徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔56〕東京郊外の湧水を訪ねる~秋留台地のヘリを探索

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湧き水を蓄えた二宮神社の「お池」

秋留台地のキワに湧水を求める

 あきる野市の中心部がある「秋留台地」は極めて興味深い地形をしている。東西に約7.5キロ、南北に約2.5キロとさほど広いとはいえない台地でありながら辺縁部には侵食段丘が目立ち、研究者によって意見が異なるものの一般に段丘は9面に区分されている。大半は、現在の市の中心である「秋留原(あきるっぱら)面」で、ここは平坦地であるものの、かつては集落は少なかった。小川はなく、地下水面まで20m以上の深さがあるため、生活用水の入手が困難だったからである。一方、台地の三方(北、東、南)のヘリには低位面(秋留原面との比較において)が複雑に入り組んで形成されているが、集落はこの辺縁部の低地に発達していた。段丘礫層は5m前後の厚さで、その下にある基盤の上位面が難透水層であったために地下水の利用が容易であったからである。

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秋川左岸から秋留台地を望む。手前側は後背湿地、高台が秋留原面

 秋留台地の北側に草花丘陵、南側に加住北丘陵が存在するが、その間にある秋留台地だけは「丘陵」ではなく、今のところ「台地」である。写真は秋川左岸の自然堤防上から秋留台地を望んだものだが、手前の後背湿地(氾濫原、標高127m)の北側には小川面(132m)があり、その先に横吹面(145m)、そして最上部の秋留原面(158m)が見える。住宅は斜面上ではなく、それぞれの段丘面上に建っている。

 秋留台地は立川段丘と同じ頃に形成されたと考えられているので、今から3万~2万年前に生まれた。立川段丘は古多摩川が蛇行しながら基盤(上総層群)の上に砂礫をまき散らし(立川礫層)、その上に火山灰が積もって(立川ローム)形成されたように、同じ時期に古秋川や古平井川は上総層群の上に関東山地を削って段丘礫層を乗せ、さらに立川ロームが積もって生まれたと推定されている。台地上から川が完全に離水したのは約1万6千年前と考えられているので、その頃から秋留原面に火山灰が積もり始めた。以来、加住北丘陵と草花丘陵との間にあった扇状地風の台地の南北を秋川や平井川が曲流し、かつ水位を下げながら側面を削りとっていったため、独特の形状をもつ秋留台地が形成された。とりわけ、水量豊富な秋川が流れる南面では侵食作用が大きかったため、より複雑に入り組んだ河成段丘が形成されたのだった。

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台地北面の草花公園では、住宅の土台から水が湧き出ている

 台地の中心部付近では、表層土(黒色腐植土)の厚さは0.3m、ローム層は2m、段丘礫層は20mほどと考えられている。その下の基盤(上総層群の最上位である五日市砂礫層)が難透水層となるので、段丘礫層内には不圧(自由)地下水が豊富に存在する。前述のように、秋留原面では難透水層までの深度がありすぎるので地下水の汲み上げは困難であった。一方、台地の際に存在する低い段丘面では井戸を掘ることは容易であり、何よりも、段丘崖からは豊富な地下水が溢れ出てきたのだった。

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かつては滝行がおこなわれていた白滝神社の湧水も現在は渇水気味

 秋留台地のヘリといえば国分寺崖線、立川(府中)崖線、拝島丘陵南面とならんで、多摩地区では湧水が豊富な場所としてよく知られていたが、近年では宅地開発が進んでいるためもあって涵養水は激減しまったようだ。上の写真のように、秋留台地の湧水を代表する「白滝神社」の泉(白滝恵泉)も渇水気味で、もはや滝行はおろか手洗いにも難儀するほどだ。

 もっとも、今冬はとりわけ雨降りが少ないので、地下水位は例年に比してはるかに下がっていることも大きく影響していると思われるのだが。この写真は2月15日に大雨が降る前の日に撮影したものなので水量に乏しいが、のちに挙げる写真は大雨から一週間後のものなので多少、地下水面は上昇したようで手洗いぐらいは可能だった。

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湧水を集めた真城寺の池ではコイたちが大騒ぎ

 湧き水が出る段丘崖のふもとには溜池が多く存在する。池に水を蓄え、用水を整備して各所に水を供給するのである。本項の冒頭写真は二宮神社の、上の写真は真城寺の池だが、現在では溜池としての役割は小さく、おもに観賞池として存在している。池には概ねコイが放たれており、訪れる人はしばしば餌を与えるので、コイは人間によく懐いている。真城寺の池では、私のすぐ前に訪れていた老夫婦が餌を与えていたためか、私が近寄ると、奴らは私にも餌を求めて大騒ぎをしていた。基本、私は餌(自分以外の)を持参しないのに。

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八雲神社の池では底から水が湧き出す

 湧き水は段丘崖下部から生じるだけでなく、秋留台地の東端近くにある八雲神社の池では、やや深めに掘った場所から伏流水が湧き出ている。浅い場所は緑藻に覆われているのだが、池の中心にある深場では常に新しい水が湧き出て白い底砂がかき混ぜられるためか、コケが覆うヒマがないようだ。

 このように、秋留台地ではいろんな姿の湧水を見ることができる。そんなわけで、台地のヘリの変化に富んだ場所を、今回はあちこち訪ね歩いてみた。渇水期に湧水を探すのは無謀なのだが、反面、雨量が多い時期では湧水なのか雨水の集合体なのか判明が付かない場合もある。この時期だからこそ、湧水の真の姿が見られるのだと考えたからである。本当は、冬以外では茂みの中の虫が暴れ出て怖いというのが第一の理由なのだけれど。

◎草花公園(あきる野市原小宮)

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岩の間から湧水がほとばしり出る、はずだったのだが

 草花公園は秋留台地の北面にあり、平井川の右岸に接している。園内には市民球場やプール、そして東側に広場がある。公園自体は氾濫面にあるが、南側にある入口付近は台地ではもっとも低位にある「屋城面」に属している。ただしこの屋城面は狭く、すぐ南側に秋留原面が広がっている。なお、ここでの平井川の河原は標高130m、野球場などがある氾濫面は132m、屋城面は135~137m、秋留原面は149mである。

 湧水は公園入口のすぐ左手(西側)にある。写真はその湧出口であるが、私が参考にした資料では組み上げられた岩の間から清水が湧き出る写真が掲載されていたが、訪れた日には、岩の隙間から水が僅かに滲み出ていたぐらいであった。ただ、その水溜まりには小魚が泳いでいる姿があったので、ここが涸れてしまうまでには至っていないようだ。

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湧出口付近から下流方向を望む

 写真右手が園内に至る取り付け道路で左手に宅地がある。岩が適度に並べられていて「渓流風」を装っているが、肝心の流れは極めてか細いものだった。

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公園内から湧出口方向を望む

 小流れの底には泥が堆積しているので薄茶色に見えるが水自体は澄んでいる。清水は右手の住宅の基底部からも湧き出ていた。

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住宅の基底部をのぞく

 住宅の基底部には水抜きの穴があった。少量だが、確実に水が流れ出ていた。私が訪れた日では、この住宅下からの水量のほうが本流?よりも多めだった。

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公園南側の宅地整備地域のU字溝からも清水がやってくる

 公園駐車場の南側では宅地造成がおこなわれており、その下部から写真のU字溝が西から東に伸びていた。流れる水の透明度が高かったのでこの溝の元をたどってみたのだが、フェンス内の造成地では暗渠化されてしまって流れは見当たらず、さらにその周囲でも水の源は発見できなかった。しかし、近くに段丘崖があるので、そこから湧き出た水が宅地に流れ込むことを防ぐ目的で暗渠化され、さらにU字溝が造られたということは確かなようだ。

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三者の水が集められ、公園の際に整備された溝を流れ下る

 岩の間から「湧き出た」水、住宅の基底部から流出した水、U字溝を下ってきた水、その三者は公園に至る道路の西側で出会い、そこから流れは東に向けられ、道路の下を潜って東側に造られたコンクリート水槽に導かれる。

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水は公園の南斜面下を流れ下る

 公園の東側では台地の秋留原面が迫っており、湧水が集められて造られた小川はその段丘崖の直下を東方向に流れていく。公園内には遊歩道が整備されているので、その流れに沿って歩を進めることができる。

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ゴミが集まりやすい場所にあるが、流れはかなり澄んでいる

 北向き斜面の下を流れるために小川にはゴミや落ち葉が集まりやすいが、流れ自体はかなり澄んでおり、出自が湧水であることを想像しえた。

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平井川の右岸側に造られたひょうたん形の池

 公園入口から200mほど下流に造られたのが写真の池。湧水を集めた池だが、その大きさに比して湧水量が少ないため、水はかなり濁っている。浅瀬にコイが泳いでいるのを見つけたが数は少ないようで、池の端に寄ってもコイが近づいてくることはなかった。

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池のほとりには新しめの四阿(あずまや)があった

 ひょろ長いひょうたん型の池の窪み造られた四阿(あずまや)があった。新しく設置したのか改築されたのかは不明だ。水がそれなりに澄んでいて、水中に生き物が多く生息していれば格好の観察場になるのだが。

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オーバーフローした水は平井川に落とされる

 池の水位を安定させるためオーバーフロー形式になっていて、写真の場所から設定水位を超えた水は北側に流れている平井川に落とさせる。湧水量が少なく、しかも表層の水だけが川に流されるため、池の水の循環は極めて悪い。「かいぼり」をおこなわなければ澄んだ池になることはなさそうだ。

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渇水気味の平井川

 平井川の流れを望んだ。公園の敷地の一部は左岸側にも広がっている。写真内にある橋は、両岸を行き来するためのものである。

◎白石の井戸・福寿公園(あきる野市草花)

 ▽白石の井戸

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平井川を渡る。左手に秋留台地、右手に草花丘陵がある

 草花公園の湧水はやや「消化不良」気味だったので、平井川沿いにある湧水を探してみた。下流方向に草花丘陵側(左岸側)だが、名の通った場所があることが資料によって判明したので出掛けてみることにした。

 その場所は、公園からは1500mほど下流にある。平井川が多摩川に流れ込む直前に架かる「多西橋」まで「平井川南通り」を1800mほど東南東に進み、その橋を渡る。写真は、多西橋上から平井川上流側を望んだもの。川の上流の先に関東山地が見え、お馴染みの大岳山が構えているのが分かる。

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多西橋から草花丘陵側を望む

 秋留台地の湧水を巡る散策なのに、なぜ草花丘陵の南端にある湧水に出掛けるのか。その理由は明瞭で、草花丘陵の南東側の一部は広義の秋留台地に属するからだ。

 秋留台地の大元は古秋川や古平井川がまき散らした礫層であることはすでに触れた。その礫層は現在の平井川の河道より北側にまで広がっていた。河口(多摩川との合流点)付近では川の左岸から丘陵の麓までは1000mほども離れている。このため、平井川の下流部左岸側には結構、広い範囲に秋留台地の秋留原面や野辺面、小川面などが存在するのだ。つまり現在の平井川は、秋留台地の原形が出来たのちに流路を変えて台地の北面付近を下刻して多摩川へ流れついているのである。それゆえ、これから紹介する2つの湧水点は平井川左岸にあっても、広義には秋留台地に属すると考えることも可能なのである。

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台地のヘリを東西に走る「いずみ通り」。意味深な名称だ

 といったわけで、私は平井川の左岸に出て氾濫面の上位にあって台地のヘリを東西に走る「いずみ通り」を西に進んだ。泉が点在する通りだから、いずみ通りなのだろう。そう信じたい。

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いずみ通りから平井川右岸の秋留台地を望む

 いずみ通りから、本家の秋留台地を望んだ。低位にあるのが小川面、高位にあるのが秋留原面の東端付近である。林が見えるが、それは後述する二宮神社の社叢林だろう。

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白石の井戸の上位面にある旧道

 いずみ通り旧道とおぼしき道があった。この道の下段に「白石の井戸」があるようだ。資料によれば、ここも湧水量は多いと記してあった、信頼性は低いけれど。

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下の道から「白石の井戸」近辺を望む

 下段に新しい道が出来ていたので、さしあたり、その道に降りて「白石の井戸」の全貌を概観することにした。下の道の標高は120m、旧道は128m、いずみ通りは129mである。

 斜面を上る道らしきものはあったが、川の流れはなかった。湧水は本当にあるのか?いやな予感!

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中段にあった水槽に流れ込む湧水

 斜面中段にコンクリート製の水槽があり、上部から溝を伝って少量だが確かに水が流れ込んでいるのが分かった。この水槽の下部から溝は暗渠化されているので、下からは河道が見えなかったのだ。

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溝は上方の石垣下につながっている

 溝の中ではか細い流れが見て取れた。いささか小流れすぎるものの。

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ここが湧水点らしい

 崖面は石組され、その下部に小型の石組水槽が造られ、その石の間から水が湧き出て(滲み出て)いるのが見て取れた。かつては穴の開いた白石があり、その穴から清水が湧き出ていたそうだ。その穴の開いた白石は盗難にあったらしいので今はここには存在しない。どこかの家に隠されている可能性はあるが。

 この湧水を使って正月13日に米粉の団子(繭玉)を作ると、その年の蚕は良い繭をつくるという言い伝えがあるそうだ。今は白石も豊かな湧水もないが、そうした伝説がある場所だけに、遺構(白石を除く)と僅かな湧水だけは残されている。

 ▽福寿公園

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白石の井戸の西側にある福寿公園

 白石の井戸から西に60mほど進むと「福寿公園」がある。かつて、この近くに「福寿庵」があったことからそう名付けられたようだ。公園敷地の南端の標高は121m、北端の高い場所は123mである。写真内の階段の右手に見えるのが庭園?で、南北に細長い庭園内には湧き水?の流れがある。

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崖の下にある貯水槽

 白石の井戸の上位の道を西に進むと、写真の貯水槽が見えてくる。白石の井戸の上位面では標高128mだったが、道は下りになっているので、貯水槽は125m地点にある。

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貯水槽の隣にある湧水点?

 貯水槽の西隣に写真の水溜があり、湧水はここに滲み出てから溝を伝って貯水槽に移動する(らしい)。

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貯水槽内にはコイが泳いでいる

 湧水量が極めて乏しいために水の更新が少ないことから、貯水槽の水はかなり濁っていた。

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貯水槽からオーバーフローした水が福寿公園に落とされる

 道路の下を潜って貯水槽の水は下部にある庭園に落とされるが、湧水が少量であるだけに、したたり落ちる水の量もわずかだった。まるで、まやかし経済理論であるトリクルダウン効果やバタフライ効果のごとくに。

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水量はわずかだが、湧水はなんとか小流れを形成している

 それでも、水たちは小流れをつくって園内を下っていく。

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僅かな水であっても、やはり流れがあると心和む

 極端な渇水期であった今冬でさえ、ここでも流れは途切れてはいなかった。雨量が少しは多くなるであろう3月頃からは地下水面が上昇するはずなので、もう少しは見栄えが良くなっていることを期待したい。

 なお、白石の井戸の下部や福寿公園は、広義の秋留台地の屋城面(草花公園の下位面と同じ)に、湧水点の上位面(標高128mから132m)は野辺面(後述する八雲神社と同位)に属している。

二宮神社あきる野市二宮)

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二宮神社武蔵国の「二宮」である

 二宮神社についてはすでに、本ブログの第32回(府中市)と第36回(滝山城跡)にて触れている。神社の中心は高台にあり、それは秋留原面の東端に位置する。写真の鳥居が立っている場所は「小川面」に属するのだが、ここは秋川というより多摩川によって秋留原面が削られて出来たものだ。もっとも、小川面は多摩川右岸側だけでなく、平井川の右岸や左岸、秋川の左岸側に広く分布している。

 小川面では1万年前ごろ完全に離水したと考えられており、段丘礫層の厚さは4~5m、表層土は1m程度で、立川ロームには覆われていない。神社の本殿がある秋留原面の標高は137m、小川面に属する撮影地点は128mである。

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鳥居の向かい側にある「お池公園」入口付近

 鳥居の前には都道168号線が南北に走り、その通りの東側に「お池公園」がある。お池の70mほど南にはJR五日市線が走っており、神社前から東秋留駅までは250mほどの距離である。

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お池公園にはもちろん、湧水を集めて形成された「お池」がある

 お池の西側には小さな四阿があるが、都道を行き交う車の存在が煩わしいので、お池でコイと戯れたい人々は、おおむね東側のテラスへと移動する。

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コイに餌を与える人々

 東側のテラスではコイに餌をあげている人が3人(3組)いた。いずれも、偶然に立ち寄ったという風情ではなく、準備万端、手提げの中にはしっかりとコイ用の餌(種類はいろいろ)が入っているようだ。堂々と餌をあげている人もいれば、少し罪悪感を抱いているのか周り視線を気にしながら餌を撒いている人もいた。人それぞれであるが、それぞれ、コイに恋しているようだ。恋は大抵、道ならぬものなのだが。

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餌付けに慣れているコイたち

 コイたちは餌をもらい慣れているようで、人の姿を見掛けると近づき、かつ水面近くまで浮き上がってくる。

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段丘崖にもっとも近接した場所

 写真の場所は都道のすぐ東側にあり、お池では段丘崖にもっとも近い場所にある。湧水点のひとつなのだろうが、判然とはしなかった。

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お池の水は用水路へと流れ出る

 写真のように、お池は用水路につながっている。どんな干ばつのときもお池の水は涸れたことがないそうなので、湧水が生み出す貯水池は、かつては重要な生活用水だったはずである。なお、干ばつのときはこのお池の周りで雨乞いの儀式がおこなわれていたそうだ。

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用水路の傍らには遊歩道が整備されている

 用水路の脇には散策路が整備されている。右手の広場には住民が植えたとおぼしき花たちが並んでいた。

 

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用水路は住宅街を縫うようにして東へ進む

 用水路は住宅街を開渠されて進み、その間は散策路が寄り添っているが、途中から暗渠化されてしまい、その末流は多摩川に通じている(らしい)。この川の道は雨水を集め流すためにも用いられているようで、家々の間からは多くのU字溝が用水路に向かって伸びていた。

八雲神社あきる野市野辺)

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何処にでもある八雲神社だが、あきる野では湧水池のある神社として知られている

 八雲神社は何処にでもあるが、私の場合、すぐに思い起こすのは足利市にあるものだ。その理由は本ブログの第6回の「渡良瀬紀行」の項で触れている。渡良瀬川ではなく秋川や多摩川にほど近いあきる野市八雲神社森高千里とは無関係で、湧水との関係が深い。

 神社は「野辺面」にあり、境内の標高は127mである。野辺面は平井川の右岸側にもあるが、おもに秋川の左岸側に存在し、二宮神社のお池がある小川面より少し上位で、その比高は1~3mほどだ。東秋留駅は野辺面にあり、あきる野市の中心駅である秋川駅の南側の低地も野辺面にある。小川面はローム層に覆われていないが、野辺面では最上位の黒色腐植土の中にロームが混在しているので、小川面よりも古い層であることが判明している。

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境内にある池は湧水で成り立っている

 境内に池があり、コイだけでなく金魚やウグイ、オイカワなどが泳いでいる。池の底面はほぼ緑藻に覆われているが、池の中心部の深場だけは白い砂の存在が目立つ。

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池の深場は地下水脈に通じている

 最渇水期なので白砂はさほど目立たないが、この白砂部分から湧水が流出している。神社では池を造るために地面を掘ったところ水が湧き出てきたらしい。野辺面では礫層が薄く地表と基盤上部の難透水層との間が短いため、地面を掘ると地下水が容易に湧き出てくるらしい。もっとも、地下水を永続的に得るためには地下水脈(地下水谷)を掘る必要がある。神社の場合、水脈の位置を知っていたわけではなく、たまたま境内の下に水脈があってそれを掘り当てたのではなかろうか? 

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池の水は用水路に落とされる

 二宮神社のお池と同様、池の水は絶えることがないので、用水路へと落とされる。

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神社では、落とされた池の水を手水として用いている

 池のすぐ東側に写真の場所がある。豊富な湧水を有する他の神社でも同じ仕掛けを見たことがあるが、ここでも湧水の流れは手水(ちょうず)場として用いられている(ようだ)。

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湧水が生み出した流れは境外へと進む

 流れは神社の外に続き、用水路としての役目を果たしていたようだ。

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住宅地の間からも湧水の流れがある

 湧水は池だけでなく、近隣の住宅の間からも生まれ、写真のように神社の流れと合流する。

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豊富になった湧水は分水される

 集まった湧水は各所に分水され、生活用水などに利用されてきた。

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雨後の数日後には湧水量は増加していた

 多くの写真は2月15日以前に撮影したものだが、久方振りの大雨があった15日の数日後に池を再訪してみた。たしかに、池の中心部の白砂の面積は拡大し、湧水量の増加を証明していた。

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湧水の増加に川魚も大喜び

 上で少し触れたように、この池にはコイ以外の川魚が多くいる。モツゴ、ウグイ、オイカワの類のようだ。目立ち度はコイや金魚に劣るが、自然度はそれらに勝る(と思われる)。

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神社の周囲には微低地、微高地がとても多い

 今回は触れないが、八雲神社の周囲には微低地や微高地が多く存在し、さらに溜池、旧河道と思われる場所が多数あった。住宅街を通る小道に直線路はひとつとしてなく、明らかに水道(みずみち)の名残りのようにくねくねと曲がっている。八雲神社の周囲にある小道探索だけでも一日を豊かに過ごすことができそうだ。徘徊の楽しみのネタは尽きない。

 なお、八雲神社東秋留駅の真南340mほどのところにあり、二宮神社八雲神社間も480mほどしかない。が、湧水の成り立ちの相違は明瞭で、その比較も興味深い。

◎白滝神社(あきる野市上代継)

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睦橋通りのすぐ南側にあるが、やや下段に位置するために存在は目立たない

 あきる野市の湧水点としては二宮神社と並び称させるほどよく知られた場所であるが、私自身は名前こそ知っていたものの訪れるのは初めてだ。五日市方向(つまり秋川渓谷)に出掛けるときは睦橋通りをほぼ必ず西進し、R411と交差する油平交差点、圏央道とは立体交差するが、圏央道の取り付け道路と交差する下代継交差点のすぐ先の左手(南側)下に白滝神社は存在するが、睦橋通りは秋留原面の南端の標高155m地点を走り、神社上の旧道は横吹面にあって150m、神社の本殿は146m地点にある。上の写真は睦橋通りと旧道との間にある住宅地を貫く道路から本殿を写したもので、その撮影点は153mである。かように神社のある地形は複雑なので、よそ者としては簡単に路駐場所を探すことができないため、いつも素通りしていたのだ。

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神社横の高台から加住北丘陵方向を望む

 神社境内に降りる前に、神社の西側にあった空き地から南方向、つまり秋川の上を走る圏央道とその先にある加住北丘陵の姿を眺めてみた。ちなみに、本殿はこの撮影点とほぼ同じ高さのところに立ち、左の鬱蒼とした森の下に白滝恵泉の湧水点がある。

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境内に降りて高台にある本殿を眺める

 本殿前の境内に降り立った。神社の境内は斜面にあるため、平地は何段かに分かれている。最上部の平地は142m地点にあり、146m地点にある本殿を見上げることになる。私にはお参りする習慣がないので、階段を上がることはしなかった。

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恵泉の横には水神様と板碑がある

 本殿を見上げた平面からさらに下ると小さな祠があり「八雲神社」の名があった。その祠から3mほど下ると恵泉の横に出られる場所があった。そこには写真の水神様と板碑がある。

 水神様の姿は「倶梨伽羅(くりから)竜王不動尊とも)」であった。密教八大竜王のひとつらしいが、その名の由来はサンスクリットの「クリカ」とのことだが、その「クリカ」の語源が今ひとつ分からない。ともあれ、不動明王の化身らしいので水神様であることは確かだ。「倶梨伽羅」と聞くと「倶利伽羅峠」や「倶梨伽羅紋々」をすぐに連想するが、元はひとつである。博徒の刺青と水神様との関連性は謎であるが。

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水神様の場所から下方を見ると、半円礫の中にか細い流れが見えた

 倶梨伽羅竜王像を背にして恵泉の行く先方向を望んだ。半円礫の間に、わずかではあるが流れが見て取れた。

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恵泉の谷頭を眺める

 内緒で源頭付近に立ち入り谷頭(こくとう)周辺を眺めた。湧水点は142mほどのところにあった。写真から分かるように、谷頭周辺は教科書通りの逆U字を形成している。相当に後退侵食が進んでいるが、地下水は減少気味なのでこれ以上の後退は起こらないだろう。もしそれが発生したとすれば、上位にある家々は確実に崩落する。

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水神様の下段から恵泉の源頭周辺を眺める

 かつては滝行がおこなわれたとされる「白滝」であるが、水量が減った現在では石垣を組んで水を落としても、もはや「行」にはなりそうにない。後退侵食が進む前であれば、もちろん滝は存在していただろうが。

 神社の創建は不明だが、古くから「白滝の社」と呼ばれて崇敬されていたらしい。白滝の名の由来は、境内に樹々が繁茂し、一条の飛泉がかかって滝となって見えたことによるとのこと。どうやら、以前から「瀑布」といった感じではなかったようだ。もっとも、そんなことは、ここの地質から見て明らかではあるが。

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白滝の流れは下位にある農家の生活用水となっていた

 滝(湧水点)は小川面に発し、用水路が造られて下位にある屋城面の田畑や住宅地に供給される。流れの際にある農家は、流れの一部を敷地に引き込んで野菜洗い場の水として現在も利用しているようだ。

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標高132m地点から神社の森方向を望む

 神社下からは狭い市道がくねくねと曲がりながら秋川の左岸まで通じている。秋川までは直線距離にして600mほどである。その市道から神社の森と、白滝恵泉が造った小流れを眺めてみた。左手に広大な敷地を有する農家があり、先に挙げた「野菜洗い場」はその農家が使用している(らしい)。

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農家が所有している溜池

 広い敷地を有する農家は写真の溜池を所有している。なお、この敷地は災害時の避難場所になっている。

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いくつかの湧水が集まってひとつの流れとなり、今度は東方向へ進んでいく

 恵泉が造った流れはほぼ平坦な場所(標高131m)に出ると、西から来た、やはり湧水が生み出した流れと合流し、一本の用水路となって今度は東へ、そして南東に進んでいく。南東に曲がるのは、その方角に屋城面とその上位面とのキワがあるからだ。

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用水路の安全を見守る地蔵尊

 用水路が一体化するキワに写真の地蔵尊があった。用水路の安全を見守るために置かれたのだろうが、今ではコロナ禍の終息を住民たちは願っているようだ。終息の折りには、お地蔵さまも赤いマスクを外すことができるだろう。

◎真城寺(あきる野市上代継)

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真城寺裏の湧水が生んだ流れ

 西からくる流れの元を追ってみた。写真は、南から下ってきた流れが東に向きを変えた地点から東方向を眺めたものだ。この100m先に合流点があり、地蔵尊がいる。

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流れの元は北方向の斜面にあるらしい

 流れの元をたどった。右手(東側、左岸側)は農地、左手(西側、右岸側)は真城寺の墓地。墓地内のほうが歩きやすいので流れの右岸に沿って源流点を探した。

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流れの源はこの森の中にあった

 墓地の北辺までは進むことができたが、その先は深めの谷になっていた。谷を進むことはできないことはないようだったが、一方で怪我は必至とも思われた。地図で確認すると、谷は北西方向に伸びており、谷上の高台は住宅地であった。

 谷の最上位の標高は149m。とうぜん、この沢の谷頭は逆U字を形成しているので、湧水点は145mより下にあると想像しうる。また、白滝恵泉の湧水点とは200mほどしか離れておらず、かつ同じ地層に存在しているので、ここの湧水点も142mほどであると考えるのが適当であろう。なお、撮影地点の標高は140mである。

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真城寺は北条氏照が再興したと考えられている

 真城寺は1351年、足利尊氏の子で初代鎌倉公方の基氏が開基したとされている。臨済宗建長寺派の寺である。一時は衰退したが、1579年、北条氏照が再興したという言い伝えがある。実際、この寺には氏照の回向位牌がある(らしい)。

 境内にはシダレザクラがあり、市の天然記念物に指定されている。かなりの大木なので満開時は見ごたえがありそうだ。

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本堂の裏手にある池。湧水が生み出したものらしい

 湧水を探すために本堂の裏手に回った。地図によれば、先ほどの沢に平行して別の沢があるということが判明したからだ。崖下には池があった。地図によれば、沢はこの池に流れ込んでいるようだった。

 池の水の透明度は二宮神社のお池よりはやや低いが、かなり澄んでいるといっても過言ではない。湧水のなせる業だ。

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流れ込みを探すより、まずはコイの観察をおこなった

 湧水の流れ込みを探す前に、さしあたりコイの観察をおこなった。私は、魚を見ると興奮してしまうのだ、それが死んだ魚であっても。その興奮はコイにも伝わったのか、奴らは異常と思えるほどはしゃぎまわっていた。私が訪れる前に老夫婦が餌を与えていたからだ、ということは冒頭近くですでに触れている。

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池の石垣に流れ込みの筋があることを発見した

 池を取り囲む石垣を観察すると、水が流れ込んでいる様子が確認できた。そこで、池の東側から崖方向に進み沢の在処を探すことにした。

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沢の源頭方向を望む

 池の上の崖には沢があり、水量は少ないものの確かに池に流れ落ちていることが確認できた。ここはお墓の裏手にあった沢とは異なり、白滝恵泉と同様に沢筋が少し開けていたので、源頭まで探ることが可能と思われた。視認した範囲では、中央上部に写っている木の根元あたりから流れ出ているようだった。

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木の根元を確認。源頭はもう少し上のようだ

 視認した木の根元まで上り、つぶさに観察した。流れはもう少し上で発出しているようだった。

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源頭はこの倒木の下にあると思われた

 確認した木の根元の数メートル先に倒木の重なりがあり、その下から水が湧き出ているようだ。その辺りは足元がとても悪そうなので、そこまで出向くことは断念した。写真からも分かる通り、その辺りに小さな逆U字の谷頭が存在する。もちろん、谷全体も後退侵食による大きな逆U字を形成しているが、地下水量が減じている昨今では、極小の谷しか形成できないようだった。なお、この谷頭の標高は142mほどで、白滝恵泉と同等の高さであった。なお、寺境内の標高は130mである。

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池の西側にも小さな池があった

 池に戻り、西に続く崖の様子も確認することにした。先ほどの池とはまったくつながっていないが、崖下には写真のような小さな池があることが分かった。よく見ると、池の石組の下から水が流れ出ていた。これは、上方から水が供給されていることの証明であった。

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池の上方の景観

 耳を澄ますと水の流れる音が聞こえた。そこで池の上方を観察すると、草むらの中に僅かではあるが流れの姿が視認できた。上方には写真のような大石が並べられており、流れはその間を進んできているようだった。

 辿る道はあったものの、もはや覗きに行く必要はなかった。ここにも湧水点は存在していたのだ。

 真城寺には3本の湧水があることが分かった。いくつかの地図を参照したが、この湧水の存在を記してあるものはなかった。それだけでも、意味のある「発見」であった。

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白滝恵泉と真城寺裏の湧水が集まってできた用水路の流れ

 小さな旅の小さな発見が大きな喜びを与えてくれた。だが、まだ旅は終わりではなく、秋川駅の南口近くの駐車場まで戻らなければならなかった。最短距離で1200mほど。寺の標高は130mで駐車場は156m。距離に加えてその比高26mがある。楽しみが多くあったと同時に疲労もあった。おまけに最後に上り坂まである。足取りは重かった。それは、いつものことだけれど。

 車に戻るまでが旅である。家に帰るには一時間以上の運転が残っている。しかし、それは単なる日常の延長にすぎない。

〔55〕東久留米市・落合川~湧水が造った沢や中下流域を訪ねる

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「いこいの水辺」で本を読む人

南沢緑地保全地域を散策する

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もっとも湧水量の多い沢の流入

 本川沿いにも湧水点は多いが、やはりこの川でとりわけ魅力を感じてしまうのは、近傍の谷頭から湧き出す清らかな沢の存在だろう。

 小さな沢の中にはもはや涸れてしまったものもあるようだが、今回に取り上げる3本の沢(沢頭、立野川、こぶし沢)は、雨量が少なく自由地下水の流量が減少(もしくは帯水層の低下)する冬場であっても湧水は絶えることなく、本川に豊かな清水を供給していた。

 その代表が、前回の最後に少しだけ触れた、南沢緑地保全地域から毘沙門橋上流右岸側に流れ込む「沢頭(さがしら)」である。その沢頭の名はここで取り上げる沢の源流域のみを指すのか、それとも落合川に流れ込む3つの沢の中の筆頭格である、これから紹介する沢の流れ全体を指すのか不明だが、ここでは南沢緑地から生まれる3本の沢の総称であると勝手に考えてその名を用いることにした。

 上の写真はその沢頭流が本川の右岸部分に流れ込む姿を写したものである。

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清められた水にコイたちも大喜び?!

 前回も最後のところで、合流地点の緩流部で悠然と泳ぐコイたちを紹介したが、別の日に訪れた際には、少し水温が上昇したためなのかコイの活性がやや高まっており、淀みに留まることをせずに流れの中へ積極的に突入する姿がよく見られた。そこで改めて、彼・彼女らの元気な様子を撮影した次第である。

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沢の湧水点を求めて遡上する

 沢頭の流れを辿ってみることにした。写真は合流点のすぐ上流側を眺めたもので、右手(沢の左岸側)に「南沢水辺公園」がある。最下流部ではほんの少しだけ住宅地内を通過するためもあって、沢の両側は急傾斜護岸で整備されている。

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氷川神社前から沢の下流部を望む

 水辺公園の西側の高台には、前回に紹介した南向きの「南沢氷川神社」が鎮座し、参道が南へと伸びている。鳥居のすぐ南側を沢頭は東西方向に流れており、参道には小橋(宮前橋)が架かっている。本川との合流点からは120mほど遡ったところである。上の写真はその宮前橋から沢の下流側を望んだもの。左手(左岸側)に水辺公園がある。写真の流れの先の際に住宅地があるので沢沿いに道はなく、この流れに沿って移動することはできない。

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小橋の上流部

 一方、宮前橋の上流部には左岸側に道路があるので、沢の流れに沿って歩を進めることができる。

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小橋の上流側に小さな流れ込みがある

 沢頭を構成する3本の沢のうち、もっともか細い流れが宮前橋の上流右岸側にある。やや分かりづらいが、写真でいえば下から上に向かって(南から北へ、つまり橋に平行して)流れ込んでいる。これが「竹林の丸池」が生み出した沢である。まずは、この沢を見て歩くことにした。

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合流点から10mほど遡ったところ

 合流点から10mほど上流ではまだ、草や木々の葉っぱの間から水の流れを見て取ることは可能だ。

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か細い流れはほどなく草むらに隠れてしまう

 南に伸びる氷川神社の参道からは、沢の筋は少しずつ離れ(実際には竹林の中で生じた流れが少しずつ参道に近づいてくるのだが)、しかも草や木々はより多く覆い茂っているため、流路はかろうじて確認できるにすぎない。

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丸池からの流れ出し

 丸池近辺は手入れが行き届いていることもあって草も木々もほとんど存在しないために、丸池から流れ出す沢の姿を見て取ることができた。写真は丸池のすぐ下流にある溜まりとその下流部で、丸池はこの手前側にあって写真の中にはまだない。なお、丸池と写真の溜まりとは土管にて繋がっているので、その上を歩くことができる。

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湧水が生み出した丸池

 写真が、竹林に囲まれた丸池。観察しやすいように手入れをしたのか、かつてはもっと大きな池だったので北西側にあった木々や草は枯れてしまったのかは不明だが、湧水点に近づくことが可能だった。

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確かに地面から水が池に流れ込んでいる

 丸池の周りに湧水点はいくつかあるようだが、地下水面が低い冬場の時期では、写真の場所でのみ清水の湧き出しを確認することができた。湧水点の周囲には小石が無数に存在するので、武蔵野礫層の上部から地下水が流れ出していることが分かる。なお、この地点の標高は48.5mである。

南沢緑地の谷頭を目指す

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沢に沿った道を源頭方向に進む

 丸池から先に挙げた橋の北詰に戻り(もっとも、橋から丸池までの距離は60mほど)、今度は大本命である沢を遡上して湧水点を探すことにした。ものの本によれば、そこには明瞭な湧水点が4か所あるとのことだ。上の写真にあるように、橋の北詰からは沢に沿って西に進む市道が整備されているので移動は簡単だ。

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生垣が切れた場所から沢を望む

 道路と沢との間には生垣が整備されているが、記憶では3か所、沢辺に出られるような隙間が設けられていた。写真は、その隙間から上流方向を眺めたもの。

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2つの沢の合流地点

 橋の北詰から140mほど西へ進んだ地点に小さな空き地があり、ここからは南方向で生まれた沢と西方向で生まれた沢との合流点を見ることができる。写真内にある木橋(現在は通行不能)の架かっている沢が南から北へ下ってくるもので、狭義の沢頭は写真の右手(西側)方向に存在する。

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狭義の沢頭方向を覗く

 3本の沢でもっとも水量があるのが西側から流れ出すもの。残念ながら、左手(右岸側)は浄水場の敷地内、右手は私有地内なので、撮影場所よりも上流側に移動することはできない。写真に小さな水門が写っているのが分かると思うが、そこで浄水場から流出する沢の水量を調整しているようだ。

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沢頭側から見た合流点

 2つの沢の合流点の西側にも木橋が架かっており(こちらは利用可能)、浄水場内から流れ下る湧水の姿も上の写真も、その木橋の上から撮影したものである。

 飛び石があり、それを伝って合流点に近づくことも考えたのだが、私の場合は飛び石を歩く際、次にどちらの足を出すべきか考えてしまうことが多い。その結果、石を踏み外すことがしばしばなので、今回は安全性を考慮し木橋を渡って南からくる沢の源流点を見に行くことにした。

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南側の沢を遡る

 緑地内には遊歩道が整備されているので歩きやすい。一方、歩ける場所が限定されているので見たいと思う場所には入れないという悩みも生じる。豊かな自然を保護するためにはやむを得ない措置なのだろうが。

 南から流れ下る沢は、写真でいえば奥側に源頭があると思われたので、遊歩道を南に進んだ。

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谷頭周辺の景観

 明らかに源頭があると思われる様相だが、残念ながらこれ以上、前方に進むことは叶わなかった。以前は源頭付近まで自由に行けたらしいのだが、現在では「保護」が優先されている。

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あちこちの湧水点から清水が流れ出る

 源頭まで行くことができないので、谷の上に出て、そこから湧水点を探すために上り道を探した。右手(西側)にそのルートがあったので、少し進むと写真の場所に出た。その地点から、草むらの中に湧き水が流れているのが見て取れた。

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湧水点のひとつを覗き込む

 その流れの源が遊歩道の近くにあることが分かったので、可能な限り近づいて撮影してみた。写真の場所は立ち入り禁止場所ではない。

 源頭域では侵食作用が進み、谷壁が崩落して湧水点が移動し、谷壁はさらに後退する。谷の最上流部を谷頭(こくとう)と言うが、こうして谷頭周辺は逆U字の形になることが多い。この場所の谷全体はその教科書通りの形をしている(3枚上の写真が参考になるかも)が、写真の場所は逆U字の奥側ではなく西側なので、仮にこの場所の浸食が進むと谷の形は大きく変化するかもしれない。しかし、湧水の量は奥側に比べるとかなり少なめなので、その可能性は限りなく小さそうだ。

 谷の上に出てみたが、樹木があまりにも多く覆い茂っているため、メインの源頭を見出すことはできなかった。谷の直上には市道が通り、その南側には住宅が並んでいた。もはや、この谷の湧水量程度では後退侵食を起こす力はないという安心感から開発が進んだのだろう(そうでないと大変なことになる)。

 なお、私が視認した湧水点も、奥側の湧水点(と思われる場所)も標高は50mほどで、谷上の市道は55m地点にある。

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膨大な湧水を集める南沢浄水場

 西側から下ってきた沢頭のメインとなる湧水の源頭は、写真の「南沢浄水場」の敷地内にある。私のような一般人は、谷上を通る市道の北側に設置してある柵の外から眺めるだけで、しかしその2つあるとされる湧水点は建物や樹木に隠れているため、周囲の地形からその在処を推察することしかできない。

 写真の配水塔の容積は一万立米なので一万トンの水を貯えることができる。ものの本には、南沢緑地全体の湧水量は一日一万トンとある。一日分の湧水を集めることができる計算だ。もっとも、浄水場では湧水だけでは足りず地下300m地点から水を汲み上げているらしいので、双方の合計(湧水を含めた地下水全体)が一万トンというのが正解だと思われる。

 なお、東久留米市上水道は25%が地下水で、残りの75%は金町浄水場、境浄水場、東村山浄水場などからやってくる浄化処理された川の水である。東京都全体では、80%が利根川荒川水系、17%が多摩川水系の水なので、東久留米市の水はやや「自然度」が高い。

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浄水場内の谷頭を眺める

 私は浄水場の周囲をうろつき、何とか谷頭が見える場所を探そうとした。浄水場の西側には写真のような谷が見えるのだが、しかし、この場所も立ち入り禁止で近づくことさえできなかった。

六仙公園の存在意義

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南沢緑地の西側に広がる空き地

 地図を見ると南沢緑地の西南西側に公園があることが確認できたので移動した。公園内には「わき水広場」というのもあるらしい。その「わき水」の言葉に惹かれたのだ。

 写真はその公園の敷地の東端で、配水塔の姿がよく見える。それにしても、この場所は「何か」を整備しているようで、不可思議な光景が広がっていた。ところどころに個人住宅の建物もあるのだが、どれも空き家のようだ。

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地下水涵養のために整備された六仙公園

 公園の正門?は西側にあるようなので、その西側入口近辺まで移動して再び、南沢緑地方向を眺めてみた。少し分かりづらいが、写真中央上部に配水塔が写っている。

 公園内には「かたらいの広場」「芝生広場」「第八小学校記念広場」「野外学習広場」など「〇〇広場」がいくつもあるが、基本的には広大なる空き地で、わずかに遊具施設があるだけだ。なかには「縄文の丘」というのもあるので、一帯からは縄文遺跡が出土したのだろう。たしかに、近くには豊富な湧水地があるので、縄文生活?には便利だったかも。

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南沢の湧水を守り抜くための意思表明

 「わき水広場」に湧き水はなく、そのかわり、「水の森の創造~湧水を守り……」という決意宣言があった。その言葉から、この公園は南沢緑地の水を守るための涵養地であることが理解できた。広大な空き地は雨水を受け止め、多くの水を土中に浸透させ、ローム層の下にある武蔵野礫層に帯水する地下水を豊かにするという役割を有しているようだ。地下水を涵養することで南沢緑地内の湧水を一定量を確保する。その目的のために学校や住宅を廃して涵養地を広げていると考えられた。そうすることで、自然度25%の水道水を供給する体制を維持していくのだろう。大深度地下(上総層群内)に帯水する被圧地下水だけに頼りすぎると、地盤沈下の危険性があるからかも?

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公園の西側にある窪地

 公園の東側だけでなく、写真のように西側にも整備事業は広がっており、住宅地であった場所も涵養地に転じつつあった。

 そして窪地の存在である。公園の最高点の標高は58.5m、広場の多くは55~57mだが、写真内の窪地は52~53mなのだ。しかも、その窪地は東北東に進んでいき、行き着く先は南沢緑地の湧水点付近である。ただし、窪地の西側は標高57~58mなので、公園整備地の外にまでは窪地は伸びていないようだ。

 想像するに、かつては公園の西端近くに湧水点があり(わき水広場はその名残?)、その湧水の流れが窪地を形成し、それが南沢緑地方向に続いていたと考えられる。武蔵野台地は西南西から東南東方向へ緩やかに高度を下げている。当然、基盤である上総層群も、帯水層である武蔵野礫層も同方向に緩やかに傾斜している。その一方、基盤と礫層とは不整合に接しているため、不圧地下水(自由地下水)の水位は一定ではなく、写真の場所辺りで生まれた湧水は地下水面の低下で涸れてしまい、現在では地形にのみその姿を留めているのだろう。それに対し、南沢緑地内の湧水点では地層の転換点が存在し、礫層の露出度がより大きいために地下水位が低下しても一定の湧出量が確保されていると思われる。

 そういえば、竹林の丸池の湧水点でも礫層の露出が見られた。地層の僅かな変化が、湧水点の有無を決定づけているのだろうし、その違いはもちろん、たまたま生じたのだろう。自然に意志はないのだから。

立野川の源流域、そして中流域へ

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立野川の源流域がある向山緑地公園

 南沢緑地公園の南南東方向に「向山緑地公園」がある。公園内に湧水点があり、その清水は落合川の支流である「立野川」の水源となっている。南沢の湧水点と立野川の湧水点とは直線距離にして150mほどしか離れていない。しかし、2つの湧水点との間には住宅地や畑があるため直に行くことはできない。立野川の源頭に行くには、まず六仙公園の東端に出てから南に進み、それから東方向に進路を取り、住宅地の中を進んでから向山緑地公園の南側に出る必要がある。

 写真は、緑地公園の南側から源頭があると思われる雑木林の斜面を望んだもの。撮影地点は標高60mで、源頭は51mあたりなので、斜面を北方面に下る必要があった。もっとも、闇雲に下らなくてもきちんと遊歩道が整備されている。

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立野川の源頭付近

 写真は、その斜面をほぼ下り切ったところ。谷底の平面はやや広めに見えるが、北側は農地や宅地の開発が進んで土盛りされていたり整地されているので、元の姿をイメージすることはできない。ただし、水源域は保護されているので湧き水の存在を見ることは可能だった。

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草むらの中を流れる最上流域

 雨量の少ない冬場だからなのか、それとも地下水が枯渇気味なのかは不明だが、私が訪れた際には、湧き出すというより滲み出るという感じだった。ただし、地形図などで周囲の様子を詳細に調べてみると、最上流域は南南西を頂点とするU字の谷の形をしており、標高51m程度の谷底は整地されている緑地の北側(川の左岸側)にもある程度の幅を持って広がっているため、往時はそれなりの湧水量を誇っていたのかも知れない。 

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左岸に渡るための仮橋

 最上流域は沢というよりは湿地に近い。斜面側は右岸であるが、左岸側からのほうが全体の様子を捉えやすいと思われた。そこで沢を飛び越えることを考えたのだが、湿地の広がり方が不明であり、失敗すれば泥沼にはまり込むこともあり得ると思い、跳躍は断念した。

 そこで少し下流に移動してみると、写真のような丸木が渡してある姿に出会った。いかにも仮の橋という様相であったが、遠慮なく利用させてもらった。私の体重では丸木橋はよく曲がったけれど。

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仮橋のすぐ下にある「崩落」場所

 左岸側に出たので、源頭を見るべく上流に移動したのだが、最上流部の左岸側は私有地で立ち入りが禁じられており、行く手を阻まれてしまった。仕方なく、下流側に進むと写真のような姿が広がっていた。明らかに斜面は崩落しており、そのために遊歩道が失われただけでなく、右岸から左岸に渡るための石橋だか飛び石だかが破損していた。このために、少し上流側に丸木の仮橋を設けたのだろう。

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少しずつ水を集めて中流域へ

 左岸の下流側も私有地が沢のぎりぎりのところまで広がっているので、最上流域と同様、移動は制限されていた。私は丸木橋を渡って右岸側に戻り、下流方向を眺められる場所を探して上の写真を撮影した。ロームというより表層土の上を流れているため美しさは感じられないが、水の透明度は保たれ、かつ最上流域よりも水量が増えていることが分かった。明確な湧水点は見出せなかったが、湧水以外に水量が増すことはあり得ないので、斜面の際から地下水が少しずつ滲み出ているのだろう。

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住宅街に入る立野川

 向山緑地公園の下流側に移動するには住宅地を迂回する必要があった。写真は住宅街を流れ始めた立野川を上流方向に望んだもの。写真ではどぶ川のように見えるが、水自体に汚れはない。

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立野川は哀しからずや

 南沢通りの「笠松橋」に出た。上流側を望むと、流れの中にミクリの姿があることが分かった。その姿から、立野川は湧水が生み出した小川であり、かつ、落合川の支川であることが理解された。が、右岸側の水敷にはゴミが捨てられていた。笠松橋の北詰には交差点がある。おそらく、信号待ちをしている背の高い車の乗員が窓から車内のゴミを捨てたのだろう。ミクリには、その行為を告発するすべはない。

本川中流域を進む

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毘沙門橋下流の落差工

 立野川の笠松橋から南沢通りを北上すると、250mほどで落合川の毘沙門橋の出る。毘沙門橋上流の様子は前回や今回の冒頭でも触れたので、今度は橋の下流側を進むことにした。写真は、橋の下流にある「落差工(堰堤)」を右岸側から望んだものだ。

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左岸側に広がる「落合川いこいの水辺」

 毘沙門橋から220m下流に進むと「落合川いこいの水辺」に出た。左岸側の高水敷が広場風になっている。かつての曲路を利用したのだろう。前回では5枚目の写真が右岸から見た「いこいの水辺」で、そのときには保育園児と引率者の姿を写している。

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いこいの水辺を右岸から望む

 いこいの水辺で憩う子供たちを写した日には黒目川との合流点まで進み、その帰りに写したのが上の写真だ。今度は、川辺にて男性が本を読む姿があった。今回は主に左岸側を移動し、いこいの水辺の様子を丹念に探ってみた。その際に写したのが、今回の冒頭の写真である。本を読む人が岸辺にいたのは前に訪れた日と同様であったが、今度は女性であった。

 せせらぎに触れながらの読書。私には絶対にできない真似である。おそらく3分は持たず、川の中に入るか、石を投げ込むか、鳥たちを追い回すか、などの行為に出ること必定だ。

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右岸側に設けられた親水場所

 いこいの水辺は左岸側がメインだが、右岸側にも川辺に出られるところはある。とはいえ、フェンスがない場所は限定的で、水敷も狭いので、暖かい時期に川の中で遊ぶ人たちの緊急避難場所といえなくもない。

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いこいの水辺の湧水点

 ここにも湧水点はある。青いパネルには「この場所は、近隣住民の方々が飲料水として利用する「湧き水」です。川の水が入らい(ママ)ように「水のダム」を設けてあります。……(以下省略)」とあった。「な」が抜けているのは気になるが、この点は直に訂正されると思う。ともあれ、生活用水ではなく、飲料水とあるのがすごい。落合川の湧水、恐るべしである。

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いこいの水辺の下流に架かる老松橋

 いこいの水辺の下流に架かるのが写真の「老松橋」で、道の通称は竹林公園通り。橋の南詰から180mほど進むと、後に紹介する「竹林公園」に至る。

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合川最大の落差工

 老松橋の次が「美鳥橋」で、その下流にあるのが、落合川最大の落差工である。落差工は流速を抑制し、水敷や河床の損失を防いでいる。が、その分、落差工で生き物の移動が制限され、かつ、あまりにも人工的で美しさは失われる。

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落差工下の淀みで遊ぶコイたち

 落差工の下はトロ場(流れの緩い場所)になっており、そこにはたくさんの放流されたコイたちが泳いでいた。落差工下で川底に溜まった泥がかき混ぜられるため、水はやや透明度を失っているのが残念ではあるが致し方ない。

 コイは底生動物を食べ尽くしてしまうため、近年では「害魚」扱いされることが多い。コイがいない川もコイの無い人生も寂しいが、自然豊かな落合川に相応しい存在かどうかは疑問の残るところである。

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合川の上を走る西武池袋線

 西武池袋線の「落合川橋梁」が見える。左手(左岸側)方向に「東久留米駅」、右手方向に「ひばりが丘駅」(西東京市)がある。前者と川とは直線距離にして370mほど、後者とは1000mほどなので、明らかに東久留米駅が落合川の最寄り駅である。

 なお、次に「こぶし沢」について触れるので、右岸にある大きな木の存在を確認しておいていただきたい。

こぶし沢を遡上して竹林公園へ

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西武線橋梁の上流右岸側に流れ込む「こぶし沢」

 橋梁の右岸上流20mほどのところに写真の流れ込みがある。これは竹林公園内にある湧水が生み出した「こぶし沢」のもの。冒頭で、落合川には3本の沢があると述べたが、この「こぶし沢」が3本目(1本目は沢頭、2本目は立野川)である。

 ひとつ上の写真の右手に大きな木が写っていることを確認していただいたはずだが、その根元近くに沢は流れ込んでいる。

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竹林公園で生まれて落合川に流れ込む

 写真は、こぶし沢が本川に流れ込む直前の様子。大きな木は沢の右岸(写真では左側)にある。ここから竹林公園内の源流点までは350mほどの距離で、その短い旅がこれから始まる。 

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こぶし沢の流れはホタルも好むらしい

 合流点から200mほどは流れに沿ってほぼ遡上することができる。住宅地の中を流れているのだが、大方は川沿いに散策路が整備されていて監視の目が光っていることもあってか、沢にゴミを捨てる輩は少ないようだ。

 清い流れはホタルにもカワニナにも好まれるようで、季節になれば、ここではホタル狩りも楽しめるそうだ。

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住宅地のすぐ先に竹林公園がある

 竹林までの40mほどは川沿いに進むことはできない。住宅の先にある鬱蒼とした茂みが竹林公園の東端である。なお、撮影地点の標高は44mだ。

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竹林公園の入口付近。ここには賢人よりも変人が出没するらしい

 竹林公園に至るためには、住宅街をL字形に進む必要がある。もっとも、道はそれしかないので、撮影地点から住宅街へ上る道を道なりに進むと竹林公園の入口に至る。もっとも竹林公園の正門?は南側(標高52m)にあるのだが、写真の南東口?(標高50m)のほうが沢の遡上者にとっては近い。トイレ(かなり古い)を利用する場合は、正門?のほうに行く必要はあるが。

 遡上する私は写真のところから竹林に入った。ここにも、前回に散策した狭山丘陵同様、「ちかんに注意」の看板があった。この竹林には阮籍(げんせき)や嵆康(けいこう)といった賢人(七賢)はいないようで、変人や変態(七変)が出没するのかも。もっとも日中は見物人や散策者が絶えないので心配無用とは思うが。

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竹林の際を清水が流れる

 南東口から竹林に入り、散策路を進むと、住宅地の際を流れる沢の姿が見えてくる。

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竹林の周囲には湧水点がいくつかある

 沢の流れに沿って右岸側には散策路が続いているので、源頭に行くにはそのまま整備された道を進めば良い。

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右岸の湧水点が水量はもっとも豊富

 途中に湧水点があった。すぐに分かることだが、ここは源流点よりも湧出量は多かった。

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こぶし沢の最上流域

 源頭のすぐ下流には石橋があり、その橋から下流側を眺めたのが上の写真。小さな水神様が祀ってあった。先ほどの湧水点はこの流れが左に曲がった先にある。標高は45.5m。

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こぶし沢の源頭

 ここがこぶし沢の源流域。中央の奥にあるのが源頭(標高46m)で、その直上にはお馴染みの標識もある。渇水期ということもあって湧出量は多くはなかった。

 谷頭は不自然なまでに石で固められている。後退侵食を防止するためだろうか。

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園内には2000本の孟宗竹がある

 公園内には2000本もの孟宗竹がある。賢人ならぬ変人が出没するのは、いらぬ妄想をするからだろうか。母想いの孟宗(3世紀、呉の人)は、冬場でも竹林に入って母の好物であるタケノコを探した。その故事から孟宗竹の名が付いた(そうだ)。なお、この公園内ではタケノコ狩りは禁じられている。

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竹林公園を西側から望む

 竹林公園の西側に出て源流域方面を望んだ。中央に見えるトラックの奥側右手に源頭がある。左手側は宅地開発が進んでいる(トラックはその工事のための車両)ため、かつての谷の姿を想像することは難しい。が、視界を広げると、写真の左手には標高48.5mの小さな尾根、竹林公園の最高地点は52m、源頭は46mであり、俯瞰すれば、撮影地点の前方には東北東にU字形の谷が形成されていたと想像することは可能だ。

 なお、写真の左右に通る道が「竹林公園通り」で、撮影地点からその道を北(左)に180mほど進むと、先に紹介した老松橋の南詰に出る。

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西にある竹林も地下水を涵養している

 西側を振り返り見れば、そこにも竹林があった。竹林公園の源頭から先に挙げた竹林の丸池までは640m、向山緑地の源頭とは750m、南沢浄水場の源頭(と思われる場所)でも900mしか離れていない。そういえば、向山緑地には孟宗竹が多かったし、浄水場の南側にあった南沢樹林地も竹林が大半だった。落合川が有する3つの沢は、竹林を中核にしたひとかたまりの湧水群と考えることも可能かもしれない。と、私の妄想は広がった。

本川下流域、そして合流点

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右岸側に広がる不動橋広場

 本川に戻った私は左岸側の遊歩道を下流方向に進んだ。西武池袋線合川橋梁の85m下流には「共立橋」があり、その北詰から下流右岸側を見ると「不動橋広場」が視界に入った。広場には遊具施設があり、近隣から来たと思える保育園児と引率者が光の春の下で豊かな時間を過ごしていた。

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不動橋グラウンドでゲートボールを楽しむ人々

 広場の隣には「不動橋グラウンド」があり、ジジババたちがゲートボールに興じていた。以前に比べるとゲートボールファンは少なくなったと感じる今日この頃だが、動向がどうであれ、私にはまったく無縁の世界である。

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左岸に広がる畑。ここは旧流路?

 グラウンドの北側には人・自転車専用の「立野橋」が架かっていたが、それは無視して、その下流側にある「不動橋」まで進んだ。

 かまぼこ型の不動橋広場・グラウンドが尽きかけると今度は左岸側に写真のような畑が広がっていた。右岸側にしても左岸側にしても住宅はそれなりの高さの土盛りをした上に建てられている。広場や畑の形状から明らかなように、落合川はこの地点では激しく蛇行していたのだろう。土盛りは、曲流点での氾濫に備えてのことのはずだ。

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川の「怒り」を鎮めるための不動明王

 川は標高40m地点を流れ、広場・グラウンドは41・5m、その上の住宅は46mのところにある。一方、畑は川に近いところで41mだが北にゆっくり上昇して43m地点まで広がっている。

 畑の東側に空き地があり、その一角に写真の「不動明王像」があった。その名前から推察できるように、不動明王は「揺るぎのない守護者」であるので、湧水点のような地べたが不安定な場所に安置されていることが多い。水の神である弁財天とならんで、川辺ではよく見掛ける姿である。この周辺は曲流点かつ湧水点が存在するので、不動明王の出番は必至なのかも。

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お不動のすぐ近くにも例の標識があった

 不動橋下流左岸に、落合川ではすっかり馴染みとなった湧水点標識板があった。

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導水管から流れ出る豊富な湧水

 ここでは導水管を伝ってきた湧水が流れ込んでいた。この地点は標高40mだが、左岸の北側には標高46mほどの尾根が東西に伸びている。その尾根で涵養された地下水がこの地点にて顔を出している。急傾斜護岸が整備されているので、こうした導水路を使って湧水(地下水)抜きをする必要があるのだろう。

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清らかな水に親しむマガモのペア

 不動橋下の湧水点を見物したので、今度は橋を渡って右岸側の遊歩道を下流方向に進むことにした。足元の流れにはマガモのペアが日向ぼっこを楽しんでいた。

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都道234号線の新落合橋は落合川最後の車道

 写真の新落合橋は県道234線の橋で、落合川に架かる橋はあと一つ。ただし、その最後の橋である「下谷橋」は人・自転車専用なので、車が通れる橋としてはこの橋が最下流のものとなる。

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新落合橋下流の右岸側で立野川は本川に合流

  写真は橋のすぐ下流右岸側を撮影したもので、ここに立野川が流れ込んでいる。立野川は落合川の南側を300~400m離れて並走してきていたが、合流点の手前350mほどのところから流れの向きを変えて写真の地点で落合川と出会った。ただし、出会いの場付近は流路変更されているようで、周囲の地形から判断するに、かつてはもう少し下流側であったと推察できる。

 何しろ、この近辺では黒目川、落合川、立野川が一体化するので、水路調整は氾濫を防ぐためにも必至である。

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まもなく、右手の黒目川に合流する

 新落合橋から290m下流で、落合川は北側から下ってきた黒目川に合流する。黒目川が本流となるが、湧水点をより多く持つ落合川のほうが少しだけ流量が多いような気がした。

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黒目川から見た合流点

 写真は、黒目川側から見た落合川との合流点の姿。落合川の看板はもはやこの下流側には存在しない。

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合流点直下にある「神宝大橋」。ここから埼玉県

 水量の多寡によって合流点は異なるだろうが、合流点のすぐ下流側に写真の「神宝大橋」が架かっている。この橋を境に、上流側が東京都東久留米市下流側が埼玉県新座市となる。それでは、この橋はどちらの市に属するのだろうか?橋についての答えは、一休さんに聞くしかない。

 一休さんはきっと言う。「どちらか決めかねるときには真ん中を通りなさい」と。そして、橋の真ん中を歩く正直じいさんはドライバーに怒鳴られる。「端を通れ!」と。 

コロナ後に 落合川で 落ち合おう

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合川=ナガエミクリ。ナガエミクリ=落合川

 コロナ禍が継続中なので遠出は遠慮している。そのお陰もあって、落合川をじっくり観察することができた。透明度の高い川の植物といえば「バイカモ」を常にイメージしてきたが、落合川の各所で見られたナガエミクリの群生も、清水には相応しい水生植物であると認識を新たにした。

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カルガモチュウサギにとって落合川は格好の住処

 落合川は鳥たちにも良き住処であるようで、とくに白鷺の姿がよく見られた。そんな人間の想いとは無関係に、サギたちは首を長く伸ばして獲物を狙っている。人間たちは首を長くしてコロナの収束を待ち願っている。 

 

〔54〕東京郊外の清流~東久留米市・落合川の上中流部を訪ねる

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清流にたゆたうナガエミクリ

合川を初めて散策した

 東久留米市を訪れることはまずないのだが、市域を縦断することはそれなりにある。新小金井街道を北に進み、それから裏道を使って関越道・所沢ICに至るときにである。その際、市域の北辺を流れる「黒目川」を越えるのだが、同じルートを使う友人は、その川の名を「目黒川」と思い込んでいる。目黒川の桜があまりにも有名だからだろうか?

 目黒川の目黒は「四不動」もしくは「江戸五色不動」に因むが、黒目川は四不動とは無関係で、その川がかつて「久留米川」と呼ばれていたことによる(らしい)。「くるめ」は曲流する川を意味し(諸説あり)、福岡県久留米市では筑後川が蛇行し、東京都東久留米市では黒目川が蛇行している。

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合川は都県境(東久留米市新座市)で黒目川に合流する

 今回は清流を訪ねることに決めていたので、黒目川ではなく、その支流であり湧水点を多く持つ「落合川」に出掛けてみることにした。東京郊外にある清流として、その名はしばしばマスメディアが取り上げるためにその存在は知っていたが、その川沿いを散策するのは今回が初めてだった。

 ちなみに、黒目川は朝霞市田島付近で新河岸川に合流し、その新河岸川は荒川に合流するので、黒目川も落合川荒川水系一級河川であり、黒目川は荒川の二次支川、落合川は三次支川となる。

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澄んだ流れの中に繁茂する水草・ナガエミクリが落合川を代表する

 川の全長は3.6キロほどで、東久留米市内に収まっている。西武池袋線東久留米駅から近い(駅から川まで徒歩で10分以内)ためもあってか、近隣の住人ばかりでなくわざわざ電車を利用して散策目的でこの川辺に訪れる人も多くいる。とりわけ、清流を好む水草のひとつである「ナガエミクリ(準絶滅危惧種)」は落合川の象徴的存在で、この草たちが流れにたゆたう姿に接するためだけの理由で、遠方からはるばるやってくる人も数多くいるそうだ。

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両岸に遊歩道が整備されている

 写真から分かる通り、住宅街を流れる川なので、時間50ミリの豪雨にも耐えられるように両側は急傾斜護岸でほぼ整備され、流路は直線化されている。おまけに転落防止のためのフェンスが続いていることから親水性は低い。とはいえ、川中には多くの自然が残されており、流れる水の透明度は都市河川にしては十分に満足できるものなので、全般的な好感度は決して低くはない。

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「いこいの水辺」では直接、川の流れに触れることができる

 すべてがフェンスに閉ざされているわけではなく、写真の「落合川いこいの水辺」(次回に紹介)のように川辺に出られる場所は数か所あり、この日は近隣にある保育園からやってきたのだろうか、園児と引率者らが左岸の高水敷にて日光浴を楽しんでいた。

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湧き水の流れ込みが川を清める

 比較的平坦な場所を流れる川なので、源流点(標高55m)から合流点(標高38m)まで行き来するのはさして難しいことではない。遊歩道を移動しながら、湧き水の流れ込み点を探すのは、ここならではの大きな楽しみのひとつである。

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沢頭からの流れ込みはいっそう、水を清める

 落合川には近傍にある湧水点から小川(沢)がいくつも流れ込んでいる。上の写真はいくつかある沢のうちでもっとも湧水量の大きなもので、この流れは「沢頭」と名付けられている。この沢を辿ると「南沢緑地」に至る。こうした沢まで巡るとなると、それなりに移動距離は増えるので、一日ではとても川の全貌に触れることはできない。実際、私の場合は、この川には6回も訪れている。もっとも、一回に歩く距離が少ないだけなのだが。

合川の源流域を探る

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「はちまん橋」から源流点方向を望む

 川は山や池や湖から生まれるものが多いが、落合川の上流にはそうしたものは存在しない。武蔵野台地内で生まれ、台地の傾斜に沿って東方向に下り、同じような出自をもつ黒目川に合流する。こうした台地河川は何処が、そして何が源(みなもと)になっているのか興味津々であった。

 写真の「はちまん橋」は落合川の最上流に架かる短い橋で、地図によると、この橋の70mほど先に「上流端」があるらしい。右岸側の草むらには踏み跡があるので、私もそれを辿って上流に向かって進んでみることにした。

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ネコは案内役ではなかった

 上流端に近い場所にはネコが「かしこまって」いた。 上流端はもう少し先のようでもあり、右手に見える小さな谷頭(こくとう)のようでもあった。どちらが上流端であるのかネコに尋ねようと近づくと、そいつはどこかに去ってしまった。

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ここが上流端?

 直進した先の姿がこの状態。谷は埋まっていたが、それは自然の力によるものではなくて、ガラクタを詰め込んだことによる。

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このパイプの先が水の湧き出し口かも?

 写真は、右手に見えた小さな谷頭の姿。石標には東京都のマークがあり、「河」の文字も見えるので、このパイプの先、もしくはその下の窪みが源頭かも?ものの本によれば、落合川の源頭は近くにある八幡神社の境内下だと考えられるとあった。このパイプの先は八幡神社方向にある。ということは、ここが上流端かも。

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上流部の窪みを「はちまん橋」の南側から望む

 源流点の様子を探るため、さしあたり「はちまん橋」に通じている道を南に進んでみた。橋の南詰すぐの位置から緩い上り坂になっており、その坂はまだ少し続くのだが、道が曲がっているためにそれ以上進むと橋が見えなくなる。橋は標高54m地点にあり、撮影地点は57mだが、坂の頂点付近は標高59mの位置にある。

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合川の源流点があるとされる八幡神社

 一方、橋の北詰では少しだけ平坦な場所があり、神社の境内に至る階段付近から少し上る。階段下の標高は56m、本殿のある場所は58mだった。南北の標高58m地点間は100m近くあり、谷底低地(54~55m地点)の幅は50mほどもある。

 現在こそ水はほぼ流れていないか、あってもチョロチョロ程度だが、谷の形状を考えると、とても神社下から湧き出た水が、その谷を造ったとは考えられなかった。

 その疑問を解きほぐすため、上流端とされる場所の西側、つまり、ゴミが詰まった「上流端」の、さらにその向こう側の地形を探ることにした。

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上流端を西側から望んだのだが……

 写真は、上流端とされている場所の西側の様子で、右手のやや高い位置にある住宅と、左手の少し年季の入った住宅との間に「上流端」があるはずだ。残念ながら、その西側は工事車両を置くための駐車場として整地されてしまっているために、かつての地形は不明で、期待した窪地を見出すことはできなかった。

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所沢街道に残る窪地

 が、諦めるのはまだ早いので、さらにその周囲を徘徊してみた。写真の所沢街道に出てみると、その道路に窪みがあることが視界に入った。手前の信号機のところではなく、その先にある信号機付近が明らかに低くなっていることが分かった。撮影地点の標高は60mだが、その信号機のある丁字路は57mだった。

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街道の窪地から東を望むと……

 その丁字路に移動し、交差点から東方向を望んだのが上の写真である。所沢街道に突き当たる写真の道は少し下りながら東に進み、やがて左に大きく曲がっていく。その道の南側(右手)には都営の八幡町アパートが並んでいるが、そのアパートの敷地内に「楊柳川」が流れていることが知られている。その川は現在、すべて暗渠化されているので流れを直接に見ることはできないが、暗渠の上の多くは遊歩道として整備されているので、その流れの行く末を辿ることは可能だ。川は、東久留米市幸町2丁目付近で黒目川に合流している。

 交差点付近では川の存在はまったく確認できないが、都営アパートの西端では暗渠の存在は明瞭で、その場所の標高は55mである。そして、楊柳川が始まるとされる場所と、落合川の「上流端」との距離は180mしかない。その間に、八幡神社が鎮座しているのだ。八幡神社は両河川を守護する水の神なのかも。

 詳細な地図で周囲の等高線の位置を調べてみると、落合川の上流端(標高55m)の西側で標高60mのラインは西北西方向に進み、同じく、旧くからある宅地内の道路はその等高線の下を西北西方向に伸びている。一方、楊柳川の西端は西南西方向を目指しており、仮に両者の上流がもっと西方向に伸びていたと想定するなら、両河川は上の写真の丁字路付近で出会うことになるのだ。

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窪地を辿って西に進んだところにある「白山公園」

 そして、両河川の源流は同一のものであったと仮定し、その川は標高60mラインの下に沿って流れていたとするなら、川筋は写真の「白山公園」の低地まで遡ることができる。「白山公園」の由緒は不明だが、古い地図を見る限り、そこには細い川が流れ、周辺は湿地帯であったことが分かる。

 残念ながら、公園の南側には広大な「滝山団地」があって、かつての地形はまったく残っていないため、もはや川の流路を想定することはできない。ただ、滝山団地の南側には「大沼」の地名があり、その大沼町の西側には「柳窪」という地名がある。どちらも意味深な名称である。なお、落合川や楊柳川の親分格である黒目川の源流域は、その柳窪とされている。

 大胆な仮説を立てると、落合川と黒目川は元々一本の川であったものの、流量が減少したり、地形の関係などで2つに分かれることになった。黒目川よりやや南のルートをとった落合川?は東進し、八幡神社のある台地(幸町本町台地)にぶつかった際に2つに分かれ、小さな流れ(楊柳川)は台地のやや北に、本流はやや南に出て東進し、現在の落合川の流路を形成したと想像できる。

 黒目川は古多摩川の名残河川とされているが、落合川も上流端付近の谷幅の広さを考えると、古多摩川が残した流路をトレースしているという可能性もある。落合川流域の地形は複雑で、その根本は「向斜地形」によるという説もある。川はその窪みを利用して流れているというものだ。もちろん、武蔵野台地特有の「野水(のみず、雨後に現われる表層の水の流れ)」と湧水とが合体して水道(みずみち)を形成したという説もある。八幡神社下を源頭とするなら、この説に妥当性がある。さらに、上流端でネコに出会った縁という訳ではないが、私の大好きな「たまたま」そこに流れが出来たという説も捨てきれない。

合川の上流域を探索する

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「はちまん橋」の下には水が残っていた

 私の勝手な源流点探しはほどほどにして、これからは落合川の「流れ」を追ってみることにする。出発点はまたまた「はちまん橋」である。ただし、今度はその橋から下流に進むことになる。最上流域には水がまったくないか、あってもごくわずかなので、河原に入ることができる。

 写真から分かるように、橋のすぐ下流側の両岸には大きめの石が並べられて、水はその間を進むようになっている。今年の冬はとりわけ降雨が少ないために、それに比例して湧水も微量なため、橋の下の窪みに残っている水はやや白濁し、とても清水とは呼べない。それでもどこからか水は供給されているようで、その溜水からは少しだけ流出がある。とはいえ、それは野水のようで、いつ消えてもおかしくはない。

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左岸の高水敷から「はちまん橋」を望む

 少しだけ下流側に進む。流れが造ったと思われる溝に沿って大石が並べられているが、一部に幅を広げた場所がある。ここに水を滞留させようと熟慮したのだろうが、その甲斐はなく、中心部には泥が溜まり、水溜の役割は果たしていないし、この様子ではもはや果たせない。

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2番目の橋である「かわせみ橋」を下流側から望む

 写真は上流部から2番目の橋である「かわせみ橋」を見たもの。この橋の下にも窪みがあり、その部分には水が溜まっているものの、細い水路内に流れはなかった。

 写真から分かるように、水路は右岸側に急カーブしている。左岸側の高水敷のほうが高いようなので、流れは直進できずに右に曲流しているのだろうか。それとも、流れによって上流から泥が運ばれた結果、左岸側にそれが堆積したのだろうか?水の多い時期に再訪して確認したいと思った。 

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右岸側に残る曲流跡

 右岸側にカーブした水路は遊歩道を潜り抜け、その先にある護岸に沿って下流側にすすみ、再び遊歩道を潜って川筋に戻っている。写真の空き地は「八幡第一緑地」と名付けられている。護岸の上にさらに土盛りした場所に家が建っているので、この曲路はいにしえの流路であったに違いない。

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かわせみ橋と弁天橋間の川の様子

 写真は、八幡第一緑地の下端から30mほど下流の右岸から上流方向を望んだもの。右岸側に枯れた葦が多く残っているので、水が多い時には主に右岸近くを流路に選んでいるのだろう。その流路はもはや細い溝ではなく、より広く、しかし浅いものになっているので、低い水敷にも流れは及んでいるのかもしれない。

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川にはわずかばかりの水が残っていた

 そのことは、上の写真からも判断できる。水路は細い溝ではなくて適度な広がりを有し、少ない水量であっても周囲に湿地を形成するようになっている。

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弁天橋上から上流方向を望む

 3番目の橋である「弁天橋」のやや上流側の地点から撮影したのが上の写真である。右岸側に寄っていた流路は2つに分かれ、1本は左岸の下を潜り、もう1本は中央やや右岸寄りに進んでいる。

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左岸の外に流した水はこの場所へと進む

 左岸の遊歩道を潜り抜けた流れは写真の場所を下り、小金井街道の下をくぐって弁天橋の下流側で本川に合流する。小金井街道下に潜る手前から流れは見えなくなるが、街道を潜り抜けて東久留米中央郵便局の北側を通過してから本川の左岸側で顔を出している。

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弁天橋のすぐ上の右岸側に湧水が流れ込んでいる

 弁天橋の5mほど上流の右岸側から、パイプを伝って湧水が流れ込んでいる。上にある大きな穴は排水を流し込む導水路の出口のようだが、この地域は下水道の整備が完了しているはずなので最近では使用されていない(と思う)、雨水は別にして。

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湧水点のある場所には写真のような標識が掲げられている

 写真の標識は、落合川ではお馴染みのもので、湧水点がある場所には必ず同じものが掲げられている。この標識を見つけると、私は必ずその直下を覗き込む。転落防止柵は、私のような者にはとてもありがたい存在である。

 最上流付近には写真のようなフェンスはないが、急傾斜護岸で両側を整備され始めた弁天橋上流付近からは、こうしたフェンスが、遊歩道と流路とを分かつている。高さは70~100センチほどなので、流れや湧水点を覗くにはさして不便ではない。 

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湧水が造った流れではカルガモが餌を探すために泳ぎ回っていた

 流れが生まれると小魚や底生動物が集まり、それらを求めて鳥たちが集まる。湧水点のすぐ近くでは2羽のカルガモが餌を探していた。

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弁天橋下に流れ込む湧出した水たち

 弁天橋の下には写真のような柵が施されている。橋の下に私のような人間が住み着くことを排除するためではない。上流側には流れがほとんどなく、それゆえにゴミや枯草、枯れ枝などが溜まりやすく、それらが大雨の際に下流側に流れ込んでしまうことを防いでいるのだろうか。残念なことではあるが、実際、河原にはレジ袋、ペットボトル、空き缶・空き瓶などが結構な数、捨てられていた。

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小金井街道上から弁天橋の欄干と上流側の景色

 弁天橋は小金井街道に架かっており、かつて、私はこの橋を何度となく通っていたのだが、川や橋についての記憶はほとんどなかった。が、この場所近くで道は少し下り、その先で少し上るということ、道の曲がり具合などに関しては意外にもよく覚えていた。橋も道路の舗装も周囲の景観も変貌しすっかり新しくなっているにも関わらず、道の記憶だけは確実にあった。

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弁天橋下流側の床止め

 弁天橋下流側には、豊富とはいえないものの水は途切れることなく存在していた。上で触れた湧水のお陰である。中流下流には「落差工」があるが、上流域ではここにだけ床止めが施されていた。大雨の際、この場所へ右岸側から周辺に降った雨水を集めて流し込むため、川床が荒れることを防ぐための工夫らしい。

 落合川は湧水だけを集めた川ではなく、ときには雨水も飲み込むことになる。都市河川の宿命ではあるが、それでも高い透明度を維持しているのは、やはり多量に流れ込む湧水のお陰である。それは、中流域でとくに顕著になる。

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小金井街道沿いにあるお地蔵様

 川面の標高は53mほど、橋は54mほど、写真の「坂の地蔵さま」は55m地点に立っている。弁天橋の南詰は三叉路になっており、その又の間にお地蔵さまは造立されている。建屋や台座は比較的新しいようだが、お地蔵さまは1768年に造られたものだそうだ。子供の夜泣きによく効くそうで、地蔵が着ている服を借りて子供に着せ、そのお礼として新しい着物を作ってお返しするらしい。

 傍らの千羽鶴には、コロナの終息を願う、強い思いが込められている。

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「まろにえ富士見通り」の窪地に御成橋がある

 弁天橋南詰から280mほど南の「前沢北交差点」で小金井街道と枝分かれした写真の「まろにえ富士見通り」は、西武池袋線東久留米駅西口まで通じている。1994年に完成した比較的新しい道で、私は今回、初めてこの道を利用した。

 前沢北交差点の標高は59m、撮影地点は58m。坂を下って横断歩道のすぐ先に4番目の橋である「御成橋」がある。その標高は52mで川は51m地点を流れている。その先は上りになっているが、写真に写っている先端部分は54mなので、川の南側(右岸側)が高く、北側が相対的に低い。

 落合川周辺の地層では、第一帯水層は地表から4~6m下と考えられている。ローム層下部の難透水層上に帯水していると思われ、水量は少ないものの一定の雨量がある時には自由地下水としてゆっくり移動しているため、難透水層が露出している場所では湧水となって地表に現れる。そのひとつが先に挙げた弁天橋上流の湧水点である。河川整備で流路変更されているために現在では導水パイプで川に導かれている。

 写真の右端に写っている緑色のフェンスがある場所にはかつて「弁天池」があった。その池も、湧水を集めてできたものだろう。

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弁天池があった場所は釣り堀になっている

 弁天池があったとされる場所は現在、釣り堀(弁天フィッシングセンター)になっている。撮影した日は定休日だったので中に入ることはできなかった。一部の資料によれば、弁天池を落合川の源流点とするものもある。

流れを追って中流域へ移動する

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御成橋から上流方向を望む

 「まろにえ富士見通り」を下って「御成橋」にでた。写真は、橋上から上流方向を望んだもので、弁天橋が見て取れた。護岸が高めなのは氾濫防止のためだろう。

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御成橋下流の右岸には自然堤防が残っている

 御成橋から下流方向を眺めたのが上の写真で、右岸側には「自然堤防」が残っているようだ。

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右岸の自然堤防付近は親水広場になっている

 その自然堤防の場所に移動した。左岸側は高めの垂直岸壁になっているが、右岸側は旧流路の形を残したようでもあり、人工的に盛り土を施したようでもある。この場所には自由に入ることができるので、川の水に触れることが可能だ。

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親水広場の低水敷の造形

 低水敷の場所を広くとってあるので、上流で雨水を流し込んだときに一旦、ここで流れを緩やかにするための工夫なのかもしれない。そもそも、かなり広めで、かつ水に親しむことができる場所であるにも関わらず、とくに○○広場といった名称は付けられていないようだ。私が気付かなかっただけかも知れないけれど。さしあたり、私は「親水広場」と呼ぶことにした。

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左岸の垂直護岸からは湧水が流れ出ている

 親水広場の左岸側の垂直護岸にも湧水点があった。写真では分かりづらいが、上流からの細い流れが護岸に当たっている場所あたりである。

 また、右岸にも僅かではあるが、湧水が流れ込んでいる場所がある。2人の少年が立っているその前方である。

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護岸脇から湧水が流れ出ている

 右岸の護岸の脇から湧水が滲み出ているのが見て取れる。護岸下の土が湿っていることや、水面にできている波紋でその清水の存在が確認できると思うが。 

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地蔵橋から上流方向を望む

 親水広場の下流側に地蔵橋がある。向かいに見えるのが御成橋である。

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地蔵橋下流の右岸側には弁天池からの?湧水が流れ込む

 地蔵橋下流の右岸側に小川のような流れ込みがある。この小川の水は何処から来たのかは不明だ。40mほどしかその姿を見せていないからだ。

 とある地図からは以下のように判断される。それは本川から来たもので、上の親水広場は右岸側が大きく湾入しているのだが、その湾入の形はかつての流路を現わしており、現在でも本川の一部が旧流路に流れ込んでいるのだが、暗渠化され土盛りされてしまったために合流部の一部しか姿を見せていないというもの。ただし、右岸側には「旧流路」へ流れ込む姿を見出すことはできない。出口はあるが入口はない、というのも変である。

 別の説では、弁天池(現在の釣り堀)の水が伏流水となって旧流路に流れ込んでいるというもの。こちらの説が有力なようだ。

 が、私は第3の説を勝手に考えている。この小川の本川との合流点の標高は49mほどだが、右岸の南側は高台になっており100mほど離れた場所の標高は57mある。弁天池のところで触れたように、この周囲の第一帯水層は4~6m地点にあり、さらに第二帯水層は7.5~12mほどとされている。また、落合川中流域では武蔵野礫層の厚さが24mほどある(一般には5~10m)と考えられており、その分、ローム層は薄いために礫層中の帯水層はより上位にあると推測できる。つまり写真の小川は、ローム下位、ならびに礫層上位の自由地下水がこの川の上流部で湧き出し、ここに導かれているのではないか?まったくの素人判断なので違っているかもしれないが……正解は湧水に尋ねてほしい。

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上の写真の元をたどると

 写真の上流部は暗渠になっているので源流部までたどることはできないが、それなりに透明度が高い水なので、湧水がその正体である蓋然性は相当に高い。

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神明橋南詰に立つ庚申塔と供養塔

 小川の流れ込みから40m下流に進むと神明橋があり、その南詰に写真の庚申塔と供養塔がある。ともに18世紀に造立されたものである。このうち供養塔は、かつての落合川には石橋が架けられており、その安全を祈願するために造立されたようだ。花は手向けられていなかったが、この小さな塔たちのために敷地はしっかり整備されているので、この地では重要な存在であるのは確かなようだ。

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いつも行動を共にしている?チュウサギコサギ

 神明橋の上流では本川と先に挙げた小川との合流点があって自然が豊かなこともあって小魚の姿が多く見られた。この場所が縄張りなのか毎度(といっても3回だけだが)、餌を探している姿を見掛けるチュウサギコサギがいる。もっともその2羽がいつも同じ個体だとは限らないが。

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私がしつこくカメラを向けるので飛び去ってしまった

 私はしばらくそいつらの姿を追いかけていた。あまりにもしつこいと思ったのか、チュウサギは飛び立ち、といって遠くには行かず、橋の下流側に移動していった。

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いつも?神明橋上流にいるコサギ

 そのチュウサギといつも行動を共にしている姿を見掛けるのが写真のコサギ。くちばしも脚も黒いが、足の指だけは黄色い。もしかしたら、水が冷たいので黄色いブーツを履いているのかも?

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コサギが小魚を捕らえる瞬間!

 そのコサギが小魚を捕らえる瞬間を撮影してみた。慎重に、あるいはノロノロ水草の中に隠れている小魚を物色しているのだが、いざという刹那はやはり素早い。もっとも、このときは捕獲に成功したのかどうか、それを確認することは忘れてしまった。

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神明橋を下流側から眺める

 神明橋の下流側に移動した。小川からの流れ込みがあったためもあり、水量は徐々に増しつつある。チュウサギは、いつもの場所をよほど好いているのか、私が下流側に移動すると再び上流側に移動し、適度な距離を保ちつつ、チュウサギコサギは餌探しを再開していた。

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右岸の南方向に「ひょうたん池」がある

 神明橋の下流60mほどのところで落合川は旧流路と新流路とに分岐するのだが、その分岐点に至る直前の右岸側に写真の場所がある。ここも広くはないが川辺に出られる場所があり、その南側に、南北に細長い公園が整備されている。写真から分かる通り、その先は高台になっている。

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ひょうたん池周辺は「神明山公園」として整備されている

 細長い公園(神明山公園)の南端に、写真の「ひょうたん池」がある。底には泥が堆積しているのであまり綺麗には見えないが、小魚が数多く泳いでいる姿は視認できる。この池の標高は50m。川は49mなので高い位置にあるという訳ではない。

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神明山公園の南の高台にある「中央第六緑地」

 ひょうたん池のすぐ南側にあるのが、写真の緑地。「中央第六緑地」と名付けられているものの、かなり狭い公園で、しかもその大半は写真の池が占めている。公園の標高は51mだが、その南側にある住宅地は54~55m地点にある。宅地は新しめなので、以前は自然の林か森だったのだろう。それらが蓄えた水が湧水となって2つの池に水を供給していたのだろう。宅地化されたために地下水が減少し、結果、上部の人造池は涸れ、ひょうたん池も往時の姿は留めていない。

 細長い公園として整備されているのは、かつてそこには小さな沢があり、地盤が弱いために宅地にはならなかったからだろう。そして、フェンスのない右岸の空き地が、沢の流出口になっていたと考えられる。 

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川は一旦、旧流路と新流路とに分かれる

 右岸側には神明山公園に流れていたと思われる沢の流入跡があるが、ほぼ同じ場所の左岸側では写真から分かるとおり、旧流路は左手に逸れ、新流路が直進している。

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南神明橋Ⅱから分岐点を望む

 その分岐点を下流にある「南神明橋Ⅱ」から見たのもが上の写真である。左手の白い建物の向こう側に神明山公園があり、右手に旧流路が遊歩道の下を潜っていく姿が見える。

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流量は旧流路のほうがやや多めか?

 旧流路と新流路との間には個人住宅が立ち並び、旧流路の左岸側には都営中央町アパートが並んでいる。住宅地沿いの土留めはかなり簡素なものなので、大水の際に流されてしまわないのだろうか?

 水量が少ないときには旧流路が主流になるが、大水の際には直線化された新流路が主流になるはずなので多分、心配は不要なのだろう。

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南神明橋Ⅲの下流側で両流路は合流する

 南神明橋は3本並んでいて、上流から順に「Ⅱ」「Ⅰ」「Ⅲ」となる。その南神明橋Ⅲの下流側で旧流路は新流路に合流する。写真の左が旧流路の流れなのだが、心持ち旧流路のほうが水量は多いように思える。元来、川が旧流路を流れていたのは、地形的にそれが自然だったからである。川の南側には高台がある反面、旧流路の北側はほぼ平面になっており、明らかに川は低いほうへ好んで流れていく。

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合流点から運ばれた泥が不思議な形を生み出す

 新流路と旧流路との分離は250mほど続いており、合流後は水量によって流れの圧が微妙に変化するためか、写真のような不思議な流路をとって進んでいく。こうした景観は170mほど続くのだが、前述したように南側は高台になっているために川面は日陰になってしまうので、写真では、その興味深い姿を今ひとつ表現できていない。ただ、写真撮影が下手なだけなのだが。

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合川水生公園は蓮の花で知られている(らしい)

 合流点から200mほど下流側に「こぶし橋」があり、その橋の北側に写真の「落合川水生公園」がある。冬場は単なる小さな沼だが、ここにはハスが多数植えられるので、夏の開花期はとても見事とのこと。池の周りも多種多様な草花で飾られるそうだ。

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水生公園の南側に架かる「こぶし橋」

 こぶし橋は人か自転車の専用橋。南側の高台から下ってきたところに架かる橋なので、写真のような注意書きがある。何しろ橋のすぐ先には遊歩道があり、そこにはジジババが大勢、散歩に訪れているのだから。

 ちなみに、南神明橋Ⅲからこぶし橋のひとつ下の宮下橋の間の400mほどは、右岸側には遊歩道がない。これはもっぱら、右岸側には高台が迫り、そこには川の近くにまで住宅街が整備されているためによる。

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水生公園のそばにある小さなお地蔵様

 こぶし橋から今回の終点である毘沙門橋の間、左岸側には遊歩道と川辺の間には緑地帯がある。川辺の近くにはいろいろな野草が植えられているため、立ち入りは禁じられている。ただし、注意書きの看板はあるものの、とくにフェンスなどで仕切られているわけではない。しかし、その場所に入り込む人の姿はなかった。皆、倫理的なのか、それとも今は草花の姿が皆無だからなのか理由は不明だが。たぶん後者だろう。

 そんな散策路の一角に、写真のごく小さなお地蔵さまがあった。ブロックで守られているが、そのブロックの大きさと比較すれば、そのお地蔵様のサイズは分かると思う。

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左岸広場から宮下橋を望む

 管理下にある左岸の高水敷の向こうに見えるのが「宮下橋」。名は体を表し、南詰の高台には「南沢氷川神社」がある。

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宮下橋南詰の高台にある「南沢氷川神社

 南沢氷川神社は落合川の守り神であるのだろうが、鳥居も本殿も落合川を背にして南を向いている。鳥居の南側には南沢緑地の湧水群から集まった「沢頭」の流れがある。その沢の清流こそ落合川を象徴する存在だからだろうか?

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氷川神社は落合川とその湧水群の守り神である

 神社の創建年は不明らしいが、古文書によれば、在原業平東下りの折に南沢に宿を求め、その際に社前に立ち寄ったとのこと。ここで業平は、落合川で暮らす都鳥ならぬ白鷺(コサギチュウサギ)に言問をしたのだろうか?「わが思う人はありやなしやと」。もっとも、相手はサギなので本当のことを言うかどうかはわからない。

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南沢緑地から流れ込む湧水

 南沢緑地の湧水群から集まった清流は、毘沙門橋の右岸上流側に流れ込んでいる。この清流と氷川神社のお陰?で、この辺りの水が、落合川ではもっとも透明度が高いように思えた。

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毘沙門橋から上流部を望む

 毘沙門橋から上流部を眺めたのが上の写真で、左手(右岸側)は「落合川水辺公園」として整備されている。ここにもいろんな種類の植物が植えられている。

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湧水の流れ込みは本流の水を澄ます

 湧水群からの流れ「沢頭」の水が本川に流れ込む地点を上から眺めてみた。清流を受けてナガエミクリは嬉しそうに揺らいでいた。

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放流されたコイと在来種のアブラハヤ?の群

 毘沙門橋の下流側には落差工があるためか、その上流部には流れの緩い場所があり、放流されたコイが数匹、泳いでいた。その背後には数多くのアブラハヤやモツゴ(クチボソ)の姿もあった。
 放流種と在来種の混在。これもまた、落合川を象徴する景観かもしれない。

  *  *  *

 次回は湧水群と落合川下流部を訪ねます。

〔53〕狭山丘陵(2)~お気に入りの徘徊コースをご紹介

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多摩湖の給水塔と「水の精」像

 狭山丘陵へは散策目的で出掛けるのだが、その徘徊コースは幾通りかあって、そのときの気分次第で行く先を選択している。主要には(1)村山貯水池界隈、(2)山口貯水池界隈、(3)野山北公園界隈、(4)里山民家から六道山公園界隈が目的地となり、その4パターンの中であっても、さらにいくつかのバリエーションがある。今回(と前回)、改めて狭山丘陵の魅力と不思議さを発見したので、通い慣れた場所だけではなく初めて訪れた場所を加え、2つのコースを紹介することにした。

 いつもは写真よりも文章のほうが多いのだが、今回は自宅から比較的近い場所が目的地ということもあり何度も出掛ける機会があったので、写真を多めに掲載することにした。その分、文章は簡潔に済ますことに心掛けた。そうなるかどうかは不明だが。

山口貯水池とその近辺を訪ね歩く

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山口貯水池南側入り口

 わたしにとって山口貯水池(狭山湖)は、村山貯水池(多摩湖)よりも散策する機会はかなり少ない。もっとも、飯能市(名栗川方面)、日高市(高麗神社方面)、越生町越生梅林方面)、秩父市(困民党関連)などに出掛ける際は、ほとんどいって良いほど上の写真にある道を通過するため、この山口貯水池入口の風景はまったくもって見慣れたものである。

 この入口の手前側に有料駐車場(狭山湖第2駐車場)があることはよく知っているので、山口貯水池界隈を訪ねる場合は、その駐車場(一時間110円)に車を置いて周辺を散策している。

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山口貯水池堰堤の南側

 駐車場から200mほど北に進むと、写真の「狭山湖右岸四阿(あずまや)」脇に出る。撮影日はまだ正月休み中ということもあって結構な賑わいだったが、普段の日であれば数人と出会うのみだ。

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堰堤南側から北尾根方向を望む

 写真は、堰堤の南詰から堰堤上を望んだもので、その先に狭山丘陵北尾根の連なりが見える。堤頂長は716m、堤高は33.9mある。堤体そのものは1934年に竣工しているが、2002年に堤体補強工事が完了しているので、見た目はまったく古さを感じさせない(あたりまえだが)。

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堰堤上から北東方向を望む

 堰堤上を少しだけ進んだ場所から、北東方向を眺めてみた。緑の山の連なりは狭山丘陵の北尾根で、右手奥に見える高層ビル群は所沢駅前のもの。堰堤下には県立狭山公園が整備され、その一部は「狭山運動場」として利用されている。

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堰堤上から谷底平地などを眺める

 堰堤上の中ほどに移動し、柳瀬川が開析した平地を眺めてみた。左手が北尾根、右手が中尾根で、その間にある住宅街は所沢市上山口や山口地区のもの。写真のほぼ中央に見えるのが現在の柳瀬川の源頭域。

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堰堤上から貯水池方向を望む

 今度は堰堤上から貯水池と、かつて柳瀬川の源流域を形成したであろう2つの谷の様子を眺めてみた。右(北側)の切れ込みの先に狭山池や青梅市街があり、左(南側)の切れ込みの先に横田基地福生駅、秋川駅がある。貯水池の底には280戸あまりの家や田畑、いくつかの寺社が眠ったままでいる。

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堰堤上から中尾根方向を望む

 ふたたび、堰堤の東側に広がる風景を望んでみた。今度は中尾根方向に注目した。平地だけでなく、中尾根の北斜面にも開発の手が伸びていて住宅がかなり密集していることが分かる。それもそのはず、谷底平地には西武狭山線西所沢駅西武球場前駅間)が通じており交通の便がかなり良いのだ。西武球場前駅の時刻表を確かめると、午前7、8時にはほぼ10分間隔で西所沢行きの電車が走っている。

 仮に、西武球場前駅で午前7時00分発の電車に乗ると、西所沢駅所沢駅で乗り換えになるものの西武新宿駅には7時59分に到着する。ちなみに京王線でいえば、京王八王子駅を午前7時01分に出発する急行は午前8時01分に京王新宿駅に到着するので、通勤時間としては八王子市の中心地からと西武球場前駅周辺からとはほぼ同等なのである。こうした訳であるかどうかは分からないが、狭山丘陵の宅地開発が相当に進んでいることは事実である。

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堰堤の北詰付近から富士山を望む

 山口貯水池からも富士山がよく見えるためか、その方向にカメラを向けている人の姿を見掛けることが多い。左手には丹沢山塊も顔をのぞかせていて、丹沢の最高峰である蛭が岳(ひるがたけ、1673m)もはっきりと見て取れる。 

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県立狭山公園内から堤体を望む

 堰堤上から、堤体の斜面に沿って降りる道がいくつか整備されている。途中には「狭山運動場」や県立狭山公園が整備されている。狭山運動場が使用されているときには無料の駐車場が開放されているので、そこに車をとめて堤体を上ってくる人も多かった。

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柳瀬川の源頭付近から堤体を望む

 狭山公園内をうろついて、柳瀬川の「源流域」がよく見える場所を探した。もちろん柳瀬川の源頭は、かつて山口貯水池の西側にあったY字の2つの谷にあったはずだが、もはや多摩川から導かれた水によって谷は埋められているため、今となっては写真の場所が柳瀬川の源頭域であると考えるしかない。冬場は渇水期に当たるため、柳瀬川にもたらされる水は少なく、旧く、狭山丘陵に積もった多摩ロームを削り取って谷底平地を形成した勢いはまったく感じられないし、その面影すらない。

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狭山丘陵の森は「トトロの森」でもある

 狭山公園を離れて東に進んだ。『となりのトトロ』の舞台のひとつと考えられているのが狭山丘陵の里山の森。その雑木林の森を保存する運動が大きく展開される切っ掛けとなったのが、早稲田大学・所沢キャンパスの設立計画だった。大学の進出こそ許してしまったが、その一方で「狭山丘陵の自然と文化財を考える連絡会議」や「狭山丘陵を市民の森にする会」が発足した。

 1990年4月、こうした運動の中から「トトロのふるさと基金委員会」が設立され、91年8月には「トトロの森1号地」が取得された。以降、土地を買い取り保全するナショナル・トラスト運動が展開され、18年までに48か所の「トトロの森」が誕生している。これが単に「狭山丘陵の里山を守る基金委員会」だったら活動はこれほどまでに拡大しなかっただろう。これも一種の「アフォーダンス効果」かも知れない。実際には、トトロなど実在しないのにもかかわらず。

 所沢市上山口地区にある「トトロの森1号地」は、かつて所沢と武蔵村山とを結ぶ主要路であった道のすぐ北側にある。森に通じる道の脇には結構な数の車がとまっていた。”駐車しないように”という看板がいくつも出ているにもかかわらず。

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市街地に入りつつある柳瀬川

 写真は、「トトロの森1号地」に入る丁字路のすぐ近くを流れている柳瀬川のあり様。川の水量は山口貯水池の管理下にあるので、もはや氾濫を起こすことはまったく考えられないといえるほど、流れはか細い。

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柳瀬川の左岸にあった水神様?

 そのか細い流れのたもとにあったのが写真の朽ちかけた鳥居と小さな祠。水害の危険性が限りなく小さくなった現在では、水神様のご加護は不要になったのだろう。私は思わず神に同情してしまった。無神論者に同情される神も哀れな存在ではあるが。

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氷川神社の中心?にある「中氷川神社

 後述する「高橋交差点」を過ぎて県道55号線(r55、通称は所沢武蔵村山立川線)を東に進むと、沿道は賑わいを増してくる。そのr55の北側にあるのが「中氷川神社」。本ブログの第49回で青梅線奥多摩駅近くにある「奥氷川神社」に触れた際、「武蔵三氷川神社」について述べているが、その中に出てくる「中氷川神社」がここである。

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今年の初詣は自粛気味?

 鳥居をくぐり参道を少し北に進むと広場に至る。写真の社殿は東向きなので、鳥居からの道は写真の左手に存在することになる。境内は南北に細長いところから「長宮」の名があるそうだ。初詣の時期なのだが、今年は密を避けて分散参拝をおこなっているためか、思ったより人の姿は疎らだった。

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この交差点付近がかつての山口集落の中心地

 中氷川神社の鳥居前から300mほど東に進んだところに、写真の「山口城址前交差点」がある。r55と「山口城祉通り」が交わり、交差点の四隅に、反時計回りでマクドナルド、セブンイレブン、ファッション市場サンキ、バーミヤンがある。貯水池ができる前の地図を見ると、この辺りが旧山口村の中心であったことが分かる。もっとも、その時分にはまだ「十字路」ではなかったが。

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村山党の有力者であった山口家の城があったことを示す碑と看板

 ファッション市場サンキの脇にあるのが、写真の「山口城址」碑と山口城を紹介する案内板。前回にも触れたが、山口家は武蔵七党の村山党(平安末期より)の有力氏族で、写真の場所に山口城を築き、16世紀に小田原北条氏の下で活動するまで続いた。

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山口城の土塁の一部が保存されている

 山口城址といっても、それを示す碑と案内板、それに写真の土塁程度しか残されていない。隣はファッション市場で、写真の土塁のすぐ南側には西武狭山線が走っている。山城であればもう少し残るものはあっただろうが、平城では致し方ないのかも。

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山口地区ではもっとも車が集まる高橋交差点

 山口城址からはr55を西に戻り、写真の高橋交差点を眺めてみた。r55はこの交差点を左に曲がり、しばらくは西武狭山線に沿って南西に進み、村山貯水池手前で右に折れて両貯水池の間の「中尾根」を通って武蔵村山市街に至る。

 もっとも、山口貯水池ができる前はそんなルートは存在せず(細い道筋はあった)、それゆえにこの交差点も存在せず、写真でいえば直進(赤い車が進んでいく方向)して、現在は山口貯水池となっている柳瀬川の上流方向に進み、Y字の谷の左手(南側)に入って南尾根を上り下りして村山村の中心街に出た。

 その旧道と現在のr55とは、のちに触れる「村山温泉・かたくりの湯」がある場所で「出会う」。もちろん、旧道は貯水池に沈んでいるので出会うことは、もはやない。

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山口地区には旧柳瀬川の河道であったと思われる道がいくつもある

 その旧道筋に戻るとまた、「トトロの森1号地」の標識と面会することになるので、その高橋交差点を左折してr55に沿って歩くことにした。道の左手(東側)は鉄道路だが、右手は住宅街になっている。写真はその住宅街を西に抜ける道で、こうした道は幾筋もあるが、いずれも写真のようにくねくねと曲がったものになっている。それゆえ、建物も整然と南向きに揃っているわけではない。一見すると平地であるにもかかわらず曲がりくねった道が多いということは、それらが柳瀬川の旧河道であったことの証左である。

 柳瀬川は蛇行を繰り返しながら狭山丘陵の多摩ローム層を削り、谷底平地を少しずつ築いていったのだろう。

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野球開催日やイベントがあるときは混雑するかも?

 r55が中尾根を上り始めると右手の住宅地は途切れて里山風になる。左手の鉄道路は高架を形成し始め、その先に写真の「西武球場前駅」がある。野球やイベント開催日には改札口は全開となるのだろうが、普段はその多くが閉じていて、宴のあとさきといった風情である。私の家の近く(といっても約800m)に京王競馬場線の「府中競馬正門前駅」があるが、そこと同じ雰囲気だ。

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イベントのときに何度か入ったことがある

 駅名は「西武球場」だが、現在はネーミングライツメットライフ生命に与えられているので、「西武ドーム」とは呼ばずに「メットライフドーム」の名が付されている。

 このドームには野球観戦では入ったことはないが、ガーデニングショーか何かのイベントで数回、入ったことがあった。駐車場はかなり混雑していて、駐車係のオッサンが、「野球のときよりも人が集まるな」と感心していたのを記憶している。

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スキーは好きではないので利用したことはない

 ドームの隣には「狭山スキー場」がある。1959年に開設された屋内人工スキー場で、私の兄がよく出掛けていたことを記憶している。西武ドームは1979年に開設されたので、スキー場のほうが20年も早く始まっている。

 そういえば、私はスキーもスケートもそれぞれ一回しかやったことはない。ウインタースポーツとは無縁かといえばそういうわけではなく、もちろん、冬のスポーツといえば「寒メジナ釣り」である。スポーツの語源には「楽しみ」という意味もあるので、冬場の磯釣りも立派なスポーツだ。もっとも、冬場はなかなか釣果が上がらないので、スポーツの語源のひとつである「気晴らし」には、必ずしもならないのだが。

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こう見ると普通の寺なのだが

 r55をはさんで、西武球場前駅の反対側にあるのが写真の「狭山不動尊」。埼玉西武ライオンズがここで必勝祈願をするらしい。ライオンズの本拠地の目の前にある寺院なので、その点ではとくに不思議はないのだが、開基が「堤義明」で、創建が1975年と聞くと、やや怪しげな感じがしてくる。

 山門にあたる?「勅額門」は芝の増上寺から移築したものらしい。

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多宝塔は2つあり、こちらは第二

 多宝塔は境内に2つもあり、写真のものは「第二多宝塔」とされ、兵庫県加東市にある掎鹿寺(はしかじ)から譲り受けたものとのこと。なお、第一多宝塔は本堂の東側にある。

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普段は非公開の羅漢堂

 羅漢堂の建物は、明治期の政治家であった井上馨の屋敷から移築し、周りに並ぶ唐金灯篭は増上寺から移設された。

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天誅組でおなじみの桜井門

 山口貯水池側にある写真の「桜井門」は奈良五條市にある桜井寺から移築されたもの。桜井寺といえば幕末の尊王攘夷派だった天誅組が一時、本拠地としたところ。天誅組では公卿の中山忠光や土佐の吉村寅太郎が有名だが、私の場合は『大菩薩峠』の主人公の一人である机龍之介を思い浮かべてしまう。彼は天誅組に同行し、幕府軍との争いの際に目を傷め、やがて失明してしまうのだった。

 かように、狭山不動尊は日本各所からいろいろな建物を寄せ集めて、天台宗別格本山として開かれたのである。信仰に厚い人や仏教史・仏教建築にこだわる人などの間では相当に評判が悪いようだが、そもそも日本仏教そのものが仏教の世界では異端なので、狭山不動尊のような仏教建築テーマパークがあっても許せると思う。なにしろ仏教は「如是我聞」の世界であり、一切皆空なのだから。

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煌びやかな建造物

 こちらは、狭山不動尊の隣にある「山口観音」。山門は狭山不動尊と同じ側にあり、写真の門は奥の院に位置する。r55が山口貯水池と村山貯水池との間を通過するところに面しているため、写真の姿を目にする人はかなり多いはずだ。

 五重塔に見える「千躰観音堂」は中国風に見え、お隣の狭山不動尊とは異なる雰囲気を醸し出している。

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由緒のある山口観音

 もっとも、山口観音(金乗院放光寺)は歴史があり、主催者発表によれば弘仁年間(9世紀前半)、行基が開いたとされている。現在は新義真言宗豊山派に属している由緒ある寺院である。ただし、お隣の狭山不動尊とはライバル関係にあるためか、境内には奇異なる建造物が負けず劣らず揃っている(そうだ)。私はその全貌にはまだ触れていないが、ライバルは日本各地から寄せ集めたもので構成されているのに対し、こちらはインターナショナルな建造物が多いようで、写真の五重塔などは可愛いものらしい。こちらの寺院もまた、一切皆空の世界である。

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東京府水道局が建てた玉湖神社

 山口観音の奥の院が面するr55を300mほど西に進むと、写真の玉湖(たまのうみ)神社の鳥居が見えてくる。道路の南側なので、どちらかといえば村山貯水池の上池の敷地に近いが、この辺りは両貯水池間がもっとも近接している場所なので、東京府水道局はあえてここを選んだのかもしれない。1934年の竣工なので、32年に山口貯水池が概ね完成することを見計らって、両貯水池を見守るための神社が造営されたことになる。

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1967年、諸般の事情で神様は引っ越しました

 ただし、公共団体(東京都水道局)が特定の神を祀るということは、憲法第20条第3項(国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない)に抵触するという批判を受けた結果、1967年に御霊返しがおこなわれて神域ではなくなった。

 社殿は残されたが、2011年の大震災で被害を受けたために解体された。写真から分かるとおり小さな祠は残っているものの、そこに神は、もはや存在しない。

 境内には工事の際の殉職者を慰霊する碑が立っている。2つあるのは、村山貯水池関係者と山口貯水池関係者とを区別しているからだろうか。

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貯水池工事の残土で造った「狭山富士」

 玉湖神社の裏手(西側)には、工事完了後に残った土を盛って造った「狭山富士」がそびえて?いる。標高は151mとされており、麓のr55は132mなので、比高は19m。登山道?も整備されているようで、頂上からの眺めは案外悪くないそうだが、今回は登頂を断念した。

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信号はないが交通量は多い丁字路

 駐車場に戻るため、玉湖神社を離れて200mほど東進した。写真の丁字路を左折すると、私が車をとめた「狭山湖第2駐車場」に至り、直進方向には山口観音の建造物が左手に見え、さらにその方向へ道なりに進むと丁字路に突き当たる。その丁字路を左折すると西武球場前駅へ、右折すると村山貯水池を上下に分かつ上貯水池堤体上を通る道に至る。

 私は、山口貯水池界隈を巡る徘徊を終えるため、写真の丁字路を左折した。足取りは重かった。スタート前からのことだが。

野山北公園や不思議なトンネルなど

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噴水池、釣り池、ひょうたん池など水が豊富な野山北公園

 野山北公園は、狭山丘陵の南尾根の谷戸内にある。というより、ここは両貯水池の西端よりさらに西に位置するため、前回に触れた三本指の例えでいえば手の甲に属するので、もはや南尾根という表現は妥当性を欠くかもしれない。ともあれ、人差し指の付け根付近にあるといえば分かるだろうか?分かんねぇだろうな。

 村山貯水池や山口貯水池にはとくに季節に関わりなく訪れるのだが、この公園に関してはほぼ春のみといってよい。春は「カタクリ」の開花期だからである。公園内には釣りができる池がいくつかあるが、コイやフナ、クチボソなどは私にとって釣りの対象にはならないので、ここで竿を出したことは一度もない。ただし、そこは釣り人の性なのだろうか、他者の釣り姿を見ることは決して嫌いではない。というより、釣りをするしないに関わらず、水たまりがあれば必ず、魚の姿を探してしまうのだ。 

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丘陵の斜面を利用した「冒険の森」

 公園には里山の斜面の利用した遊び場が整備されている。隣には「村山温泉・かたくりの湯」という立ち寄り温泉、市民プール、運動場もあるためか広大な駐車場が存在するので、里山散策、池での釣り、そして遊び場に出掛けてくるのにも便利なのだ。

 写真の冒険の森には遊具やアスレチック、展望台などが整備されているためか、子供連れの姿が多いようだ。

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アスレチックが数多く設置されている「あそびの森」

 写真は「冒険の森」の隣にある「あそびの森」の入口付近。こちらのほうはアスレチック施設がメーンで、中にはかなり規模の大きなものがあるようだ。やはり子供連れが大半だ。

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カタクリの里」と「ミズバショウ池」

 私には冒険心や遊び心がないわけではないが、ガキどもに混じって興ずる気持ちはないので、2つの森はパスして、谷戸内を進んだ。

 写真の左手の斜面は、「カタクリの里」として整備され、下草を刈り取ってある部分にカタクリが無数に植えられていて春の開花を待っている。右手の湿地帯は子供たちに田んぼ作業体験をさせる学習の場となっているが、上方の数面はミズバショウを生育する田んぼに利用されている。

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春にはカタクリが群生して花開く(再掲載)

 写真は、昨年の春に撮影したカタクリの花の群生で、以前、本ブログに掲載している。カタクリの群生に触れるのは大好きなので、シーズンともなるとあちらこちらにある名所に出掛けている。もっとも好みなのは、埼玉県比企郡小川町にある「カタクリオオムラサキの林」で、そこではカタクリニリンソウとの共演が見事なのだが、昨春はすでにコロナ騒ぎが始まっていたので例外的にそこへは出掛けず、カタクリ見物はこの野山北公園が中心だった。ここは年々、人気が高まっており、それに応えるかのように規模も株数もずいぶんと拡大しているようだ。

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ミズバショウの花(再掲載)

 カタクリの里では小川町のようにニリンソウとの共演はないが、写真のミズバショウが助演者として登場する。この写真も昨年春に掲載したものである。

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北公園にある池の水の元を探る

 北公園の池は空堀川の水源とされているが、ではその池の水は何処から来たのだろうか。自分の中ではその疑問はほとんど解決しているのだが、念のため、公園を管理しているオジサンに尋ねてみた。オジサンは谷戸の上方を指さし、「あっちに谷から水が流れているのが見えるから行ってみるといい」と教えてくれた。それが空堀川の源流で、池はその水を集めたものとのことだった。

 という訳で私は、ミズバショウの田んぼの上方にある、か細い流れを確認することにした。とはいえ、この谷川は、私には既知のものだったけれど。

 写真は、田んぼのすぐ上にある流れだ。

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流れの元をさらに辿る

 流れの元をさらに辿ってみた。この辺りはまだすぐ脇に散策路が通じているので水路を間近に見ることができる。

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空堀川の源頭

 ところが、散策路は次第に川筋から離れ、しかも道の両側には低いながらも柵が設置されているので、流れの近くに寄ることはできなくなってしまった。おそらく、写真の辺りが水の湧出口だと思われるが、きちんと確認することはできなかった。

 狭山丘陵は、基盤である上総層群の最上層にある「狭山層群」の上に多摩ローム層が積もってできたものだ。狭山層群は下から「三木層」「谷ツ粘土層」「芋窪(いもくぼ)礫層」から形成されている。谷ツ粘土層からは貝の化石が多く発見されているので、かつては海底にあったことが分かっている。その上の芋窪礫層は、最初期の古多摩川関東山地を削って大武蔵野扇状地の原形を造った地層にあたる。約40~30万年前のことだ。そして箱根や八ヶ岳が噴火を繰り返し、礫層の上に多摩ローム層を形成した。約20万年前までのことだ。その後、古多摩川は狭山丘陵を残したまま大武蔵野扇状地を削って今の武蔵野台地の原形を造った。

 狭山丘陵の多摩ローム層は30~40mほどの厚さがある。その下の芋窪礫層は10mほどの厚さだ。清水の湧出口は芋窪礫層からだと考えると丘陵のピークから40mほど下のところから水が表面に顔を出すことになる。狭山丘陵の最高地点は高根山の194mだが、それは丘陵に西端近くにあり、空堀川の源頭があると思われる周辺のピークは170~180mほどだ(もっとも近い場所にある三角点は183m)。だとすれば湧出口は140m前後のところにあるはずである。実際、写真の湧出口は138~142mほどである。ちなみに、この近辺には谷戸が数多く存在しているが、すでに水が枯れてしまったところを含め、湧出口と思われる場所の大半は標高140m地点にある。

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谷をさらに辿ってみた

 写真は、空堀川が形成したと考えられる谷戸を上からのぞいたものである。左に写っているのが散策路だ。低い柵が施してあるのが分かると思うが、それを越えるわけにはいかなかった。

 空堀川の源頭を探すことはほぼ達成したものの、北公園の池を満杯にするほどの量がこの谷から湧き出るとはとても考えられなかった。せいぜい、ミズバショウを田んぼを満たす程度だろう。

 ではいったい、池の水は何処から来たのだろうか?それは、池のすぐ東側に市民プールが存在することから推察可能だ。それ以上を語るのは野暮というものだ。

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北公園の南尾根にある「出会いの広場」

 野山北公園の池の南側に、南尾根に上る散策路がある。存在は知っていたがその道に入るのは今回が初めてだった。ほどなく舗装路に出た。それを西に進み、尾根の南斜面にある「龍の入(たきのいり)不動尊」へ下る道を探した。

 写真はその舗装路沿いにある「出会いの広場」(標高161m)と名付けられた場所だ。休憩所とトイレがあるが、それ以外にはなにもない。なにもないものと出会うことほど難しいものはない。分かったことはただ一つ、その広場の西側に尾根を下る道があり、それが不動尊へ至る最短路であるということ。なにもない場所ではあったが、それでもなにかを見出すことができた。それゆえそこは、もはやなにもない場所ではなくなった。確かに、出会いはあったのだ。

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南尾根南斜面にある谷戸を下る

 その道を下ると、ほどなく写真の少々うらぶれた茶畑が視界に入った。ここにも谷戸が形成されており、目指す不動尊はその谷戸の西側(写真では右手)にあった。

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龍の入不動尊・弁財天付近

 本堂の上方に写真の建造物群があり、その中に弁財天が祀られている。弁財天は水の神様であり、ここには「白糸の滝」があるはずだった。滝といっても規模の大きいものではなく、清水の湧き出し口があるだけなのだ。が、かつては湧出量が多かったらしく「御神水」として崇められていたようだ。しかし、今冬は非常に雨が少ないためもあってか浸み出す水の量はとても少ないようだ。そのため、今回は「御神水」に触れるのは諦め、不動尊のある風景を味わうことに留めた。

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龍の入不動尊・ぼけ除不動明王

 本堂と弁財天との間の斜面には50体ほどの仏像が並んでいた。その中で私が一番気に入ったのが、写真の「ぼけ除不動明王」である。狭山丘陵内でも決して散策場所に適している場所ではないところにある不動尊なので、ここを訪れる人は暇な年配者がほとんどなのだろう。私を含め、そんな人たちがもっとも気にする事は、近い将来に自分を襲うであろう「ぼけ」なので、参拝者の多くがこの不動明王におすがりしたいらしく、とりわけ綺麗な花が飾られ、手入れもよくおこなわれていた。境内の一等地に屹立していることも理由のひとつであるのだろうが。

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龍の入不動尊と遊水地

 龍の入は「たきのいり」と読む。「瀧」ではなく「龍」の文字を使って「たき」と読ませる。グーグルマップでは「瀧の入」とあり、武蔵村山市のガイドには「滝の入」とある。この不動尊自体は「龍の入」を用いている。それはともかく、「滝」を形成するような水が丘陵から湧き出ることはもはやないだろうが、それなりの大きさの規模の谷戸が形成されているので、かつて水量が豊富だったことは事実だろう。

 谷戸の下方部には住宅地が形成されている。万が一、大水が出てそれが谷戸を流れ下った場合には麓の住宅地に被害を及ぼす懸念があるためか、不動尊の隣には写真のような「遊水地」が造られていた。渇水期の今、そこには一滴の水もなかった。しかし、「備えあれば憂いなし」。これも事実である。 

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ちかんが多いらしい、野山北自転車道

 村山貯水池や山口貯水池へは多摩川の水が送られている。そのルートは、写真の「野山北自転車道」の存在から分かる。羽村堰で取水された多摩川の水は玉川上水を流れ、すぐに東京都水道局羽村導水ポンプ所から地下の導水路を伝って村山貯水池に流入する。山口貯水池完成後は村山貯水池の敷地内で分岐した引入水路を伝ってそちらにも送られている。もっとも前回に触れたように、現在、山口貯水池へは小作取水堰から伸びる専用水路が主として用いられているが。

 羽村から村山までの導水路の道筋は地図を確認するとすぐに分かる。一部は横田基地内を通過するため痕跡が残っていないところもあるが、横田基地の東側から狭山丘陵までは「野山北自転車道」として整備されているため、はっきり・くっきりと分かる。

 かつて、ここには村山貯水池までに導水管建設資材を運搬するための「羽村・山口軽便鉄道」が敷設され、山口貯水池建設の際には堤体を築くための資材なども運搬された。両貯水池完成後に鉄道は廃止され、その跡地は自転車道などに利用されている。下には極太の導水管が埋められているので、いざというときには簡単に掘り起こすことができるように自転車道や散策路に用いているのだろう。写真は、その自転車道を望んだもので、羽村から狭山丘陵まではほぼ一直線である。

 それにしても、写真にあるごとく、この直線的な自転車道には曲がった生活を送る人たちも現れるようで、他の場所にもこの手の注意喚起の看板があった。「遠慮ください」の言葉は、その手の人に「変質行為はご遠慮ください」と呼びかけているのではなく、生活道路が並行しているので、「駐車はご遠慮ください」というものである。

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野山北自転車道・横田トンネル

 狭山丘陵に至ると、かつての軽便鉄道跡ならびに現在の導水路上はトンネルを何度か通過することになる。トンネル自体は6本あるらしいが、実際に通ることができるのは4本だ。写真はr55の東側にある「横田トンネル」の出入口である。

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横田トンネル内部

 トンネル内には照明施設があるもののさほど明るくはない。写真は少し増感しているので明るく見えるが、実際には、臆病な私には入るのに少しだけ躊躇いを抱いたほどの「暗さ」だ。もっとも、野山北公園や住宅地にも近い場所にあるトンネルなので、散歩に訪れるジジババ・オッサンオバサンもそれなりにいるので安心感もある。いや、そのほうがかえって怖いかもしれないが。

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野山北自転車道・赤堀トンネル

 トンネルを抜けるとまたすぐにトンネルとなる。横田トンネルの名の由来は、かつてその地域が横田と呼ばれていたからだ。写真の赤堀トンネルの由来は不明だが、おそらく「赤堀地区」だったのだろう。

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野山北自転車道・御岳トンネル

 3番目は御岳トンネル。名前の由来は不明。このトンネルは丘陵南側の尾根筋を貫いている。その尾根筋(標高150m)を御岳と呼んだののだろうか?現在では武蔵村山市中央4丁目となっており、いにしえの地名を思い起こさせるものではない。

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老朽化したトンネル内のひび割れ

 補修は何度も施されているだろうが、トンネル自体は1920年代に造られたものなのでかなりくたびれている。写真から分かるとおり、コンクリートの継ぎ目には少しのズレがあり漏水が目立つ。

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漏水防止のためのパネル

 漏水がとりわけ多い場所には写真のようなパネルが貼られている。新自由主義経済のトリクルダウンは幻想だが、古いトンネル内では天井から冷たい水がトリクルダウンする、確実に。

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御岳トンネルの先にある番太池

 御岳トンネルを出ると自転車道はやや右にカーブしている。写真の「番太池」を避けるためと思われる。トンネルの出口は標高128m地点にあるが、池は123mほどのところにある。

 番太池の近くには赤坂池もある。周囲には小さな谷が多くあり、そこから湧き出した水を溜めたものが両池である。近くにはかつて田んぼだっと思わせる場所があり、溜池はこうした田畑に水を供給するために造られたのだろう。

 両池は奈良橋川の水源とされている。川は東南東に流れ下り谷戸を形成している。そして丘陵の南側を進み、番太池から3キロほど先で空堀川に合流する。谷戸内から宅地開発が進み、住宅地はそのまま丘陵の南端に続いている。中藤、神明、芋窪などの住宅地はその奈良橋川沿いにある。

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番太池の上にある池は枯れていた

 かつての番太池はもっと広かったようで、写真はその池の谷奥の様子である。写真の奥側が恐らく奈良橋川の源頭だろう。源頭と思われる場所の標高は約130m。その近くにある三角点の標高は165m。奈良橋川の水も、やはり多摩ローム層の下にある芋窪礫層から湧き出たはずだ。その芋窪礫層の名は、奈良橋川の下流域にある芋窪地区で礫層が発見されたために付けられた。

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野山北自転車道・赤坂トンネル

 通行可能な最後のトンネルが写真の「赤坂トンネル」だ。トンネルの入口近くには住宅が多いものの、トンネルの先は林である。こんなところにも変質者は現れるらしい。

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整備された自転車道はここで終了

 赤坂トンネルを抜けると、自転車道は終わっていた。ただし道そのものは途切れていなかった。直進するか右折するか左折するかの選択肢があった。直進方向には5番目のトンネルがあるはずだ。しかし、そのトンネルに入ることはできない。それでは右折か左折か?が、私はほとんど迷わなかった。

 来た道を戻ることにした。そうして赤坂トンネルを抜け、番太池のほとりに出た。

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周遊道に出るために道なき道を進んだ

 さらに御岳トンネルに戻るのでは面白くないので、山道方向へ進むことにした。ひとつは奈良橋川が形成した谷戸脇の道、もうひとつは「たまこヒルズ」方向の道。前者の道には「かぶとばし」まで0.7キロという小さな標識があった。私は「かぶと」にはさほど興味がないので、後者の道を選択した。

 すぐに急坂になり、想像していたのとはまったく異なる「ヒルズ」前を通り、その裏手にあった小道をさらに進むことにした。

 そこに現われたのが、写真の朽ちた2本の柱と道を塞ぐ倒木だった。ここでまた、戻るか進むかの選択を強いられた。自転車道の末端では戻ることを選んだので、今度は前進することにした。

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いつの間にか私はフェンス内に居た

 道はどんどん細くなり、ほとんど消えかかった場所に写真のフェンスがあった。その向こうには自動車道と遊歩道があった。つまり私は、いつのまにかフェンス内に入っていたのだ。乗り越えるのは大変そうなので戻るしかないと考えたのだが、周りをよく見るとそのフェンスには扉のついた部分があることが分かった。しかも、その扉には鍵は掛かっていなかった。そのために、フェンスの外にある遊歩道に出ることができたのだった。

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多摩湖通りの自動車道と遊歩道

 写真の遊歩道をどちらに進むのかは不明だったが、日照の向きから判断して、さしあたり、扉の左手へ進むことにした。写真の方向である。

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武蔵野の路・かぶとばし

 ほどなく、「武蔵野の路」の標識が目に入り、「かぶとばし」が近いことが分かった。番太池のほとりから谷戸脇の道を選べば、迷うことなくこの橋に出たのだ。しかし、その選択をしてしまったのなら、一瞬ではあったものの「フェンスの中に閉じ込められてしまった」という思いを体験することはなかった。次回も、あの道を選択することは可能だ。しかし、結末が分かってしまった現在にあっては、もはや、あの「やばい、閉じ込められた」という思いを味わうことは不可能なのだ。その限りにおいて、あの時、私は自由だったのである。

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かぶとばしのかぶと

 かぶとばしの欄干にはかぶとの透かし彫り?があった。橋詰めの2つのアーチの上にも2匹ずつかぶとがいた。確かに、”かぶとばし”という以外の呼び方はないのではないか。くわがたばしでは、明らかに変である。

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左に多摩湖、右にr55と狭山湖のフェンス

 武蔵野の路から遊歩道に戻り、r55に向かった。私がフェンスから出た道は「多摩湖通り」だった。写真の場所で多摩湖通りはr55と出会う。r55は通り慣れている道なので、進むべき方向はすぐに分かった。

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かたくりの湯に至るr55の急カーブ

 r55は下りに入り、ほどなく、「村山温泉・かたくりの湯」が視界に入った。r55の左カーブこそ、私が今回の散策の掉尾を飾るものであった。

 1930年代にこの道は、写真のような急カーブではなかった。村山側から見れば、道は少しだけ右に曲がり、その後は直進して山中に入っていったはずだ。

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山口村に至る旧道が通っていた谷間

 その山中の道はもはや残っていない。写真から分かる通り、わずかばかり、道だった痕跡を残すのみだ。その道らしき場所に行くことはできない。山口貯水池の敷地内だからだ。私はフェンスの外側から望むだけだった。写真の左側に縦の黒い筋が写ってしまっているが、これはフェンスの縦軸である。隙間が狭いため、どうしても一部が写り込んでしまうのだった。

 かつて道だったそれは小高い尾根と尾根との間を進み、やがて柳瀬川の源流域が造った谷間を下り、その先で左から下ってくる谷川と出会う。そして、いくつかの小集落の間を通過し、柳瀬川筋を東に進んで山口城址脇に至る。

 その道は写真の場所から消え、貯水池の下に沈み、貯水池の堤体の東側で復活する。復活した道の北側に「トトロの森1号地」があることはすでに触れている。

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村山温泉・かたくりの湯

 写真はr55の西側にある「村山温泉・かたくりの湯」の建物である。その付近は、かつては田んぼだったようで、その裏手(南側)に空堀川が流れている。

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空堀川で餌を探すアオサギ

 空堀川の小さな流れの中に、餌を探すアオサギがいた。野山北公園の池から小魚が脱走してくるのを狙っているのだろうか?

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空堀川の水源域と野山北公園

 写真は、北公園の池から流れ出る空堀川の水源域とされる場所である。冒頭近くに触れたように、空堀川の源流域はさらに上方にあるのだが、公園としてはここを水源域と表記している。それゆえ、空堀川はここに始まり、私の散策はここで終わる。

















 

〔52〕狭山丘陵(1)~台地に浮かぶ島

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尾根と尾根との間の谷筋には住宅が立ち並ぶ

狭山丘陵は多摩川が造った武蔵野台地上の島

 「秩父山麓より海岸に至るまで殆んど高低なき僅かの波状を有てる此の台地(武蔵野台地のこと)の上に、此の如き丘陵(狭山丘陵のこと)を発達して居るといふことは實に不思議である。丁度平面にして見れば武蔵野台地に島のやうな形になって居るのである。されば小藤博士の如きは、此の狭山の丘陵を称して”ジオロジカル・アイランド”即ち”地質学上の島”といって居られる」。これは大正時代に狭山丘陵を調査した著名な学者の言葉である。

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狭山丘陵の西側部分を国道16号上から望む

 研究者を不思議がらせた狭山丘陵は、青梅市の東側に存在する孤立丘陵で、東西に10~11キロ、南北に3~4キロに広がり、上空から見ると紡錘形をしている。近くにある多摩丘陵、加住丘陵、草花丘陵、加治丘陵はすべて関東山地に接続している。というより、もともと関東山地の東縁にあったものが、谷川によって南北が開析されたために東もしくは東北東方向に丘陵部が舌状に残ったものである。しかし狭山丘陵は、元々の成り立ちは多摩丘陵などと同じなのだが、丘陵形成過程がそれらとは異なっていて、関東山地とはまったくつながっていない。武蔵野台地の西縁(武蔵野扇状地の扇頂)である青梅市東青梅と、狭山丘陵の西端がある瑞穂町箱根ヶ崎とは約10キロも離れているのだ。

 狭山丘陵が浮かぶ武蔵野台地は、下末吉面、武蔵野面(武蔵野段丘)、立川面(立川段丘)の3つの基本構造を有しているが、研究が進むにつれて構造はさらに細分化され、最新の知見では11に区分されることが分かっている。しかし狭山丘陵はその11区分のどれにも属さず、あくまでも孤立丘陵としての立場を維持し続けている。というより、古期の武蔵野扇状地は古多摩川が狭山丘陵の北側を流れていたときに形成され、新期の武蔵野扇状地府中市はここに属する)は古多摩川が狭山丘陵の南側を流れていたときに形成されたのであった。

 しかも、古多摩川が狭山丘陵の南側を流れていたとき、丘陵の後端部に「乱流」を発生させたようで、その名残河川である「空堀川」「黒目川」「白子川」の不安定な流路が新期武蔵野扇状地の同定を複雑にさせたようである。

 かように、狭山丘陵は武蔵野台地の形成過程に重要な役割を果たしているのだが、肝心の狭山丘陵そのものの成り立ちについては不明の点が多い。ただ、古多摩川が北東や南東方向に流路を変更した際に「削り残した」とされるばかりである。古多摩川が素直に東に進めば狭山丘陵は存在せず、そうなれば武蔵野台地の様相は大きく変わっていたに違いない。とはいえ、東進は案外、難しいのかもしれない。「いつ削るの?」「15万年前でしょ!」

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狭山丘陵の北側を流れる不老川

 写真は、狭山丘陵の北側を流れる不老川(ふろうがわ、としとらずがわ)。入間市宮寺地点(標高125m)の流れで、県道179号線の向こうに見えるのが狭山丘陵である。不老川は古多摩川の旧河道を流れる名残河川であり、後述する「狭山池(狭山ヶ池とも)」の伏流水を源流にすると考えられている。この川は、古多摩川の名残河川の多くがそうであるように北東方向に進み、川越市の南部(川越市砂)で新河岸川に合流する。荒川水系に属するので一級河川の扱いとなる。地形区分としては”Tc”と表記される武蔵野台地の「立川面」を流れている。

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狭山丘陵の南側を流れる空堀川

 写真は狭山丘陵の南側を流れる空堀川で、源頭は狭山丘陵の南側にある野山北公園の池とされているが、実際には丘陵から湧き出た水がいくつか集まって川を形成したのだろう。しばらくは狭山丘陵の南側に沿って流れ下るが、やはりこの川も古多摩川の名残河川なので北東に向きを変えて進み、清瀬市中里で後述する柳瀬川に合流する。その柳瀬川は志木市の中心部で新河岸川に合流するので、不老川同様に空堀川荒川水系一級河川である。

 狭山丘陵の南西側の大半は立川面であるが、空堀川国分寺崖線の北側に位置するため、武蔵野面(M2)に属する。が、前述したように狭山丘陵の南側の地形は古多摩川の乱流によってかなり複雑になっているため、現在では武蔵野面ではなく「武蔵野面群」と表記されており、空堀川は武蔵野面群の「黒目川上位面(M2c)」と「黒目川下位面(M2d)」との間を進んでいく。

狭山丘陵の西端を訪ねる

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狭山丘陵西端の盛り上がり

 高層ビルの上からならともかく、地べたからでは狭山丘陵の連なりを見ることはなかなか叶わない。丘陵なので高さはさほどないし、近年は周辺の宅地開発がますます進んでいるので、丘陵の姿は建物と建物との隙間から望めるばかりなのだ。とりわけ丘陵の南側(東大和市武蔵村山市など)は宅地造成が相当に進んでいるので、丘陵の横の連なりを撮影できる場所は見いだせなかった。一方、北側(入間市所沢市など)には茶畑などが広がっているので丘陵の姿を見ることが容易な場所はいくつもあるのだが、今度は陽の光が邪魔になってはっきりくっきりとした写真を撮ることができなかった。

 そんなわけで、南北からの撮影は諦め、丘陵の西端(瑞穂町箱根ヶ崎)と東端(所沢市松が丘)の撮影に限ることにした。

 新青梅街道都道5号線)を西進して「箱根ヶ崎西交差点」を右折し国道16号線(R16)の東京環状・瑞穂バイパスに移る。その道を入間市方向に進むと、まもなく「八高線跨線橋」に出た。そこからの眺めが結構良さそうだったので、次の信号(瑞穂斎場入口交差点)を右折して「瑞穂斎場」の敷地に入り、斎場の広大な駐車場に”無断駐車”して徒歩にて移動した。跨線橋上からじっくり狭山丘陵西端付近を観察することにしたのである。冒頭から2枚目の写真が、その跨線橋上から丘陵を望んだものだ。

 西端のピーク(標高170m)には狭山神社、北斜面には「さやま花多来里(かたくり)の里」がある。その写真の中央付近にあるピークは、狭山丘陵ではもっとも標高がある高根山(194m)だ。

 グーグルマップで調べると、跨線橋から丘陵西端までは直線距離で900mほどなので、歩いて西端付近まで出掛けてみることにした。上の写真は、その途中にある野菜畑から西端のピークを撮影したものである。 

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住宅街から西端部を望む

 途中までは畑の中の小道だったが、丘陵西端に近づくと住宅街に入った。撮影場所の標高は139mなので、狭山神社のあるピークとの比高は31mである。この住宅地は八高線箱根ヶ崎駅から700mほどのところにあり、すぐ近くには、瑞穂バイパスができる前まではR16であった(現在は都道166号線)道路がある。その都道を南に行くとほどなく八高線箱根ヶ崎駅東口に至り、さらにその先には新青梅街道、そしてその南には横田基地の北端がある。なかなか交通至便な住宅地である。

 住宅地内を移動中、爆音の発生源が空を移動しているのが分かった。見上げてみるとオスプレイが飛行していた。静かそうで利便性の良い郊外の住宅地なのだが、基地の真北すぐのところにあるので騒音には悩まされるはずである。

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狭山池から丘陵を望む

 丘陵西端のすぐ西側には「狭山池」がある。写真は、その狭山池から狭山丘陵の西端を望んだものだ。狭山池と狭山丘陵との間には「立川断層」が走っていることが判明している。ひとつ上に挙げた写真の中にある住宅街の道は、その断層帯と同じ向きにある。

 狭山池は、古多摩川が造った窪地に周囲から湧き出た水が溜まってできた池と考えられている。その窪地が造られた理由は判然としていないが、東進してきた古多摩川が立川断層に行く手を阻まれてしばしその地点で渦を巻き、そのために地面が掘られたと考えられる。古多摩川は断層の手前でしばらくはオロオロし、やがて行く先を北東もしくは南東方向に変えていったと考えることも可能だろうか。

 狭山池は、かつては「筥(はこ)の池」と呼ばれていたそうだ。「筥」には箱の意味もあるので、水の入れ物=池になる。が、そうなると「筥の池」では”池の池”となってしまうが。その点はご愛敬といったところか。

 鎌倉時代後期に編まれた歌集に以下の歌がある。

「冬深み 筥の池辺を 朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」

 古く、その窪地は18haほどあったと考えられているが、多くは埋め立てられ、現在はその1.5haほどが「狭山池公園」として整備されている。

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多摩川が造った窪地にできた狭山池

 池は「自然観察池」「庭園鑑賞池」「釣り池」に区分されている。冬の寒い時期だったこともあり、釣り人の姿はなかった。もっとも、写真からも分かるように、昼近い時間だったけれども、まだ池面には氷が溶けずに残っていた。しかし、その氷の鏡を利用する人の姿はなかった。朝ではなかったからだろうか?溶けかかった氷面に映る姿では、たとえナルキッソスでも満足はできまい。そう考えると、疑問は氷解した。

 先に述べたように、狭山池は不老川の水源とされているが、その源頭は見出せなかった。それもそのはず、その川は狭山池から直接に流れ出ているのではなく、伏流水が地表に現れるのは1500mほど北東に進んだところであるからだ。不老川は古多摩川の旧河道を辿っていると考えられているので、狭山池を源流としているに過ぎないのかもしれない。

 一方、立川市柴崎町(立日橋のすぐ下流)で多摩川に流れ込む残堀川はこの狭山池を水源とするが、それは江戸時代初期の改良工事によるものである。もともとは狭山丘陵の西端付近から流れ出る湧水が小川となり、ほぼ立川断層に沿って南南東に下っていた。それを玉川上水が出来たとき、立川市一番町にある天王橋付近で残堀川を上水に合流させ、上水の助水としたのだった。玉川上水の水量を確保するためには、残堀川の水も必要になり、そのためには残堀川そのものの水量も安定させる必要があったのだろう。なお、残堀川と玉川上水との関係については、本ブログで玉川上水を扱ったとき(第30回)に触れている。

狭山丘陵の東端付近を訪ねる

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都立八国山緑地の東端が狭山丘陵の東端でもある

 狭山丘陵の西端は明瞭に残っているが、そこから10~11キロ離れた東端は明確ではない。その理由は後述することになるが、ここでは一応、写真の都立八国山緑地の東際を狭山丘陵の東端としておきたい。写真の都立八国山緑地の案内図がある場所の標高は67mで、カメラを構えている場所(東村山市諏訪町)は65mである。

 狭山丘陵は標高139m地点から盛り上がり始め、最高地点は194m(高根山)だということはすでに触れている。丘陵の基盤である上総層群は西へいくほど高度を上げていくので当然、その上に乗る狭山丘陵もまた西へいくほど標高があり、東に進むのにつれて低くなる。

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八国山緑地を住宅地から眺めてみた

 八国山の東端にあるピークの標高は89mで、カメラを構えた場所は62m地点である。写真からも分かる通り、丘陵の東端であるはずの場所はまだまだダラダラと下っている。周辺の東村山市諏訪町、松が丘、久米川町は緩い斜面を利用して宅地開発が進んでいるので、地形は大きく変貌している蓋然性は高い。それらの地区は標高60m前後の場所にある。が、その北にある所沢駅の標高は74mもある。それでは狭山丘陵は所沢方向に伸びているとも考えそうになるが、「所沢台(所沢台地)」は関東ロームの「下末吉面」に属し、多摩ローム層が覆う狭山丘陵とは異なるのである。それゆえ、本項では、この標高60m近辺で狭山丘陵は消えていると考えることにした。

狭山丘陵の面白さ

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村山貯水池(多摩湖)と関東山地の山並み

 私の家から狭山丘陵までは直線距離にして10キロ以上ある。府中街道など結構、混雑する道を使うので40分以上かかり、ときには1時間を超すこともある。それでも年に数十回、そこに出掛けるのは、いろんな魅力をその丘陵は有しているからだ。詳細については次回に触れる予定なので、ここでは、丘陵にある代表的な散策スポットについて簡単に触れることにした。

 狭山丘陵を代表する観光・散策スポットは写真の村山貯水池(多摩湖)周辺で、堤体の上から望む景観は何度触れても見飽きることはない。とくに、貯水池の向こうに連なる関東山地の姿がもっとも私の好みだ。望む角度が少し違うため、府中の多摩川沿いから見える山々の姿形とは少し異なり、その比較に興味と妙味がある。とりわけ、府中からだと手前に位置する鷹ノ巣山と、そのやや奥にある雲取山とがほとんど重なって見えてしまうのに対し、ここからだと雲取山の勇姿をはっきりと見て取ることができるのだ。それゆえ、雲取山に対峙する「芋の木ドッケ」もまた、より立派に見える。もちろん、私のお気に入りの大岳山はしっかり確認できる。が、キューピーの「頭髪?」部分が府中から見えるものと少し異なる。その点にも惹かれてしまうのだ。

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狭山公園から村山貯水池の堤体を望む

 村山貯水池の東側には都立狭山公園がある。適度な起伏があるため、散策には”もってこい”の存在だ。とりわけ、写真にある「薄野原」が好みで、ススキの穂が生長し、やがて枯れ尾花になる時期には毎回、この野原の中にある散策路を徘徊している。

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山口貯水池(狭山湖)はまた趣きが少し異なる

 村山貯水池の北側にあるのが山口貯水池(狭山湖)で、村山貯水池よりはやや遅れて整備された貯水池である。同じ狭山丘陵内にある人造湖であるにも関わらず、雰囲気は少し異なる。村山貯水池のほうは近くに無料の駐車場があるが、こちらには有料駐車場しかないので、観光客や散策・暇つぶしに訪れる人が少ないのも、私にとっては嬉しいことなのだ。

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野山北・六道山公園にある「里山民家」

 写真の「里山民家」は「野山北公園」と「六道山公園」との間にある。近くに無料駐車場が整備されているので、そこを起点としてまず民家の佇まいに触れ、それから北側にある谷戸沿いの散策路をのんびりと歩き、六道山公園に至るというのが、私の馴染みのルートである。

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六道山公園の天辺にある展望塔

 里山民家地点の標高は137m、写真の六道山公園は192m。比高は55mあるが傾斜が緩やかなので少しだけ強度を求める散策に適している。展望塔(展望台)の高さは13mほど。その上まで上れば標高は205mになる。狭山丘陵の最高地点は高根山の194mなので、この展望塔の上が、丘陵ではもっとも高い地点になる。

 傾斜が緩やかなピークにある展望塔なので案外、周囲の木々が視界を遮ってしまうために、期待するより展望は良くない。それでも、丘陵の頂点に居るという実感が持てるので、満足度は低くない。観光客は結構の数が上ってくるが、展望の貧弱さにやや拍子抜けするのか、長居をする人をまず見掛けたことはない。なお、ここでも横田基地で発生する騒音(とりわけC130の)がよく耳に入る。

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林の中の湿地帯

 狭山丘陵には湿地帯が多く存在する。丘陵の多くが自然の混交林に覆われているため、土壌は保水力に富んでいて水に恵まれている。そのために丘陵の周囲には入谷戸が多く、人の手が入っている場所も少なくないが、それでも自然林が保護されている場所では写真のような湿地帯に出会うことがよくある。この豊かな自然があったからこそ2つの貯水池が造られることになったのだが、それについては後述する。

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狭山といえばお茶。丘陵の北側に茶畑が広がる

 狭山といえば茶所で、「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」と『狭山茶摘み歌」に歌われるほど狭山茶は全国的に有名だ。もっとも、埼玉は緑茶生産の経済的北限地と考えられているので、より温暖な静岡に比べると生産量はずっと少ない。反面、寒い冬があるからこそ、狭山のお茶は味わいが深くなるそうで、これは埼玉県農林部の話なので信憑性は高そうだ。

 狭山茶といっても、それは「狭山茶どころ情(なさけ)が厚い東村山四丁目」産は少なく、その中心的生産地は入間市で、ついで所沢市狭山市となる。いずれも狭山丘陵の北側に存在する。なお、写真の茶所は瑞穂町なので、「東京狭山茶」として出荷される。

狭山丘陵に人造湖が出来る経過など

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村山下貯水池(多摩湖)の取水塔。日本一美しい取水塔とも言われる?

 1907(明治(以下Mと表記)40)年の東京市では、1月1日から3月23日まで雨が一滴も降らず、市民は断水に苦しんだ。本ブログでは何度も触れているように、当時の東京市の水源は玉川上水にほぼ頼っていたからである。そのため、市では「東京市上水道拡張計画」をスタートすることを決め、09(M42)年、東京帝国大学の中島鋭治博士に抜本的な調査計画を委嘱した。博士は2年半をかけて多摩川の水源地などを踏査し、計画案を確定した。

 第一案は、西多摩郡大久野村(現日の出町)に貯水池を造り、多摩川の氷川(現在の奥多摩町)から導水路を使って多摩川の水を引き入れるというもの。その場所では平井川や秋川からの導水も可能で、上流の水を用いるので水質が良いという利点があった。ただし、山間渓谷に造る導水路の建設が難儀で、多くの隧道(トンネル)を設置する必要もあるため、工期は長くなり、工費もかさむという欠点があった。

 第二案は、狭山丘陵内の村山に貯水池を造り、羽村から水を取り入れ、武蔵野台地に導水路を造って貯水池に導くというもの。貯水池からは武蔵野村境(現在の武蔵野市浄水場)に導くというもの。乏水に備え名栗川の水を導くことも考慮している。

 第一案の工費は2460万円、第二案の工費は2072万円であった。第二案のほうが安価であり工期も短くて済むということもあって、12(M45)年の議会で、第二案の村山貯水池案が、導水路の羽村村山線、村山境線建設とともに採択された。翌13(大正(以下Tと表記)2)年に内閣の認可が下り、13(T2)年から19(T8)年までの七カ年継続事業としてスタートすることになった。

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尾根筋に囲まれている村山上貯水池

 狭山丘陵が貯水池建設に適した場所であることを説明するときは、3本の指を用いると分かりやすい。3本であればどの指でもよいのだが、ここでは左手の人差し指、中指、薬指を用いることにする。3本の指だけ伸ばしてその指間を少し広げる。手の甲を上にして指先は東に向ける。手首が狭山丘陵の西端になり、東に行くにしたがって尾根筋は3本に分かれる。この3本の尾根筋をここでは北尾根、中尾根、南尾根と呼ぶことにする。指の間からは沢が流れ下り、2つの河川を生み出す。上方が柳瀬川、下方が宅部(やけべ)川となる。

 上の写真は現在、村山貯水池の上池の堤体の改良工事がおこなわれているために水抜きされた状態の上貯水池の姿である。これから分かるように、両尾根(ここでは右側が中尾根、左が南尾根)には谷戸が多くあって尾根を侵食している。湧水が確保できる場所なので、相当に古くから尾根内には人が住み着いていた。遺跡調査によると、縄文以前の旧石器も見つかっている。貯水池に水没する前の復元図を見ると、宅部川沿いに民家が点在しているのはもちろんのこと、溜池が全部で21個あったことが分かる。

 手の甲に当たる丘陵部は豊かな自然混交林であって水を豊富に蓄えることができたので、中指(中尾根)と人差し指(南尾根)との付け根付近からは湧水を集めた川が西から東へと流れ下っていた。これは所川といって各集落で川の呼び名が変わり、最奥の石川地区では「石川」もしくは「石川川」、中間点ほどの内堀地区では「内堀川」、貯水池の堤体が築かれた宅部地区では「宅部川」と、その地区の名が付けられていたようだ。

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現在の宅部川。堤体から東へ500m付近

 このように尾根と尾根との間は宅部川が開析していたので、出口部分を堰堤で塞げば貯水のための空間は容易に形成できるのだ。ただし村山貯水池は東西に細長く、地形の関係もあって貯水池の容積を確保するために上貯水池と下貯水池の2つに分けられている。ちなみに、上池の堤体上部の標高は118m、下池の堤体上部は104m地点にある。なお、下の写真にあるように、上貯水池と下貯水池とを分かつ上貯水池の堰堤上は「多摩湖通り」(都道・県道55号線)として使用されている。狭山丘陵を南北に通じる道はほとんどないので、車が集中しやすくかなり混雑する。

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上貯水池の堤体の上は都道(県道)55号線として利用されている

 村山貯水池の計画地内には当時、161戸(163戸とも)の家があった。また田畑や山林などを所有する人々も多くいた。それらの用地買収交渉は15(T4)年に始まった。貯水池計画そのものはそれ以前に明らかになっていたので、移転地に住む住民たちは14年1月、住民大会を開き、「東京市ニ於テ該土地買収ノ協議ニ対シテ住民ハ極力共同一致ノ行動ヲ採リ各人別ニ応セサル事」などの決議文を採択していた。

 15年2月に市から買収価格が発表されたが、その価格が予想よりも相当に低かったため、住民や地主は結束して拒絶行動をすることを誓いあった。その『承諾書調印拒絶書』には、「敷地買収価格ノ二六新聞に顕ルルヤ当時売買格ノ半額ニ達セス其ノ低廉ナルニ驚キ……移住民約弐百名地主四百名余会同シ買収価格ハ不当ノ甚シキモノナルヲ以テ之ニ応セサルハ勿論該用地ハ他ヘ変更ヲ期セント決議シ……」とあり、共同して反対運動を展開することを誓った。

 しかし、市側は個々に切り崩しをおこない、大半の人は買収に応じてしまった。早くは15年12月に移転を完了するものも出て、17(T6)年までに買収に応じなかった人はわずか8名だけになった。残った8名は結束して反対運動を展開したが、最終的には、19(T8)年に土地収用法の適用が決まり、同年の12月には土地の強制買収がおこなわれてしまった。

 土地買収が完了したのは19年であったが、工事の準備は着々と進められており、15年2月には工事資材を運ぶための村山軽便鉄道の免許申請がおこなわれ、8月には貯水池に関する図面が完成していた。16年5月には下貯水池堰堤工事がスタートし、6月には東村山村回田(めぐりた)で地鎮祭が挙行された。17年10月には上貯水池堰堤工事も始まり、19(T8)年には資材運搬のための東村山駅・貯水池間の専用鉄道敷設免許が交付された。同年の「土地収用法」適用以前に工事はかなり進展していたのであった。

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羽村堰から貯水池までの導水路の上は現在、遊歩道兼自転車道とし使用されている

 22(T11)年に上貯水池堰堤が竣工し、23年には羽村堰から上貯水池までの通水がおこなわれ湛水(たんすい)が開始された。24年には貯水池から武蔵野村境浄水場までの通水が開始され、同年、下貯水池の堰堤、同取水塔が完成し、26(昭和2)年に村山貯水池工事はすべて完了した。

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山口貯水池(狭山湖)の取水塔

 山口貯水池(狭山湖)は村山貯水池のすぐ北隣にある。両貯水池の距離は、もっとも接近した場所では200mほどしか離れていない。

 山口貯水池も立地条件は村山貯水池とほぼ同じで、先に3本の指で説明したように、指(尾根のこと)と指との間から流れ出た柳瀬川が丘陵の内部をすり鉢状に開析した先に堰堤を造ってそれを塞ぎ、そこにできた空間を貯水池として利用している。

 ただし、村山貯水池とは形状がやや異なっていて、村山のほうは東西に細長いのに対し、山口のほうは極太のY字形をしている。それゆえ、指で説明する場合は、薬指は折って(実際には折り曲げるだけで、本当に折ってしまうと薬だけでは治療できない)、小指を伸ばし、中指の小指の先を塞ぐと山口貯水池の形をイメージしやすくなる。

 地図を確認すると北側(小指と折り曲げた薬指との間)の谷のほうが深いようで、この谷間を西にたどっていくと、先に少しだけ触れた「六道山公園」付近にまで至る。その一帯は狭山丘陵ではもっとも標高の高い場所なので、その分、水量も豊富だったのかもしれない。

 山口貯水池の場合、当初は羽村堰から村山貯水池までの導水路(羽村村山線)を借りて、導水路が村山貯水池に至る直前に「引込水路」を造って、南側の谷間から山口貯水池に流し込んでいた。

 現在では、R411の項でも触れている「小作取水堰」から新しい地下導水路(小作山口線)を造って北側の谷間の先端部に多摩川の水を引き入れている。前に触れているように、東京水道・羽村村山線の上の多くは現在、遊歩道・自転車道として利用されているのでその位置は地上からでも判明できるが、さすがに小作山口線は新しく造られたものだけに、地表からではそのルートを探ることはできない。地図で確認すると、それは日野自動車羽村工場の北を通り、そののちに進路を東に向けて、狭山池のすぐ北側、狭山神社がある丘の真下、都立瑞穂農芸高校の敷地下を抜けて山口貯水池に導かれていることが分かる。

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堤体から2.3キロ離れた地点を流れる柳瀬川

 山口貯水池に沈んだ山口村の旧勝楽寺付近には、280戸余りの家屋があったそうだ。貯水池ができる前の地図を見ると、北の侵食谷はかなり険しそうなので家屋は少ないが、一方、南の谷には道路が通じていて、それは現在、「多摩大橋通り」と呼ばれている道につながっている。というより、山口貯水池ができたことによって道は途中から東に折れて両貯水池の間にある「中尾根」を進むことになり、先に触れた都道・県道55号線の「村山上ダム北詰」に至っているのである。

 貯水池ができる以前は、その道は北上して南の谷間を進み、やがて貯水池に沈んだ場所のほぼ中央部に降り立ってから柳瀬川に沿って進み、山口村の中心部を抜けて所沢に至るかなり重要な道だったのだ。それゆえ、その道に沿っていくつかの集落が存在していたので、湖底に沈んだ家の数は村山貯水池よりも多かったのである。

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狭山湖展望台から山口貯水池の堤体付近を望む

 本項の冒頭の写真は、山口貯水池堰堤から所沢市山口の住宅地を望んだものである。北尾根と中尾根の間にある平地は柳瀬川が開析したもので、現在でも住宅は相当に多いが、この地は古くから開発が進んでいた。それは、武蔵七党のひとつである村山党の有力者であった山口氏が拠点にしていたからだ。「村山」の名からは武蔵村山や東村山を連想しがちだが、かつての村山党は狭山丘陵の北側が本拠地であった。主力は金子氏(現在の入間市金子)、山口氏(現在の所沢市山口)、仙波氏(現在の川越市仙波)であった。その山口氏の拠点であった山口城は山口貯水池堰堤の東1.7キロのところにあって、本丸が存在したとされる場所は県道55号線沿いにあり、そのすぐ南側に柳瀬川の流れがある。

 上の写真は、「旧展望台」から山口貯水池の堰堤付近を望んだもので、いかにも長閑そうな風景が展開されているが、その堤の東下には、平安時代末期から活躍していた関東武者のいち拠点が存在していたのである。

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山口貯水池の取水塔とその先にあったY字谷の名残り

 山口貯水池の築造計画は1926(昭和(以下Sと表記)2)年にスタートし、翌27年に地質調査が開始された。村山貯水池だけでは急増する東京市上水道需要が間に合わなかったためとされているが、実際には、すでに村山貯水池建設のための調査に引き続き、この地域も調査は15(T4)年には完了していた。つまり、山口貯水池の建設は、初めから想定の範囲内だったのだ。

 28(S3)年に工事が着工され、32(S7)年に通水式、34(S9)年に竣工式が挙行されて工事が完了しているので、用地買収なども村山貯水池に比べるとスムーズにおこなわれたようだ。というより、村山貯水池計画における買収過程の顛末を見れば、抵抗するだけ無駄だという諦めがあったのかもしれない。

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狭山湖畔から富士を眺める

 村山貯水池の通称は「多摩湖」、山口貯水池は「狭山湖」だが、なんとも紛らわしい。名前を覚えることが苦手な私は、今でも混乱してしまう。

 もともと、両貯水池は一括して「多摩湖」と呼ばれていたようだ。どちらも、多摩川の水を導いているからだ。しかし、それでは地元の人にとっては不便だったようで、村山貯水池の下には都立狭山公園が整備されているので、両者を区別するため、そちらを狭山湖と呼ぶようになった。が、村山貯水池のある場所は旧北多摩郡なので「多摩地区」だが、山口貯水池は所沢なので「多摩地区」ではないから多摩湖のままでは変だという意見があった。それなら、両者を一括して「狭山湖」と呼ぼうということになった。それはそれで不便そうだが。

 戦後、この地域の開発の主力になっていた西武鉄道は、新聞社と協力して改称キャンペーンをおこない、その結果、村山貯水池を「多摩湖」、山口貯水池を「狭山湖」と呼ぶことに決した。そうした過程を経て、現在ではその通称が一般的になった。

 つまり、村山貯水池は、多摩湖狭山湖多摩湖、山口貯水池は、多摩湖狭山湖狭山湖、と変遷したのだ。とはいえ、これはあくまで通称にすぎないので、本項では正式名称を用いて記述した。実際は、常に混乱しているので、その都度、東村山に近いほうが多摩湖と、心の中で念押しをしているのであった。

 それは、志村けんが流行らせた『東村山音頭』の「東村山 庭先きゃ 多摩湖 狭山茶所 情(なさけ)が厚い 東村山四丁目 東村山四丁目」という歌詞のお陰でもある。東村山に四丁目はないが、確かに庭先には多摩湖がある。

 志村けんに感謝である。合掌。

〔51〕3ケタ国道巡遊・R411(5)~盆地の辺縁から甲府市街へ

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愛宕山から富士山を望む

山があっても山なし県

 ガキンチョのとき、”県名言葉遊び”というのが流行った。今もあるかもしれない。「すべってころんで大分県」「山があっても山梨県」というのが代表的で、それ以外は無理矢理にこじつけたようなものだったのでとくに記憶はない。

 大分県のほうは言いやすさはあるものの、「すべってころんでアィッチ県」だって可能であり、大分県人がとりわけころびやすいという訳でもなさそうなので、単に語調が良いというだけのものだ。それに対し、山梨県は確かに山だらけだし、それなのに”山無し”というのが面白いので、誠に秀逸な作品だと思った。これを最初に考え(だれでもすぐに思いつくが)、そしてそれを堂々と表明した人(人々)は立派というほかはない。

 12,3歳の頃だったか、私がたまたまラジオを聞いていたとき、有名な作家がこの「山があっても山梨県」について触れ、「山梨県は周りをすべて山の連なりに囲まれている。山々が成した土地なので”やまなす”、それが転じて”やまなし”になった」というようなことを語った。私は感動し、翌日、それを悪ガキ仲間に教えた。一同は「ふうーん」というだけで、すぐに、「山があっても山梨県」と囃し立てるばかりだった。私は知性の無力さを実感し、結局は仲間と一緒に、いや先頭に立って、かの言葉を叫んで回った。

 大学受験のために社会科では「日本史」と「地理」とを選択した。「日本史」では律令国制について学び、山梨県は「甲斐国」であり、それは「山梨郡」「八代郡」「巨麻(巨摩)郡」「都留郡」からなることを知った。「地理」では、山梨郡甲府や塩山、勝沼あたりで、富士山や御坂山塊、大菩薩連嶺の東側は都留郡、南アルプス八ヶ岳巨摩郡に属することを知り、たしかに山梨郡には大菩薩連嶺の西側や奥秩父山塊の一部が属しているものの、その中心は甲府盆地にあることを学んだ。つまり、山梨郡は決して”山によって成された場所”だけではなかったのである。山梨県については後半に触れる予定なのでこれ以上は述べない。ただ一言、「作家というのは、実にいい加減なことを言う存在だ」。

盆地のヘリで樋口一葉に出会う

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県道201号は「一葉の道」でもあった

 県道201号線(以下r201)は前回に触れたように、「塩山停車場大菩薩嶺線」という通称をもち、大菩薩峠入口交差点から上日川峠へと伸びている。しかし通称から分かる通り、r201の出発点は塩山停車場(中央線塩山駅)である。つまり大菩薩峠入口は中継点であって、それからは重川(おもがわ)の左岸側を盆地へと下っていく。この道はR411とほぼ並行して南西方向に進んでいくのだ。

 前回に挙げた「大菩薩登山道入口バス停」近くの丁字路から塩山駅北口までのr201は「一葉の道」という別名を有する。上の写真にあるような標識を、r201沿いの至るところで目にする。樋口一葉は現在の千代田区で生まれ、台東区や文京区で生活しており、24歳半で死去するまでずっと東京に居住していた。それゆえ、「一葉の道」が塩山(現甲州市)にあることは、私のような無知なよそ者にはかなりの違和感を生じさせる。が、少し知識があればすぐに分かることだが、一葉の両親は塩山の中萩原出身で、その地にある慈雲寺で2人は出会い、駆け落ち同然に東京(当時はまだ江戸)に出て暮らしたのだった。

 一葉の晩年(といっても23歳)の作品に『ゆく雲』という短編がある。「我が養家(作品中の主人公の)は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々、垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やうやう鮪の刺身が口に入る位。」と、両親が育った村の姿を表現している。

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一葉の文学碑がある慈雲寺

 慈雲寺には寺子屋があり、一葉の父である大吉(のち則義)はそこで学んでいたときに、あやめ(一葉の母、のちに”たき”)と出会った。こうした縁もあり、1922年(一葉の二十七回忌)に、妹の「くに」(邦子、国子とも)や旧大藤村の有志、一葉の作品を高く評価した小説家たちの賛助もあって、慈雲寺境内に「樋口一葉文学碑」が建てられた。

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文学碑の建立には名だたる小説家が賛助した

 写真の文学碑の撰文は幸田露伴、建立賛助者には坪内逍遥森鴎外佐藤春夫田山花袋与謝野鉄幹与謝野晶子などの名がある。森鴎外は『たけくらべ』の読後、「われは作者が捕へ来りたる原材とその現じ出したる詩諏とを較べ見て、此人の筆の下には、灰を撒きて花を開かする手段あるを知り得たり。われはたとい世の人に一葉崇拝の嘲(あざけり)を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり」と絶賛している。

 一葉は1894年12月に『大つごもり』、95年1月から『たけくらべ』の連載開始、5月に『ゆく雲』、8月に『うつせみ』、9月に『にごりえ』、12月に『十三夜』、96年1月に『わかれ道』など、わずか1年2か月の間に優れた作品を次々に発表したため、この期間は「奇跡の14か月」とも言われている。が、一葉は96年2月20日の日記に「われに風月のおもひ有やいなやをしらず。塵の世をすてて深山にはしらんこころあるにもあらず。さるを厭世家とゆびさす人あり。そは何のゆゑならん。はかなき草紙にすみつけて世に出せば、当代の秀逸など有りふれたる言の葉をならべて、明日はそしらん口の端にうやうやしきほめ詞など、あな侘しからずや。かかる界に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といへるもなく、我れをしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生まれし心地ぞする。」に記し、名声の裏にある孤独感にいつも苛まれていたようだ。そのころから一葉は体調を崩し始め、4月頃に発病し、その後に肺結核と診断された。文学界の鬼才(奇才)である斎藤緑雨、医師でもある森鴎外などの奔走にもかかわらず、96年11月23日、一葉は死去した。

 1904年の読売新聞に「女子の天性に背いて、小説などを書き、男子に褒めらるるを鼻にかけて、ますます増長したる結果身体を傷けし也」との記事が掲載されている。死後8年ののちにも一葉を揶揄するような文が発表されているように、当時の女性(今でも似たようだが)の生き方には大きな制約があった。上に挙げた日記の続きには、一葉自身「我は女なり。いかにおもえることありども、そは世に行ふべき事かあらぬか。」と記している。

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慈雲寺参道にある一葉像

 大菩薩連嶺の西麓に配置される甲州市塩山中萩原地区(前回に触れた上日川峠、大菩薩湖、上日川ダム、大菩薩峠西、大菩薩嶺西、小金沢山西は上萩原地区にある)は”一葉の里”とも呼ばれ、甲州市では塩山駅から一葉の里を巡るウォーキングコースを「見どころ」として紹介している。中央線塩山駅(標高413m)から後述する「甘草屋敷」(415m)、上に挙げた「慈雲寺」(573m)で文学碑や写真に挙げた”樋口一葉女史像”などに接し、塩山桃源郷の眺めが素敵な日向薬師(604m)、かつての黒川金山への街道筋に位置し武田信玄の休息地でもあった滝本院(556m)などを見て塩山駅に戻るという回遊コースである。全長は8.7キロ、コースの最高地点は標高610mなので比高は197mあり、案外タフなコースといえる。慈雲寺には山梨県屈指と言われるイトザクラ(シダレザクラ)があり、日向薬師からは裾野に群なして咲く濃いピンクの桃の花たちが一望できるので、それらが開花する春に訪れるのが最高のようだ。

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塩山フルーツラインから塩山駅方向を望む

 少しだけ残っている後ろ髪を引かれるような思いをあとに、私は慈雲寺を出て「一葉の道」に戻った。この道を塩山駅方向に進めば「上赤尾交差点」でR411に出会うことができるからだ。が、その前に「フルーツ山梨農協大藤支所」の横にある十字路で、広域農道である「塩山フルーツライン」に交わってしまった。この広域農道は塩山地域を南北に走る道ではもっとも標高の高い位置にあり、かつよく整備された道である。以前に何度か塩山で「ぶどう狩り」や「さくらんぼ狩り」を楽しむために訪れたときに利用した道であり、甲府盆地のかなりの部分を見渡すことができる眺めの良い展望地があったことを思い出した。

 上の写真は、フルーツラインの脇に整備された「牛奥みはらしの丘」(標高500m)から、塩山市街や塩ノ山(553m)方向を望んだもの。そこからは甲府盆地だけでなく、北の奥秩父山塊、西の南アルプス、南の御坂山塊も見渡すことができる。麓には中央線の電車が走っていた。中央線は笹子トンネルを抜けて、大菩薩峠散策の起点駅となっている甲斐大和駅に至り、新大日影トンネルを抜けて勝沼扇状地に姿を見せたものの、盆地を横切って甲府市街に進むことはせず、さしあたり、山裾を北上して塩山駅へと向かうのであった。中央線の向こう側には重川(おもがわ)の護岸が見え、その先に塩山市街が広がり、塩山の名の由来となった「塩ノ山」が鎮座している。

 ”塩(しほ)の山 差出の磯にすむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく”

 これは『古今和歌集』にある賀歌で、旧山梨郡にある名勝の塩ノ山(甲州市)と差出の磯(山梨市、笛吹川右岸)が歌枕として取り上げられている。塩ノ山は、笛吹川と重川が造った複合扇状地の真ん中にあり、そこだけが削り残されたもので、府中市でいえば浅間山のような存在だ。塩ノ山といっても岩塩でできているわけではなく、四方がよく見渡せる(四方からよく見える)ところから四方の山と名付けられたのがその由来らしい。”四方の山”が”塩ノ山”にならなければ「塩山(えんざん)」の地名は生まれず、この地は「四方山(よもやま)」になっていたかも。そうなれば地元民はフルーツの花々だけでなく、よもやま話にも花を咲かせていたことだろう。

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なかなかオシャレな勝沼ぶどう郷駅

 勝沼駅が出来たのは1913年だ。中央線が開通したのは1903年なので、10年遅れて設置された。勝沼駅は93年に「勝沼ぶどう郷駅」(標高483m)に改称された。勝沼といえば甲州ぶどうやら甲州ワインがすぐに思い浮かぶので、この名称変更はうなずけなくもない。

 甲州ぶどうは日本の固有種だが、欧州種と中国原産種との交配種がさらに欧州種と交配してできたとの研究報告があるそうだ。甲州ぶどうの発祥には2説あり、ひとつは718年に行基大善寺勝沼町勝沼)を開き、そこでぶどうの栽培を始めたというもの。もうひとつは、1186年、雨宮勘解由(勝沼町上岩崎)が山ぶどうとは異なるつる草を見つけたので持ち帰って育てたところ、数年後に良質なぶどうが実ったというもの。第一は、日本の各地にある「行基伝説」のひとつに過ぎないと思われるが、大善寺自体は「ぶどう寺」を名乗っているため間違いであるともいえない。一般には第二の説のほうが有力のようだが、それにしても、甲州ぶどうの遺伝的特性は不思議というほかはなく、このぶどうがどうして甲斐の勝沼で育成されたのかは、いまだに不明のままのようだ。

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ぶどう郷駅から「ぶどうの丘」を望む

 ぶどう郷駅のすぐ西側に舌状台地の名残りのような南北に細長い高台があり、「ぶどうの丘」(標高500m)として整備されている。丘の周囲はほぼぶどう畑で、天辺には甲州市が運営する日本有数のワインショップや宿泊施設、温泉施設(天空の湯)などがある。私自身、数年前までは少しだけだがワインを口にしていたが、昨年から一切のアルコールを断つ(養命酒も含む)ことに決めたので、そのぶどうの丘には立ち寄らないことにした。ワインはともかく、丘からの展望は良さそうだ。 

塩山駅周辺から石和温泉へと向かう

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千野上交差点にある道路標識。ここでR411は青梅街道の名を失う

 塩山フルーツラインに戻って北上し、この道とR411が交差する「新千野橋東詰交差点」を左折して、R411の旅を再開した。かなりの後戻りである。まもなく、写真の千野上交差点に出た。陽光の都合で、写真は柳沢峠方向を写したものなので、実際には標識内にある矢印とは反対の方向に進むことになる。 

 少し古い地図(現在のグーグルマップも含め)では、この交差点は「千野駐在所前」と表記してあるが、今は「千野上」である。千野駐在所がなくなってしまったわけでもなさそうなのだが。ともあれ、この交差点で青梅街道としてのR411は終了となる。標識内の「塩山市街」の矢印方向の道が青梅街道筋で、ここからしばらく、R411は「大菩薩ライン」という通称だけとなる。

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塩山駅南口広場

 R411に戻ったものの、またすぐに離れて中央線塩山駅周辺を訪ねてみることにした。写真は塩山駅南口のロータリー広場。この近くに甲州市役所がある。撮影地点は市のメインストリート上だったが、人や車の動きはほとんど見られなかった。

 甲州市は2005年11月、塩山市勝沼町、大和村が合併して成立した。発足時の人口は37301人(塩山26238、勝沼9529、大和1534)だったが20年12月現在、30800人なので、この20年間で17%減少している。合併すると由緒ある地名が消滅してしまうことが多々あるが、甲州市の場合、旧塩山市域は塩山〇〇、旧勝沼町域は勝沼町▢▢、旧大和村域は大和町△△と、旧地名が残されているので、この点は評価に値する。

 写真から分かるように、2017年にリニューアルされた駅舎はとても立派なものだ。2019年における塩山駅の一日の乗車人数は2024人。2000年は2262人、10年は2055人なので、横ばいか漸減といったところ。列車の本数は、平日の甲府方面行きで、6時台が2本、7時台が3本、8時台が5本(内特急2本)、9時台が6本(内特急2本)となっており、私が想像したよりは少し多め。通勤通学には普通列車を使うだろうし、その場合でも甲府までの所要時間は22分なので、スケジュール通り動ける人(定刻主義者)には案外、便利かもしれない。

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北口ロータリー横に鎮座する武田信玄

 駅舎内の通路を使って北口に出た。写真の信玄像は甲府駅にあるものよりかなり小さいが、それでもこの像が駅前にあることから、塩山と信玄には結びつくものが存在すると考えられる。その代表が臨済宗恵林寺(えりんじ)で、1564年に信玄はその寺を武田家の菩提寺に定めた。宝物館には風林火山でおなじみの「孫子の旗」があるそうだ。

 武田家が織田信長に滅ぼされたときに寺も焼き討ちにあい、住職の快川和尚は「滅却心頭火自涼」の偈(げ)を残して焼死したとされる。その有名な偈は寺の三門に大きく掲げられている。なお、快川和尚は信玄の葬儀の際には大導師を務めている。

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甘草屋敷・高野家住宅

 北口ロータリーのすぐ北側に写真の「甘草屋敷」がある。国の重要文化財に指定されている建造物で、この地の長百姓・村役人を代々務めていた高野家の住宅であった。高野家は江戸幕府の命により漢方薬の主原料となる「甘草(かんぞう)」を栽培していたところから、この建造物は「甘草屋敷」とも呼ばれる。有料だが、室内は一般公開されている(らしい)。

 甘草は根に鎮痛・鎮咳、利尿作用がある。中国原産で日本には産しなかったため、中国からの輸入を続けていたが、享保の改革時に甘草の国産化を進めた。平賀源内が宝暦年間に著した書物(1763年)に「江戸と駿府の官園にある甘草は甲斐から得たものである」と記しているように、高野家の甘草栽培は日本における嚆矢(こうし、先駆けの意)であったようだ。

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塩山駅からR411に戻るためにこの交差点を左折

 かように寄り道が続き、R411の徘徊はなかなか進まない。塩山駅南口から道路(県道38号、塩山勝沼線)を東に進み、写真の赤尾交差点を右に曲がる。今度こそR411の旅が本格的に再開される。

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マンズワイン勝沼ワイナリー

 中央線は南西方向に進んで甲府を目指すが、R411は南南西に進んでいく。左手にワイン工場(マンズワイン勝沼ワイナリー)があった。塩山から勝沼に入ったのだ。

 この工場はマンズワインを代表するものらしく、マンズワインの製品の大半はこの工場で造られているとのことだ。ワイン工場としても山梨県下では最大の規模を誇るらしい。売店が併設されているが、アルコールを断つことにしている私には無縁の存在だ。

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葡萄工房ワイングラス館

 ワイン工場のすぐ先の右手には、写真のワイングラス館があった。ワイングラスだけでなく、天然石やガラスのアクセサリーなどを取り扱い、カフェやパンケーキ専門店などが併設されている(そうだ)。ワインには酔ってしまうがワイングラスならアルコールに触れることがないので、グラス館の内部を覗こうと立ち寄ったのだが、他には誰もいないことに気づいた。そんなところに進入してしまうと、ひやかしだけでは済まず何かしら購入しなければならなくなる。気の弱い私は店内に入ることを断念した。

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何でもあります!あすなろ園

 右手に見えてきたのが写真の「あすなろ園」。店自体はさほど大きくないようだが、看板を見れば分かる通り、山梨県の名産物がすべて取り揃えられている。多角経営、ごくろうさまです。

 塩山にはかつて養蚕のための桑園が広がっていたが、戦争時に食料生産のために畑に転換されてしまった。戦後は果樹栽培に主力を移したことで、山梨はフルーツ王国になったのであった。

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R411はこの交差点を左折して西進する

 あすなろ園から500mほど南に進むと、写真の等々力(とどろき)交差点に出る。R411はこの交差点を右折することになるが、左折すると先に触れた大善寺(ぶどう寺)に至り、そのすぐ先に「柏尾古戦場跡」がある。そこは、大久保大和(実は近藤勇)率いる「甲陽鎮撫隊」と板垣退助率いる官軍の「東山道軍」が戦ったところ。戦闘はわずか2時間ほどで決着し、甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走した。

 写真の交差点を直進すると国道20号線(甲州街道)に出る(南野呂千米寺交差点)。笹子峠を下ってきたR20は甲府盆地へ降り立ったところにある「柏尾交差点」で、それまでの片側一車線から二車線の快適なバイパスとなる。そしてそのバイパスが新甲州街道となり、旧甲州街道へと格落ちした旧来の狭い道は県道34号・38号線となって甲府を目指す。そしてその県道(旧甲州街道)は、写真の等々力交差点でR411にバトンタッチされる。つまりR411は、この交差点から旧甲州街道となって西進するのである。もっとも、「大菩薩ライン」の名もそのまま残している。

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甲州街道になったばかりのR411

 ”等々力”は、かつては「轟」と記した。音が鳴り響くさまを表すことばで地名によく用いられる。世田谷区には「等々力渓谷」があるが、これは渓谷が生まれるときに地面が何度も大きな音を立てて崩れ、その音が周囲に鳴り響いたから、というのが有力な説だ。一方、勝沼の等々力には地面の崩落がなければ、等々力渓谷のような「不動の滝」もない。その代わり、等々力の西隣には「上栗原」「下栗原」がある。

 『古事記』には、5世紀頃に中国から渡来した人々(呉人)を居住させた場所を「呉原」と名付けたとある。呉原はのちに栗原と呼ばれるようになった。呉(くれ)は、中国の呉(ご)というより大陸から渡来した人々全般を指していたと考えられている。さらに、呉(くれ)は「高句麗」(コクレ)を指し示すという有力な説もある。ともあれ、日本に朝鮮半島経由で馬が持ち込まれたのは4世紀後半と考えられており、山梨からは4世紀後半や末期の遺跡から「馬歯」が発見されている。山梨では日本でもっとも早い時期に馬の飼育がおこなわれていたようだ。なお、信州でも同時期の「馬歯」が発見されている。

 とすれば、馬は朝鮮半島から九州辺りや、若狭湾辺り(敦賀?)から畿内に入ったのではなく、西日本に至る予定だった船が北西風と対馬暖流とに流され、富山湾辺りで風待ちをしていたが、生き物ゆえにいつまでも船に乗せておくわけにはいかず、糸魚川直江津(現在の上越市)に陸揚げされた。そして諏訪湖や茅野、さらに釜無川を下って甲府盆地に入ったという可能性は大いにあり得る。いやむしろ、初めから越後や越中を目指していたという蓋然性は低くない。実際、この「中央地溝帯フォッサマグナ)」は、現在の我々が想像するよりも相当に古くから物資の流通路として利用されていたのだった。

 その傍証は古墳の一形態である「横石塚」の分布にもある。高句麗の古い墓制である「横石塚」は、日本全体では全古墳の2%ほどの割合だが、信濃では古墳の30%、甲斐では20%を占めている。中央地溝帯は、物資だけでなく人の移動ルートでもあったのだ。

 ともあれ、栗原の地では馬の飼育や調教がおこなわれ、その隣に位置する等々力にも馬蹄の音が轟いていたと想像できる。それゆえ、等々力交差点の周辺地は「轟」と名付けられ、後に等々力(等力)と記された。山梨の地は律令国としては「甲斐」であり、その甲斐には、前にも記したように山梨、八代、巨麻(巨摩)、都留の4郡から構成された。いうまでもなく、巨麻郡には朝鮮半島からの渡来人(中心は高麗(高句麗)からの人)が多く住んでいた。巨麻郡は山梨県の西半分ほどの広さがある。東部に位置する栗原や等々力は地域としては山梨郡に入るはずだが、渡来系の住民が多かったためか当初は巨麻郡に飛び地として属した。のちに韮崎辺りに栗原郷や等力郷が成立したと推定されている。

 その巨麻郡には、かつて現在の韮崎あたりを中心に朝廷の馬を飼育する御牧が3か所あって、優れた馬を産出していたため「甲斐の黒駒」と称されて重用された。伝説に過ぎないだろうが、聖徳太子厩戸皇子)の愛馬も「甲斐の黒駒」であり、太子は富士山を訪れる際にはその名馬にまたがって飛翔してきたとされている。だとするなら、その馬の名は「ぺガスス(ペガサス)」だったかも知れない。

 ともあれ、R411はこの等々力交差点で向きを西に変え、甲府に向かって進路をとるのである。

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一町田中交差点。旧甲州街道はここを左折

 西進を始めたR411は勝沼町等々力から山梨市上栗原に入る。山梨市に入って2.5キロほど進んだ場所に、写真の「一町田中交差点」がある。道路標識では丁字路に見えるが、実際には十字路で左折することができる。旧甲州街道を進むなら左折して日川に突き当たらなければならない。が、現代の車は急に曲がることを避けたいと考えたのだろうか、この交差点を少し先に進んでから左にカーブをとり「日川橋」で日川を渡り、ほどなく右にカーブして日川の左岸側を進んでいく。

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日川の右岸から日川橋を望む

 私は一町田中交差点を左折して旧甲州街道筋を進んだ。もっとも、200m足らずで日川の右岸に出てしまった。写真はその突き当り地点からR411の日川橋を望んだものだ。

 日川(ひかわ、かつては”にっかわ”とも)は、前回に挙げた大菩薩湖を水源として、県道218号線に沿って南下する(実際には日川の形成が先だが)。川は大菩薩連嶺が途切れかけたところでやや西に向きを変え、今度は大菩薩連嶺と御坂山塊との間、つまり甲州街道沿いに西へ流れて甲府盆地内に姿を現す。そしてそのまま旧甲州街道に並行して西進していく。

 日川の語源は氷川とも考えられるが、一般には、「三日血川」を基にすると伝えられている。織田信長軍に攻め込まれて山深くに逃げ込んだ武田軍の残党は最後の死闘を繰り広げ、戦いに加わって傷付き、あるいは戦死した人々の大量の血が谷を伝って川に流れ込んで、三日間、その川は血に染まった。そのために、川は三日血川と呼ばれるようになったということだ。どこかで聞いた話だ。以前、八王子城跡について記した際、御主殿の滝が自刃した北条家の人々の血で、城山川は三日三晩、赤く染まったという話に触れたことがあった。一日だと惨劇というほどではなく、五日というといささか大げさすぎるので、さしあたり、三日が良いのではないだろうかという判断が加わっていると考えられるのだ。

 ともあれ、三日血川と名付けられたらしいのだが、それでは不吉すぎるということで、"血”だけでなくついでに“三”も取り去って「日川」と呼ばれるようになったというのが、この川の名の由来らしい。そうすると、”三日血川”以前の名前が気になるが、多分、昔の人は川なんぞに格別な名を付けることはせず、単に川、せいぜい山川か谷川などと呼んでいたかと思われる。

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笛吹市を走るR411には甲州桃太郎街道とも名付けられている

 日川を渡るとすぐに、川の左岸沿いを走る道があることが分かる。それが旧甲州街道筋だが、R411はその道は使わず少し先で右に曲がり、1キロほど直線路をとる。それが写真の道で、「甲州桃太郎街道」の名が見える。ここはまだ大菩薩ラインなので、R411は2つの通称を有することになる。

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R411は、いよいよ笛吹川に出会う

 直線路の先でR411は少しだけ左に曲がる。それは、笛吹川の左岸で出たためだ。笛吹川富士川最大の支流で、奥秩父山塊甲武信ヶ岳(標高2475m)と国師ヶ岳(2592m)の間から発する東沢渓谷と、国師ヶ岳と奥千丈岳(2601m)との間に発する西沢渓谷とを源流とし、国道140号線の雁坂トンネルの南出入り口の西側辺りで両渓谷は合流し、しばらくは西沢渓谷(観光地としてとても有名)の名で下り、広瀬湖を経てほぼR140に並行して甲府盆地の辺縁部を下ってくる。

 山梨市駅付近からはR140とは距離をとるようになり、その一方、今度はR411に接近し、写真の場所で笛吹川とR411との出会いが生まれる。笛吹川はその出会いの直前に重川、ついで日川を飲み込んでいる。

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笛吹川左岸から大菩薩嶺と辿ってきた重川扇状地を振り返り見る

 写真は、R411と笛吹川とが出会った場所から東北東方向を望んだものだ。笛吹川左岸の土手に見える道が旧甲州街道で、右手上方には大菩薩嶺が、旧甲州街道の上方には重川が形成した扇状地が見える。その扇状地をR411は下ってきたのだ。

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笛吹川左岸を進むR411だが、すぐに笛吹橋を渡って右岸に移る

 R411は少しだけ笛吹川の左岸を進むが、写真からも分かる通り、この道の先は丁字路になっていて、R411はここを右折して笛吹川を渡り右岸側に出る。この左岸側の道は600mほどの長さだが、この間のR411は、大菩薩ライン、甲州桃太郎街道、旧甲州街道という3つの通称を有することになる。

 写真の丁字路を左折すると県道314号線(一宮山梨線)となり、その道を進むとR20の甲斐一宮IC、続いて中央道・一宮御坂ICに至る。石和(いさわ)辺りに住んでいる人にとって、その県道はかなり貴重な存在だ。

 私はR411を進むので、ここを右折して「笛吹橋」を渡り、すぐ先にある「石和温泉郷東入口交差点」を左折して1.5キロほど笛吹川の右岸を走る。その交差点を直進する車はさほど多くはなかったが、直進路を進むと中央線・春日居町駅に至るようだ。

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新しくなった石和温泉駅

 笛吹川の右岸側に出たR411は、1.5キロほど川の右岸沿いを「笛吹川通り」の名で進んでいく。どうやら、笛吹橋で大菩薩ラインの名前は消滅したようだ。旧甲州街道はR411が位置する土手上ではなく、土手下の少し離れた場所に通じている。

 R411は「八田交差点」で笛吹川右岸から離れ、さしあたり、かつて「石和温泉停車場線」と呼ばれていた県道302号線(r302)と重なり合って西へ進み、「石和温泉駅入口交差点」でそのr302と別れる。R411が進むルートは旧甲州街道と重なっているようだ。

 私にとって石和温泉駅は少しだけ記憶に残る存在なので、その交差点を右折して石和温泉駅に向かってみた。r302はそのルートをとるので「石和温泉停車場線」と名付けられたようだ。その道を北に800mほど進んだ場所に写真の「石和温泉駅」があった。記憶している駅舎とは全く異なっていた。写真の駅舎は2016年に完成したもので、私が何度か駅を訪れたのは20年近く前なので、変貌していても当然のことかもしれない。とはいえ、石和温泉駅を利用する人は、2000年では一日当たり2707人、2010年では2588人、2019年では2953人なので、駅舎の大変身ほど利用者数は変化していないようだ。

 石和に温泉が湧出したのは1956年だが、温泉地として知られるようになったのは61年、ぶどう園から高温の湯が大量に湧き出し、付近の川に流れ込んだこと。地元の人がその「青空温泉」に集まり、その姿が全国に紹介されたことが切っ掛けだった。大空の下で大勢の老若男女が、一様に丸裸で温泉に浸かっている様子を撮影した写真が、雑誌等に何度も掲載されているのを見たことがあった。

 その写真の効果は絶大で、石和には一時、100軒以上の旅館が建って、熱海温泉に匹敵するほど大いに賑わったらしい。ただし写真のイメージがあまりにも強烈だったので、「石和に行く」ということを表立って表明することはやや憚られていた。そのためか、フルーツ王国山梨県では、ぶどう狩りや桃狩り、昇仙峡観光とセットで温泉を楽しむというキャンペーンを繰り広げ、家族連れなどを積極的に呼び込むという労を取らざるを得なかったようだ。

 今では交通の便が良くなりすぎて十分に日帰り圏内にあるため、旅館の数は減少しており、その数は40軒余りとなっているそうだ。実際、石和温泉郷を巡ってみると、もう何年も営業していないと思われる建物が多々あった。

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かつての賑わいが見られなくなった温泉通り

やまなしには、確かに山はなかった!

 写真は、かつてのメインロードであった「さくら温泉通り」である。昼日中のせいもあり、人の姿はほとんど見られなかった。

 私がこの通りを訪れたのは石和温泉郷に臨むためではなく、甲斐の旧国府に接するためだった。が、石和温泉の現状に触れるとその目的を忘却してしまい、写真の通りや「湯けむり通り」をトボトボと徘徊することに専心してしまった。

 甲斐国国府は、上の写真を撮影した場所の北側付近にあった。さくら温泉通りは笛吹市石和町川中島にあるが、通りにほど近い場所の住所は笛吹市春日居町国府(こう)である。地名から明らかなように国府(こう)には甲斐国国府(こくふ)があった。国府は、9世紀後半から10世紀前半になって国府(こう)の南側3キロほどのところにある笛吹市御坂町国衙(こくが)に移るが、甲斐国最初の国府はその春日居町国府(こう)にあった。

 甲斐国には4郡があったということは先に何度か触れた。最初の国府があった場所は山梨郡に属したが、その山梨郡には10の郷があった。代表的なのは山梨郷(春日居町国府付近)、表門郷(うわと、甲府市和戸付近)、於曽郷(おぞ、塩山付近)である。八代郡は5郷からなり、中心は八代郷(国衙があった場所)である。このように、郡の名称は、その郡の中心的な郷の名を用いるのが一般的だったようだ。

 ということは、山梨の名は当初、山梨郷のみに付されており、山梨郡律令国家が成立したのちの話なのだ。山梨郷は笛吹川と平等川との間に位置し、山はまったく存在しない。そもそも、山梨の語源は「山をならした土地=平坦な場所」というのが定説になりつつあるので、「やまなし=山無し」がほぼ正しいのである。それはそうで、国府を造るのだから平坦な場所を選ぶのが当然なのだ。それが山梨郷を中心にして山梨郡が成立し、たまたま北に奥秩父山塊、東に大菩薩連嶺を含むようになったため、いかにも山が多い場所と思われるようになった。さらに甲斐国が、明治政府による廃藩置県によって甲府県になったものの、まもなく山梨県に改称されたため、いつしか、山梨は「山だらけの県」になってしまったのだ。

 本項の冒頭で「山があっても山梨県」の戯言(ざれごと)に触れた。真相は「山がないから山なし」なのであり、「山がない場所にも関わらず山ばかりの県の名前に使われてしまった」というのが事実である。不思議だが本当なのだ。

いよいよ甲府市域に入る

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R411がR140(秩父往還)と交差する横根跨線橋橋南交差点

 石和温泉郷をあとにしてR411に戻った。石和温泉駅入口交差点から西のR411は「城東通り」という名を纏う。R411の旅は滝川街道に始まり、城東通りで終わる。その城東通りは、写真の交差点で、南下してきた国道140号線(秩父往還、R140)に出会う。

 R140は先に触れたように雁坂峠(実は雁坂トンネル)を越えて笛吹川上流の”西沢渓谷”と出会い、共に南下してきたが山梨市駅付近から笛吹川とは一時、離別するものの、甲府市白井町で再会し、しばらくは川の左岸を進む。そして、笛吹川が本流の富士川に合流する直前に国道52号線に飲み込まれる。

 共に奥秩父山塊を越え、甲府盆地に降り立ったR411とR140とは、写真の交差点で出会うと同時に分かれ、それぞれの役割を全うする旅を続ける。

 ところで、石和温泉駅入口交差点を400mほど西に進むと「平等川」を渡ることになる。この川の西側は甲府市川田町なので、R411は旅の終着点である甲府市に、すでに入っていたのだった。なお、写真の交差点は甲府市和戸町にある。

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箱根駅伝知名度が上がった山梨学院大学

 R411は「山崎三差路」で旧青梅街道を吸収する。旧青梅街道の最後の姿は県道6号線(r6)だが、その道はR140の旧道につながっているために交通量は結構多い。また、R411も甲府市街に至るもっとも重要な道(旧甲州街道筋)であり、さらにr6には、交差点のすぐ近くに中央線の踏切があるため、その山崎三差路はかなり混雑する。それもあって、その交差点の撮影は断念した。

 その替わり(になるかどうかは不明だが)、その交差点から400mほど西にある「山梨学院大学」(甲府市酒折)の建物を写してみた。詳しく調べたわけではないが、日本に〇〇学院大学というのは63もあるらしい。青山学院や明治学院は古くからあるし元々、知名度も高いが、山梨学院大学のように比較的新しめの大学ではライバルが多く、その名を広めるのは結構大変なことと思える。誰にも思いつくことだが、手っ取り早いのはスポーツの世界で名前を売ることだろう。それは高校でも同じで、そちらは甲子園出場なのだが、関東とその近辺の大学のスポーツといえば野球ではなく「箱根駅伝」で、もっとも認知度が高く人気もある。かく言う私も大好きで、私が山梨学院の名前を知ったのもその駅伝である。一時は留学生を積極的に登用することで、あまり知られていない大学が優勝、もしくは上位を占めるようになった。そうなると「古豪」といわれる大学は学連に「圧力」をかけ!?留学生の出場を制限するようになり、結果、新興勢力は出場権を得ることは可能であっても上位に入ることは難しくなってきた。スポーツ界にせよ他の世界にせよ、既得権益者の「底力」(良く表現するとだが)は侮りがたい。

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甲斐国の名の原点である酒折

 山梨学院大学の最寄り駅は「酒折駅」だが、その駅の名前は近くに写真の「酒折宮」があることによる。『日本書紀』や『古事記』にも登場するほど酒折宮は重要な存在なのだが、実際に訪ねてみると案外、こじんまりとした存在だった。

 ヤマトタケルは、『日本書紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と記されているが、東征からの帰途、甲斐国酒折宮に立ち寄っているという点では、両者に共通している。

 「すなはちその国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌ひたまひしく、「新治(にいばり)筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」とうたひたまひき。ここにその御火焼(みたひき)の老人(おきな)、御歌に続ぎて歌ひしく、「かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」とうたひき。これをもちてその老人を誉めて、すなはち東の国造を給ひき」と『古事記』にある。

 東征を終えた倭建命が、その完了を祝うためにわざわざ酒折宮に立ち寄って歌をうたい、それに応えた人物に東国の支配権を与えたということが読み取れる。この後、倭建命は北上して碓日の坂(碓氷峠)を通り、信州を経て尾張に向かっている。この文面から、酒折宮は東国と大和との重要な結節点であることが分かる。

 従来、甲斐の語源は、山の狭間を意味する「峡(かひ)」であるとされたが、甲斐(かひ)の「ひ」と峡(かひ)の「ひ」とは万葉仮名では発音が異なることが判明したことにより、「峡」は甲斐の語源ではないことが証明された。現在では、上記のヤマトタケルの東征伝説における酒折宮(古くは坂折宮と表記されていた)の役割に着目し、甲斐は東国と大和との「交ひ=交流点」であったとする説がもっとも有力になっている。そして、「かひ」の「か」には十干(じっかん)の第一である「甲」を、「ひ」には「美しい」を意味する「斐」を用いて律令国名にした。

 甲斐とは関係がないが、飛騨国岐阜県高山市には県立斐太(ひだ)高校がある。この斐太は『万葉集』に用いられている表記で、もちろん飛騨のことである。斐太高校に知り合いがいる訳ではなく、その高校の卒業儀式に「白線流し」があることから、飛騨高山に出掛けた際、ついでに斐太高校を見に行ったことが何度かあったということを、これを記しているときに思い出しただけだ。さらに言えば、スピッツの『空も飛べるはず』は私のカラオケの持ち歌だ。

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本居宣長の撰文による酒折宮壽詞(ほぎごと)

 酒折宮の境内には写真の石碑があった。何を記述しているのかさっぱり分からなかったが、それでもそれに興味を抱いたのは「本居宣長」の名があったからだ。本居宣長の思想に共鳴するわけでは決してないのだが、三重県松阪市に宿泊しても松阪牛を食さないことがほとんどだったが、本居宣長の旧宅(二階に宣長の勉強部屋だった鈴屋がある)見物には毎回出掛けた。私は宣長とは違って「鈴の音」にさして興味はないが。

 「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」

 これは伊勢神宮を訪れた際に西行が詠んだ歌(山家集にある)だ。誠にかたじけないことだが、私は本居宣長の思想はほとんど理解していないのだけれど、なぜか彼の存在に惹かれてしまうのだ。

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甲斐善光寺はこの交差点を右折した先にある

 R411が身延線の下をくぐる直前に、写真の「善光寺入口交差点」がある。「武田神社に行く人は、この交差点を右折したほうがいいですよ」とまでは記していないが、実際、ここを右折して県道6号線に出ると、混雑する甲府市街域を避けて武田神社に至ることができる。

 善光寺というと長野市にある寺が圧倒的に有名だが、甲府にある「甲斐善光寺」はその「信濃善光寺」とは深いつながりがある。

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国の重要文化財に指定されている山門

 先ほどの信号を右折して善光寺通りを北に600mほど進むと、写真にある甲斐善光寺の山門前に至る。車道は山門の少し手前で左(西)に避けるので、車が山門に突入することはない。長野の善光寺は参道からすでに大いに賑わっているが、ここの善光寺通りは普通の住宅街にある道路といった風情で、とくに店が多く立ち並んでいるということはない。ただ、写真から分かる通り山門はかなり大きいので、離れた位置からでも、その先に寺院があるということは判別できる。

 この山門(三解脱門=三門)は1750年に創建されたもので、高さ20m、横20m、奥行7.8mの大きさがある。以前の屋根は檜皮(ひわだ)葺きだったが、2002~07年の大改修の際にサワラ板を用いた栩(とち)葺きに変更された。

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1796年に再建された本堂

 甲斐善光寺は、武田信玄上杉謙信との”川中島の戦い”で信濃善光寺が焼失することを恐れ、1558年に創建し、信玄は信濃善光寺の本尊や多くの寺宝を持ち出してこの寺に納めた。それゆえか、開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空がおこなっている。なお、本尊は武田家の滅亡後、1598年に信濃善光寺に戻されている。

 写真の本堂は、1565年に創建されたものの後に焼失した旧本堂にかわって、1796年に再建されたものである。当初のものよりかなり小さくなったと言われているが、それでも相当な大きさである。なお、本堂の屋根は檜皮葺きである。

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身延線善光寺駅の南にあるR411のクランク

 善光寺からR411に戻る。先ほど挙げた交差点のすぐ先に写真の場所がある。道路は左カーブするが、すぐその先で右にカーブする。こうしたクランクは、戦国時代から江戸時代にかけて、敵からの攻撃を防ぐための拠点付近によく造られている。城の入口にある「枡形虎口」がその代表だが、大手門があった場所にもこうした意匠がよく見られる。そのことについては、本ブログでも「八王子城跡」の項で触れている。

 ともあれ、こうしたクランクがR411の道筋に残っているということは、甲府城が近いということ、この道はかなり古くからあるということを示している。R411が「城東通り」という通称を有することがよく分かる場所なのだ。なお、こうしたクランクは、ここから1.4キロ先にもある。

R411は、終点にたどり着く

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甲府警察署東交差点を左折するとすぐに甲府城舞鶴城)跡に至る

 2つ目のクランクを過ぎると、R411の両側には商店が立ち並びはじめ、いかにも甲府の中心街を走る道といった雰囲気に変わる。まもなく、八王子市左入町を出発したR411は120キロの旅を経て、終点の甲府警察署前交差点に到着する。

 写真は、R411が終点に到達する前に通過する最後の十字路となる「甲府警察署東交差点」である。そこを右折した300m先の右手には甲府城舞鶴城)、左手には山梨県庁がある。もちろん、道路標識にあるように、さらにその先には武田神社がある(ただし、道は一本、西にずれるが)。

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R411の終点直前に甲府市役所がある

 甲府警察署東交差点の先の北側に写真の甲府市役所がある。市役所の北側に県庁があり、市役所の南側に甲府警察署がある。R411は山梨県、そして甲府市の司令塔が並ぶ中枢部を通っているのだ。

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甲府警察署前交差点。ここでR411は旅を終える

 写真が「甲府警察署前交差点」と名付けられた十字路。ここでR411は終わり、左折すれば国道52号線となって静岡市清水区興津中町までの旅となる。清水区興津地区を流れる興津川は私のアユ釣りのホームグラウンドのひとつなので、R52は短い区間だけれどよく利用する。右折すれば県道6号線となり、600mほど北に進むと中央線、身延線甲府駅南口に至る。直進すると市道になり、その道は「ボランティア通り」と命名されている。その名のとおり道路沿いに「山梨県ボランティアNPOセンター」がある。1987年に開催された「かいじ国体」の際に「ボランティア通り」の名が付いたらしい。

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R52から見た甲府警察署前交差点

 上の写真は、甲府警察署前交差点を南側(R52側)から見たもの。直進すれば甲府駅に至り、右折するとR411の「上り」の旅が始まる。

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中央線・甲府駅南口

 甲府駅南口に立ち寄ってみた。南口広場は広々としたロータリーになっており、ここが山梨県随一の玄関口であることを主張している。甲府市の人口は20年12月1日現在で187007人。決して大都市という訳ではないが、駅前は府中よりも格段に立派である。

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甲府駅南口に鎮座する武田信玄

 その南口の一角にあるのが、写真の武田信玄像。武田信玄は1521年生まれ(73年没)なので、来年は「信玄生誕500年」となる。コロナ禍の収まり具合にもよるだろうが、甲府市山梨県ではいろいろな行事が企画されているはずだ。甲府城でボランティアガイドの人に少しだけ話を伺ったとき、彼は「甲府には信玄ぐらいしか誇るものがないんですよ」と、20%は自嘲気味、80%は誇らしげに語っていた。

 ところで甲府市は昨年、開府500年を迎えた。ということは、甲府は1519年に始まったことになる。信玄の父である武田信虎は現在、武田神社がある「躑躅(つつじ)ヶ崎」に居館を移し、その場所に城下町を築いた。それゆえ、甲府は「甲斐の府中=甲府」と呼ばれるようになった。武田神社の所在地は、甲府市府中町である。ただ、ここでいう府中は、律令国国府所在地という意味ではなく、政治の中心地ということを表している。

 ちなみに、私が住む府中市律令国国府所在地だっただけで、現在は単なる東京の田舎町である。甲斐の国府があった春日居町国府御坂町国衙も、今はただ、中心地から外れた、のどかな郊外である。旧律令国も人生も、いろいろである。

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愛宕山から望遠レンズで富士山を望む

 甲府駅のすぐ北東側にある「愛宕山」に出掛け、甲府盆地を一望してみた。甲府盆地については次回に触れる予定だが、ここでは冒頭に挙げた写真の撮影場所と同じ地点から望遠レンズでのぞいた富士山の姿を掲載してみた。富士山は、相変わらず、手前の山々(御坂山塊)とは別の世界に佇んでいるように見える。

 富士山は自然が造った。甲府盆地も自然が造った。甲府は武田一族が造り、R411は無名の人々の往来によって造られた。

 *    *    *

 何とかの刃とかいう映画が流行ったらしい。友人も見に行ったようで、「大人にも泣ける映画なのでお前も見に行け」というお節介な連絡があった。「泣けるドラマ」なら『愛の不時着』があるが、今度見返せば14度目になるので、「それもなんだかなぁ」と思い、その映画を見てみようという気持ちが20%ほどまでに高まった。

 12月3日の夕刊に、その映画のコミック版の全面広告があった。

 「永遠というのは人の想いだ」「人の想いこそが永遠であり、不滅なんだよ」の言葉が記載されていた。

 この広告から私は、長嶋茂雄の引退セレモニーの言葉を思い出した。

 「我が巨人軍は永久に不滅です」

 広告では「永遠」と「不滅」、長嶋は「永久」と「不滅」。永遠は人の観念的時間、永久は物理的時間を表すので、長嶋のセリフは「永遠」を使うべきだった(3番は永久欠番だとしても)。中島みゆきの名曲に『永遠の嘘をついてくれ』というのがある。これは永遠で正解で、永久の嘘はあり得ない。なぜなら嘘をつく当の人は死ぬからだ。嘘は、甲斐で見つかった4世紀後半の馬の歯ではない。あちらは永久歯なので後世まで残るが、嘘は常に形を変え、やがて消える。もちろん、巨人軍だってソフトバンクに歯が立たないので、永久には続かない。しかし、奇特な巨人ファンの心には永遠に残るかもしれない。それは単に観念だから。

 それでいえば、広告の前半部の言葉は正しいが、後半部はまったくの誤りだ。個々の想いはあっても、「想い」そのものなど存在しないからだ。「想い」と聞くと、無邪気な少年少女は「善き想い」のみをイメージするかもしれない。が、「悪い想い」はもちろんあり、しかも「善悪」は相対的に存在するにすぎず、「善悪一般」はない。遅刻して飛行機に乗り遅れれば悔しく感じるが、当の飛行機が墜落したと聞けば遅刻に感謝する。が、代わりに乗った新幹線が脱線・転覆するかもしれない。それゆえ、「ひとつの想い」さえ時々刻々と変転し、さらに想う人は必ず死ぬのだから、想いは永遠でもなければ不滅でもない。他者に継承されたとしても伝言ゲーム以上に内容は遷ろう。私が想う夕陽の赤は、友人が想う赤とは多分異なる。仮に赤そのものは客観化できても、彼我の赤のクオリアは共有できない。

 善き想いが永遠に続くと信じるのは、ティーンエイジに満たない12歳までの少年少女の幼き空想である。人生が理不尽だらけであることを知る15,6歳になれば、たとえ夢であってもそれは「絶対善と絶対悪の狭間を不断に揺れ動く」ということに気が付く。そんなことを考えると、その映画を見ようという気持ちは10%にまで低下した。

 そして翌日(4日)の朝刊。またもや全面広告。

 「夜は明ける。想いは不滅。」

 同じ意味の言葉が2日連続。こうした言葉を広告に連続して挙げるということは、作者、ならびに出版社が、その作品でもっとも訴求したいと考えている「想い」なのだろう。

 その結果、同じような空語が館内に飛び交うであろう映画を見る気持ちは、0%になった。広告に大感謝である。 



 

 

 

 

〔50〕3ケタ国道巡遊・R411(4)~柳沢峠から甲府盆地へ。そして少し寄り道

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R411最高地点の柳沢峠からの眺め

丹波山村の中心地から分水嶺へと向かう

 丹波山村の形はどことなく、しっぽの太いマンタが秩父市街に向かって遊弋するようでもあり、太った北海道のようでもある。仮にマンタに例えるなら、右(南東)の胸鰭は鴨沢集落の中心地付近、左(北西)の胸鰭の先に竜喰(りゅうばみ)山(2012m)、口の前にある頭鰭(とうき)の右は七ツ石山(1757m)、左は雲取山(2017m)、太すぎてごく短くなってしまったしっぽの中心部には大菩薩嶺(2057m)がある。

 村の中心はマンタの胴のほぼ中央に位置し、大菩薩嶺の北麓にあるサカリ山(1542m)の北裾を削った貝沢川やマリコ川と、本流の多摩川(地方名は丹波川)が合流するなどして形成された河岸段丘上に多くの家々を集めている。

 前回の最後に挙げた写真は、道の駅を出てR411が村の中心部を進み始めた場所のもので、丹波山村ではもっとも標高の低い620m地点である。ここから西に700mほど進むと家々はほぼなくなり、これからは、北から南へ押し寄せる奥秩父山塊と、南から北に迫り出す大菩薩連嶺の狭間にある渓谷の北側を、標高を稼ぎながらR411は進んでいく。

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谷間を進むR411を青梅向きに見たもの

 写真は標高662m付近を通るR411と周囲の山々を撮影したもの。たまたま北側の崖を整備するために造られたとおぼしき路肩に車をとめることができ、その付近から陽光の向きの関係で青梅方向を撮ってみた。坂は下りだが、R411ではこの向きが上り(八王子方面)となる。丹波山村の集落からここまでの間、北側の崖からは幾筋もの小滝が落ち、道の南側を流れる多摩川丹波川)の対岸の崖も急激に落ち込み、そちらにも無名の滝が数多く流れ落ちる姿を視認できた。今でこそ法面(のりめん)は固められ、落石防止のための防御ネットも張り巡らされているので安全・安心に走行することは可能だが、かつては、いつ落石の攻撃に出会うか、ハラハラドキドキしながらこの道を走ったという記憶は未だに鮮明にある。

 思えば、R411は青梅街道を名乗り始めてからずっと多摩川の左岸を走り続け、奥多摩駅の先で曲流する川の流れの上を直行するため一時的に右岸に移ったこともあるが、それもほんの短い区間だけでまた左岸に戻り、奥多摩湖沿いもずっと北岸(つまり貯水池を多摩川と考えれば左岸)に位置した。

 R411は山梨県に入っても、通称を丹波川に変えた多摩川の左岸を走り続けてきたが、奥多摩駅近くで少しだけ右岸に移ったことがあった以来、26キロぶりで右岸を走ることになった。それは、上の写真のすぐ上流側である。北からは前飛竜(1954m)の南面に源頭を有する「小常木沢」が比較的大きな流れを造って丹波川の流れ込み、合流点付近の左岸側に険しい峡谷を形成しているためであった。その険しさと岩盤の脆さを考慮すると、そこには道を削り出すことは困難だと認定されたのだろう。

 もちろん、右岸側であっても芦沢山(1272m)から下り落ちる尾根や谷筋が丹波川にせりだしている。が、前飛竜から続き小ピークの岩岳(1520m)から急降下してくる尾根や谷のほうが遥かに険しい存在であったため、道は川の右岸に造るよりほかはなかったのだろう。

 撮影地点の100mほど上流にある余慶橋でR411は右岸側に移動した。そこから後述する「おいらん淵」の先辺りまでがR411が辿るもっとも険しく厳しい道程である。とりわけ橋から上流の1.5キロほどの間は、南には高く切り立った崖、北の谷底には丹波川の流れ、その左岸にも切り立ちかつ脆そうな崖と流れ落ちる小滝の連続。道は昼なお暗いために車内からその景観を写すことは不可能で、かといって車道を確保するのが精一杯の道には車をとめるスペースは皆無なので、撮影場所を探すことはできなかった。

 しばし川の右岸に移ったR411だったが、その先にはムジナ沢が南から北へ下り丹波川を「不動滝」となって襲うため、道は右岸に位置し続けることは困難だった。そのため、羽根戸橋と羽根戸トンネルなどを使って、道は左岸に移動して、多くの難所を切り抜けた。

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東京市長だった尾崎行雄多摩川の水源地調査をおこなった

 1961年、浪商高(当時)の尾崎行雄は剛速球投手として活躍し甲子園で優勝を飾った。高校を中退した尾崎は東映フライヤーズ(当時)に入団し、62年に20勝9敗の成績で新人王を獲得。さらに64~66年には3年連続して20勝以上を記録した。私は当時、少年野球に参加しており投手で4番打者だった。球種は直球のみ。投球フォームは尾崎の真似をした。欠点は、投げた球は何処に行くか分からなかったこと。しかし、相手打者はそれを恐れて空振りを多発したため、何度かの試合を経験したが、幸いにも一度も負け投手にはならずに済んだ。

 ほどなく、尾崎行雄は肩の故障のために球界を去り、私は他の遊びのほうに夢中になってしまったため、野球からは離れた。

 ”怪童”と呼ばれた投手・尾崎行雄は、第2代の東京市長(任1903~12)だった「憲政の神様」咢堂・尾崎行雄に因んでそう名付けられたそうだ。その市長のほうの尾崎行雄は、東京市の水源地であった多摩川上流域の森林地帯が荒れ果てて保水力を失い、その結果がまねく水道水の枯渇と質の悪化を危惧した。「東京市民の給水の責務を負っている東京市が、水源林の経営を行うべきである」との考えから「水源地森林経営案」を作成し、その議決を得た尾崎は1909年(明治42)、自ら多摩川の水源域を5日間にわたって実地踏査した。

 本ブログでも「玉川上水」を扱った項で触れたことがあるが、江戸・東京の飲料水は玉川上水にほぼ頼っていた。玉川上水多摩川羽村で取水されていたので、多摩川本流の水量が減じ水質が悪化すれば、それはそのまま東京の水道水に悪影響を与えるのであった。

 多摩川の最上流の枝川のひとつである山梨県に属する泉水谷(せんすいだに)流域はすでに東京府の公有林であったが、最大かつ最重要の水源域である一之瀬川(多摩川最上流域の別称)一帯は山梨県が所有していた。そこで、尾崎は山梨県と粘り強い交渉をおこない、1912年(明治45)3月、当時は萩原山と呼ばれていた広大な水源地一帯を譲り受けることに成功した。そして同年7月、尾崎は偉大な実績を残して市長を退任した。

 尾崎の決断によって東京の水問題は解決の糸口を見出すことができた。以来、荒れ果てた水源域には植林・造林、崩壊地の修復などの手が入り、徐々に美しい混交林の森を形成するようになった。1963年(昭和38)、尾崎の栄誉を称える写真の「尾崎行雄水源踏査記念」碑が、一之瀬川と泉水谷との合流点付近に建てられた。それはR411と泉水谷を管理するための林道とが交わる丁字路のすぐ横にあり、広くはないが駐車スペースもある。

 林道には三条新橋が架かっている。この辺りから多摩川上流の通称は丹波川から一之瀬川に変わり、泉水谷以西と一之瀬川以西は山梨県甲州市に属することになる。ただし、R411は一之瀬川の左岸側を走っているため、もう少しだけ丹波山村を進むことになる。

 尾崎行雄の記念碑までR411は大方、西進してきたが、記念碑の先で北に向きを変える。西には鶏冠山(1716m、黒川山の別称)があるからだ。その山は大菩薩連嶺の最北端に位置し、標高はそれほどでもないが裾野が広い。かつての技術ではとてもその山腹にトンネルを掘ることはできなかったからか、R411はその山を避けるように、川の流れにしたがうように山の北側に迂回しているのだ。

 旧道は一之瀬川の左岸(791m)の崖上(823m)を走っていたが、道の山側は70m以上の高さがある切り立った崖になっており、極めて危険な区間だった。そのため、2018年に「かたなばトンネル」が開通し、落石、斜面の崩落などの危険性は著しく低下したが、反面、渓谷美を望みながらのドライブは叶わなくなった。そのトンネルを出ても、R411はすぐに「大常木トンネル」に入る。旧のトンネル(2010年)は、道路を崖沿いに建設することが不可能な短い区間だけに通っていたが、まだまだ急なカーブがいくつか残っていて危険なため、トンネル区間を長くする工事がおこなわれ、2018年に現在のトンネルに移行した。

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一之瀬高橋トンネルの甲州市側出入口

 さらに、一之瀬川と支流の柳沢川の合流点付近には一の瀬橋だけを架けて、あとは切り立った山肌(比高90m)を固めたり防御ネットを張り巡らしたりして崖下に道を通していたが、2011年、その場所近くに写真の「一之瀬高橋トンネル」を建設し、河川の合流点という極めて脆弱性の高い場所をパスすることになった。トンネルの甲州市側の出入り口のすぐ横には、支流の柳沢川が流れている。

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この流れのすぐ下側に、心霊スポットとして知られている「おいらん淵」がある

 一之瀬高橋トンネルを出たところに架かる橋上から柳沢川を撮影したのが上の写真。この川の左岸側に2011年まで通じていた旧道があり、今は使用されていない一の瀬橋の傍らに「おいらん淵」の碑がある(そうだ)。旧道との合流点付近(橋の西詰)には車を数台とめることの可能なスペースがあり、いつそこを通過しても、最低でも1、2台は車やバイクがとまっている姿を目にする。現在、一の瀬橋に至る旧道の路面は損傷が激しく、また切り立った崖からは無数の落石があり、さらに崩壊箇所もいくつかあるため、車はおろか人の通行も禁止されている。それゆえ、心霊スポットとして名高い「おいらん淵」に行くことはできなくなっている。

 しかし、侵入不可とするために設けられたフェンスの端のネットには人が通れるだけの穴が開けられている(人為的)ので、落石に襲われる危険を覚悟した「好き者」は、その穴を潜り抜けて300mほど歩き、「おいらん淵」まで出掛けて、「亡霊に遭遇する」という「恐怖」を味わうのだ。

 甲斐の国には金山が多く、武田家の繁栄はこの豊富な金のお陰だったとする説をよく聞く。代表的な金山として、富士川(ふじかわ)方面にある「湯之奥金山(中山、内山、茅小屋の総称。下部温泉の奥にある)」と、黒川山(鶏冠山)の谷筋にあった「黒川金山」のふたつがよく知られている。後者の黒川金山多摩川の水源域にある。武田家の金探しは黒川ではなく、まず一之瀬川流域でおこなわれていた。が、砂金は見つかるものの本格的な採掘をおこなうほどの量ではなかった。柳沢川流域や竜喰(りゅうばみ)谷でも同様で見通しは明るくなかった。黒川の谷筋では他の場所より砂金の量が断然に多かったことが判明したため、一之瀬川や柳沢川などでの探索を断念し、総力を黒川谷に集中して本格的な採掘がおこなわれることになった。

 最盛期には「黒川千軒」といわれるほど多くの人々が集められ、「金山衆」と呼ばれる土木技術者(もっとも有名な人物が江戸時代にも活躍した大久保長安)の指導で大量の金が掘られ、武田信虎・信玄・勝頼の軍資金を支えた。こうした場所には当然のごとく「女郎」が集められた。用済みとなった女郎は、金山の秘密を守るために断崖下の谷に落とされ殺害されたという言い伝えがあった。そうした遊女の悲劇話がいつしか「おいらん淵」伝説となったようだ。黒川金山跡は国の史跡に指定されているので、多くの学者・研究家によって現地調査がおこなわれているが、金鉱の採掘跡や住居跡はよく残っているものの、黒川谷に遊郭があったことを示す遺物は一切、発見されていないとのことである。

 「おいらん淵」伝説には明らかな誤りが2つある。ひとつは「おいらん」が間違いで、「おいらん」とは吉原遊郭の高級遊女を指すので江戸時代以降の呼び名であり、戦国時代にはそんな言葉はなかった。せめて「女郎淵」や「遊女淵」の名であれば少しは信憑性が増すのだが。もうひとつは、「おいらん淵」の場所で、伝承されているところは1、2キロ上流部の「ゴリョウの滝」付近とされている。つまり、現在「おいらん淵」とされ、多くの人々が心霊スポットと思い込んでいる場所は、後世の作り話によって設定された場所なのだ。まったく関係のない場所で多くの人々が「心霊現象」を体験する滑稽さ。恐怖は人の外にあるのではなく人の内部から生まれる。そのことに私は興味をいだく。

 一之瀬高橋トンネルからR411は丹波山村を離れて甲州市に入り、柳沢川の左岸近くを柳沢峠方向に進む。今度は行く手に藤尾山(天狗棚山、1606m)が形成した複雑な尾根筋が急な角度で迫ってくるため、道は2つのヘアピンカーブを造ってそれらをかわす。相当に見通しの悪い場所になっているため、そこでもトンネルで尾根筋をパスする計画が進んでおり、予定では2029年に改良工事が完成するとのことだ。

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落合集落を走るR411。写真は丹波山村方向を望んだもの

 ヘアピンカーブの先から少し視界が開けてくる。わずかではあるが平地があり、小さな集落(藤尾地区)が見える。標高1060mほどの場所で、R411が集落に出会うのは丹波山村の中心地以来である。さらに少し進むと落合集落があり、そこは藤尾よりはやや規模の大きい集落である。北からは高橋川と名付けられた小川が柳沢川と落ち合うために「落合」と名付けられたのだろうか。この集落に「東京都水道局水源管理事務所落合出張所」(標高1118m)がある。

 写真にある標識から分かる通り、落合出張所の近くには一之瀬高原に至る林道があり、多摩川の源流域まで進むことができる。出張所の真北を地図上で辿ると、多摩川の最初の一滴が生まれる水干(みずひ、標高1864m)があり、その直上に笠取山(1953m)がそびえている。 

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R411から鶏冠山の山頂付近を望む

 落合出張所辺りから視界はさらに開けてくるようになる。ダラダラと続く坂を上ると、左手に「鶏冠山落合登山口」の標識があるのが見て取れた。その先に広めの路肩があったので車をとめて、鶏冠山が望める場所(標高1160m)を探した。

 山梨には「鶏冠山」は2つあり、どちらも山頂の姿かたちがニワトリの「とさか」に似ているのでそう名付けられたそうだ。ひとつは前述した金山があった黒川山の別称がある鶏冠山(けいかんざん)で、もうひとつは甲武信ヶ岳(2475m)の南にある鶏冠山(とさかやま、山梨市)で、そちらは山容が相当に荒々しいためもあってクライマーに人気がある。

 上の写真は黒川山のほうの鶏冠山。ピーク付近はやや急峻だが、山裾は比較的なだらかで、とりわけ山の西側は傾斜が緩いこともあって、R411は視界が開けた場所を走ることが可能なのだ。道からは柳沢川の姿を見て取ることもできるが、その姿は優しい高原を流れる小川といった風情で、丹波川や一之瀬川が見せていた厳しい峡谷を感じさせるところはまったくない。 

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R411はヘアピンカーブを形成しながら上り下りする

 それでも、西からはときおり急峻な尾根が迫りくる場所があるので、そんなところではヘアピンカーブを造ってR411は標高を稼いでいく。写真は標高1280m地点から上ってきた道を振り返りみたもので、この下方に2つのヘアピンカーブがある。数台のバイクはかなり速いスピードで曲路に進入していった。

柳沢峠から今までとは異なる景色が展開される

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柳沢峠は明治時代に入ってから開削された

 高原を走るR411は近年になって道がよく整備され、道幅は広くなり新しく舗装された路面には凹凸が少ない。こうした道を上り続けてくると、写真の柳沢峠(標高1472m)にたどりつく。

 今でこそ柳沢峠が青梅街道の最高点であり、峠からは一気に坂を下って甲府盆地に入っていくが、この柳沢峠越えの道が開発されたのは明治時代に入ってからで、それ以前は大菩薩峠(1897m)越えが青梅街道のルートであった。かつての青梅街道は甲州裏街道とも呼ばれ、甲州街道の関所を通りたくない人(腕に入れ墨がある犯罪人など)にも利用されていた。そのルートについては後述するが、仮に丹波山ルート(もうひとつは小菅ルート)を使うにせよ、丹波山村の「のめこい湯」がある辺りから青梅街道は山道に入るため、一之瀬、高橋、藤尾、落合などは、まともな道が通じていない隔絶集落だった。

 そこで1873年(明治6)、山梨県令に就いた藤村紫郎はそれらの集落まで繋がる道を開発するための「道路開通告示」を発し、裂石(さけいし、大菩薩峠への登山口がある場所)から丹波山に通じる新たなルートの建設計画をスタートさせた。といっても、当時の技術ではすべて「手掘り」でツルハシや槌を使って山肌を開削していった。

 完成年次は資料によって異なり、78年説、79年説、80年説などがある。開通の祝典がおこなわれたとする関係者の記録(自伝や回顧録など)は残っているので完成年の同定は可能と思われるのだが、当時の役所は今の政府同様、文書保存という概念は有してなかったのかもしれない。この工事の完成によって青梅街道の最高地点は大菩薩峠から柳沢峠に変わった。なお、この峠道が自動車道となったのは、ずっと後の1960年(昭和35)のことであった。

 峠は地域の分かれ目になることが多い。大菩薩峠は小菅と塩山(現在甲州市)、小仏峠武蔵国相模国笹子峠は大月と勝沼(現在甲州市)との境だが、柳沢峠は近代に入ってから開発されたものなので、峠のこっちも向こうも甲州市である。

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峠にあった水道局の石標

 柳沢峠は人為的に造られたものであるにせよ、それに至る道は川の谷筋を利用してルート開発がおこなわれている。峠の北側には柳沢川、南側には重川(おもがわ)があるが、柳沢川は多摩川水系、重川は富士川水系なので、柳沢峠が重要な分水界であることは事実だ。それゆえ、柳沢峠の柳沢川側には写真の石標が建っており、そこら一帯が東京の水源林であることを誇示している。

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駐車場にとまっていた水道局の車

 峠の傍らには駐車スペースがあり、トイレに急ぐ人、峠の茶屋を利用する人、近くの山林を散策する人などの車がとまっていたが、その中に写真の水源管理事務所の車もあった。周辺の山林をパトロールするためか、トイレに駆け込んでいるのかは不明だが。

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峠から望遠レンズで富士山を望む

 本項の冒頭の写真は、柳沢峠の傍らに設えられた小さな展望デッキからの眺めだが、木々や周囲の山々が邪魔になって、それほど視界が効く場所ではない。それでも、富士山が見える場所に設置されているので、立ち寄ってみる価値はある。

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大菩薩ラインはヘアピンやループを使って谷筋を下る

 峠を越えて甲府盆地に向かう旧道の下り坂は、重川(おもがわ)が形成した谷底を這うように造られた道なので、坂は急でかつヘアピンカーブが多数あった。交通量はそれほど多くないにしても観光客がよく使う道なので危険性は高かった。それもあってか、近年は新道の整備が進んでおり、道は幾度も大きなカーブを造りながらも、できるだけ傾斜がゆるやかになるような設計になっている。快適な道である。

 写真から分かる通り、道は谷底近くではなく山の中腹に設えられ、あるときは大きなヘアピン、あるときはループを形成しながら標高を下げて(上げて)いく。このため、谷底を這っていた道では視界が開けてはいなかったが、今では遠望することも可能になった。景観に気を取られていると危険ではあるが。

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下り道の途中に車をとめて富士山を眺める

 新道になって路肩のスペースにも余裕が出来たので、適当な場所に車をとめて上の写真を撮ってみた。これからのR411は、富士山を望みながら甲府市街へと進んでいくことになる。

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閉館になって久しい介山記念館

 裂石温泉の看板が見える場所の先に駐車スペースがある。その対面にもスペースがあり、地図で確認すると、「裂石観音」の表示があった。その一角に建てられているのがあ、写真の「大菩薩峠・介山記念館」である。建物は新しめで、傍らには「机龍之介」の像もあった。だが、記念館は閉鎖されているようで人の気配はまったくなかった。龍之介だけでなく、記念館も「音なしの構え」だった。

 裂石温泉には「雲峰荘」という宿があるが、この記念館はその宿の主人が自費で建造したらしい。調べたところによるとかなり貴重な資料が集められていはずなのだが、県の観光課との対立が生じたためか地図にはまったくその存在は記載されていない。グーグルマップでも、「裂石観音」の表記はあるが「介山記念館」の名はない。そのためもあってか訪れる人は少なく、結果、閉館されてしまったようだ。『大菩薩峠』ファンの私としては、誠に残念な思いがする。 

大菩薩峠に触れるために上日川峠を目指す

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大菩薩峠入口交差点

 介山記念館の見学が叶わなかった私は、気を取り直してR411に戻った。大菩薩ラインが形成した最後から3番目(柳沢峠から数えて)のヘアピンカーブを曲がった先に見えたのが、写真の「大菩薩峠入口交差点」である。

 今回はR411を辿る徘徊だが、介山記念館を見学できなかった代わりとして丁字路を左折して大菩薩峠を「目指す」ことにした。県道201号線(塩山停車場大菩薩嶺線、r201)を進んでも大菩薩峠に至ることはできないが、峠に近づくことは可能だ。このr201は冬期に閉鎖されてしまう(昨年は12月10日から)し、かつては進入時間規制もおこなわれていたので、通る機会があまりない道なのだ。私がこの道に入るのは5年振りである。

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大菩薩峠登山口バス停

 交差点を曲がったすぐのところに写真の「大菩薩峠登山口」バス停(標高893m)がある。大菩薩嶺登山ではなく大菩薩峠登山であることが興味深い。裂石から柳沢峠を越えて丹波山に至る道ができる前は、私がこれから進むr201のある道筋が大菩薩峠(1897m)に至る(すなわち旧青梅街道)ルートだった。それゆえ、このバス停が存在する場所は、「これから大菩薩峠を目指して頑張って登っていくぞ」と気合を入れるところなのだ。なにしろ、比高(高低差)は約1000mもあるのだから。 

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県道201号線を上って上日川峠を目指す

 登山道(旧青梅街道筋)は途中から尾根筋を進むことになるので、r201からはまもなく離れる。一方、道路は一気に上り詰めることは不可能なので、曲路を形成しながら徐々に高度を稼いでいく。地図を確認すると、r201には裂石から終点の上日川峠(かみひかわとうげ、標高1584m)まで24か所ものヘアピンカーブが存在する。写真は終点に近い場所を撮影したものだが、これは上り下りする車の邪魔にならないような場所を選んだからであって、道の半分以上は車がすれ違えないほどの幅しかなかった。実際、下ってくる車とすれ違うために5回ほど道幅が広い場所までバックすることを余儀なくされた。そのすべては、対向車が幅広の場所で退避せず、しかも無灯火で突進してきたことによる。近年、アホウな運転手が激増している。困ったことである。

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上日川峠にある道路標識

 写真は上日川峠に建てられている道路標識。標識から分かる通り、峠方向に車が入ることのできる山道はある(標高1705mまで)が、それは登山道のところどころに山小屋があり、登山者の救助などに使用する車ための専用道なので、一般車両は進入できない。峠の周辺にはかなりの数の車がとめられる無料駐車場があるのだがほとんど満車状態で、路肩にとめている車も数十台はあった。

 峠の先は県道218号線(大菩薩初鹿野線、r218)になっていて、こちらはr201に比べるとはるかに道幅は広く路面もよく手入れがされている。何しろ、観光バスや路線バスも上り下りするぐらいなので。日川(ひかわ)沿いを走るr218は国道20号線(R20、甲州街道)に合流しており、新笹子トンネルのすぐ近くに出ることができる。路線バスは中央線の甲斐大和駅からやってくる。

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大菩薩の宿・ロッヂ長兵衛

 上日川峠には写真の「ロッヂ長兵衛」がある。宿泊だけでなく休憩所としても利用できるらしい。設備もよく整っており「山小屋」というよりペンションという感じとのこと。私が仮に大菩薩登山をおこなうにしても日帰りで十分なのでここを利用することはないだろう。が、好ましい評判を見聞きするにつれ、「そのうちに利用したい」とは思わないが、「以前に利用すれば良かった」という少しの後悔はなくもない。

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登山道の入口にある登山時間指標板

 ロッヂの横に登山道があり、その入口に写真の案内板がある。それによれば、大菩薩峠までは1時間15分である。比高は300mほどなので、高尾山よりも楽かもしれないと思ってしまった。大菩薩の頂上まではさらに65分もあるので、そこまでは考える必要はまったくないが、峠までなら「ありかも」。もっとも、「コロナ禍が収まれば来年の5月頃にチャレンジしたい」と考えているうちは、まず実現しそうもない。来年の事を言えば、鬼だけでなく菩薩も笑うだろう。

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上日川峠から大菩薩ラインを望む

 峠の駐車場からは「大菩薩ライン」が見えた。R411は、あのような曲路を形成しながら上り下りしているのだ。あの道を下って裂石に出て、そこからr201を上ってこの峠まできたのだった。

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上日川峠から南アルプスを望む

 峠からは南アルプスの連なりも視認できた。雲の上に雪を纏った岩肌を見せているのは農鳥岳(標高3026m)、間ノ岳(3190m)、北岳(3193m)の白峰(白根)三山だ。この山並みも富士山同様、R411を甲府市街に進んでいくときによく視界に入る。大学時代にこの山々に登ることを友人に誘われたが、私には高尾山が精一杯だったので丁重に断りを入れた。山は望むためにあり、臨むためにあるのではない。

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大菩薩湖と富士山

 上日川峠ではUターンせず、もう少しだけ県道を進んでみた。先述したように、峠の先はr218になり、道は格段に走りやすくなる。先に進んだ理由は簡単で、峠からは大菩薩嶺大菩薩峠も見ることはできないからだ。

 上日川峠の南側は下り斜面になるものの、r218は大菩薩嶺の8合目付近をしばらく東方向へ進むので、少しだけ上り道となり1625m地点まで進んで、それ以降に南に向きを変えて下っていく。下りはじめた先に見えてくるのが写真の大菩薩湖で、まずは湖の北岸に出てみた。ここからは富士山がよく見えるからだ。 

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大菩薩峠を望む

 大菩薩湖の北岸に至る道には大菩薩峠を間近に見ることができる場所がある。大菩薩嶺の南面にはミヤコザサに覆われる草原が広がり、カラマツやハリモリはまばらに育っているのみである。山の斜面が草原化するのは、過剰な焼き畑、地質、強風などが原因であることが多いようだが、大菩薩峠一帯が草原化した理由は不明だそうだ。

 草原化されたことで、登山客や峠を行き交う人には富士山をはじめとして周囲の山々の姿に触れることができるという楽しみがある。ただし、風を遮るものがほとんどないので大風のときは苦労するそうだが。

 「大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実らすと申し伝えられてあります。」

 これは中里介山羽村出身)が著した大河小説『大菩薩峠』の書き出しだ。このあとにも甲州裏街道の解説が少し続くが、第二節に机龍之介(竜之介)が登場し、峠で休んでいた老人を辻斬りする場面となる。

 『大菩薩峠』は原稿用紙15000枚にも及ぶ世界最大の「通俗大衆小説」と言われるが、介山自身は「大衆小説」と呼ばれることを嫌い、自らは「大乗小説」と語っていた。確かに、登場する人物はひとり(お松)をのぞいて、善悪では測り切れない価値意識を有し多面的な行動をおこなう。この小説を題材にして語り始めると本ブログでは10回程度の量が必要になるのでここではこれ以上、触れることはしない。

 大菩薩峠の名を『大菩薩峠』(小説ではなく紙芝居か映画)から知った人は多い(私もそのひとり)が、実は、小説では冒頭の部分以外に「大菩薩峠」はほとんど出てこない。しかし、「大菩薩」の名前が象徴する出来事は全編に渡って登場する。何しろ、「大乗小説」なのだから。そう考えると、題名は『大菩薩峠』以外にはなく、これが『柳沢峠』であったなら、まったく意味不明のものになるし、おそらく人気も出なかっただろう。

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石丸峠を望む

 大菩薩峠のすぐ南南東には写真の石丸峠(標高1910m)がある。写真の右手あたりに石丸峠があり、その左の小高いピーク(1990m)の左手に大菩薩峠がある。

 先述したように、かつての青梅街道は大菩薩峠を越える道筋をとっていた。江戸・東京からは現在の奥多摩湖西辺まで進み、前回に挙げた深山橋のところで道は二手に分かれる(もちろん、当時は奥多摩湖も深山橋も存在しない)。ひとつは丹波山ルートで、もうひとつは小菅ルート。丹波山ルートは直接、大菩薩峠に向かい、小菅ルートは小菅川沿いを遡上し、途中から尾根を伝って石丸峠に出てから大菩薩峠に向かう。大菩薩峠からはまた一本道になって上日川峠、裂石と下る。

 現在でも、かつての丹波山ルートや小菅ルートの大半は大菩薩峠登山道として利用されている。最初期の青梅街道は小菅ルートが主だったそうだが、途中からは丹波山ルートがメインになったと言われている。どちらにしても、厳しい道程であることは変わりない。

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上日川ダムから大菩薩嶺を望む

 折角なので上日川ダム(1999年完成)にも立ち寄った。写真はダムの堤の上から大菩薩嶺の姿を望んだもの。

 大菩薩湖は人造湖で、大菩薩連嶺の小金沢山(2014m)をはさんだ東側にある葛野川(かずのがわ)発電所の「松姫湖」と対になる湖である。葛野川発電所は揚水式発電をおこない、その上池が大菩薩湖で下池は松姫湖となる。夜間電力を用いて松姫湖の水を上にある大菩薩湖に送り、昼間は大菩薩湖から松姫湖に水を落とし、その水流で発電をおこなう。発電量は120万キロワット(最大出力は160万キロワット)もあり、大型原発一基分に相当する。

 上日川ダムの標高は1486m、葛野川ダムは740m。上池と下池との有効落差は714mもある。それだけに膨大な出力が稼げるので、120万キロワットもの発電が可能になっている。なお、日川は富士川水系葛野川相模川水系と、上池と下池の水系はまったく異なっている。この点も揚水式発電所としては珍しいらしい。

 上日川ダムには大菩薩を間近に目にするために出掛けることがよくある。葛野川ダムには出掛けないが、下流葛野川は私のアユ釣りのホームグラウンドである。

R411に戻って甲府市街を目指す 

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甲府盆地に向かってひたすら下るR411

 R411に戻り、再び甲府盆地へ落ち込むことにした。R411としては最後となる2つのヘアピンカーブがあり、そのカーブに入る手前に車をとめて、そこから望むことが可能な範囲の甲府盆地の姿を撮影してみた。

 街並みは甲州市塩山(旧塩山市)であり、塩山の名の由来となった「塩ノ山」(標高553m)も見て取ることができた。撮影地点の標高は833m、ゴール地点である甲府警察署前交差点は266m。まだまだR411は下り続けるのだ。

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R411から大菩薩嶺を望む

 R411最後のヘアピンカーブの場所に、写真の甲州市交流保養センター「大菩薩の湯」があり、そのほぼ真上に大菩薩嶺がそびえている。R411はこの大菩薩嶺を背負いながら甲府市街に進むのでその姿を目にすることはできないが、私はときおり車をとめて振り返り、菩薩様を拝見する。大菩薩を何度も眺めると、その山容は菩薩に見えてくる。というより、菩薩が存在しているとしか思えなくなる。もっとも、菩薩の姿などありはしないはずなのだが。

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甲府盆地の端を眺めながら大菩薩ラインを下る

 ずいぶんと下ってきた。塩ノ山の姿もよく分かる。その山の向こうには、雁坂峠(実際には雁坂トンネル)を下ってきた国道140号線(秩父往還)が走っている。R140も魅力的な3ケタ国道である。

 下るごとに甲府盆地の広がりを、よりはっきりと確認できるようになる。少しずつ盆地の全容に迫っていく。この点も、R411を走る喜びのひとつなのである。

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小田原橋から大菩薩嶺を眺める

 重川の右岸側を走ってきたR411は、写真の小田原橋で左岸側に移る。三叉路脇(標高626m)に車をとめ、再び大菩薩嶺を眺めた。

 手前にある黄色の警告表示板が目に入り、その文言の間違いに気が付いた。いや、それは2005年以前からあるもので、いまだ訂正がおこなわれていないだけかもしれない。それにしては新しいものに見える。

 そのことが気になり始めると、もはや私には、大菩薩嶺は非存在的存在になってしまった。

 些細なことが大いに気に掛かる。まだ、修行が足りないようだ。合掌。