徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔92〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(3)吉備路から倉敷、そして福山まで(只今、更新中です)

旧下津井駅と車両

吉備津神社~旧吉備国の総鎮守

吉備国の総鎮守。のちに備中国の一宮

 「吉備」の名を聞くと「吉備ダンゴ」や「吉備真備(きびのまきび)」をすぐに連想してしまうが、実際に吉備の地を訪れたのは今回が2回目。もっとも、1回目はほとんど通過しただけだったことから、「立ち寄った」のは初めてといっても過言ではない。

 吉備は古代の地方国家のひとつで、大和や出雲などに比肩されるほど大きな勢力を有していた。かつて「真金吹く吉備」と称されたが、真金とは鉄のことで、吉備は鉄の一大産地であった。

 諸説あるが、一般には製鉄技術は朝鮮半島新羅説が有力)から出雲に伝わり、砂鉄が多く産出される吉備の地が鉄と、同じく半島から伝わった須恵器の一大生産地として栄えたと考えられている。

拝殿までの長い階段

 今となっては吉備の名を聞いても、関東に住む人にとってはどのあたりに存在するか不明のようで、先に触れた「吉備ダンゴ」や「吉備真備」を知っていても場所は見当がつかないという人の方が圧倒的に多い。

 古代の吉備国は現在の岡山県全体、広島県東部、兵庫県西部、香川県島しょ部を支配していた。律令制が敷かれてからは令制国として備前、備中、備後、美作(みまさか)の4国に分けれらた。

 私が少しだけ歩いた「吉備路」は、岡山県北西部から総社市の間にあり、総延長21キロの「吉備路自転車道」が整備されている。また例年「そうじゃ吉備路マラソン」が開催され、フルマラソンから子供たちが参加できる中距離走などが行われているそうだ。

 吉備路には里山が多く、清々しい心持ちで散策できる。以前に紹介した「山辺の道」や「葛城の道」、はたまた「竹内街道」のように、古代の歴史に思いを馳せながら一歩一歩、踏みしめ噛みしめながらゆったりと歩んでみたい場所である。

拝殿まであと数歩

 と言いつつ、私の旅はいつも急ぎ足になってしまうので、今回は、旧吉備国の総鎮守にして、令制国時代は備中国の一宮であった「吉備津神社」を訪ねてみた。

 主祭神は、孝霊天皇の第3子であった大吉備津彦命。伝説によれば、鬼ノ城を拠点として周辺の地域を荒らしまくっていた温羅(うら、おんら)と弟の王丹(おに)を討ったのがこの大吉備津彦命であり、温羅の首はその怨念を鎮めるために吉備津神社の「釜の下」に封じてあるとのこと。

 その一方、温羅は半島(おそらく新羅)からの渡来人で製鉄技術を吉備に伝えた人物とされている。ともあれ、この温羅退治の話が「桃太郎伝説」の淵源になっている。

国宝の拝殿

 吉備津神社は吉備中山(標高162m)の西麓にある。駐車場は標高わずか3.1mのところにあるが、先に挙げた写真のようにやや長めの階段を上った場所(標高19.6m)のところに拝殿や本殿がある(ともに国宝)。

境内はちょっぴり今風

 下の写真にあるように本殿はいかにも由緒あり気なのにも関わらず、上の写真のように境内には「祈願トンネル」などという今風の名前を付けた絵馬を掲げる施設が設けられている。

国宝の本殿

 境内は山の斜面にあるので、少し高い位置に上がって、そこから国宝の本殿を眺めた。足利義満が造営を命じ、1425年に遷座した。信仰心がまったくない私が見ても、その姿を神々しく思えてしまうほど見事な建物である。

回廊

 神社の境内は南北に細長く、北側に本殿があり、南側に摂社が点在している。本殿と摂社群をつなぐためか、写真のような屋根付きの回廊が設けられている。一瞬、この姿に長谷寺の登廊が重なった。

回廊の総延長は398m

 回廊の長さは398mあり、回廊の左右に摂社が並んでいる。この回廊は天正年間(16世紀後半)に建造されたとのこと。いくつかの摂社を覗いてみたが、本殿の佇まいに圧倒された私には、さして興味を抱く建物は存在しなかった。ただ、回廊そのものに興趣があり、さらに一部に牡丹園があって開花を始めた花たちに関心を示した。

◎吉備路を少しだけ歩く

里山の風景が続く吉備路

 先述のように「吉備」の名を聞くと「吉備真備」を直ちに連想する。これはずっと以前からの条件反射で、山陽自動車道を西に進み、岡山ICを過ぎた先に「吉備SA」があるのだが、私はほとんど何の用事もないのだけれどそのSAに立ち寄ってしまうのである。

 それでは吉備真備(695~775)がどんな人物であったかと問われると返答に窮してしまうほど、彼の業績には関心がない。ただただ「きびのまきび」という音が好み名だけなのかもしれない。

 同時代の有名人で彼に直接関係した人物を挙げれば、「阿倍仲麻呂」「玄昉」「藤原仲麻呂恵美押勝)」「藤原広嗣」「鑑真」といった錚々たる人がいて、それぞれ日本史には欠かせない存在であり、出来事とも容易に結びつくが、はて、吉備真備が何をしたのかすぐには浮かんでこないのだ。それでいて、日本古代史で著名な人物を一人挙げよと問われたならば、私は聖徳太子ではなく真っ先に吉備真備と答えてしまう。

再建された備中国分寺の南門

 そんな吉備真備ではなく、よく整備された吉備路を散策すると、写真にある「国分寺」が見えてくる。奈良時代備中国分寺が廃されたのち、天正年間に備中高松城主の清水宗治が再興し、さらに18世紀前半の宝永年間に再建されたのがこの国分寺である。この寺は令制国時代の国分寺とは直接、繫がりがある訳ではなさそうだが、この名を冠する以上、概ねこの寺辺りにいにしえの国分寺があったと推察できる。 

再建された五重塔

 国分寺と言えば五重塔を欠かすことはできない。この塔は19世紀半ばに再建されたものであり、高さは20mある。

吉備路にはサイクリングロードが整備されている

 写真から分かるとおり、国分寺の前には「吉備路自転車道」が整備されている。道路脇には田畑があり、今では懐かしさを覚えてしまうほど姿を見ることが少なくなったゲンゲ(レンゲソウ)がよく咲いていた。

 こうして五重塔のある景色に接すると、心は8世紀に遡ってゆき、結局、吉備真備の名が浮かんでしまうのである。

◎下津井~私のすきなもうひとつの倉敷

むかし下津井回船問屋

 吉備路からは倉敷市街が近いのだが、まずは倉敷の南端部にある下津井に向かうことにした。国道429号線から山陽道の倉敷ICに入り、すぐに倉敷JCTから瀬戸中央自動車道に移り、その道路を南下して児島半島へ向かった。児島ICで下りて半島の南端にある下津井の町に入ったのだ。

 この下津井の町は私のお気に入りのひとつで、倉敷市の美観地区よりもこの港町に訪れた回数は断然に多い。もっともそのうちの7,8回は瀬戸大橋下周辺にある離島や岩礁に渡るため渡船の基地がある下津井港を訪れたのだが。が、そんなときでも釣りの取材を終えて協力してもらった地元の釣り名人と分かれた後は必ず、時間が許す限り町の中を散策したものだった。

 下津井は現在、倉敷市に属している(1972年以降)が、その前は児島市に、さらにその前(1948年以前)は児島郡下津井町として独立した自治体であった。

 地図を見ていただければすぐに分かることだが、下津井は四国の坂出にかなり近く、それゆえに瀬戸大橋の北端が下津井にあるのだが、その坂出との間には広島、本島、与島、釜島、六口島、櫃石(ひついし)島など塩飽(しわく)諸島が並んでいる。それゆえ下津井は漁業基地として、風待ち・潮待ち港として栄えたのである。

 かつては回船問屋や宿場、遊郭などが数多く立ち並んでいたようで、写真の「むかし下津井回船問屋」と名付けられた資料館には、往時の繁栄が偲ばれる史料の数々が展示されている。

町並みは少し寂しい

 町中の路地にも回船問屋だった建物は残っており、1986年には岡山県の町並み保存地区に指定された。が、私がよく通っていた頃に較べると町並みは徐々に寂しくなっている。また、訪れる観光客の姿はほとんど見掛けなかった。

1991年に廃止された下津井電鉄

 下津井に立ち寄ったときには必ず、下津井電鉄線の下津井駅跡に出掛けている。下津井電鉄軽便鉄道として1911年に開業しているが、写真の下津井駅は14年に開通された。

 この路線は、JRの茶屋駅まで続いていて、その駅で、「本四備讃線」や「宇野線」に接続していた。また途中には児島駅があった。

 児島の名前を聞くと、高齢層のほとんどは「児島湾の干拓」を思い浮かべるだろう。この地区の干拓は江戸時代の初期から始められ、1963年までその事業はおこなわれていた。

 また、宇野の名前からは「宇高連絡船」を思い浮かべる人は多いだろう。玉野市宇野港から高松港を結ぶフェリーがあり、四国から本州に渡るための重要な手段だった。が、1988年に瀬戸大橋が全線開通したために利用客は激減し、1991年に廃止されてしまった。その影響もあり、下津井電鉄線も役割を終えてしまったのである。

いろいろな車両が保存されている

 通常であれば、廃線となってしまえば車両は解体されるか朽ちてしまうかのどちらかであろうが、ここでは「下津井みなと電車保存会」が下津井電鉄株式会社(鉄道事業からは撤退したが、バス事業は継続している)の協力によって駅や車両の保存展示をおこなっているのである。そのため、廃止されてから30年以上たっても、車両は随時ぺインティングされていることで、往時の姿を保っているのである。

ホースヘッドが特徴的

下津井田之浦港と瀬戸大橋

瀬戸大橋を通る本四備讃線

鷲羽山中腹から下津井の町を眺める

倉敷美観地区を散策

美観地区と言えば倉敷川一帯

白壁ではない建物も魅力的

今では当たり前の存在となった人力車

細い路地に妙味有り

メタセコイアと蔦の壁

アイビースクエアは元クラボウの工場

鶴形山に鎮座する阿智神社

神社境内から町並みを眺める

雨の美観地区もまた良し

人力車は商売にならず

何故かデニムストリートは大人気

大原美術館で名画に遭遇!!

◎笠岡でカブトガニに出会う

浅口市の三ツ岩

カブトガニ保護の看板

この浜(神島水道)にカブトガニが生息

なかなか興味深かった博物館

カニの仲間ではないカブトガニ

生きた化石”の化石

カブトガニの祖先はジュラ紀に生息

博物館と首長竜

福山市鞆の浦を散策

仙酔島に向かう市営渡船

”対潮楼”がある福禅寺

対潮楼に上がる

対潮楼から仙酔島を眺める

鞆の浦には狭い路地がたくさんある

鞆の浦港の眺め

福山城に初めて登城

ホテルの窓から城が見えた

初登城

八方よしの松

ライトアップされた城

 

〔91〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(2)太子町から岡山後楽園まで

閑谷学校のよく磨かれた講堂内

 ◎太子町の斑鳩寺を訪ねる

仁王門

 奈良の當麻寺の西には二上山があり、その西麓に太子町がある。こちらがより古い明日香だったと考えられており、奈良の明日香に対し「近つ飛鳥」とも呼ばれている。この辺りも大好きな場所のひとつなので、「太子町」と聞くと大阪にある町を思い浮かべてしまうのだが、今回に訪れたのは兵庫県の太子町である。

 うかつにも、私は兵庫に太子町があることをすっかり忘れていたのだが、姫路の宿で次の日の予定を考えていたときに太子町の存在を思い出したことから、まずはじめにそこを訪ねることにした。

講堂

 太子町というぐらいなので、もちろん聖徳太子に関係する場所であることは言うまでもない。7世紀初頭に太子が推古天皇勝鬘経(しょうまんぎょう)や法華経を講じたことから、播磨国の水田100町(360町とも)を与えられた。太子はその地を鵤(いかるが)荘と名付け、政所とひとつの伽藍を建てた。これがここで取り上げた斑鳩寺の淵源となった。

聖徳殿前殿

 最盛期には七の伽藍、数十の坊院を有していたそうだが、1541年、出雲尼子氏の侵入で全焼してしまった。再建されたのは1565年だったとのこと。その際、法隆寺の別院から天台宗の傘下に入ったという。

聖徳太子の愛馬

 聖徳殿前殿の左右には2頭の白馬が置かれている。確か、聖徳太子の愛馬は「甲斐の黒駒」だったはずだが、ここには白馬だった。もっとも、太子は甲斐の黒駒に乗って天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国に赴き、富士山を越えて信濃国に至り、3日を経て都に帰還したというから、黒駒は単なる伝説にすぎないのかも。

 一方、孔子の愛馬は白馬であったことはよく知られている。落語の『厩火事』のネタになっている。また、『絹本著色本證寺聖徳太子絵伝』には白馬に乗った聖徳太子が描かれている。こうしたことがごちゃまぜになって太子と白馬が結びついたのかもしれない。

三重塔

 1565年に再建されたもので現存しているのは、写真の三重塔だけである。高さは25mあり、細部の意匠も見事に施されており、なかなかの存在感があった。

奥殿と中殿

 法隆寺の夢殿を模した奥殿中殿があり、ここに木造の太子立像、日光・月光菩薩像など国の重要文化財が保存されている。

 地元の人々は、現在でもこの寺を「お太子さん」と呼んで大切にし、地元の誇りにしていることがうかがわれた。私にとっても望外の出会いであった。紙の方の聖徳太子はとっくに消え去ってしまったけれど。

兵庫県で一番低い山~唐船山に初登頂

唐船山の全貌

 赤穂城跡を目指した。その前に、千種川(ちぐさがわ)河口左岸にある兵庫県で一番低い山(全国では19番目)である「唐船山(からせんやま)」に登頂することにした。標高は19mで、登山口は5mの位置にあるので比高は14mだ。

 ところで、山はどのように定義するのだろうか。一般的には、高さがあってかつ他と区別されているものを言う。なので、子供が地面に土を盛ったものも立派な山である。ただ、他の山と比較するときはそれなりの基準が必要であって、兵庫県あるいは全国で、というときには国土地理院地図に掲載されていることが一応の目安になっているようだ。

 この点で言えば、日本一低い山は仙台湾にある日和山で、標高は3mである。ただこれは人工的に造られた「築山」で、自然に出来た山であれば、徳島市にある弁天山で標高は6.1mだ。 

登山道

 唐船山は赤穂海浜公園の西隣にある。公園の有料駐車場に車をとめ、私は登山を開始した。写真のように、この山には立派な登山道(階段)が整備されている。

山頂

 比高は14mなので、途中で休むことなく登頂に成功した。右側の標識にあるように、かつてここには番所が置かれていた。山頂近くに地面が少し掘られた跡が残っており、それが番所があった痕跡になっている。

 この山は「ドンドン山」の別名がある。地面が柔らかくなっている場所があり、そこを足で強く打ち付けるとドンドンという音がするのがその理由だとのこと。その昔、唐の船がこの浜に漂着し、やがてその船を覆うように土が積もったことで山が出来たため、山中には空洞があり、それゆえドンドンと響くのだそうだ。

千種川の河口

 山を観察すれはすぐに分かるが、周囲は砂岩が大きく露出している。この上に船が乗り上げるのはとても大変なことであろう。

 左岸の岩礁が少し沖にあり、千種川が運んできた砂が沖に伸びて陸続きになったというのが真相だろうが、それでは面白くもなんともないので、そうした言い伝えを今日まで継承しているのではないか。

◎赤穂大石神社と赤穂城

浅野、森家ならびに大石内蔵助など義士を祀る

 まずは赤穂城跡内にある「赤穂大石神社」を覗いてみた。ここは赤穂神社と大石神社が合体してできたもので、浅野家やその後を継いだ森家と赤穂浪士と中折した萱野三平を祀っている。

 鳥居前の参道の両側には四十七士の石像が並んでいる。写真からも分かるように、これは近年になって造られたものである。なお、下の写真は大石良雄(内蔵助)率いる表門隊で、反対側には大石主税率いる裏門隊の像が名前入りで並んでいる。

参道の左右に義士の石像が並ぶ

 以前は、年末になるとテレビでは赤穂浪士を扱った番組(忠臣蔵)をやっていて、私も少年時代には欠かさず見ていたものだった。なかでも堀部安兵衛がお気に入りで、動きの遅い大石良雄をもどかしく思った。

 もっとも、あまりにも事細かな描写に、いささか閉口したのも事実である。実際にあったことなど誰にも分からないし、そもそも討ち入りが正当か否かも賛否が分かれるところである。

 それゆえ、長じてからは赤穂浪士ものにはほとんど興味はなくなった。それでも何度も赤穂城跡に訪れており、今回もまた出掛けていったのは、彼らの行為がカントの言う義務にかなったものであるかどうかを考察したいからなのだ。

神社を少しだけ覗く

 写真の神門をくぐり中を少しだけ覗いたが、相変わらず、お参りはしなかった。写真にもあるが、「大願成就」の幟旗はいたるところに掲げられていた。確かに、身内にはひとりの犠牲者を出すことなく(二名が負傷しただけ)仇討ちを達成したとすれば「大願成就」には違いない(史実だとして)だろうが、そこには偶然性が大きく作用していたと考えられる。

 大きな願いを達成するには多くの幸運に恵まれなければならないし、仮に成就できたとして、それが本当に心底から願っていたものだったかどうかは後になってみなければ分からない。いや、それはずっと不明のままであろう。

赤穂城

 赤穂大石神社から移動して、写真の本丸門、本丸櫓門に向かった。本丸内に入っても建造物はほとんど残っていないが、どんな施設がどの位置にあったのかということは床面に記されている。

本丸内は庭園が良く整備される

 本丸庭園は美しく整備されている。その先に見えるのは天守台の石垣で、天守閣は存在していない。というより、元々、構築されなかったのだ。

天守台から本丸内を望む

 天守台は「展望台」として上がることができる。写真からも分かるように、本丸内にはいろいろな施設が存在していた。そのどれもが姿かたちを残していないため、私にはそれらを想像することさえできない。

厩口門と堀

 本丸厩口を出て、やはり施設らしいものがほとんど存在しない二之丸をしばし散策した。

山鹿素行

 山鹿流兵法や朱子学を批判して孔孟の思想に立ち返るべきとする古学派の祖である山鹿素行(1622~85)は赤穂藩との関りが深い。1652年に浅野長直(浅野内匠頭の祖父)に仕え、整備中であった二之丸の縄張りについて助言を与えた。また、古学を確立して朱子学を批判した(『聖教要録』の記述)ことで保科正之の怒りをかい、1666年から10年ほど、赤穂藩に配流されている。

 このときも浅野長直は彼を厚遇し、大石良雄大石内蔵助)はその門下に入った。一説には、赤穂義士の活動は山鹿素行の影響を強く受けているためだとするものもある。

 こうした赤穂藩と山鹿とは縁が相当に強いことから、二之丸跡の一角に写真のような像が建立されているのだった。

赤穂市立歴史博物館

 赤穂城跡の隣には、写真の歴史博物館があった。5連の土蔵の形をしているのは、この地に赤穂藩の米倉があったからだそうだ。

 赤穂義士にはやや食傷気味だったために立ち寄ることはしなかったが、後で調べてみると、「塩と義士の館」を謳い文句にしていることが分かった。義士はともかく、赤穂の塩に関しては興味を抱いていただけに、館内を覗かなかったことを反省した。

 製塩法については興味があり、今は地震騒動で揺れている能登の「揚げ浜式製塩法」を体験したことがあった。一方、赤穂の製塩法は「入浜式塩田法」でやり方はまったく異なっている。

 これは、日本海側は干満の差が小さい一方、瀬戸内海は干満差が非常に大きいことから入浜式を可能にしているのであって、赤穂の方式が効率的なのは、自然環境によるところが大きい。

 なお、赤穂藩が製塩で有名になったのは浅野家の時代ではなく森家からで、一説によれば、生産量は10倍ほど伸びたそうだ。こうしたことも、博物館に立ち寄って調べたり質問したりして理解が深まったかもしれない。残念なことである。

閑谷学校に登校

学校の公門

 海を離れ、今度は内陸に向かった。写真の「閑谷学校」を見学するためである。実は私は学校は大好きだった。ただ勉強が、授業が、あるいは人の話をジッとした姿勢で聞くのが大嫌いなだけなのだ。なので、私の学校生活は休み時間と放課後に力点が置かれていた。

 それはともかく、学校と聞くとまず「足利学校」を思い浮かべる。この学校については本ブログの第6回で触れている。一方、閑谷学校は1670年、藩主の池田光政によって開校された「日本で初めての庶民のために学校」だとのこと。

 足利学校の開校時期は諸説あるが、一般には1432年、上杉憲実によって再建されたとある。ということはそれ以前にもあったことになり、極端な説では、839年に小野篁が開いたというのがある。これなら最初の学校は「足利学校」になりそうだが、実は、空海が開いた「綜芸種智院」は828年に開学している。これが正しければ、足利学校よりも古いことになる。

 が、日本には天智天皇が開いた「大学」がある。これは671年に始まっている。それゆえ、日本最初の学校といえば「大学」にとどめを刺すようだ。それゆえ、閑谷学校では「庶民のための学校」という但し書きがあるのだろう。 

まずは閑谷神社へ

 閑谷学校の存在やその位置についてはずっと以前から知っていた。山陽自動車道を西へ進むとき、備前ICから和気ICとの間に「閑谷トンネル」があり、そのトンネルに入る直前に備前焼の煙突が見え、このトンネルに「閑谷」の名前が出ていることから、このトンネルの近くに閑谷学校があるということは見当がついていた。しかし、この辺りにとくに用事はなく、また焼き物は餃子や焼きそばならともかく、陶磁器についてはまず関心がなかったため、備前焼と言われてもどんな特徴があるかすら知らないままでいた。

孔子廟の屋根

 それが、山陽路を中心に巡る旅は今回が人生最後になるはずであることは確実そうなので、わざわざ閑谷学校まで足を運んでみた次第だった。

 古い時代に造られた建物の屋根にはその大半が備前焼の瓦が用いられている。一枚一枚、瓦の色は微妙に異なるため、素人の私にもその美しさに見惚れてしまったほどだ。

 備前焼の淵源は朝鮮半島から伝来した須恵器の製法にある。須恵器は窯を用いて高温で焼くことができるので水を通さない器や瓦を造ることができる。須恵器が伝わる前は土師器で、これは野焼きで火を入れるために低温でしか焼けないために水を通してしまうこともあった。須恵器の製法は平安時代に定着し全国に広まった。

 写真のように、備前焼の瓦は光の当たり具合でも見え方が変化するため、こうして屋根を見ているだけでも閑谷学校の良さを得心できるのである。

講堂は国宝に指定されている

 閑谷学校の建物の大半は国の重要文化財に指定されているが、写真の講堂は国宝に指定されている。通常、講堂は回廊のみが見学を許されているが、年に何度かは一般向けに講堂内で論語などの講義があり、その際はピカピカに磨かれた床に触れることができるそうだ。うらやましい。

講堂の窓

 通常、私はこうした施設には上がることはほとんどしないのだが、外から透明の漆が塗られた堂内の床の輝きを目にしたとき、まったく躊躇せずに上がる講堂、いや行動に出てしまった。

 ほとんどの窓が開放されているので、堂内をいろいろな角度から眺めることができた。光の当たり具合によって、さして変哲のない床や壁や天井やらがが、色鮮やかな装飾を施された煌びやかな内装よりも美しく見えるのである。

講堂の内部

 本項の冒頭の写真は、講堂の床の輝きがもっとも顕著に見える角度から見たもので、何もないことの豊かさが鮮明になる姿であった。

 上の写真は、また別の角度から眺めたものである。光線の具合によって、あるいは見る位置や角度によって、床があたかも生き物のように千変万化するのである。

 この講堂の姿に触れられたことだけでも閑谷学校にやってきたこと、いや山陽路を訪れた意味や意義を見出すことができたといっても過言ではないだろう。

特徴的な石垣

 石垣も写真から分かるとおりなかなか工夫されている。綺麗な曲線を描いているのである。もちろん、これは表面が磨かれているのだろうが、「庶民のための学校」のためにここまで意匠に凝るというのは生半可な覚悟で出来るものではない。

閑谷学校資料館

 閑谷学校は1870年に閉校となったが、73年に備中松山(現在の高梁市)から山田方谷を招聘して閑谷精舎として再開。1903年には旧制私立閑谷中学校となり、05年には写真にある新校舎が完成した。

 21年には岡山県に移管され、48年には学制改革によって閑谷高校となったが、64年に閉校となった。

 現在は閑谷学校資料館となって開放されている。この校舎は私の小学校時代の建物のようだったので、懐かしさを覚えたこともあり中を覗いてみた。こうしたことも普段ではなかなかしないのだが、どうやらすっかり講堂の床の美しさに魅入られてしまったようだ。

 美は、ときとして私を知性的存在にする。

◎”日本のエーゲ海”??牛窓の町を訪ねる

灯篭堂跡

 閑谷学校で豊穣な時間を過ごしたのち、再び海に向かうことにした。地図で場所を探しているときに”日本のエーゲ海”という言葉を見つけたからだ。閑谷から県道261号線を南下すると「岡山ブルーライン」と名付けられた播磨灘に近い場所を走る快適そうな道がある。その道を西に進み邑久(むらひさ)ICで下りて県道39号線を南下すると海岸線に出る。そこに”日本のエーゲ海”があるというのだ。

 エーゲ海と聞くと私の年代では「ポールモーリア」の楽曲を思い起こす。『エーゲ海の真珠』と『オリーブの首飾り』の2曲はとくによく聞いた。久し振りにこの2曲を聞こうとユーチューブで見つけ、スマホでその音楽を流しながら目的地をめざした。”牛窓”の地にはギリシャ風の建物やオリーブ園があることから、”日本のエーゲ海”と呼ばれているらしい。もはや本物のエーゲ海に行く気力や体力は残っていないが、日本にあるのなら行くことは可能だ。

 2曲のうち、とりわけ後者は”エーゲ海”をイメージさせるだけでなく、マジックの際のバックグラウンドミュージックの定番として流される。そのため、どちらかといえば海よりも手品を思い浮かべてしまうのだが。そうすると、耳元には『だめよあなた♪♪』という詞が入り込んでしまうのであった。

灯篭堂を見張るネコたち

 牛窓町の海岸線に到達した。いくつかオシャレな建物やカフェがあったが、取り立ててエーゲ海をイメージさせるものは存在しなかった。そこで私はヨットハーバーのある東海岸へ向かった。が、これもまたごくありふれたハーバーにすぎなかった。そのため、さらに車を東に向けると、古い漁師町のイメージをふんだんに纏った路地に迷い込んでしまった。かりに対向車があったとすればすれ違うことはまったくできないほど道は狭かった。

 やっとの思いで通り抜けた場所に建っていたのが、ひとつ上の写真にある「灯篭堂跡」の古めかしくもあり由緒あり気な建築物だった。エーゲ海というより、日本の田舎の古い漁村の原像といういうべき景観が、そこには展開されていた。

 エーゲ海はどこだ!

前島との間の水道は潮が早い

 対岸には前島という東西に細長い島が横たわっていた。ここを干満の差が激しい潮が行き来するため、写真のようにいつも急流が走っているようだった。

 私は灯篭堂横の小さな空き地に車をとめ、少しだけ猫たちと戯れた後、集落内をうろついてみた。ギリシャ風のものはまったく目に入らず、存在するものはすべて、日本の古き良き漁村の佇まいであった。

牛窓港はのんびりムード

 港には小さな漁船が数多く停泊していた。早い潮から港内を守るべく一本の長い突堤が潮の侵入を防いでいた。

 その堤防から一人の釣り人が竿を出していた。地元のオジサンといった風情だったので当地には詳しいだろうと思い、釣果だけでなく、エーゲ海はどこにあるのか訪ねてみた。

 おじさん曰く、そんなものは存在せず、ただ高台にある「オリーブ園」がしきりに”エーゲ海”を強調しているとのことだった。「俺はエーゲ海に行ったことがないのでそれが本当なのかどうかは見当もつかない」というような内容を、そのオジサンは地元言葉で話してくれた。

牛窓神社の一の鳥居

 そんなものより、牛窓神社の境内はヤマツツジが満開なのでそれを見に行った方が良い、という素敵なアドバイスを頂戴したので、砂浜海岸の先にある神社へと向かうことにした。

 海岸線近くに一の鳥居があり、それをくぐって緩やかな階段を上がり、森の中を進んだ先でヤマツツジが高台を覆っていた。

満開のヤマツツジ

 確かに、見事としか言い表せないほどツツジは満開だった。通常のツツジに較べると色の変化は限定的だが、こうして満開になってしまうと反って自然な造形美が目や心の中に入ってくる。

ヤマツツジと瀬戸内海

 境内は高台にあるので、眼前には前島だけでなく数多くの島の姿が視界に入ってきた。エーゲ海を「多島海」と日本語に置き換えるなら、たしかにこの牛窓の地はエーゲ海を名乗っても良いかも知れないとも思えた。

 そんなとき、またあの「だめよあなた♪♪」の歌詞とメロディが心と胸に浮かび上がってきた。

 そうなのだ。この景色はなにも”エーゲ海”に例える必要などまったくなかった。日本の瀬戸内海として十分に誇れば良いのだ。何しろ、ここ牛窓岡山県瀬戸内市にあるのだから。

路面電車岡山城

路面電車に出会う

 閑谷学校牛窓、この日は望外ともいえるとても良い出会いがあったので、いい心持で宿泊場所である岡山駅前のホテルに向かった。

 岡山市街に入った場所で、丁度その時に写真の路面電車に遭遇した。路面電車には広島市で乗る予定にしていたが、岡山市にも走っていたことをすっかり失念していた。それが、信号待ちをしているときにその姿に出会ったため、当初はホテルでゆっくり写真の整理をする予定だったことを変更して、路面電車に乗ることにした。

早速、路面電車見学

 ホテルは岡山駅のすぐ近くにあり、ホテルの玄関を出たところに「岡山駅前電停」があった。路線は2系統あり、ひとつは「東山電停」行き、もうひとつは「清輝橋電停」行き。といっても、それがどの方向に向かうのか不明だったため、地図で確認しつつ駅前電停を折り返す電車の姿を、写真にあるように撮影したり眺めたりしていた。

路面電車岡山城に向かう

 2系統のうち、東山行きには岡山駅前から二つめに「城下電停」があり、その停留所が岡山城と岡山後楽園の最寄り駅だということが判明した。当初は、翌日にそれらの見学に出掛ける心積もりであったが、何としても路面電車に乗車したくなった。それゆえ、岡山城見学だけなら比較的短い時間で済みそうだったことから、写真の車両に乗ることにした。

城と公園とを結ぶ無粋な橋

 城下電停といっても岡山城はすぐ近くにある訳ではなく、直線距離にして500mあった。おまけに駅は交差点のすぐ西側にあり、しかも幅広の道路の中央にあるため、信号を2つ越える必要があった。結局、徒歩では10分以上掛かった。

 信号待ちが面倒なので、地下に造られた通路を利用したが、これが結構な高低差があったため、日中にかなり歩いた体には結構、きついものに感じた。

 写真は、岡山城と後楽園との間を流れる「旭川」に架かる橋で、「月見橋」と名付けられている。この橋を使えば、岡山城の「北口」と後楽園の「南口」との行き来に便利なのだそうだが、何の風情も感じられない無粋な鉄橋であるのが残念だ。城も庭園も岡山市を代表する存在なのだから、両者を橋渡しする重要な建造物にはひと工夫もふた工夫も欲しいところだった。

黒いので烏城(うじょう)とも呼ばれる

 岡山城は「令和の大改修」で綺麗に復元され、昨年の11月にオープンしたばかりなので、建造物の多くは新品同様である。

 天守閣は黒塗りの下見板で覆われているため、写真から分かるとおり黒い姿をしている。このことから「烏城(うじょう)」という別名がある。これは姫路城が真っ白なので「白鷺城(はくろじょう)」と呼ばれていることと対になっている。

 宇喜多秀家が岡山という名の丘に秀吉の指導の下に1590年から天守閣の造営を始め、97年に完成したとされている。派手好みの秀吉が関わっているだけに金箔瓦が多く使われていることから「金烏城」とも呼ばれていたそうだ。

令和の大改修ですべてが綺麗になった

 私は旭川側から登城することになったため、写真の廊下門から城内に入った。廊下門の名は、藩主の御殿がある本段と政治をおこなうための中の段とを結ぶ藩主専用の廊下が櫓門の中にあったことが由来になっている。

この城も石垣に注目

 城内には見所がなかったわけではなかった。また、時間の関係で天守閣の中には入れなかった。もっとも、中には売店や博物館などがあるとのことだったので、とくに内部には興味を抱かなかったが。

 それに対し、写真の石垣は結構、見事なものだったのでしばし目を奪われた。この石垣がある側のすぐ横には旭川が流れている。このため守りがやや手薄になることから高い石垣を築いたのだと思われる。資料によれば、高さは14.9mあるそうだ。

帰りも路面電車でホテル前に戻る

 石垣を見上げ続けていたために少々、首が痛くなってきた。辺りも次第に暗くなってきたことからホテルに戻ることにした。もちろん、帰りも路面電車を利用した。運賃は120円だった。

 写真は横断歩道上から岡山駅前電停に入る電車を撮影したものである。後ろ側には岡山駅の姿が見えている。

 岡山城そのものにはさほど興味を抱けなかったが、路面電車に乗車できたことで満足度は決して低くはなかった。

◎岡山後楽園

日本三名園のひとつだが……

 翌日はまず、岡山後楽園に向かった。その後は吉備路に向かう予定だったので、路面電車ではなく車で移動した。

 後楽園は日本三名園のひとつに挙げられている。あとの二つは、金沢の兼六園と水戸の偕楽園である。さらに、この三名園を上回る庭園として高松の栗林公園が挙げられることもある。

 岡山後楽園に入るのは今回が初めて。これにより、上記の四名園にはすべて訪れたことになった。それぞれの庭園にはそれなりの趣があるが、私の好みで順位を付けるとすれば、栗林公園兼六園、後楽園、偕楽園の順番となる。もっとも、これは印象度の高い順番であって、死ぬまでにもう一度訪れてみたいかと聞かれれば、すべて否と答えるだろう。

 いずれの庭園も広さがあるので散策にはもってこいの場所ではあるが、庭園としての魅力はもっと小規模の場所の方が上回っている。大きな敷地で大きさを誇るより、小さな敷地で大宇宙を想像させることにより価値があると思えるからだ。もっとも、駄作も相当数あるのは事実だが。

一番の見所は「唯心山」か?

 庭園の中心に写真の唯心山(ゆいしんざん)がある。ここにはツツジやサツキ、それに石が適度に配置されている。ツツジの開花期が近かったこともあって、それなりの美しさを披露していた。

池を見ると魚を探す

 沢の池をはじめとして池も多く配置されている。ただしそれほど興趣が沸くものではなかったので、私は魚を探すことに専心してしまった。

山はツツジの名所

 唯心山に上った。山の上からは庭園の大半が展望できる。こうしてみると、庭内にはそれなりの変化があって、私のような素人には決して分からない良さを有しているのだろうか。所詮、私のようなサルには人間の造形を理解するのは困難なことらしい。

やはり後楽園はこの景観が一番かも

 後楽園を離れる前に、今一度、唯心山を眺めた。この角度から眺めると、その背後には岡山城のやや派手な姿も目に入ってくる。借景である岡山城もこの庭の引き立て役になっている。

 この部分だけを上手にまとめて造形してくれたならば、私はもう少し、この地を気に入ったかもしれない。

 133000平米もの広さは、権威を覚えてしまうので私には不要だ。もっとも、それはサルとしての私の感想にすぎないが。

〔90〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(1)神戸から姫路城まで

下関と言えばもちろんフグ

◎久し振りに山陽路を巡る。帰りは寄り道も

神戸港ハーバーランドからメリケンパークを望む

 山陽路にある名所や私の好みの場所には何度も訪れているが、いずれも瀬戸内海沿岸の取材か、あるいは九州・四国取材の途中に立ち寄っている。そのため、十回以上訪ねている場所もあれば、一度しかない場所、中にはただ通り過ぎるだけだった場所、予定はしたがまったく立ち寄っていない場所も多かった。

 そんなこともあって、今回は14泊15日の予定(当初は15泊16日で計画を立てていた)で山陽路をやや細やかに訪ね歩いてみた。とはいえ、一か所に長く留まるというのは私の好みではないので、宿泊場所は毎日変えた。そのため、下関にたどり着いてもまだ日にちは残っていたので、帰りは山陰の一部や中国地方の内陸部も訪ね、最後は一気に帰途に着くには疲労度が高かったことから、近江八幡市に宿泊をして、休息を取りながら府中に帰ってきた。

 この間、約2900キロを運転し、15日目をのぞくと一日の平均歩行数は15000歩となった。以前なら一日20000歩は軽く超えていたが、やはり年のせいか、はたまた車での移動が多かったためか、歩行数は今一つ少なかった。それでも、毎日、欠かさず最低10000歩を自分に課していたので、毎日9時間ほどの睡眠が取れた。

舞子浜から明石海峡大橋を望む

 初日は神戸に宿を取った。2時間弱に1回の短い休息を取り、しかも道路はほとんど渋滞しなかったため、6時間ほどで兵庫県に入ることができた。このため、一気に神戸に入ることはせず、芦屋から六甲山に入り、しばし山稜を走り、それから南下して神戸市に入った。

 私の神戸での定宿はメリケンパークに建つ有名なホテルで、神戸以西や以南の取材の帰りにはほぼ必ず利用していた。取材中は良くてビジネスホテルで、釣り宿や民宿がほとんどとなるため、なかなか熟睡することはできない。それゆえ、最後だけは少しゆったりできるホテルに泊まると疲れが相当に低減するので、余裕をもって帰途につけるのだ。それが今回はその定宿に最初の日に宿泊し、これからの長旅に備えることにした。

 ホテルからは南京町や元町、メリケンパーク、ハーバーランドのいずれも徒歩圏にあるので、4時間ほどで見学を終えることができた。

 翌日は神戸市街を離れて西に進んだ。「須磨」や「舞子」の地は何度も目にしているが、すべて通り過ぎるだけ。しかし、歴史上ではよく登場する地名なので今回、初めて訪ねてみた。実際、特筆すべき点はないのだが、格別に何もない、その点にかえって好感を抱いた。

白い化粧をした姫路城は今回が初見物

 明石市は通り過ぎたこともなかった。山陽自動車道は明石市のかなり北側を走っているし、国道2号線を使うことがあってもそれは岡山市以西だった。

 明石市の名が全国的に知れ渡っているのは、ひとえに東経135度線が明石を貫いており、日本の標準時が「明石基準」になっているからだ。しかし、東経135度線は明石市だけ通っている訳ではなく、第76回で「日本標準時最北端の塔」を紹介したように、「明石」が重要なのではなく「東経135度線」が重要なのだ。

 とはいえ、日本標準時を語るときには必ず「明石」の名が付いて回るため、初めて明石市を訪ねてみた次第だった。

 明石の次といえば姫路城で、ここには何度か訪れているが、白い化粧を施されてからは行ったことがなかった。そこで、白くなった城の姿に触れるべく、姫路市に宿を取った。ただ、城自体には前日に訪れていた。が、時間がやや遅くなったために登城することはできなかった。

 もっとも私の場合、城を見ることは比較的興味があるが、城内に入ることは滅多にしない。お寺や神社同様、それらが存在する風景が好みなのであって、寺社や城郭そのものは、さほど私を惹きつけないのである。こうした理由から、姫路市に宿泊しても翌朝は城の姿を遠目に眺めただけで次の目的地に向かってしまった。

閑谷学校講堂

 たつの市の東隣に「太子町」があることは知っていたが、それが聖徳太子所縁の地であることを初めて知ったことから、その地に立ち寄ってみた。

 赤穂城跡は何度も訪れている。史実かどうかは別にして「赤穂浪士」物は結構、読んだりドラマで見たりしているからだ。ただ今回は、赤穂の近くにある「唐船山」に興味があったので、赤穂城はついでに見物したというのが正しい言い方だ。

 「閑谷学校」は「足利学校」ほどではないにせよ、ずっと以前から関心があった。ただ、備前焼に興味があれば別だが、結構な山間にあり、かつ近くに別の名所旧跡がある訳でもなさそうなので、今まで訪れてはいなかった。足利学校なら本ブログですでに紹介しているように、森高千里関連で、あるいは田中正造関連で、ついでに訪れることができるので、何度も出掛けているのだが。

後楽園から岡山城を望む

 岡山市内には一度だけ宿泊したことがある。後楽園や岡山城といった名所があるが、いずれも通り過ぎただけなので、今回はじっくり見学するつもりだった。しかし、その前に出掛けた「牛窓」があまりにも魅力的な場所であったために多くの時間を費やしてしまったことから、岡山市内見物は比較的短い時間に終わってしまった。それでも「市電」に乗ることができたのは幸いだった。

 岡山市から倉敷市は近くにあるが、今回は山陽路を訪ねることが主目的のため、すぐに倉敷には移動せず、吉備路を散策した。吉備津神社など収穫は大きかった。

廃線になった下津井線

 岡山市内で宿泊しない理由は、ひとえにすぐ近くに倉敷があるからだ。倉敷は美観地区が有名だが、その一角にある大原美術館には入ったことがなかった。私の定宿は美観地区のすぐ隣にあり、割引券を貰えるにもかかわらずだ。しかし今回、本ブログで触れている「大塚国際美術館」での衝撃的な出会いがあり、この年になってやっと絵心が芽生えたために、大原美術館に初めて入った。そこでまた強い衝撃を受けたのだった。

倉敷美観地区は外国人だらけ

 倉敷の美観地区は外国人観光客だらけで、しかも、私の宿泊したホテルも外国人旅行客の団体様御一行に支配され、日本人は少数派であった。

 しかし、瀬戸大橋直下にある「下津井」は観光地としてはほとんど知られていないこともあり外国人の姿は皆無で、かつ日本人観光客もほとんどいなかった。そのこともあり、美観地区よりも下津井で過ごした時間の方が多かった。私が倉敷を訪れる理由の最大点は、下津井の「何もない」小さな漁村をのんびりと散策することにある。

 瀬戸大橋の近くにある島々へクロダイ釣りに出掛ける際の基地が下津井漁港にあることで、この漁村の存在を知った。これは釣り取材の極めて有意義な副産物であった。

ホテルの窓から福山城を眺める

 倉敷から福山まではいつも直行してしまうのだが、今回はあえて瀬戸内海沿岸をのんびりと走ってみた。その結果、いくつかの発見があった。中でも、笠岡市にある「カブトガニ博物館」は興味深いものだった。

 福山市では駅前にあるホテルを利用した。以前によく利用していたホテルが満室だったことから、このホテルにせざるを得なかったというのが実情だった。部屋は高層階でしかも城側だったので、部屋の窓からは復元された天守閣がよく見えた。

 ライトアップされていることは知らなかったが、夜、雨の様子が気になったことからカーテンを開けた。すると、写真のようにライトに輝く城郭が浮かび上がっていたのだった。ホテル側の計らいなのか、はたまたたまたまなのかは不明だが、北向きの部屋だったことが幸いした。

しまなみ海道因島大橋

 尾道は瀬戸内海沿岸の町ではもっとも好きな場所だ。また、この町からは「しまなみ海道」が愛媛県今治市に向かって走っており、この海道を走るのも大好物なのだ。が、今回は生口島までに留めた。次の大三島も「大山祇神社」があるので立ち寄りたかったが、この島からは愛媛県に属することから、想いを断ち切ってUターンした。

 写真の「因島大橋」は因島向島を結ぶもので、橋の姿も下を流れる速い潮も明石海峡大橋の小型版。周囲の景観を含めれば、こちらの方が佇まいとしては優っていると思われる。

千光寺から尾道水道を眺める

 尾道だけは3泊ぐらいしないと満足できないが、今回はわずか1泊に留めた。それゆえ、尾道で味わえる多くのものは我慢し、もっとも好みの尾道水道見物を中心にした。

尾道水道間の渡船

 写真の渡船は尾道市街と向島を数分で結ぶもので、私は大抵、1日10回ぐらいは利用していた。定期的に走っている渡船は3本あり、それぞれが特徴的な形の船なので、乗るだけで幸せいっぱいになってしまう。もちろん、眺めているだけでも見飽きることはない。

 今回は時間の関係で僅か2回しか乗れなかった。それでも夕方にはホテルから出て、明かりを灯し始めた渡船の姿をしばし見つめた。

 早ければ今秋に四国西部の旅をおこなう。その際は「しまなみ海道」を利用することになるので当然、尾道にも滞在することになる。目的地は四国であっても本州と行き来しなければならない。それゆえ、尾道が経由地になることは確実である。

早瀬の瀬戸を望む

 尾道から竹原市に移動し、「まちなみ保存地区」を散策した。倉敷の美観地区を小型化したような町並みだが、古き良き時代の建築物をしっかり守り抜いていた。

 次の宿泊地は広島市街であったが、瀬戸内海沿岸を西進したので、必然的に呉市に入った。呉といえば大小さまざまな島に恵まれていることから天然の良港が多い。そのこともあって昔は水軍(海賊)、近代に入っては海軍、そして現在では海上自衛隊の拠点になっている。

 しかし、私が興味を抱いて呉に立ち寄ったのは基地見物が目的ではなく、本州と倉橋島とをつなぐ「音戸大橋」と、倉橋島江田島とをつなぐ「早瀬大橋」であった。とくに後者は、橋近くのからの眺めだけでも素晴らしかったのだが、たまたま話をすることになった大型バイクで旅を続けている人に、山の上からの景色はさらに見事だと教えてもらった。

 車のすれ違いが困難なほど狭い林道を15分ほど走らなければならなかったものの、そんな苦労など簡単に吹き飛んでしまうほど魅力的な景観が広がっていた。つくづく、人との偶然の出会いはときとして大きな幸せをもたらすものであることを痛感させられた。

広島平和記念公園

 広島市の中心街に宿を取った。平和記念公園原爆ドームは徒歩圏内にあったけれど、翌日、わざわざ市電に乗ってそれらを見学した。サミットの開会前ということで、看板の取り付けやら庭の手入れやらで大勢の人が狩りだされていた。

 原爆ドーム前では多数の観光客が群がって写真撮影をしていた。外国人の姿がやたらに目立っていたが、修学旅行中の中高生を含めて日本人の姿も多かった。

 が、写真撮影の際、子供たちや同行者に笑顔とVサインを強要する姿が多かったのには驚いた。原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」とあるが、どうやら、この国は再び「過ち」をしでかしそうだ。

厳島神社の大鳥居

 厳島には何度も渡っているが、厳島神社を間近で見るのは初めてだった。何しろ以前は、島には大竹港から渡船で渡り、厳島神社とは無縁の地で竿を出し、クロダイメジナを狙っていたのだ。

 それが今回は連絡船で渡り、写真のように大鳥居の撮影に勤しんだのだった。瀬戸内海は干満の差が激しいので、干潮時はこうして鳥居が砂地の上に建っているような姿になるのだ。

 今回のサミットでは、海の中に立つ大鳥居の姿がテレビ画面に映し出されていたが、こうして鳥居周りに砂地が現れる時間に会議をおこない、ついでに参加者全員で潮干狩りでもすれば、平和を語るに相応しい舞台になっただろうに。残念なことである。

錦帯橋

 翌日は岩国に宿を取った。いつもなら市街地にあるビジネスホテルを利用するのだが、今回は釣りとは無縁の旅なので、錦帯橋の東詰め近くにある旅館に宿泊した。

 錦帯橋にはさして好印象はなかったが、宿のすぐ近くにあることからじっくりと眺めることができた。そのためか印象も変化し、なかなか趣があると思うようになってしまった。

 橋の上から錦川の流れを眺めたが、流れの強い場所では若鮎がコケを食んでいる姿を見掛けた。そう、アユ釣りの解禁は近い(この時点では)のだということを実感した。もっとも、この川に竿をもって出掛けてくることはないだろうが。

サビエル記念公園にて

 岩国の次は周防大島(屋代島)に立ち寄る予定だった。が、瀬戸内海の海の色が今一つ良くない(気に入らない)ので、大島大橋の見物だけに留めて島巡りはキャンセルした。その代わりに柳井市見物をおこなうことになったのだが、これが正解だった。

 なかなか充実したぶらぶら歩きだったこともあるし、次の光市から周南市にかけての海岸線には工業地帯が続くこともよく知っていたので、少しだけ内陸地を移動することにした。

 すでに次の宿泊地である山口市にあるのだが、藤の花が魅力的な名所が存在することを知ったことから、山間の細い道を走ってみた。確かに満開であったならば相当に見応えがありそうなロケーションではあったものの、肝心の花自体が二分咲き程度だった。

 そんなこともあって早めに山口市街に入り、いくつかの名所を巡ってみた。近頃は「庭園」に興味を抱いているためもあって、まずまずの成果を得た。

 市の中心部には、ザビエル記念公園やザビエル記念聖堂があった。ザビエルに関心を抱く人は少ないように思え、人影はまばらであった。そういう私も公園はともかく聖堂は外観を眺めただけで中を覗いてはいないのだが。ただ、建物の立派さには驚かされた。

秋吉洞のクラゲたち

 山口市内に宿を取ったのは懐かしい思い出があったことも確かだが、それ以上に秋吉台や秋吉洞に近いということが最大の理由だった。

 秋吉洞には20年以上も訪れていないが、見物客が想像以上に少なかったことの方に驚かされた。近年ではあちこちに鍾乳洞が発見、公開されていることもあり、秋吉洞の相対的価値は低減しているのかも知れないが、それにしても、あまりにも人影がまばらだったのには寂しい思いを禁じえなかった。

秋吉台のカルスト地形

 それは秋吉台も同様で、たまたま修学旅行の高校生が展望台に集まっていたものの、一般客の姿はほとんどなかった。カルスト地形は他でも見られるが、秋吉台ほどの規模のものは他に存在しないだろう。

 夏が近づくにしたがって下草が大きく生長してしまうために石灰岩の群れはやや見づらくなってしまう。その点、春先はまだしっかりと岩が無数に林立している様子が見て取れる。この時期にこれほど訪れる人が少ないというのは残念な限りである。

壇之浦と関門橋

 関門海峡を目にする前に「長府」を訪れ、やはりここでも「庭園」を堪能した。続いては壇之浦古戦場を目にする予定だったが、その前に「火の山公園」に立ち寄った。山頂まで車で行けるし、そこから眺める関門海峡は見応えがあるという情報を入手したからだ。

 写真のように、壇之浦古戦場は関門橋とセットで眺めるとやや見栄えがする。壇之浦だけでは、ただ普通の海岸線にすぎないからだ。さらに、すぐ近くにある「赤間神社」には壇之浦の戦いで入水・崩御した天皇の陵(みささぎ)がある。

 下関には「唐戸市場」があり、新鮮な海産物が大量に取り扱われているが、私はその賑わいを目にしただけですぐに退散した。

 下関市の西端近くにある「老の山」に到達したことで一応、山陽路の旅は終了した。と言ってここに住み着くわけにはいかないので、翌日から帰り旅が始まるのだ。神戸、姫路、岡山、倉敷、福山、尾道、広島、岩国、山口、下関と10泊した。当初の予定ではあと5泊する心積もりだったが、ひとつ外せない用事が入ったために残りは4泊となった。

 萩、津和野の2泊は外せないので、その後の予定を変更し、新見と近江八幡に宿を取った。そのため、目星をつけていた中国山地内にあるいくつかの名高い渓谷には立ち寄ることができそうにもなく、代わって新規の見物場所を探すことになった。

角島大橋

 下関から萩への移動は当初の予定通り。ただし、コースは変更した。岩国の宿で食事の片づけをしていたオバちゃんに翌日は「周防大島」を見物すると話したとき、「そこもいいけれど、下関からの帰りには必ず、角島大橋を渡って見なよ」と言われたからだ。角島の存在は知っていたけれど、2000年に竣工したその橋については知識がなかった。

 そこで、ネットで調べてみると確かに魅力的な橋のようだった。そのため、この橋と角島でやや多めに時間を費やすため、長門市で過ごす時間を削ったのだった。

舞の練習~松陰神社

 宿泊地に萩を選んだのは、ひとえに「松陰神社」があり、そこで吉田松陰先生に御挨拶を申し上げるためだ。といっても、神社そのものや「松下村塾」にはさして関心はなく、さらに言えばその思想にすら共感するものはそう多くない。ただただ、松陰先生の生き方に心動かされるものがあるからだ。つまり、自分とは正反対の生き方・考え方を貫いたという点にひたすら憧れを抱くのである。併せて、自分の駄目さ加減を少し反省するのである。さしあたり、反省するだけなのだが。

 神社では見習いの巫女さんが舞の練習をおこなっていた。そんな姿に見惚れてしまった私は、やはりダメかも知れない、と思った。

津和野の大鯉

 津和野に立ち寄った第一の目的は、写真にあるように堀を泳ぐ大きなコイたちに出会うためで、二番目は森林太郎西周の生家に立ち寄るためである。とりわけ後者は哲学の勉強のときにお世話になっているからだ。

 津和野のような小さな町でも外国人観光客が数多く訪れていた。とはいえ、森鴎外記念館や西周旧居には、外国人旅行者の姿はまったくなかった。というより、両者を訪れていたのは私ひとりだけだった。

迫力満点の井倉洞

 新見市に宿泊地を変更したのは大正解だった。高梁川中流にある井倉渓谷は石灰岩質の高い山々が造り出した見応えのある渓谷だった。そこに井倉洞があるのは下調べで知ってはいたが、訪ねる予定はなかった。が、新見市に宿を取ったために井倉洞まで比較的近いことから見物する時間ができたのだった。

 鍾乳洞の規模は秋吉洞とは比べものにならないが、鍾乳石と間近に接することができること、高低差があるので秋吉洞より迫力があることなど、ここを訪れたことは大正解だった。それにしても知名度が低いためか、見物客は私ひとりだけだったのは寂しい限りであった。

近江八幡の八幡堀

 もう一泊することができれば、久し振りに嵯峨野や南禅寺を歩いたののだが、日程が短縮されたことで京都見物(宿泊する予定は元々なかった)はパスして、井倉洞から一気に近江八幡市まで移動した。

 時代劇ファンが少なくなったことも関係しているのだろうか、日牟禮八幡宮界隈を訪れる人の数が随分、減少しているように思われた。「藤田まこと」が亡くなって以来、時代劇の質が急低下したことも一因かと思われる。

 以前はよく、藤田まこと主演の時代劇を見ていた。とりわけ、「剣客商売」は大傑作だった。そのロケ地として「八幡堀」がよく使われていた。また、近くにある琵琶湖の内湖の代表格である「西の湖」もしばしば登場した。

 山陽路の旅とはまったく関係がないが、最後の宿泊地に近江八幡市を選んだことで、”心の澱”がいくらか晴れたような気がした。

◎まずは神戸に向かった

芦屋の高級住宅街

 予想よりも神戸には早く着きそうだったので、六甲山へ寄り道をすることにした。が、久し振りの名神高速吹田JCTだったので中国自動車道に移るコースを間違え、そのまま名神を突き進んでしまった。そのため、当初は宝塚ICで下りて「明石神戸宝塚線」から六甲山陵を走る予定だったがそれを変更し、名神高速の終点から阪神高速3号線に移って芦屋出口で一般道に出ることになってしまった。

 芦屋市街を北に抜けて六甲山へは南麓から入り、「明石神戸宝塚線」に到達した。お陰で、写真のように芦屋市の高級住宅街を通ることになった。「東の田園調布、西の芦屋」というぐらい立派なお屋敷が並んでいた。私は貧相な家にしか住んだことはないし、そもそも府中にはお屋敷街といったものは存在しない。

 別に羨ましいとは思わないが、珍しい光景ではあるので、途中で車を路肩に停めて写真撮影をおこなった。もっとも撮影場所は、芦屋ではごく普通の家並みなので特別上等な場所という訳ではなさそうだったが。

六甲から大阪市街方向を眺める

 六甲からは兵庫県方向を眺める予定でいたし、実際には写真もそれなりのカット数を撮影したのだが、なにしろ太陽が眩しすぎてはっきりとした街の姿を写すことはできなかった。やはり、六甲からの撮影は夜景に限ると思えた。

 こうなると六甲を走り続ける意義を感じられないので、予定より早く山を下り、神戸大学の横を通って国道2号線に出てから西に進み、メリケンパーク内にあるホテルに向かった。

 それにしても、神戸にある高校や大学に通う生徒・学生は大変だろうと思った。何しろ、多くの学校・大学が坂の途中にあり、しかもその坂はかなり急なのである。私だったら、入試の時点で通うことを断念したと思う。

 ともあれ、ホテルの敷地内に車をとめ、チェックインはおこなわずにそのまま散策に出掛けた。

神戸の南京町

 まずは南京町に向かった。やや遅めの昼食をとるためではなく、神戸版の中華街を見物するためである。横浜の中華街はとても広すぎて、何度出掛けても道や店の在処を覚えることはできないが、神戸の中華街はとてもコンパクトなので散策に適している。

 ここには何度も訪れているが、実際に利用したのはただの一度だけで、あとは単なる”ひやかし”だった。記憶が確かならば、かつてはアジア系の人の姿が多かったのだが、今回は欧米系と思われる人の姿が目立っていた。

中華街はかなりの賑わい

 写真の場所が中華街の中心部で、待ち合わせ場所などにも利用されているようだった。昨今はどこでもそうなのだが、SNSの影響か人気店と不人気店が極端に分かれているようで、順番待ちの長い列ができている店と、店内がガラガラの店とに見事に分かれているのだ。

 私は一時期、食道楽だったときもあるが、その時分でさえ、並んでまで食べたいとは思わなかった。今は食にはほとんど関心がないため、とにかく安くて早いのが一番で、味はほとんど問題にしない。

庶民的な神戸・元町

 中華街のすぐ隣に神戸・元町がある。ここもかなりの賑わいを見せていたが、半分以上は南京町に立ち寄ったついでに見物といった感じで、店内にはさほど客の姿はなかった。横浜の元町には結構おしゃれな店が多いし、かなりの高級品を扱っている店も存在するが、神戸の元町は庶民が集う街といった塩梅なので私には身近な場所に思えた。といって、買うものは何もないのだが。

震災メモリアルパークのモニュメント

 海岸側に移動し、まずはメリケンパークを覗いてみた。東端の護岸は1995年の大震災でかなり破損した。その一部をそのままの姿で保存し、写真のようなモニュメントを設置して97年に竣工した。大震災からは28年が経過しているが、この地の人々にとってはまだまだ最近の出来事として記憶に残っているはずだ。

 関東人としては、阪神淡路大震災といえば高速道路の倒壊が鮮明な記憶として残っているが、関係者が被災していない私にはどこか他人事のような感覚でいる。それよりもこれから遠くない将来に発生するであろう東南海大地震の方が心配事である。

 もっとも、関東人には直下型地震、あるいは富士山大噴火のほうが切実だろうか。それは一秒後の来るかもしれず、三十年後、いや百年経っても発生しないかもしれない。自然現象にとって、一秒後も百年後も、ほとんど誤差の範囲なのだから。

ハーバーランドで大人気の”モザイク”

 かつては「モザイク」は”独立”した存在だったような気がするが、現在は道路を挟んで西側にある”umie”と一体化したようである。が、後者はリーズナブルでかつ誰もが知っている店舗が大半を占めているが、モザイクの方は相変わらず、やや高級でオシャレな店が多いようである。 

”モザイク”の中にはオシャレな店がいっぱい

 外観はごく普通の建物のように見えるが、いざ中に入ると写真のように開放感を抱かせるような造りになっている。もちろん東側は海に面しており、テラスからはメリケンパークを出入りする観光船の姿、メリケンパークを象徴する3つの建物、すなわち、私が宿泊しているホテル、神戸海洋博物館上部にある船の帆を模した巨大なモニュメント、ポートタワー(現在は改装中でパネルに覆われているが)の姿を見て取ることができる。とりわけこの3つの建物は、神戸港を紹介する写真では必ず登場するといって良いほどよく知られた存在である。今回の2枚目の写真がそれである。

 モザイクの内部もかなり凝った造りになっており、店舗の大きさは一律ではなく、その名が象徴するように、小片が平面充填(この場合は立体充填かも)されてモザイク状に見えるのである。

若者はシャレたカフェに集まる

 海とは反対側の一階には意匠の凝ったカフェが立ち並んでいる。水の流れも取り入れてあり、その両岸には盛りだくさんの小さな樹木やよく目立つ草花が植えられていた。

メリケンパークには家族連れの遊び場

 メリケンパークの先端部には「BE KOBE」と名付けられた公園が整備され、家族連れで賑わっていた。写真にはないが、公園の端には「スターバックス」が構えていた。

 久し振りに訪ねたメリケンパーク、ハーバーランドだが、かつて以上の賑わいを見せていた。頼もしさを感じるとともに、常に時代の最先端にあらねばならないという、港町神戸の宿命感を見て取ってしまった。

◎須磨浦から舞子浜へ

須磨は『源氏物語』の時代からずっと寂しい

 翌日、メリケンパークを出発して西へと進んだ。最初の方で触れたように、須磨、舞子は素通りするか、もともと通過しない道を選ぶかのどちらかであるが、今回は山陽路を行く旅なので、この両者に触れないわけにはいかない。

 須磨は『源氏物語』以来、「寂しい場所」と印象付けられており、『おくのほそ道』で芭蕉は、西行の歌枕を追って敦賀の種の浜(いろのはま)を訪ねた際、

寂しさや 須磨に勝ちたる 濱の秋

という句を詠んでいる。寂しいとずっと言われ続けてきた、つまり”寂しい”の代名詞となっている場所の須磨よりもこの敦賀の浜はさらに寂しい場所だと感じたようだ。

 なお、この浜(現在は色浜)については本ブログの第74回でほんの少しだけ触れている(写真付き)。

与謝蕪村の句碑

 芭蕉の句風を継承している江戸時代中期の俳人である与謝蕪村は、この須磨の地で、

春の海 ひねもすのたり のたりかな

との句を詠んでいる。

 上の写真は、「須磨浦公園」にあった蕪村の句碑である。やはり師匠同様、須磨浦の印象には変化がないらしい。  

平敦盛の供養塔

 須磨浦の谷は源平合戦の「一の谷の合戦」がおこなわれたところ。美少年、かつ笛の名手だった平敦盛熊谷直実に首を取られたことでよく知られ、『平家物語』を題材にした能や幸若舞で取り扱われることが多い。

 悲劇の美少年が戦死した場所ということで、写真のように、須磨浦公園のすぐ西隣には写真の供養塔が建てられている。

舞子浜は「白砂青松」の名所

 舞子浜は松原で全国的に知られた場所。強風に晒される場所なので、松の幹や枝があたかも舞をしているように見えるところから舞子浜と名付けられたという説がある。

 ここの松原が美しい場所かどうか判断は難しい。何しろ、写真のように、この松原の真上には巨大な建造物(明石海峡大橋)が通っているからだ。

 松原はおそらくとても美しいだろうし、明石海峡大橋も建造物としての美しさを感じることができる。だからと言って、両者が揃ったならばより一層、輝きを放つということでは決してない。

◎時の町、明石市に初めて立ち寄る

明石市立天文科学館

 明石市に足を踏み入れたことがない人でも、明石市の存在を知らない人は滅多にいないはずだ。東経135度線が明石市を通っており、協定世界時からは丁度9時間(15度で1時間なので)の違いがあり、これを日本標準時として定められたからである。

 19世紀にグリニッジ天文台の窓枠の中心が経度0度とされ、世界標準時グリニッジ標準時)だったが、現在では協定世界時(UTC)が用いられ、グリニッジ子午線は西経0度00分05秒の位置にあり、現在の本初子午線からは西へ約102.5m離れている。ただし、慣用的にグリニッジ標準時という表現を使うことはよくあるし、日常生活には何の問題もない。

 東経135度の子午線を通る場所は日本には無数にある(なにしろ線なので)はずだが、たまたま明石が最初に「子午線の町」として手を挙げた(1910年に日本で最初に東経135度の標識を建てた)ことから、日本標準時は明石標準時と呼ばれるようになった。

 もしこれが豊岡市福知山市などが自分たちの方が最初だと主張していたならば、明石の名はこれほどまでに全国に知れ渡ることはなかっただろう。

 東経135度を通る町は、上記の3市を除いても、北から京丹後市丹波市西脇市加東市、小野市、神戸市西区、淡路市和歌山市とある。これらの場所にも日本標準時子午線の標識はある。

明石は時間の町だけに時計がいっぱい

 子午線の町を象徴するように、1960年に明石市には市立天文科学館が135度線上に建てられた。館内にはプラネタリウム、写真のようないろいろな時代の時計の展示など、時や天文に関する学習ができる設備が整っている。私も数十年ぶりにプラネタリウムを覗いてみた。星座に関することが大半であったために既知のものばかりではあったものの、束の間、満天の星の世界に触れることができた。

科学館の中に東経135度の子午線が通る

 写真のように、天文科学館の中に東経135度線が通っているので、床には、はっきりとした表示がなされていた。

 もっとも、2002年に、UTCにより経度0度の位置が変わってしまったため、天文科学館の東経135度線は今となっては正確に135度を表わしている訳ではなく(おそらく他市のものも同様)、明石市の場合では西に120mほどのところに135度線が通っていることが判明している。

柿本人麻呂を祀る神社

 ところで、天文科学館のすぐ裏手の山には、写真の「柿本神社」があった。柿本人麻呂を神として祀っている神社である。実は、人麻呂(人麿、人丸)については人物像がよく定まっていないようなのである。が、歌人としては著名な歌を数多く残しており(伝説かも?)、三十六歌仙の一人に挙げられている。百人一首には、誰もがよく知っている歌が採用されている(第3番)。

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

 百人一首はほとんど記憶にないが、1から3番ぐらいまでは何とが覚えている。高校時代にテキトウに描いたレポートに対し、教師が「お前の文章は”の”を続けるので読みにくい」と文句をつけてきたとき、私はこの歌を例に「こんな短い歌ですら”の”を4回も使っているではないか」と反論した。それでも納得しないようなので、1番の天智天皇の歌も引き合いに出し、この歌もやはり”の”を4回も使っている」と教えてやった。

 これには教師も反論できず黙って去ってしまった。が、レポートの成績が上がった訳ではなかった。もちろん私は、成績を良くしてもらっては困るのだった。何しろ、「オール5」を目指していたからである。が、実際にはなかなか難しく、教師の中には最低でも「7」を付けてしまうお節介ものがいたからだ。そのため、私の評定平均は5.2ぐらい(5段階評価にすると2.6)になってしまい、オール5の達成は実現しなかった。

 それはともかく、柿本人麻呂も「東経135度」の人だったのである。やはり、人麻呂は神に近い不可思議な存在だったのであろうか?

明石城跡には2つの櫓が再建されている

 明石城天守閣は存在しない(天守台はあるが天守閣は造られなかったらしい)が、写真のように2棟の櫓が再建され、古い石垣とともに明石駅からも展望できる場所に建ち、県立明石公園として整備されている。とくに桜の木が多く植えられている。

 明石初代藩主の小笠原忠政(忠真)は信長と家康の二人を曾祖父に持つ名門の出で、徳川秀忠の命で、西国の外様大名を牽制するため、1619年に城を築いたとされる。

 やはり、明石市日本標準時の町になるほど、古くから重要な場所だったのである。

◎白くなった姫路城を訪ねる

大手前通りから姫路城を遠望する

 姫路城は外周の道路からは何度も眺めたことがあるが、城内に入ったことはこれまで一度しかなかった。その時は城郭内も観て回る予定にしていたのだが、『平成の大修理」中だったために入場できる場所が限られていたことから結局、入らずじまいだった。

 大修理が終わって白い漆喰が全面的に塗られたため、文字どおり「白鷺城(はくろじょう、もしくはしらさぎじょう)」となった姫路城を今回、初めて目にした。宿は姫路駅の北側にとっており、ホテルから城までは徒歩圏内にあった。

 駅の北口からほぼ真北に大手前通りが伸びていて、その先に姫路城の大天守が見える。もちろん城の方が先にあったのだから、この姿を鉄道の利用者に見せるために城の真南に駅を置いたと考えられる。

大手門前から城を眺める

 大手門通りを真北に進み、大手門前の堀の位置までやってきた。この間、ずっと正面に天守閣の姿があった。徐々に形を成長させながら。

 大手門の前には「桜門橋」が架けられている。これは2007年に復元したもの。

簡素な大手門

 現在の大手門(高麗門)も1938年に造られたもので、かつてのものとは形も位置も異なっているとのこと。

天守閣より石垣に魅力を感じる

 姫路城の原型は14世紀、美作国守護大名であった赤松貞範が姫山(古くは日女道、もしくは日女路の丘)と呼ばれていた場所に城(姫山城)を築いたというのが定説になっているようだ。

 1580年には秀吉が石垣を用いた城郭を築き、名前を姫路城に改めた。さらに1601年に池田輝政が入城し、ほぼ現在のような形に築き上げ、本多忠政のときに現在の形になった。

 明石城同様、西国の外様大名を牽制するための重要な位置にあったため、有力な譜代大名をこの地に置き、守りを固めたのである。

 江戸時代に建造された多くの城はアジア太平洋戦争の際に空襲で焼失した。が、姫路城も焼夷弾天守に落とされたものの、運良く不発だったために往時の姿を留めることができたのである。

打ち込み接ぎの石垣と天守閣と

 圧倒的な大きさを誇る城だが、今回もまた城郭内には入ることなく、主に石垣を見て回った。秀吉の時代にはまだ野面積みで石垣が構築されたため、ひとつ上の写真のように荒々しさというか野性味を感じさせる。これは黒田官兵衛が普請した石垣と考えられている。

 一方、池田輝政の時代になると「打ち込み接ぎ」が中心となり、さらに「切り込み接ぎ」と「進化」し、接合部も算木積みによる美しい曲線を描くようになった。

 個人的には野趣あふれる野面積みが好みなので、その姿が残る場所を探して石垣巡りをおこなった次第である。

 翌日は当初、城郭内に入ることにしていたが、夜に地図を見ていると他にも興味深そうな場所がいくつか見つかったため姫路城内初見学は止めにして、翌朝は大手前通りを通過する際に城の姿をチラリと見ただけで、姫路城に別れを告げた。

 その白さがあまりにも「造り物」のように思われ(実際に造り物なのだが)、さして好感が持てなかったというのも一因であった。

〔89〕よれよれ西国旅(9)奈良盆地を西から東。そして最後は滝見物

大和多武峰談山神社

奈良盆地を西から東へ

當麻寺の三重塔(西塔)

 天川村の旅館で極めて心地よいもてなしを受けた私たちは、奈良盆地にある立ち寄り場所に向かった。「一言主神社」「當麻寺」「大神神社」「山辺の道」「箸墓古墳」「石上神宮」などを想定していたのだが、夕食後にグーグルマップで翌日のルートを確認していると、途中に「水平社博物館」があることに気付いた。

 友人もその場所に行くことに激しく同意したことから、最初の目的地はそこに決まった。次は予定通りに一言主神社へ行き、折角なので葛城山に上って(ロープウェイで)奈良盆地大阪平野を展望しようということになった。

 二か所、立ち寄り場所が増えたので、當麻寺には出掛けられたものの、私が密かに希望していた「二上山」や「竹内街道」の散策には時間が不足してしまった。

石舞台古墳

 翌日は明日香界隈に出掛け、その地の空気を胸一杯に吸い込むことで、古代日本の有り様に思いを馳せる予定でいた。が、友人が「高松塚古墳」と「石舞台」を見たことがないので立ち寄りたいという希望を申し出たため、それを実現することにした。彼は、この日の晩に奈良を離れて横浜の自宅に帰ることになっているからだ。

 私にとっては馴染み深い場所なのだが、目的場所などはさして問題ではなく、さしあたり、明日香に自分の身を置くだけで私は十分に満足できることから、それを実現することにした。

大神神社の祈禱殿

 明日香を離れ大神(おおみわ)神社に向かった。もっとも、神社そのものに興味がある訳ではなく、大神神社から石上神宮へと続く「山辺の道」(実際には、海柘榴市(つばいち)から石上神宮なのだが)に絶大なる関心があったので、大神神社に向かったに過ぎない。

 ただ実際は、あまり歩き慣れていない友人が疲労感を抱いてしまったため、せめて景行天皇陵や崇神天皇陵ぐらいはとの予定が大幅に短縮され、これからが山辺の道の白眉となる以前に最寄りの駅に向かうことになってしまった。

 ただ巻向から三輪駅まで、短距離ではあるけれど、久し振りにJR桜井線(万葉まほろば線)に乗れたことには満足した。

 「秋の日は鶴瓶落とし」という言葉があるように、晩秋は陽が短いので、明るいうちに訪ねられる場所はそう多くない。車をとめて置いた大神神社の駐車場に戻ったときには日はかなり傾いていたため、友人と巡る奈良の旅はここで打ち止めとなった。

室生寺の山門

 一人旅に戻った私は、「石上神宮」でニワトリと戯れ、南下して「談山神社」、その後は東に進路を取り、「長谷寺」、そして写真の「室生寺」というように、あたかも修学旅行のようなルートで、紅葉の奈良路を堪能した。

赤目四十八滝の不動滝

 最後の宿泊場所は三重県名張市に決めていた。「名張毒ぶどう酒事件」の真相解明が目的ではなく、「赤目四十八滝」を少しだけ覗くことが主眼であった。

 長旅で疲れが蓄積されていたこと、450キロを運転して帰ること、途中の御在所SAで土産の『赤福』の新商品を購入することを思うと、滝見物は急坂に入る直前に位置する「布曳の滝」までに留めた。

 以上が、「よれよれ西国旅」の最終回の主な立ち寄り場所であった。

◎真の平等を求めて~水平社博物館・「人の心に熱あれ、人間に光あれ」

水平社博物館に初めて立ち寄る

 写真の水平社博物館は奈良県御所市柏原にある。1986年に「水平社歴史館」として開館し、1998年に現在の名に改称した。

 全国水平社はこの地に生まれた西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作が中心となって1922年に設立された。彼らは、被差別部落出身というだけでおよそ考えられるあらゆる社会的差別を受けた。水平社宣言の起草者である西光は部落差別のために中学校を中退せざるを得なくなり、一旦は画家を目指して上京した。その後帰郷して阪本と協力して19年に「燕会」を結成して部落内部の改革運動に取り組み、21年には水平社の設立趣意書である「良き日の為に」を書き、翌年の水平社宣言の草案を起草し「荊冠旗」を考案した。

 水平社運動は戦前、国家社会主義運動に取り込まれてしまい、42年には解消の憂き目にあった。が、戦後に松本治一郎を中心に「部落解放全国委員会」が設立され、55年に「部落解放同盟」として現在に至っている。

 私が友人と知り会ったのは、大学での「狭山差別裁判糾弾闘争」が切っ掛けだった。彼は常に闘争の意義やその進め方を理論的に指導し、私は敵対勢力を追い払うための用心棒的な役割を担った。

 人は自分の誕生を選ぶことはできない。そして自分の存在は他者によって、社会によって位置付けられていく。被差別部落に、障がい者に、在日朝鮮人に、少数民族に、女性に、黒人に生まれてきたのは自分の選択ではない。しかし、他者は、社会は、こうしたまったく自分がその出自に関与できない存在者を下位に置くことによって自分の利益を拡大しようとする。それゆえ、既存の社会はほとんどすべて「差別する側の論理」で成り立っている。

 自由は「差別する自由」を含み、人も生物である以上、「平等」であることはあり得ない。そうであるゆえ、逆に差別を限りなく小さくしてゆく自由も、他者の権利を、いやその存在自体を自分と平等とみなすことは可能だ。

 私は「カント主義者」なので、彼の道徳律でもっともよく知られている以下の言葉を常に念頭に置いて行動していく覚悟がある。実際には限りなく難しいことだが。

 「汝の格率が、常に同時に普遍的立法に妥当しうるように行為せよ」

博物館の向かいの西光寺にあった「人権のふるさとへ」の看板

 博物館の向かいには「西光寺」がある。西光万吉(本名は清原一隆)はこの寺の住職の長男として生まれた。西光寺のある地域は江戸時代、死んだ牛馬の処理=”清め役”を命じられた場所になった。このことで地域は「穢れた場所」という扱いを受けるようになり、被差別部落に位置付けられてしまったのである。

 そのため、西光寺は”穢寺”の扱いを受け、この寺の子として生まれた西光万吉は学校からも生徒からも他の地域の人々からも差別を受けたのである。

 現在、西光寺周辺は「人権のふるさと公園」になっている。博物館と西光寺の間を流れる満願寺川には、写真の「ようこそ、人権のふるさとへ」の看板が掲げられている。

 差別される側に自分の身を置いてみた状態をイメージすることは可能だ。民主主義の理念のひとつに「入れ替え可能性」がある。自分を”差別される側の人間”に入れ替えてみて、それでも十分に耐えられるかどうかを考えてみる必要がある。

 差別される側の人間に接したとき、「もしも私が彼、彼女だったら」と考えれば、差別がいかに非人道的であるかが理解できると思う。

一言主神社

二の鳥居

 「葛城の道」がある。奈良盆地の東側には「山辺の道」があり、そちらは日本最古の道と言われ、私が大好きな山道であるが、盆地の西側の葛城山麓には、やはり歴史のある道があって、散策するには絶好の古道だ。

 その「葛城の道」は、葛城山麓から南に下って風の森神社へと続くのだが、その中間付近にあるのがここに取り上げた一言主神社で、歴史のある神社であり全国にある一言主神社の総本社であるにも関わらず、境内はさほど広くない。ただ、参道はかなり長く、写真の二の鳥居の300m以上東に一の鳥居があるので、往時は相当に広大な敷地を有していたと思える。

階段を上がって境内へ

 境内には正面の階段を上がって行くが、右手に写っている細い道が葛城の道で、ここからなかなか趣のある道が続いていく。今回は時間の関係でこの道には進まず、境内を散策することにした。

ぼけ除け「幸福の像」~近年はあちこちで見掛ける

 この神社の歴史は古く、『古事記』や『日本書紀』にも登場する。

 雄略天皇葛城山で狩りをしていたときに大神が顕現し、『古事記」には、「吾まづ問はれたれば、吾まづ名告りせむ。吾は悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城一言主の大神なり」と述べて神力を示したそうだ。一言の割には少し長い気がするのだが、まあそれは良しとしよう。

 祭神は「葛城一言主大神」と「幼武尊(雄略天皇)」で、地元の人々には「いちごんさん」とよばれて尊崇されているそうだ。

イチョウ(樹齢は1200年)

 一言主大神は、役小角役行者)によって金峰山葛城山との間に橋を架けるために使役されたというから、意外にも働き者だったようだ。ただ、顔が醜かったこともあって、昼間は働かず夜のみ働いたというから、案外、気が小さい神なのかもしれない。

本殿

 大神が奥ゆかしい面があったためか、写真のように本殿は総本社の割には意外にも小振りである。この点には好感が持て、私があえてこの神社に訪ねたかったのはこれも理由のひとつであった。

芭蕉の句碑

 境内には樹齢1200年の大イチョウのほか、写真の松尾芭蕉の句碑がある。

 『笈の小文』には「彼の神のみかたちあししと、人の口さがなくいひつたえ侍れば、

 猶見たし 花に明行 神の顔 

 という句を残している。芭蕉らしく洒落の効いた句である。

葛城山

天神社

 葛城山大和葛城山)は金剛山地にあり、奈良と大阪の境にある。金剛山と並んで古くから知られた存在で、どちらの山にもロープウェイが開通していたが、金剛山のものは古くなって修復には巨額の費用が掛かるということで廃線になった。そのため、楽をして山地上に上り、奈良や大阪の景観を楽しむには葛城山が選ばれることになる。

 標高は959.2m。ロープウェイを使えば6分で上がることができるが、往復1500円は少し高いように思えた。

 山頂駅のすぐ近くには写真の「天神社」があった。頂上付近にはブナの原生林があり、古くから「天神の森」と呼ばれていたらしい。祭神は「国常立尊」。境内からは土器や土師器の欠片が発掘されていることから、古代の祭祀遺跡でもあるらしい。

葛城山

 頂上はよく整備され、写真のような標識と、何故かポストが立っていた。ここからハガキや封書を送ると、「葛城山頂」という消印が押されているのかも?

 周辺は草原が広がっており、また周囲には山ツツジの木が数多く植えられている。これを記している5月が花の見ごろのようで、ロープウェイは満員御礼状態になるそうだ。

奈良盆地を望む

 空気が霞んでいたのと、大阪側は逆光だったためにまともな写真は撮れなかった。一方、奈良盆地側は何とか撮影可能で、写真のように手前の畝傍山(199m)、東側の天香久山(152m)、北側の耳成山(140m)といった大和三山の姿が見えた。

 また、東方向の谷沿いには集落と国道165号線が続き、後で紹介する長谷寺室生寺赤目四十八滝はその国道に近い場所にある。

當麻寺当麻寺、たいまでら)

仁王門(東大門)

 當麻寺二上山(にじょうさん、ふたかみやま)の東麓にある古刹。奈良盆地の東縁には三輪山大神神社、西縁には二上山當麻寺と、対になって語られることが多い存在である。

 この寺には国宝や重要文化財が数多くあるが、そのいくつかは”無造作に”と思えるほど、気軽な気持ちで国宝や重要文化財に接することができる。

 東大門の近くに有料駐車場があるのでそこに車を置き、友人と境内散策をおこなった。敷地の中には10数の塔頭があるので、広々とした感じはあまりしない。非道く歩かされるほどでもなく、かといってせせこましい感じもせず、見物には誠に具合が良い。

 なお、当寺は真言宗と浄土宗の二宗の寺である。

国宝の梵鐘

 門から境内に入ると、正面に写真の「梵鐘」(鐘楼)が見える。680年に建造された日本最古の梵鐘であり、国宝に指定されている。写真から分かるように誰もが簡単に近づくことができる存在であり、国宝という看板が出ていなければただの古めかしい小さな鐘撞堂ぐらいにしか思えないところにこの建築物の良さがある。

国宝の本堂

 そのまま西に進むと金堂と講堂が並び立っており、その間を抜けると写真の本堂に突き当たる。

 本来は金堂が本堂の地位にあるはずなのだが、本堂(曼荼羅堂)に安置されている根本曼荼羅が本尊の役割を担っているため、こちらが現在は本堂に位置付けられている。本尊というと仏像がほとんどだが、ここでは曼荼羅図が本尊というかなり珍しい寺なのだ。

 平安時代末期以降、阿弥陀信仰が盛んになったため、当麻曼荼羅図(国宝)が崇められるようになった。当時の曼荼羅図は「中将姫説話」が広がるとともに評判を博した。私たちは、その中将姫説話を題材にした折口信夫の『死者の書』で、その中将姫が織ったとされる「曼荼羅図」をイメージすることができる。

 この曼荼羅図は「蓮糸曼荼羅」と考えられてきたが、実際には、絹糸、平金糸、撚金糸などを用いた綴織であることが判明している。最初のものは損傷が極めて激しいが、調査によって7世紀ごろに唐で織られたものと考えられている。

三重塔(西塔)

 境内には三重塔がニ棟あり、それぞれ、西塔、東塔と呼ばれており、ともに国宝である。

 写真の西塔は平安初期に建造されたもので、素材はケヤキである。高さは25.2m。 

三重塔(東塔)

 東塔は奈良時代末期に建てられ、素材はヒノキである。高さは24.4m。

 両塔を見比べてみると意匠に微妙な違いがあり、同時代に造られたものではないことが分かる。

塔頭の西南院(さいないん)

 西南院は、「中之坊」と並んで當麻寺塔頭ではよく知られた存在で、こちらは「関西花の寺」として人気が高い。もっとも、私たちが出掛けた11月は花の少ない時期なので、特別に”珍しい菊”の展示会がおこなわれていた。

 江戸初期に造られた「池泉回遊式庭園」は小規模ながらなかなかの見応えがあった。借景として西塔を利用しているので狭さを感じさせない。

 私の大好きな「水琴窟」があり、よく響く雫の音は遠く白鳳時代までの1400年の歴史を感じさせるものだった。若い時分には庭園などまったく興味がなかったが、ジジイになってからはその良さが少しずつ分かりかけてきた。

菊の展示がおこなわれていた

 展示されていた菊はいずれも改良を施されたものであった。10数種あったが、その中では一番、写真のものが艶やかだった。

大阪冬桜

 脇には写真の「大阪冬桜」がかろうじて花開いていた。10から11月に咲き始め、春に多くの花を身に纏うという二期咲きの桜だ。桜は春のものだと思っている人がいるようだが、実際には一年中、いろいろな種のものが開花している。

◎古墳を訪ねる

高松塚古墳

 明日香に足を踏み入れた。私はずっと以前からこの地を散策するのが大好きで、とくに目的場所はなくとも、ただこの地に自分の身を置いているだけで満足な心持になる。

 予備校生時代には古代史の研究会に顔を出していたということは本ブログでは何度か触れているが、ほんの一瞬、将来は歴史学者にでもなろうかと考えたこともある。しかも古代史を専門とするのだから古文書が読めなくてはならない。古い資料を分析するには根気のいる作業が必要となる。受験勉強を放り出して何度か学会にも顔を出したが、議論の内容はほとんど理解できなかった。某教授から文献を借りて見開いたものの、そもそも文字を読み取ることすらできなかった。古代史研究家になるための素養がまったくないことが判明したので、最終的には磯兼アユ釣り師になった。

 釣りだって根気が必要だが、釣りには偶然性がまとわりついているため、私のような怠け者にも十分に務まるのだ。それでも、古代史好きには変化はなかったので、折をみては奈良、京都にはしばしば出掛けた、竿を持たずに。

 高松塚古墳は国営飛鳥歴史公園の中にある。石窟の中の壁画が有名で、とくに色彩豊かな女子群像はこの古墳を語る際には必ず登場する。

 写真の二段式円墳はもちろん、近年になって造り上げたもので、7~8世紀初頭の終末期古墳の形を模している。 

歴史公園は散策に恰好な場所

 1962年、村人がショウガを貯蔵するために60センチほどの穴を掘ったところ四角い凝灰岩の切り石が出て来た。その凝灰岩は二上山産のものであるということは判明済みだ。72年に橿原考古学研究所らの調査でほぼ全貌が明らかとなり、74年に壁画群は国宝に指定された。

 壁画は直接、石面に描かれたものではなく、厚めに塗られた漆喰層の上に描かれているため保存にはかなりの神経を必要とする。

 墓の埋葬者は同定されておらず、天武天皇の皇子説、石上麻呂説、朝鮮系王族説がある。

石舞台古墳

 ある面では、明日香でもっともよく知られた古墳だと思われるのがこの「石舞台」である。古墳というと円墳にしても前方後円墳にしても土盛りの姿をイメージするが、ここは石室がむき出しになっており、土盛りがきれいさっぱり消えてしまっているからだ。

 調査から、この古墳は方墳だったことが判明している。1933~35年に綿密な調査がおこなわれ、堀の形状から形が推測でき、日本では最大級の大きさだったとのことだ。

中をのぞく

 横穴式の石室には、写真のように立ち入ることができる。全体は30数個の花崗岩でできており、推定では2300tもの石が使われている。石室の広さは長さが7.7m、幅が3.5m、高さが4.7mある。

 石は近くにある多武峰(とうのみね)から運ばれたそうだが、7世紀のことなので人力以外には考えられない。

死者の眼

 埋葬されていた人物は蘇我馬子(入鹿の祖父)説がもっとも有力とのこと。

 周囲の岩も大きいが、天井に置かれた石は巨大で、天上部だけで77tもの石が使われている。孫の入鹿は645年の「乙巳の変」(大化の改新)で暗殺されてしまい、蘇我氏の権力はやや縮小してしまった。祖父の馬子はこの石室の中で永遠の眠りについていた。馬子の眼には、乙巳の変はどのように映ったのだろうか?

大神神社

大鳥居

 大神神社(おおみわじんじゃ)は大和国一之宮で、日本最古の神社といわれている。標高467m、綺麗な三角形の姿をしている三輪山御神体としており、拝殿はあるが社殿を持たない古代神道の形式からなる。

 私はこの大神神社には何度も訪れているけれども、目的は神頼みではなく、日本最古の道と言われる「山辺の道」のひとつの起点がこの神社になっているからである。

 とはいえ、写真のような巨大な大鳥居(高さ32.2m、標高は69m)は見応えがあり、深閑とした森に包まれた参道を歩くのは心地好いので、単に山辺の道を歩くためだけに訪れているという訳でもない。

 大鳥居は1986年に竣工し、当時は日本最大の鳥居と言われた。ただし、2000年に熊野本宮の大斎原(おおおゆのはら)に高さ33.9mの大鳥居が出来たことで、日本一の座は奪われてしまったが。

 それにしても、大鳥居と、その背後に見える三輪山の取り合わせは、信仰心がまったくない私であっても、どこかしら敬虔な心情が生まれてくるから不思議だ。

二の鳥居

 大鳥居から二の鳥居(標高は78m)までは道の左右に駐車場や商店(三輪そうめんの店など)が並び、さらにJR桜井線の踏切もあって、日本のどこにでも見られる参道の風情だが、写真の二の鳥居から社殿まではそうした日常的なものは存在せず、木々に包まれながら心安らかに散策が楽しめる。私には参道であっても単なる散歩道にすぎないので。

拝殿までの道

 拝殿は標高96mのところにあって、参道はなだらかな坂道(階段)が続いてゆく。人々はいろいろな思いや願いを抱きながらのぼってゆくし、願いが叶いますようにと下ってゆく。

 受験の合格や交通安全、結婚や出産祈願なら具体性があるので願いが成就したかどうかは分かりやすいが、幸せになれますようにだとか、無事で一年を過ごせますようにとかやや抽象的な願いは、神様はどのようにふるまってくれるのだろうか。私には「願い」はまったくないので関係はないが、「幸せ」や「善悪」の基準なんてまったくないので、つくづく神様も大変であろうと、神に同情したくなる。

賑わう拝殿前

 古い記録(古事記や日本書記)によれば、大神神社の祭神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は、出雲の神である大国主神の前に現れ、国造りを成就するために三輪山に祀られることを望んだという。このため、崇神天皇の時代には国造りの神、国家の守護神として篤く祀られたとのこと。

 三輪山全体が御神体であるが、頂上には大物主大神、中腹には大己貴神(おおなむちのかみ)、麓には少彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮座している。

水の神である市杵島姫神

 友人も私も参拝はせず、「山辺の道」を進むことにした。祈祷殿や儀式殿の前を通り、山間の道を進んだ。

 まもなく、磐座(いわくら)神社に出た。磐座とは古神道における信仰となる岩のことで、三輪山の天辺には奥津磐座、中腹には中津磐座、麓には辺津磐座がある。

 さらに進むと狭井神社の鳥居に出た。狭井神社の鳥居の近くには「鎮女池」があり、その水の神として弁才天が祀られている。ここには「市杵島姫神社」という、写真のようになかなかオシャレな社がある。

 なお、狭井神社の裏手には「三輪山登山口」がある。コロナ禍ということもあって登山は禁止されていたが、この5月10日から再開された。 

檜原神社

 檜原神社(ひばらじんじゃ、桧原神社とも)は大神神社の摂社で天照大神を祀る。三つ鳥居が特徴的で、大神神社同様、社殿は存在しない。

 垂仁天皇の御代、大神は皇女の倭(やまと)姫命に後を託し、自らは伊勢の五鈴川の川上に御遷幸した。今の伊勢神宮の内宮のある場所だ。このため、檜原神社は「元伊勢」とも呼ばれている。

檜原神社の注連柱の間から二上山を望む

 写真のようにこの注連柱から西側を望むと二上山が見える。春分の日秋分の日には、三輪山の天辺から昇った太陽は、この二上山の間に沈む。このことも當麻寺の項で触れた『死者の書』のモチーフになっている。

 ところで、日本最古の官道と言われる竹内街道(たけのうちかいどう)は難波を起点として、その二上山を迂回するように東に進み飛鳥へと進む。

 二上山の東麓に當麻寺があることはすでに触れている。當麻寺には訪れたが、二上山竹内街道には今回、出掛けることはできなかったことは少し残念ではあるが、いつかその地を訪れるくらいの時間はまだ残されている気がする。

◎桜井線に乗る

道の傍らに咲いていた花と唐辛子

 檜原神社を過ぎて三輪山の麓の道を進むと、県道50号線に出る。この県道は三輪山龍王山との境を通る道で、この道を少しだけ西に進んで今度は北にゆく細い道に入るのが山辺の道のコースなのだ。が、友人はかなり疲れた様子で、これ以上北に進むことは無理そうだった。

 私の場合、この日は天理市に宿泊するのだが、彼は夜中に走って横浜に帰る予定なので無理強いはできない。という訳で、山辺の道を進むことは諦めてJR桜井線の巻向駅に向かうことにした。

 道すがら、あちこちの畑を眺めていたら、大きな唐辛子が実っている姿を発見した。その傍らには「サルビア・レウカンサ」(メキシカン・セージ)が目いっぱい、花を広げていた。

 この先の山辺の道には前方後円墳がいくつもあるのだが、墓よりは花の方が心も体も休まるだろうと、畑の道をゆっくりと進んだ。

古代遺跡でよく知られる巻向にある駅

 巻向(纏向)遺跡は、弥生時代から古墳時代にまたがる遺跡が数多く発見されており、それが「邪馬台国畿内説を支えている重要な遺跡群である。個人的には「箸墓古墳」に興味があり、その前方後円墳は「卑弥呼の墓」と考える向きもある。

 それはともかく、周囲には「方形周溝墓」も多い。この墓の形式は朝鮮半島に多いものなので、古代日本文化は大陸の影響を強く受けていることが判明している。

 友人は、箸墓古墳には少し興味を示したため、「電車の窓からよく見えるよ」と知らせた。

なかなかスマートな車両

 桜井線は奈良駅高田駅とを結び、途中に三輪駅や桜井駅がある。「万葉まほろば線」の愛称があり、現在では桜井線というよりまほろば線の方が通りが良いらしい。

 写真の車両は奈良行きなので、私たちが向かう三輪駅とは反対方向なので乗り込むわけにはいかない。私たちが乗車する高田行きが来るまでは50分ほど待つ必要があった。

 私がもっともよく奈良にまで出掛けてきていたのは20から30年前ぐらいなので、桜井線には相当に古めかしい車両が用いられていたが、現在では、どこに行ってもスマートな車両が使われている。ローカル色が薄らいでいるのは残念なことだが。

寂し気な三輪駅

 三輪駅に到着した。僅か一駅なのでほんの短い乗車だった。この駅で降りたのは再び大神神社に出掛けるためという訳ではなく、大鳥居付近に止めていた車に戻るためだった。

 大神神社の最寄り駅である三輪駅だが、写真のように田舎の小さな駅にすぎない。日本最古の神社の最寄り駅にしては寂しさを覚えずにはいられない。とはいえ、自分たちもたまたま電車を使っただけなのだが。これが、前方後円墳が多くある場所まで出掛けていたら、バス便のほうが便利なので、電車には乗らずじまいだったはずなのだから。

石上神宮

石上神宮への参道

 友人とは、天理市にある私が宿泊するホテル近くにあったラーメン店で別れた。別れの宴にはラーメンと餃子が用意された。いかにも今風のラーメン店という風情だったが、意外にあっさりとした味付けだったので、老人の口にも合ったものだった。

 私が天理市に宿を取ったのは中島みゆきファンだからという理由ではなく、次の目的地が石上神宮であったこと、友人が横浜に帰るには東名阪道に近いこと、という双方にとってメリットがあったからで、けっして天理教の信者という訳ではない。私は無信仰(もしくはアホダラ教徒)で、友人は一応キリスト者である。

大鳥居

 石上神宮は日本最古の神宮で、二番目が伊勢神宮と言われている。祭神は「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」で、石上神宮の名は記紀にも登場している。

 私が何度もこの神宮に立ち寄っているのは信仰心からではなく、すでに述べているように「山辺の道」の起着点でもあるからだ。もっとも古道はずっと北まで続いているようだが、はっきりとした道筋は不明のため、散策路としての山辺の道はここが起着点として扱われている。

 写真のように新しめの大鳥居があり、参拝者は出入りする際にはきちんとお辞儀をする。私は信仰心がないので、基本的には鳥居の横を通り抜ける。ここのように横に通れる広さがあれば良いのだが、ない場所も多いため、そのときはできるだけ隅を足早に通り過ぎることにしている。

出雲建雄神社拝殿(国宝)

 ”草薙剣の荒魂”が祀られている。天武天皇の御代に光り輝く剣の夢を見た神主がその地に行くと、「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降って皇孫を安んじ庶民を守ろう」という託宣があり、神宮前に祀ったといういわれがあるそうだ。

 石上神宮の摂社であるが、ここの名前を聞くとなぜかこの拝殿をイメージしてしまうほど、よく知られた存在である。 

楼門方向を眺める

 次に印象深いのは右手に写っている「楼門」だ。鎌倉時代後期の造営と考えられている。国の重要文化財に指定されている。

 国宝の拝殿は鎌倉時代初期に造営され、国宝に指定されているが、私にはほとんど印象に残っていない。

 なお、布留、高庭を御本地として祀っていたために長い間、本殿を持たなかったが、1913年になって建立された。

 また、神宮に保管されている「七支刀」は教科書にもよく出てくるほど有名で国宝に指定されている。4世紀頃の作で、百済で製作されたと考えられている。

ニワトリは神の使い

 私がこの神宮で一番気になるのが写真にあるニワトリ(東天紅烏骨鶏)で常に放し飼いにされており、人が近寄っても逃げる気配は全くない。この神社では神の使いと考えられているそうだ。全部で30羽ほどいるとのこと。

 ニワトリたちが餌を食べている道が「山辺の道」の起着点で、ここから約15キロの道を歩くと大神神社にたどり着く。

◎談山(たんざん)神社

大鳥居

 日本唯一の木造十三塔を有する談山神社は、石舞台古墳の東方にあり、石舞台の前を通っている県道155号線を東に進めば神社に到達する。しかし、途中の道が狭く、結構曲がりくねっているため、石舞台見物と談山神社見物とを組み合わせる人は案外少ない。それでも、談山神社は紅葉が美しいことでもよく知られているので、私が訪れた日は駐車場が満杯になるほどの混雑具合だった。

 私はこの日、石上神宮に立ち寄ったので石舞台経由ではなく、国道169号線を南下して桜井市に出てから県道37号線を進んで神社に向かった。こちらの道も車の数はかなり多く、とくに観光バスの姿が目立った。

紅葉真っ盛り

 中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちに藤原鎌足)は藤の花が盛りの頃、この寺の本殿の裏山にあたる場所(当時、寺はなかった)で極秘の談合を行った。

 「中大兄皇子中臣鎌足連に言って曰く、鞍作(蘇我入鹿のこと)の暴虐をいかにせん。願わくは奇策を述べよと。中臣連、皇子を将いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花のしたに反乱反正の謀を談ず」と『多武峰縁起』にある。

 これによって645年の乙巳の変(いっしのへん)が起こり蘇我入鹿は暗殺され、天智天皇藤原鎌足大化の改新を断行した。

 「多武峰→談峯→談山」とこの地の名が変化したと言われているが、乙巳の変を談合した場所だから談山と呼ばれるようになったと考えるほうがすっきりする。

談山神社と言えばこの塔

 669年、鎌足の病が重いと知った天皇は、鎌足に「大織冠内大臣」という最高位を授け、藤原姓を与えた。

 678年、鎌足の長男の定慧和尚が遺骨の一部を多武峰山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称した。さらに701年、神殿を建てて鎌足公の御神像を安置した。これが現在の談山神社の始まりといわれている。

 境内には美しい建築物がいろいろとあるが、私も含め、そうした構造物よりも自然が織り成した紅葉美に目を奪われていた。

 現存している十三重塔は室町時代に再建されたものであるが、この塔が境内の中心にあることで、この姿に触れると、ここが談山神社であるということがすぐに誰にでも分かる。

 この後に触れる長谷寺でも室生寺でも、そうした象徴的な建造物を有している。

紅葉見物客に賑わう参道

 撮影時には人影はまばらだったが、これはほんのいっときのことで、実際には数多くの観光客で賑わっていた。おそらく、紅葉見物が大半で、この寺の由緒にはさほど関心は有していないだろう。十三重塔は別にして。

長谷寺

長谷寺を象徴する景観

 なぜか知らねども、写真の景観を見ただけで、私には「長谷寺」であるということがすぐに分かる。それだけこの寺に数多く訪れていると言ってしまえばそれだけであるが、さして変哲のない姿だけれど、長谷寺にしか持ち合わせていない建物の配置があるような気がするのである。

 今回は車で訪れたが、参道が狭いこと、しかしその参道の景観も興味深い存在であることから、この寺に来るときは桜井駅に車を置いて、わざわざ「近鉄大阪線」に乗って長谷寺駅までやってくることが幾度もあった。

山門

 長谷寺は寺伝によれば686年に僧の道明が初瀬山の西の丘に三重塔を建立したことに始まり、727年には聖武天皇の命で東の丘に本尊の十一面観音像を造っている。平安中期には観音霊場として栄え、藤原道長が参詣したという記録もあるそうだ。

 初期は華厳宗、そして法相宗、やがて新義真言宗と変遷し、根来寺が焼かれた際には多くの僧が長谷寺に逃げ込み、やがてここは新義真言宗豊山派の総本山となり、約3000の末寺を持つに至った。

 写真にあるように山門からしてとても立派なものだが、これは1885年に再建されたものである。

この寺を象徴する登廊

 長谷寺でもっとも特徴的なのは写真の「登廊」だろう。これは春日大社宮司、中臣信清が子の病気の平癒を祈願したところ無事に回復したお礼として寄付したものだそうだ。山門から本堂まで399段の階段があるが、そのすべてが屋根で覆われている。

紀貫之の「故里の梅」

 途中に、小さな祠とともに写真の歌碑と梅の木があった。これは紀貫之が植えた梅の木の子孫と言われている。長谷寺は『源氏物語』や『枕草子』に登場するほどよく知られた存在だったので、当然、多くの歌人がこの地を訪れて歌を残している。

本堂

 本堂では、「弘法大師生誕1250年」を記念して、本尊の十一面観音像が公開されていた。高さが10mもある大観音像ということで、特別料金を払ってでも拝観しようとする人々が数多くいた。もちろん、私は見物していない。

室生寺~女人高野

室生の里へ

 室生寺長谷寺同様、明日香、桜井方面に出掛けた際にはほぼ必ずと言って良いほど立ち寄ることにしている。というより、明日香、山辺の道、長谷寺室生寺に行って初めて奈良に身を置いたことを実感するのであって、東大寺法隆寺興福寺は二の次である(鹿とは遊びたいけれど)。

 現在は室生トンネルが出来てアクセスが良くなり、駐車場も太鼓橋近くに整備されているのでずいぶんと楽になったが、やはり「室生の里」に出掛けるなら、室生川に沿って走っている県道28号線の曲がり道を進みながら里に出会うのが極上の楽しみであり喜びである。

 室生の里は標高350mほど。上述した長谷寺は本堂が216m地点なので、紅葉は一層、進んでいると思っていたら、実際、見事と思えるほど色鮮やかな木々に囲まれていた。

太鼓橋が見えて来た

 駐車場に車をとめ、しばし室生川を眺めた。もちろん、川の流れを見ると魚を見つける行為に走るのだが、この時も、紅葉を目にするよりも川の中の探索の方に時間を費やした。魚を見つけたところで釣りをする訳ではないのだけれど。

 前方には「太鼓橋」があり、その橋を渡って境内に入る。その前に、やはり橋の上から流れを見つめるのだけれど。

三宝

 写真の三宝杉周りの紅葉が一番見事であった。三宝杉の名はあるが、そのうちの一本は倒れてしまったため、現在は二宝杉の状態になっている。

金堂を見下ろす

 室生寺真言宗室生寺派大本山である。開基については諸説があってはっきりしたことは分からないが、個人的には天武天皇の勅願によって役小角が開いたという説が好みだ。一方、8世紀後半に興福寺の僧の賢環(けんけい)によって開かれたというのが有力らしい。

 山岳寺院なので役小角の名が登場してくるのは十分に考えられるが、小角の存在自体にあまりにも突飛な点が多いので、真実性が薄いのは致し方ないのかもしれない。平安時代には興福寺の別院として山林修業の場として用いられていたというから、後者の説に真実性がありそうだ。

 江戸時代になって真言宗の寺となった。当時、高野山は女人禁制だったが室生寺は女人の参詣が許されていたことから「女人高野」と呼ばれるようになった。少年時代、室生寺が女人高野という別名を持つと知ったとき、その寺には尼僧ばかりいるのだと思い、しかも五重塔が小さく可愛らしいことも女性に合わせて建造されたのだろうとまったくの思い違いをしていた。

 子供の頃から現在に至るまで、私は「サル的存在」なので、そうした考えを抱くとしても、それは私の理性または悟性がそう思わせるのではなく、サルとしての感性がそのように働いてしまうのだ。

 江戸時代には綱吉の母の桂昌院室生寺に多大な寄進を行い、それによって堂宇は大幅に修理改善がおこなわれたそうだ。

 なお、長い間、この寺は真言宗豊山派(総本山は長谷寺)に属していたが、1964年に豊山派から独立して真言宗室生寺派を打ち立て、その大本山となった。宗教に限らず思想界はには分派活動が付き物である。どんな違いがあるかは不明だが、当事者にとっては些細な違いほど大きく誇張される。

開祖?の役小角

 弥勒堂の中には、写真の役小角像が安置されている。が、ここでは「神変大菩薩像」として扱われている。伝説にすぎないかもしれないが、確かに役小角もこの寺に関係していることは確かなのだろう。

国宝の五重塔

 国宝の五重塔は屋外にある木製の塔としては日本一小さく、現存する塔としては法隆寺の五重の塔の次に古い。800年頃に造られたと考えられ、高さは16mしかない。木造の五重塔で一番高いのは東寺の塔で54.8mもある。

 しかし、その立ち姿は実に美しく、まったく破綻がない。やはり「女人高野」に相応しい存在だ。もっとも、そう呼ばれるようになったのは800年以上、後のことであるが。

 なお、奥の院を除けば、この五重塔が境内では一番高いところにあり、標高は386mである。

国宝の金堂

 五重塔の次に魅力を感じるのが写真の金堂である。斜面上に建てられているので、手前の舞台側を柱で支えた「懸(かけ)作り」がいかにも山岳寺院の風情を醸し出している。

 建物自体が国宝であるが、内部にある「釈迦如来立像」(高さ2.4m)と「板絵著色伝帝釈天曼荼羅図」の2点も国宝に指定されている。

 後者は、金堂来迎壁(金堂内須弥壇の板壁三間の間に取り付けられている)にあるため、釈迦如来像がその前部を覆い隠していることから、見られるのはごく一部にすぎない。

 また、「伝帝釈天曼荼羅図」という表現は、あくまでも有力な仮説で、室生寺が元々室生竜穴神の神宮寺だったことから、「竜王曼荼羅」もしくは「請雨経曼荼羅」ではないかという説もある。

 いずれにせよ、平安時代前期のものなので詳細は不明のようだ。

紅葉の盛り

 山門の入口側よりも出口側からの方が紅葉が美しかったので、同じ山門を撮影するにしても、この向きから撮影する人の方が多かった。

 おそらく、この寺が一番綺麗に見えるのは真冬の雪が積もったときだろう。シャクナゲが境内にはたくさん植えられているのでその開花時期(4,5月)も良いだろうが、やはり堂宇が雪を抱いているときが際立って美しいと思われる。しかし、雪の中の運転は苦手なので、一生、目にすることはできないと思う。

◎初めて赤目四十八滝を訪ねる

赤目四十八滝は近い

 今回の旅の最後は三重県名張市に宿を取っていた。名張市から自宅までは約450キロで、大半は高速道路ということもあって、5,6時間あれば十分に帰れるので、赤目四十八滝は翌日の午前中に見物しようかと考えたが、宿に入ってもとくにすることがないので、室生寺の次に回ることにした。事実上、今回の旅の最後の目的地であった。

オオサンショウウオがいっぱいの博物館

 滝の入口の手前には写真の「赤目自然歴史博物館」があった。滝のある滝川(宇陀川の支流)にはオオサンショウウオがたくさん生息しているということで、この建物の内部にある水槽には多数のオオサンショウウオが飼われていた。

オオサンショウウオには名前が付いていた

 いろいろ居たオオサンショウウオの中では、写真のものが一番、愛想が良かったので撮影してみた。本来は夜行性なので明るい場所に入れられて迷惑そうだったが、なんとか撮影に応じてくれた。

乙女の滝

 四十八滝といっても実際に四十八あるかどうかは数え方にもよるのだろうが、「四十八滝」は全国各地にあるように複数の滝を有している渓谷を「四十八滝」と呼ぶそうだ。

 私が訪れた日は渇水が続いていたようで、写真の落差1mの「乙女滝」を滝と呼んで良いのかどうかは見る人の判断に委ねられるだろう。

千手滝

 この「千手滝」は流れが無数に枝分かれしているため、あたかもそれが千の手のように見えることから名付けられた。もう少し水量があれば、ごつごつした岩の間から無数に枝分かれした流れが手を伸ばしたように見えるかも。

布曳の滝

 一番感動したのは、この「布曳(ぬのびき)の滝」。落差30mあるが、その流れが一本の布のように見える。シャッター速度を遅くすればこのような写真は簡単に写せるが、この滝の場合、普通に写しても布を曳いているように見える。 

 「布引」「布曳」の名の付いた滝を数多く見てきたが、ここの滝ほどその名に相応しいものは見たことがなかった。

 駐車場の標高は300m、この滝は390mのところにある。案内図によれば滝は500mほどのところまで続くようだが、この滝の姿を見れば、あとは見学不用と思えた。疲労感があったことも事実なのだが。

柱状節理も見事

 滝群のあるこの川は、室生火山群が形成した流紋岩質溶結凝灰岩を削って流れを生んだもの。凝灰岩質が高い場所は多く削られるため、滝は数多く形成される。その代わり、地質が均一に近いために落差の大きな滝は生まれない。

 それでも、周囲を見渡すとかなりの高低差がある崖があり、そこには柱状節理を明瞭に視認することができる。この崖から水が流れ落ちれば、相当に見応えのある滝になるはずである。

 とはいえ、さしあたり「布曳の滝」を目の当たりにすれば、満足度は極めて高い。

不動滝

 帰り道に目にしたのが「不動滝」。実は一番最初に目にするのが、この落差15mの滝なのだが、下から見るよりこうして横から見た方が迫力を感じられた。

 赤目渓谷は古く、役小角が修行の場としており、のちには忍者の修行場だったそうだ。確かに、伊賀や甲賀は比較的近くにあるので、忍者が訓練をするには適した場所なのかも。実際、ここは「忍者の里」として売り出し、「忍者体験」というのもできるそうだ。

 ということで、私の四国・紀伊半島の旅はこの地で終了した。4月中旬から下旬にかけて「山陽の旅」をおこなっている。また、5月中旬からは15泊16日の予定で東北地方を巡ることになっている。

 とりあえず、次回からは「山陽の旅」に移る。しかし、旅の途中になるので、更新は遅れ気味になるかも。

 私の場合、死ぬまで「旅の途中」なのだけれど。

〔88〕よれよれ西国旅(8)四国から和歌山、そしてちょっぴり奈良へ~魅力的な川を発見!

紀伊半島の南端~古座川・小川(こがわ)の朝

南海フェリーに乗って阿波から紀伊

南海フェリー徳島港ターミナル

 淡路島と四国東半分の旅は昨日で終え、今日は10時55分発のフェリーに乗って和歌山港へ向かい、今度は和歌山、奈良の旅を始める。翌日の夕方、50年来の友人が和歌山の南紀白浜まで自分の車でやってくることになっている。彼は和歌山、奈良で5泊するので、明日の夕方からはしばし二人旅となる。

 南海フェリーの発着所はホテルから車で10分以内のところにあるので、朝はのんびりとホテルで過ごし10時少し前にホテルを出ることにしていた。しかし、こんなときに限って朝早く目が覚め、といってホテルにいてもやることがないので、ターミナルには予定より30分以上も早く着いてしまった。

 新町川左岸の河口近くにあるターミナルは小さな売店しかなく、周囲にもこれといった施設もないため、ただただ乗船時間まで無為に過ごした。おまけに、ホテルからフェリーの割引券をもらっていたのだが、ドライブスルー方式を利用して乗車券を購入したため割引券を使うことを失念してしまった。窓口で購入すれば2千円ぐらいは安くなったのに。早起きは「三文の損」であった。

 和歌山港着は13時05分。2時間10分の船旅は退屈そのものと考えられるし、かといって寝込むこともできないため、とにかくデッキに上がってのんびりと景色を眺めるしか方策はないだろうと思った。 

かつらぎ丸が離岸

 「かつらぎ丸」は全長108m、総トン数は2620t。僚船の「あい」は長さは同じで総トン数だけが200tほど重いだけ。紀伊水道を行き来するには手頃な大きさなのかもしれない。

 車両も乗客も定員の7割程度。トラックの運ちゃんたちは専用のスペースでゆっくり休息を取り、一般の乗客はデッキに上がって景色を眺めたり、客室で仮眠、談話、食事などで時間を潰していた。

 定刻通り、かつらぎ丸は離岸し、新町川の河口へ進路を取った。

徳島市のランドマーク・眉山とお別れ

 私は最上段のデッキに上がり、まずは徳島市内方向に目を向けた。写真にあるとおり、眉山が航行の安全を祈願するように、船の方向を見つめていた。もっとも、眉山はどこから見ても眉の形をしているため、山の周囲にいる誰もが眉山に見守られているように感じるのかもしれないけれど。

こちらはオーシャン東九フェリーの大型船

 河口付近には写真の大型フェリーが鎮座していた。こちらは東京・徳島・新門司を結ぶ長距離フェリーなので、全長は191m、総トン数は12636tもある。外洋を航行するため、これくらいの大型船でなければ十分な安全が確保できないのかも。

 私は大昔に川崎と宮崎とを結ぶ長距離フェリーを一度だけ利用したことがあるが、ガタイが大きいこともあって、設備はかなり充実していたという記憶がある。その点、かつらぎ丸は竹芝桟橋と伊豆諸島とを結ぶ東海汽船と同程度か少し格下の船であろう。

小松島方向を望む

 河口は左右に伸びる防波堤で守られている。徳島県人は釣り好きが極めて多いので、こうしたかなり沖まで伸びている防波堤の上にも、竿を出している人の姿がかなりあった。「何とかと煙は高いところにあがりたがり、かんとかと釣り人は先端に行きたがる」という格言はありやなしや。

 河口の先に見えるのは、小松島市の大神子海岸や和田の浦だ。きっと、あの岩場にも磯釣り師が何人もいて、メジナ(こちらではグレ)を狙っているに違いない。

牟岐大島も見える

 船が紀伊水道和歌山港方向に舳先を向けると、牟岐大島の姿が視認できるようになった。こうして、徳島の海を眺めていると、この地であったあまたの出来事、この地で出会った多くの人々のことがいろいろと思い出される。

 今年の晩秋には四国の西半分を回る予定でいる。今度は高知や香川の西側、そして愛媛に立ち入ることになる。その際は瀬戸大橋やしまなみ海道を使うことになることから、徳島に立ち入ることはまず無いだろう。

 ということは、徳島に足を踏み入れるのは今回が最後かも知れない。その蓋然性は相当に高いと思うと、ちょっぴり感傷的にならざるを得ない。

日本の始まり~沼島の南岸線

 行く手の左側、つまり北側に、第80回でも紹介した「沼島(ぬしま)」が見えてきた。先には土生(はぶ)港から島の北側を望んだ姿だったが、今度は島の南側である。こちらには集落はまったくなく、荒波に洗われた海岸線が続いている。

 写真の中央付近には、かすかに上立神岩の姿が見えている。先にも述べたように、この三角錐岩礁が、天沼矛からの最初の一滴によって造られたとされるというお話がある。私は何度か、この近くの岩場で磯釣りを経験した。そして毎回、結構な釣果を得た。これは天の助けではなく、ただの偶然の重なりか、あるいは場所が荒れていないので魚影が濃いという事情であろう。 

 なお、沼島の向こうに見えている山々は淡路島のものである。

和歌山の磯ノ浦が見えてきた

 沼島の姿が遠のくと、今度は和歌山市街の北側の台地が見えてきた。紀伊水道の航海はかなり穏やかだったけれど、和歌山港に近づくにつれ、ますます海は平静を保つようになってきた。

 私はデッキから離れ、早々に車に乗り込んだ。何しろ徳島港への到着が早かったので、車は先頭部近くに置いてある。下船の順番が早いのだ。

和歌山港が近いので車に乗り込む

 右手に見えるシャッターらしきものが開くと下船である。係員にしたがって降りることになるが、私は三番目の順番であった。

扉が開き、いよいよ和歌山に上陸

 扉が開き始めた。私はエンジンに火を入れ、上陸の順番を心待ちにした。

根来寺に向かう途中で「府中」に出会う

和歌山にも府中があった

 最初の目的地は岩出市にある根来寺(ねごろじ)であった。直接に寺へ向かうのであれば国道24号線か、または阪和自動車道(一部は京和奈自動車道)を使えば良いのだが、岩出市に向かう途中に「府中」があると聞いていたため、あえて県道7号線を使って東へ進んだ。

 写真のように、確かに「府中薬品」の看板があった。住所は和歌山市府中である。

紀伊国府は岩出市近くの和歌山市にあった

 その薬局の近くで、県道7号線の北沿いには、写真の府守神社があった。狛犬の前には「紀伊国府跡」の石標が立てられていた。この辺りの発掘により、国衙跡と考えられる遺跡も発見されている。

紀伊府中のパーキングは格安

 神社の近くには「府中パーキング」という名の駐車場があった。連絡先には和歌山市太田とあるが、この住所は駐車場の管理会社の所在地で、駐車場そのものは府中にある。

 さらに言えば、この近くにJR阪和線紀伊駅がある。和歌山駅からは8キロ離れた場所に存在するが、少なくとも、令制国当時は現在の和歌山市街ではなく、この府中辺りが紀伊国の中心地であったことは確かであろう。

 紀伊国の元は「木の国」または「紀の国」であったが、国名は2文字が好字であるとされたため、「木」もしくは「紀」ではなく「紀伊」となったのである。たしかに、木や紀を声に出すと「い」という音を引く。

 ちなみに、我が「武蔵」も本来は「武蔵志」であるはずだが、これも2文字にするために「武蔵」と表記し「志」を削ってしまったのだ。我が府中市が中途半端な存在であるのは「志」を失ってしまったからである。

◎もうひとつの真言宗総本山~根来寺(ねごろじ)

新義真言宗の総本山

  和歌山にある名所(私自身がそう考えている)は概ね訪れていたが、いつも候補に挙げておきながら立ち寄っていない場所がいくつかあった。その代表格がここに取り上げた、岩出市にある根来寺(ねごろじ)だ。

 新義真言宗の総本山というからには古義真言宗があるわけで、それは空海が打ち立てた真言密教である。空海の教えは完璧すぎて、彼の後継者はただその教義の解釈を進めるばかりだった。そのために教義を深化させるための「伝法会」も形骸化してしまった。

 そんな真言宗の低迷状態を打ち破るべく、空海の二百数十年後に登場したのが覚鑁(かくばん、1095~1144)であった。彼は8歳ころには出家を決意し、10歳の時に仁和寺に入り、その後、興福寺東大寺でも修行を積んだ。そして20歳のときに高野山に入った。

 当時は「末法の世」であったことから治安は乱れ、人々は日々の生活に苦しんでいた。それゆえ、誰もが念仏を唱えさえすれば西方浄土に行けるという阿弥陀信仰が広がっていたのである。

 覚鑁空海の教えを広く分かりやすく伝えるために、空海の『菩提心論』にあった「密厳浄土」の考えを阿弥陀信仰を加えた上で新しい解釈をおこなった。空海の三密による即身成仏という困難な教えではなく、一密の行だけで西方浄土に行けるという教えを確立した。

 この三密の回避の教えが高野山の怠け坊主に嫌われ、1140年に覚鑁高野山を追われることになった。彼は鳥羽上皇の病を治したことから上皇の信頼が厚かったため、岩出市(当時は石手荘)に所領を得て、この地の名をとって根来寺を開創したのだった。

本堂(大伝法堂)

 覚鑁にとっては教義の深化が第一だったために高野山では「伝法会」を復活して怠け坊主どもをことごとく論破した。そのために山を追われたのだが、新天地では正々堂々と教義研究をおこなった。そのことで、覚鑁の新しい教えは徐々に力を得るようになり、1288年に高野山から根来寺に移った頼瑜(らいゆ、1226~1304)が、「大伝法院」と「密厳院」をこの地に建て、新義真言宗を確立した。

国宝の大塔(多宝塔)

 根来寺の名はあまり一般的ではないが、「根来衆」と聞くと鉄砲を担いだ僧兵や全国を旅して情報収集する隠密(忍者)をイメージする人は多いのではないか。私は『少年サンデー』や『少年マガジン』で知識を得ていたので、根来衆は秀吉の敵役という位置づけが出来ていた。当時は80%ほどサル的性格に支配されていたので、秀吉贔屓だったから、根来衆は悪役だった。

 その後、サル度が40%程度まで低下してからは秀吉に対する評価は変わり、彼の負の面も認識できるようになった。現在はまたサル度が上昇しているが、秀吉に対する評価は是々非々で行うことができている。サルは300匹以上の群れになると、必ず内部に対立が生じて分裂するというから、私のサル度が上がったとしても、秀吉に対する評価は若いときとは必ずしも一致しないのである。

大師堂

 根来寺には一時、2700ほどの建物があり、数百の塔頭を有するほどの繁栄を極めていた。また、この寺で忘れてはならないのが鉄砲の製造だ。

 1543年、種子島に漂着したジャンク船に同乗していた三人のポルトガル人が鉄砲を有していた。その内の二挺を種子島の当主である時堯(ときたか)が二千両で買い取った。そのうちの一挺を根来衆の行人(僧兵)が無償で譲り受けたのだった。

 戦国時代に根来寺の僧兵がはるか薩摩沖の種子島にいたということは、根来寺が単なる新義真言宗の寺院というだけでなく、戦国大名に匹敵する勢力にまで成長していたということを意味する。何しろ最盛期には70万石以上の領地を有するまでになっていたのである。

 鉄砲を譲り受けた行人の首領であった津田監物(杉之坊)は、根来寺にいた堺の鍛冶屋に命じて、鉄砲づくりをおこなわせた。こうした結果、根来寺、堺、そして秀吉の城があった長浜の国友が、日本の三大鉄砲生産地となったのである。 

覚鑁(かくばん)の御廟へ

 一大宗教都市にまで発展した根来寺であったが、1585年、秀吉の紀州攻めによって焼き討ちにされた。

 これは前年に起きた羽柴秀吉VS織田信雄徳川家康の「小牧・長久手の戦い」の際に、紀州雑賀衆根来衆が後者側に付いて戦った。が、織田や徳川が秀吉とそれぞれ単独講和を結んでしまったために紀州勢は孤立し、翌年、秀吉の攻撃にあって、大塔や大師堂は辛くも戦火を逃れたものの、大半の建築物は焼け落ちてしまったのだった。これを「天正の兵火」というが、このことについては徳島にある霊場を紹介した際にも少しだけ触れている。

覚鑁には興教大師の諡号が贈られている

 覚鑁根来寺に移ってから4年後に、48歳の若さで病死してしまった。その後は頼瑜が覚鑁の教えを教義にまで高め、新義真言宗が確立したということはすでに触れている。

 天正の兵火にあった根来寺の僧は奈良や京都に逃れ、奈良では長谷寺豊山)、京都では智積院(智山)において、それぞれ新義真言宗の流れを継承した。

 江戸時代に入り新義真言宗は徳川家の庇護を受け、とりわけ関東において大いに栄えた。例えば、成田山新勝寺、川崎大師、高尾山薬王院高幡不動土方歳三菩提寺)、竹林寺(31番札所)、土佐国分寺(29番札所)はいずれも智山派の寺院。

 また、豊山派の寺院には、西新井大師、南照山寿徳寺(近藤勇菩提寺)、妙光院(私のガキンチョ時代の遊び場)、石手寺(51番札所)、津照寺(25番札所)などがある。

 なお、京都の智積寺、奈良の長谷寺が、それぞれ智山派、豊山派の総本山である。 

御廟に対面

 江戸時代に入り、覚鑁には「興教大師」の諡号が贈られた。写真にあるように、奥の院には興教大師の御廟がある。残念ながら、高野山奥の院に較べて訪れる人ははるかに少なかった。平安末期から鎌倉初期には多くの著名な祖師が誕生しており、教科書にもよく登場するが、残念ながら覚鑁が取り上げられることは少ない。何しろ、漢字が難しい。

聖天池

 根来寺和泉山脈の南側の斜面の裾野近くにあり、北は150~170m、南は130mほどの山の間に東西に細長く敷地を有しており、境内は標高100mほどの位置ににある。焼失し、再建されなかった建物は無数にあるため、何もない空間に、今ではかえって清々しい雰囲気がある。

 写真の庭園も気持ちが晴れやかになる感覚を抱いてしまうほどにすっきりとした佇まいであった。

いかにも根来衆の拠点といった感じ

 その一方で、写真のように谷を利用して敷地に段差を付けるなど、寺院というより城郭と言ってもおかしくないほどの姿も併せ持っている。

わずかに残る塔頭のひとつ

 数百を数えたと言われる塔頭も今ではほとんど姿を残していない。ただ、この空間に立って往時を偲ぶと、修行に励む僧、一方で武装した行人が行き交う様子が目に浮かんでくる。四百数十年前、この地は70万石を超える領地を有する一大宗教都市(国家)の中心地だったのである。

根来と言えば、現在では根来塗

 根来と聞けば私は根来衆を思い浮かべる(少年漫画の影響)が、アユ釣り仲間で、このブログにも何度か登場しているケンさんは「根来塗」をイメージするらしい。いつか、古座川・小川での釣りの帰りに根来寺に立ち寄り、根来塗の漆器類を見てみたいという希望があるようだが、今のところ実現していない。

 そこで、漆器にはまったく興味も知識もない私だが、ケンさんの代わりに根来塗の品々を見学することにした。根来寺の隣(実際には根来寺の境内だったのだろうが)に、写真の「岩出市民俗資料館」があり、そこには古根来を含めて数々の根来塗の漆器類が展示されている。

 そればかりか、根来塗工房が付設され、週に二回程度、市民が根来塗を体験できる講座まで開かれているそうだ。

かつては鉄砲が有名だった

 この資料館は根来寺にまつわる物品が展示されているので、根来塗だけでなく、先に紹介した鉄砲(種子島)も披露されていた。私にとっては、漆器よりは鉄砲の方に少しだけ関心があったので、まずは、そちらの方に目が行ってしまった。

朱が美しい椀類

 根来塗が盛んになったのは、根来寺が栄えはじめて多くの什器が必要になったためだろうか?素材の木や漆の木は無数にある。なにしろ木の国なのだから。黒漆を作るためには鉄分が必要だが、これもありがたいことに紀伊には砂鉄が多い。古代からたたらで鉄を生産した場所なのだ。また、朱の色を出すためには辰砂(しんしゃ、硫化水銀)が用いられるが、これには丹砂を採掘する必要がある。紀ノ川の上流部には丹生(にゅう)と名の付く川がある。丹(に)は硫化水銀のことなので、おそらく、辰砂は比較的容易に手に入ったに違いない。

 こうして、根来寺の学侶(がくりょ)たちが木地屋が作った素材の上に黒漆を塗り、さらにその上に朱漆を重ね、写真のような素朴だが独特の風合いを有する什器が完成するのである。

 これは資料館にあった記述だが、この色を重ねるには26の工程が必要とのことだ。塗っては磨き、また塗っては磨きという工程を重ねてはじめて、根来塗は完成するのである。

古くなるほど独特の風合いを見せる

 写真は室町時代、つまり根来寺がもっとも栄華を極めていた時代に作られた菜桶である。朱に塗られた場所の一部に、下地の黒が少し現れている。使い込まれ、磨き込まれると徐々に下地が現れてくる。この色合いが、また風雅なのである。

和歌山城に初登城

初めて和歌山城に登城

 和歌山県にはよく出掛けた(今ではアユ釣りで出掛けている)が、いずれも紀南を中心にした磯釣りのためだったことから、紀北にある和歌山市街は通過するだけで、当地に宿泊したのは一回だけだった。しかも、急いで次の場所に移動する必要があったため、和歌山城の姿は遠目に触れただけで、城のある和歌山城公園に立ち寄ることはなかった。それゆえ、城を間近に見るのは今回が初めてだ。

天守閣を見上げる

 公園には天守のある本丸と、その下に控える二ノ丸だけで、三ノ丸があった場所は官庁街になっている。それゆえ、敷地はかつての四分の一ほどだというが、それでも見て歩くには十分の広さがある。なにしろ、敷地内には動物園まであるのだから。

 昔は開かずの扉だった不明門から園内に入って車をとめる。すぐ横に坂道があるのでそれを上ると「お天守茶屋」がある広場に出る。写真は、そこから天守閣を見上げたものだ。

 なかなか美しい天守ではあるが、これは先のアジア太平洋戦争のときに米軍の空襲に遭って焼失したものを1957年に再建したもの。鉄筋コンクリート製だが、往時の姿が再現されているということは言うまでもない。

二ノ丸からの坂

 1585年、紀州攻めによって根来衆雑賀衆(さいかしゅう)を壊滅させた秀吉は、虎伏山と呼ばれていた小山を若山と名付け、藤堂高虎に命じて城を築いた。それまで紀の川下流域は雑賀衆が支配していたのだが、雑賀の名から若山に変わり、さらに和歌山と記されるようになった。和歌に多く読まれるほど風光明媚な場所だったからだろう。

城がある山の名は「虎伏山」(標高48.9m)

 公園内を散策すると、写真の「虎伏」の像があった。城が建てられる前の小山は、このような姿だったのだろうか?

往時の石垣が残る

 城にある多くの建物は戦後に再建されたものなので少し有難味を感じない。が、この城の見所は写真のような「石垣」にある。写真の角度から見ても、手前の石垣と櫓の下の石垣とは様式が異なる。

 戦国時代初期には石垣はほとんどなかったがやがて守りを堅固にするために石垣が組まれるようになった。それを始めたのは信長が築かせた安土城が始まりで、担ったのは穴太衆(あのうしゅう)という石工集団だった。

 穴太は滋賀県大津市にあり、位置としては比叡山の東裾にある。京阪電鉄石山坂本線の停留場(駅とは呼ばないようだ)がある。ただし、停留場は「あのお」と読むらしい。古代には景行、成務、仲哀の三代の天皇が高穴穂宮を設けていたほど由緒のある場所で、『日本書紀』には穴穂と表記されている。

 その穴太衆が、切り出した野面石(とくに加工を施していない自然の石)を積み上げて、和歌山城の石垣を築いた。上の写真でいえば、右手の石垣がそれで、これを野面積みという。

 石は緑色片岩で、中央構造線のすぐ南側の「三波川変成帯」でよく産出される。和歌山城紀の川のすぐ南にある。ちなみに、紀の川中央構造線の大断層帯を流れている。このためのあって近くの山には緑色片岩が多いので、素材は容易に集めることができたであろう。

 ちなみに緑色片岩は変成度がやや低い変成岩で、関東では荒川の長瀞の岩畳、神流川の支流の三波川で採掘される三波石がよく知られている。

 野面積みの部分は苔むしている場所が多いので石の表面の色は分かりづらいが、それでもところどころで、青みがかった石を見ることができる。 

この城の見所は石垣にあり

 もっとも、穴太衆は野面積みだけが得意なわけではなく、石の凹凸部を打ち込んでできるだけ石の間の隙間を狭くした「打ち込み接ぎ(はぎ)」や、石を加工して隙間をなくした「切り込み接ぎ」の技術も、もちろん習得していた。

 和歌山城の大天守や小天守は近代的な鉄筋コンクリート造りであっても、石垣には室町末期から江戸初期の石垣がよく残されている。上記の三種類の石垣を探し歩くのが、この城を楽しむにはもっとも「正しい」鑑賞法ではないかと思った次第である。

天守

 とはいえ、こうして、やや遠めから大天守を眺めてみると、やはり御三家の城としての風格を有していることがよく分かる。

紀州東照宮を訪ねる

紀州東照宮

 風光明媚と言われる和歌の浦を訪れたが、想像とはやや異なる風景だったために深入りはせず、その中心部に位置するとされる「紀州東照宮」を覗いてみた。

 1621年、紀州初代藩主である徳川頼宣(家康の第十子)により東照大権現(家康のこと)を祀るために創建した。

 鳥居には「東照宮」の額があり、敷石には緑色片岩を砕いたものが使われている。参道に石灯篭が立ち並んでいるが、これらは家臣団が寄進したものだそうだ。 

長い侍坂~結構な階段

 突然に長く急な坂が現れた。社殿は雑賀山に置かれているので、写真のような坂(侍坂と名付けられている)を上る必要があった。階段は108段、煩悩の数だけある。段数はともかく、一段一段が高いのがやや厳しい。

楼門

 楼門が見えてきた。かなり凝った装飾が施されている。さすがに「東照宮」を名乗ることだけはある立派な建築物であった。

社殿

 社殿は相当に贅を究めて建造されている。手前には唐門があり、その先に拝殿がある。私はとくに拝むことはないので、この場所から眺めるだけで十分だった。

 本殿には左甚五郎の彫刻や狩野探幽の襖絵などがあるそうだ。こうしたことから、ここは「西の日光」とも称されているとのこと。

和歌の浦を望む

 木々が深くて全体を眺めることができなかったが、東照宮を含め、この一帯を和歌の浦と名付けられている。

 森に隠れているが、右手には雑賀崎があり、一部は漁港になっている。雑賀漁港といえば、最近、遊説に来ていた首相が狙われた場所である。犯人を取り押さえたのは勇気ある漁民だったようだが、もしかしたら、彼は雑賀衆の末裔かもしれない。

 左手には片男波砂嘴が伸びている。かつては美しい風景が広がっていたのだろうが、こうしてみる限り、どこにでもある地方都市の海岸線にしか見えない。

南紀白浜界隈

紀州ミカン

 友人は、横浜を夜中に出て車を走らせ、どこかで仮眠をとってから南紀白浜までやってきて、そこで合流することになっていた。横浜から白浜に来るには大阪から南下して阪和自動車道を使えば、一般道に降りることなく白浜近くまで来られるのだが、紀伊半島の海岸線を走って見たいという願望があるため、三重方向から半島を時計回りでやってくるとのことだった。

 大学や大学院時代には相当に時間にルーズな男であったが、社会人になってからは一般常識が多少なりとも身に付いたようで、待ち合わせをしてもほとんど時間通りに来るようになった。反帝国主義の考え方は一貫しているが、定刻主義者に変貌したことは誉めてあげて良いと思っている。

 それはともかく、串本周りだと700キロ以上も走ることになるし、しかも途中からは自動車専用道ではなく一般道を走って海岸の風景に触れたいと言っていたので、到着時間は読めなかった。最悪、宿泊する白浜の旅館の名を知らせてあったので、そこで合流すれば良いと考えていたので、こちらものんびりと一般道を南下して、久し振りに紀北から紀中の海岸線を進むことにしていた。

 紀州は日本一のミカンの山地で、しかも、私がいる場所は有田(ありだ)だったので、ミカン畑を眺めながらのんびりと車を進めていた。

 道路沿いには実をたっぷりと実らせているミカンの木が無数にあった。しかも、道路沿いのものは敷地からはみ出ているものも多いし、道の上にはたくさんの美味しそうなミカンが落ちていた。

 ミカンを採って、あるいは拾って食べたいという誘惑に何度となく駆られたが、私も老人になって少しは常識と自制心が身に付いたので、悪魔の囁きを拒絶することができた。だが、木に実っているものはともかく、道に落ちているものは「無主物」と考えらえるので、拾って食べても良いと思えるのだが。

 そんなときに友人から電話があり、「今、白浜に着いた」との知らせ。私がいる場所から白浜までは一時間近く掛かりそうだと告げ、私はミカン畑を去って白浜に向かった。

 本当は印南から南部(みなべ)の海岸線を走りたかったのだけれど、早めに白浜に向かうには紀勢自動車道を使うしかなかった。

三段壁

 友人とは白浜で合流し、まずは断崖絶壁のある「三段壁」に出掛けた。三段とあっても実際に三段になっている訳ではなく、高台から海や魚の様子を見るのに絶好の場所だったことから「見段(みだん)」と漁師たちが呼び、その「見」が「三」と書かれるようになっていつしか「三段壁」となったそうだ。

 この辺りの地層は新第三紀時代(2303万~258万年前)に形成され、田辺層群と呼ばれている。この田辺層群は下位の朝来層と上位の白浜層から成り立っている。白浜層といっても厚さは600~700mもあり、基本的には粗粒砕屑(さいせつ)物が堆積してできたもので、砂岩が多く、その他泥岩、礫岩、角礫岩など浅海性堆積物から構成されている。

海食台

 この海食台は高さが50m以上もある場所が多いので、かつては「自殺の名所」だったらしい。

 足下には海食洞があり、熊野水軍の船の隠し場所として利用されていたとのこと。その洞窟にはエレベーターで行けるらしいが、私はまだ行ったことがないし、今回も行かなかった。なお、その洞窟内には「牟婁(むろ)大辯才天」があるとのこと。

千畳敷

 一方、三段壁のすぐ北側は「千畳敷」と呼ばれる低い岩場が広がっている。ここも三段壁と地質は同じだが、形状が異なるところが興味深い。おそらく、かつては入り江になっており、それが隆起して現在のような姿になったのだろう。表面が比較的平らなのは浅海にあったころに波によって上部が削られたからだろう。これを波食台という。

地層がくっきり

 千畳敷では海岸近くまで降りることができるので、写真のような白浜層の地層を見ることができる。砂岩層が主で、砂岩と泥岩との互層の部分では泥岩層が削られて隙間が出来ている。

 こうした地層を眺めるのはとても楽しいことだが、似たような地層は三浦半島の城ケ島でよく目にしているので、見飽きることはないにせよ、格別に珍しいものを見たという思いは少ない。

円月島

 白良浜の近くに、写真の円月島がある。本来は「高嶋」というそうだが、中央に丸い穴が開いているのが興趣を誘う。が、この海食洞も城ケ島にある(馬の背洞門)ため、同様の姿はしばしば目にしている。

 この近くには岩礁が多いので、10数年前には何度かこの周辺の岩場でクロダイメジナを狙った磯釣りを地元の名人としたことがある。そんなときは、陸からではなく、沖から円月島を眺めながら竿を出したのだった。

◎奇絶峡

大小の岩がゴロゴロ

 奇絶峡は右会津川の中流域にある渓谷で、田辺市街からもそう遠くない場所にある。一度、龍神温泉に向かう途中で通過し、さほど広くない渓谷にもかかわらず、河原には大きな石がゴロゴロ転がっている様子が少しだけ気になる存在だった。そこで、白浜温泉に宿泊した翌日に友人と共に向かってみることにした。

 気絶するほど見事な渓谷という訳ではなかったが、形の変わった大石が点在している様子は見るべき価値はあると思った。

不動の滝

 この渓谷でよく知られているのは、写真の「不動の滝」。滝見橋と名付けられた赤い橋を渡って左岸に行くと滝が見えた。規模はさほど大きくはないが、やはり滝のある風景は興味深い。

 この滝の上に行くと、一枚岩の表面に「磨崖三尊大石仏」が刻まれていると記されてあったが、坂道がやや滑りやすそうだったこともあってそこまでは見物に行かなかった。本当は、ただの怠け癖が出ただけであったが。

◎第三の故郷~古座川界隈

鯛島

 この日は、古座川の支流の小川(こがわ)にある民宿「やまびこ」に泊まる(2泊)予定だった。この民宿や小川については本ブログではすでに紹介済みで、私はこの2年間ですでに7回も宿泊していた。本項の冒頭の写真は、その宿のテラスから小川が目覚める様子を撮影したものだ。毎回、この姿に触れ、そのあとヤマガラと少し遊び、それからアユ釣りに出発するというのが、毎朝の儀式になっていた。もっとも、今回は釣りはシーズンが終了しているので竿は出さず、友人にこの小川の魅力を体感させるためにやってきたのである。

 彼自身、釣りはまったくしないが、この「何もない風景」にはすっかり魅入られたようで、23年のアユ釣りシーズン(6月から10月)にもこの景色の中に自分の身を置くためだけのために、横浜からやってくるそうである。

 という訳で、私たちは私の先導で車を連ねて「紀勢自動車道」それから国道42号線を南下して串本町に向かった。途中、「橋杭岩」(これも本ブログではお馴染み)で小休止したのち、引き続きR42を進んで、古座川河口右岸に向かった。

 写真は、古座川の河口近くに浮かんでいる「鯛島」である。この島が見えれば古座川は近い。この島がタイに見えるかどうかは各人によって異なるだろうが、一般にはこうした形の魚はタイをイメージするはずで、私のような磯釣り師にはタイよりもメジナに見えてしまう。ただ、「目仁奈島」では一般に人には意味不明だろうから、やはり「鯛島」が無難かも。

古座川右岸河口にて

 私たちが向かったのは「古座大橋駐車場」で、古座川河口右岸にある駐車場兼小公園である。それだけならわざわざ訪ねる意味はないが、ここには「第五福龍丸建造の地」という記念碑があるのだ。

 1947年、第5福龍丸の前身である「第七事代(ことしろ)丸」はカツオ漁船として串本町で建造された。その後、焼津港でマグロ漁船に改造され、名前は「第五福龍丸」と改称された。

ここで第五福龍丸が建造された 

 この船を全世界に知らしめたのは、54年に行われたアメリカによるマーシャル諸島ビキニ環礁での水爆実験であった。この近くで操業していたこの船では乗員23人全員が被ばくし、そのうちの一人は半年後に亡くなった。日本では、広島、長崎についで3度目の核による被害を受けたのである。

 数々の調査や補修がおこなわれたのち、56~67年までは東京水産大学(現在の東京海洋大学)の練習船はやぶさ丸」となり、引退後は夢の島に廃棄された。

 その後、反原水爆運動の象徴としてこの船の保存運動が展開され、2000年に夢の島公園に「第五福竜丸展示館」が設置され、被ばくによる被害の現実を多角的に紹介・展示している。 

古座川と言えば一枚岩

 古座川に出掛けても今回は釣りをするわけではないけれど、やはり古座川の象徴である「一枚岩」に対面しなければならない。

 友人も、私やケンさん同様、駐車場からその姿を見た際には、大きな岩だとは思ってもさほどの感動は生まないようだが、一旦、河原に降りてその姿を見上げてみると、その大きさには圧倒されていた。

◎谷瀬の吊り橋~恐ろしい!

谷瀬の吊り橋

 古座川・小川の「やまびこ」では2泊した。到着した日は小川の上流に向かい、私とケンさんが良く竿を出している場所を数か所、訪ね歩いた。彼は何度か、アユ釣りに同行しているのだが、小川と他の川との違いはすぐに認識できたようで、その自然の豊かさに驚嘆していた。

 もちろん、ヤマガラとの戯れも体験し、かつ、宿の眼の前にある大きな岩盤のポットホールが赤く染まっていることに興味を示し、来年(つまり今年)は顕微鏡を持参して、赤く染めている物質の正体を暴くことを決意したようだ。

 彼には釣りの才能は皆無なので、釣りの中でも最も難しいとされるアユの友釣りを体験する気はまったくないけれども、小川の素晴らしさには”ぞっこん”だったようで、早ければ6月の釣行に同行すると言い出している。

 残念ながら二日目は大雨でほとんど宿に籠り切り状態になったけれど、宿の子供と遊んだり、刻々と変化する川の状況をつぶさに観察したりしながら、豊かな時間を過ごしていた。

 まったくもって、この川に接していると、時間は「物理的」な存在ではなく「主観的」な存在であることがよく認識できる。

 こうして、和歌山での優雅な時間を過ごした私たちは、次の宿泊地である奈良県天川村に向かったのであった。

対岸の集落への道

 国道42号線を北上して新宮市に向かい、そこから国道168号線に移動し、熊野川、そして十津川沿いを北方向に進んだ。

 途中にも素敵な景観は数多くあったが、やはり、ここで紹介したいのは、先ごろまでは「日本一長い歩道吊り橋」として知られていた「谷瀬(たにぜ)の吊り橋」である。

よくぞ造った

 橋ができる以前は、一旦、十津川まで降りて川に架けられた丸木橋を渡り、また山道を登って対岸に出るという行程を強いられていた。が、十津川は増水しやすい川なので、丸木橋はしばしば流失した。

 そのため、住民たちは橋を架けることを決意し、費用の8割を住民が負担して1954年に吊り橋が完成した。長さは297.7m、高さは54m、幅は2m。ただし、ほとんどの場所では中央部に板が置かれているだけなので、実質は80センチの幅しかない。しかも橋はワイヤーで吊ってあるだけなので大きく揺れる。 

怖いもの知らず

 南側、つまり私が写真を撮っている側の字名は上野地で、対岸が谷瀬。現在ではこの間には村道が出来ていて、川には谷瀬橋が架けられているので、車での移動は容易におこなえる。したがって、この橋を利用するのはほぼ観光客に限られているようだ。

 見学していると、平気の平左で渡る人もいれば、おっかなびっくり渡る人も、途中で断念する人などいろいろといて、見ているだけで面白い。

臆病者

 高所恐怖症の私もチャレンジしたが、10mほどで引き返した。一方、友人は写真のように5mほどで足がすくんだようで、すぐに引き返してきた。ということは、私の方が2倍だけ勇気があることになる。と言いたいところだが、お互い、単なる臆病者なだけなのだ。

天河神社浅見光彦に教えてもらった場所

天河神社の鳥居

 この日の宿泊は天川村の旅館。料金はそれなりに掛かったが、宿の人は極めて親切で、かつ、料理は地のものがほとんどであり、ここでしか食べることができないものが多かった。また出掛けたいところだが、実際には、今までも何度か予約しようと思っていたがいつも満室で、泊まることができたのは今回が初めてだった。

能舞台

 天川村を宿泊地に選んだのは、写真に挙げた「天河神社」に立ち寄りたいためであった。その天河神社の存在を知ったのは、内田康夫の『天河伝説殺人事件』が読んでからだった。もちろん、内田康夫といえば「浅見光彦シリーズ」が有名で、件の作品は第23弾で、そのシリーズの中ではかなりの長編になっている。

 ちなみに、内田康夫浅見光彦シリーズは100巻以上あるが、私はそのすべてを読んでいる。また、テレビドラマになったものもほぼ100%見ている。著名な観光地が舞台となっている作品は内田以外にも無数にある(例えば西村京太郎)が、内田康夫はその中でもきちんと下調べしているほうなので、観光ガイドを読むよりは数段、役に立つ。

 という理由で、いつかは天河神社へという願いがあったが、宿泊先の確保が難しかったため、やっと今になって実現した。

芸能の神に祈る

 天河神社の正式名は「大峯本宮天河大辯財天社」と言い、日本の三大霊場とされる高野、吉野、熊野を結んだ三角形の中心に位置する。

 開祖は役小角役行者)とされ、大峯蔵王大権現に先立って勧請され、弥山の鎮守として祀られたのが天河大辯財天であった。空海も、高野山の開山に先立ってこの地で修行を重ねたそうだ。

 桃山時代から江戸初期にかけての能面や能装束が多く保存され、現在では芸能の守り本尊としてよく知られている。毎年、例大祭のときに能楽狂言の奉納がおこなわれている。したがって、浅見光彦シリーズでも、能が中心テーマになっている。

 ところで、弁財天は「水の神」でもある。国道168号線から天河神社に向かうため、県道53号線を東に進んだのだが、この道沿いには「天の川」という清流が流れていた。途中には鮎のオトリを売る店もあった。渓相は小川の上流に似ていた。水の透明度も相当に高かった。

 弁財天は、新しいアユ釣り場を紹介するために、天河神社へ私を呼び寄せたのかも知れない、と考えてしまった。いや、確実に!

 

〔87〕よれよれ西国旅(7)山中の寺から鳴門スカイライン、そして最後は鮎喰川

 太龍寺~二十一番札所・またまたロープウェイに乗る

西日本最長のロープウェイに乗る

 太龍寺高野山奥の院と建物の配置がよく似ていることから「西の高野」と呼ばれているそうだ。本堂は標高500mのところにあり麓との比高は450mほどあるため「遍路転がし」のひとつと言われている。「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」という言葉があるように、阿波国では三番目に厳しい道程となる。

 現在はロープウェイが運行されているので私のような怠け者でも十分に見物に出掛けることができる。

 ロープウェイの長さは2775mで、これは西日本では最長だとのことだ。また、川を越え、尾根を越えて進んでいくというかなり珍しい造りになっている。

遍路転がしも楽々クリアー

 写真のように、かなり大きな乗り物で定員は101人。なかなか乗りごたえのある箱なのだが、床の一部がグレーチング(鋼材を格子状にしたもの)になっているので真下を見下ろすこともできる~恐ろしい。

ニホンオオカミの像が見える。立入禁止のはずだけれど……

 途中で、20世紀初頭に絶滅したと言われるニホンオオカミのブロンズ像が並んでいる岩山が見えた。ここは立ち入り禁止の措置が取られているそうだが、女性が上っていてこちらに手を振っていた。

ロープウェイ駅近くの階段

 道の駅・鷲の里にある山麓駅の標高は53m、山頂駅は475mのところにある。写真の階段を上がっていくと、いきなり本堂に出会う。

 本来の遍路道に仁王門があるのだが、道と駅とはほぼ反対の位置にあるためこのようになるのは致し方ないことだ。これは、本ブログの第82回で紹介した「八栗寺」でもほぼ同様の経験をしている。

本堂が見えてきた

 空海は19歳の頃、現在、「南舎心ヶ嶽」と呼ばれている岩場で100日間の「虚空蔵求聞持法」を修行した。

 のちに桓武天皇の勅願により793年に阿波の国司が堂塔を建て、空海が本尊の虚空蔵菩薩を彫像して開創した。それにより、本寺は「舎心山常住院太龍寺」を号することとなった。太龍寺の名は、空海が修行中に龍神が守護したことに由来する。

 「天正の兵火」で伽藍の大半は焼失したが、江戸時代に復興され、本堂と1852年に再建された。

駅から一番近い場所にある本堂

 ロープウェイ駅から本堂までの階段は108段ある。もちろん、これは人間の煩悩の数に由来する。もっとも私の煩悩は無数にあるので、麓駅から階段を造ってもまだ足りないかもしれない。

多宝塔

 写真の多宝塔は本堂よりもやや高い標高508mのところにあるが、それ以外の建物は先に触れたように概ね、500m付近のところにある。

大師堂

 ロープウェイは1992年に営業を開始した。それまでは中腹まで車で上がれる細い道があり、駐車場から徒歩30分(距離は1キロほどだが相当な急坂)で境内に到達できたそうだ。が、現在の私だったら絶対に無理であり、30数年前でも断念していたかも。そう、私がこの寺を最初に訪れたのは、ロープウェイが開通したという「吉報」を入手してからのことだったのだ。

 こうして、立派な大師堂を目の当たりにしても、拝むことも祈ることもせず、ただただ写真を撮るばかりの私には、30分の急坂登りは(下りもだが)、八十八か所を制覇してみようという軽い思いよりも、遥かに重く厳しい壁だったはずである。

鮎の友釣りでよく知られる那賀川

 ロープウェイの麓駅は那賀川のすぐほとりにある。川はこの辺りでは激しく蛇行しており、その変化に富んだ川筋は、鮎の友釣りには格好のポイントが数多くあるように思われた。

 そんな川の姿を目の当たりにすると、ロープウェイを何のために利用したのか、すっかり忘れてしまっていた。

鶴林寺~通称「お鶴さん」・二十番札所

山門

 太龍寺から鶴林寺までは直線距離にして3.8キロ。ただし、一旦、その間にある勝浦川の河原まで降りなければならない。その河原の標高は19m。そして標高486mのところに位置する鶴林寺境内まで上がる必要があるため、実際には6.7キロの道程になる。

 もっとも、これは逆打ちを想定してのことで、歩き遍路の大半の人は順打ちで回ることを考慮すると、十九番札所の立江寺からの道程を考えなければならない。

 立江寺については後に触れるが、小松島市の低地にあるこの寺の標高は何と2m以下だ。そして鶴林寺の標高は486mなので、比高は484mで、かつ歩く距離は13.1キロとなる。この点が、「二にお鶴、三に太龍」と言われる所以である。

 ただし、鶴林寺から太龍寺までの距離は6.7キロとはいえ、486mから19mまで下り、そして比高481m(標高500mなので)を上ることを考えると、太龍寺までのほうが厳しいように思われるのだが。

 これはあくまでも歩き遍路など考えただけで疲れてしまう、ただの怠け者の想像に過ぎず、長年、「お鶴」の方が遍路転がしの上位にあると言い伝えられてきたのだから、実践者の感覚の方が正しいのだろう。 

本堂

 前回、平等寺を紹介した際に「歩き遍路」に取りつかれた若者(現在はすっかりオジサンになっているだろうが)の話をしたが、彼がもっとも気に入っている霊場がこの鶴林寺とのことだった。彼も、また多くのお遍路さんも、この寺を「お鶴さん」と、愛情と思い入れを込めてそう呼んでいる。

 車でも最後はかなりの急坂で、しかも車がすれ違うのが困難なほどの隘路だが、歩き遍路の場合では最後の一時間が相当に厳しいらしく、それだけに二羽の鶴に出会ったときの喜びと達成感は、他では絶対に経験することができないそうである。

 ちなみに、太龍寺の境内からは鶴林寺の三重塔が見えるそうだ。あいにく、この日は空気がやや霞んでいたために視認できなかった。二十一番に出掛けても、二十番での体験がまだ心から離れ切らないため、多くの人が鶴林寺のある山の方に目を向けるとのことである。

 信仰心のない私が思うに、それも煩悩のひとつなのではないだろうか。 

本堂と三重塔

 鶴林寺は798年、桓武天皇の勅願により、空海が本尊である地蔵菩薩を彫像して開基した。

 言い伝えによれば、空海がこの地で修行をしたとき、2羽の白鶴が翼を広げて小さな黄金の地蔵を守護しているのを見た。そこで空海は霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩を彫り、その胎内に鶴が守っていた黄金の地蔵を納めたとのこと。

 なお、ここは「霊鷲山宝珠院鶴林寺」と号しているが、この霊鷲山(りょうじゅさん)とは釈迦が説法をおこなった霊鷲山に、鶴林寺のある山の姿がよく似ているからとのことらしい。  

名は体を表す

 本堂の左右には二羽の鶴が居て、中に納められている本尊を守護している。左手の鶴は羽を閉じ、右手の鶴は羽を広げている。他の霊場では見られない光景であり、このことも”お鶴さんファン”が多い理由なのかもしれない。

 なお、境内を見て歩くと、いたる場所に鶴が鎮座している。例えば、仁王門にも運慶作と伝えられる金剛力士像と並んで鶴が睨みをきかせている。

ここにも鶴が!

 本堂の彫刻にも、写真のように羽を広げている鶴の姿がある。

大師堂兼納経所

大師堂の左手には「桓武天皇勅願寺」の札が掲げられているが、ここが大師堂だ。ただし、案内の「小坊主」は「納経所」という札を手にしている。一部が納経所に利用されているからである。

焼山寺~十二番札所・”遍路転がし”と言えばこの寺!

ここまでくれば道は平坦

 歩き遍路にとって最初にして最大の難所が十二番札所の「焼山寺」(しょうさんじ)で ある。このことについてはすでに本ブログの第81回で触れている。始めの方に最大の難所があるというのは決して悪いことではない。半分以上すぎてから挫折するよりは、スタートして3日目に壁に突き当たって断念する方が後々まで引きずるものが少なくて済むように思える。

 月に向かって突き進んでいたロケットが、今一歩のところで月面着陸に失敗するより、打ち上げたロケットが二段目に着火せず、哀れにも数分で「打ち上げ失敗です」となった方が、がっかり度は小さくて済むだろう。「STAP細胞はあります!」と呑気に語った小保方元博士のように。

 もっとも、普通の科学者や技術者はそうは考えないだろうが、人生は良き結果が出る可能性は極めて少なく、さらに言えば、良きことと思ったことが後で間違いであったと思うことが往々にしてある。人生はしょせん、「無常無我」なのだから。

 という訳で、私は歩き遍路など初めから想定せず、車で「焼山寺」に向かった。途中からは相当の隘路が続くので、足腰の疲れはほとんどないが、その代わりに神経は結構、消耗する。ガードレールがない場所が多くあるため、気が緩むと、哀れ崖下に転落などという事態にならないとも限らないのだ。

参道沿いにも見所あり

 駐車場は標高676m地点にある。そこから境内までは、極めて緩い上り道が500mほど続いている。歩き遍路の人のための「焼山寺みち」も駐車場近くに出るので、この参道を歩くのは、歩き、自転車、バイク、自動車で来た人、いずれも皆、一緒になる。ただし、歩き遍路の人たちには彼ら彼女らが有する共通の連帯感があるように思われる。

石垣の間の不動様

 この500mの参道の脇には十数もの石仏が置かれている。これらを見ながら進んでいくと、今度はどんな像に会えるのかな?という淡い期待感を抱くようになってくる。車遍路の人は単に興味を抱くだけだろうが、歩き遍路の人には心身の疲れを癒してくれる効果があるのかも知れない。

寄進された弥勒菩薩

 写真の弥勒菩薩像のようにかなり最近に寄進されたと思われるものもある。

崖上にも像がある

 写真の「摩崖仏」もかなり新しめである。

参道にはこんな像も

 仏像だけでなく、動物の像もいくつかあった。この可愛らしい?お猿さんは、いくばくかの寄進を受けていた。 

山門が見えてきた

 このように、参道を進んでいくと、右手に階段が現れ、その先に山門がある。階段は70段ほどなので、私のような怠け者にもさほど苦にならない。

歩き遍路の皆様、お疲れ様

 かなりくたびれた山門(仁王門)には金剛力士像が安置されている。が、これも山門同様、やや色あせたものであった。

意外に広い境内

 山門をくぐると、また30数段の階段があり、その上にいろいろな堂宇がほぼ横一列に並んでいる。

 また、境内には樹齢が500年を超えた大きな杉がかなりの数(100本以上とも)、立ち並んでいるのが特徴的だ。

本堂

 この寺の「正式名称」は「摩蘆(まろ)山正寿院焼山寺」という。開山は701~704年頃と言われ、役行者役小角)が蔵王権現を祀ったのが始まりとされている。

 開創は815年。空海が村人を苦しめる大蛇を退治するために山に入ったが、大蛇は全山に火を放って抵抗した。そこで空海は摩蘆(水輪のこと)の印を結びながら進むと、大蛇は岩に籠った。そこで空海虚空蔵菩薩に祈願し、大蛇を岩に封じ込めることに成功した。

 現在でも「大蛇封じ込めの岩」が「名所」として残っている。また、奥の院には「蔵王大権現」を祀った祠もあるとのこと。どちらも山の頂上付近にあるため、私はそこまで行ったことはない。

 本尊は虚空蔵菩薩坐像であるが、秘仏のために非公開となっており、その代わりに前立本尊を拝顔することができるそうだ。私の場合は拝まないのでその姿を見たことはない。

大師堂

 本堂の左側には大黒天堂があり、右側には写真の大師堂がある。ここでも前立大師像を拝顔することになっている。 

歩きの人も車の人も皆、読経

 この寺までたどり着くのは車ですら結構な距離があるため、物見遊山で訪れるのは私ぐらいのようだ。他の人々はたどり着く手段は異なっても、皆、般若心経を読経し、さらに納経帳に記帳してもらっている。

建物は横一列

 奥の院を別にすれば、堂宇は写真のように横一列に並んでいるため、参拝儀式そのものは手軽に済みそうだ。

 ここで出会ったオッサンは、わざわざ徳島市内でハイヤーを調達して大坂方面からやってきたと話をしてくれた。いかにも懐具合が暖かそうな中小企業の社長といった風体だった。彼は時間を見て二泊三日から三泊四日程度の予定で、霊場巡りを始めたそうだ。ハイヤーはいずれも徳島市の個人経営のもので、ハイヤー料金だけでなく、運転手の宿泊代も負担しているそうだ(考えてみればあたりまえだが)。

 実は、彼とは翌日、後述する恩山寺でも出会った。実は、焼山寺に納経帳を置き忘れたため、次の日の朝早くにハイヤーを飛ばしてこの寺に取りに戻り、それから大日寺常楽寺国分寺、観音寺、井戸寺と急ぎ足(神風ハイヤー)で巡り、私とは偶然に十八番の恩山寺で再会したという次第だった。

 もっとも、十三番から十七番までは意外に近い場所に点在しているため、こちらの方はそれほど多くの時間を必要としない。それよりも、あの隘路を続けて二日も走らなければならなかった運転手が可哀そうに思えた。実際、その社長?が参拝しているときにハイヤーの運ちゃんと立ち話をしたのだが、「本当に朝早くから大変でしたよ」と、やや呆れ顔で顛末を語ってくれた。

 斯くの如く、焼山寺は「遍路転がし」な存在なのである。

どちらに進むにせよ下り道です

 順打ちならば次は十三番の大日寺。写真の石標にあるように距離こそ22.7キロもあるが、標高は35mのところに存在するので、ただひたすら下ってくるだけである。

 逆打ちでは十一番の藤井寺だが、この寺についてはすでに触れている。

あの人の名は佐村河内守

 十一番の藤井寺から十二番の焼山寺へ車で行く場合、藤井寺がある吉野川市から直接、山越えして焼山寺へ行くことができないわけではない。が、道が相当に荒れているため、一般的には国道318号線を東に進んで石井町まで行き、それから南下して鮎喰川を越え、国道439号線に出る。この通称、ヨサクは日本の三ケタ国道ではもっとも人気が高い道だが、この辺りではただの田舎の国道にすぎないので、さほどの感動は覚えず、ただひたすら神山町を目指して西進する。それはともかくとして、焼山寺がある神山町に行くためには、佐那河内村を通過することになる。

 かつては、さほど不思議な村名とは思わなかったが、聴覚障害をもった作曲家が一躍、世間に知られることになってから、「どこかで聞いたことのある名前だな?」と、私はしばし考え込んでしまった。それが、写真の佐那河内村だと気づいたのは、何度目かの焼山寺巡りのときだった。

 以来、佐村河内守の名前が週刊誌やワイドショーを賑わす度に、私は焼山寺を思い起こすことになった。

 焼山寺は「遍路転がし」として知られ、佐村河内はゴーストライター騒動と聴覚障害が軽度であったことが判明したことで人気作曲家の座から転がり落ちてしまった。

 いずれにせよ、佐那河内村とはまったく関係のないことではあるが。ただ、村役場が新品のものに変身していたことに少々、驚かされた。 

立江寺~十九番札所

山門

 小松島市にある立江寺は747年、聖武天皇の勅願によって行基が開基した。光明皇后の安産の念持仏として行基は一寸八分の延命地蔵尊を作り、併せて伽藍を整備した。

 815年、空海は一寸八分の小さな像では紛失してしまう恐れがあるとして自ら6尺の大像を掘り、胎内に行基の造った像を収めた。

本堂

 かなり由緒のある寺にもかかわらず、敷地はさほど広くない。これは16世紀後半の「天正の兵火」で伽藍が焼け落ちたため、今の場所に再建されたからだと言われている。かつてはもう少し山側に近い場所にあったそうだが、現在は標高がわずか2m以下の低地に再建されている。

大師堂

 大師堂には「黒衣大師像」が収められているが毎年、元日から10日までの間は開帳されるので、その姿を拝顔することができるとのことだ。

 当初はこの寺を訪れるつもりはなかったのだが、下に挙げる恩山寺と間違ってたどり着いてしまったため、折角の御縁ということで見物したという次第だった。

恩山寺~十八番札所

駐車場のすぐ横に建つ修行大師像

 この恩山寺が、今回の霊場巡りの掉尾を飾る予定だった。が、実際には下に触れる常楽寺が最後になったであるが。

 この寺と上に挙げた立江寺とはわずか4キロしか離れていない。にもかかわらず、立江寺は周りが開けた低地にあり、一方の恩山寺は山裾の風致地区に存在するため、全体の雰囲気はまったく異なる。この理由はすでに触れているように、立江寺が山裾から低地に移動したからである。

 写真のかなり大きな修行大師像は駐車スペースの脇に建っている。この地の標高は48mである。

境内へ上がる階段

 駐車場からは結構急な道があり、さらに写真にある階段を上ると堂宇が並ぶ場所にたどり着く。

 恩山寺の正式名称は「母養山宝樹院恩山寺」という。聖武天皇の勅願により行基薬師如来像を彫像して開基した当初はまったく異なる名称で呼ばれていた。

 814年、空海がここで修行していたおり、母(玉依御前)が善通寺からこの地にやってきた。しかし、ここは女人禁制の地であったために面会は叶わなかった。そこで空海は山門近くにある滝に打たれながら女人解禁の祈願を行い(7日という説と17日という説がある)それを成就したことによって、母を迎い入れることが叶った。

大師の御母公(玉依御前)ゆかりの地

 母の玉依御前はここで出家して剃髪し、その髪を奉納した。それにより、この寺は玉依御前剃髪所とも呼ばれている。写真の石柱に「弘法大師御母公玉依御前ゆかりのお寺」と刻んであるのは、こうした事情があったからだそうだ。

 そればかりか、空海山号を改め、「母養山」としたのであった。 

大師堂と御母公堂が並んでいる

 境内には大師堂と御母公剃髪所が並んで建っている。この場所の標高は67mだ。

大師堂

 本堂はさらに7m上の標高74mのところにある。この寺では本堂よりも空海の母想いが強く印象付けられたため、敬意を表して大師堂のアップを載せてみた。

 もちろん、空海の思いは母に向かっただけでなく、「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」ということにあったことは言うまでもない。

 一通り見物が終わったので駐車場に戻ったところ、先に挙げたハイヤーの運ちゃんと出会ったのだった。そして社長が納経帳を焼山寺に忘れたために朝早く、またあの狭い道を往復したという話を聞いたのだった。ついでに世間話を少しばかりしていたところ、お参りと記帳を終えた社長が山から下りてきた。

 奇遇としか言いようがない。社長が納経帳を忘れなければ、私が間違って立江寺に行かなければ、そのどちらかが発生していなければ、二人は再開することはなかった。

 人生は偶然に満ち満ちている。どんな出会いが生まれるかはまったく予想がつかないし、起こった結果をもはや消し去ることはできない。こんな出来事は、どんなにAIが進歩しようとも、チャットGPTが学習を重ねようと、生み出すことはできない。99.9パーセント可能性を予測できたとしても、偶然の出会いがあったというその事実は100%であり、かつ一回限りなのだから。

◎小鳴門海峡と鳴門スカイライン

泊漁港の赤灯台

 四国最後の日はよく晴れ渡ってくれたので、当初は淡路島の次に行く予定だった「鳴門スカイライン」と「小鳴門海峡」に出掛けることができた。大雨のお陰によって「大塚国際美術館」に立ち寄ることになり、「エデンの園」という作品に奇跡的に出会うことができた。そして、晴れてくれたことで、高台からの展望やもうひとつの海峡見物が実現できた。

 その意味で、大雨も晴天も、今回の私の旅にとっては「良い天気」だった。物事の良し悪しは後になってからでしか判断できない。つまり、私たちはすべて過去について評価を下しているのである。それは現在についても同じで、たった今がどうであるかは、今が過ぎたときに「どうであったか」の評定がなされるのである。

 という訳で、私はまず、小鳴門海峡の北の出入口に向かった。四国本体の北東端にあるのが写真の北泊漁港で、向かいに見えるのは島田島の西端である。

鳴門海峡の北玄関

 北泊集落と向かいの島田島との間は、もっとも狭い場所では100mほどしかない。ここに鳴門海峡の枝流が流れ込んで(流れ出て)行くために、潮流の速さは「鳴門の渦潮」にひけをとらないのだ。

 写真から分かるとおり、潮の流れはしっかりと「小鳴門の渦潮」を形成している。

小鳴門新橋上から北泊集落を望む

 今度は鳴門スカイラインの「小鳴門新橋」(四国本体と島田島とを結ぶ)から北方向を眺めてみた。左手に見えるのが北泊集落。島田島との間には、はっきりとした潮流が入り込んできている様子が見て取れる。

鳴門海峡の渦潮

 今度は橋の南側を俯瞰した。この橋が架けられている場所が小鳴門海峡では一番狭い場所なので、狭い場所からやや開けた場所に激流が走っていることが見て取れる。

渦がはっきりくっきり

 ときには、写真のように「小鳴門の渦潮」が海底から湧き出ていると思えるほどの勢いで大きな泡が形成される。こんな自然の偉大な営みに触れたいがために、私は小鳴門海峡見物によく出掛けて来たものだった。

展望台

 写真は、新橋の西詰付近から南東方向を眺めたものだ。ここで小鳴門海峡は一旦、湖のように大きな広がりをもち、潮の流れも緩くなる。海上に浮かんでいるのは釣り用の筏(いかだ)で、この上に乗って(船で渡してもらう。もちろん有料)、大型のクロダイ(この地方ではチヌと呼ぶ)を狙うのだ。

 この湖状の広がりは、四国本土と島田島、大毛島との間にある。一時、安らいだ潮の流れは、やがて大毛島と四国本土との間を通って、紀伊水道(もしくは瀬戸内海)に抜けて行く。

 つまり、大鳴門橋は淡路島と四国本土を結んでいる訳ではなく、淡路島と大毛島とをつないでいるのだ。

 ちなみに、大塚国際美術館は大毛島にある。もっとも住所は鳴門市鳴門町ではあるが。

◎亀浦観光港~観潮船の発着所

格好の釣り場

 鳴門スカイラインの堀越橋を渡り、島田島から大毛島に移動した。そのまま東に進めば第80回で紹介した「渦の道・展望室」のある岬に出るし、三叉路の先にある丁字路を右折すれば大塚国際美術館前に出る。

 私は丁字路の手前にある三叉路を左折して写真の「亀浦観光港」に向かった。この港は、やはり第80回で紹介した「うずしお観潮船」の発着所になっている。もっとも港に向かったのは、私は観潮船そのものに興味があったからではなく、港の東側にある護岸の様子を見たかったからだ。

 この堤防では以前、徳島の磯釣り場を案内してくれた若者たちとよく釣りをした。地形上、潮通しが良く、しかも風の影響を受けにくい場所なので、いろいろな魚が顔を出し、とりわけ大きなクロダイやマダイが釣れることもあった。が、残念ながらこの日は小魚ばかりだったようで、釣果は芳しくなさそうだった。

 10数年前、若者たちとここで徳島最後の釣りをして、それから皆を「食べ放題店」に招待し、釣りの話で大いに盛り上がった。その後、彼、彼女らは、わざわざ一緒に鳴門ICの入口まで同行してきて、私を見送ってくれたのだった。

 そんなことが何年か続いたが、いつの間にか私にとって四国は遠い場所になり、若者たちとの音信も途絶えるようになった。

 こうして、久しぶりに港にやってくると、彼、彼女らの笑顔が浮かんでくる。皆、今では良きオッサン、オバサンになっていることだろう。いや絶対に。

鳴門の渦潮見物へ出発

 目の前を観潮船が海峡を目指して進んで行った。渦潮が見られるかどうかは潮周りと時間帯による。見られれば良い体験になるし、見られなければ、それはそれで良き土産話になるだろう。

常楽寺~十四番札所

山門への階段

 亀浦観光港が四国最後の見物場所になるはずだったが、まだ日が高い位置にあったので、もう一か所ぐらいはどこか訪ねられそうだった。そんなとき、頭に浮かんだのが十四番札所の「常楽寺」だった。八十八か所霊場に選ばれた割には小さなお寺だが、境内の佇まいが特徴的だったという点を思い出したのだ。

 第81回で十五番札所の国分寺を訪ねたときには常楽寺のことはすっかり忘れていた。直線距離にして600m程度しか離れていない場所にあるにもかかわらず。

 かつては山門の前に狭い駐車スペースがあっただけだったが、現在は境内の裏手に広めの駐車場が整備されていた。また、狭い駐車スペースの横には小さな売店があったが、その姿は消え去り、そうしたものが以前から存在していなかったかのように、周囲はすっかり整えられていた。

 ここが常楽寺境内に至る階段。写真から分かるように、階段付近は新しくなっており、山頭火の「人生即遍路」の言葉が刻まれた新品の石柱が目に入った。かつては、この階段の横の崖に小さな店があったのだ。

淋しい山門

 山門にたどり着いた。ここには仁王門のような構造物はなく、ただ石柱門があるばかり。この点は以前と同じだった。

境内は岩盤の上に存在

 境内は結晶片岩で成り立っている岩盤の上にある。この寺はかつては大伽藍を有していたが、16世紀後半の「天正の兵火」(長曾我部氏による)ですべて焼失し、その後に再建された。が、1818年に谷底にあった境内を現在に遷した。その際、約5000平米の敷地を確保するために結晶片岩からなる岩場を削ったそうだ。

 写真から分かるとおり、境内の大半の場所に結晶片岩が露出している。

階段も削って造られた

 よく見れば、階段自体が結晶片岩を削って造られている。

流水岩の庭

 こうした結晶片岩の模様から、境内は「流水岩の庭」と名付けられている。確かに、岩の模様は水が流れ下っているようにも見える。

本堂

 本堂もこざっぱりしている。私が訪れたとき、参拝者は皆無だった。

大師堂

 が、私が結晶片岩を様子を見て回っているうちに、車で訪れた一人の老人が大師堂の前で般若心経を読経していた。

団体さんがご到着

 すると間もなく、マイクロバスで乗り付けた団体さんが、導師に付き従うように本堂の前に集まり、般若心経の「合唱」が始まった。こうなると、流水岩の寺も、ただ普通の霊場風景と化してしまった。

 私のように足元に目を配る輩は居そうになかったため、この場を立ち去ることにした。

鮎喰川(あくいがわ)の河原を散策

橋げたには多くのゴミが絡みついていた

 常楽寺のすぐ南側には吉野川の支流である「鮎喰川」(あくいがわ)が流れている。名称の由来は不明だが、吉野川から数多くの鮎が遡上してくるので、けだし当然、鮎に関連する名称が付けられてもおかしくはない。

河原には不思議な模様の石がゴロゴロ

 一見、河原は何の変哲もない小石や砂利石が堆積しているだけと思われた。が、数人の若者が石拾いをしていたので、私も見習って石ころ探しを始めた。すると、面白いようにいろいろな模様をもった石を発見することができた。

この沈下橋が四国最後の観光場所

 本流だけでなく、支流の鮎喰川も「暴れ川」のようで、橋桁には多くのゴミが絡み付いていた。

 この橋も「沈下橋」の姿をしている。私は、この橋を渡って、県道202号線に出て、さらに国道439号線を東に進み、徳島県庁横にある定宿へと向かった。

 明日の朝は、徳島港からフェリーで和歌山に渡る。今度は紀伊半島の旅が始まるのだ。

〔86〕よれよれ西国旅(6)室戸岬方面から徳島県東岸へ~DMVに初乗車も!

室戸岬の岩場から灯台を望む

金剛頂寺~二十六番札所

本堂

 四国の旅は後半を迎えた。2日後には徳島港からフェリーを使って和歌山に移動し、今度は紀伊半島を巡る旅となる。

 四国の旅で欠かすことができない場所はいくつかあるが、そのひとつが「室戸岬」だ。四国の岬といえば「足摺岬」と「室戸岬」が双璧となるが、かつては釣り場に近いこともあって前者にばかり足を向け、後者に出掛けたのは四国詣でが霊場巡りをも兼ねるようになってからのことだ。

 すぐ下に紹介する最御崎寺(ほつみさきじ)を訪ねたついでに室戸岬に立ち寄ったのだが、その変化に富んだ海岸線に触れた瞬間にすっかり魅せられてしまった。また、足摺岬とは違って海岸線に簡単に降りられることも楽しさは倍加するのである。

 その点については後に触れることにして、まずは二十六番札所の金剛頂寺について簡潔に記すことにする。

山門

 室戸岬はなめらかに鋭く尖った先端部にあるが、西海岸をよく見ると、やや大きめの出っ張りがある。これが行当岬で、その岬の付け根部分の高台にあるのが金剛峰寺。本堂は標高161mのところにある。国道55号線から細い山道を上がってゆくが、前回に紹介した神峯寺ほどの高さはないため、困難度は3分の1程度であろうか。もっとも、私はただ車で行くだけなので歩き遍路とは比較にならないほど楽な点は同じであるのだが。 

弘法大師

 弘法大師伝によれば、当寺の二代智光上人は世に隠れた二人の聖人の一人で行力第一の人だったとのこと。もう一人は室生寺の聖恵大徳で知恵第一の人だった。

 当寺は平城天皇の勅願により空海薬師如来像を彫像して807年に創建された。当初は「金剛定寺」と名付けられたが、嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を奉納したことで、現在の名に定着した。

仮大師堂

 本堂は1982年に再建された立派なものである一方、大師堂は現在改修中とのことなので、写真のように本堂の右端に「仮大師堂」が設置されている。

最御崎寺(ほつみさきじ)~二十四番札所

行当岬や室戸岬港を望む

 室戸岬のほぼ先端部にあるこの寺も、やはり国道55号線から山坂道を上った場所にある。写真は、駐車場から行当岬方向を望んだもの。手前側にある比較的大きな港が室戸漁港である。

 その先にも港(室津漁港)が見えるが、その港のすぐ山間に二十五番札所の「津照寺」がある。この寺の規模は小さく、ここが八十八霊場のひとつ?といささか首を傾げたくなるほどの存在であるため、今回は(も)立ち寄らなかった。私は信仰心に触発されて霊場巡りをしている訳ではまったくないので、その寺には一回しか出掛けていない。

空海~お迎え大師像

 写真の「お迎え大師像」はひとつ前の写真を撮影した場所のすぐ南側、つまり駐車場のすぐ隣に存在する。ここから右手にある階段を上がってゆくと山門に出る。なお、この場所の標高は139m、山門は163m地点にある。

山門

 山門は南側に向いており、左手には修行大師像がある。

 最御崎寺土佐国最初の霊場で、阿波国最後の霊場である薬王寺(のちに紹介)からはなんと76.7キロも離れている。海岸線を通る平坦な道が多いが、その多くは国道55号線を歩くことになるので自動車の動きにも注意を払う必要がある。その点から、一種の”遍路転がし”のひとつでもあると思われる。

 ちなみに、阿波国霊場(1~23番)は「発心の道場」、土佐国霊場(24~39番)は「修行の道場」、伊予国霊場(40~65番)は「菩提の道場」、讃岐国霊場(66~88番)は「涅槃の道場」と言われている。

境内

 境内はかなり広めで多くの「見どころ」がある。

 嵯峨天皇の命で空海は無限の知恵を持つとされる「虚空蔵菩薩像」を彫像し、本寺を開基した。なお、「最御崎」は「火(ほ)つ岬」が由来とされている。海に向かって聖なる火を焚くという風習があったことから、この岬の先端という位置は、航海の安全を祈願する場所に選ばれていたのだろう。

鐘楼堂

 この古い鐘楼堂は、土佐藩主第二代の山内忠義が1648年に寄進したとされている。現在は新しい鐘楼堂が建てられており、この堂は用いられていない。

大師堂

 通常は本堂から先にお参りし、それから大師堂へと進むのだが、この寺では大師堂のほうが手前にあるため、本堂の前に参拝してしまう人が多いそうだ。もちろん、「形式」にこだわるお遍路さんにとって建物の位置関係などは問題にせず、まず先に本堂に参拝するだろうが。

本堂

 本堂には虚空蔵菩薩像が安置されている。なお、ご本尊が虚空蔵菩薩なのはここと、21番の太龍寺、13番の焼山寺の三寺だけだそうだ。この2つの寺は次の回で紹介することになっている。

室戸岬~数々の奇岩と対面

中岡慎太郎

 大好きな室戸岬に立ち寄った。駐車スペースの近くには写真の中岡慎太郎像がある。1935年に高村光雲の弟子であった本山白雲が作出した。

 高知県出身の白雲は土佐の偉人の彫像を多く残している。桂浜にある坂本龍馬像、高知城にある板垣退助像、山内一豊像はいずれも彼の作品である。

 誰の選択かは知らないが、室戸岬坂本龍馬像ではなくて中岡慎太郎像を置いたのは極めて賢明であった。

室戸岬灯台を望む

 室戸岬周辺は、南からの圧縮を絶えず受け続けているために地層が変形しやすいことから奇岩が多いことでも知られている。写真は、その奇岩越しに室戸岬灯台(標高142m)を望んだものである。

奇岩その一

 中岡慎太郎像の前方にある海岸は「灌頂ヶ浜」と呼ばれ、ここに夥しい数の奇岩が林立している。

 この浜の岩質は基本的には「タービダイト」といって混濁流や乱泥流によって堆積した砂岩と泥岩の互層からなる地層で、水深約4000mのところで形成された。興味深いことに、ここの泥や砂は遠く富士川の河口から南海トラフに沿って運ばれてきたものとのことだ。それがフィリピン海プレートからの圧縮を受け、多くは沈み込んでしまったものの一部は付加体として地上に姿を現した。

 その際、横からの圧力を大きく受けたため、水平に堆積した層が褶曲(しゅうきょく)したり、回転したりして、ねじ曲がったりほぼ垂直に切り立ったりしているのである。

奇岩その二

 上の写真では、そのタービダイトがほぼ垂直に屹立してしまった様子が確認できる。

奇岩その三

 上の写真の場所はいわゆるスランプ構造といって、地層が極端に不整形になっている。

奇岩その四

 これもスランプ構造のひとつかも知れないが、地層が本来の姿である水平状態を保っているものと圧縮されて垂直になってしまったものとが同じ場所で見られるのである。

 こうした地層が変形してしまった姿が至るところで見られるのが室戸岬の魅力である。中岡慎太郎明治維新を見ずに生涯を終えてしまった。が、その後の維新政府の無様な経緯を目の当たりにするより、こうした大地の、人知を超えた想像を絶する営為を眺めている方が、彼にとっては心の平静を保ち、心豊かに日々を過ごせるのではないだろうか。

御厨人窟(みくろど)~「空海」誕生の場

空海修行の場

 室戸岬を少しだけ東に回り込んだ場所に、空海が修行した場所として知られる海食洞がある。灌頂ヶ浜から遊歩道を歩いていくこともできるし、洞窟の前の広場に車をとめて見物することもできる。

 一時は崩落の危険もあって見学は中断されていたが、現在は中をのぞくことが可能になっている。

 なお、写真右手にある洞窟前の囲いは「神明窟」の出入口である。

洞窟の入口

 出入口には写真のような無粋な囲いが設けられてしまった。が、こうした落石防止措置が取られたため、見た目はかなり不細工ではあるが、洞窟内に入ることができるようになったので、致し方ない処置と考えるべきだろう。

内部の様子

 中には、写真のような石碑が置かれ「弘法大師修行之処」の文字が掘られている。

 延暦11(792)年、青年如空(空海の前の法号)は、この洞窟内で修行を続けた。「土州室戸崎に勤念す。谷響を惜まず、明星来影す。心に感ずるときは、明星口に入りて、虚空蔵光明照らして来たりて菩薩の威を顕し、仏法の無二を表す」と『三教指帰』にあるように、如空はここで悟りを得た。その時、洞窟内から見えたものは空と海だけだったため、彼は法号を「空海」と改めたとされている。

五所神社

 御厨人窟の奥には写真の「五所神社」が置かれている。

神明宮

 お隣の神明窟が主に修行の場とされており、悟りを開いたのは御厨人窟ではなく、神明窟とされている。御厨人窟が生活の場、神明窟が修行の場と考えられているからだ。

 その神明窟の奥には写真の祠(神明宮)が置かれている。

空海が行水した池

 洞窟前の海岸沿いには写真の「弘法大師行水の池」がある。この窪地はノッチ(波食窪)と呼ばれるもので、空海はここで行水をしたそうだ。現在でも波が荒い時にはここに海水が入り込むだろうし、ましてや空海の時代には地面は現在よりも6mほど低かったので、ここには海水のみが溜まっていたはずだ。伝説では海に近いにもかかわらず真水で満ちていたということになっているが、当時の地形を考えれば海水以外には考えられない。

 海水浴はかつて「塩湯治」と呼ばれていたので、塩水に浸かることは不思議でもなんでもない。また、この辺りの海食崖には真水が湧き出す場所はいくつもあったはずなので、水の確保にはさして苦労はいらなかっただろうと考えられる。

ビシャゴ岩

 御厨人窟の眼前には灌頂ヶ浜とは異なる岩質の岩場が広がっている。多くは玄武岩質の「斑レイ岩」という黒色の中粒から粗粒の深成岩(火成岩)で、斜長石、輝石、かんらん石で構成されている。

 1400万年前にマグマがほぼ水平に貫入し、それが冷え固まったのちに横からの圧力を受けてほぼ垂直に傾いた形状を成した。それが写真のビシャゴ岩や、下に挙げたエボシ岩の元になった。それらは浸食の影響を他よりは少なく受けたために、このような形状を残している。

焼けた岩

 また、マグマが砂や泥から成る地層に入り込み、それらを焼いて岩の性質を変えたものをホルンフェルスというが、写真の岩のうち黒く変色しているのがそれで、”岩のやけど”と言われている。

エボシ岩

 エボシ岩の名を聞くと茅ケ崎沖の岩礁を思い起こす。一時はよくクロダイ釣りに出掛けた場所だからだ。ここにあるエボシ岩は湘南のものよりは”エボシ度”は小さくて低いが、そう言われてみれば納得するしかないという代物だった。

 表面をよく見るといくつか穴の開いている箇所がある。これはタフォニという現象で、本ブログではお馴染みの用語だ。今回も後ほど、その典型が登場する。

ジオパークセンター

 各地にジオパークセンターがあり、ただパンフレットを置いただけの場所もあれば、周辺の地質について詳しく紹介しているものもある。こちらは後者で、室戸岬の特徴を理解するのに大いに役立たせてもらった。

◎鹿岡(かぶか)の夫婦岩

岩は2つだけではないけれど

 国道55号線を北上していたときに目に入ったのが、この大きな石が並んだ風景だった。ロードマップには「鹿岡(かぶか)の夫婦岩」とあったので、2つの岩を想像していたのだが、実際には大小の岩がいくつも並んでいた。

 いつもはこの姿を車の中から眺めるだけだったのだが、今回は初めて駐車スペースに車をとめて間近の距離からこの巨石群を眺めた。

偉大な夫婦

 しめ縄は海側の2つの巨石に結ばれており、この組み合わせが「夫婦岩」の名の由来になっているようだ。が、個人的には、いくつもの巨石群全体に見応えがあるのだから、他の名前でも良いような気がしている。

 巨石群は海に向かって一列に並んでいるので、これらはマグマの貫入によって造られ、それが長い間に風化して現在のような形になったのだろう。以前に紹介した和歌山県串本町橋杭岩はこの大型版である。あちらは弘法大師が造ったという伝説があるが、こちらは誰が造営したことになっているのだろうか。御厨人窟で悟りを開いた空海が、少しばかり出張して、手始めにこの巨石群を作成したのかも?

◎宍喰(ししくい)の海岸線

水床(みとこ)湾沖の島々

 室戸市から東洋町を過ぎて宍喰(ししくい)の町に入った。現在の住所名は徳島県海部郡海陽町宍喰浦である。再度(正式には再々度)、阿波の国に入った(戻った)のだ。

 宍喰とは奇妙な名称だが、阿波の釣り人には馴染みのある地名だ。徳島県人は私が好むメジナ釣りをもっとも得意とし、数多くの名人を輩出している。関東では釣りといえば船釣りがメインだが、徳島では釣りといえばグレ(メジナの地方名)を狙うウキ釣りか鮎の友釣りを指す。「阿波釣法」という言葉があるほど、この地の釣り方は全国に波及している。

 私は取材で何度も徳島の名人に同行してもらったが、彼ら彼女らがメインフィールドにしていたのがこの宍喰の磯なのだった。それだけに、この風景に触れると、当時のことが懐かしく思い出される。

風化でできた大穴

 今回の旅は釣りとは全く無関係なので、磯場に出掛けても竿を出すわけではなく、沖にある小さな島に囲まれた水床(みとこ)湾の地磯に大きな「風化穴」があるというので見学に出掛けた。

 写真から分かるとおり、岩肌の一部が大きく欠落し、その中にハチの巣のような小さな穴が無数に開いている。これはタフォニという現象で、本ブログでは何度も登場している。

 溶岩が固まるときに塩分を含んだ海水が岩の間に入り込み、やがてその塩分が結晶化すると岩の隙間が大きくなる。それが風化によって岩肌の一部が剥がれ落ちると写真のような穴が現れるという次第である。内部にタフォニが数多く出来る場所では、それを覆っていた広い体積の岩肌が崩落することがある。それが大きな風化穴で、その内部には小さな風化穴を数多く見ることができる。 

岩が挟まる

 大きな風化穴を有する二つの大岩の間に別の岩が挟まった状態にあった。山陰の項で見た「はさかり岩」の小型版である。

 今回は触れてはいないが、近くにはリップルマーク(漣痕)の様子を観察できる場所がある。これは海水がさざ波を規則的に繰り返すことで、堆積層の表面に波状の痕跡を作るもの。三浦半島の海岸線でもよく見られるので、釣りの合間(三浦はあまり釣れないので退屈しのぎに岩の様子を見て歩くことが多くなる)に探し回ることがある。

◎DМVに初乗車

海部川

 徳島県南部を流れる海部川はかつて「日本一の清流」と言われ、NHKでも何度か紹介されたことがある。水質が良いので美しい鮎が釣れるとのことだった。そのため、徳島南部や室戸岬に出掛ける際に何度か下流部分をのぞいてみたのだが、とくに美しいとは思えなかった。

 そこで今回は、中上流部まで様子を伺いに行った。が、確かに水は澄んでいたものの、周囲の景観が必ずしも水の美しさとはマッチしていなかった。どうも、古座川の支流の小川(こがわ)に触れてしまったあとでは、採点の基準が厳しくなってしまうようだ。

 海部川探索を断念して国道55号線に戻るとき、鉄道が走っているはずの高架にバスが通過している姿を見たのだった。この不思議な光景を解明するために、私は最寄りの海部駅に立ち寄ってみた。

海部駅

 阿佐海岸鉄道海部駅から甲浦駅間はJR牟岐線の延長部分として運行されたが、あまりにも乗客数が少ないために減便を余儀なくされた。そこで阿佐海岸鉄道としては独自の運営を行うため、2017年にDMV(Dual Mode Vehicle)の導入を決定し、2020年までの運転を目指した。しかし、世界初の本格的運行ということで問題がいくつか発生したために、実際に運行が始まったのは21年12月のことだった。

DМV見参

 DMVは鉄道の軌道と一般の道路の双方で走ることが出来るものだ。写真から分かるとおり車体はボンネットバスに似ているが、軌道を走る時は格納してある車輪を下ろす。

 右側に写っているのは、それまで阿佐海岸鉄道を走っていた気動車ディーゼル車)で、DMVは普通の車両に較べるとはるかに小さいことが分かる。

 私が、高架線をバスが走っていると見間違ったのはむべなるかなで、本当にバスが車輪で鉄道を走っていたのである。

鉄道部分は鉄輪で走行

 この姿を見て、是非とも乗ってみる必要があると考えてしまった。が、次に来た赤い車体の車両(バス?)も上りだった。海部駅からだと終点までいくらもないので、それでは面白みがない。

 時刻表を見ると、最初に見た青い車両がさほど待たずに来るようなので、それに乗車することにした。

いよいよ初乗車

 青い車両がやってきた。確かに鉄輪で走行し、タイヤ(前輪)は浮いた状態であることが分かる。

団体客でそれなりに混雑

 定員があり(座席18人、立ち席3人)、定員を超すと乗車できない。そのために、会社では予約を推奨している。もちろん私はそんなことは知らなかったので予約はしていなかったが、最初に乗った下り線は10数人の団体客が乗っていたので座席はかなり埋まっていたものの乗車は可能だった。

只今モードチェンジ中

 鉄輪で走るのは「阿波海南駅」から「甲浦停車場」まで。出発点の「阿波海南文化村」から「阿波海南駅」までと、「甲浦停車場」から「道の駅・宍喰温泉」はバスモードとなる。

 写真は、後部の鉄輪を浮かせてタイヤのみで道路を走ることができるようにしているところ。ただ、画面はあくまでもビデオなので実際にモードを切り替えている場面を見せている訳ではない。

バスモードで一般道を目指す

 バスモードに変わったDMVは一般道を走るために高架を下りてゆく。

鉄道を走っていた車両にはとても見えない

 終点の「道の駅・宍喰温泉」で下車した。

 この車両はトヨタ製で、トヨタのマイクロバスにボンネットを付けて前輪を格納できるスペースを作っている。基本的にはバスなので運転はハンドルとペダルで操作する。もちろん、鉄輪走行のときはハンドル操作は不要。アクセルとブレーキは鉄輪走行の際でもペダルを利用する。

海部駅に戻るためのバス?が到着

 宍喰温泉バス停?ではとくに用事がないため、トイレに行ったり道の駅の売店をのぞいたりして時間を潰した。

 やがて上りのバスがやってきた。今度の車両は赤色の3号車だ。ちなみに、DMVは現在3両体制で、1号車は青、2号車は緑にペイントされている。

 また、1号車は「未来への波乗り」の愛称があり、側面にはサーフィンの絵が、2号車は「すだちの風」で、すだちとシラサギの絵が、3号車は「阿佐海岸維新」で、龍馬と輝く太陽の絵が、それぞれ描かれている。

一般道を進む

 次の停留所は「海の駅・東洋町」で、そこまでは国道55号線を進む。

こう見ると普通のワンマンバス

 両停留所の間には「古目峠」を貫くトンネルがある。バスはなんと南下しているのだ。

まもなく海の駅・東洋町に到着

 「海の駅・東洋町」が見えてきた。宍喰は徳島県、東洋町は高知県にある。バスは一旦南下して高知県に入り、東洋町にある甲浦を目指すのだ。 

甲浦停車場に向かうため国道を離れる

 甲浦停車場は海岸線からやや離れた内陸部にある。そのため、国道55号線を離れてかなり狭めの道を進むことになる。

甲浦停車場に向かって坂を上る

 甲浦停車場で高架にある軌道に移るので、写真のように少し坂を上がることになる。

まもなくバスは鉄道に変身

 こうしてDMVは道路から軌道へと移動することになる。

変身の為に一旦停車

 「停」の場所でDMVは一度停車し、ここでバスモードから鉄道モードに切り替えるため鉄輪を下ろす。

鉄輪を下ろして鉄道に変身

 鉄輪を下ろす様子もビデオで確認することができる。

鉄道として出発

 鉄道モードに切り替わり、甲浦停車場を鉄道として出発する。

宍喰駅に停車

 DMV宍喰駅に到着した。写真から分かるとおり、この駅は列車交換駅として建設されたが、運行本数が激減したため、もはや片側の線路は不用になったために撤去されている。

まもなく海部駅

 海部駅に戻って来た。ここも、かつては列車交換駅として利用されていたが、現在は不用になった気動車が展示?してあるのみだ。また、右手前にあるホームは気動車が走っていた当時のもので、DMVはマイクロバス程度の地上高しかないため高さのあるホームは必要ない。そのため、写真ではやや分かりづらいが、古いホームの先にDMV用の低いホームが造られている。

楽しかった鉄道バス

 車両のドアからは小さなタラップが出て、ホームに降りやすいようになっている。完全にはバリアフリーではないが、足腰が弱い人には少し助かる。

今一度、出会うことはあるだろうか?

 DMVは次の「阿波海南駅」に向けて出発した。そこでまたバスモードに切り替わるのだ。

 なお、DMVは後輪駆動で後部タイヤを回して動いている。前輪がレールに接地しているとカーブが切れないが、後輪タイヤはレールに接地していて、それで駆動力を得ている。そのため、車体は前方が少し浮き上がっているのだ。

 DMVに今一度乗りたいかと聞かれたら「否」と答えるだろう。また、DMVそのものの必要性もあまり感じられない。国道55号線は十分に整備されているので、バスでの代用は可能であろうし、津波対策のための高架橋を利用するなら、「バス・ラピッド・トランジット(BRT)」の方が安上がりなのではないかと思われる。つまり、軌道をて撤去して舗装し、バス専用レーンにすれば良いのだ。このBRTなら、全国各地で行われている。以前に挙げた八高線だって、いずれはBRTに変身するかも知れない。

 確かに「世界初」は話題になるだろうが、それも一時的なのではないだろうか?実際、行きは団体客がいたが、フリーの客は私ひとりだけ。帰りは海部駅までの乗客は私ひとり。以降は空気を運んでいるだけだったのだ。

 いずれ、赤字を解消するために「銚子電鉄」のような作戦に出るような気がしてならない。ただそれも、銚子電鉄は首都圏に近いというメリットがあっての作戦成功なのだが。

◎南阿波サンラインを走る

牟岐大島を望む

 室戸岬や予定外のDMV乗車があったため、牟岐町に予約してあったホテルにはやや遅い時間に到着した。初めは阿南市に宿泊する予定だったが、たまたま牟岐町に良さそうな宿泊施設があったので、こちらに決めたのだった。それがたまたま正解だったようで、もし阿南市に泊まるスケジュールだったらDMVには乗れなかった蓋然性が高い。

 牟岐町には釣りによく来ていたので馴染みはあった。しかし町中を散策することはなく、朝暗いうちに渡船に乗って「牟岐大島」に渡り、夕方に港に戻り、それからすぐに徳島市内の宿に戻るというスケジュールであった。それゆえ、牟岐町の名には馴染みがあっても町の様子に触れたことはなかった。

 牟岐町を通過するだけのとき、さらにいえば時間に余裕のあるときには、内陸部を走る国道55号線は使わず、海岸線を走る県道147号線を利用した。この道は「南阿波サンライン」の別名があり、海食崖の上を走る道のため眺めはかなり良い。反面、道が曲がりに曲がっているため走行にはかなりの注意を必要とし、もちろん時間も多く掛かる。

 写真は、サンラインの展望台から牟岐大島を眺めたもの。10数年前は、この島に渡ってメジナ釣りをよくおこなった。もっとも阿波釣法の名人の取材が主だったが。

外牟井ノ浜海水浴場が見えた

 道は標高90から120mのところにある。結構、森の深い場所を通るときもあるが、こうして真下の海岸線を望めるところもあって、なかなか楽しい道なのだ。しかも車はほとんど通らないので自分のペースで走ることができる快適なワインディングロードなのである。

薬王寺~二十三番札所

薬王寺は徳島最後の札所

 県道147号線は、日和佐の町並みに近い場所で国道に合流する。

 日和佐町は隣の由岐町と2006年に合併して美波町となった。町村合併にどれだけの意味があるかどうかは不明だが、日和佐の名が小さく扱われるようになったのは残念なことである。ただし、日和佐駅、日和佐川、日和佐城、道の駅・日和佐などのほか、コンビニの名にも日和佐が残っているのは賢明な措置だ。「日和佐」ならばすぐに徳島の町をイメージできるが、「美波」では海岸線がある場所なら日本全国、どこにでもありそうな名前だ。

 その日和佐にあるのが二十三番札所の薬王寺である。先にも触れたようにここは阿波国最後の札所で、次の札所までは80キロ近くもあるのだ。

女厄坂は33段

 医王山無量寿薬王寺が正式名称で、厄除けの寺として全国的に知られている。山門から写真の「女厄坂」33段、「男厄坂」42段を上がると本堂に出る。

 聖武天皇の勅願によって行基が開基した。815年、空海が42歳のとき、自分と衆生の厄除けを祈願し、厄除薬師如来像を彫像して本尊とした。

本堂

 写真の本堂は1908年に再建されたもの。

大師堂

 丘陵の斜面にあるので、日和佐の町並みが一望できる。境内自体はこじんまりとしているが、なかなか味わいのある寺で、信仰心がまったくない私でも立ち寄ってみる価値は十分にあると思っている。

平等寺~二十二番札所

仁王門

 平等寺には特別な思いがある。もっとも、それはこの寺そのものではなく、この寺の仁王門前で、ある若者と話し込んだことによる。

 彼は30代半ばの壮健そうな人物で、現在(といっても彼と出会ったときなので20年以上も前のこと)は歩き遍路を中心に生活しており、普段はアルバイトなどで収入を得ているとのこと。

 私は普段着であったが、彼にしてみれば普段着姿にはとても見えず、遍路姿をしていないだけで十分に薄汚れた姿で遍路旅をしているように見えたらしい。そのため、彼の方から私に話しかけてきたのだった。

 問わず語りに彼は私に、歩き遍路に生涯を掛けるようになったいきさつを話してくれた。彼は大学卒業後、大手の自動車会社に技術者として勤め始めた。大学といいその会社といい、西日本では超エリートが進む道を順調に進んでいた。しかし、20代の後半になって日常がマンネリ化をしたと感じたために、長期休暇を取って歩き遍路に挑戦した。

 そこで彼はそれまで順風満帆であった人生に疑問を抱き、家に帰るとすぐに辞表を書いて会社を去り、それから本格的に歩き遍路の人生をスタートさせた。が、遍路を何度も繰り返すうちに1400キロの道程はまったく苦ではなくなり、楽々30日以内でクリアーできるようになったそうだ。

本堂

 が、そんな遍路生活では今までのエリート生活とは何ら変わりがないことに気付き、今ではのんびりと、かつあちこち寄り道をしたり、出会う人に話しかけたりしながら霊場巡りを年に6回ほど行っているとのことだった。

 私には信仰心はまったくなく、霊場を巡っても参拝は一度もせず、ただただお遍路さんが存在している姿を見るだけのために四国に来ているのだと話をすると、彼はそのことを十分に理解してくれたようだった。

 仏に何かを祈願するのではなく、仏がいるであろう寺(世界)や遍路道に居て、仏も忘れ、自己も忘れ、ただひたすら旅を続けることに意味があるのかも知れないし、仮に意味など見つからなくても、自分自身が無であるという境地に至れることが、彼を遍路道に誘っているとのことだった。

 と言いながら、彼は「まだまだお遍路を続けたい」という「我」があるうちは駄目ですよね、と笑っていた。

 そんな彼に出会ったことで、私は霊場巡りにすっかりのめり込んでしまったのだった。久し振りではあるが、相変わらず、参拝はしないという態度は不変のままに。

祈る!

 平等寺は、人々の心と体の病を平等に癒し去るという誓いをたてた空海が814年に創建したとのこと。

 本尊の薬師如来像はいつでも拝観できるそうだ。というより、いつでもどこでも自由に拝観でき、もちろん写真撮影もすべて可能というのがこの寺のポリシーなのだ。

境内

 本堂には3台の箱車が置いてある。医者に見放された足の不自由な人がここで霊験を授かって足が治ったことから箱車を奉納した、という由緒があるらしい。

大師堂

 想い出に耽っていたために、絶えることなく湧き出ると言われる「白水の井戸」に立ち寄ることを失念してしまった。「弘法の霊水」とも言われ、万病に効くとも言われる湧水のことを、湧水好きの私は忘れていた。

 「白水山医王院平等寺」の湧水は体や心の病は癒すが、私の馬鹿は死んでも治らない(治せない)。