徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔79〕琵琶湖周辺から醒井宿の清水を求めて

バイカモの花と虫。醒井宿の地蔵川にて

◎奥琵琶湖地区を散策する

今津浜水泳場の賑わいは今いずこ

今夏は華やぐのだろうか

ゲンゴロウブナの産卵地として知られる貫川内湖

賤ケ岳の麓にあった禅寺

琵琶湖と余呉湖との間にある賤ケ岳

賤ケ岳麓の集落には立派な家屋が立ち並ぶ

和歌と羽衣伝説で知られる余呉湖(よごこ、よごのうみ)

余呉の海はヘラブナ釣りが盛ん

鯉のアタリを信号で釣り人に伝える仕掛け

ここには大鯉(80センチ以上)が当たり前の存在

◎浅井氏の故郷を訪ねる

麓から山城がある小谷山を望む

小雨混じりだったので、今回は資料館をのぞくだけ

小谷城の魅力をアピール

旅の大収穫のひとつ~「五先賢の館」

 旧浅井町(現在は長浜市)では日本の歴史上で優れた人物を5人も輩出している。この館の存在を知ったときには2人の人物しか知らない(覚えていない)状態であったが、ここを訪ねて様々な資料に触れたことで、残りの3人の業績と人物名が結びついた。日本史の入試では、この5人はすべて押さえておくべき必須の人物である。「相応和尚」「海北友松」「片桐且元」「小堀遠州」「小野湖山」の5賢人だ。

 地元の小学校では、この5人の業績を頭と体でしっかり学ぶそうだ。こうした下積みがいずれ、この地区から6人目の賢人を生むはずだ。

 ちなみに、我が府中市は0先賢である。

庭園に入るための編み笠門

遠州流庭園

◎大収穫の西野水道

2代目の西野水道(放水路)は現在、琵琶湖への連絡通路

放水路の先には湿地帯が広がる

放水路のはるか先には竹生島が浮かぶ

放水路の出口では小鮎釣りが盛ん

この急流を小鮎たちは上ってゆく

流れの中で小鮎の姿を探したのだが……

田んぼではサギも鮎を探していた

◎尾上港と琵琶湖東岸

尾上港と竹生島

岸壁からブルーギルや小鮎を狙う

湖上でブラックバスを狙う

湖北野鳥センター前の湿地

ラムサール条約登録湿地は水鳥の楽園

余呉川は湖岸に多くの砂州を生み出す

長浜市街を少しだけ散策

秀吉が築城した長浜城豊公園より

通りには老舗の商家が立ち並ぶ

火縄銃の町だった長浜は金物の町

長浜でも鯖は売り物のひとつ

北国街道沿いにある長浜名門の安藤家

◎清流(地蔵川)とバイカモを求めて醒井(さめがい)宿に立ち寄る

中山道醒井宿といえばバイカモの里

駅横のトイレの壁には

醒井小学校の玄関口

醒井と言えば居醒の清水

醒井宿は中山道61番目の宿場

三島の項でもお馴染みのバイカモ

バイカモユキノシタとの共演

バイカモマツバギクとの共演

日当たりの良い場所では水中花も

さらに一部では水上花も

小さいけれど可憐なウメの花

地蔵寺の下から湧出するので地蔵川

地蔵川絶滅危惧種ハリヨの保護区でもある

湧水点は数多くある

中山道東名高速

宿場の外れにあった「西行水」の名の湧水点

ここも湧出量は豊富

観光ルートを外れてもバイカモは豊かに育っている

若狭湾・山陰の旅の終わりには琵琶湖、それに近江の旅の最後には必ず立ち寄る醒井宿のバイカモ見物をおこなった。当初は京都による予定だったが週末に当たってしまったためにルートを変更し、さらにいささか歩き過ぎたので日数を短縮した。

 琵琶湖周辺では天気に恵まれなかったが、それでも収穫は多かった。一方、若狭・山陰では新発見や新体験がいくつかあったものの、かつての魅力がどんどんと薄れてしまっていた残念な場所も多々あった。

 25日からはいよいよアユ釣りのスタート。また新たな日常が始まると思うと喜びが沸き上がってくる。

 今回の旅のまとめでは当初、総集編を予定していたが、各回の写真が多くなったために、これらに解説文を加え、さらに何点かの写真も挿入することにするつもり。したがって、当面は第80回ではなく、第73回から第79回までを順に肉付けしていきます。

 

〔78〕山陰の最後に丹鉄に乗る。そして琵琶湖へ

京都丹後鉄道・”あおまつ号”

◎京都丹後鉄道宮豊線に乗る~夕日ヶ浦木津温泉駅

夕日ヶ浦木津温泉駅

 駅前に無料の駐車場があるので、そこに車を置いて、夕日ヶ浦木津温泉駅から豊岡駅間を往復することにした。京都丹後鉄道(かつての北近畿タンゴ鉄道)を眺めたことは何度もあるが、乗車するのは今回が初めてだ。

駅構内では足湯が楽しめる

かつては列車交換駅だった

八高線でもよく見たレールの形

 

今どきの切符としては珍しく硬券

◎夕日ヶ浦木津温泉駅から豊岡駅まで~”丹後の海”号

水戸岡鋭治氏デザインの列車”丹後の海”が入線

車内は極めて豪華

最前列はゆったりソファ

久美浜湾東部に位置する「小天橋駅」

カブトにしか見えない「かぶと山駅」は通過

一人の姫は「かぶと山」に関係する

久美浜駅久美浜湾奥に位置し砂丘までは遠い

久美浜駅は列車交換駅

久美浜湾が少しだけ見えた

快速列車なので「コウノトリの郷駅」も通過

円山川を越えて豊岡市街に向かう

豊岡駅に到着した”丹後の海”号

豊岡駅で”丹後の海”とお別れ

豊岡駅の大半はJRが使用

丹鉄の豊岡駅は東隅にこれだけ

豊岡駅を少しだけ散策

JR豊岡駅の駅舎。丹鉄は舎外に存在

駅前を散策~見掛けるのは老人ばかり

駅前通りはシャッター街

かばんの生産量は豊岡が日本一

城崎温泉行の特急の名は「こうのとり

豊岡駅から夕日ヶ浦木津温泉駅まで~”あおまつ号”に乗る

豊岡駅の切符は硬券ではなかった

復路は観光列車”あおまつ号”に乗れた

”あおまつ号”の運転室周り

”あおまつ”も水戸岡氏のデザイン

長椅子席と木製の吊り革

車内トイレの入口

車内の売店~接客中のアテンダント

思わず小物を買ってしまった

”あおまつ号”との充実した32分間

◎丹鉄のポスター~やはり、売りは由良川橋梁

由良川橋梁を走る”くろまつ号”のポスター

このポスターも由良川橋梁

鯖街道を使って京都から滋賀へ

鯖街道・熊川宿の家並み

平日なので観光客は少なめ

古い町と言えば造り酒屋

若狭塗箸も京へ運ばれた

鯖街道でサバの塩焼き定食を食う

鯖味の珈琲か珈琲味の鯖か?

今夏は安曇川(あどがわ)に鮎釣りに出掛けるかも

◎琵琶湖西岸に到達~今日は今津

琵琶湖の周囲には湿地が多い

琵琶湖周遊は今津から

小川にも琵琶湖産の鮎は遡上する

日本海の旅から琵琶湖周遊へ。”今日は今津か長浜か”で迷ったが、結局は今津に宿泊。翌日は余呉の海から賤ケ岳、小谷城の麓、琵琶湖東岸などを散策。天気はかなり悪そう。

〔77〕若狭湾・山陰東部を旅する(5)豊岡市竹野町から夕日ヶ浦温泉まで~いよいよ東進

夕日ヶ浦の磯で釣りをする人

豊岡市竹野町の海岸を訪ねる

切浜海岸を国道から望む

小さな入り江の小さな港

切浜海岸でワカメを採集するオッサン

海岸の先にあった「淀の洞門」

落石がとても多い場所だ

猫崎半島付け根の波食台

半島の甌穴群を訪ねる途中にあった祠

この辺りは落石が多い場所

波食甌穴をたくさん見つけた

甌穴群だけが見所ではない

下北半島の仏ヶ浦を思い出した

この崖の美しさ!

小さな穴は穿孔貝の仕業か?

次があれば、半島探訪だけで一日過ごせる

◎城崎にて

温泉駅前にまず立ち寄る

閑散とした駅前風景

城崎はカニの水揚げ地でもある

大谿川を渡る山陰本線

城崎温泉の代表的な風景

護岸には玄武洞の石が使われている

城崎文芸館の外観

志賀直哉の文学碑

温泉寺の楼門

温泉寺の薬師堂

城崎ロープウェイに初めて乗る

山頂駅からの眺め

温泉寺奥の院

大師山の山頂にもあった!

下りは歩きに挑戦したものの

道は険しいが石仏群に出会える(1)

石仏群その2

石仏群その3

頭はなくとも

ロープウェイを見上げる

温泉寺駅前の本坊

温泉寺駅前の多宝塔

温泉寺駅から町並みを望む

丹後砂丘の箱石浜から小天橋方向を望む

同じく夕日ヶ浦方向を望む

砂浜は漂着ゴミだらけ

韓半島からのゴミも流れ着く

網野町磯の漁港にて

小さな棚田

◎夕日ヶ浦にて

今回の旅では随一だった宿の玄関

私の部屋は「忘れな草」です

展望風呂付

夕日ヶ浦海岸

旅館の名前は「静・花扇」

岩場を見るだけでも楽しい!

落陽はこの後、雲に隠れてしまった

*本日も写真だけです。明日は京都丹後鉄道宮豊線に乗ります。その後は一気に琵琶湖西岸の今津へ移動。日本海の旅は明日まで。

〔76〕若狭湾・山陰東部を旅する(4)間人温泉から余部橋梁まで

鉄橋からコンクリート製に変わった余部橋梁

◎間人温泉から久美浜まで

間人漁港横の岩場

鳴き砂で有名な琴引浜

この辺りの砂浜はよく鳴いた

面白い形の岩場も多い

海中写真にも熱心だった女性

漁師はワカメを採集

日本標準時最北端の塔

最北端の塔である証明

塔直下の海岸線

塔の広場から浅茂川漁港を望む

静御前を祀る静神社

ここにも大河ドラマのキャンペーン

静御前の生誕地・網野町

義経静御前・泣き別れ岩(涙岩)

五色浜の岩場

この浜でも自衛隊が訓練中

面白い形の岩が多い

最も興味深かった岩

入り江も興味深い形

五色浜と通信していた自衛官が帰港

白い砂浜が続く丹後砂丘(小天橋から夕日ヶ浦海岸)

波打ち際にもワカメがいっぱい

短時間で収穫されたワカメ

どれだけ採集するのだろうか

久美浜湾の出入口

湾内につながる水路と背の高い歩道橋

湾の遥か奥に位置する係留場

コウノトリと柱状節理

公園入口と研究施設

コウノトリの郷公園の案内図

文化館内には模型がいっぱい

文化館内のはく製

こちらは生きたコウノトリ

森の巣から羽ばたく

里山の保存がコウノトリ繁殖の要

玄武洞から玄武岩の名前が生まれる

水平状態の柱状節理

城崎温泉に寄らずに日本海を西進

城崎名物、津居山ガニが水揚げされる漁港

御待岬から城崎マリンワールド近辺の海岸線を望む

マリンワールド沖の島。竜宮城がある

竹野浜海岸

切浜海岸と集落

はさかり岩と呼ばれる奇岩

◎余部橋梁と”空の駅”餘部(あまるべ)

40年近く前に列車転落事故を起こした余部鉄橋

コンクリート製になった余部橋梁

古い鉄橋も一部だけ保存されている

新旧の橋梁が並ぶ

専用のエレベーターで餘部(あまるべ)駅に上る

隙間から残された線路をのぞく

ホームから海岸線を望む

列車が橋梁を渡ってきた

鳥取行きの普通列車

かつての鉄骨も一部は残されている

保存された橋脚の土台

餘部駅から見えた小さな漁港

◎誰にでも分かる奇岩の名前~今子浦海岸

夕日を受けて赤く染まる今子浦の断崖

今子浦の奇岩

 宿に戻る途中で見つけた今子浦の奇岩。誰もが納得のカエル岩。

 本日も16126歩。疲れ切っているので今日も写真だけ。明日は立つ寄り切れなかった海岸線や奇岩、城崎温泉、宿泊地は夕日ヶ浦温泉なので、やっと海に沈む夕日が見られるはず。”ジューッ”という音が聞こえるかも。

〔75〕若狭湾・山陰東部を旅する(3)舞鶴から間人(たいざ)温泉

京都丹後鉄道、由良川を渡る

舞鶴から天橋立まで

舞鶴でも人気の赤れんが倉庫

 この日はメニューが盛り沢山なので、早々と舞鶴を出発して大好きな由良川橋梁に向かうことにした。が、舞鶴で何も見学しないのも素っ気ない思いがしたので、「赤れんがパーク」に立ち寄ることにした。

 旧海軍軍需本部地区だったところに12棟の赤れんが倉庫が残っていて、その内の7棟を整備して「舞鶴赤れんがパーク」を発足させた。現在は5棟の内部が改装されてイベントホール、博物館、カフェなどに利用されている。

 天邪鬼な私は、整備された赤れんが倉庫には出掛けず、写真にある未整備の建物を見て回った。

端にある倉庫はゴミ捨て場状態

 写真のように、半ば廃棄場と化した倉庫もあり、こちらの方に歴史の重さを感じたのだった。

由良川の河口

 国道27号線を西に進み、西舞鶴地区からは国道175号線、由良川を渡った先にある八田交差点を右折し、今度は国道178号線を由良川左岸に沿って北上した。7キロほど北に進むと道は由良川の河口左岸側で左折するが、その直前に京都丹後鉄道の由良川橋梁がある。河口の手前に「照国稲荷神社」があり、その境内が有料駐車場になっているのでそこに駐車した。

 由良川橋梁を初めて目にしたのは今から20年ほど前だが、以来、この辺りを車で走る時は必ず止まって、しばし由良川左岸を散策するのである。写真は、由良川河口を左岸側から写したものだが、私のお目当ては、河口から僅か600mほど遡った地点にある橋梁である。当時は北近畿タンゴ鉄道の名称だったのでどうしても、今でもタンゴ鉄道と呼んでしまうが、現在は京都丹後鉄道に変わったので、タンゴ鉄道ではなく”丹鉄”と呼ばなくてはならないのだが……昔の癖はなかなか治らない。

こじんまりとした由良漁港

 左岸には小さな港があり、係留されているボートの清掃がおこなわれていた。そのすぐ向こうに見えるのが丹鉄の由良川橋梁である。河口付近なので由良川の川幅は500mほどあるため、橋梁全体の長さは550mもある。

時刻表通りに列車がやってきた

 時刻表を確かめると、30分後に橋を通過する列車があることが分かった。丹後由良駅から丹後神崎駅に向かう列車なので、川の左岸から右岸に抜けていく。丹後由良駅は左岸から700mほどのところにあるので、列車の出発時間にはカメラを構えておく必要がある。

 出発時間直後から列車が近づいてくる気配が感じられた。まずは橋梁に入る前の列車を撮影することにした。それが上の写真なのだが、列車のペイントには少し(いやかなり)落胆した。 

イベント列車風のカラーリングが残念だった

 列車はいよいよ橋梁に進入した。”丹後の海”号であればもっとも良いし、せめて”青松”号か“赤松”号か“黒松”号であってほしかった。そんなことは時刻表を丹念に調べれば分かることなのだが。

今回は京都丹後鉄道に乗る予定

 列車のカラーリングはともあれ、やはり由良川橋梁を走る丹鉄には他の路線では味わうことができない魅力がある。なによりも非電化路線なので「すっきり感」があって良い。これが電化されてしまえば電柱やら架線やらで雰囲気は80%以上減じることになる。また、川から低い位置を走るのも良い。高さは僅か6mなので川の大増水が心配だが、河口付近ということもあって水敷が相当に広いのでそれは杞憂なのだろう。

 次回、この地区に訪れることがあれば、次はこの区間を乗車してみたいと考えている。今回は別の日に丹鉄に初乗車する予定だが、残念ながらこの区間ではない。

智恩院の楼門

 由良川河口を離れ、次の目的地である「天橋立」に向かった。有料駐車場に車をとめ、まずは写真の智恩院を訪ねた。というより、この寺の敷地内を通って下に挙げる「廻旋橋」を渡ると「天橋立」の砂州に至るからだ。

 写真の通り、この寺の楼門はかなり立派なものである。智恩院には文殊菩薩が本尊として祀られ、日本三大文殊のひとつに数えられるそうだ。「文殊の知恵」の言葉通り、ここには「学業成就」を祈願する人が多く訪れる。

うちは扇子のおみくじです

 写真の通り、ここのおみくじは扇子形をしている。末広がりなので誠に目出度いことであるが、願いが成就するかどうかは不明である。

文殊の知恵の輪灯篭

 お寺の東側には小さな波止場があり、その中央に写真の「文殊の知恵の輪灯篭」が設置されていた。この知恵の輪を3回くぐると願いが叶うそうだが、残念ながら輪をくぐる行為は禁止されている。

天橋立とを結ぶ廻旋橋

 天橋立に行くためには写真の「廻旋橋」(小天橋)を渡る必要がある。このときは「文殊水道」(天橋立運河)を中型船が通過するため、橋は旋回していて一時、人は渡ることができなかった。

船が通り過ぎると橋は橋の状態に戻る

 写真のように、船が通過すると橋は旋回して一本につながり、少しの間、待たされていた人々は天橋立に立ち入ることが可能になった。

天橋立の砂浜にも釣り人が

 写真のように天橋立砂州には投げ釣りをする釣り人がいた。観光客から注目を浴びる場所でわざわざ竿を出すことはないだろうと思うのだが……釣り人の心理は不可解である。

松林を北に進む修学旅行生

 日本三景のひとつである天橋立は全長が3.6キロ、幅は20~170m、松は5000本以上が生育している。

 この日は修学旅行の中学生が大勢、訪れていた。彼・彼女らはこのまま歩いて天橋立を北に進み、その先にある「傘松公園」に向かうのだった。もちろん、このときはまだ彼・彼女らの行く先は不明だったが、下に挙げる「傘松公園」で、この一団に出会ったので、3.6キロ歩いてやってきたことがわかった。私の場合は、この場所から先には進まず、駐車場に戻って車で公園に向かった。 

 ちなみに、私が天橋立を訪れたのはこのときが5回目だったが、砂州を渡り切ったことは一度もない。中間点までが一度あったきりだ。

商店街からは「ビューランド」が見えるものの……

 廻旋橋を渡り、少しだけ商店街をのぞいてみた。商店街の南側の高台には「天橋立ビューランド」がある。ここからは天橋立が一望できるらしいのだが、一度も立ち寄ったことはない。

◎傘松公園

傘松公園へは府中駅から

 「股のぞき」の発祥の地として知られる「傘松公園」は、天橋立の北方に位置する成相山の中腹にある。麓から公園まではケーブルカー、リフトで安楽に行くことができる。

 写真は麓にある府中駅。駅周辺はかつて丹後国国府があったところなので府中の字名が付けられている。私はリフトには恐怖心を抱くのでケーブルカーを利用した。

私はケーブルカー、修学旅行生はリフト

 私がケーブルカーで公園に到達し、展望台から周囲を観察していたとき、件の修学旅行生の一団がリフトで公園に向かってきた。その集団が天橋立で出会った中学生たちと同一であることが分かった理由は、中学生の服装やら校章やらを記憶していたからではない。引率者の中に若く比較的美形の女性教員がいて、その人物がリフトに乗って登って来たからだ。写真の中の前から2番目の女性が、私の記憶にあった教員である。

公園から天橋立を望む

 傘松公園から望む天橋立は、龍が天に上っているように見えることから、「昇龍観」と呼ばれている。

公園名物の「股のぞき」

 天橋立の「股のぞき」は、この傘松公園から始まったとされている。股のぞきをすると単に景色が逆さになるだけでなく、通常よりも奥行が少なくなることで物がより近くに見えるという効果がある(らしい)。そのため、龍が天に上る姿も強調されるとのことだ。もっとも私は目が回りやすい性質があるため、自分で試みることはしなかった。

子どもたちは普通のポーズだけ

 写真の子供たちは「股のぞき」は試みず、近年、よく見掛けるポーズをとるだけだった。その姿を見守る父親の方は、やや残念そうだったが。

沖の小島にも神宿

 沖に見える冠島(かんむりじま)と沓島(くつじま)は宮津市にある丹後国一宮の籠(この)神社の奥宮とされ神域である。このため、写真のように傘松公園内に遥拝所が設置されている。

 なお、この島はオオミズナギドリの繁殖地として国の天然記念物に指定されている。

傘松公園の上方にある成相寺の本堂

 傘松公園のある成相山には成相寺(なりあいじ)がある。真応上人または聖徳太子が開基とされ、704年に文武天皇勅願寺になった。ここは傘松公園のずっと上にあるため、天橋立を含めた眺望はさらに良い。公園からは徒歩30分ほどだが、登山バスがでているので私はこれを利用した。

 本堂はさらに山の上にあったのだが、山崩れで崩壊したために現在の地に再建された。1774年のことである。

成相寺五重塔

 写真の五重塔鎌倉時代に建てられたものを復元した。

一願一言の地蔵さん

 写真のお地蔵さんは、唯一願を一言でお願いすればどんなことでも願いを叶えてくれるそうだ。「安楽ポックリ」の往生さえ叶えてくれるらしい。

山頂でかわらけ投げに初挑戦

 境内には弁天山展望台がある。「股のぞき」はこの地が発祥とのこと。ここにも「かわらけ投げ」があった。200円を料金箱に入れ、生涯初のかわらけ投げに挑戦した。一願一言地蔵には、自分の投げたかわらけが空中を飛翔する様をきちんとカメラに収めるという願いをした。が、3枚とも、はっきりと写すことはできなかった。お地蔵さんにも不可能なことはあるようだ。

府中駅の近くを散策

 傘松公園から戻り、府中駅周辺を少しだけ散歩した。

ここにも府中の名が

 当たり前だが、あちこちに「府中」の名があった。

ここは府中小学校

 府中小学校があった。私の出身校は府中市立第一小学校である。

◎伊根の舟屋群を訪ねる

道の駅から伊根の舟屋群(南側)を眺める

 ”日本で一番海に近い暮らし”がキャッチフレーズの伊根町の舟屋群には、若狭・山陰地方を訪れた際にはほとんど立ち寄っている。波静かな伊根湾に面した舟屋は230軒ほどある。かつては訪れる人も少なく海と共に暮らす人々の姿に接するのが楽しみだったが、近年はすっかり観光地化してしまった。

 私自身、高台に造られた「道の駅」から舟屋群を展望している。便利なようでいて相当に寂しい思いも抱いた。

こちらがよく知られる北側の風景

 写真は、道の駅から見た湾の北側の風景で、この辺りに最も多く舟屋が立ち並んでいる。かつてはこの辺りまで車で入り込んで、適当な場所に駐車して周辺を徘徊したものだった。

今回は南側の舟屋群を訪ねた

 が、今回はそちらには立ち寄らず、少し前の写真にあった有料駐車場に車をとめて湾の南側にある舟屋群を見て回った。

舟屋の道側

 舟屋の一階は船置き場で二階に漁具や網置き場があった。

舟屋の向かい側

 住民は道路を挟んだ山側に住宅を建てそこで日常の暮らしを営んでいた。一方、引退した漁師は、舟屋の二階を改造して余生を過ごした。

 観光地化した現在では、舟屋の一部を改造してカフェを営んだり、全面改装し「舟屋で暮らす」をテーマにした旅館に変貌したものの見掛けた。漁で生計を立てるのは難しいだろうし、一方で、観光の波に乗って古い舟屋をアセットにするのは当然の成り行きだろう。

 こうした舟屋群の姿に触れた私は、「もはやここを訪れることはないだろう」という確信を抱いた。

舟屋の隙間をのぞく

 舟屋と舟屋の間をのぞいた。向かいに見えるのは改築された観光客受け入れ施設である。

入り江奥の舟屋

 湾の一番奥にある舟屋群を眺めた。つぶさに観察すると、古さと新しさとが同居しているのがよく分かった。

傷付いたウミネコ

 駐車場内に車をとめ、護岸から竿を出している人がいた。釣果を訪ねると「小さなガシラ(カサゴのこと)が一匹だけ」との返事があった。

 釣り人のすぐ近くには主翼が傷付いたウミネコが一羽いた。左翼が大きく損傷しているため十分には飛翔できず、そのため、独りぼっちで堤防に佇んでいた。

 右翼が損傷しているのであればとくに気にならないが、

釣り人からカサゴを貰ったのだが

経ヶ岬から間人(たいざ)温泉まで

経ヶ岬灯台

ただいま情報収集の訓練中

断崖絶壁下の柱状節理

袖志海岸で岩ノリ乾燥中

袖志海岸の奇岩

一帯のランドマークとなる犬ヶ岬

竹野海岸近くの「屏風岩」

犬ヶ岬を眺望する

竹野漁港

漁港西隣の柱状節理群

竹野川河口にある立岩

立岩にあった祠

こんな場所にも釣り人はやってくる

間人が「たいざ」と読まれるようになる由来の母子像

 間人(はしうど)皇后とその子・聖徳太子が曽我氏と物部氏との抗争を避けてこの地に身を隠していた。その後、親子はこの地を去ることになり、世話になったこの地に「間人(はしうど)」の名を与えた。が、住民たちはどうしても「はしうど」とは呼べず、その代わりにこの地から「退座」されたことに因んで「間人(たいざ)」と読むようになったとのこと。この話を知らなければ、どう考えても「間人」を「たいざ」と読むことはできない。難読地名のナンバーワンとされる。

 京都の「太秦」だって、そもそも「大和」だって「飛鳥」だって由来を知らなければ「うずまさ」や「やまと」や「あすか」とは読めまい。ただ、この3つは全国区なので、本来は難読地名なのだが、実際には読めない人はほとんどいない。

間人(たいざ)漁港

*本日も15324歩と歩きすぎ。よって本日も写真のみ。明日は琴引浜、五色浜、夕日ヶ浦、久美浜玄武洞城崎温泉、香住浜などを廻ります。

〔74〕若狭湾・山陰東部を旅する(2)敦賀半島から舞鶴港(編集完了版)

何とか落陽に出会えた~舞鶴港にて

敦賀半島をめぐる

敦賀半島東部の港にて

 この日は敦賀半島巡りから始めて若狭湾沿いを西に進み、舞鶴港まで到達する予定。宿を9時に出発し、気比の松原の西側を通って敦賀半島東海岸を北上した。右手には敦賀港や敦賀新港がよく見える。

 海岸線には小さな入り江があり、その大半には漁村があって港を守るための防波堤が整備されている。堤防という堤防には立入禁止の措置がない限り釣り人がいるのは西日本特有の風景だ。

 沖には近海汽船の貨物船が停泊しているが、これは昨日、敦賀本港で目にしたものかも知れないと思った。

波静かな堤防にはほぼ確実に釣り人がいる

 この時期、若狭湾内はとても波静かだ。そのため、写真のような高さのない堤防の上でも釣りを楽しむことができる。日本海側は干満差が小さいことも、こうした低い堤防でも釣りが許されている理由なのだろう。これが太平洋側や瀬戸内海の堤防だったら、まず認められることはない。

敦賀港から新潟港に向かうフェリー

 新日本海フェリーはまなす」が次の目的地を求めて北に向かっていた。昨日、敦賀新港ターミナルでは船と出会えなかったが、今朝は目にすることができた。船に向かって、”おはよう”そしてすぐに”さようなら”と言った。井上陽水のごとくに。

この辺りの浜辺で芭蕉は句を詠んだ

 芭蕉気比神宮近くで句を詠んだ翌日(陰暦8月16日)、小舟で色の浜(現在の敦賀市色浜)に向かった。

 汐染むる ますほの小貝 ひろふとて 色の浜とは いふにやあるらむ

 これは西行の『山家集』にある歌だ。芭蕉西行の歌枕を求めて旅をするので、「ますほの小貝」に接するために、半島東岸にある「色の浜」に向かったのだった。

 寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋

 浪の間や 小貝にまじる 萩の塵

 芭蕉は色浜でこの二句を呼んだのち、次の目的地である美濃国に向かった。芸術の心をまったく有していない私は、ただ数枚の写真を撮っただけで浜を後にして敦賀原発に向かった。

写真撮影厳禁の敦賀原発

 いつもなら(といっても敦賀原発前まで来るのは今回が4度目だが)、原発の前でUターンをして今度は半島の西側に出るのだが、この日は原発前に来たという証を立てるために正門前を撮影することにした。正門を通り過ぎて20mほど進んだところに路駐して、カメラをぶらさげてトボトボと正門に向かった。

 上の写真にも写っているが、フェンスには「発電所関連施設等の撮影はご遠慮ください」という看板が何枚も掲げられていた。関連施設を撮影するために正門方向に移動して構内を撮影しようとしたら、守衛が2人あわてて近寄ってきて撮影の停止を命じた。おまけに課長補佐も現れ、3人で私の行動を阻止しようとしていた。

 若い自分なら彼らに「撮影禁止の理由を合理的に説明せよ」と詰め寄るのだが、老いさらばえた現在ではその気力はないので、正門の看板だけを撮らせてもらうことで妥協した。課長補佐としてもそれを止める理由は見当たらなかったようで、看板の撮影だけならOKということになった。

 したがって、上の写真には原発関連施設は写っていないはずだ。ただ、シャッターを押すときにレンズが少しだけ上に向いてしまったので、看板以外のものも写ってしまっていたが、これには他意はない。いや、他意しかない。

 ちなみに、敦賀原発は1号機は廃止措置で稼働してないし、2号機は2011年5月より放射能漏れ等の不手際のために現在に至るまで稼働していない。

半島先端部にある立石漁港

 敦賀半島の先端にある「立石岬灯台」は、日本人のみで建設された初の西洋式灯台ということで興味を抱いていた。そこで、敦賀原発の前を過ぎて立石漁港に向かってみたのだ。灯台に出掛ける前、少しだけ集落内を散策した。

立石漁港にあったカフェ

 小さな集落内には、写真のカフェ「マリーン」があった。残念ながら休業中だった。開いていれば、朝早くの仕事を終えた漁師が集まっている姿に触れることができたのにと、非常に残念に思った。漁師は大抵、雄弁なのだが、カウンターの隅には無口な人が座り、それは高倉健でなければならない。カウンター内に居るママは話好きのオッサン漁師の話を聞きながら時折、高倉健の様子を伺う。このママは倍賞千恵子でなければならない。

 そんな場面に接することができなかった。一生の不覚である。

立石岬灯台に行く予定だったのだけれど

 いよいよ灯台に向かうことにしたのだが、坂を上がる階段脇に写真のような「お触書」が出ていた。私はまだ旅を始めたばかりであり、ここで熊に食われる訳にはいかなので、不本意ながら灯台行きは断念した。

漁師たちの安全を見守る

 港の入口の高台には、写真の祠と石灯籠があった。漁師たちの安全を見守るという点では灯台と似てなくもないので、この祠を目にすることで、灯台見物の代わりとした、熊の餌食にならないためにも。

美浜原発は丸見え

 半島を横断する道路を使って、東海岸から西海岸に移動した。目の前に広がっているのは敦賀半島を代表する海水浴場である「水晶浜」だが、私はまず「美浜原発」の姿を写真に収めるために西岸の道路を少しだけ北に進んだ。ずっと先には白木集落がある。その名から分かるとおり、かつて新羅から渡来してきた人々が住んた場所なのだが、時間の都合上、その地までは出掛けなかった。

 ここには何度か訪れているので、美浜原発に関しては道路際からその姿を撮影することができることは知っていた。ここには3基の原子炉があるが、1,2号機は廃炉準備中で、3号機のみが40年越えの古い原子炉なのだが運転中である。

鳴き砂でも知られる水晶浜

 「日本の水泳場88選」に選ばれている水晶浜は、その名から連想できるように石英分が多く含まれているため「鳴き砂」を体験できる場所がある。しかし、砂浜でのバーベキューなどで砂の汚染が広がっているため、それを体験できる場所は限られている。なお、お隣にはダイヤ浜もある。この地には宝石がちりばめられているのだ。

大きな奇岩に神宿

 水晶浜の北側には写真のような岩場があり、とりわけ大きな岩は神格化されている。

大岩の上には祠もあった

 岩場の一部は石積護岸化され、その上部には祠がある。崩れやすい岩だが上ることは可能だ。

半島先端部は奇岩だらけ

 神の宿る岩の隣には写真のような奇岩が並んでいる。

半島の付け根の砂浜は黒い砂礫

 写真は、敦賀半島の付け根部分にあった砂礫浜。この辺りは先端部と岩質が異なるため、水晶浜とは異なり浜の石は黒っぽい。

三方五湖レインボーライン

山頂展望台へ向かう

 20年以上も前、初めて「三方五湖」を訪ねた時は、その変化に富んだ海岸線に驚嘆した覚えがある。しかし、山陰海岸などに何度も出掛けるうちに初期の感動は薄れ、いつしかここに立ち寄ることはなくなってしまった。

 写真の場所は「三方五湖レインボーライン」の最高地点で、そこからの眺めも十分に満足できるのだが、今回はおそらく最後の訪問となるので、ケーブルカーに乗って梅丈岳山頂(標高400m)まで上がってみた。

頂上からの眺め

 有料道路は1060円、山頂公園は1000円(ケーブルカー代を含む)と結構いい値段だ。梅丈岳山頂からは360度望むことができるのだが、私は後に触れる日向湖(ひるがこ)の見える方角が一番の好みなので、北東方向の眺めを掲載した。空気が澄んでいれば眺望はずっと良いのだけれど。

ここにもやっぱり

 こうした類のものが各地で増殖中だが、その端緒は能登半島の恋路海岸だったと記憶している。ここでは恥ずかしい想い出があるのでその内容については触れないでおく。

 そのうち、西伊豆に恋人岬が出来てグアムのそれと提携関係を結んだことから知名度が上がり、今でも訪れる人やカップルが多い。以来、各地に同種のものが発生し、気比神宮では「恋みくじ」、そしてここでは「恋人の聖地」が誕生している。まぁ、勝手にやって下さい。

レインボーラインから日向湖を眺める

 五湖を代表するのが写真の日向湖(ひるがこ、水深39m)で、断層湖と考えられている。古い資料では淡水湖とされているが、現在は水道が掘られ海とつながっているため塩水湖になっている。

日向湖のほとりにて

 レインボーラインを下りて、日向湖を周遊する道路を走ってみた。

海釣り筏は釣り人だらけ

 日向湖では海上釣り堀が整備されており、写真のように、平日だというのに大勢の釣り客が筏に乗っていた。5時間半釣り放題で、上級コースは11000円、マニアコースは6000円。上級コースにはマダイ、ワラサ、カンパチ、シマアジ、イシダイなどの高級魚が放流されている。釣った魚は全部持ち帰れるので釣果次第では割安になるかも。

日向湖畔の集落

 水道で海につながっているだけなので、沖合からの波の影響を全く受けないために日向湖は極めて波静か。そのためこの湖は海の漁師たちの格好の基地となっている。護岸には沿岸だけでなく沖合漁業船もかなりの数が係留されていた。

◎常神半島から小浜までの間に

世久見漁港と烏辺(うべ)島

 三方五湖は常神半島の付け根に位置する。ずっと以前、NHK特集で常神半島を秘境として扱う番組をやっていた。海は美しく周囲は自然だらけの半島と紹介されていたので、一度だけ、半島の先端付近にまで出掛けたことがあった。確かに感動的ではあったが、その後、若狭湾山陰海岸にある岩場へ釣りに出掛けるようになってからは、常神半島だけが特別な存在ではないことが判明した。

 今回は若狭・山陰の海を訪ねるのがメインとなる旅なので、あえて常神半島の先端には出掛けず、その代わりにずっと以前によく走った道路を使って次の目的地である小浜市街へと向かった。

 とはいえ、これが国道(162号線)なのと首を傾げてしまうほど狭くつづら折りの道はすっかり国道らしくなってしまったので、かつての風情はなくなってしまった。が、その方が安全度は高いし時間は大いに短縮できるので、ありがたいことではあるが。

 写真は常神半島の付け根に位置する世久見漁港の堤防。人工的な堤防とむき出しの自然が残る烏辺(うべ)島とのコントラストが素敵なので、いつもここで車を停めて写真撮影をおこなっていた。

田烏漁港と釣姫漁港

 食見(しきみ)トンネルを抜けると小浜市域に入る。といっても、小浜市街までは直線距離でもまだ10キロ以上ある。前方には矢代湾が広がる。旧道であれば海岸線近くを走るのだが、新道では山裾をトンネルを使って進むので、湾内にいくつかある漁港に立ち寄るのはやや面倒になる。

 わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

 この歌は『百人一首』にもある二条院讃岐の作品だが、写真にある田烏(他ガラス)の浜から詠んだものとされている。

 すぐ隣には釣姫漁港がある。残念ながら釣姫は「つりひめ」ではなく「つるべ」と読む。「つりひめ」ならば是非とも立ち寄らなければならないが、「つるべ」であれば妖怪を想像してしまう。

海岸沿いにあった棚田

 国道を少し進むと、「田烏の棚田」が見えてきた。規模はさほど大きくはないが、断崖のすぐ上にある姿が美しい。

 懐かしの矢代漁港

 奈胡崎トンネル、矢代第一トンネルを過ぎると右手に矢代漁港が見えてくる。この漁港には何度も訪れたことがあるので、旧道を使って海岸まで下りてみた。

 滋賀県に住んでいたTさんの案内で、矢代漁港から何度も湾沖にある磯場に渡りメジナクロダイ釣りの取材をおこなった。Tさんは磯釣りの全国大会で優勝を遂げたことのある名手だが、少しも奢るところのない紳士であった。彼には若狭湾の各所や三重県の尾鷲の磯、さらには高知県の磯まで案内してもらった。西日本の釣り名人と多く知り合えたが、その大半は彼の紹介だった。近江八幡市にある自宅にも何度も泊めていただき、近江の魅力を発見することにも役立たせてもらった。

 私が若狭湾山陰海岸に出掛ける切っ掛けを作ってもらった彼は、3年前、病のために逝去した。そのTさんの笑顔を思い起こすために、私は矢代漁港に立ち寄ったのだ。 

阿納尻湾に浮かぶ釣り筏だが

 写真の阿納尻は小浜湾の北東端に位置する。三方が陸で囲まれているために波静かで、それもあってクロダイの筏釣りが盛んだった。10数年前、一度だけだがここで筏釣りの取材をおこなったことがある。湾内なので波静かなはずだが、当時は筏釣りが盛んでしきりに筏渡しのためのボートが行き来しており、そのボートが立てる波が筏を大いに揺らすため、私はすっかに筏酔いしてしまった。

 久しぶりにこの湾に立ち寄ったが、そのときにお世話になった渡船業者は廃業していた。それもあって、沖に浮かぶ筏も朽ちてしまっていた。

小浜市にて

箸文化は朝鮮半島から日本に伝来

 阿納尻湾から小浜市街に向かう途中に、写真の「箸のふるさと若狭」館があったので少しだけ立ち寄ってみた。私は未だに箸をきちんと使えないので皆に笑われるため、箸にはあまり近寄りたくはない。が、若狭塗箸は小浜市の特産品で、日本の塗箸の8割のシェアを誇り、2008年にはオバマ米大統領小浜市の塗箸を進呈するなどこの地には欠かせないものなので触れないわけにはいかなかった。

若狭塗箸の名はあちこちで見かけた

 箸そのものは朝鮮半島から伝来し、平城宮跡では今日の割り箸の様なものが多数発見されているので、奈良時代には広まっていたと考えられている。

 若狭塗箸自体は400年ほど前、小浜藩支那漆器をヒントに意匠化したのが始まりとされている。上述のように、これは小浜市を代表する特産品なので、小浜市街ではあちこちで見掛けることになった。

小浜漁港の一角にあったフィッシャーマンズ・ワーフ

 ずいぶん前のことだが、小浜漁港に「フィッシャーマンズ・ワーフ」が出来たと聞いたので、私は釣り人たちの埠頭=海釣り施設と勘違いして出掛けたことがあった。実際には、写真から分かるとおり、お土産品やレストラン、観光案内所、遊覧船発着所などがある施設だった。

小浜といえばサバ

 小浜は「鯖街道」の起点で、サバを中心とする魚介類が京都まで運ばれた。その歴史は1200~1300年前に始まると考えられているので、鯖と一緒に箸の文化も運ばれたのかもしれない。

古い町並みをしっかり保存

 北陸の小京都とも呼ばれる小浜市は、写真のように古い町並みをしっかり保存しており、国の重要的建築保存地区にも指定されている。とくに、写真の場所は電柱の地中化が進められているので、すっきりとした美しい町並みに触れることができた。もちろん、保存地区以外にも古い家々は多く残っている。

小浜海岸の人魚たち

 海岸通りには、写真の「マーメードテラス」があり、ここから西にある「小浜公園」までは砂浜(人魚の浜)と遊歩道が整備されている。

小浜海岸の白砂を守るツルカメ

 小浜公園には写真の鶴のような亀のようなオブジェがあり、私はとても興味を惹かれてしまった。この像をいろいろな角度からバカ面をして眺めていたため、町並み保存地区の散策時間を短縮せざるを得なくなってしまった。

 この鶴亀がある一帯はマーメードテラスと対になって「翼のテラス」と呼ばれており、大空を目指す白鳥のオブジェらしいのだが、私にはその下半身はウミガメのようにしか思えなかった。

大島半島大飯原発は守りが厳重

深い入り江に造られた漁港

 小浜市を離れ舞鶴に向けて国道27号線(R27)を西進した。右手には、おおい町に属する大島半島が見える。小浜湾を西側から覆いかぶさるように北東方向に伸びている。元々は島だったものが、西側の若狭和田辺りの砂州が伸びて陸続きとなった陸繋半島である。

 東側には「青戸の大橋」が架かっており、半島の先端部に行くにはこの橋を渡るほうが早い。先端部近くには「大飯原発」があり、その姿を見学するために橋を渡って北上した。

 原発は山を越えた先にあり、その入り口に至るにはトンネルを通過しなければならないのだが、なんとトンネルの入口には厳重なフェンスが設置され、関係者以外はトンネルに入れないようになっていた。

 路肩に車を停めてその厳重な警備の様子を撮影しようとしたが、車を停車するやいなや警備員が数人こちらに向かってきた。敦賀原発のときは正門付近だけは撮影できたが、こちらは厳戒態勢のトンネル入口だけ。それだけを撮影するためにひと悶着するのは面倒なので、諦めて東海岸方向に進むことにした。心も体もすっかり老いてしまったことを実感した。

 東側、つまり小浜湾側には小さな入り江がたくさんあって、写真のような波静かな漁港が並んでいる。 

釣り禁止の漁港だけれど

 漁港の一部は釣り禁止になっているのだけれど、写真の左手にあるように、さすがに西日本だけにしっかり釣り人はいた。

半島先端部にある有料の釣り施設

 堤防群は釣り禁止の場所が多いのだが、その代わりに、先端部には「場違い」と思えるほど立派な有料釣り施設があった。「あかぐり海釣り公園」という名称で、手前の駐車場は有料だし、釣り公園には釣り人がほとんどいないようだったので、駐車場の手前から施設を撮影した。

せめて送電線だけでも

 青戸の大橋近くには「道の駅・うみんぴあ大飯」があり、3キロほど西に進んだところには「道の駅・シーサイド高浜」がある。R27号沿いには立派な町役場の建物があり、おおい町高浜町にはそれぞれ設備が整ったグラウンドや体育館がある。思えば、大島半島にあった漁港も綺麗に整備され、高級ホテルを思わせるような町の交流センターもあった。それらの大半は原発誘致に際しての落し金の成せる業なのだろう。

 私は休憩のために「道の駅・シーサイド高浜」に立ち寄った。写真は、その場所から大島半島を望み、原発からの送電線を撮影したもの。ちなみに、大飯原発は4機基あり、1,2号機は廃炉が決定、3号機は稼働中、4号機は定期点検中(3月より)である。

舞鶴に何とか到着

舞鶴に向かうときに必ず見える青葉山

 R27を高浜町から舞鶴市方向に進むとき、ほぼ正面に見え続けるのが写真の青葉山(標高693m)だ。東方向から見ると山容は三角形に見えるため、この山の姿に触れると「もうすぐ舞鶴なのだ」という感慨が沸く。

若狭和田ビーチと青葉山と恐竜と

 このときは、写真の若狭和田ビーチに寄り道をした。先に触れたように、この砂浜が沖に伸びて大島に繋がったため、大島は大島半島と呼ばれるようになったのだ。

 ここでも恐竜君が愛嬌を振りまいている。高浜町はまだ福井県なの。彼?の後ろには青葉山が見える。

和田漁港から葉積島を望む

 和田ビーチや和田漁港からは一直線に並んだ「葉積島」が見える。若狭・山陰の海ではよく見られる島(岩礁)の並びで、貫入した溶岩が差別浸食作用を受けて島(岩礁)が並んでいるように見えるのだ。この姿でもっとも有名なのは、本ブログでも紹介したことのある和歌山県串本の「橋杭岩」である。

閉館時間を過ぎてしまった引揚記念館

 舞鶴に出掛けたときは大抵、写真の「引揚記念館」に立ち寄る。もっとも、館内に入ったことは一度しかなく、広い駐車場や公園から周囲の景色を眺めることが主目的なのだが。

 私より上の年代では大陸からの「引揚者」の関係者が結構いたと記憶している。二葉百合子版の『岸壁の母』は1972(昭和47)年の発売なので、戦後まもなくという訳ではない。もっとも、オリジナルの菊池章子版は1949年の発売だ。

記念館の広場からクレインブリッジを望む

 私が記念館に到着したのは午後5時半。記念館は5時に閉館するので入場することはできなかった。そこで、記念館内の代わりに、広場から望む「クレインブリッジ」の姿を掲載した。

 これは私の完全なる勘違いだったのだが、「クレイン」を「クレーン」のことだとずっと思っていた。が、実際には、「クレイン」は鶴のことで橋の主塔が舞い降りた鶴の形をしていることから「クレインブリッジ」と名付けられたのだ。

 そういえば、この地は「舞鶴」なのである。

舞鶴港からクレインブリッジを望む

 引揚館から舞鶴港に移動した。ここにはいつも釣り人がいる。彼らの向かいに「クレインブリッジ」が見える。この風景に触れたとき、私はいつも「はるばる舞鶴にやってきた」ということを実感する。

 舞鶴港で釣りをしたことはないが、舞鶴に宿泊して翌朝に近江八幡からやってきたTさんと合流し、彼の案内で舞鶴半島の先端の磯で釣りをすることが何度もあった。私は大抵、明るいうちに舞鶴に到着しているので、今回と同じように舞鶴港界隈を徘徊するのであった。

舞鶴発小樽行きフェリー

 舞鶴港には自衛隊の車両がたくさん置いてあり、それらは自由に眺めることができる。舞鶴港日本海側を代表する軍港だったし、現在でも自衛隊の基地や訓練施設がたくさんある。神奈川県の横須賀市のごとくに。

 その自衛隊の車両のむこうに「任日本海フェリー」が停泊していた。このフェリーは舞鶴・小樽間の直行便とのことだった。

あかしあ”は23時50分、小樽に向かって出航した

 折角なので、船に限りなく近づいてみた。「あかしあ」は全長が224.82m、16810トンの大型船である。「あかしあ」の名は、札幌市の街路樹としても有名な「ニセアカシア」に由来するようだ。

 なお兄弟船に「はまなす」があり、こちらは敦賀・苫小牧航路に用いられている。

◎誠にリーズナブルなホテルです~ベルマーレ

格安なデラックスツイン~1泊朝食付で12650円。

 釣りのときは近くにある格安なビジネスホテルを利用していたのだが、今回は奮発して、舞鶴市唯一のシティホテルを利用した。予約したのはスタンダードツインだったが、ホテル側の御厚意でデラックスツインにグレードアップ(料金はそのまま)してもらった。

展望風呂付

 デラックスツインツインルームは海側に面しており、写真のように展望風呂(ジェットバス付)があった。もっとも、右手に見えるのは海上自衛隊の教育施設で、左手に停泊中の「あかしあ」号が見えた。

 風呂から「あかしあ」号を見送る予定だったが、出航時間が遅いこともあり、私はすっかり寝付いてしまった。

〔73〕若狭湾・山陰東部を旅する(1)敦賀編(編集完了版)

気比の松原にて

 当初は、約2週間をかけて四国か東北の旅を計画していたのだが、どうしても外すことができない私用が入ったため、最長でも9日間しか取れなくなった。そのため、より近場を目的地にせざるを得なくなり、それならば日本一美しい海を有していると考えている(沖縄を含め)山陰海岸へ出掛けてみることにした。

 体力と気力がある時代であれば初日に兵庫県豊岡市まで出掛ける(府中から610キロ)のだが、すっかり老人になり果てた現在ではそれは無理な相談なので(もっとも、今夏も行く予定の古座川までだって590キロあるのだが)、初日は福井県敦賀市まで(440キロ)に留め、そこから徐々に西進することに決した。

◎5月15日の旅~府中から福井県敦賀市まで

走行距離・475キロ、歩行・13765歩、宿泊・敦賀市・ニューサンピア敦賀~一泊朝食付きで7810円

◎府中から敦賀まで

・府中発:6時35分

八ヶ岳PA(中央道)着:8時05分 府中から(以下同じ)127.3キロ

八ヶ岳PA

 敦賀でも少しだけ市内を見物するつもりだったので運転は無理せず、しっかり休息を取ることにした。まずは、写真の「八ヶ岳PA」で最初の休憩を取った。ここは周囲の景色が美しいところなので目を休めるにも都合の良い場所だ。

PAから八ヶ岳を望む

 八ヶ岳に初めて足を踏み入れたのは、小6のときの林間学校だったと記憶している。

お馴染みの甲斐駒ヶ岳

 本ブログでは何度も登場している「甲斐駒ヶ岳」だが、見る場所によって山の形に違いがある点(あたりまえだが)が趣深い。

・神坂(みさか)PA:9時38分着、259.7キロ

朝定食550円

 朝が早かったためにバナナ、キュウリ、トマトを食っただけだったので、神坂PAですこし遅めの朝食をとる。このPAはバカ長い「恵那山トンネル(下りは8489m)」を抜けた先にあるため、これまでに何度も利用している。ただ、周囲の景観については特記事項はない。空いている点に価値がある。

・賤ケ岳サービスエリア(北陸道):11時34分着、413.0キロ

賤ケ岳SA

 ここに停車したのは、最初に訪れる予定の「気比の松原」の駐車スペースまでのルートを確認するためにナビをセットする必要を感じたため。賤ケ岳は近くにあるはずだが姿は見えず(私には判断できないだけかも)。

気比の松原

・12時14分着、440.3キロ~16時20分に再訪

日本三大松原のひとつ

 あと2つは三保の松原静岡県)と虹の松原(佐賀県)。後者は未訪だ。ここは次に挙げる「気比神宮」の領地だったそうで、神宮の神職が管理していた。三保の松原との主観的な比較だが、こちらのほうが松の数は断然に多いように思われた。ただ、松林を散策する人は少なく、99%以上(個人の感想)は砂浜遊びが目的のようだった。

シロギス狙いの釣り人が多かった

 向こうに見えるのは敦賀半島。明日(16日)最初に訪れる場所。

 この砂浜に限ったことではなく西日本全体の印象なのだが、砂浜だけでなく堤防にも磯にも実に釣り人の数が多い。東日本では船釣りが中心だが、西日本で釣りというと陸からの釣りがメインとなる。

 この砂浜では投げ釣りの人が大半だった。誰も竿を曲げていないので、どんな魚を狙っているのか釣り人に聞いてみたところ「シロギス」との答えが返ってきた。

日曜日とあって子供連れも多かった

 訪れた日は日曜日ということもあって、家族連れで海遊びをする人が目立った。また、松林近くではキャンプをするグループも散見された。

松の数は三保の松原よりも多そう

 写真のように松林には散策路が整備されているのだが、歩く人は数少なかった。

白砂青松と言いたいところだが

 向こうに見えるのは敦賀本港。砂浜が延々と続いているのだが、波打ち際には海藻類が打ち上げられていたり、ゴミも捨てられていたりと、必ずしも「美しい」とは言い切れないところがあった。

気比神宮

・12時49分着、443.1キロ

越前国の一宮

 気比神宮は古くから北陸道の総鎮守として崇められ、越前国の一宮の地位にあった。写真の大鳥居は「日本の木造三大鳥居」のひとつ(あとは春日大社一之鳥居、厳島神社大鳥居)とされている。私はこの鳥居のある道は何度も通ったことがあるが、気比神宮の境内に足を踏み入れるのは今回が初めてだった。どのみち、私には信仰心はまったくないので参拝することはないのだけれど、折角なので由緒ある神社の中をのぞいてみることにした。

神宮の境内にある「猿田彦神社

 大鳥居をくぐったすぐ左手に「猿田彦神社」があった。猿田彦大神といえば、物事の最初に現れて万事を良い方向へ導いてくれる存在なのだが、信仰心のない私は「偶然の出会い」を最重要視しているため、この神に近づくことはなかった。

本殿で何を願うのか?

 ここでも若い人の参拝が目立つ。もちろん、私はのぞいたり撮影したりするだけ。

 気比神宮主祭神は「いざさわけのみこと」で、天日槍(あめのひぼこ)と同一視されている。もっとも天日槍はひとり?の神というより、朝鮮半島から北九州にやってきて当時の最新技術を日本に伝え広げるために東進した新羅系の集団(神武の東征との関連性も考えられている)と考える方が理にかなっている。

 その集団の族長とされる息長(おきなが)宿禰は琵琶湖周辺に居を構え、近江地方の発展に寄与した。息長氏は海の民でもあったため、近江に近い天然の良港を有する敦賀(旧名は角鹿)を重要視したことから、航海の安全を祈願するため、ここに神宮が建てられたと推察できる。

これは最近の流行り

 どこの寺社に出掛けてみても、近年は参拝者が増えている。とりわけ、若い人が激増していることは、将来に対する獏たる不安感の反映とも思われる。訪れる若者が増えていることから、この神社でも写真のような「恋みくじ」が取り扱われていたが、私が見ている範囲では、このおみくじを引く人はいなかった。賢明なことである。

本殿横にあった摂社群

 かつては相当に広い社領を有していた(なにしろ気比の松原社領だった)はずだが、諸般の事情で大きく減じられてしまったためか、境内摂社のいくつかは写真のようにコンパクトに取りまとめられている。

気比を詠んだ芭蕉翁の像

 芭蕉は「おくのほそ道」の旅で気比神宮に立ち寄っていくつかの句を詠んでいる。彼が敦賀に宿を取ったのは旧暦の八月十四日のことだった。

 「その夜、月殊に晴れたり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神サビて、松の木の間に月のもり入りたる、おまえの白砂霜を敷けるがごとし。……」

 月清し 遊行のもてる 砂の上

十五日、亭主の詞にたがわず雨降る

 名月や 北国日和 定めなき

芭蕉の句碑

 芭蕉像のすぐ脇には、句碑が設置されている。この芭蕉の句によって、昨年、「気比にのぼる月」は、「日本百名月」に認定された。

「日本百名月」認定が誇らしげ

 東門(ここが専用駐車場に一番近い)には、「日本百名月」に認定されたという事実を誇らしげに表記されていた。

亀の池

 最後に、東門の近くにあった「亀の池」に立ち負った。なぜか、色鯉は囲いの中に入れられ、真鯉だけが自由遊泳を許されていた。その不自然さをのぞけば、なかなか趣のある池ではあった。

◎横浜海岸

・13時30分着、455.0キロ

ここも横浜の海

 気比神宮を離れ、国道8号線を北上してみた。別に福井市に立ち寄るつもりではなく、この道は若狭湾の東岸を走っており、対岸にある敦賀半島がよく望めるからだ。ナビを見ながら進んでいると、「横浜海岸」の名が表示されたので、さしあたりその海岸まで足を伸ばしてみることにした。

 横浜といっても神奈川県横浜市があまりにも有名なのだが、その名の場所自体は日本にはいくらでもある。浜が横に長ければ横浜、あるいは横須賀という名前が付けられるのだ。

横浜である証拠その1

 横浜海岸は敦賀半島に向かって小さく突き出た半島の北半分で、南半分は「杉津」という字名になっており、そこには「杉津漁港」があった。

 小さな半島の北半分が横浜であることは、海岸の近くに「横浜集落生活改善センター」なるものが存在することで明らかだが、写真のように、海岸線にあった柱には、きちんと「ヨコハマ」の文字が掘らていて、ここが横浜である証拠になっている。 

横浜である証拠その2

 さらに、海水浴シーズンに営業されるのであろう建物(すぐ横にはトイレとシャワー室もあった)の売店の名は「よこはま」である。現在は敦賀市横浜だが、かつては「横浜村」だったことがこの看板からも分かる。

これは横浜の港?

 横浜海岸には港湾施設は見当たらなかったが、写真のように、消波ブロックにボートをつなぐことができるU字の金具が打ち込んであった。

海岸線は消波ブロックで守られている

 冬場の北風から海岸線を守るために、すぐ沖には護岸堤防と消波ブロックが何重にも並べられていた。横浜集落は標高の低い場所にあるため、波消しのためのブロック群は必須の存在だ。

これは横浜の家並み

 いかにも漁村、農村といった風情ではあるが、本家?の横浜だって開港前は寒村だった。

横浜を守る「剱神社」から海を眺める

 横浜の半島の先端部には小高い山がある。集落の標高は3.6m、先端部の高台は81mもある。それゆえ、先端部の高台はかつて島であり、そこに砂州が伸びて陸続きになったのだろう。これを陸繋砂州(トンボロ)という。

 先端部の麓には横浜集落を見守るように「劒神社」がある。劒神社の本社は丹生郡越前町にあるが、ここはその末社だと考えられる。ちなみに、劒神社の祭神は「気比大神」である。したがって、ここも新羅系渡来人の伝統を有している。

敦賀新港

・14時19分着、467.0キロ

敦賀新港の無料釣り場

 敦賀新港のもっとも北側の護岸には無料の釣り施設が設置されている。ここには10年以上も前に取材で何度か訪れたことがある。釣りをしたのは一回だけで小メジナがたくさん釣れたという記憶がある。

わざわざ消波ブロックの上から釣りする人も多い

 安全な堤防の上からではなく、わざわざ足元の悪い消波ブロック上から竿を出す人が何人もいた。その仕掛けからメジナ狙いであることは分かったが、釣果は芳しくないようだった。

フェリーターミナル

 敦賀新港の主目的は釣り場の整備ではなく、敦賀港と苫小牧港とを結ぶ新日本海フェリーが利用するためのもの。ここを出発するフェリーは舞鶴、新潟、秋田にも立ち寄る。

 私の場合、苫小牧発のフェリーと聞くと「仙台行き」を思い出す。吉田拓郎の『落陽』の歌詞だけれど。私の人生もサイコロを転がしているようなものなので。

敦賀本港~金ヶ崎緑地界隈

・15時01分着、469.5キロ

広々とした緑地公園

 敦賀本港の東側に整備された緑地公園で、2003年にオープンした。ボードウォークとボードデッキ、芝生広場といくつかのモニュメントからなり、港の景色に触れながら散策できる場所。

大半の人のお目当ては赤レンガ倉庫

 緑地広場に隣接していくつかの施設が整備・公開されているが、写真の「赤レンガ倉庫」に多くの人が集まるようだ。

赤レンガ倉庫を守る恐竜

 倉庫の目の前には白衣を着用した恐竜君が見学者を歓迎している。初めはこの存在の意味がよく分からなかったが、敦賀市福井県であることを考えれば答えは簡単に導き出せる。福井は恐竜を売り物にしている県だからである。なにしろ、福井県立大学では現在、恐竜学部(仮称)の創設を準備しているのだから。

かつての町並みをジオラマで再現

 赤レンガ倉庫は2棟あり、南棟はレストラン館、北棟はジオラマ館として公開されている。レストランは利用しなかったが、ジオラマ館(有料)に入場してみた。昭和初期の敦賀港周辺の町並みが再現されているのだが、私のお目当ては鉄道模型だった。 

ジオラマだけでなく記録フィルムも放映

 HOゲージの鉄道模型はとてもよく造られており、見飽きることはなかった。また、壁面には古い記録フィルムが上映されていた。

赤レンガ倉庫の隣には急行に使われた気動車が展示

 倉庫の北側には写真の気動車が展示されていた。通常は車内が公開されているのだが、時節柄か公開部分は限定的だった。

本港の一角を撮影

 ボードウォークから港の一角を撮影してみた。近海郵船日本郵船の子会社)はかつて旅客船も運行していたが、現在は貨物専用となっているそうだ。赤い船の向こう側に見える山は敦賀半島のもの。

敦賀港駅舎を再現

 本港にはかつて鉄道が敷かれていて、シベリア鉄道経由でヨーロッパにもつながっていた「欧亜国際連絡列車」も走っていた。敦賀港駅(敦賀ウラジオストク航路)はその列車の発着駅だった。

 写真の建物は1999年に再現されたもので、室内は鉄道資料館になっている。敦賀周辺を走っていた鉄道に関する資料が豊富にあるので、鉄道ファンには必見である。

往時の敦賀港駅周辺を模型で再現

 資料館内には、写真のように欧亜国際連絡列車が運行されていた当時の敦賀港の風景が模型で再現されている。

二階の床にあるだまし絵

 二階の床には、写真のような「だまし絵」が張られていた。床から機関車が飛び出してくるように見えるし、切符も立体的に見えるから不思議だ。

人道の港・敦賀ムゼウム

 緑地の北側には、写真の「敦賀ムゼウム」があった。他の場所で多くの時間を費やしてしまったために、ここに立ち寄ることはできなかった。

 基本的には敦賀市の地域歴史博物館だが、とくに杉原千畝の業績について詳しく紹介されている。ムゼウムはポーランド語。英語ではミュージアム。杉原が「命のビザ」で救済したユダヤ人はポーランド人が多かったこともあり、ムゼウムの語を使ったそうだ。解放された多くのユダヤ難民はウラジオストク経由で敦賀にたどり着いた。

扉の先に人道の港がある

 金ケ崎緑地に入り、最初にこれを目にしたときには意味不明だったが、杉原の行為と結びつけることができたとき、この扉の意味が得心できた。

 この日の旅は、この緑地の訪問をもって終了とした。