徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔112〕碓氷峠(めがね橋)、横川(釜めし)、そして妙義山(日本三大奇景)

さくらの里から妙義山を望む

碓氷峠のめがね橋を歩く

碓氷第三橋梁~通称めがね橋

 昨年の初夏には下仁田町の地質を調べるために群馬県に出掛けた。もっとも半分は神流川での鮎釣りを兼ねていたので、下仁田周辺と妙義山にしか出掛ける余裕はなかった。そこで今回は、もう少しじっくりと妙義山下仁田町を見物して、ついでに碓氷峠の「めがね橋」や横川界隈にも足を伸ばしてみた。

 碓氷峠は片峠であるために、トンネルを掘って峠越をすることはできない。そのため、鉄道には独特の「アプト式」が採用された。が、現在は横川駅から軽井沢駅の間の信越本線は廃止され、代わりに北陸新幹線が通っている。もっとも新幹線は高崎から大きく北方向に迂回しているため、横川・軽井沢間には鉄道はまったくない。一方、軽井沢から先は「しなの鉄道線」が長野県の篠ノ井駅まで通じていて、これが信越本線を代替している。

 という訳で、かつての信越本線の線路があった場所は鉄路が撤去され、ここには「アプトの道」という名の遊歩道が整備されている。その白眉が、写真の碓氷第三橋梁で、私はこの優雅な姿に触れるために、これまで何度も出掛けてきた。

 片峠を登り切れば軽井沢に出るのだけれど、そこは私の生活空間とは全く異にした場所なので、今まで、その町を何度も通過したことはある(浅間山に触れるため)ものの、町中を歩いたことは一度もない。また、今後も断じてないと思っている。

廃線となった線路跡は「アプトの道」として整備

 写真のめがね橋は標高603m地点にある。ちなみに、横川駅は387m、碓氷峠の頂点は960m、そして軽井沢駅は942mとなっている。ということは、めがね橋は横川駅からまだ約200mほど高いところにあるだけで、峠の頂点に達するにはあと400m近く登らなければならないのだ。

 それゆえ、私は碓氷峠に出掛けてきた訳ではなく、ただ、その途中にある橋梁見物にやって来たことに過ぎないのである。

 廃線跡は「アプトの道」として遊歩道に整備されているということはすでに触れた。この道は横川駅横にある「鉄道文化むら」の敷地から始まり、ここで取り上げためがね橋を通り過ぎ、1.4キロ先にある「旧熊ノ平駅」まで通じている。その駅は691m地点にあるので、峠まではまだ300m近くある。こうした急峻な道(路線)であるがゆえに、「アプト式」という独特の技術が用いられたのである。

 私はめがね橋近くの駐車スペースに車を置いて、まずは国道18号線(中山道)から橋を眺めた。ここの標高は580mで、橋の上は603mのところにある。比高は僅か23mなので、わたしにでも十分に上がれる高さである。とはいえ、この橋には何度か訪れているにも関わらず、上がってみたのは今回が初めてだった。

トンネル内を目指す

 この第三橋梁は、1891(明治24)年に着工され、93年に竣工している。先の写真からもわかる通り4連のアーチ橋で、約200万個ものレンガが使用されている。 

 橋の下31mのところには碓氷川が流れている。高所が苦手な私は、道路からこの華麗な姿の橋を見上げることは可能だが、橋上から真下の碓氷川を見下ろす勇気はなかった。

 先にも触れたように、ここは「アプトの道」ではもっとも人気の高い場所なのだが、わざわざ横川駅から4.7キロの道のりを歩いてここまで訪れる奇特な人は少ないだろう。ほとんどの人は国道に整備された駐車場に車を置いてここを訪ねる。

 また、碓氷峠はサイクリングでチャレンジする人も意外に多いので、軽井沢までの急坂の途中にあるこの場所を休憩地点のひとつとして選び、ついでに橋を見学するという人たちも結構、見掛けた。

結構明るいので安心して歩ける

 日中には散策者のためにトンネル内の電灯に火が入れられているため、思いのほか明るい。もっとも、こうした閉所は私の好むところではないので、早々に引き上げたのだが。

写真撮影を終えるとすぐに転進

 トンネル内からこうして外部を見ると、木々たちの緑が一層、華やいで見える。

橋の下には碓氷川が流れている

 以前に訪れたときには「落書き」が目立つのがかなり気になったが、今回はとくに目立つものはなかった。それでも、一部にはレンガを切り刻んで自分の名前を残したと思しきものは残っていた。こういう馬鹿者には是非とも、橋上から下を流れる碓氷川へのダイビングもチャレンジしてほしいと思う次第である。

中山道から妙義山を眺める

 第三橋梁から上は目指さず、次の目的地である横川駅に行くために坂道を下った。途中で、明日に訪れる予定の妙義山の姿が目に入ったので、路肩に車をとめて少しだけ眺めることにした。誠に奇妙奇天烈な山容を有する妙義山は、どの角度から見てもすぐにそれと分かる。

 なお、木々の間に見える道路は上信越自動車道で、軽井沢へ急ぐ人はこの道を西(写真でいえば右手)に進み、少し先にある碓氷軽井沢ICで下りて、それから北上する。

◎横川駅~峠の釜めし

横川駅名物~1300円也

 信越本線には2回乗った記憶がある。当然のことながら、行きも帰りも横川駅名物『峠の釜めし』を購入した。もちろん、お土産として家に持ち帰った。中身は空の陶器の入れ物だけだったけれど。

 その後、何度かは国道18号線を利用したことがあるが、横川駅付近の売店で購入したこともあった。そのころは懐具合が多少、暖かったこともあったので、今度は中身の入ったものをお土産として購入した。

 今回は、宿での夕食にするつもりで購入した。税込み1300円は中身からするとやや高額のような気もするが、「名物に旨いものなし」の言葉がある以上に「名物に安いものなし」を無数に経験している私としては、横川に立ち寄った記憶のひとつに加えるために敢えて購入した次第であった。

 まあ、料金の中には高そうな容器代が含まれていることだし、味もまあ合格点は付けてもいいかも。 

国道18号線沿いにある「おきのや横川店」

 国道18号線を使って碓氷峠や軽井沢に向かう人で、先を急ぐ人は松井田妙義ICから上信越自動車道に移って峠までの難所をカットするだろう。が、のんびりと峠の麓にある坂本宿、そしてめがね橋など、碓氷峠の景観を楽しみながら軽井沢に向かう人は中山道を使う。その道は横川駅のすぐ南側を通っているが、わざわざ駅に立ち寄ってまで「釜めし」を購入する人はそれほど多くないかもしれない。

 そのため、「おぎのや」は中山道沿いに写真にある大きな店を構え、数多くの旅人を受け入れられるように準備している。ここには、釜めしだけでなく、ラーメン、うどん、カフェなどもあり、さらに地元の食材(有名なのは下仁田こんにゃく)などの販売もおこなっている。

 さらに、団体客も受け入れられるように、一度に600人を収容できるレストランまで備えているのだ。

 こうした場所は便利ではあるが旅情は感じられないので、私は駐車場だけを利用させてもらって、横川駅周辺を少しだけ散策し、釜めしは駅の北側にある本店で購入することにした。

横川駅

 横川駅は国道からは80mほど離れているし、道路よりも少し高い場所にあるため、駅の全貌に触れるためには少しだけ歩く必要があった。さらに、改札口は国道側にはないので、こちら側では上にある写真撮影だけをおこない、北側に移動した。

 横川駅は終点なので、踏切や跨線橋を渡る必要はなく、ただ、少しだけ西に進んで回り込めば、改札口のある北側に出ることができる。

横川駅舎と「おぎのや横川駅店」

 駅舎の西端にも釜めし店があったが、ここのメインは立ち食いうどんのようで釜めしはすでに売り切れだとのことだった。

駅舎とD51とアプト式

 駅舎入口の隣には、日本全国で活躍したD51の写真と、険しい碓氷峠を上るために造られた「アプト式」の車輪が置かれていた。

おぎのや本店と購入した釜めし

 駅前に「おきのや」の本店があった。電車の利用客は別として、わざわざこちら側までやってきて釜めしを購入する人は居ないようで、私以外には誰も(店の人は別にして)いなかった。

 信越本線が軽井沢まで通じていた頃にはここの本店が本拠地となって「峠の釜めし」を製造し、列車が到着すると待ち構えていた売り子たちが釜めしをもって、車窓から購入しようとする人、ホームに降りて購入しようとする人たちに売りさばいていたのである。この風景は、信越本線の一大名物となっており、テレビなどにもよく取り上げられていた。

 私も、その売り子から釜めしを購入したことが一度だけある。釜めしはズシリと重く、食い意地の張っていた私はそのことに欣喜雀躍したが、いざ中を覗いてみると、重さの多くは器のものであり、中身はそれほどの量はなかった。

 先に挙げた釜めしはその日の夕食用に購入したもので、食が細くなった私には丁度良い量であった。器は記念のために持ち帰ったが、戸棚に置いたままで、帰ってからは一度もその姿を見てはいない。

碓氷峠鉄道文化むら

横川駅の隣にある鉄道博物館

 横川駅の西側には広大な敷地を有する「横川運転区」があったが、横川・軽井沢間が廃線になったことから、その敷地に造られたのが、写真の「碓氷峠鉄道文化むら」(愛称・ポッポタウン)である。

 かつて碓氷峠で活躍していた車両だけでなく、全国から集めた車両が30以上も展示され、さらに大きなジオラマや、碓氷峠を越えた鉄道の歴史資料などを集めた「鉄道資料館」が併設されており、鉄道ファンには見どころが数多くある鉄道博物館である。

 私は小学生の頃、何度か神田駅近くにあった「交通博物館」に出掛け、巨大なジオラマをよだれを垂らしながら食い入るように見つめ、将来は新幹線の運ちゃんになるということを心に誓ったものだった。

 ただ、多摩のサルとして、府中の森や多摩川での遊びが中心だったため、鉄道に対する思いは消えなかったけれど、次第に別の道を歩むようになってしまった。思えば、どこかの動物園にはサルが運転するおもちゃの機関車があったような気がするが。

 今回は、少し時間があったために、交通博物館ならぬ鉄道文化むらに立ち寄ることを事前に決めていた。少年時代の夢はほぼすっかり消え去っていたいたものの、ここでいろいろな車両を目にしたとき、幼いころの思い出が少しだけ蘇った。

かつて信越線を走っていた189系特急あさま

 信越線は軽井沢や浅間山の麓を通るため、特急には「あさま号」というものがあった。ただし、急勾配の碓氷峠を自力で登ることはできないため、下の写真にある「EF63」という電気機関車の力を借りる必要があった。

碓氷峠越えのための直流電気機関車

  このEF63には粘着運行方式という装置が取り付けられている。ただの鉄輪ではレールとの摩擦力が小さいので、傾斜の強い場所では車輪が空回りして推進力を得ることができない。私たちでも、雨の日に電車に乗るとよく気が付くのだが、駅から離れるとき車輪がスリップしているような状態になり、なんとなくギクシャクした動きを感じることがある。平坦な場所でも鉄輪は必ず、少しは空回りしながら走っているのだが、坂になるとこの空回りが大きくなるので、通常は25パーミルパーミル、‰、千分率)、つまり1000mで25m登る坂が限度とされている。

 ただし、実際にはその限度は安全率を見積もっており、実際には、連続勾配では35‰、短い区間では38‰とJRは考えている。もっとも、場所によっては40~50‰の鉄路が日本にもあるそうだ。

 ところで、碓氷峠では最大66.7‰の場所があったために、ドイツで開発された「アプト式」を採用していたが、これでは最高時速でも9.8キロしか出せなかったため、車輪に電磁石を備えて車輪をレールに吸い付かせる粘着運行方式を採用した。この結果、横川から軽井沢まで80分掛かっていたものが、17分にまで短縮できたのである。

 この粘着運行方式を備えた電気機関車が写真の車両で、上り坂の時は「特急あさま」などの列車の後ろに連結して、車両を押し上げたのだった。また、下り坂の時は列車の前に連結して、後方の車両が滑り落ちるのを防いだのだった。

 写真の粘着運行方式を備えた電気機関車は横川・軽井沢間専用のものだったので、「能登」まで行くことはない。これは、今年の正月に発生した大地震によって大きな被害を受けた能登半島の人々を励ますために、あえてこのプレートを取り付けたのであろう。 

数々の車両が青空展示

 先に触れたように、この公園には数多くの車両が展示してあるが、大半は全国各地から集めたものなので、横川や信越線とはまったく関わりのないものである。

 写真の蒸気機関車D51は、荒川の長瀞でSLホテルとして利用されたものを移設したとのことだ。蒸気機関車といえばデゴイチが代名詞のような存在なので、ここに展示されるのは一般者向けには妥当なのかも。

左は関門トンネル用に用いられた電気機関車

 左側のEF30は関門トンネル専用に用いられたもの。これは山陽本線鹿児島本線との電化方式が異なるため、トンネル専用の機関車が必要となった。1200トンもの貨物列車が牽引でき、かつ22‰の勾配を乗り切る能力をもつものとして開発された。

 右側のEF58は旅客列車、とりわけ特急列車を牽引するために開発された。前面が流線形をしているため、それまでの武骨な機関車とは異なる形をしている。そのことから鉄道ファンには人気を博し、私が少年時代にHOゲージの模型に嵌っていたときに、この機関車(模型の)を購入した記憶がある。

昭和7年に製造された電気機関車(手前側)

 写真のEF53は旅客車を牽引するために1932(昭和7)年に製造が始まった。当初は東海道本線に利用され、のちには高崎線に移動された。

古い車両を見るだけで楽しい

 展示車両の多くには解説板が用意されている。その車両を眺めつつ解説を読み、どこで活躍していたのかを知ると、その地域の風景が脳裏に浮かんでくる。私の旅行は99%が自動車になったけれど、日本全国を回っているので、各都道府県の情景はすべて記憶の中に存在している。その旅先で、少しだけローカル線に乗車する。そのことは本ブログでも何度か紹介している。

アプト式鉄道を再現

 碓氷峠を乗り越えるために、アプト式のシステムが採用されていたことはすでに述べた。現在では大井川鉄道にのみ残っている方式だが、我々が通常「アプト式」と聞くと、すぐに思い浮かべるのは碓氷峠のもので、1893(明治26)年に採用された。

 写真のように、レールの間に3枚のラックレールを敷き、車輪に付けたピニオンギアを嚙合わせることで、66.7‰の急勾配を機関車が登って(下って)ゆくのである。 当初はドイツから輸入したアプト式蒸気機関車を輸入したが、のちに国産化した。

 なお、アプト式とは1882年にドイツの鉄道技師のカールローマン・アプト(abt)が開発したことからそう呼ばれる。かつてはローマ字読みで「アブト」と言われてきたが、のちにドイツ語の発音に近い「アプト」になった。とはいえ、私は今でも「アブト」と発音してしまうことが多い。これは、この方式を知った時には「アブト」と呼ばれていたからである。

 急勾配の山坂道を進む鉄道の方式としては、このほかに「スイッチバック式」「ループ式」などがある。

HOゲージの鉄道模型

 鉄道資料館にも入ってみた。資料を調べるためではなく、写真にあるHOゲージの鉄道模型レイアウトを見物するためである。いかにも群馬県らしい風景を造り出し、その中にいろいろな模型車両が走る姿を見るのはとても楽しい体験であった。

 先に触れたように、神田にあった交通博物館のレイアウトはさらに巨大であって、当時に走り始めた東海道新幹線の模型も存在した。新幹線は開通まもなく親に連れられて東京・京都間を乗車していた。

 それゆえ、私の子供時代の夢は新幹線の運ちゃんだった。けれど、日本の鉄道は時間を厳格に守る必要があるため、私は不適格者であることを知り、その夢は断念し、自由で気楽そうな教員になったものの、やはりそれなりに時間に縛られることから、最終的には漁師(実際は釣り師)の道を選んだのだが。

 本心を言えば、私はサルになりたかった

◎松井田城跡を少しだけ訪ねる

無人の案内所

 松井田城は松井田宿の北方の尾根(標高413m)にあって、北は東山道、南は中山道が通り、碓氷峠に抜けるルートの要衝に位置する。東西に1.5キロ、南北に1キロ、総面積75ヘクタールの広さを有する山城である。

 築城年は不明だが、1560年頃に地元の豪族であった安中氏が整備したとされているが、その後に城主は変遷し、最終的には小田原北条氏の氏直の配下であった大道寺政繁が主となった。

土塁

 尾根を城郭化した山城のため、目立った建造物は存在しないが、現在でも土塁や堀切、虎口、石垣などが残っている。麓から比高は130mもあるため、見学するには相当の覚悟がいる。

堀切

 河越(現在では川越)城主であった大道寺政繁(1533~90)は、1582年、信長を失った織田勢を率いた滝川一益神流川の戦いで、北条氏直・氏邦の下で勲功をあげ、さらに北条氏が家康勢と和解したことから、関東の要衝のひとつである碓氷峠の守りを固めるために、松井田城主も兼任することになった。

 ちなみに、関東と言えば「関所の東側」という意味になるが、この関所というのは箱根と碓氷峠を指すと考えられている。

クマに注意

 しかし、小田原北条氏は豊臣秀吉と対立を深め、ついに1590年、秀吉の「小田原征伐」が始まった。秀吉率いる本隊は東海道を東に下ったが、前田利家上杉景勝、真田正幸率いる北国支隊3万5千の軍勢は中山道を進み、遂に碓氷峠で北条側である大道寺政繁との決戦が始まった。

 大道寺側の勢力は約3000、一方の北国支隊は35000、これでは大道寺側に地の利があるとしても勝ち目はなく、約一か月は耐えたものの降伏のやむなきに至った。

 この戦いの後、大道寺は北国支隊側に付き、その先導役を務めることになった。その結果、忍城、武蔵松山城鉢形城が攻め落とされ、ついには武蔵国の要衝である八王子城まで攻め入られ、僅か一日で陥落してしまった。

 難攻不落と考えられていた八王子城だったが、大道寺が搦め手がこの城の唯一の弱点であることを教えたことが、短時間で落城したと考えられている。八王子城好きの私としては、この一点をもって、大道寺政繁を認めることはできない。

 なお、以上の流れは、本ブログでは第40回、第66回にやや詳しく紹介しているので、関心のある方は参照していただきたい。

これを叩きながら歩くそうな

 「裏切者」の居城であった松井田城だが、この日は安中市内のビジネスホテルに入るにはまだ少し早いということもあって、山道を登って(もちろん車で)松井田城見学を試みた。

地蜂も多いとのこと

 しかし写真に挙げたように、山道はすでに薄暗くなっており、おまけに「熊」「地蜂」「ヤマヒル」に注意の張り紙に怯えた私は、案内小屋のすぐ近くにあった土塁や堀切だけを見て、早々に退散することにした。

おまけに「ヤマヒル」もいっぱい

ヒル撃退用の濃塩水も準備

 ヤマヒルには「濃塩水」が効くとのことだが、いつ飛び掛かられるか分からない状態では、とても対応しきれない。ましてや地蜂の巣は至るところにありそうだし、熊との対面だって十分に考えられる。

 広大な松井田城を見学するためには、用意を周到におこない、かなりの覚悟を持って荒れた道を進まなければならない。

 臆病な私には、滝山城八王子城、あるいは鉢形城で十分に満足できる。

妙義山~日本三大奇景のひとつ

畑の脇から山を望む

  山に登るのは苦手だが、山を見るのは大好きだ。地元の府中市から見える丹沢山系、大菩薩連嶺、秩父山系を見ているだけでも飽きることはない。さすがに多摩丘陵浅間山(せんげんやま)だけでは満足できないが。

 もちろん、標高の高い富士山や日本アルプスも良いが、今回出掛けた妙義山は、標高こそ高くはないものの、その独特な山容は、一度見たら決して忘れることができないほど特異な形状をしているおり、私がもっとも好む山のひとつである。大菩薩嶺は私の心に安らぎを与えるが、妙義山は胸躍らせるものがあるのだ。

「大文字」がよく見えた

 妙義山にはピークがいくつもあるが、もっともよく知られているのは白雲山と金洞山であろうか。私は松井田側から県道191号(妙義山線)を進み、妙義山の南麓を走る県道196号線(上小坂四ツ妙義線)を南西に進んだ。そのため、まずは白雲山系が目に入り、その中腹にある「大文字」が目にとまった。

 「大文字」はここが修験道の山であったことから「妙義大権現」を省略して「大」の字を掲げたもの。妙義神社にお参りできない人のために大の字を山の中腹に掲げ、中山道からその大の字に向かって手を合わせて参拝できるようにしたものらしい。

妙義神社に参詣

 妙義神社は537年に創建されたとされている。古くは波己曽神社と呼ばれ、のちに妙義神社と改められた。

 古くより朝野の崇敬ことに篤く、開運、商売繁盛の神、火防の神、学業児童の神、縁結びの神、農耕養蚕の神として知られていたという。  

見事な総門

 その一方で、山岳信仰の山として修験者の修行の場ともなっていたようだ。かつては神仏習合が当たり前だったので、神も仏も同居していたのかもしれない。

 神社には上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺があり、写真の総門は、石塔寺の仁王門だったとのことだ。

総門から唐門までは約200段ある。

 総門からは長い階段が続く。といっても165段なので、私にも登れないことはない。そこには随神門があり、そして今度は短い階段があって写真の唐門にたどり着く。

極めて美しい拝殿

 唐門から中に入ると、そこには煌びやかな拝殿があり、その後ろに幣殿、本殿が鎮座している。例によって私は参拝はしないので、ただその美しい姿を眺めただけであった。

旧本殿

 周囲を散策した後、登ってきた階段とは異なる道を通って下った。総門と唐門との間には銅鳥居があった。その近くに写真の旧本殿があった。現在の本殿は先に挙げた拝殿の裏手に造られているため、写真の旧本殿は古の名を取って波己曽社と呼ばれている。

誠に奇異なる山容

 妙義神社を離れ、県道を南西に進み、今度は誠に奇異なる姿をした妙義の山々をじっくりと観察することにした。

 写真は金洞山と総称されているが、一つ一つのピークに名前が付けられている。このピークを縦走するのが登山家にとって「憧れ」のひとつになっているそうだが、転落事故がとても多く、登山の難易度は最上級クラスとされているそうだ。

 妙義山榛名山赤城山とならんで「上毛三山」と称されているが、榛名や赤城も見る方向によっては実に「へんてこ」な形をしているが、それでも妙義山の奇抜さには遥かに及ばない。

 「日本三大なんとか」というのはいろいろあるが、ここ妙義山は「日本三大奇景」のひとつとされている。あとの二つは、大分県中津市の「耶馬渓」、香川県小豆島の「寒霞渓」である。確かにこの二つも奇抜ではあるが、私個人としては妙義山がその第一だと思っている。

さくらの里から奇岩群を眺める

 「さくらの里」では八重桜が満開になっていたので立ち寄ってみた。ここではボリュームのある「カンザン」という種類の八重桜が多く、一つ一つの花がとても大きいので、ソメイヨシノとはまったく異なる景観を披歴してくれる。

 写真のように、奇岩とサクラのコラボはこの上もない見応えで、他の場所で同じような景色を見ることはまず不可能に近いだろうと思われた。

あちらに見える荒船山は平担

 県道に出てみると、サクラの向こうに平坦なピークをもつ荒船山が見えた。妙義山と同じ時期にできた山にも関わらず、あちらはギザギザした山容ではない点が興味深い。

 この辺りは600~500万年ほど前に陸地化して、500~200万年前に火山活動によって一部が陥没してカルデラ化したと考えられている。

 岩質は凝灰角礫岩が中心で、一部に砂質の凝灰岩や、火成岩である安山岩が含まれている。凝灰岩が風化しやすいために妙義山のような不思議な形をした山を生み出したが、その一方で、天辺を風化しにくい安山岩が偶然に乗ったために、荒船山のような形を造ったのだろう。本ブログでは第82回に四国の屋島を紹介したが、荒船山の形はそれと同じ成り立ちをしている。地質学の世界では、これを「メサ」と呼んでいる。

大國神社の鳥居

 白雲山系から西に移動し、今度は金洞山系を眺めることにした。もちろん、「さくらの里」からの眺めも金洞山系のものだが、中之嶽神社前の駐車場からはその姿がよりはっきり見えるだけでなく、そこには登山道があって、私のようなひ弱な人間でも少しだけだが登山気分を味わうことができるのだ。

日本一大きい大黒天

 中之嶽神社の登るために、まずは麓にある「大國神社」の参道を歩くことになる。その途中に、写真のような金ぴかの、しかも大型の大黒天が出迎えてくれる。いささか下品に見えなくもないが、かの奈良の大仏だってもともとは金ぴかだったので、神仏はきっと派手な色を好むのかも知れない。

 高さ20m、重さ8.5トンもあるだけでなく、手には小槌ではなく大型の剣を持っている。顔は笑っているが、実はとても怖そうに見える。病、厄、悪性を祓ってくれるとのことだが、あまりお近づきにはなりたくないと思った。 

大國神社

 わが府中には大國魂神社があるが、こちらは大國神社である。といって魂が抜けているわけではないだろうが。言い伝えによれば、藤原冬嗣空海が中之嶽神社に登獄した際に、大国主命を奉斎せよと命じたことから、麓にこの神社が建立されたとのことである。本当に空海がここまでやって来たかどうかは不明だが。

中之嶽神社を仰ぎ見る

 中之嶽神社までは、大國神社横にある急な階段を上る必要があった。始めは止めようかとも思ったが、階段の比高は29.2m(大國神社の標高は723.6m、中之嶽神社は752.8m)なので、手すりを掴みながらゆっくり上がってゆけば何とかなるだろうと思い、神頼みではなく自分頼みでごく低速で上ってみた。

岩の一部を削って建てられた社殿

 いざ上ってみると案外、楽なものであった。ここは金洞山登山道の出発点にもなっており、結構、道が整備されているので少しだけ歩いてみることにした。小さな沢が近くにあってなかなか清々しい気分になれた。

 しかし、ここは最上級の難度で、滑落死する人が絶えない場所ということなので、怪我をしないうちにと、早々に引き上げた。

 写真のように、神社の建物はローソクのような形をしている轟岩を少しくり抜いた形で建造されている。いかにも、奇岩だらけの山に相応しい造りをしている神社であった。

 私の知人(20歳ぐらい若い)が今度、妙義山登山にチャレンジするそうだが、はたして無事に帰還できるだろうか?個人的には止めたほうがいいと思うのだが、何ごとも理屈通りに行動できないのが人間の性なのである。

〔111〕柴又・水元公園、そして草加松原へ

寅さんとさくらの像

◎寅さんの故郷、葛飾の柴又へ

柴又駅

 映画『男はつらいよ』を見たのは、1970年8月に公開された第五作「望郷編」が最初だった。もっとも、この映画を見るために映画館に出掛けたという訳ではなく、今は無き「浅草国際劇場」で演歌の星・藤圭子の初のワンマンショーを観覧することが目的であった。

 以前にも記したような記憶があるが、私は自分の部屋には一切、カレンダー以外のものを壁に貼ったことはない。これは今現在も同様で、三方の壁に小さめのカレンダーを掛けてあるだけだ。これも触れたような気がするが、友人の大半は麻田奈美の「リンゴヌード」が貼っており、その他、アイドルの写真やら映画のポスターやら名画のイミテーションやらが壁を賑わせていたが、私の部屋の壁は見事なぐらいすっきりしていた。

 唯一の例外が、1969年に『新宿の女』でデビューした藤圭子が白いギターを抱えた大きめのポスターを貼ったことである。これは、彼女のファーストアルバム『演歌の星・藤圭子のすべて』に付属されていたもので、彼女の歌の上手さに”ぞっこん”となってしまっていた私は、自分でも気が付かないうちにそのポスターをもっとも見やすい場所に貼っていたのだった。

 その後、『女のブルース』「圭子の夢は夜ひらく』と大ヒット曲を立て続けにリリースした藤圭子は、70年に先に挙げた浅草国際劇場でワンマンショーを開催することになったのである。私はそのプラチナチケットをもって浅草まで出掛け、今か今かと藤圭子の登場を待っていたのだが、なんとショーはすぐに始まらず、その前座として『男はつらいよ・望郷編』が放映されたのであった。

 渥美清主演のこのドラマはフジテレビで放送されており、家族は笑い転げながらそれを見ていたが、私はほとんど無関心で、一、二作程度をちらりと見ただけですぐに茶の間を離れ、漫画を見ていたのであった。

 『男がつらいよ』が映画になっていたのは知っていたが全く関心はなかったので、ショーの前につまらない映画を見せられることに大いなる不満を抱いた。しかし、他にすることがないので致し方なくスクリーンを見ているうちに次第に映像に引き込まれ、遂には、スクリーンと自分自身とが同化し、車寅次郎は私自身であるという認識を抱くまでに至ったのである。

 もちろん、藤圭子のショーには感激したが、私には藤圭子の姿よりも渥美清の存在ののほうが心により強く響き、以来、場末の映画館を探しては『男はつらいよ』の過去の作品を見て歩くようになったのである。並行して、時を経ずに藤圭子のポスターは壁から外され、すぐに行方不明となり、私の部屋の壁は再び、殺風景さを取り戻したのであった。

さくらを見つめる寅さん像

 寅さんの存在は私の写し鏡のように思えた。帰るところがあるにもかかわらず、あたかもデラシネ(根無し草)のようにあちこちを放浪するところが、である。先に象潟のところで触れたように、私には放浪癖があった。というより、今でもその癖は持ち合わせたままなのだが。

 また、『男はつらいよ』では日本各地の「名所」が出てくるので、その点も私の旅には大いに参考になった。青森の鯵ヶ沢、秋田の鹿角、長野の奈良井、木曽福島、山形の寒河江、京都の伊根、岡山の備中高梁、島根の津和野、広島の因島など、この映画で取り上げられた場所に行きたくなった、あるいは再び訪れてみたというところが数多くある。今こうして、寅さんが訪ねた場所を検索してみると、今一度、出掛けてみたくなるような場所がいくつもあるのだ。

お兄ちゃんを見送るさくら像

 新橋駅近くにあった松竹系の映画館ではよく「寅さん祭り」といって、『男はつらいよ』の三本立てを開催していた。そんなこんなで同じ作品を何度見たかは数え切れない。もちろん、テレビ放映された時も時間があるときは見ていた。

 と言いながらも、49作をすべて見たわけではなく、渥美清が老いて、諏訪満男(吉岡秀隆)と及川泉(後藤久美子)の恋愛話が中心になってきた第42作辺りから興味が薄れてきたため、最後の数作は一度も見ていない。

 マドンナとして登場した女優も数多いが、やはり、吉永小百合浅丘ルリ子大原麗子がベストスリーだと思える。また、車竜造(おいちゃん)は、森川信松村達雄下条正巳と変遷するが、おいちゃんとしての存在感は森川信がダントツで、松村、下条の順で落ちていった。

 舞台となった柴又には今まで3度訪れ、今回が4度目だった。京成電鉄で出掛けたのは最初だけで、今回を含め、あとの3回は車利用だった。映画の雰囲気を味わうのならば面倒でも電車を利用すべきだろうと思う。柴又駅は寅さんとさくらとの別れの場面では欠かせない存在なのだ。

 写真に挙げたように、駅前広場には、去ってゆく寅さんと、寂しそうに見送るさくらの像が置かれていた。両者は適度な距離を保つように設置されていた。この距離の取り方はなかなか秀逸に思われた。

駅前の不思議な土産物店

 寅さん・さくら像のすぐ後ろ側には、やや風変わりなお土産店があった。店主らしきおばさんに存在感があり、かつ、私が最も苦手とするタイプだと思われたので近づくことが躊躇われた。というより実際、そのおばさんが別の客を相手にしていることをいいことに、やや遠めの位置から店の姿を撮影した。

 「金のうんこ」は初め「金のうこん」だと思ったが、何度見ても「金のうんこ」だった。どんな商品なのか相当に気になったのだが、あまり近づくと店のおばさんから声を掛けられると大変なことになりそうだと思われたので、撮影終了後は、早々にこの場を立ち去った。

 それにしても、「金のうんこ」と堂々と表示できる度胸には敬意を表したいが、とはいえ、お近づきにはなりなくないので、すぐに立ち去ったことは正解だったと思われた。

帝釈天の参道

 「金のうんこ」の店の脇から帝釈天の参道が始まるが、しばらくは店は少なく、寅さんの映画でよく登場する商店街は、約40m先に見える「柴又街道」を越えた場所から始まる。

男はつらいよ』でよく登場する商店街

 写真が、映画でよく登場し、寅さんの実家の草団子屋の「とらや」(のちには「くるまや」となる)がある賑やかな参道となる。

 

寅さんの実家として「利用」された団子店

 映画の撮影に使われたのは写真の「高木屋老舗」ではないが、この店の内部が寅さんの実家の姿のモデルになっている。撮影の際には、この店に出演者が待機したり、衣装や小物、撮影器具が置かれたりしていたとのことだ。

二天門

 この参道を150mほど歩くと、写真の「二天門」に出る。佐藤蛾次郎が演じる寺男の源ちゃん(源吉、源公)が、この山門の周りで子供たちと遊んだり、寅さんに追い掛け回されたりする場面が映画にはよく登場した。

 二天門とは、四天王のうち、南方守護の「増長天」と西方守護の「広目天」が納められているいるからで、残りの二天(持国天多聞天)は帝釈堂の内部に安置されている。

大鐘楼堂

 二天門のすぐ北側には写真の「大鐘楼堂」がある。意外に新しく、1955年(昭和30年)に造営されたとのこと。ということは、私よりも若いお堂なのである。

 ちなみに、二天門は1896年(明治29年)に、十四世の日孝上人のときに造営されている。

帝釈堂

 柴又帝釈天は経栄山題経寺という山号をもつ日蓮宗の寺院で、1629年、下総中山法華寺第十九世の禅那院日忠上人によって開基され、次の題経院日栄によって開山された。

 本尊は、日蓮上人が御親刻したと言い伝えがある帝釈天。長さ二尺五寸、幅一尺、厚さ5分の板で、片面の中央には南無妙法蓮華経、その両脇に経文が書かれ、もう片面には帝釈天の姿が彫られている(そうだ)。

 帝釈天とは、バラモン教(インドラ)やヒンズー教ゾロアスター教の神で、軍神、武勇神として十二天のひとつとして東方を守る存在と考えられてきたが、のちには梵天とともに仏法を保護する神とされるようになった。

 この帝釈天が彫られた板は一時、行方不明となっていたが、第九世の日敬上人がお堂の中から発見し、その後は大切に守られてきた。そうした経緯もあって、題経寺と呼ばれるよりも柴又帝釈天と言われることがほとんどだ。

 ただ、映画『男はつらいよ』のなかで寅さんは、笠智衆演じる日奏上人(御前様)を「題経寺の和尚」ときちんと呼んでいる。

 それはともかく、帝釈天は須弥山の山頂にある忉利天(とうりてん)の喜見城に住んでいることになっているので、柴又帝釈天にも、帝釈堂の裏手に喜見城が造営されている。

本堂

 帝釈堂の右隣に題経寺の本堂があるが、写真のようにここをお参りする人はほとんどいない。

釈迦堂

 ましてや、写真の釈迦堂などは見向きもされない。

金町浄水場

 柴又帝釈天のすぐ北側には、写真の「金町浄水場」がある。江戸川から取水し浄化して水道水として供給している。かつては「日本一まずい水」と言われたほどカビ臭い水だったが、現在は高度処理が進んだこと、水道水のネットワーク化によって多摩川の水などもブレンドされるようになったことで、この辺りの水道水もかなり飲めるようになったそうだ。

 もっとも、多摩川水系では現在、有機フッ素化合物の混入が年々、非道くなっているため、多摩川の水だから、地下水をブレンドしているから、などの理屈は成り立たなくなっているのが現状だ。

 なんとか、帝釈天や弁天様にお出まし願って、水道水の浄化の徹底をお願いしたい。

◎柴又公園と矢切の渡し

柴又公園

 柴又公園は、江戸川の土手上を走る都道451号の西側にある「山本亭」と「寅さん記念館」、それに江戸川の右岸河川敷に整備された広場からなる。山本亭は木造2階建ての建物と日本庭園からなり、寅さん記念館は『男はつらいよ』のすべてが分かる資料館であるが、前者は特に外から眺めただけで中には入らなかったし、『男はつらいよ』はほとんどの作品を見ているし、中には10回ほど見直している作品すらあるので、あえて解説を受ける意義を感じなかったので立ち寄ることはしなかった。

 一方、河川敷のほうはよく整備されたチューリップをメインにした花壇や、寅さんファミリーが遊んだ野球場、それに、小説『野菊の墓』や演歌でよく知られた「矢切の渡し」がある場所なので、結構時間を掛けて散策するつもりでいた。

寄贈されたチューリップ

 公園内には数多くのチューリップが満開を迎えていたが、この花たちは新潟県五泉市から寄贈されたものとのことだ。五泉市と言えばボタン栽培でよく知られているが、チューリップも栽培品種のひとつで、この町のチューリップ祭りは全国的な知名度がある。

ここからもスカイツリーが見える

 公園からは写真のように、スカイツリーがよく見える。先般、NHKで「プロジェクトX」が再開されたが、その第一回目はこのスカイツリー建設にまつわる話が取り上げられていた。番組構成もなかなか見ごたえのあるものだったが、この番組の良さはなんといっても中島みゆきの歌で、『地上の星』もエンディングの『ヘッドライト・テールライト』も番組内容にふさわしいものだ。とりわけ『地上の星」はこの番組のために創られたもので、無名の人々の目に見えない活躍を見事に表現している。

 番組の80%は、中島みゆきの歌が貢献しているのだ。

渡し船の乗り場

 この公園に来た理由の一つは、写真の「矢切の渡し」に触れるためだった。もちろん、私の興味は演歌のほうではなく、小説のほうだ。

 伊藤佐千夫の『野菊の墓』でこの「矢切の渡し」が絶妙な形で登場する。そのこともあり、私は松戸市下矢切にある「野菊の墓文学碑」へ、この渡し船を利用して、松戸側の舟着き場から1キロほど歩いて出掛ける心づもりであった。

何故か怒り気味の船頭

 ところが、私が船の到着をまって渡し船を撮影しようとしたところ、若い船頭が「写真を撮るな!」と怒鳴り、写真にあるように私を睨みつけていた。そのことで、私はこの渡し舟への思いはいっぺんに冷めてしまい、利用することを止めたのだった。

 『野菊の墓』に対する私の思いにはまったく変化はないが、矢切の渡しに対する心象は著しく悪化した。

◎都立水元公園~見どころ満載

公園の入り口

 帝釈天から北へ3キロほどのところにある都内では唯一、水郷の景観を有する公園として知られる都立水元公園へ出かけた。ここは1965年4月に開園され、面積はなんと97万平米もある。

 ここは江戸時代に徳川吉宗の命で、中川の支流である大場川の一部を堰き止めて造られた用水池で、周囲の村の水源となった。そのことからこの用水池は「水元」と呼ばれるようになったとのこと。

 この用水池は「小合溜」と言い、その周囲にはバードサンチュアリー、バーべキュー広場、ポプラ並木、メタセコイアの林、冒険広場、ドッグラン、水辺の生きもの館、金魚展示場、ヒガンバナの丘など数多くの施設がある。

水元大橋

 中央入口のすぐ前には写真の「水元大橋」がある。水路が蛇行しているため行き来しやすいように造られたもので、小さいながら意外に目立ち、この公園のランドマークになっている。

対岸にも大きな広場がある

 対岸にも大きな広場があるが、そちらは「みさと公園」(埼玉県営)の名がつけられており、埼玉県三郷市に属している。そちらに行くには相当に遠回りする必要があるので、車でぐるりと小合浦を回って、みさと公園の駐車場を利用するのが便利である。

内溜は釣り人がいっぱい

 写真の「内溜」は釣り堀として開放されているようで、かなりの数の人が竿を出していた。釣り方を見ている限り、ヘラブナ狙いと思われたが、見学中には誰も竿を曲げていなかったため、獲物に関しては不明だ。もしかしたら、魚よりも人の数のほうが多いのかもしれない。

 淡水魚は持ち帰って食する人は滅多にいないので、おそらく、再放流されているので魚の警戒心は極限まで高まっているので、なかなかハリ掛かりに至ることがないようだ。だからこそ、釣りは面白いのであるが。

変わった鳥を遊ばせている人が

 チューリップが多く飾ってあった花壇の近くでは、珍しい鳥を手にしている人がいた。結構多くの人が興味深くその姿を見物していたので、私もその輪に加わった。そして、許可をいただいて写真撮影を行なった。

ワシミミズクはフクロウの仲間

 この鳥は「ワシミミズク」という種類だそうで、フクロウのような顔つきと耳の羽角が特徴的だ。飼い主にはよく懐いているようだが、この鳥の別名は「夜の猛禽」と言って、日中は大人しいが、夜になると狩りをおこなう(もちろん自然界では)そうだ。視覚が非常に優れているために、僅かな光があれば獲物を見つけることができるらしい。

 このようにペットとして飼育する人は少なからずいるらしいが、価格は50から100万円程度もするらしい。平均寿命は20から30年で、中には50年も生きる個体もいるそうなので、飼う人も相当に根気が必要だろう。

 

公園の名物、メタセコイアの林が見えた

 この公園で一番見たかったのは、メタセコイアの林で、ワシミミズクを観察したあとにその林に向かった。

湿地帯にはいろいろな生物が生息

 途中には写真のような湿地帯があり、ここには貴重な動植物が保護されているらしい。単なる遊び場ではないところが、この公園の魅力である、と思った。

「生きている化石」メタセコイアの林に入る

 メタセコイア白亜紀から古第三紀には北半球に広く分布していたが、約80万年前に気候変動で絶滅したと考えられていた。しかし、中国南西部に生き残っていることが分かり「生きている化石」と呼ばれるようになった。

 ヒノキ科(スギ科とも)メタセコイア属の落葉高木で、成長が早く、一年で1から1.5mも成長する。樹高は50mに達するものも珍しくなく、中国には115mに成長したものもあると言われている。

 日本には1950年にアメリカで育成された苗が100本入り、それから全国各地に植えられるようになった。私がこの木を知ったのは小学生の時で、私が通っていた学校にも1本のメタセコイアがあると、教師が自慢していたのを記憶している。

逆光で見ると不思議な雰囲気が

 ひとつ上の写真のように、普通の光で撮影すると何の変哲のない木に見えることから、私はド逆光でこの林を写してみた。すると、ただのスギのように思えた「生きている化石」が、長い年月を経て生き残った樹木のように見えた。

 なお、メタセコイアの苗木は1本500円程度で入手できる。ただ、先述したように成長スピードがものすごく速いので、狭い庭に植えたためしには数年後、周囲の家から苦情が殺到することは間違いなしである。

小川ではタナゴが釣れるそうだ

 公園内には、写真のような小川も流れている。ここにはクチボソやタイリクバラタナゴが生息しており、小物釣り師が結構な数、竿を出していた。タナゴ釣りの場合、他の魚とは異なり、小さいサイズのものを数釣ることが誉れになる。そのため、写真の人のように極細の短竿で狙うことになる。高木のメタセコイア、小さいほど珍重されるタナゴ。それらが同居しているのがこの水元公園なのである。

 今回はまだまだ広大な公園の十分の一ほどしか探訪できなかったので、いずれ機会を見て再訪してみたい。そう思わせるほど、魅力と変化に富んだ場所ではあった。

草加市・松原の続く旧日光街道

草加と言えば「草加せんべい

 草加の地名を聞くとすぐに思い起こすのは「草加せんべい」で、その硬めの歯ごたえは、いかにも”せんべいの味”(実際、せんべいなので)で、せいべいといえば「草加せんべい」がすぐに連想される。現在でこそ、無数のせんべいが発売されているようだが、私にとっては今でも、せんべいと言えば「草加せんべい」でなくてはならないのである。

 次に、草加と言えば、1960年代の前半に生きた人にとっては「草加次郎」を思い起こすかもしれない。数々の事件を起こしながら未だに犯人が特定されていないという、こんなことで誉めてはいけないのだが、犯罪者としては「理想的」な生き方をしたのかもしれない。もっとも、本心では逮捕されることを望んでいた可能性は否定できない。

 ただ私は、15歳の末に『おくのほそ道』を知ってからは、草加の名を聞くと松尾芭蕉が旅の最初に泊まった宿が存在する(実際には春日部だったのだが)場所と反応するようになった。

硬いせんべいが特徴的

 そんな草加だが、実は、実際に草加に出掛けたのは今回が初めてである。実際に芭蕉が歩いたとされる日光街道には「草加松原」が綾瀬川沿いに1.5キロほど整備されているとのことだったので、元禄二年(1689年)の時代に戻って、私もその道を辿ってみたいと考えたのである。

 もっとも、最初に訪れたのはひとつ上の写真にある「草加せんべい発祥の地」の碑であったが。

 写真は、その碑のすぐ近くにあったせんべい店で購入したもので、すぐその場で食してみたが、味の記憶は全く蘇らなかったものの、その歯ごたえは、確かに草加せんべいのそれであった。

しだれ桜(そうかザクラ)が満開

 綾瀬川の右岸に「旧日光街道」があり、草加松原のある左岸側に、写真の「まつばら綾瀬川公園」があり、私が出掛けた時は、しだれ桜が満開を迎えていた。この桜は役所にあった桜から枝を切って苗を作り、それを公園内に移植したものであり、草加で生まれ育った桜なので、「そうか桜」と命名されている。

よく整備された「まつばら綾瀬川公園」

 写真は、公園を川の右岸側から見たもので、園内には散策路やスポーツ広場が整備されている。

矢立橋

 旧日光街道は、並行して走る県道49号線(足立越谷線)の東側にある。かつては旧日光街道が県道として利用されていたが、芭蕉が歩いた道であり、かつ、古くから道の両脇には松並木が続いていたことから、「草加松原」として遊歩道を造り、その隣に県道を整備した。このため、かなり広い遊歩道が出来上がり、芭蕉の旅を連想させるには効果的な道となっている。

 町の中心部に近い場所にあるため、比較的交通量の多い道路が49号線と交差している。綾瀬川公園に近い場所にある道としては、南側に「草加流山線」(県道29号線)、北側には「松原文化通り」(県道403号線)がある。

 もちろん、交差点には横断歩道があるが、折角の散策路が横断歩道で途切れてしまうのは味気ないと考えたのか、写真のような歩道橋が設置されている。しかも、変哲のない歩道橋ではなく、江戸時代の木製の橋を連想されるような姿に造られている。ただし、木製ではなく金属製であるのが少々、残念ではあるが、管理の面を考えれば致し方ないだろう。

橋上から下流方向を望む

 この南側の歩道橋は「矢立橋」と名付けられている。これは、『おくのほそ道』の「旅立ち」の項から引用したものである。

  行春や 鳥啼魚の 目は泪

 これを矢立の初として、行道なおすすまず。

 この文章から「矢立」という言葉を借りて、矢立橋と名付けたのである。

上流方向に続く散策路

 私はあえて横断歩道を利用せず、矢立橋と名付けられた歩道橋を渡って、旧日光街道を北へ進んだのである。

日光街道の両脇に松林が続く

 現在は松並木の中に遊歩道があるが、1982年まではこの並木の中を日光街道(県道49号線の上り車線があったそうだが、85年からは上り車線も並木の西側に移り、遊歩道として整備されて現在に至っている。

 松並木は17世紀に始まったという説があるが、現実には1792年に1230本の松が植えられたという説が一般的になっている。それゆえ、芭蕉がここを歩いたときは、今のような松並木があった蓋然性は低い。ただし、松並木自体はどの街道にもよくあるものなので、ここに松が全くなかったということも考えられない。

 モータリゼーションの進展で松は枯れ、松の数は60本程度まで減少したらしい。そこで地元の有志が松並木保存会を結成して植樹を行い、現在では600本以上の松が残されており、かなり見ごたえのある景観が展開されている。

ドナルド・キーンの書が石碑に

 1987年には「日本の道100選」に選ばれ、2014年には「おくのほそ道の風景草加松原」として国の名勝に指定されている。

 写真の石碑は、そのことを記念して建てられたものであり、日本文化研究家として優れた業績を残した故ドナルド・キーン氏の書として、そのことが記されている。

ドナルド・キーンが植えた松と「おくのほそ道」の書き出し

 ドナルド・キーン氏の記念植樹の松と、『おくのほそ道』の発端の部分が書かれた石碑が置かれていた。

百代橋を上る人も旅人なり

 その先には、先の「矢立橋」と同様、歩道橋として「百代橋」が設置されていた。こちらも矢立橋同様に鉄骨で組まれているが、木橋のような風采に見て取れる。下を通る道がやや狭いこともあって、矢立橋よりはやや小ぶりである。

 「百代橋」の名は、もちろん『おくのほそ道』の発端にある「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」から付けられたものである。

橋上から旧日光街道を望む

 百代橋の上から、旧日光街道(現在は遊歩道)を望んだ。もちろん、芭蕉はこの橋を歩いたわけではないが、こうして芭蕉が進んでいった奥州方向を眺めてみると、この先で芭蕉が出会った数々の邂逅や苦難が偲ばれる。

ここにも「おくのほそ道」の石碑が

 ここにも石碑があった。文字はかなり薄くなっていたことから、何を記してあるのかはっきりとは分からなかった。草加にある碑だけに、『おくのほそ道』の草加の項である蓋然性は高いのだけれど。

草加宿があった場所

  草加は旧日光街道の第2番目の宿場があったところで、写真の芭蕉像や望楼があるところあたりが宿場の中心地だったらしい。

松尾芭蕉翁像

 『おくのほそ道』の「草加」の項には、「奥州長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといえ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生きて帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸(やうやう)早加と云宿にたどり着きにけり。」とあり、旅の初日に草加に宿泊したと記してある。

 しかし、1943年に発見された『曾良旅日記』によれば、この日は粕壁(春日部)に宿泊したと記されている。この日記によって芭蕉の旅程が明らかになったことにより、『おくのほそ道』には相当分、虚実が入り混じっていることが判明している。

 芭蕉はこの旅の五年後に死去しているが、彼は死の床につくまでこの作品に手を入れていたことが分かっている。それゆえ、『おくのほそ道』は単なる旅日記ではなく、かれが全人生をかけた創作物であると考えるほうが得心できるのである。

 第109回で「立石寺」に触れた時にも述べたように、「閑さや……」の句もセミの種類を議論するなど愚かな行為というほかはなく、芭蕉の心にはそう感じられたのだと、この作品を味わうべきである。

河合曾良

 写真の「曾良像」は芭蕉像とは少し離れたところに建っていた。これはやや残念なことであり、是非とも芭蕉像の近くに移転していただきたいと強く願っている次第だ。

旧荷札場と綾瀬川と矢立橋と

 草加は宿場町として栄えたが、当然のごとく、ここには多くの荷物が綾瀬川を道筋として運ばれてきた。写真の手前側はその旧荷札場を再建したものであり、その向こうに見える小さな建物は「草加宿芭蕉庵」というお休み処で、各種資料だけでなく売店もあり、草加せんべいも売られている。

 その先に見える丸い橋が矢立橋で、こうしてやや遠めに見ると、草加松原にマッチした丸橋になっている。木製でないのはやや残念ではあるけれど。

〔110〕平林寺・野火止用水・清瀬金山緑地公園を訪ねて

大河内松平家廟所

◎平林寺~松平信綱(知恵伊豆)が眠る禅寺

平林寺大門通りと総門

 埼玉県新座市にある平林寺は紅葉狩りの名所としてよく知られており、シーズンになると不信心の人も含めて数多くの見物客が集まる。私も2回、見学に訪れたことがあるが、確かに人の数は半端なく多いが、境内が広いこともあって”ごった返す”といったほどではないので、美しい景観を存分に楽しむことが出来た。

 一方、3月下旬のこの時期は花の数がさほど多くはないので、境内は閑散としており、いかにも古き良き武蔵野の姿にじっくりと触れることが出来る。田山花袋が「武蔵野の昔の武蔵野の匂いを嗅ごうとするには野火止の平林寺付近が良いね……」と語った気持ちがよく分かる情景が、今でもよく残されている貴重な場所なのである。

総門と参拝受付所

 平林寺は臨済宗妙心寺派の別格本山で、1375年、現在のさいたま市岩槻区を拠点とする岩槻城主太田備中守の命で、鎌倉建長寺の住侍であった石室善玖禅師によって開山された。が、1590年、秀吉の岩槻城攻めで伽藍の大半を焼失したが92年、鷹狩りで岩槻を訪れた徳川家康の命で、駿河国臨済寺の鉄山宗鈍を迎えて中興開山した。

ここは金鳳山・平林寺という名の禅寺である

 この寺の大檀那であった大河内秀綱が死去するとここが大河内家が霊廟とされた。さらに、孫の信綱が大河内家から松平家に養子に入り、のちに大河内松平家を興すと、この平林寺が祖廟となった。ただし、信綱は平林寺を岩槻から自分の領地である野火止に移すことを企図してはいたが、存命中には完成をみなかった。

 この寺の山号は「金鳳山」であるが、写真のように総門には京都詩仙堂石川丈山が揮毫した扁額が掲げられている。約400年前のものなので、現在は新しく塗られているが、文字そのものは丈山のものを生かしている。

 なお、山号の金鳳山は、開祖が中国の元の金陵(南京)にある鳳台山で修業したことから、その”金”と”鳳”をとったものである。

移設された山門

 総門から入って正面を見ると、写真のような山門が見える。これは平林寺が岩槻にあったときのものを1663年に解体してこの地に移築補修したものである。

歴史を感じさせる建造物

 茅葺重層入母屋造りのこの山門は、数ある平林寺の建造物の中では最も見応えのあるものだ。楼上桟戸の両側には花頭窓があり、その内部には松平信綱が寄進した釈迦、文殊、普賢の三尊仏と十六羅漢像が収められているとのことだ。

凌霄閣(りょうしょうかく)の扁額

 山門の扁額も、総門のものと同じく、京都詩仙堂石川丈山が揮毫したものを塗り直している。「凌霄閣」のうち、凌と閣は分かるが、霄(しょう)がよく分からない。案内によれば、霄は空と同義だそうなので、言い換えれば、空を凌ぐ建物ということになる。つまり、空を凌ぐほど志が高いという意味のようだ。

阿形の金剛力士

 山門の左右には、お定まりのように阿形と吽形の金剛力士像が安置されている。もちろん誰もが知っている通り、”阿”は梵字十二音の最初、“吽”は最後の文字で、それぞれ始原と終局を意味している。その限りで、山門を通るということは、全宇宙の只中を通過するということになるのかも知れない。もっとも、信心のない私は、ただボーッとしたままに通りすぎ、宇宙を感じることはまったくなかった。

仏殿

 山門の先には仏殿がある。生憎、正面からでは茅葺きの大きな屋根に陽がさえぎられてしまうため、扁額や花頭窓などはまったく写真に収まらないことから、やや斜め側から見たものを掲載した。

無形元寂寥と書かれた扁額

 ここには「無形元寂寥」と書かれた扁額が掲げられていた。中には本尊の釈迦如来坐像と両脇侍として阿難尊者と迦葉(かしょう)尊者が安置されている(らしい)。

 この仏殿も、やはり岩槻から移築されたものとのことだった。

仏殿の横には用水路が

 仏殿の脇には写真のような用水路が走っていた。もちろん、これは野火止用水から分岐された平林寺堀からの水である。

観音像が安置されている戴渓堂

 用水路の近くには、写真の戴渓堂があった。茅葺の宝形造りの建物で、中には「天外一閑人」と称した明の僧であった独立性易禅師の座像が安置されている(らしい)。どんな人物だか私には不明だが、「天外一閑人」という生き方は私としては激しく同意できる。

豊富な水量に支えらえた放生池

 放生池(ほうじょうち、ほうじょういけ)とは捕らえた魚類などを放してやるために池で、寺院などではよく見かける存在だ。供養のためだそうだが、それならば元々、捕獲しなければ良さそうなものだが、不信心者があまたいるので、そうした人々が仏心に目覚めさせるために置かれたものなのだろうか?

 私は小さい頃、こうした池でよく魚やカメなどを捕まえてきて自宅の池に放生した。これは信心からではなく、ただ生き物を飼うのが好きだったからである。もっとも、管理が悪いのでよく殺生したものだが。

池中央に置かれた祠

 池の中心の島には写真のような小さな祠があった。池の中、あるいは畔にある祠と言えば、「弁天様」を安置しているに相違ない。

水路近くに集まる色鯉

 放生された?コイたちがこちらを向いているのは私がエサを与えているからではなく、平林寺堀からの流れがここに入り込んでいるからだ。魚は一般的に流れが来る方向に泳ぐことが多い。これは、餌となるものが上流から流れてくるからだろうか。

半僧坊感応殿

 半僧坊とは、浜松にある方広寺を縁起とする天狗の姿に似た大権現とのこと。山の鎮守として現世の諸願を叶えてくれるそうだ。私の願いは磯で大きなメジナが釣れることだが、これが簡単に実現したら釣りはかえって面白みのないものになってしまうので、願うことは止めにした。もっとも、信心そのものがないのだけれど。

天狗に似た大権現が祀られている

 当然のごとく、内部には天狗によく似た大権現が祀られている(らしい)。三大半僧坊というのがあって、方広寺、鎌倉の建長寺、それにここ平林寺だそうで、年に一度(4月17日)、大祭が催されるとのことだ。

◎広大な境内林を歩く

境内林を進む

 平林寺の魅力は、初めのほうでも述べたように、広大な自然林が存在しているからだ。1968年には国の天然記念物に指定されているが、確かに、ここには古き良き武蔵野の面影が残っている。私の住む府中市にだって、子供の頃はあちこちにこうした自然林が存在していたが、今では大半が住宅地になってしまい、僅かに府中崖線や国分寺崖線の斜面に少しだけ残されているだけである。

平和観音像

 ただ、下で取り上げる「大河内松平家廟所」まではところどころに墓地や写真のような記念像が置かれているので、ありのままの自然林の空気を感じるには、今少し先まで歩く必要がある。

石仏群

 ただ、道の傍らにある写真のような石仏群を見るのは決して嫌いなわけではない。ひとつひとつ表情が異なっているのを見出すことは結構、興味深い”遊び”ではある。

野火止用水・平林寺堀

 野火止用水から分岐された水の流れは平林寺堀となって境内の中を進んでゆく。

島原・天草の一揆供養塔

 平林寺を岩槻から野火止の地に移したのは松平信綱(1596~1662)である。もっとも実際に野火止に移転されたのは1663年のことなので、先にも触れたように信綱自身は移転の完了を見てはいない。あくまで信綱の遺命によって野火止に移されたということになっている。

 写真は、「島原・天草の一揆供養塔」である。当時忍(おし)藩の藩主で幕府の家老だった信綱は1637に起きた島原の乱を鎮圧するために総大将として島原に派遣された。この反乱はキリシタンの弾圧によって発生したというより、藩主・松倉勝家に暴政によるところが大きかった。が、結果としては反乱に加担したもの全員が処刑されている。だだし、徳川家光松倉勝家にも責任を取らせ、藩主としては江戸時代唯一の斬首の刑に処せられている。

 ともあれ、キリシタンを中心とした反乱に加担した3万人以上が処刑され、信綱が鎮圧軍の総大将であったということの事実からか、平林寺境内には写真のような供養塔が設置されることになった。

 この供養塔は建てられたのは1861年で、大河内松平家の家臣であった大嶋左源太によるものとのことだ。供養されているのは島原の乱で命を落とした兵卒や庶民ということらしいが、その庶民の中に処刑されたキリシタンが加わっているかどうかは不明だが、信綱に由来するとするなら、私はキリシタンも含まれていると信じたい。

安松金右衛門の墓

 松平信綱の最大の業績と言えば、やはり玉川上水・野火止上水の開削であろう。玉川上水の開削については本ブログの第28回から30回まで、3回に分けて詳しく紹介している。

 島原の乱の平定の勲功によって信綱は、1639年に忍藩3万石から川越藩6万石に移封された。そこで信綱は川越を流れる新河岸川(荒川の一次支川)の整備など、川越の発展に大きく寄与した。さらに、田畑の整備によって食糧の増産を図るため、全く手が付けられないでいた野火止の地の開墾を計画した。しかし、この地は北の柳瀬川、南の黒目川(ともに新河岸川の支流)に挟まれたやや台地の形状をしているために水に恵まれてはいなかった。

 そんな時、信綱は徳川家光から、急発展しつつあった江戸の水不足を解消するために玉川上水の開削を命じられたのであった。当初は玉川兄弟に指揮を取らせたが、水喰土(みずくらいど)に何度か苦しみ彼らの計画はとん挫した。

 そこで、信綱は川越藩士の安松金右衛門に指揮を命じて、玉川上水開削を進めさせて見事に完成をみた。そればかりでなく、安松は小川の地(現在は立川市幸町)に取水口を造り約3分の1の水を分水させ、小川から野火止を通り新河岸川までの25キロにわたる野火止用水を完成させたのであった。しかもこの開削にはわずか40日しか費やしていなかった。この結果、野火止ではそれまで200石しか産出されなかったものが、この用水のおかげで2000石と10倍もの増産に成功したのであった。

 こうした業績があったことから、安松の墓は大河内松平家の廟所のすぐ隣に置かれたのだった。

大河内松平家一族の墓

 平林寺境内林の中に、広大な「大河内松平家」の廟所がある。これは平林寺の本堂(一般者は立入ることができない)の裏手に位置し、写真から分かる通りかなりの面積(約3000坪)を占めている。

 信綱は家康の家臣であった大河内久綱の長男として生まれた。ただ身分がやや低いため、これでは出世が出来ないと考えて松平右衛門大夫正綱の養子となった。このことで、信綱の一族は大河内松平家と呼ばれるようになったのである。

 類稀な才能を生かして家光や家綱を補佐し、徳川の幕藩体制の基礎を確立した。知恵が湧くように出たことから「知恵伊豆」と呼ばれるようになった。また、川越藩主として川越の町を整備し、「小江戸」と呼ばれるようになるまでの発展を遂げる立役者となった。

松平信綱夫妻の墓

 向かって左側の墓が信綱のもので、地輪正面には「河越侍従松平伊豆守信綱 松林院殿乾徳全梁大居士 寛文二壬寅三月十六日」と刻まれている(そうだ)。

野火止塚

 この廟所の裏手に回ると、いよいよ自然豊かな平林寺境内林が広がっている。なにしろ境内は全部で13万坪(43万平米)の面積があるのだ。

 その一角に、写真の「野火止塚」と名付けられた土盛りがあった。由来や用途は不明らしいが、推測するに、この地では焼き畑農業がおこなわれており、水が乏しいことから野火が広がりやすく、それを監視するための高台だったと想像できる。

 なお、平林寺が岩槻からこの地に移設されたときにはすでに存在していたとのことなので、資料となるものはないことからただ推察するだけである。

野火止塚の石標

 塚の天辺には写真の石標がある。周囲には近年になって造られた囲い(あるいは石標)の残骸らしきものが転がっていた。これだけを見ると、何かの工事の廃棄物が積まれ、それを隠すために土盛りがされたようにも思える。もっとも、廟所のすぐ裏にそんなものを残すはずはないのだが。

何故か「業平塚」も存在

 野火止塚のさらに北側の林の中には、写真のような「業平塚」があった。ここは、業平が東下りの折に、武蔵野が原に駒を止めて休んだところとの言い伝えがある。かつてここには、「むさし野に かたり伝えし 在原の その名を偲ぶ 露の古塚」という歌碑があったとのことだ。

 なにやら怪しげな伝承ではあるが、真偽を確かめるには都鳥にでも問うてみなければならないだろうか?

国史跡指定の平林寺境内林

 野火止塚や業平塚のほかには、写真のような林が広がっている。ただし、古木も多いことから、この景観を保存するために適宜、植え替えをおこなっているようだ。

平林寺堀の石標

 ひと通り、平林寺の境内を徘徊したので、次の目的地に移動することにした。平林寺堀の傍らには、写真のような石碑が置かれていた。こちらは用水の分流ではあるものの、野火止用水の一部には違いはない。

用水は境内の外に流れ下る

 写真のように用水は境内を出て、平林寺大門通りの脇を新座市役所方向へと進んでゆく。ただし、市役所の北角にある新座市役所交差点で暗渠化されてしまっているので、その先を追うことはできない。

野火止用水

野火止用水本流

 平林寺を出て、私は歩いて寺の南西角まで行くことにした。寺の西側に沿うようにして、野火止用水の本流が走っており、それを見学することが目的だった。

 写真は「陣屋通り」と名付けられた市道野火止用水を越える「伊豆殿橋」の真下を覗いてみたものだ。思いのほか水量は豊富だ。もっとも、本ブログの第30回で触れたように、玉川上水自体の流れは自前のものではなく、小平監視所立川市幸町)から下流部は浄水場の処理水(有機フッ素化合物が多めに含まれているので、汚染水かもしれない)が上水の流れを復活するために人工的に流されているので、この野火止用水の水もその処理水の一部である。

右手が平林寺境内林

 写真のように野火止用水は平林寺の西側に沿って流れ下り、国道254号線と突き当たる辺りで暗渠化され、新河岸川に流れ込む場所まで、もはやその姿を視認することはできない。

橋には用水開削の功労者の名が

 写真のように陣屋通りの橋は先にも触れたように、野火止用水開削の功労者である松平信綱の官職名(伊豆守)から名付けられている。

安全と発展を祈願

 橋の傍らには石仏が置かれていて、花や果物がそえられていた。道を通る人の幾人かは、この石仏の前で手を合わせていた。私には到底できないことだが。

 ところで、新座は令制国時代は武蔵国新座郡(にいくらぐん)に属していた。これは多くの新羅系の渡来人がこの地に移住して、農業の発展に寄与したためであると言われている。

用水路の脇には遊歩道が整備

 開渠になっているにせよ暗渠になっているにせよ、野火止用水の水路に沿って道路が造らられており、小平から東久留米まで通りは「野火止通り」の名が、新座に入ると今度は「水道道路」と名付けられている。

 写真は、その水道道路に沿って流れている用水を撮影したもの。ここでは暗渠になったり開渠になったりを繰り返しており、いずれにしても道路の脇には遊歩道が整備されている。もちろん、開渠の場所では狭く、暗渠の場所では道は広めに造られている。

遅咲きのスイセンが用水を飾る

 一部には花壇を整備して美しく飾られている場所もあるが、写真のように遅咲きのスイセンが疎らに植えられているところもあった。いずれにしても、格好の散策路として、野火止用水に沿っている遊歩道は多くの人に愛されているようだ。

玉川上水との分岐点のすぐ下流

 折角なので、野火止用水の「源流」も訪ねてみた。多くは第30回を参考にしていただきたいのだが、そこでも記したように玉川上水から分水された野火止用水は暗渠化されているので、その分岐点を直接、見ることはできない。しかも、上の写真のように用水の上には立派な散策路が造られている。

 なお、左手に見えるのは西武鉄道拝島線である。

東大和市駅東側から開渠となる

 西武拝島線玉川上水の隣駅(小川側)である東大和市駅のすぐ東側から、やっと野火止用水は顔をのぞかせる。上の写真は、用水が初めて地表に顔を現した場所である。

用水に沿って遊歩道が続く

 このように、人々の前に姿を見せた用水はしばらくは遊歩道を伴って東に進み、西武多摩湖線八坂駅の東側まで姿を現し続ける。そこでまた、900mほど暗渠化され、東村山市恩多町にあるボーリング場の裏手で再び、人々の前に姿を見せることになる。

◎柳瀬川と清瀬金山緑地公園

柳瀬川

 柳瀬川については、すでに本ブログの第52回で多摩湖狭山湖を紹介した際に少しだけ触れている。この川の源流は狭山丘陵の谷にあって、多摩湖(山口貯水池)が造られる前には、この川の流域にいくつかの集落があった。ただし、貯水池が出来ると源流域はほとんど水没してしまい、僅かに六道山公園の東側の谷に源流点らしき痕跡が残るのみである。

 第52回、53回に紹介した狭山丘陵の項で紹介した空堀川はこの柳瀬川の支流で、野山北公園の谷を水源として狭山丘陵の南側を流れ下り、清瀬市中里で柳瀬川に合流している。 

左岸の河原ではバーベキューも可能

 この合流点から1.6キロほど下流の左岸側にあるのが、ここで取り上げた清瀬金山緑地公園で、よく整備された池を中心ににして周囲には雑木林が残り、河川敷の一部では、写真のように野外バーべキューが楽しめる場所もある。ただし、バーベキューが可能なのは河川敷のみで、緑地公園内では不可である。

小魚を狙う釣り人

 川には大きなコイが数多く泳いでいたが、小魚も豊富なようで、写真のような短めの竿を用いて小物釣りを楽しむこともできる。

 以前にも触れたように、この柳瀬川もその支流の空堀川も、そして黒目川もすべて古多摩川の流路に当たる名残河川で、かつて古多摩川は荒川方向に向かって流れていた。それが関東山地の隆起によって流路を変更したという点についても本ブログでは何度か触れている。

意外に水量は豊富

 私がこの公園の存在を知ったのは、今から20数年前のことだった。取材で関越自動車道をよく使うことになったとき、所沢ICを入口に利用するのが一番便利だと気付いてからのことだった。

 距離的には大泉ICのほうが近いし、私は若い時分に練馬区の某都立高校の教員をしていた(担当はなんと倫理・社会)ので、練馬近辺の道にはかなり詳しくなっていた。ただ、大泉ICに至るまでは西武線の踏切を2度超える必要があったし、西武線の遮断機は京王線に比べると閉まるのは早いし、開くのは遅いので、相当に朝早い時間でないとその踏切を渡るのに難儀した。

 そこで東村山経由で所沢に至るルートに変更してみたが、そこでも西武線の踏切が行く手を遮るので、やはり時間の短縮は難しかった。

 結果、地図を詳細に調べてみると、清瀬市役所脇から細い道に入り、柳瀬川を渡ってから道を東に取ると、所沢ICのすぐ近くに出られることが判明した。その際、柳瀬川にかかる橋は「金山橋」であり、渡った先には広い公園があることが分かった。

 いつか立ち寄ってみたいとそのころから考えていたが、実現したのは今回が初めてとなったのだけれど。

 もっとも、大泉ICへの道では2つの踏切が廃止された(ひとつはアンダーパス、ひとつは西武線の高架化)ことで、近年はまた大泉ICを利用することになったので、公園の存在はすっかり忘却していたのだけれど。

公園内の大きな池

 川から水を導入したのか、それとも近くの伏流水が流れ込んだのかは不明だが、約2万平米の広さを有する公園の中心にあるのが写真の池である。

 この公園のテーマは「武蔵野の風と光」だそうだが、雑木林から流れ込む風は確かに柔らかく感じ、それが池に小さな波を生み出し、水面は明るい陽射しを受けてキラキラと輝いている。

しだれ桜にやっと春が到来

 池のほとりには、写真のしだれ桜が数本、植えられている。これは福島県の三春町から移植されたとのこと。三春のしだれと言えば全国的によく知られたブランド桜である。

伏流水を池に導入

 おそらく伏流水であろうか?池の西側には写真のような流れがあり、これが自然のままに残された草むらの中に小さな川を形成している。ここではホタルを育成しているとのことで、流れの近辺は立入り禁止になっている。

置物その1

置物その2

 上の2枚の写真にある通り、流れの脇には石が配置され、その上には2種類の小動物を模したキャラクターグッズが置かれていた。私は可愛らしいと思うのだが、私の友人の一人はカエルが大の苦手なので、この存在を知った途端に、この公園の存在そのものを毛嫌いすると思われる。河原にはカエルは付き物だと思うのだけれど。

 

池に自作の船を浮かべる人

 その流れの先に件の池がある。この写真を見る限り、確かに「風と光」をテーマにしていることがよく分かる。

 池に浮かんでいるのは模型の自走式の船で、ラジコンでコントロールしながら池の上を悠々と走らせている。

船遊びは2グループいた

 この船遊びは2組の年配者がそれぞれ自慢の作品を見物客に披露していた。私には模型を製作するという技能や根性がまったく欠けているので、こうした遊びをしたことはない。それほど困難な作業ではないと思うが、それなりの情熱は必要なのだろうと思う。

 私は小さな船が池の上を進む姿をしばらく眺めていた。水を見ればすぐさま釣りを、釣りだけを連想してしまう自分にとって、極めて新鮮な感情が少しだけ生じた。

 遊びは人の数だけ、いや人の数をはるかに凌駕するほど存在する。

金山調節池

 金山橋の下流側には有料駐車場があり、そのすぐ東側に写真の「金山調節池」があった。柳瀬川が増水したときにはここに水を導入し、下流での越水を防ぐのである。

 この調節池の傍らに整備された道を一人、中年の女性が散策していた。その先には、豊かな自然の草むらや林があった。

 この姿こそ、かつての武蔵野の情景だったのかもしれない。

〔109〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(4)山形城、立石寺、亀岡文殊、米沢城跡など

この場所で芭蕉は「閑さや~」の句を着想したらしい

◎日本一公園(楯山公園)からの眺め

気宇壮大な公園名

 月山を離れ、この日に宿泊する山形市へ向かった。国道112号線を寒河江川に沿って東南東に進み、当初の予定では寒河江市に入り、その地の高台から月山の全容を眺めるつもりでいたが、相変わらず月山山頂は雲の帽子を被っていた。

 そこでルートを変更して、大江町にある「楯山公園」に向かうことにした。この公園の高台からは最上川の大蛇行が見られるとのことで、写真にあるように通称は「日本一公園」といい、「最上川ビューポイント」に認定されている。

 それにしても、「日本一公園」とはよく名付けたもので、その誇りの高さに敬服してしまった。

確かに眺めはかなり良い

 写真のように、北上してきた最上川は、この高台に衝突するために行く手を南方向に360度近く変更させられるのである。日本一はやや言い過ぎだとしても、確かに景観は相当に良い。

 公園一帯は地元の豪族である大江氏が城を築いた場所で、正式名称は「左沢(あてらざわ)楯山城史跡公園」と言い、この「日本一公園」はその敷地のほぼ南側に位置する。

 最上川左岸の左沢(写真では川の右手)をなぜ「あてらざわ」と読むのかには諸説あるようだ。一番説得力があるのは、左沢が川の左岸側にあり、右岸側を”こちら”とするなら、左岸側は”あちら”となり、川の”あちら”が転化して「あてら」になったとするものだ。

 ともあれ、「佐沢」は難読地名のひとつには違いない。

大蛇行する最上川

 川の右岸側(日本一公園からすればあちら側)の一部には河原があるが、蛇行直前の右岸には砂岩・泥岩の互層が見られ、しかもかなり褶曲していることがよく分かる。

 それはともかくとして、佐沢の崖が最上川を大蛇行させたことは事実であるにせよ、何故、こうなったのかはよく分からないというのが実感であった。

◎霞城(山形城)公園内を少しだけ歩く

山形城跡への出入口

 ホテルに入るにはまだ時間があったので、JR山形駅のすぐ北側にある山形城跡(霞城(かじょう)公園)に立ち寄ってみた。建造物はほとんどなく、いずれ本丸のあった場所を整備するための基礎的な発掘調査がおこなわれているばかりなので、城をイメージして出掛けるとがっかり度は高い。

 その一方、かつては51万石の大大名の城郭があった場所なので、敷地は広々としていて、散歩をする目的であれば失望感は少なくて済む。

 復興された建造物は敷地の東側に集中して存在するので、写真にある堀に架かった橋を渡って城の中に入ることにした。

橋の下には新幹線も走っている

 写真は堀に架かる橋だが、手前にはもうひとつ橋があり、その下には山形新幹線仙山線左沢線(あてらざわせん)が走っている。お堀の水は澱んでいて奇麗ではないので、私は鉄道の線路のほうに興味を抱いてしまって、そちらの見物に時間をかけてしまった。

二ノ丸東大手

 敷地内に入ると、写真の「二ノ丸東大手門」が姿を現した。もちろん、守りを重視するために枡形虎口をしている。往時はお堀に張り出す形の「外枡形」だったそうだが、1991年に竣工した現在のものは内升形という普通のものになってしまっている。

城主・最上義光顕彰詞碑

 二ノ丸に入ると、そこは広場になっていて、その中心には写真の「最上義光(もがみよしあき)」の像があった。後ろ足の2本で立ち上がっている姿はなかなか結構なものだったので、東大手門よりは存在感に溢れていた。

 最上義光(1546~1614)は山形藩51万石の初代藩主。関ヶ原の戦い(1600年)では、伊達政宗とともに東軍(家康側)につき、西軍側の上杉景勝と戦って(出羽合戦)勝利し、山形の地を安堵された。

 身長が180センチ(推定)もあった義光は武術はもちろんのこと、文化人としても優れており、『伊勢物語』や『源氏物語』を愛した。また数多くの連歌を残し、仏教の保護もおこなった。のちに挙げる立石寺の再建も、義光の時代におこなわれた。

 全国的な知名度はないが、なかなかの傑物であったことは確かである。

山形市立郷土館

 中には入らなかったが、建物自体には魅力を感じたことから、いろいろな角度から見て回った。1878年に洋風をまねて造られた県立病院(済生館)で、1904年に市立病院に移管された。1966年に国の重要文化財に指定されたことから、建物を霞城公園内に移設・復元されたとのこと。71年に市立の郷土館として利用され、郷土史や医療関係の資料が保管、展示されている。

 日本全国に増殖中の高層ビルはどれもみな同じような姿で誠につまらない造形物であるが、このような明治期の建物にはそれぞれ個性があって、見ているだけでも清々しい気持ちになる。 

山形城を発掘調査中

 山形藩は51万石を誇る大藩であったことから、さぞかし立派な城郭を有していたと思われるが、その大半は姿を消してしまっている。現在はその復元の第一歩として発掘調査などがおこなわれているようだが、私が見た限り、なかなかはかどってはいないようだ。写真の通り、半ば“ほったらかし”状態のところが大部分なので、「城」を期待して訪れるとがっかり度は高いが、公園として考えるなら、結構な広さを有しているので、足腰を鍛えるには格好な場所かもしれない。

立石寺(山寺)を散策

JR仙山線山寺駅

 芭蕉ファンにも関わらず、近くには何度も訪れているにも関わらず、立石寺(山寺)の境内に足を踏み入れるのは今回が初めてだった。何しろ、奥の院までは1050段の階段を上る必要があると聞いていたからだ。

 しかし、今回初めて立入ってみて、1050段といっても階段には段差があまりないので、その段数の割にはさほどの苦労はいらなかった。実際、写真の山寺駅や境内の一番下の標高は237mで、もっともよく知られている開山堂は367m、奥の院でも401mなので、比高は最大でも164mしかなののだ。

 ちなみに、東京郊外にある高尾山は標高は599mだが、その玄関口となる京王線高尾山口駅は190m地点にあるため、比高は409mとなる。それゆえ、立石寺奥の院までは高尾山登山の40%の労力で済むことになる。

 もっとも高尾山にはケーブルカーがあり、それを使えば比高270mを稼げるので、実質は139mとなるのだけれど。これは開山堂までの比高130mとほぼ同等である。つまり、ケーブルカーを使った高尾山登山と同程度の労力で立石寺の主だった場所が見物できるのだ。これを知っていれば、もっと早くに立石寺を訪ねていたはずだ。いまさらながら、自分の阿保度加減に呆れる始末だった。とはいえ、遅まきながらも立石寺訪問が実現したので、それはそれで満足度は高かった。

 写真は仙山線山寺駅で、山形駅からは20分、仙台駅からは50分の所にある。もっとも私は車で出掛けたので、駅はただその姿を見るだけに立ち寄ったのだけれど。

参道にあった看板

 平日にもかかわらず、立石寺には大勢の個人客、団体客、見物客、参拝客が訪れていた。860年に慈覚大師円仁が開基したといわれる天台宗の寺であるが、断崖の上に立つ見応えのある寺だから大勢の人が集まるという訳ではなく、やはりその大半は芭蕉の句に惹かれてこの地を訪れるのであろう。そんなことから、芭蕉は写真の看板のように団子にもなってしまうのであった。

 私はその看板に興味を抱いただけで、団子には関心がなかった。それゆえ、どんな形をした、あるいはどんな味の団子だかは不明だ。もしかしたら、セミの形をしていたかも知れない。食味は「セミ味」でないことは確かだけれど。

麓から釈迦堂を望む

 まずは麓から山を見上げた。以前に感じた時よりは高さはあまり感じられなかった。写真にある釈迦堂は修行者以外は立入ることのできない場所で、標高380mのところにある。私が撮影している場所は237m地点なので、比高は143mである。

 主だった建物は急峻な崖の上にあるので、どうしても山坂道を歩く必要がある。今回の旅の主要な目的地のひとつなので、麓から見上げて”はい、おしまい”という訳にはゆかない。

おくのほそ道の標識

 写真のように、参道には小さなお堂と、「奥の細道」の標識があった。芭蕉は『おくのほそ道』と記しているのだが、象潟にもあったように漢字で『奥の細道』と記している場所がかなりあった。どちらでもいいような気がしないではないが、芭蕉ファンとしては少し気になるところではあった。

いよいよ境内へと進む

 この場所に、立石寺の境内に入る階段がある。ここでは入り口と出口が分けられているので、「登山者」はここからお山に入ることになる。

 石標には「山寺」とあるがこれは通称で、正式には「宝珠山立石寺」という。芭蕉の頃は「りょうしゃくじ」と読んでいたようだが、現在では「りっしゃくじ」という。

最初に目に付くのが根本中堂

 まず最初に出会うのが、写真の「根本中堂」で、ここが33万坪の広さを有する寺全体の本堂である。1356年の建造で、ブナ材を用いた建物としては日本最古のものと考えられている。

 ここには慈覚大師作と言われる「薬師如来坐像」があり、比叡山延暦寺から分灯された「不滅の法灯」が灯っている。

 私は相変わらずお参りはしないので、ただ遠目から眺めただけで、すぐに次の場所に移動した。

芭蕉

 立石寺知名度を全国に広めたのは、ひとえに芭蕉の句であろう。

 閑さや 岩にしみ入 蝉の声

 この句を知らない人はまずいないと思うが、誰もが単純に疑問に思うのは、セミがガンガン鳴いているので、決して「静か」ではないだろうということだ。そのため、このセミニイニイゼミだろうかアブラゼミだろうかという実に下らない論争まで起こった。ニイニイゼミのほうが鳴き声が小さいので、大方はこちらのセミに軍配を上げているようだが、これはただ、この作品の表面をなぞった解釈に過ぎない。

 芭蕉の句が大きく変わったのは、以下の句からだと考えられている。

 古池や 蛙飛びこむ 水の音

 これは芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る3年前の作品である。件のセミ論争に加わる人は、この句をただ、古池にカエルが飛び込む音を聞いた、というように解釈しているのと同じことになる。そうであるなら、「古池や」ではなく「古池に」でよいことになる。

 「や」はいわゆる「切れ字」で、「古池や」と「蛙飛び込む水の音」とは次元の異なる表象なのだ。それゆえ、古池にカエルが飛び込んだという情景を句にしたのではなく、カエルが飛び込む音を聞いた時、芭蕉は古池を心象風景として抱いたのである。

お馴染みの句が刻んである

 同様に、「閑さや」は芭蕉が心に浮かんだ世界であって、実際にはどんなに騒々しくセミが鳴こうとも、彼が触れた立石寺の情景は、森閑とした世界として心に思い描かれ、それゆえにセミの鳴き声すら岩に染み入ってしまうほど静謐な景趣に思えたのである。

 これは余談ではあるが、下に続く写真から分かるように、立石寺の岩は角礫凝灰岩からなり、至るところにタフォニや風穴が存在する。そうした造形であればこそ、騒々しい音でさえ、それらに吸い込まれていくように思えた。岩肌が一種の吸音板のように。

随行者の曽良の像もあった

 芭蕉随行した曾良(河合惣五郎)は、深川を出る直前に髪を剃った。写真の像から分かる通り、旅の最中はずっと「くりくり坊主」で通したようだ。

 剃り捨て 黒髪山に 衣更

 これは、芭蕉一行が日光の黒髪山の麓に立ち寄った際、曾良が詠んだ句として「おくのほそ道」で紹介されている。芭蕉曾良についてはじめて紹介したもので、「このたび、松しま・象潟の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且は羇旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃て黒染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て(よって)黒髪山の句有。衣更の二字、力ありてきこゆ。」と記している。

念仏堂

 念仏堂は「常行念仏堂」とも言い、慈覚大師円仁が中国の五台山竹林院で授かった五台山念仏三昧法を日本に持ち帰り、比叡山に常行念仏堂を建てた。そして、この立石寺にもその必要性を感じて建立した。

 この念仏三昧法とは、90日間、阿弥陀如来の周りを念仏を唱えつつ、心に阿弥陀如来を念じながら歩くという修行法らしい。

 いよいよこの山門から立石寺登山が始まる。料金(ここでは巡拝料という)は300円と思ったよりも安かった。長い長い階段が始まるが、先に触れたように一段一段の段差はあまりないので、気苦労は不要だ。何しろ、ケーブルカーを使って高尾山に登る程度なので。

空也塔」が立っていた

 空也と言えば、称名念仏を日本で最初に唱えた人物としてよく知られている。空也塔は念仏信者が建てるものだが、念仏を最初に日本に導入した慈覚大師円仁との関係から、空也の存在も欠かせないと考えた人がここに建てたのかもしれない。もっとも、空也の場合はひたすら念仏を唱えさえすれば浄土にゆけるという信仰だったので、円仁の念仏三昧法とは異なるように思えるのだが。

奥の院まで続く階段。全部で1050段

 写真のような階段が、開山堂や奥の院まで続く。確かに一段一段の高低差は小さいので、考えていた以上に苦労は少なかった。

落石?の場所もある

 それに、写真のように落石なのか、あえてそのままにしたのかは不明だが、とても幅の狭い場所があったり、脇に塔婆が置かれていたりして、変化に富んだ道が続くので、次にはどんな景色が展開されるのだろうかと好奇心すら湧いてくる。

ところどころに石仏が置かれている

 写真のように、小さな石仏が置いてあったり、凝灰岩を削って磨崖碑を刻んだりしてある風景にも出くわす。

せみ塚

 せみ塚は、1751年に地元の壷中(こちゅう)をはじめとする芭蕉を敬愛する人々が、芭蕉の句をしたためた短冊を土中に納めるとともに写真の記念碑を建てた場所。ここから開山堂などがある百丈岩が眺められる。

 ここ辺りで芭蕉は「閑さや~」の句を着想したといわれている。先にも述べたように、一帯はいかにもセミが元気よく鳴きそうな場所である。芭蕉が訪れた時間には人気(ひとけ)が途絶え、境内は森閑とした空気に包まれていたため、たとえセミたち(どんな種類でも全く問題はない)が大合唱していたとしても、芭蕉の心の中の世界では、その声はすべて凝灰岩の岩肌の中に吸い込まれていったのである。

磨崖碑もよく見かける

 巨大な凝灰岩の岩肌が大きく削られ、写真のように数多くの磨崖碑が刻まれている場所が数多くあった。その下には、何本もの塔婆も捧げられていた。岩の上部にはセミの声を吸い込んだタフォニの存在も確認できた。

 なお、この岩の佇まいから「弥陀洞」とも呼ばれている。

仁王門が見えてきた

 標高329m辺りに至ると、336m地点にある仁王門が見えてきた。間もなく、私が目指す開山堂に到達だ。

立派な仁王門

 仁王門は1848年に再建された、山中の建物のなかではもっとも新しいものである。ケヤキ材がふんだんに用いられ、この仁王門は1848年に再建された、山中の建物のなかではもっとも新しいものである。ケヤキ材がふんだんに用いられ、左右の仁王尊像は運慶の弟子たちによって造られたとのことだ。

開山堂と納経堂

 芭蕉の存在をのぞけば、この開山堂と納経堂の姿が立石寺にある数多くの建造物の中ではもっともよく知られているだろう。この姿を見ただけで、ここは立石寺であると大半の人が判断できる。

 開山堂はその名の通り、百丈岩の上に立つ開祖慈覚大師円仁の御堂で、この崖の下の自然屈の中に大師の御遺骸が金棺に入れられて埋葬されている。

 御堂には木造りの円仁尊像が安置され、朝夕には食販と香が絶やすことなく供えられているとのこと。

納経堂は山寺のシンボル?

 隣にある納経堂は、山内にある建物の中ではもっとも古いものと考えられている。奥之院で4年かけて写経された法華経がこの中に納められている。

 この赤い小さな建物こそ、立石寺を代表する存在であり、私自身、この姿に触れるためにこの寺を訪ねたといっても過言ではない。

眺めが良い五大堂

 開山堂の隣にある五大堂には密教系の五大明王が奉られている。「不動明王」「降三世(ごうさんぜ)明王」「軍荼利(ぐんだり)明王」「大威徳明王」「金剛夜叉明王東密系)または烏枢沙摩(うすさま、台密系)明王」を言う。立石寺台密系なので、後者を奉ってあるのだろうが、実は、五大堂からの眺めがすこぶる良いので、肝心の五大明王には目を向けることはなかった。

修行者だけが立入れる釈迦堂

 開山堂近くからは釈迦堂の姿を見ることが出来る。先に述べたように、現在では修行者しか立ち入りができない。ましてや、私のような不信心者にはその姿を見ることすら許されないのかもしれない、そんなことはないだろうけれど。

五大堂から山寺駅を見下ろす

 写真は、キャプションにある通り、五大堂の舞台から仙山線山寺駅を望んだものである。私は車でやってきたので駅は眺めただけ。写真の左端にあるパーキング(個人経営)に駐車したので、この項の冒頭にあるように山寺駅に立ち寄るのは容易だった。

平安時代の摩崖仏

 山を下る途中で、写真の摩崖仏が目に留まった。上るときには気が付かなかったほど小さな存在ではあったが、なにしろ平安初期に彫られたものというから約1200年の歴史を経ているということになる。現在でも仏様に見えるように残されているのは奇跡としか思われない。

 左の柱には「伝・安然和尚像」と表記されている。ちなみに、安然(841?~915?)は円仁の弟子で、延暦寺で研究を続け、『大日経』を元に天台密教を完成させたといわれている人物だ。

立石寺の本坊

 出口付近には、立石寺の本坊が建っていた。本坊とは住職の住む僧院なので、一般の見物客には無関係な存在なので、写真撮影だけをおこなってすぐに移動した。

 初めての立石寺登山は実に実りが多かった。時間の関係で奥之院見物は省略してしまったが、開山堂、納経堂、五大堂には再度立ち寄ってみたいと考えているので、その際は奥之院ものぞいてみようと思っている。怠け者のたわごとかもしれないけれど。

◎天童公園

天童といえば将棋の駒の産地として有名

 将棋にも天童よしみにも特に興味はないけれど、立石寺から天童までは意外に近く、かつ、天童公園は高台にあるので、月山を眺めるには格好の場所と思い、「人間将棋盤」にも少しだけ興味があるので立ち寄ってみることにした。

 天童市は全国の約90%を超える将棋駒の産地で、天童織田藩が高畠にあったときから駒の生産を始め、天童に移ってからはこの地で生産を続けた。

 高級品にはホンツゲの素材を使い、文字を彫り上げた溝に漆を何度も入れ、木地の高さまで漆を埋め込む。さらにプロの棋士が用いる「盛り上げ駒」ともなると、さらにそれに蒔絵筆を使って、漆で文字を盛り上げる。

人間将棋

 天童市では毎年、桜の咲く時期に、天童公園にある人間将棋盤を使ってプロ棋士の対局がおこなわれる。駒には甲冑や着物姿に身を包んだ武者や腰元がなり、写真の白地の将棋盤が用いられる。階段には大勢の観戦客がそこに腰掛け、対局の様子を見物する。

 周囲には約2000本の桜があり、その開花期に催されるため、その様子はニュースなどで必ずと言って良いほど取り上げられる。

将棋塔

 写真は、人間将棋盤の上方にある「将棋塔」で、王将の文字は大山康晴十五世名人の揮毫が元になっているとのこと。現在では藤井聡太氏が棋界を席巻しているが、私が若いころは、将棋の名人と言えば大山康晴と伝説の坂田三吉であった。

 大山康晴氏はタイトル戦を19連覇したが、この2月に藤井聡太氏が20連覇を達成して大山氏の記録を更新した。そんなニュースに触れた時、久々に「大山康晴」の名前を聞き、とても懐かしく思った。

 ちなみに、私は将棋ではほとんど負けたことがない。なぜなら、負けそうにになると将棋盤をひっくり返すからだ。それゆえ、私と将棋を打つ相手は誰もいなくなった。

さくらんぼ畑と月山

畑から月山を眺める

 天童公園からでは月山の姿があまりよく見られなかったため、公園を離れて県道23号線を寒河江市方向に進んだ。とにかく西に進めば月山の姿は常に視界に入るので、撮影に適した場所を探すにも便利だったからだ。

 写真は最上川を渡る直前の場所から月山を撮影したものだ。白い雲が山頂にかかり始めたので、寒河江に行く前に撮る必要性を感じ、県道の路肩に車をとめ最上川右岸の土手近くで撮影ポイントを探した。

 左のビニールハウスはさくらんぼ用のもので、正面の土手は最上川右岸のもの。その向こうに月山の雄大な姿が存在している。

 雲の峰 いくつ崩れて 月の山

 『おくのほそ道』に芭蕉の句は50あるが、その中でもこの句はかなり印象に残る作品である。月山の姿を見るまではそれほど良い作品とは思えなかったが、実際に月山を初めて目にしたとき、この句の宇宙観を理解することができた。「不易流行」が『おくのほそ道』で芭蕉が追い続けた俳句における世界観であるが、この句においても、数多くの積乱雲が頂点にまで発達せず(流行)、月山として結実した(不易)という有様が見事に表現されているのだ。

朝日連峰を眺める

 高台に移動した。写真のように、西側には大朝日山を中心とする朝日連峰の山々も見られた。広義では月山も朝日連峰に連続すると考えられるが、狭義には、朝日連峰朝日山地)は隆起山地であるのに対し、月山は火山活動によって生まれたものなので「月山・朝日山地」と区別される。なお現在では、後者の考え方が主流になっている。

さくらんぼの里

 寒河江市(さがえし)の名を聞くとすぐに「さくらんぼ」を連想し、私が訪れた「さくらんぼの里」の石碑にも「名産日本一」とあるが、実際には、寒河江市の生産高は山形県でも第3位である。もっとも、山形県さくらんぼの収穫量は第2位の北海道の8倍、第3位の山梨県の10倍と他を圧倒しているので、山形で第3位ということは日本でも第3位であることは確実だ。

 日本一は言い過ぎかもしれないが、山形には「日本一公園」があるくらいなので、多少の誤差は十分に許容範囲であろう。あるいは生産量ではなく味が日本一かもしれないので。

山寺方向の眺め

 この「さくらんぼの里」の正式名称は「寒河江公園つつじ園」ということで、斜面には数多くのツツジが植えられている。その向こうには寒河江市街が見え、さらに最上川が造った山形盆地が広がり、その先に奥羽山脈の山並みが続いている。

これは出来が悪そう

 さくらんぼ畑を探した。別に盗み食いが目的ではなく、ただ山形の代表的農産物を目にしたかっただけである。ネットが張られているハウスの中にはサクランボが実っていたが、写真のものは身の付きがあまり良くなく、そんなことはしないけれど、盗み食いをする気持ちにもなれなかった。

これは美味しそう

 一方、写真のものがなかなかの実り具合で、これならば食べてみたいような気がした。

◎瓜割石庭公園

石切り場

 この日の宿泊地は奥羽本線高畠駅構内にあるホテルだった。今回の旅の最後の宿だ。本当は米沢市内に泊まる予定であったが、目ぼしいところはすべて満室だったことから高畠にしたのだ。もっとも、米沢市内までは南に10キロ弱なので、旅の最後の見学地である米沢城跡まではさほど遠くはない。

 折角、行ったことのない高畠に泊まるので、周辺に面白そうな場所がないかと調べてみたところ、ここに挙げた「瓜割石庭公園」が見つかった。写真にあるように、単なる石切り場跡なのだが、その壁面に特徴がありそうなので出掛けてみることに次第だ。

 ここでは「高畠石」が1923年から2010年の間に切り出されたそうだ。高畠石の名前は初めて聞いたが、「大谷石」と言えばかなり多くの人が認知していると思う。

 火山灰や砂礫が海中に沈殿・堆積しそれが凝固してできた石で、軽石凝灰岩とか浮石凝灰岩に区分されている。軽くて柔らかいので加工しやすい反面、耐火性や防湿性に優れているため、家の壁や塀などによく用いられている。古墳時代の石室もこの軽石凝灰岩でできているものが多い。

安全を祈願

 石切り場はとても危険で重量なことからか、写真のように安全を祈願するために多くの石仏が置かれていた。

石切り場の内部

 石切り場の内部はよく整備され、ここではいろいろなイベントが開催されるらしい。

 現在でも細々と石は堀り出されているそうだが、私が訪れたときには何も作業は行われていなかった。高さ30mの崖にはまだまだ多くの石が眠っているようである。大谷石のように地下から掘り出した結果、地面が陥没するといった事故が発生するという心配がないのが何よりである。

◎旧高畠駅~山形交通高畠線の名残

高畠駅

 写真の旧高畠駅は、1922年から74年でまで運行していた山形交通高畠線のもので、私がこの日に宿泊するJR高畠駅とは4キロ近く離れている。

 その高畠線は糠ノ目駅(現在の高畠駅)から二井宿との間、10.6キロを結んでいた。この地域は製糸業が盛んであったことからその運搬のために開通された。1929年には電化されたので、それなりに賑やかな路線だったのかも。

 ところで旧高畠駅舎だが、写真からも分かるように高畠石がふんだんに用いられている。この石は時を経るにつれて黄土色に変わってゆく。それゆえ、建物には重厚さを感じることができる。

かつて使用されていた車両を展示

 旧高畠駅の隣には広場があり、そこに写真のようにかつて使用されていた車両が展示してあった。前方は貨車をけん引する機関車で「モハ1」と呼ばれていた。一方、後方には客を乗せる電車で「ED1」と名付けられていた。いずれも、高畠線が開通したころから使用されていた車両である。

駅前広場は格好の遊び場

 駅前広場は写真のように結構な大きさの敷地があり、私が出掛けた時には小学生が5,6人、広場の端で遊んでいた。

 美しい駅舎と時代を感じさせる車両。その双方との出会いは私の心を決して少なくないほど豊かにしてくれた。

 なお、廃線となった路線跡の多くは、サイクリングロード「まほろば緑道」として整備されている。

◎亀岡文殊~日本三大文殊のひとつ

山門

 亀岡文殊(松高山大聖寺)は、旧高畠駅南側2キロほどのところにある。奈良の「安部文殊院」、京都の「切戸文殊」と並んで、日本三大文殊に数えられている。安部文殊は前を通っただけだが、切戸文殊は、本ブログの第75回で、天橋立を紹介した際に少しだけ紹介している。

 「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があるが、確かに「ノーム・チョムスキー」「エマニュエル・トッド」「マイケル・ハート」の三人が集まれば文殊菩薩には敵わないにせよ、相当な良き知恵が生み出されそうだ。一方、「森、麻生、二階」の三人が集まれば、金がらみの悪知恵しか生まれないだろう。ことほど左様に、ただ三人寄っただけでは良き知恵が生まれるとは限らないし、往々にして対立して喧嘩別れするのが落ちだろう。

なぜか八十八カ所の石仏が並ぶ

 文殊菩薩は「文殊師利」(モンジュシリー)と言われ知恵の菩薩と考えられ、慈悲の菩薩である「普賢菩薩」と並んで釈迦の脇侍(わきじ)を務めていた。

 知恵には縁遠い私であるし、また文殊堂をお参りしたぐらいでは知恵などつくはずはないと確信しているが、この境内を目にしたときになかなか興味深い風情を感じられたので、境内をじっくりと歩いてみることにした。

 まず最初に目に付いたのは、「四国八十八カ所霊場」から分霊されたとする石像が並んでいる場所に立ち寄った。とくに理由はなく、駐車場のすぐ目の前にあったからである。

 とはいえ、本ブログでは何度も紹介しているように、四国八十八カ所といえば私の大好きな場所のひとつで、もちろん、例によって訪れはするが参拝はしないものの、今までに何度となく出掛けているし、今年も5月に西四国見物をする予定なので、その際にも十数カ所の札所を見物するつもりだ。

すべてに霊場の名が刻まれている

 弘法大師像の隣から、一番の霊山寺から八十八番の大窪寺までの名前が刻まれた石像が並んでいる。寺の名前に触れただけで確固たるイメージが湧く場所、これが「本当に札所なの」としか考えられない場所、まったくと言って良いほど印象に残っていない場所、札所で出会った人々との会話など、いろいろな事柄が懐かしく思い出された。

これが本当の石灯籠

 参道の脇には、写真のような見事な石灯籠があった。大きな地震が来れば倒壊は必至だと思われるが、文殊の知恵で設計されているので、その点は了解済みなのかもしれない。

信夫の里の独国和尚像

 独国和尚は写真にあるように宮城県の女川出身で、1824年に女川山の尾根伝いに三十三観音碑を建てたことで知られている。晩年は福島の信夫山の麓で過ごしたことから「信夫の里の独国和尚」と呼ばれた。

 若い時は亀岡文殊のある松高山・大聖寺で修行したので、参道には和尚の石像が置かれている。

 私が気になったのは、その横にある「徳一上人碑」だ。「会津の徳一」と称された上人は807年に中国五台山から伝来した文殊菩薩平城天皇の勅命でこの地に安置した。

 もっとも、徳一は最澄との「三一権実論争」があまりにも有名なので、徳一側に味方する私としては、そのことばかりに関心を抱いていたので、彼と文殊菩薩との関係は、この地に来て初めて知ったことである。

 『法華経』を根本経典とする最澄は「一切悉皆成仏」という一乗論をとるのに対し、法相宗の立場をとる徳一は、声聞、縁覚、菩薩には悟りの境地は異なるという三乗説を主張した。これは論争というより、最澄が徳一にあてた手紙からそうした違いが明らかになったもので、特に両者間で論争があったわけではない。

 私はいくつかの資料を当たってみたが、どう考えても徳一の考えが正しいと思われたが、日本的な仏教としては最澄の考えのほうが分かりやすい。何しろ「草木国土悉皆成仏」といって、草や木、土にまで仏性があるというのだから。そうであるなら、修行などはまったく不要になってしまうのだ。いや、信仰心すら無用である。何しろ草や木や土には心識はないはずなので。

ここにも芭蕉の句碑が

 芭蕉の句碑があった。写真にある句だが、芭蕉がいつ詠んだのかは不明だ。彼の句としては凡作に属すると思われる。『おくのほそ道』にある50作品に比べると相当に見劣りがする。鬼才、芭蕉連句師として無数の作品を残しているので、このレベルのものも決して少なくはない。

十六羅漢

 参道の右手には、十六羅漢像があり、その後ろにかなり形の良い鐘楼堂があった。

本堂

 写真は、個々の本堂で、屋根の倒壊を防ぐための支えがやや邪魔に思えたが、それはそれで致し方ないことである。

清らかな水が誇り

 私は参拝する気持ちが全くないので、本堂の裏手にあるという清水を見にいった。写真のように「知恵の水・利根水」というらしいが、水道の蛇口のようなところから水が出ていたのには少し興ざめであった。

湧き水とエゴの花

 その利根水は小さな流れを造っていて、その清水の上にエゴの木の花が数多く浮かんでいた。私としては、知恵に恵まれなくとも、この姿を見られただけで十分に満足できた。

三尊

 本堂を一周して、参拝場所に再び出てきた。折角なので、大日如来(中央)、虚空蔵菩薩(左手)、普賢菩薩(右手)を眺めてみた。もう少し近づけば虚空蔵菩薩の顔が蝋燭に隠れてしまうことはなかっただろう。

 私が、いかに仏像を尊顔する気持ちが全くないという証拠写真でもある。

かなり侘しい大師堂

 参道には、写真のような大師堂があった。四国八十八カ所霊場を巡ることが大好きな私だが、これほど見栄えのしない大師堂を見た経験はまったくない。そのことがかえって新鮮な思いを抱くことになった。

名前は知らねども

 参道には、いろいろな姿の仏像が置かれていた。その中でも写真のものは白眉の存在であった。きっと、有名な僧がモデルになっているのだろうが、恥ずかしながら私の知識では名前は浮かばなかった。文殊堂にやってきて、何も拝まずに帰ってゆく不信心者には、さしもの文殊菩薩も知恵を授けることはできなかったようだ。

参道に並ぶ石仏

 参道には、いろいろな姿の石仏が置かれていた。すべて表情が異なるので、一体一体の姿をじっくりと眺めた。信仰心がない私のような人間にも、ここの石仏群には心を洗われる心地がした。

 そういえば、知恵のお寺ということで、合格祈願のお札が数多く納められていた。個人名が表記されていることもあって写真撮影はおこなわなかったが、苦しい時の「仏頼み」は決して卑しい行為ではないことは確かだ。

 この寺ではないが、国立市にある天神様も「学問の神様」として受験生やその関係者が数多く訪れることで知られている。私はたまたま受験シーズンのときにその場所を訪れたが、無数に奉納された合格祈願の札を見て回った。その一枚に「合格祈願」の格が木編ではなく人偏になっているものがあった。私の知識ではそれが間違いか否かは不明だが、おそらくこれを捧げた受験生は不合格だったに違いない。

 しかし、たかが受験である。失敗ぐらいは蚊に刺された程度のことだ。ただし、基本的な漢字ぐらいは正しく覚えよう。

◎米沢城跡公園を歩く

上杉鷹山座像

 今回の東北の旅の掉尾を飾るのは「米沢城跡」である。当初は折角なので、最後は会津若松にしようと考えていたのだが、翌々日に急用が入ったため最後の宿は高畠駅構内にあるホテルとなった。

 米沢城跡の前は何度か通ったことがあったが、城跡内に立ち寄るのは今回が初めてだった。旧二ノ丸にある駐車場に車をとめ、城の本丸跡を目指した。駐車場のすぐ近くには上杉神社の摂社である松岬神社があった。ここは上杉鷹山上杉神社から分祀するために建てられたもので、のちには直江兼続なども配祀された。

 その神社のすぐ近くに、写真の上杉鷹山の座像があった。鷹山と言えばすぐに藩政を立て直した名君として知られ、内村鑑三の著書『代表的日本人』で取り上げた5人の中に選ばれている。

 もっとも、私は個人的には本ブログの第98回で紹介した山田方谷のほうが圧倒的に優れた改革者だと思っている。

舞鶴橋の欄干の不思議な形の岩

 写真の舞鶴橋は二ノ丸と本丸との間にある堀に架けられたもので、この橋が大手口となる。なお、舞鶴の名は米沢城の別名が舞鶴城であったことからそう呼ばれるようになったとのこと。

 私は、橋の欄干に写真のような不思議な形をした岩が置かれていることに興味を抱いた。橋の長さは5m、幅員は7mと長さよりも幅のほうが広いという特色を有するが、そんなことより欄干の親柱に用いられている奇岩のほうがはるかに私の目を釘付けにした。

本丸内に入る

 本丸内に入ると、真正面に上杉神社の姿が目に入った。大きな灯篭の脇には「昆」と「龍」の文字が記された大きな旗が掲げられていた。これはもちろん、上杉謙信にちなむもので、彼は戦の際には必ず、この文字を記した旗を掲げていた。

 昆は軍神の毘沙門天を表わし、龍の文字はあえて「懸かり乱れ龍」の文字で書かれていて、不動明王を表している。謙信は真言密教に造詣が深かったことから、この二神を尊崇していたのだろう。

上杉神社

 大鳥居をくぐって上杉謙信が祀ってある上杉神社境内を少しだけ散策してみた。

 上杉謙信にはさほど興味を抱いてはいないが優れた武将であったことはいくつかの資料を当たってみるだけでその能力の高さを見て取ることが出来る。天下を取るだけの才はあったが、しかし、時代が悪かったし、越後を地盤としたこともその能力を十分に発揮できずに病没することとなった。

 何しろ、南西には武田信玄が、南東には北条氏康という、やはり謙信に勝るとも劣らない名将が同時期に存在したことも、謙信が苦労せざるを得ない情況を生んでしまったのである。

 もっとも、そうした名だたる武将が各地に存在したことで、ある種、彼らを華やかに見せたという側面も否定できない。言ってみれば、「面白い」「興味深い」時代であったればこそ、戦国時代の歴史を語る人々が彼らを名将に仕立て上げたことは事実である。つまり、混乱が名将を生んだのであって、名将が混乱を生んだわけではないというのが、歴史の正しい理解の仕方だと私には思われる。

 豊臣秀吉だって、今の時代に生まれていれば、ただのサルとして生涯を終えた蓋然性は極めて高い。

上杉鷹山立像

 神社の近くにも、上杉鷹山の像が置かれていた。彼の「なせば成る~」の言葉はあまりにも有名ではあるが、まあ、彼の政策がそれなりの結果を出したからこそ、この言葉の意味が価値あるものと解釈されるのであって、私のような凡人が何かをなしたとしても、誰にも評価はされない。もちろん、私にはそれで十分なのだけれど。

上杉謙信

 上杉鷹山以上に知名度の高い謙信だけに、やはりこうして立派な銅像が設置されている。

上杉景勝直江兼続

 謙信には実子がいなかったので、彼が病死したのちに家督相続の争いが起こり、その結果、上杉景勝が後を継ぐことになった。彼は豊臣秀吉五大老の一人として会津に入封したときは120万石の大大名であり、米沢6万石は配下の直江兼続に任せた。

 しかし、関ヶ原の戦いでは石田三成側の西軍に立ち、徳川側についた最上氏と争ったことで、景勝は30万石に減封されて米沢の地に入った。大幅に領地は縮小してしまったが、景勝は配下の者をすべて引き連れて米沢に入った。

 そこで、直江兼続は食料を増産するために最上川流域を整備して田畑を増やし、実質的には51万石の生産高を確保した。

 こうした景勝と配下の兼続との関係は非常に良好であって、兼続の功績によってなんとか米沢藩は人減らしをせずに維持することができた。こうした兼続は歴史通の人には良く知られる存在で、2009年のNHK大河ドラマ天地人』の主人公になった。

 なお上杉神社の隣には稽照殿(けいしょうでん)が1919年に、焼失した上杉神社の再建とともに創設された。ここには謙信の遺品をはじめとして景勝、鷹山の遺品だけでなく、直江兼続に関するものも数多く展示されている(らしい)。

 私が訪れた日には直江兼続展が開催されていた。結構な数の人が稽照殿に吸い込まれていったが、それだけ、直江兼続の存在、大河ドラマの影響は大きかったのだろう。ここ数年の作品は見る影もないが。

      *    *    *

 こうして、私の東北地方14泊15日の旅は終わった。6月から10月はほぼ鮎釣りに没頭するために観光の旅はほとんどしない。3月は近場を訪ね、4月は草加から松島まで、芭蕉の足跡を追う旅を予定している。もっとも、寄り道のほうがおおくなりそうだけれど。

〔108〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(3)象潟から酒田、そして月山へ

西施像。あまり美人には見えないけれど

◎象潟や雨に西施がねぶの花(芭蕉

蚶満寺(かんまんじ)にある芭蕉

 「江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟(きさがた)は憾む(うらむ)がごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。」

 芭蕉が「おくのほそ道」に出掛けた際、とくに目にしたかったのが太平洋側の松島と日本海側の象潟(現在は「きさかた」と清音で読む)であった。ともに歌枕として名高い場所であるが、松島はそのあとに平泉や出羽三山などに立ち寄っているので当然、立ち寄るべきルートの内にあったが、象潟は酒田(最上川の河口)からわざわざ北上して足を伸ばしている。それだけ、芭蕉にとって象潟は重要な場所だったのである。

 象潟の 桜は波に うづもれて 花の上漕ぐ あまの釣り船

 この歌は、芭蕉が敬愛してやまなかった西行の作品である。そうした場所であるからこそ、彼はわざわざ北へ向かったのだろう。ちなみに、おくのほそ道の最北点がこの象潟である。

象潟は、おくのほそ道ではもっとも重要な場所のひとつ

 私が象潟を知ったのは、16歳の誕生日を迎える約ひと月前のことだ。担任が勧めるままに入った学校は自宅から一時間半掛かり、しかも都内にあるので満員電車を乗り継ぐ必要があった。入学してからひと月もたたないうちに学校には絶望し、毎日、遅刻、中抜け、早退を繰り返していた。

 が、国語教師の授業だけはなかなか面白く、あまりさぼらずに出席した。教科書を無視して好き勝手に授業を進めるその教師は、『おくのほそ道』を教材に使い、件の「象潟」の句について詳しく解説したのだった。とりわけ、この句に登場する中国四大美女の一人である西施の悲しい生涯についての話が興味深かった。

 私は中学を卒業するまで、本というものを全く読まなかったので、私が本らしきものに接したのは『おくのほそ道』が初めてだった。ちなみに、2冊目はプラトンの『ソクラテスの弁明』、3冊目はデカルトの『方法序説』だった。

 私はこの時期、まったく思いもよらなかった初恋が成就し、駅や街、そして彼女の家でとりとめもない話をするのが唯一の喜びであった。口数の少ない彼女は私の話をよく聞いて笑ってくれていたが、私自身、女性との話は結構、苦手だったため、ほとんどとりとめのない内容ばかりだった。

 彼女は中学校でも評判の美少女であった。そのため、私は彼女と西施の存在が重なって思えるようになった。そして西施の生涯が悲惨であったのと同様、私のようなサル人間と付き合うことは彼女には不幸なことだと考えるようになったのである。

 そんなこともあって、私は現実からの逃避先を求めていたのだが、象潟の存在を知った時、私はその地を徘徊先に選んだ。最小の荷物とお金をもって、学校を抜け出して午後に上野駅に向かった。象潟へ行く路線をきちんと調べていなかったが、とにかく北を目指すには上野駅発の列車に乗れば何とかなるだろうと安易に考えていたのだ。

 持ち金から考え、普通列車にしか乗れないことは分かっていた。結局、その日は宇都宮駅まで行き駅舎内で一夜を明かした。その駅に置いてある時刻表で調べると、象潟に向かうには新潟経由が良いということが分かった。そこで、郡山から磐越西線を使って新潟を目指すことにした。が、なぜか会津磐梯山の姿を見たくなったことから途中下車してしまい、しかも6月中旬なので雨が強くなり、山は見られないし、傘はないし、人家もほとんどない場所に出てしまったため、その日は会津若松まで行くのがやっとのことだった。ここでも駅舎内に泊まった。

 磐越西線は本数が少なかったこと、次第に体力や気力が衰えてきたことから、翌日は新潟駅に到達するのがやっとだった。しかも新潟駅では終電後は駅舎が閉鎖され始発まではそこに立入ることは不可だった。仕方なく私は雨中、駅の近辺を徘徊し、何とか雨がしのげる公園を見つけ仮眠をとることにした。

 そんな時、警察官がやってきて職務質問された。明らかに家出人と思われ、実際、家出人とほぼ同様の存在であったのだが。私は学校から発行された身分証を持っていたために署に連れてゆかれることは回避でき、始発列車で自宅へ帰ることを条件に、解放された。この件があったことから象潟行きは断念を余儀なくされた。以来、ますます学校への足は遠のき、遂には自主退学することとなった。

 肝心の象潟行きと言えば、18歳になってからすぐに運転免許を取得し、まずは伊豆半島巡りで運転技術を磨き、その年の秋に宿願の象潟の地に足を踏み入れることができた。その翌年の夏に再び出掛け、「ねぶの花」=ねむの花咲く象潟の風景に接した。西施は居なかったけれど。 

蚶満寺(かんまんじ)の山門

 蚶満寺(おくのほそ道では「干満珠寺」と表記されている)の開基は不明だが、慈覚大師円仁が整備されたとの言い伝えがある。

 現在ではこの寺の境内へは歩いて行くことが出来るが、能因法師(10~11世紀)や西行(12世紀)、それに芭蕉がこの寺を訪れた時(1689年)には、いずれも船で寺に至っている。

 象潟の地は2500年前に起きた鳥海山の大噴火にともなう山体崩壊によって岩屑雪崩(がんせつなだれ)で海が埋まり、それが波による浸食を受けて入り江が形成された。大きな岩は流れ山となって数多くの島(九十九島、つくもじま、くじゅうくしま)が入り江に浮かび、それが東の松島と対比されるような景観を呈したのである。

 やがて入り江は砂州に囲まれ、古象潟湖と呼ばれるような姿になった。それゆえ、能因も西行芭蕉も、寺の境内には船で渡ったのである。

 しかし、1804年に発生した象潟地震マグニチュード7から7.5と推定されている)によって地面が2mほど隆起したため象潟湖は干上がり湿地帯となってしまったのだ。

 これは正月に発生した能登地震と同じような逆断層によるズレによって地面が隆起したのである。今回の地震では輪島では5mほど隆起したが、象潟地震では2mほどだったと推定されている。

 ともあれ、現在、私が見た象潟は芭蕉が目にした姿とは全く異なっているものの、周辺を散策すると、かつてはここが水の上にあったことを推察することは可能だ。 

蚶満寺の庭園

 寺の境内には、写真のような池が造られている。この姿は、おそらく湖上にあった古えの姿を再現しようと造成されたものと思われる。

 先述したように、蚶満寺の来歴には不明な点が多いが、鎌倉時代に執権の北条時頼から田地の寄進を受けているので、出羽の国ではそれなりによく知られた寺だったと考えられる。

 この寺は六郷家が支配する本荘藩の領地であった。藩の財政にゆとりななくなった時に象潟地震が発生し、先に触れたように象潟の湖は隆起して湿地帯になった。そこで、藩では九十九島(九十九森とも)の豊かなクロマツの森を伐採し、水田として利用して藩財政の立て直しを図ろうとした。

 これに反対したのが蚶満寺24世の覚林で、彼は京に上り閑院宮家に嘆願して、寺を宮家の祈祷所にしてもらうことになった。安易に象潟の開発をさせないという目論見であった。この覚林の動きに激怒した六郷家は、覚林をひそかに捉え浪人として獄死させたのであった。

 これにより象潟の水田開発は進んでしまったものの、なんとか多くの森は残されることになった。命を懸けた覚林の勇気ある行動が、どうにか豊かな自然を守ることが叶い、現在、陸地化してしまったとはいえ、かつての面影を残すこの地、すなわち、能因が西行が、そして芭蕉が愛してやまなかった象潟の風景を心の中でイメージすることが出来るのである。

西施像

 中国の春秋時代、越国の勾践(こうせん)と呉国の夫差(ふうさ)は、海水の大逆流で有名な銭塘江を挟んで対峙していた。会稽山(かいけいざん)の戦いで屈辱的な敗北を帰した勾践は汚名をすすぐため、領地から美女を集めて夫差に送り、彼を骨抜きにしようと策略した。その中の代表的な美女が西施であった。

 勾践の思惑通り、夫差は美女に溺れ政治がおろそかになったために越国の勾践は「会稽の恥」をすすぐことができたのだった。反面、西施は袋に入れられ長江に捨てられるという運命となった(諸説あり)。

 西施は胸を患っていて、苦しさで何度も顔をひそめることがあった。それが一層、美しさを際立たせるということを知った近所の醜女が、西施の真似をして顔をひそめたところ、より醜く見えたので皆に笑われた。この逸話は「ひそみにならう」という言葉として現在でもよく用いられる。

 その他、呉越の戦いでは、「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」など、故事成語として今でも生きている言葉がある。

 写真の西施像が美しく見えるかどうかは議論が分かれるところだろうが、冒頭に挙げた白い衣服を羽織った像よりは愛嬌があって良いかと思う。まあ、日本の「おかめ」だって一時は美人の代名詞として使われたことがあるので、美醜は価値観の相違ということになろうか?

象潟の記念碑

 象潟の地は、1934年に国の天然記念物に指定されている。写真は、それを顕彰するために建てられた記念碑。碑には「紀年」の文字を用いているが、現在では「記念」を使うことがほとんど。しかし、意味はまったく同じなので、何の問題はないし、「紀年」と記されていることで、かえって歴史を感じさせる。もちろん、下の「潟象」も古えの記し方である。

 碑全体が傾いていることもあいまって、時代を感じさせる良い記念碑だといえる。

芭蕉が訪れたころは入り江だったのだが

 写真のように、原っぱや水田の中に流れ山が数多く並んでいる。いずれも、鳥海山の山体崩壊によってこの地まで運ばれてきた「流れ山」で、かつてはその一つ一つが小さな島を形成していた。

流れ山が造ったかつての島

 それぞれの流れ山にはクロマツが大きく成長し、小さな「島」に大きなアクセントを与えている。

かつての島も今は田畑の中の丘

 写真の流れ山のように全体が木々で完全に覆われたものもある。九十九島の別名が九十九森であったことがよく分かる流れ山のひとつである。

 こうした「流れ山」が、かつては入り江に浮かんでいたことを想像すると、確かに松島に比肩できるほど見事な景観だったのだろうが、仮にそのままの姿で現在残っていたとしても、やはり明るさを感じさせる松島に比べ、「寂しさに悲しみを加へ」るような印象を与える「陰の景観」だったと思われる。

 そういえば、私が初めて「自裁」を考えたのも、18歳のときに初めてこの景色に触れたときのことであった。

 無念なことに、徘徊老人となり果てるまで生きてきてしまったのだけれど。

羽越本線を走る列車

 次の目的地に行こうとしていたとき、すぐ横を走る羽越本線の列車が通り過ぎていった。もちろんはるか昔のことなのでこんなに奇麗な列車ではあるはずはないけれど、私が15歳の時に、きちんと下調べをして象潟への逃避行が成功していたならば、この羽越本線をつかって象潟駅に到着していた蓋然性は高い。

 そうであったとすれば、私はその時に象潟の海に消えていたかも。もっとも、私は泳ぎは得意なのでただの海水浴で終わったかも……

道の駅・象潟ねむの丘

 蚶満寺境内を出て羽越本線と国道7号線を渡り、少しだけ北方向に進むと、写真の「道の駅・象潟ねむの丘」に出る。

 1998年にオープンしたこの場所はとても敷地が広く、中心部には写真の建物がある。1階は物産館、2階はレストラン、4階は展望温泉「眺望の湯」、6階は展望塔というように、道の駅としては異例と思えるほど設備が充実している。蚶満寺には私のほか、一人だけ見物人がいたが、この道の駅には大勢の人が集まっていた。

 ところで、この道の駅は何故、「ねむの丘」と命名されているのだろうか?ネムノキはマメ科ネムノキ属の落葉高木で、日本では特別に珍しい存在という訳ではなく、私の近所の公園でもよく見掛けるほどありふれた存在である。それゆえ、ここがネムノキがとりわけ豊富という訳ではなく、やはり芭蕉の句に関係しているのだとしか考えられない。

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

 ネムノキは6,7月に水鳥の羽のようなふわふわとした花を咲かせるが、花芯近くは白く周辺に行くにしたがって淡いピンク色に染まる美しさをもつ。ただ、とても儚げに見える花であり、雨に当たるとすぐに散ってしまう。また、葉は小さな鳥の羽のような形をしており、羽状複葉なので夜になると葉を閉じる就眠運動をおこなうことで知られている。

 こうしたネムノキの特性を西施の生涯に結び付けた芭蕉の句は、傑作という以外に言葉が浮かばない。芭蕉が師と仰いだ西行の和歌を先に紹介したが、その歌は西行でなくとも作れそうであるが、芭蕉の句は、彼以外には決して生み出すことはできなかっただろう。

 西施が胸を病んでいてしばしば目を閉じるような仕草をしたこと、絶世の美しさを有してたゆえ、戦争の「道具」に用いられたことなどを完全に理解していたからこそ、西施と、「寂しさに悲しみを加へ」た象潟の地勢と西施とをネムノキを用いて両者を結びつけることができたのだ。

 ねむの丘の建物の裏手(海岸線側)には象潟公園が整備され、その中央に冒頭に挙げた西施像が置かれていた。ただ、残念なことにその像に目を向ける人はほとんどいなかった。

象潟漁港

 天気に恵まれれば象潟漁港からは鳥海山がよく見えるのだが、この日は雨雲が分厚く空を覆っていたので、山は裾野までも姿を隠していた。

 そういえば、西施は大根足が唯一の欠点であったため、常に裾の長い衣を身に着けていた。そんなことを思い出したためもあって、裾野まで雲を纏った鳥海山もまた一興のように思えた。

◎吹浦の十六羅漢

吹浦港高台にある芭蕉句碑

 吹浦にやってきた。芭蕉は酒田から吹浦を通って象潟に向かったが、私は象潟から南下して吹浦に立ち寄ってから酒田に向かった。

 あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み

 芭蕉はこの地(山形県遊佐町吹浦)を題材にして上の句を詠んでいる。温海山(標高736m)は、鶴岡市のさらに南にある山で位置としては月山の西隣にある。それゆえ、この句は吹浦で詠んだというより、酒田の沖に舟を浮かべ、夕涼みをした体験を元に作ったと考えられる。酒田は北の吹浦と南の温海との中間に位置する町だからだ。吹浦という名から夕涼みに適した柔らかな風が、芭蕉には心地よかったのだろう。

 写真の句碑は、酒田ではなく遊佐町にある吹浦港の北側にある高台に設置されていた。ここは下に挙げる「十六羅漢岩展望台」近くの広場であり、羅漢岩を見学する際には、この広場に車をとめるのがもっとも便利なのだ。

吹浦の出羽二見

 吹浦漁港の北側の海岸線に、写真の「出羽二見」と名付けられた岩が並んでいる。これは伊勢の二見ヶ浦の岩に似ていることから、それになぞられて名付けられた。二つの岩を結ぶ注連縄は、漁師たちの海上安全を祈願して取り付けられたそうだ。

 5月と8月には、注連縄の中央に夕日が沈むといい、これを見た人には良いことが起きると言われているそうだ。もっとも、中央と言っても見る角度によって時期は異なると思うのだが。きっと、どこかに見るべき場所が定められているのだろう。

羅漢像その1

羅漢像その2

羅漢像その3

羅漢像その4

羅漢像その5

 私はこの場所にきたのは出羽二見を見るためではなく、岩場に彫られた十六羅漢岩を見学するためだった。上の5枚は、その羅漢像を見て回り、印象に残ったものを掲載した。

 羅漢とは、修行者では最高の位で、部派仏教(いわゆる上座部仏教)では、預流(よる)、一来、不還と上位にゆき、阿羅漢果(略して羅漢)を得ることが修行の最終目的を果たすことになる。

 大乗仏教では、最高の境地を得た16人の羅漢が有名で、稀に十八羅漢や第一回仏典結集に参加した五百人の釈迦の弟子を五百羅漢ということがある。

 この場所には、十六の羅漢だけではなく、釈迦、文殊菩薩普賢菩薩、観音、舎利仏、目蓮の6つの像もあり、合わせて22の像が凝灰岩に刻まれている。

 これは吹浦海禅寺21世の寛海和尚が1864年に、遭難した漁師の諸霊の供養と海上安全を願って発願したもので、5年の歳月をかけて完成させた。和尚自らは托鉢をしながら石工たちを指揮した。

 完成してからは160年以上の歳月があり、日本海は冬期には荒波が諸像を襲い、合わせて岩はややもろい性質があるために形が崩れているものも多かった。

 私には、3枚目に取り上げた写真がもっとも気になった。といっても、羅漢像そのものより、その後ろの岩がサルに見えたからである。これは不信心のなせる業で、信仰心に厚い人には、そんなものには目が行かないと思う。

◎酒田港日和山公園と山居倉庫

ここにも芭蕉像があった

 酒田市街にやってきた。最上川の右岸にある日和山山頂には公園が整備されている。日本各地の港の近くには日和山と名付けられた高台が数多くある。この高台から海の様子を観察して、帆船が出航できるか否かを判断する。すなわち、日和を見極める場所なので、高台は日和山と呼ばれるようになったのである。

 現在は最上川河口には長い堤防が整備されているのでこの場所から河口付近を観察するのはやや不便である。もっとも、今では帆船はないし、日和も気象台が調べているので、日和山としての役割は終え、現在ではそれなりに広く見晴らしの良い公園としてよく整備されている。

芭蕉の句碑

 最上川の河口と言えば、芭蕉の次の句があまりにも有名であり、公園内には写真のような芭蕉像と句碑が置かれている。

 暑き日を 海に入れたり 最上川

 この句の初案は 「涼しさや 海に入れたり 最上川」であった。

 最上川を題材にした芭蕉の句では

 五月雨を あつめて早し 最上川

 があまりにも有名だが、この句の初案も「五月雨を 集めて涼し 最上川」であった。

 この二つの句とも、初案では「涼し」を使っていたが、最終的には「涼し」を双方とも外している。これは、芭蕉が「涼し」という主観性を排除し、より広大な世界を語るために別の言葉を使ったのである。こうした点が芭蕉の句が優れていることの証左になっている。

 芭蕉が師と仰いだ西行は和歌で自らの心内を素直に表現したが、芭蕉はわずか17文字で、単なる心象風景ではない宇宙観を表現したのである。人としての魅力は西行が勝るが、芸術的センスでは芭蕉のほうがはるかに優れていると私には思われる。

最上川河口方向を望む

 写真のように高台からは最上川の河口近くを望むことが出来る。先述のように現在は長大な堤防が沖まで走っているため、この場所は河口から2.4キロ遡ったところに位置する。

日枝神社の山王鳥居

 公園の隣に写真の下日枝神社があった。例年、5月20日に行われる酒田祭りは上・下日枝神社例大祭で、1609(慶長14)年から途絶えることなく続いているとのこと。

 日枝(ひえ)神社の名は、比叡山に由来しており、神仏習合の名残りがその名に留められている。

 私が関心を抱いたのは神社そのものではなく、写真の山王鳥居で、神明鳥居の上部に三角形の合掌、あるいは破風のようなものが加わっている点である。この形は東京都内にある日枝神社でも見ることができる。

 新品同様の鳥居だったので、少しだけ調べてみたところ、以前の木造のものは1964年に強風で倒壊したとのことで、現在のものは1981年に再建された。

 奥にある隋身門(髄神門とも)は歴史を感じさせる立派なものであると見受けられたが、私は不信心者なので、この山王鳥居の見物で満足した。

酒田の観光名所である山居倉庫

 酒田の観光名所としてもっとも有名なのは、写真の山居倉庫だろうか。私は酒田には何度も宿泊しているが、この倉庫群を間近に見て歩くのは今回が初めてである。酒田市内に宿泊するといっても、男鹿半島に行く途中で鳥海山に登り(車でだが)、そのあとに象潟に立ち寄って西施を偲んでから男鹿に向かう、あるいは鶴岡市の海岸線の沖にある磯に渡るため、または酒田市の沖に浮かぶ飛島に遠征するためのいずれかであって、町中を歩いたことはほとんどなかった。もっとも、山居倉庫自体はよく目に付く存在なので、酒田に泊まれば必ず視界には入った。

こちらが表側

 庄内平野日本海側有数の米どころで、その収穫した米を保管する倉庫が写真の「山居倉庫」である。酒田市の観光地としてはもっともよく知られている場所で、1893(明治26)年に旧藩主の酒井家によって建てられた。

 白壁、土蔵造りの倉庫は9棟あり、米18万俵(10800トン)が保管できるとのこと。ひとつ上の写真にあるように、倉庫内が高温にならないように南側にはケヤキが35本植えられている。今では樹齢は150年以上にまで生長しているため、このケヤキ並木単体でも十分に見応えがある。

湿気防止のための二重屋根

 倉庫の屋根は写真のように二重になっている。これは、内部の湿気を除去する働きをしている。

酒田では一番人気の景観

 新井田川に架かる山居橋から倉庫群を眺めるのが一番良い景観に思われた。2021年には国の指定史跡になったが、倉庫としての役割は翌22年に終えている。

 なお、建物の一部は観光物産館「酒田夢の倶楽」や「庄内米歴史資料館」に用いられている。

土門拳記念館

記念館の外観

 土門拳(1909~90)は1909年に酒田町(現在の酒田市)で生まれた。7歳の時には一家で東京へ、9歳の時には横浜に住んでいるので、酒田市との縁は短い。しかし、74年に酒田市土門拳酒田市名誉市民第一号に認定している。それだけ、写真家としての土門は数多くの名作を世に出しているからである。

 1980年に酒田市土門拳記念館の設立を決定し、83年に開館された。それにこたえ、土門は13万5千点にもおよぶ作品を記念館に寄贈している。もちろん、展示してあるのはその一部に過ぎないが、ほぼ全作品を貯蔵してあるのは写真家冥利に尽きるのではないか。

特別展示室

 私が訪れたときには、「名取洋之助土門拳」というテーマで二人の代表作が展示されていた。双方とも非常に強い個性の持ち主であった。1935年に名取が主宰する『日本工房』に土門が入社を許されたものの、39年には「喧嘩別れ」といった感じで、土門は日本工房を退社している。

 これはアメリカの『ライフ』誌に掲載された名取の作品の一部に土門のものが混じっていたことが切っ掛けとなっていたようだ。しかし、両人とも主義主張がはっきりしていただけに、いずれ分かれることは定めだったとも言える。

 しかし、喧嘩別れの状態になっていても、名取は土門の作品を、土門は名取の作品を、それぞれ激賞に近い形で評価し合っていたとのことだ。 

お馴染みの写真その1

 土門拳が最も愛してやまなかったのは1939年に初めて訪れた『室生寺』だった。

「たった一回の室生寺行が、ぼくに一大決心をなさしめた。日本中の仏像という仏像を撮れば、日本の歴史も、文化も、そして日本人をも理解できると考えたのである。」という言葉を彼は残し、それが1963年から75年に出版された『古寺巡礼』(全5巻)であった。

 78年には、初めて「雪の室生寺」を訪ねることができた土門は、上の一番左にある傑作をものにすることが出来た。

 ここに展示されている古寺の写真はすべて、あまりにも有名なので私が言葉を用いる必要はまったくない。

 私の姉が寺巡りが大好きだったこともあって、自宅には『古寺巡礼』が何巻か置いてあった。それを何度も目にしていたことで、私も長じてからは寺巡りが趣味のひとつになった。ただ土門のように、仏像から何かを引き出すような才能はまったくないため、私の写真に芸術性は全然といっていいほどなく、ただ単にシャッターを押しているというものばかりである。

お馴染みの写真その2

 この2枚の写真も、知らない人はほとんどいないと思われるほどよく知られた作品である。左が『筑豊のこどもたち』(1960年)、右が『ヒロシマ』(1958年)の代表作である。

 土門は「絶対非演出の絶対スナップ」をモットーに独自のリアリズム論を主張していた。その一方、「写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。そこが難しいのである。」とも語っている。

 それゆえ、彼の作品は「写真は肉眼を越える」という言葉通りのものが多い。

 私も仕事柄、「なんちゃってカメラマン」を数十年おこなってきたし、現在も本ブログのように写真を何枚も掲載しているが、腕のほうはまったく上達が見られない。「お前の写真は説明的で、学校の先生が撮るようなものばかりだ」と知人に言われたことがある。そういえば私は、「釣りバカ」一本筋になる前は学校の先生をやっていたのだった。現場では同僚からも生徒からも、もっとも先生らしくないと言われ続けたが、写真だけは先生らしかったのかも。それもダメレベルだったけれど。

サギも見学に来ていた

 記念館の横には大きな池があり、鳥たちもよく飛来していた。ときには、写真のようにサギも写真見物に来るようだ。今回のように特別展が開催されているとき、入場料は1200円となる。さすがのサギも詐欺を働くことはできないようで、このように場外から見つめるだけしかできないようだ。

いささか立派すぎる建物

 確かによくできた記念館であったが、こうした近代的な建物が土門拳には相応しかったのかどうかは少しだけ疑問が残った。

 もちろん、中身の問題ではなく、その佇まいである。なんとなく西洋美術館を想像させてしまうのだ。

 矢張り、土門拳の金字塔である『古寺巡礼』に倣い、お寺的な要素が欲しかった。あるいは、「山居倉庫」風でも……。

湯殿山総本寺瀧山寺大日坊

大日坊の山門

 出羽三山は西の熊野三山と並び称されるほど、古くから信仰の山として崇められていた。元来は自然崇拝の山岳信仰の地であったが、のちに仏教、道教儒教などが習合した修験道の山として無数の人々が、神々の峰、精霊の山としてこの地を訪れた。

 羽黒山(標高414m)は現世利益、月山(1984m)は死後の体験の場、湯殿山(1500m)は新しい命をいただく場所と考えられたようだ。羽黒山には出羽(いでは)神社、月山には月山神社湯殿山には湯殿山神社があり、芭蕉は当然ながらこの三社に詣でている。

 涼しさや ほの三日月の 羽黒山

 雲の峰 いくつ崩れて 月の山

 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもとかな

 信仰心はまったくなく、かつ体力もない私には山に登る気持ちを表出することはないが、せめてその麓ぐらいは訪ねてみようと、まずは湯殿山の遥か下方にある「湯殿山総本寺瀧山寺大日坊」(標高339m)へ出かけてみた。

 ここは「徳川将軍家祈祷所」を掲げているのであまりありがたくない気持ちもあったが、歴史は古く802年に空海が開山としたといわれる由緒のある寺なのである。かつては「教王喩迦寺」という寺号で、湯殿山が女人禁制であったために、空海はその麓に女人のための湯殿山祈祷所としてこの寺をひらいたのだとのこと。

 往時はかなり立派な建物が林立していたようだが、明治8年の火災によって焼失してしまったため、現在ある本堂などはその後に再建されたものである。しかし、山門(仁王門)だけは離れた場所にあったころから焼失を免れ、写真のように、歴史を感じさせる姿を今に残している。

 棟札には鎌倉時代のものが残されているが、専門家によればその造作などから、鎌倉時代以前のものと推察されている。開山当時のものかどうかは不明だが、1000年の時を経ていると考えても不思議ではない。

石仏群に魅了される

 下に挙げるように、本堂などは明治の大火以降のものなので、ごく普通の建物であってとくに目を惹くものはなかった。そうした建物群よりも、私は参道に並んだ写真の石仏群に関心を抱いた。この石仏はすべて表情が異なっている。それがどういう意味を有するのかは不明だが、それでもこの寺が掲げる以下の言葉に、この石仏たちが語る内容がしっかりと表れている。

 心を無にして瞳を閉じると 尊い仏の教えが聞こえてくる

本堂

 本堂はただ外から眺めただけ。相変わらずお参りはせず、少しだけ境内を散策した。大日坊といえば、真如海上人の即身仏があることでも知られている。他にも二体あったそうだが、それらは焼失してしまったとのこと。

 真如海上人は96歳のときに土中入定し、千日後に掘り出された。現代でも6年に一度、衣替えがおこなわれているそうだ。

 ともあれ、後述する月山も含め、神社には立ち寄らず、この大日坊訪問でお茶を濁した。湯殿山神社も、羽黒山の出羽(いでは)神社も、その近くまで道路が整備されているので、実際にはそれほど苦労せずとも訪ねることは可能だ。ただ、今回は時間の関係もあり、そちらは省略してしまった。再び東北を訪れることが可能であれば、次はその2つの神社を訪ねてみたいと思う。もちろん、参拝はしないけれど。

◎月山湖

月山湖の「月の女神」

 月山に向かった。それには国道112号線を使って、月山湖に至る必要がある。その湖の北側から国道112号線の旧道(六十里越街道)と県道114号線を北上すれば、月山湖スキー場まで車で行ける。旧道の入り口の標高は417m、スキー場の駐車場は1193mなので結構、高低差はある。その途中には、山形県立自然博物館(標高808m)があるので、そこにも立ち寄る予定でいた。

 その前に、月山湖(正式には寒河江ダム)のほとりで少しだけ散策した。休憩所には、写真の「月の女神」像があった。金色がこのモニュメントに相応しいかどうかは判断できないが、月山にはそれなりに似合うと、私には似つかわしくないやや甘めの判断をした。

大噴水

 月山湖でもっともよく知られているのは、写真の大噴水で高さ112mまで噴出され、これは日本一の高さを誇るとのこと。

 高さ112mの「112」は、いろいろな意味を持つ。寒河江ダムの堤高が112m、すぐ横を通る国道が112号線。これだけならそれほど感心しないが、ダム建設のために移転を余儀なくされた家が112戸となると、偶然にしてもあまりにも出来過ぎかと思える。そのためもあってか、この噴水の竣工は、11月2日の11時20分に敢えて設定したとのこと。

 この日は、この角度からでは光が足りないので、単なる水柱にしか見えないが、光の当たり具合では水たちは七色に輝くだろう。

こちらのモニュメントも気に入った

 別の場所には写真のモニュメントもあった。晴れ渡っていれば、モニュメントの背後には月山の姿が見えるはずだ。芭蕉の句の「雲の峰いくつ崩れて月の山」の通りの姿を月山はしている。私は、初めて月山を目にしたとき、すぐにこの句を思い出し、芭蕉の風雅な写実性に感心したものだった。

山形県立自然博物館

雪解け水が沢(石跳川)を生む

 私は月山を目指した。とはいってもスキー場付近までで、そこから頂上まではまだ比高は800mほどあるけれど。もっとも、山の姿を心に沁みさせるには、ある程度の距離が必要だ。例えば、私が富士山に登らないのは、登山道からは富士山の優雅な姿に触れることが出来ないからだ。とはいえ、本心は疲れるのを避けるためなのだけれど。

 標高808m付近に「山形県立自然博物館」があった。月山を目指す道からは少し離れるけれど、あえて立ち寄ってみることにした。月山登山は面倒でも、この自然博物館が整備した散策路は、月山が生み出した造形美の一端に触れることができる実に素敵な場所であった。

 写真のように山の雪解け水や伏流水が生み出した石跳川の清冽な流れに沿って散策路は続いており、トレッキング姿の老若男女が結構な数、訪れていた。私は軽装なので、ちょっぴり徘徊しただけだが、それでも十分に豊かな自然の中に身を置いていることを実感できた。

水芭蕉の群生

 写真のように、水芭蕉が群生している場所があった。水芭蕉のひとつひとつは決して美しいものとは思えないけれど、群生した姿は見栄えが全く異なり、集合美というものを表現してくれている。

山野草も多く咲いていた

 水芭蕉の咲いている場所は湿地帯に限られていたが、写真のオトメエンゴサク(ケシ科キケマン属の多年草)は至る場所に咲いていた。花言葉に「妖精たちの秘密の舞踏会」というのがあるが、それはそれはなかなか言い得て妙な表現であり、この場所に咲き誇るオトメたちはあらゆる場所で舞踏会を開催していた。

 私の目に簡単に留まるぐらいなので”秘密”でもなさそうなのだが。この花もまた、ひとつひとつではさほど目立たないが、これらが群生している姿は極めて艶なる景観であった。

残雪による造形美

 道々には残雪が多く、その中に朽ちかけた木々や岩たちが雪上に姿を現していた。写真の樹木は幹は枯れてしまったものの根は残り、そこから新しい枝を伸ばしつつあった。枝は雪の重みで曲がってしまっているもののその先は天上を目指している。光を求めて。

地蔵沼

 自然公園を出て県道に戻り、秋の紅葉が美しいと評判のある地蔵沼を少しだけのぞいてみた。もちろん、紅葉のシーズンではないので、ブナ林の緑が沼を囲んでいた。晴れていれば水面に月山の姿が映るはずなのだが、それが見られなかったのが残念ではある。

月山山頂を望んだのだが

 月山スキー場にある駐車場を目指した。スキーをする訳ではなく、少しでも山頂に近づきたいという一心であった。が、スキー場の姿は見えたものの、山頂付近は雲に覆われたままであった。

見えたのはスキー場だけ

 駐車場には結構な数の車がとまっており、雪上にも人の姿が散見された。私はスキーは生涯で2時間ほどしか経験した事がない。学校のスキー教室では、2時間程練習した後、無謀にも結構な角度の斜面を下ろうとしたとき見事に転倒し、足を捻挫したため、以後は宿泊所待機となったのだった。以来、スキーをやろうとは一度も思わなかった。

 思えば、学生時代に山中湖へスケートをしに行った帰りに中央道で大雪に見舞われて、見事にガードレールに激突したのであった。幸い、私を含めた4名に怪我はなかった。以来、スケートからも撤退した。それゆえ、私のウインタースポーツと言えば、磯での寒メジナ釣りを指すようになった。

 月山の山容を間近に見られなかったのは残念なことではあったが、その姿は頭の中にしっかり留めてあるし、雲に隠れていることは県道を走っている当初から、いや月山湖から望んだ時点から分かっていただけに、がっかり度はさほど大きくはなかった。

 次の日は山形市街や立石寺などを巡る。天気予報は晴れを告げていたので、月山の全貌に触れることは可能かと思われた。

 そうした期待を抱いて、私はスキー場から離れた。捻挫もせず、ガードレールに激突もせずに。

〔107〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(2)男鹿の地層や「なまはげ」に触れ、そして秋田市街へ

男鹿ならではの地層が見られる

◎半島の北端にある入道崎を見学

入道崎は半島の最北端に位置する

 男鹿半島の最北端に位置する入道崎にやってきた。眺めが良いだけでなく、磯釣り場が点在しており、のちに紹介する名礁の「水島」も存在する。この辺りは潮通しが良いので、釣り場としては魅力的だが、何しろ足場が低いためによほど好条件に恵まれないと磯に渡ることはできない。実際、私は何度もチャレンジしてみたものの、渡礁することはできていない。

 入道崎周辺は男鹿ではもっとも古い岩石から成り立っている。火山噴火物が固まってできた溶結凝灰岩は約7000万年前のものであり、一部には約9000万年前の花崗岩も残っている。

 日本海が出来始めたのは約2000万年前なので、この入道崎の前身はユーラシア大陸の東端にあった。恐竜が絶滅したのは約6600万年前なので、この辺りの岩場は恐竜が生きていた時代にあったことにある。

ここでも「なまはげ」がお出迎え

 入道崎の駐車場の近くには、写真のような店舗が並んでいる。ここでも男鹿名物の「なまはげ像」が出迎えてくれるが、「海鮮なまはげ丼」というのはいったい、いかなる代物なのだろうか。店舗の看板には「ウニいくら丼」とあるので、こうした海鮮品が盛られているのだろうが、もしかしたら、なまはげのミニチュアが添えられているのか、それとも店員がなまはげの恰好をしているのか少しだけ興味があったのだが、いざ、その実体を知ると「がっかり」する可能性が高いため、想像するだけに留めておいた。

灯台の配色はよく目立つ

 この入道埼灯台は「日本の灯台50選」に選ばれているが、確かに白黒の配色はなかなか素敵で、しかも夕陽を望むのには格好の場所に位置するため、選定された理由は十分に納得できる。

 入場料300円を払えば灯台に上ることはできるが、灯台に上らなくとも岬の先端部は標高22~33mあるので、周囲の眺めはすこぶる良い。

 なおこの灯台は北緯40度線上にあり、そのことを示す標識が置かれている。

岬の西側は浅瀬が続く

 写真のように、岬の西側の崖下には浅瀬が続いている。露出している岩礁が数多くあるが、沖にある横に長い岩場は周囲が比較的水深があるために磯釣りは十分可能で、実際、写真では少し分かりづらいが、2人の釣り人が竿を出していた。この日は凪が良いので、安心して釣りができそうだ。

標高僅か1mの水島

 秋田を好んで旅行をした菅江真澄はもちろん、この水島を目にしたはずだ。

 この島は標高1mしかないが、日本海は干満の差が小さいので、この日のような凪の日には渡礁してクロダイ釣りをすることが可能だ。入道崎からは660mの距離にあるが、島自体は、一帯が隆起したときに波蝕台となったその名残だろうか。

東側には急峻な崖が続く

 東側には急峻な崖が続く。崩れた溶結凝灰岩は荒波にさらされ、海岸線には丸くなった石が転がっている。この石は非常に硬く熱に強く一度熱すると冷えにくいので、石焼料理に用いられる。私も何度か、地元の釣り人にその石焼料理をご馳走になったことがある。

 ガスコンロで熱したフライパンで焼くのと同じことなのだが、やはりこの地ならではの石焼のほうが美味しく思えた。料理は舌だけで味わうのではなく、見た目や雰囲気でも味わいは随分と変わってくる。

 こうしたことは生成AIに読み込むことはできても、AIに実感させることは不可能である。

海底透視船乗り場

 4月中旬から10月までの季節限定だが、入道崎からは海底透視船が運行されている。写真に写っている水島との間を行き来するもので、海の底を眺めながら約30分の豊かな時間を過ごすことができる。様々な魚や海藻類の揺らめきなどとの出会いは良き想い出になることだろう。

この崖は「鹿落とし」と名付けられている

 この崖は「鹿落とし」と名付けられている。男鹿には多数の鹿が生息しており、ときには増えすぎてしまうことから、鹿たちをこの崖(海まで20から25mの高さがある)に追い詰めて海に落とすことで数を調節していたそうだ。今では多方面からの非難を受けるため、こんな営為はとてもできないだろう。

◎1500万年前の地層が見られる西黒沢海岸

西黒沢海岸の景観

 入道崎から次の目的地である西黒沢海岸に向かった。県道55号線(入道崎寒風山線)を西南西に4キロほど進むと、左手に海岸線に出られる細い道がある。小さな集落があるが、この道を使うのはそこに住む人か、西黒沢分港(畠漁港)に用事がある人か、私のようなその地の地層に魅せられた好事家ぐらいだろう。

 実際には、港には一人の漁師らしき人はいたが、海岸線を見て歩く”好きもの”は私だけであった。

広々とした波蝕台

 ここでは、写真のように約1500万年前の海底面が露出している。1500万年まえというと丁度、日本海が現在のような姿になった頃なので、海で堆積した地層をこうして目にすることが出来るのだ。

波蝕の様子がよく分かる

 波打ち際は段々になっており、波によって浸食された様子を見て取ることができる。

ここも大きな波蝕台だったのだろう

 目を少しだけ漁港方向に転じると、水面下ギリギリのところに広く、そして平たい沈み根を観察することが出来る。先に見た「鵜ノ崎」では岩場が洗濯板のようになっていたが、ここでは平らなまま残っていることから、この辺りは褶曲を受けていないことが分かる。

化石を探したのだけれど

 化石が多数発見されている場所なので、私も少し探してはみたものの、貝殻らしきもののほかは取り立てて特筆すべきものは見当たらなかった。資料によれば、ホタテガイの仲間、カキやウニ、松ぼっくりパレオパラドキシアというカバに似た哺乳類のあごの骨も発見されているそうだ。

 私にはじっくりと観察する能力が欠けているので、今までの長い人生でも「発見」というものを体験したことがない。ごく稀に未知のものに出会ってたと思っても、実は勘違いだったということがそのすべてで、せいぜいのところ、1円玉を見つける程度なのだ。

先端部はきれいに磨かれていた

 こうした地層面に出会うと、自然ほど芸術的なセンスを有しているものは存在しないということが理解できる。所詮、人間が生み出したものは、どんなに優れた作品であっても、せいぜいのところ、自然にとっては「染み」程度のものでしかないのだろう。

 もっとも、その「染み」ですら私には生み出すことはできず、はたまた、その「染み」にも、ときには大きな感動を受けてしまうのだが。本ブログで言えば、第80回で取り上げたリヴィエールの『エデンの園』のように。

◎安田(あんでん)海岸も地層の宝庫

50万から8万年前の地層が見られる安田(あんでん)海岸

 写真の安田海岸は、北浦と五合里との間にある。と言っても、地元の人以外はそれだけでは全く場所の見当が付かない。前回に男鹿半島の成り立ちに触れた際、半島は元々島であって、北側の米代川と南側の雄物川が運んだ土砂が砂州となって陸繋されてできたと説明した。その北側の砂州が伸びたところに五合里海水浴場があり、そのさらに先にあるのが安田海岸だ。

 それゆえ、西黒沢から安田までは直線距離で10キロ、実際には車で県道55号から国道101号を東に進み、浜田集落に入ってから左折して海岸線に出るため、実際には13キロほどの距離になる。もっとも、この辺りの道は混雑とは無縁なので、時間的には20分もかからずに移動できるのだが。

 海岸線には狭い駐車スペースがあるが、そこには地質に興味がある人しか訪れることはない(海水浴シーズンは別だろうが)ので、私が行ったときには他の車は見掛けなかったし、砂浜にも人影はなかった。というより、砂浜には人の歩いた足跡さえまったくなかった。

整然と並んだ地層もある

 駐車スペースから海岸に降りて、地層がよく見える場所まで数分、歩くことになる。それはどうということはないのだが、途中に小川があり、私の行く手を遮った。後で調べて分かったことだが、解説にはしっかり「途中に小川があるので、長靴の用意が必要」という但し書きがあった。

 小川の幅は狭いところで3mほどで、河口付近では浅いが幅は相当に広くなる。おまけに砂浜なので、足を取られることは必定だ。といって、幅の狭い場所は流れはやや早く、深さもそれなりにある。55年前なら私はスポーツが得意だったので、走り幅跳びの要領で飛び越えることは可能だろうが、今ではその半分の長さでも超えることは不可である。

 周囲を見回した時、太さが15センチで長さが3mほどの枝木が見つかった。それを渡せば良いと思ったのだが、それはなかなか重く、渡そうとしても流れに押されて向こう岸まで届けるのに難儀した。ただ、その枝はへの字の形だったので、向こう岸近くのに底に差すことは可能だった。ただ、それだけでは私が枝に乗ったときに動いてしまうので、周囲にあった細い枝を何本か集めて枝を固定した。その甲斐があって、私は小川を渡ることが出来た。なお、その太い枝は帰りにも必要があるため、流されてしまわないように渡った側の岸に引き上げておいた。そんな苦労の甲斐があって、私は上の写真のような地層を目にすることができたのだった。

 ここの地層は1万年から160万年前のものを見ることが出来るが、主なものは8万から50万年前の「鮪川(しびかわ)層」という砂層が主体のもので、その間に泥層や亜炭層(植物の炭化がやや進行したもの)がある。

 なお、安田海岸の地層は基本的には右肩(西側)上がりである。これは西側の地面の隆起が進んでいるからと考えられている。

不整合に重なる地層もある

 もちろん、長い年代を経ているのだから、地層は単純に右肩上がりになっているわけではなく、写真のように褶曲を受けた上に水平に重なった地層を見ることもある。

白っぽい帯が見える

 地層の重なりに中に白っぽいものが挟まれて帯のようになっている場所がある。

白いのは貝の化石

 この白いものの正体は貝の化石で、これが何層にも重なっているのである。資料写真で見ると、この化石の層ははっきりしているのだが、何らかの理由で化石の量はかなり少なくなっている。

この地層から、地球が生き物であることが想像できる

 ともあれ、写真のような地層を眺めていると、生き物は単に動植物だけでなく、地球全体が過去から現在に渡って生き続けていることが分かる。

 この安田海岸で地層を眺めていると、サピエンスが現在、この大地に跋扈していることなど、ほんの短期間に過ぎないことが実感される。その短期間に、サピエンスはこの地球環境を大きく改変してしまっているのだが。

真山神社と「なまはげ館」

真山神社の山門

 男鹿を代表する真山と本山は、第12代の景行天皇(70~130年)に仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)が男鹿山に立ち寄った際に、湧出山(現在の真山と本山)に登り、使命達成、国土安泰、武運長久を祈願するために、ニニギノミコトタケミカヅチノミコトの二柱を祀ったのが信仰の山となった始まりとされている。

 もちろん、景行天皇武内宿禰は伝説上の人物と考えられているので、上記の話ものちの人が作り上げたに相違ない。

 景行天皇の御代というと、わが府中市にある大国魂神社も、この天皇の代に始まったとされる。これほどこの天皇が持ち上げられるのは、その子にヤマトタケルがいるからであろうか。もちろん、それも伝説にすぎないのだが。

拝殿への階段

 それはともかくとして、平安時代初期に活躍した円仁(慈覚大師)がこの湧出山を二分し、北を真山、南を本山として山岳信仰霊場としたのが始まりともされている。

真山(標高567m)への登山道

 真山神社では、なまはげが登場する「なまはげ柴灯(せど)まつり」という特異神事が1月3日の夕刻に境内でおこなわれる。伝承によれば、平安時代末期から続く祭儀とのこと。境内に柴灯を焚き上げ、この火によってあぶられた大餅を受け取るために下山するなはまげは、この神の使者(神鬼)の化身だと言い伝えられているそうだ。

 また、2月の第二金から日曜日には、男鹿市の行事として、真山神社を会場に「なまはげ柴灯祭り」が開催される。

 かように、真山神社なまはげとは切っても切れない関係にあることから、下に挙げる「男鹿真山伝承館」や「なまはげ館」が、神社の麓に置かれているのである。

なまはげの玉」と名付けられたモニュメント

 なまはげ館に立ち寄る際、林の中に写真のようなモニュメントが置かれているのを見つけた。大理石の大きな球に、モザイクで男鹿の海と山と夜空、それに三体のなまはげが表現されている。

 初めは今一つピンとくるものがなかったが、一旦、海と山と夜空となまはげの姿を見出だしてしまうと、それは見事な意匠だと感心させられた。

 林の中にあるため、やや人の目に付きづらい場所に置かれているのが残念なことだと思った。なまはげ館に行く人は多いのだが、この「なまはげの玉」の存在に気付く人は意外に少なかったのだ。

男鹿真山伝承館

 2013年に下に挙げる「なまはげ館」がオープンしたので、写真の建物は「男鹿真山伝承館」として、なまはげの行事を体験できる「なまはげ習俗学習講座」などが開設されている。

なまはげ館」と名付けられた立派な建物

 ところで、「なまはげ」とは一体、何を意味するのだろうか?私は60歳過ぎからとみに頭髪が薄くなり、現在は「ぜんはげ」に近い状態になってしまったので、中途半端に頭髪を残していても往生際が悪いので、バリカンでわずかに残った髪の毛をほぼ頭から消し去っている。

 ただ、「なまはげ」はいわゆるハゲとは関係がなく、「ナモミを剥ぐ」というのが語源だそうだ。

なまはげ館」の入場口

 「ナモミ」とは、寒い日に囲炉裏端にかじりついて何もしないでいると手足に火斑ができる。これは怠け者の証拠なので、この温熱性紅斑=ナモミをはぎ取るというのが「なまはげ」の役割なのだそうだ。つまり、「ナモミを剥ぐ」ということから「なまはげ」という言葉が生まれたのだ。

 この「なまはげ」は国の重要無形文化財ユネスコ無形文化遺産に指定されているが、秋田県ではこれを「ナマハゲ」とカタカナ表記している。が、ここ男鹿では通常「なまはげ」と平仮名表記している。

入り口でお出迎え

 「なまはげ館」に初めて入場した。出迎えてくれたのは写真のなまはげ君で、髪の毛はフサフサなので、ハゲとは無関係であることがよく分かる。

色々なお面が手作りされている

 なまはげの風習は男鹿市のみならず、八郎潟にある三種町、のちに紹介する「道の駅・てんのう」がある潟上市などに伝わる民俗行事で、200年以上の歴史があると言われている。

 「泣くゴ(子)は居ねガー」「悪いゴ(子)は居ねガー」と、とくに子供たちを相手に脅す?風習は、おそらく知らない人は居ないであろうと思えるほど有名である。

 このなまはげが被るお面は手作りされ、写真のようにいろいろな表情のものがある。

地域によって異なる姿をしている

 先に挙げた地域には148もの地区があって、その80もの地域でなまはげの行事がおこなわれているそうだ。

私が子供だったら真っ先に襲われそう

 それゆえ、地区によってなまはげの姿や表情は相当に異なっており、私が想像していたなまはげの姿よりはるかに多種多彩で、誠に豊かである。

 私は「悪い子」の代表のような存在だったので、近所にあった幼稚園では兄や姉、また近所の同年代の子供たちがほとんど入園したにもかかわらず、私だけ入園を断られたと親から聞いたことがあった。もちろん、私にはそんな窮屈な場所に行くつもりもなかったが、今にして思えば、その幼稚園はキリスト教系であったので、信仰に反するのではないのかと思う次第である。

 もちろん、私が男鹿生まれだったとすれば、真っ先になまはげの標的にされたのではなかろうかと思う。

八郎潟調整池と道の駅・てんのうにある「天王グリーンランド

八郎潟調整池と水門

 八郎潟についてはすでに触れている。17000haもの広さが埋め立てられてしまったため、かつては日本で2番目の広さを誇った湖沼の面影はまったくない。南部の調整池はまだ幾分、かつての姿を少し残しているが、北部の東部承水路や西部承水路は埋立地の外周を取り囲んでいるだけなので、その名の通り、水路にふさわしい姿になってしまった。

 写真は、南部に残る調整池のもので、船越水道と調整池との間にある防潮水門の姿である。

水門のはるか先には寒風山が

 写真は、防潮水門を調整池側から見たものである。水門のずっと先には寒風山が見える。先には、その寒風山頂から見た調整池の姿を掲載している。

天王スカイタワーから白神山地を望む

 船越水道を越えると、地名は男鹿市から潟上市になる。写真に挙げた場所は「道の駅・てんのう」のもので、ここは相当な広さをもった場所で、道の駅としての施設のほか、「天王グリーンランド」という公園を有している。

 道の駅の象徴として高さ59.8mの「スカイタワー」があり、無料で最上階の展望室に上がることが出来る。写真はそのタワーの展望室から北方向にある白神山地を望んだものである。

公園内にある大きな沼(鞍掛沼)

 天王という地名は珍しいと思えるが、東京近辺には横浜市保土ヶ谷区にある。また、品川区にある「天王洲アイル」は新しい観光地として脚光を浴びている。ことほど左様に、「天王」と付く地名を全国で探してみると、意外にも多く見つけることが出来る。

 秋田県天王町は2005年に近隣の2つの町と合併して潟上市となったが、字名としてはしっかり残っており、「道の駅・てんのう」というように、潟上の名よりも天王のほうが現在でも通りはよいようだ。

 天王の地名の由来はすべて共通しており、「牛頭天王」に関係している。日本ではスサノオの化身が牛頭天王であり、神仏習合から言えばスサノオの本地が牛頭天王となる。それゆえ、全国各地に「牛頭天王社」が存在し、それがもとになって天王町を名乗っているのである。ただ、天王洲だけは、江戸時代に漁師の網に牛頭天王の面が入ったことから、そのあたりの海を「天王洲」と呼ぶようになり、それが今日まで至っているのだ。

いささか卑しすぎる沼のコイ

 「道の駅・てんのう」には、天王グリーンランドというかなりおおきな公園が付随されていたので、少しだけ散策してみた。写真のように公園には鞍掛沼という大きめの池があり、たくさんのコイが放流されていた。

 池には「鯉の鑑賞デッキ」が整備され、ここは餌やり場になっていることから、写真のように数多くのコイが蝟集していた。こうした姿はいろいろな池で見ることが出来るが、これほどまでに卑しく集まっている姿も珍しい。

意味不明のモニュメント

 池に掛かる橋を渡り、南側にある「八坂の滝」「歴史の広場」を訪ねてみることにした。写真のように池には船がつないであるが、マストには赤い身体をした人間らしきものが座っていた。解説文はなにも存在しないので、この存在の意味を理解することはできなかった。

三内丸山の大型掘立建物はここにあった!?

 「歴史の広場」には弥生時代を思い起こさせる竪穴式住居などが再現されていた。が、一番目に付いたのは写真の大型掘立建物で、これは明らかに「三内丸山遺跡」のものが元になっている。とするならば、ここは縄文の世界なのかもしれない。

スサノオの本地は牛頭天王

 「八坂の滝」の前には、いくつかのモニュメントが置かれていた。写真は橋の近くにあったものだが、スサノオが牛に乗って進軍している姿が再現されている。もちろん、スサノオの時代に馬は存在しない(日本に馬が入ったのは4世紀頃と考えられている)ので、牛が重要な乗り物?なのだ。

スサノオ櫛名田比売稲田姫

 スサノオは奥出雲に出掛けた際、老夫婦と一人の娘に出会った。老夫婦には8人の娘がいたがすでに7人が八岐大蛇に食べられ、今回も残った櫛名田比売も食べられてしまう運命にあるとのことだった。そこでスサノオはその娘を嫁にもらう代わりに大蛇を退治するという約束を得た。 

退治された八岐大蛇

 見事、スサノオは約束を果たし、写真の八岐大蛇を退治したのであった。

 こうした伝説を折角、モニュメントとして残したのだから、せめて、グリーランドの職員には、周囲の雑草を退治していただきたいと、切に願った次第である。

風力発電施設と久保田城

県道56号線(秋田天王線)に沿って並ぶ「大型扇風機」

 翌日は、昔からの知り合いが男鹿の磯で身内を中心にした釣り大会を開催するということなので、その様子を取材するために男鹿市に近い場所に宿を取った。が、当日は生憎の大雨となってしまったので、取材は断念し、秋田市内を少しだけ見て回ることにした。

 とはいえ、土砂降りの中で見学に回るのも気が進まなかった。とはいえ、宿にいてもすることがないので、車で少しだけ出掛けることにした。

 もっとも気になっていたのが、県道にずらっと並ぶ風力発電の風車で、寒風山の山頂から秋田市街方向を眺めた際には、必ず、この姿を撮影しようと心に決めていた。が、この悪天で見通しが相当に悪くなったことから、「ずらっと並ぶ」姿を撮影することは叶わなかった。

今後の主力となるだろう洋上風力発電

 一方、秋田沖では洋上風力の開発が本格化している。脱炭素には、太陽光と風力発電が主力になるのだが、日本では風力ではかなりの遅れをとっている。それを挽回するためには洋上風力の開発が必至なのだ。

 ただ、日本の海には遠浅の場所が少ないため、着床式を設置する場所には限りがあるので、どうしても浮体式が主力とならざるを得ない。が、技術的には困難な点が多いために計画されているほど進展は見られない。

 しかし、気候変動対策にはこの開発が不可避なので、技術者たちには頑張って効率が良く、しかも安全な浮体式の風力発電設備を多く完成していただきたいと切に願っている次第だ。

久保田城の本丸跡

 久保田城跡(千秋公園)に入ったのは今回が初めて。私の秋田市街における定宿はこのすぐ隣にあるホテルで、ホテル名にも「キャッスル」が付いているにも関わらず、城内に足を踏み入れたことは一度もなかった。

 今回もとくに興味があったわけではなく、ただ雨が非道くて行き場所がなかったことから、時間つぶしをするために立ち寄ったというのが実際なのであった。

 城主の佐竹氏は江戸時代の大名の中では最も由緒があり、それに次ぐのは薩摩の島津氏で、後の大名は、戦国時代の混乱に乗じて成り上がった者たちばかりで、ほとんど「どこかの馬の骨」が、たまたま成功して城持ちになっただけだ。

久保田城表門

 佐竹氏は長い間、常陸国にいて、54万石とも80万石とも言われるほどの大勢力を誇っていた。が、関ヶ原の戦いでは西軍についたために本来ならば大名の地位を追われるはずであったが、家康が「名門好き」であったことが幸いして、1602年に秋田に移封され、かつ20万5千石に減じられたものの、大名の地位は守られた。

 もっとも、秋田は米、木材、金銀が豊富にとれる場所であったため、実際には20万石をはるかに超える豊かな藩だった。

 1603年に窪田にある神明山に城造りを始め、翌04年には完成した。これは石垣はほとんど使用せず土塁で済ませたこと、天守はなくていくつかの櫓(やぐら)を建造しただけだったことから完成が早かったのである。

 1645年に窪田城から久保田城に名称変更した。このため、一般には久保田藩と呼ばれている。

 1880年の大火で、城内の建造物はほぼ焼失した。それゆえ、写真の本丸表門は2001年に再建されたものである。 

復元された隅櫓

 写真の隅櫓は1989年に再建されたもので、こちらは表門のような木造ではなくコンクリート造りになっている。

千秋公園の胡月池

 本丸・二の丸は千秋公園として無料で公開されている。二の丸には写真のような池が整備され、大雨でなければゆっくりと散策したいと思わせるような造りである。

久保田藩最後の藩主・佐竹義堯(よしたか)像

 本丸の中央には、最後の藩主である佐竹義堯公の像があった。ちなみに、現在の秋田県知事は佐竹敬久氏であるが、名字から分かる通り、佐竹一族の出身である。

 いよいよ次回は、半世紀以上前から私がもっとも行きたいと思っていた象潟から始めることになる。

〔106〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(1)男鹿半島周遊~男鹿駅から海岸線を走る、そして男鹿水族館へ

男鹿と言えば「なまはげ

ジオパークと生態系公園

男鹿は地質学の宝庫

 男鹿半島は私の〇番目の「ふる里」である。もっとも、私にとって本当のふる里は府中市であるが、放浪癖のある私には、居心地の良い場所を発見してしまうと、そこが〇番目の「ふる里」になってしまうのだ。

 ここで紹介する男鹿半島も、いずれ触れる象潟も、すでに何度か紹介している和歌山県古座川町の小川(こがわ)も、奈良の山の辺の道も、長野の安曇野も、京丹後の久美浜も、倉敷、尾道、鳴門も、みな「ふる里」なのである。

 男鹿の場合は、そのに住む人々があまりにも温かい心性を有しており、また地質学的に特異な存在であり、大型のクロダイが数釣れるところから、勝手に「ふる里」と称しているのだ。もっとも、男鹿の魅力はそんな半端な言葉では言い表すことができないほど深い魅力に満ちているのだが、心中を具現化する能力に乏しい私には、他の語を継ぐことができないのだ。

男鹿市若美庁舎の2階にある

 私が宿泊した大潟村のホテルからほど近い場所に「男鹿半島・大潟ジオパーク」があるとのことなので出掛けてみた。写真の庁舎の2階にあり、かなり広いスペースを取って様々な展示をおこなっていた。ただ、観光客には寄りにくい場所にあるためか、見学客は私ひとりだった。そのためもあって学芸員の方が懇切丁寧に説明してくれることになり、私にとっては歓迎すべき出来事となった。約2時間、付きっ切りで案内してくれ、また、私の拙い疑問に対してもきちんと回答してくれた。そのためもあって、私は話に夢中になってしまったことから、室内の写真撮影を失念したことを後で気づいたほどであった。

 ジオパークは日本各地の至るところにあるが、内容が充実している点では、この「男鹿・大潟」と群馬県の「下仁田」が双璧であると思えた。

資料は豊富、解説は丁寧

 男鹿半島には、かつて日本がユーラシア大陸と陸続きであったころからの地層が数多く残っていることで、地質学ファンには堪らない場所である。

 日本はかつて、海洋プレートの沈み込みのときに、その上部が削り取られて大陸の東岸に付加された。その最後の付加体が、中央構造線の下部(東京もその一部)である。もっとも、日本列島が形成されてからも、今度はフィリピン海プレートの沈み込みによって付加されたものとして伊豆半島丹沢山地があり、いずれは大島も八丈島も付加されると思われるので、日本全体が付加体だといっても過言ではないのだけれど。

 日本が大陸から離れたのは約2000万年前とされているが、その理由はまったくと言っていいほど解明されていない。さらに、日本海が現在のように広くなったり、列島がやや折れ曲がった形になっている原因も諸説ありすぎて定説と言えるものはまったくない。個人的には「ホットリージョンマイグレーション説」が正解に近いと考えているが、それはあくまで素人の推察にすぎない。

 1500万年前は、まだ男鹿半島は浅い海の底にあり、1000万年前には沈降して、一時は海底2000mほどのところにあった。

 それが徐々に上昇し、本州と陸続きになったのは1万年ほど前の縄文時代の頃だ。それが6000年前の縄文海進によって半島の付け根部分が水没して島となった。が、北からは米代川、南からは雄物川が土砂を海岸まで運んできたために砂州が伸び、2000年前の弥生時代には南北の砂州が島とほぼつながり、やがて現在のような長靴型の男鹿半島が形成されたのである。つまり、男鹿半島は陸繋島であり、南北の砂州が埋め残した場所が八郎潟だ。つまり、八郎潟海跡湖に定義される。

 こんな話を学芸員の方に教えてもらい、さらに大陸と陸続きであった痕跡の残る場所や、男鹿の変遷を見られる場所などを指摘していただいた。実は、その大半の事柄は私にとって既知のものであったし、とりわけ、海岸線については釣り場探しも兼ねてよく出掛けていて知っていたのだが、彼の熱心な説明に敬服して、私にとっては例外的なことであったが、その解説をひとつひとつ頷くように聞き入っていたのであった。

 というわけで、ジオパーク見学は収穫の多いものであり、24年の5月にも男鹿に出掛ける予定でいるので、この場所には是非とも再訪したいと考えている。

生態系公園の温室

 八郎潟の多くは1957年に始まった干拓工事で埋め立てが進み、64年に工事が完了したときには、その規模はかつては琵琶湖に次ぐ大きさであったものが、現在では日本で18番目のサイズに縮小し、名前も「八郎潟調整池」に変更された。

 その埋立地に写真の秋田県農業研修センター・生態系公園があるというので、初めて訪問してみた。公園自体は散策に適しているような場所だが、埋め立て地の多くが未開発の場所なので、わざわざ公園まで出掛ける必要はないと思えたが、そこに温室があるということなので、それを目当に訪ねてみた次第だ。

マンデビラ(商品名はサンパラソル)

 温室の中には、珍しい熱帯性植物や、普通の花壇でも観られるような数々の植物が育てられていた。ここは「研修センター」なので、普通の花の育成も重要なのだろう。とはいえ、花も私の趣味のひとつで、以前にこのブログでもしつこいくらいに花たちを紹介しているので、ここでは、以前に触れていない種類のものを取り上げてみた。

 写真のマンデビラはキョウチクトウ科マンデビラ属の多年草。つる性で、高さは30センチから3mにまで伸びることがある。春から秋にかけて長い間開花する。南米原産の植物なので耐寒性は弱く、8度以下になると枯れてしまうことがある。

 サントリーが「サン・パラソル」の名で発売して人気を博したことから、マンデビラの名よりもサンパラソルで流通していることが多い。 

フェイジョア・クーリッジ

 フトモモ科アッカ属の果樹。ウルグアイパラグアイなどが原産地。果実は10月下旬から12月中旬に収穫される。キュウイに続く果実として日本にも輸入されたがほとんど広がりを見せていない。

 グレース、マンモス、トライアンフ、クーリッジなどの品種があり、写真のクーリッジが食味が良いとされている。写真のように花が美しく、丈夫な常緑低木なので、庭木や公園樹に用いられることがある。

ニューサイラン(40年に一度咲く花)

 キジカクシ科フォルミウム属の多年草。茎はなく、地面から革質の鋭い葉を扇状に伸ばす。葉からは繊維が採れ、織物、マット、漁網などの原料にもなり、原産地のニュージーランドでは重要な産品になっているとのこと。

 花は40年に一度咲くといわれるほど珍しいそうで、この温室ではたまたま花芽を付けていたため、「注目」の張り紙が傍にあった。私にとってはとても幸運なことで、少なくともこの場所では二度と花を目にすることはできない。偶然の出会いに感謝である。

バロータ・スペキオサ

 ヒガンバナ科キルタンサス属の球根植物で夏に開花する。原産地は南アフリカのケープ地方。属名のキルタンサスは花筒が曲がっているところから名付けられた。

 写真のように、クンシランによく似た美しい花を咲かせることで、日本でもまずまずの人気がある。

◎男鹿駅界隈

男鹿ではおなじみの釣具店

 大潟村を離れ、寒風山に今一度寄ったのちに、男鹿駅を目指した。写真は20数年前からお世話になっている男鹿を代表する釣具店で、店長は釣りの名手で磯釣りの全国大会で優勝した経験をもつ。

 ここにくれば男鹿の釣況はすぐに入手できるが、今回は釣りで訪れたわけではないのでどこの釣り場が良いかの情報を聞くことはせず、まずは久方ぶりの邂逅を喜び、互いの近況報告をおこなった。とはいえ、店長は地元ラジオ局の取材、翌日は友人の結婚式への出席が控えていたため、ゆっくりと語り合うという訳にはいかなかった。

 24年には釣り具を積んで、5月末の船川港祭りの時期に合わせてこの地に出掛け、久しぶりの男鹿磯でのクロダイメジナ、ホッケ釣りと、地域色豊かな祭りを楽しみにして再度出かけてくるという約束をして、私はすっかり様相の変わった男鹿駅周辺を探索することにした。

男鹿駅の出入口

 釣具店のすぐ西側にあるJR男鹿駅に立ち寄った。そのあまりの変貌ぶりに驚いた。かつての駅舎は古民家風を装っていたが、2018年に建てなおされたものは、いかにも今風という感じで、これが男鹿駅である必然性はまったく感じられないのである。

 駅の利用者が急増して、今までの木造駅では乗降客が溢れかえってしまうのならば、防災上の観点からも致し方ないかもしれないが、実際には利用客は私がよく男鹿を訪れていた時に比べると急減している。

 2000年代は1日の乗降客数は550~650人、10年代は270~550人に減り、22年は247人まで減じているのである。

 この新駅舎は、駅前周辺の整備事業と関係しているものと考えられた。駅の南側には「道の駅・おが」が出来ていた。それと連携するためか、駅の出入口は、以前は西向きだったが、新駅舎は南向きになっているのである。

ここにもなまはげ像が

 新駅舎の西側ロータリーには、写真のなまはげ像があった。これは男鹿の民俗を代表する存在なので、駅前にあって当たり前なのだが、以前にあったものより小振りになってしまったようで、もはや、なはまげだけでは観光客を呼び込めないと考えたのかもしれない。

 そうだとすれば、残念なことである。

男鹿線には未だ乗車せず

 列車の姿も大きく変わった。かつてはローカル色豊かなディーゼル車(気動車)であったが、2017年に導入された「ACCUM」(交流用一般型蓄電池駆動電車)に置きかえられていたのである。

 これならば、ディーゼルでなくとも架線は不要で、しかも音も静かだ。が、ローカル線のイメージが欠落してしまったため、情緒や郷愁を感じることはもはやできない。

 私は男鹿線には一度も乗車したことがなかったが、下に挙げる定宿の古典的ホテルからはしばしば男鹿駅を眺めていたし、そもそも駅前ロータリーによく車を止めていたことから、いつかは男鹿線に乗ろうという思いがあった。が、この「電車」や駅舎からは是非とも乗ってみたいという気持ちは完全に消えてしまった。

跨線橋から男鹿駅方向を眺める

 かつて、駅の出入口は西向きだったことから、駅のすぐ北側には跨線橋が造られていた。しかし、出入口が南向きになってしまったために、跨線橋そのものはまだ残っていたものの、利用者はほとんど皆無に近い状態なので、それはすっかり古びたものとして放置に近い扱いになっているようだった。

 その跨線橋から男鹿駅と電車を眺めてみた。電車の向こう側にある白い平面的な建物が新駅舎である。

かつてはここにもサケが遡上した

 跨線橋の近くには、写真の小さな水路がある。現在はコンクリートの三面張りになっているが、かつては自然のままの小川といった感じだった。そのためもあり、こんな小さな流れにも産卵のためのサケが遡上し、地元の釣り仲間はこのサケを網で捕獲して、卵を数多く手に入れていた。もちろん、違法行為なのだが地元の人々は結構、普通の行為として収穫していた。

以前はよく利用した古典的ホテル

 写真は西側のロータリー兼駐車場に面した場所にある古いホテルである。私が初めて男鹿に宿泊したときこの古めかしいホテルを利用した。というより、男鹿駅近くにはこのホテルしかないため、朝早く起きて地元の釣り人とともに釣り場に向かうには便利な場所にあったからだ。

 3階建てだが、宿泊できるフロアは3階部分だけだ。部屋は狭く、設備は相当に年季の入ったものであったが、昔の建物は壁が厚かったので、昨今のビジネスホテルとは異なり、隣の部屋の人が発生する声や物音はほとんど聞こえなかった。もっとも、宿泊客も少なかったというのが最大の理由だが。

 今回の旅でも久し振りに利用してみる予定だったが、近年はレトロブームなのか、単に安いからなのかは不明だったが、部屋は埋まっていて予約することはできなかった。話によれば、息子の代になってサービスが良くなったというのも理由のひとつらしい。

さびれた駅前通

 駅の出入口の向きが変更されたためか、ロータリーに面した駅前通りはすっかり寂れ果てていた。その理由は簡単明瞭で、周囲に近代的施設ができたからである。

 駅の向かいには「道の駅・おが」が出来、その中には観光施設の「オガーレ」がある。また、男鹿マリーナの北側には「ОGAマリンパーク」が新設され、船川港の構内には「男鹿ナマハゲロックフェスティバル」なる会場も造られていた。

 こうして男鹿駅周辺は、もはやどこにでもある何の変哲もない場所に変わり果ててしまった。男鹿に限ったことではないが、日本全国、町は金太郎飴のようにどこに行っても同じような表情になってしまった。

◎鵜ノ崎海岸

泥岩層の海岸が沖合まで続く

 男鹿駅周辺を歩いても私の目を惹くものは特になかったため、市街を離れて半島の魅力が満載の海岸線を見て歩くことにした。先にも触れたように、半島は長靴の形をしているが、見ごたえのある海岸線は靴のかかとからつま先部分にある。ただ、地層という点では甲の部分も見逃すことはできないが、それらについては次回に触れることになる。

 最初に出会う魅力的な海岸線は”かかと”部分に位置する「鵜ノ崎海岸」だ。写真のように、ここは浅い海岸が沖合数百m続いており、傾斜した泥岩層の端の部分だけが顔を出し、干潮時には洗濯板状(鬼の洗濯板とも言われる)に見える。これは波によって削られたもので、波蝕台と呼ばれている。もっとも、1000万年前は水深2000mの地点にあり、それが次第に隆起して現在の位置まで盛り上がった。

 深海層に在った際にケイソウ類の植物プランクトンが大量に発生し、その死骸が泥になって積み重ねられた。その時代には秋田県内の各地の海でも大量発生したことで、これが石油の源(石油根源岩)になった。そういえば、この海岸線に接したとき、かつて秋田は新潟と並んで石油の生産地として知られていたということを思い出した。

大きな褶曲を受けて盛り上がる

 写真のように泥岩の固い部分がやや盛り上がって残っている部分がある。かつて、夏の暑い最中に、竿を担いでこの岩まで歩いて渡り、ここから溝(満潮時の水深は1.5mほど)にスイカを餌にした仕掛けを沖まで流し、クロダイを狙ったことが何度かあった。クロダイは悪食で有名なので、夏場はスイカを好物にしているのである。

一部には丸い小さな岩が顔を出す

 写真のように、海をよく見ると、泥岩の端とは異なる半円形、もしくは球形をした岩が点在することが分かる。

望遠レンズでのぞくと姿がよく分かる

 その姿は望遠レンズでのぞいてみるとよくはっきりと分かる。この日のこの時間は生憎と満潮時なので半円状にしか見えないが、大潮の時、とりわけ春の大潮時には、この海岸線はほとんど干上がった状態になるので、その際には楽に沖合近くまで歩いて行くことが出来、かつ、球形をした数多くの岩の塊を間近で目にすることができる。

この丸岩(小豆岩)が一番有名

 この丸岩は小豆岩と呼ばれ、形が可愛らしく見えることから「おぼこ岩(おぼことは小さい子を意味する)とも称されている。

 岩が球形なるのは、ケイソウ由来の泥にカルシウムやマグネシウムを含む炭酸塩鉱物が混じるからで、とても硬い塊(ノジュール、コンクリーション)になる。

 なお、カルシウムは死んだクジラ由来のものだという説がある。

小豆岩(おぼこ岩とも)のモニュメント

 私のように、満潮時に訪ねた見物客には、今一つ小豆岩のイメージが湧かないので、岸辺の公園には写真のような小豆岩が展示されている。大潮時の干潮時に訪れると、写真のような丸い岩があちこちに点在している姿を見て取ることが出来る。

 洗濯板状の岩の行列だけであれば、この海岸が「日本の渚百選」に認定されることはなかったと思われるが、この小豆岩の存在が、この海岸が日本でも珍しい光景を展開し、人々の関心を惹きつける。

 とはいえ、この日、海岸を見物していたのは私だけだったが。

◎館山崎のグリーンタフ

知る人ぞ知る館山崎の海岸

 鵜ノ崎海岸を離れ、次の目的地に向かった。その場所は県道59号線(おが潮風街道)から少し離れた場所にあるため、先の鵜ノ崎海岸のように、海岸線を走って入れば自然と目に入るという訳ではない。そのため、よほど地質に関心がある人でなければ、わざわざ訪れることはないかもしれない。しかし、地質学にとっては極めて重要な役を果たした貴重な場所なのである。

 ここへ行くためには県道から「椿漁港」に入って、しばらく構内を走ってから海岸線に出る必要がある。そうすると、写真のような崖が目に入る。ここが「館山崎のグリーンタフ」と呼ばれる火山礫凝灰岩が造った崖である。

 この崖が存在することで、県道は海岸線から少し離れ、しかもこの崖の上あたりではトンネルになっているため、なんとなくそこには崖があることは分かっても、ここが世界的にも貴重な場所であることは、興味のある人にしか知られていないのだ。

緑色凝灰岩がよく目立つ

 ここは2100万年前の火山噴出物から形成されたもので、大量の火山灰や火山礫が積もってできた岩場である。

 風化が進んでいるために少し分かりづらいが、岩はやや緑がかった色をしている。熱による変性を受けて緑色に変色したのである。これをグリーン(緑)タフ(凝灰岩)と地質学の世界では呼んでいるが、このグリーンタフの名は、この岩から名付けられたのである。緑色凝灰岩は日本、いや世界の至るところに存在するが、その英名であるグリーンタフの名は、この場所が嚆矢なのである。

この岩もグリーンタフ

 林の中にもグリーンタフが存在していた。東北をよく旅行して数多くの記録を残した菅江真澄(1754~1829年)は、この岩を「まいたけ岩」と名付けたことで知られている。のちに、この緑色凝灰岩がグリーンタフと名付けられたということは、さしもの菅江にとっては想定外のことだっただろう。

◎潮瀬崎の奇岩~名勝・ゴジラ岩など

男鹿の中でも人気が高いゴジラ

 潮瀬崎は男鹿半島ではもっとも南に位置し、写真の「ゴジラ岩」があることから観光客がよく集まる場所として知られている。県道沿いに駐車スペースがあり、必ずと言って良いほど数台の車がとまっている。

 もっとも、この辺りは基本的には波蝕台になっており、鵜ノ崎とは異なり足場が海面から1,2mあるので、磯釣りの名所としても知られている。そのため、訪れている人が皆、ゴジラ岩見物を目的としているわけではなく、ゴジラよりもメジナクロダイを目当にやってくる人も少なくない。

 晴れた夕方にここを訪れると、美しい夕陽をみることができ、さらに角度によってはゴジラが太陽をくわえていたり、口から火を放っているように見えることもある。

 個人的には決してそうは思っていないのだが、一般には、男鹿半島の自然の景色と言えば、概ね、このゴジラ岩が第一に取り上げられる。

三角形の岩が双子のように並ぶ

 ゴジラ岩と並んでよく取り上げられるのが、写真の「双子岩」で、三角形の帆のような形をした岩が仲良く並んでいる。

これはトカゲ岩?それともカエル岩?

 写真の岩に名前があるのかどうかは不明だが、たまたま顔と思われる場所に小さな丸い穴が開いているため、何かの動物の顔のように見えるのだ。それはトカゲのようでもいありカエルのようでもある。

凝灰岩と泥岩層の境

 この潮瀬崎は3500万から3000万年前の噴火によって積もった火山礫凝灰岩から成り立っているが、写真のように凝灰岩の層の下の泥岩層が露出している場所も存在する。写真ではその層が整合的であるが、中には不整合に重なっている場所もある。

 その他にも不思議な形をしている岩がいくつもあり、ゴジラ岩だけ見て帰るというのはとてももったいない。地質に興味がなくとも、いろんな形をした岩を見て回り、自分が興味を抱いた岩の姿に名前を付けてみるのも面白い行為である。

 いざ名前を付けてしまうと、どんどんそのように見えてくるから不思議だ。それを他者に告げても多くは納得してくれないが。これも錯視のひとつだからだろう。

◎戸賀湾のマールと男鹿水族館

 潮瀬崎の先から海岸線は断崖絶壁が続くようになるため、県道は山坂道に入ってゆくことになる。その坂道が始まった場所に、冒頭に挙げた「なまはげ立像」がある。私の場合、男鹿には両手両足の指を使っても数え切れないほど男鹿には立ち寄り、大抵、その像を目にしているのだが、写真撮影をおこなったのは、実は今回が初めてだった。

 ただ、この像を目にすると、道はしばらくの間、山坂道になり、海は遥か下に存在することとなる。それはここに取り上げる戸賀湾まで続くことになる。もっとも、途中に海岸線に降りられる場所があり、そこは加茂漁港と言って磯釣りの基地としてはあまりにも有名な場所である。

 その漁港から小さな瀬渡し船に乗って、眼下に続いている磯に渡礁して釣りをおこなうのだ。大半は地磯(陸続きの磯)なのだが、よほど根性があるか命知らずの人でない限り、歩いて磯に降りる人はいない。

 今回は磯釣りにやってきた訳ではないので、加茂港には寄らず、戸賀湾の高台にあるマールを見物した。マールとは水蒸気爆発の結果で生まれた火口のことで、基本的には一回の爆発で形成されたものを指す。内陸にあるものはその河口に地下水などが溜まり湖や池を形成する。

二ノ目潟

 日本でもっともよく知られたマールは伊豆大島の波浮港か、伊豆の伊東にある一碧湖だろうか。波浮港は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の『波浮の港』で、一碧湖は、昭仁上皇が皇太子の時期に、寄贈されたブルーギルを食糧増産のために放流し、その理念に反し、在来種を食い荒らす害魚となってしまった原点の湖として知られている。

 男鹿半島の戸賀地区にはマールは4つあり、そのうちの3つは「目潟」と名付けられている。写真は「二ノ目潟」であり、「三ノ目潟」はその下方にあるはずだが、森の中を進まないと目にすることはできない。クマとは遭遇したくないので、「三ノ目潟」との対面は行わなかった。

一ノ目潟

 写真の一ノ目潟は、直径が600m、水深が44.6mある。6~8万年前の噴火でできたと考えられ、噴出物のなかには地中深くにあるカンラン石が含まれており、日本でも貴重なマールとして注目されている。

 実は、四ノ目潟も存在する。一つ上の写真に写っている入り江がそれであり、一般には戸賀湾と呼ばれている。マールの西半分が入り江になったためにマールだとは気付きにくいが、約42万年前の噴火で形成されたもので、航空写真や地図で湾の形を確認すると、確かに半円状になっていることが分かる。

水族館の外観

 男鹿水族館GAOは2004年に落成した。Gは地球、Aは水、Оは海を意味するとのことだ。この水族館に立ち寄るのは初めてだったが、映画の『つりバカ日誌・15・ハマちゃんに明日はない!?』の舞台になったことはよく知っていた。というより、男鹿での釣りでよくお世話になった人々がエキストラで撮影に数多く参加していただけでなく、知り合いの釣り人が「釣りの指導」をおこない、さらには、夜はしばしば西田敏行などと宴会を開いていたという話を聞いていた。西田は映画のまんまの人物で、三國連太郎は意外にもかなり気さくな人物だったという感想も聞いたことがあった。

 あまつさえ、画面に登場する生きたマダイ(ハマちゃんが釣りあげた魚)を養殖場から数十匹仕入れることもしたという裏話も知人が話してくれた。

 ということは、この水族館は鈴木建設が造り上げたことになっているのだ。

メインの巨大水槽

 どこの水族館にもあるように、ここでも入り口付近に写真にある巨大水槽が設置されていた。この中には男鹿の海でよく見かける魚たちが入れられており、この点に好感が持てた。規模で言えばここよりも大きな水槽は全国各地で見ることができるが、地域に特化している場所は意外に少ないのだ。

 何事も大きければ良いという訳ではなく、地域に根差した様態を有していることが重要で、巨大なものは地域性を失った大都会にある水族館に任せれば良い。

ここにもゴジラ岩が

 巨大水槽の中には、男鹿の岩場が再現されていた。写真の岩は明らかに潮瀬崎のゴジラ岩を模したものであろう。

チンアナゴ

 チンアナゴは四国から沖縄にかけての暖かい海に生息するウナギ目アナゴ科の魚なので、男鹿の海に生息することはまず考えられないが、温暖化が進むにつれて、この海で見られるようになるのはそう遠くないことかも。

 もっとも、この魚が正式に認知されたのは1959年のことというから、その生態については不明な点が多々あるので、もうすでに男鹿の海にいるという可能性はまったく排除はできない。 

ヤドクガエル

 このヤドクガエルはコスタリカからブラジルの熱帯林に生息するので、男鹿とはまったく関係がないが、興味深い存在だったのであえて掲載してみた。

 大きさは2.5センチほどだが、毒性はかなり強く、中には一匹で十人の成人を致死させることが出来るほど。毒は餌とするアリやカブトムシなどの昆虫を介して生成されるようで、生息域とは無関係な場所で育つと毒は持たなくなるそうだ。ということは、水族館にいるこのカエルは無毒だろう。

 なお、この毒から抽出させる成分には鎮痛剤として利用できることが分かっており、現在、その研究が進められているとのこと。

ミズクラゲ

 クラゲを飼うことが静かなブームになっている。私としては、クラゲは敵のような存在で、泳いでいるときに何度が刺されたり、釣り場一面にクラゲの大群が流れ着いて数時間、釣りを中断させられたりしたことがあったからだ。それゆえ、クラゲを食べることはあっても飼育する気持ちはまったくない。

カラージェリー・フィッシュ(タコクラゲ)

 それにしても、水族館や熱帯魚店などでクラゲの姿を見るのは嫌いではなく、時には一時間以上も見入ってしまうことがある。その際は、クラゲそのものに興味があるというより、果たしてクラゲは「この私(この場合はクラゲ自身)の存在」を認知しているのか否かを考えさせられるからだ。

 この私が私であるということは、私の過去の記憶に由来する。それは一時間前でも一年前でも五十年前のことでも良い。年々、物忘れが酷くなってはいるものの、それでも過去の、とりわけ象徴的な事柄は鮮明に記憶しており、それらのいくつかは同じ時を過ごした知人に聞いてみても確かな事実として私の内に存在する。

 今から約60年前に流行った植木等の無責任男の映画は同級生の親が経営する映画館で、友人たちと無料で入り、大笑いをしながら見て、自分もあのような大人になりたいと一大決心したことは今でも鮮明に覚えているし、小学校時代の友人に尋ねても、確かにお前は植木等に憧れていたという証言を現在も得ることが出来る。その限り、「この私」は確かに現在しているのである。

インドネシアン・シーネットル

 しかし、海を(ここでは水槽の中)漂うクラゲたちは、「この私の存在」の自覚があるのだろうか、と、いつも気になるのである。犬や猫にも尋ねることはあるが、ほとんどの場合、答えの代わりに私の前から立ち去り、一部は吠え付くのだ。

 が、クラゲの場合はまったく無反応で、ただ漂うだけなのである。その限りにおいてクラゲには「この私」の自覚はなく、現在そこに「ある」だけなのだろう。

ホッキョクグマ(シロクマ)

 この水族館で一番人気があるのは写真のホッキョクグマ(豪太くん)のようだ。水族館や動物園のクマというと寝ていることが多いのだが、私が訪れたときは結構、活発に歩き回っていた。

 メスのマキとの間で繁殖行動が見られたようなので、長い間、マキの様子を観察していたが、今年(24年)になって、今回は行われなかったそうだ。

 23年は「熊騒動」で日本中が沸きかえったが、それでも、こうしてシロクマ君の行動を観察していると、凶暴さよりも可愛らしさを感じてしまう。これも人間から見た意識に過ぎず、クマからしたら狭い場所に閉じ込められて見世物にされ、誠に迷惑な話だろうが。

 それでも、彼の動作を見ていると愛着が湧いてくる。その不条理な点こそが人間らしさなのかもしれない。

水族館裏の岩脈

 水族館の裏手には、写真のような岩脈が幾筋も走っていた。凝灰岩の割れ目をマグマが貫入して冷え固まったものである。本ブログでは、和歌山県串本町の「橋杭岩」や古座川町の「一枚岩」(古座川弧状岩脈)をすでに紹介しているが、この岩脈はそれらの小型版といったところである。

 ずっと先になるだろうが、いずれ周囲の凝灰岩が削り取られ、この岩脈が「橋杭岩」のような姿になる可能性は高い。もっとも、そのころには人類は絶滅しているので、それを目にするのは人間以外の存在だろうけれど。