徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔66〕小田原界隈(2)~石垣城・早川港・酒匂川そして二宮尊徳など

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早川新港入口にある小田原提灯

石垣山一夜城を訪ねる

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石垣山一夜城登城口にて

 前回の最後に記したように、石垣山一夜城は一夜にして出来たのではなく、約80日、延べ4万人とも言われる大工事によって築かれた。考えてみれば(考えなくとも)当たり前すぎる話だ。完成したのは1590(天正18)年の6月26日で、28日に秀吉が入城している。

 秀吉と小田原北条氏(以下、北条氏と記す)との対立はかなり前まで遡れるし、おおよそのことは、すでに本ブログの第40回(悲劇の八王子城)で述べている。が、前回に小田原城を取り上げていることもあるので、今回も簡単に触れてみたい。

 天下統一を図る秀吉は、1587(天正15)年の12月に「関東奥羽惣無事令」を出した。これはまだ秀吉に従属していない北条氏と伊達氏の動きを牽制するもので、建前としては、大名間の私的な領地紛争を禁じ、違反者は処分するというものである。

 沼田領を巡る北条氏と真田氏との対立は1589(天正17)年の7月、秀吉の裁定があって、その3分の2を北条側、3分の1で真田側にすることで決着を見た。しかし、10月に北条側が「名胡桃(なぐるみ)城」強奪事件を起こし、秀吉の裁定を覆すことになった。このため秀吉は同年11月、北条側に対して宣戦布告をおこなった。12月の軍議には家康も参加しているため、もはや北条側は援助を頼める勢力はなくなった。

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一夜城に向かう農道から小田原市街方向を眺める

 石垣山一夜城へは、小田原厚木道路・小田原西ICを下りて「一夜城下通り」を早川交差点方向に進み、「箱根ターンパイク」入口のすぐ先を右折して、標識にしたがって農道を上っていく。写真は標高81m地点から小田原市街、相模湾西湘バイパス方向を眺めたもの。一夜城までは行かないときでも私は、この辺りから見る小田原の景色が好きなので、早川港取材に出掛けた際に立ち寄ることが何度もあった。

 *  *  *

 秀吉による小田原城攻めは北条側でも覚悟をしていたので、1587年の末には軍勢に大動員をかけるとともに、小田原城の周囲約9キロに空堀や土塁を廻らす、いわゆる総構(そうがまえ)と呼ばれる大城郭の構築を開始した。また、武器の増産も進めていて、大磯の土を大量に小田原に運び込み、鋳物師が鉄砲や弾薬の鋳型を造って鋳造した。この時期には、八王子城北条氏照は領内の寺社から梵鐘の供出を命じている。

 ただ、87年末の時期には家康の仲介などもあって秀吉による北条氏の追討には至らなかったが、先に触れた名胡桃城強奪事件の結果、秀吉による宣戦布告が発せられた。これを受けた北条氏側も対戦を覚悟して、領国内の家臣ならびに他国衆に小田原への参陣を命令、あるいは各城(松井田城、鉢形城津久井城、八王子城山中城韮山城など)に防御態勢を取らせた。 

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農道の両側にはミカン畑が広がっている

 写真は、標高150m地点から、先と同じ方向を望んだもの。この辺りに来ると道の両側にミカン畑が広がっていて、以前にその景色を眺めかつ撮影していたとき、何度か農家の人からミカンを頂いたことがあった。

 上の写真はそのミカン畑に焦点を当てているため、小田原市街の風景はややピンボケになっている。この辺りは市街地の夜景を見るための人気スポットなのだそうだが、私にとっては夜景よりもミカン畑のある情景の方がお気に入りだ。

  *  *  *

 北条氏は対決を控え、一部には積極的侵攻策に打って出るべきだという意見もあったが、結局、90(天正18)年の1月に籠城作戦を取ることに決した。

 秀吉軍は同年の2月、家康などの各大名が小田原に向けて出陣し、3月1日には秀吉が聚楽第を出て関東に向かった。3月3日、伊豆・駿河国境にある黄瀬川で家康、織田信雄羽柴秀次を主力とした東海道軍が北条軍との戦闘を開始し、いわゆる小田原合戦の火ぶたが切られた。

 3月27日に秀吉が沼津の三枚橋に着陣すると本格的な戦いが始まった。29日には北条側の西の要衝である山中城(標高580m、現三島市)にて激戦が展開された。ただ、6万7千対4千では如何ともしがたく、わずか半日で落城した。

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野面積みの石垣は崩れている場所も多い

 一夜城の駐車場は標高224mのところにある。久しぶりに来てみて驚いたのだが、駐車場は広くかつ綺麗に整備されており、その傍らには洒落たカフェ&レストランがあった。おまけに駐車場は比較的混雑していた。そのとき、巷では「一夜城ブーム」が突発したのかと訝った。が、石垣山に登ってみるとさほど見物客はいなかった。

 これは後で知ったことだが、同じ一夜城であっても人気があるのは城跡の方ではなく、駐車場横にあった「一夜城ヨロイヅカファーム」なのだそうだ。その経営者は川島なお美(故人)の御主人で、店舗の前には相模湾が一望できる散策路が整備されており、川島なおみ美の慰霊碑まであるという。

 それゆえ、大半の人は美味しいケーキを食するために、相模湾を眺めるために、川島なお美を偲ぶために訪れていたのであって、小田原北条氏や秀吉、家康に思いを馳せているわけではなかった。

 ”一夜城”という名の店は、私の感覚では”紅灯の巷”に多く存在しそうなのだが、この店に関しては「石垣山一夜城歴史公園」に隣接しているため、いかがわしさを抱く人は皆無だろう。が、そうであっても「一夜城」に行ってきたとは、とても大きな声では言えそうになく、「一夜城ヨロイヅカファーム」か「石垣山一夜城」といえば、事が穏便に済むように思われる。私ならそうする。 

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二の丸の石垣を眺める

 石垣の多くは1923年の関東大震災のときに崩落してしまったが、当時のままの姿を残している場所や、綺麗に修復された場所もある。

 *  *  *

 4月1日、家康軍は箱根まで進み、2日には足柄城が落城。同日、秀吉は箱根峠まで進んできていた。4日に家康軍は小田原城近くに到達し、5日に秀吉は箱根湯本の早雲寺に本陣を据えた。こうして秀吉軍の小田原包囲網は完成し、北条側は徹底籠城を余儀なくされた。

 一方、前田利家上杉景勝真田昌幸を主力とする北国支隊(北陸道軍)は3月15日に碓氷峠に到達し、28日から北条側の北の要衝である松井田城を攻撃し、4月20日に攻め落とした。以来、松井田城代であった大道寺政繁は秀吉側に加わり、5月22日の武蔵松山城、6月14日の鉢形城、同23日の八王子城攻略に加担した。

 伊豆の韮山城(北条氏第3代当主・氏康の四男である北条氏規が城代)は3月に始まった秀吉側の攻撃によく耐えていたが、6月24日に落城した。こうして、他国衆である成田氏長の本拠地の忍城(本ブログ第16回参照)以外はすべて攻略された。

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二の丸の全景

 二の丸広場(標高243m)では、かつて秀吉がここで茶会を催したという話が伝わっていることから、おととしの冬には、12万個の黄金色の電飾を使って「イルミネーション大茶会」というイベントがおこなわれたそうだ。

  *  *  *

 北条側では戦況が悪化の一途をたどっていたためか、内通者や逃亡者も相当数出ていた。こうしたことから、6月に入ってからは秀吉側との和睦を模索していた。6月24日には織田信雄の家臣滝川雄利と秀吉の家臣黒田孝高小田原城内に入った。7月1日には北条氏第5代当主の氏直が、勧告にしたがって秀吉の下に出向くことの合意が成立している。

 このような動きがあったことから、秀吉はあえて武力で小田原城攻めはおこなわず、6月28日に完成した石垣山一夜城に入ると、側室の淀君を呼び寄せたり、千利休と茶会を開いたり、天皇の勅使を招いたり、家康と連れションをしたりした。

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本丸の様子

 本丸(標高257m)は木が覆い茂っていて景観はあまり良くない。それでも、小田原城に向かう場所には展望台が設置され、周辺の木々も伐採されているため、前回の最後の写真のように、小田原城天守閣を望むことは可能だった。

  *   *   *

 結局、北条氏直は弟の氏房と共に7月5日、滝川雄利の陣所に投降した。その際、氏直は自らの切腹と引き換えに城内の兵士の助命を嘆願した。ただ、氏直は家康の娘婿であったため高野山送りとなり、4代当主の氏政、北条一家衆を代表して八王子城主の氏照、家臣団のうち松田憲秀、大道寺政繁の4人が責任をとって切腹を命じられた。

 こうして5代、約100年続いた小田原北条家は滅亡した。

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本丸の展望台からの眺め

 上の写真は、展望台から相模湾方向を眺めたもの。この方角の眺望では必ず、早川左岸を走る西湘バイパスの姿が視界に入る。その道路の存在は小田原の風情を破壊しているものの時代の趨勢としては致し方ないのかもしれない。もっとも、この部分の西湘バイパスは距離が短いくせに料金はしっかり徴収されるので、私は滅多に利用しない。

 *  *  *

 北条氏滅亡後は、家康の三河以来の家臣だった大久保忠世が4万石で小田原に入封した。その子の忠隣(ただちか)の代には6万5千石に加増された。が、1632年に改易となり、稲葉正勝徳川家光の乳母であった春日局の子で家光の側近)が入封した。

 1633(寛永10)年の大地震小田原城が壊れたため、正勝そして正則が天守閣、本丸御殿などを建設し、近世的城郭として復興された。

 1686(貞享2)年、稲葉家は越後高田に転封となり翌年、下総国佐倉から大久保忠朝(ただとも)が10万3千石で入封した。稲葉家以前の大久保家の復活で、廃藩置県まで小田原の歴代藩主を務めた。

 この藩主の名は後半、二宮尊徳について触れたときに出てくる。 

報徳二宮神社に少しだけ立ち寄る

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この神社は小田原城址公園に隣接

 報徳二宮神社小田原城跡に隣接しているというより小田原城址公園の一角を占めている(旧小田原城二の丸小峰曲輪の地)と言った方が適切だろう。私が小田原城に出掛けるときは通常、公園の南側にある有料駐車場を利用する。その目の前には大正天皇が感じ入ったという「御感の藤」と名付けられた藤棚があるが、そのすぐ西隣に写真の大鳥居がある。

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農民聖者の二宮尊徳

 二宮尊徳(たかのり、通称は”そんとく”)が小田原出身だということはすでに述べた。内村鑑三の言う「農民聖者」である尊徳は小田原だけでなく、北関東や東北などの600以上の村を復興させており、至る所に尊徳の足跡が残されている。そうした場所には金次郎像ではなく、総合的農村復興事業(これを仕法という)を成し遂げた二宮尊徳翁の像が建っている。

 なお、内村鑑三の『代表的日本人』(岩波文庫)には、農民聖者・二宮尊徳のほか、新日本の創設者・西郷隆盛、封建領主・上杉鷹山、村の先生・中江藤樹、仏僧・日蓮上人が挙げられている。興趣が尽きない本なので一読を御奨めしたい。 

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拝殿を眺める

 二宮報徳神社は1894(明治27)年に創建された。その3年前、尊徳に従四位が追贈されたことから、6か国(伊豆、三河遠江駿河、甲斐、相模)の報徳社の提案により尊徳翁を御祭神として創建されることになった。1909(明治42)年には、本殿、幣殿が新築され、写真の拝殿が大改修された。併せて敷地も拡げられて現在の姿になっている。

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やはり二宮金次郎はこの姿

 二宮尊徳と言えば写真の金次郎像に馴染みが深く、かつては小学校にも多く存在した。が、その大半は撤去された。その理由がすごい。「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦前戦中教育の名残り」「歩いて本を読むのは危険」というのだ。こんな「バカ丸出し」の空語の上に戦後教育が成り立っているとするなら、それは100%否定しなければならない。

 件の『代表的日本人』を少しでも読めば、金次郎像の撤去を要求したその理由がまったくの見当外れだということは幼稚園児でも分かる。現在の日本は衰退途上国であるし、もはや先進国であるとは恥ずかしくてとても言えない。金次郎像を否定する人々がこの国の多数派であるとするなら、この先にあるのは”絶望”のみだ。

 ともあれ、二宮尊徳については、本項の最終部で触れることになっている。

小田原市界隈を徘徊する

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思い出深い「だるま料理店」

 お城とは違った顔の小田原に触れるため、市街地を少しだけ徘徊した。

 写真は、私が”小田原”から連想する第一の存在である「だるま料理店」の本店だ。城址公園の東端を走る”お堀端通り”の160m東、国道1号線が直角に曲がる”小田原市民会館前交差点”の70mほど北にある、老舗の和食料理店だ。

 私が自動車の免許を取った時分、母と近隣のオバサン2人を乗せて、何度もこの店に出掛けた。私が免許を取る前、3人は小田急を使ってここに食事に来ていたのだが、私が運転できることになってからは便利屋として酷使された。おまけに、ついでだからと、箱根や熱海の案内もさせられた。

 確かに料理は美味しかったが、2時間以上も掛けてわざわざ小田原に来るほどでもない。これなら魚元(府中人しか知らない)で十分だろうと思った、徒歩5分で行けるし。もっとも、日頃忙しくしている3人にとって、「だるま」に出掛けるのは良い気晴らしになっていたのだろう。

 大の親不孝者であった私ができた、数少ない孝行だったのかもしれない。

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かつての小田原の中心地にある松原神社

 小田原の総鎮守とされた写真の松原神社は「だるま料理店」から260mほど南にある。大森氏時代にはこの辺りが小田原の中心地であったらしい。

 創建年は不明だが、小田原北条氏の第2代当主である氏綱はこの神社を相当に尊崇していたようで、社領一万石を与えている。江戸時代に入っても大久保家や稲葉家の保護は厚く、社費はすべて藩の財政で賄われていたとのことだ。

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網問屋の建物を改修して開かれた「なりわい交流館」

 松原神社から40mほど南に進むと東海道の旧道に出る。その旧道を60mほど西に進んだところに国道1号線(新道)の本町交差点があり、その南側に写真の「小田原宿なりわい交流館」がある。昭和7年に建てられた旧網問屋の家屋をリニューアルしたもので、一階は”お休み処”や観光案内所、二階はイベントスペースになっている。

 私はすでに行きたい場所のアタリを付けていたため、ここはのぞき込んだだけで先を急いだ。それにしても、小田原城やだるま料理店以外の立ち寄り先を探したい人は大勢いるようで、案内所やお休み処は結構な賑わいをみせていた。

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御幸の浜の名は明治天皇に由来する

 国道1号線とお堀端通りが交わる場所が写真の「御幸の浜」交差点で、写真は交差点から北方向に進むお堀端通りを見ている。左手に見える白い建物は「三の丸小学校」のもの。その先に小田原城の東堀がある。

 この交差点から南へ300mほど進んだところに砂浜海岸がある。後述する早川港(小田原漁港)が造られる(1953年)前までは、この辺りの砂浜に漁師船は直接に船を付け、定置網で取れた魚を水揚げしていたそうだ。

 1873(明治6)年、天皇・皇后が箱根宮ノ下へ行幸啓(御幸)する際に小田原の浜に立ち寄って地引網漁を見学したことから、浜一帯は「御幸の浜」と呼ばれるようになった。海水浴場として地元の人には人気があるそうだが、駐車場がないために西湘海岸としては混雑度は低いそうだ。 

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通りは今、さびれつつある

 御幸の浜と旧東海道との間に一本の通りがある。通りは写真にあるように「小田原かまぼこ通り」と名付けられている。先に触れたように、この辺りの浜は定置網漁の水揚げ地だった。網では大小さまざまな魚が取れる。その一部(雑魚か?)をかまぼこの原料に用いたということは容易に想像できる。

 私は立ち寄らなかったが、この通りに小田原かまぼの老舗のひとつである「籠清」本店がある。本店の佇まいはなかなかのものらしいが、本ブログでは、店の構えの代わりに籠清のトラックを前回に掲載している。お城通りから天守閣を眺めた写真にその姿が写っている。

 残念ながら、かまぼこ通りは閑散としていた。もはや浜を使って水揚げする船は存在しないし、賑わいは駅周辺か大通りに移っているし、かまぼこはどこの食料品店やスーパーでも簡単に入手できるため、もはや”小田原かまぼこ”の名だけで人を集めるのは困難な時代になったのかも。

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こちらは老舗の薬局

 写真の済生堂小西薬房は、国道1号線沿いにあって、先に挙げた御幸の浜交差点から西に80mほど進んだところに位置している。1633(寛永10)年からこの地で薬種商を営んできたそうだ。旧店舗は関東大震災で倒壊したが、建材の一部を用いて、建て直しをおこなった。限りなくかつての店舗の風格を継承しており、江戸初期の店のイメージは十分に伝わってくる。国の登録有形文化財に指定されているとのこと。

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小田原名物店が立ち並ぶ

 小西薬房の斜め向かい側には、老舗のかまぼこ店と小田原城を模した立派な店舗を有した「ういろう」とが立ち並んでいる。下に挙げているように、「ういろう」のほうは見事な造りだが、東隣のかまぼこ店は、看板の「こ」がなくなったままなのが哀愁を帯びており、時代の変転を感じてしまった。

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小田原城を模した?ういろう店

 「ういろう」というと羊羹に似たお菓子をイメージし、それはほとんど「名古屋ういろう」を指し示していることになる。が、写真の「ういろう」は「薬のういろう」として1504(永正元)年、この小田原の地で創業した。

 朝廷に仕えていた「外郎(ういろう)家」の第5代の定治が伊勢宗瑞に招かれて店を開いた。外郎家は京都で代々「ういろう薬」を製造してきたが、京都の本家が衰退してからは小田原の外郎家がその伝統を守り続けてきた。現在は第25代が伝統を受け継いでいる。ここの外郎家が”お菓子のういろう”の製造販売を始めたのはかなり後のことらしいが、それはただのお菓子ではなく、いかにも薬業を営む店らしく「栄養菓子」であるとのこと。

 店舗はお城にしか見えないが、内部には博物館が併設されているらしい。事前に調べたときは入場無料とのことだったので立ち寄ってみようと思っていたのだが、生憎、私が訪れた日は定休日だった。

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箱根口ガレージ報徳広場

 御幸の浜交差点の西、230mのところに箱根口交差点がある。その近くに新しく出来た施設が、写真の「箱根口ガレージ報徳広場」である。ここには、1935(昭和10)年から56年まで小田原市内を走っていた路面電車の”モハ202号”や、お馴染みの金次郎像、それに「きんじろうカフェ&グリル」「パティスリーヒンナ」などの店舗もある。運営者は報徳二宮神社で、昨年の3月12日に開業した新しい施設である。

 「きんじろうカフェ&グリル」は神社内に次ぐ2号店、「パティスリーヒンナ」はその名から分かる通りスイーツを扱っている。パティシエが北海道出身なので、原来料は北海道産のものが多いそうだ。”ヒンナ”はアイヌ語で”いただきます”や”ごちそうさま”を意味するとのこと。

 小田原の新しい観光スポットとして人気が高まっているようで、訪れる人にはぜひ、口やお腹を満たすだけでなく、二宮金次郎の人となりに興味を抱き心も満たしてほしいと思う次第だ。

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三浦道寸の息子の三浦義意を御祭神とする居神神社

 国道1号線を箱根口交差点からさらに西に進んでみた。530m先のところにあるのが早川口交差点で、ここを左折すると伊豆半島に向かう国道135号線(R135)に入る。熱海や伊東、そして下田に行く場合はこのR135を使うことになるが、この道は早川口が終点(起点は下田市新下田橋東詰)だ。

 ただ今回は伊豆半島が目的地ではないし、この交差点の先に行ってみたい場所があるために、私としては例外的なことだがR1を直進した(もちろん、この間は徒歩で移動していた)。といっても早川口からは120mの距離だが。

 写真の居神(いがみ)神社は、1520年に北条氏綱(小田原北条氏第2代当主)の意向によって創建された。御祭神は、相模三浦氏最後の当主の三浦義意(道寸の息子)だ。義意は通称”荒次郎”といい”八十五人力”の勇士であった。が、1516年、伊勢宗瑞に攻め込まれて父の道寸とともに自害した。

 伝説によれば、その際に義意の首は三浦から小田原に飛び、井神の森の古松にかぶりついて3年間、通行人を睨みつけた。これを久野総世寺の和尚が成仏させた。そのとき、空から「われ今より当所の守り神にならん」という声がした。こうした伝説もあったことから、北条氏綱は義意を居神大明神として祀ったのかもしれない。

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小田原早川上水の守り神でもある水神社

 私がこの居神神社に訪れたいと思ったのはその伝承に興味を抱いたからではなく、写真の「水神社」を拝覧したかったことが理由だ。水神社の案内書には下に触れる湧水の守り神であるとあったが、他では、この下を通る「小田原早川上水」の守り神としているものもある。

 小田原早川上水の成立年は不明だが、3代当主の氏康の頃には通じていたとされているので、16世紀の半ばには完成していたようだ。小田原の中心地は当初、旧東海道筋から発展したので、飲料水の確保が喫緊の課題であった。そのため、北条氏はすぐ南を流れる早川の水に目を付け、やや上流部(国道1号線・上板橋交差点付近、標高20m)から上水路を整備して飲料水の確保を図った。

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この崖から水が湧く

 神社境内の奥には写真のような崖があり、この崖下から湧水が顔をのぞかせていたらしいのだが、このときは確認できなかった。が、写真のように湧水点付近には古石碑(小田原市重要文化財に指定)が立ち並んでおり、ここの湧水が人々の暮らしにとって大切な場所であったことが分かる。

 ただ20数年後、すぐ麓に小田原早川上水が開通したことで湧水の重要度は低下した。が、周辺の人々にとっては大切な水源であったという記憶は残っていたことだろう。

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小田原早川上水の開渠部分

 居神神社境内を離れ、上水の姿を探すことにした。西へ800mほど進めば取水口があるのだが、車をとめてある駅西口まで戻ることを考えると、これ以上歩くと他の場所を訪ねる体力も気力もなくなる。このため、地図を確認して、神社から近い上水の開渠部分を探した。

 写真はその開渠部分で、ここは神社からは200mほどの距離だった。神社のすぐ東側には東海道新幹線の高架があり、その下を通って住宅地に向かった。北側は城山と呼ばれる高台になっており、上水はそのキワに掘られている。新幹線下からは暗渠になっているので、居神神社の下ではその姿を見ることはできない。

 なお、写真の場所の標高は14.4mだが、高台の住宅地は30m地点以上のところにある。また、上水の取水口の標高は20m、居神神社入口は13.3m、水神社は20.4m、古石碑は26m地点にある。

 小田原早川上水は日本最古の上水といわれ、今のところこれより古い上水施設は発見されていない。小田原北条氏に強い影響を受けている徳川家は、この上水をモデルにして江戸の市街地を拡大整備するために神田上水玉川上水を建造したと考えられている。小田原での小さな一歩が、巨大都市・江戸を産む契機となった。小田原の知恵を知っていた家康だからこそ、未開発地ながら彼の巨大構想が実現可能な江戸の地を拠点に選んだのだろう。本ブログの57回・58回で触れている「小名木川」だって、北条氏の遺産を利用したものなのである。誠に家康は賢いヤツだった。 

◎早川港を訪ねる

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小田原漁港が正式名称の早川港

 ずっと以前はよく、早川港で小物釣りの取材をした。午後であれば港内に比較的自由に駐車でき、仕事の邪魔にならない場所であればいたるところで竿が出せた。しかし、釣り人のマナーが悪いこともあって次第に釣り場や駐車は制限され、現在では南側の一角だけが釣り可能となっている。

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小田原提灯の形をした白灯・赤灯

 釣り可能な南側は「小田原ちょうちん灯台ビュースポット」として整備され、小突堤を含めて小物(おもにイワシ)釣り場として賑わう。写真のように、港の出入口に設置してある白灯も赤灯も、ともに小田原型提灯の形になっている。他の漁港であればとくに目を引く存在ではないが、ここが小田原の港であることで有意味を形成している。

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早川橋から川の流れを眺める

 河口近くに架かる早川橋(旧早川橋とも)から早川の上流方向を望んだ。川がなだらかな部分は少なく、すぐに箱根の山間の中に入っていくため、天然遡上のアユは多いものの、釣り場は限定されている。

 早川橋の北詰辺りにかつて、小田原城の総構の南端があり、そこは海からでも陸からでも攻め込まれやすい場所であったため、北条側は最有力の武将を配置した。八王子城主で第4代当主氏政の弟であった北条氏照(秀吉が処刑を命じた4人のうちの一人)がその任についていた。

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小田原さかなセンター

 早川港に隣接した場所(早川橋南詰のすぐ近く)に「小田原おさかなセンター」がある。その入り口のひとつに写真の「鳥の氏綱」の看板があった。まもなく開店する店らしいが、鳥と第2代当主との関係は不明だ。が、氏康ならともかく、氏政でも、ましてや氏直でもないところに意味があるのかもしれない。

◎酒匂海岸にて

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酒匂川河口から上流部を望む

 酒匂川は富士山東麓(抜川・鮎沢川)や丹沢山地南麓(玄倉川・河内川)などに水源を有する2級河川で、上流部の前者は西から東へ、後者は北から南へ流れ、神奈川県山北町川西辺り(比較的近い場所に東名高速・鮎沢パーキングエリアがある)で両者は合流する。鮎沢川水系の方が河内川水系よりも長いので、鮎沢川を酒匂川の上流部とし、河内川は支流に位置付けられる。

 河内川の最上流部は山深くかつ雨量が多いため、途中に丹沢湖で水量を調節している。最上流部のひとつである玄倉川(くろくらがわ)は、20年ほど前に13人の死者を出す水難事故でその名が知られるようになった。

 鮎沢川は東名高速道路に沿って流れており、大人気の御殿場プレミアムアウトレット(私は何度も足を運ばされた)のすぐ北側にあるのだが、その川が酒匂川の上流部であることはほとんど知られていない。

 その酒匂川が海に溶け込む場所が酒匂海岸(狭義には川の左岸側)と呼ばれる砂浜で、広めの無料駐車場があるため、サーフィンや投げ釣りを楽しむ人、ただボケーッとして口を開けたまま海を眺める人などで賑わう。

 写真は、その酒匂海岸の河口部から上流方向を見たもの。最下流部は極めてなだらかで、かつ川には数多くの橋が架かっているのがよく分かる。

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流れの一部はなんとか相模湾に到達

 比較的流量が豊富な酒匂川だが、河口部は砂浜が広がっており、かつ傾斜が極めて緩やかなため、瀬切れを起こすことがよくある。河口部は波の作用によって自然堤防のようにやや高くなっており、その一方で川床は浸透力の高い砂地のため、流れの大半は地下に染み込んでしまって海にまで到達できないのだ。

 河口の瀬切れによる障害として、春に海で育った稚アユの遡上が困難になるという事態がよく知られている。天然遡上の稚アユに多くの期待を寄せている河川(例えば静岡県興津川)では、この瀬切れを回避するため漁協をあげて砂浜を掘って河道の確保に努めている。

 残念ながら、酒匂川では漁協の体力が相当に失われたため、こうした労力を割くことがなくなっているようで、結果、アユの魚影が薄くなり、それが釣り人の減少につながっている。そのことは漁協の収入減という事態を生じさせ、そのことが放流アユの減少、さらなる釣り人の減少という悪循環に至っている。

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富士山と西湘バイパスと砂の富士と

 海岸の一部に砂山の集団があった。初めは工事か何かで盛られたものかと思ったのだが、写真のような角度から砂山を見たときに得心した。西湘バイパスの向こうに富士の姿を見たからである。

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酒匂海岸は投げ釣り場として知られている

 酒匂海岸は何度か、投げ釣りの取材でやってきたことがある。一度は、私の友人でかつ写真の師匠でもあるK氏にカメラマン役を頼んでここに来たことがあった。彼は釣りをするということに関してまったく興味がなかったのだが、このときに初めてリールの付いた竿を持って、仕掛けを海に投げ入れるという作業を体験することになった。

 狙った場所に仕掛けを投げ入れるのは慣れないと意外に難しいのだが、少なくとも誰でも前方に投げることはできる。が、彼は5回試みたがすべて仕掛けは前には飛ばず、良くて真横だった。不器用なわけではなく、彼はすべて理屈から入る性格なので、どのタイミングでラインを押さえている指を放せば良いかを考えたらしい。理論が明らかになればすぐに身体的協応構造が確立するので上手に投げられるそうだが、その理論の解明・確立に時間が掛かるようだ。 

◎久しぶりに酒匂川を訪ねる

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かつてアユ釣りが盛んだった酒匂川

 南関東およびその周辺のアユ釣り場では狩野川がもっとも知られる存在だったが、一時は酒匂川がそれを凌ぐ勢いだった。アクセスの良さから釣りの全国大会や関東地区大会の会場にもなった。そのメインの場所が写真の冨士道橋周辺だった。

 私もその時分にはよく酒匂川を訪れた。流れが緩やかで小石底が大半なのでとても釣りやすく、かつポイントは無数にあった。写真にあるように、この川には砂の流出を防ぐための小堰堤が沢山あるので、その周りも良いポイントとなった。

 が、いつからか”川が荒れて”からは訪れることはなくなった。酒匂川自体には2019年までは訪れている。本ブログの第61回で紹介したケンさんとも何度かこの川にやってきている。しかし、その際は上流部の山北地区に出掛け、かつては大賑わいだった下流部に来ることはなかった。それゆえ、冨士道橋から流れを見るのは10数年ぶりであった。それでも、こうして川を眺めると当時のことが思い出される。

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天井川状態の酒匂川に架かる冨士道橋

 酒匂川は、足柄山地から解放されると流れが急に緩やかになる。そこから川は東西に大いに暴れて、足柄山地と東の大磯丘陵との間に足柄平野と呼ばれる沖積平野を生んだ。次第にその流路は定まりつつあったものの、平野部では洪水に襲われることが度々あった。そこで小田原藩は、洪水の流速を弱めるため山北地区に春日森堤、岩流瀬(がらぜ)堤、大口堤などを築いた。

 が、1707(宝永4)年に富士山が大規模な宝永噴火を起こしたため、酒匂川流域には大量の降下火砕物が降り注ぎ、山北地区では火砕物が60センチ以上も堆積した。これが降雨の度に下流方向に移動するため川床は上昇して土砂氾濫を誘発した。

 上の写真から分かるように、現在でも周囲の平地(住宅地、工場、田畑が多くある)よりも川床はやや高い。写真の富士道橋地点では、川床の標高は20.4mあるが、右左岸の宅地は19.9mとなっており、酒匂川は天井川の様相を呈している。 

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橋上から富士を眺める

 1711(正徳元)年に発生した大洪水は未完成だった岩流瀬堤とすでに完成していた大口堤を完全に破壊し、平野の扇頂部にあった岡野村や班目(まだらめ)村など6つの村を水没させた。このため、「大口水下水損六ヶ村」は幕府に大口堤修復の嘆願書を提出した。

 幕府がこの嘆願書を受け入れて、公儀負担で堤の改修工事をおこなうことになったのは、大洪水からかなり後の1726年だった。当時の江戸町奉行大岡忠相は、23年から川除御普請御用の任にあって荒川や多摩川の治水をおこなっていた田中丘隅(多摩郡平沢村=現在のあきる野市出身の農政家)に酒匂川改修工事の指揮を命じた。

 丘隅は2月に着手して6月に工事を完成させた。大口堰は「文命東堤」、岩流瀬堤は「文命西堤」と命名された。ここでいう「文命」とは黄河の治水を成功させた夏王朝の「禹」の名である。なお、この禹については本ブログの第62回ですでに触れている。

 が、この堤の完成によっても酒匂川の氾濫は完全に収まった訳ではない。そのことは、最終項(二宮金次郎)で触れることになる。

 上の写真は、富士道橋から足柄山地の向こうに鎮座する富士山を眺めたもの。この山の山体崩壊による岩屑なだれや噴火による降下火砕物が酒匂川流域の人々を長年に渡って苦しめてきた。が、この山に責めを負わせるわけにはいかない。富士山はただ、自然物としてそこに存在するだけなのだから。

◎上府中公園を訪ねる

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上府中公園の入口

 相模国は66ある律令国の中で唯一、国府の位置が特定されていない。国府については本ブログの第31回で触れているのでここでは述べない。武蔵国であれば府中市国府があったことは判明しているが、相模国ではそれがどこにあったか不明なのだ。

 主に3つの説があり、第一は海老名市⇒平塚市⇒大磯町と三遷したというもの、第二は小田原市平塚市⇒大磯町と三遷したというもの、第三は平塚市⇒大磯町と二遷というものだ。

 平塚(かつての大住郡)の名は平安初期の『和名類聚抄』に、大磯(余綾郡)は鎌倉初期の『伊呂波字類抄』にあって、それぞれ国府らしい記述がある。実際、平塚市では発掘調査の結果から二遷説を採用している。

 問題は、小田原と海老名市である。海老名市(高座郡)には国分の字名があり、そこには相模国分寺跡があって国指定の史跡にもなっている。それゆえ、国府には欠かすことのできない国分寺の存在が明らかになっている以上、海老名市もしくはその近くに初期の国府があったと考えることは十分可能だ。

 問題は小田原である。小田原市東部には国府津の地名があり、その北側には写真の「上府中公園」がある。国府津と上府中との間には「千代廃寺(千代寺院跡)」があってここが初期の国分寺であると考えられたのだ。

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これは我が府中の府中公園

 上の写真は小田原とは何の関係はなく、私の家の近くにある「府中公園」を紹介しただけのこと。私の日課となっている徘徊は、まずこの公園を廻ってからそのときの気分次第で東西南北に移動を開始するのだ。景観は、完全に上府中公園に負けている。

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大きな池でカルガモマガモが遊ぶ

 ところが、その千代廃寺は2006年からの発掘調査によって、初期の国分寺の特徴であるはずの東大寺式伽藍配置ではなく、法隆寺式であるらしいことが判明したのだ。また、近くにある曽我遺跡(永塚、千代、高田の三集落)に国府があったと推定されたが、現在では、ここも地方豪族の拠点だったと考えられている。

 こうしてみると、公園がある場所にはかつて上府中村があった(下府中村も)が、これは国府の意味の府中だったのか、たまたま(上下)府中村と付けたのかは判然としない。分かっていることは、この府中は「ふちゅう」とは読まず、「ふなか」と読むということだけだ。府中は不忠だけれど、府中も不仲で縁起は良くない。

 また、南にある国府津国府の港を意味する「国府津」(全国に数か所ある)ではなく、かつてこの地域は「粉水」と呼ばれていたのを、ここが国府の港であれば良いのにという願望が「国府津」の漢字を当てただけなのかもしれない。

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やはり、ここにも金次郎

 この上府中公園の敷地は広々としており、写真のようによく整備された池や郷土の誇りである二宮金次郎像がある。たとえこの地が相模国の初期の国府でなかったとしても、大偉人を生んだ土地であるということで十分に誇ることができる。

◎金次郎の生誕地を訪ねる

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尊徳生誕の地

 二宮金次郎(金治郎)は1787(天明7)年、酒匂川右岸にある足柄上郡栢山(かやま)村に生まれた。父の利右衛門は二宮本家の次男としてのんびり育ち、大変な読書家で将来は学者になりたいと考えていた。しかし、分家した利右衛門の父の弟の家に養子に入ったため農家を継ぐことになった。この父の下で金次郎は5歳のときから読み書きを習い、さらに漢文の本を2冊与えられそれを熱心に素読した。実に勉強好きだったのだ。

 その5歳のとき、酒匂川に暴風雨による大洪水が発生し右岸堤防が決壊したため、二宮家の水田はすべて流出してしまった。刈り入れ直前の米は収穫できず、小作人に貸し出していた田からの賃料は見込めず、さらに小作人に貸していたお金の返却も見込めなくなり、二宮家は大きな負債を抱えることになった。

 金次郎が11歳のとき、父親が病に倒れた。栢山村では春先に土手修復のための賦役が課せられていたので、金次郎は父に代わりに働きに出た。竹で編んだ蛇篭に玉石を詰めたものを決壊しそうな土手に運ぶのだ。が、子供の金次郎には荷が重かった。そこで金次郎は夜なべをして草鞋(わらじ)を編み、賦役に駆り出された人々に与えた。初めはその行為を小馬鹿にしていた村人たちも、睡眠時間を削って草鞋を作り、しかもその出来栄えが良かったため、やがて感謝の言葉が人々から発せられるようになり、さらに少額ながら代金を払うものまで出てきた。

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尊徳記念館

 12歳のとき、名主の岡部伊助が孫の子守を探しているという噂を聞いたので、金次郎はその役に就くことを願い出た。その役を懸命にこなし、手間賃として二百文をもらった。そのお金を寝込んでいる父親に見せた。すると父親は『管子』にある故事を金次郎に聞かせた。「一年の計は穀を植うるにしくはなし、十年の計は木を植うるにしくはなし、終身の計は人を植うるにしくはなし」と。

 金次郎はその話を聞いて、松の苗を買ってそれを酒匂川の土手に植えることを決意した。土手に大きな木が植えてあれば、木の根が張り渡って地盤がよく締まり、決壊を防ぐ効果があることを知っていたからだ。金次郎は植木屋に行き、苗の購入をもちかけた。金次郎の話を聞いた植木屋は丁度、間引きしたクロマツの苗があるからと、1本1文、都合200本の苗を金次郎に渡した。彼はそれを土手に運び、1本ずつ丁寧に植えていった。

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金次郎の生家

 金次郎が14歳の時、父親(48歳)が死去した。一家を支えるため、彼は日の出前に起きて、入会地である久野山に行き薪(たきぎ)を運んだ。その行き帰りにだけ金次郎は好きな読書ができた。薪は自家用であると同時に売ることもできた。日中は野良仕事に精を出し、夜は草鞋作りに勤しんだ。草鞋はまとまった量になると小田原城下に出掛けて販売した。

 懸命に働いたものの借金返済のめどは立たず、結局、一部の土地を手放すことにした。土地が減れば小作料収入は見込めなくなるが、さりとて借金の返済ができなければ負債は雪ダルマ式に増えていくことになるからだ。土地を売却して借金の返済は完了したものの、残りの土地を金次郎の手だけで耕すことは不可能だった。

 こうした極貧のさなか、母は病死した。父親を失ってから2年後のことだった。残された金次郎以下3人の子供は一旦、離散することがきまったものの、金次郎と2歳下の弟の友吉が協力し、父の兄で本家を継いだ萬兵衛の指導の下に二宮家の土地を耕作することに決まった。稲は順調に生育し刈り入れ直前に達したとき、台風が到来して大雨となり、酒匂川が氾濫して金次郎の田は全滅した。

 これによって、金次郎は本家に引き取られ、二人の弟は母親の実家に引き取られることになった。金次郎は懸命に働いた。そして深夜には行灯を点けて読書した。これが油を無駄に使うという理由で本家の萬兵衛とその妻の怒りを買い、行灯の使用が禁じられ、読書は不可能になった。

 そんなとき、知人の油売りから「アブラナは土地を選ばないので自分で育てたらどうか」という助言の下、油商を紹介してもらった。5勺の菜種を借り、翌年に倍の一合を返却することで相談が決まった。金次郎は荒地を耕し、丹念にアブラナを育て、翌年には八升の菜種を収穫することができた。一合の菜種を返却するとともに残りの菜種をそれに相当する油に換えてもらった。菜種が取れるまでは自らも読書を禁じていたが、「これで本が読める」と金次郎は大いに喜んだ。

 春の田植えのとき、あぜ道に捨てられた苗を見つけた。苗は多めに用意されているため、余った苗は処分されるのだ。金次郎はそれを拾って、沼地となり果てた二宮家の土地だった場所を水抜きして耕し、そこに植えることにした。幸い、稲は順調に生長し一俵の米となった。しかもその土地は検地から外れているため年貢はかからなかった。

 荒地から自力で生み出した「米一俵」と「八升の菜種」。これがその後の金次郎の心の糧となった。金次郎が17歳のときである。

 「積小為大(小を積めば大と為る)」これは金次郎の言葉だが、彼のその後の人生は、このときの成功体験が原点となっている。

 やがて、金次郎は小田原藩の家老や藩主(大久保忠真)に見いだされ、数々の業績を残して、70年の生涯を終えた。

  *   *   *

 私はかつて、酒匂川にアユ釣りに出掛けた際、何度も写真の生家に立ち寄って金次郎の生涯を思った。私には100%真似の出来ない生き方だが、唯一、私に出来ることといえば、彼を尊崇することである。

 

*次回は三島市を訪ねます。三島大社だけでなく、豊富な湧水のある町を徘徊します。一部、三島から少しだけはみ出て柿田川などにも立ち寄る予定です。

 

〔65〕小田原駅と小田原城址公園を散歩する

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今日ある小田原の基礎を築いた北条早雲(伊勢宗瑞、伊勢新九郎盛時)

◎「小田原といえば?」「〇〇です!」

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2016年に大改修された小田原城天守

 「小田原から何を連想するか?」と私が問われたとすると、すぐに「だるま料理店」と答えるだろう。が、こんな反応をするのは私以外はほぼ皆無だと思われ、通常ならまず「小田原北条氏」、つぎに「小田原城」と答えるはずだ。

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小田原駅東口にしゃんと立っている尊徳像

 この2つ以外は案外、返答に窮するだろうが、歩きスマホが得意な人であれば「二宮尊徳二宮金次郎)」を思い浮かべるかも。もっとも、二宮の金ちゃんが生誕したとき(1787年)、その生家は足柄上郡栢山(かやま)村(現在は小田原市栢山)にあったので、彼のことはよく知っていても、生まれたのが小田原市であると答えるのは少々、難しいかもしれない、小田原市在住の人は別にして。

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小田原駅構内に吊り下げられている「小田原ちょうちん」

 「小田原提灯(ちょうちん)」もよく知られている存在だ。江戸時代の半ば、小田原在住の甚左衛門が、箱根越えの旅人のために考案して売り出したものがその起源と言われている。折りたたむと和紙の部分が上下の桶の中に収まるため携行性に優れている。

 写真は、JR小田原駅の改札口の天井から吊り下げられている巨大な提灯で、このような形をしているものを小田原型提灯と言う。人間界はもちろんのこと、猿が運営する駕籠屋でも、この型の提灯が使われている。そのことは、さる著名な童謡が証明している。

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あまりにも有名なかまぼこ店の幟(のぼり)

 小田原の名から「かまぼこ」を想像する人も多いかもしれない。「おせち料理」にはかまぼこは必須の存在だろうし、その大半は「板付け蒸しかまぼこ」であるはずだ。写真は「小田原かまぼこ」を代表する老舗の「鈴廣」が運営する「かまぼこの里」に掲げられていた幟を撮影したもの。本当ならば店内を写すべきなのだろうが、私には「鈴廣」は敷居が高すぎるので、入店をためらってしまったのだ。

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私には入店する勇気が生じなかった鈴廣本店

 「かまぼこ」の名の初見は室町時代の半ばと言われている。ただ、当時のものは「焼ちくわ」に似ていたそうだ。それゆえ、その姿が「蒲の穂」のようなので「がまのほ⇒かまぼこ」と呼ばれるようになったらしい。

 現在のような板に付いた「蒸かまぼこ」は江戸時代末期に登場し、とくに小田原式の白かまぼこは江戸で大いに好まれた。京大坂(大阪)では蒸した後に焼いてから販売されたが、小田原のかまぼこは、蒸したまま販売された。写真の「鈴廣」は慶応元(1865)年の創業というから老舗には違いない。実は、私もおせち料理の一品として鈴廣のかまぼこを2本有している。もちろん、購入したのではなく「もらいもの」だ。

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現在は、いろんな種類の「かまぼこ」が販売されている

 小田原市地場産業振興協議会では、小田原蒲鉾(かまぼこ)の伝統と品質を守るために「小田原かまぼこ十か条」を制定している。例えば2条には「原材料、副原料などをすべて吟味し、小田原蒲鉾の名をけっして辱めないこと。」、4条には「板付け蒸し蒲鉾であること。」とある。「小田原蒲鉾」を名乗るのも案外と大変なのだ。

 写真は、小田原城址公園の南側を通る国道1号線の歩道を徘徊していたときに目にした老舗蒲鉾店の幟である。「かまぼこケーキ」の名があったので、どんなものなのか少しだけ興味がわいたため、さしあたり歩道から店内をのぞき見してみた。かまぼこの有する魚臭さを消すためにクリームチーズを加えたもののようだが、これはあくまでも変わり種のかまぼこなので、”小田原”の名は付していない。というより、板付けではないため10か条の第4条に相当しない。それゆえ、小田原産は名乗れても「小田原蒲鉾」と呼ぶことはできない。

 以上のもの以外にも「小田原」を訪ね歩くと「ここも小田原なのだ」と気が付く名所はいくつもある。例えば、関東三大梅林のひとつ(あとは水戸の偕楽園と埼玉の越生(おごせ)梅林)に数えられる「曽我梅林」は、曽我兄弟の名と共によく知られている。ちなみに、三大梅林の中では、梅花・梅林だけに着目すると、曽我梅林の風景がもっとも美しいと思っている。他の2か所は、梅林そのものよりも梅林のある風景に興趣がある。それゆえ、今回は花の時期ではなかったので、あえて立ち寄らなかった。

小田原駅に初めて足を踏み入れた

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駅東口のデッキから小田原城天守閣を望む

 小田原は何百回となく(それ以上かも)通過している(伊豆半島や箱根に行くために)が、小田原そのものを目的地としたことはそう多くはない。小田原駅近辺に出掛けた場所としては、「だるま料理店」が一番多く、次に小田原城石垣山一夜城見物といった程度である。ただし、釣り目的で小田原方面に出掛けたことは結構あり、アユ釣りでは酒匂川、堤防釣りでは早川港や江の浦港が馴染みの場所だ。

 もっとも、それらは釣り場がたまたま小田原にあるというだけ(酒匂川での釣りの場合は、小田原地区から開成町山北町に移動する事もよくあった)で、小田原の存在を意識していた訳ではまったくない。そんなこともあって、小田原方面に出掛ける場合でもすべて車利用なので、小田原駅を利用したことはただに一度もなく、釣りの帰りに何度か知人(釣り仲間など)を小田原駅に送り届けたことがあるにすぎない。

 今回は小田原界隈を訪ねることを主目的としたため、初めて小田原駅に足を踏み入れることにした。といっても、電車を利用して出掛けた訳ではなく、駅西口近くの駐車場に車を置いて駅の構内や小田原城、それに市街地をうろついたのだ。

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西口の広場に屹立する「北条早雲」像

 東海道新幹線箱根登山鉄道の駅は西口に近いし、さらに東口より西口のほうが車の乗り入れが容易なためもあって、旅行客にとってはこちらのほうが使い勝手は良さそうだ。その西口駅前広場には、小田原発展の礎を築いた「北条(北條)早雲公」像が高々とそびえ立っている。

 北条早雲はあくまで俗称で、現在では「伊勢宗瑞(早雲庵宗瑞)」と表されるのが一般的になっている。実際、小田原北条氏(後北条氏)が北条を名乗るのは2代の氏綱からで、伊勢宗瑞が北条の名を用いたことは一度もない。

 私が若い頃、北条早雲伊勢新九郎)の出自は伊勢の素浪人で、のちに成り上がって相模国の支配権を得たとされていた。これは明治期以降に流布した俗説であって、実際には備中国伊勢氏の血筋で「伊勢新九郎盛時」という名を有し、室町幕府第9代将軍・足利義尚の申次衆や幕府直属軍を構成する奉公衆であったことが分かっている。

 伊勢氏は代々、室町幕府政所執事役に就いており、盛時の家系は伊勢本家の次に位が高かった。つまり伊勢新九郎は、素性の分からない「馬の骨」ではなく、名門の誉れ高い血筋だった。ちなみに、盛時の姉の北河殿は、駿河今川家8代当主の今川義忠(今川義元の祖父)に嫁いでいる。

 伊勢宗瑞は今川氏の命で伊豆国相模国西部に進出し、大森氏から小田原城を奪った。が、宗瑞の拠点はあくまで伊豆国韮山城で、小田原城は出城のひとつにすぎなかった。その小田原城後北条氏の拠点となるのは、これも2代の氏綱からである。

 そうはいっても、今日の小田原があるのは「北条早雲」の活躍があったればこそなので、やはり小田原駅には「早雲公像」が相応しいだろう。いや、まったくもって。

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構内の階段には小田原城が描かれていた

 早雲公像を目にした後、いよいよ駅ビル内に足を踏み入れた。人口188339人(21年11月現在)の駅にしては、我が府中市(同現在262900人)の京王線府中駅の数百倍は立派である。これは、小田原が神奈川県西部を代表する都市というだけでなく、箱根の玄関口に位置するということも関係しているのだろう。それに、江戸時代には東海道を代表する宿場町として栄えたという点も影響しているし、箱根駅伝の中継点だということも関係しているかも。

 それに引き換え、小田原よりも人口が多いだけの府中市は、東京競馬場や府中刑務所の玄関口というだけで、それ以外に誇るものはほとんどない(詳細は本ブログの31,32回参照)という有様なので、駅界隈が貧弱なのも致し方ない。

 駅ビルの中に東西をつなぐ自由通路があり、その通路に面して東海道新幹線小田急小田原線箱根登山鉄道JR東海道線などの改札口がある。もちろん、コンコースにはレストラン、土産物店なども立ち並んでいる。写真はその自由通路に至るための階段に描かれていた小田原城のイラストだ。やはり、小田原には北条早雲小田原城が似つかわしい。 

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新幹線改札口に向かう通路。柱の「ミツウロコ」が小田原北条氏の家紋

 駅構内の柱の一部に、写真の家紋(ミツウロコ、三つ鱗)が描かれてあった。一般には、鎌倉北条家の家紋が平べったい二等辺三角形ミツウロコ、小田原北条家が正三角形のミツウロコとされているが、写真の小田原駅のものは正三角形には見えない。一方、鎌倉の寺社などの写真を調べてみると、確かに二等辺三角形のものが多いが、正三角形に近いものも少なからずあった。

 ゆえに、北条家の家紋が「ミツウロコ」であるという点が肝要なのであって、その形が二等辺三角形か正三角形かどうかは、さして重要ではないのでは、と思えるのだが。

 ネットでミツウロコについて調べたとき、「第2回鎌倉検定2級」の問題が出ており、それは鎌倉北条氏の家紋を選ばせるものだが、選択肢には正三角形と二等辺三角形ミツウロコなどが挙げられていた。その試験の正解は二等辺三角形の方のミツウロコとのことだ。とすれば、小田原駅ミツウロコは鎌倉北条家のものとなってしまう。

 検定試験のための検定が必要なのではないか。

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小田急線と箱根登山鉄道の改札口

 小田急電鉄小田原急行電鉄が起源なので、小田原に駅があるのは当然のことだろう。箱根登山鉄道小田急グループに属しているので、改札口が一緒なのも別に何の不思議もない。

 小田急と言えばすぐに「ロマンスカー」を思い描くが、実は、私は一度もそれに乗ったことがない。正確に言えば、車両に乗り込んだことはある。しかし同行者が遅刻したために結局、発車前に降りざるを得なかった。

 ロマンスカーについてはそれが二番目の記憶で、やはりもっとも印象深いのは、村下孝蔵の『ロマンスカー』という歌だ。メロディーはもちろんのこと歌詞が素晴らしく、歌は「君はいない」の言葉で終わる。確かに、君はいなかったので、私はロマンスカーに乗り損ねた。

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東口広場から駅ビルを望む

 自由通路を東に進んで東口に出た。東口周辺が、小田原ではもっとも賑わいのある場所だ。東口ターミナルの東端から駅ビルを眺めたのが上の写真。撮影地点の背後に、整った、かつ華やいだ町並みがある。

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「ミナカ小田原」の小田原新城下町

 鉄道線に並行して大きな複合商業施設がある。「ミナカ小田原」という名称で、東口再開発事業の一環として整備され、昨年の12月にオープンした。14階建てのタワー棟と4階建ての「小田原新城下町」とからなり、写真はその江戸時代の町並みを模した新城下町の建物で、写真では分かりずらいが、その背後にタワー棟がある。

 「ミナカ」とは「真ん中」という意味の古語で、万葉集では富士山を指すという。市民からの公募で「ミナカ」の名を選んだそうだが、小田原市民の教養の高さがうかがわれる。もっとも、この施設の運営主体は温泉施設で有名な「万葉倶楽部」なのだけれど。

 この点、わが府中の再開発施設の名は「ル・シーニュ」「くるる」「ミッテン」「フォーリス」などであり、それらの名からは知性の欠片すら感じられない。

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小田原ではコンビニも宿場町風

 新城下町市場の一階には写真のコンビニが入っているが、それもまた、すっかり城下町の中に溶け込んでいる。なお、建物の4階には宿泊施設があり、ここもホテルというより旅籠風の外観だった。

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お城通りを小田原城址公園方向に進む

 新城下町(ミナカ小田原)があるのは「お城通り」と東海道線との間。そのお城通りを南に進んで小田原城址公園に向かった。ただし、通りと城址公園との間には「旭丘高校」があるため、高校の手前を左折して「弁財天通り」を東に進み、突き当りにある「お堀端通り」を南に進むと城址公園の東端に出る。

 なお、その高校の敷地はかつて「弁財天曲輪」があった場所。なので、学校は城内に建てられたことになる。そういえばかつて、小田原には県立小田原城内高校という学校があったことを思い出した。ずいぶん昔、私が某予備校の厚木校舎に出講していたとき、その学校の女生徒が何人も受講していた。彼女らが履歴書を書くとき、学歴欄には「小田原城内高等学校」と記入することになる。それだけでかっこいいと思った。

 残念ながら、その学校は県立小田原高校に統合されてなくなってしまった。それなら、小田原高校小田原城外高校にすれば良かったのに。まったく恰好良くはないが。

 それは、城内は規定された空間だが、城外は未規定の空間だからだ。ドーナツの輪の中の「空」と輪の外の「空」は、同じ空であってもまったく異なる空であることのごとくに。

小田原城址公園散策~初めて天守閣に登る

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学橋を渡ると「二の丸」に至る

 お堀に架かる朱に塗られた橋は「学橋」と名付けられている。この橋を渡ると小田原城の「二の丸」に至る。写真では分かりづらいが、橋の向こうに天守閣が顔をのぞかせている。

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お堀と隅櫓と天守閣と

 城址公園のパンフレットによれば、正規登城ルートは「馬出門」から入るとのことなので、学橋は渡らずにお堀端通りをもう少し南下した。

 写真は、馬出門に至る土橋の少し手前から、お堀と、二の丸の南角にある「隅櫓」と、その向こうにそびえる天守閣とを眺めたもの。城址公園の周りを何回か廻ったが、ここから見るお城の風景がもっとも美しく思えた。 

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土橋の先にある「馬出門」

 写真は、お堀に架かる土橋から馬出門を眺めたもの。ここが「正規登城ルート」なので、わたしはしずしずと登城することにした。

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馬出門に並ぶ内冠木門

 先の写真から分かるように馬出門をくぐってもすぐに突き当りになる。これは敵が容易に進入できないようにするための形で、お城の構造では「お約束事」になっている。一般には「枡形虎口」と呼ばれている。

 当然、進入路は直角になっているため、門も2か所あることになる。先の写真がお堀に近い門で、上の写真が内側にある「内冠木門」となる。馬出門は、写真の右手にある。向かいに見える屋根は隅櫓のものだ。

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住吉橋と銅門の屋根と

 馬出門と内冠木門をくぐると「馬屋曲輪」に至る。その馬屋曲輪をクランク状に進むと写真の住吉橋と銅(あかがね)門が見えてくる。もちろん、そこも「枡形虎口」になっているため、門を2か所くぐって大手筋に出ることになる。

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御茶壷曲輪から銅門を望む

 ただ私は、少しだけ寄り道をした。馬屋曲輪に続く御茶壷曲輪の土塁が気になったからだ。もっとも、橋を渡らずに100mほど西に移動しただけだけれど。

 小田原城は伊勢宗瑞が大森氏から奪い取ったということはすでに触れている。それは1496年から1501年の間のこととされている。

 小田原に城を築いた大森氏は承久の乱(1221年)を描いた軍記『承久記』に、北条泰時に従軍した大森弥二郎兄弟と記されているのが初見とのこと。その後は北条得宗家に被官したという記録が残っている。北条氏が滅亡したあとは足利氏の鎌倉公方の下で活動し、領地が駿河国の東端にあったために箱根や足柄山の関所を管理していた。

 1416(応永23)年に上杉禅秀(氏憲)の乱が勃発し、鎌倉公方足利持氏が追われ大森邸に逃げ込んだ。大森氏は公方側として乱を鎮め、その勲功によって相模国西部(足柄上郡、下郡)の支配権を得た。結果、小田原に進出して城を築いたのだ。

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御茶壷曲輪の土塁

 御茶壷曲輪には小田原北条氏時代に築いたとされる土塁が良く残っている。こうした土塁を見るために少し寄り道をしたのだ。

 小田原城は酒匂川が造った沖積平野である足柄平野の南端にあって、東と南は相模湾、西側は箱根古期外輪山(約40万~18万年前に形成)の山裾に位置している。学橋東詰の標高は8.7m、馬出門は9.9m、御茶壷曲輪は10.8m、二の丸は11.9m、本丸は29.6mだ。ちなみに、早雲公像は14.3m、ミナカ小田原は10.7mのところにある。

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本丸に通じる大手筋に設けられた銅門

 写真の銅門(あかがねもん)は1997年に復元された。扉の飾り金具に銅が用いられていたことからその名が付けられとのこと。

 伊勢宗瑞は、駿河今川氏の第9代当主で、彼の姉の北河殿の子(つまり宗瑞の甥)である今川氏親(うじちか)の政務を補佐するため、京都よりも駿河にいることが多かった。

 1493(明応2)年、伊豆国の堀越(ほりごえ)公方(鎌倉公方の後進のひとつ)の内紛=豆州騒動(中心人物は足利茶々丸=第11代将軍・足利義澄の異母兄)を抑えるため、将軍の命で伊豆国に出兵(乱入とも)した。氏親などの支援を受けて茶々丸伊豆大島に追放したため、宗瑞は「伊豆の国主」と言われるようになり戦国大名の仲間入りを果たした。そして、韮山城を拠点にして伊豆国の支配を開始した。

 ただ、茶々丸側の勢力は各地に残存しており、宗瑞が甲斐国において茶々丸を自害に追い込んだのは1498(明応7)年のことであった。これによって宗瑞は、伊豆国の支配権を完全に掌握した。

 なお、この伊豆出兵の際に伊勢新九郎盛時は出家して「宗瑞」を名乗るようになった。それまでの幕府奉公衆という立場から、独立した戦国大名への転換を図ったのであった。

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銅門を正面から眺める

 住吉橋を渡り、その北詰にある門をくぐる。ここも枡形虎口になっているので、門の先を直角に左折する。その場所から銅門を眺めたのが上の写真。この門をくぐると二の丸、または本丸に向かう大手筋に出る。

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銅門の北にある二の丸広場

 江戸時代の二の丸には「二の丸御屋形」があった。本丸には将軍家の御殿があったため、小田原藩主の住居や藩の政務を司る政庁はその御屋形にあったと考えられている。

 伊勢宗瑞が大森藤頼から小田原城を奪取したのは1496(明応5)年から1501(文亀元)年の間なのだが、その経緯は未だに明らかになっていない。軍記物には鷹狩りの話や、1000頭の牛の角に松明を結び付けた話などで宗瑞が城を奪った顛末を面白可笑しく描いているが、それらはまったくの作り話である。

 宗瑞が小田原城を奪う以前は、宗瑞と大森氏はともに扇谷上杉氏の有力な与党であって、山内上杉氏側を敵にして戦っている。が、宗瑞が小田原城を奪ったと考えられている時期(1501年以降)から、大森氏は山内上杉側に転じている。

 宗瑞が小田原城を奪ったということは、単に拠点を確保したということだけに留まらず、相模国西部をその支配下に置いたということになる。

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本丸に続く橋と階段

 大手筋から本丸方向に進むため常磐木門へ向かった。朱に塗られた橋を渡り、その先の階段を上っていくと常磐木門がある枡形虎口に至る。階段や周辺の土手の様子から、小田原城の本丸は箱根の古期外輪山が形成した山裾の傾斜地を利用して造られていることが良く分かる。

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本丸直下の東堀は現在、菖蒲田として整備されている

 本丸の直下には東堀があったが、その場所は現在、菖蒲田として利用されている。私がここを訪れたとき、田では菖蒲の手入れがおこなわれていた。開花期はさぞかし見事だろう。

 伊勢宗瑞の武蔵国進出としてぜひとも押さえておかなければならないのが1504(永正元)年の「立河原の戦い」だ。これは長享の乱(1487~1505年)を結末に導く引き金になった戦いでもある。

 長享の乱関東管領山内上杉家(上杉家嫡流)と扇谷上杉家(本拠地河越城)との間の関東支配をめぐる争いだが、切っ掛けは扇谷上杉家の家宰として著しい台頭を見せていた太田道灌の暗殺だった。これによって上杉家同士の対立が本格化し、20年弱に渡る抗争が続いた。

 立河原の戦いでは、伊勢宗瑞と今川氏親軍は扇谷上杉側を支援して勝利に導いたが、この戦いの後に宗瑞と今川勢は撤退したため、扇谷上杉勢は山内上杉側の反撃にあい、結局、越後上杉勢の支援を受けた山内上杉勢が河越城を包囲したことによって扇谷上杉勢は降伏し、長年に渡る争いは決着を見た。

 が、この戦いで両上杉勢は疲弊したため、伊勢宗瑞が相模国東部や武蔵国南部に勢力を拡張する好機となった。 

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この常盤木門をくぐると本丸に至る

 写真は、1971(昭和46)年に再建された「常盤木門」。この門内には、刀剣・甲冑を展示している「SAМRAI館」があるが、私は立ち寄らずに本丸へと進んだ。

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本丸から天守閣を望む

 本丸にはかつて「動物園」があったと記憶していたが、それはほとんど消滅状態で、ただサルの檻があるだけだった。調べてみると、1980年代の後半にはゾウ、ライオン、フラミンゴなど70種332点の動物がいたそうだ。それが次第に縮小され、現在は10匹ほどのサルがいるだけとなった。これもいずれ撤去されるそうだ。

 かなりの広さをもつ本丸には、動物たちの代わりに、写真のような「小田原ちょうちん」が展示してあった。

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本丸には小学生が作った小田原提灯が飾られていた

 これらの小田原ちょうちんは、地元の小学生が作成したもののようだ。見物してみると、ちょうちん自体はどれも同じようなので「提灯キット」があるのかもしれないが、描かれている絵や文字が面白かった。丁寧に仕上げているものもあれば、簡単な文字だけのものもあった。私は絵が大の苦手なので、自分ならばミツウロコか、”小田原”の文字を書くだろうと思ったが、実際、そうした作品は意外にも多かった。彼彼女は私と同じように、手抜きの人生を送るのだろうか?

天守閣に登ってみた

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石垣からの高さは日本第7位

 2016年に大改修された天守閣は近代的な建築物のように見えた。実際、1960年に江戸時代にあったとされる天守閣が復元され、さらに5年前に大改修され化粧直しもおこなわれているため、形は江戸様であっても建造物そのものは現代的なのだ。石垣からの高さは27.2mで、これは全国にある城の中では第7位の高さを誇るとのこと。

 なお、現在ある小田原城の姿は、江戸初期に小田原に入封した稲葉正勝・正則父子が1633(寛永10)年の大地震によって大破した城を近世的城郭に仕上げたものを模したものである。

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最上階から箱根方面を望む

 天守閣に入るには510円が必要だ。内部は現代の博物館のように整っており、北条氏にまつわる展示品も数多くあった。当日は小学生の集団が群がっていたので、そうした展示品に触れることはせず、ひたすら最上階を目指した。

 当日は天気が良かったのでまずまずの展望が見られた。写真は箱根の山々を眺めたもの。箱根の古期外輪山が小田原城の西側まで裾野を伸ばしていることが良く分かる。

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二子山に焦点を当ててみた

 望遠レンズを用いて箱根の山々をつぶさに観察し撮影した。左から下二子山(1065m)、上二子山(1099m)、駒ヶ岳(1356m)、神山(1438m)と続いている。

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御用米曲輪を眺める

 本丸の真北には「御用米曲輪」がある。発掘調査によって、ここには第4代・北条氏政の居館や庭園があったと推定されている。1569(永禄12)年に、武田信玄軍が二の丸から本丸直下まで攻め込み氏政館を放火した、という信玄の記録(書状)が残っている。

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小田原駅方向を眺める

 小田原駅の姿もよく見えた。右手の高い建物が、「ミナカ小田原」のタワー棟だ。

 現在の小田原城は大森氏や小田原北条氏時代のものを復元したわけではない。大森氏時代の城は、現在の二の丸や本丸辺りにあったということは発掘調査によって判明している。それを小田原北条氏も継承していることになる。よほど立地条件が良いのだろう。

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相模湾方向を眺める

 相模湾、大磯丘陵、三浦半島方向を眺めたのが上の写真。

 相模国西部の支配権を確立した伊勢宗瑞は相模国中部・東部へ進出した。当時、その地域の支配権を有していたのは、三浦半島の新井城(三崎城、荒井城)を拠点としていた三浦義同(よしあつ)だった。出家名が道寸なので、以下、三浦道寸と記す。道寸は岡崎城(現在の平塚市伊勢原市辺り)を軍事拠点として相模国東部の守りを固めていた。

 1509(永正9)年、伊勢宗瑞はその岡崎城を攻め落とし勢力を鎌倉まで広げた。翌10年、現在の逗子市にあたる「住吉城(住吉要害)」で守りを固めていた道寸に対して宗瑞は総攻撃を仕掛け、鎌倉近辺で大激戦を展開した。この戦いのとき、藤沢にある時宗総本山の遊行寺は全山焼失した。箱根駅伝のテレビ中継では必ず、遊行寺の坂が出るので、テレビ観戦の際は、ここが宗瑞VS道寸の激戦の場だったことを頭の片隅に留めておきたい。

 三浦道寸を三崎の新井城まで後退させたが、同城に籠城した道寸は激しく抵抗し、また扇谷上杉家の反抗もあって、新井城を落とすには3年も掛かった。1516(永正139)年、宗瑞は三浦道寸・義意父子を自害させることで戦いに勝利し、三浦郡の支配権を得た。これによって、伊勢宗瑞は相模国の総てを掌握した。

 なお、伊勢宗瑞と三浦道寸については、本ブログの第24回で簡単に紹介している。

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石垣山一夜城がある笠懸山方向を望む

 約100年、5代に渡る小田原北条家は1590年に滅んだ。拠点の小田原城は、豊臣秀吉の軍勢15万人(22万人とも)に包囲されて落城した。なお、秀吉が拠点とした石垣山一夜城は、小田原城の南西側約3キロのところにある。

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石垣山から小田原城を眺める

 写真は、その一夜城から小田原城方向を望んだもの。一夜にして出来上がったので一夜城と呼ばれているが、実際には約80日、延べ4万人を動員して築いた。

 次回はその石垣山一夜城の話から始める予定だ。

 

*第66回は一夜城、小田原駅界隈、二宮尊徳、酒匂川などを紹介します。

〔64〕甲府盆地の縁辺探索(2)~盆地の西や南側を徘徊

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リニア実験線と走行試験車両と甲府盆地

◎韮崎はニラの先っちょ!?

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韮崎台地は横から見てもニラの葉先のよう

 韮崎市山梨県の北西部に位置し、中心街は甲府盆地の北西端にある。第62回で盆地の形を「飛べない蝙蝠」に例えたのだが、それでいえば左翼の先端に韮崎は存在することになる。

 韮崎の名は、その地の形状に由来するとされている。釜無川と塩川(一部は須玉川)とに挟まれて削り残された台地が、横から見ても上から見ても、ニラの葉っぱの先端部に似た形をしているからというのがその理由。上の写真は、釜無川の右岸から台地の南東端を見たものだが、確かに「ニラの葉先」に見える。上からの場合、グーグルマップの航空写真を参照すると、ニラの葉先状態が一層顕著に分かる。

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台地の上へと駆け上がってゆく中央本線

 韮崎の中心街は両河川の合流点が形成した氾濫原にある。国道20号線(甲州街道、R20)は釜無川の左岸のすぐキワを進むが、中央本線は氾濫原の低地から台地の上へと通じていく。写真は韮崎駅を側道から見上げたもので、ホームの標高は361mだ。中央本線が、塩川を越えて氾濫原に入ったときは340mの位置だったが、少しずつ高度を上げて台地の中心に向かっていく。韮崎駅を過ぎると、線路は台地上に乗り上がるため、切り通し(一部はトンネル)を形成しながら高さを稼ぎ、次の新府駅の標高は448mとなっている。

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台地の東端に立つ「平和観音」

 写真は、「韮崎台地」(七里岩台地)の南東端に立っている「平和観音」を、市の中心街から見上げたもの。撮影地点の標高は355m、平和観音が立つ位置は392mだ。平和観音は1961年に建立され、高さは16.61mある。一帯は「観音山公園」として整備されている。桜の名所でもあるらしい。

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台地の上から市街地を眺める

 平和観音前方の末端崖上(標高377m)から市街地を眺めたのが上の写真。左手に続く森は塩川左岸のもので、右手の森は釜無川右岸のもの。その間に両河川の合流点がある。左手には中央本線韮崎駅の姿も見て取れる。

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武田勝頼が造った「新府城」跡
の入口

 観音山公園を離れ、私は台地の上を北西に進んだ。台地上の道を進むのは今回が初めてだ。私は韮崎市を訪れたことは何度もあるが、その大半はアユ釣りのためだ。R20沿いの釜無川、R141(佐久甲州街道清里ライン)沿いの塩川は、ともに流れが緩やかなので釣りやすい場所が多い。が、近年は魚影が薄くなった(とりわけ釜無川)こともあり、竿を出すことはほぼなくなってしまった。

 台地の上を走る県道17号線(七里岩ライン)は、結構アップダウンがあり、曲路も多い。台地の上には幾か所にも小高い山が並んでいるためで、それらを避けるために道は曲がりくねっているのだ。

 小高い山のひとつに「新府城」の跡がある。撮影地点の標高は473m、城跡のある頂は524m。新府城は1581年、躑躅ヶ崎館に代わる砦として武田勝頼によって造られた。が、勝頼は織田信長勢に攻められ翌年に自刃しているため、城は完成を見ていないとのこと。私が気に入っている戦国武将の一人である北条氏照が築きかけた八王子城と同じような運命を辿っている。

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釜無川右岸から新府城跡がある山を望む

 写真は、新府城跡のある山を釜無川右岸から撮影したもの。川に架かるのは桐山橋で、ずっと以前、この橋周辺で私は何度かアユ釣りをした。橋は標高400m地点にあるので、城跡との比高は124mある。しかもこの南西側は断崖絶壁なので城自体の守りは堅い、城主の力量はともかく。

◎韮崎岩屑(がんせつ)流と七里岩

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釜無川左岸に連なる七里岩

 以前のように釜無川でアユ釣りをする機会がなくなったので、写真にある「七里岩」の姿を見ることは相当に少なくなった。それでも、年に数回は甲斐駒ヶ岳を眺めるために、尾白川の極めて澄んだ水の流れに触れに行ったり、日本の駅の名ではもっとも美しい語感を有していると勝手に思い込んでいる「信濃境」駅を訪ねたりするだけのためにR20を韮崎から茅野方向に走るので、七里岩に触れることがまったくなくなったわけではない。

 七里岩は広義には、長野県富士見町(信濃境駅がある)から韮崎市まで30キロほど(約七里)続く台地(韮崎台地とも)のことで、狭義には釜無川左岸に続く河成崖を指す。崖は樹木に覆われている部分もあるが、写真のように広く岩肌が露出している場所も多い。

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塩川・須玉川の右岸側にも河成崖が続く

 七里岩の南西面は釜無川が削ったものだが、北東面は塩川やその支流の須玉川が削ったものだ。R20からは南西面が見られる一方、中央自動車道は塩川、須玉川沿いを走っているので、七里岩の北東面を見ることができる。

 写真は中央道・須玉IC近くのR141沿いから、七里岩の北東面を眺めたもの。崖下を流れているのは須玉川だ。この川は写真の場所のすぐ下流で塩川に合流するが、それまではこの須玉川が七里岩の北東面を産出した。

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釜無川橋から川の流れと七里岩とを眺める

 約20万年前、八ヶ岳の南面が大きく山体崩壊し、大量の火山岩を主とする多種多様な岩塊や基質が流下して甲府盆地を覆った。その厚さは200m、最長到達距離は48キロ、総体積土量は10立方キロと推定され、日本最大の岩屑(がんせつ)流(岩屑なだれ)と考えられている。後述する曽根丘陵公園付近でも、七里岩と同じ成分を有する岩屑が発見されており、この韮崎岩屑流は御坂山地の麓まで達していたのだ。

 韮崎岩屑流は、一般には「韮崎泥流」と呼ばれている。この岩屑(泥流)に覆われた土地を、釜無川や塩川・須玉川が長い年月をかけて懸命に削り、現在のような河岸段丘を形成したのである。台地の南東端が、ニラの先のような形になるほどに。

 台地の上には八ヶ岳から滑りながら、あるいは転がりながら落ちてきた巨大な岩塊が造った「流れ山」が残っており、その数は100個以上あるとされている。それゆえ、上の写真から分かる通り、台地の上部は凹凸が激しいのだ。先に触れた新府城跡も、この流れ山のひとつに築かれた。

 新府城跡を離れた私は、少しだけ台地の上の道を北に進み、穴山町辺りで台地を東に下ってR141に出た。中央道・須玉ICの近くである。R141を少しだけ北に進み、写真撮影に適した場所を探し、そこで撮影したのが、ひとつ上の写真だ。

 次に、釜無川側に出るために台地を西向きに越え、釜無川橋北詰にある「釜無川ポケットパーク」に駐車し、橋上から撮影したのが上の写真だ。ポケットパークの標高は513m、橋下の河原は485m、左岸上に見える流れ山は606m、その向こうに続く山は633mある。

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露出した岩肌と”流れ山”

 釜無川右岸に出るために徳島堰頭首工に向かった。釜無川橋から下流側2500mほどのところにある堰だ。しかし、行ってみると堰付近は立ち入り禁止となっていたので、その下流側に徒歩で移動して右岸にでた。

 写真は右岸から、流れ山とその岩肌が露出した部分を撮影したものだ。撮影地点の標高は452m、流れ山は622mである。”古座川の一枚岩”の壮大さには遥かに及ばないものの、こうした景観も興趣は大いにある。

◎盆地の北西辺りを見て回る

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北杜市武川町にある水車の里公園にて

 甲府盆地の北西端をどこにするか意見は分かれるだろうが、ここでは釜無川支流の大武川辺りだと勝手に考えた。格別な理由はなく、ただ単に、この近辺の景色が好きだからということにすぎない。

 写真は、大武川左岸にほど近い場所に整備されている「水車の里公園」から甲斐駒ヶ岳(2967m)方向を眺めたもの。駒ヶ岳はこの公園のほぼ真西にある。「駒ヶ岳」の名を有する山は日本には18座(国土地理院地図による)あるが、この甲斐駒ヶ岳の標高がもっとも高く、奇跡的なほど美しい山容をもつものはないだろう(個人の感想です)。

 水車の里がある地点の標高は533mで、大武川と釜無川との合流点はぼぼ東にあって、それまでの距離は1キロほど。合流点(標高485m)一帯には氾濫原が広がっているが、それは主に釜無川右岸地域に多く、傾斜がやや急な大武川左岸には少ない。

 なお、水車の里の周辺に田畑はそれなりに存在するが、これは大武川自体が蛇行して造った氾濫原を開拓したものと思われる。

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大武川周辺に辺境武士団がいた

 大武川を中心とする武川筋には辺境武士団があって、甲斐武田氏が誕生したときにその家臣となり、甲信国境の防衛に従事した。この武川衆から柳沢氏が生まれ、その子孫の柳沢吉保(1658~1714)は、甲府藩主となって武田氏なきあとの甲府を再興した。

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大武川が釜無川に合流するところ

 写真は、釜無川橋の上から大武川が釜無川に合流する地点を撮影したものだ。釜無川自体も赤石山脈を水源としているので、最上流部は西から東に向かって流れ下っていくのだが、支流の多くも同様の流路をとっている。北からいうと、流川、神宮川、尾白川、大武川、小武川のいずれも西から東に向かって流下し、釜無川右岸側に合流している。このため釜無川本流は度重なる支流からの圧力を受け、その流れ自体も東寄りに流路を取らざるを得なくなっている。こうして、釜無川は常に左岸方面により強い力が働くため、韮崎岩屑流を大いに削り取り、連続した河成崖を生み出したのだ。

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穴山橋以南からR20は釜無川左岸を走る

 写真の穴山橋は、先に挙げた釜無川橋の3.5キロほど下流に架かっており、R20の旅程にとって重要な存在となっている。この橋から下流部分では、R20は川の左岸にあり、この橋で右岸側に移って信州を目指していく。

 R20が川の右岸側に移動した理由は明瞭で、写真からも判別できる通り、橋の上流部分は七里岩が左岸ギリギリまで迫っているからだ。この穴山橋下流からは、釜無川の流れを北東側に押し付けるほど勢いのある支流はないため、いつしか七里岩と釜無川との間には平地が出来て、その平地の上をR20は甲府を目指して進んでいく。

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特異な合成地名である「清哲町」

 盆地の縁辺を探るために、今まで通ったことのない道をよく使った。それゆえ、知らなかった地名に出会うことが多かった。その代表格が写真の「清哲町」で、10月下旬に盆地の西縁を訪ねるときに初めて使った「韮崎南アルプス中央線」(県道12号線)を走っているときに「清哲」の名を目にしたのだった。穴山橋から武田八幡宮に向かう途中のことだ。

 人名はともかく、地名に「哲」が付く場所は、私にはまったく記憶がなかった。それもそのはず、”哲”を含む地名は日本には2か所しかなく、山梨県岡山県(こちらは哲多町)にひとつずつだ。そのどちらも、その地で著名な哲学者を輩出したから、という訳ではないようだ。

 意味や語源が分かりづらい地名は「合成地名」であることが多い。例えば「大田区」「昭島市」「忍野村」が合成地名の例としてよく取り上げられる。大田区大森区蒲田区が、昭島市昭和町と拝島村が、忍野村は忍草村と内野村が、それぞれ合併して誕生した地名である。したがって、大田や昭島や忍野それ自体は、合併以前にはまったく存在しなかった地名なのだ。

 ところで、清哲町(現在は韮崎市清哲町)の先駆である「清哲村」は水上村青木村、折居村、樋口村が合併してできた。その際、四村の名からそれぞれ「水」「青」「折」「口」を取り、それを2つの漢字に合成した。ただし、水はそのままではなく「サンズイ」に用いられた。なかなか哲学的なのである。

 清哲町自体は釜無川右岸に位置する韮崎市のいち地域にすぎないが、町の真西に「鳳凰三山」がそびえている。中央道を甲府から諏訪方面に向かうとき、左手に極めて特徴的な山容をした鳳凰三山が見えてきたら、その麓の一角に「清哲町」があることを思い浮かべてほしい。今後、私もそのように心掛けることにする。脇見運転は危険だけれど。

 ちなみに岡山県の哲多町(新見市哲多町)は合成地名ではない。由来は不明だが、私の想像では「新見市」にヒントがあると思われた。新見は古くから「たたら製鉄法」が盛んだったことで知られている。原材料は砂鉄である。この地域では鉄が多く採れたと考えられ、それゆえ「てつた=鉄多⇒哲多」と呼ばれるようになったのではないかと推測される。あるいは、哲学好きの住民が多かったからかも知れないが。

◎韮崎は武田氏発祥の地

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甲斐武田氏発祥の地

 甲斐源氏の祖は八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光とされている。ただ、義光は甲斐守に任じられたものの、実際に甲斐の地に赴任したかは定かでない。武田氏が甲斐の地に土着したのは、義光の子の義清、そして義清の子の清光だと考えられている。義清は常陸国武田郷に配されて勢力を拡大したが地元の有力者から反発を受け、子の清光は乱暴狼藉を働いたことから、父子揃って甲斐国に配流された。

 父子は甲斐の地で力を蓄え始め、清光は子沢山であったことから彼らを甲斐国の要衝に配したため、甲斐源氏は大きな発展を遂げた。とくに、遠光の系統からは小笠原氏や南部氏が生まれ、信義は甲斐武田氏の祖となった。

 写真は、その武田信義の館があったとされる場所(韮崎市神山町。標高392m)に建てられた案内板などを撮影したもの。次に挙げる武田八幡宮二ノ鳥居とは直線距離にして780mのところにある。今では、館の敷地とされるところの大半は畑や宅地になってしまっているものの、甲斐人の多くが誇る甲斐武田氏は、実質ここから生まれたといっても過言ではないほど重要な史跡なのである。

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武田八幡宮の二ノ鳥居(両部鳥居)

 写真の二ノ鳥居(両部鳥居)は武田信虎、信玄の時代に再建され、武田家滅亡後に徳川家康の命で修復がなされた。現在のものは寛政元(1789)年に再興されたものという記録があるとのこと。高さ7m、笠木の長さは9.8m。

 鳥居に掲げられている額には「武田八幡宮」とあり、これは信玄が書いたとの記録が残っているそうだが、現在ではまったく判読できない状態にある。

 この鳥居から、次の三ノ鳥居までは330mほどの距離がある。また、この鳥居は標高433mのところにあり、三ノ鳥居は467m、拝殿は485mである。境内は巨摩山地の東斜面に築かれており、周囲はかなり深い森林地帯である。

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三ノ鳥居(明神鳥居)と随神門

 写真から分かるように、三ノ鳥居の正面に石垣、背後に控えている随神門の前にも石垣が築かれている。このように、社頭に石垣がある形式は他にあまり例がないとのことだ。ちなみに、随神門は1841年に再建されたものだそうだ。

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八幡宮の拝殿

  随神門を過ぎると神楽殿があり、その上方に写真の拝殿がある。御神体への祭祀や拝礼をおこなう場所だが、私はそうしたものは一切行わないので、写真の階段を上ることはなかった。

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八幡宮下から盆地や奥秩父山地を望む

 写真は、八幡宮前から韮崎台地方向を望んだもの。台地の手前に釜無川があり、その地点の標高は360m、台地上は410m、台地の背後の塩川は355mとなっている。その先は奥秩父山地の山並みだ。

◎御勅使川と釜無川と信玄堤と

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御勅使川中流にある石積出の遺構

 武田八幡宮を離れ、韮崎南アルプス中央線を南に進んで御勅使(みだい)川筋に向かった。第62回でも触れたが、この川は甲府盆地の歴史を、とりわけ武田信玄を語るときにはもっとも重要になる存在なのだ。

 御勅使川は普段は水量が少ないものの、水源域に大雨が降ると一気に大増水して流域の人々の生活を苦しめてきた。普段から流量が多ければ自然に河道が形成されるのだが、この川は少しも流路が定まっていなかった。このため、この川は長い年月をかけて東西7.5キロ、南北10キロにも及ぶ大扇状地を築いた。が、大増水の際は常に「暴れ川」となって扇状地を襲った。

 写真の「石積出・二番堤」は、御勅使川が山間から開けた場所に流下する位置にある(標高493m)。流下する方向を安定させるために石堤群を設置したもので、一番から五番までが発掘され現存している。国の史跡に指定されている石積出は、武田信玄の業績のひとつとされているが、信玄の時代に石積の技術が確立していたかどうかは定かではなく、江戸時代以降に造られたと考える向きも多い。

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この辺りが御勅使川扇状地の扇頂だ。

 石積出・二番堤の遺構は、写真左手に写っている自動車のすぐ横にある。この辺りで流下する方向を定めておけば、少しは暴れる範囲を狭めることができたのだろう。

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公園から砂防堤を望む

 写真は、御勅使川右岸に整備された「御勅使南公園」の敷地から上流方向を眺めたもの。この公園は釜無川との合流点から2~4キロのところにある。敷地は東西に細長く2キロの長さがある。散策路だけでなく、クロスカントリーコースやラグビー場などが整備されている。

 写真から分かる通り、上流部だけでなくこの場所にも砂止め用の堰堤が多数設置されている。なお、撮影地点は公園のほぼ東端からであり、その標高は353mだ。

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枯草だらけ

 写真は、その堰堤群のひとつを間近に眺めたもの。右岸の低水敷には上流から流れてきた枯草が積もっている。川の水は濁っていたので、上流部で多めの降水があったと思われるが、水量は多くはなかった。しかし、この水量では枯草が大量に溜まることはないので、一気に水かさを増し、そしてすぐに水が引いたのだろう。それだけ、この川の勾配はきつい(平均斜度2.5度)のだ。

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御勅使川と釜無川との合流点

 公園を離れ、釜無川との合流点のすぐ下流側に位置する国道52号線に掛かる「双田橋」近くに移動し、橋上から合流点(標高308m)を眺めた。写真は真西方向を写していることになるので、南アルプスや巨摩山地の姿がよく分かる。

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双田橋から赤岩方向を眺める

 今度は、橋上から下流方向を眺めた。釜無川の左岸では土手の整備がおこなわれていた。川を横断している道路は「中部横断自動車道」、その後ろには次に触れる「赤岩」と赤坂台地がある。

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赤岩がカギ

 写真は、信玄堤を構築する際にカギとなった赤岩を撮影したもの。河原の標高は298mだが、高岩の上は327~332mほどある。茅が岳の山裾がこの一帯にだけ南西に張り出して台地(登美台地)を造っており、その南端は、さらに赤坂台地と名付けられている。その台地の南南西端を釜無川が削っているため、ここだけに河成崖が出来ている。

 R20はこの崖上の近くを走っているが、甲府市街から韮崎に抜けるとき、私はいつもこの台地の高まりが気になり、この場所が「竜王町(現在は甲斐市竜王)」だったということは、若いときから私の記憶にあった。赤坂台地の名を知ったのはずっと後のことだが。

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双葉水辺公園から赤岩や信玄堤方向を眺める

 赤坂台から釜無川を眺めようとしたのだが、適当な場所が見つからなかったため、川の左岸に整備された「双葉水辺公園」に行って、その敷地の南端から釜無川を眺めてみた。左手の高台が赤岩、水門の向こう側に「信玄堤」、その先に信玄橋(県道20号線)がある。

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左岸堤防を守るための聖牛が並んでいる

 双葉公園から、少しだけR20を利用して川の下流方向に進み、同じく左岸に整備された「信玄堤公園」に移動した。撮影地点は、左岸に整備されている「信玄公園」の土手の上(標高302m)。すぐ右手に赤岩、その先に水門、さらにその向こうに見える「中部横断自動車道」の直下に「双葉水辺公園」、遠くには八ヶ岳のなだらかな山裾が見えている。

 左岸の際に設置されている「聖牛」は護岸を川の強い流れから守るもの。本ブログの第28回で玉川上水を取り上げたとき、流路変更のための「牛枠」について触れているが、それと同じもの。木の枠を造り、それを蛇篭(じゃかご)で押さえている。かつてのテトラポッドである。

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公園内から南アルプスを望む

 信玄堤はその名があるように武田信玄が築いたとされているが、実際には、平安時代にも御勅使川や釜無川の氾濫に住民は苦しんでいたという記録があるぐらいなので、相当な昔から川の左岸には護岸堤防は造られていたはずだ。

 とりわけ信玄の時代には大掛かりな工事がおこなわれ、まずは御勅使川の流路を変更・固定した。現在の御勅使川は先に挙げたように、R52の双田橋近辺で釜無川に合流しているが、信玄の頃はそれより2キロ以上の下流(現在の武田橋辺り)に合流点があった。そのため、釜無川の流路自体も東に押しだされ、その流れは現在のR20辺りに向いていたと考えられている。地図でいえば、中央道の「甲府昭和IC」から「小瀬スポーツ公園」方向に進んでいたらしい。そのため、甲府盆地は常に洪水の危機に瀕していたのだ。

 信玄は御勅使川の流路をやや北に移すため、上流部では先に挙げた「石積出」で方向を定め、中流域には「将棋頭」と呼ばれる護岸を整備した。それによって、御勅使川は赤岩に衝突するように流れるようになった。流れは比高30mもある高い岩に当たるため、その勢いはかなり弱まった。そして、その下流部分(現在の信玄堤公園)の堤防を整備し、盆地を大洪水から守ろうとした。

 こうした努力は信玄一代でおこなわれたわけではなく、その後も改良に改良を続けて徐々に今のような形になったのだ。

 写真から分かるように、公園内に用水路が導かれ、周囲にはケヤキやエノキといった巨木が多数植えられている。これらの木々が広く深く堤防一帯に根を張ることで、地面が強化されたのだ。

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信玄堤の守護神

 公園の一角に「三社神社」がある。甲斐国の一宮(浅間神社)、二宮(美和神社)。三宮(玉諸神社)を勧請して、水防の神として建立された。鳥居の足の太さが特徴的で、どんな大洪水があっても絶対に挫けないという決意が感じられる。

南アルプス市ふるさと文化伝承館に立ち寄る

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展示内容が極めて充実している「ふるさと文化伝承館」

 信玄堤公園を離れ、信玄橋を渡って釜無川右岸に出た。信玄橋西詰からは直線距離にして1700m、御勅使川右岸からは440mのところにある「南アルプス市ふるさと文化伝承館」を訪ねてみた。

 ここは、信玄が御勅使川の流路を赤岩に衝突するように付け替えたとされるその川筋にあたる。伝承館のすぐ隣には「能蔵池」があり、これは御勅使川の伏流水を集めてできたとのこと。一帯は厚い砂礫層で覆われているため、伏流水は無尽蔵にあるだろう。

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一押しの円錐形土偶

 館内には市内で発掘・保存された縄文・弥生時代の遺跡、それに近代の昔懐かしい民具などが多数展示されている。とりわけ縄文遺跡は、第62回で紹介した「釈迦堂遺跡博物館」に負けず劣らずの充実具合だ。

 私がもっとも印象深かったのは写真の”妊婦”の土偶。膨らんだお腹に手を当てている姿は、この上もないほどの美しさがある。

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強く惹かれた「人体文様付有孔鍔付土器」

 こちらも土偶と同じくらい興味を抱いてしまった土器。人が描かれているので「人体文様」、上部に穴が開いているので「有孔」、その下に出っ張りがあるので「鍔(がく)」、合わせて「人体文様付有孔鍔付土器」。名前は見たまんまだが、この土器が何に利用されたのかは不明とのこと。

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友人・知人そっくりの顔

 土偶の表情はとても豊かで、写真のように極めて個性的な顔立ちをしているものもある。釈迦堂遺跡にも同じようなものがあったが、土偶の顔の多くに友人・知人を連想させるものがある。写真の顔にしても、まったく同じという訳ではないが、似た顔の人物はすぐに数人、思い浮かべることができる。

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実用本位の弥生式土器

 弥生式土器の展示も多くあった。が、この時代になると意匠には面白みはなく、実用性を重視したものが多い。脱呪術的ではあるが、とはいえ、人間そのものが進歩したからという理由ではまったくない。

◎盆地の西縁を徘徊する

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名は体を表す。櫛の形をした櫛形山

 信玄堤や伝承館などに立ち寄るため、盆地の縁からは少し離れてしまった。私は次の目的地に移動するため、中部横断自動車道に並行して走るR52を利用して南下した。途中、写真にある櫛形山の姿を撮影するために、少しだけR52を離れた。

 標高2052mで、日本二百名山に選定されているこの山は、名前の通りの姿形をしている。赤石山脈の前山である巨摩山地を代表する山で、巨摩山地は櫛形山山塊が元になってできた付加体だということは第62回に触れている。

 巨摩山地がフィリピン海プレートに乗って赤石山脈に押し付けられた付加体だということは両者は成立過程がまったく異なっていることを意味する。両者間に早川が流れていて、その川筋が糸魚川・静岡構造線だと考えられている。

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棚田から盆地の中心部を眺める

 南アルプス市にはよく知られた棚田があるとのことだったので、その場所を訪ねてみた。櫛形山の真東にあり、その山の地すべりによってできた斜面を利用して棚田が造られている。南アルプス市中野にあることから、「中野の棚田」と呼ばれている。棚田は、おおよそ標高520mから410mの斜面にある。堰野川を主流とする沢が数本、その棚田の中を流れており、各々の田んぼに供給している。

 写真は、棚田の天辺から甲府市街を中心とした盆地を眺めたもので、例によって、特徴的な存在である大経蔵寺山の姿もしっかり見えている。

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棚田から御坂山地方向を眺める

 写真は、前の写真より少し下の地点から御坂山地方向を撮影したもの。盆地を横切っている川は釜無川笛吹川の両河川。R140が渡る三郡西橋は、その道(秩父往還)の終点地点だ。

 棚田の下方に小高い丘がいくつも点在している。それらは地すべりの結果、高所から移動した「流れ山」の一種かも、と考えた。いくつかの論文を調べてみたが、これらの丘について触れているものはなかった。ただ、櫛形山の東面は地すべりが多発しやすい地質だという記述はあった。実際、櫛形山の形状を見るかぎり、地すべりの結果であのような山肌が出来たということは十分に推察できる。

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大法師公園から笛吹川釜無川の流れを望む

 中野の棚田から南方向に移動して、富士川(狭義の)が誕生する地点をやや高い位置から眺められる場所を探すことにした。南巨摩郡富士川町鰍沢(かじかざわ)にある「大法師公園」が見晴らしの良い場所との情報を得たので出掛けてみた。ちなみに、この公園は桜の名所として知られている。

 写真は、その公園内にあって盆地や富士川の出発点を見渡すことができる場所(標高343m)から、釜無川笛吹川が並走している地点を見たもの。右手の橋が「富士川大橋」、中央を横切っているのが、先に挙げた「三郡西橋」である。富士川橋西詰には「道の駅・富士川」がある。第62回に挙げた、両河川の並走や合流点を撮影する際にお世話になった(駐車場とトイレだけ)施設だ。

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大法師公園から両河川の合流点付近を望む

 写真は、両河川の合流点付近を望んだもの。合流点は「中部横断自動車道」のほぼ真下にある。この合流点から狭義の「富士川」が始まる。

◎御坂山地の山麓付近を訪ね歩く

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富士川の玄関口、鰍沢口駅舎

 富士川の「禹之瀬」については第32回で触れているので、ここでは富士川の出発点としてよく知られている「鰍沢(かじかざわ)」について少しだけ触れたい。

 鰍沢は、江戸幕府の命によって角倉了以が開削・整備した富士川舟運の基地(河岸、かし)があったところである。その地名は富士川右岸に残り、先に挙げた「大法師公園」も、第62回で挙げた「禹之瀬」も鰍沢に属している。

 盆地内で産出された物資はこの河岸(かし)に集められ、船で駿河国に運搬された。また駿河国でとれた海産物や塩は富士川を遡ってこの地に陸揚げされた。甲斐国にとって非常に重要な物流の拠点であったが、今となっては往時の面影はまったくない。

 写真の身延線鰍沢口駅(標高244m)は西八代郡市河三郷町にある。富士川の左岸に位置するので、鰍沢とは少し離れた場所にある。それゆえ、駅名は鰍沢ではなく鰍沢口になっている。もっとも、品川駅は港区に、目黒駅は品川区にあるぐらいなので、ここも鰍沢だけで十分だと思うのだが。

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鰍沢口駅のホームを眺める

 日中の運行は一時間に2本程度。身延線の車両もJRの他のローカル線同様に立派なものなってしまったため、車体を見ても興趣は湧かないが、それでも「ワンマン」や「かじかざわぐち」の文字を目にすると、ローカル度は高まる。

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市川郷一之宮浅間神社の大鳥居

 鰍沢口駅を離れ、御坂山地の山麓を北北東に進む道を使って、写真の「一宮浅間神社」(西八代郡市川三郷町高田)に向かった。道は富士川大橋東詰めから北北東に続くルートにあり、なかなか爽快さを感じさせるものだが、道路名はとくにない(笛吹ラインとも)「広域農道」のようだ。この道を2キロほど進んだところに神社があった。

 境内はそれほど広くはないが、朱に塗り替えられてさほど時間を経てないためが建造物はとてもよく目立つ。ここに立ち寄った理由は、「一宮浅間神社」の名が気になっていたからだ。というのも、第62回で甲斐国の一之宮浅間神社笛吹市一宮町一ノ宮)はすでに触れているので、そちらの神社との関係が知りたかったのだ。

 なお、ここと以前に挙げた神社とは、直線距離にして21キロ離れた位置にある。

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神社の神門と拝殿

 社伝に寄れば、貞観六(864)年の富士山大噴火により翌年、勅命によって八代郡に官社となったというから、この点は一宮町の一之宮と同じだ。ただ、その後の推移が異なっているようで、一時、武田信玄の保護を受けたが、現在の形になったのは徳川家によるもの。1603年に再興され、現存する建造物は元禄十七(1704)のものとされている。

 ところで、”一宮”についてだが、一宮町の「一之宮」は甲斐国の一宮で、こちらの一宮は「市川郷」の一宮である蓋然性が高い。その理由になる訳ではけっしてないものの、明治4年の太政官布告では、こちらは「村社」に、あちらは「国幣中社」の社格となっているからだ。 

◎曽根丘陵古墳群と考古学館

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東日本最大級の前方後円墳と言われている銚子塚古墳

 例の快適な山麓の農道を進み、次なる目的地である「曽根丘陵公園」(甲府市下向山町)に向かった。中央道・甲府南ICのすぐ南に位置するその公園には、先土器時代から古墳時代にかけての遺跡群、山梨県立考古博物館、レクリエーション施設などがある。

 曽根丘陵とは市川三郷町から甲府市境川町辺りまでに広がる御坂山地の山麓を指す。”曽根丘陵”の名は、第62回で触れた「曽根丘陵断層帯」でよく知られている。これは甲武盆地の南麓にあって、全長は32キロほどある。断層帯は大きく3つに分かれ、南西から北東にかけて「曽根丘陵断層群」「一宮・八代断層」「塩山・勝沼断層」と名付けられている。南端は、上に挙げた「市川郷一宮浅間神社」辺り、北端は、第50回(R411の4回目)の最後に挙げた重川に架かる小田原橋辺りと考えられている。

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円墳の丸山塚古墳

 曽根丘陵は笛吹川左岸の山麓にあって、笛吹川左岸よりも10mほど高い位置に写真の丸山塚古墳がある。川の氾濫原よりもやや高い位置に古墳が造られたことになる。

 円墳の直径は72m、高さは11mで、5世紀の初め頃に造られたと考えられている。竪穴式石室から発見された副葬品から、後述する銚子塚古墳に埋葬された人物の後裔だろうと推定されている。

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曽根丘陵公園から南アルプスを望む

 丸山塚古墳もそうだが、写真の銚子塚古墳にも上がることができる。眺望は素晴らしく良く、写真のように晴れて空気が澄んでいる日には南アルプスの高峰を眺めることができる。右のピークは日本で二番目に高い北岳(3193m)。

 銚子塚の名が付いた古墳は山梨県にいくつかあるため、ここは”甲斐銚子塚古墳”とも呼ばれている。長さ169m、高さ15mで、4世紀後半に造られたと考えられている。前方後円墳であること、”三角縁神獣鏡”などの副葬品から、畿内ヤマト王権とのつながりが指摘されている。

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曽根丘陵公園内にある県立考古博物館

 公園内には写真の「山梨県立考古博物館」がある。古墳群には何度も接しているが、博物館に入るのは初めて。県立だけあって、山梨県各地の遺跡から発掘されたものが展示されており、その数やバリエーションは”釈迦堂”や”伝承館”を圧倒する。ただし、私のようなド素人からすると、そちらのほうが展示の仕方に工夫があったように思われた。

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豊かな表情や形状を有する土偶たち

 やはり、私がもっとも好むのは表情豊かな土偶で、縄文人の観念性の高さ・強さを感じてしまう。また意匠も謎めいて印象深い。

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古墳時代の鏡

 写真は、とぐろを巻いた龍が王を見立てた中央部の鈕(ちゅう)を取り囲んでいる様子が描かれた「盤龍鏡」。笛吹市御坂町の「亀甲塚古墳」の出土品で、古墳時代前期のものとされている。

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日蔭山山中から盆地を望む

 曽根丘陵公園前には笛吹川を渡ってきたR358が通っており、多くの車を中央道に送り込んだ(甲府南ICで)あと、その道はすぐに南下して御坂山地を越えて精進湖に抜けている。その道には大いに興味をそそられたが、第62回で紹介した「日蔭山枕状溶岩」により一層、強く惹かれていたので、途中から旧道に移って未舗装路を進んだ。

 それはとんでもない悪路の連続だったし、溶岩の姿も他で見たものより相当に見応えはなかった。それゆえ、もはやその場所に出掛ける気持ちはまったくないが、途中(標高656m地点)で見た盆地の景色だけは強く印象に残っている。

◎八代ふれあい公園にて

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八代ふるさと公園にある「岡・銚子塚古墳」

 曽根丘陵公園から山麓の道を6.5キロほど進んだところに「笛吹市八代ふるさと公園」(標高410~428m)があった。

  写真の前方後円墳は園内にあって、古墳全体が展望台になっている。前方のほうは遊び場としてよく整地されているので、初めは古墳の前方だとは気が付かなかった。より高い後円墳のほうは階段付きで天辺からの見晴らしは相当に良い。

 この古墳は「岡・銚子塚古墳」と名付けられている。先に挙げた甲斐銚子塚古墳と同時期に造営されたものと考えられているが、発掘された副葬品に明確な相違点があるとのことだ。また、甲斐銚子塚は標高260mほどのところ、こちらは422mのところなので、両者は別個の集団であったと推察されている。

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円墳と桜の大木と

 岡・銚子塚古墳の東側50mのところにあるのが「盃塚(さかずきづか)古墳」。直径23m、高さ4.5mの円墳で5世紀になってから造営されたと推定されている。2002年に発掘調査がおこなわれたが、それまで墳丘は著しく損傷していたため、主体部の形状は不明とのこと。ただ、鉄刀などの副葬品が見つかっているので、墓が完全に壊されたいたわけではないそうだ。現在は写真のように復元されており、隣の古墳同様、天辺に上がることが可能。

 こちらの古墳で特徴的なのは、傍らに桜の大木があること。斜面を下る散策路は桜並木になっており、花の季節には多数の見物客が押し寄せるという。写真から分かる通り甲府盆地の姿を見渡せるため、格好の夜景スポットでもある。夜桜と盆地の夜景は絶景というほかはないだろう。

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ふるさと公園から笛吹川フルーツ公園方向を望む

 公園から、第62回で紹介した「笛吹川フルーツ公園」方向を望んだ。写真ほぼ中央に写っているベージュ色の建物が「フルーツパーク富士屋ホテル」、その下方にドームがある。こうしてみると、山の斜面はかなりの高さまで果樹畑として開拓されていることが分かる。

◎花鳥山展望台でリニアについて考えたことなど……

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県道からリニア実験線を眺める

 笛吹市八代ふるさと公園から金川の森に移動するとき、県道の上からリニア実験線の「明かり区間(地表に出ている区間のこと)」が見えた。地図を調べると、向こう側に見えるトンネルの上部辺りに「花鳥山展望台(笛吹市八代町、標高493m)」があって、そこからは実験線が間近に見えるらしいので、立ち寄ってみることにした。

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花鳥山からリニアの試験運転を見物

 正式名称『中央新幹線(東京都・名古屋市間)』(通称・リニア中央新幹線)は、2027年の開業を目指して工事や実験や環境破壊が進んでいる。写真は、13年8月に完成した「山梨実験線(全長42.8キロ)」でおこなわれている試験運転を撮影したものだ。上野原市から笛吹市の間を何度も行き来しながら、様々なテストをおこなっているようだが、展望台から見る限り、テストはまだ初期の段階のようだ。

 リニアは全線が複線であるはずだが、現時点では片側のガイドウェイしか利用されていない。写真の列車は左側を下り(笛吹市側)方向に進んでいるが、今回の冒頭写真の実験車両は上り(上野原市側)方向に進んでいるが、やはりガイドウェイは左側を用いている。つまり、列車のすれ違い試験はまったく行われていない状態だ。

 リニアの問題点のひとつに電磁波の発生がある。片側走行だけでも電磁波による影響が危惧されているが、これが列車同士がすれ違う際にどのような悪影響が発生するか、実際のところ、まったく不明なのだ。

 電磁波以外にもリニアの問題点は数多くある。南アルプスを貫くトンネル工事によって大井川の水量が減少することは話題になっているが、すでに実験線の工事で大月市上野原市の沢が涸れて被害が出ていることが報告されている。

 リニア新幹線の問題点を列記すると①大井川の水源の破壊、②相当量の電磁波の発生、③南アルプス地域を中心とする生態系の破壊、④トンネル、立坑などの掘削で発生した残土の処理、⑤岐阜県東濃地区のウラン鉱脈の残土、⑥新幹線の3~5倍にもなる膨大な電力消費、⑦9兆円にも及ぶ多額の工事費とゼネコンの談合、⑧採算性・リニア新幹線が在来新幹線の利益をはく奪、⑨大深度地下のトンネル掘削による地上への悪影響、⑩東南海大地震による壊滅的ダメージなどなど、まだまだ問題点は多数ある。

 さらに、コロナパンデミックによって「リモート会議」などが普及したことで、東京・名古屋・大阪間を移動する必要性が大幅に減じ、リニア新幹線を造る必然性そのものが疑われるようになっている。

 「リモートが リニアのニーズ 消してゆき」

 これは新聞に掲載された川柳だが、もはやリニアは存在そのものが不用になっている。しかし、それでも工事は進むのだろう。膨大で強固な利権構造がリニアの背後にはあるからだ。これは沖縄の辺野古新基地建設と同様、日本が抱えた宿痾である。

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展望台の小屋に設置されているモニターの映像

 花鳥山展望台へは一部、狭い農道を利用するためアクセスがやや良くない。一方、駐車場やトイレ、自販機、ベンチなどが整備されている立派な広場だ。敷地の一角には雨が避けられる小屋があり、その中に写真のようなモニターが設置されていて、試験車両の位置や状態、実験線の勾配、曲線半径などが分かるようになっている。

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リニアの最大勾配は40パーミル

 モニターの情報から、リニアの最大勾配は40パーミルであることが分かる。リニアは鉄輪ではないので勾配はもっと急でも良いはずだが、なぜか鉄輪でも走行可能な勾配になっている。リニア問題を追究している学者によれば、リニアモーターカーでは問題点が多すぎることが判明した場合、鉄輪の運行に転換する可能性も考慮に入れているのでは、とのこと。

 これはトンネルの断面積の大きさにも言え、リニアは在来型の新幹線より車体の断面積は小さいはずなのに、リニアのトンネルのほうが大きく掘られているそうだ。リニア推進側はこの理由を、リニアは505キロの速さで走るためトンネルの断面積を小さくすると空気抵抗が大きくなり過ぎるから、としている。確かに首肯できなくもないが、これもまた、在来型への転用を可能にしているからだ、とも考えられるのだ。

 以上、いろいろ問題点を指摘しつつも、リニア実験線を眺めることはそれなりに興味深く、結局、試験車両が3往復するのを見るまで、ここに居続けてしまった。私は根っからの「鉄道ファン」なのだ。狭義には、リニアは鉄道ではないけれど。

金川の森、そして旅の終わりに

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陽だまりに集う老人たち

 花鳥山展望台を離れて御坂山麓を下り、金川の両岸に広がる「山梨県森林公園・金川の森」に立ち寄った。目的は、全国でも珍しい八角形の古墳を見るためだ。古墳は右岸にあるため、右岸側に整備されている第一駐車場に車をとめて、少しだけ公園内を歩いてみた。

 公園は大水害を教訓として、一帯に水害防備林を整備した事から始まっている。その後、スポーツ施設、レクリエーション施設、環境境域施設、散策路などが造られた。金川の両岸に広がるとても大きな公園である。

 サービスセンターの隣には大きめの池が整備されていて、そこには80センチはあろうかと思える巨大な色鯉が数多く泳いでいた。センターでは鯉の餌を販売しているおり、多くの人々が巨大な鯉たちに与えていた。

 池の一角では、近くの老人施設からやってきた人々であろうか、晩秋の短くも暖かな日差しを浴びて、色変わりした木々を目にしながら時を過ごしていた。

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珍しい八角形の古墳

 写真の経塚古墳は、7世紀前半に造営されたとされ、横穴式石室をもつ八角墳だ。この形の古墳は、天皇陵を含めても日本には十例しかないそうだ。1994年に大掛かりな調査がおこなわれ、この古墳が八角形であることが判明した。現在のものは、資料を基に完全復元したものだ。

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ぶどうの丘から天使の梯子に見とれる

 旅の終わりに、盆地を最後に眺めるため「勝沼ぶどうの丘」(標高500m)に登った(車で)。建物の中に入れば見晴らしの良い場所はあるはずなのだが、私の場合は食事をすることも土産を買うこともない。それゆえ、建物内ではなく、丘の上から盆地を眺められる場所を探し出した。これが案外、時間を喰った。

 この日は曇り時々晴れという天気だったので、遠望するには不向きなのだけれど、写真のように、雲間からは「天使の梯子」が無数に降りてきて、盆地のあちこちを照らし出していた。

 地上に降りゆく天使たちは、盆地の人々に幸福を、それとも災いをもたらすのか、何も分からない。そもそも、同じ出来事であっても、ある人は幸運を、別のある人は不運を感じる。そして、大方の人は、幸不幸を同時に抱く。

 私は、今年の10~11月に甲府盆地へ6度訪れた。昨秋を含めれば、10度出掛けたことになる。この地で、数多くの出会いや発見があり、幾度も心の高鳴りを感じた。それが、愚者の満足感だとしても、だ。

 

*次回は小田原市界隈を訪ねます。年末で用事が立て込んでいるため、更新は下旬になります。

〔63〕甲府盆地番外編・恵林寺、武田神社界隈を散策

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よく知られた偈(げ)が掲げてある恵林寺の三門

 甲府盆地には見所が多すぎて、一泊二日で訪れただけではひとつひとつの場所にはあまり多くの時間を割くことができなかった。駆け足で巡った場所の中には、次回には時間を掛けて徘徊したいと思えた場所がたくさんあった。幸い、府中から甲府盆地の入口(勝沼IC)まで中央道を使えば一時間余りで到達できるゆえ、日帰りの予定で何度か訪ね直してみた場所も多い。

 第62回では簡単にしか紹介できなかった「恵林寺」とその界隈、次回に触れる予定にしていた「武田神社」は追加訪問が重なったために分量が多くなりすぎると思われたために、今回は「番外編」の項を立ててこれらについて触れることにした。

恵林寺(えりんじ)とその界隈

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庫裡(くり)と本堂(の一部)

 前回に触れたように、拝観料500円也をケチったことから、国の名勝指定を受けている恵林寺庭園を見学せずに「笛吹川フルーツ公園」へ移動してしまった。そこで日を改めて甲府盆地に出掛け、なによりもまず恵林寺に立ち寄ることにした。

 庭園は本堂の裏手(北側)にある。そこを見学するためには、写真にある「庫裡」に立ち入り、入口右手にある券売機(白いボックス)で拝観券(500円)を購入してから、靴を脱いで上がり、拝観順路にしたがって本堂の裏手まで進まなければならない。

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小部屋から少しだけ庭園の姿が見えた

 庫裡と本堂との間に小部屋があり、その部屋の中から庭を眺めたのが上の写真。庫裡と本堂とをつなぐ北側の渡り廊下が見え、その向こう側に庭園が広がっているのが分かる。ただ、この場所から直接、本堂の北側に出ることはできない。

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本堂の内部をのぞく

 本堂南側の廊下から、本堂の内部をのぞくことができた(立ち入ることはできない)。ここには本尊である「釈迦如来」が安置されている(とのこと)。

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恵林寺庭園その一

 本堂の西側には、歩くとうぐいすの鳴き声のような音がする「うぐいす廊下」、信玄が生前に対面で模刻させた等身大の不動明王が安置されている「明王殿」、原則非公開となっている「武田信玄墓所」、恵林寺の再建に尽力した柳沢吉保(彼も広義には武田一族)の墓所や霊廟がある。が、いずれも撮影は不可となっているため、ここに掲載することは叶わなかった。それゆえ、これらとの対面にはさほど時間を掛けず(うぐいす廊下は興味深かったので何往復かした……お前はガキンチョか!)、いよいよ恵林寺庭園をじっくりと拝見することにした。

 『作庭記』については第40回でも少しだけ触れているが、今回は夢窓疎石が作庭した名所に触れるということもあって、改めてその書を再読してみた。『作庭記』の名は江戸時代に『群書類従』を編んだ塙保己一が付けたもので、平安時代の中後期に編纂されたときは『前裁秘抄』または『園地秘抄』などと呼ばれていたらしい。原本は残っておらず、現在に伝えられている書は1298年に写本された「谷村家本」が底本になっている。

 その冒頭には「石を立てむ事、先づ大旨を心得可き也」とある。本文には「池を掘り石を立てむ所には、先づ地形を見立て、便りに従ひて池の姿を掘り島々を造り、池へ入るる水落並びに池の尻を出だす可き方角を定む可き也」とある。

 第2章?の冒頭にも「石を立つるには様々有る可し。大海の様、大河の様、沼池の様、葦手の様等也」とあり、次に石の置き方を細々と述べている。以下も同様で、6章?には「石を立てむには、先づ大小の石を運び寄せて、立つ可き石をば頭を上にし臥す可き石をば面を上にして庭の面を取り並べて……」「石を立てむには、頭麗しき石をば前石に至る迄麗しく立つ可し」とある。

 第7章?に至っては、「石を立るには多くの禁忌あり。一つも是を犯しつれば、主常に病有りて終に命を失ひ、所の荒廃して必ず鬼神の住処と成る可し」と見出しを立て、「家の縁より高き石を家近く立つ可からず。是を犯しつれば、凶事絶えずして家主久しく住する事なし」「雨滴りの当たる所に石を立つ可ならず。其のとばしり掛かれる人に悪瘡出ず可し」など、三十一項目に渡って石の配置の際にやってはならないことを書き並べている。

 『作庭記』の底本は13世紀にまとめられ、恵林寺庭園を設計した夢窓疎石は14世紀の人なので当然、この書に触れているはずだ。そう思って私は庭園を眺め、石のひとつひとつに疎石の感性的かつ秩序的世界が繰り込まれていることを理解しようと努めた。しかし、芸術的センスがゼロの私には、ただ美しい、とだけ思った。 

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恵林寺庭園その二

 先の写真は庭の西部分、上の写真は東部分を撮影したもの。どちらにも滝を配しているが、西側の滝はやや落差が大きく、こちら側はやや小さく造られている。それに比するように西側の池は大きく東側は小さくなっている。

 「滝を立てむには先ずづ、水落の石を選ぶ可き也。其の水落の石は、作石の如くにして面麗しきは興無し」と『作庭記』にあるので当然、これにしたがって配置されていると思われる。

 このように、作庭家には石が最重要なので、夢窓疎石は「疎石」という法諱法号、戒名)を付けたのだろうと考えたのだが、実際には、中国の名勝である「疎山」や「石頭」に遊ぶ夢を見たので、「疎石」と付けた(らしい)。

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恵林寺庭園その三

 写真は、庫裡の西側通路から本堂の東脇にまで達している庭を眺めたもの。本項の3枚目の写真は、この部分を南側から見たものだ。庫裡と本堂との間まで池が広がり、ここで疎石の庭の実存的世界は閉じている。観念的世界は別として。

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寺に住み着いている「ちゃーくん」

 庫裡の中には「売店」があり、恵林寺に関係する記念品や土産品が置かれている。私には無関係な存在だが、それらを遠目に眺めていたとき、一匹のネコが私の足元にやってきたのが分かった。そいつは完全に人馴れしているようで警戒心はまったくない。

 売店の一角に展示されていたイラストのネコにそっくりなので、足元のネコにその絵を指し示すと、そいつは棚の上に飛び乗って、絵と並んでこっちを向いた。ネコの横には彼(ちゃーくんはオス)の素性を紹介するパンフが置かれており、それは500円で売られていた。売り上げはネコたちの食事代になるらしい。

 仏教には「放生」という考え方がある。寺に住み着いてしまった彼は、恵林寺の一員として拝観者の出迎えを担当しているようだ。

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修行中のネコ

 庫裡の外には、違うネコが柱でしきりに爪を研いでいた。こいつも人によく馴れているようで警戒する気配はまったくなかった。これから、木登りの修行に専心するのかも。誠に真剣そのものであった。それは、目を見りゃ分かる、フニャー。

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境内に建つ「信玄公宝物館」

 庫裡の南東側には写真の「信玄公宝物館」がある。私は「宝物」にはさほど関心がないために入館しなかった。たとえ入館しても写真撮影は一切、禁止とされているので内部を紹介するわけにはいかない。

 資料によれば、軍旗としてあまりにも有名な「孫子の旗」(風林火山の旗)、信玄愛用の太刀(来国長、国の重要文化財)、短刀(備州長船倫光、国の重文)、「扇面図絵」、「花菱紋蒔絵鞍」、「軍配団扇」などが展示されているとのこと。信玄に関心のある人は立ち寄っても良いだろう。私は戦国武将の個々人にはさして興味がなく、時代の変遷のほうに関心がいく。メジャーな人物たちは語り尽くされている感があるので、ローカルでマイナーな北条氏照滝山城八王子城主)なら心惹かれることもあるが。

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三門に掲げられた「偈」

 恵林寺の建築物では、やはり三門に一番の感興を覚える。前回は向かって左側の偈だけを掲載したので、今回は右側の偈も合わせて写してみた。三門の向こうに見えるのは開山堂だ。

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信長に焼かれる前に使用されていた三門の礎石

 三門(というより恵林寺全山)は天正10(1582)年4月3日、織田信長勢に焼かれてしまった。現存する三門は江戸時代に再建されたものだが、写真にあるように、以前に使用されていたと考えられる三門の礎石が、傍らに展示してあった。

 ちなみに、信長はその2か月後の同年6月2日に”本能寺の変”にて死去している。もちろん、仏罰ではなく、単なる権力抗争の末にである。

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恵林寺の西隣にある「信玄館」の信玄像

 恵林寺のすぐ西隣に「信玄館」という名のお土産店・食事処がある。その玄関のすぐそばに置かれているのが写真の「黄金の武田信玄像」だ。黄金像の左側には甲州名産の大水晶もあった。武田家と金との関係は本ブログの第50回で触れている。確かに武田家の繁栄は金の採掘によるものが大きいだろうが、信玄が単なる金好きだったとは考えられない。金のピカの信玄像は凡俗の極みだろうが、それはそれとしてこの大きさなら人目を惹くだろうから、商売人としては当然の営為である。事実、こうして観光客は立ち寄るし、私も撮影している。

◎放光寺と「ころ柿の里」と

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放光寺の山門

 新義真言宗智山派の放光寺は、12世紀の末に創建された法光山高橋寺に源がある。創建者の安田義定は、「甲斐源氏」の祖とも言われる新羅三郎義光の孫にあたり、彼の兄弟筋から甲斐武田氏が生まれている。

 法光山高橋寺は真言宗山岳仏教に進展した時期に創られたため、当初は高橋荘(現在の甲州市塩山一ノ瀬高橋)にあったとされる。一ノ瀬高橋というと、第50回で「おいらん淵」について述べたところで、その地名(実際には一之瀬高橋トンネル)に触れている。

 寺が一ノ瀬高橋にあったのでは安田家にとって参詣しづらいということから、現在の地(甲州市塩山藤木)移され、名は高橋山多聞院法光寺に改められた。なお、現在の放光寺の表記になったのは16世紀末と考えられている。

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放光寺の仁王門

 安田氏と武田家とには血縁関係があることから、武田信玄はこの寺を祈願所と位置付けた。先に挙げた恵林寺とは南北に500mほどしか離れていないこともあり、信玄から厚い保護を受けていたようだ。が、そのことが災いし、1582年、恵林寺に相前後して信長勢によって焼き討ちにあってしまった。したがって、この寺の建造物はその後に再興されたものである。ただし、「阿弥陀三尊」「大日如来」「不動明王」「愛染明王」などの寺宝は奇跡的に兵火を免れたそうだ。

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放光寺の本堂

 放光寺の本堂は、柳沢吉保の援助によって17世紀の後半に再建された。一重入母屋造りで、禅宗の方丈型になっており、これは江戸時代中期の特色を示す重要な遺構とされている。

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境内で見られた紅葉

 なお、この寺は「花の寺」として知られていて、”恵林寺の桜”、”放光寺の梅”と並び称されている(そうだ)。私が訪れた晩秋の時期は、生憎と花の季節からは外れているので華やかさはなく、ただ紅葉した木々が色を添えているにすぎなかった。それはそれで興趣はあった。 

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境内に置かれていた人形塚

 境内の西側(笛吹川寄り)に墓所が広がっているが、その入口付近に写真の「人形塚」があった。毎年、12月23日が「人形供養の日」と定められ、各家庭から様々な人形がこの塚の前に持ち込まれ、住職がここで供養をおこなうとのことだ。

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「ころ柿の里」にある「西藤木の水車」

 恵林寺塩山小屋敷、放光寺は塩山藤木にあるが、明治初期からこの一帯(笛吹川左岸)は松里村と呼ばれていた。1954年に村は塩山町(現在は甲州市塩山)に加わって廃村された結果、「松里」の字名はなくなったが、現在でも一帯は「松里地区」と呼ばれているようで、この地区を散策すると「松里」の名を幾度も目にすることがある。

 写真の水車小屋は「西藤木の水車」と呼ばれ、笛吹川から松里地区に引き込まれた「小屋敷堰」の流れを使って利用されていた。元は江戸時代末期に個人が造ったものだが、やがて地域が譲り受けて共同水車となった。その後は放光寺の管理下に入ったそうだ。

 なお、この地では「堰」を「セキ」ではなく「セギ」と読む。

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甲州百目柿の取入れ

 松里地区でよく目にするのが大きな実を付けた柿の木だ。甲州市の松里といえば「枯露(ころ)柿の里」として知られている。11月初旬に収穫されてから、軒下に吊して天日干しされる。「甲州百目柿」そのものは渋柿だが、40日ほど干すことによって脱渋され、柿本来が有している濃厚な甘みを味わうことができるようになる。枯露柿は私の好物のひとつなのだ。少々甘すぎるのが欠点ではあるが。

 天日干しの場合は柿全体に満遍なく光を当てる必要があるため、実を常にコロコロと転がすように向きを変える。このため、コロ柿(ころ柿、枯露柿)と呼ばれるようになったとのこと。

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百目柿は「干し柿」に変身する

 百目柿の名は、実の重量が百匁(もんめ)=375グラムほどあることが由来で、かつては百匁柿だったが、いつしか百目柿に替わったそうだ。なかには500グラムほどの大きな実に育つ個体もあるとのこと。この柿は大きく、とても目立つ存在だが、渋柿ゆえに鳥に食い散らかされることはない。

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百目柿の天日干し

 11月中旬にこの地を再度訪れたときは、収穫された百目柿が天日干しされている様子をあちらこちらで見ることができた。渋柿のタンニンは可溶性なので、そのまま口に入れたのではタンニンの渋みを強く感じてしまうために、柿が有している甘味成分を楽しむことはできない。が、日に晒すことでタンニンは重合して不溶性になるので、柿を口にしてもタンニンは溶けず、渋みを感じることはなくなる。

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庭先に干された柿と枝に残った柿

 徘徊中には写真のように、干された柿と収穫されずに枝に付いたままの柿とを目にすることもあった。柿にもいろいろな行く末がある。

 私は果物の中では柿がもっとも好きで、この駄文を打ち込んでいる際にも柿を口にしている。私が食べているのは「おけさ柿」という商品名で、品種は「平核無」という渋柿だ。いわゆる”たねなし柿”は天日干しではなく、アルコール漬けか炭酸ガス処理をおこなってタンニンを不溶化している。ときおり、完全に不溶化されていないものもあり、甘みと渋みとを同時に感じてしまうこともある。それはそれで季節や果実としての実存を感じることができるので、欠点とばかりは言えない。不都合な真実なのだが。

武田神社とその界隈

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武田神社の大鳥居

 武田神社は1919年、武田信虎、晴信(信玄)、勝頼の三代が拠点にしていた「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた。武田氏館とも)」跡に造られた。信虎が躑躅ヶ崎に館を築いたのは1519年のことで、甲府市ではこの年に甲府甲斐府中)が誕生したと考え、2019年には「こうふ開府500年」、また信玄は1521年に生まれたので、今年(2021年)は「信玄公生誕500年」ということで、二つを合わせた記念事業をおこなっている。

 『妙法寺記』には、明応元(1492)年に「甲州乱国に成り始めるなり」とあり、甲斐国は武田一族内の覇権争いだけでなく、駿河からの乱入もあって信虎が生まれた明応三(1494)年、家督を継いだ永正四(1507)年にはまだ混迷の中にあった。が、川田館(石和温泉の近く、現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎に居館を移転した永正十六(1519)年には甲斐国の有力者がこの地に続々と集まってきたために、信虎の権力は一層強まり、天文元(1532)年に『妙法寺記』には「一国御無異になり候」とまで記されるようになった。

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神社の本殿を眺める

 武田信玄は、甲府市民や山梨県民にとって唯一無二の英傑のようで、たまたま私が神社で話し込んだ地元の人は「山梨には信玄ぐらいしか有名人はいないから」と語っていた。こうした思いは地元民には古くからあったようで、武田信玄を祀る神社を躑躅ヶ崎館跡に創建したいという動きは、1915(大正4)年、信玄に「従三位」が追贈されたことで気運が一気に盛り上がり、翌年には「武田神社奉建会」が発足し、結果、19(大正8)年に宿願であった神社の完成を見た。

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境内にある甲陽武能殿

 境内にある写真の「甲陽武能殿」では”舞”の練習がおこなわれていた。甲陽とは「甲斐の国が輝く様」を意味し、武能の「武」は武田の武であり能楽の「舞」にもつながり、武芸を嗜む者は同時に舞も嗜み、その拍子を武芸に取り入れるという意味を表しているとのことだ。

 「舞」と聞くと私は折口信夫の『舞ひと踊りと』の小文を思い出す。「日本の芸能には古来から「まひ」と「をどり」とが厳重に別れてゐた。いろんな用例からみても、旋回運動が「まひ」、跳躍運動が「をどり」であったことが明らかである」「多くの場合、舞ひと言ふのは、大様で静かな性格をもつた神の一面を表す事が多い。踊りは、幾分荒々しい粗野な感情を表現する「でもん」・「すぴりつと」の類の動作であることが多い。」「我が国に行はれてをつた幾多の鎮魂の舞踏である所の遊びが、次第に舞ひの方に傾いて、名もさう呼ばれるやうになつた。踊りは専ら、伊勢踊り・念仏踊り・神送り踊りの類の激しいものになつて行つた。」と折口は述べている。

 舞には型式性・物語性が、踊りには即興性があるようなので、かつて「東京音頭」や「まんまる音頭」を得意としていた私には舞は縁遠く、踊りのほうを好む。私が大いに興味を抱いている越中八尾の「おわら風の盆」(見るだけだが)は物語性がとても強く、かつ哀愁に満ちた動作(胡弓の音とともに)が展開されるため「舞」に近いように思っていた。しかし、八尾観光協会のHPには、風の盆の「踊り方」が掲載してあった。その名が表すようにやはり”盆踊り”なのだ。そうと知っても、風の盆の価値はまったく減じないが。

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大鳥居前から武田通りを望む

 神社の大鳥居前から甲府市街方向を見ると、写真にある「武田通り」が甲府駅に向かって南方向へ一直線に伸びていることが分かる。神社は相川扇状地の扇頂近くにあるので、道はなだらかに傾斜している。参拝客や観光客には便利だが、このような道が戦国時代にあったとすれば、躑躅ヶ崎館は簡単に攻め落とされてしまっただろう。

 大鳥居は武田神社の入口であり、神社に訪れる人の大半は写真の朱色の橋を渡って境内に入る。が、これらは神社が創建された際に造られたもので、もちろん戦国時代にはこのようなものはなく、ここには頑強な堀だけが存在していた。

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大手門への道筋

 躑躅ヶ崎館時代の正門(大手門)は、館の東側にあった。北側は扇状地の扇頂、西側には相川の流れがあって東側よりなだらかな扇央が広がっているため守りにはやや弱い。反面、東側は山裾が迫ってきているために守備固めがしやすくなっている。それゆえ、大手門は館の東側に造られたのだ。

 なお、写真の左側に大手門があり、右側には大手地区を堅めるための曲輪などの遺構が存在する。

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大手門は東に開いている

 写真は、神社の東側を通る道から大手門を見たもの。門の手前に堀がある。館は住居であると同時に「城」でもあるからだ。

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大手門前の堀の様子

 大手門前に架かる橋から堀を見たのが上の写真。北側は空堀になっているが、かつては満々と水を蓄えていたはずだ。

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大手門前から富士山を望む

 大手門前からは富士山がよく見えた。家々や電信柱の存在はともかく、信虎も信玄も勝頼も、確実にこの位置から富士山を眺めたはずである。約500年前に戦国武将が見ていたのとほぼ同じ、富士のある景色を私も今、目にしている。武将たちと時間は共有できないが、空間はその限りではない。それゆえ、時間は、決して”空間化”しえないのである。

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竜華池の土手上から大手地区と神社の森とを眺める

 大手門の東側にある旧大手地区の遺構の北側の高台に「竜華池」がある。大正時代に耕地を拡大するための一環として”ため池”として整備されたものらしいが、現在はフィッシングパークとして利用されている。

 写真は、その”ため池”のヘリから旧大手地区の遺構、武田神社の森、さらに南に広がる甲府市の中心街を望んだもの。大手門の標高は349m、遺構は349~353m、池のヘリは366mだ。神社の大鳥居から甲府駅北口までは2150mあり、北口の標高は276mである。

◎要害山と積翠寺(せきすいじ)と 

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積翠寺の東北東にたつ要害山

 躑躅ヶ崎館は平城でもあるが、基本的には武田信虎の居館であり、政治の中心地だった。そのため信虎は、最後の砦の役割を有する詰城(要害城)を、館から北東2700mほどのところにある要害山(780m)に築いた。館建設の翌年、永正17(1520)年のことだった。

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要害山登城道の入り口

 甲府駅北口から武田神社に向かう県道31号線(r31)は、大鳥居前から神社を迂回して相川沿いに進み、上積翠(かみせきすい)町の集落を通りすぎて山間に入り、甲府市と山梨市との境に位置する「太良峠(1118m)」へと至る。r31がまさに山間に入っていこうとする箇所の傍らに駐車場(相川右岸沿い)があり、相川を渡ったすぐの場所に、写真の”要害山登城道入口”がある。

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要害山登城道の出発点

 ここの標高は560mなので、要害山頂との比高は220m。曲がりくねった道が整備されていて頂上、すなわち要害城までは約1キロとあった。要害山とその裏手にある山(787m)の尾根筋に土塁、竪堀跡、曲輪、門跡などが残っているそうだ。そこに至る体力も気力もなかったので登城は断念したが、資料を見た範囲では、本ブログの第36回で紹介した「滝山城跡」と同様のものと思われた。

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武田信玄の誕生地とされる積翠寺(せきすいじ)

 要害山のふもとには写真の「積翠寺」(標高527m)がある。臨済宗妙心寺派の寺で、行基が開基し、夢窓疎石の高弟が中興の祖であったと考えられている。1521年に駿河の軍勢が甲府盆地内に侵攻してきたとき、信虎の夫人は懐妊中であったため積翠寺に避難し(要害山中とも)、ここで晴信(信玄)が生まれたとされている。

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積翠寺と四つ割菱と黄葉と

 r31から積翠寺方向を眺めたのが上の写真。黄葉したイチョウが陽光を受けて輝いていたのでいろいろな角度から撮影した。このカットには積翠寺本堂の屋根も写っていたのでこれを載せてみた。本堂の大棟には武田菱(四つ割菱)があった。

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積翠寺前から盆地を望む

 積翠寺のすぐ下を走るr31を少しだけ歩いたとき、甲府盆地を眺めるのに適した場所に出た。その地点で撮影したのが上の写真だ。相川扇状地の右手にある森が武田神社、神社の左手(東側)に見えるのが竜華池。先に挙げた大手門は神社と池との間にある。戦国時代には池はなかったので当然、山裾は躑躅ヶ崎館の東側すぐにまで迫っていたはず。大手門を整備するには絶好の地形だったことが良くわかる。

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武田神社の隣にある「古府中町1号公園」

 武田神社の西隣に写真の「古府中町1号公園」があった。とくに重要な場所ではないが、私の家のすぐ近くに「府中公園」があるので、比較をするために少し寄ってみた。”古府中”といっても、こちらの府中は1519年以降、私の住む府中は律令国成立以来で800年の差がある。ただ、古府中には郷土の英雄・武田信玄が存在したが、わが府中は歴史が長いだけで、普通の人しか輩出していない(第31、32回参照)。

甲府城舞鶴城)を少しだけ歩く

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遊亀橋北詰付近から甲府城跡を望む

 甲府城跡(舞鶴城公園)は甲府駅のすぐ東側にある。甲府城は戦国時代の末期、武田家なきあとの甲斐国を治めるため、豊臣秀吉の家臣が築城したと言われている。とくに浅野長政の功が大きかったとされている。秀吉は江戸に入った家康の勢力拡大を抑え込むため、甲府に有力な家臣を配置したのだ。 

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天守のあった石垣を眺める

 家康が天下を治めてからも徳川家にとって甲斐国は重要な地であったため、家康は城主として子の義直を配した。家康の生涯で唯一戦いに敗れたのは1573年の「三方ヶ原の戦い」であり、その相手は武田信玄だった。それもあって、家康は信玄を心酔していたようだ。また、甲府盆地は信玄を生んだ土地であるばかりでなく、その形状から防備に最適な場所だった。それゆえ、まだ幕府の体制が盤石ではなく、江戸を離れざるを得なくなった状況が発生したとき、家康は最後の砦として甲府の地を選んでいたと考えられている。

 甲府城が最盛期を迎えたのは、18世紀の初め、恵林寺のところでも触れた柳沢吉保が城主になったときであった。が、吉保の子の吉里が大和郡山城主に転封されて以来、甲斐国は幕府の直轄領になり、甲府勤番支配下に置かれた。

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城跡のすぐ隣が甲府駅

 享保12(1727)年に大火があり城の主な建物は焼失した。明治維新後の1873(明治6)年に廃城となり、その後は残った建物が撤去され、敷地には役所、学校、公会堂、試験場、中央線の線路などに利用され、一部が「舞鶴城公園」となった。

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天守跡から盆地と金川扇状地と御坂山地を望む

 公園の管理事務所がある遊亀橋北詰は標高271mのところにあるが、天守郭があったとされる場所は296m地点にある。そこから甲府盆地を眺めたのが上の写真で、これは金川扇状地方向を眺めたもの。御坂山地の連なりが見え、頂上にアンテナが並んでいる山が三ツ峠山(1785m)だ。

 こうして、盆地の南方向を見れば御坂山地と富士山、東方向には大菩薩連嶺、北方向には奥秩父山地八ヶ岳連峰、西方向には巨摩山地や赤石山脈が望める。甲府盆地は変化に富んでいて、訪れるたびにいろんな発見がある。

  *   *   *

 次回は、主に盆地の西側と南側とを紹介。更新は11月下旬を予定しています。

〔62〕甲府盆地の縁辺探索(1)主に盆地の東側を徘徊

 

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ワイン用の甲州ブドウを収穫中

◎R411の旅の続きです

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愛宕山から盆地内、御坂山地、富士山を望む

 本ブログの第47回から51回まで、5回連続で国道411号線(R411)を使って八王子市から甲府市まで訪ねる旅を紹介した。当初の予定ではその締めくくりとして甲府盆地について記すつもりで、甲府舞鶴)城、武田神社、昇仙峡、曽根丘陵古墳群、信玄堤などをすでに訪ねて撮影し終えていた。さらに追加撮影をするための下調べを進めていたのだが、折しも新型コロナ騒ぎの第3波が発生してしまったため、甲府行きは断念した。もっとも、今までの最大の波である第5波の最中に紀伊半島を2回訪ねているし、山梨県桂川水系ではしばしばアユ釣りを楽しんでいたのだけれど。

 ともあれ、新型コロナ新規陽性判明者数は今のところ減少傾向にあり、自粛ムードも溶解しつつあるので、約一年振りに甲府盆地へ出掛けることにした。一応、R411の旅の締めくくりという位置づけにしたが、実際には府中からは中央道を使って甲府盆地に入った。盆地内には名所旧跡は多いが、そうした場所の一部はすでに紹介しているので、今回はおもに盆地の縁辺部を訪ね歩いた。

 なお、写真の一部は昨年の晩秋に撮影したものも用いているが、全体の景観には変化はほぼない(雪や雲や木々の色づきは少し異なる)ため、とくに断りは入れていない。

甲府盆地は、羽ばたくコウモリのごとく

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盆地の縁辺部には複合扇状地が数多くある

 甲府盆地は「逆三角形」に例えられる。右(北東)の角からは笛吹川が、左(北西)の角からは釜無川が流れ下り、両者は下(南)の頂点のすぐ近くで合流し、富士川となって盆地を出て南へと下っていく。

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北東から盆地に流れ込む笛吹川富士川最大の支流)

 ただ実際には、山地から盆地に下る河川は無数にあり、それらが複合して扇状地を造り上げている。そのため縁辺部は複雑に入り組んでいて、逆三角形というより、奥秩父山地に向かって飛んでいきたいと願っている、翼を広げたコウモリ(蝙蝠)のような形を甲府盆地はしているではないか?と、私には思える。とはいえ盆地なので、これは「飛べない蝙蝠」なのだが。

 『飛べない蝙蝠』は1974年に発表された小椋佳の作品であり、私は20代の頃に下手なギターを弾きながらもっとも多く歌っていた曲だという鮮明な記憶がある。そんなことから、甲府盆地全体を地図で確認すると、逆三角形ではなく、決まってコウモリの姿を連想してしまうのかもしれない。

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北西から盆地に流れ込む釜無川富士川の上流部名)

 甲府盆地は地殻運動によって生まれた構造盆地である。この地にはユーラシア、北米、フィリピン海という3つのプレートが会合しており、それらが圧縮し合っていることで逆断層(糸魚川・静岡構造線断層帯や曽根丘陵断層帯)による沈降域が形成された。これが甲府盆地の原形となった。

 盆地の東には関東山地の大菩薩連嶺、西には赤石山脈南アルプス)とその前山である巨摩山地、北には関東山地の奥秩父山地、南には御坂山地が連なっている。それらの山々から数多くの川が流れ下っていて、その川たちが無数の砂礫を山から沈降地内に運び込み、盆地の砂礫層は1000mほどの厚さがあると考えられている。

 山から下ってきた無数の河川は、やがて笛吹川釜無川笛吹川を取り込む前の富士川の呼び名)のどちらかに集結し、最終的には笛吹川釜無川に合流する。そこから富士川は、富士山の西方にある山地の間を穿入蛇行しながら南へ進む。その場所で甲府盆地は「閉じて」いる。

 盆地というと「閉ざされた世界」をイメージしがちだが、甲府盆地には周囲の地域から多くの道(街道、往還)が、盆地につながる大中河川に沿って古くから整備されていたため、河川や道によって外の世界とは大いなる結び付きがあった。それゆえに、歴史研究家の網野善彦(現在の笛吹市御坂町出身)が言うように、甲府盆地や甲斐の国は「開かれた山国」だったのである。

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甲州街道に沿って流れる日川(ひかわ)。写真左手上部にR20が走っている

 盆地の東側でいえば、北東部(コウモリの右翼の先端部)からは笛吹川と重川(おもがわ)が流れ込んでいるが、前者に沿って国道140号線(雁坂みち)が通じていて、その道は「秩父往還」とも呼ばれている。また後者沿いには国道411号線(大菩薩ライン)が通じていて、それを「青梅街道」と呼ぶことは、すでに「R411」の項で何度も触れている。
 右翼先端の下側には、上の写真にある日川が流れ込んでいるが、川の右岸側の上部には国道20号線、つまり甲州街道が走っている。

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御坂山地に源をもつ金川

 右翼の下部では、御坂山地に源を有する金川が、南東から北西に向かって流れ下って笛吹川に合流するが、この金川に沿って国道137号線が河口湖へと通じている。このR137には「御坂みち」の名があるが、古くは「鎌倉往還」として利用された。

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境川PAから南アルプスを望む

 このほか、御坂山地からは浅川、境川、滝戸川などの中河川がいくつも笛吹川に流れ込んでいる。こうした河川沿いにも林道が切り開かれていて、河口湖や精進湖方面につながっている。

 中央道を利用する人は「甲府南インター」のすぐ近くに「境川PA」があるのをご承知かと思うが、そのPAは境川町にある。上の写真は、その境川PAの北端から南アルプス方面を眺めたもので、間ノ岳北岳が雪化粧を始めていた。

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昇仙峡を代表する名所・仙娥の滝(荒川の上流)

 次に盆地の北側を見てみると、そこにはコウモリの頭部(とくに両耳)のごとくに盆地が突き出ている。それは、奥秩父山地から2本の川が盆地中央に向かって流れ込んで扇状地を形成しているからだ。東側は相川が造った扇状地で、扇央に武田神社がある。西側は荒川で、その扇状地甲府市甲斐市にまたがっている。なお、荒川の上流部には甲府市を代表する観光名所である昇仙峡がある。

 相川は甲府市内で荒川に合流し、その荒川は甲府市域を南下し、御坂山地にかなり近づいた場所で笛吹川に合流している。

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秩父山地を水源とする塩川は釜無川の支流

 今度は盆地の西側に目を転じてみよう。コウモリの左翼の先端部には釜無川が流れていることはすでに触れた。その川の支流である塩川は盆地の最北西端からは本川と並走するように南東へと流れ下っていて、韮崎市甲斐市の境界辺りで合流している。

 釜無川すなわち富士川赤石山脈の鋸岳、塩川は奥秩父山地金峰山瑞牆山(みずがきやま)を水源としているので、中下流部で並行して流れているといっても出自は異なる。釜無川糸魚川・静岡構造線(糸静線)断層帯付近を、塩川は岩村田・若神子構造線付近を流れているが、両構造線は八ヶ岳の南側で著しく接近しているために並走することになり、盆地が開けた場所に至って両河川は合流するのである。

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武田信玄をも悩ませた御勅使(みだい)川

 甲府盆地を語る際に忘れてはならないのが、写真の御勅使(みだい)川だ。巨摩山地に源を発し、ほぼ西から東に流れ下って釜無川に突き当たる。釜無川が塩川の流れを引き受けた場所から1400mほど下流のところだ。写真から分かる通り、川床が砂礫であるために流路が定まらず、おまけに勾配が急であるため、大水のときにはすぐに氾濫し、この川が合流する釜無川一帯に幾度となく大きな被害をもたらした。

 甲府盆地に拠点を構えた武田氏にとってこの川の整備が一大事業であって、「信玄堤」でその名を残す釜無川左岸の改良工事も、元を辿れば御勅使川の大氾濫が主要因であった。

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富士川大橋から釜無川下流部を望む

 盆地の南部(コウモリのしっぽ)では2つの流れがひとつにまとまるだけでなく、盆地そのものが閉じていく。釜無川は北西方向から下ってきて盆地の広がりの中に達すると今度は真南に下り、やがて御坂山地に近づくと今度は南西に向きを変えて出口を探し始める。写真は、富士川大橋から釜無川の最下流部を望んだもので、すぐ右手(東側)には笛吹川の流れがある。

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富士川大橋から笛吹川下流部を望む

 笛吹川は盆地に入るとそのまま南西方向に下り、御坂山地の北縁に近づくと、そのヘリに沿って西南西方向に進み、出口を求めて釜無川の左岸近くにまで達する。山地の北縁に位置する曽根丘陵沿いには「曽根丘陵断層帯」が走っているので、川はそれが形成した「窪地」に沿って流れ下っているのかもしれない。

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左手が釜無川、右手が笛吹川

 写真は釜無川(左手)と笛吹川(右手)が並走している姿を富士川大橋上から眺めたもので、両者は3.5キロほど並んで南下してから合流する。このため、合流点より上流一帯には氾濫原性の低地(低湿地)がかなり大きな範囲に広がっている。とりわけ釜無川の左右両岸には低地が広範囲にあり、「西南湖」「東南湖」といった字名さえ残っている。さぞかし湿地帯が多かったのだろう。

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笛吹川中部横断自動車道の下辺りで本川に合流する

 写真は、富士川大橋上から合流点(標高237m)付近を望んだもので、上部を走る中部横断自動車道の橋脚付近で両河川は一本化され、文字通り「富士川」となって駿河湾を目指していく。

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禹之瀬(うのせ)は盆地の湖水化を防ぐために開削された

 盆地が閉じた場所では西から巨摩山地、東から御坂山地の裾が迫っているため、富士川の川幅はとても狭くなっている。それゆえ、上流部が大増水した際には水は狭窄部を流下しきれずに川面を上げ、バックウォーター現象を起こして合流点付近一帯に溢れ出ることになる。こうしたことが古くから幾度となく発生したため、「甲府盆地湖水伝説」が生まれた。

 伝説によれば、今から1300年前の養老年間に行基がこの地に来て、左右の山を切り開いて盆地に溜まった水を落としたという。中国初代王朝である「夏」を建国したとされる禹(う)王は黄河の治水をおこなったことで知られるが、この行基の業は禹王の成したことに匹敵するということから、この場所は「禹之瀬(うのせ)」(標高234m)と名付けられた。伝説は、伝説に比して語られる。

 現在の禹の瀬は1987年から95年にかけての工事によって切り開かれたものが基になっている。伝説では「禹之瀬」だが、現在では「禹の瀬」と表記される。なお、日本の地名で「禹」の字があてられているのはここだけとのことだ。

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日陰山枕状溶岩

 写真は御坂山地に属する日陰山(日蔭山、1025m)の北斜面(標高764m付近)にある「枕状溶岩」を撮影したもの。枕状溶岩とは、粘り気の弱い溶岩が海中に流れ出ると表面張力によってチューブ状になり、その断面が積み重なったものを言う。俵状溶岩とも呼ばれる。ということは、かつて御坂山地は海底にあったことになる。

 御坂山地を形成している御坂地塊はフィリピン海プレート上の伊豆・小笠原弧にあって、かつては本州の遥か南の海底に位置していた。フィリピン海プレートが北上してユーラシアプレートや北米プレートに衝突してそれらの下に潜り込むが、厚さのあるフィリピン海プレートは全部が沈み込めず、上部にあった御坂地塊ははぎ取られて本州に付加された。その盛り上がりが御坂山地で、それ以前に付加された櫛形山地塊(巨摩山地の元型)、その後に付加された丹沢山地伊豆半島と同じ成り立ちである。いずれも南から圧縮され続けているため、年々、それらの高さは増していっている。

 枕状溶岩は日本各地で観察されるが、それが見られる場所はすべて、かつては海の底にあったことを示している。ということは、甲府盆地湖水伝説どころではなく、海底伝説があっても不思議はない。

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横根積石塚古墳

 石和温泉駅の北側に大蔵経寺山(716m)があり、その西方に八人山(572m)があるが、その山間に写真の「横根積石塚古墳」(標高343m地点)がある。日本の古墳は土盛りだが、朝鮮半島(とくに高句麗)には写真のような石積みの古墳が多く見られた。

 本ブログの第51回で触れているように、甲斐国は大陸文化の通り道であったし、巨摩郡(巨麻郡)の存在が示すように、朝鮮半島から多くの人々が渡来した。51回では言葉だけ挙げていた「積石塚」に、今回は訪れてみた。

 横根地区とお隣の桜井地区では合わせて145基の積石塚古墳が発見されている。この地にも開発の手が及んでいるため、保存されているものは多くないようだ。

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韮崎市穂坂町にかつて御牧があった

 第51回では、甲斐国には御牧(勅旨牧)が3か所あったということにも触れている。写真の穂坂町地区に、その御牧があった(穂坂牧)という記録が残っている。ただし、写真の場所かどうかはまったく不明だ。写真の場所も含め、何度も噴火を重ねた複成火山である茅ヶ岳(1704m)の南西側の裾野には広々とした場所が至るところにあるため、牧場があってもまったく自然である。

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北杜市武川町牧原地区

 写真は、真衣野牧があったとされる場所。それが武川町の牧原であったかどうかは同定されていないが、巨摩山地の麓であること(ここだけではないが)、甲斐駒ヶ岳(2967m)がよく見えること(それもここだけではないが)から、さらに牧原という字名から、「甲斐の黒駒」の産地と考えられなくはない。

 以上、ここまでは甲府盆地の特徴をよく表す、主だった場所を紹介してきた。

◎盆地のヘリを東側から訪ね歩く

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甲州街道勝沼口から盆地を望む

 甲府盆地の縁辺を巡る徘徊は、写真の「勝沼口」から始めた。写真中にある道路は国道20号線で、左にカーブして日川を越えている新しめの道は「新甲州街道」の「勝沼バイパス」で、旧甲州街道(県道306号線)は直進して勝沼宿の中を走っている。

 写真右手の、盆地に張り出しているように見える山は「積石塚」のところで触れた大蔵経寺山のもので、その麓に石和温泉街がある。頂に雲を纏っている奥の山々は巨摩山地、赤石山脈である。撮影地点から巨摩山地の麓までは、直線距離にして約28.5キロ。かように、甲府盆地は相当に広いので、私の徘徊手段は主に車となる。

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「ぶどう寺」としても知られる大善寺の山門

 勝沼口の北側斜面に、写真の「大善寺」がある。718(養老二)年に行基が開創したとされている。聖武天皇から「柏尾山鎮護国家大善」の寺号と勅額を受けたことで歴代朝廷の厚い保護を受けた。それが災いし、平安末期から鎌倉時代にかけては、敵対勢力によって何度も焼かれたとされている。

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国宝に指定されている本堂(薬師堂)

 国宝に指定されている写真の本堂(薬師堂、標高488m)は1286年に建造され、現在の姿は1954年に大改修を受けたものである。国の重要文化財に指定されている「薬師如来像」や「日光・月光菩薩像」は秘仏として、堂内にある国宝の「厨子」に納められている。

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本堂には秘仏薬師如来像、日光・月光菩薩像が納められている

 私は500円の拝観料を納めたが、これは駐車料金として払ったつもりでいたので薬師堂の中には入らず、写真にあるように外から内部を眺めただけだった。基本、「のぞき」はするが拝観はしないのだ。

 この寺は「武田勝頼終焉の地」としても知られており、勝頼は薬師堂に一夜籠り、武田氏再興を祈念して翌日に自刃した。

 さらに、この寺は「ぶどう寺」としても知られ、かつまた自家製(寺家製か?)のワインや、「史蹟ワイン民宿・大善寺」の運営もおこなっているようだ。この寺を「ぶどう寺」と呼ぶことについては、第51回に触れているので、そちらを参照していただきたい。

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柏尾古戦場跡には近藤勇像のみがある

 近藤勇(大久保剛、大久保大和)率いる甲陽鎮撫隊新撰組)と板垣退助率いる東山道先鋒総督隊別動隊とが一戦を交えたのが大善寺近くの柏尾坂であった。僅か2時間で甲陽鎮撫隊は敗走した。1868(慶応四)年3月6日(旧暦)のことであった。

 大善寺境内のすぐ東側が「柏尾古戦場跡」とされ、写真の「近藤勇像」が建っている。周りは雑草だらけ、おまけに近藤勇像はクモの巣に覆われていた。さぞかし、近藤は無念であろう。巣を払ってあげたいが、私はクモが大の苦手なので、早々に逃げ出した。

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収穫されずに廃棄されたブドウたち

 大善寺や古戦場跡はR20の北側沿いにあるが、道の南側を流れる日川に「勝沼堰堤」があるというので、それを眺めに行くことにした。道すがらに「シャトー勝沼」のブドウ園(”柏尾祇園の滝”という洒落た名前が掲げてあった)があったので、さしあたり、そのブドウ園を外から観察してみた。今回の冒頭写真は、その作業の様子を西側から撮影したものだ。

 南側からのぞいてみると、写真のように園内に捨てられたブドウがたくさんあった。中には園外にも十分に食べられそうなブドウが置かれていたので、それを拾って賞味しようと思った。が、作業の責任者らしき人が私のほうを見ていることに気付いたので断念した。残念無念である。

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日川の勝沼堰堤

 1907(明治40)年の大洪水の結果、日川に砂防堰堤建設の必要性が生じたことから17(大正6)年に竣工したのが、写真の「勝沼堰堤」で「近代土木遺産」として認められているそうだ。18.5mの高低差がある人工滝は「祇園の滝」と命名されているとのことで、先に挙げたブドウ園の名の由来になっている。

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廃業された?ブドウ園のブドウたち

 写真のブドウは、勝沼堰堤のすぐ上方にあった畑のもの。葉は枯れ始め、大きな房に実ったブドウの粒も傷み始めている。ブドウ自体は枝や蔓がたわむほどに無数に実っているのだが、取り入れが始まった様子はなかった。

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悲しみを誘う朽ちたブドウ

 さらに、ブドウ袋を付けたまま朽ち果てている品種もあった。ブドウ袋は梅雨入りの前に付けられることが多く、実を害虫から守る、雨水による感染症の広がりを防ぐ、強い日差しから実を守るなどの役割を有しているので、少なくとも6月中までは丹精を込めて育てられていたに違いない。

 私がこのときに見た範囲では、ブドウ畑に人がいる様子はなく、畑の一角に造られた建物(作業所兼売店)も、ここ最近に利用されているとは思えないほど埃にまみれていた。何かの事情で廃業を余儀なくされてしまったのかは不明だが、見事に実っているブドウたちが多いだけに、なにやら寂しさを抱いてしまった。

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縄文遺跡からの出土品が多数展示される釈迦堂遺跡博物館

 ブドウ畑を離れて大善寺の駐車場に戻って車に乗り、次の目的地である「釈迦堂遺跡博物館」(笛吹市一宮町、標高458m)に向かった。博物館は中央道・釈迦堂PAのすぐ北側の高台にあり、PAの駐車場からも歩いていくことができる。この博物館の存在は以前から知っていたのだが、入場するのは今回が初めてだ。この日は御坂山地の山裾を走る一般道を使って向かった。大善寺から博物館までは、直線距離では2.8キロしかないので、わざわざ中央道に入る必要性はなかった。

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縄文遺跡に興味がある人は必見

 1980~81年、中央道建設工事に先立って大掛かりな発掘調査がおこなわれた結果、旧石器時代縄文時代古墳時代などの埋蔵物が多く発見された。とりわけ、縄文時代のものは日本有数の出土数を誇るとのことだ。博物館内には写真から想像できる通り、国指定の重要文化財だけでも5599点が展示されている。

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土器の上部の意匠が興味深い

 実用性重視の弥生土器に比べ、縄文土器は意匠に変化が富んでいるので実に見応えがある。「水煙文土器」がここではもっともよく知られている展示品だが、私は、写真のヘビの飾り?を有した土器(一部は復元されてい入る)に一番の興味を抱いた。呪術性の現れなのか単なる装飾なのかは不明だが、このほかにも多彩な生き物が土器には文様づけられている。

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様々な表情をした土偶の顔

 人の顔の装飾も多数あり、部品として造られたのか欠け落ちたものかは分からないが、表情が豊かなのに驚かされる。中には、今は会うことがなくなった私のかつての知り合いに類似した顔付きのものがあった。私は思わず、彼の名を呼びそうになった。こんな場所で会えるとは、土偶というより奇遇である。

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ヒスイの原石は糸魚川からやってきた

 ヒスイの原石も展示されていた。ヒスイは、現在の新潟県糸魚川市で産出されるものなので、これらは糸静線を通ってこの地に運ばれたのだろう。ヒスイ文化は5000年前の縄文中期に始まったと考えられている。装飾品や勾玉などに加工されるが、当時の技術でどのように加工されたのか興味深い。一説には「竹ひご」を使って穴が開けられたとのこと。「雨垂れ石を穿つ」の体であろう。

 黒曜石の原石や鏃なども展示されていた。黒曜石は信州産のものが多いので、その運搬もやはり糸静線が用いられたのだろう。その一方、伊豆諸島・神津島産のものもある。こうしたヒスイや黒曜石の存在は、この地が「開かれた盆地」であることを証明している。

 その他、駿河湾産のハマグリの貝殻もあった。我々が想像する以上に海と山との交流は盛んだったようだ。

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御坂町から笛吹川水系が造った扇状地方向を望む

 博物館を出て山裾の道を西に進み、御坂山地の高台(標高406m、笛吹市御坂町)から北方向を眺めてみた。人家が立ち並んでいるのは丘になっている場所で、その下に金川が造った扇状地が広がり、北側の奥秩父山地の下の右手(東側)には重川が造った扇状地、左手には笛吹川が造った扇状地が見える。

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御坂山地の裾野にある甲斐国分寺址

 甲斐国分寺址(標高363m)は笛吹市一宮町にある。この辺りは金川扇状地に属する。資料館や復元された建物などはないが、金堂跡、塔跡、講堂跡、回廊跡がよく整備され、それぞれに礎石などが置かれている。

 国分寺がこの地にあるということは、近くに国衙があったはずで、近くの地名を調べてみると国分寺址の西側3キロのところに笛吹市御坂町国衙(標高283m)の字名があった。武蔵国国衙府中市大國魂神社付近)から武蔵国国分寺までは2.6キロほどなので、この国衙国分寺との距離間には妥当性がありそうだ。

 もっとも、第51回で触れているように、甲斐国国衙は当初、笛吹市春日居町国府に置かれていた。その場所は御坂町国衙の2.6キロほどのところにある。春日居町国府の近くに国分寺址はないが、その場所と一宮町国分寺址とは4.6キロほどの距離なので、国分寺は初めからこの地に置かれていたと考えられなくはない。国衙は役所なので移転は比較的容易だが、国分寺は象徴的存在なので必ず、大洪水などの被害にあわないようにやや高い場所に造営される。

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甲斐国分寺講堂跡

 私が甲斐国分寺址を徘徊していたとき、国分寺国分尼寺址巡りの団体客がやってきた。笛吹市の役人も説明役として数人同行していた。乗ってきたバス(写真の左端に写っている)は埼玉ナンバーだったので、武蔵国からやってきた史跡巡りツアーなのかも。

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甲斐国一之宮浅間神社の大鳥居

 『日本三大実録』によれば、貞観六(864)年に富士山が大噴火して溶岩は甲駿の国境にまで達した。朝廷は大噴火による災害の発生は、駿河浅間明神の神官の祭祀が不十分だったからと考え、各地に浅間神社を創設することを許した。その結果、甲斐国にも建てられたのが一之宮浅間(あさま)神社で、写真の大鳥居は国道20号線(勝沼バイパス)沿いにある。

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浅間神社の拝殿

 境内は大鳥居から北に300mほど進んだところにある。写真の拝殿(標高347m)は東向きで、参道とは90度、向きが異なっている。武田信玄はこの神社を深く信仰していたようで、彼が残した「紺紙金泥般若心経」は巻子本として神社に保存されている。信玄は他にも太刀や自詠の短冊、土地寄進などの文書44通を残している。

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境内の隅に祀られていた陰陽石

 境内には「子持石」や写真の「陰陽石」が置かれている。前者は人の目に着く場所、後者は人の目に触れにくい片隅にあった。ケンさん(前回参照)にこの写真を捧げます。

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塩山ふれあいの森公園・フルーツパラダイスの遊具

 浅間神社からは一気に北(コウモリの右翼の下端から上端方向)に進み、今度は奥秩父山地の南縁辺を徘徊することにした。「塩山フルーツライン」の南端は先に挙げた大善寺付近にあり、その道の北端に近い場所にあるのが写真の「塩山ふれあいの森総合公園」だ。第51回で触れた「中央線・塩山駅」(標高410m)から北に2.5キロほど進んだ山裾(標高543m)にある。

 総合公園内にはグラウンド、散策路、遊具施設(フルーツパラダイス)、展望台などがあるが、私は見晴らしの良さそうな遊具施設前の駐車場に車をとめて少しだけ散策した。写真は遊具施設を見たもので、さすがにフルーツ王国・山梨県だけあって、遊具もフルーツの形をしている。

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ふれあいの森から笛吹川扇状地を望む

 散策路から笛吹川が造った扇状地を見下ろした。左手に少し顔を出しているのは、塩山の名の由来となった塩ノ山(標高553m)の西端部である。正面は御坂山地、右に少しだけ顔をのぞかせているのは、お馴染みとなった「大蔵経寺山」の山裾である。

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恵林寺の参道

 ふれあいの森を離れて西に進むとすぐに笛吹川扇状地に出る。信玄の菩提寺であった恵林寺(えりんじ、標高462m)に行くためである。私は恵林寺と聞くと、「信玄ゆかりの寺」というより、『大菩薩峠』に登場する魅力的な人物の一人である「慢心和尚」のほうをすぐに思い浮かべる。真ん丸な頭と顔、拳がすっぽり入るほどの大口の持ち主だ。こんな和尚に出会えたなら、私も少しは信仰心を抱くかも、と思わせるほどの存在感だ。

 架空の人物を思ってもさほど意味があるとは思えないので、ともあれ写真にある総門(黒門)をくぐって参道を200mほど進んだ。

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四脚門

 参道の先には朱塗りの「四脚門」(赤門)がある。1582年に織田信長の軍勢に全山を焼かれたのち、1606年に徳川家康が再建したと言われている。四脚門といいながら、柱は6本あるのはこれ如何に。中央にあるのは扉を支えるための門柱で、これは脚には入らない。門柱や屋根を支えるため四隅に控柱が4本あるので四脚門という(らしい)。

 私は門から入る(出る)際に、下部の出っ張りに足を引っ掛けて転ぶ危険性を考え、門の脇から入った(出た)。

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三門に掲げられた、あまりにも有名な偈

 四脚門の先に庭があり、その先に、あまりにも有名な「滅却心頭火自涼」の偈(げ)が掲げられた三門(三解脱門)がある。これは、信長の焼き討ちにあって焼死した住職の快川紹喜(かいせんじょうき、1502~82)の辞世の偈とされている。彼は美濃国出身の臨済宗妙心寺派の僧で、1564年に信玄に招かれて恵林寺の住職になった。これにより、武田氏と美濃の斎藤氏との関係は深まった。

 写真にはないが、右手には「安禅不必須山水」の偈がある。並べて読めば、「安禅必ずしも山水を須(もち)ひず、心頭滅却せば火も自(おの)づと涼し」となる。この偈の原典は唐の詩人の作品にあるとされている。

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閉鎖中だった開山堂

 山門の先に写真の「開山堂」があり、その後方(北側)に本堂が控えている。さらに、本堂の裏手に国の名勝に指定されている庭園がある。開山堂の扉は閉じており、近づくと「夢窓国師像の調査点検の為、当面の間閉めさせて頂きます」と記した貼り紙が目に止まった。

 恵林寺は1330年、禅僧で作庭家として世界的に名高い夢窓疎石(夢窓国師)が開基したとされ、庭園も彼の作である。ここでも拝観料(500円)を払わなかったため、本堂や、庭に通じる「うぐいす廊下」、庭園を目にすることはなかった。

 庭園には興味がないわけではなく、夢窓疎石が作庭した「天龍寺」「西方寺」「南禅院」(以上京都府)「竹林寺」(高知県)「建長寺」(神奈川県)などには何度か訪れている。近々、甲府を再訪する予定なので、そのときは庭だけでも見てみようと考えている。「信玄公宝物館」(拝観料500円)には入らないけれど。

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笛吹川フルーツ公園から勝沼方向を望む

 恵林寺を離れ、国道140号線を使って南西方向に移動し、山間にある「笛吹川フルーツ公園」を目指した。公園は奥秩父山地の南東向き斜面にあり、標高460~590mに位置し広大な面積を有している。

 敷地の上部には「やまなしフルーツ温泉ぷくぷく」「横溝正史館」「恋人の聖地」「富士屋ホテル」などがあるが、それらにはまったく用はない。ただ、盆地を眺めるのに見晴らしの良い場所を探すためにここに来たのだった。というのも、中央道を走っているとき、笛吹川右岸の上部斜面に大きな施設が造られたのを以前から見知っていて、その存在が気になっていたからだ。中央道や盆地内からよく見えるということは、反対に、その地は見晴らしが相当に良いはずだ、ということは誰にでも分かる。

 上の写真は、公園内から「勝沼口」や勝沼ぶどう郷方面を眺めたもの。日川尾根の山裾では、かなり高いところまで開発の手が入っていて、その大半はブドウ畑になっている。

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フルーツ公園内の花壇脇から大菩薩連嶺方向を望む

 入口広場の上に設けられた花壇脇から、大菩薩連嶺や日川尾根方向を望んだ。後方にある高い山の連なりが大菩薩連嶺で、左手に特徴的な姿をした大菩薩嶺(2057m)が見える。連嶺の手前にあるのが源次郎岳(1477m)を主峰とする日川尾根。右手に少しだけ御坂山地が見える。

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遊具施設と甲府盆地

 公園内には遊具施設が整っており、写真は「アクアアスレチック」広場で、人工的に造られた流れでは「鮎のつかみ取り」というイベントも開催されるらしい。盆地の後方に見える山々は、左手が日川尾根、右手が御坂山地。その間にあるのが「勝沼口」。

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花壇とドームと散策する犬と人と

 入口広場とカフェの入っているドームとの間に、階段状で広めの花壇が整備されている。この公園は無料で利用でき、駐車場は至るところにあるし、トイレやカフェ、休憩所、自販機も多いので、散策目当てで訪れる人をたくさん見掛けた。犬を連れて、犬に連れられて散歩する人は実に多かった。

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差出の磯から笛吹川の流れを望む

 公園を離れて、笛吹川右岸にある「差出の磯」に向かった。第51回で触れたように、「差出の磯」と「塩ノ山」は『古今和歌集』にも歌われた甲斐国の名所である。「塩ノ山」についてはすでに触れているので、今回は「差出の磯」に立ち寄った。

 ここは笛吹川の右岸にあって、多くの場所では川が山裾を削って広い河原を形成しているが、この場所だけは山を穿つことができなかったようで、断崖として残っている。それだけに古くから名所として覚え目出度かったのだろう。右岸の河原の標高は347m、断崖上は379mと、比高は32mもある。

 写真はその天辺からではなく、崖下に降りる階段の途中から、笛吹川の流れがよく見える地点にて撮影したもの。右手に後述する「万力公園」のアカマツ林が少し、中央に「万力大橋」、川の左岸に山梨市の市街地が少し見える。 

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差出磯大嶽山神社

 差出の磯の天辺付近には「差出磯大嶽山(だいたけさん)神社」がある。境内から見える富士山の姿は「関東富士見百景」に選ばれているそうだ。ここのお守りや御朱印は本殿に負けず劣らずカラフルで、その見本が多数飾られてあった。

 厄除開運や健康祈願といった点にご利益があるとのことなので、コロナ禍の昨今では訪れる人が増えた(らしい)。私は短時間しか滞在しなかったが、見掛けた範囲では、参拝に訪れる人は若い(若そうな)人が大半だった。

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陽に輝く笛吹稲荷神社

 敷地内にある「笛吹稲荷神社」は「商売繁盛」「芸能上達」にご利益があるそうだ。私にはいずれも無縁なので拝むことさえしなかった。が、赤い鳥居の並びが美しかったので撮影だけはおこなった。実際は写真よりも数百倍、麗しく輝いていた。

 撮影技術も「芸能」のひとつ。より良い写真を撮るためには、この神社で上達祈願をする必要があったかも。これを”後の祭り”という。 

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笛吹川右岸にある万力公園

 この日の最後に訪れたのが写真の「万力公園」だ。万力という地名は、アカマツの防水林や洪水を抑えるための雁行堤防(霞堤)をつくった当時の人々によって「万人の力を合わせて強固な堤を造り守っていく」という決意から付けられた、と記してあった。

 大嶽山神社とは同じ並び(笛吹川右岸)にあり、神社と公園の北端とは200mほどしか離れていない。差出の磯に突き当たった流れは下流域に乱流を発生させるため、この辺りでは氾濫がしばしば勃発したようだ。

 その対策の場として下流域の低地(公園の南北は1000m、東西は最大200m。標高は340~331m)が選ばれて、防水林や堤が造られたのだろう。

 現在では、公園の北端付近に川水を取り入れた溜池(ちどり湖)が整備され、そこから公園内を流れるいくつかの小川へ配水している。写真の噴水の源もそのひとつである。

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氾濫を防ぐための護岸堤防が残っていた

 公園内には堤がいくつか残っており、写真中央に見える堤も、かつての雁行堤のひとつだったのかも知れない。

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公園と橋と中央線と山梨市街と御坂山地と富士と

 公園の南端付近の堤防上から南側を眺めた。すぐ下流側には県道216号線の根津橋があり、そのすぐ南に中央線が走っている。山梨市の玄関口である山梨市駅は、根津橋東詰めから250mほどのところにある。

 さらに下流側には、笛吹川と重川と日川とがそれぞれに造った扇状地が重なり合い、今度はそれが金川扇状地と衝突して複雑な微高地や微低地を形成している。それが宅地になり、畑になり、石和では温泉街になる。

 盆地の向こうには御坂山地があり、その上から富士山が顔をのぞかせた。公園に着いたときは雲に隠れていたが、公園を離れる間際に姿を見せてくれた。暮方が近いこともあり公園内を散歩する人が増えてきた。が、私以外、富士山の姿に目を向ける人はいなかった。ここに訪れる人々にとって、この風景はあまりにも常態化しているからなのだろうか。

 車に戻り、この日の宿泊場所である「石和健康ランド」に向かった。私にとって「健康ランド」に宿泊することが常態化しつつある。もっとも、その大半は「駿河健康ランド」なのだけれど。

 

*次回は、甲府盆地の西側について触れます。11月中旬に更新予定です。

〔61〕紀伊半島の辺地をチョットだけ徘徊~なんて奥深い自然なんだ!!

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古座川(の支流)の清き流れ

◎古座川に対する長年の想いが今夏に実現!

 ”ケンさん”(仮名)は20数年前に、紀伊半島の南端を流れる古座川を題材にしたNHKのドキュメンタリーを見た瞬間、その川に深く強く魅せられてしまった。そこで彼はすぐに古座川町役場に手紙を出し、古座川に関する資料を送ってもらうことにした。以来、”いつかは古座川へ”という想いをずっと心に養い続け、とうとう2017年の晩冬に、”古座川でアユ釣りをしてみたい”と、少々顔を赤らめながら、私にその熱い心情を吐露した。

 一方、私は20数年前から長い間、紀伊半島周囲にある磯場の魚(メジナクロダイ)の濃さと熊野山地の森の深さにゾッコン惚れ込んでしまって、年に何度も紀伊半島に出掛けていた。古座川の存在は司馬遼太郎の『街道をゆく・古座街道』を読んでいたので認知していたものの、川に沿って整備されている道(国道371号線など)は一度も通らず、ただ河口に架かる国道42号線の古座大橋からその流れを垣間見るだけだった。

 ケンさんとは10年以上も前に、横須賀市にある釣り場(本ブログの第42回で取り上げている場所)で知り合った。竿を出しながらも、ウキの行方よりも読書のほうに強い関心を示すというやや特異な存在であったため、私は彼の人間性に興味を抱いた。

 やがて一緒に、といっても私の住まいと彼の住まいとは直線距離にして41.6キロも離れているので現地集合・現地解散だが、城ケ島をメインとする三浦半島南端の磯に出掛ける機会が多くなった。 

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森の中をゆったりと流れる古座川(の支流)

 5年前(2016年)の春、城ケ島の磯でケンさんと並んで竿を出してメジナ釣りをしていたとき、彼は私にこう切り出した。「アユの友釣りを始めてみたいのだけれど」と。私は、ケンさんとはアユ釣りの話をしたことはなかったが、横須賀の釣り場で見知った秋田県出身のHさん(彼については第42回で少し触れている)とよくアユ関係の話をしていたので、彼は私がその釣りの経験者であることを知っていたのだろう。

 私は30年ほど前に、本ブログの第7回で触れているN氏とアユの友釣りを始めたのだが、彼が亡くなって以来少しずつその世界とは距離を置くようになり、ケンさんからその相談があったときの7年前には友釣りの世界からは完全に足を洗っていた。しかし、道具類の大半は残したままであった(当時はまだ終活を考えていなかったので)。他の釣りならともかく、アユの友釣りだけは見よう見まねでおこなうことは不可能に近い。そこで私も久方ぶりにその世界に立ち戻ってみようと考え、彼とともに”友釣り指南”を兼ねて川に出掛けることにした。

 2016年の6月某日、中央道・藤野パーキングエリアで待ち合わせ、彼の初めてのアユ釣り舞台となる山梨県桂川水系・鶴川に向かった。ケンさんは、ウキ釣りとはまったく異なる仕掛け、手順にかなりの戸惑いを見せていたものの、そこは年季の入った「釣りバカ」ゆえ、トラブルを重ねつつも友釣りの面白さを少し見出したようだった。

 それ以来、一緒に川に出掛けることが続いたことで、ケンさんにとっての釣りは「アユの友釣り」が最優先行事となり、アユのシーズンオフ(11月から5月)に磯釣りを楽しむというサイクルが固定されてしまった、現在に至るまで。いやはや……

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古座川(の支流)には岩盤底のポイントが多い

 それから5年後の2021年7月下旬、ケンさんの20数年越しの古座川純愛が、当時は思いもよらなかったはずのアユ釣りという形で実現することになった。実は、古座川釣行はすでに18年、19年、20年にも計画していた(17年は道志川釣行が盛り上がったので古座川の話題は立ち消えになっていた)のだが、いずれも予定日は悪天候に見舞われ、中止のやむなきに至っていたのだった。

 府中(遠出のときケンさんが私の自宅に出向いてくる)から古座川までは600キロ、8時間というなかなか遥かな道程になる。若い時分には一日1000キロという運転はしばしばこなしていたが、徘徊老人には600キロは限界に近い距離になる。それゆえ、その地で遊び呆けるためには最低でも3泊4日は必要で、できれば4泊5日以上が望ましいと考えられた。

 夏場、とりわけ梅雨明け時期は「梅雨明け十日」という言葉があるように、7月下旬から8月上旬は晴れの日が続いたものだが、昨今の気候変動下ではそんな言葉は死語になってしまった。しかも、アユ釣りの場合は天気が良ければそれでよしという訳では決してなく、川が平水に近い状態が要求されるため、雨上がりだからといってすぐには出掛けられないのである。

 そんなことから3年連続して古座川釣行は叶わなかったのだが、21年の夏は天気には恵まれた。もっとも、初の古座川釣行が実現した7月下旬はギリギリまで決断を躊躇した。というのも、23日に発生した台風8号は異例のコースを取り、通常なら南西から北東に進むはずの台風は南東から北西へと向かったのであった。このため、早めに北西に進んで日本海に入ってしまったならば太平洋側は大雨になる。そうなると、紀伊半島南部にある古座川は大増水になることは避けられなかった。

 しかし、台風は予想よりも北方向に進み、大回りしてかつ勢力が衰えてから日本海に出ることが判明した。そこで、宿願であった古座川行きを決行したのだった。ただし、台風の進路の大方が確定したのは出発予定日の朝方だったため、事前に決めていた午前6時発ではなく、午後2時の出発になってしまった。日和見主義者的存在である釣り人にとって、これは致し方ないことであった。

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まずは三重県の銚子川でひと泳ぎ

 出発時間が遅れたことで、その日のうちに紀伊半島南端まで達することは徘徊老人にとって困難だと考えられたゆえ、安全性と体力を考慮に入れ、三重県松阪市に宿をとることにした。府中から松阪までの距離は約430キロなので、午後7時頃には到着できそうだ。

 私にとって松阪市といえばまずは本居宣長のことを思い浮かべ、その町に立ち寄った際は必ず本居宣長の旧跡を辿ることにしており、「松阪牛」には目もくれないのだ。理由は実に簡単、その牛肉はすこぶる高価だからだ。

 今回はケンさんが同行するので、私の奢りで「松阪牛」を賞味しようと提案したのだが、彼はまったく食道楽には興味がないようで、結局、夕食はホテルに隣接している「スシロー」で済ました。なにしろ彼は、清水港のすぐ近くの宿(駿河健康ランド)に泊まっても、新鮮な魚介類は食さず、いつも(今年も興津川釣行で2回泊まった)「サバの塩焼き定食」を注文する人なのだ。

 松阪市はあくまで仮の宿で、そもそもその地点ではまだ紀伊半島に足を踏み入れてないこともあり、ホテルの朝食バイキング(無料)を早めに済ませた私たちは、すぐに出立して伊勢自動車道の松阪ICに向かった。

 紀伊半島はその定義として中央構造線の南側をいうことになっている。西側ではそれが明瞭で、構造線には紀の川(上流部は吉野川)が流れている。が、東側は不明瞭で、一応、松阪市のすぐ南側にある櫛田川中央構造線跡とされている。松阪ICに入って伊勢自動車道を8キロほど進むと櫛田川を渡る。その地点から、私たちの紀伊半島の旅は本番となった。

 この日も空は晴れ渡っており、台風8号の影響は皆無だった。ケンさんは、この晴天続きのお陰で、もはや古座川との邂逅が確実となったことですっかり余裕の姿勢を見せ、私が古座川と同じくらい行きたいと考えていた銚子川に立ち寄ることも激しく同意してくれた。そればかりか、上の写真のように彼はその川の河口付近で泳ぎ回ることさえした。

 尾鷲市のすぐ北側を流れる銚子川の存在自体は20数年前から知っており、この川に架かる道路(国道42号線)は数えきれないほど利用していた。が、紀伊半島には清流と言われる川は数多くあるので、橋から川の流れを見ても格別な印象を抱くことはなかった。が、ここ数年、「奇跡の川」としてNHKが何度もドキュメンタリー番組で取り上げており、私はその番組を見て以来、俄然、この川に関心を抱き始めていたのだった。

 古座川愛のケンさんも、私と同じようにそのテレビ番組を見ていたためか銚子川に対しても興味・関心があったようで、この川に立ち寄ることを想定して、しっかり水着と水中眼鏡を用意していたのだった。

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ゆらゆら帯が観察できる区域だったけれど

 彼のお目当ては、河口付近で見られる「ゆらゆら帯」だった。通常の川であれば河口付近では単純に汽水域を形成するだけだが、この川では上層に透明度の高い淡水、下層に比重のある海水と分かれ、両者が混ざり合う境界部が揺らいで見えることから、その場所は「ゆらゆら帯」と名付けられていた。が、ケンさんの懸命なる素潜りにも関わらず、この日は条件が良くなかったためか、ゆらゆら帯を確認するには至らなかった。

 銚子川ではアユ釣りを試みることも想定していたのだが、大渇水状態であったことが理由なのか、釣り人の姿は皆無だった。そのこともあり、この川での釣りはパスし、先に進むことにした。

◎日本一短い川に親しむ

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ぶつぶつ川とぶつぶつおじさん

 銚子川を離れた私たちは、早めに南下を再開するべく海山ICから紀勢自動車道に入り、暫定開通区間が一旦終了する大泊ICで国道42号線に移った。ここからは熊野灘をひたすら左手に望みながら紀伊半島の南端に向かって移動することになる。世界遺産の「鬼ヶ城」や「花窟神社」が国道沿いにあるのだが、それらには立ち寄らなかった。

 ケンさんの関心はすぐ左手に広がる海岸線にあった。ずっと以前からその浜の風景が好きだったそうだ。そこは「御浜」と呼ばれる砂礫海岸で、延々と22キロも続いている。砂浜海岸であれば九十九里浜が日本ではもっとも長いが、砂礫海岸では御浜が日本一とのことだ。

 暑い盛りにも関わらず、夏休み中にも関わらず、晴天にも関わらず、長い海岸線に立つ人の姿は散策する二人組を一度見た限りだった。決して、波が高いわけではなかったのに。22キロの区間にたった二人。その人たちは至高の贅沢時間を過ごしていると思われた。もっとも、砂礫浜からの照り返しで、ただ暑いだけだったかもしれないけれど。

 御浜を過ぎて熊野川を越えると、国道42号線は和歌山県新宮市に入る。ここの国道脇には世界遺産の熊野速玉大社があるのに、私たちは通り過ぎてしまった。先を急いでいたからだ。が、すぐに私はハンドルを左に切って、新宮市街域を進むことにした。

 新宮市には『田園の憂鬱』や『都会の憂鬱』などの作品で知られている佐藤春夫の記念館や「徐福公園」があり、広義には「補陀落渡海」の出発点(狭義には那智勝浦町)もある。が、私の関心はそのいずれでもなく、この町で生まれ育ったことがその人物の作品に色濃く反映されている小説家と同じ空間に存在することを望んだからだ。それだけの理由で、私は新宮市では何度か宿をとったことがあった。

 そんなことをケンさんに車中で話をしていたのだが、なんと、私はその小説家の名前が出てこなかったのだ。車を止めてスマホで検索すればすぐに済むことなのだが、それでは「ド忘れ癖」は治らないし、新宮市街を走れば名前を思い出すかもと考え、ケンさんの了解を受けた上で国道を左折したのだった。先を急いでいるはずなのに。

 彼には話さなかったが、実はそのとき「けんじ」までは思い出していた。しかし、下の名が「けんじ」だと、すぐに浮かんでくるのは新沼謙治の名で、すると『嫁に来ないか』のメロディが頭の中を駆け巡ってしまい、小説家のほうに思いを向けることができなくなった。

 結局、市街域を走っても思い出さなかったので、私は南下作業に戻ることにして、紀勢自動車道の暫定開通区間である「新宮・那智勝浦」道路に入った。その自動車専用道をしばらく走っているとき、「中上健次」の名が突然に思い浮かんできた。ただそれだけ。

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川の名の由来とされる「ぶつぶつ」

 次の立ち寄り地は「ぶつぶつ川」。全長13.5mの日本一短い川だ。この川については本ブログの第42回で触れている。その存在は知っていたし、その川が国道の東側近くにあることも知っていた。そして何度も「ぶつぶつ川入口」の看板を見ていたはずなのに立ち寄ったことはなかった。ケンさんも以前からこの川には相当な興味を有していたらしいので、私たちは初めて、ぶつぶつ川に直接、触れることにしたのだ。

 ぶつぶつ川は上の写真のように、伏流水が”ぶつぶつ”と川底から湧き出てくるところからそう名付けられた。ケンさんは静岡県興津川では「ぶつぶつおじさん」として釣り仲間に知られている。友釣りの際、よく何かブツブツ言いながら竿を出しているからだ。とりわけ、ライントラブルの際には、仕掛けに向かってぶつぶつ独り言をいうので、興津川の釣り仲間がケンさんに「ぶつぶつおじさん」の名を進呈したのだった。富士には月見草が、ぶつぶつ川にはぶつぶつおじさんが良く似合う。

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本川からふつぶつ川へ遡上を開始したおじさん

 写真は、ぶつぶつ川本川である粉白(このしろ)川で遊ぶ子供たち(若い女性も)と、本川から支川であるぶつぶつ川との合流点に立って、遡上を開始するぶつぶつおじさんの姿を写したものだ。とても若鮎とは類比できないけれど。

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粉白川は玉ノ浦湾に流れ着く

 本川である粉白川はぶつぶつ川の流れを取り込んだ後、ほどなく玉ノ浦湾に流れ込む。白い砂浜と澄み切った海水、変化に富んだ海岸線が見渡せる海水浴場が広がっているにも関わらず、海遊びを楽しむ人の姿は少なかった。夏休み中なのに。

◎やっと古座川にたどり着く

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古座川の一枚岩

 日本一短い川で豊かな時間を過ごしたのち、いよいよ今回の旅の最大の目的地である古座川に向かった。ぶつぶつ川から古座大橋までは約12キロ。国道はガラガラなので15分ほどで辿り着くはずだ。

 古座川の上流に向かうなら古座大橋の手前で右折して川の左岸を進むほうが少しだけ早いのだが、まず川の流れを眺めるために大橋を渡った。ちょっぴり記憶の中にある流れだったけれど、河口付近なので水量の多寡は不明だ。

 橋を渡り、川の右岸側にある県道38号線(すさみ古座線)を上流に向かって進んだ。もっとも、2700mほどで道は川を渡って(河内橋)左岸側にでる。ここからは古座川町の中心集落を離れるので、田園風景と左手に滔々と流れる古座川を望みながら進むことになる。前方には熊野山地のへりにある山々も視界に入った。

 さしあたり、憧れていた川の流れに触れるために広めの路側帯に車を止めた。午後3時のこと。そのとき頭にひとつの思いが浮かび上がった。「今日、どこに泊まるの」。

 ケンさんが持参した20数年前の観光案内図によると、川沿いには何軒も温泉旅館や民宿があるようだった。今も開業しているかは不明だけれど。地図によれば停車中の場所のすぐ先に温泉旅館があるようなので、そこに移動して宿泊が可能であるか直接、尋ねてみた。が、あいにく満室とのことだった。

 つぎに、地図に示してある民宿に何軒か電話してみると、いずれも不在か不通だった。私はスマホ古座川町のサイトを調べてみた。たしか、事前に検索したときには支流のほうに一軒、民宿があることを思い出したからだ。その民宿の電話番号をケンさんに伝えると彼はすぐに連絡をとった。何度かの呼び出し音ののちに電話がどうにか通じ、宿泊できることになった。ただし、夕飯の用意は間に合わないかもしれないとのことだったので、ケンさんは「ご飯と漬物さえあれば良いですよ」と答えていた。

 古座川河口から半島南端の串本町の中心街までは5,6キロの距離なので、私は宿泊施設に関してはさして心配していなかった。串本町の高台には、かつて私が定宿にしていたホテルがあるからだ。古座川界隈には3泊するつもりだったので、さしあたり今夜はその支流沿いの民宿に泊まり、あと2泊はまた改めて検討すれば良いと考えた。

 ということで、今夜の宿が確定したので、私たちは古座川見物を始めた。見所としては、上の写真にある「古座川の一枚岩」が代表的。国指定の天然記念物で、高さ150m、長さ800mもある。この手の巨岩は実際に見るとそれほどでもないと感じるものがほとんどだが、この一枚岩の巨大さには、ただただ圧倒されるばかりであった。それほど凄ざまじいと思えるほどのデカさなのだ。

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天柱岩も一枚岩と同じ成り立ち

 写真の天柱岩は一枚岩の西側1400mほどのところにある。この岩の成り立ちは一枚岩と同じで、約1400年前に形成された「古座川弧状岩脈」が元になっているとされている。約1500万年ほど前にこの地に「熊野カルデラ」が形成され、のちにカルデラの外輪山の内側に接するようにマグマが貫入し、それが冷え固まったものが約20キロの長さに及ぶ火砕岩(流紋岩質凝灰岩)の連なりであると考えられている。今回は触れていないが、「牡丹岩」「虫喰岩」といった巨岩が古座川町内にあるが、これらも弧状岩脈のひとつとされている。かつては、その20キロにも及ぶ岩脈すべてが「一枚岩」だったはずだ。

 ちなみに、串本町にある名勝「橋杭岩」も、この弧状岩脈と同じ時期に形成されたものと考えられている。

◎民宿「やまびこ」にたどり着く

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小川(こがわ、古座川の支流)の名所、「滝の拝」

 古座川探索を切り上げ、私たちは宿泊場所に決まった「民宿やまびこ」に向かった。そこは古座川の一次支川である小川(こがわ)の右岸にあり、小川(こがわ)集落に属している。すぐ下流側にはこの地域の観光名所の「滝の拝」があるので、道は分かりやすかった。

 古座川に小川が合流する地点の近くに架かる「明神橋」西詰から県道38号線と分かれ、県道43号線を「滝の拝」方向に進む。約8800m進んだ場所に「滝の拝」があり、そこから道は急に狭くなり、さらに小川集落の先は車がすれ違うのが大変なほどの林道となる。

 小川は古座川の支流とはいえ、私たちがもっとも多く友釣りを体験している山梨県桂川本流ほどの広さがある。河川敷も広いため、とても釣りやすそうな川相であった。何よりも、水の透明度と言えば友釣りができる場所としては比類がないほど高く、日本を代表する清流とされる古座川本流よりもはるかに美しい。さきに見た銚子川にも勝るとも思えた。そういえば、『街道をゆく・古座街道』の中で、古座川は七川ダム(1959年竣工)が出来て以来、かつての水の清らかさは失われ、今では小川にその面影が残っている、と語った古老の嘆きが記されていたことを思い出した。

 民宿に向かう道の途中で、友釣りをしている人の姿を見つけたので、車を空き地に止めて河原に降り、少しだけ話を聞くことにした。渇水のために釣果はあまり良くないとのことだったが、それでも30匹以上は釣り上げていた。どこに宿泊するのかとその釣り人に尋ねられたので「やまびこ」と答えると、それなら同じ宿だとの返事が返ってきた。

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私のお気に入り、「民宿やまびこ」の入口

 小川集落に入り、駐車場とされている広場に車を置き、まずは「民宿やまびこ」を探した。広場の横に写真にある看板がすぐに目に入ったので、簡単に見つかった。私は民宿という存在は苦手なのだが、とりあえずこの日の宿はここしか見つからなかったので致し方ないと諦念していた。一方、ケンさんは民宿とかひなびた旅館とかが好みである。が、この看板とその背後にあるうらぶれた建物を見たときは、さすがに「やばい」(この言葉本来の意味で)と思ったそうだ。

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2階の窓の開いている所が泊まった部屋

 しかし幸い?なことに、民宿はこの平屋の建物ではなく、矢印が示すように右手下にあった。上の写真が民宿本体で、左手の二階の右側(窓が開いているほう)の6畳間が私たちの部屋として当てがわれた。中に入ってみると、階段は急だし、二階にはトイレがなかった。網戸を閉めていても虫たちは遠慮せずに室内で大きな会合を開いていた。おまけに、ケンさんが歩く(動くだけでも)度に部屋はグラグラと揺れた。

 こうした建物は、睡眠障害を有する私にとってもっとも不得手である。慣れない場所に泊まった時、夜中に何度もトイレに行きたくなるが、その都度、その急な階段を上り下りしなければならないのだ、部屋を揺らしながら。私はこの宿が見つかってしまったことを大いに後悔した。ここさえ見つからなければ、串本町の高級?ホテルで過ごすことができたのに、と。

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部屋から川を望む

 それでも、部屋の東側から望む小川の流れは美しいと思ったし、心が休まった。上方から来る流れが小川、左手前から小川に流れ込むのが宇筒井川だ。合流地点には広大な砂岩質の岩盤がある。

 なお、写真では見えないが、この右手方向に「滝の拝」がある。

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ヤマガラと戯れる

 一階のテラス付近には野鳥(ヤマガラ)が集まっていた。宿の人や釣り人がヒマワリの種を餌として与えているためもあり、裏の山や対岸の森から鳥たちはここに集うのだ。それだけでなく、写真のように、手のひらに種を置き、それを鳥のほうに突き出すと、鳥は指先に乗ってから種をくわえ、そして巣へと飛び立ち帰って行く。

 鳥たちはテラスに人が集まるとこうした遊びをすることをよく知っているようで、次々に何羽も集結してテラスの屋根や川沿いの手すりに止まって順番待ちをする。私は、こうした遊びは大好きなので、時が過ぎるのを忘れてしまいそうだった。野生のヤマガラと対話ができるこの民宿を、私は好きになり始めていた。

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小川(こがわ)の流れ

 夕食時、川で出会った大阪から来た釣り人のMさんにいろいろと話を伺った。おまけに、翌日は私たちにために実績のある釣り場を何か所か案内してくれることになった。旅先でのこうした親切に触れたことで、私の心は古座川(の支流)愛が満ちてきたし、心温かき人が利用するこの宿がますます好きになってきた。

 そればかりか、宿の「おかあさん」の懸命に働く姿にも感銘した。夕飯のおかずは漬物だけでなく何品も出た。名物の天然うなぎも少しだが出た。こうした心づくしに胸打たれ、おまけに宿の4歳の女の子の人懐っこさも楽しさと明るさを添えてくれた。建物の造作においては欠点が目立つ宿であるが、ヤマガラを含め心地好いおもてなしがよりいっそう際立つ思いを感じた。私はここに連泊することを決め、もちろんケンさんも完全に同意し、結果として「民宿やまびこ」に3連泊したのだった。民宿が苦手な私には異例とも思える成り行きとなった。

 ところで釣りはどうだったの?友釣りそのものは渇水時ということもあって(腕の悪さが一番だが)相当に難儀した。が、そんなことは大した問題ではなく、豊かな自然と素晴らしき人々に触れられたこと、そのことが古座川(の支流)に来たことの意義や価値を十二分に有していたのだった。

◎古座街道を走る

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イノブータンランド・すさみ

 司馬遼太郎は、古座街道を使って古座川に至った。私たちも、それに習うことにした。2回目の古座川釣行のときである。

 7月下旬の釣行の後、私もケンさんも「古座川ロス」に見舞われた。古座川に出掛ける前までは、8月は岐阜の馬瀬川や和良川、あるいは滋賀の安曇川などに遠征する予定だった。古座川から戻った後にはそれらの川にはさして魅力を感じなくなり、果ては「裏を返さなければ釣り人ではない」と遊里言葉で再度の古座川行きを本気で思うようになったのだった。結果、8月下旬に4泊5日の予定で旅立ったのである。

 今度は事前に「やまびこ」へは3泊の予約を入れておいた。古座川の魅力の何割かは、その宿と宿に集まる釣り人とヤマガラが占めていたからである。

 司馬の『街道をゆく・古座街道』を改めて読み直したことから、私たちは45年前に司馬御一行が使ったルートで古座川に至ることを決めていた。それゆえ、古座大橋を渡っても右折せず、そのまま串本町を通り過ぎて「すさみ町」へ向かった。司馬御一行は大阪が拠点なので反時計回りルートですさみ町に至ったのだが、私たちは時計回りで向かった。その理由は簡単明瞭で、上の写真にある「道の駅・イノブータンランド」に立ち寄りたかった(私が)からだ。

 私は前に触れたように20数年前から紀伊半島の南端の磯に通っていたのだが、その際に必ず、この道の駅でトイレ休憩をしていた。もっとも、この近辺に来ると尿意をもよおすというわけでは決してなく、”イノブータン”の語感が素敵だと思ったからだ。

 イノブータンは誰もが分かるように「イノブタ」が元になっている。日本でイノブタの繁殖に初めて成功したのは、すさみ町にある和歌山県畜産試験場だったため、この町ではそれを記念して1986年に「イノブータン王国」を建国したのだった。だが、その思惑は必ずしも成功したとは思われず、現在では道の駅もトイレと休憩施設があるのみとなってしまった。

 ラテン語イノブタは”hybrida"(ヒュブリダ)と言う。それが英語化され”hybrid"となった。現在、自動車だけでなくあらゆる分野で用いられる「ハイブリッド」の語は「イノブタ」が語源だ。日本でハイブリッド車を流行させたのはトヨタだが、私には、BMWが(そのフロント部分が)「ハイブリッド」に相応しいように思う。 

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古座街道は周参見川に沿って進む

 周参見(すさみ)川に沿って走る県道38号線(すさみ古座線)が旧古座街道のルートだった。かつての熊野参詣道のひとつであった大辺路紀伊半島南端部分が難所であったため、迂回する内陸路として開拓されたのが古座街道だったらしい。司馬御一行は、そのルートをタクシーで辿ったそうなので、私たちもそれを真似てわざわざ遠回りしてこの道を選んだのだった。

 司馬の著書によると45年前は大変な隘路だったようだが、近年は大きな政治力が働いたためか、途中までは立派な道路になっていた。

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司馬遼太郎も感動した?「雫ノ滝」

 立派に変貌しつつある道路がまだ元の姿を残している場所の近辺にあったのが、写真の「雫ノ滝(雫の滝とも)」だった。司馬が著書で触れているように、風の強い日には滝の雫が道路にも舞い上がってくるのでそう命名されたらしい。落差30mの二段の滝で、やや荒れた階段路を下りると滝壺際に出ることができる。階段は雫で濡れているため、かなり気を使って上り下りした。

 滝の上を通る県道は標高244m地点にあり、それから500mほど進むと小河内集落に入った。「民宿やまびこ」がある小川集落よりも人家は多い。その先にある「獅子目隧道」あたりが県道の最高地点(標高290m)であって、それから道は少しずつ下りに入り、佐本という大きめの集落は159m地点にある。その先には小尾根があるために道はやや上りに入るものの、尾根を洞谷トンネルでパスをすると再び下りに入り、添野川、平井川という古座川水系の支流に出会う。やがて県道は七川貯水池を越えていき、「今津橋」の東詰を左折すると、貯水池の上流側にある古座川の本流を遡上することになる。

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七川貯水池に流れ込む古座川本流

 写真は、今津橋東詰から3キロほど上流に進んだところから古座川本流の上流方向を眺めたもので、貯水池のバックウォーター部分にあたる。本来は透明度の高い川のはずだが、こうして流れが淀んだ場所には青苔が生育してしまうために川自体が有していた美しさは消失している。

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それにつけても巨大な一枚岩

 七川貯水池上の古座川を探索してもあまり意味があるとは思えなかったので、この場所からは早々に引き上げ、七川ダムの下流部の流れを見て歩く(実際には車で移動)ことにした。

 2回目に訪れたときは大雨の数日後だったためもあって水位は平水よりやや高めで、水もやや白濁していた。流水がなかなか綺麗さを取り戻せずにいることがダムによる悪影響のひとつだ。前に来た時に較べると釣り人の姿は多いように思われたが、いずれも釣り人は腰から胸近くまで流れの中に立ち込んで竿を出していた。こうした釣りは私たちには不似合いだと思えたので、今回も本流では竿を出さないことに決した。

 となれば、釣り場探しをするまでもなく、あと立ち寄る場所と言えば「一枚岩」を望む公園以外にはなかった。写真中央のやや右手に立っているのがケンさんだ。この様子からだけでも、一枚岩の巨大さがよく分かる。

◎本拠地の「民宿やまびこ」に入る

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「滝の拝」の上流部

 午後5時過ぎに私たちは「民宿やまびこ」に到着した。寄り道をしなければ600キロの道程だが、古座街道を使うなどの遠回りをしたため、この日の走行距離は720キロ。ただ、変化に富んだ場所を走ってきたためか、疲労感はさほどなかった。

 私は前回、「滝の拝」を見学していなかったので、夕飯までの少しの間、滝の界隈を散策した。滝自体は落差があるものではないため、滝という言葉とは裏腹に豪快さは感じられないが、写真にある通り、滝の上流側の岩盤の姿に興味をそそられた。基本的には砂岩質の岩盤だが、ここは小川と小川の支流である宇筒井川(古座川の二次支川)が合流する場所のすぐ下流なので水量の増減が激しい。増水時には上流から大小の礫も多く流れ込むため、それらが岩盤の表面を削り込む。それだけでなく、たまたま出来た穴に小石がはまり込み、それが激しく回転することで円形状の穴になる。これを甌穴(おうけつ、ポットホール)と言うが、ここには円形の穴が数多くあり、極めて変化に富んだ岩盤を形成しているために見飽きることがないのだ。

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「滝の拝」名物のトントン釣り

 滝の下流側では名物の「トントン釣り」がおこなわれていた。滝の下には遡上するアユが多く集まるので、それらを狙う釣り方だ。仕掛けはハリとオモリだけ。仕掛けを上下させることで、群れているアユを引っ掛けようとする単純な釣りだ。魚影の濃い小川ならではの釣り方なのだが、現在では特別な許可を得た人にしか許されていない。もっとも私が見た範囲では、見物客がきたときにのみ釣りを始めるといった感じであって、観光客目当てのデモンストレーションだったのかも。

ヤマガラと遊ぶ

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人によく慣れている野生のヤマガラ

 翌朝は、釣りに出掛ける前の恒例?行事となったヤマガラへの餌やりである。写真の木箱にヒマワリの種を置けば鳥たちはあちこちの森から集結してくるのだが、それでは面白みが少ないので、手のひらに種を置いて鳥を集める”手乗りヤマガラ”を始めた。しかも今回は、右手でカメラを持ち構え、左手に鳥を乗せるという行為をおこなった。

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餌を求めて指先にとまる

 人に慣れ切ったヤマガラは、カメラを構えていてもまったく恐怖感を抱かず、写真のように、木箱から餌を乗せた手の指先に飛んでくる。

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餌のひまわりの種をくわえる

 指先に乗った鳥は種をひとつくわえる。

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種をしっかりくわえたのちに巣に戻る

 種を落とさないようにしっかりくわえ直し、感謝の念なのか私をジッと見つめ、そして森にある巣へと戻っていく。こうした行為が、順番待ちでもしているかのように次々と繰り広げられるのだ。楽しく、そして可愛らしく思えるので、飽きようはずはない。

◎小川でのアユ釣り

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小川で友釣りを堪能

 鳥たちと遊んだ後は、民宿から7キロほど上流にある「西赤木」集落の前のポイントで竿を出した。前回もここに来たのだが、そのときは上流に移動して右岸側で竿を出した。左岸の森には野生のサルの群れがいて、甲高い声を上げたり、盛んに木をゆすったり、崖の小石を川に落としたりして私を長い時間、威嚇していた。私も少しだけ応戦したが、多勢に無勢なので、やがて無視し釣りに専念することにした。そうなると、猿の群も去っていった。サル者は追わず、である。

 今回は、宿で出会った常連さんのアドバイスにしたがって、400mほど下流のポイントで竿を出した。人工物が一切、視界に入らずに100%の自然が満喫できる釣り場にも関わらず、しかもこの日は土曜日にも関わらず、私たち以外にこの場所で竿を出す人はいなかった。

 小川には小堰堤などの構造物は一切ない。落差のある小滝も「滝の拝」以外にはないため、河原の移動が容易だ。川は激しく蛇行しているから、変化に富んだポイントは無数にある。しかも、ときには数キロの間、独り占めできる、この日のように。

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澄んだ流れと深い森が心地よい

 水はあくまでも澄み、目に入るのは流れと河原と小さな崖と深い森。小動物やサル(私の宿敵)、シカ、カモシカ、イノシシなどに遭遇することも多い。たとえ釣果が上がらなくても、こうした川に私が現存在しているという事実だけで、喜びが込み上がってくる。

 今年は2回(6泊)だったが、来年は3回以上(最低でも合計では10泊ほど)は訪れてみたい。絶対に。

熊野川に立ち寄る

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熊野川を遡上する

 4泊目は、熊野本宮大社にほど近い川湯温泉に宿をとった。河原(大塔川)にある露天風呂に興味があったというのもそのひとつだ。紀伊半島に来る目的は、磯釣りや川釣りだけでなく、熊野山地の中に自分を置いて身心を浄化するという点もあるのだ。

 3日目の釣りは午前中で切り上げ、古座川町からは国道42号線や紀勢自動車道を使って新宮市に入り、そこから熊野川沿いを走る国道168号線を進んで、この日の宿に向かった。

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日本一大きい鳥居

 私もケンさんも無信心者なので本宮大社の御社殿には行かなかった。が、ケンさんは日本一デカい(高さ33.9m)鳥居を間近で見たことがないとのことだったので、本宮大社から徒歩5分ほどの距離にある大鳥居には立ち寄った。

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山伏の装束を見学

 トイレを利用するために本宮記念館に入った。熊野参詣道の変遷などにも興味を抱いたが、写真の山伏の姿が一番印象的だった。私は修行そのものには関心はないが修験道について調べることは好きだからだ。

 額に付けている頭巾(ときん、頭襟)は、元来は兜巾(ときん)であって頭からすっぽり被るものだったそうだ。

 肩に掛ける結袈裟には前に4つ、後ろには2つのボンデン(束房)がある。6は六波羅密や六根清浄を表すとも言われている。

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観光名所の瀞峡(どろきょう)

 大鳥居を離れ、熊野川の支流である北山川に向かった。本川との合流点から上流部にある七色ダムまでの間が峡谷になっており「瀞峡(どろきょう)」という観光名所になっている。ここにはウォータージェット船が航行していて、瀞峡の変化に富んだ渓相に触れることができる。が、そういったものは利用せず、景色の良さそうな場所に出会ったときに車を止め、渓谷を眺めた。

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昨年までだったらこの舟に乗れたのに!

 瀞峡には、写真のような小型の観光船も航行している。実は、この船は昨年までは川渡しをおこなっていた。私たちのような釣り人を乗せ、釣りに適した場所近くにある河原に下ろしてもらうのだ。瀞峡は谷が深いので入川場所が限られる。そのため、船で河原に運んでもらえば、貸し切り状態で自分たちだけの釣りが堪能できるのだ。ただし、昨今では友釣り客が激減してしまったこともあり、今季から川渡しは廃業してしまったそうだ。残念なことである。

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クレオパトラのショーベン滝と命名

 観光船の発着場を離れ、山間の隘路を奥瀞(おくとろ)方向に進んだ。その途中で目に入ったのが写真の小糸のような滝だった。近くの路肩にやや広めのスペースがあったのでそこに車を止め、その滝を眺めることにした。

 滝にはとくに名はないようだった。こうした場合、私は「クレオパトラのショーベン滝」と呼ぶことにしている。21歳のとき北海道の礼文島に出掛けた際、このような無名の滝に遭遇したところ若いガイドから、地元の人はその滝を「クレオパトラのショーベン滝」と呼んでいると知らされたからである。

 ケンさんに、その名を告げると、「それなら、あまり奥のほうまで見上げてはいけませんね」と彼は言った。そう言いながらも彼は、上部(秘部)が二段になっていることを発見したのだった。

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高貴な水に虹が浮かぶ

 滝に虹が浮かんでいるのを見出した。女王の名を付された(勝手に)滝の高貴な水は豊かな色彩を纏っていた。この滝を最後に、私たちは紀伊半島の辺地の旅を終えるべく、尾鷲市に向かった。途中にあった道の駅で、トイレ休憩をしたけれど。

 人生は偶然の積み重ねである。ケンさんに出会わなければ、ケンさんがアユ釣りを始めたいという無謀なことを言わなければ、今回の古座川釣行はなかった。

 宿を探したとき、温泉旅館に空室があったなら、「民宿やまびこ」に泊まることはなかった。ケンさんの電話が通じなければ、私たちは串本町のホテルから古座川に通っただろうし、そうであれば小川には足を向けなかったかもしれない。

 宿では親切で、しかも愉快な釣り人に何人、何組にも出会った。人懐っこいヤマガラにも出会えた。が、別の宿だったら今回のような豊かな時間や空間はなかったかも知れない。異なる出会いはあっただろうけれど。

 山深いところにある宿だけに、夜は外灯の小さな薄明かりだけが唯一の光源で、周囲はほとんど真っ暗闇状態。それゆえ、頭上を流れる天の川がはっきり見えた。あたかも、澄み渡った小川(こがわ)が天上にも存在するごとくに。

 すべては偶然の出会いだが、その出会いに意味を見出すとき、人はそれを「運命」と呼ぶ。

 

*次回(第62回)は「甲府盆地」を予定しています。下旬には更新します。


















 

〔番外編〕徘徊老人~まだ死んでません

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東郷寺の東側にある「かなしい坂」

   **写真と本文とはまったく関連性はありません。

 知人から「最近、ブログの更新がおこなわれてないが、もう死んだのか?」といった内容のメールが来た。まだ死んでいるわけではないけれど、確かに4月28日を最後に、新しい徘徊記録は載せていない。友人は、私が「飽きっぽい」ことを知っているので、それを揶揄するために「死んだのか」と聞いてきたようだ。もっとも、すでに死んでいるとしたら、そのメールを読むことはできないし、返信はなおさらできない。

 残念ながら、友人の期待に反してまだ死んではいないが、更新が途絶えていること事実で、それにはいくつかの理由があり、その最大のものは数か月前に入院・手術をおこなったことが切っ掛けとなっている。手術の翌日、私は「死ぬほどの痛み」を体験した。記憶にある限り、それは今まで経験したことのない「痛み」であった。その痛みから解放されつつあったとき、私は生き方を少しだけ変更するという決意をした。その結果、ブログ更新の優先順位が下がり、変わって「終活」がランクアップし、それに付随した諸事に時間を割くことが続いているのだ。

 思えばその痛みは、昨年の11月に城ケ島で磯釣りをしたときのことが端緒になっている。岩場をあちこち歩き回って釣り座探しをしている際、少し高低差のある場所に降りる必要があったとき、迂回するのが面倒だったので年甲斐もなく飛び降りることにした。そのとき、右足の踵をやや激しく打ち付けたようで、しばしの間、動くことさえ困難になった。それでも15分ほどで痛みは少し和らいだので、釣り座探しを続行し、その日はそのまま磯釣りをおこなった。メジナはあまり釣れなかったけれど。

 翌日まで踵の痛みは残っていたが、歩行に難儀するほどではなかったので、通常の生活(近隣の徘徊中心)を送った。ただ、右足の痛みを庇いながら歩いていることは確かなので、知り合いなどから「足をどうかしたのか?」と聞かれることはままあった。

 12月にはブログのネタ探しで狭山丘陵に何度も出掛け、一日当たりの歩数が2万歩近くなることが何度かあった。それが可能だったため、右の踵の痛みは医者に診察してもらうほどの状態ではないと考えた。反面、右足を庇うようにして歩いていたためか、今度は左足の股関節付近に痛みを感じるようになった。私の場合、生きる姿勢だけでなく歩く姿勢も悪いとかねがね指摘されていた。それに加えて、右の踵の痛みが元になって、左股関節への負荷がより増幅して左股関節付近の痛みとして表出したのだろう。

 今年の1月に落合川散策を始めた時分には、一万歩を超えたあたりからは毎度、左股関節周りの痛みがひどくなり、5分ほどの休憩を余儀なくされるようになった。それでも、一度痛みが引いてしまえば、歩行を再開してもその日のうちに次の激痛に襲われることはなかった。

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府中市の数少ない名所、大國魂神社の境内

 状況が変わったのは2月に秋留台地を歩いていたとき。高低差のある場所を選んで歩いていたためもあり、激しい痛みが一日に数度、襲うようになった。また、下旬には磯釣りにも出掛けたのだが、このときは岩場を長めに歩いたこともあって、竿を出している最中ずっと痛みが続き、釣りに集中することはできなかった。そんなこともあって、ブログのための徘徊先は「小名木川界隈」や「日野の用水群」など高低差が少なく歩行が容易な平地の多い場所を選んだのだった。

 5月下旬ともなれば鮎釣りが開幕する。この痛みを抱えたまま河原を歩いたり、川の流れに抗して竿を出し続けることは不可能とも思えてきた。何とか、痛みの原因を探り、それを矯正する必要に迫られてきた。股関節が原因であれば整体院に通うことで「だましだまし」鮎の季節を乗り越えることは可能かと思われた。一方、痛みの原因が まったく別なところにあり、しかもそれが手術を要するという次第になれば、鮎釣りの開幕に間に合わなくなる危険性もおおいに考えられた。

 たまたま知人に「股の痛み」について話したところ、彼は同じような体験をしたとのことだったので詳しく聞いてみた。彼の痛みの原因は「前立腺肥大」によるものであって、結構、つらい手術と回復のための長いリハビリが必要であったとのことだった。早速、ネットで情報を入手すると、この病気は早めに対策を施さないと治癒までにかなりの時間を有することが分った。私の痛みの症状とは関係性が薄そうであったものの、一方、小便の切れが悪く残尿感がある、そのためにトイレに行く回数が増えるという点は妥当性が高かったので、早速、泌尿科のある病院を探した。偶然、家から近く、かつネット予約ができる医院が見つかったので行ってみることにした。

 尿検査のあと医者の診察が始まった。下半身を露出させられてあちこちを触られ、あまつさえ肛門に指を入れられた。触診の結果は問題がなかったようだが、念のためにとレントゲン撮影を受けた。尿検査や触診、さらにレントゲン撮影の末、前立腺肥大ではまったくないことが判明した。ひとつの杞憂は消え去ったけれど、股の痛みの原因は不明のままなので、医者に他の原因は考えられないのかと尋ねてみた。ひとつは帯状疱疹の前段階、ひとつはガンの初期症状が考えられるとのことだった。という訳で、再度、尿検査がおこなわれ、違う角度からのレントゲン撮影、さらに腫瘍マーカー検査のために血液をたっぷりと取られた。結果は一週間後に判明するとのことで、翌週の同時間に訪れることになった。結局はすべてが「無罪」にはなったものの、痛みから放免されることはなかった。

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山梨・昇仙峡のシンボル「覚円峰」

 泌尿科では何の解決には至らなかったため、再度、ネットで情報を収集することにした。今度は「痛み」ではなく、左下腹部の「腫れ」をメインに検索した。痛みが発生する部分が腫れていたからである。すると、「鼠径(そけい)ヘルニア」いう項目が多数出てきた。「鼠径部」とは足の付け根部分のことで、この辺りの腹膜に穴が開いてそこから腸が飛び出してくるという症状が鼠径ヘルニアだ。いわゆる脱腸である。「腫れ」だけに着目すればこの病名が妥当しそうだが、その一方で、股関節部分の痛みとの関連性は必ずしもあるとは思えなかった。

 翌日、血圧の薬などの処方箋をもらうため「かかりつけ」の内科医のところに行く予定があったので、ついでに「鼠径ヘルニア」の可能性があるか否かを尋ねてみた。その医者は若い頃に大病院の外科の医局にいたことがあり「鼠径ヘルニア」の手術も担当したことがあったとのこと。当時は結構、大変な手術で、かつ治癒率はけっして高くなかったそうだ。さらに、よほどうまく縫合しないと生涯、ガニ股で歩かざるをえなくなるらしい。手術をしたほうが腸閉塞や腸捻転といった「死に至る病」になる危険性は減じるものの、私のような年齢になれば脱腸のままでも歩行困難になるよりはましで、生活の質も低下しないとその医者は言った。腸閉塞の危険性と手術による後遺症とを比較考量すると、医者個人の見解としては、かつてのような外科的手術であれば推奨しないとのことだった。が一方、近年は新しい手術方法が確立しつつあるので、「腹腔鏡手術」であれば短期間で済み後遺症も少ないので受けてみてもいいのではないか、とも述べていた。「前立腺肥大」の危惧は外れ、さらに「鼠径ヘルニア」も該当しないとなると無駄な労力と出費がかさむことになる。が、今度も外れだとしたなら、とりあえず今季は整体院通いで鮎シーズンを乗り越えれば良いとも思えたので、ヘルニア手術の専門医院での診断を受けることにした。

 多摩の田舎にある町医者だと、まずは仮の診断がおこなわれ、紹介状をもらってそれから地域の基幹病院にいくことになる。コロナ禍ということもあり、それでは相当な時間のロスが生じるため、鼠径ヘルニア手術を得意とする都内の専門病院をネットで探すことにした。

 その手の専門病院は都内には数多くあるようで、中には日帰り手術(朝に手術をして夕方には帰宅できる)を「うたい文句」にしているところさえあった。それはそれで不安な点もあるため、まずは、近年ではもっとも一般的らしい、腹腔鏡手術で一泊二日という点を推奨している病院を探してみた。といっても、鼠径ヘルニアであるか否かの診断が先決なので、都内にあっても府中から通いやすく、かつネット予約が可能な医院を探してみた。こう考える脱腸人は多いようで、ネット予約では空きは見つからなかった。といって、一軒一軒、電話で確認するのは面倒なので、改めてネット予約を受け付けている病院を再検索してみた。

 すると、ひとつだけ空きのある病院が見つかった。それも3日後の午後4時からの枠で、この先のひと月間で空きがあるのはそれだけだった。その病院はネット検索をしたとき比較的早めに見つかり、しかも雰囲気もアクセスも良さそうだったので有力な候補に挙げていたのだが、その際は予約枠に空きはまったくなかった。しかし約一時間後、再度検索したときに空きがひとつだけあることを発見した。おそらく、この一時間の間にキャンセルが発生したのだろう。すぐに予約を入れた。

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神奈川県逗子市・まんだら堂やぐら群

 当日、京王線と中央線を乗り継いで病院に向かった。この日は診断だけの予定であった。私としては、とにかく一刻も早く「病名」が知りたかったのだ。さすが都内にある病院だけに建物は立派、室内は豪華、職員数は多く礼儀正しく、待合室で呼び出しを待つ人々はひとり(私のこと)をのぞいて都会人で裕福そう。

 待たされることは覚悟していたが、予約時間を5分ほど過ぎただけで私の名が呼ばれた。診察室に入り、こちらの用件を伝えると、医者はすぐに診察を始めた。そしてあっさり、腫れている私の左下腹部を結構力強くつまみつつ(痛みはなかった)「鼠径ヘルニア」であると宣告した。

 医者は私に椅子に腰かけるように指示し、次の3つのうちのどれを選択するかを聞いてきた。(1)診断だけで終える(2)最寄りの総合病院での再検査。そのための紹介状は書く(3)後日、ここで手術をするので予約を入れる。以上の3つだ。実に分かりやすかった。

 手術を選択した場合、どういう経過をたどるのかを尋ねた。すると医者は助手に手術の予定日を調べるように命じた。そして以下のように告げた。入院は基本的に一泊二日。入院日に手術をおこない、翌日の状態にとくに問題はなければ退院できる。ただし、三週間程度は「激しい運動」「腹部をひねるようなスポーツ(例えばゴルフ)」「階段や坂道の上り下り(日常生活以外の)」は厳禁とのことだった。

 私のとっては、釣りがいつできるようになるかがもっとも重要事項だったので、その点を質した。「釣りなら三日後ぐらいにできる」との答え。医者がイメージする釣りは池や堤防でのんびり竿を出すといったもののようなので、私のおこなう釣りは岩場や河原を移動するものだと告げると、それなら三週間後、できれば一か月程度は様子を見たほうが良いとのことだった。

 あとは、いつ手術がおこなえるかが問題だ。助手が予定表を調べた結果、三週間後に空きがひとつあるとのことだった。手術が三週間後、予後が順調であれば、術後一か月で釣りができる。となれば、鮎釣りの解禁日にはなんとか間に合う計算であった。

 私がそんな計算を頭の中でおこなっているとき、医者はさらに次の言葉を発した。「手術をすればヘルニアは治癒するが、それで足の付け根の痛みが解消されるわけではない」と。確かに、脱腸の部分をつままれたとき、その場所での痛みはまったく感じなかったことを思い起こした。一方、手術をすれば腸捻転や腸閉塞の危険性が減じるということも頭の中での考えに加わった。何しろ、それらは相当に激しい痛みを引き起こすようなので。

 医者のこうした明確な物言いに、私は「この医者は信用できる」と思い、手術を希望した。結果、その日のうちに6つの検査と身体測定をおこなった。もちろん、血液や尿もたっぷりと取られた。後日、検査の結果が出て手術には何の問題もないとのことだったので、私は手術日を待つことになった。

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山梨県甲州市から大菩薩嶺を望む

 手術は午前9時に始まる。その2時間前、左手の甲に「局所麻酔テープ」を貼った。麻酔薬を入れるための注射針はやや太いこともあり、針を刺すときにかなりの痛みを感じるらしい。そこで、事前にもらっていたテープを貼っておくと、痛みは相当に減じるとのこと。ただし、2時間前ぐらいに貼らないと効果はないそうなので、午前7時に貼ることを指示されていた。

 病院には8時20分に到着。手術着に着替え、同45分に手術室前で待機。同55分に入室し手術台に横たわる。かなりの緊張感。まずは麻酔医がテープをはがし、針を入れる場所を確認。全身麻酔はすぐに効果を発揮するので、気が付いたときは手術は完了しているとのこと。全身麻酔は一度経験しているが、その際は、麻酔医の予告に反し、20分ほど意識はかなりはっきりしており、皮膚を切られているときも、体内に器具を入れられているときもその様子はよく分かった。痛みが少しだけ緩和されていることがせめてもの救いだった。しかも、手術が終わっても麻酔薬の影響で朦朧感は5時間ほど残った。それゆえ、今回も同様かと観念していた。

 注射針を打たれた。テープの効能か痛みはほとんど感じなかった。麻酔医は麻酔薬を入れることを私に告げ、カウントダウンを開始した。サン、ニィ……。

 イチはなかった。その代わり、手術が終わり病室に移動する旨を告げられた。朦朧感もなかった。ニィの言葉を聞いたことは覚えていた。それも直前の言葉として。手術室の時計を確認すると、確かに時は3時間ほど経過していた。しかし、私としてはニィの言葉が終わった直後としかまったく思えなかった。

 私は睡眠の質が悪いので、夜中に何度も目が覚める。その都度、見ていた夢を想起する。朝方に見る夢はもっとも印象深いはずだが、10秒もしないうちに内容はすっかり忘れる。ただ、多くの夢を見たという記憶だけは残る、ときには「豪華30本立て」といったほどに。しかし今回、麻酔で眠らされている時間は「刹那」であって、無に等しいものだった。

 病室に移動させられ、室内のベッドに寝かされた。手術箇所の痛みはまったく感じなかったし意識ははっきりしていた。腹には3か所穴が開けられ、その穴から入れた器具を使って、人工膜を縫い付けられたり、腹膜の穴を塞がれたりしたにも関わらず。腹はやや膨れていた。これは手術のために炭酸ガスを注入したからで、早晩、ガスは体内に吸収されるとのことだった。

 担当医は午後からの手術を終え、5時に病室にやってきた。私の予後の状態を見て、「これなら明日の朝、退院できる。明日、私は休暇日なので、他の医者が診断にくる」と告げて帰っていった。夜間に何かあったら当直医を呼ぶこと、とも言われた。 

 夕食は午後6時だった。朝も昼も何も食べていなかったものの空腹感はなかった。何しろ、腹は炭酸ガスで満たされていたのだから。ここの食事は見た目が豪華であった。よくある病院食とはまったく様相が異なっていた。私でも名前を知っている有名なシェフがここの食事を監修しているとのこと。それゆえ、見た目は手の込んだ「フレンチ」なのだ。ただし、味はやはり病院食だったが。

 同じ階であれば歩いても良いと医者からは言われていた。むしろ、ある程度は動いたほうが回復は早くなるという。とはいえ、館内を歩き回っても面白くもなんともないので、自動販売機で飲料水を仕入れる以外は室内にいた。痛みこそないものの歩行の際には少しだけ眩暈を感じた。麻酔薬の名残りだろうか?

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神奈川県三浦半島の磯でのメジナ釣り

 午後7時、施術した部分に痛みを感じ始めた。最初こそチクチク程度だったが、痛みは次第に強くなり、ジンジン、さらにガンガンというほどにまで狂暴化した。そのため、午後8時、処方されていた鎮痛薬(ロキソニン)を飲んだが、痛みが収まる気配は全くなかった。それまではやることがないので本(軽い小説)を読んで時間をつぶしていたのだが、もはや読書に集中する気力はなくなった。そこで、テレビをつけたのだが、もともと興味がないこともあり、痛みから気をそらしてくれる役割を番組は有していなかった。

 眠気は私を誘いには来ず、痛みだけが腹部に居座り続けた。穴を開けられた部分(右腹、へその穴、左下腹部)の3か所だけでなく、あの股関節部分の痛みも共演に加わっていた。この四重奏にはとても耐えきれないので、午後11時、看護師を呼んだ。ロキソニンではまったく効果がないので、今度は座薬が使われた。それによって痛みは少しだけ和らいだものの、心の安らぎにまでは至らず、結果、眠りに落ちることはなかった。

 午前一時、様子を見に来た当直医に、痛みのことを告げると、その医者は施術部位の確認をおこなった。かなりの腫れがあり内出血の可能性が高いが、この程度だと格別にひどいわけではないと言われた。ただし、本人(医者のこと)は内科医なので確定的な診断は行えないとのこと。詳細を朝方に来る外科医に伝えるので、一番で診てもらえるように手配してくれるとのことだった。

 一睡もできなかった。自分がまったく眠っていないと思っていても、ほとんど場合、意識時間の流れには空白があるので、少しは眠っているというのが実際だ。しかし、今回の場合、時の流れにまったく隙間はなかった。何しろ、ずっと朝方まで、目の前にある時計の秒針を見つめていたのだから。一分間という時が、実はとてつもなく長いものであることを知った。そうであるからこそ、ウルトラマンはたったの三分間で、あれだけの仕事を成し遂げることができたのだろう。

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三重県熊野市を流れる北山川の渓谷美(瀞峡)

 朝方、外科医が助手を連れて私の部屋にやってきた。助手は穿刺器具やガーゼをなどを持参していた。医者は私の腹部を見るなり、「これなら通常程度の腫れで、とくに問題となるような内出血はない」と言い、「予定通り午前9時には退院できる」と告げてすぐに帰っていった。こんなに痛みが酷いのに帰れというのか、と私は憤りを抱くと同時に落胆した。所詮、病人は医者に対しては無力である。

 午前7時に朝食が運ばれてきた。朝もまた「フレンチ」風、味噌汁付ではあるものの。私は4分の1ほど口を付けたが、それが限界だった。退院手続きのための明細書を持った看護師が9時に部屋に来た。こうなれば、退院するしかないのだ。

 少しだけ持参した身の回り品をバッグに入れ、牛歩戦術を余儀なく採用せざるを得なかった私は、一階にある会計窓口へトボトボと向かった。4階の病室から1階の窓口まで、健常者なら2,3分でたどり着く(エレベーターがすぐにつかまるなら)距離なのに、このときの私は10分以上の時間を要した。

 会計を済ませたものの、ここから家までどうすれば良いのか、私は途方にくれた。つくづく、迎えを断ったことを後悔した。病院から中央線の駅までは5分も掛からない距離にあるが、このときの私には30分は必要と思えた。しかも、改札口からホームへは下り階段がある。仮にそれがクリアー出来たとしても、新宿駅京王線に乗り換えるのはさらに難題であった。

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伊豆半島西岸・戸田湾から富士を眺める

 私は電車利用を断念し、タクシーで帰ることにした。病院の電話を利用して車の手配をおこなった。タクシーは5分ほどで病院の玄関にやってきた。都心を走るタクシーの運転手には多摩の田舎の地理は不案内だと思い、「とにかく京王線府中駅方向に向かって下さい」と告げた。すると愛想の良い運ちゃんは、「府中なら私の隣町なのでよく知ってますよ」と言った。勤務先は都心にあるが、自宅は国分寺市だとのことだった。

 田舎者同士なのですぐに意気投合した。自宅の住所を告げると運ちゃんはすぐに合点してくれた。首都高や中央道はかなり混雑していたため、府中までは1時間以上かかったものの彼のお陰(仕事)もあって無事に家に到着することができた。車中では運ちゃんとずっと話をしていた(私からが約9割)ので、腹部の痛みをしばし忘れることができた。ただ、日本の道路によくある大きめの目地段差を超えるときに車がガツンと突き上げを喰らうと、そのたびに私はウッという声を漏らした。そうしたこともあって、運ちゃんはより慎重な運転を心掛けてくれるようになっていた。

 タクシーを降り、自宅のドアまで10mほどの距離を歩く際、手術した部分の痛みがぶり返してきた。なんとか室内に入り、まずは居間の椅子に腰掛けた。何をする気力もなく、といって何かをしないではいられないという相反する思いもあった。が、この腹部の痛みを抱えながらときを過ごすことをおもうと暗澹たる気分ならざるをえなかった。とりあえずテレビのスイッチを入れた。昼(夜も同様)のバカ番組にはまったく興味はないけれど、当座は何等かの「にぎやかし」で気分を紛らわすことしか思いつかないのだった。

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埼玉県吉見町にある「吉見百穴

 20分ほどボケーッとしていると、なんとなしに痛みが少し和らいだような感覚があった。そこで、まずは身の回りだけでも片付けようと思い、椅子から立ち上がるべく左足を少しだけ動かした。

 その瞬間であった。激痛が全身を貫いた。それまでは、とりわけ手術の際に穴を開けた右腹の上部、へそ回り、左下腹部の3か所がヅキンヅキンという痛みを訴えていたのだが、不用意に左足を横に動かした結果、この数か月の痛みの源泉であった左足股関節部分に衝撃を与えてしまったようだ。頭の天辺からつま先まで激痛が走ったと感じたのち、右腹部から左股関節までの痛みが点から線、さらに帯状にまで広がった。

 痛みによって神経まで変調をきたしたようで、目をつぶっていても目の前で火花が散っているのが見て取れた。とにかく身動きすることはままならず、じっと激痛が収まるのを待つしかなかった。

 どうにか目を開けることができるようになった。が、目の前にあったのは異様な世界だった。ダイヤ状の形をした濃いめのクリーム色の模様が縦横に整然と明滅しながら十数個並び、その向こうに部屋の内部の姿が見えるのだが、そこに展開されているのは60年以上前の壊れかけたモノクロテレビの映像のようで、ざらつき、輪郭がぼやけた灰色の世界があった。ただ、それは異界の映像ではなく、自宅の部屋の内部であることだけは分かった。

 私は再び目を閉じた。が、部屋の映像は消えても、明滅するクリーム色の模様だけは見え続けた。大きな衝撃のために、脳が幻影を映し出しているに違いなかった。

 帯状になっていた痛みは少しづつ分散化してきた。同時に幾分、模様の色が薄くなってきたように思われたので、思い切って目を開けてみた。まだまだ目の前にはダイヤ模様が明滅してはいたものの色は淡くなり、一方、部屋は少しだけではあるが形や色を取り戻しており、つけたままのテレビの映像もなんとか見分けられる状態になっていた。

 時間が経過するにつれ、痛みはやや穏やかになり、それにつれて眼前の世界は平常を取り戻し始めた。並行してダイヤ状の模様はより薄くなっていき、約10分後、視界は日常と同等になった。同時に腹の痛みも帰宅直後程度にまで収まった。

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静岡県富士宮市から望んだ「赤富士」

 眼前の世界が落ち着いてから5分ほど安静状態を保った。腹部の痛みもこれ以上は酷くならないと思えたし、ここまま座った状態では物事が進まないので、まずは椅子から離れる動作を再開することにした。先ほどよりも慎重に左足を横にずらした。とくに痛みは増加しないので、立ち上がる動作を開始した。

 その瞬間、先ほどと同等の激痛が全身を走り抜け、またまた、かの幻影が展開され始めた。これで2回目、こんなことならいっそ、気絶してしまったほうがどれだけ楽なのだろうかと思った。以前、転倒した際、左手の薬指に針金を貫通させたことがあった。その際にも目から火花が散るような痛みはあったが、幻視はなかった。その針金を医師や看護師、3人がかりで抜いてもらったときも、激痛とともに傷口から血が噴き上がるのを見たが、気絶はせず、幻覚も現れなかった。

 またしても、目を閉じて痛みが和らぐのを、幻影が消え去るのを待つより致し方なかった。先ほどと同様、こうした状態は10分強続き、その後次第に収まっていった。今度は20分ほど動くことを我慢し、3度目がないことを祈った。が、期待に反し、3度目もまた起こった。

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和歌山県小川(こがわ、古座川の一次支川)の右岸でヤマガラと戯れる

 3度目の状態を耐えているとき、私は「死」を思った。前日の手術の際の、麻酔で昏睡状態にあったときのことを考えてみた。あの約3時間、私の意識はまったくの空白であった。もし、あの手術の際に何かのミスで私が死に至っていたとすれば、こんな苦痛に出会うことはなかった。「サン、ニィ」という麻酔医の言葉が私の最後の記憶となり、その後は完全に無となる。ということは、そのカウントダウンはおろか、私が生きてきたことの総てが無となり、私の記憶はすべて消去してしまうのだ。苦が消えるだけでなく、楽という思いもまったく残らない完全に無の世界であり、無さえ存在しないことになる。

 もっとも、人類は未だかつて「自分の死」を体験したことがない。それゆえ、死後のことは無記としか表現できない。「いやぁ、あのとき一旦死んじゃってさ。でも案外、死んでみるのはいいものだよ」などと語る人は皆無である。自身の死後を語るなどということは絶対にないのだ。通俗本などではときたま、「生き返った人の話」を面白おかしく取り上げるが、それは「生き返った」のではなく死んではいなかっただけなのだ。

 30年ほど前に「臨死体験」を語ることが話題になった。最近死去した文筆家の立花隆がその最前線にいたと記憶しているが、その内容はあくまで「臨死」=「死に損なった」人の話に過ぎず、「死後」を語ることではなかった。そんなことは不可能だからだ。臨死体験は近似死体験とも言うらしいが、死んでしまうことと死に損なったこととは天と地ほど差がある。死に限りなく近づいたことと、死んでしまったこととはまったく異なる事態なのだ。

 現代では、死は医師によって宣告される(もちろん当事者にではない)。それが「三徴候死」か「脳死」かは論争がある。とりわけ「臓器移植」を進めたい医師は後者を死としたいようだ。私が考える死はそのどちらでもなく、もはや生き返ることがなくなった状態を言う。医師も間違えることはあり、死の宣告後に「生き返る(実は死んでいなかった)」ということは皆無ではないだろう。この点、「火葬」は分かりやすいが、「土葬」の場合は数日後、棺桶が空になることがありそうだ。この場合、「生き返った」のではなく、息を吹き返した=死んではいなかった、ということになろうか。もっとも、死体が盗まれただけとも考えられるが。

 激痛と幻視は3度目で終わった。3度目は幻視が消えても30分ほど椅子に座ったままほとんど身動きしなかった。多動性障害の気がある私にとって、体を動かせないということは苦痛そのものでしかないのだが、あの激痛と幻視に襲われることとの比較の末に、安静状態を耐え抜いたのだった。

 結果、4度目はなく(今現在までも)、当夜は前日が一睡もできなかったこともあり、夜中に何度か腹部の痛みで目を覚ましたことはあったものの睡眠時間は8時間ほどとることができた。また、穴を開けた腹部の3か所の痛みも幾分か収まっており、股関節部分の痛みはほとんど感じることがなくなっていた。

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千葉の景勝地養老渓谷

 もし4度目があったなら、私は自死を本気で考えたはずだ。もっとも、手首を切るのや切腹するのは痛そうだし、首をつるのは苦しそうだ。確実なのは、高い場所からの「飛び降り」かもと思った。

 飛び降りなら、やはり「清水の舞台」からだろう。『清水寺成就院日記』には、1694から1864年の間(記録の欠落期間もけっこうある)に234人が清水の舞台から飛び降りたが、死亡したのは34人だったそうだ。舞台上から地上までの高さは12mだし、下は土の地面なので、怪我はともかく、死亡率は案外低い。ただし、60歳以上は6人中6人が死んでいるので、経験則からして私なら死ぬ確率は100%となる。

 もっとも、1872年(明治5)に「飛び降り禁止令」が発布されたので、現在では飛び降りは難しいかもしれない。というより、私は高いところが苦手なので、高さ12mというとビルの4階に相当し、そんな場所から下をのぞいたら死ぬほど怖い思いをしなけれならない。これが10階以上であったら、私は飛び降りる前に死んでしまう。そうなると、飛び降り死ができなくなる。さらに医者からは、きつい坂の上り下りは腹部に大きな負荷がかかるために当面は禁じられているので、さしあたり4階まですら術後一週間は禁じられている、ということを思い出した。ことほど左様に、「飛び降り」を試みるのも意外に障害が多いのだ。

 ともあれ、4度目の激痛はなかったし、その後は比較的順調に回復し、平地だが一日一万歩は早くも術後4日目に達成した。手術部位の痛みは10日程度でほぼ消滅した。といった経過により、5月下旬には磯釣りに出掛けたし、6月からの鮎の友釣りも、静岡県興津川を皮切りに実現した。念願だった和歌山県・古座川への鮎釣り釣行(4泊5日)は2度も達成してしまった。

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興津川でのアユ釣り

 ひとつだけ日常に変化があった。先に触れたように「終活」を始めたのだ。あまりにも増えすぎた身辺の荷物整理である。不用になった釣り道具やカメラ、古い電器製品、熱帯魚飼育関連器具など、かなり思い切って捨ててしまった。もっとも大変だったのは溜まりに溜まった書籍類の処分だ。あちらこちらに積み上がっている本や雑誌をまずは手当たり次第に掻き集め、捨てるものと保存するものと仕訳する作業から始めた。

 ここにも大きな障害があった。何度も読み返している本、一度読んだだけだが深く記憶に残っている本、途中で挫折した本、興味を抱いて購入したものの未読である本。これらが処分しても構わない本の間からときどき発見され、そうするとつい手に取って見開くことがしばしばあった。そうなると、片付け行為は一時中断となって、読書に耽ってしまうのだ。

 常日頃から、私は一冊の本に集中することができず、いつも4,5冊ほどを並行して読んでいるだが、この中に本の山から掘り出したのもが付け加わってしまうのだから、同時並行に読み進める本が、多いときには10冊近くになってしまうのだ。こうなると、とても終活どころではなくなる。

 といっても、終活を止めるわけにはいかず、それ以上に釣りを止めることはもっとできないので、どうしても今まで続けてきたものをいくつか中断する必要が生じてきた。そのひとつがブログの更新だった。こんなわけで、4月28日以来、新規の記事を立ち上げていないのである。けっして、まだ死んではいないのだ。

 田川健三『書物としての新約聖書学』、桑子敏雄『感性の哲学』、三中信宏『系統体系学の世界』『分類思考の世界』、山岸俊雄『信頼の構造』、ル・カレ『スパイは今も謀略の地に』、四方田犬彦『日本の女優』、南直哉『超越と実存』、ワールポラ・ラーフラブッダが説いたこと』、臼井吉見安曇野』などなど。この他にも数多くの魅力的な本の発掘が、私の終活を妨げているのである。

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釜無川左岸の信玄堤と八ヶ岳

 そんな数多くの本の中でも、もっとも強く私を惹きつけたのが、朝倉喬司の『老人の美しい死について』(作品社、2009)であった。死を考えている最中であることもあり、私は再度、集中して読み始めた。

 ここには「八代目市川団蔵」、「木村セン」、「岡崎次郎」の3人の老人の死が取り上げられている。歌舞伎役者の市川団蔵と、マルクス研究家の岡崎次郎は、その世界ではよく知られている存在なのでご存じの人も多いだろうが、一介の農婦にすぎなかった木村センの自死についてはほとんど知られていない。最近こそ著名な作家がその農婦の死を取り上げているので、少しは認知度が増してはいるようだが、2009年に朝倉喬司の本が出る前までは、無名に近い存在だった。私自身、評論家・呉智英の本などで彼女の遺書の一部は知っていたが、その全文を知ったのはこの本が初めてだった。

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神奈川県・小坪漁港

四十五ねんのあいだわがままお

ゆてすミませんでした

みんなにだいじにしてもらて

きのどくになりました

じぶんのあしがすこしも いご

かないので よくよく やに

なりました ゆるして下さい

おはかのあおきが やだ

大きくなれば はたけの

コサになり あたまにかぶサて

うるさくてヤたから きてくれ

一人できて

一人でかいる

しでのたび

ハナのじょどに

まいる

うれしさ

ミナサン あとわ

よロしくたのみます

 二月二日 ニジ

 木村センは1891年(明治24)群馬県吾妻郡中山村(現在は高山村)の農家に生まれ、18歳のときに同じ村の木村常次のもとに嫁いだ。幼い頃から働きづめだったこともあって、字を読むことは多少できても書くことはほとんどできなかった。ただ、常日頃から和讃を唱えていたので言葉自体は多く知っていたようだ。

 木村夫妻には9人の子供(そのうち3人は早逝)があったが、木村家が借金を多く抱えていたため、センは嫁いだ後の45年間も働き詰めだった。子供が家で教科書を読んでいると「本べえ読んでるじゃねぇ、仕事をしろ」と叱るほど、センにとっては働くことがすべてであった。

 1955年(昭和30)の1月の夜、センは庭にある手水場(便所)に行くとき、凍った地面に足を滑らせてころび大腿骨を折ってしまった。ほぼ寝たきり状態になり、働くことができなくなったセンは、ある覚悟を抱いた。

 小学校入学を控えていた孫がコタツで絵本を読んでいたとき、センはなんとかコタツへ這って向かい、孫と一緒に手習いを始めた。センは文字を書くことを覚えたかったのだった。理由はひとつ、子供たちに「遺書」を残すためだった。

 上に挙げた文が遺書の全文である。誤字脱字は多いものの、彼女の子や孫を思う気持ちがよく伝わってくる「名文」である。人々の心を大きく揺さぶり、かつ名文家さえも動揺させる遺書というのは、この木村センと、マラソン選手だった円谷幸吉とが残したもの以外は皆無と言えるかもしれない。

 私は死後の世界はないと確信しているが、木村センはきっと「花の浄土」に住んでいるという思いはある。

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古代蓮のひとつ行田蓮

 遺書を残すだけのために木村センは文字を習った。センよりは少しだけ文字を知っている私には、残すものが見当たらない。

 そうであるならば、せめて生きた証としてこのブログを継続することがそのひとつになるのかも知れないと、そういう思いが立ち現れてきた。

 という訳で、5か月お休みにしていた徘徊老人日記を再開することにした。