徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔21〕これっきりですか?ここは横須賀

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浦賀港の渡し舟

横須賀には「軍港」と「ヨコスカ」以外の顔もたくさんある

 はるか以前に、横浜市金沢区に少しの間だが住んだことがある。金沢区のすぐ南側は横須賀市で、かつ三浦半島へは取材、磯や堤防釣りでしばしば出かけていたため、横浜市民でありながら、横浜よりは横須賀のほうが身近な存在だった。先の「ヨーコ」の項では横須賀市の一面を紹介したが、あのときのヨコスカは私がよく知っている横須賀とは少し異なる有様をあえて取り上げた。横須賀市街をうろつくと「軍港」とアメリカ化した「ヨコスカ」という生活様式が眼前に迫ってくるが、それらはさほど、私の関心を惹きつけなかった。もちろん、米軍や自衛隊の基地、首相官邸で結婚記者会見をした間抜けな代議士の存在について、私は否定的な意見を有している。しかし、これに類似したことは何も横須賀だけに限ったことではなく、日本全体を覆う「宿痾(しゅくあ)」ともいうべき事柄なので、ことさら横須賀の項で取り上げる必要性をとくに考えてはいない。それより、「軍港」でも「海軍カレー」でも「ネイビーバーガー」でも「小泉」でも「ドブ板」でもない、私がより好ましいと思ってきた横須賀の表情を取り上げてみたいと思い今回、改めてその地を訪ねてみた。

 横須賀市はかなり長い海岸線を持つ。東京湾側はもちろんのこと、相模湾側にも横須賀市は面しているので、「海の町」であることは事実だ。というより、横須賀のいう名前自体が「横に長い砂浜」を意味しているので、これは当然のことかもしれない。千葉県の鴨川市には「横渚(よこすか)」という地名や交差点名がある。東京方面から鴨川市へ車で出掛ける人であれば、多くの場合、「鴨川道路」を南下して鴨川市街を目指す。この道は外房を走る国道128号線に突き当たるが、その周辺が鴨川市の中心部の横渚で、交差点名も横渚である。お目当て?の「鴨川シーワールド」は前原横渚海岸にある。そこにも、横に長い砂浜が広がっている。

 福島県には須賀川市がある。この須賀川は「中通り」にあり、すぐ北側は郡山市だ。つまり、ここは内陸なので海には面していない。しかし、市内には東北を代表する一級河川である阿武隈川が流れている。ここには大河川が造った広く長い砂(小石?)場があったので「須賀」と名付けられたのだろう。静岡県掛川市には「遠州砂丘」と呼ばれる長大な砂浜海岸がある。ここは「大須賀海岸」と名付けられているが、かつては横須賀といわれ、そこには「横須賀藩」があったし、「横須賀城跡」が残っている。

 このように、横須賀は神奈川県の「専売特許」ではなく、長い砂浜を有する場所ではよく使われている地名なのだ。それはちょうど、旧国府があった場所はどこでも「府中」と呼ばれていたのと同じごとく、にだ。

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馬堀海岸からはショッピングモールが林立する横須賀平成町がよく見える

馬堀海岸と走水

 今回の小さな旅は「馬堀海岸」から始まった。長い間、「横浜横須賀道路(通称横横道路)」は佐原ICまでだったが、2009年に馬堀海岸ICまで延伸された。この横横道路は国道16号線のバイパスという位置付けで、北側は無料区間である「保土ヶ谷バイパス」につながっている。ところで、国道16号線は東京環状道路なのだが、横須賀の観音崎と対岸の千葉県富津市との間は未通であり、完全には環状になっていない。この間には「浦賀水道」があり莫大な建設費が必要なため、工事は永遠におこなわれないだろうと考えられるが、将来、地元出身の代議士が首相になった場合はこの限りではないかもしれない。景気対策の美名のもとに。

 この馬堀海岸は、私がよくこの辺りを訪れていたときには堤壁と消波ブロックだけの海岸線だったが、現在では広い幅を有する堤防が設けられ、その上には遊歩道が整備された。横須賀の海岸線は、一番北側の「追浜(おっぱま)」付近は工場・倉庫街、その南は自衛隊・米軍基地や施設、市役所以東は平成埋立地に造られた大型ショッピングモール群となり、自然海岸線はまったく残っていないが、その東端にある大津港以東は、堤防・消波ブロックに囲まれていたにせよ、かつてはここに横須賀=長い砂浜があったことを思い起こさせた。それが、この海岸線も綺麗に整備されてしまったことで、人工海岸線は馬堀海岸まで延び、写真のように、この東端だけがかつての姿を残している。

 もっとも、整備される以前の海岸線も実は埋立後のもので、元々は砂浜海岸だったのであり、現在、国道16号線が走っている場所は海の上か、砂浜の波打ち際だったと考えられる。したがって、写真の岩場の東側こそが元来の海岸線の始点であると言えなくもない。このことは、グーグルマップの航空写真図を見るとよくわかる。京浜急行馬堀海岸駅の北側に広がる住宅地は、明らかに埋立地上に造られたという様相が見てとれる。

 写真の辺りの場所からは三浦丘陵が海岸線まで迫っていて、それまで埋立地の平坦な場所を走っていた国道16号線は、明らかに起伏が感じられる道になり、カーブもきつくなる。南側の丘陵上には防衛大学校があり、カーブの先には旗山崎という岬がある。その岬に抱かれているのが走水港だ。

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遊漁船や漁師船の基地である走水港。向かいに見えるのが旗山崎

 この港の所在地は潮がよく動くし、海底は砂地混じりの岩礁帯なのでクロダイ釣りには絶好のポイントと考えられるのだが、かなり前から、というより私がこの場所を知ったときにはすでに「釣り禁止」になっていた。職漁師船の重要な基地なので、釣り人には荒らされたくはないと以前から考えていたのだろう。残念だが、それは正しい判断だったと思える。

 「走水」の地名は、この場所からは地下水が豊富に出たことに由来するらしい。この辺りの地質は、古い逗子層(鎌倉、逗子、三浦半島北部などの地表)の上に新しい横須賀層が乗っている状態である。この横須賀層は上部が礫層で下部が砂泥層のため、この間に水がたまりやすい。それで湧水が多いのだと考えられている。実際、明治初期にフランス人技師のヴェルニーはこの湧水を横須賀製鉄所の用水として使うため、レンガ造り貯水池などを残している。現在も水は湧いており、「ヴェルニーの水」(走水水源地)として地元の人などに利用されている。

 一方、『記紀』には、日本武尊が相模から上総に渡る際、「こんな小さな海など一跳だ」といって神の怒りをかったために海が荒れ、それを鎮めるために弟橘媛が命を投げ打って入水したことで渡海できたという故事から、「走水」という名が付けられたという説もある。

 この走水と対岸にある富津岬との間は東京湾ではもっとも狭い場所なので、当然のごとくこの辺りの潮はとても速く動く。それゆえに「走水」と名付けられたという話を聞いたことがある。私自身はこの説がもっとも有力だと思っているのだが。

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この神社は日本武尊弟橘媛命を祭神としている

 しかし、走水神社の説明によると、弟橘媛命の入水により風も波も穏やかになり、船は走るように進んで無事に上総国に着いたことから走水と呼ばれるようになった、とある。つまり、船が水の上をスイスイと走ったから「走水」と言われるようになったと考えているようだ。ここでは「入水」そのものではなく、入水の結果を強調しているのだ。もっとも、由来を『記紀』から採っている点には変わりない。

 上記の三説のどれが正しいのかはわからない。第二説では『記紀』の記述を取り上げて説明しているので、このあたりがもっとも適切な解釈ように思える。が、しかし、「馬堀」の語源を調べると、第一説が妥当であるとも思えるのだ。

 「馬堀」の語源は、主なものとしては3つある。ひとつは、この辺りには馬が多く放牧されていたというもの。二つめは、丘陵(防衛大がある辺り)から海岸線を眺めると「堀」のように見えるからというもの。三つめは、馬が足で地面を掘ったところ、そこから水が大量に湧き出てきたことからというもの。ひとつめは問題外として、二つめはかつての海岸線を想像すると考えられなくもない。前述のように馬堀海岸は埋立てられて現在は直線的な海岸線になっているが、丘陵のふもとのラインは結構、エグれた曲線になっている。名付けられた時期は当然、埋立て前だろうからこの曲線を「堀」に見立てることは可能だ。しかし、かつては砂浜だったらしいので、そうすると「堀」とは考えない蓋然性は高い。なおこの説の場合、「まぼり」の「ま」は「馬」ではなく「真」であったとするようだ。「真」にはとくに意味はなく、語調を整えるときに語頭に置かれる場合が多いので、ここでは問題にはならない。

 三つめの「馬が掘った」というのはかなり説得力がある。実際、この地の言い伝えには、上総の暴れ馬が浦賀水道を渡ってこの地に泳ぎ着き、喉が渇いたので地面を掘ったところ清水が湧き出た。それを飲んだ馬は駿馬になり戦で大活躍したというものがあるそうだ。この地には馬頭観音があり、「蹄(ひづめ)の井跡」の碑があり、名馬「池月」の像まである。これだけなら単なる伝承で終わってしまうが、この馬堀の隣にあるのが走水で、先述のように「ヴェルニーの水」が現在でも湧き出しているのである。この説を採れば、「馬堀」も「走水」もその語源は一挙に判明する。だからどうした、と言われると返す言葉は何も浮かばないのだが。

観音崎公園

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浦賀水道の航行を見守る観音埼灯台

 横須賀市で、もっとも東側に突き出た場所が観音崎だ。ここは東京湾の入口にあたるので、航海者にはとても重要な場所となる。浦賀水道東京湾ではもっとも狭く、かつ潮が速い場所なので、大型船舶はここを通過するときは航路幅が制限(右側通行)され、速度も12ノット以下に落とさなくてはならない。以前に何度も述べたように、私は東海汽船を使ってよく伊豆諸島へ磯釣りに出掛けたが、帰途、浦賀水道に入ると船は減速するので、客室内にいても東京湾内に入ったということがエンジン音で分かる。そんな危険個所に観音崎はあるので、高台にある観音埼灯台が船の航行の安全を見守っている。

 観音埼灯台は日本で最初の洋式灯台として1869年に完成している。設計者は走水のところでも挙げたヴェルニーで、レンガ造りの四角な灯台だった。ちなみに、ヴェルニーは千葉県の野島埼灯台や神奈川県の城ケ島灯台なども設計している。いずれの灯台関東大震災などによって倒壊し、写真の観音埼灯台は3代目である。

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観音崎の岩場。遠浅なので磯釣りには適さない

 観音崎一帯は公園として整備され、横須賀美術館観音崎自然博物館、花の広場、レストランなどがある。また、高台一帯には遊歩道も多く、江戸末期に造られた砲台の跡などを見学できる。海岸線にも遊歩道があり、砂浜や岩場に降りることができる。撮影日は真夏日だったので駐車場近くの砂浜では水遊びを楽しむ人々が多く見られたが、遊歩道を少し歩いたところの浜は人影は少なく、写真のように「プライベートビーチ」状態のところもあった。

 岩場が多いので磯釣りでも楽しみたいところだが、周辺の海は遠浅なのでこの手の釣りには不向きな場所だ。磯遊びには適するかもしれないが、何度も述べるようにここ一帯はとくに潮が速いところなので、入江の外に出るのはとても危険だ。のんびりと海にでも浸かりながら、浦賀水道を航行する大型船舶の行き来を眺めるのには最適な場所だろう。

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鴨居港の高台にある能満寺境内には会津藩士の墓がある

 観音崎から浦賀港に移動する途中、鴨居港の高台にある能満寺に「会津藩士の墓」があることを思い出したので立ち寄ってみることにした。20年以上も前になるが、この辺りにはよく取材に来ていたので、細かな道まで覚えているはずだった。が、釣り場としても有名だった「かもめ団地」付近の景観がすっかり変わってしまったため、寺のある場所を失念してしまい、地図で再確認しなければならなかった。ボケはかなり進行しているようだ。

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能満寺から鴨居港を望む

 以前、私がこの高台に来るようになったのは、写真のような景色が望めたからだ。鴨居港は走水港同様、釣り禁止場所だったので、港内をのぞくだけだったが、たまたま山の方を見たとき、「あそこからなら良い景色に出会えるかも」と考えたのが最初だった。折角だからと寺の境内を散策したとき「会津藩士の墓」を見つけたのだった。はじめは浦賀会津藩との結びつきが不明だったが、調べてみると、江戸時代の後期に一時、会津藩観音崎周辺の防衛に当たっていたということが分かった。そのため、走水や鴨居の寺には「会津藩士の墓」があるのだということを理解した。

浦賀港を訪ねる

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浦賀湾は幅が狭いが奥行きがあり、港には絶好のロケーションだ

 観音崎の南西側すぐのところに浦賀湾がある。奥深い入り江なので、港にするには絶好の地形である。江戸幕府は当初、江戸へ出入りする船舶のチェックは伊豆の下田でおこなっていたが、東北地方からの物資を運び込む東廻り航路が盛んになったことなどの理由もあり、1720年、下田奉行所に代わって浦賀奉行所が開設され、以来、浦賀は交易活動の要衝となった。
 19世紀になると異国船の姿が目立つようになったので、浦賀奉行所は交易の管理だけでなく異国船目撃情報の収集もおこなうようになった。そこで、幕府は会津藩白河藩に命じ、会津藩三浦半島側、白河藩は房総半島側から警備をおこなうことになった。会津藩は鴨居と三崎に陣屋を置き、観音崎浦賀湾の出入口にある燈明堂(和式灯台)の背後にある高台に台場(砲台)を築いた。

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和式灯台である燈明堂。観音埼灯台が造られまで東京湾の安全を見守った

 この燈明堂は1648年に建設され、堂内では照明として油を燃やした。当時の建物は崩壊して石垣のみが残っていたが、1989年に復元された。この周辺は公園として整備されている。燈明堂がある燈明崎は、観音崎の岩場よりは水深があるので磯釣り場として一時は結構、人気があった。この日は釣り人の姿は皆無だったが、この岬の周囲には砂浜も数か所あるので、そこでは多くの外国人家族が海水浴を楽しんでいる姿があった。

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御座船をイメージした愛宕丸が活躍する浦賀港の渡し船

 浦賀港は細長い入り江なので、対岸に住む人が反対岸にある病院やスーパーに出掛けるのは結構な遠回りになる。そこで活躍するのが写真の渡し船である。218mの距離を行き来するのだが、地元の住民にとってはとても便利なようで、始まりは1725年ころとされている。つまり、浦賀奉行所ができてすぐのことだ。最初は浦賀や鴨居、久里浜の住民が維持管理していたが、明治に入ってからは東西浦賀の町内会が共同管理し、さらに大正時代には浦賀町の運営になった。1943年に浦賀町は横須賀市と合併したため横須賀市営となり、現在では横須賀市が民間に委託して運営されている。冒頭の写真にあるように、料金は大人・高校生は1回200円だ。

 渡船と聞くと、私の場合はすぐに広島県尾道市のものを思い出す。ここ10年程は出掛けていないけれど、かつては毎年のように尾道を訪れては意味もなく渡船に乗り、尾道水道を行き来した。多い時には1日に5往復したこともある。それだけではなく、夕方や夜にもわざわざ渡船場まで出掛け、帰りを急ぐ人々や自転車、車を乗せた船の灯りを飽きることなく眺めていた。それは映画のシーンのような光景でもあったが、実際、いろいろな映画にその渡船は登場している。見る人たちの旅情をかき立てる風景だからなのだろう。

 「浦賀の渡し」は、そんな尾道の渡船とは比較にならないほど小規模だが、やはり浦賀に来ると、この船のある景色に最低でも30分は見入ってしまう。船の旅は本当に心地良い。時間がゆったりと流れることを実感できるからだ。もっとも、時間が実在するか否かは哲学の永遠のテーマなのだが。

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浦賀港西岸の渡し船乗り場

 渡し船は一艘だけなので、東西どちらの乗り場にいるのかは現場にいかなくては分からない。時刻表はなく、船は此岸にいなくても利用者が乗り場近くにあるブザーを押せば、船はすぐに迎えにきてくれる。もちろん、たった一人の利用でもOKだ。

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船から浦賀湾の出口方向を眺める

 船から湾の出口方向を眺めると、右手に高台が見えるがそのふもとから少しだけ突き出た岬があるのがわかる。それが燈明崎で、その先端部に燈明堂がある。燈明堂ができたのはこの渡し船が開通したときより早い。したがって、夕方にこの船に乗って岬方向を眺めると、燈明堂の灯りが視認できたはずだ。300年近く前にこの渡船を利用した人は、その明かりにどんな想いを託したのだろうか。

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願いが託せる叶神社

 叶神社は浦賀湾の東西にある。どちらも叶神社を名乗っているが、便宜的に東叶神社と西叶神社と呼んで区別している。写真は東叶神社で、西叶より少しだけ規模が大きい。私は西浦賀地区に駐車していたので、渡し船に乗って東浦賀に行き、この神社を少しだけ見学した。

 叶神社は平安時代末期、源氏の再興をを願った京都の文覚上人が応神天皇を祭神として建立したといわれている。これが西叶神社で、建立後、願いが叶って源氏が平家を滅ぼしたので「叶神社」と呼ばれるようになったそうだ。江戸時代に浦賀村が分かれて東浦賀村ができたとき、自分たちにも叶神社が欲しいと思い、勧進して東叶神社が建立されたとのこと。

 最近では、東西叶神社が縁結びの神として人気があるらしい。西叶神社にお参りしてお守りを購入すると2色の勾玉(まがたま)が手に入る。渡し船を使って東叶神社にお参りしてお守りを購入すると2色のお守り袋が手に入る。このお守り袋に勾玉を入れて持っていると良縁に出会えるらしい。つまり、願いが叶う神社という訳とのこだ。話としては極めて単純だが、神社の名前、それに渡し船という「道具立て」が見事である。ここでは、浦賀湾は天の川の役を演じている。さらに燈明堂に灯がともっていたなら、演出度は満点だろう。

 東叶神社の境内には、「勝海舟断食の地」の標柱があった。1860年、日米修好通商条約批准書の交換のため、アメリカの軍艦ポーハタン号とともに太平洋を渡った咸臨丸は浦賀港から出港した。日本人の手で太平洋を渡るのは初めてだったので相当の覚悟が必要だったのだろう。そのため、艦長である勝海舟はこの東叶神社で断食修行をおこなったのだとされている。もっとも、勝は船酔いが酷かったので、断食をして腹をスッキリさせておく必要があったのかも。

ペリー上陸の地、久里浜

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ペリーはこの砂浜に上陸した

 久里浜は平作川が河口部分に造った砂浜海岸で、浦賀湾のすぐ南側にある。南東側に開いた湾なので風にはかなり強い入り江である。平作川の河口付近には開国橋が掛かっており、ここが日本の「鎖国」が終わる端緒を作った場所であることを表示している。

 1853年7月8日(新暦換算)、浦賀沖に現われた4隻の黒船は幕府や人々に衝撃を与えた。浦賀奉行所は与力の中島三郎助を米艦隊旗艦の「サスケハナ」に派遣し、米側の意向はアメリカ合衆国大統領フィルモアの親書を渡すことが目的であることを知った。ペリー側は幕府側の最高位の役人に親書を渡すことを要求したが、幕府側はこれを拒んだ。そこで米側は武装した短艇を出し、浦賀湾の測量を始めた。さらに、短艇ミシシッピ号の護衛の下、江戸の湾内へ侵入するなどの「脅し」をおこなった。それに屈し、老中首座の阿部正弘は親書を受け取ることを決断し、7月14日、ペリー一行は久里浜に上陸した。一行は浦賀奉行所に赴き、親書を渡すとともに「一年後の再来航」を告げた。浦賀を離れた黒船はすぐには引き返さず、江戸が見える横浜の小柴沖(八景島シーパラダイス付近)まで進入し幕府を威嚇したうえで引き揚げた。 

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ペリー公園内にある記念碑

 ペリーが上陸した地である久里浜には「ペリー公園」が整備されている。1901年、日米友好協会が建立した写真の記念碑や、1987年に開館し、昨年にリニューアルされたペリー記念館がある。碑文は伊藤博文の手によるもので、アメリカとの戦争中には敵国の記念碑は屈辱的として引き倒されていたらしいが、戦後にはすぐに復元された。碑文ではペリーを日本開国の恩人と称えている。今では毎年7月にペリー上陸記念式典、久里浜ペリー祭花火大会、開国バザールなどが開催されている。いかにも、激しやすく冷めやすいこの国ならではの一連の動きではある。

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久里浜と金谷とを結ぶ東京湾フェリー

 久里浜といえば、私にとっては「開国の地」以上に「東京湾フェリー」の存在が身近でかつ重要だった。ここしばらくはご無沙汰だが、一時はほぼ毎月のようにこのフェリーを利用していた。1997年にアクアラインができてからは時間的にはそっちのほうが有利になったが、当初は片道4000円だったので、フェリー利用ならば運転からは解放され、のんびりと海の景色を眺めていられるということもあり、まだこちらに優位性があった。が、アクアラインが3000円になるとフェリーの利用回数は少し減り、2009年に800円になるとフェリーの利用はほとんどなくなった。

 久里浜・金谷間は約40分で、料金は片道3990円、往復7100円(5m未満、運転手一人分含む)で、10月からはそれぞれ4100円、7400円となる。運行本数はシーズンにもよるが、基本的には1日12便で、朝夕は1時間に1本といったところ。鴨川や勝浦といった外房に出掛けるときは房総半島を横切って進むためにアクアライン利用が絶対になるが、館山や南房総に出掛けたときは、帰途はフェリーに乗りたくなることがある。また、乗るつもりはまったくなくても金谷港に立ち寄り、フェリーの姿に触れることもある。船の旅はいつでも非日常的な「特別感」があるからだ。

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船を降りても旅はまだ終わらない

 久里浜港に立ち寄ったとき、フェリーの到着を待つために30分ほど港内をうろついた。フェリー港周辺は以前から釣り禁止だったが、漁港の護岸は釣り可で、子供連れや老夫婦がよく車を横付けして竿を出している姿を見かけた。が、今では漁業施設に代わって大型のホームセンターができてしまったため、かつてののんびりとした光景は今はなく、ただ日常化された景色だけが残された。

 フェリーが到着した。平日の日中にも関わらず、降りてくる車の数は想像していたよりも多かった。船を降り、舗装された道路に出た瞬間、人も車も非日常から日常へと移行する。多くの人にとって旅はまだ終わってはいないのだが、旅自体の「質」はここで大きな変化を遂げる。この質的転換を楽しめるのがフェリー利用の醍醐味なのである。

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「くりはま花の国」の入口風景

「くりはま花の国」を散策する

 久里浜のもうひとつの楽しみは「くりはま花の国」の散策だ。久里浜港を見下ろせる高台にあり、その名の通り、四季折々、さまざまの花と接することができる。入園料は無料で、駐車場と園内にある施設の一部が有料となっている。入口は丘のふもとにあるため、移動には結構な体力を使う。一般の公園とは違い、体力を向上させる目的で訪れる人が多いようで、花でも眺めながらのんびり過ごすか、といった雰囲気はない。月曜日以外の10~16時には蒸気機関車型の「フラワートレイン」が運行されているので、苦労せずに丘へ上がりたい人は片道300円で利用できる。ただし、丘の上も起伏は案外激しいので移動は必ずしも楽とはいえない。

 9月はコスモスの季節なので、その開花を楽しみに出掛けたのだが上旬はキバナコスモスばかりで、通常の秋桜は準備中だった。台風15号の影響はかなり大きかっただろうと思われるので、開花状況はウェブサイトで確認するとガッカリ度が少なくて済む。また、駐車場も第一と第二とに分かれており、秋桜目当てならば第一駐車場を利用しないと移動に難儀する。今回は久里浜港の次に立ち寄ったので第二駐車場を利用した。写真はその駐車場から園内に入ったところのもので、ここから長い上り坂が始まる。

 白い花穂を揺らしていたパンパスグラスが陽に輝いていて見ごたえがあった。南米大陸が原産で、草原地帯を「パンパ」と呼ぶことからこの英名が付けられた。標準和名はシロガネヨシというが、その見た目から「お化けススキ」という人も多い。このヨシの周りをコバノランタナペチュニアニチニチソウなどが取り囲み、別にキバナコスモスの一群もあった。

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花の国の高台から久里浜港を望む

 丘を登る途中に展望台がある。久里浜港を一望できる素敵な場所で、ここに来るだけでも坂を上る価値がある。東京湾フェリーがちょうど離岸したところで、適度な場所までバックしてから港を出て、対岸にある房総半島の金谷港を目指す。向かいに見える丘陵は鹿野山やマザー牧場がある場所で、写真にはないが、この右手には鋸山に代表される丘陵があり、そのふもとに金谷港がある。

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久里浜沖にあるアシカ島。かつて、毎週のようにここに通った

 横須賀火力発電所のすぐ沖にある2つの小さな岩礁が通称アシカ島で、灯台のある小さな岩礁が「アシカ島」(右側)、海象観測ステーションのある大きな岩礁が「笠島」(左側)だ。ここへは平作川河口付近から出ている渡船でいく。潮がよく動く場所なので、磯釣りには絶好のポイントで、クロダイメジナ、イシダイが狙える。5~10月はコマセが禁止なので渡らないが、11~4月はクロダイメジナの好期ということもあって、一時は仲間と毎週のように出掛けた。ここで知り合い、その後、磯釣り仲間として伊豆諸島に出掛けるようになった釣り師も何人かいた。私にとって、「磯釣りバカ」への道場的存在だった。 

 手前にあるのが横須賀火力発電所で、かつては東京電力が頭に付いていたが、現在はJERAが付く。東電と中部電力とが50%ずつ出資して作ったエネルギー供給会社だ。現在は新規の発電設備を建設するための整備をおこなっているところで、私がかつてアシカ島に通っていたころの面影はまったくない。アシカ島が混雑するときは、この発電所のすぐ沖にある堤防でも釣りをしたものだったのだが。

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ゴジラは第一作で観音崎沖に出現し、現在は花の国で充電中

 ゴジラは1954年の第一作目に観音崎沖に出現した。そのことから地元では観音崎のたたら浜にゴジラを模したすべり台を作ったところ大人気となった。老朽化して廃されたのち、横須賀市民がゴジラの復活を目指して寄付金集めをおこない、1999年、この花の国の「冒険ランド」で復活を遂げた。高さは9mで、お腹にある階段を上がってしっぽの方に滑り降りる。冒険ランドの遊具施設は現在改修工事がおこなわれているため利用できないが、このゴジラは柵の外にあったので利用は可能かもしれない。中をのぞこうと思ったのだが、改修工事関係者がゴジラの前にいたので、のぞくことができなかった。

 ゴジラの前方には高圧線鉄塔がある。通常であれば鉄塔はこのゴジラに破壊されるのだろうが、他の遊具設備が改修中なので、この日のゴジラは微動だにしなかった。それにしても、ゴジラには鉄塔や高圧線がよく似合う。

津久井から野比へ 

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津久井浜から久里浜方向を望む

 久里浜の南側から三浦市の金田漁港まで長い弓形の砂浜が続く。東から野比海岸、津久井浜、三浦海岸、金田海岸と名付けられている。このうち、前二者が横須賀市に属する。写真は、ちょうど、横須賀市三浦市の境目から撮ったものだ。もちろん、市境は便宜的なものなので、海岸線が分けられていることはない。

 津久井浜や三浦海岸ではウィンドサーフィンを楽しむ人で賑わっていた。津久井浜側よりも三浦海岸側のほうが人数は圧倒的に多かった。海に違いはないので、多分、駐車場が三浦海岸側に圧倒的に多くあるため、単に利便性の違いに過ぎないと思われるが。私にはまったく興味がないので、理由はそれしか思い浮かばなかった。 

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津久井にあった庚申塚

 津久井浜から少し内陸に入ってみた。「三浦富士」の存在が気になったからである。富士があるのは知っていたが、本家の富士のような形の丘はこの一帯では見かけたことがなかったので、今まで見たことのなかった角度から丘陵地帯を望んでみようと考えたからだ。道はどんどん細くなり、しかし、たまにある路肩がやや広いスペースには決まって畑仕事に精を出す農家の軽トラックが止まっていた。ナビではこれ以上先には道がないというところに差し掛かったとき、写真の庚申(こうしん)塚が目に留まった。軽トラが前後から来ないことを確認しつつ、あわてて撮影した。

 あとで分かったことだが、庚申塚の先にある大きな木の向こうの丘が三浦富士のようだ。撮影の際、そちらに向かう細い道があることは目に入ったのだが、軽トラではない私の車では両側をこすりながら走らねばならないと思われたので、それを行くことは断念した。やはり、車の移動では、細かな旅では肝心なところで機動力が発揮できない。

 庚申塔はどこにでも見られる習俗のひとつで、民間信仰の一種と考えられている。庚申とは十干十二支の組み合わせで、庚は金の陽、申も金の陽を表わすため、庚申の日は金気が満ちて人の心が冷酷になりやすいとされたらしい。このため、庚申の日(60日に一日)は禁忌の日とされ、心穏やかに過ごさねばならないと考えられた。こうした戒めがなぜ庚申塔として各地に置かれているのかは不明だが、三浦半島では丘の上に写真のようなまとまった塔が置かれているのをよく目にする。庚申塔が丘にあるので庚申塚とも呼ばれている。そういえば、秩父地方でも何度も目にした。信仰というより習俗と考えれば、深く意味を探る必要はないのかも。挨拶だってひとつの習俗にすぎないのだから。なぜ「おはよう」なのか「さようなら」なのか、考え始めるときりがない。

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思い出が数多くある野比海岸の曲がり角

 野比海岸に来た。ここの海岸線はここからこの角度で見ることに意義を感じている。そんな風に考える人は、おそらく、私以外にはほとんどいないだろうが。

 1988年から94年にかけてフジテレビで計14話、放映されたドラマがある。『季節外れの海岸物語』という作品だ。片岡鶴太郎が主人公で、可愛かずみ田代まさし、渡辺美奈代、古尾谷雅人が脇をかためた。湘南海岸にある喫茶店のマスターである圭介(片岡鶴太郎)が毎回、異なる女性に恋をしてそして失恋するというドラマで、「寅さん」の湘南版であった。『男はつらいよ』と異なるのは、舞台が湘南で、ドラマが展開されるとき、バックにはサザンや松任谷由実の曲が常にといっていいほど流れるという点である。また、鎌倉、逗子、江ノ島、葉山の著名な風景が登場し、湘南の海を知っているものにとっては実に懐かしく感じられる作品だった。

 視聴率はそれほど高くはなかったが、一部には根強い人気があり、一時は何度か再放送された。しかし、今ではまったくおこなわれず、ビデオ化もされていない。まず、サザンやユーミンの作品が多く用いられているので著作権問題がクリアーできないこと、田代が不祥事を連発したこと、可愛や古尾谷が自殺したことなどがソフト化されない理由だ。もっとも、ユーチューブならば今でも見ることができる。

 なぜ、湘南を舞台にした作品が横須賀の野比海岸と関係があるのか。理由はものすごく簡単で、舞台となった喫茶店は、実は本物は野比海岸にあり、海岸が出てくる場面でも野比津久井浜がよく使われていたからだ。江ノ島を背景に片瀬海岸を歩いていても、重要な場面になると野比津久井浜に変転することがしばしばあった。そして、別れゆく女性が車で遠ざかるときは、写真の野比から久里浜に至るコーナーが出てくる。振られた圭介は、久里浜方面に遠ざかる車を見送るのだ。湘南はいつも人と車とで賑わう。ロケは大変だ。その点、野比津久井浜は人影がはるかに少ないので周囲に気兼ねなく撮影ができる。おそらく、そう考えたに相違ない。

 つまり、このドラマは湘南と三浦の両方の海をよく知っていると、話の展開だけでなく撮影場所まで推理できるという楽しみがあった。それゆえ、私にとっては見ごたえのある作品として今でも記憶に残っているし、今もときどき、ユーチューブをのぞいている。

 実に、いい趣味を持っている。これで、いいのだ。

 

〔20〕秩父困民党に学ぶ(2)~蜂起の流れを知る

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困民党軍は音楽寺から市街地へ駆け下った

困民党はコンミューン党である

 困民党は「借金党」「赤貧党」「貧困党」「負債党」などとも言われていたらしいが、やはり「困民党」の名が彼らの運動組織にはもっともふさわしい。困民は困窮民の省略形だろうが、私には「困民」=「コンミューン」に思えてならない。この考え方は研究者や文筆家、日曜歴史家にもよく見られ、困民党は大宮郷(現在の秩父市)で束の間の「無政の郷」(コミューン、コンミューン)を建設したといった表現はかなり多い。これは、彼らが「世直し」だけでなく「世均し(ならし)」をも目指したというところからきているのだろう。実際、前半戦は参謀長、後半戦は総理として戦った信州北相木村の菊池貫平は「拙者らは富者に奪ひて貧者に施し、天下の貧富をして平均ならしめんと欲するものなり」と述べている。

 菊池と一緒に秩父困民党軍に参加した井出為吉(25歳)は、北相木村豪農の息子で、若くして村会議員、戸長、学務委員などを務めてたり、学習会や討論会を組織したりしていた。1970年に井出の生家の土蔵から「仏蘭西法律書」「仏国民法契約編」「仏国革命史」「英国スペンサー社会学」「ボアソナード性法講義」など多くの書物が見つかっており、井出が15,6歳ころからこうした書物をよく読んでいたことが分かった。井出は困民党軍では「軍用金集方」の任についていた。軍が高利貸しや豪農から集めた強借金の受領書には「革命(党)本部」の名があるが、これは井出が書いたものとされている。また、井出は南佐久地方ではもっとも早く自由党に参加しているが、この頃にはすでに自由党本部には何の期待も抱いてはおらず、「自由党ニハ違イナケレドモ、他ニマタ一社ヲ設ケタシト存ジ」と語っている。北相木村といえば長野ではもっとも辺境の地なのだが、こうした場所にも優れた人物は輩出されるものなのだ。というより、優れた人材はどこにでも存在するのだが、あとはその人が誰によって、何によって認められるのかということに過ぎないのだとも言える。

 菊池や井出が困民党軍の理論的リーダーだったとすれと、彼らは1871年、フランスで起きた「パリ・コンミューン」の動きは当然知っており、これを秩父の蜂起軍に活かそうとしたということは当たり前のごとく考えうる。

 パリ・コンミューンは1871年、普仏戦争に敗北したフランスのパリで、2月26日から5月28日の3か月間、プロレタリア独裁自治政府を創った社会主義革命運動である。フランスは基本的には農業国家であるため、資本主義の発展は他の西欧諸国に比してかなり遅れていた。工業も伝統的な手工業が中心で、労働者はまだ社会の中核的存在にはなってはなってはいなかった。

 当時のフランスには大きく分けて3つの運動勢力があった。ひとつはフランス大革命以来の伝統である「ジャコバン的直接行動」をおこなっていた小市民や農民の勢力、ひとつは「財産は剽窃である」として大資本家や金融資本の搾取を批判する「プルードン主義」、ひとつは暴力的過激主義を標榜する「ブランキスト」グループだった。こうした勢力が、「公務の管理を自己のうちに掌握することによって、時局を収拾すべき時がきた」と考えてひとつの流れにまとまり、わずか3か月間とはいえ、コンミューンを成立させたのである。

 パリ・コンミューンにあったこの3つの勢力・思考・行動は秩父困民党軍にも見られる。高岸善吉、坂本宗作、落合寅市の3人は直接説諭請願運動を早くから始め、同時に多くの困窮農民を組織に加えていった。信州から加わった菊池貫平や井出為吉は「世均し」を標榜して富の平等化を図ろうとした。新井周三郎は高利貸し宅を襲ったり、警官隊と闘ったり、あるいは殺人を犯すなどの暴力的行動を果敢に実践した。

 初代総理の田代栄助、副総理の加藤織平、在地オルグを徹底した高岸、坂本(彼は後半からは菊池グループに加わる)、落合などの運動は「自由民権運動」の延長線上に位置付けることができるし、菊池や井出は「社会主義運動」、新井ら過激派グループは「暴力革命運動」と区分して考えることは可能だ。つまり、後の『自由党史』で秩父困民党の運動を「実に一種恐るべき社会主義的性質を帯べるを見る」と自由主義者が批判したことは真っ当な見方なのである。実際、社会主義的方向性を目指していたのだった。また、困民党の蜂起が長年、「秩父暴動」と呼ばれていたことを批判し、民主主義活動家たちの努力で「秩父暴動」が「秩父事件」と言い換えられるようになったが、実際にはかなり暴力的な運動だったのである。前回にも触れたが、1884年10月の段階ですでに「腕力にうったえ、中山道の鉄道破壊、電信機切断、高利貸しの家を破壊して貧民を救う」という意見が出ており、困民党を組織する過程でも「武力行使」は提案されているのである。

 つまり、困民党の運動は社会主義的であり、かつ暴力的である。この限りにおいて、困民党の蜂起は「秩父暴動」という位置付けが正しいのである。政府や自由党、後の民主主義勢力は「暴動」をマイナス面としてとらえているが、マイナスは容易にプラスに転換できるのである。地球磁場が逆転する「チバニアン」のように。

11月1日の動き

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3000人が集結した椋神社境内

 椋神社には1日午後8時に集結する予定だったが、警察の動きがかなり活発に見られたこと、風布村の蜂起が早かったこと、新井周三郎らが金崎村永保社の襲撃をおこなったことなどから、神社への集合時間は前倒しになった。小前耕地に住む神職の宮川津盛宅に泊まった田代栄助も午後4時には神社に到着した。参加者の逮捕後の供述によれば、椋神社に集まった人の数は500~1500人というものが多い。新井周三郎のように3000人と述べているものもある。鎮圧側の責任者ともいうべき鎌田冲太(ちゅうた)警部はその回想録で参加者を3000人余としているので、この3000人が事実に近いようだ。現在では主催者側発表の方が警察発表よりも多いのが通常だが、この時代では主催者側のほうが少なく見積もっているというところが面白い。

 午後7時頃より、田代栄助から「役割表」が発表された。

・総理    田代 栄助  51歳   大宮郷

・副総理   加藤 織平  36歳   石間村

・会計長   井上 伝蔵  30歳   下吉田村

・会計副長  宮川 津盛  56歳   上日野沢村

・参謀長   菊池 貫平  37歳   長野県北相木村

・甲大隊長  新井 周三郎 22歳   西ノ入村

・甲副隊長  大野 苗吉  22歳   風布村

・乙大隊長  飯塚 森蔵  30歳   下吉田村

・乙副隊長  落合 寅市  35歳   下吉田村

・上吉田村小隊長 高岸 善吉 35歳  上吉田村

・上日野沢村小隊長 村竹 茂市 45歳 上日野沢村

・下日野沢村小隊長 新井 紋蔵 31歳 下日野沢村

・軍用金集方 井出 為吉  25歳   長野県北相木村

・小荷駄方  小柏 常次郎 42歳   群馬県上日野村

・伝令使   坂本 宗作  29歳   上吉田村

・伝令使   門平 惣平  31歳   上日野沢村

 など、約70人の幹部が名を連ねた。

 この後、菊池貫平によって、「軍律5か条」が発表された。

第一条 私に金円を略奪する者は斬

第二条 女色を犯す者は斬

第三条 酒宴を為したる者は斬

第四条 私の遺恨を以て放火其の他乱暴を為したる者は斬

第五条 指揮官の命令に違背し私に事を為したる者は斬

 といった、簡潔ながら厳しい規律を参加者に課した。

 組織の役割分担が明示されていること、組織の規律が厳しく定められていることから、秩父困民党軍は一揆的色彩も、一部跳ね上がりの暴徒的色彩もさほど帯びてはおらず、正しい目標と規律、それに暴力装置を身に着けた人民の軍隊と呼ぶのが相応しい。また、参加者は全員が白ハチマキ、白タスキを付けていた。軍の指揮者は羽織、袴の正装で臨んだ。小隊は村ごとに組織され、隊ごとに小旗が用意されていた。

 午後8時ごろ、蜂起軍は二手に分かれて小鹿野町に軍を進めた。田代や新井が率いる甲大隊は下吉田から下小鹿野村に入り小鹿野町へは東から進出した。この間、高利貸し宅を放火した。一方、加藤や飯塚が率いる乙大隊は下吉田から井上耕地に進路を取った。やはりここで高利貸し宅を放火した。その後、巣掛峠を経て西から小鹿野町に侵攻した。小鹿野町では警察分署にある書類を焼き捨てたり署内の破壊をおこなった。また、高利貸し宅を襲い、放火したり打ち壊しをおこなった。なお、放火の際には濡れたムシロを用意し、隣家への類焼を防いだ。

 その後、諏訪神社(現在の小鹿神社)に集まり夜営した。

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小鹿神社の本殿。この神社は「バイク神社」として有名

 小鹿神社(おしかじんじゃ、おがのじんじゃ)には若者の参拝客が多かった。聞けば、小鹿野町はオートバイによる町おこし事業をおこなっており、この神社は「バイク神社」としてツーリングを楽しむ人々には名が通っているそうだ。

 私がこの神社に立ち寄ったのは「安全祈願」をするためではなく、「秩父困民党結集の森」の碑を探すためだった。しかし、境内をあちこち歩いてみたが碑は見つからなかった。案内板も見当たらなかった。参照した資料には「結集の碑」があると書いてあったのだが。小鹿野町にとっても小鹿神社にとっても困民党は「負のレガシー」なので撤去してしまったのかとも考えた。

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結集の森の碑ではなく看板だった

 この神社は国道299号線のバイパスの北側にある。バイパスに面した場所には赤い大鳥居があり、ツーリング客にもすぐに神社の存在が分かるようになっている。その大鳥居の脚の部分に写真の看板があった。碑ではなく看板だったのだ。あらためて資料を確認すると、確かに「秩父困民党結集の森の看板」と記してあった。手入れの行き届いている大鳥居と神社の石柱に対し、このくたびれ果てた看板との対比は、そのまま小鹿野町や小鹿神社が抱いている「バイクで町おこし」と「困民党」との今日的価値の落差を表現しているようだ。

 困民党とは関係がないが、国道299号線について触れないわけにはいかない。日本には魅力的な3ケタ国道が多くあるが、この299号線はその代表的な存在だ。起点は長野県茅野市にあり終点は埼玉県入間市だ。起点こそ上位の152号線と重なるが、山坂道に入ってからは299号線として蓼科高原を通り、麦草峠(標高2127m)を通過すると今度は八千穂高原を佐久市へと下る。「メルヘン街道」と名付けられストレート部分がほとんどないこの道はとてもスリリングで、いかにも運転自慢が好みそうなルートである。もちろん景観も良い。佐久からは武州街道と呼ばれ、やはりカーブがきつく十国峠(標高1351m)越えという難所がある。群馬県上野村に入っても難所は続く。というより、こちらのほうが道は険しい。志賀坂峠(標高780m)を越えてしばらくするとやっと道は落ち着き、小鹿野町の市街地へと進む。

 上野村群馬県ではもっとも人口の少ない村で、かつ居住可能な場所がほとんどないほど山が険しいところだ。1985年8月12日午後6時56分、通称「御巣鷹の尾根」に日航123便は墜落したのである。この事故を切っ掛けに上野村の存在は全国に知られるようになった。私はこの事故以前によく神流川(かんながわ)へ渓流釣りに行っていたので、事故現場付近の自然の苛酷さは認知していた。この事故を知ったことで、私は人生の大転換を図った。それだけに、上野村神流川、国道299号線は今となっても、私には極めて近しい存在なのだ。

 なお、渓流釣り師で哲学者でもある内山節(たかし)も、よく著書の中で、国道299号線や上野村のことを語っている。彼も、神流川での釣りの行き来には299号線を使っているのだ。

 299号線はやがて秩父市内に入り、正丸トンネルを抜けて飯能市に入る。ここもまた曲がりくねった道が続き、飯能市街を抜けてバイパスに入るとやっと道は落ち着くが、そこでまもなく終点となる。つまり、国道299号線は紆余曲折の道なのであって、わずかに正気になるのが小鹿野市のバイパスと飯能から入間へのバイパス部分だけである。ドライブ好きには、実に楽しい道なのである。

11月2日の動き

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小鹿神社前から武甲山方面を望む

 甲乙の大隊以外にも周囲の村への駆り出しに出たものもあった。駆り出しとはまだ参加していない人々に決起を促すもので、風布村の大野苗吉などは「恐れながら、天朝様に敵対するから加勢しろ」と触れ回って村人を動員したのだった。小鹿野集結のときの駆り出しの際には、「徳川の世にするから加勢しろ。出なければ火を付け斬殺する」という脅しを受けたという証言もある。が、これは取り調べの際の証言なので、罪を逃れるための「言い訳」だったかもしれない。

 坂本宗作や高岸善作らは、まだ困民党に人を出していない日尾や藤倉、三山、河原沢といった群馬や長野に近い山奥の集落に赴き、各村の戸長役場を襲って公証割印簿を焼き払い、家々からは火縄銃や刀、軍資金の調達や一戸一人の参加を要求した。この結果、数百人単位の人々を集めている。こうした強制的な駆り出しは、困民党もまた江戸時代の農民一揆の伝統を受け継いでいたと言えるのかもしれない。

 2日の午前6時ころ、困民党軍の本隊は小鹿神社を出発し、大宮郷に向けて軍を進めた。鉄砲隊を先頭に、竹槍隊、抜刀隊、大隊、小隊などが続いた。一方、進軍中にも随時、秩父盆地の最深部にある村々に駆り出し隊を派遣し、中には大滝村まで遠征したものもいた。

 午前11時、困民党軍の先頭部隊は荒川左岸にある長尾根丘陵の小鹿坂峠に達した。この長尾根丘陵一帯は現在、「秩父ミューズパーク」として整備されている。広さは375haにも及ぶ。この公園の北端部分に小鹿坂峠があり、この周辺は「旅立ちの丘」と呼ばれている。これはもちろん、ここから困民党が一気に駆け下り大宮郷秩父市)を制圧したことに由来する、というわけではない。秩父市の影森中学校発の卒業式ソングである『旅立ちの日に』が全国的に有名になったからだろう。この曲は卒業ソングの定番となり、現在では教科書にも載っているらしい。旅立ちの丘からは秩父市街地が一望できるし、武甲山の右手下あたりに影森中学校があるのが確認できるかもしれない。歌詞には「白い光の中に山なみは萌えて」とある。「山なみ」は、秩父の周囲はすべて山なのでどこを示すのかは特定しづらい。「白い光」は、無残にも北側の山肌が石灰岩を産出するために大きく削られた武甲山が発する白い悲鳴を通した光なのかも。たぶん違うだろう。

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秩父札所23番音楽寺

 小鹿坂峠を少し下ったところに秩父札所23番の音楽寺がある。困民党軍はこの辺りにいったん兵を留めた。荒川の武ノ鼻(竹ノ鼻とも)口で警察が指揮する銃を構えた守備隊が配備されているという報が入ったからである。そこで困民党軍は斥候を送り、時機が良ければ2発の砲声を合図とし、一方、本隊は音楽寺の鐘を乱打し、それを号砲として長尾根を一気に下って大宮郷に侵入するという手筈をとった。

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音楽寺から市街地を望む。11月であれば見通しは良いはずだ

  斥候が武ノ鼻を渡ったときには警備隊の姿はなく、見物人が少しいるだけだった。そこで、斥候は鉄砲を2発放った。正午ころだった。この合図を機に音楽寺の鐘は乱打され、蜂起軍は坂を一気に駆け下った。

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乱打された音楽寺の鐘

 鐘楼の横には現在、「お願い 鐘は静かに撞いて下さい」との立札がある。たぶん、困民党を真似て鐘を乱打する観光客がいたのだろう。

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秩父市街地方向に下る小径

 音楽寺の前には市街地方向に下る小径があった。写真のように現在は舗装されているが、おそらく困民党軍はこの道を駆け下ったに違いない。様々な資料を参照したが、いずれもこのときの様子を「鯨波をあげて」とか「鯨波声をあげて」とか「ときの声をあげて」と描写している。

 秩父盆地は狭く、高い山々が四方を取り囲んでいる。それでも、近代化の波が押し寄せる前は、山間の人々も市が立つ日には山を下り他の集落の人々と交流していた。狭い耕地(小集落)に住む人々にも他の耕地との行き来きはかなりあったはずだ。峠の向こうにはまた峠があったが、谷間に住む人々には峠を越えたつながりがあった。しかし近代化は人々を山間に押し込み、ひたすら生糸生産をおこなわせた。その結果、困窮した。

 彼らが坂を下って大宮郷を制圧するというのは、困窮からの解放だけでなく、人間存在の解放でもあった。その解放を勝ち取る「喜び」が「ときの声」になったのだろう。11月2日は、経済的に精神的に困窮する人々の『旅立ちの日に』なったのだ。「はるかな空の果てまでも飛び立つ」という高揚感に心は埋め尽くされていたのではなかったか。理想の世界を創るという志に。

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かつての武ノ鼻の渡しに掛かる武之鼻橋

 困民党軍は写真の武之鼻橋が掛かっている辺りを渡って大宮郷に侵入した。まずは裁判所や警察署に乱入し、書類を引き裂いたり焼いたり戸外に投棄したりした。また室内を破壊した。裁判官や警察官は名栗村へ逃亡した。その後、軍は郡役所を占拠した。

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困民党軍が宿営した秩父神社

 大宮郷を制圧した困民党軍は秩父神社境内に集まった。荒川近辺で様子を伺っていた田代栄助は午後4時ころ秩父神社へ赴いた。そして、本陣とした郡役所には午後6時ころ入った。

 大宮郷でも高利貸し宅を襲い、打ち壊しは5軒、焼き払いは4軒おこなった。とくに「刀屋」を営む稲葉貞助に対する破壊については多くの記録や証言が残っている。この稲葉は、貧民から身を起こし、わずか10年で5万円を蓄財した悪徳高利貸しの典型だったからだ。田代栄助は「現在の貸付金の半額を放棄し、残り半額を年賦償却とし、かつ軍用金として1000円を差し出すなら破壊は止める」といったが,稲葉側からは「50円を差し出すので破壊は免除してほしい」という回答があった。これでは納得できないので破壊を指示したところ、今度は「450円と証書類を一括して差し出し、これで勘弁してくれ」との再回答があった。しかし、こうした貪欲な稲葉の態度に困民党軍は納得せず、結局、稲葉宅を破壊したのだった。

 また金持ち宅には軍用金集方の井出為吉が赴き、「貧民を救うために兵を挙げた。おいおい、警察や憲兵隊が繰り出してくるだろう。是が非でも戦闘しなければ貧民を救済することができない。よって軍用金を無心する。首尾よく本懐を遂げたときはことごとく返金するが、不幸にして戦死したときは香料として恵みに預かりたい」と述べて、5軒から1220円を差し出させて「革命本部」と記した領収書を渡した。

 大宮郷では火薬・弾丸の補給もおこなっている。これには軍用金を当て、きちんと支払いをおこなっている。

 駆り出しも広範囲におこなわれた。とくに横瀬(よこぜ)村(現在、あしがくぼ果樹園がある辺り)では念入りにおこなわれたようだ。各戸一人ずつ出ることを要求し、応じなければ役場や民家を焼き払うという脅しもおこなわれたらしい。これに対し、村人は昼間は秩父神社まで出かけ、夜にはまた家に帰るという行動をとったという記録が残っている。駆り出しは、「正丸峠」越えて飯能町(現在の飯能市)までにもおこなわれた。こうして、困民党の軍勢は2日夜半から3日にかけて、最大では約一万人が集結したと言われている。

11月3日の動き

 一方、警察側は1日の午後3時ころには皆野村の宿屋に仮本部を置き、鎌田冲太警部を中心に情報収集をおこなっていた。が、戦況は警察側に不利だったので仮本部を寄居町まで戻し、あわせて埼玉県庁の書記官が内務卿の山県有朋憲兵隊の派遣を要請した。この結果、3日の午前中には憲兵隊が秩父からの出口である寄居の守りを固め、さらには熊谷、小川、川越、名栗などにも憲兵隊を配置した。

 困民党軍側は2日夜半から3日にかけて幹部会議をおこない、今後の運動方針を議論した。田代、菊池、井出はいったん信州に行き軍の基盤を固めるという方針を提案したのに対し、加藤、高岸、落合は東京への侵攻を提案した。議論の結果、東京への侵攻が決まった。まずは川越に出てから浦和の県庁を襲い、その勢いで東京に侵攻するというものだったらしい。

 田中千弥が記した『秩父暴動雑録』には「暴徒ガ言ヲ聞ケバ先ツ郡中ニテ軍用金ヲ整ヘ、諸方ノ勢ト合シテ、埼玉県ヲ打破リ、軍用金ヲ備ヘ‥‥沿道ノ兵ト合シテ、東京ニ上リ、板垣公ト兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変シテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ、人民ヲ安楽ナラシムベシ‥‥自由党ノ兵ハ、汝等ノ父、汝等ノ兄ナリ‥‥」とある。これは田中が2日に記したものである。困民党軍の理念の中にはすでに、東京に進出して自由で平等な世の中を築きたいという目的があったのだ。作家の井出孫六は困民党が決起した年を「自由自治元年」としている。これには困民党をあまりに理想化していると批判されているが、困民党に対して中立的な立場を取った田中千弥の記録にあるように、困民党の「暴徒」の中にはこうした理念に基づいて行動した者がいたことは事実であろう。たとえ、板垣や自由党に対する思い入れは幻想であったとしても、だ。

 3日、憲兵隊の来襲に備えて困民党軍は編成替えをおこなった。とりあえず、大宮郷の守りを固めるためだった。甲隊は加藤織平や新井周三郎が率い、小鹿野や吉田からの襲来に備えて武ノ鼻口へ移動した。乙隊は菊池貫平や飯塚盛蔵が率い、皆野方面からの襲来に備えて大宮郷の北にある大野原に移動した。丙隊は田代栄助や落合寅市が率い、大宮郷に留まってその防衛に当たった。

 が、甲隊は、憲兵隊や警察隊が下吉田村へ大勢で進出したという知らせを聞いたことで、武ノ鼻を渡って小鹿野方向に移動してしまった。また、乙隊は熊谷方面で一揆が起こり寄居や野上、皆野の憲兵や警察までが出払ったという知らせを聞いたことで、皆野村への移動を開始した。どちらも誤報だった。しかし、甲隊も乙隊も戦線を伸ばし、甲隊は下吉田村へ、乙隊は皆野の旅館(1日に警察隊が仮本部を設置した場所)に本陣を構え、田代栄助もここに移動した。

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親鼻の河原は現在、長瀞ライン下りの出発点になっている

 午後4時ころ、寄居から金崎村に偵察にきた30人ほどの警官・憲兵隊と、親鼻の渡しを警備していた困民党軍の鉄砲隊との間で銃撃戦がおこなわれた。かたや最新の村田銃、かたや旧式の火縄銃であった。が、新式の村田銃に用いられた弾薬が旧式のもので合わなかったためか弾は出ず、憲兵・警察隊は短銃を用いた。一方、困民党軍の火縄銃は飛距離が50mほどしかなかったのでこの銃撃戦は20分ほどで終わり、困民党軍側に一人の負傷者が出ただけだった。その後、偵察隊は本野上村まで撤退した。

 一方、下吉田村まで戦線を伸ばしていた甲隊は皆野村の対岸にある大淵村に入り、大淵から野巻付近で野営した。

11月4日の動き

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長楽寺の門前で困民党本陣が瓦解する切っ掛けとなった事件が起きた

 4日未明、甲隊は国神耕地に向けて出発した。国神は宝登山の南にあり、ここには北の児玉町に抜ける新道があり、途中の出牛(じゅうし)峠に至ると、野上を背後から襲える道にも出られる重要な場所だった。

 しかし、出発すると間もなく、1日の下吉田村役場の戦いで捕虜にし、そのまま甲隊が引き連れ、新井周三郎の説得によって困民党軍に加わることになった青木与一巡査が、新井から与えられた刀で新井を背後から襲って重傷を負わせたのだ。

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長楽寺門前の真向かいには青木与一巡査の碑がある

 新井はなんとか反撃し、青木巡査を殺害した。写真にあるように、この現場近くの路傍には「青木与一巡査の碑」がある。

 負傷した新井は、3日に自身が小隊長を解任した上日野沢村の村竹茂市に担がれて皆野村の本陣まで運ばれた。その後、新井は困民党軍の誰かに担がれ、標高500~600mほどもある山か峠を越えて、生まれ故郷である西ノ入村(現在寄居町西ノ入)の明善寺まで運ばれた。そこで治療を受けていたが、住職の密告により9日、新井は逮捕された。

 困民党軍には魅力のある人物を多数見出すことができる。様々な書物や資料を読むと、いろいろな識者がそれぞれに焦点を当てたい人物を発掘していることが分かる。ある人は「田代栄助」に肩入れし、ある人は「井上伝蔵」、「菊池貫平」、「井出為吉」、「坂本宗作」、「落合寅市」に思いを寄せるが、私の場合は「新井周三郎」に一番の魅力を感じている。彼はここに挙げた人々とは異なり、「異界」の人物だった。田代、井上、坂本、落合は秩父盆地内に暮らし、菊池と井出は南佐久の山間に暮らしていた。しかし、新井は秩父盆地内でもなく峠の向こうの山間でもなく、東秩父連山の外にある集落で育った。困民党軍の多くの人々が持つ「山影の情念」(松本健一の言葉)は新井にはさほどなかったはずだ。 

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新井の家跡付近から東秩父方面を見る

 新井周三郎は男衾(おぶすま)郡西ノ入村に生まれた。実家は村きっての豪農だった。地元の小学校を優れた成績で卒業した。性格はとても温和で、彼があのような過激派に転じるとは誰も想像していなかったそうだ。上京するのは18歳の時で、和漢洋学を学ぶとともに剣の道も修めた。その後、地元に戻って小学校の教員になった。事情があって辞めることになったが、たまたま石間(いさま)小学校に空きがあるということを知って加藤織平宅を訪ねた。1884年9月初旬のことだった。 

 加藤宅には高岸善吉、坂本宗作、落合寅市、小柏常次郎らが集まって何やら相談をしていた。それを聞いていた新井は、大きな借財を抱えて困窮する人々の苦しみと覚悟を知った。「教員ノ念ヲ断チ、イチニ細民救助ニ尽力セン事」を決意した。西ノ入に戻った新井は、地元で負債延期の請願運動を組織し、高利貸しが返済の延期に同意しないときは打ち壊しをおこなうことなどを提案している。なお、この西ノ入で新井と一緒に行動した人たちは困民党の蜂起軍に加わっている。

 困民党軍の動きの中で新井周三郎の名が出てくるのは10月12日(13日説もある)の井上伝蔵宅での会議のときだ。個別交渉では問題は解決しないので、これからは集団行動で強く迫ること、準備金強借などの非合法活動を始めることを決議したときである。14日、新井は坂本宗作らとともにさっそく横瀬村で高利貸し宅を襲っている。15日には自宅に戻り、自分の兄をそそのかして仲間と一緒に地元の高利貸し宅を襲っている。

 困民党の会議では加藤織平が強硬な意見を発していたが、彼の主張の背後には新井の提言があったといわれている。また、田代栄助は31日になっても蜂起の延期を提案したが、これも加藤らの主張で正式に翌日の決起が決まったが、ここでも新井の働きがあったとされている。事実、1日の蜂起が決まるやいなや、31日の深夜、新井は大野苗吉、村竹茂市らとともに金崎村にある金貸し会社の永保社を襲っている。

 ただし、新井は単なる過激派ではなかった。仲間に対する強い思いれと、高い革命思想を有していた。次のことは新井がどれだけ優れた思想と志をもっていたかを示す事例として松本健一などがよく取り上げている。

 自由党員になるためには2名の自由党員の連署が必要だった。当時、秩父自由党のリーダーは井上伝蔵だったので、もう一人の署名が必要だった。新井は仲間12人の志願書をもって党員の福島敬三を訪ねた。新井の仲間12人は文字が書けなかった。そこで福島は「政事思想ヲ有セサルモノハ幾人アリトモ其用ヲ為サザル」と言って署名を断った。「いやしくも貴重な自由の2字を冠する者が借金党ごときの者にだまされるのは自由党としてはもっとも恥ずべきものだ」と困民党を切って捨てるような発言をおこなった。これに対して新井は、「仮令ヘ(たとえ)己レノ氏名ヲ記シ得サル者トイエトモ、其志シサヘタシカナル以上ハ幾人ニテモ自由党ヘ加入セシムル議ヲ主張」した。新井にとって、文字が書けるか否かは志においてはまったく問題ではなく、その人がどんな理想を有しているかが重要なのであった。

 新井は18歳で上京し、翌年には地元に戻って小学校の教員になっている。田舎の秀才がせっかく東京に遊学できたのにわずか1年しか滞在していない。また、彼が通った剣道場には板垣や星亨なども顔を出していたという。彼に上昇志向があればそのまま東京に留まり、多くの人脈を形成することは可能だったろう。しかし彼はそれをしなかった。この1年で、何か期するものが生じたのかもしれない。

 新井は地元に戻り、寄居町の教員となった。田舎の子供たちがいかに苦しい生活状況に置かれているかを肌で感じた。彼は山間の学校に移った。そこでさらに人々の苦境を知った。そしてこの苦境と戦う人々に出会った。「天下ノ政治ヲ直シ、人民ヲ自由ナラシメント欲シ、諸民ノ為ニ兵ヲ起ス」と考える人々とともに戦うことを決意したのだ。

 論語子路篇には「子曰く、中行を得てこれに与せんずば、必ずや狂狷(けん)か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり。」とある。中庸の人などめったにいない。ならば「狂者」のように進取の気概がある人か、「狷者」のように付和雷同しない人と接することを孔子は勧めているのだ。何かを打ち立てるためには狂者でなければならないのだ。新井周三郎はこの「狂」に目覚めて困民党軍に加わり、思想的、行動的なリーダーとなったのだ。ここに私は、吉田松陰との同質性を見た。

 が、志は達成せず、1885年5月17日、熊谷監獄にて処刑された。享年24歳。

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新井が傷の治療をおこなっていた明善寺はこの先にあったと思われる

 新井の生家はすでにない。JR八高線折原駅の近くに新井家はあった。が、生家があったと思われる場所は工場になっていた。その写真を撮っても仕方がないので、新井の生家があったと思われる場所の前から東秩父の山方向にカメラを向けてみた。彼が幼いころに通った小学校は山のすそ野にあった。その学校があった場所に明善寺もあったはずだが、見つけることはできなかった。グーグルアースで探しても寺らしい場所はなかった。上の2枚の写真は、新井がかつて見ていたと思われる風景である。鉄塔や高圧線などの建造物はなかったし、家々の形は異なるだろうが、山容はさほど変化はないと思われる。

 写真にはないが、彼の家は関東平野の西端にあり、写真の反対側に行けば、すぐに広々とした平地に出られるのである。それでも彼は山々の方に進むことを選んだ。どうして、人は「峠の向こう」に魅入られてしまうのだろうか?

 

秩父困民党(3)に続きます。しかし、「十石峠」が現在通行止めなので、次回(9月10日ころ)には間に合わないかもしれません。 

〔19〕秩父困民党に学ぶ(1)~蜂起の地を訪ねて

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椋神社内にある記念碑

秩父困民党事件とは?

 1884年(明治17年)11月1日、鉄砲、刀、槍などで武装した約3000人の民衆が下吉田村にある椋(むく)神社に集結した。秩父郡の西谷(にしやつ・秩父北西部の山間地)にある各村ならびに大宮郷(現在の秩父市)の農民を中心として、男衾(おぶすま)郡や榛沢(はんざわ)郡、上州の上日野村、信州の北相木村などからも参集した。ここで組織の役割表が発表され、総理に田代栄助、副総理に加藤織平、会計長に井上伝蔵、参謀長に菊池貫平が就任した。併せて菊池の手になる「軍律五か条」も示された。

 1日午後8時、蜂起軍は二手に分かれて椋神社を出発し、小鹿野町に向けて進軍した。途中、高利貸宅や質屋を襲い軍資金の調達や邸宅の焼打ちや打ち壊し、役場や警察署にある証書類の焼却などをおこなった。この日は小鹿野町にある諏訪神社(現在の小鹿神社)で夜営した。

 2日早朝、大宮郷に向けて進軍を開始、小鹿坂峠を越えたところにある音楽寺(秩父札所23番)の鐘を乱打し、鯨波声(ときの声)をあげながら坂を下り、荒川を渡って大宮郷に突入した。蜂起軍は郡役所を制圧し「革命本部」を置いた。この地でも高利貸宅を襲い軍資金調達を敢行。また、周辺の村から人集め(駆り出し)もおこない秩父神社で野営した。ここに困民党による「無政の郷」(コンミューン)が成立した。集結した民衆も1万人ほどに膨れ上がっていた。

 3日、憲兵隊・警官が来襲するという報を受けたので、困民党軍は大宮郷を確保するため部隊を3つに分けて移動を開始した。が、情報が錯綜したために各隊は混乱し、結局、本部を皆野村に置くことになった。蜂起軍の多くは皆野村とその隣の大淵村に屯集した。

 4日、大淵村にいた幹部の新井周三郎が捕虜の警察官に斬られて重傷を負ったことから、本部は混乱に陥った。また、戦況が不利に傾いたため、田代栄助や井上伝蔵、さらに加藤織平ら主要幹部7人が逃亡した。大野苗吉(風布村)に率いられた一部の部隊は児玉町に向かい、金屋にて鎮台兵と激闘の末、多くの犠牲者を出して敗北。一方、信州から来た菊池貫平を新たな総理として本部を再建し上吉田村へ移動し、信州への転戦を決定した。

 5日、本部は峠を越えて上州の神流(かんな)川沿い(通称山中谷)に入り西進。神ヶ原(かがはら)で夜営。

 6日、神流川沿いの魚尾(よのお)村で自警団に敗北。西進し、十石峠の手前にある楢原村にて住民の依頼に応えて黒沢家を焼打ちし、白井宿で夜営。

 7日、十石峠を越え信州に入る。大日向村の竜興寺で屯営。

 8日、高利貸宅を打ち壊しつつ千曲川沿いの村に入る。ここでも高利貸宅を襲い軍資金の確保や人集めをおこなう。東馬流(ひがしまながし)の戸長宅に宿営。

 9日、東馬流の天狗岩付近で高崎鎮台兵と激闘。鎮台兵がもつ新式の村田銃の放火にさらされ多くの犠牲者を出す。千曲川上流へ敗走し、八ヶ岳山麓の野辺山付近でも砲撃を受け、困民党軍は完全に潰滅した。

決起せざるを得なかった背景を考える

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困民党の主体はこうした山間の地の出身だ

 日本近代史を教えている友人から、秩父困民党ゆかりの地を巡らないかという誘いを受けた。なんでも、昨今の若い衆は講義だけでは興味を抱かないし、そもそも山間地の暮らしというもののイメージがまったく湧かないらしい。現地の写真があれば少しは話しに惹きつけられるかもしれないと考え、現地調査と写真撮影に出掛けるのだということだった。夏真っ盛りの時期なので「ご苦労様」の一言で断ろうとも考えたが、秩父であればそれほど遠くはないし、そこにはかなりの土地鑑もあるので運転手を買って出た。

 秩父困民党については若い頃に関連本を数冊読んだだけで、とくに興味は持続していなかった。風布(ふっぷ、ふうっぷ)には何度も出かけていたが琴平(金毘羅)神社に足を運んだことはなかった。皆野にはかなり通ったが、それは荒川での鮎釣りのためか長瀞見学のためだった。荒川左岸の丘にある「秩父ミューズパーク」に行っても、それは秩父盆地武甲山の「哀れな」姿を望むためであって、音楽寺の鐘を打ち鳴らすことはなかった。国道299号線沿いにある小鹿野町内をよく通ったが、それは神流川での鮎釣りのための往来の通過点でしかなかった。しかし今回、出掛ける直前に慌てて困民党関連の本を数冊買い込み、彼らの行動について少しだけ知識を吸収してみると、その事件の歴史的意義と、そこに登場する人々の生きざまにすっかり魅入られてしまった。

 民衆思想家の色川大吉秩父困民党事件を「江戸時代から続いた百姓一揆の最後の形態」であると見るか「自由民権運動の最後の、そしてその質をもっとも高く受け継いだ事件」と見るかのどちらかだと位置付けているようだが、私にはそのどちらでもあると同時にどちらでもないと思われた。というより、どちらでもないというのが正しいのではないかと考えた。ではどう位置付けるのかと聞かれたら、すぐに答えを出すことはできなかった。この答えを探すため、今回の秩父行きは私にとっても重要な意義をもつようになった。

 困民党が決起せざるを得なかった背景には、「産業構造の転換」「生糸価格の暴落」「松方財政による不況と増税」「自由党本部との考え方の相違」などがあった。

▼産業構造の転換

 1859年の横浜開港によって欧米との貿易が急拡大した。秩父は古くから養蚕や「秩父絹」の生産が盛んであったが、フランス、イタリア、イギリス、アメリカなどの要求によって生糸輸出が増大した。山間地に住む農民は、開港以前は「秩父という小さな世界」で経済的に自足していたが、開港後は「世界経済」の動きに翻弄されるようになった。女たちの家内工業による絹織物の作製という道は長い期間閉ざされ、欧米への原料供給地という立場に位置付けられた。

 欧州での生糸の生産は1840年代にフランスで発症した蚕病によって停滞し、50年代からは目に見えて低減した。フランスでは、50年には318万キログラム生産したものが57年には111万キロ、63年には65万キロまでその量は落ち込んだ。その後も20世紀に至るまで年に50~100万キロの生産量で推移した。蚕病が蔓延しなかったイタリアでも、57年に500万キロあったものが80年には200万キロと生産量は落ち込んだ。

 欧州では原料の生糸を確保するために中国市場から輸入を拡大した。1850年に124万キロだったものが57年には360万キロにも増加した。一方、59年、日本の開港に伴って交易が始まり、欧州産生糸には劣るものの中国産生糸よりは品質がやや良く、かつ安価である日本産生糸の輸出がスタートした。当初は、日本の製法と欧州の製法が異なるために輸出量はさほど伸びなかったが、72年に富岡製糸場の設立など欧州基準の製法を開始することによって輸出量は大幅に増加した。70年に41万キロだったものが70年代後半には100万キロ、80年代前半には140万キロ、80年代後半には210万キロにもなった。さらに1910年頃には中国を抜き、生糸生産量で世界一になるまで成長した。

▼生糸価格の暴落

 「養蚕から秩父絹」という流れで自足していたこの地は、前述のように世界経済の流れの中に放り出された。秩父絹は秩父地方の中で消費されていた。毎月、1,6日は大宮郷、2,7日は野上、3,8日は吉田、4,9日は皆野、5,10日は小鹿野で市が立ち、食料を自給できない山間部の農民は秩父絹を市に持ち込んでは食料に換えていた。が、原料供給地に変わってからは、生産した生糸を仲買商人に売り、仲買商人は売り込み商人へ、売り込み商人は外国商館へという、今までとは全く異なる貨幣経済の流れの中に組み込まれたのだった。

 現金化するには時間が掛かるため、生産農民は「前貸し金」の貸与を受けて養蚕活動をおこなった。1880、81年、繭(まゆ)生産は順調に拡大した。カイコの餌である桑の葉が不足し、カイコを破棄せざるを得ないほど生産量は拡大した。が、これが仇となった。農民はさらに繭の生産量を増やすため、陸稲、麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、インゲン、大角豆(ささげ)などの食料生産をおこなっていた畑までも桑畑に転換した。そのために「前貸し金」という名の借財を増やした。が、82年にフランスで恐慌が起こり、ヨーロッパは不況に陥った。その結果、83年に生糸価格は暴落した。84年、秩父では天候不順が影響したためか繭の生育は不調で、前年の6割しか生糸は生産できなかった。しかも、フランスのリヨン生糸市場はさらに大暴落したのだった。この結果、農民が抱えた借財は返済不能の水準にまで達した。

▼松方財政による増税デフレーション

 1881年に大蔵卿に任命された松方正義は、西南戦争対策のために乱発された紙幣を回収することでインフレへの対策をおこなった。82年には日本銀行を設立し、銀本位制による通貨価値の安定化を図る道筋の第一歩を踏み出した。日本銀行銀兌換券の発行・流通をおこなう前に、まずは市場に出回っていた政府紙幣国立銀行紙幣といった不換紙幣の回収が必要だった。不換紙幣の回収をおこなうと同時に官営工場の払い下げ、たばこ税や酒税などの増税などで準備金(正貨)の確保を試みた。軍事支出の増大や鉄道建設などはおこなったものの一般財政には資金を多くは拠出しないという消極基調の政策をとったため、国内経済はインフレからデフレへと一気に落ち込んだ。その一方、不況と貿易収支の改善で正貨備蓄が進んだため、85年に銀兌換券の発行に漕ぎ着け、86年に銀本位制による日本資本主義経済体制の基盤が確立した。

*資本の本源的蓄積

 資本の本源的蓄積とは、資本主義が本格的に成立するためには資本の蓄積と賃金労働者の供給が必要だったとする考え方である。

 資本の蓄積過程は、その出発点は「重商主義」にあったと考えられる。地理上の発見によって欧州の貿易活動は著しく拡大した。絶対主義国家はその体制を維持するために軍備と官僚制を必要とした。多額の費用を捻出するために国際貿易を活性化させた。この結果、商業資本は国王の庇護の下、多くの富を蓄積した。一方、賃金労働者は囲い込み運動(エンクロージャー)によって農村部から供給された。第一次エンクロージャーは規模が小さかったために影響は一部にのみ広がっただけだったが、ノーフォーク農法という新しい土地利用方法が導入された第二次エンクロージャーは広範囲に及んだため、農地から土地を追われた農民が仕事を求めて都市部に集まった。

 欧州と明治期の日本とは資本の本源的蓄積過程は異なるが、官営工場が政商へ安価に払い下げられ財閥を生み出したこと、開港によって貿易が活発化して富が蓄積されたことは資本の集積を促した。一方、松方デフレによって困窮化した農民が流浪化したこと、1889年に町村制が確立して地主と小作人の階層分化が生まれ村落共同体の連帯感が失われたことなどは、都市に賃金労働者を送り込むことにつながった。秩父困民党の運動も、足尾銅山鉱毒事件も、こうした資本の本源的蓄積過程を背景にしたその抵抗のための闘争だったのである。

自由党本部との落差

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秩父自由党は写真の重木耕地が発祥の地

 自由党は1881年、国会開設の詔をきっかけに成立した。自由党の盟約には「自由拡充、権利保全、幸福増進、社会改良」「善良なる立憲政体」「主義を共にし目的を同じくする者との協力」があるが、基本的には「自由主義」「議会主義」「憲法の制定」を目的にしたと考えられる。一言でいえば「自由民権運動」だ。しかし、活動主体は旧士族、豪商、豪農であったため、党内急進派は貧農層と結びついて過激な事件を度々起こした。これがいわゆる「激化事件」で「福島事件」「群馬事件」「加波山事件」などが起こり、結局、急進派の動きを抑えることができず、84年10月29日に党は解体した。

 秩父では本部との結びつきは弱く、秩父自由党の幹部であった村上泰治は困民党の動きには冷やかに対応した。84年に急進派の大井憲太郎が2月に秩父遊説をおこなってから入党者が増加した。3月には困民党組織化の立役者となった「高岸善吉」「坂本宗作」「落合寅市」の3人が、5月には「井上伝蔵」が入党した。大井は困民党を指導したと一般に言われているが、11月1日の蜂起には反対していた。

 1910年に出版された『自由党史』では上記の激化事件を「福島の獄、群馬の獄、加波山の激挙‥‥、埼玉の暴動」と評価している。「獄」は政府に弾圧されたこと、「激挙」はやや行き過ぎた出来事を示すのに対し、埼玉の暴動=困民党事件は明らかに否定的に捉えていることが分かる。つまり、他の事件は自由民権運動の延長線上の出来事と考えているのに対し、困民党事件は自由民権運動埒外の暴挙と位置付けているようだ。所詮、自由党は議会開設と憲法制定を目指した豪商・豪農の運動に過ぎなかったのだと思われる。このことは、『自由党史』の中にある困民党の運動を評価する次の言葉にも現われている。「実に、一種恐るべき社会主義的性質を帯びるを見る」。

なぜ秩父で困民党が決起したのか

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のちに田中千弥が祠官となった椋神社の本殿

 上吉田村田中耕地出身の田中千弥(1826~98)は貴布禰(きぶね)神社や椋神社の祠官(しかん)を務めた村随一の知識人であったが、困民党の運動に対しては一歩距離を置き、かといって支配者側にも与せず、第三者の眼でこの事件の推移を見つめていた。彼は49年間にもわたる『田中千弥日記』を残し、その中の「秩父暴動雑録」でこの事件についての詳細な記録を残している。

 ここで田中は困民党事件の原因を以下の通りに記述している。「今般暴徒蜂起するや其の原因一に非ず。高利貸なる者其一、自由党と称する者其二、賭博者其三、警官の怠慢其四」。これからわかるように、この事件の一番の原因を「高利貸し」の存在としているのである。

 先に述べたように、生糸の生産農民は前貸し金の貸与によって養蚕をおこなうのである。が、生活費や実際の生産量の不足などを考慮に入れると、「高利貸し」からの借金が必要になる場合が多い。この高利貸しの金利が法外のものだったのだ。

 当時も「利息制限法」が存在し、年率は20%以内と決められていた。しかし、実際には年率が200~300%のものがほとんどだったのだ。たとえば、8円の借財に対して一年後の利息が18円46銭にもなったという記録がある。今なら「過払い金請求」ができるだろうが、もちろん当時にはそういった制度はなかった。不当な利息請求を役所や警察に訴え出てもまともに対処してくれることはまずなかった。

 当時の風布村にある耕地の例でいえば、24戸の農家の借財は総額2144円あった。一戸平均90円である。当時、農民たちが所有していた土地の評価価格は一戸平均65円であった。つまり、全戸が破産状態であったのだ。その上に、高利貸しの暴利がこの借金に追い打ちをかけてくるのである。

 江戸時代や明治時代初期では土地はすぐさま取り上げられることはなかった。10年後までに返済すれば所有権は維持できた。しかし、事件が発生する頃になると裁判制度が確立していたので、返済が滞ると裁判所の判断で土地所有権の移転が直ちにおこなわれるようになった。近代的制度は村落共同体にあった「温情主義」を排した。「身代限(しんだいかぎり)」といって、借金が返済できなければ土地を追われたのだ。このため、秩父だけに限らず、1884年には全国で146件の農民騒擾があったという記録が残っている。

 大宮郷秩父市)ではある貧農が「マネーゲーム」に目覚め、わずか10年で5万円もの財産を得た。もちろん「高利貸し」によってである。当時の平均月収は10円程度と想定されるので、この人物の財産は月収の5000倍だ。仮に今日の月収が25万円と想定すると当時の5万円は今の1億2500万円に相当する。この莫大な資金がさらにマネーゲームに投入されるのだ。当然のことながら、この人の家は、大宮郷に入った困民党軍によって真っ先に焼き打ちにあった。

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加藤織平の墓

 田中千弥は、暴動の原因のひとつに「賭博者」を挙げている。確かに、困民党の総理であった田代栄助は「博徒」であった。副総理の加藤織平も「博徒」の一面があった。博徒が率いた運動だったから暴動という「博打」に出たとも考えられなくもないが、そもそも、山間部に住む農民の娯楽といえば賭け事が一番だったのだ。今はあまり流行らないのだろうが、昨今でいえば友人との「賭けマージャン」程度だったと思われる。実際、田代は当時はかなり難しいとされた「天蚕」にもチャレンジしていた。また、仲間を助けるために代言人(弁護士)の真似事もしていた。このため、田代は「子分200人」と言われたほど多くの人から慕われていた。「生来、強くをくじき弱きを助けるを好み、貧弱の者頼り来るときは付籍(血縁関係がないものを自分の戸籍に入れること)いたし、人の困難に際し中間に立ち仲裁等をなすこと実に十八年‥‥」と、田代自身が回顧している。加藤織平は豪農で金貸しもおこなっていたが、彼は困民党に参加する際、貸していた150円をチャラにしている。田代や加藤は、単なる博徒というより「律儀な任侠」と呼ぶのが相応しい。

 警官の怠慢は酷かった。また、運動の参加者に対する扱いも酷いものだった。田中千弥は先の雑録で「警察官吏は、明治16年よりして、小民等が高利貸の苛酷なる督責に苦しみ、彼の高利貸に説諭あらんことを縷々(るる)哀訴するも、しりぞけて受理せず‥‥」と記し、警官の怠慢を詰った。さらに、「警察官等が、人民を訊問するありさまは、警吏自ら三尺ばかりの生木の棒を携持し、訊問所に入る者をば、未だ何等のことを問わざる前に、先ず面部頭部を言わず一擲(てき)、或いは二三擲(うち)て後訊問に及ぶ」など暴力的な取り調べをおこなった。中には、取り調べ中に熱した鉛を背中に浴びせられた者もいて、獄死するもの、釈放後に病死する者も少なからずいた。

蜂起直前までの経過

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風布の村民が10月31日に集結した琴平神社

 困民党の一斉蜂起は1884年の11月1日だったが、すでに前日には大きな動きがあった。そのひとつが「風布(ふっぷ)組」と呼ばれた荒川右岸の高地にある風布村(現在は寄居町風布と長瀞町井戸)の決起だ。

 風布村は困民党の中核部隊だった「上日野沢」「下日野沢」「石間(いさま)」「上吉田」「下吉田」の諸集落とは少し離れた場所にある。このため、11月1日に椋神社へ行くためにはやや早めの時間に風布村の集結場所である琴平(金毘羅)神社に集まる必要があった。当初は11月1日の午前8時が集合予定時間だったが、血気盛んな人々はすでに前日の昼ごろには大多数が集合していた。風布村は80戸の集落だが、他の集落からの参加者を含め、約140人が結集していた。江戸期の農民一揆同様、挙村参加だった。 

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蜂起前に良く幹部会議がおこなわれていた小前耕地

 上日野沢村の小前耕地で幹部会議がおこなわれるということから、大野福次郎をはじめとする先遣隊が31日の午後3時に琴平神社を出発した。ところが、この先遣隊は荒川を渡る前、通称「おんだし河原」(現在の長瀞ライン下りの出発点付近)で逮捕されてしまった(約半数は逃亡したが大野は捕縛された)。すでに風布村の動きは警察側に把握されていたのだった。この報を受けた本隊の約120名は、動きを警察側に捕捉される前に琴平神社を出発し、警察官が集まっている皆野村を大きく迂回して荒川を渡り、山中を西進して上日野沢村方向に進んだ。

 31日には、宝登山の南東側にある金崎でも困民党軍の動きがあった。金崎には約200人が出資して組織された高利貸会社である永保社があった。ここを困民党の幹部である新井周三郎、柴岡熊吉、村竹茂市ら数十人が襲い、刀や槍を奪うとともに、借用証書約1万円分を焼却した。あわせて、その隣にある高利貸し宅の打ちこわしもおこなった。

 11月1日にも、椋神社での総決起前に「阿熊村」や「清泉寺」で警官隊との衝突があった。ここでは蜂起軍の2人、警察官の1人が死亡した。この争いの後、警察隊は下吉田村戸長役場に引き上げた。が、ここは椋神社にほど近い場所にあるため、神社に集まった蜂起軍の一部がこの役場を包囲した。逃亡を図る警察官のうち、逃げ遅れた1人を捕虜にした。捕らえられたこの警察官=青木与市巡査は蜂起後もそのまま小鹿野、大宮郷、皆野と蜂起軍に連れ回わされたが、皆野にて困民党幹部の再三の説得に応じ、困民党軍に協力することになった。彼には刀が与えられ、新井周三郎の隊に組み入れられた。このことが、困民党本部が解体する切っ掛けを作ることになったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。

困民党が組織されるまでの経過

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困民党軍が集結した椋神社の大鳥居

 かくして秩父困民党は椋神社に集結し、約3000人の軍勢が甲乙の二大隊に分かれ、1日午後8時、小鹿野に向けて進軍を開始した。なぜ、かくも大勢の人々が一堂に会したのか、あるいは会することができたのか、その出発点は1883年12月、下吉田村の高岸善吉、坂本宗作、落合寅市の3人による「高利貸説諭請願」にあった。

 三人は大宮郷にある秩父郡役所に出向き、高利貸しへの返済で苦しんでいる農民の実情を話し、負債の据え置きと償還の年賦払いの要求を郡長におこなった。前述したように、負債の利息には法律上、年20%までに制限されていたが、実情は200~300%だった。しかし、要求は全く受け入れられず、「身代限」の農家は700戸にも達するほど困窮を極めていた。

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高岸善吉の家

 1884年2月、大井憲太郎の秩父遊説を切っ掛けとして上記の3人は3月に自由党に入った。自由党本部の大会に出席した高岸善吉はその報告を兼ねて彼の「親分格」である石間(いさま)村の加藤織平の家を訪れ、坂本や落合らとともに加藤家の土蔵に7人が会して以下のような盟約5か条を作り血判した。なお、この内容は警察側の密偵が情報を入手し、鎌田沖太警部のメモに残されて後世に伝わった。鎌田はこうしたスパイ活動の業績が認められたためか、後には秩父郡長に出世している。権力の手先になったものが出世街道を進む点は今も変わらないが。

1、我々は日本国にあり圧政官吏を断て直正の人を立つるに務むること。

2、我々は、前条の目的を達するため恩愛の親子兄弟妻を断ちて生命財産を捨てること。

3、我々は相談の上、ことを決すること。

4、我々の密事を漏すものは殺害すること。

5、右の契約は我々の精心にして天に誓い生死を以て守ること。

 これらの内容は、後述する困民党の4か条や軍律5か条につながっていく。

 春から夏は農民にとってはもっとも忙しい時期で、養蚕もまたこの時期が勝負になるため、彼らの動きが表面化するのは8月に入ってからのことだった。上記の3人が中心となって各村・各耕地へのオルグ活動がおこなわれ、困民党に加わる人々が増加した。風布村の石田造酒八(みきはち)、石間村の新井繁太郎や柿崎義勝など困民党の中核を担った人物もこの時期に加わっている。活動は和田山や巣掛峠、井上伝蔵宅での集会や、各債主への年賦償却の談判や警察への請願だったが、成果は得られなかった。

 9月6日、阿熊村の新井駒吉宅で、井上伝蔵や坂本宗作らと後に困民党の総理になる大宮郷の田代栄助が初の面談。ここで「債主に対して4年据え置き40年賦償却」の方針が提案される。続いて7日、困民党の基本方針である「4か条」が田代、井上、高岸、坂本、落合、上州自由党リーダー格の小柏常次郎(上日野村)などの会合によって決定された。

1、高利貸しのために身代を傾けもっか生計に苦しむ者多し、よって債主に迫り10年据え置き40年賦に延期を乞うこと。

1、学校費を省くため、3年間の休校を県庁に迫ること。

1、雑収税の減額を内務省に請願すること。

1、村費の減額を村吏に迫ること。

 収入の少ない農民にとって「学校費」は多大な負担であった。当時、授業料は有償で、松方財政による不況で文部省から県への補助が減ったため村民の負担はさらに増大した。実際、椋神社内にあった椋宮小学校では、学齢人口は474人だったのに対し、実際に通学できたのは200人弱という有様だった。

 雑収税は国税で、たばこ税や酒税がこれに該当した。ここでも不況による国や県、町村の税収減を増税で賄おうとしていたという背景を読み取ることができる。

 この「4か条」によって困民党の運動が日常化したのに対し、警察は「山林での集会」は取り締まったものの、「債主に対し穏やかに掛け合うならば差し支えない」という姿勢で臨んだため、債主への直談判が増加した。これに対し債主側の反発も強まり、負債農民に対する裁判所から召喚が増え、対立は泥沼化した。

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復原された井上伝蔵宅

 10月12日(13日説もある)、井上伝蔵(上吉田村きっての豪農自由党員)宅で田代、加藤、坂本といった中核メンバーが集まり、これまでの個別交渉では問題は解決せず、これからは「衆力を要して年賦据え置きを各債主に迫り、村費削減を村吏に迫り、雑税減額・学校休校を県庁に請願すること」を決した。その上で、準備金強借などの非合法活動をおこなうことも決めた。

 14日、新井周三郎や坂本宗作が中心となって横瀬村の高利貸し宅を襲い、家族を縛り上げた上、金銭や物品を強奪した。

 18日、門平惣平宅(上日野沢村)に田代、坂本や小柏、大野福次郎らが集まり、「これよりは暴民とともに高利貸しの家を壊すつもりなのでその時は共に力を合わせよう」と決した。さらに田代は「中山道の鉄道破壊、電信機の切断」までも提案したとされている。

 25日、上記の動きを知った自由党本部は「軽率に事を起こすな」という指示を出した。秩父では自由党が直接に指揮する運動がなかったため、あくまでも「通達」の域を脱してはいなかった。

 26日、粟野山(あのうやま)で会議がおこなわれ、田代と井上は11月1日の決起を30日延期することを提案した。田代は、早い決起では秩父だけの運動になるが、一か月の猶予があれば群馬や長野など周囲の勢力と一斉蜂起できると考えていた。が、困窮した農民はもはや家には戻れない状況だったため、大多数が延期案を認めず11月1日の蜂起を決定した。

 27日、小鹿野町にある小鹿(おしか)神社の神職が、「困民党軍は28日に決起する」という「密告」を警察におこなった。このため、多くの警官が各所で警戒をおこなったが、困民党軍のはっきりとした動きは確認できなかった。この神職の息子は困民党の幹部になり蜂起にも参加したが逮捕後に無罪放免になっているため、神職と警察との間には何らかの裏取引があったという主張もある。が、一方、困民党側のかく乱作戦という見方もあり、研究者間でも意見が分かれている。

 28日、信州南佐久郡北相木村から菊池貫平と井出為吉が秩父に来て加藤織平宅に宿泊。秩父と信州とは9月段階で交流があり、萩原勘次郎(大田村)が剣道指南役と称して度々北相木村を訪れていた。29日、両名は田代と面会した。田代は「我々は借金党である。大尽より借りた金円の返済据え置きを迫り、場合によれば大家を潰すつもり」と言ったため両名は「左様な儀であるなら私らは帰国する」と答えた。すると、田代が「この場に至っては、仮に外人たりとも帰ることは相ならぬ」と言ったため両名はやむを得ず留まることにした。 

 なお、この28日には自由党が解党宣言をおこなっている。

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小前耕地の天王さま。この辺りで最終会議がおこなわれたらしい

 30日、小前耕地の山中(天王さまあたりか?)で幹部会議が開かれ、田代は再度、30日間の延期を迫ったが却下された。31日の会議でも田代、井上は延期を迫ったがやはり却下された。

 かくして、11月1日の決起が最終的に決まり、先述のように、早くも風布村では31日に村を挙げて総結集、金崎村では「永保社」の襲撃がおこなわれた。

 これより、秩父困民党は9日間の戦いを繰り広げるのである。

*以下は次回にて(30日頃更新予定)

*現地での写真撮影はまだ終わっていないので、終わり次第、今回の項にも写真を追加いたします。

 

 

 

〔18〕浅川旅情、いや遡上(そじょう)です(後編)

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村雨紅の心象風景を具現化した看板

日野台地形成の一翼を担った浅川

 日野台地にいる。

 少し前まで、国道20号線(甲州街道)の日野橋交差点からJR中央線の日野駅辺りまでは渋滞の名所だった。府中から八王子に行くとき、この渋滞区間が嫌で、多摩川に掛かる関戸橋を渡って川崎街道・野猿街道を西に走り、高幡不動を左手に、浅川を右手に見つつ八王子方向に走った。現在では、渋滞区間を避けるようにバイパスができてこちらが国道20号線になり、上の渋滞区間都道256号線に「格下げ」となった。

 かつての20号線は日野駅を過ぎると上り坂があり日野台地の上を走った。浅川右岸側を走る野猿街道は、この日野台地を右手やや遠めに見ながら八王子市に入る。2007年に開通した「日野バイパス」はこの台地のほぼ中央部を東西に貫く。八王子方向に進むときは上り坂になるのでそれほど高低差は感じられないが、八王子から府中方向に進む際、空気が澄んでいるときは府中市街地だけでなく、そのはるか前面には都心の高層ビル群が視界に入り、スカイツリーまで見えるため、その眺望の広がりから台地の高さを意識することがある。

 日野台地は東西に約5キロ、南北に約3キロに広がる。東には多摩川と浅川合流点が作った低地があり、北には多摩川、南には浅川が造った低地、西には南東方向に流れ下る浅川が関東山地の東丘陵部と日野台地とを分かっている。台地は「下末吉段丘」にあり標高は100m程度だ。台地の南側は河成段丘の存在がよくわかり、まず細長く立川段丘面があり、さらに浅川が造った沖積低地があって浅川の流れにいたる。

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段丘崖からの湧水は「黒川清流公園」を造っている

 このうち、下末吉段丘と立川段丘との間の段丘崖の存在は明瞭で、段差は約20メートルある。JR中央線・豊田駅の北側にある「東豊田緑地保全地域」はよく保存され、湧水が造った池や小川は「黒川清流公園」として整備され、絶好の散策路や親水公園になっている。また、この段丘崖は中央線を挟んだ東側にも続き、そこには「神明野鳥の森公園」がある。浅川の蛇行は耕作地に大きな被害をもたらす一方で、こうしたありのままの自然に触れる機会を多くの人々に与えてもいる。何事にも善し悪しの両面があり、善悪は常に相対的なのだ。

八王子の市街地を少しだけ歩く

 国道20号線は浅川に掛かる「大和田橋」を過ぎると、五差路として知られる明神町交差点に至る。京王八王子駅やJR八王子駅に進むにはこの交差点を直進するが、西八王子や高尾方向に行きたい場合は、この交差点や横山町の市街地の混雑を避けるため、大和田橋を渡ったすぐのところにある「大和田橋南詰交差点」を右折し、「北大通り」を進んで「追分町」交差点から再び国道20号線に戻る。

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妙薬寺にある「横山塔」

 この北大通りは「元横山町」を通るが、この通りの南側に「妙薬寺」という小さなお寺がある。墓地の左手に小さな門扉があり、これを開けて中に入ると写真の「横山塔」を見ることができる。横山塔は、この地を支配した横山党の供養塔で、寺ではこの横山氏の墓をそう呼んでいるのだ。実際、「横山塔」と記したものが写真の左手に見える。

 多摩丘陵は『万葉集』に「多摩の横山」と記されているということはずいぶん前の回にも紹介したが、これは武蔵国国府があった府中からは、多摩川の向こう側に横に連なる山々が見えるというところからそう呼ばれたと推察されている。私たちは子供の頃からずっと、多摩丘陵のことは「向こう山」と呼んでいた。

 この横山は町の地名にも残り、八王子市には横山町と元横山町がある。この横山を拠点として平安時代後期から鎌倉時代にかけて活動したのが「横山党」と呼ばれる武士団だ。この頃の武蔵国には「七党」といわれる有力武士団があったが、この横山党はその筆頭勢力だったらしい。

 横山党は平安末期に出た横山義隆(義孝)がその祖といわれ、義隆の父である隆泰は、もとは小野隆泰を名乗っていたが、この横山の地に来て姓を改めたとのこと。この横山(小野)隆泰の系図なるものを見ると、7代前に歌人として知られた小野篁(たかむら)にさかのぼり、さらに5代前には小野妹子(遣隋使として有名)までたどれる。この小野一族からは小野小町(絶世の美女)や小野道風(書の大家)が出ている。いずれも日本史の教科書にも必ず出てくるほどの著名人だ。まぁ、こうした系図はあとからなんとでも作成できるので、言ったもん勝ちのような気もするが。

 もっとも義隆の孫の横山経兼の家系からは畠山重忠の母や和田義盛の妻、梶原景時の母などを輩出しており、また奥州藤原氏の最後の当主である泰衡(やすひら)の首級を掲げたのが横山時廣(経兼のひ孫)だったので、祖先がだれであろうと、この横山一族はそれなりの足跡を歴史に残しているのは確かである。

北浅川と南浅川との出会いの場

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写真の右手の流れ込みが北浅川、左手が南浅川

 浅川はいくつもの支流をもっているが、それ自体も八王子市役所の西側で2つの流れに分岐する。もっとも、遡上しているから「分岐」というのであって、通常ではここで2つの流れが合流するといったほうが正確だろう。写真の右側に見える流れ込みは北浅川、左側の流れ込みは南浅川と名付けられている。それゆえ、私は勝手に「浅川の出会い」と命名した。なお、北浅川は陣馬山と堂所山との間の谷を、南浅川は小仏峠付近を源流としている。

 多くの水を集める浅川はよく洪水を起こして氾濫原を造る。その浅川が造った低地に八王子市街はある。この市街地一帯は「八王子盆地」とも呼ばれ、東は日野台地、北は舟田丘陵、西は関東山地、南は小比企丘陵によって取り囲まれている。よく八王子は「夏暑く冬寒い」と言われるが、これは盆地にある町ではよく聞く言葉だ。確かに、夏の最高気温は都心と変わらないが、冬の最低気温は都心より5度以上低いことがしばしばある。

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合流点すぐ下にある「露頭」

 写真にあるように、合流点のすぐ下には黄褐色の「露頭」がよく見える。ちなみに、下流の橋は「鶴巻橋」、右手に見える建物は「八王子市役所」の庁舎である。露頭とは地層や岩石が露出していることを表し、たとえば写真のような場合、川床は通常は砂や小砂利、小石などで覆われているが、速い流れなどによってそれらが下流に流され、その下にあった地層が姿を現すときに使われる。一般には「滑(なめ)」と呼ぶ場合が多い。土木・建設の世界では「土丹(どたん)」と呼んでいるようだ。

 私が住んでいる府中市の多くは「立川段丘面」にあり、表面を関東ローム層の「立川ローム」が覆い、その下には多摩川の蛇行によってもたらされた堆積物があり、その下に「上総(かずさ)層群」がある。この上総層群は関東平野一帯の基盤を造っているもので、海底の堆積物によって形成されている。つまり、関東平野の多くの部分はかつて海だったのである。

 ”浅川の出会い”付近もかつては海の底にあった。それが隆起活動によって海退が進み、丘陵や台地には谷が形成され川が誕生した。平地には川がもたらす堆積物が覆い、その上に富士山や箱根連山、赤城山浅間山などから噴出したローム(粘土やシルトなどを多く含む粘性の高い土壌)が地表を覆った。が、やがて川はそれらを洗い流し、自らが削った岩石などによって河原を造るが、流れが強い場所などではその下にあった海成層を露出させるのだ。

露頭がもたらした文化

 上総層群の露出は地層研究者や野外観察者に意外な発見をもたらす。川の露頭と聞くと、多摩川流域に住む人はすぐに昭島市にあるJR八高線多摩川鉄橋周辺の「滑(なめ)」を思い浮かべる。この辺りの多摩川左岸側には広大な露頭があることはよく知られている。これは自然に露出したものではなく、周辺における過度な砂利採集がもたらしたものである。

 ここで1961年、当時小学校教員だった田島政人さんが化石を発見した。それがクジラのものらしいことが分かると、本格的な調査が始まり多くの骨の化石が見つかった。約一年の調査を終え、骨の復元がおこなわれるとその長さは約11mに達し、これから体長が15、6mのクジラのものであることが判明した。さらに研究が進んだ結果、そのクジラは約200万年前のものであり、未発見の新種だということも分かり、「エスクリクティウス・アキシマエンシス」という学名が付けられた。

 この発見は昭島市にとっても朗報であり、これを記念して「昭島市民くじら祭」が開催されるようになった。今年も第47回目の「くじら祭」が8月3、4日に開かれ、花火大会や模擬店、ダンス大会などだけでなく、もちろん、巨大なアキシマクジラ(の模造品)が登場するパレードもおこなわれた。

 ところで、クジラの化石は上総層群から発見された。つまり200万年前、昭島市のある場所は海の底だったのだ。現在は標高100mの地点にあるが。

 一方、浅川でも上総層群からは大きな発見があった。当時、小学校教員だった相場博明さんが浅川の露頭で2001年、大型脊椎動物の化石を発見した。02年に本格的な調査がおこなわれ、約230万年前の古代ゾウのものであることが判明した。そして10年には未発見の新種であることが認定され、「ステゴドン・プロトオーロラエ」という学名が付けられた。一般には、「ハチオウジゾウ」と呼ばれている。陸上動物のゾウの化石が海成層から発見されたということは、当時、八王子のその地は海と陸との境目に位置していたと考えられている。

 川の露頭ではこうした偉大な発見があることを知った私は、化石に関してはまったく無知であるものの、できるだけ注意深く河原を観察する習慣が身に付いた。そして、今回の浅川探訪の折、ある場所の露頭で銀色に光るものを発見した。それは化石ではなく、100円玉だった。暑い最中の発見だったので、それはすぐに缶コーヒーに化けた。

私が天皇陵を訪れるなんて

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武蔵野陵には昭和天皇が埋葬されている

 「浅川の出会い」の南側にある国道20号線には「追分交差点」がある。追分とは道が2つに分かれる場所を指し、新宿には甲州街道と青梅街道に分かれる「新宿追分」、軽井沢には中山道と北国街道に分かれる「追分宿」、美空ひばりには、彼女の人気を不動のものにした「りんご追分」がある。八王子にある追分は、南浅川の流れに沿う甲州街道と、北浅川に沿う陣馬街道(案下街道)に分かれる交差点である。

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南浅川橋をを渡ると多摩御陵に至る

 国道20号線を追分交差点から高尾方向に約3キロ進むと、多摩御陵入口交差点に出会う。ここを右折して広々とした道を進むと写真の南浅川橋を渡ることになる。橋を渡ったすぐ左手には「陵南公園」があり、先に進むと「武蔵陵墓地多摩御陵)」に至る。

 写真にある南浅川橋はこの御陵に至る「重要」な橋ゆえにかなり豪勢に造られている。実用性より「立派さ」が重視されている。写真に見えるように橋の欄干には豪華な装飾がある。が、近寄ってみると案外、汚れはひどく、なかなか細部までは清掃が行き届いていないのは少し残念な気がした。

 橋上から南浅川の流れを眺めてみた。清流とまではいかないが、かつての浅川の汚れを知っている者にとっては隔世の感を抱くのも事実だった。高度成長期、浅川は「どぶ川」と呼ぶのに相応しいものだったからである。橋からは高尾山の姿がよく見える。私にとってこの山は、「向こう山」「浅間山(せんげんやま)」の次に身近な存在だ。かつてこの山の標高は600mとされていたが、再計測の結果、現在では599mになっている。

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大正天皇陵。この天皇は数奇な運命をたどった

 当初は「陵南公園」だけを訪れ、「多摩御陵」に入る予定はなかった。しかし、こうした探訪の機会がなければ御陵に行くことは絶対にないだろうと思い、陵南公園からケヤキ並木を西に進み、御陵の敷地に入った。「多摩御陵」は通称で、現在は「武蔵陵墓地」が正式名称のこと。これは1989年に昭和天皇の「武蔵野陵(むさしののみささぎ)」が出来たとき、かつての「多摩御陵」から変わったらしい。が、ほとんどの人は「多摩御陵」と呼び、交差点名を始め多くの場所で今でも「多摩御陵」の名を目にする。

 墓地の正門から御陵までは120本の北山杉から構成される並木道がある。この杉はわざわざ京都から取り寄せて植樹されたらしい。4陵あり、大正天皇陵(多摩陵)、貞明皇后陵(多摩東陵)、昭和天皇陵(武蔵野陵)、香淳皇后陵(武蔵野東陵)が広大な敷地の中にゆったりと並んでいる。いずれも上円下方墳で南面している。「天子(君子)南面」は中国の『易教』に由来するもので日本でも古くから踏襲されている。私が尊崇する歌人西行(佐藤義清)は極めて優秀な武人でもあって、出家する前は鳥羽上皇を守る「北面武士」であった。南面する天子を警護するため、武士は北面するのである。

 昭和天皇や皇后は同時代を生きたことのある私には記憶が新しいので割愛するが、大正天皇や皇后は「歴史的存在」になるのでとても興味深い存在だ。大正天皇は生まれつき健康に恵まれなかったため、また「人間味あふれる行動」などによって、後世ではあまり芳しくない評価を受けているが、ときには優れた歌を作り、自由闊達に生きようとした姿は、肯定的にとらえる必要があると考えられる。御簾の奥にいて権威を象徴するのではなく、積極的に庶民と交わろうとしたその姿勢は、明仁上皇天皇時代(平成)の有り様に大きな影響を与えたと考えられる。

 大正天皇が病弱であったのは彼ひとりに帰されるわけではなく、当時の宮中の生活様式に原因があったらしい。というのも、明治天皇には正室と5人の側室との間に5男10女の子供があったが、2人が死産、6人が夭折した。さらに10人の皇女の死因はすべて髄膜炎(当時は脳膜炎)で、大正天皇自身も髄膜炎で苦しんでいた。これは高い身分の男女は首から胸まで白粉を塗っていたが、この粉には鉛分が多く含まれていた。このため、一般庶民にはあまり見られなかった髄膜炎は、天皇家や公家の子弟にはこの病気がかなり蔓延していたようだ。この事実が判明したのは1924年(大正13年)のことだった。

 病弱だった皇太子は学校を休学・中退するなどふさぎ込んだ生活を送らざるを得なかったため、側近は早めの結婚を画策した。満18歳の皇太子に嫁いだのは満15歳の九条節子(さだこ)で、公家出身でありながら農家に里子に出され「黒姫」とあだなされるほど健康的に育った女性だった。明るい性格と極めて健康であり多産系の家系であるという点が皇太子妃に選ばれた理由だった。外見は二の次だったらしい。

 皇太子はこの女性を得てからは性格が明るくなり社交的になった。また、それまでの天皇家は世継ぎの存在を確実にするために側室制度を有していたが、大正天皇は生涯、この「黒姫(貞明皇后)」を大切にしたため、以来、側室制度は廃されて「一夫一婦制」が確立した。皇太子妃は結婚後すぐに懐妊し、1901年4月29日、第一皇子の裕仁親王昭和天皇)を出産した。

 良き伴侶を得て明るい性格に変貌した大正天皇だったが、残念なことに病状は進行し、1921年には裕仁親王を摂政に任命するまでに至った。そして26年(大正15年)12月25日、葉山御用邸にて崩御し大正時代は終わった。一方、貞明皇后は51年(満66歳)に亡くなるまで、「癩(らい・現在のハンセン病)予防協会」の活動、滝乃川学園(日本最初の知的障碍者施設)の活動支援など、すぐれた社会奉仕活動をおこなった。

北浅川を遡上する

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優れた人物を輩出した恩方中学校

 甲州街道の追分交差点に戻り、今度は陣馬街道を進むことにした。しばらくの間、北浅川はこの街道の北東側のやや離れた場所を流れるために視界に入らないが、八王子市弐分方町にある日枝神社あたりで街道は北浅川に突き当たるために左へほぼ直角に曲がり、それからはほぼ北浅川の流れに沿って陣馬山方向に進んでいく。圏央道の下をくぐり、山間に入りはじめた場所の右手に写真の八王子市立恩方中学校があった。

 この学校の前は何度か通ったことがあり、数か月前にも和田峠からの帰りに通ったはずだが、この横断幕を目にしたのはこれが初めてだった。前からあったが目に留まらなかったのか、最近になって取り付けられたのかは不明だが、今回はしっかりと目に留まり、いそいで車を脇道の路肩に留めて撮影をおこなってみた。羽生永世七冠国民栄誉賞を授与されたのは昨年のことなので、最近掲げられた可能性が高いのだが。

 この栄誉は、恩方中学校の関係者にとっては十分に誇りたい事なのだろう。一方、私の母校である府中市立第一中学校には、果たして誇れる卒業生はいるのだろうか。恩方中学校に比べると府中一中の規模ははるかに大きいので卒業生の数も数倍多いだろうが、羽生永世七冠に比肩できるような有名人の名前は思い浮かばない。私が知る限り、偉大なる先輩といえば歌手の布施明ぐらいである。歴史だけは古く、かつ卒業生も多いはずなのに、この二人の存在を比較すると、この先、我が母校が優れた人物を世に送りだし、その栄誉を記した横断幕を作成して国分寺街道沿いにそれを掲げる日が来るだろうことはおそらくないだろう。府中一中の見通しは「霧の摩周湖」よりもなお暗い。

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恩方中学校の前を流れる北浅川の流れ

 恩方中学校のすぐ近くに北浅川が流れている。橋上から浅川の流れを眺めた。羽生永世七冠は中学生時代の夏に、この流れを見ながら将来、将棋界に大きな旋風を巻き起こすだろうことを思い描いていたに違いない。この小さな流れが南浅川と出会い、やがて多摩川に出会って東京湾にそそぎ、さらに湾流に乗って黒潮に至り太平洋で勇往邁進するように、いずれ棋界を制するということを、浅川の流れを目で追いながら心に誓っていたに違いない。一方、私が中学生時代にこの流れを見たとすれば、明日のことは考えずにすぐに川に飛び込み、ひたすら魚を追っていたに違いない。いや絶対に。

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八王子市の市花であるヤマユリ

 陣馬街道をさらに遡上すると道は次第に高度を増し、谷戸(やと)に入っていった。斜面には八王子市の市の花であるヤマユリが多く咲いていた。先端部に直径20センチほどの大きな花をいくつも付けるため、その重みでお辞儀をしているかのように咲いている。単独でも見事な姿を見せてくれるが、群生地ではことのほか美しさを感じさせる。息を呑むほどに美しいとは、この花を前にしたときに使う言葉かもしれない。

「夕焼小焼」の故郷~夕やけ小やけふれあいの里を散策する

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村雨紅の実家は恩方町にある宮尾神社の宮司

 街道をさらに遡上すると、「夕やけ小やけふれあいの里」にでる。ここは1996年、農村体験型レクリエーション施設として出発し、2001年に現在の名称に変更され、少しずつ設備を拡張しながら現在に至っている。ここが「夕やけ小やけ」を名乗っているのは、すぐ近くに童謡「夕焼小焼」を作詞した中村雨紅(本名髙井宮吉) の生家(宮尾神社)があるからだ。

 「夕焼小焼」の歌詞や曲を知らない人はまずいないと思えるほど、誰もが口ずさんだことがある名曲で、この歌に触れたときには思わず自分の故郷を思い出し、子供時代を懐かしむ人はとても多いに相違ない。八王子駅では発車のメロディにこの曲を使っているし、全国にある自治体が、防災無線で夕刻を告げるメロディとしてこれを使っている例は多いようだ。

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宮尾神社の境内にある歌碑

 私はこの「ふれあいの里」には何度も訪れているが、毎回、山中にある宮尾神社を訪ね、写真にある歌碑を目にしている。

 この歌詞を書いた中村雨紅(1897~1972)は前述したように宮尾神社の宮司の次男として上恩方に生まれ、師範学校を卒業して1916年に都内にある小学校の教師になった。理想とは裏腹に、下町に住む子供たちのすさんだ生活に触れ、彼は情操教育の必要性を痛感し、担当クラスでは文集の作成を進めると同時に子供に語るための童話を作り始めた。

 「夕焼小焼」はいつ頃に作ったのかは諸説あるが、1919年説が有力である。21年には「髙井宮」の名で童話を雑誌に投稿し野口雨情の目に留まった。23年、やはり小学校教師をしていた草川信が「夕焼小焼」の詞に曲を付け童謡として世に出ることになった。26年に高等師範学校を卒業した雨紅は厚木市の高等女学校の教師になり、国語教師を続ける傍ら、童謡や詩を作り続けた。

 中村雨紅のペンネームだが、「中村」は一時、おばの家の養子に入っていたときの姓で、「雨紅」は、私淑していた野口雨情から「雨」の一字をもらい、それに雨情のような才能に自分も染まりたいという念願から「紅」を付けたらしい。なお、野口雨情についてはこのブログでも以前に少し触れたことがあり、代表作の「赤い靴」についても触れている。

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「ふれあいの里」にある「夕焼小焼館」内の展示

 「ふれあいの里」には「夕焼小焼館」があり、写真にあるように中村雨紅に関する資料や展示をおこなっている。真面目に関心を抱く人にはとても参考になるものなので訪れる価値はあると思うし、景色は当時とは同じではないものの、彼が幼い頃に触れていた世界の一端を共有することは可能かもしれない。

 しかし、私のような不真面目者には、彼についての「逸話」のほうがとても気になるのである。ひとつは、彼が小学校の教師をしていたときの「通勤話」であり、もうひとつは、彼が「夕焼小焼」を作詞する際、イメージしていたのは「どこの寺の鐘の音なのか」、ということである。

 まず「通勤話」では、彼は日暮里の小学校まで毎日、上恩方の実家から通勤していたというものである。当時は恩方と八王子駅を結ぶバスはなかったので、徒歩で約16キロの道のりを行き来したというのだ。当時の小学校は何時に始業し終業するかは不明だが、仮に8時半始業、15時終業としよう。ちなみに日暮里駅から彼が最初に勤務した第二日暮里小学校(当時と現在ある学校が同じ場所にあったと仮定)までは徒歩8分である。朝は職員会議があると考えると、最低でも8時には日暮里駅に着きたい。授業は15時に終わっても、教師には雑用が多い。授業の予習やテストの作成・採点などは汽車の中でおこなうにしても、子供と遊んだり、教師仲間と教科内容の検討会議などがある。もちろん、職員会議もあるだろう。彼は子供のために童話を作ったり文集を作ったりする熱心な教師だったらしいので、子供との面談だけでなく、地域や家庭を訪問することもよくあったと考えられる。とすれば、早くても日暮里駅には17時頃に着くと想定できる。

 当時の中央線は完全には電化されていなかった。立川駅浅川駅(現在の高尾駅)との間の電化完了は1930年である。彼が日暮里の小学校に勤務したのは16年からなので、彼が通っている間、八王子と立川の間は汽車が走っていたのである。現在の中央線の最高速度は100キロである。私が幼い頃に知っていたオンボロ南武線は、電車であっても60キロがせいぜいだった。当時の汽車が時速何キロで走っていたかは不明なので、仮に八王子駅から日暮里駅の間を現在の中央線と山手線を使って通勤するとして「ジョルダン・乗換案内」で調べてみた。

 日暮里駅に8時に着くためには6時40分発の中央線・快速電車に乗る必要がある。新宿駅で山手線に乗り換えて日暮里駅に着くのが7時58分である。一方、帰りは17時ちょうどの山手線に乗り、中央線の快速で八王子に着くのは18時16分である。先に述べたように駅と自宅間は16キロあり、すべて徒歩での移動だ。自宅から駅までは緩い下り坂なので、健脚ならば約3時間というところか。帰りはやや上り坂でしかも恩方は山間の地なので日没が早い。とすると、日が長い季節でもほぼ真っ暗な道を歩くことになる。よく舗装された現在の道でも灯りが乏しいので車利用ですら少し怖い思いがする。ましてや、当時の道路状況(泥道)や自然状況(クマやイノシシが出るかも)を考えると、帰りは約4時間掛かると想定したい。

 すると、6時40分の汽車に乗るためには3時半には家を出たい。家に戻るのは22時をかなり過ぎる。とすると、自宅に居られるのは5時間ほどだ。これでは食事も入浴も睡眠も満足に取ることはできない。しかも、これは今の電車を利用しての話であって、これが私が知っている幼い頃の南武線程度の電車でも片道30分ほどは余計に掛かると考えられる。とすれば、自宅滞在時間は4時間になる。彼がナポレオンだったとしても、睡眠時間は4時間必要だ。つまり、これは不可能な想定なのである。

 彼は教育熱心な教師だったのだ。できるだけ長い時間、子供たちと一緒に居たかったはずだ。そうであるなら、無駄な通勤時間(1日10時間以上)はカットしたはずである。だが、彼に関するエピソードでは、古い時期のものほど、この長い通勤時間を彼の熱心さとともに取り上げている。しかし、ここ数年前ほどの新しい記述では、日暮里の小学校での教師生活のときは本郷に下宿し、休暇のときに実家に戻ったとある。これが実情であろう。努力の人ほど、伝説は偽造されやすいのだ。

 次は「寺の鐘」についてだ。歌詞に「山のお寺の鐘が鳴る」とあるが、いったい彼はどの寺の鐘の音を聞いてこの歌詞を作ったのかという論争だ。

 八王子では、いくつもの寺が「我が寺の鐘の音である」と主張しているらしい。とくに、市内の「室生寺」、下恩方の「観栖寺」、上恩方の「興慶寺」の3つの寺の間では本家争いが激しかったらしい。これだけならば、いかにもありそうな話だが、論争はこれだけでは終わらない。この童謡は詞もそうだが、曲調により抒情性がある。夕暮れどきに寺の鐘がゴーンとなり、子供たちに今日一日の終わりを告げるといった「もののあわれ」を誘う雰囲気は、歌詞よりも曲の調べのほうに強く込められているというのだ。私も同感だ。ならば、この曲を作った草川信は長野市出身なので、彼が幼い頃に聞いていた鐘の音こそ本家なのだという主張が起こったのである。こうして、長野市では善光寺と往生寺が本家争いをしたという話が残っている。

 これだけならまだ良かった。これに、町田市相原町が参入したのである。なぜ相原町かといえば、中村雨紅は先に述べたように一時、中村家の養子に入っていた(1917~23年)からである。彼が「夕焼小焼」の詞を作ったのは1919年説が有力で、仮に21年説、さらに童謡として発表されたのが23年なので、19~23年の間に作られたとしても、彼の当時の本名は髙井宮吉ではなく、中村宮吉だったのであり、下宿先から実家に戻る場合、上恩方の髙井家ではなく、町田市相原町にあった中村家なのである。そうだとすれば、彼が帰宅時に聞いた鐘の音の主は相原町にある寺なのだというのである。しかし、彼の帰宅ルートには、鐘の音の音源となる寺がなかったのだった。が、相原町は負けてはいない。鐘の音は彼が幼い頃に恩方で聞いたものだとしても、彼が作詞するときに思い描いた夕焼けの景色は、彼が日暮里からの帰宅時に見た相原町のものだという主張を成立させたのである。そして、2019年、つまり今年は『夕焼け小焼け』100周年だとして、相原町では式典をおこなうらしい(おこなった?)。

 こうした「本家争い」に対し、彼は生前、歌詞の鐘の音は「心の中にある夕焼けの鐘の音」と発言し、どの寺の鐘の音であるのかというやや見っとも無い特定争いに終止符を打とうとしていた。考えてみれば、いや考えなくとも、実に当たり前の話なのである。

 そもそも、詩や詞はイメージの中で創られるものであって、創作者たるもの現地を見なくても想像の世界から創り上げられなければならない。中村雨紅が崇拝した野口雨情は伊豆大島に行くこともなしに「波浮の港」を生み、平尾昌晃、水島哲、布施明の3人は茅ヶ崎にある平尾の家で酒を飲みながら適当に詞と曲をでっち上げ、名曲「霧の摩周湖」を生み出したのである。一方、私は現地に行き、無数の写真を撮りながらその地を徘徊し、しかし、こうした駄作しか生み出せない。創作は、才能の有無が大きく左右するのだという実感がある。いや絶対に。 

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2007年まで陣馬街道を走っていたボンネットバス

 「夕やけ小やけふれあいの里」には「夕焼小焼館」をはじめとして「農産物直売所」「ふれあい牧場」「キャンプ場」「ふれあい館」などの施設があり、敷地内の山林を通る「夕焼けの小道」には「カタクリ」「河津桜」「アジサイ」「ヤマユリ」などが植えられており、四季折々の散策に色どりを添えている。

 施設にある展示物の「夕やけ小やけ号」と名付けられたボンネットバスは、ある年代以上の人々の郷愁を誘う。陣馬街道では1982年から2007年まで写真のバスが使われていた(京王八王子駅・陣馬高原下間・休日のみ)。ボンネットバス自体は1950年頃までが全盛だったので、陣馬街道にこの形のバスを走らせたのは懐古趣味の側面が強かったのだろうが、「ふれあいの里」の前を行き来するにはよく似合っていたはずだ。もっとも、バスの運行が先で「ふれあいの里」の開設のほうが後なのだが。なお、このバスは2009年に運行会社である西東京バスから寄贈されたとのこと。

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施設内に咲くヤマユリに誘われた蝶

 ふれあいの里の散策路では多くのヤマユリが花を付けていた。夏の時期は、このヤマユリとホスタ(ぎぼうし)の二大共演だ。艶やかなヤマユリの花と可憐なホスタの花、対照的で美しいが、私はクロアゲハの助演を好ましく思った。大きな羽を小さく打ち震わせながら蜜を探している懸命な姿に。

さらに上流に向かって遡上する

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昭和初期を思い起こさせる郵便局の建物

 ふれあいの里を出て、さらに北浅川を遡上した。

 街道を陣馬山方向に進むと右手に写真の「上恩方郵便局」に出会う。この街道には古い建物が多いが、この郵便局はまだまだ現役である。建造年は1914年説、28年説、38年説がある。どれが正しいのかは窓口で聞けば分かるだろうが、まだまだ歴史的建造物というほどには古くないので、あえて尋ねることはしなかった。わたしが子供だったころには、こうした建物はたくさんあり、この存在は日常そのものだった。過ぎ去った昭和時代を思い起こせれば、それ以上は望まない。ただし、あえて望むとすれば、赤いポストは昔の円筒状の丸型のものが良いと思った。

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陣馬街道にあった口留番所

 郵便局のすぐ先にあるのが「口野番所跡」である。この存在自体は見落としてしまいがちだが、この番所がかつては重要な役割を果たしていたということを思うと、ここで取り上げないわけにはいかなかった。それは、この陣馬街道(かつては案下街道と呼ばれていた)は甲州街道の裏街道もしくは脇街道であったからだ。八王子の追分交差点で甲州街道と別れたこの道は、和田峠(標高700m)を越えて相州に入り、JR中央線の藤野駅付近で甲州街道に合流する。本街道は小仏峠を越え、裏街道は和田峠を越えるのだ。本街道に「小仏関所」があったように裏街道にも「口野番所」があって「入り鉄砲出女」を取り締まっていたのだった。写真の説明書きにあるように、ここの番所は村持ちで、村方36人が交代で警備に当たっていたらしい。

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北浅川が支流(醍醐川)と最初に出会う場所

 番所跡から少し遡上すると、写真の合流点に出会う。右からの流れが醍醐川で、左の細い流れが本流の北浅川である。醍醐川は和田峠のすぐ北側にある醍醐山(標高867m)の谷に源を発している。上流部には集落が少ないので、水の透明度はかなり高い。ただし、こちらには写真からわかるように段差があるので、私が魚であったら醍醐川には遡上できない。この点、北浅川方向の流れなら楽勝である。したがって、私も魚も左の北浅川方向に進む。実際、陣馬街道もこちら方向である。

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北浅川の最上流付近

 北浅川を源流に向かって遡上する。やがて、右手に「陣馬高原下バス停」が見えてくる。陣馬山に登るハイカーはここでバスを降り、登山道へと向かう。登山道は和田峠のある陣馬街道方向にあるが、北浅川はここで街道と別れ、陣馬山と堂所山とが造った谷へと向かう。この泣き別れの場所には「陣馬そば山下屋」がある。私は入ったことはないが、お手頃価格なので結構、人気があるらしい。

 陣馬そばと聞くと、私はかつて府中駅横にあった立ち食いそば店を思い出す。そこは京王線の子会社が経営していたと思うが、いつも腹を空かせていた私は、よくコインを握りしめながらこの店に走った。天ぷらそばは40円、天玉そばは55円だったと記憶している。もっとも、私はそばではなく、より量が多いと思われるうどんの方をいつも注文していた。とくに美味しいとは思えなかったが、腹の虫はおとなしくなった。こうした駅内外にある「立ち食いそば店」は便利なので、中央線を利用したときにも入ったことはよくあるが、京王線の「陣馬そば」のほうが味は少し良かった。

 バス停近くにある「山下屋」は京王電鉄と関係があるのかは不明だが、子会社である西東京バスを利用して陣馬高原下に来る人がメインの客であると想定できるので、資本関係はともかく「関係」はあるだろう。どうでもいいことだが。

 陣馬街道に別れを告げた北浅川は峠道を進む。右手に「辻野養魚場」があった。この辺りが車で入れる限界なので、路肩に車を止めて少し歩いてみた。浅川の流れは、とてもか細く、魚の姿を見出すことは困難だった。

 だから私は、遡上を止めた。

出発点に戻る

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四谷橋から合流点方向を望む

 私は「府中四谷橋」の上にいる。多摩川と浅川とが出会う場所が見られるからだ。夕焼けに染まる出会いの地を撮影したかったのだが、あいにく、この時期の夕方はほぼ毎日、西側の山々には雷雲が発生するので、太陽は早い時間帯から雲に隠れてしまった。隠れる刹那、残光を残した太陽は心なしか川面を染めた。高圧線には多くの鵜が止まっている。多摩川を遡上する鮎を狙っているのだ。

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多摩川左岸から浅川の流れ込みを望む

 四谷橋から多摩川左岸の土手に移動した。前回の2枚目の写真にある出発点の写真は向かい側の河原から撮影したもので、今度は府中市四谷側から合流点を望んだ。周囲は相当に暗くなっていたので、目いっぱい増感して撮影した。写真ではやや明るく見えるが、実際には夕焼けの光はもちろんなく、小焼けの光すらない。

 川はこうして多くのものと出会うが、人は晩年、多くのものと別れる。仲良しとは別れ、小良しとも別れる。

 それにしても、「小焼け」とは何だ。「小良し」とは何だ。それらは結局、「夕焼け」や「仲良し」という言葉の語調を整えるだけの存在にすぎず、それ自体には意味はない。さすれば、「夕焼け」や「仲良し」にも実体はなく、それらを考える主体が存在するだけなのだろう。否、それですら、当体の思い込みにすぎないのではないか。

〔17〕浅川旅情、いや遡上(そじょう)です(前編)

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高幡不動土方歳三菩提寺

浅川には浅からぬ縁がある

 浅川は多摩川の大きな支流のひとつである。もう一つの大支流である秋川は渓谷が美しかったり鮎釣りが盛んだったり、右岸に「サマーランド」があったりと流域に住む人以外にもその存在はよく知られている。「夏休みに秋川に行く」と知人や近隣の人から聞くと、大方の人は、その人たちが「キャンプ」か「河原でバーベキュー」に出掛けるのだろうと想像する。秋川に行く人が釣り好きであると知っている場合は、「鮎釣りですか、渓流釣りですか」と尋ねるかもしれない。一方、「夏休みに浅川に行く」と聞いてもおそらく99%の人は返答に窮し、「そうなんですか‥‥」としか言えず、ただ当惑するばかりだろう。浅川それ自体には特別、「遊び」を連想させるものはないからである。

 私の場合、浅川には以前から浅川ならぬ浅からぬ縁があり、かなり身近な存在だった。とはいえ、浅川それ自体というより川の周辺にいる(ある)存在が関係しているのだけれど。

 私の鮎釣りの師匠は浅川左岸近くに住んでいた(いる)ので、教えを乞うために浅川に掛かる「新井橋」を渡ってその自宅を訪ねた。私の初恋の少女は浅川左岸にある高校に通っていたので、新井橋を高幡不動側から立川方向に渡るときはいつもその高校の校舎を目で追っていた。その学校の制服を着た女子生徒を見掛けたときは、もうとっくに卒業してそこにはいるはずはないのに、その姿にはいつも心が騒めくのだった。

 高幡不動尊にも多摩動物園にもよく出掛けたが、それらの近くには浅川が流れている。釣りを本格的に始める前、中学校の同級生と釣りの練習をよくおこなったのだが、その道場は京王線平山城址公園駅近くの浅川だった。その友人は八王子の北野に引っ越して住んでいたし、この川は多摩川より規模が小さいので練習場には最適だった。教員を辞めしばらく釣りの研究に没頭していると、別の知人から「専門学校を設立するので、申請のための文書作成と役所との折衝をお願いしたい」と乞われたので一年間、京王八王子駅近くの事務所に通った。浅川が近くにあったので、心身の休息を口実にその河原でタバコをよく吸っていた。浪人生専門の大学受験予備校で教えたとき、八王子にも教室があったので昼休み時には浅川の河原まで出かけて付近を散策し、体を動かすようにしていた等など結構、浅川周辺ではいろいろな想い出が形成された。

多摩川との合流点付近を歩く

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多摩川とは日野市落川付近で合流する

 高尾山系に源を発した浅川は、約30キロの旅を終えて、日野市落川あたりで本流の多摩川右岸側に合流する。写真の対岸に見える建物は府中市四谷にあり、写真にはないがすぐ下流には、野猿街道の「府中四谷橋」が掛かっている。この橋もまた私の散歩コースのひとつに属しているので、この多摩川と浅川との合流付近を橋上から眺めることがある。橋上から川を望むと右手からは多摩川の、左手からは浅川の流れが見えるのだが、両者が合流してもしばらくは水の色が2つに分かれ、ほとんどの場合、浅川からの流れのほうが澄んでいる。

 川を歩く場合、通常は川上から川下へ、つまり川の流れに身を任せながら探索するのだが、今回は川下から遡上(そじょう)してみた。特段の理由はなく、今の時期は鮎釣り真っ盛り(今年の7月は例外として)なので、鮎を真似て「天然遡上」してみただけなのだ。なので、この合流点が今回の散策の出発点となった。

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新井橋の直上を走る多摩モノレール

 最初に出会った橋が「新井橋」だ。今回は遡上しているので、実際には浅川に掛かる橋としては最後のものだ。私にとってもっとも馴染みのある橋で、浅川を渡るときの80%以上ははこれを使っている。多摩モノレール多摩都市モノレール線)はこの直上を走っており、写真の列車は「万願寺駅」を出て次の「高幡不動駅」に向かっている。

 新井橋は「新井」にあるが、橋の北には「新井公園」があり、南は「大字新井」という地名だ。つまり、川を挟んで南北に「新井」があることになる。こうしたことは本家の多摩川にはとても多く、例えば、「押立」は府中市と対岸の稲城市にある。同様に「布田」は調布市と対岸の川崎市、「和泉」は狛江市と対岸の川崎市、「宇奈根」は世田谷区と対岸の川崎市にある。下流に行けばさらに多くの分断された地名を見出すことができる。これらの地名は元は別々に存在していたわけではなく、同じ場所にあったものが多摩川の流路が変わったために川によって分断され、此岸と彼岸に位置するようになったのだろう。

 この「新井」はどうか?多摩川と同じように浅川も「暴れ川」であったため、その蛇行によって新井地区が分断された蓋然性が高い。一方、新井という地名は「新しい井戸」を表し、そういった場所は水が豊富な日野ではどこにでも見られるので偶然、川の南北の土地が新井と名付けられたという可能性もなくはない。さらに、どちらかが先に新井という地名を付け、まだ名をもっていない方が新井を訪ねてその地名を聞いたところ、「新井というのか?あらいいね」と言って自分のところも新井にした。といったことは、まぁ、ないだろう。

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新井橋から下流方向を眺める

 新井橋に立って下流方向を眺めた。右岸の右手には多摩丘陵(多摩の横山)の連なりがよく見える。右手に見える高台は「京王百草園」がある百草地区の台地だ。ここも多摩丘陵に属している。写真中央部分にある建物群は京王線聖蹟桜ヶ丘駅周辺のものだ。その右手には多摩丘陵につながる坂道(通称いろは坂)があり、その坂上に立って「耳をすませば」、「カントリーロード」の歌声が聞こえてくるかもしれない。少し見えづらいが、左側にある白い塔は「府中四谷橋」の主塔である。 

土方歳三の生誕地を歩く

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土方歳三銅像高幡不動の境内にある

 新選組の副長だった土方歳三は旧石田村(現在の日野市石田)出身である。石田は浅川左岸と多摩川右岸に挟まれた場所、つまり両河川の合流点のすぐ西側に位置する。歳三の家は石田村随一の豪農で、地元では「大尽」と呼ばれていたそうだ。日野市石田には歳三ゆかりの地があるので私は何度となく訪れているが、広い敷地をもった邸宅があると、決まってその家の表札には土方姓が掲げられている。これは、広大な農地が土方一族に分配されたこと、維新後、平民も姓を公然と名乗ることができるようになったため、この地の多くの人が歳三にあやかって土方姓を名乗るようになったことなどによると考えられる。

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歳三の生家があったとされる「とうかん森」

 写真の「とうかん森」は歳三の生家があったとされる場所の一部である。かつては鳥居や祠があり樹木も生い茂っていたが、 現在は樹齢250年余のカヤの木が2本残っているだけである。周囲の宅地開発が進み、多くの木々は周囲の住宅を覆い、大樹の根は宅地の地面を掘り起こしてしまうため、他の木々は処分されたそうだ。土方家自体、幕末期の多摩川の氾濫によって流されそうになったため、やや川から離れた地に移築された。現在、「土方歳三資料館」になっている場所が移築後の生家である。「とうかん森」のすぐ北東側には「北川原公園」や「浅川水再生センター」があるが、この辺りに元の生家があったらしい。それゆえ「とうかん森」は土方家のほんの庭先といったところだろうか。

 歳三は1835年に石田村に生まれ、69年の箱館戦争のさなか、一本木関門付近で戦死した。新選組の話はいずれ別の項をたててその足跡をたどる機会があると思うので、ここでは多くを記さない。

 歳三は、小さい頃はかなりの悪ガキで「石田村のバラガキ」と言われていたそうだ。バラガキとは「茨垣」のことで、トゲがあって手が付けられないという意味をもつ。私の場合はただ単に「クソガキ」と言われたが。歳三は末っ子なのでどんな「大尽」の子供でも、自分で手に職をつけるか婿養子に入るかしなければならなかった。11歳のころいったん丁稚奉公に出たが、馴染めずすぐに辞め、14歳のころ再び奉公に出たらしい(異説多し)。23歳ころに奉公を終え、しばらくは自宅の家業のひとつであった「石田散薬」の行商に出た。

 石田散薬は打ち身、捻挫に効く薬らしい。今でいえば「バンテリン」のようなものかも。この散薬は浅川で刈り取った雑草(ミゾソバ)が原料で、それを乾燥させてから黒焼きにして、薬研(やげん)ですりおろしたものだ。これを酒と一緒に飲むと効き目が良かったらしい。「良薬は口に苦し」ではないが、ミゾソバタデ科の草なので、かなり苦いはずだ。「タデ食う虫も好き好き」という言葉があるくらいなので、酒で一気に飲んでしまわなければとても耐えられなかったのかもしれない。それでも昭和初期までは土方家の家伝薬として存在していたらしいので、効能は確かだったのだろう。

 ミゾソバの刈り取りは「土用の丑」の日におこなわれたが、この日は村人が総出で草刈りをした。製薬までの一連の作業は、基本的には土方家の当主(歳三の兄)が指揮をするのだが、幼い歳三が指揮をしたときのほうが効率よく作業が進展したらしい。子供の頃から人心掌握に長けていたのかもしれない。

 歳三はこれを甲府や川越、厚木などの家々を訪ね売り歩いた。その間、自己流で剣術の稽古をおこない、各地で剣術道場を見つけては試合を挑んで腕を磨いた。

 25歳ころ天然理心流に入門した。道場は日野宿の名主だった佐藤彦五郎宅の日野本陣にあった。ここに新宿牛込にあった「試衛館(場)」から近藤勇が出稽古に訪れ、天然理心流の同志としての交流が生まれた。佐藤彦五郎は歳三の姉の嫁ぎ先、近藤勇は近藤家に養子に入る前は宮川姓であり、上石原村(現在の調布市)の出身であった。お互い多摩の田舎者同士のため、三者の間には深い絆が生まれたのである。

 歴史に「もし」を言っても意味はないかもしれないが、もし姉が佐藤家に嫁がなければ、もし勇が近藤家の養子にならなければ、このトリアーデは生まれなかった。結果、新選組は成立せず、仮に成立したとしても近藤勇だけでは冷徹な組織原理は駆動せずすぐに瓦解していただろう。すると、司馬遼太郎の『燃えよ剣』は作られず、私のチャンバラ熱は「赤胴鈴之助」レベルにとどまり、結果、その熱は小学生時代で冷めていたはずで、大人になってもチャンバラをすることはなかったかも。いやまったく。

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歳三の墓は日野市の石田寺にある

 歳三は1869年、箱館(函館)戦争にて戦死した。満34歳、数え35歳だった。歳三の墓は「とうかん森」近くの石田寺(せきでんじ)にある。真言宗の末寺で本寺は高幡山金剛寺(通称高幡不動)だ。位牌はこの本寺の大日堂にある。

 今年は没後150年にあたり、それを記念して『燃えよ剣』の映画化が決まり、2020年に公開される予定だ。歳三を演ずるのは岡田准一だそうだ。何者かは知らないが、写真で見た範囲では美男子だ。NHKの大河ドラマ新選組!』は2004年に放送されたが、このときに歳三役を演じたのは山本耕史だ。これも美男子であった。この名を聞いた当初、山本浩二が野球界から転身するのかと錯覚したが、彼の場合は美男子というより野人という感じなので似合わないと思ったが、そうではなかったことに安堵した。歳三の容姿は唯一残る「ざんぎり頭の洋装写真」から推測するしかないが、史料には「身丈五尺五寸(約167センチ)、眉目清秀にしてすこぶる美男子たり」とあるので、写真通りの顔立ちだったのだろう。女性に大人気だったのも頷ける。

 ところで、大河ドラマは毎年、初回から見るのだが、最後まで見たのは『新選組!』と『龍馬伝』と『花燃ゆ』だけだ。すべて幕末ものだ。最近は我慢しても3回ぐらいまでで止めしまう。今年の『いだてん』は最初の20分で馬鹿々々しくなって止めた。脚本が非道過ぎた。NHKから正しい大河ドラマを守る会を作りたいぐらいだ。

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土方康氏が建立した「土方歳三義豊之碑」

 石田寺の境内に入ると写真の石碑が目に入る。「土方歳三義豊之碑」とある。義豊はは歳三の諱(いみな)で通常、成人してから付けられる。この石碑は、土方家の家禄を継いだ実兄(喜六)の曾孫である土方康氏が1968年、明治維新100年という切りの良い年を選んで建立したものである。

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石田寺にある歳三の墓。思いのほか小さい

 1868年、戊辰戦争の緒戦である「鳥羽伏見の戦い」に敗れた歳三は「これからの武器は鉄砲でなければだめだ」と悟り、羽織袴姿を捨てて西洋式の軍服姿になり、髪型も「ざんぎり頭」に変えた。唯一の写真に残る歳三の姿は、洋装に変えてからのものである。

  近藤勇を失った新選組旧幕府軍に加わり会津に向かった。途中、宇都宮城を陥落したもののすぐに奪還された。会津もまた陥落し歳三は仙台に向かった。ここで、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚と出会った。榎本や歳三は新政府軍と闘うつもりだったが、元号が明治に変わった直後、仙台藩も新政府軍に降伏した。こうして、歳三は榎本らとともに蝦夷地へ向かうことを決意した。このとき、歳三に同行していた新選組の隊士は24人にまで減っていたが、他藩の藩士新選組に加わることになり隊士は総勢75人になった。

 仙台では、元奥医師で将軍の治療にもあたっていた松本良順と再会した。かつて新選組が京都にいたとき近藤勇以下隊士が治療を受けていた名医である。良順は歳三に降伏を進言したが、歳三は「幕府が倒れるときに命をかけて抵抗する者がいなくては恥ずかしいことで、勝算などない」と言い、「君(良順のこと)は有能なので江戸へ帰るべきで、われらのごとき無能者は快く戦い国家に殉ずるだけ」と自らの覚悟を語った。

 箱館戦争では序盤に勝利し、箱館政権には総裁に榎本武揚、陸軍奉行に大鳥圭介箱館奉行に永井尚志といった旧幕府の要人が閣僚に入ったが、歳三も陸軍奉行並(陸軍大将クラス)として閣僚に加わった。しかし、歳三は戦闘の際は常に最前線に立ち、彼が指揮した部隊だけは常に戦闘に勝利した。が、戦局は悪化の一途をたどり、もはや箱館政権の敗北は濃厚となった。最後の戦闘の直前、歳三は若い隊士である市村鉄之助を自室に呼び、「横浜に行く船があるのでそれに乗って多摩に帰れ。そして、佐藤彦五郎宅に寄り、これを渡せ」と言って写真1枚、遺髪、辞世の和歌の書付を市村に渡した。私たちが目にすることができる歳三の写真は、そのとき市村に託したものである。

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歳三の墓石の横書き

 『燃えよ剣』では、歳三の最後をこう記している。私のへたくそな文よりも遥かに感動的なのでここに引用する。

 新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」

 あっ、と全軍、射撃姿勢をとった。

 歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。

 が、再び馬が地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすざまじい音をたてて地にころがっていた。

 なおも怖れて、みな、近づかなかった。

 が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れはじめたとき、はじめて長州人たちはこの敵将が死体になっていることを知った。

 歳三は、死んだ。

 箱館政権の主要閣僚8人のうち、戦死したのは歳三ただひとりだった。

南浅川の源流部を訪ねる

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甲州道中守りの要だった「小仏関」跡

 甲州道中(甲州海道、甲州街道)は江戸五街道のひとつだが、参勤交代に使うのは諏訪の高島藩、伊那の高遠藩、飯田藩の三藩だけだった。また、京都から宇治茶を運ぶルートとしても使われた。一方、徳川家康は、江戸城にもしものことがあった場合には甲府城に逃亡するつもりだったので、この道はまさかの場合の避難路として重要な存在であった。

 甲州道中の起点は日本橋で当初、最初の宿場は高井戸にあったが、日本橋からはあまりに遠いので、その中間付近にある内藤家(高遠藩)の中屋敷があった四谷新宿に、新たに宿場を設けた。布田五宿・府中宿・日野宿は多摩川沿いにあり、八王子宿・駒木野宿・小仏宿は浅川沿いにある。それから小仏峠を通って相模国に入り小原宿・与瀬宿と続く。

 江戸の守りにとって重要なのが小仏峠で、峠と八王子宿の間の駒木野宿跡付近に写真の小仏関跡がある。関所は「入り鉄砲に出女」を取り締まる場所だ。つまり、江戸に武器を持ち込ませないこと、大名の妻子を江戸から出さないことが主たる目的だった。ここ関所跡あたりから、道は南浅川を左にみながらだらだらとした上り坂が続き、次の写真の場所あたりから急坂に入る。

 さて新選組だが、1868年の鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻ると、上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜の警護を申し付けられた。しかし、それでは新選組の名誉回復にはつながらないので、甲府城に立てこもり新政府軍の侵攻を食い止めるという作戦を提案した。これには陸軍総裁となっていた(すぐに移動させられたが)勝海舟も同意し、軍資金と大砲2門が提供されることになった。もっとも、慶喜の命で江戸城無血開城を企図していた勝にとっては新選組は邪魔な存在でもあったため、厄介払いの良き口実になったのだった。

 甲陽鎮撫隊を名乗った新選組だが、隊士は70人ほどしかいなかったため、浅草弾左衛門配下のものを加え約200人の部隊を揃えた。3月1日、内藤新宿を出立し甲州道中を西に進み、その夜は府中宿に泊まった。2日に日野宿を通過する際には佐藤彦五郎宅に立ち寄った。近藤や歳三にとっては故郷に錦を飾るようだった。その日はさらに西へ浅川沿いの道中を進み、八王子宿、小仏宿、小仏峠を超え、与瀬宿に泊まった。

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南浅川の源流点付近。この先に小仏峠がある

 3日には猿橋宿、4日には駒飼宿、5日に勝沼宿に入った。しかし、政府軍はすでに4日に甲府城に入っていた。よく、故郷の多摩で宴会ばかりしていたので進軍が遅れ、その結果として甲府への到着が間に合わなかったと言われるが、この行程を見ると格別に遅いとは思えない。調布では少し遊んだかもしれないし、府中宿では宴会ぐらいはしただろう。日野でも熱烈歓迎を受けたかもしれないが、府中から一日で小仏峠(標高548m)を越えて与瀬宿まで行軍したのだから、さほど寄り道ばかりしていたとは言えないと思うのだが。その一方で、近藤や土方をはじめとして、だれも本気で政府軍に勝てるとは思ってはいなかったことも確かだろう。

 浅川は八王子市役所付近で分岐し、南浅川は高尾駅のすぐ先まで国道20号線の北側に並走する。国道は西浅川交差点を南下し、高尾山の東そして南を通り、高尾山系の大垂水(おおたるみ)峠(標高392m)を抜けて相模湖方向に進む。一方、甲州道中は西浅川交差点を右手に進み高尾山の北側を抜ける。南浅川は道の南側を並走する。中央本線はこの道中に並走し、また中央高速(中央自動車道)も小仏関跡辺りから並走する。やがて中央本線小仏トンネルに入って姿を消し、中央高速もそれ続いてトンネルの中に消える。南浅川は源流点がある谷に溶け込む。西浅川交差点から小仏トンネルまでの約4キロは南浅川・甲州道中・中央本線・中央高速の4者が並走しているのである。

 私は、中央高速を走るたびに、この旧甲州道中や南浅川や中央本線の存在がとても気になってはいたが、実際にこの道中を通ったのは今回が初めてだった。地図を見るのが好きなので、この道の存在は子供の頃から知っていたし、この道から蛇滝を通る高尾登山道の存在も知っていた。さらに、道中の小仏峠を抜けると「美女谷」という思わずヨダレが出てしまうような場所があることも知っていた。が、なぜかこの道には来たことはなかった。

 小仏関所は1869年に廃止された。旧甲州道中では車の通行ができないので、自動車用の道路は、より開発しやすい場所が選ばれ大垂水峠を通るルートが88年に完成した。以来、旧甲州道中を通るのは沿道に住む人々か、小仏峠を趣味で越える人、小仏城山、景信山、陣馬山などに登る人たちにほぼ限られるようになった。

浅川を渡って高幡不動に向かう

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浅川左岸から高幡不動を望む

  浅川左岸で土方歳三の足跡を追った後、浅川の土手沿いを上流に向かって歩いた。夏草が生い茂っていたのでミゾソバを探してみた。夏から秋が花期なので簡単に見つけられると思ったが、左岸側の河原には葛が繁茂しており近づくことが容易ではなかったため簡単には見出せなかった。他の場所ではすぐに見つかるのに、何故かここでは目にすることができなった。

 足元ばかり見ながら歩いていたので、「ふれあい橋」の北詰を通り過ぎたことを忘れていた。次の高幡橋方向に進んでしまったとき、対岸にある高幡不動五重塔が目に入った。かつての塔はかなり古ぼけたものだったが、1980年に建て直されたこれは鉄筋コンクリート造りだが、古の姿を思い起こせるほどよく再建されている。毎年4月28日だけは内部が公開され、上層まで上がることができるらしい。

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ふれあい橋と呼ばれている万願寺歩道橋

 通り過ぎた橋の北詰に戻った。この橋は「万願寺歩道橋」という正式名をもつが、通常は「ふれあい橋」と呼ばれている。歩行者や自転車専用の橋で、車やオートバイは通ることができない。 斜張橋風で、どことなく「鶴見つばさ橋」に似た優雅さをもつ。日野市の観光ガイドには必ず出てくるほど地元では知名度は極めて高い。なお橋上からは、晴れて空気が澄んでいるときは、富士山をはじめとして高尾山系の山々がよく見える。

 浅川が日野市の南北を分断しており、京王線高幡不動駅は川の南側にあるため、この駅に行くために北側に住む人は下流の「新井橋」か上流の「高幡橋」まで迂回しなければならなかった。浅川の水が少ない時期であれば、屈強な人は写真に写っている「向島用水取水堰」を使ってショートカットできるだろうが、普通の人には難しい。1991年にこの橋が完成した。多くの人にとっては「救いの橋」になったことだろう。この橋を渡ると高幡不動駅までは数分の距離である。この橋の周囲には個人住宅、集合住宅が多いので、橋は散策路によく使われ、まさに「ふれあい橋」の名がよく似合う。もっとも、もし私が命名者だったら「ふれあい橋」ではなく「ふれあいの小径」にしただろう。なぜなら、「径」には「ショートカット」という意味が含まれているからだ。

 なお、写真は浅川の右岸の土手上から下流方向に橋を写したもので、写真の左側が橋の北詰になる。右側に写っている護岸の周囲はよく整備され親水広場になっている。土手には緩やかな階段があり、夏休み中のこの時期には多くの子供や若者、親子連れが集っている。

高幡不動尊は土方家の菩提寺

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高幡不動の建物は大改修され、朱が鮮やかに復活したものも多い

 高幡不動は浅川の右岸側にある。京王線の特急停車駅なので、この鉄道を利用する人は誰でも知っている名前だ。「高幡不動に行く」というと、高幡不動駅もしくはその周辺に行くのか、それとも高幡不動にお参りに行くのかはっきりしない。話の脈略で判断するしかない。おそらく前者の場合で使われていることが多いだろう。とくに「多摩モノレール(正式には多摩都市モノレール線)」が1998年に開業してからはその傾向はより強くなった。たとえば、「高幡不動から万願寺に行く」というと「お寺巡りをするなんて、なんと信心深い人なのだろう」と思われるかもしれないが、実際には京王線高幡不動駅までいって多摩モノレールに乗り換えて万願寺駅で降り、馴染みの釣具店に行くという次第なのである。信心深いどころか、殺生の相談にいくのである。

 高幡不動は「高幡不動尊」とも通称され、正式には「高幡山明王院金剛寺」という。よく「関東三大不動のひとつ」と言われるが、成田山と高幡山はすぐに出てくるもののあとのひとつは難しく諸説あるらしい。この「三大~」とか「四大~」は皆大好きで、「三大瀑布」「三大美林」「日本三景」「三名園」「三大盆踊り」「三大霊場」「三筆」「御三家」「三大改革」などはよくクイズに出る。

 私が初めて高幡不動に来たのは小学校の遠足のときだったと記憶している。たぶん「多摩動物園」の”おまけ”だったように思う。こうした”釣り”は遠足ではよくおこなわれ、その代表が「江ノ島・鎌倉」だろう。ガキンチョには寺はほとんど興味がない。

 しかし、ここが土方歳三菩提寺あることを知り、歳三の銅像が建てられたことを知って以来、私にとって高幡不動多摩動物園より重要な存在になった。とはいえ、お参りはほどほどにして、境内にある多摩丘陵ハイキングコース(かたらいの道)を散策するという楽しみも付属しているからである。国の重要文化財である仁王門から入って土方歳三像を見て、不動堂、五重塔、奥殿、大日堂から大師堂に戻り、山内八十八カ所巡拝コースを経てハイキングコースを進み、多摩動物園の裏側(北側)から動物園内をのぞき見しつつ西に向かい、平山城址公園に立ち寄って平山城址公園駅まで行き、京王線に乗って高幡不動まで戻るというのが、晩秋から春にかけての徘徊コースなのだ。

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大師堂があることからわかるようにここは真言宗の寺である

 境内には大師堂がある。大師堂とは大師号が贈られた僧(27名)を礼拝するもので、多くの場合、この僧は空海弘法大師 )を指す。もちろん、最澄伝教大師)も円仁(慈覚大師)も覚鑁(興教大師)も親鸞見真大師)も法然(円光大師)も日蓮立正大師)も大師なのだから、必ずしも弘法大師を指す訳ではないけれど、「四国八十八カ所巡り」があまりにも有名なので、お大師様といえばほとんどの場合、弘法大師を指すと考えて良いだろう。ミスターと言えば長嶋茂雄を指すようなものかも。

 高幡不動真言宗の寺である。したがってその末寺である石田寺も同様だ。ただし、真言宗の場合(この宗派だけではないけれど)、大きく「古義真言宗」と「新義真言宗」に分かれ、ここは「新義真言宗」の智山派に属する。

 寺の解説によるとここを開いたのは円仁で、「清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる」とある。円仁は第3代天台座主なので、当初は天台宗系であったと考えられる。しかし、次の説明を見ると「1335年の大風によって山中にあった不動堂は倒壊したが、住職の儀海上人が1342年、ふもとに移して建てたのが現在の不動堂で」(一部簡略化)とあり、さらにこの寺の法号碑には「中興第一世儀海和上」とあるので、今日続く高幡不動は儀海を開基と考えられる。とすれば、儀海は紀州根来寺(ねごろじ)で奥義を極めたので、ここは事実上「新義真言宗」の寺として再スタートしたと考えてもよさそうだ。

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不動堂は1342年に創建され、修理を重ねながら現在に至っている

 根来寺の名を聞くと、私の場合はすぐに「根来衆」を思い浮かべ、すると「忍者」を連想してしまう。忍者といえば伊賀者や甲賀者があまりにも有名で、「伊賀の影丸」や「甲賀忍法帖」が懐かしい。根来衆といえば根来寺僧兵の長だった「津田監物」がよく知られている。もっとも、津田は忍者(忍術使い)というよりスパイ(諜報員)という感じで、根来寺の命を受けて全国を情報収集に飛び回り、種子島に日本に初めて鉄砲が二挺入ったということを聞くとすぐさま種子島に入り、その一挺を無償で譲り受けたという功績がある。さらに彼はその鉄砲を基に日本人に作らせ、火縄銃の使い方の基礎を編み出した。このことで戦国時代の戦闘の在り方が根底から変わり、やがて織田信長の台頭を許したのだった。津田は鉄砲隊を組織したので以降、根来衆は「鉄砲隊」のイメージが強くなった。

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1982~87年にかけて大改修された大日堂。歳三の位牌が安置されている

 根来寺の話に戻る。開基は覚鑁(かくばん、1095~1144))である。「鑁 」は難読漢字で、かつ今日でもなぜこの字が成立したのかは不明だという珍しい漢字だが、このブログを読んでくださっている奇特な方は「鑁」には見覚えがあると思う。6回目の「渡良瀬紀行」の中で取り上げているからである。足利氏の菩提寺である「鑁阿寺」の「鑁」がこれだ。

 覚鑁空海の300年後に出た真言宗の高僧だ。空海真言宗の教えをあまりにも緻密に作り上げてしまったため、同期にできた最澄天台宗に比べてその広がりは遥かに後れを取っていた。一方、平安中期以降は大陸から民衆にもわかりやすい「浄土信仰」入ってそれが広まったため、厳格で高尚すぎる真言の教えはますます後塵を拝する結果となっていた。そこで覚鑁真言宗にこの「浄土教」の教えを取り入れることにした。大日如来はこの宇宙の不動の一者ではあるが、人間の救済のために「阿弥陀如来」に変じて地上に現れるというものである。これが覚鑁の「蜜厳浄土」観だ。

 しかし、高野山ではこの宗教観を異端と考え、覚鑁はこの地を追われ、和歌山の根来の地(現在の和歌山県岩出市)に逃れた。その地に寺を建て新しい真言の教え、すなわち「新義真言宗」の確立を目指した。覚鑁鳥羽上皇の信認が厚かったため多くの寄進を受けた。こうして根来寺は規模を拡大し、最盛期には寺に付属する建物は3000棟近く、住む人も2万人と大きな宗教都市に成長した。また宗教活動だけでなく、対中国貿易や商工業活動も盛んにおこなった。そして、全国からいろいろな情報を集めるため、各地に「根来衆」を放っていた。この一例が、上に挙げた「鉄砲話」である。

 根来寺織田信長とは協力関係をもっていたが、秀吉とは敵対関係になり根来寺は壊滅に瀕した。が、徳川家康が再興の手を差し伸べ、ひとつは京都の智積院根来寺の教えを受け継ぎ、ひとつは奈良の長谷寺が受け継ぎ、それぞれが総本山になっている。前者が「新義真言宗智山派」となり、後者が「新義真言宗豊山派」になって今日に至っている。ちなみに、高幡不動は前者で、新義真言宗智山派別格本山の地位にある。

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高幡不動の仁王門の裏側から参道方向を望む

 京王線高幡不動駅の南口を降りると右手に短い参道があり、それを抜けると野猿街道に出る。信号を渡ったところにあるのが、国の重要文化財に指定されている仁王門だ。この門は室町時代に造られ、修理を重ねながら今日に至っている。表側には「高幡山」の扁額が掛かっている。私が訪れたときは仁王門の真上に太陽があり逆光が強くて撮影ができなかったため、やむなく裏側から撮った。短い参道の正面にある建物が高幡不動駅だ。

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土方歳三像と新選組両雄の碑。後ろにあるのが弁天池

 境内に入り、左手方向を見ると大きな土方歳三像が見える。1995年、地元のロータリークラブが寄贈したもので、歳三のりりしい姿がよく再現されている。私はお寺に入っても頭を下げたり手を合わせたり、ましてやお賽銭をあげることはほとんどないが、この歳三像には頭を下げる。私には全く備わっていない心情をすべて有していた人物だからである。

 その右にあるのは「新選組両雄の碑」で、高幡不動の住職やかの佐藤彦五郎を中心に近藤勇土方歳三を顕彰する碑の建設を推進していたが、新選組は維新政府にとっては賊軍であったためになかなか許可が下りず、1888年になってやっと建てられた。

 これらの背後には小さな弁天池があり、今はたくさんのハスが花径を伸ばしている。小さな橋の先には朱塗りの弁天堂ある。全体がコンパクトだが、趣きは豊かである。

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新築の五重塔はやはり境内では一番目立つ存在だ

 鉄筋コンクリートで造られた塔だが、平安初期の様式をよく再現している。塔の高さは約40m、総高は45mある。天辺の相輪が金色に輝きとても美しい。

 上から釈迦の遺骨を納める「宝珠」、高貴な人を乗せる乗り物「竜車」、火炎の透かし彫りの「水輪」、五大如来と四大菩薩を表す「宝輪、九輪」、以上を受ける「請花」、お墓の形の「伏鉢」、その土台である「露盤」から成っている。1980年に新築されたものだが今でも輝きはまったく失われず、高幡不動のランドマークになっている。

 高幡不動名物といえば「高幡まんじゅう」で、約100年の歴史を誇る。しかし、まんじゅうだけにマンネリ化しているのか、最近では「土方歳三まんじゅう」(冒頭の写真)が主力になっているようだ。歳三の生き様が「まんじゅう」に相応しいどうかは不明だが、地元の発展に寄与しているとすれば郷土愛の強い彼のこと、まんじゅうであっても「満充」しているかもしれない。いや本当に。

  *  *  *

 浅川沿岸紀行は1回で終わる予定だったが、話に寄り道が多くなったので、まだ日野市を出られないでいる。次回は南北浅川の合流点から北浅川の源流点付近、南浅川の一部を巡る予定だ。

*今のタイトルならまだ前の方がマシだと言われたので、元に戻します。もう変更はありません。

 

 

 

〔16〕古代蓮 行田でギョーザに 大古墳

古代蓮は埼玉県行田市にもあった

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古代蓮の里にある行田蓮

 今年は近年になく梅雨らしい天気が続くので鮎釣りには行けず不本意なのだが、この時期はハスの花があちこちの池や沼で咲くので、川遊びはほどほどにしてハスの花見物と洒落込んだ。

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古代蓮の里は平日だろうと小雨混じりだろうと大混雑

 埼玉県行田市には「古代蓮の里」があり、ここでは数万本の「行田蓮」が6月末から8月初めまで咲き誇る。駐車場代(1日500円)はかかるものの入場料は不要なので連日、大満員である。近年はマスメディアもこの公園をよく取り上げるので、ハスの花にはとくに興味がない人でもここの存在を知っている人は多いようだ。ハスの開花時には、駐車場(約500台収容)は臨時の施設を使っても午前10時ごろには満車に近い状態になる。車のナンバープレートを見ると、品川、練馬、多摩、横浜、相模といったものも多く、最近では関東を代表する「蓮の里」になっているようだ。

古代蓮の原点は「大賀ハス」にある

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古代蓮の里公園と展望塔

 1971年、行田市はごみ焼却施設を新たに建設するため同市の小針地区の水田を購入し造成工事をはじめた。このとき、地中深くに眠っていたハスの実が自然発芽し、73年に開花した。75年、市の依頼で研究者がこの地を掘削しハスの実と木片を採集した。放射性炭素年代測定をおこなったところ、1400年ほど前のものということが判明した。同じ場所から見つかった土器は3000年前のものと推定されたので、このハスは1400~3000年前のものと考えられた。行田市はこのハスを「行田蓮」と名付けて市の天然記念物に指定するとともに、92年からこの小針の沼一帯を「古代蓮の里」公園として整備して95年に開園、さらに2001年には高さ約60mのシンボルタワーを有した「古代蓮会館」を整備した。

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古代蓮の原点は「大賀ハス」にあり

  古代蓮と聞くと私はすぐに「大賀ハス」を思い浮かべる。府中市生まれの府中市育ちだからだ。

 大賀一郎博士(1883~1965)は古代蓮研究の第一人者で、1917年、中国の遼寧省で中国古代蓮の実の発芽を成功させている。これは推定で約1000年前のものらしい。50年には千葉県で見つかったハスの実(この実自体は32年に発見されていた)の発芽に成功したが、50日目に枯死させてしまっていた。これは約1200年のものと推定されている。

 49年、千葉県の落合遺跡(花見川区)の泥炭地から丸木舟とハスの花托が発見されたということを知った大賀博士は51年、地元のボランティアの協力を得てこの地を採掘し、3粒のハスの実を発見した。博士はこれを府中市の自宅に持ち帰って発芽実験をおこない、そのうちの1粒が発芽した。そして52年にこのハスは見事な花を咲かせた。博士は同じ場所で発見された丸木舟の年代測定をアメリカの大学に依頼し、約3000年前のものとの報告を受けた。ハスの実は丸木舟が発見された層より若干上の層で見つかったことから、博士はこのハスは約2000年前のものであると推定した。この開花の成功は日本だけでなく海外でも話題となった。博士はこれを「二千年蓮」と命名したが、世では「大賀ハス」と呼ぶようになった。

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府中市寿中央公園にある「ひょうたん池」にも大賀ハスがある

 大賀ハスの増殖に成功した大賀博士は、自宅のある府中市にもその蓮根を寄贈した。私が通っていた府中一小の池には「大賀ハス」があり、花が咲くと何が自慢なのか教師たちはしきりに「府中の宝」であることをガキンチョに吹き込んだ。私の場合、花にはまったく関心はなかったが、池の魚には多大なる興味を覚えていたので、それを網ですくおうとしては教師に叱られた。

 小学校のすぐ北側の公園にある「ひょうたん池」にも大賀ハスが植えられていた。ここも私の遊び場だったので、ハスの花や葉は何度となく私の攻撃(石を投げ込んだり、葉や花を折ったり)を受けたのだった。しかし「府中の宝」なので、私以外の人々からは大事に管理され、今年も多くの花を咲かせている。

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府中市郷土の森公園にある大賀博士の胸像

 多摩川の左岸にある「府中市郷土の森公園」の「修景池」には大賀ハスをメインとして30種類ほどのハスが植えられており、公園内には博士の業績を称えるプレートとともに、写真の”大賀博士の胸像”もある。郷土の森や多摩川左岸の是政一帯は私の主要な徘徊場所なので毎年、ハスの開花を楽しみに散策している。池には大きなコイがたくさん泳いでいるが、今となっては網を持って出掛けることはしていない。

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花の中心にある「ハチの巣」状のものが花托

 個人的には「シャワーヘッド」と呼んでいるが、ハスの業界では「花托」もしくは「果托」と名付けている。その上面に点々としてあるのがハスの子房で、この中にハスの種(心皮にくるまれた胚珠)が入っている。この花托が「ハチの巣」に似ているのでかつては「ハチス」と呼ばれ、それがつまって「ハス」と呼ばれるようになったというのが通説だ。

 ハスの心皮は非常に硬いため、水や空気の侵入を防いでいる。胚珠の呼吸作用はとてもゆっくりなので、心皮の中に二酸化炭素が充満する(胚珠の死を意味する)までの期間はとても長い。大賀ハスの実の場合、さらに土中深くに”低温保存”されていたので2000年以上も命を長らえることができたのだそうだ。

ハスとスイレンとの違い

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スイレンはハスとは科だけでなく目も異なる

 ハスの花が咲く時期になると、決まって知人からハス(蓮)とスイレン(睡蓮)の違いについて聞かれる。植物学的にはまったく違うというのがほぼ正解なのだろうが、見た目がよく似ているので、歴史的には”同じようなもの”とされている場合が多いようだ。たとえば、英名でハスは「ロータス」、スイレンは「ウォーターリリー」と呼ぶが、小型園芸種で私も以前にはよく育てていた「タイガーロータス」なる美しい植物はスイレンの仲間である。また、池や沼で巨大な葉を広げる「オニバス」もスイレンの仲間だ。いずれも名前だけ見るとハスの仲間のようなのだが。

 「蓮華」の名は仏教の世界ではとてもよく目や耳にする言葉だ。蓮華は、通常では「ハスの花」のことだとよく記してあるが、実際に調べてみると、ハスでもありスイレンでもあるということが分かる。たとえば、浄土に咲く青い蓮華(ウトパラ)はスイレンであり、黄色い蓮華(クムダ)もスイレンと考えられている。黄色いスイレンは(黄色いハスも)アメリカ大陸にしか生育していないので、仏教の発展期には黄色い蓮華は誰も目にしてはいないはずなのだが。仏教とは直接には関係ないだろうけれど、中華料理によく使うサジを「蓮華」というが、これはハスの花びらの方が形体はより近いかもしれない。

 ペルシャ戦争を主題にして『歴史』を著した古代ギリシャヘロドトスは「エジプトでロートスといっている百合の類が無数に水中に生じる……ロートスの根も食用になり、丸みを帯びたリンゴほどの大きさで結構、甘い味がする」と書いているが、このロートス(ロータス)は「百合の類」や「根がリンゴ状」とあるので明らかにスイレンを指している。

 ことほど左様に、園芸的にも宗教的にも歴史的にも、ハスとスイレンはきちんと区別されてはいなのだ。

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ハスの仲間は花茎を水上高く伸ばす

 一方、植物学的には、ハスとスイレンとでは、前者は「ヤマモガシ目」、後者が「スイレン目」で、”科”どころか”目”まで異なるのだ。ほとんど違う種類といってよい。ちなみに街路樹としてよく見かけるプラタナスは「ヤマモガシ目」なので、ハスの”遠い親戚”だ。見た目はまったく異なるにも関わらず。分類学では「見た目だけで判断」してはいけないのだろう。

 しかし、ハスとスイレンの基本的な違いは「見た目」でも判断できる。ハスは花茎だけでなく葉茎も水上高くに伸ばす。一方、スイレンの葉は水面上にあり花も水面か水面近くにある。

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スイレンの葉は水面にあり、撥水性も弱い

 ハスの花には花托があるがスイレンにはない。ハスは午前中によく花を開かせるが、スイレンは「未の刻」、つまり午後1時から3時ごろによく花が開き(これがスイレンヒツジグサと呼ぶ理由)、それ以外の時間には眠っているように花を閉じる(これが睡蓮と名付けられた理由)。ハスは花びらを散らせるが、スイレンは花を散らさない。

 水上からは分からないが、両者の根の形はまったく異なる。ハスの根はヒゲ状で、スイレンの根は塊根(サツマイモかリンゴ形)だ。ハスの根はレンコン(蓮根)ではないのかと思いがちだが、あれは地下茎で、茎と茎とをつなぐ部分にモジャモジャと生えているのが根なのである。レンコン料理、とくにレンコンの天ぷらは私の好物のひとつだが、その素材は茎で、もしも本当のハスの根が料理として出てきたら、見通しはまったく暗くなる。不思議だが本当なのだ。これでいいのか。

古代蓮の里を散策する

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どこでも同様だが、最近は女性カメラマンがとても多い

  「古代蓮の里」公園を訪れるのは今回が4回目だ。が、ハスの開花期は今回が初めてだ。前の3回は、いずれも「吉見百穴」や八丁湖公園にある「黒岩横穴群」を見学した後に北上し、後述する「さきたま古墳群」を見て回り、それだけでは時間がやや余るので「古代蓮の里」にも立ち寄ってみるという感じだった。開花期以外は、よく整備された広々とした静かな公園として存在し、園内ではのんびりと散策を楽しむ人をちらほら見掛けるという風情である。テレビニュースや新聞紙面では毎年、7月上旬になるとここの公園がハスの花の見物客で大賑わいとなっている光景が報道されるので、いずれこの時期に訪ねてみようと前々から思っていたのだが、それが今回、実現することになったのだ。

 ハスの花の鑑賞には午前中(7~9時頃)が適するといわれているが、それより遅い時間帯でも楽しめないことはないので、当日、ここには午前10時に到着した。この日は小雨混じりの平日だったためか想像したよりは人影は少なかったが、ものの一時間も経たないうちに満車に近い状態になった。さらに大型バスが続々と来るやら、近隣の駅からのシャトルバスが来るやらで、見物客の数はどんどん膨れ上がってきた。美しい姿勢で咲いている花の周囲には黒山の人だかりができていた。もっとも、ジジババといった高齢者が多いので、黒山だけでなく白山やはげ山もできていた。

 横浜や横須賀でも目立つ存在だったが、ここでも若い(若くもない)女性が立派な一眼レフを構えている姿をよく目にした。コンパクトなデジタル一眼の普及が、女性カメラマンの増殖を進展させたのだろう。

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スマホで撮影する人も多かった

 園内にある池の大半は「行田蓮」だが、公園の正面入り口付近には約40種もの園芸種が揃えられており、ここには白系や八重咲系のものなど、古代蓮とはまた異なる色彩や形態をもつハスの花を鑑賞することができた。ただし、古代蓮に比べてやや早咲きのものが多いせいなのか、池(プールといったほうが適切か)の条件の違いなのかは不明だが、花期は終盤を迎えているものが多かったのは少し残念だった。それでも種類は豊富なので、十分に楽しむことができた。

ハスの話、あれやこれやと~園芸種の写真を並べながら

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真如蓮

 ハス属は2種あり、その学名は「ネルンボ・ヌキフェラ」(アジア系)と「ネルンボ・ペンタペタラ」(アメリカ系)である。Nelumboはスリランカの地名をとったもの、nuciferaは”硬い実”を、pentapetaraは”5つの花弁”を意味する。アジア系は赤や白、アメリカ系は黄色い花を付ける。原産地は不明だが、インド説が有力なようだ。

 ハスの実の化石は世界各地で発見されており、最古のものは約1億4000万年前の白亜紀のもので10種見つかっている。日本の北海道でも約7000万年前の白亜紀後期のものが出土している。ただし、第4紀氷河時代にこれらのものは死滅したと考えられているので、現在生育するハスとの連続性は証明されていない。

 京都山城で発見された約1万~2万年前のものはNelumbo nuciferaと考えられているので、氷河期の終盤には現在と同じものが生育していた可能性は高い。

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原始蓮

 ハスは観賞用よりも食用とするほうが一般的かもしれない。地下茎であるレンコンは天ぷらや煮物、揚げ物などによく利用される。713年に編まれた『常陸風土記』や『肥前風土記』には「食べるとおいしいし、薬用にもなる」といったような記述があるので、相当古くから食用品として認められていたようだ。しかし、仏教が隆盛になると「蓮華」は仏花として神聖なものになったため、”レンコンを食べると仏罰にあたる”とされ、食用としてのハスの栽培はさほど広がらなかったらしい。

 しかし江戸時代になって朱子学が優位になったためか、前田家の加賀藩は水田耕作に適さない土地にはハスを植えることを奨励した。これが契機となって食糧用としての栽培が広がった。明治初期には多産系で味の良い”中国ハス”が日本に持ち込まれたこともあって、食用ハスの生産量は一気に拡大した。江戸期に”地蓮”として人気があった「加賀蓮根」も、今では中国系のハスにとって代わられているようだ。

 現在、レンコンの生産高は茨城県がダントツで、日本の全生産高の半分を占めている。これは湿地帯が広がる霞ケ浦が県内にあるからで、市町村の生産高でも1位が土浦市、2位がかすみがうら市である。なお、都道府県別では2位が徳島県、3位が佐賀県となっている。

 レンコンは「おせち料理」には欠かせないものになっている。これはレンコンには10ほどの穴が開いているため、「先を見通せる」という縁起物として考えられているからだ。私は小さい頃、よく台所からスライスされたレンコンを2枚盗み、それを目の前に当てながら「いいメガネだろう」と叫びながら近所を歩き回った。こんなことばかりしていたので、私の人生の見通しは暗かった。これでいいのだが。

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ミセス・スローカム

 鑑賞用としてのハスも『古事記』では河内、『日本書記』では奈良の地名とともに「花ハチス」が美しいものとして出てくる。古事記では5世紀頃の出来事としてハチスの名が出てくるので、食用としてだけでなく観賞にも耐えるものとしてハスは認知されていたようだ。

 ひさかたの 雨もふらぬか 蓮葉に たまれる水の 玉に似たむ見る ”万葉集

 夕立ちの 晴るれば月ぞ 宿りける 玉ゆり据うる 蓮の浮葉に ”西行

 傘に蝶 蓮の立葉に 蛙かな ”其角”

 こうした歌が作られたように、ハスは見るものにある種の感慨をもたらした。

 ハスの花は、中国では美人に例えられている。ハスの美名は芙蓉(ふよう)という。白楽天の『長恨歌』には「芙蓉は面のごとく、柳は眉のごとし」とあるが、もちろんこの芙蓉は楊貴妃を指す。また、越王勾践が呉国を弱体化するために王の夫差へ絶世の美女である西施を送ったことはよく知られているが、この西施も芙蓉に例えられている。

 ところで、フヨウは夏に開花する樹木も有名なので、ハスを指す場合は”スイフヨウ”、樹木のほうは”モクフヨウ”と呼んで区別することがある。もっともフヨウには朝は白く午後は桃色、夕は紅色に染まる酔芙蓉という品種があるので、”スイフヨウ”の音だけでは混乱する場合があるかも。まぁ、話の流れの中で、どちらのフヨウなのは判断できるので心配は不要だ。

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舞妃蓮

 ハスやスイレンは、「再生するもの」「清らかなのも」として象徴化されてきた。

 エジプトでは前29世紀に神の一人であるネフェルテムの像が造られたが、この像の頭部にはスイレンの花の飾りが、輪飾りにはスイレンの文様がある。エジプトでは1本のスイレンから世界が生まれたと考えられており、前27世紀に造られた王墓の木柱には蓮花の柱頭がある。

 「エジプトはナイルの賜物」と歴史家のヘロドトスが記したように、毎年、必ず決まった日に始まるナイル川の氾濫は下流部に肥沃な土を運び、豊かな実りをもたらした。そのナイルにはほぼ周年、青いスイレンが咲く。それゆえ、スイレンは命の源、復活・再生の源を象徴するものと考えられた。なお、古代ペルシャに造られたペルセポリス宮殿には、エジプト様式の蓮台がある。

 インダス文明の都市と考えられるモヘンジョダロハラッパの遺跡には公衆浴場跡があるが、この浴場は蓮池(プシュカラ)と呼ばれていたらしい。また、この時期には多くのテラコット(テラコッタ=土の焼物)が作られたが、中でも蓮の飾りを付けた「ハスの女神」が有名である。

 古代インドのアショーカ王はインド全土を統一したが、最後の統一戦争ともいわれる「カリンガ戦争」で多大な犠牲を生じさせたため、以降は武断政治から文治政治に改めた。彼は「ダルマによる政治」をおこなうため、各地に石柱詔勅を建てた。この石柱の上部には垂れ下がる蓮華の花弁の彫刻が施してある。なお、アショーカ王は「第3回仏典結集」をおこないパーリ語経典(上座部仏教)の教えを整理させた。

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ネール蓮

 主要な仏典に『妙法蓮華経』があるように、仏教とハスとは切っても切れない関係がある。釈迦の弟子が「麗しい白蓮華が泥水に染められないように、あなた(釈迦のこと)は善悪の両者に汚されません」と語ったように、釈迦=白蓮華を最高存在と考えていた。したがって、『妙法蓮華経』は白蓮のような正しく崇高な教えを説いたものとされている。

 仏像はインドのガンダーラ地方で造られたのが最初だが、当初はヘレニズム文化の影響を受けているため、釈迦の顔形は西洋人的である。奈良の大仏をはじめ、釈迦像の多くが「パンチパーマ」だが、これは釈迦が女房子を捨てた流れ者、すなわちやくざ者だったからではなく、当初の像がギリシャ的なウェーブのかかった髪型だったからである。それが東洋的に変化しパンチパーマ=螺髪(らほつ)になったのだ。確証はないが、実際の釈迦は剃髪していた蓋然性が高い。

 仏像が蓮座や蓮台を有するようになったのは3世紀ころからである。ハスは生命の源なのだから、仏がハスの上にあるというより、仏はハスより出ると解釈するのが妥当だろう。

 浄土教が広まってからは、さらに仏教とハスとの関係は密になった。極楽浄土には蓮池が満ち満ちていると考えられている。「極楽世界には金、銀、瑠璃、水晶、珊瑚、瑪瑙(めのう)、琥珀といった七種の宝石でできているもろもろの蓮池があり‥‥」などと形容されている。

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千弁連

 「ハスは泥より出でて泥に染まらず」といわれるように、ドロンコの沼地から花茎を伸ばし、けがれのない麗しい花をつける。さらに、ハスの葉もけがれのないものの象徴とされる。これはよく「ロータス効果」と呼ばれる。ハスの葉の表面には0.01ミリ径ほどの突起が密に分布しているため、これが水をはじく効果を有するのだ。スイレンの葉はこの効果が低いので葉は水面にだけあるが、ハスの葉はこの効果が高いので、水を弾き水上高く伸びることができ、さらに大きく葉を広げても雨水がたまることはない。

 今ではあまり使われないが、「蓮っ葉」という言葉がある。尻軽で品行の良くない女を指す言葉だが、これはハスの葉が軽々と水をコロコロと転がすように、あいつは軽々しい女であるという例えからきている。

 バスを待つトトロは雨に濡れないように大きな葉っぱを傘代わりに使っているが、この葉はハスではなくサトイモの葉である。このサトイモの葉も水をはじく「ロータス効果」をもっている。トトロは所沢の狭山丘陵辺りに住んでいるので、サトイモの葉が身近にあったのだろう。これが行田か霞ケ浦周辺に住んでいたとしたら、きっと、ハスの葉を傘に使っていたに違いない。

 太田道灌は突然の雨で近くの農家に蓑を借りに行き、小娘から八重山吹を指し示されても意味が分からずに大恥をかいた。このことが道灌を歌人として大成させる切っ掛けとなったのだが、道灌がこのロータス効果を知っていたら、ハスかサトイモの葉を探せば良かったのだ。もっともハスの葉をさす道灌は、別の恥をかいたかもしれないが。さらに彼は歌人としては名を成さず、その上に「バ」が付く歌人となっていたことだろう。いや、本当に。

行田はギョーザの町ではなかった

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行田では忍城も欠かせない存在だ

 ギョーザが大好物である。「最後の晩餐」に何を食べるかと聞かれたら即座に「ギョーザ3人前」と答える。「あとは?」と尋ねられてもすぐには思い浮かばない。10秒後ぐらいに「サバの塩焼き」と返答するかもしれないが、そのあとは出てこない。学生時代にはよくギョーザ専門店に通った。その店ではある量を食べるとタダになるというルールがあった。体育系の奴ならばクリアー可能な量と思えたが、実際にはなかなか難しいらしい。私は「運動系?」だったがチャレンジしなかった。私なら簡単にクリアーできる量なので、仲間からも「やってみろ」と何度もいわれたが絶対にやらなかった。「体に悪いからか?」と聞かれたので否と答えた。体に悪いのではない、ギョーザに悪いのである。ギョーザは、ただ食べるのではなく善く食べるものなのだ。

 今年の1月に体調不良で3週間ほど入院したが、医者からは「脂分」を徹底的に控えるようにといわれた。当方としても釣りや旅行に出掛けられないと楽しくないので、以来、ラーメン類、天ぷら、かつ丼、唐揚げなど脂分の濃い食べ物は以前の10分の1ほどにまで控えている。ただし、それでは油切れで関節がカクカクすると釣りにも旅行にも行けなくなるので、ギョーザだけは食べるようにしている。というより、回数は増えたような気もする。

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行田市駅前のロータリー。開いている店はほとんどなかった

 行田市の中心街に来た。といってもどこが中心なのかわからないほど閑散としていたので、とりあえず行田市駅に来た。ギョーザ店を探すためである。10数年前だったか、アホそうな女性タレントのCMに「行田、ギョーザ」といったような馬鹿げたものがあったと記憶している。ダジャレは大嫌いだがギョーザは大好きなので、行田に来たのだから行田でギョーザを食べるという使命を感じたのだ。決して、コンビニのハンバーガーではない。

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行田のギョーザというよりチェーン店のギョーザ

 駅周辺を30分ほど歩いたが、ギョーザを扱いそうな店は見つからなかった。というより、開いている店自体があまりなかった。行田に限らず、地方都市のほとんどで駅前商店街は衰退し、店の多くは郊外のショッピングモールか街道筋に移ってしまったのだ。ギョーザを食べることを断念しようと思ったのだが、そう考えるとますますギョーザが頭や心から離れなくなるので結局、街道筋にあるチェーン店に入りギョーザを食べた。行田のギョーザではなく、行田店のギョーザになってしまった。

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忍城はかつて”水郷浮城”といわれたほど特徴的だった

 忍(おし)城は行田市駅から徒歩15分ほどのところにある。市役所の近くなのでわかりやすい。現在ある「御三階櫓」は1872年に取り壊されたものを1988年に再建(かつてあったものと同じ形かどうかは不明)したもので、歴史博物館に付随した建物になっている。櫓(やぐら)内に登ることは可能だが、私は一度も入ったことはない。今回も入館しなかったが、後で後悔した。

 忍という地名は珍しく、ここを訪れる多くの人は「しのぶ」とか「しのび」とか読んでしまうそうである。「忍」とつくと忍者を連想し、この城を忍者屋敷と考えがちだ。忍を「おし」と読む例は山梨県にある。忍野村にある「忍野八海」が有名で、そっちは世界遺産(富士山)のひとつになっている。それゆえ、これを「おし」と読んでもさほど違和感はない。「おし」の語源は不明だそうだが、有力なものとして「川の縁(へり)」を意味するというものがあるらしい。確かに、この行田市の近くには利根川や荒川が流れ、それら以外にも中小河川が多いので、「川の縁」というのもあながち的外れではないだろう。

 周囲に川が多いことからこの地には池や沼が多く、熊谷を本居地としていた成田親泰はこの地形を利用して、1491年に築城した。池や沼地を天然の堀とし、点在する島々に土塁、塀、曲輪、櫓、役所、住居などを造り、それらを橋で結んだ。このため、忍城は「水郷浮城」と呼ばれ難攻不落の城に数えられた。成田氏がこの城を築く直前に、事実上関東の地を仕切っていた太田道灌が暗愚な主君に殺されたため、関東の地は混乱に陥っていたのだった。親泰にとっては守りが固い城が必要だったのだろう。

 成田氏は小田原の北条氏側に属していたため、豊臣秀吉軍の小田原攻め(1590)の際には守備側についた。忍城を攻撃したのは石田三成真田昌幸といった武将を中心とした23000人の軍勢。一方、成田勢は800人の兵と約2000人の農民が城に立てこもり守りを固めた。石田三成は城の周囲に堤を築き「水攻め」をおこなったが、成田氏側はよく守り抜き、城内には一人の敵兵も入れなかった。しかし、小田原北条氏が秀吉勢に完敗したため、忍城は無傷のまま開城された。

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水城公園はかつて城を取り囲んでいた大沼の一部を整備したもの

 その後、忍城松平家や酒井家、阿部家など徳川幕府の譜代・親藩大名がここの主になった。明治維新後の廃藩置県によって忍藩10万石は忍県となり、1872年に城は取り壊された。さらにこの地の開発のために池や沼の大半は埋め立てられ、今は大沼の一部が「水城公園」の池として残っているだけである。私はこの地を初めて訪れた際、町の中心部に大きな池があることに感激したが、この地の歴史を調べてみると、この池は忍城の堀のほんの一角にすぎないのだということが分かり心底、驚きを覚えた。

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あちこち遍歴を重ねた忍城の時鐘

 歴史博物館の敷地内、御三階櫓のとなりにあるのが写真の「忍城の時鐘」である。この鐘は1717年に桑名で造られ、いったん火災にあったが修復された。1823年に桑名藩主が忍藩に移封された際、この鐘は忍城に持ち込まれたのだった。が、城が取り壊れたことで鐘楼もなくなり鐘は放置された。それを忍びなく思った地元の有志の協力によって、鐘は新設された小学校の玄関横に置かれることになった。しかし戦後、この場所を米軍が病院として利用することになったため、現在ある場所に移されたそうである。そんな鐘の遍歴を知ると、このどこにでもありそうな鐘楼に対して、襟を正して尊崇しなければならないと少しだけ思った。

古墳群に興奮する

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古墳のいくつかには天辺に上ることができる

 「さきたま古墳群」は十数年前、私が行田市に来る切っ掛けとなった場所である。そのころ、日本各地にある古墳を見て歩いていたからだった。先に述べたように、ここの前には「吉見百穴」や「黒岩横穴群」を訪ね、それからここに来るのである。前二者も墓なので、何のことはない単なる”墓巡り”なのだ。そういえば、多摩墓地も私の散策場所のひとつだ。

 私が古代史を好きになったのは、予備校(代ゼミ)の英語の授業が端緒だ。社会科の受験科目には日本史と地理を選択した。地理は小さい頃から地図を見るのが好きだったのでとくに問題はなかった。一方、日本史は覚えることが多く、しかし私は暗記が大の苦手だった。日本史はほとんど手付かずのままだったので成績は芳しくなく、ときおり思い出したように参考書を広げるのだが、いつも古墳時代まで進んではその本を投げ出していた。それゆえ、猿人や原人や旧人については友達のように馴染んだが、それ以降は怪しくなりつつなんとか前方後円墳まではたどり着いた。しかし、乙巳(いっし)の変(大化の改新)となると、ウマがどうしたイルカがどうしたカタマリがどうしたこうしたと訳がわからなくなった。

 後期になっても相変わらず、授業中に欠伸をしたり漫画を読んだりしていると予備校で知り合った2人から、英文解釈の授業で面白い話が聞けるので来いとの誘いがあった。そこで、私より出来の悪い友人を無理やり引き連れ、その場を抜け出して4人でその授業がおこなわれている教室に入った。200人ほど入る大教室だったが、受講者は一番後ろの席に数人いるだけで、しかも誰も授業を聞いておらず自習していた。私たち4人は一番前の列に座った。講師は英語の授業にも関わらず、大声でしきりに日本古代史の話をしていた。まったく知らない人名や出来事が出てくるのだが、その内容は壮大な歴史ドラマのようで私はすぐに魅入られてしまった。人の話に没入できたのはこれが人生初のことだったといっても過言ではない。

 私を誘った2人は東大志望で午前中は駿台予備校に通い、代ゼミで息抜きをして夕方から自宅で勉強。私の友人は東京芸大志望で、いつも漫画以下の絵を描いていた。私は教員免許さえ取れればどこの大学でも良かったので志望校はまったくなかった。受験本番が近づくにつれ、3人は英文解釈という日本史の授業には顔を出さなくなったが、私は一人で彼の話に聞きほれていた。あまつさえ、その講師は古代史の研究会を設立し現地調査も行っていたので私もそれに参加した。それにはさすがの講師も慌てた様子だったが、私が志望校の名前をいうと(もちろん適当に)”そこなら勉強しなくても大丈夫だな”と、受験日前日まで私を現地調査に付き合わせた。その場所は、大磯町にある高麗山だった。彼のお蔭で、私は初めて「知ることの楽しさ」を少し分かるようになった。

 その先生は明治大学教授(当時は助教授)のドイツ文学者だったが、日本古代史に興味を抱き、研究会まで発足させ事務局を仕切っていた。その運営費用を捻出するために予備校の授業を受け持っていたのである。私が大学生になってからたまたまテレビを見ていると、件の先生は「クイズダービー」の解答者としてレギュラー出演していたのだった。聞けば、研究会の運営費は「火の車」状態だったそうだ。先生は、知っていてもわざと答えを間違え、進んでピエロ役をやって出演料を稼ぎそれを研究会の費用に回していたようだ。残念ながら先生は43歳の若さでガンで亡くなり、解答者は篠沢教授に代わった。

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ここの古墳群を代表する存在の「丸墓山古墳」

 ここには大型の古墳が9基あり、日本でも有数な古墳群だそうだ。国の史跡に指定されていて、最近では「世界遺産」の登録を目指しているらしい。この点では大阪の巨大古墳群に後れを取ってしまったが。写真の古墳は「日本最大級」の円墳で、長いほうの径は105mある。少し前までは「日本最大の円墳」を自慢していたが近年、奈良の「富雄丸山古墳」の径が110mありそうだということを主張し始めたのでこちらは慎重になり、「日本最大」から「日本最大級」に「格下げ」して推移を見守っている。

 ひとつ前の写真にあるように、この古墳は上に登ることができる。「古墳を大切にしましょう」という看板が少し悲しいが。天辺や周囲には桜の大木があり、開花期はかなり眺めが良いらしい。この古墳の周りには「石田堤」がある。先述した石田三成忍城を水攻めにするために築いた堤防だ。

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天辺からは忍城の御三階櫓が望める

 古墳の上からは写真のように忍城の姿が見える。石田三成は、ここから城や周囲を見渡し、攻略作戦を練っていたのであろう。それゆえ、この古墳は相当に荒らされた可能性が高い。私がここを訪れた日には大勢の小学生が歴史の勉強のためなのか社会科見学なのか古墳を上り下りしていた。引率の教員の中にあの教授のような熱血漢がいれば、子供たちの多くが歴史好きになるだろう。いや絶対に。

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国宝が発掘された稲荷山古墳と古代蓮の里にある展望塔が望める

 丸墓山古墳上からは、となりにある「稲荷山古墳」や古代蓮の里にある高さ60mの展望塔を見て取ることができる。天辺はかつて物見台になっていたためか意外に広く、休息場所にも適している。大勢が墓上に訪れると騒々しいので墓の中で眠っている人は十分な睡眠はとれないだろう。もっとも、千数百年前に風になってもうそこには主はいないだろうが。

 写真に見える稲荷山古墳は、長さ120mの前方後円墳である。1968年の発掘調査によって、「金錯銘鉄剣や帯金具、勾玉(まがたま)、鏡などの遺物が多数発見され、これらは国宝に指定されている。現在は、古墳群の敷地内にある「さきたま史跡の博物館」内に展示されている。鉄剣に刻まれた銘文によれば、この墓の主は「雄略天皇」に仕えた有力者であることが推測されるそうだ。

 古墳時代は3世紀半ばから7世紀前半まで続き、土盛りの大きな墓を造るという特異な文化をもっていた。大きな墓はほとんどが前方後円墳で、奈良県桜井市にある「箸墓古墳」がその始原とされている。この墓の主は「卑弥呼」だという説があり、個人的にはそうあってほしいと願っている。が、出土品からは4世紀頃のものも多いため、その真偽は確定していない。纏向(まきむく)にあるこの古墳は私が大好きな「山辺の道」(日本最古の道といわれる)からは少し外れた場所にあるが必ず、寄り道をしてこの箸墓古墳を訪ねている。

 古墳群の存在は一時、今年の話題をさらった。「百舌鳥・古市古墳群」が、世界文化遺産への登録が決定されたからだ。もちろん、教科書にも出てくる大仙陵(伝仁徳天皇陵)はそこの代表的存在である。私も何度かその古墳を訪れているが、確かに敷地面積の広さには圧倒される。そこはかつて「世界最大の墓」といわれていたが、現在では「敷地面積としては」という但し書きが付いている。エジプトのクフ王のピラミッド、秦始皇帝の「兵馬俑坑」は「~としては世界一」と名乗っているのだろうか。

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将軍山古墳には展示館がある

 将軍山古墳は長さ90mの前方後円墳で、1894年に発掘され横穴式石室からは多くの副葬品が出土している。これらの多くは再現された石室の中に並べられ、「古墳展示館」として公開されている。現在は草が茂っているので写真ではよく分からないが、墳丘には模造された埴輪が並べられている。

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愛宕山古墳には樹木が茂りやや悲しい感じがする

 無料駐車場のすぐ東側にある「愛宕山古墳」はこの古墳群では一番小さな前方後円墳で、長さは約55mだ。写真の通り、樹木がよく茂っていて、ここ一帯が古墳群であると知らなければ、小さな丘程度にしか見えない。が、イメージをきちんと膨らましさえすれば古墳に見えるし、それも前方後円墳以外の何物でもないとわかる。

 写真には挙げなかったが、将軍山古墳と愛宕山古墳との間には「二子山古墳」がある。これは当地の古墳群では最大の前方後円墳で長さは132mある。しかし、旧武蔵国では最大であるという以外とくに但し書きはなく、埴輪や須恵器以外の出土品の説明もないようだった。

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レストハウスや古民家の裏手にある瓦塚古墳

 古墳群の敷地内には行田市駅に通じる「古墳通り」が走っていて、ここまでに挙げた5つの古墳は通りの北側にある。通りを渡ってすぐのところに「はにわの館」があり、ここでは埴輪作りの体験ができる(有料)。その横にはレストハウスがあるが、その東にあるのが写真の瓦塚古墳だ。これも長さは73mとさほど大きくはない前方後円墳だ。

 とくに記すべきものはなかったので写真は撮ったもののここに挙げる必要性は感じられなかったのだが、古墳のふもとには多数のオレンジ色の野草(ハルシャギク)が咲いいてそれが案外綺麗だったので、あえて挙げてみたという次第だ。

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敷地内に移設された古民家

 レストハウスのとなりには移設された古民家があった。入り口には「旧遠藤家住宅」との標識があった。武蔵野の地を散策するとあちこちで見かける、もしくは見かけた典型的な古民家の姿で、私の母の実家(調布市)もこんな造りの家だったのでこれには懐かしさを覚えた。そこは、いまでは大きなマンションになっているが、ほんの30年ほど前にはこうした姿で京王線西調布駅の近くに建っていた。なお、古民家の右手に見える丘は、瓦塚古墳の前方部である。

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史跡の博物館内にある展示室

 「さきたま史跡の博物館」には初めて入った。入場料は200円で「将軍山古墳展示館」との共通入場券になっている。なお「古代蓮の里公園」の駐車券を見せれば、ここは120円で利用できる。

 1階が展示室になっており、「企画展示室」と「国宝展示室」がある。写真は「企画展示室」の内部で、埴輪や土器が数多く展示されていた。教科書や資料集、図鑑などで見かけたことがあるらしきものが多く並べられている。やはり実物には歴史の重みが感じられ、たまにはこうして資料館をのぞくことも歴史への興味がさらに膨らむのだということを実感した。

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展示されている動物埴輪

 形象埴輪のうちの動物埴輪である馬形埴輪は想像していたよりもかなり大きいもので、しっかりと復元されていた。ガラスケースに入っているために写真では写り込みが多くて見づらいが、実際の場面では細部まできちんと見えるし、解説書だけでなく解説をしてくれる係員も常駐している。ガラスケースに収まった国宝の小型遺品に見るべきものが多くあったが、これらは撮影禁止だった。これからも訪れる機会は多々ある?ので、次回はじっくりと見物してみたい。そう思わせるほど、展示品は充実していたのである。

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さきたま古墳群は自然も豊かなので折々に訪ねたい場所だ

 さきたま古墳群には、中心的存在である丸墓山円墳をのぞけば全国規模でみると中小型の前方後円墳があるのみで、最大でも二子山古墳の132mである。日本には200以上の長さを持つ大古墳は30基以上ある。その半数は奈良県にあるが、さらに300m以上の巨大古墳は全国に7基あり、大阪に4基、奈良に2基、岡山に1基である。もちろん最大のものは「大仙陵」で長さは525mにも達する。

 奈良や大阪といえば古くから栄えた場所で、とくに巨大古墳がある場所はほぼ、先に述べた「山辺の道」や日本最古の官道といわれる「竹内街道」沿いにある。つまり大和から海の玄関口であった堺、やや詳細に述べれば、奈良県の桜井から二上山麓を通って太子町にある「近つ飛鳥」を抜け、羽曳野から堺に至る道沿いだ。ここらは日本成立期から発展していた場所なので、当然のごとく「大王の墓」が存在する。しからば、巨大な前方後円墳がその権威・権力の象徴になるのはいうまでもないことだ。

 「さきたま古墳群」はいかなる権威・権力から生まれたのだろうか?いまだ、墓の主は同定されていない。『日本書記』の記述によって武蔵国造の笠原直使主(あたいおみ)一族の墓と推定する説が有力らしい。また、当地の伝説では「乙巳の変」の折りに蘇我石川麻呂一族が逃げてきて住み着いたので、麻呂の墓⇒丸墓になったというのがあるそうだ。

 この古墳群がある場所は『万葉集』や『和名抄』に「前玉(さきたま)」、「佐吉多方(さきたま)」とあり、これが埼玉県の名前の語源となったとされている。これには異説もある(埼玉は多摩川の先にあるから先多摩⇒さいたまとなったなど)ようだが、少なくとも古墳群の地では「埼玉県名発祥の地」と考えており、その石碑もある。

 いずれにせよ、墓の主といい、県名の由来といい、謎多き場所なのである。それゆえ、規模は中古墳でも心意気は大古墳であり、歴史好きは、その謎を追うと「大興奮」するのだ。

 古代蓮の里があり、行田の名はギョーザを連想させ、そして大興奮してしまう大古墳がある。とても忍んではいられない面白い場所なのだ。これでいいのだ。いや本当に。

   * * *

 この項を、私に勉強の面白さを初めて気づかせてくれた、天国におわします鈴木武樹先生に捧げます。
 

〔15〕ヨーコを探して港へ(2)ヨコハマ・ヨコスカ

横浜、そして横須賀へ

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港の見える丘公園のイングリッシュガーデンからベイブリッジを望む

  横浜に初めて行ったのは、10歳前後の頃である。横浜地方気象台に勤めていた叔父(母の弟)一家が山手町にある官舎に住んでいたので、夏休みに母と一緒に訪ねた。それが恒例になり横浜訪問は何年か続いた。叔父のところには私と同年代の男の子が2人おり、彼らと官舎の目の前にある外人墓地や、完成したばかりの「港の見える丘公園」に行って遊んだ。叔父の車で根岸の海水浴場に連れていってもらい、私は初めて海で泳いだ。それまでは自宅近くの市営プールや多摩川の是政付近のトロ場でしか泳いだことがなかったので、海水のしょっぱさには結構な衝撃を受けた。泳ぎはかなり得意なはずだったのだが、海水が目や鼻、口に入るときの違和感が気になって泳ぎに集中できず、いとこたちに負けてしまったことは本当に悔しかった。勉強の出来や知識、礼儀正しさでは2人には全くかなわなかったが、遊びや運動、喧嘩では絶対に負けない自信があったにもかかわらず、得意分野で後れをとったことは大いに私をくじけさせた。中学生になってからはますます遊びや運動に忙しくなり、親と出掛けることの気恥ずかしさもあって、横浜の叔父のところには行かなくなった。横浜は少し、遠い存在になった。

 山手町には現在も同じ場所に気象台はある。その施設も官舎も様子はすっかり変わってしまったが、官舎に通じる坂道は今でも敷地内にあり、はるか以前の出来事を昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。たった一本の狭い坂道なのだが。

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横須賀は軍港の町でもある

 今回は横浜だけでなく、横須賀にも出掛けてみた。ヨーコを探すための第4の啓示を見出したからである。それは「ハマから流れて来た」というものである。”ハマ”はもちろん横浜を指し、”流れた”ということは横浜には存在しない可能性を示し、”来た”とは最寄りの港周辺へ移ったということを明示していると考えられる。とすれば、横浜周辺で港のある町といえば、川崎、横須賀、藤沢、鎌倉、逗子が考えられるが、後三者の町は駄目だ。横浜とは山で隣接しているからだ。山には流れられない。山は越えるのだ。前二者なら海続きなので流れて行ける。何だかよくわからないが、ここは川崎か横須賀と考えるのが妥当だろう。しかし、川崎は工業地帯なので、ヨーコには相応しくない。武蔵小杉ならいいかもしれないが、残念ながらムサコは港町ではない。したがって、横須賀がこの啓示にはドンピシャの町と考えられた。これが、横須賀にも出掛けた理由なのだ。

中華街を散策してみた

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中華街のメインストリート。超有名店が集まっている

  中華街に初めて行ったのは40代後半のときだった。横浜には小さい頃から何度も行っていたにもかかわらず、その地に足を踏み入れることはなかった。中華料理が嫌いだったわけではない。私が好むのはラーメンに餃子。たまに懐が温かいときは五目そばに餃子となる。よって、わざわざ中華街に出掛けなくとも近くのラーメン屋で間に合うのだ。というより、中華料理は種類が豊富すぎるので、決断力のない私には餃子以外何を注文してよいのか分からずパニック状態になってしまう危険性が大いにある。そうした困難にわざわざこちらから出向く必要性はなかったので、中華街は避けていたのだ。かの叔父は、公務員の薄給が理由だったのかは不明だが、私たちを連れて行ってはくれなかった。

 それがたまたま20代の女性と中華街へ行く機会ができたのだった。彼女は中華街をよく知っているらしいので、連れられるままに私たちは名前だけは聞いたことのある大型店に入った。彼女もその店は初めてらしく何を注文してよいのか分からなかったようなので、私は「◎〇コース」を二人分頼んだ。そのときはたまたま財布の中身が充実していたので、一番高いコースを選択した。見栄を張ったのだ。美味しかった。まぁ、ラーメン50杯以上もする値段のコースなので、不味かったら店に火をつけたかもしれないが。

 中華街の成立は1859年、横浜開港当時に香港や広東省福建省出身の商人が横浜の一角に集まったことが端緒だ。当時は中国人だけでなくイギリスやフランス、アメリカの商人も集まり、雑多な外国人居留地だったらしい。町の区画自体は、63年頃には現在の形になっていたとのこと。

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華僑が集まる場所には必ず”関帝廟”ができる

 その地に、中国人居留地お定まりの「関帝廟」や「中華会館」ができると、次第に中国人中心の居留地となっていった。関帝とは三国志でお馴染みの「蜀」の劉備玄徳に仕えた武将、関羽(字は雲長)のことである。かれは魏の曹操から嘱望されていたにも関わらず、終生、劉備個人に忠誠を尽くした。このため、後の時代の皇帝は、自らの支配の正統性を徹底するために関羽を神格化し、全国各地に「関帝廟」を造らせた。清代には県には必ず「孔子廟」(文廟)と「関帝廟」(武廟)が建立されたそうだ。しかし、文化大革命の際の「批林批孔運動」(1973~76年)で各地の「孔子廟」が破壊された。その一方、関帝は商売の神としても崇められていたために中国の「資本主義化」には欠かせなかったのか、「関帝廟」は現在でも多く残っている。

 1923年の関東大震災で多くの欧米人が帰国したため、中華街は文字通り中国人の町となり、次第に中国料理店も増加していった。しかし、30年代に日中戦争が始まると中国人の移動は制限され中華街(当時は南京町と呼ばれていた)の人々は南京町に軟禁状態となった。

 大戦後、中国は戦勝国となったため大陸からは多くの物資が南京町に届くようになった。その結果、ここには横浜市最大の闇市が形成された。49年、中華人民共和国が建国されてからは共和国派と中華民国派の対立が激化したが、横浜市の「チャイナタウン復興計画」もあって、南京町は次第に落ち着きを取り戻し、55年、南京町の入口には牌楼門(現在の善隣門)が造られ、そこには「中華街」の名も掲げられた。以来、この地は中華街と呼ばれるようになった。

 写真にある関帝廟関東大震災以降に再建されたものである。それ以前のものはこれよりずっと豪華絢爛だったそうだ。

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現在の中華街は大通りよりも脇道の方が混雑する

 40代後半の頃は大通りの超有名店に何度か通ったが、横浜在住の中華街通に狭い通りにある格安お粥店を紹介されてからは、路地にある一般向けの店に通うようになった。当たり外れはあるものの大方は当たり店なので、50代以降は裏路地歩きが私の好みになった。お気に入りは中華街通に教えてもらった店だった。今回、久し振りにその店を訪ねたいと思って探したのだが、通りの様子はすっかり変わり、店舗も多くが新築、またはリフォームされてしまったため見つからなかった。そもそも、店の名前を憶えていなかったのが敗因だった。

 中華街はいつも混雑している。修学旅行生が多い。中国からの旅行客も多い。家族連れはもちろん女性だけのグループも多い。カップルも多い。単独行動派はオッサンかオバサンか若い女性。男だけのグループは案外少ない。店内利用よりも売店で中華まんや飲み物を買って土産物を物色しながら散策する人が多い。単品やコース品中心の店よりもバイキング形式の店が目立つようになった。価格もかなり庶民的レベルに設定されている。これからまた横浜に行く機会が増えそうなので、中華街探索を再開したい気分になっている。まだ健在なら、あの安くてボリュームがあり、なによりすこぶる美味だった件の店に今一度、出会いたい。

関内駅界隈

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横浜公園内にあるスタジアム。ベイスターズの専用球場だ

 1859年に開港した横浜は外国人居留地を定め周囲に運河を造り「第二の出島化」を図った。井伊直弼の策略だった。橋などの出入り口には”関門”や”番所”を作った。このため、外国人居留地をはじめとする港一帯は「関内」と呼ばれるようになった。

 開港とほぼ同時に造られたのが遊郭で、今の横浜公園辺りに「港崎(みよざき)遊郭」があった。港造りと並行して造られたらしい。江戸の吉原並みの規模だったそうだ。が、66年の”ぶたや火事”で全焼したため、この地は外国との取り決めによって公園として整備されることになった。そして76年に公園は完成した。これが現在の「横浜公園」である。公園内には広場があり、外国人のみが野球やクリケットを楽しんでいた。一方、73年には開成学校(のちの旧制一高)の米国人教師が生徒に野球を教えるとすぐに広まった。そして、96年、一高と横浜在住の外国人チームとの試合が横浜公園で行われることになった。日本で最初の国際野球大会だった。

 この球場は戦後、米軍に接収され「ゲーリック球場」と呼ばれた。ナイター設備があったので、1948年、巨人・中日戦が日本プロ野球初のナイトゲームとして行われた。占領が終わり、返還されてからは「平和球場」と呼ばれるようになった。横浜にもプロ球団をとの声が強まり、平和球場を大改修して「横浜スタジアム」を建造し、「大洋ホエールズ」を誘致した。78年のことである。

 私には横浜出身や在住の知人が多いが、そのうちの野球好きの連中はベイスターズのファンが大半である。阪神広島ファンほどではないが、ベイスターズファンもかなり熱狂的だ。私も何度か誘われて横浜スタジアムに出掛けたが、トラファンに負けないほど熱心な応援に驚かされた。それも若い女性が多いのも印象的だった。横浜は若い女性が好む町だということを実感した。

 前回”大さん橋”の項で述べたが、私は伊豆諸島での釣りの帰りには大さん橋で降り、日本大通りから横浜公園を通って関内駅に向かった。ときにはスタジアムで試合が行われていて、大きな声援と、それ以上に大きなため息が聞こえてきた。なぜなら、ベイスターズ(かつてはホエールズ)は弱かったからである。

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かつての歓楽街も今はショッピングモールになっている

  今は”伊勢佐木あたりに灯がともる”が、かつて一帯は沼地で江戸時代に埋め立てられて”吉田新田”となった。1866年の”ぶたや火事”で港崎遊郭が全焼したのち69年、この地に遊郭が移転してきたため、関外にあるこの農地が一転、吉原町と呼ばれる歓楽街となった。その後、遊郭高島町に移転したが伊勢佐木の地には「蔦座」「羽衣座」といった演劇場ができて新たな賑わいを見せ始めた。20世紀に入ると演劇は廃れたが、代わって映画館が続々と出来、興行街として伊勢佐木町は横浜を代表する繁華街になった。1911年には「オデヲン座」という映画館がドイツ人貿易商によって作られ、洋画封切り第一号館となった。こうして神奈川だけでなく東京からも多くの人が訪れ、1910年代には”伊勢ブラ”などという言葉も流行ったそうだ。

 が、横浜駅西口の開発が進んでからは、こちらのほうがより利便性が高いゆえに繁華街は西口周辺に急速に広がった。その影響で伊勢佐木町の地位は相対的に低下した。現在、伊勢佐木町商店街(通称イセザキモール)は老舗商店と新しい店が共存しながら、観光地でもなくハイソでもない街として新たな顔を作り出している。

元町から山手町に向かってみた~私が最初に訪れた横浜

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ハマトラ”発祥の地も今はやや寂し気

 「ハマトラ」といっても横浜・阪神戦のことではない。横浜元町を発信源とした若い女性向けのファッションスタイルである「横浜トラディッショナル」の略語だ。山手町には”お嬢様大学”があり、さらに若い女性が好むカフェや公園、異国情緒あふれる街並みがあるため、そこに集まる女性の姿かたちをカテゴライズした、とあるファッション誌が生み出した造語だ。1970年代の後半から80年代の前半に「ハマトラ」はブームを呼び、元町がその中心となった。とくに10代半ばから後半の女の子に人気があったらしい。ブームは長く続かなかったものの、ファッションにはまったく無関心な私がその言葉をよく見聞きしたのは今から20年ほど前だったので、横浜辺りではまだ”死語”にはなっていなかったのだろう。

 前回でも触れたが、元町は「横浜村」に住んでいた住民が港を造るために強制移住させられてできた町である。当時は関外にあって丘のふもとののどかな村だったが、山の手が開発され外国人居留地として発展してからは、関内に通う外国人にとって利便性の良い商店街として発展した。戦後は一時荒廃したものの朝鮮戦争特需によって復興を遂げ、休戦後は国内向け、とくに若者をターゲットにした街づくりを進めた。その結果、多くの若い女性が「元町」「山手」の響きにつられて集うようになった。

 今回、十数年ぶりに元町を歩いてみたが、かつてのような賑わいはなかった。町自体からも活気は感じられなかった。ファッションが多様化したのか若者が窮乏化してファッションに関心を抱く余裕がなくなったのかは不明だが、全盛期を知るものにとっては一抹の寂しさを感じた。

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公園からはこの方向だけ港が見える

 元町から”谷戸坂”を上ると、左手に「港の見える丘公園」が見えてくる。この公園は1962年に公開された、横浜では比較的新しい公園である。私が初めて横浜に来たときにはまだ整備中だった。63年、何度目かに横浜を訪れたときは、真っ先にここに来た。叔父の住む官舎からわずか100mほどのところにできた公園だからである。その名の通り、港はよく見えた。山下ふ頭は整備されつつあったが、本牧ふ頭はまだなかった。大黒ふ頭はもちろんなかった。ベイブリッジ首都高速湾岸線もなかった。みなとみらいもなかった。今はそれらがすべてあるので海はあまり見えず、写真にあるベイブリッジ方向のみ海面が見える。なお、みなとみらいの高層ビル群は展望台からでは丘にある森が遮るために今でも見えない。

 山手町にあるここにはかつて、丘の上部がイギリス軍の、下部がフランス軍の駐屯地だった。1863年、下関海峡(現在の関門海峡)で砲撃を受けたイギリスは長州遠征に向かう前、艦隊は横浜港に集結し、幕府に駐屯地の設営を要求した。当時、山手町にはイギリス領事館があったので、その隣地を仮の駐屯地とした。64年、イギリス、さらにはフランスが駐屯施設整備を要求し、幕府はやむなくそれを受け入れた。資金は全額、幕府が負担した。

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旧イギリス領事館邸とイングリッシュローズの庭

 太平洋戦争後、この地はアメリカ軍が占領したが、返還されたのちに横浜市はここに公園を造ることを決め、1960年から整備を進め62年に完成・開園した。イギリス領事館邸には広い庭園があったのでここを”バラ園”として整備、さらに2016年、「イングリッシュローズの庭」としてリニューアルし、バラだけでなく多彩な園芸種で庭園を飾っている。私が訪れたときバラは終盤を迎えていたが、テッポウユリクレマチスなどがよく咲いていた。

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沈床花壇とその先にある大佛次郎記念館

 展望台のとなりの窪地には「沈床花壇」(香りの庭)がある。ここもメインはバラであるが、負けじとテッポウユリが存在を誇示していた。中央の噴水周りはブルーサルビアコリウスといった園芸種が色どりを添えていた。よく手入れをされている庭には必ずと言っていいほど庭師の姿があり、花柄摘みなど丁寧な作業をおこなっている。

 花壇の先に見えるのが「大佛(おさらぎ)次郎記念館」である。横浜市出身の大佛といえば『鞍馬天狗』があまりにも有名なので大衆小説家のイメージが強いが、パリコミューンを題材にした『パリ燃ゆ』や19世紀末にフランス第三共和政を揺るがせた『ドレフュス事件』など歴史小説やノンフィクションなども手掛けている。

 大佛は一時「ホテル・ニューグランド」を創作活動の拠点にしていたことがある。マッカーサーは315号室がお気に入りだったことは前回記したが、大佛が使っていたのは318号室で、鎌倉の自宅からホテルの部屋に行くとすぐに執筆活動ができるようにと、ホテルのボーイたちは必要な資料を大佛のために用意しておいたという。318号室は今でも、ホテル関係者には「鞍馬天狗の部屋」と呼ばれているそうだ。

 記念館のとなりには「ティールーム霧笛」がある。知人の話では、ここのコーヒーは絶品らしい。『霧笛』は大佛の作品名で明治初期の横浜を舞台にした”無頼派”小説である。当時のイギリス人船員や南京町(現在の中華街)の日常が描かれている。なお、このティルームの名は大佛夫人が命名したとのことだ。

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外人墓地には平日は入れない。土休日は公開されている

 港の見える丘公園から横浜地方気象台をはさんだ向かいの傾斜地に「外人墓地(正式には横浜外国人墓地)」がある。私が初めて横浜に行ったときは、ここが最初の遊び場だった。そのときは自由に出入りできたが、墓場をデートに使う不埒ものが増加したので、現在は3~12月の土休日のみ公開されている。これは墓地を維持管理するための予算を集める募金活動の一環としておこなわれているとのことだ。

 1854年にペリー艦隊が和親条約調印のために横浜港を訪れた際、船員の一人がマストから墜落・死亡したことで、ペリーはその埋葬地を幕府に要求した。「海が見える場所」を望んだため、当時「増徳院」の境内だった一角を米側に提供した。これが外人墓地の端緒になった。以来、生麦事件で殺された英国人など攘夷の嵐の中で命を落とした外国人、開化期に鉄道技師として新橋・横浜間の鉄道敷設を指揮した人、ボーイスカウト運動を日本に紹介・指揮した人、日本で最初に英字新聞を発刊した人、居留地外国人のための劇場である「ゲーテ座」を開設した人など、多数の外国人がこの墓地に眠っている。

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山手からベイブリッジを望む

 ”街の灯りがとてもきれい”なヨコハマだが、ブルーライトのヨコハマは光が強すぎて目に悪いと思っている人は日中に横浜に来るだろうが、昼日中でも素敵な景色は無数にあり、歩いても歩いても訪ね尽くすことはできない。山手町にも名勝(広義の)は多く、とくに”ワシン坂”から望むベイブリッジは私のおすすめだ。港の見える丘公園を出たら谷戸坂とは反対方向、つまり本牧方向に道なりに進む。途中には山手らしい豪邸や韓国総領事館があるが、さらにその先に進むと見晴らしの良い場所に出る。ワシン坂上公園のすぐ手前だ。

 写真は当日の光の関係で、おすすめポイントからではうまく撮れなかったのでやむなく丘公園の北東端から写したものだが、紹介した場所からはもっとベイブリッジが間近にかつ車の行き来まで見える。可能なら、やはり夕方以降が良く、2本の主塔のブルーライト、路灯、行き交う車のヘッドライトとテールライトは、この上のない美しさを演出する。

本牧三之谷にある名園~三渓園

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正門付近から”大池”と三重塔を望む

 三渓園横浜市中区本牧三之谷にある敷地面積17.5haにも及ぶ広大な庭園である。各地から移設した建物は17棟ありその多くが国の重要文化財や市の有形文化財に指定されている。また庭園全域が国の名勝に指定されている。

 この庭園は、生糸輸出で財を成した横浜の実業家であった原富太郎(茶人としての号は三渓)が1902年から整備を進め、自身の住まいとして園内に「鶴翔閣」を建て、この地を本宅とした。原三渓は青木富太郎として岐阜県に生まれ、大学卒業後に女学校の教員となった。その教え子であった女性と結婚し原家に養子として入り、原富太郎になった。養祖父の原善三郎は生糸業で横浜の有力な実業家になり、明治初期に三渓園の土地を購入しており、この地に別荘を建てていた。善三郎の死後、原三渓はこの地の造園を本格的に進めたのだった。原三渓は芸術家や文学者との交流を深め、自らは茶の湯の道を究めようとした。なお、号の”三渓”はこの地の三之谷という地名に由来する。三渓は39年に死去した。

 第二次大戦の際の空襲によって大きな被害を受け、その後、三渓園は原家から横浜市に譲渡・寄贈され以来、財団法人が管理している。なお、1906年には三重塔がある「外苑」はすでに一般に向けて公開されていたが、戦争被害からの復旧工事が完了した58年には原家が個人的に利用していた「内苑」も一般公開され現在に至っている。開園時間は9~17時、入園料は700円(大人)である。

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内苑には桃山時代から江戸時代に造られた木造建築物が多数移築・保存されている

 正門から大池と蓮池の間の道を進み、三渓記念館の右手にある「御門」(これも江戸時代、京都に建築された)を通ると「内苑」に至る。先述したようにここは原家個人のものであった。三渓は谷筋の傾斜地に多くの木造建築物を移築した。その大半が重要文化財に指定されているほど価値の高い建物である。元は京都、和歌山、鎌倉にあったものなのでこの「寄せ集め」に価値を見出せない人も多いらしいが、移築されなければかの地で朽ち果てていた可能性は大きいので、三渓の行為は必ずしも金持ちの道楽とばかりは言えないだろう。

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外苑のランドマークである三重塔。元は室町時代の京都にあったもの

 外苑の高台にそびえる三重塔は、元は京都にあり室町時代に建築(1457年)された。木津川市にあった燈明寺から大正時代に移築したもの。燈明寺はその後、廃寺になっているので、移築しなければこの姿を留めていることはなかったに違いない。関東にある木造の塔としては最古のものらしい。

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外苑にある展望台から旧根岸海岸方向を望む

 三重塔の裏手(南側)には展望台があり、かつてはこの海食崖上から広大な海を望むことができた。かつて崖下は海岸線でありそこには海水浴場もあった。1960年代から埋め立てが進み、写真にあるようにここには首都高速湾岸線、JXTGエネルギー(旧日本石油を中核としたグループ)の根岸製油所の大型タンクが出来て、今ではかつての姿を想像することすらできない。が、私にはここが海だったという記憶が残っている。なぜなら、この根岸湾にあった小さな砂浜こそ、私が初めて海に接し、海水の塩辛さを知った場所だったからである。

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園内の片隅に咲いていた半夏生

 三渓園は花の名所としてもよく知られている。7月はハス、スイレンムクゲが咲く時期だが、私には写真の「半夏生」の群生が一番、心に残った。好みの野草だからである。

 半夏生(はんげしょう)は二十四節気のひとつ「夏至」の末候である。今年は7月2日から6日までが「半夏生」(七十二候のひとつ)で、7月7日から22日が「小暑」でその初候は「温風至」(あつかぜいたる・七十二候のひとつ)となる。

 この半夏生の時期、写真のように葉の一部が白くなり、白い尻尾のような花を付けるのが「半夏生」という野草だ。ドクダミの仲間なのであちこちの野原に群生している(湿地を好む)はずなのだが、いざ探してみると案外見つからない(大型の園芸店では見かけることがある)。三渓園では正門の左手にある「八つ橋」の際でたまたま見つけた。葉の一部が白くなることから「片白草」、葉が半分化粧をしたようなので「半化粧」とも呼ばれている。後者の半化粧と季節の半夏生と音が同じなので、現在では季節名と花期がピッタリ合うためか「半夏生」の漢字を充てることが多い。

 今回は先を急いでいたので三渓園内をゆっくりと散策することはできなかったが、園内にはカエデが多くあるので、紅葉シーズンに再訪したいと思っている。その時期、大混雑は必至だろうが。

トンネルと坂の町~ここは横須賀

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日本一トンネルが多いといわれる横須賀の町

 三浦半島の大半は丘陵地帯で、海岸まで尾根筋が走っている場所が多い。平地は少なく、現在市街地になっている大半の場所は埋立地だ。横須賀市はこの起伏に富んだ三浦半島の多くを占めているため、この地にある道路や鉄道にはトンネルが非常に多い。正確なところは不明だが、「日本一トンネルが多い町」とよく言われている。写真のトンネルは横須賀の辺鄙な場所にあるものではなく、ここを抜けると「汐入」「横須賀中央」といった横須賀第一の繁華街に出るすぐ手前にあるものだ。

 道路自体、山を削って造った「切通し」が多く、それすらできないときはトンネルを掘る。切通しの端のわずかな平地を利用して家々が造られ、それでも不足するので、尾根筋の天辺にも家が立ち並ぶ。尾根上やその傾斜地にある家にたどり着くためには急な坂道を上らなければならない。ほとんどが道幅の狭い階段なので、車はおろかバイクや自転車すら利用することはできない。私がこの写真を撮っていたとき、たまたま郵便配達人が丘にある家々に郵便物を配っているのを目にした。彼は写真にある道路の歩道にバイクを止め、急な坂道を駆け上がりながら数軒の家々を配達して回り、また駆け下ってバイクまで戻り、別の郵便物を手にして、先ほどとは異なる階段を駆け上がっては配達、下りてきて荷物を抱えては別な坂道を上るという行為を何度も繰り返していた。心底、彼には「配達、ご苦労様です」と言いたかった。もちろん、その家々に住むお年寄りたちにも。

軍港の町~ここも横須賀

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先のトンネルを抜けたところにある「ヴェルニー公園」

 ヴェルニー公園は前の写真にあるトンネルを抜けたその左手にある。以前から”臨海公園”として存在していたが、2001年、フランス式庭園様式を取り入れて大幅に改修されてオープンした。ヴェルニー記念館の前には”戦艦陸奥”の主砲が鎮座し、この公園の存在意義とその理由を明示している。ここは横須賀本港が目の前にあるため、アメリカの海軍施設と海上自衛隊横須賀基地を間近に望むことができる。写真の向かいにあるのは船を修復・整備するためのドックで、この日は日本の潜水艦が停泊していた。 

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バラ園として整備されているので園内にはバラの花壇が多い

 園内にはいろいろな形の花壇が配置されているが、すべてはバラが主役だ。このため、バラの開花期には写真のように、バラの花先に「海軍」「海上自衛隊」の姿を見ることができる。私はバラよりも潜水艦の姿に興味があったので、船の方にフォーカスを当ててみた。

 レオンス・ヴェルニー(1837~1908)はフランス人技師で、幕末から明治初期にかけて日本の設備の近代化を指導した。幕末には小栗忠順(ただまさ)とヴェルニーの協力体制で「横須賀製鉄所」を築いた。名前は製鉄所だが、製鉄以外にも軍艦の造船やその修復などをおこなった。個人的には、司馬遼太郎が「明治の父」と呼んだ小栗に興味があるのだが、彼についてはいずれ触れる機会がある。

 ヴェルニ―は明治期には洋式灯台の設置に従事した。日本最古の洋式灯台である「観音埼灯台」や日本で5番目に古い「城ケ島灯台」はヴェルニーが設計したものだ。もっとも、現存する灯台はヴェルニーの設計そのものではないが。

 こうした業績により、ヴェルニーと小栗忠順の胸像が園内の「開明広場」に設置され、その功績をたたえている。

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”軍港めぐり”の遊覧船”のを利用すると陸からは見られない艦船と間近に接することができる

 丘陵ばかりで平地が少ない横須賀が発展を遂げたのは、ひとえにその地理上の位置と地形がその理由だ。

 江戸時代には江戸と各地を結ぶ水運が発達し、その安全をはかるため江戸湾の出入り口にある浦賀(ここも横須賀市)の岬に「燈明台」(和式灯台のこと)を設置した。ここは今でも残り、横須賀の観光名所のひとつになっている。

 幕末には外国船舶が多く出入りするようになったため、幕府でも江戸湾の守りを強固にするべく軍港の整備を進めることになった。そこで選ばれたのが横須賀の地だった。大きな港を造る場所は、波に強くなければならない。風に強くなければならない。水深がなければならない。その条件をすべて満たしているのが横須賀だったのだ。

 東京近辺に住んでいる人はご存じだろうが、この地では「北東風」「北西風」「南西風」が大半だ。横須賀では、北東風は東京湾を渡ってくるので波はさほど高くはならない。冬に多い北西風と春から夏に多い南西風は風力がとても強いので厄介だが、横須賀では背後の丘陵が風を遮るので波は立たない。つまり、風よけには最適な位置にある。

 一方、尾根筋が海岸まで迫っているということは、ここの海には水深があるということになる。私は磯釣り師なので釣り場近くの水深には一番の注意を払っている。水深があるところに好ポイントがある。したがって初めて釣りをする場所ではまず磯場の形状をよく観察する。陸の形状がそのまま海底に通じているからである。このことは海遊びをする人なら経験済みだろう。陸上がなだらかならば海は遠浅なはずだ。遠浅ということは波が立ちやすい。だからサーフィンは茅ヶ崎九十九里で盛んになる。

 上記のように、横須賀の港では風が避けられ、波が静かで、海は水深がある。これ以上、軍港に適した場所はないといえる。神奈川ではなく横浜が開港場に選ばれたのもほほ同じ条件を有していたからである。

  軍港を中心に順調に発展してきた横須賀市だが、1992年2月の43.7万人をピークに人口数は停滞し、2004年には明らかに減少方向に向かい、18年2月には40万人の大台を割り込んだ。1977年以来の30万人台である。2019年6月現在は39.6万人と減少が続いている。開発可能な平地は少なく、丘陵地の住宅は年配者に厳しいという現実が突き付けられているようだ。汐入駅前にあった超大型ショッピングモールの「ショッパーズプラザ」は19年3月末に閉店となった。これも人口減少が大きく影響しているのだろう。

 横須賀には観光資源が多くあるので、現在はこの面に力点を置いているようだ。1999年には「海軍カレー」、2009年には「ネイビーバーガー」を売り出し横須賀の名物になりつつある。また、地元の海運会社が始めた「軍港めぐり」は人気を博している。写真はその遊覧船が出港したときのものだが、陸地からははっきり見られない、あるいは島陰にあって見ることができない自衛艦や米軍艦船を間近に見ることができるために人気が高まった。私がここを訪れた日は小雨混じりの梅雨寒の天気が影響してか乗客は少なかったが、普段見かけるときはいつも満員御礼という感じだ。向かいに見える自衛隊護衛艦「きりしま」には、自衛隊の司令部がある長浦港を巡ったのちの帰り際に近づくはずだ。いずれにせよ、横須賀観光や名物にも「軍港」がついて回るようだ。

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国道16号線から「どぶ板通り」に入る細道

 どぶ板通りは横須賀の人気スポットである。正式には「本町商店会」というそうだが、その名を使う人に会ったことはなく、皆が”どぶ板通り”と呼ぶ。通りの中央にどぶ川の溝がありそれが邪魔なので、上に鉄板を被せたことからそう呼ばれるようになったが、現在は綺麗な通りに整備されているので、「どぶ板」を見ることはできない。

 外国人が立ち話をしているすぐ奥に国道16号線に平行する形に通りはある。写真に見える石柱には「明治天皇横須賀行在所入口」とあるが、それを目にとめる人はいなかった。

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どぶ板通りの人気店には順番待ちをしている人たちがいた

 どぶ板通りのすぐ近くには米海軍横須賀基地の正門があるので軍関係者が多く、この通りに出てきて、昼間は食事、夜は飲酒を楽しんでいる。このため、看板は英語がほとんどで、日本語は少ない。が、軍関係者だけを相手にしていたのでは「斜陽産業」になってしまうため、日本人観光客目当てに「海軍カレー」「ネイビーバーガー」「チェリーチズケーキ」を全面展開している。それで、飲食店だけは日本語が多くなっている。

 この通りは「スカジャン」の発祥地でもある。派手な刺繍を施した「ヨコスカジャンパー」はかつて、”ヤンキーの御用達”であったが、最近ではほとんど見ることはなくなった。昼間にこの通りを訪れる観光客は日常性の延長としてカレーやハンバーガーを食するようで、スカジャンの店を訪れる姿はほとんどなかった。

 どぶ板通りは”火灯し頃”から活況を呈するのだろう。灯りに照らされた通りは、人の姿は一変するはずだ。かつては、米兵に近づくだけのために日本の若い女性が通りにあふれていた。現況は知らないが、他の「健全な」街では見られない光景がきっと、今でも繰り広げられていることだろう。そうでなくては、横須賀に来る甲斐がない。

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三笠公園に通じる歩道は綺麗に整備されている

 国道16号線三笠公園入口交差点を曲がり、道なりに公園方向に進むと綺麗に整備された歩道が公園まで続いている。歩道脇には幼稚園から大学までいくつもの学校があるため、この歩道は幼児、児童、生徒、学生で賑やかである。その歩道上には写真の「日本丸」のミニチュアが置かれていた。横浜のランドマークタワー前にある帆船の模型だ。似てはいないと思うのだが、説明書きには本物の「日本丸」のことが記してある。これも「港町」ならではの景色かもしれない。私が訪れたのは学校の下校時間だったので大勢の児童・生徒がこの前を通り過ぎていったが、この存在を気にする様子はまったくなかった。毎日のことなので、この存在も風景のひとつでしかないのだろう。

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公園には本物の「戦艦三笠」が鎮座している

 三笠公園は「水と光と音」をテーマにした公園だそうで、スピーカーから流れる音楽に合わせて水が舞う噴水、水が流れ落ちる壁泉、高さのあるモニュメントなどとても美しく整備されている。辺りを見回すと、一方には米軍施設、一方には東京湾にある唯一の自然島の「猿島」、そしてこの公園の主役である戦艦三笠の姿が視界に入る。

 戦艦三笠は1902年、イギリスの造船所で竣工した。03年、横須賀港に入り連合艦隊の旗艦となった。日露戦争では東郷平八郎司令長官や秋山真之作戦参謀などの作戦により、対馬沖でロシアのバルチック艦隊と闘い勝利した。23年、ワシントン軍縮条約で艦船保有を制限することになったので、三笠は除籍されることになった。

 しかし、その姿を残したいという声が広まり、記念艦として保存することが決まった。当初は芝浦港に係留するはずだったが、横須賀港に接岸中に関東大震災が発生して大きなダメージを受けたため、横須賀の現在の地に曳き入れられ、船首を皇居方向に向けて地面に固定されることになった。

 二次大戦後はソ連が三笠の解体を要求したが、艦橋や大砲、煙突やマストを撤去することで妥協がはかられ、横須賀市が保存・管理することになった。市から委託された業者はこれを遊興施設にしたが、客足が遠のくと次第に荒廃し、結果、近づくものさえなくなった。

 1958年、その荒れ果てた姿を見るに見かねた人々が「三笠保存会」に集まり、募金と政府予算を用いて復元することが決まった。そして61年、三笠復元式をおこなうまでに至った。その後はよく管理され、長官だった東郷平八郎の全身銅像も「記念艦みかさ」の前に屹立している。

 三笠公園は、賑やかな市街地からはやや離れた場所にあるためか訪れる人はそれほど多くはなかった。が、園内は芝生広場をはじめとして前記の施設などきちんと整備されているので、横須賀観光の骨休め場所には案外、向いているかもしれないと思った。

ヨーコはどこに?

 ヨーコを探すために横浜や横須賀の港周辺を訪ね歩いた。横浜には3回、横須賀にも2回来てみた。ヨーコの原像は見い出せたのかといえば、以下のように答えるしかない。

 ヨーコは「だまし絵」のような存在かもしれなかった。「若い娘と老婆」や「ルビンの壺」の絵を思い描いていただきたい。前者でいえば、ひとつの絵に若い娘と老婆が描かれているが、若い娘の姿を見出したときに老婆は見えない。一方、老婆を見出したときには若い娘は見えなくなっているというものだ。その絵は、人間の認知力の限界を示している。それと同じように、ひとりのヨーコを見出だしたときには他のヨーコは見えず、別のヨーコを見出したときは、すでに前のヨーコは消えている。これの繰り返しであった。すべてのヨーコを同時に見出すことは人のクオリアでは不可能なのである。同時に見出そうとすると、ときにはすべてのヨーコが消え去り、単なる風景と化してしまうのだった。実際、私には今回、こうした”ゲシュタルト崩壊”がよく起こった。

 また、ヨーコを見出したと思ったときには、すぐさまその否定形が現れた。より高次のヨーコが現れたと得心した刹那、やはりその否定形が心に浮かんだ。この繰り返しもあった。ヘーゲルのように「絶対知」というゴールがあれば良いのだが、一方、ゴールがあることが分かるなら、はじめから理想的なヨーコ像は存在しているはずだ。私にはそんな理想形を見いだせないから探し求めたのだ。が、この試みは結局、悪無限に陥るしかないのかも、とも考えた。

 さらに、ヨーコはヨーコではないものとして存在するのでは、とも思った。このため、帰謬法でヨーコの存在を探し求めたのだが、そこにはいつもヨーコではないものの存在が立ち現れたのだった。否定神学では「神は〇△ではない」という形でしか神の存在を定義できないように、ヨーコは「〇△はヨーコではない」とでしか表現できないのかもしれない。「ヨーコは存在しないものとして存在する」のだとすれば、ヨーコには永遠に出会えないのだと考えるしかないのかもしれない。

 そんなことを思いながら横須賀の町をふらふらと歩き、気付くと私は再び「どぶ板通り」にいた。なぜか、通りに人の姿は皆無だった。不思議に思いながら私は汐入方向に歩みを進めた。突然、とある店から老いさらばえた男が私の前に現れた。「この老人ならばヨーコの存在を知っているのでは」と思い、彼に尋ねた。

 彼は次の言葉を残し、忽然と虚空に消えた。

「あんた、あのこのなんなのさ」