徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の徘徊模様

徘徊老人・東急世田谷線散歩

こんなに立派になっちゃって

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世田谷線もすっかり今様に

 ボロっちい電車といえば、多摩の田舎では南武線、歌の世界では池上線というのが通り相場だった。

 南武線は、私の地元を通っているので、幼い頃から何度となく利用している。小学生の頃、母と、横浜に住む叔父のところに出掛けたときにも一度乗った。この電車のあまりのボロさと遅さと揺れ具合に母は閉口し、次からは渋谷周りで東急東横線を使うことになった。確かな記憶ではないが、車体の底板が一部壊れていて、車内からは曲がりくねった線路が見えたこともあったような。

 池上線は、知り合いの幾人かが旗の台駅洗足池駅の近くに住んでいたので、一年に数回、彼らの縄張りまで出掛けるときに利用した。駅間が狭く、いくつ駅を過ぎたのかすぐに忘れて友達に聞いた。電車は古く、ドアのそばに立っていると、隙間風に震えなければならなかった。

 とはいえ、1960~70年頃の電車といえば、概ねこんな感じだった。私が東京に行くとき(多摩の住民は新宿に行くときは”東京に行く”と言う)もっとも利用していた京王線ですら、60年代に初代の5000系車両が運行されるまでは、お世辞にも立派とはいえなかった。

 こんな南武線や池上線だが、彼ら?に言わせると、もっと格下の電車があるとのこと。それが、下高井戸と三軒茶屋とを結ぶ玉電(現在の世田谷線)だ。「俺たち(南武線や池上線)はいかにオンボロであろうとも一応は鉄道線だ。けど、ヤツ(玉電世田谷線)ときたら、”チンチン電車”じゃないか」。

 京王線に乗っていて、下高井戸駅を通過する際には、停車中の玉電の姿がよく目に入った。その古さと規模の小ささはある面、感動ものですらあった。「いつか乗ってみたい」、南武線や池上線にはない、そう思わせるような蠱惑(こわく)的なものが、玉電にはあった。

 そんな玉電も1969年に世田谷線に改称され、さらに1999年から現行の300系車両が導入された。「こんなに立派になっちゃって」。いささか魅力は減じられたものの、「チンチン電車」の香りは今でも感じられないわけではない。

世田谷線の起点は三軒茶屋

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三軒茶屋駅を出発する下り線

 世田谷線の起点は三軒茶屋駅で、終点が下高井戸駅になる。私には下高井戸駅に馴染みがあるので、この路線を語るときはどうしても下高井戸・三軒茶屋間となってしまうのだが、下高井戸駅発は上り線になる。今回は、下高井戸から三軒茶屋まで電車に乗り、帰りはあちこちブラブラしながら徒歩にて三軒茶屋駅から下高井戸駅間を訪ね巡った。路線延長は丁度5キロだが、寄り道が相当に多くなるので、約10キロは歩くことになる。

 世田谷線は、東京では「都電荒川線」とともに二つだけある「軌道線」のひとつである。軌道線というのは一般道路上に敷かれた線路を走るもので、”チンチン電車”とか”路面電車”などの名称で語られることが多い。が、荒川線の方は一部、道路上の軌道を走る(さらに駅とは言わず停留場という)ものの、世田谷線はすべて専用軌道(正式には新設軌道)であって、南武線や池上線と同等なはずである。世田谷線がそれにもかかわらず軌道線なのは、その出生背景に答えがある。

 世田谷線の前身であった「玉川電車(略して玉電と呼ばれることが多かった)」は、渋谷から二子玉川まで、そのほとんどを国道246号線の上に敷かれた線路の上を走る”路面電車”であった。そして1925年、その支線として三軒茶屋・下高井戸間を結ぶ世田谷線が開通した。この路線には主要な道路がなかったため、全区間に軌道が新設された。が、本線が軌道線であったため、1969年に本線が廃止されたあとも、世田谷線の法的な地位は、軌道線として位置づけられたままだった。

 ところで、世田谷線のレール間の幅(これを軌間とかゲージと呼ぶ)は1372ミリである。鉄道ファンはよく、「標準軌」とか「狭軌」とかの言葉を使うが、これは欧州の軌間が1435ミリであるため、これを標準軌と呼んでいるだけだ。日本では新幹線がこの「標準軌」であるが、JRや大手私鉄の大半が、1067ミリの軌間を使っている。日本ではこの1067ミリが「標準軌」で、1435ミリは「広軌」と呼んでも間違いではない。

 世田谷線の1372ミリは馬に引かせた客車の軌道の幅であるため、「馬車軌間」とも言われる。実は、京王線(本線のみ)もこの馬車軌間である。軌間が異なると、他の鉄道との相互乗り入れが困難になるため、都営新宿線は他の地下鉄とはちがい、例外的にこの馬車軌間を使っている。京王線は朝夕のラッシュ時には列車間がすぐに詰まりノロノロ運転を余儀なくされ一部からは”団子運転”と揶揄されているが、もしかしたら、今でも電気で動くのではなく、実は馬が引いているのかもしれない。

 ともあれ、世田谷線は出自が「馬車鉄道」であるため、すべて新設軌道を用いていても、扱いは”チンチン電車”になるのであろう。

路面電車扱いは、「若林踏切」を見ると分かる

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環状七号線と交差する世田谷線

 軌道線とはいえ、世田谷線には多くの踏切があり、電車が通過する際は遮断機が下り、人も自転車も自動車も通過待ちをする、一つの例外を除いて。それが、写真にある”若林踏切”だ。お分かりのように、ここには遮断機がない。

 環状七号線は交通量が非常に多く、通常の踏切では大渋滞が発生する。が、この踏切では「道路交通法」が車両側にも優先適用されるため、青信号の際は、自動車には「一旦停止」の義務はない。一方、電車の方も信号を遵守し、赤信号の際は踏切への進入はできず、青信号待ちとなる。それが下の写真だ。

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赤信号のため、電車も人と同様、信号待ちをする

 少々見づらいが、左手にあるトラックの屋根の上の信号を見ていただければ分かるように、道路を横断する側は「赤」なので、人も電車も信号待ちをしている。これが、”路面電車”たる所以なのである。 

松陰神社を散策する

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松陰神社の鳥居

 世田谷線には駅が10あるが、もっとも出掛けたくなる名前の駅が「松陰神社前」だ。駅からは参道のような商店街があり、その名も「松陰神社通り」という。駅から北へ300mほど行くと神社の鳥居が目に入る。鳥居の左側に、この神社の由緒が述べられた掲示がある。この地は長州藩主の別邸があったところで、松陰が刑死した4年後、門人たちによってこの地に墓が改葬され、さらに1882年に松陰を祀るための神社が創建された。私は、山口県萩市には幾度となく出掛けており、その際には必ず、当地の松陰神社に訪れるのだが、世田谷区にあるここは、今回で4度目の訪問だ。

 幕末には魅力的な人物(司馬遼太郎の影響が大きい)が多々現れているが、個人的には吉田松陰にもっとも好感を抱いている。その思想こそ私とは大きく異なるが、その壮絶とも言える生きざまに魅力を覚えるのだ。丁度、フランス革命時のロベス・ピエールの如くに。

 松陰は5歳の頃からスパルタ教育を受け、9歳のときには藩校の『明倫館』に出仕し、翌年には教授をおこなっている。神童という言葉が彼には相応しい。この点にはただ驚くだけだが、私が松陰を好むのは、友人との東北旅行の約束を守るだけのために脱藩したこと、日米和親条約の締結を終えたペリー艦隊が下田に滞在しているとき、その船に乗り込もうとしたことなどの行動力に、である。とくに後者は、「外国の文化を直に学ぶため」とされているが、一方で、「ペリーを暗殺するため」という説もあるようで、個人的には、”暗殺”を試みようとしたというほうが、松陰の生き方としては正しいように思われる。”至誠にして動かざる者は、いまだこれ有らざるなり”の言葉そのものの生き方をしたのだから。

 また、松陰は陽明学最左派の李卓吾の影響を受けており、彼の著作である『焚書』をよく読んでいたという点も興味深い。「相手が出世間の学人でなければ、一緒に学問を論じることはできない。しかし、世俗を超越した人とはなかなか出会えるものではない」(『続焚書』より)という隠遁生活を希求した李卓吾の考え方と、革命家でもある松陰の思いとは必ずしも一致するものではないかもしれないが、松陰の生き方にはどこか超俗的な面があるのは確かで、この点、相通じるものはあったのかもしれない。そういえば、李卓吾は「童心」を最重視していた。これは「いつわりのない真心」という意味で、この点では松陰とはピッタリ合致すると言えるだろう。

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神社内にある松陰像。視線の先には、松下村塾を模した建物がある

  神社内には吉田松陰像があり、その向かいには松下村塾を模した建物もある。松陰の門下生には優れた人物が多かったが、彼らは皆、早世した。あまり目立たなかった者が生き残って維新後に権力を握った。松陰の理想とする世界とはかなり隔たった政府の有り様だったろうが、このように”過激な思想”は歴史的には常にファインチューニングされ、大局的に歴史は”漸進的”に発展する。ロベス・ピエール後のフランスがそうであったように。

世田谷にも城があった

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建物はないが、空堀、石垣、土塁などが残っている

 世田谷にも城があった。目黒でも”サンマが取れた”ぐらいなので、ここに城があってもおかしくはない。15、6世紀にあった平城で、奥州吉良氏が城主だった。吉良氏は足利氏の一門で、元は三河を本拠としていたが、やがて奥州探題となって足利氏を支えた。しかし衰亡し、足利氏の援助を受けて世田谷に居を構え、小田原城攻略の際の豊臣勢にここを奪われるまで続いた。建物はまったくないが、写真にあるように石垣など、その痕跡はある程度残っている。

 現在は世田谷城阯(じょうし)公園として整備されている。ひっそりとした森があり、静かに読書する人、犬につられて散歩に来た人などが散見された。

上町車庫と「江ノ電601号」 

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上町駅の横にある車両基地には色とりどりの電車が待機している

 世田谷城と世田谷八幡宮は吉良氏つながりで関連性があるので、城阯公園の次は八幡宮と考えたのだが、三軒茶屋方向に進む電車から「上町車庫」が見え、それが気になっていたので寄り道をした。といっても、世田谷線は駅間が短いので、この寄り道でも数百メートルの距離でしかないが。

 世田谷線は2両編成の車両が10編成ある。各編成は色分けされているので、見ているだけで楽しくなる。写真左のオレンジ色の車両が三軒茶屋に向かっている上り線で、右手の3編成が待機中の車両だ。軌道には草が茂り、「草原(くさはら)電車」という名が相応しい、のどかな世田谷線である。

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宮の坂駅横に鎮座する”江ノ電601号”

 世田谷八幡宮は、宮の坂駅のすぐ西側にあるが、その駅の横を通るとき、古ぼけた車両が展示してあるのが目に入った。かつて玉電で使われていた車両で、玉電本線が廃線になった際、一部の車両は当時、東急の子会社であった「江ノ電」(現在は小田急系)に払い下げられたのだった。600系車両の1番なので”601号”なのだが、江ノ電での第二の生活を終えたのち、里帰りしてこの宮の坂駅横に展示された。乗り降りが自由にできるので、現在は、子供連れの女性たちの社交場にもなっているようだ。

世田谷八幡宮ののどかな境内では?

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世田谷八幡宮では神職がカメラマンも務める!?

 世田谷八幡宮は、世田谷城を拠点とした吉良氏がこの地を支配したときに整備したものだ。この地域の神社としてはなかなか有名なようで、秋の例祭では”奉納相撲”が農大の相撲部によっておこなわれるそうだ。

 敷地内には世田谷招魂社や厳島神社などがあり、のんびりと散策するのにも適した場所である。私は信仰心はまったくないが、こうした森閑とした場所を徘徊するのをとても好んでいる。

 この日はたまたまある家族の”出産祝い”があったのだろうか、神職がにわかカメラマンとなって記念撮影をしていたのがとても微笑ましかった。この風景は、神道だけでなく、プロテスタンティズムにも浄土真宗にも通じるものであろう。

豪徳寺と井伊家と招き猫

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豪徳寺の本殿は1967年に新造された

 かつて世田谷区の半分の土地を所有していたという豪徳寺は、彦根藩井伊家の菩提寺である。この辺りは先の吉良氏が所有していたのだが、それが滅んだ後、徳川家の譜代大名であった彦根の井伊家の所領になった。

 井伊家に伝わる伝説では、2代目藩主の井伊直孝がこの地で鷹狩りを行った際、寺の白い飼い猫が手招きをしたので、それに応じてこの寺で休息をとった。すると、急に猛烈な雷雨となり、近くの大木に落雷した。雷雨の被害に遭わずに済んだ直孝は、そのお礼に大量の資金を寄進し、そのお蔭で豪徳寺が再建されたとのこと。この手の話はよくあるので、あくまでも”伝承”にすぎないのだろうが、豪徳寺では”猫が福を招いた”ということで、”招き猫伝説”を広めることになったそうな。

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招福観音横には招き猫の置物がたくさんあり、観光名所になっている

 三重塔の干支(えと)の彫り物には、ネズミの中に猫が混じり、「招福観音」境内の中には、招き猫の置物が多数並べられている。私が訪れたときには大勢の外国人観光客がいて、とても興味深そうに招き猫の陳列を眺めていた。

 この招き猫はここで置物を買い求め、福が生じたのち再びここを訪れ、お礼にその置物を奉納したというものが多いそうだ。

 ここの招き猫は”右手”を挙げているが、他では”左手”を挙げているものもある。右手は”金”を招き左手は”人”を招くそうだ。豪徳寺の伝承では白い猫が右手を挙げて直孝を招いたので、ここの場合は”右手を挙げた白い猫”がすべてである。

 招き猫といえば、彦根市ゆるキャラひこにゃん”はこの豪徳寺伝説がルーツになっている。10年近く前、私が彦根城を訪れた際、いつになく騒がしい人の群れがあった。私も好奇心があるのでその群れに近づいた。なんと、”ひこにゃん”が地元のテレビ番組の撮影のために彦根城に来るとのことだった。それを聞くと、馬鹿々々しくなってすぐにその場を離れた。"ひこにゃん”はそれまでその顔つきからイヌだと思っていたが、そのとき、”にゃん”だからネコなのだと気づいた。にゃんとも恥ずかしい誤解だった。ともあれ、”ひこにゃん”の”白さ”は豪徳寺の猫の色に、その被り物の”赤”は「井伊の赤備え」に由来するそうな。

 豪徳寺以外では、両手を挙げたり、色も白以外のものもたくさんある。”招き猫伝説”は各地にある(空海説や浅草説など)ため、いろんな招き猫が”開発”されているようだ。私の場合、伝承には興味があるが、置物そのものにはまったく興味がわかないので、仮に招き猫の置物を頂いても、すぐに「もやさないごみ」の袋に入ることになる。

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吉田松陰とも因縁がある井伊直弼の墓

 豪徳寺彦根藩菩提寺であるため、井伊家代々の藩主とその室の墓がある。当然、”安政の大獄”で名高い井伊直弼の墓もある。吉田松陰はこの大獄に連座して1859年に処刑されたのだが、その翌年、井伊直弼も”桜田門外の変”にて暗殺されている。松陰が処刑されてから5か月後のことだ。

 吉田松陰は”松陰神社”に眠り、井伊直弼は”豪徳寺”に眠っている。因縁深いこの二人の墓は、直線距離にすれば約1キロのところにある。

山下駅豪徳寺駅

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山下駅を出て宮の坂駅に向かう世田谷線。上にあるのが小田急豪徳寺駅

 世田谷線から豪徳寺に行くには山下駅宮の坂駅を利用する。参道から山門に至るには宮の坂駅のほうが少し近い。しかし、小田急線の豪徳寺駅に隣接しているのは山下駅なので、実際には山下駅で下車する人の方が圧倒的に多いようだ。山下駅からは小田急豪徳寺駅の前を通り、結構にぎやかな商店街を抜けて豪徳寺に至る。

 世田谷線の車内でも”小田急線の豪徳寺駅をご利用の方はここでお乗り換え下さい”といったような放送がある。これならば、”山下駅”のような豪徳寺をまったくイメージできない名前より”豪徳寺駅”を使った方が、利用者にとっても分かりやすいと思うが。

 写真からも分かるように、世田谷線の白い車体には”招き猫”がデザインされている。猫は白く、右手を挙げている。いわゆる”豪徳寺パターン”である。ならば、豪徳寺には敵愾心はないと想像できるので、豪徳寺駅への変更は可能だろう。それとも、小田急線への敵愾心なのか。ちなみに、下高井戸駅世田谷線京王線も共通している。邪推すれば、世田谷線には”松陰神社前”があるからなのだろうか。

世田谷線には月見草がよく似合う

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草原の中を走る世田谷線

 世田谷線は沿線の人にも愛されているようで、線路脇には住民の協力によって花壇が多く設えられている。アジサイタチアオイが多いので、6月には美しい花の中を走るカラフルな電車が見られるし、一方、乗客も色とりどりの景色を望むことができる。

 私が徘徊していた時期は、上記の花たちは花芽を膨らませてはいたものの開花には至っていなかった。咲いていたのは大方、”貧乏草”(ハルジオンやヒメジョオン)だったが、松原駅と下高井戸駅の間にある赤松公園脇では、線路内に咲く”ヒルザキツキミソウ”が満開になっていた。これは植栽ではなく自生したものだろう。

 ツキミソウは初夏の花の中では好きなもののひとつで、これとアカバナユウゲショウが路傍に咲いているのを見ると、「もうすぐ鮎の友釣りの季節だなぁ」と想う。どちらもマツヨイグサの仲間で、5月初旬から開花する”雑草”の一種である。それにしても、名称が優雅で、牧野富太郎先生には叱られるが、この属の花だけはカタカナ表記ではなく漢字表記したい。”待宵草”属の”昼咲月見草”や”赤花夕化粧”というように。

 ともあれ、月見草が咲く中を走る世田谷線を撮りたかった(三軒茶屋に向かう電車の中からこの花が咲き誇る姿を見つけていた)ので、下高井戸駅に向かうときに、ここでカメラを花の前で構えつつ、電車が来るのを待った。

 富士ではなく、世田谷線には月見草がよく似合う。

古さが魅力の下高井戸駅界隈

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高井戸駅に入線する招き猫カラーの世田谷線

 下高井戸駅は新しくなり、車両もまた新しくなって古の面影はないが、下高井戸駅から一歩外に出ると、私が京王線の車内からずっと以前に見ていたままの景色がそこにはあった。下高井戸駅前市場や下高井戸商店街である。単なるノスタルジアだけでなく、ここでは人の営みを感じることができる。

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高井戸駅前市場には”人と人との近接感がある”

 私の地元では古い商店街をすべてつぶし、店は大部分、大きな建物の中に閉じ込められた。そこには歴史はなく、歴史を残すこともない。

 世田谷線は新しくなったけれど、沿線には数々の古い町並みが残っていた。人と人との距離の近さ、それがこの沿線の一番の魅力なのだ。

徘徊老人・足尾~渡良瀬川上流紀行

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足尾砂防ダムから渡良瀬川が始まる

5月11日は足尾銅山鉱毒事件の転換点の日

 1974年5月11日、国の公害等調整委員会は当時の古河鉱業の加害者責任を認め、鉱毒事件の被害者に対する補償金の支払いを命じた。これは、1970年の「公害国会」以来、高度経済成長による”歪み”が社会問題化し、これ以上環境悪化を放置できないということをやっと認識しはじめた国の対策のうちの象徴的出来事であった。今から46年前の5月11日のことであるが、そもそも、足尾銅山鉱毒事件はすでに1880年代から問題化し、91年からは、田中正造が度々、当時の帝国議会で指弾してきたことだった。国が企業の社会的責任を認めるまでには、実に90年近い歳月を必要としてきたのだ。

 古河市兵衛足尾銅山を買収したのは1877年のこと。今話題の渋沢栄一も、買収資金の多くを拠出している。江戸時代にはすでに掘りつくされていると考えられていた銅山だが、80年代に入り有望な鉱脈が次々と見つかり、83年には早くも産銅量は日本一となっている。一方、精錬所から出る多量の亜硫酸ガスによる被害は地元の松木村などに広がり、ここは廃村となった。

 煙害は山の樹木も死滅させ、周囲の山々には一木一草もない状態となった。森林が失われたために山の”保水力”が失われ、その結果、渡良瀬川下流域は度々、大洪水に見舞われた。そればかりか、鉱毒が肥沃だった田畑に広がり大きな被害をもたらした。

 この対策のため、治山工事として”はげ山”への植林活動が1956年頃から始まっているが、写真からもわかるように源流域の山々の緑はさほど回復していない。

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足尾砂防ダムの上部には3つの谷川が流れ込む

砂防ダム内は大量の土砂が堆積

 はげ山となった山々からは大きく、3本の谷川(久蔵川、松木川、仁田元川)が流れ込んでいる。そのうち、松木川が主流で、日本百名山の一つである皇海山(すかいさん、2144m)に源を発している。松木渓谷はその景観から”日本のグランドキャニオン”とも呼ばれているらしいが、峡谷化した主要因は煙害による樹木の喪失なのである。

 3つの谷川が砂防ダムの直上でひとつになり、渡良瀬川となってダムから落下している。谷川が削り取った山肌は細かな土砂となって下流域を襲うため、1947年のカスリーン台風の大被害を切っ掛けとして砂防ダムの必要性が認知され、55年にダムは完成した。

  砂防堰堤の谷川面では大量の土砂が積もっており、3本の川は谷を流れるというより、砂浜を這うように流れるといった感じである。前述のように、まだ山の養生は始まったばかりのような状態のため、山からの土砂の供給は当分続くことが予想されるので、今度は堆積した土砂の掘り起こしが課題となりそうである。

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小さな流れの中には、赤銅色に染まったものもあった

 堰堤にほど近い場所の細い流れの底には赤銅色の堆積物が見られた。本流筋こそ比較的綺麗に見える谷川だが、こうして細部を観察してみると、ここが銅山であったことの素性は隠しようがない。

砂防ダムから渡良瀬川の物語は始まる

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3本の谷川が1本の流れになって渡良瀬川がはじまる

 砂防ダムの堰堤は一部低くなっており、ここから3本の川が集めた水が1本の川となって流れ下る。この落下点から渡良瀬川が始まる。もちろん、河川全体としての渡良瀬川は、皇海山が貯めた湧水の一滴から始まってはいるのだが、堰堤の上までは松木川の名前で支流の水を集めつつ多くを蓄えてきた。

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川は谷を一気に下ることがないよう、いくつもの段差がつけられている

 砂防堰堤から解放された水の流れは、本来であれば一気に流れ下りたいところだが、落差が急で両岸の岩が比較的もろいため、勢いを減じるための段差がいくつも造られている。この先にも小さな堰堤が多数作られ、流れを抑え込むのと同時に砂止めの役割を持たされている。

1989年、精錬所は事実上、操業を停止した

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30年前に役目を終えた旧精錬所

 川の右岸にある巨大な煙突が特徴的な旧精錬所だが、ここを訪れる度に劣化の度合いを増しているように感じられる。大きな富と、そしてより大きな害悪をもたらした”象徴”として往時の姿を残しているのは、「足尾銅山世界遺産登録を推進する会」の運動と関係があるのだろうか。それはともかく、この精錬所跡は”負のレガシー”として可能な限り、その姿を留め置くべきだろう。 こんな谷底に精錬所を造ると、煙が谷間に充満し被害が拡大するということすらわからない無知の印として。

足尾の産業遺産

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集落と精錬所をつなぐ橋

 「ふるかわばし」は、それまでの木造の「直利橋」に代わって1911年に建造された。長さは48.5m、幅員は4.8m。この上を電気鉄道のレールも引かれたそうだ。一時は歩道として利用されたこともあったが、老朽化のため現在は立ち入り禁止になっている。日光市によれば”足尾銅山の誇れる産業遺産”とのこと。

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間藤駅から精錬所をつなぐ線路。現在は廃線

 かつては主要な輸送路として鉄道が用いられていた。現在は”わたらせ渓谷線”として桐生から間藤までの運行で、間藤から精錬所までは廃線となっている。鉄道跡は危険防止のため全面立ち入り禁止となっている。

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銅山が活況を呈して頃は、この間藤集落は大賑わいだったらしい

 川の左岸には、間藤集落がある。谷のすれすれのところまで住居があったと思しき石垣や石積階段が残っている。また山側も同様で、山裾まで住居跡がびっしりある。集落の中央を通る県道250号線は幅員に余裕がある。往時の往来の激しさを物語っているようだ。一方、写真のように住宅と住宅との間の道はとても狭い。山間の狭い空間に多数の家を建てる必要があってのことだろう。

 足尾町は2006年に日光市編入された。間藤集落の北側の山を越えれば、そこには中禅寺湖があるのだ。銅山が盛んな頃、足尾町は栃木県内では宇都宮市に次ぐ人口数で、約4万人が住んでいた。それが現在では2千人を下回っている。足尾でもっとも活況を呈していたのがこの間藤地区だったそうで、集会場に残っている当時の写真を見ると、今となっては信じられないぐらいの賑わいだったようだ。

無縁石塔

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松木村の無縁石塔

 間藤集落にある龍蔵寺は一見、どこの田舎にもある小さなお寺だが、その本堂の小ささに比べ、墓所の広さに、墓の多さに驚かされる。それはそのまま、現在の集落の閑散さとかつての繁栄との対比を象徴している。

 境内には、ひときわ目立つ石塔がある。旧松木村の”無縁石塔”だ。かつてあった松木村は、銅山からの悪影響をもろに被った。かつて盛んであった養蚕は、煙害のために桑の木が全滅したことで廃業した。20ヘクタールの農地は、煙害のため無収穫地となった。このため、1902年、一戸2名のみを残して廃村となった。石塔は、悔しさを抱きつつ、かつてあった村を静かに見つめているようだ。

わたらせ渓谷線の終着駅

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平日の間藤駅はひっそりとした空気がただよう

 休日は「トロッコ列車」で渓谷美を楽しむ旅行客で賑わう間藤駅だが、平日はごく普通の車両が、桐生駅間藤駅を行きかう。写真は昼時の運行車両なのでとくに利用者は少ないのかもしれないが、車内を見回したところ乗客の姿は1名だった。1、2時間に1本という数の運行では、定期的に鉄道を利用する住民はいないのだろう。もっとも、間藤集落で見かけた住民とおぼしき人はすべて高齢者。山の手入れをする業者の姿もあったが、この人々は車利用なので、渓谷線を使う合理性はない。

 桐生市から足尾へはよく整備された国道122号線が走っている。この国道は足尾の集落をバイパスし間藤の手前で北上を続け、15キロ先で”いろは坂”の下に出る。日光観光のための乗用車や物資流通のトラックが多い国道だが、99%以上は間藤集落に入る直前の旧道と合流する”田元交差点を右折して日光市街方向に進む。

 トロッコ列車の利用客は途中の”渓谷美”を味わう。間藤駅は、ただその列車の終着駅以上の意味を有してはいないのだろう。一方、産業資本主義の”廃墟”と渡良瀬川の源流点を幾度となく訪ね歩く私のような存在は、単なる”変な人”にすぎない。

草木湖とダムと渡良瀬川の第二の源流

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草木湖の先には男体山がそびえる

 1976年に竣工した草木ダムは、渡良瀬川の氾濫抑制と発電事業、それに飲料水、農業用水の確保、さらに鉱毒の沈殿などを目的に造られた。利根川水系に造られた大規模多目的ダムのひとつで、東京都民にもここの水が供給されている。ここでは他のダムにはない水質検査が適宜おこなわれており、異常な数値は計測したことがないとのことだが、”ニッポンの統計”は簡単に操作されるので、真偽は不明だ。

 ダム湖の草木湖は群馬県みどり市にある。湖のバックウォーターあたりから渡良瀬川はしばし栃木県を離れ、群馬県を流れることになる。重力式コンクリートダムであるここは堤壁の高さが140mもある巨大構造物である。今回訪れて初めて知ったのだが、堤壁の下に行く道があり、公園として整備されたその場所からは140mの高さの構造物を下から見上げることができる。

 堤壁の近くには”東第二発電所”の建物があった。ダム湖の水の多くは他の目的のために別のところに誘導されるのだが、渡良瀬川の本流の水量を維持するために、ほんの少しだけ放水路を伝って放水されているのだ。この流れを利用して発電事業を行っているのが第二発電所なのである。

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草木ダムの巨大な壁と小さな放水口

 私は、可能な限り堤壁に近づいてみた。そして、放水口を見つけた。写真の右手にある小さな流れが、中下流渡良瀬川の源なのである。ここは、渡良瀬川の第二の源流といえる存在なのだ。

 小さな3本の谷川が渡良瀬川を造った。しかし、人の手が山を荒らし、本来、森が蓄えるはずだった雨水をほとんど直に放出し、大きな流れを造ってしまった。渡良瀬川が暴れ川になったのは、人為によるものだった。それを抑えるために足尾砂防ダムを造り、草木ダムを造っている。

 足利市渡良瀬川右岸で出会った老人との会話を思い出した。「私が幼いころは、よく橋の上から川に飛び込んで遊んだものです」。このダムがまだない頃は、渡良瀬の流れはもっと豊かだったのだろう。「でも、川は時々、真っ赤に染まることがあり、そんなときは、地域や学校から、すぐに川遊び禁止の指令がでました」とも寂しそうに語ってくれた。

 それでも渡良瀬川は流れている。いや、川が流れているのではなく、水が流れているのである。そのように、渡良瀬川は、いつもそこにある。 

 

◎追記

 この小さな旅のときも足利市に宿をとった。この日は前回とは異なり終日、晴れだった。夕方、私は川の右岸に立ち、沈みゆく夕日と金色に染まる川面を眺めていた。渡良瀬橋に沈む夕日を撮影する予定だったのだが、景色に見とれていたため、写真を撮るはずだったと思い出したときは、日はほとんど沈んでおり、残光だけが橋をそして天を染めていた。

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渡良瀬橋の向こうに沈んでしまった夕日

 

徘徊老人・越生~山吹、ツツジ、滝と峠と

越生町には訪ねたい場所がいろいろある

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越生は梅林と同じくらいツツジで有名

 埼玉県の越生(おごせ)町といえば、まず「越生梅林」を思いうかべる。ここは関東三大梅林のひとつとされている。また、梅の実の生産高でも、越生は埼玉県随一らしい。さらにいえば、ユズの生産高は関東一とのこと。

 ところで、三大梅林のあとの二つは「水戸の偕楽園」と「熱海梅林」らしいが、これは誤りの可能性が高い。なぜなら、熱海市静岡県なので中部地方に属するからだ。もっとも、関東地方の法律上の定義はないので、静岡を関東に含めても誤りにはならないだろうが。ウェブサイトで「関東三大梅林」を調べると、どうしても熱海を含めたいらしく「神奈川県熱海市」とある。確かに神奈川県であれば関東地方には違いないが、熱海が神奈川県に属するというのは、牽強付会という他はない。ここは素直に、神奈川県小田原市の「曽我梅林」を挙げておくのが無難ではないか。ことほど左様に、ネットの情報は「怪しい」ことが多々あるので要注意だ。

 私が越生町を目的地として初めて訪れたのは35年ほど前で、梅の花目当てだった。が、その後、越生には梅林以外にも訪ねてみたい場所が多々あることを知ったので、以来、数年に一度程度だが、梅の花の季節以外にもここを日帰り旅の目的地にするようになった。それが「五大尊つつじ公園」であり「山吹の里」であり「黒山三滝」であり「奥武蔵グリーンライン」である。

 越生町を訪れた5月2日は、雨のち曇り、ときどき晴れという「猫の目天気」だった。写真撮影には決して良いとはいえない天候だが、とにかく知人と「犬の駆け足」といった感じで、目的地を訪ねて歩いて(おもに車利用だったが)みた。

越生は「山吹の里」でもある

 兄や姉(全部で4人)に太田道灌の名をあげると、全員が「江戸城」と答える。別のときに山吹の花を指し示すと、今度は全員が「太田道灌」と答える。いずれも「パブロフの犬」状態の反応だった。この「江戸城太田道灌⇔山吹」というトリアーデは、他の人に尋ねてもほとんど同様の返答がある。かなり普遍性をもった三位一体なのかも。

 自生しているのか植樹したのかは不明だが、越生には山吹の花がとても多い。県道を走っていても、山里の道を走っていても、里山を歩いていても、やたら山吹が目に入る。これには太田道灌と山吹との関係を示す「逸話」が作用(反作用?)していることに間違いはないだろう。

 太田道灌越生に隠居していた父親のもとを訪ねる際(鷹狩りに来たという説もある)、不意の雨に遭ったので、茅屋(ぼうおく)に住む農家に立ち寄り、蓑(みの)を貸してもらうよう頼んだ。しかし、そこに住む小娘は、蓑を差し出す代わりに八重山吹の花を無言で道灌に指し示した。この予想外の行為に怒った道灌はその場を立ち去り、後にこの小娘の行為を非難する形で人に話したところ、皆から道灌の無知を指摘され、以来、道灌は武道だけでなく歌道にも励むようになったという、”いかにも”という出来過ぎた話だ。

  七重八重花はさけども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき

  兼明親王 『後拾遺和歌集』より

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県道沿いにある「史跡山吹の里」には茅屋と八重山吹の群生がある

 小娘はこの歌を材料に、「蓑」と「実の」とを掛詞(かけことば)にして、蓑を持ち合わせていないことの詫びを表したのだ。実際に八重山吹は実生しないのだが、田舎の農家の小娘がすぐさまこんな機転を働かせることができるとは考えられないので、後世に作られた小話にすぎないだろう。反面、太田道灌は武人としても歌人としても優れていたのだろうが、いささか功を誇り過ぎたために謀殺されたという事実と照らし合わせると、この話は出来過ぎ以上の意味を持つのかもしれない。

 太田道灌の墓は越生にもある。著名な人は分骨されることが多いので、何か所かに墓があることが多い。この地では「龍穏寺」の小高い墓所に埋葬されている。

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山間にある龍穏寺。境内には山吹とシャガが多く咲いていた

  前述したように、道灌の父親はここ越生で隠居生活を送っていたので、父子は並んで眠っている。太田道灌の往時の権勢を思うと墓はあまりにも小さいが、この謙虚さが彼にあったなら、もっと違った形の道灌像が歴史に残ったであろう。

 

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道灌とその父の墓。思いのほか小さい

五大尊のツツジは見事に咲き誇っていた

 五大尊の山すそにある公園には、10種類、約1万本のツツジが植えられている。”関東一”をうたっているが、その真偽はさておき、例年、大型連休時に咲き誇るツツジ群は今年も健在で、見事というほかはない。中には樹齢300年以上という”古木”もあるが、ツツジは樹齢が1000年といわれているので、300年といえばまだ”壮木”かもしれない。

 ツツジは普通の街中の街路樹や庭木としていたるところで見られるが、そのほとんどが刈り込まれているため、ツツジは低木と思っている人が多いようだが、実際には5mほどの高さになる樹木なのである。

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里山の斜面を利用して植えられている。見ごたえはあるが、”歩きで”もある

 五大尊の境内には、”札所巡拝碑”がある。四国八十八カ所霊場だけでなく、西国・坂東・秩父百観音霊場の「写し霊場」コースが整備されている。ツツジを見物しながらコースを巡ると、全国の霊場を巡るのと同じご利益があるとされている。私は本場の四国八十八カ所霊場をすべて回ったことがあるが、幼いころからの習性として、お参りは一度もしたことがないので、ご利益を受けたことがない。

 五大尊は密教系で、不動明王降三世明王大威徳明王、軍荼利(ぐんたり)明王金剛夜叉明王という五大明王を指すとのこと。五大尊堂と霊場写しコースを巡り、お祈りし、かつツツジの美しさに触れれば、きっと良い事があるだろう‥‥多分あるいは、もしかしたら、運が良ければ‥‥

小さな滝は深い森の中にある

 越生梅林のある里山道からゆっくりとすそ野を上って行くと、”黒山三滝”に通じる道に出会う。「黒山三滝入口」の標識があるのですぐに分かる。道の右手には駐車スペースがあり、この日は満杯に近い車が止まっていた。滝までは、ここから三滝川に沿うだらだらとした坂道を上って約15分で最初の滝である「天狗滝」の入口に到達。

 天狗滝は、三滝では一番落差があり約20m。が、岩石が崩落しやすい場所にあるため、滝近くまで行くことはできない。滝の近くまで寄らないとその全貌を見ることはできないのだが、”ここから先は立ち入り禁止”の言葉を無視してまで前に進むほどではないと思ったので、立ち入れるぎりぎりの地点から滝を見上げた。今年は川、沼、池、湖の多くで水量が不足しているため、この滝もかろうじて水が落下しているといった状態であった。

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左から女滝、男滝、天狗滝。水量の少なさが迫力を減じている

 天狗滝入口から男滝・女滝まではあと数分。昔ながらの風情の土産店の前を過ぎると滝に出会える。上方にあるのが男滝(落差10m)、その下にあるのが女滝(落差5m)。ここも水量が極めて乏しかったので、迫力という点では感じ入るものはなかった。が、周囲の森を見回すと、その急勾配といい、足場の悪さといい、整備されたハイキングコース以外、上るのは極めて困難と思えるほど森は深いようだ。

 それもそのはず、この黒山一帯は、以前から修験道の修行場として使われており、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が開いたとも言われている由緒正しい修行場なのである。

 滝自体はレッドチャートと御荷鉾(みかぶ)緑色岩との境に形成されている。特に天狗滝ではチャートの赤い岩肌がよく見えるはずだが、あまりにも苔むしているため確認は難しかった。一方、三滝川、その本流筋の越辺(おっぺ)川では、緑色岩が河原に多くころがっている。

 駐車スペースの車の多さに比べ、滝を訪れる人は極めて少なかった。黒山三滝からは奥武蔵グリーンラインの傘杉峠に抜けるハイキングルートがあるので、そちらに向かったのかもしれない。一方、駐車場で出会った人々はハイキングのいでたちではなかったので、近くの”古式ゆかしい”お店で時間をつぶしていたのかもしれない。

峠道にある奥武蔵グリーンラインを行く

 黒山三滝から東秩父村に抜ける”奥武蔵グリーンライン”は尾根筋を進む林道で、道はかなり細い。落石も多い。さらに何度もハイキングコースと交錯しているので、事故の危険性もある。が、ここをあえて進むのには訳がある。ところどころであるが、景色が素晴らしいのである。

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顔振峠からの眺め。大地の皺がよく見える

 三滝から林道を進み、最初に出会うのが顔振(かぶり、かあぶり、こうぶり)峠。標高は500m。この高さが具合良く、前方に広がる幾重もの尾根筋や丘陵が「大地の皺」のように見える。数年前、峠の茶屋で知り合ったお爺さんとその皺の数を数えたら13本もあった。ここより低い場所では手前の山が視界の先をふさぐので見える皺の数は少ない。ここより高い場所では、皺の凹凸がはっきりしなくなるので、皺を数える動機が希薄になる。

 義経や弁慶の一群は、奥州へ逃れる際にこの道を通ったそうな。この峠から見る景色があまりにも素晴らしく、前に進む足をしばしば休めてこの景色を見るために振り返った。ここから”顔振”の名がついたそうな。

 この日は雨あがりの束の間の晴れ間だったので水蒸気が立ち込めていたためか、視界良好とはいかなかった。それでも、13筋目の丹沢山塊もかすかながら見えた。写真の右手にある、この中では一番高い山が大岳山(おおだけさん、1267m)。私の地元では”キューピー山”と呼んでいて、多摩地区中部に住む人々にとっては自分の位置を知る”ランドマーク”になっている。が、ここからではとても”キューピー”の頭には見えない。ちなみに、峠の茶屋のご主人に山の名を尋ねると、「大岳山かも」という面白くもなんともない答えが返ってきた。確かに、ここからでは山のコブ程度にしか見えない。この写真にはないが、この右手には正三角形の頂上を持つ蕎麦粒山(そばつぶやま、1473m)がよく見え、これが顔振峠のランドマークになっているのだ。

峠道を歩く~峠の向こう

 道はかつて、異界につながる恐るべきものと考えられていた。漢文学者の白川静によれば、”道”の字の首は、異界の人の首という意味を表し、しんにょうは行くを表す。つまり、道を行くときは異界の人の首を捧げ持ち、それを呪力として邪気を払いながら進むのである。道は他者との交流によって豊かになるものとして存在するのではなく、なるべく忌避するものであったようだ。

 こんなことを最高の釣り仲間であったN氏(故人)に話をしたところ、「それなら、峠道であればもっと奇怪なものに多く出会えるはず」と言い、人生の最後に作る予定の映画を『峠の向こう』にすることにしようと、彼は決然した。

 良い景色を求めてグリーラインをさらに進み、関八州見晴台(標高771m)に行くことにした。車を路肩にとめ、約10分坂を上ると見晴台に着く。

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見晴台への峠道。雨上がりなのでやや滑る

 峠道を歩いていたとき、再びN氏のことを思い出した。

 N氏は都心の一等地に豪邸を構える大金持ちの映画監督(担当はドキュメンタリーと美術)。一方の私は、多摩のド田舎のあばら家に住む、しがない予備校講師(担当は数学と政治経済)。N氏は私の15歳上。普通なら一緒にいるはずのない二人を結びつけたのは”釣り”。大きな磯釣りクラブに入り、そこでN氏と出会い、意気投合した。磯釣りはクラブ員と出掛けることが多かったが、渓流釣りには二人で行った。彼の車で行くときはいつもクラシック音楽がかかり、私の車のときは中島みゆきオンリー。彼は大酒のみで私は下戸。

 彼は渓流釣りのときは、できるだけいろいろな山の渓谷に出掛けることを望んだ。よく釣れる場所に出会っても、同じ場所へ再訪することは望まず、常に新天地を求めた。その理由は、『峠の向こう』のロケ地探しも兼ねていたからだった。大金持ちの彼は、気に入った山があったらそれをひと山ごと購入するというのだ。そしてそれを自分の映画の舞台に適するように改造するらしい。実際、以前に山に立てこもるゲリラを描く映画を作るときも、山を買い取ったとのことだった。

 が、知り合いの釣具店の若旦那にそそのかされて二人は鮎の友釣りを始めると、完全に釣りの方に熱中し、映画のことが話題に上ることは少なくなった。それでも、鮎釣り場に出掛けるときには山々を通過し、釣りをしているときにも山は常に目に入るので、話題から消えることはなかった。

 小さな集落に住む少女は、自身の好奇心から峠の向こうにあるとされる村に出掛け、そこで修羅の世界に出会う。這う這うの体で逃げ出した少女は自分の集落に戻るが、そこはさらに過酷な修羅の世界に変化していた。峠を越えるたびに村の世界は畜生→餓鬼→地獄と落ち込んでいくというプロットをN氏は私に語り、「脚本は君に任せたから」といってイワナやアユの骨酒をひたすら飲みまくって寝てしまうという日々が続いた。

 結局、映画は完成することなく、N氏はすい臓がんでこの世を去った。彼が死の間際に残したテープには、中島みゆきの『誕生』がエンドレスに録音され、その音楽に重ね、私への感謝と映画が日の目を見なかった悔悟の言葉が語られていた。

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峠の向こうには、やはり魅力的な景色が広がっていた

 関八州見晴台に到着し、周囲を眺めた。ややガスっていたため決して眺望環境は良くなかったが、それでも東京都心、丹沢山塊、秩父連山、日光連山が見て取れた。

 峠の向こうには綺麗な景色が広がっていた。しかし、詳細までは見えなかった。

 細部(ディテール)に宿るのは、はたして神々なのか、それとも悪魔なのか、私には知る由もなかった。

 

徘徊老人~渡良瀬紀行

渡良瀬川との出会い

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渡良瀬川の右岸から流れを望む

 渡良瀬川の名前を知ったのは、小学生のときだった。本を読むことはまったくなかったが、地図や図鑑を見るのはさほど嫌いではなかった。悪天のために外で遊ぶことができなかったときは、兄と一緒に地図帳を広げ、地名探しゲームをよくおこなった。片方が地図帳の中から気になった地名や川、湖、山の名を読み上げ、それをもう一方が地図の中からそれを探すという他愛もない遊びなのだが、これが結構面白かった。地図の上だが、このころからすでに徘徊の兆しがあった。その遊びの中で、もっとも印象に残った川の名前が”渡良瀬川”だったのである。

 中学生になると、この川は「音の清らかさ・情緒深さ」とは異なり、長い間つらく厳しい戦いの舞台となっていた(現在も解決したわけではない)のだということを知った。断片的ではあるが、「足尾銅山鉱毒事件」「田中正造」「天皇への直訴」「谷中村の廃村」「渡良瀬遊水地」という言葉が情報として目や耳から入り込んだ。それでも「わたらせがわ」という音は、私にある優美で甘美な思いを抱かせ続けた。

 放浪が始まった高校時代からは、旅の友が『おくのほそ道』になったため、渡良瀬川についての思いは次第に消え、たとえ"マドレーヌを紅茶に浸し"ても、あの「音の清らかさ」は戻ることがなかった。もちろん、「鉱毒事件」は日本資本主義の典型的な汚点として満腔の怒りを込めて非難し、そのことを肌で感じ取るため足尾町へは何度も出かけていた。田中正造の”非立憲”に対する批判について学び、併せて田中正造の生家や墓地へも行った。当然、渡良瀬川にはかなり多くの回数、触れていた。しかし、川に対する抒情的な思いが蘇ることはなかった。

 それが、ある切っ掛けにより、渡良瀬川への切なる思いが再び私の心に生じたのである。それは、森高千里の傑作、『渡良瀬橋』を聞いたことからだった。

渡良瀬遊水地に立ち寄る

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遊水地の中核である谷中湖

 渡良瀬遊水地の南側にあって、その中核をなすのが”谷中湖(渡良瀬第一貯水池)”である。地図や航空写真で渡良瀬貯水池を見ると、ハート型をした池があるのがすぐに分かる。ハートの窪みあたりには史跡保存ゾーンがあり、遊水地を造るために廃村になった谷中村の役場跡や住居跡などが残されている。

 渡良瀬川利根川の支流だが、一級河川として流域面積は広く、沖積平野に流れ込むと高低差が小さいので、よく洪水・氾濫を起こした。鉱毒を含んだ水があふれ各地の田畑を汚染した。渡良瀬遊水地、とりわけ谷中湖はここで氾濫を抑え、また鉛毒を沈殿させて下流域、つまり利根川へ汚染が広がるのを防ぐ役割を持った。このために、利根川との合流直前の地にあった谷中村を潰したのだ。

 また渡良瀬川は、利根川との合流直前に思川(おもいがわ)と巴波川(うずまがわ)という大支流を合流させているので、水量は相当に豊富だったのだろう。このために、谷中村一帯が標的にされたのである。それにしても、渡良瀬川といい思川といい、なんて抒情的な名前を付けたのだろうか。

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写真右手が思川、左手が渡良瀬川

 私が出かけた日は午前中、雨模様であったので、谷中湖も両河川の合流点も雨に煙っていて見通しは悪かった。

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谷中村役場があったところ。土盛りされているのが分かる

 村役場や住居があった場所は必ず土盛りされている。これはもちろん、洪水から住居を守るための工夫である。史跡保全ゾーンには、こうした土盛りが点々として残っている。確かに、渡良瀬川の洪水・氾濫には厳しいものがあったことがうかがえるが、それだけなら、中部地方木曽川長良川河口付近にみられる”輪中”という対処の仕方があったはずである。やはり、「鉱毒の沈殿」という条件があったために、広大な湿地帯と沈殿池が必要とされたのだろう。

 谷中湖一帯は現在、運動公園や釣り場、散策路などが整備されている。また、渡良瀬遊水地は「ラムサール条約」の保全地に認定されている。しかし、土中には依然として多量の鉛毒が含まれていることを忘れてはならない。

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田中正造の墓がある雲龍寺には記念碑や救現堂もある

 田中正造の墓(他にもあるが)は、渡良瀬川左岸の雲龍寺(群馬県館林市)にある。ここは彼の運動の拠点でもあった。衆議院議員選挙に6回も当選した田中ではあったが、資産をなげうって反対運動を率いたため、72歳で病死したときは一文無しで、残ったものは袋ひとつ。中には聖書、大日本帝国憲法、小石3個などだけだった。

 私には墓参りの習慣はないが、ここ十数年、渡良瀬川を訪れたときは、ほとんどといっていいくらい、この寺に立ち寄り田中の活動のことを想う。そして、”小石3個”の重さをずっしりと感じる。

足利市の中央には渡良瀬川が滔々と流れる

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足利といえば足利学校をまず思い浮かべる

 足利市は観光地として年々、訪れる人を増やしているが、その多くは「あしかがフラワーパーク」で、今頃は”藤棚”で大賑わいだろう。私にとって花は好きなもののひとつだが、わざわざ混雑する場所にはいきたくないので、”日本一の藤棚”にはあえて近寄らなかった。

 足利市の中心部は渡良瀬川の北側(左岸側)にある。足利荘の発展に大きく寄与したのは足利尊氏だろうが、その基礎は彼の先祖が築いた。市街地の観光スポットとしては「足利学校」と「鑁阿(ばんな)寺」が代表的。これらはお隣同士なので、周囲の石畳の道ともども、散策には絶好の場所だ。ただし、学校の方は入学料(参観料420円也)を徴収される。

 学校事務局が発行するパンフレットによれば、この学校は”日本最古の学校”とのことだ。創建は奈良時代とも平安時代とも鎌倉時代とも言われてはっきりしないが、確実な資料としては室町時代の上杉憲実(のりざね)がこの学校を再興したことが記録にあるらしい。学校の住所は”足利市昌平町”とあるので、ここはすぐに「儒教」を中心にした学校であったということが分かる。昌平は孔子の生誕地だからだ。校内にある”孔子廟”は現在改装中なので、その姿を見ることはできないが、以前に見た記憶によれば、なかなか見事な建築物である。

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鑁阿寺の太鼓橋と山門。この奥に国宝の本堂がある

 鑁阿寺は学校のすぐ近くにある。元々は足利氏の居宅跡で、周囲を土塁と堀が取り囲んでいることから”城”とも目されており、実際、日本100名城のひとつに数えられている。鑁阿(ばんな)は難読漢字だし、難筆漢字ではあるが、何故か、漢字の書き取りテストではいつも平均点を下回っていた私はこれが書けてしまうのである。何しろ、”憂鬱”だって簡単に書けるのだから‥‥これにはトリックがあるのだが、これを教えると誰でも簡単に書けるようになるので内緒にしているが。

 鑁阿は、ここを寺とした足利義兼の戒名である。本尊が大日如来というから宗派は真言宗である。国宝(2013年に指定)である本堂と大きなイチョウが見事だが、私のお気に入りは入口にある橋と山門だ。そして堀には大きなコイ(人によくなついている)が多数泳いでいる。この日も、本堂を参拝する人より、写真のようにコイやハトに餌を与える人の方が多かった。仏のご利益よりも、現世の束の間の楽しみの方が価値が高いのだろう‥‥私も因数分解すれば同類項である。

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若者に人気がある織姫神社

 学校や鑁阿寺がジジババに人気があるとすれば、織姫神社は若者が多く訪れる場所だ。足利市は織物産業の長い伝統があるので、”織姫”を祭るのは当然のことだろうが、ここが人気スポットになっているのは、ここの地理的要素と派手な色彩と「宣伝上手」なことからであろう。

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織姫神社から渡良瀬川渡良瀬橋を望む

 ここは織姫山の中腹にあり眺めがかなり良い。なにしろ渡良瀬川のみならず、森高千里の「聖地」である”渡良瀬橋”を望むことができるからである。ここに来るには230段ほどの階段を上がるのだが、階段の装飾はとても良くできているので、疲労度を若干、和らげることができる。なお、この階段はトレーニングにもよく使われるようで、神社の御触れには「トレーニングより参拝客が優先」というのがある。

 朱塗りの派手な外装はふもとからもよく見え、入口には「ひめちゃんひろば」が整備されている。そして境内には「恋人の聖地」(2014年に選定)として「恋人の聖地の鐘」(西伊豆の恋人岬や能登の恋路海岸にあるのと同類)もある。縁結びの神としても知られ(何しろ織女といえば彦星なので)ここを訪れる若いカップルや良き出会いを求め祈る若い女性の姿も目立つ。

 ここ一帯は「織姫公園」としても整備され、またその周囲はハイキングコースにもなっているので、健康という病を罹ったジジババも多い。なお、神社裏や公園までは駐車場があるので車でも上がれる。楽をして上がる分、ご利益は少ないかも。

森高千里の聖地としての渡良瀬

 「わたらせ」という言葉の響きは森高千里をも惹きつけたようで、彼女は橋を題材にした詞を作る際、自分のイメージにあった橋の名を地図を手掛かりとして探したそうだ。そして、自分のイメージに合致する「渡良瀬橋」の名を見出した。たまたま、足利には学園祭等のコンサートで訪れる機会が何度かあり、その際には渡良瀬橋だけでなく、その周辺の街並みを散策し、歌詞の素材をあれこれ探した。そのひとつが”八雲神社”だった。

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森高千里の聖地のひとつである八雲神社

 八雲神社は「スサノオの命」を祭神とする。スサノオの歌の「八雲立つ」から採った神社名で全国各地にある。足利市にも数社(8社とも言われている)あるようで、神社本庁のサイトで調べたのだが、本庁に登録されているだけでも3社あることが分かった(同系の八坂神社を含めると4社)。したがって、名曲の『渡良瀬橋』の歌詞にある八雲神社がここであるどうかは分からないが、他の聖地との関係上、ここであるとの蓋然性は高い。

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床屋のかどにある公衆電話

 もうひとつの聖地とは、床屋の角にある公衆電話である。上の八雲神社のほど近い所にある。NTTとしては利用度の低いこの公衆電話を撤去する予定だったが、足利市や森高ファン、”渡良瀬橋”という曲のファン(私はここに属する)の強い要望もあって、今現在もポツンと立っている。交差点の近くにあり、かつ、ここは交通量が比較的多いので、写真を撮るにはかなりの勇気が必要だった。

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今回も渡良瀬橋と夕日とのコラボは撮れなかった

 午後2時頃からは渡良瀬川の右岸、5時頃からは左岸の河原に下りて、ずっと流れを見ていた。南風が心地よかったので、風邪をひかずに済んだ。

 夕日に映える渡良瀬橋を撮影したかったのだが、晴れ間は日中のわずかな時間だけで、午後5時前には雲が厚く空を覆ってしまった。川の左岸の砂利場から渡良瀬橋を見つめ、雲の切れ間から日が差して橋を金色に染めることを期待したのだが、西の空がほんのりオレンジ色になっただけだった。

 今回の渡良瀬の旅はここで終わった。

 善と悪、有と無、生者と死者、神の存在と非存在という命題であれば、弁証法的に答えを出すことは可能だろうが、渡良瀬川という名の「心地よい響き」と鉱毒が産んだ絶対悪との関係は、どうしても解きほぐすことはできない。

 それでも、その答えを探すべく、連休後、渡良瀬川の上流部を訪ねる旅が始まる。



 

 

徘徊老人~沼津の海岸散歩する

ここに川終わり、海始まる

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川の左岸から河口方向を見る

 狩野川は、私に鮎の友釣りの楽しさと難しさ、奥深さを教えてくれた。鮎釣りは主に中流域で行うので、沼津市はいつも通過し、伊豆の国市の大仁から伊豆市の嵯峨沢橋の間で竿を出す。今回は、鮎釣りはまだ解禁されていないので通過はせず、沼津市の海岸線をあちこち訪ねて歩いてみた。

 まず、狩野川の河口付近を徘徊した。ここで川は終わり、海に注ぐ。「ここに川終わり、海始まる」は私の造語ではあるが、実を言えば、ポルトガルのロカ岬にある石碑の「ここに地終わり、海始まる」からのパクリだ。ロカ岬はユーラシア大陸の最西端にあるので、確かに「地終わる」は妥当なのだろう。さらに言えば、実際にロカ岬に行ったわけではなく、宮本輝という作家の小説の題名からこの言葉を知っただけなのだ。

 すべての川が海に注ぐわけではない。三日月湖のように、川が途中で消失したり、渇水期の大井川のように、流れが痩せて河口まで届かず、あちこちでプール状になってしまったりすることもある。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」ではなく、「濡れずに渡れる大井川」ということも夏にはよくあるのだ。

 狩野川天城山から一気に駆け下るため、下流域に大量の土砂を吐き出す。また、支流も多く、大見川(鮎釣り好きが喜ぶ)や柿田川(清流好きが喜ぶ)、黄瀬川(歴史好き、忍者好きが喜ぶ)などもあちこちから水を集めて狩野川に注いでいる。川からの土砂は平地を形成する一方、氾濫の危険性をいつもその沖積平野にもたらす。

沼津市の名前を勝手に推理する

 地名の由来を知るのは楽しい。ただすぐに調べるのでは面白くなく、まずは字面から勝手に推理してみることにしている。国立市大田区更埴市のように、字面からではまったく見当違いの推理になることもあるが、これはこれでいいのだ。

 この点、沼津はほぼ、字面から判断しても大筋は正しい答えが出せそうだ。さらに、今回のように沼津のあちこちを歩いてみると、その地形からも多くのヒントを得ることができる。

 「沼」は、上記のように狩野川の氾濫が下流域、つまり現在の沼津市街に湿地帯を形成したことから予想できる。また、富士山が蓄えた膨大な量の地下水が、扇状地の端で湧水となって地上に溢れ出ることも沼を形成する要因のひとつと考えられる。一方で、箱根連山からの火山灰や愛鷹山の山体崩壊などが氾濫原を埋めたので、平地のすべてに沼があるわけではないのも確かではあるが。

 「津」は簡単。津は狭義には港を表す。駿河湾は陸地を離れるとすぐに水深を増すので、港には格好だ。また、駿河湾の奥に位置するので、日和見港としても適地となる。また、水深のある海は、豊富かつ特有の海産物をもたらしてくれるので、漁業も盛んになる。このため、沼津のあちこちに良港が形成されている。

千本松原には何本の松があるのだろうか?

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松原は高い護岸で守られている

 千本松原は沼津市から富士市まで10キロほど続く。松は防砂林や防風林としてよく用いられるので、日本各地に「~の松原」の名がある。同じ静岡県には「三保の松原」があり、そっちは「日本三大松原」のひとつに数えられている。三保には羽衣伝説があるので知名度が高いのは致し方ないが、規模ではこっちの松原のほうが断然大きい。ただ、こちらは写真のようにかなり高い護岸が海岸との間にあるので、景観は劣るかも。 

 開発のため、この松原を伐採する計画が持ち上がったとき、先頭に立ってこれを阻止したのが、沼津の海をこよなく愛し、この地で生涯を終えた歌人若山牧水である。牧水は、酒と旅をこよなく愛した。肝硬変で43年で人生を終えたのは酒のせいだったのだろう。彼の旅は多くの地に足跡を残している。私自身、旅は大好きなのだが、いたる場所で、”牧水ゆかりの地”であることを証明するかのような碑を見ると、「こ奴、こんなところにも出没したのか」と感心するやら呆れるやら、だ。

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 牧水は10代のときから歌人として名をなしていたのでその作品は多いが、私が覚えているのはこのふたつの歌しかない。”幾山河”の方は、旅好きならばすぐに共感できるし自分でも似た作品は浮かびそうな気もするが、”白鳥(しらとりと読んでください)”の方は、天才的という他はない。海を眺めていると、たくさんの白鳥が飛ぶ場面によく遭遇するが、空の青が透き通れば通るほど、海の群青が濃ければ濃いほど、白鳥の存在は風景から浮き出てしまう。そんなとき、いつも「あれはオレなんだなぁ」と、心の中で牧水のこの歌をひとり語りしている。

 千本松原は「千本浜」ともいわれ、「白砂清松100選」に選ばれている。試しに100選を調べてみたら、私は75カ所、目にしたことがあると分かった。しかし、その風景を記憶に残しているものは意外に少ない、ということにむしろ驚いた。

 清松はともかく、白砂はここ千本松原には妥当しなくなっている。この海岸の砂や砂利は、富士川が海に送り出したものが海流によって東側に運ばれて狩野川河口までの一帯に蓄積されたものである。が、駿河湾沿岸は海流の影響が強いためか、今では砂は少なく、小砂利や中砂利ばかりとなっている。さらにその砂利ですら潮の影響を受けて量が減少している。「玉石を持ち帰らないでください」という注意書きを出さなければならないほどの減少なのだ。もちろん、県では海岸線を養生するため、適宜、小砂利を運び込んでいるようだ。

 一方、松の数は開発によって一部「虫食い」状態にはなっているものの、まだ30万本くらいはあるそうなので、「清松」は維持されている。

 西伊豆の一部も沼津市

 沼津市というと東海道にあると考えそうだが、行政区域はかなり広く、伊豆半島の西北部や西伊豆の一部も市町村合併によって沼津市域となっている。伊豆半島の成り立ちを語り始めると話の終わりが見えてこないので今回は避けるが、とにかく火山とプレートの移動が作り出した半島なので、海岸線はすこぶる変化に富んでいる。この変化が港を生み、また釣り場を生んでいる。

 北向きの海岸線には釣りに適した堤防が多かったのだが、釣り人の”マナーの良さ”が「釣り禁止」区域の爆発的増殖をもたらしたため、竿の出せる堤防は限定的となっているのがとても残念だ。

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木負(きしょう)堤防はイカ釣り師でいっぱい

 三津(みと)シーパラダイスを過ぎ、県道17号線を西へ向かうと、長井崎、赤崎という連続した岬に出会う。それまでも江浦湾、内浦湾と複雑な海岸線を通ってきているので、この辺りから、ここがかつて海底の火山群であったことが想像できる。

 赤崎の先端部から対岸の江浦湾方向に突き出ているのが、写真の木負堤防である。長井崎や赤崎辺りは木負という集落名を持っている。木負は「きしょう」と読むが、これは「スルメ」を「アタリメ」、「閉会」を「お開き」というがごとくなのだろう。言葉は言霊なのだ。

 私は、この堤防では釣りをしたことはないが、のぞき見は何度となくしている。かつては投げ釣り(シロギスなど底生魚を狙う)やウキ釣り(メジナクロダイなど宙層にも移動する魚を狙う)の釣り師が大半だったのだが、現在は、イカ(特にアオリイカ)を狙う人が圧倒的に多い。正にイカ様様なのである。

 対岸(内浦湾方向)の山々を見ても、その様相はやはり火山群か、プレートの移動が生んだ大地の皺か、なのであろう。

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足保港堤防。北向きの釣り場では一番人気

 西浦と言えば”寿太郎みかん”で有名だが、釣り場としては、足保港にある堤防がこの一帯では一番人気がある。とくにカゴ釣り(大きなウキと餌カゴを付けて遠投する)が盛んで、底近くを遊泳するマダイを狙う。港の前方には養殖イケスがあり、常時、餌が投入されているので、天然のマダイもそのおこぼれを頂戴しようと集まる。そんな欲張りというか横着というか、そんな魚たちを釣り上げようとしてイケスの周辺に仕掛けを投入するのだ。しかし、今春はどの海でも低水温に悩まされているので魚の動きは良くなく、どの釣り人に聞いても「全然ダメ」という返答ばかり。

 この港は景色も”いかにも静岡”というもので、対岸には沼津市が誇る愛鷹山、その向こうには頭を雲の上に出している富士山 が見える。この日(18日木曜日)は昼近くからどんどん雲が湧いてきたので、天辺が少し覗けるだけだったが。

海流が造った不思議な岬、大瀬崎

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すっかりダイビングスポットになってしまった大瀬崎

 大瀬崎(おせざき)は、伊豆半島の西北端にあって、対岸の沼津市街方向に突き出ている。南伊豆の石廊崎近くには同じ「大瀬崎」(こちらは”おおせざき”と読む)があり、磯釣りファンには「おおせざき」のほうが馴染み深い。が、近年、といってもかなり前からではあるが、「おせざき」は絶好のダイビングスポットとして知られるようになり、今では大瀬崎といえば「おせざき」を指すのが当たり前になっている。

 海の透明度はかなり高く、大瀬崎海水浴場は水質が日本一になったこともある。岬に抱かれている浜なので、波もかなり穏やか。それでいて、岸から少し離れると水深は相当あるので、初心者からベテランまでが安心して水中散歩を楽しめるそうだ。

 外海側は潮がかなり速いので、十分に訓練されたダイバーでないと危ないらしい。が、他のスポットでは船で沖に出てから海に入るというのが通常なのだが、ここでは浜からすぐに好スポットへ行けるというのが魅力とのこと。

 15年ほど前は、よくこの外側のゴロタ石浜で半夜釣りに出掛けた。15~20時頃まで竿を出し、10~15mほど沖にあるカケアガリ(水深が段々と増す斜面)を狙うのだ。支度が整い、これからが釣り本番という時間になるとダイバーが海から上がってくる。他の場所では、ダイバーに「魚はいますか」と聞くと、「この辺にはあまりいない」という返事が常なのだが、ここだけは必ず「たくさんいますよ」という答えが返ってくる。それほど魚影が濃いのだ。釣れないことには変わりはないのだけれど。

 大瀬崎は、海流が造った岬だ。元々、先端部にある部分は離れ小島(琵琶島といったらしい)だった。それが、海流が南から西伊豆の海岸に沿って砂を運び、その砂が伸びて (これを砂嘴”さし”という)小島との間をつなぎ岬を形成した。

 黒潮は日本列島に沿って南から北東方向に進むのだが、伊豆半島の先端部に当たった一部の流れは、分枝流となって伊豆半島の西側を北上する。この流れが、大瀬崎では北方向に砂嘴を形成したのである。

 岬の先端部(小島だった場所)には「神池」がある。この池は不思議なことに純淡水なのである。池には淡水魚がたくさん泳いでいる。この池の形成理由は不明だそうだが、湧水以外は考えられないだろう。入り口には元気そうなオバサンが受付(入場料100円)をやっているが、もしかしたら、このオバサンが毎日、バケツで水道の水を運んでいるのかもしれないが。

 戸田港~カニイカと夕照と

  戸田(へだ)地区は沼津市に入る。2005年以前は戸田村だったのが沼津に編入された。戸田の南は温泉と金山で有名な土肥である。沼津市の行政区域は西伊豆のかなりの部分まで伸びているのだ。

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タカアシガニは世界最大のカニ

 戸田といえば「タカアシガニ」が有名だ。最大幅は4m近くになるというから超大型のカニである。食用とされるのはそれほど大きくはないが、それでもズワイガニなどとは比較にならないぐらい大きい。深海性のカニなのだが、駿河湾は水深があるので、このカニが戸田ではたくさん水揚げされたのだ。大きい割には足が細く、味もやや水っぽいと最初は敬遠されたそうだが、食してみると案外おいしい。

 最初に食べたのは25年ほど前だが、値段の割にはおいしくないと聞いていたので注文をためらったのだが、同行の釣り名人が”意外においしいよ”というので、一番安いやつを頼んだ。いざ食べてみると相当においしかったので、これなら中ぐらいのを頼むべきだったと後悔した。

 近年は不漁とのことで、何軒かある食事処の水槽にも姿はほとんど見受けられなかった。店に入れば中にある水槽で実物が見られるのだが、今回は財布の中身と相談した結果、店の看板の模造物で我慢した。

 

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港内の突堤で釣り上げられた大きなイカ

 戸田港も他の港と同様に複雑な地形を有している。また、港の出口は大瀬崎同様の形をした砂嘴で大きくふさがれている。このため、港内はとても波静かなので、かなり大きな船が停泊している。40年以上も前、この港を初めて訪れたときはその透明度の高さに感激したものだが、その後に訪れるごとに透明性が減じていくのは寂しいものだ。

 波静かな港内では釣りが盛ん。水深のある港内には小魚が豊富なためか、大きなブリがよく入り込んでくるそうで、足保港で見たようなカゴ釣り仕掛けで、このブリやマダイといった魚を狙っている。

 港を大きくふさいでいる御浜岬にある諸口神社前の突堤では、ひとりの釣り人がイカを狙って竿を出していた。今の時期は大型のアオリイカが狙えるとのこと。アオリイカ(バショウイカともミズイカとも)は大型になり、イカとしてはもっとも美味とされている。釣り人の特権として何度も食べたことがあるが、この上なく上品な味わいだ。

 この釣り人の竿は大きく曲がっていた。活きたアジをハリに掛けて泳がせ、そのアジをイカが抱き着く。通常の釣りとは異なり、イカをハリに掛けるのではなく、アジに抱き着いたイカを少しずつ寄せてくるのである。このため、強引に糸を巻けばイカはアジを離し、糸を緩めすぎてもやはり離す。常に糸にテンションを掛けながらゆっくりと寄せてくるのである。

 私には絶対に真似のできないほど慎重に寄せてきた結果、見事に取り込んだのが3キロ近くある大型のアオリイカだった。海面近くまで来るとイカは最後の抵抗を示すように墨を何度も吐く。このときまではヤエンといってハリの付いた仕掛けを送り込んであるので、少々の抵抗ではイカは離れることはない。

 私は、その大きなイカを目の当たりにしたとき、感嘆の言葉を発するのではなく、ヨダレを漏らした。

戸田の夕照

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港内から御浜岬方向を望む

  18日は次の日の釣りに備え、戸田港にあるビジネス旅館に泊まった。部屋の窓からは沈みゆく夕日が見えたので、カメラを持って外に出てみた。下層に厚い雲が垂れ込めていたので金色に輝く海をとらえることはできなかったが、夕照を浴びる船と海とをなんとか押さえることはできた。

 イカと夕照は捕らえられたので、あとはカニだ。当然、夕食はタカアシガニという成り行きになるはずなのだが、近くにある漁協のス―パーのパンとおにぎりで、腹の虫を抑えることにした。

水門とメビウスの輪

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展望水門とメビウス

 沼津港の出入り口には津波の侵入と、避難所として役割を果たすための大型展望水門”びゅうお”がそびえ立っている。展望台の位置は30mの高さがあるので、避難所としての役割は十分に果たせそうだ。普段は観光客相手の展望台として公開されている。夜間にはライトアップもされるそうだ。

 水門は「みなと」とも読み、この文字だけで港を表すこともある。沼津市場内から歩いて水門を望んでいたとき、台船の上にあった小舟の名が「メビウスⅢ」であり、その横に「メビウスの輪」が描かれていることに気が付いた。

 舟は台船の上にあってはその役割は果たさず、海の上に浮かんでこその舟なのである。舟が水門を超え、海に出たとき初めて舟は舟としての命が始まる。この限り、水門は海への出口であり海への入口である。水門は出口であると同時に入口として存在している。

 メビウス号にとって、水門は「メビウスの輪」の表なのか裏なのかは誰にも分からない。もちろん、メビウス号自身にとっても。

徘徊老人・国分寺崖線を歩く

崖線は私の青春の前に、いつも立ちはだかっていた

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国分寺跡から桜の向こうにある国分寺崖線の森を望む

 今ではとても信じられないことだが、半世紀ほど前の私にも青春時代があった。

 16歳のころ、市の北側に住む少女(同学年)の家を訪ね、国分寺跡のある方へ散策をした。今とは異なり、林や畑の中に住宅が点在している風景だったので、視界にはよく国分寺崖線の森が入ってきた。並んで歩いてはいるものの手をつなぐことはなく、緊張の壁がいつも二人の間にあった。道が細く時折、車や自転車が通りすぎる際、二人の肩が触れ合ったり、手が触れ合ったりすることもあったが、それ以上近づくことはなく、そんなときは決まって無言の状態が続いた。

 会話は少なかった。その少女はもともと口数は少なく、一方、私は男友達といるときは相当に雄弁であったものの、女性の前ではいつも緊張して寡黙になる。さすがに少女とは少しは話せるようになってはいたが、共通の話題を見出すまでには至らなかった。高校は別々だった。少女は学校生活の話を少しした。私と言えば、男子だけの学校だったし、学校生活には何の希望も抱いていなかったので、その手の話は何もなかった。

 私は大抵、前に連なる高台(国分寺崖線)を見て、その段丘崖の成り立ちを話した。また、小学生の時、その段丘崖の向こうまで遠征し、そこに住むベーゴマの名手(のちに中一で同級生になった)に勝利したこと、”たまらん坂”の近くの崖で「ターザンごっこ」をして遊んだことなどを話した‥‥まったく、場にふさわしくない、つまらない話題だった。

 国分寺跡が近づくと人影はほとんどなくなった。私の緊張感は高まり、ますます、話題は見いだせなくなった。思い切って少女の手を握り、明日に向かう覚悟を決めれば良いのにといつも思っていたのだが、それ以上、崖線に向かう勇気も一歩踏み出す覚悟もない私は「そろそろ戻ろうか」という言葉を口にするだけだった。少女のため息がかすかに聞こえた。

 もしもあの時に戻れたら、今度はきちんと前に進むことができるだろうか‥‥いや、戻れたとしても、今度は、カントの先験的弁証論や『チボー家の人々』の読後感想を延々と語るに過ぎないだろう。

 あの日の胸の高鳴りや締め付けられるような胸の苦しみ~今は持病として不整脈を抱えているが、もしや、あの日々に発症したのかも~馬鹿な話だ。

崖線が私のメインフィールドだった

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幼少時、私を育ててくれた府中崖線

 自宅からすぐ近くに段丘崖があった。地元では崖のことを「ハケ」と呼んでいた。府中崖線である。大国魂神社裏や今では競馬場の駐車場になっているハケは、5~10歳ごろ、ほとんど毎日、遊んでいた場所だ。とくに後者(写真の場所)は今とは異なり、もっと崖は急で、もっと下草は少なく、もっと木が多かったので、ターザンごっこをするには最適な場所だった。木によじ登って縄を結び、その縄をつかんで、木から木へと移る修行をしていた。ほとんど猿のような生活だったので、のちのちも私は「多摩のサル」と呼ばれていた。

 もっとも、猿のようにうまく飛び移ることはできないので、ハケ下に落ちることがしばしばだった。絶えず怪我をしていた。「刷毛に毛があり、禿に毛がなし、ハケに怪我あり」が日常だったのである。

 

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国分尼寺跡から段丘崖へ

 小学校高学年からは国分寺崖線まで遠征することが多くなった。同級生が崖線の上に住む生意気なガキ(写真の場所の崖上方向にある団地に住んでいた)にベーゴマの勝負で負けたというので、その敵を討ちに出征した。その地域は小学校こそ学区が異なっていたが、中学校では同学区になるので、同窓生になる前に早めに勝負を決めておく必要があった。

 勝負はあっけなくついた。もちろん、私の勝ちである。なんとそのガキとは中一のときに同級になった。かつての敵もそれからは仲間となった。こちらとしてはベーゴマの技を伝授してあげたかったのだが、中学生になってからは、さすがにベーゴマ遊びはしなくなっていた。技術の継承はそこで絶えた。残念なことである。

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忌野清志郎の歌でも知られている「たまらん坂

 国分寺崖線もテリトリーに入って以来、急坂として名高かった「たまらん坂」にも出かけることがあった。ターザン仲間の親せきが坂上に住んでいたので、その家にお菓子をねだりにいった折に、「多摩のサル」としての務めを果たしたのだ。

 坂上から望むこの坂はとても急に見え、「これはたまらん」と思っていたが、こうして改めて見上げてみると、国分寺崖線を上り下りするよくある坂のひとつにすぎないと思えてしまう。実際そうなのだが。

国分寺崖線を知らない人々

 国分寺崖線の名前は意外に知られていない。地元から国分寺に出掛ける時も小金井に出掛ける時も坂を上ることは知っているのだが、その坂と崖線の関係は知らないのだ。兄に聞いても、姉に聞いても、小中学校時代の知人に聞いても、近所の知り合いに聞いても、その名は知らないのだ。みんな「多摩のサル」なのかもしれない。

 だから、「たまらん坂」は知っていても、府中街道を地元から泉町交差点に進むときに坂があることも、国分寺街道を国分寺駅に進むバスが、駅の手前で急坂を上ることも、小金井街道小金井駅手前に前原坂という長い坂があることも、東八道路を自動車試験場から三鷹方向に進むときに坂があることも、国立天文台の前に坂があることも、神代植物園に行くときも、深大寺へそばを食べに行くときも、国道20号線を柴崎から仙川方向に進むときも、おしゃれして二子玉川に出掛けたときもみな坂があり、等々力渓谷を散策するときも、東急目黒線多摩川駅から多摩川を渡るときの急カーブが切通しを通ることを知っていても、それが、国分寺崖線がもたらしたのだということはほとんど知らない。皆、すでに「猿の惑星」の住人なのである。

国分寺崖線の成り立ち

 国分寺崖線は、古多摩川の蛇行によって武蔵野台地が削られてできた段丘崖の連なりである。前に述べた府中崖線(立川崖線)も成り立ちは同様で時代が異なるだけだ。

 多摩川は「暴れ川」として古くから知られていた。今では小河内ダムや護岸の整備など治水が進んでいるが、近年では狛江市の氾濫(山田太一原作の『岸辺のアルバム』でも知られる)も記憶に新しい。

 多摩川は源流域から青梅付近までは相当の高低差を短い距離で一気に下る。そこから広い扇状地を作ったため、緩斜面では自分で行き場を見失い、おろおろと蛇行するのだ。ただし、右岸側(川が下るときの右手側。川の右岸左岸を知らない人は多く、釣り人でもほとんど知らない。釣り人も多くはサルなのだ)には今話題の『万葉集』に「多摩の横山」とある多摩丘陵があるので、川はいつも左岸側に寄って蛇行する。こうして国分寺崖線や府中崖線(立川崖線)を形成した。

 国分寺崖線の痕跡が分かるのは、武蔵村山市の国立村山医療センター付近から、大田区田園調布にある多摩川駅付近までだ。村山辺りでは高低差が少なく、その位置を断定するのは難しい。実際、村山説もあれば立川の砂川説もある。詳しい調査と同定は地質の専門家に任せるとして、私のような単なる”崖線好き”は高低差の連なりを探して徘徊するのが楽しいのである。

 詳細は省くが、明確な段差がある立川市幸町にある古民家園の横手からその段差の連なりをたどった結果、私は武蔵村山市の医療センター付近を国分寺崖線の始点と考えたのである(下の写真参照)。右手には「さいかち公園」がある。

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この道の下方に小さな段差がある。大きな樹木が崖線の森の名残り?

国分寺崖線の始点から国分寺跡までを歩く

 崖線の距離はとても長く、寄り道も多くなるので全部を完歩するには数日かかる。今回は崖線の前半戦ぐらいの長さでしかないが、それでも11日、12日の2日かかった。もっとも初日は3時間ほどしか掛けなかったが。

 崖線は「さいかち公園」あたりから始まり、南東方向に進み、大南公園から佼成霊園、西武線玉川上水駅付近を通る。さらにそのままの方向で立川市幸町にある古民家園辺りに出る。

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古民家園の西側の道。この辺りまで来ると崖線ははっきりと姿を現す

 古民家園の東側には「川越道緑地」があり、ここの雑木林は、いかにも段丘崖の森という風情を見せている。

 ここから段丘は南南東方向に進み、”けやき台小学校”の下から、中央線国立駅の東側までさらに高低差を形成していく。けやき台では段差が3~5mほどだったものが、国立駅横では10~15mにもなる。この辺りは宅地化が進んでいるので、崖は削られ緩斜面化されている場所が多いが、神社や寺がある場所では、かなり明瞭に崖の姿を見て取ることができる。

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国分寺市西町にある神明社。崖線の高低差が分かる場所

 また、崖線は交通路を複雑にすることもある。その代表が国分寺市光町にある五差路。崖線の下を走る通りと崖線を南に下る通りと東側から崖線を下ってきて崖下を沿うように走る通りが複雑な交差路を造っている。国立駅のすぐ東側を南北に抜ける道はとても複雑なのだが、これも崖線が東側に構えているためだ。

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複雑な光町五差路。朝夕はかなり混雑する

 南下する崖線はほぼ同方向に、多摩総合医療センターまで続く。ここから向きを東に変え、府中市の武蔵台を東西に横切る。ここでは、崖線の周囲は武蔵台公園、黒鐘公園、国分尼寺跡へと続く。この辺りでは段差は15m以上になるため開発の進みは遅く、また史跡によって崖線の緑が守られている。

 ここから少し北上し、武蔵国分寺跡を崖下に抱え込みながら、崖線はほぼ東西方向に国分寺駅の下、武蔵小金井駅下方向へと続く。

崖線は命の水を造る

 国分寺跡へとたどり着いた崖線は、ここからそれまでとは異なる姿を見せるようになる。湧水群の存在である。武蔵野面に浸み込んだ雨水は出口を求めて段丘崖から湧水となって姿を現す。大地に濾過されているので、水はかなり清らかだ。かつては、この清涼な水を求めて多くの人が集い、それを飲料水などに使っていたことがある。現在では、「この水は飲料水には適しません」などという無粋な表示をよく見かけるが。

 名水百選に選ばれたことがある「お鷹の道、真姿の池湧水群」は国分寺薬師堂、武蔵国分寺跡、都立武蔵国分寺公園などに通じる遊歩道が整備されており、絶好の徘徊路となっている。

 今春は湧水の量が少ないため、お鷹の道に沿う小さな流れは例年のようには澄んでいない。それでも大地から染み出た水を求めてペットボトルに集める老婆の姿があった。

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お鷹の道、真姿の池の原点付近

 私は、この小さな流れの前にたたずみ、しばし思いを半世紀前に戻した。

 水面を見つめ続けていたとき、突然、聖書の一節が浮かんだ

 

 ”わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。”

           コリント信徒への手紙 二 (1987 新共同訳より)

 

 見えないものを支えてくれるのは神なのだろうが、しかし、私には神はいなかった。

 

 

徘徊老人・別所沼公園に行く

立原道造を知る

 教室に入ると、顔見知りになったばかりの女性がいた。クラスの中では一番幼そうな雰囲気だったが、一方で、整った顔立ちをしているという印象を抱いていた。彼女は一人で文庫本を読んでいた。私は「何読んでるの、プロレスの本?」と斜め前から声をかけると、彼女は私の顔の方を見て、「詩集、立原道造よ」と微笑みと一緒に優しい声で返事をしてくれた。

 件の詩人のことは全く知らなかった。私は高校を中退し(退学寸前だったので)、数年間は清き情熱をもって”プロボーラー”か”パチプロ”になるために勤しんでいたため、大学に入ったときは20歳を超えていた。彼女よりは2年ほど年長なのにも関わらず、著名な(後で知ったのだが)その詩人の名前すら知らないことがとても恥ずかしかった。親切なことに、彼女は、その詩人・詩集の概略を教えてくれた。あまり興味は持てそうにない内容だと思えたが、クラスの中では一番可愛らしい女性の前でこれ以上恥をかきたくないので、授業に出るのをやめて本屋に出掛け、早速、その詩集を入手した。

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立原道造の思いが形になった”ヒアシンスハウス”(別所沼公園内)

様式美を守りつつ、感情で歌う四季派の詩人

 わずか24年と8か月で夭折した立原道造は、新古今和歌集オーストリア生まれのドイツ詩人であるリルケの影響を強く受けている。このため、代表作の多くはソネット形式(14行詩)で書かれている。最も著名な詩集の「萱草に寄す」(風信子叢書第一篇)にはSONATINE No.1、No.2があり、作品のすべてが14行詩だ。ソナチネ形式ともいわれるが、リルケの影響下にあるならば、SONATINEはゾナティーヌと読むべきであろうか?

     

    晩き日の夕べに

大きな大きなめぐりが用意されてゐるが

だれもそれとは気づかれない

空にも 雲にも うつろふ花らにも

もう心はひかれ誘はれなくなった

 

夕やみの淡い色に身を沈めても

それがこころよさとはもう言はない

啼いてすぎる小鳥の一日も

とほい物語と唄を教へるばかり

 

しるべもなくて来た道に

道のほとりに なにをならって

私らは立ちつくすのであらう

 

私らの夢はどこにめぐるのであらう

ひそかに しかしいたいたしく

その日も あの日も賢いしづかさに?

 

 彼の歌には、なんの気取りもなく、難しい言い回しもなく、透徹な心で、感情で言葉をつづる。それは、彼の愛した新古今和歌集にある西行の歌にも通じるものがあると思われる。

 世の中を思へばなべて散る花の わが身をさてもいづちかもせぬ

 ながむとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ

 ねがわくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ

立原道造の名を久しぶりに見る

 そんなことがあって以来、しばらくは大事にしていた立原道造の詩もその心も、若さを失い始めてからは読むことはなくなっていた。多分、20年以上、その詩人の名を口にすることも、目に触れることもなくなっていた。それが近ごろ、インターネットニュースで、彼の名前を見かけた。「ヒアシンスハウスを見る」という記事には、道造が図案化しつつも具体化されるに至らなかった”ヒアシンスハウス(風信子荘)”が、別所沼公園に造られた詳しい経緯と多くの写真が掲載されていた。

 記事は昨年の6月に書かれたものだ。それが、今年になって目に付くようなったのは、もしかしたら、現在、国立西洋美術館で「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ~ピュリスムの時代」が開催されていることと関係があるのかも知れない。コルビュジエは建築家としてだけではなく画家としても名高い。一方、立原道造は建築家として将来を嘱望されていたにもかかわらず、早世したために実績はない。が、詩人としては作品数は少ないにもかかわらず、その詩は数多くの人に今でも愛されている。ピュリスム(純粋主義)は立原の作品にこそふさわしいのかもしれない。

沼の周囲を徘徊する

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南北に細長い沼。西側と北側に広場などがある

 別所沼近辺には数回出かけたことがあるが、いずれもハウスが造られた2004年以前なので、かりにその沼を見に行ったとしても、立原の詩を思い浮かべることはなかっただろう。

 立原と別所沼との結びつきは、彼が兄と慕っていた詩人の神保光太郎がこの沼のほとりに家を建て、そこを拠点に創作活動に励んでいたことにある。彼はよく神保の家を訪れていたそうで、いずれその近くに別荘(小屋)を建てようと構想していたのが、「ヒアシンスハウス」である。図面やスケッチはかなり残していたものの、実現には至らなかった。その思いが現実となったのは、彼を、その作品を愛した人々の尽力の結果であった。

 詩人の夢の継承事業として完成をみたこの小さな家は、現在、水・土・日・祝に内部が公開されているそうだ。内部には立原が残した多くの資料も見ることができるらしい。訪れたのは月曜日なので開放はされていなかったが、かりに開いていたとしても私は、中に入ることはなかっただろう。私にとっては、彼の14行詩だけで十分なのだ。

 別所沼は公園として整備されており、沼の西側や北側には広場があり、沼を取り囲むような遊歩道やジョギングコースもある。周囲に植えられている樹木が特徴的で、メタセコイアラクウショウといった高木がとても多く、それらが、他の公園とは違った雰囲気を醸しだしている。

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水あるところに釣り人あり

 水があるところでは、ほとんどと言ってよいほど、釣り人の姿を見つけることができる。これは釣り人の性というもので、どうかすると、雨後にできた水たまりにさえ、竿を出しかねないのである。

 釣り人の横にあるバケツをのぞいたところ、ヌマチチブ、クチボソ、タナゴが泳いでいた。いずれも5cmにも満たない小物だが、彼らが使っている仕掛けも繊細なものなので、釣りとして楽しみはかなりあるはずだ。

東西にある段差に沼の成り立ちを見る

 沼には川は流れ込んでいない。のちに造った排水路はあるものの、ここに流れ込むものはない。大宮台地から湧き出した水が台地を削って窪地をつくり、そこに湧水がたまって沼を形成したようだ。

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沼の東側の段差

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沼の西側の段差

 排水路は南に向かっている。現在は暗渠化され、その上は「花と緑の遊歩道」になっている。遊歩道の先には、武蔵野線武蔵浦和駅がある。

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別所排水路は遊歩道として整備されている

 私がここを訪れたのは4月8日。花祭り灌仏会)の日であった。沼の周囲を徘徊中、沼の湿地に、死者にか生者にかは分らぬが、祈りを捧げている小さな仏が数多く見られた。が、それは錯視にすぎず、ラクウショウの気根だった。

 仏の存在は空であり、無なのである。

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気根は仏のよう