屋で尋ねてみると、「運動会へ行つたんだろう」と教えてくれた。

大宰と乳母たけの像

 運動会が開催されている国民学校へ行ってみたが、なかなか見つけることはできなかった。「逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。」と思い、午後一時半に出る中里駅行のバスに乗ることに決めた。

 ただ、バスの出発にはまだ30分ほどあったので、未練たらしく、今一度、たけの家に出かけてみた。すると鍵が外れていて戸も少し開いているのが分かった。大宰は声をかけると中から女の子が顔を出した。その顔を見て、すぐにたけの子であることが分かった。女の子はたまたまお腹が痛くなったので、薬を取りに家に戻ったのだった。

 こうした偶然があって太宰はたけとの再会を果たした。大宰はたけの隣に座ってぼんやりと運動会を見ていた。「胸中に一つも思ふ事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、といふような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持ちの事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。」

 そのあと、太宰とたけは竜神様の森に出掛けた。たけはそこで堰を切ったみたいに能弁になり、矢継ぎ早に、太宰に質問を発した。「私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思った。きゃうだいの中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。」

 写真は、小泊小学校のすぐ北側にある「小説『津軽』の像記念館」の庭と、たけと太宰が並んだ像である。記念館の東側には「龍神宮」もあった。

 記念館には入らなかった。その一方、像にはしばし目を奪われた。たしかに、しっかり者のたけと、いかにも「はにかみや」の太宰の姿がよく表現されている。松本健一が評するように、太宰は「含羞の人」であったことがよく分かる。

 たけと再会した4年後、太宰は自殺した。

徐福の像

 私が小泊に出かけたのはあくまで磯釣りのためであった。それゆえ、半島の北側、もしくは先端部にしか出掛けたことはなかった。そこで、今回は釣りをしに来たわけではないので、初めて半島の南側をのぞいてみることにした。

 R339は半島の入り口で90度左に折れ、半島の付け根を横断し、今度は西海岸に出たところで90度左に曲がる。その場所を右折してしばらく海岸沿いを進んだ。道は「下前漁港」で行き止まりとなる。

 漁港には特筆すべきものが見当たらなかったため、私は途中にあった「ライオン岩公園」に車を止め、上の写真の徐福像と、下に挙げる「ライオン岩」を見物した。

 徐福像は新品同様だったものの、この地には古くから徐福が上陸したとの言い伝えがあるとのこと。徐福の上陸地と称する場所は日本各地にあるが、もっともよく知られているのは和歌山県新宮市である。

 この地が上陸地のひとつだということは初めて知ったが、対馬暖流に乗ってしまえば、この地までたどり着くことは十分に可能だろう。 

ライオンに見えないライオン岩

 肝心のライオン岩を見付けることがなかなかできなかった。公園までの道はよく整備されており、「ライオンゲートブリッジ」や「ライオンベイブリッジ」なるものがあったので、海側にライオンの形をした岩があることは確かなのだろうが、すぐには判明しなかった。

 ライオンには決して見えないが、ライオンの体に似ている岩と言えば、上の写真にあるものしか存在しなかったが、これをライオン岩と称するのは相当に無理があるように思えた。

近くで見るとライオンに見える

 しかし、この岩のために道を奇麗に整備し、かつ、公園まで造成したのだから、確かにライオンらしい姿をしている部分が存在する必要があった。それを見出すため、私はその岩に近づいた。

 すると突然、岩の先端部がライオンの顔に見えてきたし、上部には”たてがみ”らしきものが存在するように思えてきた。そのように見えてくると、確かに目も耳も鼻も口もライオンそっくりなのである。

 一旦、ライオンに見えてくると、もはやライオン以外には見えなくなった。これは一種の錯視に違いないのだが……。

 この岩を、初めてライオンに見立てた人は立派である、と、私は尊崇の念を抱いた。

◎ひとつだけれど十三湖

ヤマトシジミが特産品

 小泊から南下して、十三湖畔に出た。かつてはR338よりも西海岸沿いを走っている県道12号線を用いて五所川原に戻るのだが、今回は初めて国道を使った。この湖はヤマトシジミが特産品で、県道のほうがそれを食べられる店は圧倒的に多い。もっとも、私はそこでは一度も食したことはなかったが。

 十三湖は周囲が31.4キロある結構、大きな湖で、青森県では三番目の大きさとのこと。津軽平野の北端に位置するためか広さはあっても水深は最大でも3mほど。内湖だった時代もあるようだが、現在は一部が海とつながっているため汽水湖である。

 ところで、十三湖といっても湖はひとつしかない。「十三」と名付けられたのには諸説あるようだが、13もの河川が流れ込んでいるから、周囲に13の集落があったから、アイヌ語のトーサム(湖の傍ら)に由来するものなどが有力だ。個人的にはトーサム説が有力に思える。

 海岸に極めて近い場所にあるため、荷物の集積地としてよく利用されていたようで、蝦夷管領でもあった安東氏が12~15世紀ごろにこの地を支配していたと言われている。

津軽平野の北端に位置する

 国道は湖の北側のやや高い位置を走っているため、十三湖を見渡すにはまずまずの場所が数カ所あった。

 十三湖はかつて十三湊(とさみなと)と呼ばれていた。が、十(と)三(さ)では「湯桶読み(訓音読み)」になることから、「じゅうさんみなと」というようになったという説がある。

 写真からわかる通り、湖の南側には水田が広がっている。ここは津軽平野の北端に位置しており、県道のほうは津軽平野の真っただ中を走るコースをとっている。一方、国道は津軽山地の西縁を通っている。

近年では”大型扇風機”が湖畔に林立

 途中に、湖畔に出られる道があったので立ち寄ってみた。この湖はオオハクチョウコハクチョウの飛来地として知られているが、季節の違いか、その姿はまったくなかった。

 その代わりになるかどうかは不明だが、西からの強い季節風を利用するためか、湖畔には「大型扇風機」が数多く立っていた。気候変動の悪影響を少しでも抑えるためには化石燃料の依存度を下げ、太陽光発電風力発電への移行は必至である。

 近年、どの場所にいってもこうした施設を数多く見掛けるようになった。「景観」という点ではいささか難があるものの、気候変動を抑制するためには避けて通れない「道」なのであろう。くれぐれも、安易に原子力に依存することは絶対に避けなければならないからだ。

鯵ヶ沢から西海岸を南下する

やきいか街道

 鯵ヶ沢は西津軽では古くから知られた土地で、1491年に津軽藩の基礎を築いた大浦光信が入部したことが発展の始まりで、のちの大浦為信(津軽為信)が始祖となった弘前藩津軽藩)の御用港として西回り航路で大坂(大阪)に津軽米を運ぶための主要港となった。

 秀吉の時代から江戸時代にかけては石高制が採用されたために、米が年貢米として流通した。それゆえ、弘前藩としては米の積出港として鯵ヶ沢の港を重用した。が、明治初期の地租改正によって石高制は廃止され、貨幣が経済の中心になるにつれ、大坂・江戸への廻米は不要になったことから、鯵ヶ沢港の重要度は急速に低下した。

 いつもは鯵ヶ沢の中心部を抜けて北上したり南下したりするのだが、今回はあえて海岸線の道(県道3号線)を走ってみた。写真はその県道の一部であるが、鯵ヶ沢名産のイカを用いた「焼きイカ」がこの地の名物となっていることから、通りは「やきいか街道」と名付けられていた。

 その他、この地ではヒラメが通年、獲れることから「ヒラメのズケ丼」も名物らしいのだが、ヒラメと聞くと高価な魚だとの思い込みがあるためか、私の目に留まることはなかった。

大戸瀬崎界隈は「千畳敷」としてよく知られる

 鯵ヶ沢を離れ、私は南下を続けた。次は深浦町である。深浦町は南北に広く、千畳敷のある大戸瀬海岸、風合瀬、行合崎、森山海岸、十二湖、白神山地の中心にある白神岳向白神岳など、青森西海岸の名所の多くはこの町に属している。そのすべてに出掛けることは時間的にも体力的にも気力的にも無理なので、もっとも行きやすく、それでいて景観の良い場所を数カ所選んで訪ねてみた。

 深浦には磯釣りに適した岩場が数多くあり、小泊まで行けない時にはよく竿を出していたので、府中市から遥かに離れた場所でも、私は地理には意外に詳しいのである。それはどうでも良いことなのだが。

こうした奇岩がやたらと目に入る

 千畳敷の名は、この場所で津軽の殿様が平らな岩場に千畳畳を敷いて宴会を催したことが由来だとされている。下の写真にあるように、確かに広々とした岩棚は見事であるが、私には上の写真のように不可思議な形に風化した岩の林により目を奪われた。

 この辺りの地質は緑色凝灰岩(グリーンタフ)と呼ばれるもので、この岩については、いずれ男鹿半島の項で触れることになる。

確かに「千畳」ほどの広さがある

 千畳敷は波蝕された段丘面が1792年の鯵ヶ沢地震(西津軽地震マグニチュード7~7.5と推定)によって3mほど隆起したものだが、これだけ平らな場所が広がっている場所はかなり珍しい。海岸沿いを走っている国道や五能線から沖合まで100~200mもある。

 近くには「千畳敷駅」があり、無人駅で、かつ駅舎も壁もないため、列車の中からでもこの景色が堪能できるらしい。また、列車の中には駅に15分ほど停車するものもあるようなので、つかの間、列車を下りて海岸を散策できる。

 なお、この地は「日本の夕陽百選」に選ばれている。私はこの場所には相当な数、訪ねているけれど夕陽の時間には通過したことがない。

風合瀬(かそせ)漁港と弁天島

 私がまだ「中年」と呼ばれていた頃、深浦から鯵ヶ沢に向かっていたとき、写真の風合瀬(かそせ)地区にある漁港とその先にある鳥居埼灯台のある風景が目に留まった。現在はその近くに「道の駅・ふかうらかそせ・いか焼き村」があるが、当時はそうしたものはまったく存在しなかった。

 こんな美しい海岸があることは予想だにしていなかった.。私は漁港の近くにある広場に車をとめ、漁港の先端にある不思議な形をした岩礁と、その上にある紅白に塗られた灯台をしばし眺めていた。とりわけ、自然が織りなす岩礁群の姿は私の心を魅了したのであった。

 どのくらい、その姿に見とれていたのかは記憶にないが、相当な時間、その場所に居続けていたことは確かだった。いささか名残り惜しさはあったものの、私は次の目的地である鯵ヶ沢に向かうために車に戻ることにした。

 そんなとき、こちら側に向かってくる一人の女性の姿があった。どことなく、その歩き方に見覚えがあるような気がした。そして、彼女の顔立ちが分かる距離まで近づくと、私は20年前までの記憶がすべて蘇った。私が最初に愛した女性であった。

 彼女も私だと気が付いたようだった。20年の歳月はそれなりに彼女の顔立ちに変化を与えていたが、その美しさは不変だった。長い髪も、左の頬にある小さなほくろも覚えていた通りの場所にあった。

 無口な女性だったので、かつても話が弾むというほどではなかった。ただ、近くにいてくれるだけで私は幸福感を覚えた。故あって出会ってから5年後に離れ離れになってしまたが、そのことは、今現在に至るまで私にとって痛恨の極みであった。

 話したいことは無数にあった。最大の疑問は、なぜ、彼女がこの場所にいることであった。左手の薬指にある指輪がすべてを語っているようであり、それに気づいたときに私は言葉をほとんど失ってしまった。

 結局、いくつかの形式的な会話を交わしただけで別れを告げ、私は車に向かい、彼女は漁港方向に進んでいった。車に向かう刹那、私は何度も振り返りたい心持になったが、それではあまりにも自分自身が哀れに思えるため、まっすぐに車に近づいた。

 ドアを開けるとき、やっとの思いで彼女がいるであろう場所を目で追った。しかし、その姿はどこにもなかった。完全に消えてしまったのだった。日本海の青い風に誘われて、あるいは白神のブナ林から降りてくる緑の風に乗って、彼女は別の世界に旅立ったのだろうと、私は茫然とする反面、そう納得することにした。なぜなら、ここは風合瀬なのだから、と。

 風合瀬の名は、この地が異なった方角から季節風がぶつかり合うというところから付けられたとのこと。これには、北上する対馬暖流と、北からくる冷気、さらに山から下る空気が関係しているのだろう。「風が合う瀬」⇒「かぜおうせ」⇒「かぞせ」⇒「かそせ」と変化したと考えられている。

この島の成り立ちが知りたい

 この地の岩礁は中央部が割れたように陥没しているところに特徴がある。岩礁は凝灰岩でできているため、風化しやすい。おそらく、波によって出来た海蝕洞の天井部が崩落して写真のような姿になったのだろう。天井部の崩落は、1792年の「鯵ヶ沢地震」が関係していると私には思えた。

五能線に出会う

 今回の旅では五能線に初乗車することを予定していたのだが、男鹿半島に出掛ける日程に縛りがあったことから、それは断念した。もし次回があるとすれば、その時は必ず実現したいと考えている。

 国道と五能線はほとんど並行して走っているため、時折、列車に出会うことがある。写真は、運転しながらカメラを用意し、丁度、列車が私の車を追い越してゆく姿を見掛けたので、車を止めて望遠レンズで車内から五能線を撮影したものである。

 画面の中央部にボケた点のようなものがあるが、これは窓ガラスの汚れである。

五能線驫木(とどろき)駅~『男はつらいよ』にも登場

 写真の驫木駅舎はドラマや映画でよく用いられる。確かに、ただぽつりと木造の駅舎があるだけの姿はある意味、とても印象に残る。

 この駅舎は、『男はつらいよ・奮闘編』(第7作)に登場し、映画の内容よりもその佇まいがより話題となった。

 夕日がよく見える場所なので、駅舎と夕日と列車との共演は最大の見物であろう。

◎十二湖を訪ねる

すっかり観光地化した「十二湖」の駅舎

 道々の海岸線には降りてみたいと思われる多くの岩礁帯があったが、そんなことをつれづれなるままに行動していると、とても時間が足りなくなるため、私はできるだけ視線を道から離さないように車を進め、目的地のひとつに決めていた「十二湖」に向かった。

 ここは五能線の駅の中ではもっともよく知られる存在になったため、写真のように立派な駅舎に変貌していた。私が初めて十二湖に訪れたときは、さして人気のある場所ではないように思われたのだが。それは、白神山地世界遺産に選ばれて多くの人にその存在が知られたことが最大の要因だったと考えられる。

王池を望む

 十二湖は白神山地の主峰の白神岳(標高1235m)と最高峰の向白神岳(1250m)の北西にあり、ブナ林に囲まれた標高140mから250m地点に存在する。湖沼の数は33あるが、十二湖を造った原因とされる大崩から望むと12の湖沼がみられるということから「十二湖」と名付けられたという説が有力らしい。

 湖沼のすぐ西には大崩山(940m)があり、その西側の中腹が崩れ(これを大崩という)、この山体崩壊によって多くの沢が埋まり、沢の水や伏流水が溜まって湖沼ができたと考えられている。

崩山の大崩を望む

 写真のように、林道からは大崩(標高694m)の姿を見て取ることができる。現在はなんとか安息角を維持している。この山体崩壊は1704年に起きた能代地震が原因と考えられており、いずれまた大きな地震が発生すれば、この十二湖や大崩の姿は変貌してしまうに相違ない。

越口の池を望む

 十二湖周辺には登山道や林道が整備されているが、もっともよく知られている「青池」までは自動車道があるので、怠け者の私は、いつもこの道を使ってその近くにある池を眺めている。

 白神山地はブナ林に覆われているが、昨今話題になっている熊の出没はこのブナと大いに関係があり、ブナの実が豊作のときには熊は人里に現れず、今年のように凶作のときは餌を求めて人里まで降りてくるのである。

ビジターセンターの展示

 越口の池(標高185m)のすぐ隣には「十二湖ビジターセンター」があり、写真のように、十二湖周辺に住む動植物の模型が展示してある。登山道や林道を歩けばこうした生き物などに出会うことができるだろうが、さすがにツキノワグマに対面したとならば、気の弱い私などはすぐさま卒倒し、心ならずも「死んだふり」状態になってしまう。

 なお、センターの裏手にはイトウの養殖場があったのでのぞいてみたが、イトウたちはいずれもボロ切れのようだったので、撮影は見合わせた。

鶏頭場の池

 深い緑に取り囲まれていることは確かに、白神山地の中にある湖であることの証左であろうが、さりとて、そうした湖は他にも数多くあるため、十二湖でなけれな見ることができないという表情というものが存在しているわけでもない。

 それでも、写真のように倒木が多い場所を見つけると、朽ちかけた木々たちには、長い間のお勤めご苦労様でした、と言いたくなる。もっともそれですら、十二湖に限ったわけではないのだけれど。

人気の青池には緑がよく似合う

 十二湖を代表する湖沼と言えば、写真の「青池」であろう。この近くには広い有料駐車場が整備されているが、空いている場所を探すのに苦労するほどの混雑(人気)ぶりであった。

 標高246mのところにある小さな池なのだが、他の湖沼に比べると水の透明度が高いために、光の当たり具合によって水が青く見えるのである。もっとも、写真のように、入射角度によっては、青よりも周囲の木々の緑が映り込んでしまうため、青池というよりも緑池と言ったほうが妥当性があると思えてしまうのだが。

 とはいえ、日本古来では青と緑を区別することはなかったので、仮に平安や鎌倉時代の貴人がこの池を見たとすれば(実際にはまだ池は存在していなかったのだが)、緑池と名付けた蓋然性は高い。

 小さな池だけに、見栄えの良い場所には多くの好事家が陣取っており、撮影に適した格好の場所は見つからなかった。とはいうものの、この池を訪ねる度に「俗化」と「透明度の低下」が進んでいるようなので、私にとって、十二湖巡りは今回で「店じまい」となることはほぼ確定した。

◎森山海岸を散策

象岩~見たまんま

 十二湖からは早々に撤退したため、その代わりとなる場所を考えた。すぐに浮かんだのは、十二湖駅からほど近い場所にある森山海岸であった。少しだけ戻る形にはなるけれど、それはたかだか1キロほどなので何の問題はなかった。

 ここには「がんがら穴」と名付けられた奥行き50m、高さ10mの海蝕洞があり、その穴にはコウモリが生息しているというのだが、それを見るためには小舟を手配する必要があるので、それを見学するすることは叶わなかった。

 一方、写真にある象岩は駐車場の目の前にあることから、誰もが目にすることができる。確かに象の顔に見え、「象岩」と名付ける以外はないだろう。先に触れた「ライオン岩」は苦労の跡が偲ばれるが、この象岩は他の名前を思いつく人は皆無かと思われる。

細かな柱状節理が印象的

 象岩を含め、細かな柱状節理が目立つ。これは岩質が花崗岩であるからだ。とはいえ、周囲の岩を見ると緑色凝灰岩の存在も目に付く。

こちらは堆積岩

 さらに、写真のような堆積岩からなる岩もある。このことから、深浦地区の成り立ちがいかに複雑なのかが分かる。

この地層の乱れがなんとも美しい

 波打ち際の模様にも目を惹かれた。欠けている部分が多いので分かりづらい点もあるが、それでもかなり激しい褶曲と、小さな断層の姿を目にすることができる。まさに大地は「生き物」なのだ。

五能線のトンネル

 大きな穴を見つけた。が、これは海蝕洞ではなく、人工的に造られたトンネルである。このトンネルから出てくる、あるいはこのトンネルに入り込む列車を見たかった。

 スマホ五能線の時刻表を見れば、いつここを列車が通過するかは簡単に判明するのだけれど、私はそこまで「撮り鉄」ではないので、この人工的な穴を撮影することで納得することにした。

 十二湖のついでではあったけれど、満足度は十二湖よりも高かった。

◎寒風山~いよいよ秋田県

大潟村から寒風山を望む

 私は南下を続けた。当初は能代市に宿を取り、五能線に乗る予定だったがそれをキャンセルすることになったということはすでに述べた。その代わりに男鹿市内に宿泊するつもりでいたが、以前には必ずと言ってよいほど利用していた男鹿駅前の古いホテルが近年、俄然、人気が出てしまったらしく予約することができなかった。

 仕方なく、大潟村にあるホテルを2泊分予約し、そこを起点に男鹿巡りをすることにした。大潟村のホテルからは寒風山が近いので、その山まで足を伸ばした。この山はハゲ山に近いので、頂上から360度、男鹿やその周囲にある場所を頂上から眺めることができる。もっとも、最初の日は時間がやや遅めだったこともあって、景観は抜群という感じではなかったため、翌日も立ち寄り、下に挙げたようになんとか、ぐるりと360度の風景に触れることができた。

山頂から鳥海山を望む

 寒風山の標高は355mで、約3万年前から活動を始めた成層火山だが、現在ではその活動は完全に止まっている。また、頂上からの噴火というわけではないので、ひとつ上に挙げた山の姿を見ても、遠くからでは噴火口の姿は分かりづらい。

 基本的には大小の噴火を繰り返し、安山岩質の溶岩が積み重なって現在の姿になったと考えられている。現在では大半が表面を天然の芝生が覆っているため、説明書きを読まないと、ここが火山であることがイメージできないかもしれない。もっとも注意深く見ると、数カ所に溶岩の塊が地下から押し上げられて岩山のようになった場所がある。私は最初、山を芝生で覆うために、散らばった溶岩を集めて小山のように積み上げたのかと思ったが、それは全くの誤認で、自然にできた岩山であった。

 頂上からの眺めは絶景と言って良く、大げさに思われるかもしれないが(私もそう思う)、ある地理学者が「世界三景」のひとつに挙げられると主張した。残りの二つはグランドキャニオンとノルウェーフィヨルドとのこと。あるいは、ナポリブエノスアイレスらしい。

 それはともかくとして、男鹿半島に訪れる機会があれば、寒風山の頂上からの眺めは必ず体験すべきであることは確かだ。頂上には回転展望台(有料)もあるが、必ずしもそれを利用しなくとも、同等に近い景観を楽しむことができる。

大型扇風機だらけの秋田湾岸

 潟上市天王から秋田市街の海岸線に至るまでには、写真のような”大型扇風機”が立ち並んでいる。いかに秋田は風力発電に適した場所であるか、この姿に触れれば一目瞭然である。

男鹿半島の山並み

 写真は男鹿半島の背骨を望んだもの。左から「毛無山」(標高677m)、「本山」(715m)、それに「なまはげ」の神事で有名な「真山」(567m)が並んでいる。

能代方面と白神山地

真北方向を眺めると、能代まで続く海岸線には風力発電の設備が並び、その先の山の連なりは白神山地のものである。

八郎潟調整池方面

 八郎潟の大半は埋め立てられ、大潟村を築いて米作を本格化する予定でいたが、時すでに遅く、日本国内の米消費は低減し続けているため、結果として埋め立ては米以上に大きな借金を生んだ。

男鹿の中心部方面

 男鹿の中心部である船川港の姿も良く見える。沖合には石油備蓄タンクが並び、また洋上風力発電の計画も進んでいる。

第二噴火口

 足元を見ると、第二噴火口が口を開けている。この窪地を見れば、この山がかつては火山であったことがよく分かる。ちなみに、現在ではこの山は「活火山」の分類からも外れている。

見事なぐらい高木が少ない

 こちらは男鹿半島の先端部(入道崎)方向を眺めたものだが、手前の広い窪地は第一噴火口である。

 こうして、ぐるりと寒風山頂から景色を俯瞰すると、男鹿半島自体がいかに自然豊かで変化に富んだ場所であるかがよく分かる。

 ちなみに、男鹿半島には、日本が2000万年前までは大陸と陸続きであったという痕跡がはっきりと残っている。美しい風景だけでなく、地質学上でも貴重な存在なのである。

 もちろん、私のような釣り人にとっても竿を出してみたい場所は無数にある。残念ながら、結果として釣りをすることは叶わなかったのだけれど。

〔104〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(6)斜陽館、外ヶ浜、龍飛岬まで

龍飛岬から津軽海峡、北海道を望む

◎斜陽館~太宰治の生家を訪ねる

とても個人の家とは思えない大きさ

 五所川原市金木(かなぎ)町にある太宰治(津島修治、1909~48)の生家である『斜陽館』を訪ねた。金木町は何度も通過しているが、この大きな屋敷を見学に出かけたのは今回が初めてである。

 敷地680坪、1階は278坪で11室、2階は116坪で8室ある。青森ヒバで造られたこの屋敷の建築費は当時のお金で4万円。その頃の公務員の初任給が50円だったので、800倍もの費用が掛かっている。仮に現在の公務員の初任給が20万円とすれば、1億6000万円になる。まさしく豪邸である。

 これは父親の津島源右衛門衆議院議員貴族院議員を歴任)が青森でも有数の資産家であったからこそ建てることができたのであろう。なお、この豪邸が完成したのは太宰が生まれる2年前のことである。太宰はこの家で14歳まで過ごし、青森中学校に入学するために青森市内に寄宿することになって家を離れた。

 1950年に売却され、その後は地元の実業家が旅館と太宰治記念館として利用したが、1996年に廃業し、98年に「太宰治記念館=斜陽館」としてオープンし現在に至っている。

 入館料600円也を払って私も内部を見学したが、結構、若い人(とりわけ女性)が多く見学に訪れていることに驚かされた。3つある蔵のうちのひとつは太宰治に関係する資料が展示されてあるそうだが、私はそこには行かなかった。 

時代を感じさせる囲炉裏端

 太宰治の名を聞くと、すぐに連想されるのが『走れメロス』(1940年)だろう。この作品は現在でも中学2年生用の国語の教科書に採用されているので、大半の人の記憶に残っているだろう。次は「玉川上水」で、1948年の6月13日に太宰は三鷹市(当時は三鷹町)を流れる上水に愛人と入水心中をした。なお、太宰は35年に自殺を試みているが、このときは失敗している。もし成功していれば、太宰の名は全くと言っていいほど人の口の端に掛かることはなかっただろう。

 3番目は各人によって異なるだろうが、私は『津軽』(1944年)という作品を挙げたい。太宰の作品にしては「はみかみ」を意図的に表現することなく、自分の気持ちを正直に記述している名作である。他の人は、『富嶽百景』(1939年)か『斜陽』(1947年)を挙げるかも。とりわけ後者は、太宰の作品としては珍しく、当時からベストセラーになったからである。

二階の南側廊下

 『津軽』を読むと、彼の古典に対する知識の豊富さに驚愕される。確かに、彼は旧制青森中学ではほとんど首席で通し、4年修了で旧制弘前高校に入学している。ただここでは文学活動と高校紛争に興味が向けられていたため成績は中位だった。大学は東京帝大の仏文科に入ったが、フランス語はまったくできなかったらしい。

 その一方で、コミュニズム活動は熱心におこなっていた。自分がブルジョワ出身であったこともあり、その「反抗心」からそうした活動に嵌った可能性がある。大宰には相当程度「偽悪的」なところがあるからだ。

 太宰の名言のひとつに「文化と書いてハニカミとルビをふれ」というのがある。のちに、「私のはにかみが何か他人から見ると、自分がそれを誇っているように見られやしないかと気にしています」と述べているように、彼は自意識が過剰すぎるきらいがあったのである。もっとも、そうでなければ小説家などにはならなかっただろうけれど。

二階の応接間。調度品も上質なものが多い

 彼がコミュニズム運動から離脱したのは1933年ころである。小林多喜二が築地警察署内で虐殺されたことも一因と考えられている。そうした「気の弱さ」「お坊ちゃん育ち」が影響しているのかも。

 この挫折が、心に大きな傷痕を残すこととなり、35年には自殺未遂、36年にはパビナール(麻薬性鎮痛剤)中毒になり、何度か入院を繰り返していた。当時、パビナールはカレーライス2皿分の値段で簡単に入手できた。

二階の和室。襖を外すと大広間になる

 こうした自堕落な生活を続けていた太宰に「救いの手」を差し伸べたのが井伏鱒二で、彼の紹介で、甲府市で女学校の教員をしていた石原美知子とお見合いをし、38年に結婚をした。彼は、「人らしい人になりたい」という願望も有していた。

 しばらくは甲府で暮らしていたが、39年に東京の三鷹町に転居した。45年には空襲で危険を感じたために一時、金木町に疎開していたが、46年に三鷹に戻り、48年に自殺するまで、その地で過ごした。

二階北側廊下から庭を眺める。もう少し庭は広くても良いのに、と私は思った。

 三鷹駅と隣の武蔵境駅との間には「三鷹跨線人道橋」がある。この橋の上からの眺めが良いこともあって太宰はこの跨線橋にはよく出かけたそうだ。1929年に造られたこの建造物は、残念ながら強度不足のために今年の12月から撤去工事が始まることが決定された。

 武蔵境にはたまたま知人がいたために、その家を訪れた際に何度がこの跨線橋を渡ったことがあった。橋の上から富士山を望んだ時、太宰のことをちょっぴり思い出したという記憶が私にはある。

調度品や装飾品も豪華そのもの

 『津軽』では、その最後の部分で、小泊に住む乳母の越野たけと再開するシーンが登場する。彼の母親は病気がちであったため、太宰は乳母に育てられた。とりわけ、3歳から8歳まで世話になっていた「たけ」の存在は、太宰に大きな影響を与え、忘れることのできない存在として心に残っていたのである。

 そのシーンは、太宰らしくない(本来の太宰の姿)振る舞いで乳母と再会したときの様子がよく描かれている。この点については次回に触れることになっている。

 それは丁度、『走れメロス』の終わり方のようである。白樺派を敵視し罵倒を続けた大宰であったが、実は、太宰も心性は白樺派だったのである。

斜陽館前にある観光物産館

 斜陽館の無料駐車場は、道路の向かい側にあり、その敷地内に写真の金木観光物産館「産直メロス」がある。

 ここでは、地元野菜、総菜、馬肉、工芸品など金木で産出される商品が販売されているそうだ。また、”赤~いりんご”の関連商品、十三湖しじみなど、津軽の特産品も取り扱われている。

 ”メロス食堂”では「昔中華」が売りだったらしく、この存在を知った今となって、それを食さなかったことを残念に思えた。

物産館の隣にある津軽三味線会館

 写真の「津軽三味線会館」も同じ敷地内にあった。津軽三味線は金木が発祥の地と考えられていることから、そのルールや発展の歴史などが紹介されているそうだ。また、金木出身者ではないが、津軽三味線を全国的に広めた人物として、三橋美智也のステージ衣装などが展示されているらしい。

 津軽三味線の歴史は案外新しく、幕末の頃にボサマ(男性の視覚障碍者)の”仁太坊”が始めたという説が有力らしい。

 もっとも私としては、いささかしつこいようだが、松村和子の『帰ってこいよ』を聞くだけで十分に満足している。

津軽鉄道金木駅に向かう

金木といえば太宰治

 駅に向かう通りに出た。道路の傍らに写真のような案内標識があった。やはり、現在の金木にとっては太宰の存在は大きく、彼抜きでは「売り物」がないのかも知れない。

メロス坂通り~私は歩いた

 写真が先ほどの標識から金木駅へ向かう「メロス坂通り」である。標識のあった場所の標高は9.4mで金木駅前は15.1m。長さは320mなので、写真からもわかる通り、相当に緩い坂道である。

 『青春の坂道』ならばそこには古本屋があったり、ペンキの剥げたベンチがあったり,長い髪の少女がいたりするのだが、このメロス坂にはそうしたものは存在しなかった。

 メロスなら、暴君ディオニスのいる王宮まで半裸状態でセリヌンティウスとの約束を守るために走るのだろうが、私はただ、津軽鉄道金木駅を見物するのと、あわよくば「走れメロス号」に会うために行くのだから、「歩け、徘徊老人!」と自己に命じてのんびりと進んだ。

太宰が45年に疎開した家

 途中には、太宰が戦争中に疎開していた古い家があった。少しだけ立ち寄ってみたが、太宰の実家とは異なり、とても質素な造りであり、彼の生き方からすると、こちらのほうがお似合いだと思えた。

ローカル線とは思えない立派な駅舎

 メロス坂を進み、王宮ならぬ、金木駅舎前に到着した。津軽鉄道のイメージでは、あまり真っすぐではなく、かなり歪んだ鉄路と古ぼけた木造の駅舎を想像するのだが、金木駅に限っていえば立派な建物であり、さすがに太宰治ワールドの玄関口だと思えた。

五所川原行きが入線

 駅のすぐ隣の踏切の警報機が鳴り、上り列車が間もなく到着することを私に教えてくれた。私はすぐに踏切前に移動し、走れメロス号の姿を目撃した。車両もまた、私の思い描いていた使い古したものとは異なり、奇麗な姿に改造されていた。

金木駅は列車交換駅

 津軽鉄道は全線が非電化の単線である。唯一の列車交換駅がここなので、写真のようにメロス号が並んでいる。両者は全く同じ意匠なので、少し興ざめした。やはり、メロスは一人の存在であるごとくに、「走れメロス号」も一編成だけにしてほしいものだと誠に勝手ながら率直な感想をいだいた。

下り線(津軽中里行)が発車~走るメロス号

 終点の「津軽中里駅」に向かうため、まずは下り列車が先発した。

 『走れメロス』はもちろん太宰の作品であるが、すべてが彼の創作というわけではなく、最後に「古伝説と、シルレルの詩から」という断り書きがある。つまり、すでにあった作品を下敷きにして、太宰がそれをひとつの物語に仕立てあげたのである。

 このことを残念に思う人も多いようだが、これは盗作でもなんでもなく、ただ、古い作品に新しい魂を注入して太宰ワールドのひとつとして蘇らせたのである。つまり、この短編小説は100%、彼の世界の内にあるのだ。

 ちなみに、シルレルとはフリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)のことであり、彼の『真の知己』という作品が下敷きになっている。

上り線も発車

 下り列車が去ったのち、上り列車も金木駅を離れた。

 大宰が憧れた芥川龍之介は、元々、翻訳者として出発し、やがて短編小説家として世に出て、次々と素晴らしい作品を発表し続けた。その作品の多くは『今昔物語』や『宇治拾遺物語』を素材にしている。

 太宰に影響を受けた三島由紀夫は、最後の作品として『豊饒の海』四部作を書き、原稿を編集者に渡した後に自衛隊の市谷駐屯地に向かい、そこで割腹自殺を遂げた。この『豊饒の海』も、菅原孝標女(『更級日記』で有名)が書いたとされる『浜松中納言物語』から多くのヒントを得ている。

 三者の共通点は、かつての資料を基にして優れた作品を残したこと。それに、三人とも自殺していること、である。

◎外ヶ浜海岸を行く

蟹田港から夏泊半島を眺める

 「外ヶ浜」の原義は「最果ての地」だとのこと。確かに、青森は明治2年までは最北の地だった。令制国五畿七道に区分されているが、この中に北海道は含まれず、「令外の地」であった。それが、明治2年になって北海道が令制国に組み込まれ、五畿八道として日本国に加わったのである。ちなみに、武蔵国は当初、東山道のひとつであったが、のちに東海道に入った。

 それゆえ外ヶ浜は、かつての日本の最北端であった現在の青森県の海岸線全体をさしていたようだが、今日では、夏泊半島から龍飛崎までを言うようになった。ただ、現在ではその一部に外ヶ浜町(2005年に成立)があるし、しかもその町域は平舘(たいらだて)と三厩(みんまや)とに分かれ、その間に今別町があるので、結構ややこしい。そのため、本項では蟹田から龍飛崎を外ヶ浜として話を進めてゆく。

 蟹田には大きな港がある。下北半島の脇野沢港との間をフェリー(一日2往復)がつないでいて、60分で下北に出かけられる。この脇野沢については「仏ヶ浦」の項で少しだけ触れている。

 また、津軽山地名産の青森ヒバの積出港としてもよく知られている。が、蟹田の名の通り、ここでは毛ガニの仲間である「トゲクリガニ」が獲れることでも知られている。ただし、希少なカニのため、現在では1年でわずか10日間しか漁ができないことになっている。

 太宰は、この地に住む青森中学の同級生であったNさん宅を訪問し、山盛りのカニをご馳走になっている。なお、このNさんは太宰とともに、外ヶ浜を巡る旅に出て、龍飛崎まで同行している。

青函フェリー下北半島西岸

 津軽半島を南北に走る山地は、半島の中心ではなく大きく東寄りにあるため、外ヶ浜には平地が少なく、平野の大半は西側に存在する。それゆえ、西側の人は東部を「かげ(陰)の地」と呼んでいる。ただ、精米業を営むNさんが住む蟹田付近は蟹田川が形成した平野がそれなりの広さがあるため、米作も盛んである。が、蟹田から北は平地はほとんどなく、国道280号線はほとんど山の際を走っている。

 なお、このR280は、かつて松前藩の藩主が参勤交代のために使った道なので「松前街道」とも呼ばれている。

 太宰は津軽山地を「梵珠山脈」と呼んでいるが、厳密にいえば、梵珠山地は津軽山地の南側を指し、北側でYの字をつくるように山地は東西に分かれており、東側を「平舘山地」、西側を「中山山地」と名付けられている。

 津軽山地はいわゆる地塁山地で、南北に走る2つの正断層の間が盛り上がったものであり、標高は200~700m程度である。梵珠山地は梵珠山(標高468m)から北に向かい、途中に大倉岳(677m)がある。V字型に分かれる場所には小国峠(130m)があり、平舘山地には丸屋形岳(718m)、中山山地には増川岳(714m)がそれぞれピークを形成している。

  太宰の表現を借りれば、山地は海に転げるように落ち込み、一方は「高野崎」、もう一方は「龍飛崎」がそれぞれの終点になっている。

 平舘海峡を青森港に向かって進む写真のフェリーは「青函フェリー」の「はやぶさⅡ」で、津軽海峡フェリーの船よりかなり小さい。

平館(たいらだて)灯台

 私はトゲグリガニを食することなく、R280を北に進んだ。写真は、平舘海峡が最も狭くなる場所にある平舘灯台で、僅か標高2.5mの地点にある。対岸の下北半島との間は10.5キロほどしかない。

 かつてオランダ人が上陸したことから、守りを固めるために台場が造られた。一方、青函連絡船が通行する場所でもあるため、その航行を見守るために1899年に23mの灯台が造られたのであった。

 灯台のすぐ西側には「道の駅」が整備され、海岸線には散策路があり、砂浜も結構な長さがあるので、夏場にはかなりの賑わいを見せるらしい。

綱不知海岸

 R280をさらに北に進んだ。道は次第に北東方向に向きを変え、対岸の下北半島は徐々に遠い存在になる。

 地図を確認すると、「綱不知(つなしらず)海岸」という名の名所があることが分かり、少しだけ車を止めて海岸線を散策した。綱不知の語源は不明だが、場所柄からいって、潮の速い津軽海峡からはまだ少し離れているため、船を泊めておくために綱を張らなくても良いからか、あるいは浅瀬が多いので、船を留めて置くのが容易なので綱が不要なのかのどちらかであろう。

 なお、この綱不知海岸で外ヶ浜町平舘はいったん終わり、そのすぐ先は今別町の区域になる。

◎高野崎~津軽半島もうひとつの北端

高野崎灯台

 先に触れたように、津軽半島は先端部で東西に分かれており、東側の最北端が写真の高野崎である。岬は文字通り「みさき」であるが、先端部を意味する「先」に敬称の「御」をつけて「みさき」と言うようになっと考えられている。海から陸に戻る人にとっては「みさき」は大きな目安になる。それだけに「御」を付ける気持ちが分かるような気がする。

 東側の高野崎と西側の龍飛崎との間には大きな入り江があり、その開けた場所に今月町の中心街がある。この入り江は三厩湾と名付けられている。

 高野崎は東の先端であるが、西の龍飛崎ほど形状は険しくなく、長さもそれほどないので、知名度は龍飛崎に比べると圧倒的に低い。ただ、写真のように可愛らしい灯台があり、周囲の岩礁帯も見どころがないわけではないため、見学に訪れる人は決して少なくない。ちなみに、高野崎の標高は31m、龍飛崎は111mである。

西側を眺める

 高野崎の先端近くに立って、西側の海岸線を眺めた。左手に入り江があり、それが三厩湾であり、奥側に今別の街並みがあるはずだ。右手に長く伸びているのが中山山地で、その先端部が龍飛崎である。岬というより半島のように見える。

 ところで、「半島」という言葉を造語したのは、明治初期の啓蒙家である中村正直(1832~91年)で、サミエル・スマイルズの『自助論』を訳した『西国立志編』や、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を訳した『自由之理』がよく知られている。彼はスカンジナビア半島を訳すために、「ペニンシュラ」を「半島」に置き換えたのである。

東側の岩場を眺める

 東側を眺めると、まだまだ下北半島の姿が目に入る。手前側にある岩の上には、よく見ると、木で造られた鳥居や看板らしきものがある。高野崎周辺は浅瀬が続いているので、この比較的背の高い岩は浅瀬の存在を知らせる目印の役割を果していたのかもしれない。もちろん、鳥居は弁才天を祀るものだろう。漁師にとって、弁才天は「水の神」として極めて重要な神なのである。

先端部の岩礁

 先端部には平らな岩礁帯が露出しており、2つの溝には橋が架けられていた。ということは、その岩礁帯に行くことが可能なのであろう。

岩礁帯に降りようとしたのだけれど

 そのため、私はその場まで降りようとしたのだけれど、そこには誰もいないことで躊躇した。私の周りには若い人が何人もいたのだが、誰も降りようとはしないのである。一部の足場がやや悪い可能性はあるにしても、たかだか比高は30mほどである。

 年寄り夫婦が少しだけ足を踏み出したのだが、すぐに戻ってきてしまった。それを見た私は降りることを完全に断念した。きっと、見た目以上に坂はキツイのかも。

 けっして、そんな風には思えないのだけれど。「それならお前が行け!」という声が聞こえたような気がした。いや、それは海鳴りだろう、海は案外、穏やかだけれど。

青函トンネル・起点の今別側

青函トンネルの今別側

 青函トンネルは1961年に建設がスタートし、85年に本坑が全開通し87年に初走行が行われた。2006年には新幹線の工事が始まり、14年に試験走行が開始され、16年に正式開業した。これによって在来線は廃止され、旅客鉄道は新幹線だけとなり、その他としては貨物列車が走っているのみである。

 貨物列車は在来線の軌間1067ミリ、新幹線は標準軌の1435ミリを使用するため、レールは上下線とも3本ある。これを「三線式スラブ軌道」という。

こんな神社があった

 トンネルの入り口近くには、写真の「トンネル神社」があった。祠のカバーはトンネル型をしており、祠の中には本坑貫通時に掘り出された「貫通石」が安置されている。祭神は「叶明神」というらしい。なお、この神社は新幹線の開業を記念して建立されたものなので、まだ歴史は浅い。神社の横には小さな売店があり、そこで御朱印がもらえる(300円也)。

 折角なので、新幹線の姿も撮影したかったため、売店のおばちゃんにコーヒーを入れてもらいながら(もちろん有料)、時刻表を確かめたところ、新幹線の通過には相当な時間をここで待つことになるため、それは断念した。

残念ながら新幹線ではなかった

 おばちゃんとは話が弾み、娘が龍飛岬の売店で働いているので是非、寄ってみてと言われた。岬の売店は3軒並んでおり、その真ん中の店が娘のいるところだと念押しされた。

 そんな時に、列車が走ってくる音が聞こえたので、慌ててカメラをトンネル方向に向けたところ、機関車が顔を出した。

長い長い貨物車両

 機関車の後ろには、結構な数の貨物車がつないであった。JRのレールは全国に網羅されているので、鉄道による貨物輸送は相当に便利だろうと思えた。飛行機やトラックでは一度に運べる量は限られるし、青函連絡船ではやや時間が掛かってしまう。

 その貨物列車を見送った後、またまた売店のおばちゃんと話が始まりそうになった。そうしていれば新幹線もやってきそうだが、そうすれば龍飛岬に辿りつく時間が遅くなるため、適当なところで話を切り上げ、売店を離れ、次の目的地に向かうことにした。

 おばちゃんには、「真ん中の店だよ」としっかり、再度念押しされた。

三厩(みんまや)から龍飛崎に向かう

三厩(みんまや)にある義経

 三厩地区は今別町の西隣にあり、先にも触れたように外ヶ浜町に属する。今別町には取り立てて私の興味を惹くものがないように思われたので、国道280号線のバイパスを通って三厩地区に入った。

 三厩の名前は「義経北行伝説」に関連する。この伝説はあまりにも有名なので、わざわざここに記す必要はないと思えるが、その一方で、それに触れないと「三厩」などという不思議な名前がこの地区に付けられた由来が分かりづらくなるし、これから紹介する「義経寺」についても説明しづらくなっるため、あえて簡単に触れたいと思う。

寺は高台にある

 義経は1189年の衣川の戦いで自害し、また弁慶は戦死したことになっているが、実はひそかにこの地を離れ、三陸海岸を北上し、それから広義の外ヶ浜を移動し、津軽半島の先端部まで至った。

 この地から津軽海峡を渡ろうとしたところ、海が荒れてなかなか渡れず、やむなく義経は持参していた観音像に祈願した。満願の暁、夢に白髪の翁が現れ、竜馬を三頭与えると伝えた。

 目が覚めて厩石(うまやいし)をのぞくと、三頭の竜馬がつながれていた。それに義経、弁慶、亀井六郎の三人が乗り、無事に蝦夷地に渡ったという話だ。

 この厩石には浸食を受けて三つの洞穴があった。その中に一頭ずつ馬がつながれていたので、この石は三馬屋石と呼ばれるようになった。この三馬屋が三厩に転じたのである。

境内から港を眺める

 この北行伝説には続きがあって、義経一行はさらに大陸に渡り、義経はチンギス・ハン(1162~1227年)なったという話まである。これが広まるきっかけを作ったのは1823~30年まで日本に滞在して医学や植物学を教授したシーボルトだったという。彼は新井白石の『蝦夷志』の参考にして、義経北行説を主張し、それが明治時代になって広がり始め、1924年には『成吉思汗ハ源義経也』という本がベストセラーになったとのことだ。

 これに対し太宰は、「故郷のこのやうな伝説は奇妙に恥づかしいものである。」「どうも津軽には義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけじゃなく、江戸時代になっても、そんな義経とか弁慶が、うろついてゐたかも知れない。」と揶揄している。

山門

 頼朝との対抗上、後白河法皇義経を持ち上げ、左衛門少将・検非違使に任命した。検非違使令外官で、不法を検察する天皇の使者という位置づけである。別名を「判官」という。

 平家を打ち取ったのはひとえに義経の功績であったにもかかわらず、頼朝は彼の存在が自分の立場を脅かすということで、厳しい仕打ちを行い、結局のところ衣川の戦いで自害に追いやった。こうした義経の悲しい運命から、とりわけ東北の人々にとって義経奥州藤原氏に育てられ、そして頼朝の圧力があったものの藤原氏の手によって死に追いやられたということが誠に口惜しいために、心の中で義経を生かせて蝦夷の地に渡らせたのだろう。

 「判官びいき」という言葉は、こうした義経に同情する立場の人々から生まれたのだろう。本来、判官は権力側にあるのだから、人々にとっては決して好ましい存在ではないにもかかわらず。

 こうした北行伝説が影響したかどうかは不明だが、修験僧の円空(1632~95年)が三厩にやってきて、観音像を彫り、その中に義経が持っていたとされる観音像を収めた。そして小さなお堂を建てて、観音像を安置した。これが、写真の「義経寺」である。

 円空は北海道の松前にも渡ったという記録が残されているので、三厩の地を訪れたことは事実であろうし、義経のために観音像を彫った可能性は極めて高い。ただし、お堂を建てたことは定かではない。

弁財天堂

 義経北行伝説はともかくとして、この義経寺の境内は標高41mの地点にあるために見晴らしはとても良い。ここに写真の弁才天堂が建てられていることが義経に関係するかどうかは不明だが、水の神である弁才天が、津軽海峡を進む船の航海の安全を見守っていることは確かである。 

◎龍飛漁港にて

太宰治文学碑

 龍飛漁港は2カ所あって、双方は約500m離れた位置にある。写真の「太宰治文学碑」は手前側の漁港の傍らに設置されている。向かいには、太宰が宿泊した「奥谷旅館」を改修して設立された「龍飛岬観光案内所」があった。

 文学碑には『津軽』の一節が彫られている。「ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。諸君が北に向かって歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」

 このあと太宰に同行したN さんは「誰だって驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはひってしまった、と思ってひやりとしたからね。」と述べている。そしていつものように酒宴を重ねて寝入ってしまったが、翌朝、寝床の中で、童女が表の路で手毬歌を歌っているのを聞いた。

 「私は、たまらない気持ちになった。今でも中央の人たちに蝦夷の地と思ひ入まれて軽蔑されてゐる本州の北端で、このやうな美しい発音の爽やかな歌を聞かうとは思わなかった。」と感じ入っていた。

龍飛崎の先端にある帯島

 私はもう一つの龍飛漁港に向かった。この港のある集落こそ、太宰の言うまったく道が尽きる場所にある港なのだ。

 沖には「帯島」という名の岩礁があるが、現在は橋でつながっているため自由に行き来できる。

 帯島の名も義経北行伝説に由来し、義経がいよいよ津軽海峡を馬で渡るとき、この場所で、しっかりと帯を締めなおしたということからその名がつけられた。

海の安全を守る弁才天

 島には、写真のような「弁才天宮」が建立されていた。しつこく繰り返すようだが、「弁才天」は水の神様で、漁師たちの航行の安全を見守っている。

帯島から津軽海峡を眺める

 帯島は火成岩からなる岩場で、柱状節理がはっきりと分かる姿を見せていた。この岩で義経は帯をきりりと締め、一行(3人)は津軽海峡を渡って向かいに見える蝦夷の地を目指したのである。

 天が授けた竜馬なので、海を渡るぐらいは造作ないことかもしれない。私は小学生低学年のころ、多摩川の水の上を歩いて渡ることができないのか何度も試したことがある。理屈は簡潔で、まず片方の足を川面に乗せ、その足が沈まないうちに別の足を出せば良いのだ。これを素早く繰り返すことによって沈まずに川面を歩いて行けるという寸法だ。が、実際はなかなかの難題で、中学生の時は学校のプールでも試みたものの、やはり3歩ぐらいが限界だった。義経が乗った竜馬とは異なり、私は駄馬に過ぎなかったことを思い知らされた。

龍飛埼灯台は高台にある

 帯島から龍飛岬の高台を眺めた。前述したように、龍飛埼灯台は標高111mのところにある。確かに、太宰が言うように、奥羽山脈から梵珠山地を経て中山山地と続いてきた山の連なりは、この龍飛岬において海に転げ落ちるのである。

高台に至る階段~これが国道399号線

 三厩本町で、国道280号線からバトンを受け取った国道339号線は、引き続き外ヶ浜の海岸線を龍飛崎方向に進み、いよいよ太宰の言う「すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである」という岬の先端に到達する。

 しかし、この国道はここで終わるわけではなく、今度は津軽半島の西岸に出て、さらに五所川原市街を通過し、南津軽郡藤崎町で、国道7号線(新潟市青森市を結ぶ一般国道羽州街道羽州浜街道)に突き当たる。

 このため予定では、龍飛岬でUターンして岬の上に出る計画もあったらしいのだが、実現は困難ということで、その役割は別の取り付け道路にまかせ、R339は日本で唯一の「階段国道」になっているのである。

階段国道を歩いての上るつもりだったが

 写真は、階段国道の上り口付近のものである。最初はスロープだが、標高5.4mのところから、写真のような階段が始まる。もちろん当初は上まで行くつもりだったが、この日はまだまだ立ち寄る場所が多いことから、と自分に言い聞かせて、その無謀な試みは早くも挫折してしまった。

ここが階段国道の終点

 結局、車に戻って取り付け道路を走り、岬の上方に出た。ここは標高75.6mである。比高はたかだか70mなので根性を出せば(出さなくとも)十分に上ることができる(に違いない)。

◎龍飛崎にて

龍飛埼灯台

 龍飛埼灯台は高さが13.7mとそれほどの大きさはない。もっとも、すでに標高111mの地点に建っているため、海を照らし、また海からその位置を知るには十分な高さがあると言える。2005年までは一般公開していたが、無人灯台ということもあり現在は立入ることはできない。

 日本の灯台50選に入っているとのことだが、ここが選ばれたのは、やはり見晴らしの良さからくるもので、灯台そのものの姿ではないように思える。

津軽海峡の激流

 灯台の周囲には見晴らしの良い場所がいくつもある。写真はほぼ真下の海の様子を眺めたもの。西から対馬暖流が流れ込むため、その潮の速さがよく見て取れた。この潮は東に進んで陸奥湾の海水を温めている。

北海道がよく見える~最短距離で19.5キロ

 この日は晴天に恵まれたために北海道がよく見えた。案内図には写真にある山の名前が出ていたが、私はメモをしないし、記憶力は相当に衰えているため、その名は完全に失念してしまった。

 対岸の松前町にある白神岬が龍飛からはもっとも近く、その距離は約19.5キロである。義経御一行は、その岬を目指して竜馬を走らせたのだろうか?

西海岸と小泊半島

 西海岸を眺めた。横たわっているのは小泊半島で、私は何度か半島の先端まで船で渡って磯釣りを楽しんだ。現在は制約が多いらしいが、ここは磯からホンマグロが釣れる場所として知られていた。もちろん、私が使っていたタックルでは、一瞬でラインが切られるだろう。

 写真に見える道路は竜泊ラインと呼ばれており、相当に快適な道である。なお、太宰は知り合いを訪ね小泊まで出かけているが、当時は道はまったくなかったため、後日、列車とバスをを使って移動している。

 なお、吉田松陰は1852年に小泊から龍飛崎まで、相当な苦難の連続の末、龍飛に到達している。国防を憂える動機から、友人の宮部鼎蔵(ていぞう)とともに山や沢にしがみつくようにしてやってきたのである。しかも、松陰はこの旅のために脱藩までしている。

ほぼ真下に青函トンネルが走る

 私は、青函トンネル入り口にあった売店のおばちゃんとの約束を果たすため、三軒並んだ売店の真ん中の店に入った。女性店員にトンネルのおばちゃんの話をすると、「旦那の母なんです」と言った。折角なので、ホタテの串焼きの大を注文した。

 写真は売店付近から中山山地を眺めたものである。確かに、中山山地は龍飛まで続いている。正面に見える施設は、「青函トンネル本州側基地」である。この下の地中深くにトンネルは走っている。私は電車を使った長旅は苦手なので直接、トンネルにお世話になることはない。

龍飛岬といえばこの唄~実は一回しか出てこないけれど

 龍飛岬といえば『津軽海峡冬景色』の唄だろう。とくに龍飛岬をテーマにしたわけではない歌詞だが、「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと、見知らぬ人が指をさす」ので、「息でくもる窓のガラスふいてみたけれど、はるかにかすみ見える」だけだった。

 この日のような晴天であれば青函連絡船からも龍飛岬はかすかに見えるだろうけれど、雪の日であればおそらく見えないのではないか。これが下北半島やその北端の大間崎であれば見えるかもしれないけれど。ちなみに連絡船の航路から大間までは20キロ、龍飛までは27キロである。

 これは心象風景を唄ったものであろう。たしかに、龍飛なら情緒があるけれど、大間では、それはあまり感じられないからだ。

 なお、この歌碑は新しくできたもののようで、かつては道端にあった。また、この唄がガンガン流れるのが興ざめだった。今回はそれが気にならなかった。

〔103〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(5)三内丸山、弘前城、岩木山神社、立佞武多など

立佞武多の館に立ち寄る

三内丸山遺跡を見学

立派な建物が出入り口付近にある

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」は2021年に世界遺産に指定されているが、その遺跡群の中でもここで取り上げる国の特別史跡である「三内丸山遺跡」は群を抜く規模で、私たちがそれまでイメージしていた縄文時代の人々の生活様態を見事に打ち砕いてくれた。

 2017年に出版(日本語版は19年)されたジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』は、我々が抱いていた穀物生産が定住や国家の成立条件であったという見方に異議を唱え、狩猟・採集の時代の半定住生活こそ、人々の暮らしの「豊かさ」があったことを、多くの資料を提示しながら証明してくれた。

 三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期にかけての大規模集落跡で、現在から約5900年から4200年前(紀元前3900年から2200年)に存在したと推定されている。竪穴建物は550棟以上発見されており、一時期に存在した住居は20棟程度で、縄文集落としては稀に見る大きさであったと推察されている。

 現在では、人間が安定的な社会生活を維持できる規模は150人程度と考えられている。これをダンバー数といい、オックスフォード大学の人類学、進化心理学を専門とするロビン・ダンバーが提唱し、様々な資料から、この数値は現代社会でも当てはまると考えられている。確かに、人が他社の顔やその特徴をある程度認識でき、「仲間」だと思える上限はこの程度だろうし、私が個人的に仲間だと思っているニホンザルの群れも、100頭程度が上限と考えられている。

 が、この三内丸山では一度期に500人が暮らしていたと想定されている(異論も多い)。遺跡の規模は約40haと推定されているが、ここは青森の市街地に近いため、発掘できるのは今の規模が限界だと考えられるので、実際にはもっと広かったと考えるのが妥当だろう。とすれば、いくつかの集団が、たまたま同居していたとも想像しうる。

 なにしろ、縄文時代では、北東北が日本列島ではもっとも住みやすい地域だったと考えられているのだ。それだけ、海も野原も山も自然に満ち溢れていたのだろう。

遺跡のジオラマ

 出入口付近には立派な建物「縄文時遊館」があり、いかにも「世界遺産です」と言いたげな姿を誇っている。その建物の中に入り、「時遊トンネル」を通って遺跡と対面することになる。そのトンネルの前に存在していたのが、写真のジオラマである。

 これから分かることは、遺跡のある場所は広い丘だということだ。標高は17.2m地点にあり、北側にある最寄り駅の新青森駅は8.8m、フェリー港は2.2m、県庁は2.5m地点にある。

 この遺跡に人々が暮らしていたときには海面は現在よりかなり高く、青森市の中心部はほぼ海の中にあったと考えられている。それゆえ、「縄文のムラ」は丘に造られたのであろう。

 ちなみに、周囲の地名には、「石江」「両滝」「浪館」「沖舘」などがあり、いずれも水に関係している名前になっている。また、周囲には池や沼が多いことから、かつては海もしくは湿地帯であったことが想像できる。

縄文のムラに入る

 時遊トンネルを抜けると、広々とした「縄文のムラ」があった。林の右手は他でもよく見かける竪穴式住居跡だが、やはり、この遺跡を象徴する「大型掘立柱建物」の存在だ。もちろん、その先にある鉄塔は、遺跡とは何の関係もない。

竪穴式建物群(復元)

 竪穴式建物には、”茅葺き(かやぶき)”と”樹皮葺き”と”土葺き”の三種類が復元されているが、写真にあるのは茅葺きと土葺きの2つである。こうした建物はすべて住居用に建てられたものと考えられている。

大型掘立柱建物(復元)

 この遺跡でもっともよく知られているのが、写真の大型掘立柱建物だろう。この姿を見ただけで、それが三内丸山遺跡のものであるとすぐに判断できるほど、有名なものだ。

 6本の柱の間隔はすべて4.2mで、柱の穴の深さは2mである。このような建物が何故に存在するのかは不明だが、一説には、海で漁をしている船が自分たちの位置を知る上で役立ったのではないかというものがある。つまり、ランドマークとしての役割である。確かに、そう考える以外のことはなかなか思いつかない。

掘立建物(復元)が並ぶ

 掘立建物は、おそらく倉庫として用いられたのだろう。とりわけ、大型掘立柱建物のそばにある大型掘立建物は、長さが35m、幅が10mもある。もちろん、内部見学も可能だ。

竪穴式建物(復元)の内部に入る

 写真は、竪穴式建物の内部を撮影したもの。ここで、縄文人はひと家族5,6人が生活していたと考えられている。

小学生が造った竪穴式建物

 写真の樹皮葺き建物は小学生が中心となって縄文人の家づくり体験によって復元されたもののようだ。このような貴重な体験は、生涯、忘れることがないだろう。もっとも、私だったら、共同作業をしていると見せかけて、実はサボっていただろうけれども。

縄文のムラを今一度、眺める

 縄文のムラをひと通り見て回ったので、次は「時遊トンネル」をくぐり抜けて、様々な展示物を見て回ることにした。

 建物内からはムラの景色を見ることはできないので、トンネルに入る前に、その全体を今一度、目に焼き付けることにした。

縄文人の暮らしを再現

 常設展示室(さんまるミュージアム)には、縄文人の暮らしぶりを再現した展示がおこなわれている。漁労や狩猟、それに数々の土器製作などの様子が立体的に模してあるが、もちろん、私のお気に入りは釣りをする場面で、陸奥湾では多彩な魚が釣れたはずである。私は縄文人に生まれ、毎日のように釣りに出かけたかった。

縄文式土器がいっぱい展示

 いろいろな形の縄文土器が展示してあるが、「縄文」の言葉から連想される姿とは異なり、簡素な造りが多い。私たちがイメージする縄文土器は華美なものだが、それらは日用品というより、呪術的な要素が含まれているからであって、普段使いは「100円ショップ」で見掛けるような形のもので十分なのだろう。

糸魚川産・ヒスイの首飾り

 企画展示室ではヒスイの飾り物が多く展示してあった。ヒスイは現在の新潟県糸魚川市で産出されたもの。今から5000年ほど前に、新潟と青森とを結ぶ道(海の道だろうか)があったことに驚かされるが、極めて硬いヒスイを加工する技術をすでに有していたことにも驚愕せざるを得ない。

 狩猟・採集時代は実は豊かで、定住して稲作をせざるを得なくなった時代こそ階級格差が生まれ、大半の人は抑圧された暮らしを強いられたのかも。それでも、「ブルシット・ジョブ」が跋扈する現代社会よりは格差は小さかったことだろうけれど。

◎板柳から弘前城

板柳中学校付近から岩木山を眺める

 弘前へ移動中に板柳町に立ち寄った。連続射殺犯で小説家の永山則夫(1949~97)が育った土地に触れたかったからである。彼が板柳中学校の生徒だったのは約60年も前のことだったので、町の様子や中学校の校舎は今とはまったく異なるものであっただろうし、実際、彼はほとんど学校には通っていなかった。

 町の様子は変わったっとしても、おそらく、彼が毎日のように目にしていた岩木山の姿はほとんど変化していないだろう。

 時代は変わり、町は変わり、人は変わり、今ではこの土地にいっとき、永山が存在していたという記憶はほとんど消えかかっているはずだ。

 それでも、岩木山は変わらずに厳然として聳え、人々の営みを見守り続けてきた。その事実だけは、これからも続くことは確かであろう。

弘前城丑寅

 弘前藩津軽藩)は、南部藩の被官であった大浦為信が1590年に豊臣秀吉から4万5千石を賜って津軽地方を統一して、南部藩から独立した。さらに、1600年の関ヶ原の合戦では徳川家康側に味方して2千石を加増され、名実ともに弘前藩を確立した。

 初代藩主となった大浦為信は津軽姓に改称し、大浦(弘前)城の整備に専心したものの07年に死去したため、第2代目の信枚(のぶひら)の手によって本格的な工事が開始され、天守閣は11年に完成した。堀と石垣に守られた城は東西600m、南北1000mの広大な敷地を有し、現在では「弘前公園」となり、桜の名所としてよく知られている。

 大手門は敷地の南側にあるが、私は北側に車をとめたので、堀に架かる「一陽橋」を渡り、現在は青森懸護国神社のある旧四の丸から城内に入った。途中から進路を南に変えて本丸を目指した。

 賀田(よした)橋跡から賀田御門跡を過ぎ、物産館の前に出ると、写真の丑寅櫓が見えてきた。その櫓がある場所から二の丸になり、いよいよ城の中心は近くなってきた。

思いのほか小さい弘前城天守

 写真が、弘前城天守を正面から見たものである。三層構造のとても小さなものであるが、現存する木造十二天守のひとつで、司馬遼太郎は「日本七名城」のひとつだと述べている。

 本来の天守は五層の立派なものだったが、1627年に屋根の鯱に雷が落ち、火災が発生して焼失してしまった。1810年に辰巳櫓を改修して天守にした。それが現存するものなので、小さいのもやむを得ない。 

天守の内部

 内部は史料室になっており、往時に使われた籠などが展示してある。三階まで上がることは可能だが、階段は急で、かつかなり狭いことに驚かされる。

小型だが気品がある

 現在は石垣が補修されているため、本丸の中ほどに移動されている。補修完了後は、再び、その上に乗せられるので、本丸らしい姿に戻るのだろう。

 瓦は通常、粘土製のものが用いられるが、東北の厳しい寒さにあっては粘土では割れてしまう危険性が高いため、銅製の瓦が用いられているのも特徴的である、

 写真の角度から見ると、他の櫓とは出自は同じであっても、天守らしい意匠が随所に施されているため、規模は小さくとも気品を感じさせる美しい天守であることには間違いはない。

城内から岩木山を望む

 城内からは岩木山の姿が見て取れる。雄大、かつ秀麗な山と、小型であっても気高さのある天守との共演は、弘前の、いや津軽の宝であるともいえる。

岩木山神社(いわきやまじんじゃ)

岩木山神社に向かう

 「したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単の裾を、銀杏の葉を逆さに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟(せんけん)たる美女ではある。」

 これは、太宰治の小説『津軽』に出てくる岩木山(標高1625m)への賛辞である。『富嶽百景』では富士山に対し、「富士には月見草がよく似合う」とか、「これでは、まるで、風呂屋のペンキ画である。」などと揶揄した太宰だったが、故郷の岩木山に対しては、これ以上ない褒めようである。

 私個人としても、日本にあまたある山の中では、この岩木山大菩薩嶺がもっとも好みで、この二つの山に触れると、何やら敬虔な気持ちになってしまうのだ。もっとも、富士山は太宰が腐すほどありふれた山ではなく、いろいろな角度から眺めると結構、異なった姿に見えるので、興味ある山のひとつなのだが。

 弘前城を離れた私は、次の目的地である岩木山神社に向かった。写真は、その道中から眺めた岩木山の姿である。裾野はなだらかでありながら、山頂に近づくにつれて急速に姿かたちは変化に富み、しかも、見る角度によってはまったく異なった山と表現して良いほど、無数の顔を有しているのだ。

 写真は弘前方向から眺めたものだ。太宰は『津軽』では「弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿忘れられなかった。」と記している。

 ただし、「西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影はない。」と評している。この西海岸というのは「鯵ヶ沢」のことである。

一之鳥居

 岩木山神社にやってきた。近くの駐車スペースに車を置き、まずはなかなか格調のある「一之鳥居」を眺めた。参道はまっすぐに岩木山に向かう。実際、この道は岩木山頂までの登山道の一つにもなっているそうだ。私の場合は本殿までたどり着くのがやっとなので、登山道まで行くつもりはもうとうなかった。

五本杉

 参道の脇には土塁が整備されており、一角に写真の「五本杉」があった。樹齢は500年とのこと。名前は五本杉だが、根はひとつしかない。根元で芯止めをしたために幹が5本に分かれたそうで、杉の姿としてはなかなかお目にかかれないものだ。高さは24mで、幹回りは7.85mとのこと。

巨大な楼門

 岩木山津軽の地の神の山、霊山であって、伝承では780年に山頂に社殿が創建されたそうだ。800年には坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)がこの山を整備して、山頂には奥院、山麓に下居宮を建造したと伝えられている。

 坂上田村麿といえは、初代の征夷大将軍として東北の蝦夷征討が有名だが、実際には今の奥州市水沢に胆沢城、盛岡市の南に志波城を築いただけで、津軽地方にはまったく足を運んでいない。

 遣唐使が皇帝に言い伝えたことによると、蝦夷は大きく三つの勢力があり、南の熟蝦夷は従順であったが、北の荒蝦夷はあまり従わず、さらに北方の都加留はまったく従う様子はなかったという。つまり、田村麿は現在の岩手県の南側を「攻略」しただけで、岩手の北側やまして青森にはまったく手を付けることはなかったようだ。身の程を知っていた田村麿はなかなかの知恵者でもあったようだ。それだからこそ、彼は津軽の人々にも愛されているのだろう。

 1091年には神宣によって下居宮を現在の地に遷した。かつての地には現在、巌鬼山神社が建てられている。下居宮の地には百沢寺(ひゃくたくじ)が田村麿によって百沢の地に別当院として建てられていた。

 1589年 岩木山の噴火によって下居宮や百沢寺は焼失したが、1603年、津軽為信によって再建され、その後も歴代藩主によって整備された。

 写真の楼門は、かつては百沢寺の山門として1628年に造られた巨大な建物で、高さは18m近くもある。上層部には十一面観音や五百羅漢像が安置されていたが、明治の廃仏毀釈によって取り除かれてしまった。

中門と拝殿

 楼門のすぐ先に、中門と拝殿がある。私はいつもの通り、参拝はしないので中門のすぐ手前から中の様子をあちこちと窺がった。はた目から見れば怪しい人物と思われそうだが、私自身はずっと以前からそうした姿で、寺社とは対面していたのであるから、たとえ、そう思われていたとしても特段のことを感じることはない。

 中門は切妻造りの四脚門で、かつては百沢寺の大堂(現在の拝殿)の門として建てられた。柱の黒漆塗りが特徴的で、拝殿の丹塗りとは好対照になっている。

 拝殿は百沢寺の大堂(本堂)として、1640年、第三代の津軽信義のときに完成した。外部は全面丹塗りで簡素に見えるが、内部は極彩色に意匠された部分もあり、なかなかの見応えだそうだ。真言宗の寺院らしく、密教寺院本堂のとしての佇まいを有しているようだ。

末社の白雲神社

 本殿の東側に、末社の白雲神社があった。祭神は多都比姫神(たつひひめのかみ)といい通称は「お滝さま」だそうだ。神社そのものよりも白雲大龍神の幟の数の多さに驚かされる。裏手の森は深く、さぞかし湿気の多いところのようなので、霧が白雲となってお岩木様を守護するのだろうか。 

手水舎の水

 白雲神社の裏手に滝があるが、その水もまた伏流水となり、写真にある手水舎のところから再び姿を現す。長い年月をかけて雪解け水や雨水が地下に染み込み、それが清らかな水となって龍の口から吐水される。

 手や体、心を清めるには最適な水かもしれない。もっとも、私はただ、写真を撮っただけだが。

異なる角度から岩木山を眺める

 岩木山神社を離れ、次の目的地に定めた大森勝山遺跡に向かうため、県道30号線を北へ進んだ。この道は「岩木山環状線」の名がつけられているように、岩木山の東側の裾野を取り囲むように造られている。なお、山の西側には県道3号線(弘前鯵ヶ沢線)があるので、岩木山をぐるりと一周できる道が整備されていることになる。

 360度、どの角度から眺めても岩木山は美しい表情を見せてくれるが、活火山らしく、近くで見るとなだらかに思えた裾野はそれなりに変化しており、山頂は富士山の天辺よりも遥かに起伏に富んでいる。それだけに、独立峰でありながらも極めて豊かな姿を人々の前に展観してくれているのである。

 岩木山神社は山の南南東に、大森勝山遺跡は山の北東に位置するため、私はいろいろな角度から、”お岩木山”の姿に触れたのだった。『帰ってこいよ』の歌は流さなかったけれど。 

◎大森勝山遺跡(国の史跡)

環状列石

 写真の大森勝山遺跡は、縄文時代晩期の集落遺跡であり、紀元前1000年頃まで集落として存在していたと考えられている。岩木山の北東側裾野から伸びる舌状台地(標高143~145m)の上にあり、とりわけ環状列石(ストーンサークル)がよく保存されている。

 祭祀に利用されたと考えられている環状列石は、盛土された楕円状のサークル(長径48.5m、短径39.1m)の上に77基の石組みが置かれている。この石は、近くを流れる大森川や大石川から運ばれたもので、大きさは1から3mの輝石安山岩である。また、250点以上の円盤状石も発見されている。

 また、その他の遺物として石鏃、石斧、石皿、土偶なども発掘されている。 

冬至の日には山頂に太陽が沈む

 環状列石と岩木山との間では、大型竪穴建物の跡が1棟見つかっている。

 冬至の日には。集落から岩木山を望むと、ちょうど夕日が山の頂に沈むそうだ。縄文人(もちろん、彼・彼女らが自称していたわけではない)が、あえてこの地に集落を構成した意味が私にはよく理解できる。

津軽富士見湖に立ち寄る

ため池に架かる”鶴の舞橋”

 北津軽郡鶴田町に、岩木山からの流水を集めた人造湖の「廻堤大溜池」があり、その愛称が「津軽富士見湖」と言うらしいので、立ち寄ってみることにした。人造湖とそれに映る津軽富士(岩木山)の姿を眺めるためであった。

 が、溜池には写真の「鶴の舞橋」と名付けられた木造の美しい橋があり、良い意味で、その偶然に感謝した。

 溜池は1660年に津軽藩第四代の津軽信政が新田開墾のために造成を命じたもので、現在でも、津軽平野の田んぼ約400haに水を供給しているという、なかなか価値の高い人造湖である。

 江戸時代には、この地に鶴が数多く飛来したという記録があり、なかでもタンチョウヅルがもっとも多かったそうだ。こうした田んぼに鶴がやってくるという光景から、この地は鶴田と名付けられたそうだ。なかなかドラマチックな名前ではないか。

丹頂鶴自然公園内の鶴

 湖の一角には「丹頂鶴自然公園」があった。現在では、丹頂鶴は北海道にしか飛来しないため、1997年にロシアからつがいを譲り受けて開園した。その後、この地で生まれたり、多摩動物公園から借り受けたりして、現在では10羽の鶴が飼育されている。

端麗な橋と岩木山

 鶴の舞橋は、樹齢150年以上の青森ヒバを利用し、三連のアーチを描いている太鼓橋で、この手のものとしては日本一の長さ(300m)を誇っている。

 もっとも、誇示するべきは長さではなく、その曲線の美しさであり、何よりもその先には美しさを極めた山が存在しているのである。どこかの知事やそのシンパが「万博リング」とかいう無駄金を使って木造の日よけ・雨よけを造っているが、どう工夫したにせよ、この橋の美しさには遥かに及ばないはずだ。

 偶然とは言いながら、やや遠回りしてこの湖に立ち寄った甲斐は十二分にあった。もっとも、ツアー客は結構な数が訪れていた。つまり、私がその存在をただ認識していなかっただけだったらしい。

◎亀ヶ岡石器時代遺跡を少しだけ訪ねる

遮光器土偶のモニュメント

 現在、東京国立博物館に所蔵されている左足のない大型遮光器土偶が発掘された(1886年)のは、つがる市木造にある「亀ヶ岡石器時代遺跡」からである。眼窩が誇張され、両目は顔から大きくはみ出している。これが、イヌイットエスキモーが使用するスノーゴーグル(遮光器)によく似ていることからそう名付けられた。

 その後は各地で同様のものが発見されているが、亀ヶ岡からのものが最初だったことで、この遺跡の名は全国的に知られるようになり、2021年に世界遺産に指定された「北海道・北東北の縄文遺跡群」のなかでは、三内丸山遺跡につぐ知名度があると思われる。

 なお、亀ヶ岡の地名は、由来のわからない甕(かめ)が数多く出土するところから、“かめがおか”と呼ばれてたことによるそうだ。

 写真はその遮光器土偶のモニュメントで、この背後の台地から無数の遺物が発見されている。この地は縄文海進の時代に古十三湖が誕生し、現在でも数多くの池や沼が周囲に点在している。

 海と砂浜と内陸を分かつのは、屏風山と呼ばれる砂丘である。この砂丘のために内陸から流れてくる多くの小川は出口を失い、内陸部に広い湿地帯を生んだ。それが広大な津軽平野を形成したのである。現在でも、十三湖から鯵ヶ沢まで約30キロもの長い砂浜が続いており、その海岸線は「七里長浜」の名称を持っている。

 なお、亀ヶ岡はその長浜の少し内部にあり、かつ、やや台地状になっているため、集落を形成するにはとても利便性の良い場所だったのだろう。 

発掘後なので看板のみ存在

 亀ヶ岡の遺跡群は発掘が終わって、すべて元の姿に戻されているので、写真のような看板があるほかはここが著名な遺跡なのだという面影はない。ただ、遮光器土偶のモニュメントと、プレハブの小さな小屋とトイレがあるのみだ。それゆえ、ここを訪れる大半の人は、モニュメントをバックに記念撮影をおこなうだけである。

 もちろん、近辺では発掘は禁じられているので、新発見を期待するのは断念すべきだろう。

 なお、土偶の足が欠けているのは、たまたまのことではなく、儀式に用いられるときに、あえて体の一部を切断して供えたからだと考えられている。そのため、完全な形で発見されることはとても少ないそうだ。 

農薬散布用ドローン

 亀ヶ岡にいてもとくに目に付くものはないので、この地からは早々に引き上げ、津軽平野の真ん中の道を通ってホテルのある五所川原市街へと向かうことにした。

 その途中で、ドローンが田んぼの上を飛んでいるのを見掛けたので、車を路肩に止め、しばしその様子を見学した。数分後にドローンを操縦している人が私のところにやってきた。そして、田んぼに農薬を散布しているのだということを教えてくれた。

 どの農家も人手不足なので、ドローンが使えるようになって随分と作業が捗るようになったとのことだ。そういいながら、その人はドローンを写真にように軽トラに積んでしまった。それまで、私はただ口を開けたままドローンが飛翔している様子を見ていただけで、撮影することをすっかり忘れていたのだ。

農薬散布中のドローン

 もう作業は終わりなのかと尋ねたところ、奥のにある田んぼで作業するために軽トラで移動し、そこでまたドローンを飛ばすというので、私は今いる場所で待つことにした。少しばかり(実際には結構長かったかも)話をしたあと、彼は作業のために軽トラに乗り込んで、奥の田んぼへ移動した。私は、ドローンが働く姿をここで撮影しますから、と告げ、改めて謝意を表した。

 私は350ミリのレンズをセットし、ドローンが飛び立つのを待った。彼はまず、目的の田んぼには農薬を散布せず、私が撮影しやすい場所までドローンを飛ばしてくれた。それが上の写真である。

 何とか合点のゆくカットが撮れたと思ったので、私は彼に大きく手を振り、さらに何度もお辞儀をした。彼もそれが分かったようで、ドローンを奥の田んぼの上空に戻し散布作業を再開した。

 私は車に乗り込み、窓を開け、そして何度か大きく手を振った。エンジンに火を入れ、私はその場をゆっくりと離れた。

 こうした、偶然の小さな出会いが、心を温かく、そして豊かにしてくれる。

立佞武多(たちねぷた)の館内を見学

高さ20m以上の立佞武多

 ホテルに戻る途中の道に、「立佞武多の館」という6階建ての建物があった。駐車場の係員に聞くと、立佞武多の展示場は午後5時までだとのことだった。時間は50分ほどしかないが、どのみち私の場合はそれだけあれば十分すぎるくらいなので、入館してみることにした。

 立佞武多のことは、耳にタコができるくらい、五所川原に住む知り合いの釣り人から聞かされていた。「一度は見にきてくださいよ」と何度も言われていたが、8月4日から8日の五日間で160万人もの人出があるらしいので、混雑が苦手な私には到底、無理な相談だと思えた。

 しかもその時期は、アユ釣りのハイシーズンなのである。

館の内部は1階から4階まで吹き抜け

 建物自体は6階建てで、それそれの階にいろいろな施設もあるが、1から4階の半分以上は吹き抜けになっており、そこに3基の立佞武多が置かれている。高さは23mもあるので、4階までの高さが必要になるのだ。

 ちなみに、下部には「漢雲」の文字があるが、これは雲漢と読み、「天の川」を意味する。ねぷた祭りの淵源は諸説あるらしいが、ひとつ確実なことは、「ねぷた」とは「眠気」を意味するということだ。

 夏の暑い盛りの畑仕事は眠気をもよおす。眠気を吹き飛ばすために”ねぷけ流し”の行事が行われるようになり、いつしか旧暦の七夕の日にお祭りが行われるようになった。その眠気流しの行事が、やがて冒頭の「ねぷた」の言葉だけが残り、伝統的な催事になったのである。

見事な細工

 「ねぷた」、または「ねぶた」は現在、青森市弘前市五所川原市で、いずれも八月の初旬に催されているが、五所川原のものはとくに「立佞武多」といって、山車の上に高い細工物が置かれているのが特徴的だ。他の地域では横に扇型に広がるものが造作されている。これは津軽藩の初代藩主の津軽為信の幼名が「扇」であったことから、扇ねぷたが一般的なのである。

 五所川原だけは理由は不明だが、高さのあるねぷたが造られた。明治から大正時代にかけては高さが十間(約18m)の山車が造られたそうである。しかし、市内では電化が進み、至るところに電線が張り巡らされたために、立佞武多の運行は困難になり、他の町と同様に扇型のものになってしまった。

 それが、1993年に立佞武多の設計図と写真が古家から見つかり、有志がそれをもとに立佞武多を作製し、96年には岩木川の河川敷で披露した。こうしたことから町中で立佞武多を運行しようという気運が持ち上がり、98年には五所川原市の支援の下、夏祭りで立佞武多が復活したのであった。

 なお、意匠には坂上田村麿をモデルにした武家ものが多いそうだが、上の写真のような女性を描いたものもある。

金魚ねぷた

 立佞武多は三基あり、例年、一基づつ更新される。お祭りでは、立佞武多のほか、写真の「金魚ねぷた」も登場する。なぜ金魚なのかは不明ながら、藩主が津軽錦という品種の金魚を大切にしたからだという説が有力らしい。

 なおお、立佞武多の館の5階にある「遊楽工房かわらひわ」では金魚ねぷたの製作体験ができる(有料)そうだ。また、金魚だけでなく、団扇の製作も行われている。

館内には3基の立佞武多が並ぶ

 写真のように、館には三基のねぷたが収められており、8月4日から始まる祭りの際には、大きな扉が開かれ、ここから立佞武多が出陣するのである。

 なお、立佞武多の製作には半年掛かるそうで、50のパーツを製作し、最後にクレーンを使って2日かけて組み立てるそうである。

 また、4~6月の紙貼りの際には一般の人も無料でその作業を体験できるとのことだ。もちろん、私はたとえ請われたとしてもその紙貼りに参加することは絶対にない。理由は簡単で、不器用だからである。

 私が加わったならば、その立佞武多は質の悪い佞武多になってしまうのは確実である。

 ともあれ、短時間ではあったが、この館に立ち寄ったことは意義深く、件の釣り仲間が、しつこく私に見学に来ることを勧めた気持ちが、今になって分かるような気がした。