終わりなき日常を旅する

徘徊老人・まだ生きてます

〔16〕古代蓮 行田でギョーザに 大古墳

古代蓮は埼玉県行田市にもあった

f:id:haikaiikite:20190713122039j:plain

古代蓮の里にある行田蓮

 今年は近年になく梅雨らしい天気が続くので鮎釣りには行けず不本意なのだが、この時期はハスの花があちこちの池や沼で咲くので、川遊びはほどほどにしてハスの花見物と洒落込んだ。

f:id:haikaiikite:20190713122728j:plain

古代蓮の里は平日だろうと小雨混じりだろうと大混雑

 埼玉県行田市には「古代蓮の里」があり、ここでは数万本の「行田蓮」が6月末から8月初めまで咲き誇る。駐車場代(1日500円)はかかるものの入場料は不要なので連日、大満員である。近年はマスメディアもこの公園をよく取り上げるので、ハスの花にはとくに興味がない人でもここの存在を知っている人は多いようだ。ハスの開花時には、駐車場(約500台収容)は臨時の施設を使っても午前10時ごろには満車に近い状態になる。車のナンバープレートを見ると、品川、練馬、多摩、横浜、相模といったものも多く、最近では関東を代表する「蓮の里」になっているようだ。

古代蓮の原点は「大賀ハス」にある

f:id:haikaiikite:20190714150440j:plain

古代蓮の里公園と展望塔

 1971年、行田市はごみ焼却施設を新たに建設するため同市の小針地区の水田を購入し造成工事をはじめた。このとき、地中深くに眠っていたハスの実が自然発芽し、73年に開花した。75年、市の依頼で研究者がこの地を掘削しハスの実と木片を採集した。放射性炭素年代測定をおこなったところ、1400年ほど前のものということが判明した。同じ場所から見つかった土器は3000年前のものと推定されたので、このハスは1400~3000年前のものと考えられた。行田市はこのハスを「行田蓮」と名付けて市の天然記念物に指定するとともに、92年からこの小針の沼一帯を「古代蓮の里」公園として整備して95年に開園、さらに2001年には高さ約60mのシンボルタワーを有した「古代蓮会館」を整備した。

f:id:haikaiikite:20190714150647j:plain

古代蓮の原点は「大賀ハス」にあり

  古代蓮と聞くと私はすぐに「大賀ハス」を思い浮かべる。府中市生まれの府中市育ちだからだ。

 大賀一郎博士(1883~1965)は古代蓮研究の第一人者で、1917年、中国の遼寧省で中国古代蓮の実の発芽を成功させている。これは推定で約1000年前のものらしい。50年には千葉県で見つかったハスの実(この実自体は32年に発見されていた)の発芽に成功したが、50日目に枯死させてしまっていた。これは約1200年のものと推定されている。

 49年、千葉県の落合遺跡(花見川区)の泥炭地から丸木舟とハスの花托が発見されたということを知った大賀博士は51年、地元のボランティアの協力を得てこの地を採掘し、3粒のハスの実を発見した。博士はこれを府中市の自宅に持ち帰って発芽実験をおこない、そのうちの1粒が発芽した。そして52年にこのハスは見事な花を咲かせた。博士は同じ場所で発見された丸木舟の年代測定をアメリカの大学に依頼し、約3000年前のものとの報告を受けた。ハスの実は丸木舟が発見された層より若干上の層で見つかったことから、博士はこのハスは約2000年前のものであると推定した。この開花の成功は日本だけでなく海外でも話題となった。博士はこれを「二千年蓮」と命名したが、世では「大賀ハス」と呼ぶようになった。

f:id:haikaiikite:20190714174146j:plain

府中市寿中央公園にある「ひょうたん池」にも大賀ハスがある

 大賀ハスの増殖に成功した大賀博士は、自宅のある府中市にもその蓮根を寄贈した。私が通っていた府中一小の池には「大賀ハス」があり、花が咲くと何が自慢なのか教師たちはしきりに「府中の宝」であることをガキンチョに吹き込んだ。私の場合、花にはまったく関心はなかったが、池の魚には多大なる興味を覚えていたので、それを網ですくおうとしては教師に叱られた。

 小学校のすぐ北側の公園にある「ひょうたん池」にも大賀ハスが植えられていた。ここも私の遊び場だったので、ハスの花や葉は何度となく私の攻撃(石を投げ込んだり、葉や花を折ったり)を受けたのだった。しかし「府中の宝」なので、私以外の人々からは大事に管理され、今年も多くの花を咲かせている。

f:id:haikaiikite:20190714173443j:plain

府中市郷土の森公園にある大賀博士の胸像

 多摩川の左岸にある「府中市郷土の森公園」の「修景池」には大賀ハスをメインとして30種類ほどのハスが植えられており、公園内には博士の業績を称えるプレートとともに、写真の”大賀博士の胸像”もある。郷土の森や多摩川左岸の是政一帯は私の主要な徘徊場所なので毎年、ハスの開花を楽しみに散策している。池には大きなコイがたくさん泳いでいるが、今となっては網を持って出掛けることはしていない。

f:id:haikaiikite:20190714180633j:plain

花の中心にある「ハチの巣」状のものが花托

 個人的には「シャワーヘッド」と呼んでいるが、ハスの業界では「花托」もしくは「果托」と名付けている。その上面に点々としてあるのがハスの子房で、この中にハスの種(心皮にくるまれた胚珠)が入っている。この花托が「ハチの巣」に似ているのでかつては「ハチス」と呼ばれ、それがつまって「ハス」と呼ばれるようになったというのが通説だ。

 ハスの心皮は非常に硬いため、水や空気の侵入を防いでいる。胚珠の呼吸作用はとてもゆっくりなので、心皮の中に二酸化炭素が充満する(胚珠の死を意味する)までの期間はとても長い。大賀ハスの実の場合、さらに土中深くに”低温保存”されていたので2000年以上も命を長らえることができたのだそうだ。

ハスとスイレンとの違い

f:id:haikaiikite:20190714205106j:plain

スイレンはハスとは科だけでなく目も異なる

 ハスの花が咲く時期になると、決まって知人からハス(蓮)とスイレン(睡蓮)の違いについて聞かれる。植物学的にはまったく違うというのがほぼ正解なのだろうが、見た目がよく似ているので、歴史的には”同じようなもの”とされている場合が多いようだ。たとえば、英名でハスは「ロータス」、スイレンは「ウォーターリリー」と呼ぶが、小型園芸種で私も以前にはよく育てていた「タイガーロータス」なる美しい植物はスイレンの仲間である。また、池や沼で巨大な葉を広げる「オニバス」もスイレンの仲間だ。いずれも名前だけ見るとハスの仲間のようなのだが。

 「蓮華」の名は仏教の世界ではとてもよく目や耳にする言葉だ。蓮華は、通常では「ハスの花」のことだとよく記してあるが、実際に調べてみると、ハスでもありスイレンでもあるということが分かる。たとえば、浄土に咲く青い蓮華(ウトパラ)はスイレンであり、黄色い蓮華(クムダ)もスイレンと考えられている。黄色いスイレンは(黄色いハスも)アメリカ大陸にしか生育していないので、仏教の発展期には黄色い蓮華は誰も目にしてはいないはずなのだが。仏教とは直接には関係ないだろうけれど、中華料理によく使うサジを「蓮華」というが、これはハスの花びらの方が形体はより近いかもしれない。

 ペルシャ戦争を主題にして『歴史』を著した古代ギリシャヘロドトスは「エジプトでロートスといっている百合の類が無数に水中に生じる……ロートスの根も食用になり、丸みを帯びたリンゴほどの大きさで結構、甘い味がする」と書いているが、このロートス(ロータス)は「百合の類」や「根がリンゴ状」とあるので明らかにスイレンを指している。

 ことほど左様に、園芸的にも宗教的にも歴史的にも、ハスとスイレンはきちんと区別されてはいなのだ。

f:id:haikaiikite:20190714213245j:plain

ハスの仲間は花茎を水上高く伸ばす

 一方、植物学的には、ハスとスイレンとでは、前者は「ヤマモガシ目」、後者が「スイレン目」で、”科”どころか”目”まで異なるのだ。ほとんど違う種類といってよい。ちなみに街路樹としてよく見かけるプラタナスは「ヤマモガシ目」なので、ハスの”遠い親戚”だ。見た目はまったく異なるにも関わらず。分類学では「見た目だけで判断」してはいけないのだろう。

 しかし、ハスとスイレンの基本的な違いは「見た目」でも判断できる。ハスは花茎だけでなく葉茎も水上高くに伸ばす。一方、スイレンの葉は水面上にあり花も水面か水面近くにある。

f:id:haikaiikite:20190714214418j:plain

スイレンの葉は水面にあり、撥水性も弱い

 ハスの花には花托があるがスイレンにはない。ハスは午前中によく花を開かせるが、スイレンは「未の刻」、つまり午後1時から3時ごろによく花が開き(これがスイレンヒツジグサと呼ぶ理由)、それ以外の時間には眠っているように花を閉じる(これが睡蓮と名付けられた理由)。ハスは花びらを散らせるが、スイレンは花を散らさない。

 水上からは分からないが、両者の根の形はまったく異なる。ハスの根はヒゲ状で、スイレンの根は塊根(サツマイモかリンゴ形)だ。ハスの根はレンコン(蓮根)ではないのかと思いがちだが、あれは地下茎で、茎と茎とをつなぐ部分にモジャモジャと生えているのが根なのである。レンコン料理、とくにレンコンの天ぷらは私の好物のひとつだが、その素材は茎で、もしも本当のハスの根が料理として出てきたら、見通しはまったく暗くなる。不思議だが本当なのだ。これでいいのか。

古代蓮の里を散策する

f:id:haikaiikite:20190714221018j:plain

どこでも同様だが、最近は女性カメラマンがとても多い

  「古代蓮の里」公園を訪れるのは今回が4回目だ。が、ハスの開花期は今回が初めてだ。前の3回は、いずれも「吉見百穴」や八丁湖公園にある「黒岩横穴群」を見学した後に北上し、後述する「さきたま古墳群」を見て回り、それだけでは時間がやや余るので「古代蓮の里」にも立ち寄ってみるという感じだった。開花期以外は、よく整備された広々とした静かな公園として存在し、園内ではのんびりと散策を楽しむ人をちらほら見掛けるという風情である。テレビニュースや新聞紙面では毎年、7月上旬になるとここの公園がハスの花の見物客で大賑わいとなっている光景が報道されるので、いずれこの時期に訪ねてみようと前々から思っていたのだが、それが今回、実現することになったのだ。

 ハスの花の鑑賞には午前中(7~9時頃)が適するといわれているが、それより遅い時間帯でも楽しめないことはないので、当日、ここには午前10時に到着した。この日は小雨混じりの平日だったためか想像したよりは人影は少なかったが、ものの一時間も経たないうちに満車に近い状態になった。さらに大型バスが続々と来るやら、近隣の駅からのシャトルバスが来るやらで、見物客の数はどんどん膨れ上がってきた。美しい姿勢で咲いている花の周囲には黒山の人だかりができていた。もっとも、ジジババといった高齢者が多いので、黒山だけでなく白山やはげ山もできていた。

 横浜や横須賀でも目立つ存在だったが、ここでも若い(若くもない)女性が立派な一眼レフを構えている姿をよく目にした。コンパクトなデジタル一眼の普及が、女性カメラマンの増殖を進展させたのだろう。

f:id:haikaiikite:20190715152004j:plain

スマホで撮影する人も多かった

 園内にある池の大半は「行田蓮」だが、公園の正面入り口付近には約40種もの園芸種が揃えられており、ここには白系や八重咲系のものなど、古代蓮とはまた異なる色彩や形態をもつハスの花を鑑賞することができた。ただし、古代蓮に比べてやや早咲きのものが多いせいなのか、池(プールといったほうが適切か)の条件の違いなのかは不明だが、花期は終盤を迎えているものが多かったのは少し残念だった。それでも種類は豊富なので、十分に楽しむことができた。

ハスの話、あれやこれやと~園芸種の写真を並べながら

f:id:haikaiikite:20190715153122j:plain

真如蓮

 ハス属は2種あり、その学名は「ネルンボ・ヌキフェラ」(アジア系)と「ネルンボ・ペンタペタラ」(アメリカ系)である。Nelumboはスリランカの地名をとったもの、nuciferaは”硬い実”を、pentapetaraは”5つの花弁”を意味する。アジア系は赤や白、アメリカ系は黄色い花を付ける。原産地は不明だが、インド説が有力なようだ。

 ハスの実の化石は世界各地で発見されており、最古のものは約1億4000万年前の白亜紀のもので10種見つかっている。日本の北海道でも約7000万年前の白亜紀後期のものが出土している。ただし、第4紀氷河時代にこれらのものは死滅したと考えられているので、現在生育するハスとの連続性は証明されていない。

 京都山城で発見された約1万~2万年前のものはNelumbo nuciferaと考えられているので、氷河期の終盤には現在と同じものが生育していた可能性は高い。

f:id:haikaiikite:20190715160549j:plain

原始蓮

 ハスは観賞用よりも食用とするほうが一般的かもしれない。地下茎であるレンコンは天ぷらや煮物、揚げ物などによく利用される。713年に編まれた『常陸風土記』や『肥前風土記』には「食べるとおいしいし、薬用にもなる」といったような記述があるので、相当古くから食用品として認められていたようだ。しかし、仏教が隆盛になると「蓮華」は仏花として神聖なものになったため、”レンコンを食べると仏罰にあたる”とされ、食用としてのハスの栽培はさほど広がらなかったらしい。

 しかし江戸時代になって朱子学が優位になったためか、前田家の加賀藩は水田耕作に適さない土地にはハスを植えることを奨励した。これが契機となって食糧用としての栽培が広がった。明治初期には多産系で味の良い”中国ハス”が日本に持ち込まれたこともあって、食用ハスの生産量は一気に拡大した。江戸期に”地蓮”として人気があった「加賀蓮根」も、今では中国系のハスにとって代わられているようだ。

 現在、レンコンの生産高は茨城県がダントツで、日本の全生産高の半分を占めている。これは湿地帯が広がる霞ケ浦が県内にあるからで、市町村の生産高でも1位が土浦市、2位がかすみがうら市である。なお、都道府県別では2位が徳島県、3位が佐賀県となっている。

 レンコンは「おせち料理」には欠かせないものになっている。これはレンコンには10ほどの穴が開いているため、「先を見通せる」という縁起物として考えられているからだ。私は小さい頃、よく台所からスライスされたレンコンを2枚盗み、それを目の前に当てながら「いいメガネだろう」と叫びながら近所を歩き回った。こんなことばかりしていたので、私の人生の見通しは暗かった。これでいいのだが。

f:id:haikaiikite:20190715210052j:plain

ミセス・スローカム

 鑑賞用としてのハスも『古事記』では河内、『日本書記』では奈良の地名とともに「花ハチス」が美しいものとして出てくる。古事記では5世紀頃の出来事としてハチスの名が出てくるので、食用としてだけでなく観賞にも耐えるものとしてハスは認知されていたようだ。

 ひさかたの 雨もふらぬか 蓮葉に たまれる水の 玉に似たむ見る ”万葉集

 夕立ちの 晴るれば月ぞ 宿りける 玉ゆり据うる 蓮の浮葉に ”西行

 傘に蝶 蓮の立葉に 蛙かな ”其角”

 こうした歌が作られたように、ハスは見るものにある種の感慨をもたらした。

 ハスの花は、中国では美人に例えられている。ハスの美名は芙蓉(ふよう)という。白楽天の『長恨歌』には「芙蓉は面のごとく、柳は眉のごとし」とあるが、もちろんこの芙蓉は楊貴妃を指す。また、越王勾践が呉国を弱体化するために王の夫差へ絶世の美女である西施を送ったことはよく知られているが、この西施も芙蓉に例えられている。

 ところで、フヨウは夏に開花する樹木も有名なので、ハスを指す場合は”スイフヨウ”、樹木のほうは”モクフヨウ”と呼んで区別することがある。もっともフヨウには朝は白く午後は桃色、夕は紅色に染まる酔芙蓉という品種があるので、”スイフヨウ”の音だけでは混乱する場合があるかも。まぁ、話の流れの中で、どちらのフヨウなのは判断できるので心配は不要だ。

f:id:haikaiikite:20190716110858j:plain

舞妃蓮

 ハスやスイレンは、「再生するもの」「清らかなのも」として象徴化されてきた。

 エジプトでは前29世紀に神の一人であるネフェルテムの像が造られたが、この像の頭部にはスイレンの花の飾りが、輪飾りにはスイレンの文様がある。エジプトでは1本のスイレンから世界が生まれたと考えられており、前27世紀に造られた王墓の木柱には蓮花の柱頭がある。

 「エジプトはナイルの賜物」と歴史家のヘロドトスが記したように、毎年、必ず決まった日に始まるナイル川の氾濫は下流部に肥沃な土を運び、豊かな実りをもたらした。そのナイルにはほぼ周年、青いスイレンが咲く。それゆえ、スイレンは命の源、復活・再生の源を象徴するものと考えられた。なお、古代ペルシャに造られたペルセポリス宮殿には、エジプト様式の蓮台がある。

 インダス文明の都市と考えられるモヘンジョダロハラッパの遺跡には公衆浴場跡があるが、この浴場は蓮池(プシュカラ)と呼ばれていたらしい。また、この時期には多くのテラコット(テラコッタ=土の焼物)が作られたが、中でも蓮の飾りを付けた「ハスの女神」が有名である。

 古代インドのアショーカ王はインド全土を統一したが、最後の統一戦争ともいわれる「カリンガ戦争」で多大な犠牲を生じさせたため、以降は武断政治から文治政治に改めた。彼は「ダルマによる政治」をおこなうため、各地に石柱詔勅を建てた。この石柱の上部には垂れ下がる蓮華の花弁の彫刻が施してある。なお、アショーカ王は「第3回仏典結集」をおこないパーリ語経典(上座部仏教)の教えを整理させた。

f:id:haikaiikite:20190716124613j:plain

ネール蓮

 主要な仏典に『妙法蓮華経』があるように、仏教とハスとは切っても切れない関係がある。釈迦の弟子が「麗しい白蓮華が泥水に染められないように、あなた(釈迦のこと)は善悪の両者に汚されません」と語ったように、釈迦=白蓮華を最高存在と考えていた。したがって、『妙法蓮華経』は白蓮のような正しく崇高な教えを説いたものとされている。

 仏像はインドのガンダーラ地方で造られたのが最初だが、当初はヘレニズム文化の影響を受けているため、釈迦の顔形は西洋人的である。奈良の大仏をはじめ、釈迦像の多くが「パンチパーマ」だが、これは釈迦が女房子を捨てた流れ者、すなわちやくざ者だったからではなく、当初の像がギリシャ的なウェーブのかかった髪型だったからである。それが東洋的に変化しパンチパーマ=螺髪(らほつ)になったのだ。確証はないが、実際の釈迦は剃髪していた蓋然性が高い。

 仏像が蓮座や蓮台を有するようになったのは3世紀ころからである。ハスは生命の源なのだから、仏がハスの上にあるというより、仏はハスより出ると解釈するのが妥当だろう。

 浄土教が広まってからは、さらに仏教とハスとの関係は密になった。極楽浄土には蓮池が満ち満ちていると考えられている。「極楽世界には金、銀、瑠璃、水晶、珊瑚、瑪瑙(めのう)、琥珀といった七種の宝石でできているもろもろの蓮池があり‥‥」などと形容されている。

f:id:haikaiikite:20190716153847j:plain

千弁連

 「ハスは泥より出でて泥に染まらず」といわれるように、ドロンコの沼地から花茎を伸ばし、けがれのない麗しい花をつける。さらに、ハスの葉もけがれのないものの象徴とされる。これはよく「ロータス効果」と呼ばれる。ハスの葉の表面には0.01ミリ径ほどの突起が密に分布しているため、これが水をはじく効果を有するのだ。スイレンの葉はこの効果が低いので葉は水面にだけあるが、ハスの葉はこの効果が高いので、水を弾き水上高く伸びることができ、さらに大きく葉を広げても雨水がたまることはない。

 今ではあまり使われないが、「蓮っ葉」という言葉がある。尻軽で品行の良くない女を指す言葉だが、これはハスの葉が軽々と水をコロコロと転がすように、あいつは軽々しい女であるという例えからきている。

 バスを待つトトロは雨に濡れないように大きな葉っぱを傘代わりに使っているが、この葉はハスではなくサトイモの葉である。このサトイモの葉も水をはじく「ロータス効果」をもっている。トトロは所沢の狭山丘陵辺りに住んでいるので、サトイモの葉が身近にあったのだろう。これが行田か霞ケ浦周辺に住んでいたとしたら、きっと、ハスの葉を傘に使っていたに違いない。

 太田道灌は突然の雨で近くの農家に蓑を借りに行き、小娘から八重山吹を指し示されても意味が分からずに大恥をかいた。このことが道灌を歌人として大成させる切っ掛けとなったのだが、道灌がこのロータス効果を知っていたら、ハスかサトイモの葉を探せば良かったのだ。もっともハスの葉をさす道灌は、別の恥をかいたかもしれないが。さらに彼は歌人としては名を成さず、その上に「バ」が付く歌人となっていたことだろう。いや、本当に。

行田はギョーザの町ではなかった

f:id:haikaiikite:20190716162334j:plain

行田では忍城も欠かせない存在だ

 ギョーザが大好物である。「最後の晩餐」に何を食べるかと聞かれたら即座に「ギョーザ3人前」と答える。「あとは?」と尋ねられてもすぐには思い浮かばない。10秒後ぐらいに「サバの塩焼き」と返答するかもしれないが、そのあとは出てこない。学生時代にはよくギョーザ専門店に通った。その店ではある量を食べるとタダになるというルールがあった。体育系の奴ならばクリアー可能な量と思えたが、実際にはなかなか難しいらしい。私は「運動系?」だったがチャレンジしなかった。私なら簡単にクリアーできる量なので、仲間からも「やってみろ」と何度もいわれたが絶対にやらなかった。「体に悪いからか?」と聞かれたので否と答えた。体に悪いのではない、ギョーザに悪いのである。ギョーザは、ただ食べるのではなく善く食べるものなのだ。

 今年の1月に体調不良で3週間ほど入院したが、医者からは「脂分」を徹底的に控えるようにといわれた。当方としても釣りや旅行に出掛けられないと楽しくないので、以来、ラーメン類、天ぷら、かつ丼、唐揚げなど脂分の濃い食べ物は以前の10分の1ほどにまで控えている。ただし、それでは油切れで関節がカクカクすると釣りにも旅行にも行けなくなるので、ギョーザだけは食べるようにしている。というより、回数は増えたような気もする。

f:id:haikaiikite:20190717115303j:plain

行田市駅前のロータリー。開いている店はほとんどなかった

 行田市の中心街に来た。といってもどこが中心なのかわからないほど閑散としていたので、とりあえず行田市駅に来た。ギョーザ店を探すためである。10数年前だったか、アホそうな女性タレントのCMに「行田、ギョーザ」といったような馬鹿げたものがあったと記憶している。ダジャレは大嫌いだがギョーザは大好きなので、行田に来たのだから行田でギョーザを食べるという使命を感じたのだ。決して、コンビニのハンバーガーではない。

f:id:haikaiikite:20190717115749j:plain

行田のギョーザというよりチェーン店のギョーザ

 駅周辺を30分ほど歩いたが、ギョーザを扱いそうな店は見つからなかった。というより、開いている店自体があまりなかった。行田に限らず、地方都市のほとんどで駅前商店街は衰退し、店の多くは郊外のショッピングモールか街道筋に移ってしまったのだ。ギョーザを食べることを断念しようと思ったのだが、そう考えるとますますギョーザが頭や心から離れなくなるので結局、街道筋にあるチェーン店に入りギョーザを食べた。行田のギョーザではなく、行田店のギョーザになってしまった。

f:id:haikaiikite:20190717120753j:plain

忍城はかつて”水郷浮城”といわれたほど特徴的だった

 忍(おし)城は行田市駅から徒歩15分ほどのところにある。市役所の近くなのでわかりやすい。現在ある「御三階櫓」は1872年に取り壊されたものを1988年に再建(かつてあったものと同じ形かどうかは不明)したもので、歴史博物館に付随した建物になっている。櫓(やぐら)内に登ることは可能だが、私は一度も入ったことはない。今回も入館しなかったが、後で後悔した。

 忍という地名は珍しく、ここを訪れる多くの人は「しのぶ」とか「しのび」とか読んでしまうそうである。「忍」とつくと忍者を連想し、この城を忍者屋敷と考えがちだ。忍を「おし」と読む例は山梨県にある。忍野村にある「忍野八海」が有名で、そっちは世界遺産(富士山)のひとつになっている。それゆえ、これを「おし」と読んでもさほど違和感はない。「おし」の語源は不明だそうだが、有力なものとして「川の縁(へり)」を意味するというものがあるらしい。確かに、この行田市の近くには利根川や荒川が流れ、それら以外にも中小河川が多いので、「川の縁」というのもあながち的外れではないだろう。

 周囲に川が多いことからこの地には池や沼が多く、熊谷を本居地としていた成田親泰はこの地形を利用して、1491年に築城した。池や沼地を天然の堀とし、点在する島々に土塁、塀、曲輪、櫓、役所、住居などを造り、それらを橋で結んだ。このため、忍城は「水郷浮城」と呼ばれ難攻不落の城に数えられた。成田氏がこの城を築く直前に、事実上関東の地を仕切っていた太田道灌が暗愚な主君に殺されたため、関東の地は混乱に陥っていたのだった。親泰にとっては守りが固い城が必要だったのだろう。

 成田氏は小田原の北条氏側に属していたため、豊臣秀吉軍の小田原攻め(1590)の際には守備側についた。忍城を攻撃したのは石田三成真田昌幸といった武将を中心とした23000人の軍勢。一方、成田勢は800人の兵と約2000人の農民が城に立てこもり守りを固めた。石田三成は城の周囲に堤を築き「水攻め」をおこなったが、成田氏側はよく守り抜き、城内には一人の敵兵も入れなかった。しかし、小田原北条氏が秀吉勢に完敗したため、忍城は無傷のまま開城された。

f:id:haikaiikite:20190719113550j:plain

水城公園はかつて城を取り囲んでいた大沼の一部を整備したもの

 その後、忍城松平家や酒井家、阿部家など徳川幕府の譜代・親藩大名がここの主になった。明治維新後の廃藩置県によって忍藩10万石は忍県となり、1872年に城は取り壊された。さらにこの地の開発のために池や沼の大半は埋め立てられ、今は大沼の一部が「水城公園」の池として残っているだけである。私はこの地を初めて訪れた際、町の中心部に大きな池があることに感激したが、この地の歴史を調べてみると、この池は忍城の堀のほんの一角にすぎないのだということが分かり心底、驚きを覚えた。

f:id:haikaiikite:20190719114231j:plain

あちこち遍歴を重ねた忍城の時鐘

 歴史博物館の敷地内、御三階櫓のとなりにあるのが写真の「忍城の時鐘」である。この鐘は1717年に桑名で造られ、いったん火災にあったが修復された。1823年に桑名藩主が忍藩に移封された際、この鐘は忍城に持ち込まれたのだった。が、城が取り壊れたことで鐘楼もなくなり鐘は放置された。それを忍びなく思った地元の有志の協力によって、鐘は新設された小学校の玄関横に置かれることになった。しかし戦後、この場所を米軍が病院として利用することになったため、現在ある場所に移されたそうである。そんな鐘の遍歴を知ると、このどこにでもありそうな鐘楼に対して、襟を正して尊崇しなければならないと少しだけ思った。

古墳群に興奮する

f:id:haikaiikite:20190719124309j:plain

古墳のいくつかには天辺に上ることができる

 「さきたま古墳群」は十数年前、私が行田市に来る切っ掛けとなった場所である。そのころ、日本各地にある古墳を見て歩いていたからだった。先に述べたように、ここの前には「吉見百穴」や「黒岩横穴群」を訪ね、それからここに来るのである。前二者も墓なので、何のことはない単なる”墓巡り”なのだ。そういえば、多摩墓地も私の散策場所のひとつだ。

 私が古代史を好きになったのは、予備校(代ゼミ)の英語の授業が端緒だ。社会科の受験科目には日本史と地理を選択した。地理は小さい頃から地図を見るのが好きだったのでとくに問題はなかった。一方、日本史は覚えることが多く、しかし私は暗記が大の苦手だった。日本史はほとんど手付かずのままだったので成績は芳しくなく、ときおり思い出したように参考書を広げるのだが、いつも古墳時代まで進んではその本を投げ出していた。それゆえ、猿人や原人や旧人については友達のように馴染んだが、それ以降は怪しくなりつつなんとか前方後円墳まではたどり着いた。しかし、乙巳(いっし)の変(大化の改新)となると、ウマがどうしたイルカがどうしたカタマリがどうしたこうしたと訳がわからなくなった。

 後期になっても相変わらず、授業中に欠伸をしたり漫画を読んだりしていると予備校で知り合った2人から、英文解釈の授業で面白い話が聞けるので来いとの誘いがあった。そこで、私より出来の悪い友人を無理やり引き連れ、その場を抜け出して4人でその授業がおこなわれている教室に入った。200人ほど入る大教室だったが、受講者は一番後ろの席に数人いるだけで、しかも誰も授業を聞いておらず自習していた。私たち4人は一番前の列に座った。講師は英語の授業にも関わらず、大声でしきりに日本古代史の話をしていた。まったく知らない人名や出来事が出てくるのだが、その内容は壮大な歴史ドラマのようで私はすぐに魅入られてしまった。人の話に没入できたのはこれが人生初のことだったといっても過言ではない。

 私を誘った2人は東大志望で午前中は駿台予備校に通い、代ゼミで息抜きをして夕方から自宅で勉強。私の友人は東京芸大志望で、いつも漫画以下の絵を描いていた。私は教員免許さえ取れればどこの大学でも良かったので志望校はまったくなかった。受験本番が近づくにつれ、3人は英文解釈という日本史の授業には顔を出さなくなったが、私は一人で彼の話に聞きほれていた。あまつさえ、その講師は古代史の研究会を設立し現地調査も行っていたので私もそれに参加した。それにはさすがの講師も慌てた様子だったが、私が志望校の名前をいうと(もちろん適当に)”そこなら勉強しなくても大丈夫だな”と、受験日前日まで私を現地調査に付き合わせた。その場所は、大磯町にある高麗山だった。彼のお蔭で、私は初めて「知ることの楽しさ」を少し分かるようになった。

 その先生は明治大学教授(当時は助教授)のドイツ文学者だったが、日本古代史に興味を抱き、研究会まで発足させ事務局を仕切っていた。その運営費用を捻出するために予備校の授業を受け持っていたのである。私が大学生になってからたまたまテレビを見ていると、件の先生は「クイズダービー」の解答者としてレギュラー出演していたのだった。聞けば、研究会の運営費は「火の車」状態だったそうだ。先生は、知っていてもわざと答えを間違え、進んでピエロ役をやって出演料を稼ぎそれを研究会の費用に回していたようだ。残念ながら先生は43歳の若さでガンで亡くなり、解答者は篠沢教授に代わった。

f:id:haikaiikite:20190719133859j:plain

ここの古墳群を代表する存在の「丸墓山古墳」

 ここには大型の古墳が9基あり、日本でも有数な古墳群だそうだ。国の史跡に指定されていて、最近では「世界遺産」の登録を目指しているらしい。この点では大阪の巨大古墳群に後れを取ってしまったが。写真の古墳は「日本最大級」の円墳で、長いほうの径は105mある。少し前までは「日本最大の円墳」を自慢していたが近年、奈良の「富雄丸山古墳」の径が110mありそうだということを主張し始めたのでこちらは慎重になり、「日本最大」から「日本最大級」に「格下げ」して推移を見守っている。

 ひとつ前の写真にあるように、この古墳は上に登ることができる。「古墳を大切にしましょう」という看板が少し悲しいが。天辺や周囲には桜の大木があり、開花期はかなり眺めが良いらしい。この古墳の周りには「石田堤」がある。先述した石田三成忍城を水攻めにするために築いた堤防だ。

f:id:haikaiikite:20190719135330j:plain

天辺からは忍城の御三階櫓が望める

 古墳の上からは写真のように忍城の姿が見える。石田三成は、ここから城や周囲を見渡し、攻略作戦を練っていたのであろう。それゆえ、この古墳は相当に荒らされた可能性が高い。私がここを訪れた日には大勢の小学生が歴史の勉強のためなのか社会科見学なのか古墳を上り下りしていた。引率の教員の中にあの教授のような熱血漢がいれば、子供たちの多くが歴史好きになるだろう。いや絶対に。

f:id:haikaiikite:20190719140023j:plain

国宝が発掘された稲荷山古墳と古代蓮の里にある展望塔が望める

 丸墓山古墳上からは、となりにある「稲荷山古墳」や古代蓮の里にある高さ60mの展望塔を見て取ることができる。天辺はかつて物見台になっていたためか意外に広く、休息場所にも適している。大勢が墓上に訪れると騒々しいので墓の中で眠っている人は十分な睡眠はとれないだろう。もっとも、千数百年前に風になってもうそこには主はいないだろうが。

 写真に見える稲荷山古墳は、長さ120mの前方後円墳である。1968年の発掘調査によって、「金錯銘鉄剣や帯金具、勾玉(まがたま)、鏡などの遺物が多数発見され、これらは国宝に指定されている。現在は、古墳群の敷地内にある「さきたま史跡の博物館」内に展示されている。鉄剣に刻まれた銘文によれば、この墓の主は「雄略天皇」に仕えた有力者であることが推測されるそうだ。

 古墳時代は3世紀半ばから7世紀前半まで続き、土盛りの大きな墓を造るという特異な文化をもっていた。大きな墓はほとんどが前方後円墳で、奈良県桜井市にある「箸墓古墳」がその始原とされている。この墓の主は「卑弥呼」だという説があり、個人的にはそうあってほしいと願っている。が、出土品からは4世紀頃のものも多いため、その真偽は確定していない。纏向(まきむく)にあるこの古墳は私が大好きな「山辺の道」(日本最古の道といわれる)からは少し外れた場所にあるが必ず、寄り道をしてこの箸墓古墳を訪ねている。

 古墳群の存在は一時、今年の話題をさらった。「百舌鳥・古市古墳群」が、世界文化遺産への登録が決定されたからだ。もちろん、教科書にも出てくる大仙陵(伝仁徳天皇陵)はそこの代表的存在である。私も何度かその古墳を訪れているが、確かに敷地面積の広さには圧倒される。そこはかつて「世界最大の墓」といわれていたが、現在では「敷地面積としては」という但し書きが付いている。エジプトのクフ王のピラミッド、秦始皇帝の「兵馬俑坑」は「~としては世界一」と名乗っているのだろうか。

f:id:haikaiikite:20190719155208j:plain

将軍山古墳には展示館がある

 将軍山古墳は長さ90mの前方後円墳で、1894年に発掘され横穴式石室からは多くの副葬品が出土している。これらの多くは再現された石室の中に並べられ、「古墳展示館」として公開されている。現在は草が茂っているので写真ではよく分からないが、墳丘には模造された埴輪が並べられている。

f:id:haikaiikite:20190719160057j:plain

愛宕山古墳には樹木が茂りやや悲しい感じがする

 無料駐車場のすぐ東側にある「愛宕山古墳」はこの古墳群では一番小さな前方後円墳で、長さは約55mだ。写真の通り、樹木がよく茂っていて、ここ一帯が古墳群であると知らなければ、小さな丘程度にしか見えない。が、イメージをきちんと膨らましさえすれば古墳に見えるし、それも前方後円墳以外の何物でもないとわかる。

 写真には挙げなかったが、将軍山古墳と愛宕山古墳との間には「二子山古墳」がある。これは当地の古墳群では最大の前方後円墳で長さは132mある。しかし、旧武蔵国では最大であるという以外とくに但し書きはなく、埴輪や須恵器以外の出土品の説明もないようだった。

f:id:haikaiikite:20190719162639j:plain

レストハウスや古民家の裏手にある瓦塚古墳

 古墳群の敷地内には行田市駅に通じる「古墳通り」が走っていて、ここまでに挙げた5つの古墳は通りの北側にある。通りを渡ってすぐのところに「はにわの館」があり、ここでは埴輪作りの体験ができる(有料)。その横にはレストハウスがあるが、その東にあるのが写真の瓦塚古墳だ。これも長さは73mとさほど大きくはない前方後円墳だ。

 とくに記すべきものはなかったので写真は撮ったもののここに挙げる必要性は感じられなかったのだが、古墳のふもとには多数のオレンジ色の野草(ハルシャギク)が咲いいてそれが案外綺麗だったので、あえて挙げてみたという次第だ。

f:id:haikaiikite:20190719162845j:plain

敷地内に移設された古民家

 レストハウスのとなりには移設された古民家があった。入り口には「旧遠藤家住宅」との標識があった。武蔵野の地を散策するとあちこちで見かける、もしくは見かけた典型的な古民家の姿で、私の母の実家(調布市)もこんな造りの家だったのでこれには懐かしさを覚えた。そこは、いまでは大きなマンションになっているが、ほんの30年ほど前にはこうした姿で京王線西調布駅の近くに建っていた。なお、古民家の右手に見える丘は、瓦塚古墳の前方部である。

f:id:haikaiikite:20190719162943j:plain

史跡の博物館内にある展示室

 「さきたま史跡の博物館」には初めて入った。入場料は200円で「将軍山古墳展示館」との共通入場券になっている。なお「古代蓮の里公園」の駐車券を見せれば、ここは120円で利用できる。

 1階が展示室になっており、「企画展示室」と「国宝展示室」がある。写真は「企画展示室」の内部で、埴輪や土器が数多く展示されていた。教科書や資料集、図鑑などで見かけたことがあるらしきものが多く並べられている。やはり実物には歴史の重みが感じられ、たまにはこうして資料館をのぞくことも歴史への興味がさらに膨らむのだということを実感した。

f:id:haikaiikite:20190719164149j:plain

展示されている動物埴輪

 形象埴輪のうちの動物埴輪である馬形埴輪は想像していたよりもかなり大きいもので、しっかりと復元されていた。ガラスケースに入っているために写真では写り込みが多くて見づらいが、実際の場面では細部まできちんと見えるし、解説書だけでなく解説をしてくれる係員も常駐している。ガラスケースに収まった国宝の小型遺品に見るべきものが多くあったが、これらは撮影禁止だった。これからも訪れる機会は多々ある?ので、次回はじっくりと見物してみたい。そう思わせるほど、展示品は充実していたのである。

f:id:haikaiikite:20190719173206j:plain

さきたま古墳群は自然も豊かなので折々に訪ねたい場所だ

 さきたま古墳群には、中心的存在である丸墓山円墳をのぞけば全国規模でみると中小型の前方後円墳があるのみで、最大でも二子山古墳の132mである。日本には200以上の長さを持つ大古墳は30基以上ある。その半数は奈良県にあるが、さらに300m以上の巨大古墳は全国に7基あり、大阪に4基、奈良に2基、岡山に1基である。もちろん最大のものは「大仙陵」で長さは525mにも達する。

 奈良や大阪といえば古くから栄えた場所で、とくに巨大古墳がある場所はほぼ、先に述べた「山辺の道」や日本最古の官道といわれる「竹内街道」沿いにある。つまり大和から海の玄関口であった堺、やや詳細に述べれば、奈良県の桜井から二上山麓を通って太子町にある「近つ飛鳥」を抜け、羽曳野から堺に至る道沿いだ。ここらは日本成立期から発展していた場所なので、当然のごとく「大王の墓」が存在する。しからば、巨大な前方後円墳がその権威・権力の象徴になるのはいうまでもないことだ。

 「さきたま古墳群」はいかなる権威・権力から生まれたのだろうか?いまだ、墓の主は同定されていない。『日本書記』の記述によって武蔵国造の笠原直使主(あたいおみ)一族の墓と推定する説が有力らしい。また、当地の伝説では「乙巳の変」の折りに蘇我石川麻呂一族が逃げてきて住み着いたので、麻呂の墓⇒丸墓になったというのがあるそうだ。

 この古墳群がある場所は『万葉集』や『和名抄』に「前玉(さきたま)」、「佐吉多方(さきたま)」とあり、これが埼玉県の名前の語源となったとされている。これには異説もある(埼玉は多摩川の先にあるから先多摩⇒さいたまとなったなど)ようだが、少なくとも古墳群の地では「埼玉県名発祥の地」と考えており、その石碑もある。

 いずれにせよ、墓の主といい、県名の由来といい、謎多き場所なのである。それゆえ、規模は中古墳でも心意気は大古墳であり、歴史好きは、その謎を追うと「大興奮」するのだ。

 古代蓮の里があり、行田の名はギョーザを連想させ、そして大興奮してしまう大古墳がある。とても忍んではいられない面白い場所なのだ。これでいいのだ。いや本当に。

   * * *

 この項を、私に勉強の面白さを初めて気づかせてくれた、天国におわします鈴木武樹先生に捧げます。
 

〔15〕ヨーコを探して港へ(2)ヨコハマ・ヨコスカ

横浜、そして横須賀へ

f:id:haikaiikite:20190704122411j:plain

港の見える丘公園のイングリッシュガーデンからベイブリッジを望む

  横浜に初めて行ったのは、10歳前後の頃である。横浜地方気象台に勤めていた叔父(母の弟)一家が山手町にある官舎に住んでいたので、夏休みに母と一緒に訪ねた。それが恒例になり横浜訪問は何年か続いた。叔父のところには私と同年代の男の子が2人おり、彼らと官舎の目の前にある外人墓地や、完成したばかりの「港の見える丘公園」に行って遊んだ。叔父の車で根岸の海水浴場に連れていってもらい、私は初めて海で泳いだ。それまでは自宅近くの市営プールや多摩川の是政付近のトロ場でしか泳いだことがなかったので、海水のしょっぱさには結構な衝撃を受けた。泳ぎはかなり得意なはずだったのだが、海水が目や鼻、口に入るときの違和感が気になって泳ぎに集中できず、いとこたちに負けてしまったことは本当に悔しかった。勉強の出来や知識、礼儀正しさでは2人には全くかなわなかったが、遊びや運動、喧嘩では絶対に負けない自信があったにもかかわらず、得意分野で後れをとったことは大いに私をくじけさせた。中学生になってからはますます遊びや運動に忙しくなり、親と出掛けることの気恥ずかしさもあって、横浜の叔父のところには行かなくなった。横浜は少し、遠い存在になった。

 山手町には現在も同じ場所に気象台はある。その施設も官舎も様子はすっかり変わってしまったが、官舎に通じる坂道は今でも敷地内にあり、はるか以前の出来事を昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。たった一本の狭い坂道なのだが。

f:id:haikaiikite:20190706150107j:plain

横須賀は軍港の町でもある

 今回は横浜だけでなく、横須賀にも出掛けてみた。ヨーコを探すための第4の啓示を見出したからである。それは「ハマから流れて来た」というものである。”ハマ”はもちろん横浜を指し、”流れた”ということは横浜には存在しない可能性を示し、”来た”とは最寄りの港周辺へ移ったということを明示していると考えられる。とすれば、横浜周辺で港のある町といえば、川崎、横須賀、藤沢、鎌倉、逗子が考えられるが、後三者の町は駄目だ。横浜とは山で隣接しているからだ。山には流れられない。山は越えるのだ。前二者なら海続きなので流れて行ける。何だかよくわからないが、ここは川崎か横須賀と考えるのが妥当だろう。しかし、川崎は工業地帯なので、ヨーコには相応しくない。武蔵小杉ならいいかもしれないが、残念ながらムサコは港町ではない。したがって、横須賀がこの啓示にはドンピシャの町と考えられた。これが、横須賀にも出掛けた理由なのだ。

中華街を散策してみた

f:id:haikaiikite:20190705212550j:plain

中華街のメインストリート。超有名店が集まっている

  中華街に初めて行ったのは40代後半のときだった。横浜には小さい頃から何度も行っていたにもかかわらず、その地に足を踏み入れることはなかった。中華料理が嫌いだったわけではない。私が好むのはラーメンに餃子。たまに懐が温かいときは五目そばに餃子となる。よって、わざわざ中華街に出掛けなくとも近くのラーメン屋で間に合うのだ。というより、中華料理は種類が豊富すぎるので、決断力のない私には餃子以外何を注文してよいのか分からずパニック状態になってしまう危険性が大いにある。そうした困難にわざわざこちらから出向く必要性はなかったので、中華街は避けていたのだ。かの叔父は、公務員の薄給が理由だったのかは不明だが、私たちを連れて行ってはくれなかった。

 それがたまたま20代の女性と中華街へ行く機会ができたのだった。彼女は中華街をよく知っているらしいので、連れられるままに私たちは名前だけは聞いたことのある大型店に入った。彼女もその店は初めてらしく何を注文してよいのか分からなかったようなので、私は「◎〇コース」を二人分頼んだ。そのときはたまたま財布の中身が充実していたので、一番高いコースを選択した。見栄を張ったのだ。美味しかった。まぁ、ラーメン50杯以上もする値段のコースなので、不味かったら店に火をつけたかもしれないが。

 中華街の成立は1859年、横浜開港当時に香港や広東省福建省出身の商人が横浜の一角に集まったことが端緒だ。当時は中国人だけでなくイギリスやフランス、アメリカの商人も集まり、雑多な外国人居留地だったらしい。町の区画自体は、63年頃には現在の形になっていたとのこと。

f:id:haikaiikite:20190706101450j:plain

華僑が集まる場所には必ず”関帝廟”ができる

 その地に、中国人居留地お定まりの「関帝廟」や「中華会館」ができると、次第に中国人中心の居留地となっていった。関帝とは三国志でお馴染みの「蜀」の劉備玄徳に仕えた武将、関羽(字は雲長)のことである。かれは魏の曹操から嘱望されていたにも関わらず、終生、劉備個人に忠誠を尽くした。このため、後の時代の皇帝は、自らの支配の正統性を徹底するために関羽を神格化し、全国各地に「関帝廟」を造らせた。清代には県には必ず「孔子廟」(文廟)と「関帝廟」(武廟)が建立されたそうだ。しかし、文化大革命の際の「批林批孔運動」(1973~76年)で各地の「孔子廟」が破壊された。その一方、関帝は商売の神としても崇められていたために中国の「資本主義化」には欠かせなかったのか、「関帝廟」は現在でも多く残っている。

 1923年の関東大震災で多くの欧米人が帰国したため、中華街は文字通り中国人の町となり、次第に中国料理店も増加していった。しかし、30年代に日中戦争が始まると中国人の移動は制限され中華街(当時は南京町と呼ばれていた)の人々は南京町に軟禁状態となった。

 大戦後、中国は戦勝国となったため大陸からは多くの物資が南京町に届くようになった。その結果、ここには横浜市最大の闇市が形成された。49年、中華人民共和国が建国されてからは共和国派と中華民国派の対立が激化したが、横浜市の「チャイナタウン復興計画」もあって、南京町は次第に落ち着きを取り戻し、55年、南京町の入口には牌楼門(現在の善隣門)が造られ、そこには「中華街」の名も掲げられた。以来、この地は中華街と呼ばれるようになった。

 写真にある関帝廟関東大震災以降に再建されたものである。それ以前のものはこれよりずっと豪華絢爛だったそうだ。

f:id:haikaiikite:20190706104510j:plain

現在の中華街は大通りよりも脇道の方が混雑する

 40代後半の頃は大通りの超有名店に何度か通ったが、横浜在住の中華街通に狭い通りにある格安お粥店を紹介されてからは、路地にある一般向けの店に通うようになった。当たり外れはあるものの大方は当たり店なので、50代以降は裏路地歩きが私の好みになった。お気に入りは中華街通に教えてもらった店だった。今回、久し振りにその店を訪ねたいと思って探したのだが、通りの様子はすっかり変わり、店舗も多くが新築、またはリフォームされてしまったため見つからなかった。そもそも、店の名前を憶えていなかったのが敗因だった。

 中華街はいつも混雑している。修学旅行生が多い。中国からの旅行客も多い。家族連れはもちろん女性だけのグループも多い。カップルも多い。単独行動派はオッサンかオバサンか若い女性。男だけのグループは案外少ない。店内利用よりも売店で中華まんや飲み物を買って土産物を物色しながら散策する人が多い。単品やコース品中心の店よりもバイキング形式の店が目立つようになった。価格もかなり庶民的レベルに設定されている。これからまた横浜に行く機会が増えそうなので、中華街探索を再開したい気分になっている。まだ健在なら、あの安くてボリュームがあり、なによりすこぶる美味だった件の店に今一度、出会いたい。

関内駅界隈

f:id:haikaiikite:20190706113611j:plain

横浜公園内にあるスタジアム。ベイスターズの専用球場だ

 1859年に開港した横浜は外国人居留地を定め周囲に運河を造り「第二の出島化」を図った。井伊直弼の策略だった。橋などの出入り口には”関門”や”番所”を作った。このため、外国人居留地をはじめとする港一帯は「関内」と呼ばれるようになった。

 開港とほぼ同時に造られたのが遊郭で、今の横浜公園辺りに「港崎(みよざき)遊郭」があった。港造りと並行して造られたらしい。江戸の吉原並みの規模だったそうだ。が、66年の”ぶたや火事”で全焼したため、この地は外国との取り決めによって公園として整備されることになった。そして76年に公園は完成した。これが現在の「横浜公園」である。公園内には広場があり、外国人のみが野球やクリケットを楽しんでいた。一方、73年には開成学校(のちの旧制一高)の米国人教師が生徒に野球を教えるとすぐに広まった。そして、96年、一高と横浜在住の外国人チームとの試合が横浜公園で行われることになった。日本で最初の国際野球大会だった。

 この球場は戦後、米軍に接収され「ゲーリック球場」と呼ばれた。ナイター設備があったので、1948年、巨人・中日戦が日本プロ野球初のナイトゲームとして行われた。占領が終わり、返還されてからは「平和球場」と呼ばれるようになった。横浜にもプロ球団をとの声が強まり、平和球場を大改修して「横浜スタジアム」を建造し、「大洋ホエールズ」を誘致した。78年のことである。

 私には横浜出身や在住の知人が多いが、そのうちの野球好きの連中はベイスターズのファンが大半である。阪神広島ファンほどではないが、ベイスターズファンもかなり熱狂的だ。私も何度か誘われて横浜スタジアムに出掛けたが、トラファンに負けないほど熱心な応援に驚かされた。それも若い女性が多いのも印象的だった。横浜は若い女性が好む町だということを実感した。

 前回”大さん橋”の項で述べたが、私は伊豆諸島での釣りの帰りには大さん橋で降り、日本大通りから横浜公園を通って関内駅に向かった。ときにはスタジアムで試合が行われていて、大きな声援と、それ以上に大きなため息が聞こえてきた。なぜなら、ベイスターズ(かつてはホエールズ)は弱かったからである。

f:id:haikaiikite:20190706121906j:plain

かつての歓楽街も今はショッピングモールになっている

  今は”伊勢佐木あたりに灯がともる”が、かつて一帯は沼地で江戸時代に埋め立てられて”吉田新田”となった。1866年の”ぶたや火事”で港崎遊郭が全焼したのち69年、この地に遊郭が移転してきたため、関外にあるこの農地が一転、吉原町と呼ばれる歓楽街となった。その後、遊郭高島町に移転したが伊勢佐木の地には「蔦座」「羽衣座」といった演劇場ができて新たな賑わいを見せ始めた。20世紀に入ると演劇は廃れたが、代わって映画館が続々と出来、興行街として伊勢佐木町は横浜を代表する繁華街になった。1911年には「オデヲン座」という映画館がドイツ人貿易商によって作られ、洋画封切り第一号館となった。こうして神奈川だけでなく東京からも多くの人が訪れ、1910年代には”伊勢ブラ”などという言葉も流行ったそうだ。

 が、横浜駅西口の開発が進んでからは、こちらのほうがより利便性が高いゆえに繁華街は西口周辺に急速に広がった。その影響で伊勢佐木町の地位は相対的に低下した。現在、伊勢佐木町商店街(通称イセザキモール)は老舗商店と新しい店が共存しながら、観光地でもなくハイソでもない街として新たな顔を作り出している。

元町から山手町に向かってみた~私が最初に訪れた横浜

f:id:haikaiikite:20190706154634j:plain

ハマトラ”発祥の地も今はやや寂し気

 「ハマトラ」といっても横浜・阪神戦のことではない。横浜元町を発信源とした若い女性向けのファッションスタイルである「横浜トラディッショナル」の略語だ。山手町には”お嬢様大学”があり、さらに若い女性が好むカフェや公園、異国情緒あふれる街並みがあるため、そこに集まる女性の姿かたちをカテゴライズした、とあるファッション誌が生み出した造語だ。1970年代の後半から80年代の前半に「ハマトラ」はブームを呼び、元町がその中心となった。とくに10代半ばから後半の女の子に人気があったらしい。ブームは長く続かなかったものの、ファッションにはまったく無関心な私がその言葉をよく見聞きしたのは今から20年ほど前だったので、横浜辺りではまだ”死語”にはなっていなかったのだろう。

 前回でも触れたが、元町は「横浜村」に住んでいた住民が港を造るために強制移住させられてできた町である。当時は関外にあって丘のふもとののどかな村だったが、山の手が開発され外国人居留地として発展してからは、関内に通う外国人にとって利便性の良い商店街として発展した。戦後は一時荒廃したものの朝鮮戦争特需によって復興を遂げ、休戦後は国内向け、とくに若者をターゲットにした街づくりを進めた。その結果、多くの若い女性が「元町」「山手」の響きにつられて集うようになった。

 今回、十数年ぶりに元町を歩いてみたが、かつてのような賑わいはなかった。町自体からも活気は感じられなかった。ファッションが多様化したのか若者が窮乏化してファッションに関心を抱く余裕がなくなったのかは不明だが、全盛期を知るものにとっては一抹の寂しさを感じた。

f:id:haikaiikite:20190707183333j:plain

公園からはこの方向だけ港が見える

 元町から”谷戸坂”を上ると、左手に「港の見える丘公園」が見えてくる。この公園は1962年に公開された、横浜では比較的新しい公園である。私が初めて横浜に来たときにはまだ整備中だった。63年、何度目かに横浜を訪れたときは、真っ先にここに来た。叔父の住む官舎からわずか100mほどのところにできた公園だからである。その名の通り、港はよく見えた。山下ふ頭は整備されつつあったが、本牧ふ頭はまだなかった。大黒ふ頭はもちろんなかった。ベイブリッジ首都高速湾岸線もなかった。みなとみらいもなかった。今はそれらがすべてあるので海はあまり見えず、写真にあるベイブリッジ方向のみ海面が見える。なお、みなとみらいの高層ビル群は展望台からでは丘にある森が遮るために今でも見えない。

 山手町にあるここにはかつて、丘の上部がイギリス軍の、下部がフランス軍の駐屯地だった。1863年、下関海峡(現在の関門海峡)で砲撃を受けたイギリスは長州遠征に向かう前、艦隊は横浜港に集結し、幕府に駐屯地の設営を要求した。当時、山手町にはイギリス領事館があったので、その隣地を仮の駐屯地とした。64年、イギリス、さらにはフランスが駐屯施設整備を要求し、幕府はやむなくそれを受け入れた。資金は全額、幕府が負担した。

f:id:haikaiikite:20190707193251j:plain

旧イギリス領事館邸とイングリッシュローズの庭

 太平洋戦争後、この地はアメリカ軍が占領したが、返還されたのちに横浜市はここに公園を造ることを決め、1960年から整備を進め62年に完成・開園した。イギリス領事館邸には広い庭園があったのでここを”バラ園”として整備、さらに2016年、「イングリッシュローズの庭」としてリニューアルし、バラだけでなく多彩な園芸種で庭園を飾っている。私が訪れたときバラは終盤を迎えていたが、テッポウユリクレマチスなどがよく咲いていた。

f:id:haikaiikite:20190707212103j:plain

沈床花壇とその先にある大佛次郎記念館

 展望台のとなりの窪地には「沈床花壇」(香りの庭)がある。ここもメインはバラであるが、負けじとテッポウユリが存在を誇示していた。中央の噴水周りはブルーサルビアコリウスといった園芸種が色どりを添えていた。よく手入れをされている庭には必ずと言っていいほど庭師の姿があり、花柄摘みなど丁寧な作業をおこなっている。

 花壇の先に見えるのが「大佛(おさらぎ)次郎記念館」である。横浜市出身の大佛といえば『鞍馬天狗』があまりにも有名なので大衆小説家のイメージが強いが、パリコミューンを題材にした『パリ燃ゆ』や19世紀末にフランス第三共和政を揺るがせた『ドレフュス事件』など歴史小説やノンフィクションなども手掛けている。

 大佛は一時「ホテル・ニューグランド」を創作活動の拠点にしていたことがある。マッカーサーは315号室がお気に入りだったことは前回記したが、大佛が使っていたのは318号室で、鎌倉の自宅からホテルの部屋に行くとすぐに執筆活動ができるようにと、ホテルのボーイたちは必要な資料を大佛のために用意しておいたという。318号室は今でも、ホテル関係者には「鞍馬天狗の部屋」と呼ばれているそうだ。

 記念館のとなりには「ティールーム霧笛」がある。知人の話では、ここのコーヒーは絶品らしい。『霧笛』は大佛の作品名で明治初期の横浜を舞台にした”無頼派”小説である。当時のイギリス人船員や南京町(現在の中華街)の日常が描かれている。なお、このティルームの名は大佛夫人が命名したとのことだ。

f:id:haikaiikite:20190707220331j:plain

外人墓地には平日は入れない。土休日は公開されている

 港の見える丘公園から横浜地方気象台をはさんだ向かいの傾斜地に「外人墓地(正式には横浜外国人墓地)」がある。私が初めて横浜に行ったときは、ここが最初の遊び場だった。そのときは自由に出入りできたが、墓場をデートに使う不埒ものが増加したので、現在は3~12月の土休日のみ公開されている。これは墓地を維持管理するための予算を集める募金活動の一環としておこなわれているとのことだ。

 1854年にペリー艦隊が和親条約調印のために横浜港を訪れた際、船員の一人がマストから墜落・死亡したことで、ペリーはその埋葬地を幕府に要求した。「海が見える場所」を望んだため、当時「増徳院」の境内だった一角を米側に提供した。これが外人墓地の端緒になった。以来、生麦事件で殺された英国人など攘夷の嵐の中で命を落とした外国人、開化期に鉄道技師として新橋・横浜間の鉄道敷設を指揮した人、ボーイスカウト運動を日本に紹介・指揮した人、日本で最初に英字新聞を発刊した人、居留地外国人のための劇場である「ゲーテ座」を開設した人など、多数の外国人がこの墓地に眠っている。

f:id:haikaiikite:20190707225818j:plain

山手からベイブリッジを望む

 ”街の灯りがとてもきれい”なヨコハマだが、ブルーライトのヨコハマは光が強すぎて目に悪いと思っている人は日中に横浜に来るだろうが、昼日中でも素敵な景色は無数にあり、歩いても歩いても訪ね尽くすことはできない。山手町にも名勝(広義の)は多く、とくに”ワシン坂”から望むベイブリッジは私のおすすめだ。港の見える丘公園を出たら谷戸坂とは反対方向、つまり本牧方向に道なりに進む。途中には山手らしい豪邸や韓国総領事館があるが、さらにその先に進むと見晴らしの良い場所に出る。ワシン坂上公園のすぐ手前だ。

 写真は当日の光の関係で、おすすめポイントからではうまく撮れなかったのでやむなく丘公園の北東端から写したものだが、紹介した場所からはもっとベイブリッジが間近にかつ車の行き来まで見える。可能なら、やはり夕方以降が良く、2本の主塔のブルーライト、路灯、行き交う車のヘッドライトとテールライトは、この上のない美しさを演出する。

本牧三之谷にある名園~三渓園

f:id:haikaiikite:20190708161854j:plain

正門付近から”大池”と三重塔を望む

 三渓園横浜市中区本牧三之谷にある敷地面積17.5haにも及ぶ広大な庭園である。各地から移設した建物は17棟ありその多くが国の重要文化財や市の有形文化財に指定されている。また庭園全域が国の名勝に指定されている。

 この庭園は、生糸輸出で財を成した横浜の実業家であった原富太郎(茶人としての号は三渓)が1902年から整備を進め、自身の住まいとして園内に「鶴翔閣」を建て、この地を本宅とした。原三渓は青木富太郎として岐阜県に生まれ、大学卒業後に女学校の教員となった。その教え子であった女性と結婚し原家に養子として入り、原富太郎になった。養祖父の原善三郎は生糸業で横浜の有力な実業家になり、明治初期に三渓園の土地を購入しており、この地に別荘を建てていた。善三郎の死後、原三渓はこの地の造園を本格的に進めたのだった。原三渓は芸術家や文学者との交流を深め、自らは茶の湯の道を究めようとした。なお、号の”三渓”はこの地の三之谷という地名に由来する。三渓は39年に死去した。

 第二次大戦の際の空襲によって大きな被害を受け、その後、三渓園は原家から横浜市に譲渡・寄贈され以来、財団法人が管理している。なお、1906年には三重塔がある「外苑」はすでに一般に向けて公開されていたが、戦争被害からの復旧工事が完了した58年には原家が個人的に利用していた「内苑」も一般公開され現在に至っている。開園時間は9~17時、入園料は700円(大人)である。

f:id:haikaiikite:20190708165638j:plain

内苑には桃山時代から江戸時代に造られた木造建築物が多数移築・保存されている

 正門から大池と蓮池の間の道を進み、三渓記念館の右手にある「御門」(これも江戸時代、京都に建築された)を通ると「内苑」に至る。先述したようにここは原家個人のものであった。三渓は谷筋の傾斜地に多くの木造建築物を移築した。その大半が重要文化財に指定されているほど価値の高い建物である。元は京都、和歌山、鎌倉にあったものなのでこの「寄せ集め」に価値を見出せない人も多いらしいが、移築されなければかの地で朽ち果てていた可能性は大きいので、三渓の行為は必ずしも金持ちの道楽とばかりは言えないだろう。

f:id:haikaiikite:20190708172658j:plain

外苑のランドマークである三重塔。元は室町時代の京都にあったもの

 外苑の高台にそびえる三重塔は、元は京都にあり室町時代に建築(1457年)された。木津川市にあった燈明寺から大正時代に移築したもの。燈明寺はその後、廃寺になっているので、移築しなければこの姿を留めていることはなかったに違いない。関東にある木造の塔としては最古のものらしい。

f:id:haikaiikite:20190708173651j:plain

外苑にある展望台から旧根岸海岸方向を望む

 三重塔の裏手(南側)には展望台があり、かつてはこの海食崖上から広大な海を望むことができた。かつて崖下は海岸線でありそこには海水浴場もあった。1960年代から埋め立てが進み、写真にあるようにここには首都高速湾岸線、JXTGエネルギー(旧日本石油を中核としたグループ)の根岸製油所の大型タンクが出来て、今ではかつての姿を想像することすらできない。が、私にはここが海だったという記憶が残っている。なぜなら、この根岸湾にあった小さな砂浜こそ、私が初めて海に接し、海水の塩辛さを知った場所だったからである。

f:id:haikaiikite:20190708175821j:plain

園内の片隅に咲いていた半夏生

 三渓園は花の名所としてもよく知られている。7月はハス、スイレンムクゲが咲く時期だが、私には写真の「半夏生」の群生が一番、心に残った。好みの野草だからである。

 半夏生(はんげしょう)は二十四節気のひとつ「夏至」の末候である。今年は7月2日から6日までが「半夏生」(七十二候のひとつ)で、7月7日から22日が「小暑」でその初候は「温風至」(あつかぜいたる・七十二候のひとつ)となる。

 この半夏生の時期、写真のように葉の一部が白くなり、白い尻尾のような花を付けるのが「半夏生」という野草だ。ドクダミの仲間なのであちこちの野原に群生している(湿地を好む)はずなのだが、いざ探してみると案外見つからない(大型の園芸店では見かけることがある)。三渓園では正門の左手にある「八つ橋」の際でたまたま見つけた。葉の一部が白くなることから「片白草」、葉が半分化粧をしたようなので「半化粧」とも呼ばれている。後者の半化粧と季節の半夏生と音が同じなので、現在では季節名と花期がピッタリ合うためか「半夏生」の漢字を充てることが多い。

 今回は先を急いでいたので三渓園内をゆっくりと散策することはできなかったが、園内にはカエデが多くあるので、紅葉シーズンに再訪したいと思っている。その時期、大混雑は必至だろうが。

トンネルと坂の町~ここは横須賀

f:id:haikaiikite:20190708183239j:plain

日本一トンネルが多いといわれる横須賀の町

 三浦半島の大半は丘陵地帯で、海岸まで尾根筋が走っている場所が多い。平地は少なく、現在市街地になっている大半の場所は埋立地だ。横須賀市はこの起伏に富んだ三浦半島の多くを占めているため、この地にある道路や鉄道にはトンネルが非常に多い。正確なところは不明だが、「日本一トンネルが多い町」とよく言われている。写真のトンネルは横須賀の辺鄙な場所にあるものではなく、ここを抜けると「汐入」「横須賀中央」といった横須賀第一の繁華街に出るすぐ手前にあるものだ。

 道路自体、山を削って造った「切通し」が多く、それすらできないときはトンネルを掘る。切通しの端のわずかな平地を利用して家々が造られ、それでも不足するので、尾根筋の天辺にも家が立ち並ぶ。尾根上やその傾斜地にある家にたどり着くためには急な坂道を上らなければならない。ほとんどが道幅の狭い階段なので、車はおろかバイクや自転車すら利用することはできない。私がこの写真を撮っていたとき、たまたま郵便配達人が丘にある家々に郵便物を配っているのを目にした。彼は写真にある道路の歩道にバイクを止め、急な坂道を駆け上がりながら数軒の家々を配達して回り、また駆け下ってバイクまで戻り、別の郵便物を手にして、先ほどとは異なる階段を駆け上がっては配達、下りてきて荷物を抱えては別な坂道を上るという行為を何度も繰り返していた。心底、彼には「配達、ご苦労様です」と言いたかった。もちろん、その家々に住むお年寄りたちにも。

軍港の町~ここも横須賀

f:id:haikaiikite:20190709111846j:plain

先のトンネルを抜けたところにある「ヴェルニー公園」

 ヴェルニー公園は前の写真にあるトンネルを抜けたその左手にある。以前から”臨海公園”として存在していたが、2001年、フランス式庭園様式を取り入れて大幅に改修されてオープンした。ヴェルニー記念館の前には”戦艦陸奥”の主砲が鎮座し、この公園の存在意義とその理由を明示している。ここは横須賀本港が目の前にあるため、アメリカの海軍施設と海上自衛隊横須賀基地を間近に望むことができる。写真の向かいにあるのは船を修復・整備するためのドックで、この日は日本の潜水艦が停泊していた。 

f:id:haikaiikite:20190709113924j:plain

バラ園として整備されているので園内にはバラの花壇が多い

 園内にはいろいろな形の花壇が配置されているが、すべてはバラが主役だ。このため、バラの開花期には写真のように、バラの花先に「海軍」「海上自衛隊」の姿を見ることができる。私はバラよりも潜水艦の姿に興味があったので、船の方にフォーカスを当ててみた。

 レオンス・ヴェルニー(1837~1908)はフランス人技師で、幕末から明治初期にかけて日本の設備の近代化を指導した。幕末には小栗忠順(ただまさ)とヴェルニーの協力体制で「横須賀製鉄所」を築いた。名前は製鉄所だが、製鉄以外にも軍艦の造船やその修復などをおこなった。個人的には、司馬遼太郎が「明治の父」と呼んだ小栗に興味があるのだが、彼についてはいずれ触れる機会がある。

 ヴェルニ―は明治期には洋式灯台の設置に従事した。日本最古の洋式灯台である「観音埼灯台」や日本で5番目に古い「城ケ島灯台」はヴェルニーが設計したものだ。もっとも、現存する灯台はヴェルニーの設計そのものではないが。

 こうした業績により、ヴェルニーと小栗忠順の胸像が園内の「開明広場」に設置され、その功績をたたえている。

f:id:haikaiikite:20190709121309j:plain

”軍港めぐり”の遊覧船”のを利用すると陸からは見られない艦船と間近に接することができる

 丘陵ばかりで平地が少ない横須賀が発展を遂げたのは、ひとえにその地理上の位置と地形がその理由だ。

 江戸時代には江戸と各地を結ぶ水運が発達し、その安全をはかるため江戸湾の出入り口にある浦賀(ここも横須賀市)の岬に「燈明台」(和式灯台のこと)を設置した。ここは今でも残り、横須賀の観光名所のひとつになっている。

 幕末には外国船舶が多く出入りするようになったため、幕府でも江戸湾の守りを強固にするべく軍港の整備を進めることになった。そこで選ばれたのが横須賀の地だった。大きな港を造る場所は、波に強くなければならない。風に強くなければならない。水深がなければならない。その条件をすべて満たしているのが横須賀だったのだ。

 東京近辺に住んでいる人はご存じだろうが、この地では「北東風」「北西風」「南西風」が大半だ。横須賀では、北東風は東京湾を渡ってくるので波はさほど高くはならない。冬に多い北西風と春から夏に多い南西風は風力がとても強いので厄介だが、横須賀では背後の丘陵が風を遮るので波は立たない。つまり、風よけには最適な位置にある。

 一方、尾根筋が海岸まで迫っているということは、ここの海には水深があるということになる。私は磯釣り師なので釣り場近くの水深には一番の注意を払っている。水深があるところに好ポイントがある。したがって初めて釣りをする場所ではまず磯場の形状をよく観察する。陸の形状がそのまま海底に通じているからである。このことは海遊びをする人なら経験済みだろう。陸上がなだらかならば海は遠浅なはずだ。遠浅ということは波が立ちやすい。だからサーフィンは茅ヶ崎九十九里で盛んになる。

 上記のように、横須賀の港では風が避けられ、波が静かで、海は水深がある。これ以上、軍港に適した場所はないといえる。神奈川ではなく横浜が開港場に選ばれたのもほほ同じ条件を有していたからである。

  軍港を中心に順調に発展してきた横須賀市だが、1992年2月の43.7万人をピークに人口数は停滞し、2004年には明らかに減少方向に向かい、18年2月には40万人の大台を割り込んだ。1977年以来の30万人台である。2019年6月現在は39.6万人と減少が続いている。開発可能な平地は少なく、丘陵地の住宅は年配者に厳しいという現実が突き付けられているようだ。汐入駅前にあった超大型ショッピングモールの「ショッパーズプラザ」は19年3月末に閉店となった。これも人口減少が大きく影響しているのだろう。

 横須賀には観光資源が多くあるので、現在はこの面に力点を置いているようだ。1999年には「海軍カレー」、2009年には「ネイビーバーガー」を売り出し横須賀の名物になりつつある。また、地元の海運会社が始めた「軍港めぐり」は人気を博している。写真はその遊覧船が出港したときのものだが、陸地からははっきり見られない、あるいは島陰にあって見ることができない自衛艦や米軍艦船を間近に見ることができるために人気が高まった。私がここを訪れた日は小雨混じりの梅雨寒の天気が影響してか乗客は少なかったが、普段見かけるときはいつも満員御礼という感じだ。向かいに見える自衛隊護衛艦「きりしま」には、自衛隊の司令部がある長浦港を巡ったのちの帰り際に近づくはずだ。いずれにせよ、横須賀観光や名物にも「軍港」がついて回るようだ。

f:id:haikaiikite:20190709172545j:plain

国道16号線から「どぶ板通り」に入る細道

 どぶ板通りは横須賀の人気スポットである。正式には「本町商店会」というそうだが、その名を使う人に会ったことはなく、皆が”どぶ板通り”と呼ぶ。通りの中央にどぶ川の溝がありそれが邪魔なので、上に鉄板を被せたことからそう呼ばれるようになったが、現在は綺麗な通りに整備されているので、「どぶ板」を見ることはできない。

 外国人が立ち話をしているすぐ奥に国道16号線に平行する形に通りはある。写真に見える石柱には「明治天皇横須賀行在所入口」とあるが、それを目にとめる人はいなかった。

f:id:haikaiikite:20190709173815j:plain

どぶ板通りの人気店には順番待ちをしている人たちがいた

 どぶ板通りのすぐ近くには米海軍横須賀基地の正門があるので軍関係者が多く、この通りに出てきて、昼間は食事、夜は飲酒を楽しんでいる。このため、看板は英語がほとんどで、日本語は少ない。が、軍関係者だけを相手にしていたのでは「斜陽産業」になってしまうため、日本人観光客目当てに「海軍カレー」「ネイビーバーガー」「チェリーチズケーキ」を全面展開している。それで、飲食店だけは日本語が多くなっている。

 この通りは「スカジャン」の発祥地でもある。派手な刺繍を施した「ヨコスカジャンパー」はかつて、”ヤンキーの御用達”であったが、最近ではほとんど見ることはなくなった。昼間にこの通りを訪れる観光客は日常性の延長としてカレーやハンバーガーを食するようで、スカジャンの店を訪れる姿はほとんどなかった。

 どぶ板通りは”火灯し頃”から活況を呈するのだろう。灯りに照らされた通りは、人の姿は一変するはずだ。かつては、米兵に近づくだけのために日本の若い女性が通りにあふれていた。現況は知らないが、他の「健全な」街では見られない光景がきっと、今でも繰り広げられていることだろう。そうでなくては、横須賀に来る甲斐がない。

f:id:haikaiikite:20190709180329j:plain

三笠公園に通じる歩道は綺麗に整備されている

 国道16号線三笠公園入口交差点を曲がり、道なりに公園方向に進むと綺麗に整備された歩道が公園まで続いている。歩道脇には幼稚園から大学までいくつもの学校があるため、この歩道は幼児、児童、生徒、学生で賑やかである。その歩道上には写真の「日本丸」のミニチュアが置かれていた。横浜のランドマークタワー前にある帆船の模型だ。似てはいないと思うのだが、説明書きには本物の「日本丸」のことが記してある。これも「港町」ならではの景色かもしれない。私が訪れたのは学校の下校時間だったので大勢の児童・生徒がこの前を通り過ぎていったが、この存在を気にする様子はまったくなかった。毎日のことなので、この存在も風景のひとつでしかないのだろう。

f:id:haikaiikite:20190709181731j:plain

公園には本物の「戦艦三笠」が鎮座している

 三笠公園は「水と光と音」をテーマにした公園だそうで、スピーカーから流れる音楽に合わせて水が舞う噴水、水が流れ落ちる壁泉、高さのあるモニュメントなどとても美しく整備されている。辺りを見回すと、一方には米軍施設、一方には東京湾にある唯一の自然島の「猿島」、そしてこの公園の主役である戦艦三笠の姿が視界に入る。

 戦艦三笠は1902年、イギリスの造船所で竣工した。03年、横須賀港に入り連合艦隊の旗艦となった。日露戦争では東郷平八郎司令長官や秋山真之作戦参謀などの作戦により、対馬沖でロシアのバルチック艦隊と闘い勝利した。23年、ワシントン軍縮条約で艦船保有を制限することになったので、三笠は除籍されることになった。

 しかし、その姿を残したいという声が広まり、記念艦として保存することが決まった。当初は芝浦港に係留するはずだったが、横須賀港に接岸中に関東大震災が発生して大きなダメージを受けたため、横須賀の現在の地に曳き入れられ、船首を皇居方向に向けて地面に固定されることになった。

 二次大戦後はソ連が三笠の解体を要求したが、艦橋や大砲、煙突やマストを撤去することで妥協がはかられ、横須賀市が保存・管理することになった。市から委託された業者はこれを遊興施設にしたが、客足が遠のくと次第に荒廃し、結果、近づくものさえなくなった。

 1958年、その荒れ果てた姿を見るに見かねた人々が「三笠保存会」に集まり、募金と政府予算を用いて復元することが決まった。そして61年、三笠復元式をおこなうまでに至った。その後はよく管理され、長官だった東郷平八郎の全身銅像も「記念艦みかさ」の前に屹立している。

 三笠公園は、賑やかな市街地からはやや離れた場所にあるためか訪れる人はそれほど多くはなかった。が、園内は芝生広場をはじめとして前記の施設などきちんと整備されているので、横須賀観光の骨休め場所には案外、向いているかもしれないと思った。

ヨーコはどこに?

 ヨーコを探すために横浜や横須賀の港周辺を訪ね歩いた。横浜には3回、横須賀にも2回来てみた。ヨーコの原像は見い出せたのかといえば、以下のように答えるしかない。

 ヨーコは「だまし絵」のような存在かもしれなかった。「若い娘と老婆」や「ルビンの壺」の絵を思い描いていただきたい。前者でいえば、ひとつの絵に若い娘と老婆が描かれているが、若い娘の姿を見出したときに老婆は見えない。一方、老婆を見出したときには若い娘は見えなくなっているというものだ。その絵は、人間の認知力の限界を示している。それと同じように、ひとりのヨーコを見出だしたときには他のヨーコは見えず、別のヨーコを見出したときは、すでに前のヨーコは消えている。これの繰り返しであった。すべてのヨーコを同時に見出すことは人のクオリアでは不可能なのである。同時に見出そうとすると、ときにはすべてのヨーコが消え去り、単なる風景と化してしまうのだった。実際、私には今回、こうした”ゲシュタルト崩壊”がよく起こった。

 また、ヨーコを見出したと思ったときには、すぐさまその否定形が現れた。より高次のヨーコが現れたと得心した刹那、やはりその否定形が心に浮かんだ。この繰り返しもあった。ヘーゲルのように「絶対知」というゴールがあれば良いのだが、一方、ゴールがあることが分かるなら、はじめから理想的なヨーコ像は存在しているはずだ。私にはそんな理想形を見いだせないから探し求めたのだ。が、この試みは結局、悪無限に陥るしかないのかも、とも考えた。

 さらに、ヨーコはヨーコではないものとして存在するのでは、とも思った。このため、帰謬法でヨーコの存在を探し求めたのだが、そこにはいつもヨーコではないものの存在が立ち現れたのだった。否定神学では「神は〇△ではない」という形でしか神の存在を定義できないように、ヨーコは「〇△はヨーコではない」とでしか表現できないのかもしれない。「ヨーコは存在しないものとして存在する」のだとすれば、ヨーコには永遠に出会えないのだと考えるしかないのかもしれない。

 そんなことを思いながら横須賀の町をふらふらと歩き、気付くと私は再び「どぶ板通り」にいた。なぜか、通りに人の姿は皆無だった。不思議に思いながら私は汐入方向に歩みを進めた。突然、とある店から老いさらばえた男が私の前に現れた。「この老人ならばヨーコの存在を知っているのでは」と思い、彼に尋ねた。

 彼は次の言葉を残し、忽然と虚空に消えた。

「あんた、あのこのなんなのさ」

〔14〕ヨーコを探して港へ(1)横浜慕情

ヨーコの原像を探すために横浜へ出掛けた

f:id:haikaiikite:20190627120045j:plain

山下公園の正門付近から海方向を望む

 ヨーコの名には格別な思いがある。ありふれた名なので、記憶にあるだけでも同級生には「洋子」「庸子」「陽子」「容子」がいたし、社会人になってからも「燿子」「葉子」「曜子」「瑶子」という名の知り合いができたように思う。

 が、私が探しているヨーコはそのどれでもなかった。追い求めてきたのはヨーコの原像となりえる存在であり、かつヨーコのイデアともいえる存在なのである。この思いが強くなったのは1975年からなので、すでに45年ほどの歳月が流れている。齢を重ねるにつれてその思いは次第に弱まってきてはいたものの、それでも通奏低音のようにこの思いは心の奥底にとどまり続け、今になっても消え去ることはなかった。それどころか、散策という名の徘徊を始めてから、内側に閉じこもりがちだったこの思いは再び心を強く支配するようになった。そこで、今回はヨーコの原像を探すべく「みなと横浜」に出掛けてみることにした。

 ヨーコを探すカギは3つあった。これは1975年に受けた啓示だ。「港周辺」「長い髪」「仔猫と話す」の3点だ。

 「長い髪」はカギではあるがヒントにはならない。なぜなら女性の「半分弱」が長い髪だからである。そういえば今は亡き「范文雀」もその半分弱に属し長い髪を有していた。美貌と演技力で高い評価を受けていた女優だが、私には「ジュン・サンダース」のイメージが強かったので、彼女がシリアスな役でドラマに出たとしても、いつも気分は『サインはV』なのであった。それはともかく、「長い髪」はヨーコを探すヒントにはならないことは確かだろう。

 「仔猫と話す」もダメだ。猫好きの人は大抵、猫に話しかけるからだ。私がよく徘徊する公園では、話しかけるどころか餌まで与えている人が結構いる。そもそも仔猫が微妙だ。小猫なら小さい猫だろうが、仔猫は子供の猫ということなので判断が難しい。ジャイアントパンダは「大熊猫」と表記され、「シャンシャン」はまだ生後一年なので「仔猫」には違いないが、「シャンシャン」の見物客は大半がその仔猫に話掛けている~私は何を言っているのだ。

 ともあれ、「長い髪」や「仔猫と話す」はヒントにはならない。が、「港周辺」は重要なカギになりそうだ。女性は大方、港好きだし、長い髪を潮風になびかせている。それに港周辺には公園が多いので仔猫も居そうだ。田舎の港では概ね、暇なオッサンが釣りをしているだけなのでここは避け、やはりオシャレな都会の港を訪ねてみたい。そうなると横浜港か神戸港が双璧だ。という訳で、今回は私にとって身近な存在である横浜の港周辺でヨーコの原像を探してみることにした。

鶴見の港~ここも横浜

f:id:haikaiikite:20190627135506j:plain

鶴見線の終着駅のひとつ「海芝浦駅」

 鶴見が横浜市編入したのは1927年のことである。それまでの鶴見町は京浜工業地帯の中心として川崎市との結びつきが強かった。実際、鶴見は橘郡の一角を占めていたのだ。神奈川県の一部(大半は旧相模国)は旧武蔵国の南部三郡(橘郡、都筑郡久良岐郡)にあり、橘郡が現在の川崎市、後二郡が横浜市に該当する。

 鶴見は東海道が整備されてからは商業地として発展していたが、20世紀に入って海岸の埋め立てが推進されて以来は工業地帯に変貌する。それにともなって宅地造成も進んだが、肝心の水道設備が未発達だった。とくに京浜急行が開発を進めた生麦住宅地は上水道がないため、住民は「水汲み人」を雇い入れて飲料水を確保する状態だった。そこに手を差し伸べたのが横浜市で、合併を条件に上水道の供給が行われることとなり、編入した27年には上水道が開通した。

 その間も臨海工業地帯は発展し、26年には鶴見臨海鉄道(現在の鶴見線)が輸送を開始、29年には旅客輸送が認可された。鶴見線には現在、鶴見駅から扇町駅(川崎市)の本線と、海芝浦駅(鶴見区)や大川駅川崎市)を結ぶ支線がある。私はどの線に乗ったのかは忘却したが50年ほど前、一度だけ鶴見線を利用したことがある。大半が工業地帯で働く人が利用する鉄道のため実用本位で、南武線以上にボロの電車だったと記憶している。

f:id:haikaiikite:20190627143448j:plain

南武線と同格になった鶴見線の車両

 50年振りで鶴見線に乗った。鶴見駅から海芝浦駅までである。日中は本数が少なく、この路線は2時間に1本だ。鶴見駅を11時に出て海芝浦駅には同11分に到着する。初めはこれに乗って海芝浦駅で降り、駅の隣にある海芝公園で海の景色を観察し、帰りは適当な場所まで歩けば良いと考えた。が、よく調べてみると海芝浦駅は東芝の敷地内にあるため関係者以外は外に出られないことが分かった。一方、海芝公園は駅構内にあるためそこで時間をつぶすことは可能だが、乗ってきた電車は11時25分発なので滞在時間は14分しかない。しかし次の電車まで待つと、13時25分発となるのでその地に2時間14分もいなければならないのだということも判明した。公園自体は小規模で、間近に「鶴見つばさ橋」を見ることができる程度でしかない。駅自体は海に面しているのでこの点は興味深いが、外海に面しているわけではなく対岸にある扇島との間にある田辺運河に接しているだけにすぎない。こうした点から、2時間以上滞在する理由は見当たらなかったので、現地でよほどの発見がない限り乗ってきた電車で鶴見に戻るという計画にした。

 日中発なので鶴見駅からの乗客は少なく、3両編成の車両内はガラガラだった。その中の5名(私を含め)は首からカメラをぶら下げているので、私と同じ目的のようだった。実際、同じ電車で皆、鶴見駅に戻った。次の国道駅では大勢のガキンチョが乗り込んできた。聞けば、「社会科見学」で海芝浦駅まで行くとのこと。車内は一気に賑やかになった。

 それにしても、鶴見線の車両は写真のように現代化され、カラーさえ変えればそのまま山手線にも使えるという残念なものになってしまっていた。かの南武線の車両だって新しくなったので、いまさら焦げ茶色の車両は使っていないだろうと想像はしていたのだが。

f:id:haikaiikite:20190627170727j:plain

車内からつばさ橋を望む

 鶴見つばさ橋首都高速湾岸線にあり、大黒ふ頭を経て横浜ベイブリッジにつながる。つばさ橋の主塔は鶴の姿を連想させるのでベイブリッジより個人的には好ましく思っているが、駅から望む橋の姿は周囲の景観が単調なため、丹頂鶴のような優雅さは持ち合わせていなかった。これだけでは単調鶴になってしまうので、周囲の景色は無視して車内から駅と橋の主塔を撮影しようとした。そんなときに、騒がしいだけだったガキどもが公園から戻ってきたので、こいつらを画面に入れた写真を撮ることにした。枯れ木(いや若木か)も山(海か)の賑わいである。

 彼または彼女らの社会科見学は私同様、鶴見線に乗ることが目的だったようだ。これらガキども(100人以上いた)の何人かは50年後、再び鶴見線に乗り、感慨にふけることがあるやなしや。

パーキングと有料の釣り施設で知られる大黒ふ頭

f:id:haikaiikite:20190627172928j:plain

横浜港の入口にある大黒海釣り施設

 つばさ橋とベイブリッジをつなぐ位置にあるのが大黒ふ頭で、ここには首都高速湾岸線と神奈川大黒線をつなぐジャンクションもある。さらに、ジャンクションが造るループの間には、パーキングエリアがある。ここは世界的にも有名な!?PAだ。かつては暴走族のたまり場となり、現在でも車自慢の人々が多く集まることから、外国のメディアが取材に来たことがある。私は以前にはこのPAを使うことがあったが、いつも駐車場所を探すのに苦労したので、近年では入ることもなくなった。

 一方、ふ頭の先端(南端)には「大黒海釣り施設」があるので、以前は最低でも年に一度は取材で訪れていた。近年は管理者が変わり取材には事前申請が必要になったため、その手続きが面倒なのでここ数年はパスしていた。が、ここの釣り場は獲物こそ大したことはないが、景観は魅力的なので、PAの立ち寄りを止めてこの釣り場を久方振りにのぞいてみることにした。

 ここは横浜港の出入口に位置するため、港に入る(出る)大半の船はこの釣り場の目の前を通り過ぎる。先端にある赤灯台は、ここが入港時の右側であることを示している。向かいにはガントリークレーンが立ち並ぶ本牧ふ頭があるが、写真の左手にはそのふ頭にある「横浜港シンボルタワー」が見える。こちらは、入港時の左側を示す「白灯台」にもなっている。この赤灯と白灯の位置は、どこの港でも同じルールになっている。もちろん、出港時はこの逆に見え、外海に出るときは左手が赤灯台となる。

f:id:haikaiikite:20190627180829j:plain

釣り場の内湾側からの景色。横浜を彩る多くの建造物が見える

  釣り場の内湾側は写真の通り景観が良い。この釣り場は突堤(釣り場が造られる前は大黒赤灯堤防と呼ばれていた)の上に造られており、その形状は湾口を少しだけ狭めるようになっている。なので、外海側でも内湾側でも潮の動きはさして変わらないにも関わらず、そこは釣り人の性なのか少しでも外海側の方が好ポイントであると考えてしまうようだ。このため、景観の良い湾向きの方が釣り人の数は圧倒的に少ない。折角、景観が楽しめる釣り場なのだから、のんびりとベイブリッジ横浜市街の風景を眺めながら竿を出した方が心地よいと思うのだが。

 後姿が素敵な女性は、遠くの景色に目を向けることもなく懸命に釣りに専心していた。同行したと思われる隣の男性は、その熱意に感じ入る様子で温かい眼差しを送っていた。私が見ている間には何も釣れなかったが、その女性は終始、竿先に神経を張り詰めていた。その姿に私は、ほんの少しだけヨーコの原像を見出したのだった。

横浜を造った人のこと

f:id:haikaiikite:20190627221629j:plain

高島山から横浜港方向を望む

 私は高島台に立ち、今はビル群が壁となって視界を塞いでいるので見えないが、その先にある横浜港のことを思った。さらに、この横浜の地を造った人のことを。

 高島嘉右衛門は幕末に横浜村の土木工事で財をなし、いつしか国家的な事業を行いたいと考えていた。彼は、伊藤博文大隈重信を自分が作り上げた割烹旅館の「高島館」に招き、日本の発展のためには鉄道事業が必要不可欠であることを熱心に説いた。実際には、維新政府もすでに鉄道建設のプランを立て、東京・横浜間の鉄道敷設の建議書を作成していた。

 政府はイギリスから若き鉄道建設技師のエドモンド・モレルを呼び、彼を鉄道建設師長に任命し、新橋・横浜間の鉄道敷設の総指揮をとらせた。この際、もっとも難事業であったのが、神奈川(現在の神奈川区青木町付近)から横浜(現在の桜木町駅付近)間だった。当時ここは入海で、鉄道を敷くには大きく迂回するか堤防を築くかのどちらかしか選択肢はなかった。

 伊藤や大隈は堤防を築くことを提案し、その事業を請け負ったのが、高島嘉右衛門だった。長さ約1300m、幅約80mの巨大な堤防だ。幅80mのうち、20mほどは鉄道や道路に使い、残りは請負人すなわち高島のものになるという計画だった。ただし築堤期限はわずか135日、完成が一日遅れるごとに高島の権利は少しずつ奪われるという罰則付きだった。

 高島は築堤現場の背後に控えていた高台(大綱山、現在は高島山)に立ち、工事が完了するまでその場から連日、進捗状況を監督し無事、期限内に完成させた。晩年、高島はその監督の地を「望欣台(ぼうきんだい)」と名付けた。鉄道、道路以外の場所は横浜の中心街として大いに発展した。入海の多くはその後に埋め立てられた。それが、現在の西区高島を一帯とするところである。また、大綱山一帯も宅地整備が進み、現在は高島台と呼ばれている。その一角には高島山公園があり園内には「望欣台の碑」がある。

 高島嘉右衛門は易者としても名を成している。若き日に『易経』を暗記し、晩年には「易断」をおこなった。伊藤博文の暗殺を予言したことはよく知られている。彼の易断はよく当たったらしいが、彼は「占いは売らない」といってこれを商売に用いることを戒めた。現在、占いの本の多くは高島にあやかって「高島易断」を名乗っているが、これは高島嘉右衛門の占いの確かさの証左だろうか。

f:id:haikaiikite:20190627232714j:plain

井伊直弼の像。彼なくしては横浜の発展はなかった

 1853年にペリー艦隊が来訪し、翌54年に日米和親条約(通称神奈川条約)が締結された。これにより下田と箱館(函館)の開港が決まり、「鎖国」体制は終焉した。さらに米国は自由貿易を推進・拡大するために58年、日米修好通商条約(通称ハリス条約)の締結を迫った。これには神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港条項があった。大老井伊直弼天皇の勅許なしの調印を当初は拒んだが、ハリスの強硬姿勢に抗せず孝明天皇の勅許を得られぬまま調印した。

 神奈川の開港は1859年が期限。問題は神奈川のどこに港を建設するかだった。井伊は横浜村を勧めた。当時の横浜村は入海があって港には適した地形で、かつ東海道から離れた所にあり、民家は百軒程度という寒村だったからである。井伊は外国人をこの地に閉じ込め(第二の出島化)、できるだけ日本人との接触は避けたいという意向だった。一方、外国奉行の永井尚志や岩瀬忠震らは条約通り、東海道の宿場町である神奈川に港や外国人居留地を造るべきだと主張した。

 ハリスは、横浜だと東海道から遠く、途中には入り江や川があり、交通上とても不便であると主張して井伊の提案を拒否した。が、井伊はあくまでも横浜にこだわり、日本の外国奉行たちも結局、井伊の提案に沿って横浜の港町化を進めた。現在の海岸通りに住んでいた百軒程度の農民は元町に強制移住させ、港造り町造りが行われ、予定通り59年に横浜港が開港した。今から160年前のことだった。

 これにはハリスは激怒したものの、外国商人は横浜港の利便性の高さから続々とこの地に移住するようになった。結局、既成事実が条約の取り決めを上回ることになり、横浜港は順調に発展することになった。

 一方、井伊直弼には「安政の大獄」という負の側面を抱えていたため、1860年(万延元年)、桜田門外で水戸藩薩摩藩の脱藩者によって暗殺された。保守派ながら現実主義者だった井伊は、孝明天皇徳川斉昭らの排外主義によって46年の生涯を閉じたのだった。

 井伊直弼の墓は世田谷区の豪徳寺にあるということは第9回の「世田谷線」の項で紹介した。一方、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼の銅像は、桜木町駅の西側にある高台(掃部山公園)にある。直弼が倒れてから50年後の1909年に建造(54年に再建)された。日本経済発展の功労者でありながら、勤王の志士を弾圧し、天皇の意向に逆らったという点から、薩長を中心とする維新政府はなかなか許可を下ろさなかったのである。

 井伊が横浜村での港建設にこだわらなければ、時代の趨勢として神奈川に港が建設されたはずだ。江戸との交通条件を勘案すれば、神奈川区から鶴見区あたりが発展の中心となったはずで、現在の横浜市の中心街は、新興住宅地か工業地帯になっていた可能性は高い。こう考えると、今の横浜市の利害当事者にとって井伊直弼は「横浜市建設の父」と言えるだろう。井伊の強硬姿勢がなければ今頃は、神奈川県神奈川市に県庁があり、横浜区は18ある行政区のひとつだった蓋然性は意外に高いのである。

 こう考えると、ランドマークタワーを見つめる井伊直弼は「俺のおかげでお前はそうして立つことができたんだぞ」と威張って語っているような気がした。いや実際に。

みなとみらいの中心に足を進める

f:id:haikaiikite:20190628120003j:plain

臨港パークから高層ビル群を望む

 みなとみらい地区には3つのペデストリアン軸(歩行者動線)があり、写真の臨港パークはキング軸(横浜駅新高島駅から海岸線)の終点に位置する。みなとみらい地区では一番大きな公園だが、この周囲は開発がもっとも遅れている。10年ほど前はこの辺りにはよく来たが、周囲は空き地がほとんどで「みなとみらいの開発は失敗に終わった」などとよく言われていた。今回、久しぶりに臨港パーク周辺に来たが、空き地にもかなり建造物ができていた。これは「紙幣本位制バブル」が大きく影響していると思う反面、建物や会社名、店舗名を見ると、「未来の都市」とはおよそかけ離れた空間ができてしまったようにも感じられる。これらは田舎の郊外にあるショッピングモールと同等の姿であり、これが「みらい」なら未来には何の希望もないと言っていいだろう。

 臨港パークからの眺めで気に入っているのはランドマーク、クィーンズスクエア、2つのホテルの並びだ。これらは通常、汽車道大さん橋山下公園側から見ることがほとんどなので、この眺めは裏から見た「みなとみらいの表情」に思えてしまう。空間の逆位相と考えられてしまう点が面白い。

f:id:haikaiikite:20190628124303j:plain

臨港パークでは釣り人をよく見かける

 写真にはないが、この右手には「ぷかり桟橋」の建物がある。写真にあるのは桟橋の一部で、山下公園とを結ぶ水上バスや横浜港を周遊する観光船の発着場所となっている。パシフィコ横浜会議センターの裏手にあるためあまり目立つ場所ではない。このためか、写真のように地元の釣り人がよく集まる場所でもある。臨港パーク自体、みなとみらい地区では一番人影が少ないので、おじさんたちが集まって釣りの会議をするには最適なのかもしれない。向かいにはベイブリッジが見えるのでここが横浜であることはすぐに分かるが、橋がなければ、無名の港に集う老釣り人たちという風情だ。

f:id:haikaiikite:20190628125608j:plain

日本丸とランドマーク

 日本丸は大型練習帆船として1930年に竣工した。84年に引退してからは写真にある旧横浜船渠会社の第1ドックに係留・保存されている。全体が”日本丸メモリアルパーク”として公開され、ときには”総帆展帆”されるそうで、”太平洋の白鳥”と言われるほど美しいらしい。なお、姉妹船の「海王丸」は富山県射水市の新湊港に展示保存されており、こちらでは帆を広げているのを見たことがある。確かに息を呑むほどの美しさだったと記憶している。

 ランドマークタワー(高さ296m)は”みなとみらい”では一番高く、その横のクィーンズスクエアの3本のビル(一番高いA棟で172m)は海に近いほど低くなっている。つまり、このビルの並びは全体でひとつの波を表現しているのだ。その前にある美しい帆船がこの高い波を超えて前進する。演出が行き届いた、なかなかいい風景だと思う。

f:id:haikaiikite:20190628153348j:plain

横浜港内をスタンドアップパドルで散策

 汽車道に向かう途中、港内をスタンドアップパドル(SUP)で散策し、さらに大岡川方向に進む一群を見かけた。SUPは今、流行らしくあちこちの川や池、港などでよく見る。日本語では”立ち漕ぎボード”というらしいが、バランスを取るのが難しいように思われた。どこかのクラブの一行のようで、インストラクターの指示で川に向かって進んでいた。日本丸から汽車道に進む道は観光客がとても多いので、彼・彼女らは無数の視線を浴びていたはずだが、漕ぎ手は態勢を維持するのに必死で、ギャラリーの存在には気づいていない様子だった。大都会の中心を立ち漕ぎボートが行く。これもまた、波静かな入海をもった横浜ならではの光景なのかもしれない。

f:id:haikaiikite:20190628155039j:plain

かつての臨港線の鉄道を残したまま道は赤レンガパーク方向に進む

 臨港線は1911年に開通した旧横浜駅と新港ふ頭とを結ぶ貨物輸送鉄道だった。戦後は旅客列車も運行されるようになったが61年に旅客運送が、86年には貨物輸送が廃止され事実上廃線となった。それが、一部線路を残しつつプロムナード(散策路)として整備され、赤レンガパークからさらに山下公園付近まで続くのが写真の「汽車道」である。

 写真の桜木町付近では高層ビル群が間近に望め、改修された古い橋梁を渡って運河パーク方向に進む。ホテルの開口部を抜け、万国橋交差点を渡ると新港中央広場に至る。

f:id:haikaiikite:20190628160849j:plain

新港中央広場から赤レンガ倉庫2号館を望む

 新港中央広場には白いアジサイアナベル)が多く咲き、それにヤマアジサイが色どりを添えていた。さらに、ハクチョウソウが優雅な花を風に揺らしていた。その先に見えるのが、みなと横浜で随一の人気スポットとなった赤レンガパークである。

f:id:haikaiikite:20190628161648j:plain

赤レンガ倉庫2号館内には商業施設がある

 赤レンガパークには赤レンガ倉庫1号館、2号館、イベント広場などがある。1号館には文化施設、2号館には商業施設があり、人々の多くは2号館に集まっている。

 赤レンガ倉庫は、横浜築港の二期工事(1900~17年)のときに造られた。この二期工事で新港ふ頭は完成し、大型船舶が横付け可能となり、前述したように臨港鉄道が敷かれ、旧横浜駅(現在の桜木町駅)を経て東海道線につながった。

 1923年の関東大震災横浜市は壊滅状態となったが、赤レンガ倉庫2号館はほとんど被害を受けなかった。この倉庫に収容されていたのはアメリカ向け生糸だったとのこと。戦後は一時連合国軍に接収されていたが、56年に返還され日本の高度成長を担った。しかし、横浜港には新たに山下ふ頭や本牧ふ頭、大黒ふ頭などができ、また貨物のコンテナ化が進むにつれて赤レンガ倉庫の役割が逓減し、89年にその役目を終えた。一方で、みなとみらいの整備計画が進むと赤レンガ倉庫の新活用が早くから検討されており、2002年に整備が完了し、現在の赤レンガパークとなって再出発した。

横浜港の歴史遺産あれこれ

f:id:haikaiikite:20190628171936j:plain

塔が有名な横浜税関庁舎

 税関は開港当初は「運上所」と呼ばれ、入国管理事務と税関の仕事をおこなっていた。1859年の開港と同時に造られた。場所は現在の神奈川県庁の一角にあった。この運上所を中心に東側が外国人居留地、西側が日本人居住地と定められた。

 1866年の横浜大火(通称”ぶたや火事”)で運上所が消失したのち、68年、同所に新庁舎が建てられ名称も「横浜役所」に改められ管轄権は政府に移った。72年には現在の名称である横浜税関になった。

 1923年の関東大震災で庁舎が全壊し、34年、場所を少し港側に移し、海岸通りに面したところに現在の庁舎が竣工した。写真にある通りこの建物は緑色の高い塔を持っている。高さは51mで、当時、横浜ではもっとも高い建物だったそうだ。ちなみに、横浜港近くには高く特徴的な塔をもった建物が3つあり、横浜に入港する際に船員からもその塔の存在がはっきりと視認できたので、いつしか「キング」「クィーン」「ジャック」というトランプ(人ではなくカードのほう)から拝借した名前が付けられた。この税関の塔は「クィーンの塔」と呼ばれ、現在でもその名が残っている。

 横浜観光の通(つう)の間では、この「横浜3塔」が同時に見られる場所を訪れるのが流行だそうだ。年々、周囲には高い建築物が増殖するので、今では一遍に視認できる場所はとても少ないそうである。私には流行に乗じる習慣はまったくないので「聖地探し」に興味はないが、この3つの塔のある建物には個別に訪れている。

f:id:haikaiikite:20190629121753j:plain

象の鼻パークからみなとみらいを望む

 象の鼻防波堤は古く、1859年の開港時に”イギリス波止場”として造られたのがその原型である。当初は直線状だったが、これでは波に弱いので、67年に形を湾曲にして”防波堤”としての役割をもたせるようになった。この頃から「象の鼻」と呼ばれるようになったらしい。しかし、関東大震災で大きく損壊してしまったため、今度は先端だけが少し曲がった形の突堤として再建された。

 現在は、かつての「象の鼻」の形に復元されている。これは、周囲を「象の鼻パーク」として整備した際の一連の事業の中でおこなわれたものであり、2009年に竣工している。堤防自体には見るべきものはさほどないが、写真のように赤レンガ倉庫からコスモワールドの大観覧車、みなとみらいの高層ビル群がよく見え、とくに夜景が美しいことからここも人気場所となっている。

f:id:haikaiikite:20190629125007j:plain

よく大型客船が接岸することで知られる”大さん橋

 大さん橋は、大型豪華クルーズ船がよく接岸するのでニュースにも取り上げられることが多い。金と暇をふんだんにもつ富裕層の間では、一番贅沢な旅である豪華客船による長期クルーズが人気らしいが、日本に立ち寄る場合、ほとんどは神戸か横浜の港に接岸する。横浜港のメインになるのが大さん橋で、7月だけでも「ダイヤモンド・プリンセス」「ぱしふぃっくびいなす」「飛鳥Ⅱ」「にっぽん丸」「マースダム」の入港が予定されている。

 大さん橋の前身は1894年に完成した鉄桟橋で、その後、幾たびかの改修を経ながら現在の形になっている。とくに1964年の東京オリンピックに備えた大改修によって、豪華客船が多く接岸するようになった。75年に「クィーンエリザベス二世号」の接岸の際は50万人以上が訪れ、伝説にもなっている。

 わたしにとってこの大さん橋はとても馴染み深い存在だ。おそらく、100回以上は利用している。もちろん、豪華客船を利用したのではなく、磯釣りに出掛けるためだった。とくに30代前半からの10年間、週末のほとんどは仲間と伊豆大島、新島、式根島神津島に出掛けた。当初、伊豆諸島行きの東海汽船は浜松町にある竹芝桟橋からだけ出ていたが、途中から週末だけは大さん橋にも寄港するようになったので、私はその利便性の高さからここを利用することにした。金曜日に予備校での講義を終え、急いで準備をしても竹芝桟橋では午後10時発なので、ギリギリ間に合うという状況だった。それが大さん橋では午後11時30分になるので、余裕たっぷりに出かけられた。帰りも一時間半早く横浜に帰港するので、船が竹芝に着く頃には自宅に戻れた。

 行きは桜木町駅で降り、海岸通りをガラガラと大型カートの車輪の音を立てながら、多くのカップルが散策する中を勇躍、大さん橋まで進行した。帰りは日本大通りから横浜公園をトボトボとした足取りで抜けて関内駅に向かう。釣りの、とくに磯釣りの荷物は餌と魚の臭いが染みついているので独特の素敵な香りがする。このため、釣り人の周りだけは混雑した電車の中でさえ大きな空間ができるので、車内での押し合いへし合いからは解放された。

 2002年までの大改修で、大さん橋の屋上には広々としたデッキ(クジラの背中)ができて観光名所となった。山下公園の全景や赤レンガパーク、高層ビル群がよく展望できるためかカップルの数がとても多い。それもきちんと海に向かって等間隔に並ぶのが面白い。

f:id:haikaiikite:20190629134826j:plain

開港広場にある日米和親条約締結の碑

 大さん橋から大さん橋通りに向かう交差点の南側に開港広場がある。1854年、条約締結のために再び日本を訪れたペリーは、条約調印場所として江戸を希望した。一方、異人(外国人)を入府させたくない幕府側は浦賀か鎌倉を希望した。ペリーはこれを拒絶したが、幕府が代案として示した横浜村での調印を受け入れた。寒村であった横浜村の原野に突貫工事で応接所を建設し、ペリーと林大学頭との間で日米和親条約が調印締結された。横浜という土地が初めて注目を受けた場面だった。

 写真はその締結場所である。現在は開港広場になっているが、この碑を目にとめる人は皆無に近い。私はこの辺りを釣り道具を持って何度となく歩いていたのだが、特にその存在には気づかなかった。日本の歴史の転換点、横浜の歴史の出発点なのだが、その存在感はあまりにも小さい。

 私自身、この碑の存在より、写真にある向かいのオシャレなレストランのほうがいつも気になっていた。が、一度も利用したことはない。店内には素敵なハマの女性たちがいつも多くいた(通るときは必ず店内をのぞいた、無意識のうちに)が、餌のオキアミと魚の臭いが染みついた釣りのベストを着た格好では入る覚悟はなかった。もっとも、そのいで立ちでは”入店お断り”となっていただろうが、いやまったく。

f:id:haikaiikite:20190629141215j:plain

海岸通りと横浜公園を結ぶ日本大通り

 1866年の大火は豚肉業者のところで出火したので「ぶたや火事」と言われた。この大火事で日本人町の3分の2、外国人居留地の4分の1が焼け落ちた。外国人居留者から「防災都市づくり」を求める声が上がり、延焼を防ぐために海岸から横浜公園まで結ぶ幅36mの道路の建設が決まった。それが写真にある”日本大通り”だ。完成したのは79年で、車道と歩道を区別した当時ではもっとも新しい設計の道路だ。横浜税関のところでも述べたように、この通りを挟んで東側が外国人居留地、西側が日本人居住地になっていた。

 街路樹にはイチョウが植えられ、今でもその緑が大きく歩道を覆っていて、涼を求める人、カフェでくつろぐ人で賑わう。この通りには神奈川県庁、横浜港郵便局、横浜地方裁判所、日銀横浜支店などが立ち並び、とても落ち着いた雰囲気を醸し出している。

f:id:haikaiikite:20190629160022j:plain

神奈川県庁の天辺にあるのがキングの塔

 日本大通りに面する神奈川県庁本庁舎は1928年に竣工した。23年の大震災で旧庁舎が焼失してから5年後のことだった。高さ48.6mの塔屋は「キングの塔」と呼ばれている。向かいには現在、13階建ての分庁舎を建設中だ。それ以外にも新庁舎や第二分庁舎などが周囲にある。

f:id:haikaiikite:20190629161346j:plain

開港記念会館の時計塔はジャックの塔

 高さ36mの時計塔(ジャックの塔)をもつ横浜開港記念会館は1917年に竣工した。大震災で全焼したものの、一部を残して当初の姿に復元された。89年、手前のドームも復元され、完全に以前の姿に戻った。

 キングの塔(48.6m)やクィーンの塔(51m)に比べてジャックの塔は36mと低いので、横浜3塔では一番、周囲の高層ビル群に埋もれやすい。その一方、間近にで望むともっとも優美な姿をしている。

山下公園にいると、なぜか心がとても穏やかになる

f:id:haikaiikite:20190629162536j:plain

公園からみなとみらいを望む

 山下公園は1930年、関東大震災で生じたガレキの山が海に投入されて造られた。震災では横浜全市だけで3万8千戸が倒壊した。これは市の建造物の3分の1に上る数だった。そうした犠牲の上に造られたのがこの美しい公園である。

 今回、冒頭に挙げた写真は山下公園の中央口から入ったところにある噴水広場、それに公園を象徴する氷川丸を望む風景だ。噴水の中央にあるのが「水の守護神像」で、横浜市姉妹都市であるサンディエゴ市(カリフォルニア州)から1960年に贈られたものだ。このため、この噴水広場は「サンディエゴ友好の泉」と名付けられている。

 ここに挙げた写真は、公園からみなとみらい方向を望んだもの。私が小さい頃に訪れたときはこの方向がここでは一番面白味のない景色だったが、みなとみらいの整備が進んだ現在では、もっとも気に入られている景観かもしれない。中華街をまず訪れ、それから山下公園を散策し、この写真の景色を見ながら赤レンガパークに進むというのがお定まりの観光コースだ。

 写真の中には、みなとみらいを代表する建造物がほとんど入っている。右手には赤レンガ倉庫、その上方にパシフィコ横浜会議センターの上部に独特の形状でそびえる”グランドコンチネンタルホテル”、その左に”ベイホテル東急”、コスモワールドの観覧車、”クィーンズスクエア”、”ランドマークタワー”と、みなとみらいの”全部乗せ”といった景観がここにはある。

f:id:haikaiikite:20190629185728j:plain

往年のスター、マリンタワーとニューグランド

 目を反対側に転じると、かつて横浜を代表した建物が見える。マリンタワーホテルニューグランドの本館だ。マリンタワーは現在休館中(19年3月より)だし、ニューグランドは隣にある新館がメインとなっている。

 小さい頃、横浜にはよく遊びに来た。山下公園で遊んだ。氷川丸を見学した。マリンタワーに上った。ニューグランドは外から見るだけ。中華街には行けなかった。元町は通るだけ。港の見える丘公園や外人墓地でも遊んだ。みなとみらいはまだなかった。遠足でも横浜には来た。小さい頃と同じ。20~30代にもよく来た。小さい頃とほぼ同じ。

 マリンタワーは1961年に開業した。開港100年(1959年)記念事業の一環として建設された。高さは106m。360度見晴らしは良かった。しかし、みなとみらい地区に超高層ビルが林立し始めると、マリンタワーは見晴らしを誇ることはできなくなった。ランドマークとしての地位も、ランドマークタワーに席を譲った。開港150年の年に改修が行われたが利用客数は回復しなかった。2022年までに大改修して再開する予定だそうだが、果たしてどうなることやら。

 ニューグランドは1927年に開業した。23年の大震災でほとんどの宿泊施設は壊滅したため、外国人観光客を受け入れるホテルがなくなった。そこで、ニューグランドが建設されたのである。丁寧な対応とおいしい料理、客室から眺める美しい景色が評判を呼び、外国の要人が多く利用した。イギリス王族やチャップリンベーブルースジャン・コクトーなども宿泊した。もっとも有名なのがマッカーサーが利用したことだろう。

 連合国軍総司令部GHQ)は最初、クィーンの塔のある横浜税関に設置された。マッカーサーはニューグランドの315号室を利用した。すぐにGHQは東京に移ったのでマッカーサーの利用は短期間だったが、この部屋を相当に気に入っていたらしい。現在、315号室は「マッカーサースイート」として一般に開放されている。私も利用してみたいが先立つものがない。

 かように、マリンタワーとニューグランドは、かつて横浜を代表する建物であった。小さい頃からこの景色を知っている私にとって郷愁を誘うとともに時の流れの速さを実感する。世界は無常であり無情でもある。

f:id:haikaiikite:20190629215450j:plain

氷川丸は常に山下公園とともにある

 氷川丸は1960年に除籍され、解体される 予定だったが市民らの要望が強く観光船に改造(現在日本丸が係留されているドックで)され61年、山下公園に係留されて現在に至っている。総トン数は12000トン。全長は163m。

 氷川丸が竣工したのは1930年。奇しくも山下公園が開園した年だった。名前は旧武蔵国の一宮である大宮氷川神社から採られている。横浜港から北米シアトルの航路に就航し引退するまでに太平洋を254回渡っている。38年にはIOC総会から帰国する嘉納治五郎を乗せたが、横浜に到着する2日前に嘉納は船内において肺炎で死去した。

 戦争中は一時、病院船に改造されて任務に当たった。3度触雷したが、他の船に比べて鋼板が厚いために沈没は免れている。戦後は復員兵や民間人の引き揚げ船に使われ、その後、旅客船に復帰し60年に引退した。61年以降は山下公園に係留され、当初はユースホステルなどの宿泊施設もあった。老朽化した現在でも博物館船として公開されている。

 氷川丸が係留されている場所の山下公園側には2016年に整備された「未来のバラ園」がある。園内には160種、1900株のバラが現在ある。すでに”現在もバラ園”であり、私が訪れたときには花期は終盤を迎えていたが遅咲きのバラがまだ多くの花をつけていた。ここにはバラだけでなく様々の園芸種も植えられており、夏咲の品種がたくさんの花を咲かせていた。写真の女性はコンパクトではない本格派の一眼レフを構え、熱心に被写体を探していた。ここでは私のカメラよりはるかに立派な一眼レフをもった女性を数多く見かけた。

f:id:haikaiikite:20190629230522j:plain

赤い靴はいていた女の子像と氷川丸

 童謡の「赤い靴」(1922年)の2番の歌詞に「よこはまの はとばから ふねにのって いじんさんに‥‥」とあるので、赤い靴を履いた少女は横浜港から外国人に連れられて旅だったのだろう。3番には「いまでは あおいめに なっちゃって‥‥」とあるので、この外国人は欧米人の可能性が高い。野口雨情は前年に「青い目の人形」を発表していて、歌詞の1番にはその人形は「アメリカうまれのセルロイド」とあるので、「青い目の人形」と「赤い靴」との関連性を指摘する声はかなりある。さらに、この赤い靴の少女にはモデルがいるという意見や、雨情は社会主義者だったので「赤」は社会主義もしくは「ソ連」の暗喩という説すらある。

 考えすぎという他はない。雨情には「七つの子」という作品がある。これも「七つ」が7羽なのか7歳なのかという論争があるらしい。通常、カラスは卵を3~5個産むので仔は最大でも5羽だろうし、カラスの寿命は20年ほどといわれているので7歳は子供ではないだろう。大体、カラスは「可愛い可愛い」とは鳴かない。カラスが鳴くのはカラスの勝手だし、大抵は「カー」とか「ギャー」と鳴く。

 童謡だけでなく歌詞一般に作者の特別な思いを見出そうとするのはさほど意味のあることではなく、聞き手が想像を膨らませてその人なりのイメージを生み出すことに意味がある。いろいろな聞き手がそれぞれに思いを抱けるのが良い歌なのであって、作者がどんなに出鱈目な人間であっても構わない。実際、雨情の「波浮の港」の歌詞は間違いだらけだが、それでも曲調に合致して伊豆大島に暮らす人々の哀愁は聞き手に十分に伝わる。波浮の港からは三原山が邪魔して夕焼けは見えないし、伊豆大島には鵜はいないにしても、だ。

 「赤い靴」は「横浜の波止場」と「異人さん」という言葉、それに本居長世(私は最初、本居宣長だと思った。多分そう考えた人は多いはず)の曲調が、少女の孤独と悲哀を聞くものに感じさせるので、名曲として伝わっているのであって、それ以上でも以下でもない。

 山下公園にある「赤い靴はいてた少女像」は「赤い靴を愛する市民の会(現在は赤い靴記念文化事業団)」が寄贈したもので、横浜の姉妹都市であるサンディエゴにも同型のものが贈られているそうだ。

 この像の少女はしっかりと海の方を見つめている。横には北米航路に使われた氷川丸が控えている。やはり、彼女を連れていった異人はアメリカ人なのだろうか。シアトル在住なのだろうか。少女の郷愁が青い目の人形として日本に戻ったのだろうか。青い目の人形は1921年、赤い靴は22年発表、氷川丸は30年就航。時間の整合性はない。

 でも、それでいいのだ。いや、これこそヨーコの原像かもしれない。

  * * *

・表題が「徘徊老人・まだ生きてます」から上記に変わりました。URLは変更なしです。

・この項のため(それ以外の理由の方が大きいが)3回、横浜を訪ねました。日にちが異なっているので写真の空模様も晴れあり曇りありです。

・横浜篇はまだ続きます。中華街、元町、港の見える丘公園本牧などは次回に登場します。

 

 










 

 

〔13〕金沢逍遥~ただし横浜市金沢区のほうです(その2)

金沢八景とその由来

f:id:haikaiikite:20190614201106j:plain

平潟湾で採った貝を洗う人

 金沢八景とは「小泉夜雨」「称名晩鐘」「乙艫(おつとも)帰帆」「洲崎晴嵐」「瀬戸秋月」「平潟落雁」「野島夕照(せきしょう)」「内川暮雪」の八つの風景をいう。17世紀末、心越禅師(中国からの亡命僧。水戸光圀に重用された)が、現在の金沢区の高台(能見台あたり)から海辺の景色を望み、かつて住んでいた中国杭州の西湖(せいこ)付近(風光明媚で世界文化遺産に登録済)を思い出させるほど美しい景観だったことから、それまでに「金沢八景」とされていた場所を上記の形に同定した。

 「~八景」は、日本に無数にあるが、そのうち、「近江八景」と「金沢八景」が白眉とされている。これは前回も記したように歌川広重の八景図がとりわけ有名だからでもあろう。両作品とも、「ヒロシゲブルー」の美しさが如何なく発揮された優れたもので、見るものを深く感動させる。

 「~八景」は金沢八景のように、「~夜雨」「~晩鐘」のごとく前半の「~」に地名を入れ、後半の「夜雨」や「晩鐘」につなげれば、ほとんどの場所で「八景」を構成することができる。たとえば私の地元では「是政帰帆」「浅間夕照」「高安晩鐘」というように。もっとも、それがヒロシゲブルーを用いたくなるほど美しい風景かどうかは別なのだが。

 この「~八景」の原点は、中国北宋時代の「瀟湘(しょうしょう)八景」にある。これは、詩人蘇東坡のお友達であった宋迪(そうてき)(11~12世紀の官僚・画家)が、現在の湖南省岳陽市、長沙市辺りの風光明媚な場所を八カ所選び、それを風景画にしたことに始まったとされている。瀟(しょう)は瀟水という湘江の支流(湘江の本流は長江)で、瀟水と湘江との合流点辺りの風景は美しく神秘的であって、古くから詩や散文などに取り上げられてきた。屈原の『楚辞』や杜甫の『登岳陽楼』はこの地が題材にされ、これらの作品は日本の教科書にも出てくる。また、中国古代の名帝の堯(ぎょう)はこの地域の出身とされ、彼の娘は湘君、湘妃という名をもつといわれている。

 ちなみに、湖南省の湖とは洞庭湖(長江の南岸にあり、湘江はこの湖に流入する)のことで、この湖の南側の地域(湖北省は湖の北側)を指す。また、湘南の湘は湘江のことで、その南側(長沙市周辺)も景勝地として名高い。日本の湘南はこれにあやかっており、元々は相模の国の南側、すなわち「相南」だったはずだ。

「称名晩鐘」で知られる称名寺は金沢北条氏の菩提寺

f:id:haikaiikite:20190614231813j:plain

境内にある美しい庭は国の史跡に指定されている

 称名寺は、金沢(かねさわ)北条氏の初代である北条実時(さねとき、1224~76)が建てた阿弥陀堂を基に、鎌倉極楽寺を開いた忍性によって真言律宗の寺となったという。歴史のある寺だけに国宝や重要文化財に指定されているものが多数あるが、私のお気に入りは、国の史跡に認定されている「阿字ヶ池」を中心とする写真の「浄土式庭園」である。今では「都立府中の森公園」が私の徘徊場所であるが、金沢区に住んでいたときは、この称名寺の庭や森が身近な散策場所だった。

 浄土式庭園というと岩手県平泉の毛越寺(もうつうじ)や京都府宇治の平等院のものがどちらも世界遺産に指定されるほど有名だが、ここの庭園はそれらに勝るとも劣らないと個人的には考えている。前二者は拝観料がかかるが、称名寺は無料なのも散策に適している点だ。気軽に行けるので、庭のもついろいろな表情に接することができるので、より魅力が深まるのだ。

f:id:haikaiikite:20190615131210j:plain

称名寺の山門はその大きさに定評がある

 私が以前に散歩していたときは、家が称名寺の西にあったために、前回紹介した赤門や写真の山門(仁王門)は通らず、西側にあるお墓の通路や金沢文庫から通じるトンネルを利用して庭園に入っていたため、しみじみと山門の金剛力士像を見上げることはなかった。両側にある力士像は1323年に造られたとのこと。ヒノキの寄せ木造りで高さは4mもあり、パンフレットによれば東日本にあるこの手の像としては最大級の大きさらしい。なるほど今回、改めて見てみると、その大きさは確かに他ではあまり見たことがない。

f:id:haikaiikite:20190615132128j:plain

朱色の反橋と平橋は称名寺庭園の象徴的存在

 山門から金堂に通じる場所には「阿字ヶ池」があり、その中央には反橋(長さ18m)と平橋(長さ17m)が架けられている。これらは1986年に復元されたもので朱の色はまだ新しさを感じる。池の西側からは池面に映る橋の影が綺麗に見られるので、私が訪れたときにも10名ほどの写真愛好家らしき人がシャッターチャンスを狙っていた。そのうちの7名は女性であり、近頃はどこに行って女流写真家の姿が目立つ。

 この日は生憎、やや風が強かったので池面はさざ波立っており、鏡面のときのような対象美を写すことはなかなかできず、大多数の人は風が収まる瞬間を辛抱強く待っていた。私といえば根が大雑把なので、先に挙げた写真で妥協した。

 寺院の建造物には「朱」がよく用いられている。これは中国の伝統を受け継いだもので、湖南省の辰州で多く採られたことで名付けられた、硫化水銀の鉱物である「辰砂」を原料としているからである。日本でも古来から産出されており、「丹」や「丹生(にゅう)」などと呼ばれ、その鉱物が多い川は「丹生川」と名付けられていて、日本各地にその名をもつ川や地名は多い。

 和歌山市に河口をもつ「紀ノ川」は奈良県に至って「吉野川」と呼ばれるが、その支流で西吉野地域を流れるものは「丹生川」と呼ばれる。また、東吉野村には旧社格官幣大社であった「丹生川上神社(中社)」もある。もちろん近くには上社や下社もあり、5年ほど前までは、吉野山へ桜見物に出掛けた際には必ず、丹生川上神社のいずれかを訪れたものだった。

f:id:haikaiikite:20190615144044j:plain

称名寺の梵鐘。「称名晩鐘」につながる

 「称名晩鐘」はこの梵鐘から700年以上、奏でられてきた。1301年に鎌倉時代を代表する鋳物師が鋳造したもの。老朽化が進み、この鐘がつかれることはなくなったそうだが、鐘楼にあって、今でも晩鐘は人々の心の中に響き渡っている。

f:id:haikaiikite:20190615144921j:plain

北側を取り巻く鬱蒼とした森は市民に安らぎを与えている

 称名寺の北側を取りまくように金沢三山があるが、この山一帯は「称名寺市民の森」として散策路が整備されている。長さは約2キロ。道は狭く高低差があるので、ここを歩くのは、散歩というよりハイキングという言葉が相応しい。私も以前は何度も歩いたが、今回は他に寄るところが多いからという勝手な理由をつけ、その登り口をのぞくだけに済ませた。

 山頂には「八角堂広場」があり、そこからの眺めは結構お勧めできるものだ。実は、この山の裏側(北側)は西柴町という住宅街になっており、こちら側から入るとかなり楽をして八角堂広場に行けることを知っているのだが、方向は異なるが同じような景色は後述する金沢自然公園からも眺められるので、裏口入場は取りやめにした。

金沢文庫」は日本最古の武家文庫

f:id:haikaiikite:20190615150856j:plain

現在の県立金沢文庫は、図書館というより歴史博物館

  称名寺は歴史好きにはよく知られているが、知名度の点では金沢文庫にはるかに及ばない。金沢文庫は北条(金沢)実時が金沢の地に隠居したとき(1275年)に創建されたらしい。実時は武将としてだけでなく文化人としても名高く、漢籍だけでなく和歌や散文などの造詣も深かった。そのため多くの典籍や和漢の書を収集・所有していた。金沢文庫は実時が隠居した際に、称名寺の隣地に多くの書物を所蔵するための書庫を造ったのがその始まりとされている。のちに、北条氏の第15代の執権となった(10日だけ)金沢(北条)貞顕がその拡充に努めた。彼もまた、文化人としても名を馳せていたのである。

 北条政権は足利尊氏によって倒され、金沢の地は足利尊氏の所領となった。が、実際にこの地を支配したのは関東管領世襲した上杉家だった。足利家と上杉家とを結びつけたのは、尊氏の生母(上杉清子)が上杉家出身であったことが大きく影響している。上杉は関東管領として鎌倉公方を補佐しただけでなく、守護大名として上野国武蔵国伊豆国を支配した。上野国(こうずけのくに)は現在の群馬県にあたり、栃木県足利市のある下野国(しもつけのくに)のとなりである。

 この上杉家から上杉憲実(のりざね)が出て、荒廃しかかった金沢文庫武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷)から多くの文献を持ち出し、それを足利学校の蔵書とした。憲実もまた北条実時同様、教養ある文化人でもあったのだ。かれは特に儒教に傾倒していたらしい。このブログの「渡良瀬紀行」では「足利学校を再興したのは上杉憲実」であると紹介したが、この学校の充実には金沢文庫の蔵書が相当数、貢献しているのである。

 歴史には、このような思いがけない結び付きがある。これがあるから「歴史と旅」は面白い~浅見光彦みたいだが‥‥。

f:id:haikaiikite:20190615185646j:plain

金沢文庫称名寺をつなぐトンネル

 称名寺金沢文庫との関係は、やはり「渡良瀬紀行」で取り上げた鑁阿(ばんな)寺と足利学校との関係に類似している。というより、実質的には後者の方が前者に似ているのだが。ただ、称名寺金沢文庫との地理的関係は、足利の方とは大きく異なる点がある。それが、写真に挙げた「トンネル」の存在である。

 寺は人が大勢集まるところ、あるいは政治的要素も多く持つところなので、常に火災の危険性が付きまとう。一方、文庫は紙類の集合体なので火災には極めて脆弱だ。そこで金沢北条氏は、称名寺金沢文庫とを尾根ひとつ隔てた場所に造り、その間をトンネルで結んだ。一方での火災が他方に類焼することを予防したのである。

 写真にはないが、往時のトンネルはすぐ北側に保存されている。現在のトンネルはよく整備され、その壁には8枚のプレート(写真では7枚しか写っていないが)が埋め込まれている。もちろん、ここには歌川広重の『金澤八景』の絵が複写されている。

 現在の金沢文庫は1990年に建てられた近代的な建造物で、横浜市立の「中世歴史博物館」として、様々な資料展示や講演会活動に力を注いでいる。

金沢自然公園と動物園

f:id:haikaiikite:20190616182046j:plain

自然公園から金沢文庫金沢八景の市街地を望む

 金沢区釜利谷東にある「金沢自然公園」は三浦半島のほぼ中央を南北に連なる丘陵地帯に位置するため、眺めはとても良い。横浜横須賀道路から直接に入れる駐車場(料金600円)があるので、ここには区内の施設を巡り歩く前に訪れた。午前中は曇りがちだったので、見通しは少しはっきりしてはいないものの、それでも東京湾内を行き来する船舶や房総半島までよく展望できた。ほぼ中央に写っている「八景島シーパラダイスタワー」のすぐ右にある白い建造物は、千葉県富津市にある「東京湾観音(高さ56m)」だ。

 写真にあるように、市街地には公共施設、商業施設、集合住宅や個人住宅などが密集しているが、「金沢八景」が同定された頃は入江の海か湿地帯だったはずだ。17世紀後半に永島祐伯(雅号泥亀)が干拓事業を進め、最終的にその事業が完結したのは20世紀に入ってからだ。金沢区役所は泥亀(でいき)2丁目にあり、この一帯が現在の金沢区の中心街になるが、この地名の由来は開拓者の永島泥亀にある。

 自然公園は敷地が58万平米もあり、しかも起伏に富んでいるため、散策するには十分すぎるほど広い。私は、この近くにある老人保健施設で数年間ボランティア活動をしており、自然公園の一部はその活動もあってよく利用していたので馴染みは深い。が、この園内にある動物園は利用したことがなかった。今回が初入園である。

f:id:haikaiikite:20190616190234j:plain

動物園の入口付近にある模造品たち

  金沢動物園は自然公園の敷地内にある。ただし、動物園に入るのには料金(大人500円)が必要になる。自然公園の一部にあるので敷地内も起伏に富んでる。私にとって動物園とは多摩動物公園と同義語といえるほどの存在なのだが、この金沢動物園はその縮小版といった存在のようだ。反面、多摩動物公園の賑やかさと比較してこちらのほうは見物客が少ないので、ゆったり感は金沢の圧勝である。

 希少な草食動物を中心に飼育しているので、50種310点と数はそれほど多くはない。展示ゾーンは「アメリカ区」「ユーラシア区」「オセアニア区」「アフリカ区」に分かれており、それぞれが広い飼育スペースを有している。アメリカ区ではカピバラ、ユーラシア区ではインドゾウ、タンチョウ、オセアニア区ではコアラ、オオカンガルー、アフリカ区ではクロサイオカピが印象的だった。

f:id:haikaiikite:20190616201030j:plain

角を突き合わせるクロサイ

  サイ(犀)を見ると、すぐに思い浮かべるのが『スッタニパータ』だ。小部経典(クッダカ・ニカーヤ)にあるスッタニパータ(経集)とダンマパタ(法句集)はブッダの言葉を伝える最古の仏典としてよく知られるが、中でも「犀の角のようにただ独り歩め」はあまりにも有名だ。写真のクロサイは角が2本(3本のものもある)あるが、ブッダが見たであろうインドサイは角が1本だ。またサイは単独行動を好むことで知られている。

 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。(40)中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫

 これはブッダの最後の言葉として知られている「自灯明、法灯明」(自己を拠りどころとせよ、法(ダルマ=真理)を拠りどころとせよ)にも通じている。これらは一見「独我論」に思える。が、ブッダは究極的には「無我」を真理と考えており、独り歩めというのは無明=無知からの覚醒を意味しているのだろう。ゆえに、一方で、スッタニパータではこうも述べている。

 もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。(45)同上書

 この考えは孔子の思想にも通ずる。

 子曰く、君子は和して同せず、小人は同じて和せず(子路篇) 加地伸行訳『論語講談社学術文庫

 ブッダの言葉も孔子の言葉も、今風に言えば「同調圧力に負けず、理性的に行動せよ」となるのであろうか。良き思想には差異はない。サイを見てこう思った。

f:id:haikaiikite:20190616220115j:plain

インドゾウのボン。鼻は長いが牙も長い

 インドゾウ(アジアゾウの亜種)はアフリカゾウに比べると大きさも耳も小さいそうだが、私はこのゾウを見て、これはアジアゾウの仲間であるとすぐに分かった。ユーラシア区にいたからである。

 写真のボン(オス)は42歳。インドゾウは牙が短い個体が多いそうだが、このボンの牙は鼻よりも長く、国内では最長ともいわれているらしい。ヒンドゥー教の神の一人?であるガネーシャは商売の神として知られているが彼?はゾウの顔を持つ。ただし、片方の牙は折れているそうなので、金沢動物園のボンは神にはなれない。

 同居しているヨーコとは夫婦関係にあるそうだが、残念ながら繁殖には至っていない。天は二物を与えない。

f:id:haikaiikite:20190616222753j:plain

子供を抱いているオオカンガルー

 オセアニア区にはオオカンガルーがたくさんいた。うれしいことにこの動物園ではウォークスルー形式になっており、間近にカンガルーの生態を見ることができる。写真の子供を抱いたカンガルーは人を全く恐れず、写真撮影にも動じる気配はなかった。母親はただ餌を食べているだけだが、子供は何かを考えているようだった。「考える人」ではなく「カンガルーひと」のようだ。

 カンガルーとは関係がないが、ロダンの「考える人」の姿勢を取るのはとても大変だ。ブラタモリの「パリ篇」ではタモリもそう言っていた。地獄の門を覗き込む苦悩の人がテーマなので、あえて苦しい姿勢を取っているのだろうか。写真の子供のカンガルーの姿勢もかなり大変そうだ。思考には理性だけでなく身体性も伴う必要がある、ということがよく分かる。と、子供のカンガルーを見てそう考えた。

 姿勢といえば、考える際にはうつむきかげんになるが、うつむきかげんの花といえばパンジーがすぐに思い浮かぶ。この英名はパンセ(フランス語で思考の意味)からきている。ちなみに、和名の三色菫はシノニムのヴィオラトリコロールの直訳である。

瀬戸神社と琵琶島

f:id:haikaiikite:20190616230633j:plain

瀬戸神社は金沢八景駅のすぐ北側にある

  今でこそ平潟湾は水路のような狭い入り江であるが、埋立事業が行われる前はかなりの幅を有していた。さらに一段奥に泥亀新田が造られる前は、今の釜利谷から泥亀辺りにも入り江があり、 それが写真の瀬戸神社付近で平潟湾と細い海峡でつながっていた。細い海峡は速い流れを生むので、「瀬戸」と呼ばれることが多い。広島県呉市にある「音戸瀬戸」や長崎にある「平戸瀬戸」は全国的に知られている急流海峡だ。

 金沢の狭い海峡も瀬戸と呼ばれ、その近くに源頼朝が戦勝を祈願して創建したのが瀬戸神社である。ここには、源実朝が使用し、北条政子が奉納したといわれる舞楽面二面が保存され、国の重要文化財に指定されている。

f:id:haikaiikite:20190617100232j:plain

瀬戸神社の小庭園。6月はアジサイの季節だ

 この神社は国道16号線の西側にあり、南には金沢八景駅があるという賑やかな街中に位置するが、ここの境内に入ると権現造りの本殿、その横にありヤマアジサイが多く咲く小庭園、海の際だったことを示す高い崖など、ここだけは駅前の賑やかさ、国道の往来の激しさとは隔絶された時間が流れている。

 

f:id:haikaiikite:20190617100403j:plain

北条政子が創建させた琵琶島神社

 国道を挟んだ平潟湾内には「琵琶島神社」がある。これは頼朝の瀬戸神社にならい、北条政子が信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して創建したといわれている。以前は島だったらしいが、現在は陸続きになっている。

 瀬戸といえば八景には「瀬戸秋月」があった。広重はこの辺りを描いたのだろうが、残念ながら、その面影は皆無と言って良い。

平潟湾、そして野島~思いは八景図へ

f:id:haikaiikite:20190617101833j:plain

平潟湾では今でも貝掘りが盛ん

 平潟湾は徐々に埋め立てられ、1966年に湾の南西側、今の金沢区柳町一帯の埋め立てが完了したことで今の形(長さ1000m、幅250m)になった。埋め立てのための土砂は湾内の浚渫(しゅんせつ)土によってまかなわれた。ただ夕照橋(ゆうしょうばし)周辺は浅いまま残されたので、大潮の干潮時には、以前からおこなわれていた貝掘り(潮干狩り)が今でもよくおこなわれている。広重の「平潟落雁」図には潮干狩りを楽しむ様子が描かれている。周囲の景色は往時と全く異なるものの、貝を掘る人々の動きには共通するものがある。

f:id:haikaiikite:20190617115029j:plain

潮干狩りが展開される野島海岸の賑わい

 「野島夕照」で知られる野島海岸は金沢区では唯一、自然のままの海岸線が残っている。ここでは平潟湾以上の人々が貝掘りに専念していた。これは平日の風景なので休日にはもっと多くの人が訪れる。平潟湾と異なるのは砂の色で、こちらのほうがより灰色に近い。また海の香りが強い。平潟湾は大海に通じる水路が細いので海水の入れ替えが少ない。また、住宅地から流れ込む川が幾筋もあるので汚染される程度が高い。

 この点、野島海岸は直接、大海に開かれているし、波によって砂が撹拌される機会が多いので、汚染物が希薄化されるからだろう。野島海岸で海の香りを感じたのは、写真でも分かる通りアオサ(青ノリの一種)が繁茂しているせいでもある。海の香りというより、ノリの香りといったほうが妥当かもしれない。

 シーサイドラインの先に見える森は称名寺市民の森。その先の高層マンション群は旧跡能県堂周辺の山を削り取って造成された新興住宅地のものだ。冒頭に挙げた心越禅師は、あのマンションの屋上辺りの高台からこの野島方向を望み、「金沢八景」を同定したのだ。

 ところで、「能見台」の山を削ってできた残土はどこに行ったのだろうか。それは、前回に取り上げた「金沢地先埋立地」=福浦埋立地八景島の造成に用いられたのだった。

f:id:haikaiikite:20190617210934j:plain

野島にある伊藤博文の旧別邸

 1886年、伊藤博文は平潟湾沖にある夏島(現在は横須賀市夏島町)に別邸を建てた。この無人島だった夏島が全国的に知られるようになったのは、ここで伊藤博文井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4人が「合宿」をして大日本帝国憲法の草案(1887年)を作成したからである。「夏島草案」とか「夏島憲法」などと言われるものだ。その後、草案は修正され、1888~89年に枢密院で審議され、同年発布、90年に施行された。

 伊藤博文はこの金沢の地をよほど気に入ったのか、1898年には野島にも別邸を建てている。写真の建物がそれである。大正天皇もここを訪れたことがあるそうだ。入館も含め、庭園にも無料で入ることができる。ひとつ前の写真(野島海岸の風景)は、この庭園付近から写したものだ。周囲の建造物こそ異なるが、称名寺の森の姿はほとんどこのまま、伊藤博文が目にしたはずだ。

f:id:haikaiikite:20190617214904j:plain

今様「乙艫帰帆」

 野島は太平洋戦争前までは陸続きの島(砂州によってつながれた陸繋島)だった。が、戦争中に島の要塞化が進み、併せて横須賀側の埋立地にあった海軍施設とを結ぶ道路が建設されたため野島水路(平潟湾と東京湾をつなぐ)は船の行き来が不能となった。そこで島の北西側に掘られたのが野島運河だ。このため、野島は陸続きではなくなった(橋で結ばれている。現在は野島橋と夕照橋の2本ある)。

 現在の野島は東側が野島町、西側が乙舳(おつとも)町になっている。この乙舳は乙艫を「簡略化」したものだ。が、厳密には意味が異なり、”舳”は「みよし」つまり船首、”艫”は船尾のことである。

 運河によって旧乙艫は分かれたようで、陸側にある金沢漁港の野島向きには「乙舳公園」がある。写真は、遊漁船が東京湾から野島運河内にある船着き場(乙舳町にある)に帰港するところを公園側から撮影したものだ。写真にはないが、この右手奥に野島山がある。

 乙舳に帰る船なので、現代版「乙艫帰帆」を撮影してみた。実際は、乙舳公園で休憩中に偶然、遊漁船が運河に帰ってきたのであわてて撮影をしたという訳なのだが。

f:id:haikaiikite:20190617222448j:plain

野島(につながる)夕照(橋)

 「日本にある橋でもっとも好きなのは?」と聞かれたら、私が文句なく第一位に挙げるのがこの「夕照(ゆうしょう)橋」である。「是政橋」でも「横浜ベイブリッジ」でも「瀬戸大橋」でも「来島海峡大橋」でもなく、この橋だ。橋の白と野島山(標高57m)の緑とのコントラストが絶妙なのだ。

 ”夕照橋”の名は、もちろん「野島夕照(せきしょう)」に由来する。唯一の不満は「せきしょう」とは読ませないことだ。「ゆうしょう」では湯桶読みなるが、これは仕方がないとしても、由緒ある名称なので「せきしょう」と素直に読みたいものだ。

 撮影時間は午後4時頃だが、夕方まで粘れば夕陽に映える橋と山と海面とを撮影することができる。金沢区に住んでいたときにはよく夕方に出掛けて撮影したものだった。雑誌にも、見開きのカラーページでそれを紹介したことがある。このときはブローニー版のリバーサルフィルムを使った。あの6×6カメラはどこにいったのだろうか?

 建造物も見る角度も異なるが、この景色は広重の八景図にもっとも近いと思っている。「野島夕照」図には夕照橋はない。その代わりに「夏島」や今は無き「烏帽子岩」がある。それでも、野島山の形や家並みはどことなく広重の絵をイメージさせる。

   * * *

 金沢区を巡る旅は終わった。散策と写真撮影のために金沢へは3回出掛けた。金沢区の埋め立て事業の変遷を書物や地図で調べ、それを確認するために現地を歩いたこともあった。

 金沢区周辺には特別に高い山はないものの平地は少なく、開発には困難を極めた。このことはJR横須賀線の路線を見るとよくわかる。横須賀線の開通は1889年であるが、横浜を出た横須賀線は南下せず、磯子区金沢区を避けて、戸塚方向に進んでいる。そして大船を経て鎌倉、逗子へ、それから東進して三浦半島を横切り横須賀に至るのである。明らかに、磯子区金沢区の起伏に富んだ地形を避けたルートに線路は敷かれているのだ。横須賀線が開通した結果、金沢周辺の海から人気(ひとけ)は途絶え、鎌倉や逗子、葉山の海へ人々は出掛けるようになった。

 横須賀線が開通したころ、金沢に出掛けるには、横浜からは細い山道を通り、13もの峠を越える必要があった。また、鎌倉から金沢に抜けるためには「朝比奈切通し」を進まねばならなかったのだ。それで、一般の人には横須賀から船で行くことを勧められた。そうまでして金沢に行く人はあまりいなかったようだ。

 湘南電鉄(京浜急行の前身のひとつ)が、金沢を通り浦賀に至る路線を開通させたのは1930年だった。当時、この線路を1キロ建設するには46万円かかったそうだ。一方、同時期、小田急江ノ島線を建設するには1キロ25万円だったそうで、磯子や金沢の地形を克服するのには通常の約2倍の費用が必要だったのである。

 鉄道が開通した結果、人々の利便性は高まったが、その一方で、海岸線の埋め立てが進み、大規模な工場が林立した。先述したように、自然の海岸線が残ったのは野島の一部だけになってしまったのだ。開発という美名のもとで失ったものは大きい。

 何事も、「いいとこ取り」はできない。それは、自然環境だけでなく、人生もまた同じなのだろう。

 

***追記*** 親友から、タイトルがあまりにも不評だったので、このたび変更しました。 6月22日変更

〔12〕金沢逍遥~ただし横浜市金沢区のほうです(その1)

金沢は金沢区が一番!?

f:id:haikaiikite:20190607133054j:plain

シーパラダイスにあるアトラクションのひとつ「バイキング」

 金沢大学医学部出身の知り合いがいて、その人は実に“金沢愛”に満ちていた。埼玉生まれの埼玉育ちなので”郷土愛“とも違う。加賀の金沢ではとても素敵な青春時代を送ったのだろうか。とにかく、何かといえば金沢の良さを熱弁するのだ。そこで、隣人愛を有する私は、『広辞苑』(当時は第五版だった)の「金沢」の項には、第一に「横浜市金沢区」、第二に「あなたの愛する金沢市」が出ているのだということを親切心から教えてあげた。するとその人は、手にした『広辞苑』を振りかざしながら「岩波書店に抗議する」と息巻いた。さぞかし重かったことだろう。しかし、彼女の異議申し立てにもかかわらず、昨年(2018年1月)に改訂版が出た第七版でも、金沢市は第二番のままだった。

 人口は、金沢区は198771人(19年3月現在)、金沢市は464220人(19年5月現在)で金沢市の圧勝。その地位は、金沢区横浜市の18ある行政区の一つなのに対し、金沢市は石川県の県庁所在地でやはり金沢市の圧勝。金沢区の花は“ボタン”一つなのに対し、金沢市は”ハナショウブ“、”サルビア“、”ベゴニア・センパフローレンス“、”インパチェンス“、”ゼラニウム“の五つ。これも金沢市の圧勝だ。

 が、金沢市金沢区に敵わないものが二つある。「金沢文庫」と「金沢八景」の存在だ。前者は“日本最古の武家文庫”として教科書に出てくるし、後者は“近江八景”と並んで「~八景」の代表格で、かの歌川広重が“ヒロシゲブルー”を駆使して“金澤八景”を描いている。一方、金沢市には「兼六園」があるが、これは日本三名園の一つにすぎない。

 と、『広辞苑』の執筆者はこのように考え、一番目には金沢区を挙げたのではないか、と、私は推察する。

富岡地区にある”ふなだまり”と”八幡様”

f:id:haikaiikite:20190607133749j:plain

高層マンションとふなだまり公園。池の水はしょっぱい

 金沢区横浜市のもっとも南に位置し横須賀市と接している。20年ほど前、三浦半島金沢区横須賀市三浦市)や南房総での取材が立て込んでいたこともあって、約3年間、金沢区に家を借りていたことがある。この地ではいろいろな人や場所との交流が生まれたため、金沢の地については多摩の田舎の住民のわりには結構、認知しているほうなのだ。写真にある「富岡並木ふなだまり公園」も当時、近くに住む知り合いから教えてもらった場所だ。

 公園内の池と思われる水辺は、近くにある”福浦岸壁”とは北側水路で通じているためほどんど海水に近い。前方に見える高層マンションの敷地はかつては海だったところで、ベンチがある辺りが海岸線だったはずだ。つまり、この辺り一帯は富岡の入江だったのであり、この水辺はその名残なのだ。

 この水たまりでは結構、海釣りが盛んでクロダイ、ボラ、スズキ、ハゼなどが狙える。ボラこそ近所に住む暇なおじさんたちの遊び相手だが、クロダイは50cmほどの大型がいるので本格派も訪れる。水たまりでは分かりづらいが、南側にある海に通じている水路をのぞいてみると、大型クロダイの群れが視認できる。一度、この水路をたどり、どのあたりまでクロダイが生息しているのかを確認したところ、京浜急行京急富岡駅近くにまでいることが分かった。「クロダイは人気(ひとけ)のある所を狙え」というのは釣りの格言なのだが、ここのクロダイは住宅地ばかりではなく、商業地区にまでも出没しているのだ。そのうち、駅近くのコンビニで買い物をしているクロダイの姿がユーチューブにアップされるかもしれない。

 写真の背後には「富岡八幡公園」があり、その一角には以前、富岡漁港があったそうだ。この辺りは「宮の前(八幡宮の前だから)」と呼ばれていて、かつては砂浜もあった。公園の姿形に触れてみると、以前は海岸だったのだという風情は残っている。この”宮の前海岸”は「海水浴発祥の地」とのことでそれを記した碑もある。江戸時代からも海に入る習慣はなかったわけではないが、当時は「潮湯治」といって、皮膚病や神経痛の治療や老廃物の排出など”温泉の効能”と同等の目的のために海に浸かったらしい。それが明治期になり、治療から遊び目的に変化した。その最初がこの富岡の海岸だったのだという。

 もっとも、この話は他にもあり、とくに大磯海岸が”発祥の地”としては有名だ。こちらは江戸末期から明治期にかけて活躍した松本良順による記録が残っている。良順といえば奥医師として徳川家茂の治療をしたり、維新後は帝国陸軍の初代軍医総監になったりしたことで知られているが、近藤勇と親交があり新選組の隊士の治療を行っていたという話が、私は一番好ましく思っている。

f:id:haikaiikite:20190609172054j:plain

富岡八幡宮の鳥居の前はかつて海岸だった

 富岡八幡宮と聞くと、東京都江東区にある”深川の八幡様”を先に思い浮かべ、歌川広重の”名所江戸百景”や”江戸勧進相撲”、さらにはおととしの連続殺人事件が連想される。が、江戸の富岡八幡宮は江戸時代初期に創建されたのに対し、金沢区八幡宮は1191年、源頼朝の命によって造られたものなので、歴史はこちらのほうが圧倒的に古い。

 金沢区のパンフレットによれば、1311年の大津波の際、富岡地区に住む人々の命と暮らしを守ったことから「波除八幡」とも言われるようになったとのことだ。先に述べたように、写真の鳥居の前はかつて海岸であり、八幡様の境内は高台にある。集落はこの裏手に広がっているので、確かに八幡様が津波を防いだと考えることは可能だ。

f:id:haikaiikite:20190609174028j:plain

こじんまりとした境内と本殿

 写真のように、境内はそれほど広くはなく、本殿もまた”深川八幡”に比べるとかなり小さく、かつ地味だ。しかし、周囲にある社叢(しゃそう)林はとても見事で、たしかにこれならば、大津波から集落を守ることは十分にできそうだ。この社叢林=鎮守の森は、横浜市の天然記念物に指定されている。

 八幡様自体には行事のとき以外は訪れる人はそう多くないようだが、周囲は”富岡八幡公園”として整備され、ここを散策コースとして利用している住民は多い。近くの”並木団地”に住んでいる知人も、この公園にはよく子供と一緒に遊びに来ていたが八幡様にはお参りしたことがないと、罰当たりなことを言っていたことを思い出した。

八景島は入場無料

f:id:haikaiikite:20190609194621j:plain

八景島に通じるマリンゲートと福浦岸壁

 シーパラダイスがある八景島横浜市が造成した人工島で、島内へは写真の”マリンゲート”か金沢シーサイドライン八景島駅前にある”金沢八景大橋”を利用する。前者は有料駐車場を利用する人が主に使い、後者はシーサイドラインを利用する人や後述する「海の公園」から島に入る人が主に使用する。両者の中間には国道357号線の「柴航路橋」があるが、一般には開放されていないので関係車両以外は通行できない。

 私は京浜急行金沢文庫駅から後述する”称名寺”方向へ進んだところに家を借りていたので、八景島へはよく散歩や食事、買い物に出掛けていた。島内に入るのは無料なので、シーパラダイスにあるアトラクションをぼんやり眺めたり、レストランを利用したり、百円ショップで買い物したりした。島(面積約24ha)自体は横浜市のもので、シーパラダイス(面積約8ha)は西武系資本が横浜市から島の一部を借りているだけのため、シーパラの敷地を含め島内は自由に散策できるのだ。もちろん、アトラクションや”アクアミュージアム”などを利用する際は料金が発生する。

 写真にある岸壁は島外のもので、金沢埋立地とか福浦埋立地などと呼ばれている場所の海岸線全体を囲んでいる防波堤だ。全長は2キロ以上あるが、そのほとんどの場所で釣りができるため、東京湾内では有数の海釣り場として知られている。25年以上前、取材で私の磯釣りの師匠と一緒にここを訪れ、それを雑誌やスポーツ紙に掲載したことが、のちにここに住むようになる切っ掛けを作った。その際、私たちが参考にした釣り雑誌ではこの場所は「福浦3号埋立地」と紹介されていたのだが、釣りは埋立地そのものではなく、その岸壁でおこなうので、私は勝手に「福浦岸壁」と書いてこの場所を紹介した。現在では、この釣り場はほとんど「福浦岸壁」の名で雑誌等に掲載されているが、その端緒は私である。実にいい加減なものだ。

怖い思いをするのにお金がかかるのは、実に不可思議

f:id:haikaiikite:20190609204647j:plain

この三角の立ち姿だけで八景島のアクアミュージアムとすぐに分かる

 シーパラダイスの施設では、やはり「アクアミュージアム」(水族館)とそれに付設する「アクアスタジアム」が有名だ。この施設の利用には3000円(65歳以上は2450円)かかるので今まで4回しか入ったことがない。ただ、6月いっぱいまでは「あじさい祭り」期間とのことで、アトラクション利用を含めたワンデーパスが65歳以上は1800円(通常は3600円)になるらしいので、今一度、行ってみようかとも思っている。

 水族館には700種類、12万点の生き物がいるので見ごたえは十分。一方、イルカやアシカのショーがあるスタジアムは、プールが広すぎるためなのか生き物と人間との波長が微妙にずれてミスがやや目立つので、その点に興味がそそられる。ショーという点では「鴨川シ―ワールド」は規模がやや小さいためかミスが少ないので面白みは半減する(個人の感想です)。

f:id:haikaiikite:20190609211633j:plain

107mの高さから落下する”ブルーフォール”。単品では1000円也

 アトラクションには怖いものが多い。私は遊園地は嫌いなのだが、それは怖いからだ。何が愉快で怖い思いをしなくてはならないのか。ジェットコースター(シーパラでは”サーフコースターリヴァイアサン”と名付けられている。『ヨブ記』もホッブズもびっくりする名前だ)も相当に恐ろしいが、”ブルーフォール”と名付けられた世にも恐ろしい乗り物が存在する。三角屋根やコースターと並び、その青く高い塔(高さ107m)はかなり遠くからでもよく目立ち、シーパラの存在を誇示している。

 茨城県にある「牛久大仏」は高さ120mあり、その巨大さにはただ驚かされるだけだが、その天辺から飛び降りる人はまずいない。それと似たような高さからこのブルーフォールは落ちるのだから、そんなものを体験する人の気が知れない。ちなみに、華厳の滝の落差は97mなので、このアトラクションは自殺の訓練場に相違ない。しかも、これを利用して怖い思いをした上にお金を払うのである(前払いだと思うが)。

 見ているだけでも怖いので、私は思わず何度も見てしまったのだが、利用者のほとんどは笑っているのである。そこで私は係の人に「これを利用して怖い思いをするとお金が貰えるのか」と尋ねたのだが、返ってきたのは笑顔だけだった。

 

f:id:haikaiikite:20190609213722j:plain

長閑な乗り物のシーボート

 写真の”シーボート”では親子で楽しむ長閑な光景が展開されていた。こうした日常的な景観は見ていても面白くないので、すぐにこの場を立ち去った。やはり、遊園地には”怖さ”と”馬鹿々々しさ”とが同居していないと興味は湧かない。ただし、自分で利用するのは真っ平御免だが。

広大な人工海浜を有する「海の公園

f:id:haikaiikite:20190609214926j:plain

人工海浜からシーパラを望む

 約1キロの長さの海浜を有する「海の公園」 は、先述した福浦埋立地八景島とともに1970年頃に始まった「金沢地先埋立事業」の一環として造成されたものである。まず、80年頃に福浦埋立地が、85年頃に八景島が、そして88年頃に海の公園の整備が完成した。もっとも、人工海浜の部分は元々砂浜があった場所なので、80年頃には先行オープンしていた。さらに、89年にはこれらをつなぐ「金沢シーサイドライン」が開通し利便性が高まった。

  横浜市では唯一、海水浴ができる砂浜をもつ公園だが、前からあった砂浜では規模が小さいので、千葉県富津市の山砂を運び込んで拡張した。この際、山砂はすぐに浜砂には転用できないため、沖合の海底で5年間養生したとのこと。また、これは関係者から直接聞いた話だが、浜砂は年々刻々と流失するので、追加する砂は外国のものを買い取って、やはり沖合で養生したものを使用しているとのことだった。

 砂浜ではアサリなどが自然生息しているので、大潮の干潮時には「潮干狩り」が盛んにおこなわれる。自然のものが相手なので料金はかからない。

 写真は海浜の北東側を写したものだが、八景島方向に伸びた岬の海岸線には大きな安山岩を並べ磯風を表現している。その先にわずかに見える橋は、”金沢八景大橋”だ。

f:id:haikaiikite:20190610091614j:plain

公園の南側には”金沢八景”を代表する「野島」の姿が見える

 視線を南に転じると、海浜の先にある小高い山が見えてくる。標高57mと高さはないが、そのたたずまいには特徴があり、一度見ると忘れることはない。「金沢八景」を代表する「野島」の姿である。その手前に並ぶ建物群は金沢漁港のものだ。先には三浦半島の中央に連なる山々の姿も確認できる。それらの先には相模湾が広がっている。

金沢八景に至る道筋にあるものに触れる

 海の公園から「金沢八景」の本丸の一つである「称名寺」へは徒歩で数分だ。だが、ここでは少しだけ寄り道をしてみた。シーサイドライン八景島駅と、金沢シーサイドタウンとを結ぶ橋から望む景色は私のお気に入りのものだからである。

f:id:haikaiikite:20190610094247j:plain

橋から柴漁港マリーナ、シーパラ方向を望む

 マリーナのプレジャーボート群、その先にあるシーサイドラインの路線、さらに柴航路橋のブリッジ、シーパラの”アクアミュージアム”と”ブルーフォール”、さらにその先には住友重工の横須賀造船所の巨大クレーンが一望できる。八景島周辺にある特徴的な建造物が一度に見られる場所なのだ。

f:id:haikaiikite:20190610095620j:plain

橋から柴漁港内を望む

 一方、こちらは先の写真と同じ橋の上からだが、今度は柴漁港とその先にある柴町の景観だ。先の写真とは撮影時間差は3時間ほどあるため、こちらは夕暮れが迫りつつあるときの景色だ。私がかつて、この辺りをよく散歩していたときの帰途に就いたときに目にしていたものだ。かつてとは異なり船はおしゃれになり、建物群も随分と新しくなってはいるが、柴漁港のもつ情緒感にはあまり変化はないように思えた。変わりゆくものの奥底にある変わらないものを見出す喜びをこの場所からは抽出できた。

f:id:haikaiikite:20190610101038j:plain

何故か人が運転するシーサイドライン

 特に必要はなかったが、「金沢シーサイドライン」にも短区間八景島駅から野島公園駅)だけ乗ってみた。逆走事故を起こし数日間運休していたシーサイドラインが運行を再開した日だったからである。運転席には、いつもはいないはずの運ちゃんが座っている。本来は無人走行なのだが、事故の教訓から、しばらくは有人運転を続けるらしい。これは「安全確保」のためではなく「安心感確保」のためであろう。

 運行開始以来30年間、逆走のようなトラブルは皆無だったので、無人運転でも全く問題はない。今回の事故は「無人運転」が原因ではなく、運行制御回路の断線を検知しないというシステム 上の欠陥が原因らしい。つまり、人に由来するものではまったくない。したがって、有人でも事故は防げなかった蓋然性が高い。

 電気系統のトラブルが原因と考えれば、同じような事故は自動車でも起こりうる。今の自動車は電気系統に依存する割合が極めて高いからだ。アクセルもブレーキもトランスミッションも電気で制御されている。さらに最近ではハンドル操作も電気で制御するものがある。たとえば、以前のものはブレーキペダルとブレーキ制御装置はワイヤー(針金)でつながっていたが、現在はワイヤー(電線)でつながっている。さらに、ハイブリッド車や電気自動車はより複雑な電気制御システムで成り立っている。このため、自動車の逆走事故はその99.9%が「踏み間違い」だとしても、電気制御システムの構造上の欠陥もしくはシステムの劣化による誤作動も考慮に入れる必要は絶対にあるはずだ。人に頼るだけでなく、機械に頼るだけでもなく、人と機械との接触面(マンマシーン・インターフェース)を今一度、きちんと考察してほしいものだ。

いよいよ、金沢の本丸に触れる場所に足を踏み入れる

f:id:haikaiikite:20190610104205j:plain

称名寺の赤門

 金沢地先埋立地であった福浦、八景島海の公園から離れ、いよいよ金沢の歴史の本丸に足を踏み入れることになった。金沢北条氏の菩提寺であり、金沢(六浦)の舟運にかかわる人々を掌握していた有力勢力でもあった”称名寺”の門前にたどりついたのである。この寺には多くの歴史が詰まっている。実に魅力的な寺なのだ。

 以下、「その2」に続きます。更新は6月19日の予定です。

〔11〕駒込界隈を巡る

武蔵野台地のヘリを訪ね歩いてみた

f:id:haikaiikite:20190531111610j:plain

六義園の内庭に至る門

 駒込界隈には特別な用事はほとんどないのだが、時折、この町を散策してみたくなることがある。この地では時(とき)は幾筋もの流れをもっていて、人の歩みでは追いつけない時、数百年いや数千年前に止まってしまった時、文明の流れより遥かにゆったりと流れる時、人の息遣いに同調して流れる時など、この地はいろいろな容貌を有しているようだ。

 本郷に用事があって、それが早く終わったときは本郷通りをゆっくり北上し、都度、寄り道をしながら駒込駅まで歩く。まれに駒込に行く必要が生じたときは、予定された時間よりかなり早く到着し、駅周辺を散策する。駒込の町は豊島区に属するが、南へ行くとすぐに文京区になり、北や東に行くとすぐに北区になる。駒込武蔵野台地のヘリにあり周囲には坂が多い。このため行政区域の境が複雑に入り組んでいるのだろう。

 駒込の地名の由来は、駒=馬、込=混、で「馬が多く集まっているところ」だそうだが、その一方、駒も込も同時に混に通じるとするならば、「地形が入り組んでいるところ」と解することもできそうだ。どちらが正しいか、あるいはどちらも異なるかは別にして、この地形がこの地の魅力を生み出してきたのは確かである。

谷田川の流れが駒込の地形を造った!?

f:id:haikaiikite:20190531114336j:plain

駒込駅の横にも坂がある

 「大地は神が造った。ただ、オランダだけはオランダ人が造った」という有名な言葉があるが、駒込の地形は、地区の東を流れていた「谷田川」がその創造に貢献している。この川は現在は暗渠化されているのでその流れを見ることはできないが、その上を「谷田川通り」の名の道路が走っている。この川は、現在は台地のヘリから出る湧水が道路下を流れるだけだが、かつては石神井川の主要な通路でもあった。このため流路はかなり広かったようで、現在の駒込駅の東側まで段丘崖を造っている。

 もっとも、駒込は山手線の駅がある町なので周辺の開発のスピードはすさまじい。段丘崖であったという痕跡は少なく、なだらかに整地された斜面が大半だ。その限り、「駒込の地形は谷田川が造った。ただ、駅周辺はデペロッパーが造った」といっていいのかもしれない。

六義園を初めて訪ねる

f:id:haikaiikite:20190531130514j:plain

入口すぐにある記念撮影どころ

 六義園駒込駅のすぐ南側にある。もっとも、駅近くの染井門(駅から徒歩2分)は通常時には閉鎖されており、入口(正門・駅から徒歩7分)は庭園の南側にある。入園料は300円。敷地が8万8千平米もある「回遊式築山泉水」なので見どころは多い。とくに内庭に入るとすぐ目の前にある「しだれ桜」の巨木は有名で、3月の開花期には大名行列ならぬ大行列ができる。秋の紅葉シーズンも人気があり、ともにライトアップされることでいっそう艶やかになる。駒込六義園がある場所は文京区本駒込)はツツジも有名な場所だが、私が訪れた5月末は時季外れでツツジは終末、アジサイは尚早といった感じで花は少なかった。それでも新緑は美しく、とても都会にある庭園とは思えないほど緑は濃かった。

f:id:haikaiikite:20190531135208j:plain

藤代峠から大泉水を望む

 六義園徳川綱吉側用人だった柳澤吉保が、和歌の趣味を基調として造らせた大名庭園だ。吉保は「むくさのその」と呼んでいたが、現在は「りくぎえん」と読まれている。「ろくぎえん」でも良さそうだが、ここは漢音できちんと「りくぎえん」と呼ばれている。意外に知られていないが「六」は”りく”が漢音で”ろく”は呉音だ。

 呉音は6世紀ごろ、仏教とともに大陸から流入されたので、仏教用語の多くは呉音で読む。「六道」は「ろくどう」が呉音読みで「りくどう」が漢音読みだ。また古く(平安期以前)から日本に流入した言葉も呉音で読むことが多く、律令用語や万葉仮名も呉音読みが基本だ。たとえば「令」は呉音で「りょう」、漢音で「れい」。当然、『万葉集』の言葉は呉音で読むはずなのだが‥‥。

 一方、現在は呉音や漢音の区別は良い意味でいい加減で、読み方にこだわると「東京」は漢音読みで「とうけい」、呉音読みで「とうきょう」となる。実際、明治期には漢音読みにこだわり、東京を「とうけい」と言っていた人が多かったらしい。まあ、言葉は融通無碍なので「言ったもん勝ち」なのである。「れいわ」のような例は多い。

 閑話休題、「六義」の名から儒教思想を連想したのだが、実際は中国詩の六つの類型にならった和歌の六体を意味しているそうだ。「風」「雅」「頌(しょう)」「賦」「比」「興」の六つで、前三者は詩の性質・内容、後三者は詩の表現を意味するとのこと。このため、万葉集をはじめとして多くの和歌にうたわれた和歌山県の名勝地(本家は中国の古典)が庭の素材になっている。写真のキャプションにある「藤代峠」は園内の築山だが、この名は和歌山県にある峠名から借りたものだ。

f:id:haikaiikite:20190531140842j:plain

大泉水に浮かぶ蓬莱(ほうらい)島。向かいにあるのは吹上茶屋

 海をイメージした”大泉水”には「蓬莱島」が浮かんでいる。この島の名の”蓬莱”は神仙思想のひとつで、蓬莱という仙境には仙人が住んでいると考えられた。

 ”蓬莱”と聞いてすぐに思い浮かぶ人物といえば、秦の始皇帝に使えた方士の徐福だろう。始皇帝に”不老不死の霊薬”を探すといって、蓬莱島(山)へ出掛けるための莫大な資金を拠出させ、東方に旅立って秦に戻ることがなかった人物だ。

 彼は山東省出身なので、その地の東方にある島といえば日本とも考えられる。実際、日本には”徐福伝説”が多く伝承されている。たとえば、和歌山県新宮市には”徐福の墓”とされるものがあり、その地は現在「徐福公園」として中国風の楼門や大きな徐福像があり、私もそこには何度か訪れたことがある。もっとも、徐福公園に行くことが目的ではなく、第一には作家、中上健次が18歳まで過ごした土地の空気に触れるため、第二には「熊野速玉大社」や「熊野本宮大社」へ訪れるための拠点として新宮市に宿泊し、たまたま散策中にその公園を見出しただけなのだが。

 ともあれ、ここ六義園には、和歌山の景観や和歌に詠まれた名勝地、古代中国の伝承などが吉保のイメージによって再現され「八十八境」として具象化されている。

江戸庶民の富士山信仰が生み出した神社

f:id:haikaiikite:20190531213259j:plain

江戸庶民が熱狂した富士信仰の一拠点

 六義園の次に向かったのは、やはり文京区本駒込にある「駒込富士神社」だ。

 江戸時代の庶民の間には「富士信仰」が流行した。富士は”不死”もしくは“不尽”に通じるため、富士講と呼ばれる巡礼組織が数多く作られた。最盛期には「江戸八百八町に八百八講」と言われるほど盛んだったらしい。もっとも庶民には本当の富士山に出掛けるのは体にも懐にも負担が大きいので、富士山の小型版を町内に築いた。これが富士塚と呼ばれるもので、高さは4~10mのものが大半だ。

 駒込富士神社にある富士塚は、この地にあった前方後円墳の円墳部分を利用したという説がある。写真にはないが、右手には本物同様、岩穴もある。ここの特徴といえば、町火消の人々に愛されたということから、彼らの旗印である”纏(まとい)”の絵や火消の組を表す石碑がたくさんあることだろう。

坂を下ると都電の姿が目に入った

f:id:haikaiikite:20190531215448j:plain

坂の下に見えた都電の姿

 神明都電車庫跡公園に向かった。駒込界隈は細い路地が複雑に入り組んでいるので、どの方向に進んでいるのか分からなくなることがある。しばらく迷ったのち、写真の景色が目に入ってきた。視線の先に”都電”の姿があったので、そこが目指す公園に違いなかった。この緩い坂もかつては急だったはずだ。

f:id:haikaiikite:20190531220136j:plain

1949年に造られた6063号。最後は荒川線で活躍した

 公園内には写真の車両だけでなく貨物車もあった。しかしどちらも柵の中に鎮座しているため、乗ることはおろか触れることさえできなかった。この6000形の車両は都電では一番多く用いられていたため、私がイメージする”チンチン電車は”はこの姿だ。

 公園内には緑が少なく、やや厳しめの日差しの下では長居はできそうになかった。植物としてはビヨウヤナギとランタナ(写真の花)がよく咲いていたが、アジサイは開花の始まりで、七変化の一変化目だった。

段丘のヘリに造られた駒込東公園

f:id:haikaiikite:20190531221648j:plain

緑が多い公園で、しっかり段差もある

 駒込東公園は豊島区にある。文京区からまた駒込駅近くに戻ってきた。前の公園は段丘崖の下にあったが、また坂を上ってここにやってきたのだ。ここは丁度、崖のヘリにあり、公園自体もこの段差を利用して造られている。もちろん、この段差は前述した谷田川が生み出したものである。さほど広くはないが、緑がとても多いためか木陰にあるベンチに腰掛けて休憩している人が4人いた。ここでは、時間はゆったりと流れているようだった。

アザレア通り駒込駅東口に通じている

f:id:haikaiikite:20190531223320j:plain

庶民的な香りがするアザレア通り商店街

 公園を出て、次なる目的地である「中里第二踏切」へ向かう途中、「アザレア通り商店街」に出た。この通りの背中の先には駒込駅東口がある。 なかなか庶民的な香りがする商店街で、下町ならではといった感じだ。

 アザレアはツツジの英名で、写真のようにツツジの花がしっかりと描かれている。ツツジソメイヨシノと並び、駒込を代表する花だ。豊島区の花にも指定されている。もっとも、元園芸ファンとしては簡単には肯けないものがある。アザレアは園芸の世界では西洋ツツジを意味するからである。ここはせめて「つつじ通り」と呼んでほしかった。

 こういうことはこの世界ではよくあり、アジサイといえばガクアジサイや西洋アジサイを指し、小型に改良された園芸品種は学名から採ってハイドランジアと呼んでいる。ちなみに、ハイドロは水のことである。アジサイには雨がよく似合う。

今のうちに見ておきたい、山手線唯一の踏切

f:id:haikaiikite:20190601095523j:plain

山手線唯一の踏切。もうすぐなくなるかも

 駒込界隈に来たとき、必ずと言って良いぐらいの頻度で立ち寄るのが、ここ「中里第二踏切」だ。駒込駅と田端駅との間にある、山手線唯一の踏切である。駒込駅東口から徒歩数分のところにあるので、さほど時間に余裕がないときでさえ大抵の場合、この踏切の近くに立って、山手線が通り過ぎるのを待つ。これが中央線だったり南武線だったりすれば当たり前すぎる景色なので、わざわざ見に出掛けようとはしない。山手線の踏切であることに価値がある。

 しかし、山手線と谷田川通りが交差するこの踏切も、2020年に立体交差に向けた概要が決定されるというので、そう遠くない将来この姿は見られなくなる。そうなると、私にとって駒込に来る動機は相当希薄になる。そのように思うと、山手線の車両にデコレートされた「スシロー」の宣伝写真が悲しみを帯びて見える。クルクル回る寿司も、最近は回らなくなってきているし、クルクル回る山手線には踏切がなくなるし‥‥近代化は人の心身を疎外する。

初めての旧古河庭園~美の背後にあるもの

f:id:haikaiikite:20190601101848j:plain

5,6月はバラの季節。訪れる人は多い

 旧古河庭園は北区西ヶ原にあるが、駒込駅からも10分ほどの距離にあるので最寄り駅のひとつになっている。本郷通りの妙義坂を下って上って庭園の入口に至る。この下り上り、すなわち谷状の地形も、谷田川が形成したものだろう。

 六義園同様、この庭園に入るのは今回が初めて。「浅見光彦」を探しにこの近くへは何度も来たことがあるが、たとえ150円という格安料金で美しい建物や庭園に触れられるとしても、やはり「古河」の文字には抵抗があった。

 大正時代に整備されたこの庭園は、古河財閥の3代目の古河虎之助(古河市兵衛の実子)の邸宅として1919年に整備された。石造りの洋館は段丘上に、洋風庭園は段丘崖に、日本庭園は段丘下というように、武蔵野台地のヘリをうまく使ったとても趣きのある空間である。広さは約3万平米で、おおよそ六義園の3分の1だ。

f:id:haikaiikite:20190601103755j:plain

心字池を中心にした日本庭園

 バラが開花中のこともあってか日本人女性の姿が目立ち、男女比は2:8といったところ。外国人観光客も多いが、こちらは日本庭園の方に興味がありそうだ。洋館や洋風庭園に見られた騒々しさもないので、のんびりと散策するには断然、こちらの方が良い。雪見灯篭、枯滝、十五層塔などの配置も素敵だ。

f:id:haikaiikite:20190601104739j:plain

大滝は段丘崖の段差を利用している

  段丘崖の西側はなだらかに成形され、そこにバラ園やツツジ園を配置し、東側はその段差をうまく利用し、森の中で音を立てて落下する滝を演出している。写真ではうまく表現できていないが、実物は見事に「自然美」を再現している。

 この広大な敷地は、幕末から明治期に活躍した陸奥宗光が明治20年(1888年)頃、別宅にするために購入した。陸奥といえば幕末には坂本龍馬と常に行動を共にし、勝海舟の海軍操練所にも入った。維新後は一時、不遇期はあったが、伊藤博文山縣有朋らの助力もあって、政治家として活動した。とくに外交面で手腕を発揮し、幕末期に結ばれた不平等条約の改正(治外法権の廃止)を成し遂げたことは、歴史の教科書にもよく出てくる業績だ。

 が、勝海舟陸奥を”人に使われるときは才能を発揮するが、人の上に立つ器ではない”というように評したように、負の一面がある。それは、1891年の帝国議会での対応に現れる。田中正造足尾鉱毒事件における古河側の責任を問う質問主意書を提出した際、陸奥は「主意書の意図は不明」として誠意ある回答を示さなかったのだった。

 陸奥の次男であった潤吉は、当初、実子のなかった古河市兵衛古河財閥一代目)の養子となり二代目を継ぎ古河鉱業を興した。この二代目のときに足尾鉱毒事件は最悪期を迎え、田中正造の戦いは本格化した。田中が私財を投げうって反対運動を進めているとき、陸奥は西ヶ原の一万坪弱の土地を別宅にするために購入したのだ。この土地は二代目のときに古河財閥のものとなり、三代目によって大庭園が完成するのである。

 私の心のどこかにこの知識が居着いてため、この庭園を避けていたのかもしれない。政治家としての陸奥への評価は高いが、人としての評価は格段に低い。

ソメイヨシノ発祥の地

f:id:haikaiikite:20190601113101j:plain

ソメイヨシノはこの蔵のある地で栽培された

 写真の旧丹羽家住宅蔵は駒込3丁目にあるが、かつてこの一帯は染井村と呼ばれていた。”染井”は地名としては残っていないが、写真の掲示板のようにこの名前を使うことは多い。”染井通り”、”染井稲荷神社”、”染井霊園”などで、私が旧古河庭園から歩いてこの住宅蔵のある広場に来たときも”染井坂通り”を上ってきた。この住宅蔵は1936年に造られたものなのでソメイヨシノには直結しないが、この蔵を建てた丹羽家とは大きな関連がある。

f:id:haikaiikite:20190601115333j:plain

門と蔵のある広場は植木職人の丹羽家の敷地だった

 丹羽家はこの染井地区では有力な植木職人だったことは、写真の”腕木門”からも想像できる。腕木と呼ばれる梁(はり)で屋根を支えることから腕木門というそうだが、一介の職人ではこのような立派な門を構える家を持つことはできない。この地で江戸後期、エドヒガンザクラとオオシマザクラが偶然なのか意図的なのかは不明だそうだが交配され新種のサクラが誕生した。いくつか生まれた中からもっとも特徴的な1本を選び、それを接ぎ木して増やしたということが現在分かっている。

 はじめはサクラの名所である奈良の吉野山にちなんで”吉野桜”と名付けられたが、吉野にあるヤマザクラとは異なる種であることが分かり、この地にちなんで”ソメイヨシノ”と名付けられて日本中に広まった。あくまで"吉野"にこだわっている点が面白い。学名は"Prunus×yedoensis"である。ここには染井も吉野もなく、江戸が入れられている。

 ここで160年ほど前、ソメイヨシノが誕生したと考えると、この何の変哲もない広場がなんだか輝かしく見えてくるから不思議だ。

太田道灌ゆかりの神社

f:id:haikaiikite:20190601123723j:plain

太田道灌が3度祈願し3度とも勝利した「戦勝の宮」

 グーグルマップを見て駒込駅へ行く道を探していると「妙義神社」の名を見つけたので立ち寄ってみることにした。神社にではなく”妙義”のほうに惹かれたのだ。群馬県にある妙義山はその奇妙な形に興味があるのでよく出掛けるが、その地にある妙義神社駒込妙義神社の関係にも少し関心があった。が、その関係は不明だった。もっとも、”妙義”そのものの語源が諸説ありすぎてまったく解明できないのである。

 群馬の妙義神社は家内安全、商売繁盛、交通安全、合格祈願など庶民の現世利益を実現してくれるようだが、駒込のほうは”戦勝の宮”、”勝負の神様”という群馬のそれとは少し毛色の違う神社のようだ。その理由は、ここに戦勝を祈願した太田道灌と関係があるようだ。

 戦上手としてよく知られた道灌だが、やはり神にすがることはあったようで、この妙義神社には3度戦勝を祈願し3度とも勝利した。そのために道灌は様々なものを寄進したという記録が残っているそうだ。残念ながら太平洋戦争でそのすべては焼失した。それでも、道灌との関係を知る資料は他に残っていたようで、再建する際には”道灌霊社”が造られている。

 現在は古くなった社殿や境内にある建物を復興造営中のため境内は狭くなっているため、ここでゆっくりすることはできなかった。

f:id:haikaiikite:20190601130633j:plain

四辻の中央にある電柱

 妙義神社から本郷通りに出る参道はとても細い。現在は住宅が密集しているが、利便性を高めるためか安全性を確保するためか、少しだけ道が拡張されている。しかし、電柱だけはかつてからあった位置に残されているので、四辻のほぼ中央に立っていることになった。これも、下町ならではの光景かもしれない。

f:id:haikaiikite:20190601131949j:plain

妙義坂にある子育地蔵尊

 本郷通りに出た。駒込駅方向からくると下り、旧古河庭園方向に進むと上り、この坂は”妙義坂”と命名されている。妙義神社があるからだ。東京には坂が多い。当然、近くの神社に由来するものも多い。”阿弥陀坂”、”無縁坂”、"観音坂”、”地蔵坂”、"不動坂”など無数にある。

 妙義坂の途中にあるのが写真の子育地蔵尊だ。地元の有志が子孫繁栄を祈願してお堂と地蔵尊を建立したのだが、戦争末期の空襲によって消失し、地蔵尊だけが再建された。地蔵堂の中には二人の少女の供養碑もある。かつてこの近くで交通事故で亡くなった少女を供養するものだそうだ。以来、この地蔵尊は子孫繁栄だけでなく、交通安全も見守っている。

下町情緒のある駅前通り商店街

f:id:haikaiikite:20190601133819j:plain

駒込駅東口に通じる駒込銀座通り

 谷田川通りと駒込駅東口を結ぶ細い通りが駒込銀座通り。写真のようにここを通る人はかなり多い。その狭さとおおらかな雰囲気は下町情緒たっぷりといったところ。実際には、どこの駅前にもある店も多いのだが、その一方、地元ならではの店が混在し、感じの良さを生み出している。

 最近では「さつき通り」の垂れ幕を飾り、「銀座通り」からの脱却を図っているようだ。前述した、駅の東口から南東に伸びるのが「アザレア通り」、北西に伸びるのが「銀座通り」改め「さつき通り」となれば、ツツジの仲間での対比が生まれる。4から5月はツツジ、5から6月はサツキの季節。いい塩梅である。

 駒込界隈を巡り、関連するいろいろな人物名に出会った。古河市兵衛であり田中正造であり太田道灌である。このブログで触れた人物だ。徘徊にはいろいろな発見がある。次はどんな人物や事柄に出会うことができるか、楽しみは尽きない。

 

★このブログは毎週土曜日の更新を心掛けてきましたが、6から9月は鮎釣りシーズンのため、しばらくは10日、20日、30日に更新させていただきます。天気と気分と出会い次第で変わりますが。

〔10〕羽田空港周辺を飛び歩く

10代の頃、羽田空港は私の逃げ場だった

f:id:haikaiikite:20190524104001j:plain

京浜島つばさ公園から空港を望む

 10代の半ば頃からしばらくは羽田空港に出掛け、展望デッキから飛行機の離発着をのんびりと眺めるということがよくあった。

 学校に行くことは、最初の一か月で興味を失った。朝、京王線新宿駅までは一応行くのだが、混雑する山手線に乗るのが嫌で、通勤・通学ラッシュが一段落するまで新宿駅のホームで待った。いざ電車に乗ると、今度は駅には下りず、外の景色や乗客の行動を観察しながら時間をつぶし、まあるい緑の山手線で都内をぐるぐる回った。学校に着くころには、4時間目が始まっていた。

 山手線にいささか飽きた頃、今度は浜松町駅東京モノレールに乗り換え、羽田空港まで出かけることが多くなった。別に飛行機に興味があったわけではなかった。小学生の頃、一度だけ乗ったことがあったが、別段、感激はなかった。それよりは、新幹線のほうが乗っていて楽しかった。だから、小さい頃は、飛行機の運ちゃんではなく、電車の、さらにいえば新幹線の運ちゃんに憧れを抱いていた。

 一方、乗り物を見る側の立場となると、新幹線は一瞬にして目の前を通りすぎてしまうので面白みはない。それより、空港を飛び立つ飛行機が残す軌跡をたどるほうが、また空の中から点ほどの小さい姿を現した飛行機が段々とそれを拡大させながら空港に近づき、轟音を立てて着陸する様子を眺めるほうが楽しかった。今でも、年に30回ぐらいは飛行機の離発着を見るだけのために空港へ出かける。もっとも、今は羽田ではなく調布ではあるが。

飛行機の離発着を眺めるスポットの代表格だった”浮島町公園”

f:id:haikaiikite:20190524110828j:plain

川崎市の浮島公園には飛行機撮影ファンが多く集まる

 今の羽田空港はターミナルが立派になり過ぎ、かつ人も多過ぎるため、飛行機をのんびりと眺めるという気持ちにはとてもなれない。そこで、空港内ではなく周辺部から楽しむということになる。飛行機の動きを追いながらそれに自分の異郷への憧れも載せるなら離陸のときが良いが、迫力という点では着陸時のほうが断然面白い。私には、飛行機の離発着を写真に収めるという動機も趣味も今までなかったので、その撮影は今回がまったく初めてといっても良い。しかし、”眺める”という体験は、若い頃から今でもずっとしているので、羽田空港周辺の主だった”ビューポイント”は認知している。

 今回は、行きやすく眺めやすいポイントを飛び歩いてみた。マニアには”とっておきの場所”があるのだろうが、私にはそんなものはないので、既知の場所をあれこれと動きまわった。併せて、”羽田”という町にも、多摩川河口という場所にも魅力はたくさんあるので、”つばさ”だけを追う散歩ではなかった。

 古くから「航空機撮影ファン(撮りヒコ)」によく知られているのが、川崎市川崎区にある「浮島町公園」である。今では、「東京湾アクアライン」の浮島インターや首都高速湾岸線の浮島ジャンクションがあるところといったほうが馴染み深いかもしれない。

 ここにはかつて(今もなくなったわけではないが)「浮島町海釣り施設」があり、真上を飛び交う飛行機、眼前を悠揚と進む大型船などの姿を見ながら釣りができる場所として人気があった。が、その無料駐車場が”廃車置き場”と化してしまったため駐車スペースはなくなった。そのためアクセスが極めて困難となり、今では釣りに訪れる人は皆無に近くなった。一方、カメラ小僧やカメラ爺は自転車という機動性の良い乗り物を使ってここを撮影スポットに利用している。

 今回、近くにコインパーキングがないかどうか調べてみたのだが、周囲は工場や倉庫街なのでその手ものはまったくなかった。が、”にこにこパーキング”といって羽田空港を利用する客の車を数日間預かる駐車場が時間貸しで利用できるということが分かった(4時間以内1000円)ので、かなり割高ではあるがここに車を止め、公園まで出かけた。

 公園内には10名ほど、カメラを構えた”航空機ファン”がいた。皆、高級一眼レフに600ミリの望遠といういでたち。私といえば、コンパクトミラーレス一眼に普及品の中望遠ズーム。これではとても太刀打ちできないので、”空港に降り立つ飛行機を撮る”という作戦から、”空港に降り立つ飛行機を撮る人々を撮る”という戦術に改めた。

 ファンたちは一様にスマホのアプリを使って、どんな飛行機が降り立ってくるのかを調べながら撮影態勢をとっている。降りてくる機種によっては誰も見向きもしない一方で、一斉にカメラを構えるという動きをとることもあった。そんなときは、たしかに通常とは異なるデコレーションが施されている飛行機が下りてきた。私には、飛行機よりもそうした行動をとる人々の動きの方が興味深かったが、それでは大枚1000円を払った甲斐がないので、着陸態勢をとる飛行機が入りつつカメラを構える人々も入る場所でその撮影機会を待った。

 なお、写真内の海上に見えるのが2015年から使用されている”D滑走路”だ。桟橋状の構造物になっているのは、多摩川の流れを妨げないためだ。なにしろ、この新滑走路は多摩川河口の半分以上を占めているのだから。

 ともあれ、なんとか撮影ができたので、ここを離れ、次の”航空機撮影”基本スポットである城南島や京浜島へと移動することにした。

羽田空港はただ今、オリンピックに向けて工事中

f:id:haikaiikite:20190524120917j:plain

空港周辺も”オリンピック景気”に沸く

 次の場所に移動する前に今一度、川崎側から空港を望んでみようと、殿町(とのまち)にあるコインパーキングに車を止め、多摩川右岸堤防に出てみた。この辺りは「キングスカイフロント」と呼ばれるようになったそうである。自動車工場の跡地に、ヨドバシカメラのアッセンブリーセンターだけでなく、ライフサイエンス・環境分野の研究開発拠点を誘致した。それ自体は好感のもてる開発方針だが、命名がいただけない。「高輪なんとか」といい勝負だ。地区名が殿町だから”キング”、対岸に空港があるので、”スカイフロント”。なんだか人を小ばかにしたような名称である。

 川の向こう側に姿を現したのは、国際線ターミナルの改良とそれに付設するホテル、商業施設、会議場、温浴施設、大型駐車場の巨大工事現場だ。完成後は「第3ターミナル」と呼ばれることになっている。オリンピック開催までの完成を予定しているらしい。また、川の中に見える橋脚(ピア、ピーヤ)は川崎側の国道409号線と、空港内を走る「環状八号線」とを結ぶ「羽田連絡道路」(仮称)のものである。こちらもまた、オリンピックに向けたものである。これらの工事でも国立競技場のそれと同様、月28日の長時間労働が日本人・外国人労働者に強いられていることだろう。

 東京オリンピックという”馬鹿げた”運動会のために、他に使うべき必要のある貴重な財源と人材が、ここにもまた”無駄”に投入されている、一部の”利権屋”のために。

f:id:haikaiikite:20190524134954j:plain

多摩川の左岸から望んだ空港周辺

 城南島に立ち寄る前、多摩川河口周辺の様子が気になったので、少しだけ多摩川左岸にも寄ってみた。ここでも河川の改良工事がおこなわれていた。ここいらは”羽田漁港”とも呼ばれ、遊漁船の発着場になっている。その施設は写真のとおり極めて古い。個人的にはこの”古さ”と空港の新しさの対比が好みなので、この景色は可能な限り残してほしいのだが、近代化の波はこの旧港まで及びそうで物悲しい。前方に見える多摩川の河口も、D滑走路に塞がれているようで息苦しそうだ。

海遊びもできる城南島海浜公園。ただし遊泳禁止

f:id:haikaiikite:20190524135742j:plain

城南島の”つばさ浜”では貝掘りの人もいた

 羽田空港の真北にある城南島は埋立地で、工場や倉庫などがとても多い。島の東側の沿岸が海浜公園になっている。公園からは、大井ふ頭の”ガントリークレーン群”や青海、有明豊洲、辰巳一帯の高層ビル群、東京タワー、スカイツリーなどが望め、ここでは釣りもできる。東側の対岸には巨大な中央防波堤埋立地があり、その間を東海汽船ジェットフォイルや大型貨物船が走る姿を見ることもできる。一方、公園の南東側は一部”つばさ浜”と命名された人工砂浜が、その陸側にはバーベキュー場がある。

 この日は大潮の干潮時にここへ到着したので、砂浜では潮干狩りを楽しむ人の姿が散見された。また、気温が高く、真夏を思わせる強い日差しが照り付けていたため、水遊びをする人、肌を焼く人などもいた。ここの海水はあまり綺麗ではないので、”遊泳禁止”の表示が掲げられている。

 天気予報では南風が強くなると告げていたので、この公園の真上を通って羽田に着陸する飛行機が見られると期待したのだが、ここに来た当初はあまり風が強くなっていなかった。こうなると、羽田では通常時のA、C滑走路が使われることになる。この場合、公園から見られるのはC滑走路からの離陸ということになるので、やや期待外れだった。それでも、護岸ギリギリまで寄れば離陸時の撮影は可能と思い移動したところ、南風が強くなってきたため、C滑走路では、南に向けた離陸が始まった。

f:id:haikaiikite:20190524142415j:plain

城南島でも航空機撮影ファンは多かった

 こうなると、着陸にはB、D滑走路が使われることになるので、城南島は期待した通りのビューポイントになった。着陸する飛行機を撮るだけならここで十分だが、やはりここでも”着陸する飛行機を撮る人を撮る”を心掛けた。すると案外、位置取りが難しいことが分かった。飛行機が頭上を通るので、人と飛行機を同じ画面に入れるのが大変なのである。飛行機が通り過ぎた状態であればその位置が低くなるので人も入れやすいが、今度は逆光になるので色が飛んでしまうのだ。

 丁度、桃色にペイントされた大型貨物船が中央防波堤との間の水道を通りそうだったので、飛行機の着陸と船の入港、さらに、向かいのガントリークレーンを入れれば、多少飛行機の姿は小さくなってもなんとか”絵になる”と期待してシャッターを切った。満足とはいえないもののギリギリ合格点かも。

B滑走路への着陸機を見るなら京浜島つばさ公園が最適

f:id:haikaiikite:20190524143745j:plain

B滑走路に着陸する飛行機と新管制塔

 京浜島は空港の北西側にある。島の東側が”つばさ公園”になっており、B滑走路に降り立つ飛行機を間近に見ることができる。ここならば私のカメラでも十分に着陸する飛行機をメインにした写真が撮れる。強くなった南風様様である。

 飛行機だけではつまらないので、新管制塔と旧管制塔(予備管制塔)を背景にできる撮影ポイントを探した。着陸する飛行機を眺めるだけならこの場所でも今まで何度も経験してきたが、撮影は今回が初めて。前回の”チンチン電車”ぐらいの遅さなら普通に撮れば良いのだが、着陸時でも新幹線ほどの速さがある機体を撮るのはかなり難しい。飛行機だけなら”速度感”を出すための流し撮りで良いのだろうが、背景もきちんと明瞭に入れるには速いシャッターで両者を収めなければならない。そうすると、今度は被写界深度が浅くなるため、どちらかがボケることになる。幸い日差しが強く、やや絞り込んでも速めのシャッターが使えたため、なんとか飛行機のブレを抑えることができた。”撮りヒコ”ならこうした写真は躍動感がないためにボツにするだろうが、”初心者”ならやはりギリギリ合格点だと勝手に考えた。

 この場所には無料の駐車場があるが、そのスペースは狭いため、多くの人は路上駐車する。道路の幅の割には交通量は少ないので”黙認状態”といったところ。以前に立ち寄ったときには空港との間の水道で釣りをする人が結構見られたので、釣り人も入れた写真も撮れると考えていたのだが、この日は一人だけいた。それも希望のフレームからは外れるところで釣りをしていたので、ここでは除外した。

羽田の地を”信仰”で守り抜いた穴守稲荷

f:id:haikaiikite:20190524190806j:plain

現在改修中の穴守稲荷神社

 羽田村はかつて、農業と漁業が盛んだった。浅い海は江戸時代から新田開発され、目の前には”豊饒の海”が広がっていた。豊かな田畑や豊富な魚介類の多くは多摩川が運んだ栄養分がもたらしたものだろうが、その一方、”暴れ川”である多摩川は度重なる氾濫を生じさせた。堤防に開いた穴から人々の暮らしを守るという目的で造られたのが「穴守稲荷神社」だ。もともとは、今は羽田空港の敷地になっている場所にあったのだが1945年、その地を米軍に接収されたため、現在の京急穴守稲荷駅近くに地元の人々の力で再建された。

f:id:haikaiikite:20190524192652j:plain

改修中のため、境内の脇に保管されている赤い鳥居とキツネ像

 稲荷は”稲成り”の言葉通り、豊作を祈る農業神だったが、現在では産業興隆、商売繁盛、家内安全なども祈られるようになった。また、神の使いとして稲荷には”キツネ”が欠かせない。稲荷信仰の総本山は京都の伏見稲荷大社で、外国人観光客にも人気があるのが”千本鳥居”。ここ穴守稲荷でも数多くの赤い鳥居が保管されているので、本社には及ばないものの、改修工事完成後には見事な赤い鳥居の行列が再び見られるはずだ。

f:id:haikaiikite:20190525104726j:plain

今は羽田空港から旅立つ人の安全を守っている大鳥居

 写真の大鳥居は、かつて穴守稲荷が現在の空港の敷地内にあったときのものだ。滑走路の拡張の際、この鳥居の移動だけは住民の抵抗もあって敷地内に残されていたが、その後の再拡張のとき、1999年に海老取川河口左岸側に移動してきたものだ。すぐ隣には環状八号線が走っており、この道を使って空港ターミナルに向かう旅人は結構多い。そんな人々の多くが、この赤い鳥居を目にしていることだろう。その中の幾人かは、この鳥居に”旅の安全”を祈願しているに違いない。羽田の人々に大切にされてきた鳥居だけに。

羽田の町中を飛び歩く

f:id:haikaiikite:20190525110153j:plain

橋の上から羽田第二水門周辺を望む

 羽田は古い町である。1889年にいくつかの村落がまとまって羽田村ができ、1907年には羽田町になっている。

 私はかつて、ここに羽田空港があるのでこの地を羽田と呼ぶようになったのだろうと勘違いをしていた。”羽”は飛行機を連想させる。”名は体を表す”からである。が、実際は、ここに飛行場ができたのは1931年で、そのときは「東京飛行場」といわれていた。ここが羽田空港と呼ばれるようになったのは戦後のことで、名付け親は進駐軍(米国陸軍)である。

 話は逸れるが、私は陸上競技が好きで、普段ほとんど見ないテレビも陸上競技の中継だけはかなり見る。競技結果にも関心があり今年の2月、走り高跳びで久しぶりに日本記録が更新された。その選手名は戸邉(とべ)直人。新記録に挑戦する際、関係者や観客は心の中で、そして声に出してこう叫んだであろう、「とべ、跳べ」と。”名は体を表す”。アメリカでも、やや旧聞に属するが、女性のフリン中尉が、部下の女性の夫と不倫関係になり、それが発覚して除隊することになった。ニュースでも「フリン中尉、不倫で除隊」などと取り上げられた。”名は体を表す”。

 閑話休題、前述したように羽田村は多摩川の度重なる氾濫に苦しんだ。そこで、川の左岸には写真のような「水門」が造られている。また、写真では少しわかりづらいが、水門の奥には”赤レンガ堤防”がある。この赤レンガ堤防は道路に沿って海老取川河口近くまで続いている。多摩川は大都市を流れる川なのだが、その堤防は他の大都市を流れる河川の堤防とは違い、例外的にほとんどが土盛りだ。しかし、氾濫が多かったこの地区には、コンクリート壁や赤レンガ壁が必要だったのだろう。

羽田七福いなりめぐり

f:id:haikaiikite:20190525114326j:plain

鴎稲荷神社は七福いなりめぐりの五番目

 羽田では毎年の1月1日から5日まで、「羽田七福いなりめぐり」が行われている。スタンプラリーのように、一番の”東官守稲荷神社”から七番の”穴守稲荷神社”まで、別格の”玉川弁財天”を含めると八つを巡拝するという催しだそうだ。全部を巡っても2時間ほどだとのことなので当初は一番からスタートしようとしたのだが、そうすると空港からは少し離れることになるため、今回は空港近くの御稲荷様をグーグルマップで探し、七福めぐりとは無関係に巡ってみた。

 そのひとつが、写真の”鴎(かもめ)稲荷神社”だ。ここは「開運招福」を祈る御稲荷様で、漁師がこの稲荷に祈願するとカモメが飛来し大漁になったことから、鴎稲荷と呼ばれるようになったそうだ。

 写真の右手の「羽田道」の標柱にあるように、この稲荷の前の道は、海老取川にかかる弁天橋に通じる旧道だったのである。それだけ、多くの漁師がこの道を使って漁に出たり、獲物を運んだりして賑わったのだろう。

f:id:haikaiikite:20190525121104j:plain

白魚稲荷神社は七福めぐりの六番目

 白魚稲荷神社は、「羽田七福いなりめぐり」の六番目の御稲荷様だ。ここは「無病息災」という福を招いてくれる。武蔵風土記には「土人呼テ白魚稲荷ト云漁人白魚ヲ取コロ初テ得シ時ハマツ此社ニ供フル故ニカクイヘリ」と社号の由来が述べられている。

 ここでいう”土人”は地元民という意味で、差別的意味はまったくない。以前、「北海道旧土人保護法」を巡って、アイヌ土人と呼ぶのは差別的ではないかという論争が巻き起こった。しかしこの法律の趣旨は、以前から北海道に住んでいたアイヌ の権利を保護しようとするもので、「アイヌ=以前から住んでいた地元民=土人」という位置づけなのである。「土人=南洋のクロンボ」と一緒にするなと考える方が、よほど差別的だろう。この稲荷の名の由来も「土人=漁人」の図式で、字が読める人であれば、以前は漁師が数多く土着していて、彼らが漁の安全を祈願していたという様子が見て取れる。

 以上の通り、結果的には「七福」のうち、”鴎”、”白魚”、”穴守”の三稲荷を巡ったことになった。しかし、カメラのメディアには「稲荷」と名の付く場所が上記以外に三つ写っている。それだけ、この地では”稲荷信仰”が盛んだったのであろう。

 漁師の仕事は常に「死」と背中合わせだ。また、この地の人はいつも多摩川の氾濫と闘わなければならなかった。それでもこの地を愛したのは、豊かな海が眼前にあったためだった。

再び、多摩川の左岸に戻る

f:id:haikaiikite:20190525124423j:plain

羽田漁港に停泊する遊漁船

 町中巡りを終え、再び多摩川左岸の土手に出た。鄙(ひな)めいた 羽田漁港には夕日を浴びた遊漁船が停泊していた。その先にある羽田空港からは機体を黒く塗られた飛行機がA滑走路から飛び立っていった。

 

f:id:haikaiikite:20190525124952j:plain

左岸土手上から”大師橋”を望む

 左岸土手上から多摩川の上流方向を望むと、今にも壊れそうな”遊漁船倉庫群”と近代的な首都高速道路の”新大師橋”と産業道路の”大師橋”の対比が趣き深い。これは、あたかも今日の格差を象徴しているかのようだ(この表現法は三島由紀夫やカントが好むもの)。実際、大師橋の下には、ホームレスの人々のテントが2張りある。

 私は土手の上を歩き、海老取川河口まで戻った。近くのコインパーキングに駐車していたからだ。夕まぐれが迫る中、土手上の道路では多くの男女が散策していた。海老取川河口にはひとりの釣り人がいた。おそらくスズキを狙っているのだろう。

 この辺りの汽水域には生物が豊富だった、近代化の波が押し寄せる前までは。人はある豊かさを失うと、その一方で異なる豊かさを創造しよう試みる。しかし大半の人はその狭間にいて、ただ翻弄されるだけである。この地のように、たとえ”豊饒の海”が眼前にあったとしても、だ。

f:id:haikaiikite:20190525132124j:plain

水難者を祀った無縁仏堂とその先にある空港施設