徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔110〕平林寺・野火止用水・清瀬金山緑地公園を訪ねて

大河内松平家廟所

◎平林寺~松平信綱(知恵伊豆)が眠る禅寺

平林寺大門通りと総門

 埼玉県新座市にある平林寺は紅葉狩りの名所としてよく知られており、シーズンになると不信心の人も含めて数多くの見物客が集まる。私も2回、見学に訪れたことがあるが、確かに人の数は半端なく多いが、境内が広いこともあって”ごった返す”といったほどではないので、美しい景観を存分に楽しむことが出来た。

 一方、3月下旬のこの時期は花の数がさほど多くはないので、境内は閑散としており、いかにも古き良き武蔵野の姿にじっくりと触れることが出来る。田山花袋が「武蔵野の昔の武蔵野の匂いを嗅ごうとするには野火止の平林寺付近が良いね……」と語った気持ちがよく分かる情景が、今でもよく残されている貴重な場所なのである。

総門と参拝受付所

 平林寺は臨済宗妙心寺派の別格本山で、1375年、現在のさいたま市岩槻区を拠点とする岩槻城主太田備中守の命で、鎌倉建長寺の住侍であった石室善玖禅師によって開山された。が、1590年、秀吉の岩槻城攻めで伽藍の大半を焼失したが92年、鷹狩りで岩槻を訪れた徳川家康の命で、駿河国臨済寺の鉄山宗鈍を迎えて中興開山した。

ここは金鳳山・平林寺という名の禅寺である

 この寺の大檀那であった大河内秀綱が死去するとここが大河内家が霊廟とされた。さらに、孫の信綱が大河内家から松平家に養子に入り、のちに大河内松平家を興すと、この平林寺が祖廟となった。ただし、信綱は平林寺を岩槻から自分の領地である野火止に移すことを企図してはいたが、存命中には完成をみなかった。

 この寺の山号は「金鳳山」であるが、写真のように総門には京都詩仙堂石川丈山が揮毫した扁額が掲げられている。約400年前のものなので、現在は新しく塗られているが、文字そのものは丈山のものを生かしている。

 なお、山号の金鳳山は、開祖が中国の元の金陵(南京)にある鳳台山で修業したことから、その”金”と”鳳”をとったものである。

移設された山門

 総門から入って正面を見ると、写真のような山門が見える。これは平林寺が岩槻にあったときのものを1663年に解体してこの地に移築補修したものである。

歴史を感じさせる建造物

 茅葺重層入母屋造りのこの山門は、数ある平林寺の建造物の中では最も見応えのあるものだ。楼上桟戸の両側には花頭窓があり、その内部には松平信綱が寄進した釈迦、文殊、普賢の三尊仏と十六羅漢像が収められているとのことだ。

凌霄閣(りょうしょうかく)の扁額

 山門の扁額も、総門のものと同じく、京都詩仙堂石川丈山が揮毫したものを塗り直している。「凌霄閣」のうち、凌と閣は分かるが、霄(しょう)がよく分からない。案内によれば、霄は空と同義だそうなので、言い換えれば、空を凌ぐ建物ということになる。つまり、空を凌ぐほど志が高いという意味のようだ。

阿形の金剛力士

 山門の左右には、お定まりのように阿形と吽形の金剛力士像が安置されている。もちろん誰もが知っている通り、”阿”は梵字十二音の最初、“吽”は最後の文字で、それぞれ始原と終局を意味している。その限りで、山門を通るということは、全宇宙の只中を通過するということになるのかも知れない。もっとも、信心のない私は、ただボーッとしたままに通りすぎ、宇宙を感じることはまったくなかった。

仏殿

 山門の先には仏殿がある。生憎、正面からでは茅葺きの大きな屋根に陽がさえぎられてしまうため、扁額や花頭窓などはまったく写真に収まらないことから、やや斜め側から見たものを掲載した。

無形元寂寥と書かれた扁額

 ここには「無形元寂寥」と書かれた扁額が掲げられていた。中には本尊の釈迦如来坐像と両脇侍として阿難尊者と迦葉(かしょう)尊者が安置されている(らしい)。

 この仏殿も、やはり岩槻から移築されたものとのことだった。

仏殿の横には用水路が

 仏殿の脇には写真のような用水路が走っていた。もちろん、これは野火止用水から分岐された平林寺堀からの水である。

観音像が安置されている戴渓堂

 用水路の近くには、写真の戴渓堂があった。茅葺の宝形造りの建物で、中には「天外一閑人」と称した明の僧であった独立性易禅師の座像が安置されている(らしい)。どんな人物だか私には不明だが、「天外一閑人」という生き方は私としては激しく同意できる。

豊富な水量に支えらえた放生池

 放生池(ほうじょうち、ほうじょういけ)とは捕らえた魚類などを放してやるために池で、寺院などではよく見かける存在だ。供養のためだそうだが、それならば元々、捕獲しなければ良さそうなものだが、不信心者があまたいるので、そうした人々が仏心に目覚めさせるために置かれたものなのだろうか?

 私は小さい頃、こうした池でよく魚やカメなどを捕まえてきて自宅の池に放生した。これは信心からではなく、ただ生き物を飼うのが好きだったからである。もっとも、管理が悪いのでよく殺生したものだが。

池中央に置かれた祠

 池の中心の島には写真のような小さな祠があった。池の中、あるいは畔にある祠と言えば、「弁天様」を安置しているに相違ない。

水路近くに集まる色鯉

 放生された?コイたちがこちらを向いているのは私がエサを与えているからではなく、平林寺堀からの流れがここに入り込んでいるからだ。魚は一般的に流れが来る方向に泳ぐことが多い。これは、餌となるものが上流から流れてくるからだろうか。

半僧坊感応殿

 半僧坊とは、浜松にある方広寺を縁起とする天狗の姿に似た大権現とのこと。山の鎮守として現世の諸願を叶えてくれるそうだ。私の願いは磯で大きなメジナが釣れることだが、これが簡単に実現したら釣りはかえって面白みのないものになってしまうので、願うことは止めにした。もっとも、信心そのものがないのだけれど。

天狗に似た大権現が祀られている

 当然のごとく、内部には天狗によく似た大権現が祀られている(らしい)。三大半僧坊というのがあって、方広寺、鎌倉の建長寺、それにここ平林寺だそうで、年に一度(4月17日)、大祭が催されるとのことだ。

◎広大な境内林を歩く

境内林を進む

 平林寺の魅力は、初めのほうでも述べたように、広大な自然林が存在しているからだ。1968年には国の天然記念物に指定されているが、確かに、ここには古き良き武蔵野の面影が残っている。私の住む府中市にだって、子供の頃はあちこちにこうした自然林が存在していたが、今では大半が住宅地になってしまい、僅かに府中崖線や国分寺崖線の斜面に少しだけ残されているだけである。

平和観音像

 ただ、下で取り上げる「大河内松平家廟所」まではところどころに墓地や写真のような記念像が置かれているので、ありのままの自然林の空気を感じるには、今少し先まで歩く必要がある。

石仏群

 ただ、道の傍らにある写真のような石仏群を見るのは決して嫌いなわけではない。ひとつひとつ表情が異なっているのを見出すことは結構、興味深い”遊び”ではある。

野火止用水・平林寺堀

 野火止用水から分岐された水の流れは平林寺堀となって境内の中を進んでゆく。

島原・天草の一揆供養塔

 平林寺を岩槻から野火止の地に移したのは松平信綱(1596~1662)である。もっとも実際に野火止に移転されたのは1663年のことなので、先にも触れたように信綱自身は移転の完了を見てはいない。あくまで信綱の遺命によって野火止に移されたということになっている。

 写真は、「島原・天草の一揆供養塔」である。当時忍(おし)藩の藩主で幕府の家老だった信綱は1637に起きた島原の乱を鎮圧するために総大将として島原に派遣された。この反乱はキリシタンの弾圧によって発生したというより、藩主・松倉勝家に暴政によるところが大きかった。が、結果としては反乱に加担したもの全員が処刑されている。だだし、徳川家光松倉勝家にも責任を取らせ、藩主としては江戸時代唯一の斬首の刑に処せられている。

 ともあれ、キリシタンを中心とした反乱に加担した3万人以上が処刑され、信綱が鎮圧軍の総大将であったということの事実からか、平林寺境内には写真のような供養塔が設置されることになった。

 この供養塔は建てられたのは1861年で、大河内松平家の家臣であった大嶋左源太によるものとのことだ。供養されているのは島原の乱で命を落とした兵卒や庶民ということらしいが、その庶民の中に処刑されたキリシタンが加わっているかどうかは不明だが、信綱に由来するとするなら、私はキリシタンも含まれていると信じたい。

安松金右衛門の墓

 松平信綱の最大の業績と言えば、やはり玉川上水・野火止上水の開削であろう。玉川上水の開削については本ブログの第28回から30回まで、3回に分けて詳しく紹介している。

 島原の乱の平定の勲功によって信綱は、1639年に忍藩3万石から川越藩6万石に移封された。そこで信綱は川越を流れる新河岸川(荒川の一次支川)の整備など、川越の発展に大きく寄与した。さらに、田畑の整備によって食糧の増産を図るため、全く手が付けられないでいた野火止の地の開墾を計画した。しかし、この地は北の柳瀬川、南の黒目川(ともに新河岸川の支流)に挟まれたやや台地の形状をしているために水に恵まれてはいなかった。

 そんな時、信綱は徳川家光から、急発展しつつあった江戸の水不足を解消するために玉川上水の開削を命じられたのであった。当初は玉川兄弟に指揮を取らせたが、水喰土(みずくらいど)に何度か苦しみ彼らの計画はとん挫した。

 そこで、信綱は川越藩士の安松金右衛門に指揮を命じて、玉川上水開削を進めさせて見事に完成をみた。そればかりでなく、安松は小川の地(現在は立川市幸町)に取水口を造り約3分の1の水を分水させ、小川から野火止を通り新河岸川までの25キロにわたる野火止用水を完成させたのであった。しかもこの開削にはわずか40日しか費やしていなかった。この結果、野火止ではそれまで200石しか産出されなかったものが、この用水のおかげで2000石と10倍もの増産に成功したのであった。

 こうした業績があったことから、安松の墓は大河内松平家の廟所のすぐ隣に置かれたのだった。

大河内松平家一族の墓

 平林寺境内林の中に、広大な「大河内松平家」の廟所がある。これは平林寺の本堂(一般者は立入ることができない)の裏手に位置し、写真から分かる通りかなりの面積(約3000坪)を占めている。

 信綱は家康の家臣であった大河内久綱の長男として生まれた。ただ身分がやや低いため、これでは出世が出来ないと考えて松平右衛門大夫正綱の養子となった。このことで、信綱の一族は大河内松平家と呼ばれるようになったのである。

 類稀な才能を生かして家光や家綱を補佐し、徳川の幕藩体制の基礎を確立した。知恵が湧くように出たことから「知恵伊豆」と呼ばれるようになった。また、川越藩主として川越の町を整備し、「小江戸」と呼ばれるようになるまでの発展を遂げる立役者となった。

松平信綱夫妻の墓

 向かって左側の墓が信綱のもので、地輪正面には「河越侍従松平伊豆守信綱 松林院殿乾徳全梁大居士 寛文二壬寅三月十六日」と刻まれている(そうだ)。

野火止塚

 この廟所の裏手に回ると、いよいよ自然豊かな平林寺境内林が広がっている。なにしろ境内は全部で13万坪(43万平米)の面積があるのだ。

 その一角に、写真の「野火止塚」と名付けられた土盛りがあった。由来や用途は不明らしいが、推測するに、この地では焼き畑農業がおこなわれており、水が乏しいことから野火が広がりやすく、それを監視するための高台だったと想像できる。

 なお、平林寺が岩槻からこの地に移設されたときにはすでに存在していたとのことなので、資料となるものはないことからただ推察するだけである。

野火止塚の石標

 塚の天辺には写真の石標がある。周囲には近年になって造られた囲い(あるいは石標)の残骸らしきものが転がっていた。これだけを見ると、何かの工事の廃棄物が積まれ、それを隠すために土盛りがされたようにも思える。もっとも、廟所のすぐ裏にそんなものを残すはずはないのだが。

何故か「業平塚」も存在

 野火止塚のさらに北側の林の中には、写真のような「業平塚」があった。ここは、業平が東下りの折に、武蔵野が原に駒を止めて休んだところとの言い伝えがある。かつてここには、「むさし野に かたり伝えし 在原の その名を偲ぶ 露の古塚」という歌碑があったとのことだ。

 なにやら怪しげな伝承ではあるが、真偽を確かめるには都鳥にでも問うてみなければならないだろうか?

国史跡指定の平林寺境内林

 野火止塚や業平塚のほかには、写真のような林が広がっている。ただし、古木も多いことから、この景観を保存するために適宜、植え替えをおこなっているようだ。

平林寺堀の石標

 ひと通り、平林寺の境内を徘徊したので、次の目的地に移動することにした。平林寺堀の傍らには、写真のような石碑が置かれていた。こちらは用水の分流ではあるものの、野火止用水の一部には違いはない。

用水は境内の外に流れ下る

 写真のように用水は境内を出て、平林寺大門通りの脇を新座市役所方向へと進んでゆく。ただし、市役所の北角にある新座市役所交差点で暗渠化されてしまっているので、その先を追うことはできない。

野火止用水

野火止用水本流

 平林寺を出て、私は歩いて寺の南西角まで行くことにした。寺の西側に沿うようにして、野火止用水の本流が走っており、それを見学することが目的だった。

 写真は「陣屋通り」と名付けられた市道野火止用水を越える「伊豆殿橋」の真下を覗いてみたものだ。思いのほか水量は豊富だ。もっとも、本ブログの第30回で触れたように、玉川上水自体の流れは自前のものではなく、小平監視所立川市幸町)から下流部は浄水場の処理水(有機フッ素化合物が多めに含まれているので、汚染水かもしれない)が上水の流れを復活するために人工的に流されているので、この野火止用水の水もその処理水の一部である。

右手が平林寺境内林

 写真のように野火止用水は平林寺の西側に沿って流れ下り、国道254号線と突き当たる辺りで暗渠化され、新河岸川に流れ込む場所まで、もはやその姿を視認することはできない。

橋には用水開削の功労者の名が

 写真のように陣屋通りの橋は先にも触れたように、野火止用水開削の功労者である松平信綱の官職名(伊豆守)から名付けられている。

安全と発展を祈願

 橋の傍らには石仏が置かれていて、花や果物がそえられていた。道を通る人の幾人かは、この石仏の前で手を合わせていた。私には到底できないことだが。

 ところで、新座は令制国時代は武蔵国新座郡(にいくらぐん)に属していた。これは多くの新羅系の渡来人がこの地に移住して、農業の発展に寄与したためであると言われている。

用水路の脇には遊歩道が整備

 開渠になっているにせよ暗渠になっているにせよ、野火止用水の水路に沿って道路が造らられており、小平から東久留米まで通りは「野火止通り」の名が、新座に入ると今度は「水道道路」と名付けられている。

 写真は、その水道道路に沿って流れている用水を撮影したもの。ここでは暗渠になったり開渠になったりを繰り返しており、いずれにしても道路の脇には遊歩道が整備されている。もちろん、開渠の場所では狭く、暗渠の場所では道は広めに造られている。

遅咲きのスイセンが用水を飾る

 一部には花壇を整備して美しく飾られている場所もあるが、写真のように遅咲きのスイセンが疎らに植えられているところもあった。いずれにしても、格好の散策路として、野火止用水に沿っている遊歩道は多くの人に愛されているようだ。

玉川上水との分岐点のすぐ下流

 折角なので、野火止用水の「源流」も訪ねてみた。多くは第30回を参考にしていただきたいのだが、そこでも記したように玉川上水から分水された野火止用水は暗渠化されているので、その分岐点を直接、見ることはできない。しかも、上の写真のように用水の上には立派な散策路が造られている。

 なお、左手に見えるのは西武鉄道拝島線である。

東大和市駅東側から開渠となる

 西武拝島線玉川上水の隣駅(小川側)である東大和市駅のすぐ東側から、やっと野火止用水は顔をのぞかせる。上の写真は、用水が初めて地表に顔を現した場所である。

用水に沿って遊歩道が続く

 このように、人々の前に姿を見せた用水はしばらくは遊歩道を伴って東に進み、西武多摩湖線八坂駅の東側まで姿を現し続ける。そこでまた、900mほど暗渠化され、東村山市恩多町にあるボーリング場の裏手で再び、人々の前に姿を見せることになる。

◎柳瀬川と清瀬金山緑地公園

柳瀬川

 柳瀬川については、すでに本ブログの第52回で多摩湖狭山湖を紹介した際に少しだけ触れている。この川の源流は狭山丘陵の谷にあって、多摩湖(山口貯水池)が造られる前には、この川の流域にいくつかの集落があった。ただし、貯水池が出来ると源流域はほとんど水没してしまい、僅かに六道山公園の東側の谷に源流点らしき痕跡が残るのみである。

 第52回、53回に紹介した狭山丘陵の項で紹介した空堀川はこの柳瀬川の支流で、野山北公園の谷を水源として狭山丘陵の南側を流れ下り、清瀬市中里で柳瀬川に合流している。 

左岸の河原ではバーベキューも可能

 この合流点から1.6キロほど下流の左岸側にあるのが、ここで取り上げた清瀬金山緑地公園で、よく整備された池を中心ににして周囲には雑木林が残り、河川敷の一部では、写真のように野外バーべキューが楽しめる場所もある。ただし、バーベキューが可能なのは河川敷のみで、緑地公園内では不可である。

小魚を狙う釣り人

 川には大きなコイが数多く泳いでいたが、小魚も豊富なようで、写真のような短めの竿を用いて小物釣りを楽しむこともできる。

 以前にも触れたように、この柳瀬川もその支流の空堀川も、そして黒目川もすべて古多摩川の流路に当たる名残河川で、かつて古多摩川は荒川方向に向かって流れていた。それが関東山地の隆起によって流路を変更したという点についても本ブログでは何度か触れている。

意外に水量は豊富

 私がこの公園の存在を知ったのは、今から20数年前のことだった。取材で関越自動車道をよく使うことになったとき、所沢ICを入口に利用するのが一番便利だと気付いてからのことだった。

 距離的には大泉ICのほうが近いし、私は若い時分に練馬区の某都立高校の教員をしていた(担当はなんと倫理・社会)ので、練馬近辺の道にはかなり詳しくなっていた。ただ、大泉ICに至るまでは西武線の踏切を2度超える必要があったし、西武線の遮断機は京王線に比べると閉まるのは早いし、開くのは遅いので、相当に朝早い時間でないとその踏切を渡るのに難儀した。

 そこで東村山経由で所沢に至るルートに変更してみたが、そこでも西武線の踏切が行く手を遮るので、やはり時間の短縮は難しかった。

 結果、地図を詳細に調べてみると、清瀬市役所脇から細い道に入り、柳瀬川を渡ってから道を東に取ると、所沢ICのすぐ近くに出られることが判明した。その際、柳瀬川にかかる橋は「金山橋」であり、渡った先には広い公園があることが分かった。

 いつか立ち寄ってみたいとそのころから考えていたが、実現したのは今回が初めてとなったのだけれど。

 もっとも、大泉ICへの道では2つの踏切が廃止された(ひとつはアンダーパス、ひとつは西武線の高架化)ことで、近年はまた大泉ICを利用することになったので、公園の存在はすっかり忘却していたのだけれど。

公園内の大きな池

 川から水を導入したのか、それとも近くの伏流水が流れ込んだのかは不明だが、約2万平米の広さを有する公園の中心にあるのが写真の池である。

 この公園のテーマは「武蔵野の風と光」だそうだが、雑木林から流れ込む風は確かに柔らかく感じ、それが池に小さな波を生み出し、水面は明るい陽射しを受けてキラキラと輝いている。

しだれ桜にやっと春が到来

 池のほとりには、写真のしだれ桜が数本、植えられている。これは福島県の三春町から移植されたとのこと。三春のしだれと言えば全国的によく知られたブランド桜である。

伏流水を池に導入

 おそらく伏流水であろうか?池の西側には写真のような流れがあり、これが自然のままに残された草むらの中に小さな川を形成している。ここではホタルを育成しているとのことで、流れの近辺は立入り禁止になっている。

置物その1

置物その2

 上の2枚の写真にある通り、流れの脇には石が配置され、その上には2種類の小動物を模したキャラクターグッズが置かれていた。私は可愛らしいと思うのだが、私の友人の一人はカエルが大の苦手なので、この存在を知った途端に、この公園の存在そのものを毛嫌いすると思われる。河原にはカエルは付き物だと思うのだけれど。

 

池に自作の船を浮かべる人

 その流れの先に件の池がある。この写真を見る限り、確かに「風と光」をテーマにしていることがよく分かる。

 池に浮かんでいるのは模型の自走式の船で、ラジコンでコントロールしながら池の上を悠々と走らせている。

船遊びは2グループいた

 この船遊びは2組の年配者がそれぞれ自慢の作品を見物客に披露していた。私には模型を製作するという技能や根性がまったく欠けているので、こうした遊びをしたことはない。それほど困難な作業ではないと思うが、それなりの情熱は必要なのだろうと思う。

 私は小さな船が池の上を進む姿をしばらく眺めていた。水を見ればすぐさま釣りを、釣りだけを連想してしまう自分にとって、極めて新鮮な感情が少しだけ生じた。

 遊びは人の数だけ、いや人の数をはるかに凌駕するほど存在する。

金山調節池

 金山橋の下流側には有料駐車場があり、そのすぐ東側に写真の「金山調節池」があった。柳瀬川が増水したときにはここに水を導入し、下流での越水を防ぐのである。

 この調節池の傍らに整備された道を一人、中年の女性が散策していた。その先には、豊かな自然の草むらや林があった。

 この姿こそ、かつての武蔵野の情景だったのかもしれない。