徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔108〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(3)象潟から酒田、そして月山へ

西施像。あまり美人には見えないけれど

◎象潟や雨に西施がねぶの花(芭蕉

蚶満寺(かんまんじ)にある芭蕉

 「江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟(きさがた)は憾む(うらむ)がごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。」

 芭蕉が「おくのほそ道」に出掛けた際、とくに目にしたかったのが太平洋側の松島と日本海側の象潟(現在は「きさかた」と清音で読む)であった。ともに歌枕として名高い場所であるが、松島はそのあとに平泉や出羽三山などに立ち寄っているので当然、立ち寄るべきルートの内にあったが、象潟は酒田(最上川の河口)からわざわざ北上して足を伸ばしている。それだけ、芭蕉にとって象潟は重要な場所だったのである。

 象潟の 桜は波に うづもれて 花の上漕ぐ あまの釣り船

 この歌は、芭蕉が敬愛してやまなかった西行の作品である。そうした場所であるからこそ、彼はわざわざ北へ向かったのだろう。ちなみに、おくのほそ道の最北点がこの象潟である。

象潟は、おくのほそ道ではもっとも重要な場所のひとつ

 私が象潟を知ったのは、16歳の誕生日を迎える約ひと月前のことだ。担任が勧めるままに入った学校は自宅から一時間半掛かり、しかも都内にあるので満員電車を乗り継ぐ必要があった。入学してからひと月もたたないうちに学校には絶望し、毎日、遅刻、中抜け、早退を繰り返していた。

 が、国語教師の授業だけはなかなか面白く、あまりさぼらずに出席した。教科書を無視して好き勝手に授業を進めるその教師は、『おくのほそ道』を教材に使い、件の「象潟」の句について詳しく解説したのだった。とりわけ、この句に登場する中国四大美女の一人である西施の悲しい生涯についての話が興味深かった。

 私は中学を卒業するまで、本というものを全く読まなかったので、私が本らしきものに接したのは『おくのほそ道』が初めてだった。ちなみに、2冊目はプラトンの『ソクラテスの弁明』、3冊目はデカルトの『方法序説』だった。

 私はこの時期、まったく思いもよらなかった初恋が成就し、駅や街、そして彼女の家でとりとめもない話をするのが唯一の喜びであった。口数の少ない彼女は私の話をよく聞いて笑ってくれていたが、私自身、女性との話は結構、苦手だったため、ほとんどとりとめのない内容ばかりだった。

 彼女は中学校でも評判の美少女であった。そのため、私は彼女と西施の存在が重なって思えるようになった。そして西施の生涯が悲惨であったのと同様、私のようなサル人間と付き合うことは彼女には不幸なことだと考えるようになったのである。

 そんなこともあって、私は現実からの逃避先を求めていたのだが、象潟の存在を知った時、私はその地を徘徊先に選んだ。最小の荷物とお金をもって、学校を抜け出して午後に上野駅に向かった。象潟へ行く路線をきちんと調べていなかったが、とにかく北を目指すには上野駅発の列車に乗れば何とかなるだろうと安易に考えていたのだ。

 持ち金から考え、普通列車にしか乗れないことは分かっていた。結局、その日は宇都宮駅まで行き駅舎内で一夜を明かした。その駅に置いてある時刻表で調べると、象潟に向かうには新潟経由が良いということが分かった。そこで、郡山から磐越西線を使って新潟を目指すことにした。が、なぜか会津磐梯山の姿を見たくなったことから途中下車してしまい、しかも6月中旬なので雨が強くなり、山は見られないし、傘はないし、人家もほとんどない場所に出てしまったため、その日は会津若松まで行くのがやっとのことだった。ここでも駅舎内に泊まった。

 磐越西線は本数が少なかったこと、次第に体力や気力が衰えてきたことから、翌日は新潟駅に到達するのがやっとだった。しかも新潟駅では終電後は駅舎が閉鎖され始発まではそこに立入ることは不可だった。仕方なく私は雨中、駅の近辺を徘徊し、何とか雨がしのげる公園を見つけ仮眠をとることにした。

 そんな時、警察官がやってきて職務質問された。明らかに家出人と思われ、実際、家出人とほぼ同様の存在であったのだが。私は学校から発行された身分証を持っていたために署に連れてゆかれることは回避でき、始発列車で自宅へ帰ることを条件に、解放された。この件があったことから象潟行きは断念を余儀なくされた。以来、ますます学校への足は遠のき、遂には自主退学することとなった。

 肝心の象潟行きと言えば、18歳になってからすぐに運転免許を取得し、まずは伊豆半島巡りで運転技術を磨き、その年の秋に宿願の象潟の地に足を踏み入れることができた。その翌年の夏に再び出掛け、「ねぶの花」=ねむの花咲く象潟の風景に接した。西施は居なかったけれど。 

蚶満寺(かんまんじ)の山門

 蚶満寺(おくのほそ道では「干満珠寺」と表記されている)の開基は不明だが、慈覚大師円仁が整備されたとの言い伝えがある。

 現在ではこの寺の境内へは歩いて行くことが出来るが、能因法師(10~11世紀)や西行(12世紀)、それに芭蕉がこの寺を訪れた時(1689年)には、いずれも船で寺に至っている。

 象潟の地は2500年前に起きた鳥海山の大噴火にともなう山体崩壊によって岩屑雪崩(がんせつなだれ)で海が埋まり、それが波による浸食を受けて入り江が形成された。大きな岩は流れ山となって数多くの島(九十九島、つくもじま、くじゅうくしま)が入り江に浮かび、それが東の松島と対比されるような景観を呈したのである。

 やがて入り江は砂州に囲まれ、古象潟湖と呼ばれるような姿になった。それゆえ、能因も西行芭蕉も、寺の境内には船で渡ったのである。

 しかし、1804年に発生した象潟地震マグニチュード7から7.5と推定されている)によって地面が2mほど隆起したため象潟湖は干上がり湿地帯となってしまったのだ。

 これは正月に発生した能登地震と同じような逆断層によるズレによって地面が隆起したのである。今回の地震では輪島では5mほど隆起したが、象潟地震では2mほどだったと推定されている。

 ともあれ、現在、私が見た象潟は芭蕉が目にした姿とは全く異なっているものの、周辺を散策すると、かつてはここが水の上にあったことを推察することは可能だ。 

蚶満寺の庭園

 寺の境内には、写真のような池が造られている。この姿は、おそらく湖上にあった古えの姿を再現しようと造成されたものと思われる。

 先述したように、蚶満寺の来歴には不明な点が多いが、鎌倉時代に執権の北条時頼から田地の寄進を受けているので、出羽の国ではそれなりによく知られた寺だったと考えられる。

 この寺は六郷家が支配する本荘藩の領地であった。藩の財政にゆとりななくなった時に象潟地震が発生し、先に触れたように象潟の湖は隆起して湿地帯になった。そこで、藩では九十九島(九十九森とも)の豊かなクロマツの森を伐採し、水田として利用して藩財政の立て直しを図ろうとした。

 これに反対したのが蚶満寺24世の覚林で、彼は京に上り閑院宮家に嘆願して、寺を宮家の祈祷所にしてもらうことになった。安易に象潟の開発をさせないという目論見であった。この覚林の動きに激怒した六郷家は、覚林をひそかに捉え浪人として獄死させたのであった。

 これにより象潟の水田開発は進んでしまったものの、なんとか多くの森は残されることになった。命を懸けた覚林の勇気ある行動が、どうにか豊かな自然を守ることが叶い、現在、陸地化してしまったとはいえ、かつての面影を残すこの地、すなわち、能因が西行が、そして芭蕉が愛してやまなかった象潟の風景を心の中でイメージすることが出来るのである。

西施像

 中国の春秋時代、越国の勾践(こうせん)と呉国の夫差(ふうさ)は、海水の大逆流で有名な銭塘江を挟んで対峙していた。会稽山(かいけいざん)の戦いで屈辱的な敗北を帰した勾践は汚名をすすぐため、領地から美女を集めて夫差に送り、彼を骨抜きにしようと策略した。その中の代表的な美女が西施であった。

 勾践の思惑通り、夫差は美女に溺れ政治がおろそかになったために越国の勾践は「会稽の恥」をすすぐことができたのだった。反面、西施は袋に入れられ長江に捨てられるという運命となった(諸説あり)。

 西施は胸を患っていて、苦しさで何度も顔をひそめることがあった。それが一層、美しさを際立たせるということを知った近所の醜女が、西施の真似をして顔をひそめたところ、より醜く見えたので皆に笑われた。この逸話は「ひそみにならう」という言葉として現在でもよく用いられる。

 その他、呉越の戦いでは、「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」など、故事成語として今でも生きている言葉がある。

 写真の西施像が美しく見えるかどうかは議論が分かれるところだろうが、冒頭に挙げた白い衣服を羽織った像よりは愛嬌があって良いかと思う。まあ、日本の「おかめ」だって一時は美人の代名詞として使われたことがあるので、美醜は価値観の相違ということになろうか?

象潟の記念碑

 象潟の地は、1934年に国の天然記念物に指定されている。写真は、それを顕彰するために建てられた記念碑。碑には「紀年」の文字を用いているが、現在では「記念」を使うことがほとんど。しかし、意味はまったく同じなので、何の問題はないし、「紀年」と記されていることで、かえって歴史を感じさせる。もちろん、下の「潟象」も古えの記し方である。

 碑全体が傾いていることもあいまって、時代を感じさせる良い記念碑だといえる。

芭蕉が訪れたころは入り江だったのだが

 写真のように、原っぱや水田の中に流れ山が数多く並んでいる。いずれも、鳥海山の山体崩壊によってこの地まで運ばれてきた「流れ山」で、かつてはその一つ一つが小さな島を形成していた。

流れ山が造ったかつての島

 それぞれの流れ山にはクロマツが大きく成長し、小さな「島」に大きなアクセントを与えている。

かつての島も今は田畑の中の丘

 写真の流れ山のように全体が木々で完全に覆われたものもある。九十九島の別名が九十九森であったことがよく分かる流れ山のひとつである。

 こうした「流れ山」が、かつては入り江に浮かんでいたことを想像すると、確かに松島に比肩できるほど見事な景観だったのだろうが、仮にそのままの姿で現在残っていたとしても、やはり明るさを感じさせる松島に比べ、「寂しさに悲しみを加へ」るような印象を与える「陰の景観」だったと思われる。

 そういえば、私が初めて「自裁」を考えたのも、18歳のときに初めてこの景色に触れたときのことであった。

 無念なことに、徘徊老人となり果てるまで生きてきてしまったのだけれど。

羽越本線を走る列車

 次の目的地に行こうとしていたとき、すぐ横を走る羽越本線の列車が通り過ぎていった。もちろんはるか昔のことなのでこんなに奇麗な列車ではあるはずはないけれど、私が15歳の時に、きちんと下調べをして象潟への逃避行が成功していたならば、この羽越本線をつかって象潟駅に到着していた蓋然性は高い。

 そうであったとすれば、私はその時に象潟の海に消えていたかも。もっとも、私は泳ぎは得意なのでただの海水浴で終わったかも……

道の駅・象潟ねむの丘

 蚶満寺境内を出て羽越本線と国道7号線を渡り、少しだけ北方向に進むと、写真の「道の駅・象潟ねむの丘」に出る。

 1998年にオープンしたこの場所はとても敷地が広く、中心部には写真の建物がある。1階は物産館、2階はレストラン、4階は展望温泉「眺望の湯」、6階は展望塔というように、道の駅としては異例と思えるほど設備が充実している。蚶満寺には私のほか、一人だけ見物人がいたが、この道の駅には大勢の人が集まっていた。

 ところで、この道の駅は何故、「ねむの丘」と命名されているのだろうか?ネムノキはマメ科ネムノキ属の落葉高木で、日本では特別に珍しい存在という訳ではなく、私の近所の公園でもよく見掛けるほどありふれた存在である。それゆえ、ここがネムノキがとりわけ豊富という訳ではなく、やはり芭蕉の句に関係しているのだとしか考えられない。

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

 ネムノキは6,7月に水鳥の羽のようなふわふわとした花を咲かせるが、花芯近くは白く周辺に行くにしたがって淡いピンク色に染まる美しさをもつ。ただ、とても儚げに見える花であり、雨に当たるとすぐに散ってしまう。また、葉は小さな鳥の羽のような形をしており、羽状複葉なので夜になると葉を閉じる就眠運動をおこなうことで知られている。

 こうしたネムノキの特性を西施の生涯に結び付けた芭蕉の句は、傑作という以外に言葉が浮かばない。芭蕉が師と仰いだ西行の和歌を先に紹介したが、その歌は西行でなくとも作れそうであるが、芭蕉の句は、彼以外には決して生み出すことはできなかっただろう。

 西施が胸を病んでいてしばしば目を閉じるような仕草をしたこと、絶世の美しさを有してたゆえ、戦争の「道具」に用いられたことなどを完全に理解していたからこそ、西施と、「寂しさに悲しみを加へ」た象潟の地勢と西施とをネムノキを用いて両者を結びつけることができたのだ。

 ねむの丘の建物の裏手(海岸線側)には象潟公園が整備され、その中央に冒頭に挙げた西施像が置かれていた。ただ、残念なことにその像に目を向ける人はほとんどいなかった。

象潟漁港

 天気に恵まれれば象潟漁港からは鳥海山がよく見えるのだが、この日は雨雲が分厚く空を覆っていたので、山は裾野までも姿を隠していた。

 そういえば、西施は大根足が唯一の欠点であったため、常に裾の長い衣を身に着けていた。そんなことを思い出したためもあって、裾野まで雲を纏った鳥海山もまた一興のように思えた。

◎吹浦の十六羅漢

吹浦港高台にある芭蕉句碑

 吹浦にやってきた。芭蕉は酒田から吹浦を通って象潟に向かったが、私は象潟から南下して吹浦に立ち寄ってから酒田に向かった。

 あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み

 芭蕉はこの地(山形県遊佐町吹浦)を題材にして上の句を詠んでいる。温海山(標高736m)は、鶴岡市のさらに南にある山で位置としては月山の西隣にある。それゆえ、この句は吹浦で詠んだというより、酒田の沖に舟を浮かべ、夕涼みをした体験を元に作ったと考えられる。酒田は北の吹浦と南の温海との中間に位置する町だからだ。吹浦という名から夕涼みに適した柔らかな風が、芭蕉には心地よかったのだろう。

 写真の句碑は、酒田ではなく遊佐町にある吹浦港の北側にある高台に設置されていた。ここは下に挙げる「十六羅漢岩展望台」近くの広場であり、羅漢岩を見学する際には、この広場に車をとめるのがもっとも便利なのだ。

吹浦の出羽二見

 吹浦漁港の北側の海岸線に、写真の「出羽二見」と名付けられた岩が並んでいる。これは伊勢の二見ヶ浦の岩に似ていることから、それになぞられて名付けられた。二つの岩を結ぶ注連縄は、漁師たちの海上安全を祈願して取り付けられたそうだ。

 5月と8月には、注連縄の中央に夕日が沈むといい、これを見た人には良いことが起きると言われているそうだ。もっとも、中央と言っても見る角度によって時期は異なると思うのだが。きっと、どこかに見るべき場所が定められているのだろう。

羅漢像その1

羅漢像その2

羅漢像その3

羅漢像その4

羅漢像その5

 私はこの場所にきたのは出羽二見を見るためではなく、岩場に彫られた十六羅漢岩を見学するためだった。上の5枚は、その羅漢像を見て回り、印象に残ったものを掲載した。

 羅漢とは、修行者では最高の位で、部派仏教(いわゆる上座部仏教)では、預流(よる)、一来、不還と上位にゆき、阿羅漢果(略して羅漢)を得ることが修行の最終目的を果たすことになる。

 大乗仏教では、最高の境地を得た16人の羅漢が有名で、稀に十八羅漢や第一回仏典結集に参加した五百人の釈迦の弟子を五百羅漢ということがある。

 この場所には、十六の羅漢だけではなく、釈迦、文殊菩薩普賢菩薩、観音、舎利仏、目蓮の6つの像もあり、合わせて22の像が凝灰岩に刻まれている。

 これは吹浦海禅寺21世の寛海和尚が1864年に、遭難した漁師の諸霊の供養と海上安全を願って発願したもので、5年の歳月をかけて完成させた。和尚自らは托鉢をしながら石工たちを指揮した。

 完成してからは160年以上の歳月があり、日本海は冬期には荒波が諸像を襲い、合わせて岩はややもろい性質があるために形が崩れているものも多かった。

 私には、3枚目に取り上げた写真がもっとも気になった。といっても、羅漢像そのものより、その後ろの岩がサルに見えたからである。これは不信心のなせる業で、信仰心に厚い人には、そんなものには目が行かないと思う。

◎酒田港日和山公園と山居倉庫

ここにも芭蕉像があった

 酒田市街にやってきた。最上川の右岸にある日和山山頂には公園が整備されている。日本各地の港の近くには日和山と名付けられた高台が数多くある。この高台から海の様子を観察して、帆船が出航できるか否かを判断する。すなわち、日和を見極める場所なので、高台は日和山と呼ばれるようになったのである。

 現在は最上川河口には長い堤防が整備されているのでこの場所から河口付近を観察するのはやや不便である。もっとも、今では帆船はないし、日和も気象台が調べているので、日和山としての役割は終え、現在ではそれなりに広く見晴らしの良い公園としてよく整備されている。

芭蕉の句碑

 最上川の河口と言えば、芭蕉の次の句があまりにも有名であり、公園内には写真のような芭蕉像と句碑が置かれている。

 暑き日を 海に入れたり 最上川

 この句の初案は 「涼しさや 海に入れたり 最上川」であった。

 最上川を題材にした芭蕉の句では

 五月雨を あつめて早し 最上川

 があまりにも有名だが、この句の初案も「五月雨を 集めて涼し 最上川」であった。

 この二つの句とも、初案では「涼し」を使っていたが、最終的には「涼し」を双方とも外している。これは、芭蕉が「涼し」という主観性を排除し、より広大な世界を語るために別の言葉を使ったのである。こうした点が芭蕉の句が優れていることの証左になっている。

 芭蕉が師と仰いだ西行は和歌で自らの心内を素直に表現したが、芭蕉はわずか17文字で、単なる心象風景ではない宇宙観を表現したのである。人としての魅力は西行が勝るが、芸術的センスでは芭蕉のほうがはるかに優れていると私には思われる。

最上川河口方向を望む

 写真のように高台からは最上川の河口近くを望むことが出来る。先述のように現在は長大な堤防が沖まで走っているため、この場所は河口から2.4キロ遡ったところに位置する。

日枝神社の山王鳥居

 公園の隣に写真の下日枝神社があった。例年、5月20日に行われる酒田祭りは上・下日枝神社例大祭で、1609(慶長14)年から途絶えることなく続いているとのこと。

 日枝(ひえ)神社の名は、比叡山に由来しており、神仏習合の名残りがその名に留められている。

 私が関心を抱いたのは神社そのものではなく、写真の山王鳥居で、神明鳥居の上部に三角形の合掌、あるいは破風のようなものが加わっている点である。この形は東京都内にある日枝神社でも見ることができる。

 新品同様の鳥居だったので、少しだけ調べてみたところ、以前の木造のものは1964年に強風で倒壊したとのことで、現在のものは1981年に再建された。

 奥にある隋身門(髄神門とも)は歴史を感じさせる立派なものであると見受けられたが、私は不信心者なので、この山王鳥居の見物で満足した。

酒田の観光名所である山居倉庫

 酒田の観光名所としてもっとも有名なのは、写真の山居倉庫だろうか。私は酒田には何度も宿泊しているが、この倉庫群を間近に見て歩くのは今回が初めてである。酒田市内に宿泊するといっても、男鹿半島に行く途中で鳥海山に登り(車でだが)、そのあとに象潟に立ち寄って西施を偲んでから男鹿に向かう、あるいは鶴岡市の海岸線の沖にある磯に渡るため、または酒田市の沖に浮かぶ飛島に遠征するためのいずれかであって、町中を歩いたことはほとんどなかった。もっとも、山居倉庫自体はよく目に付く存在なので、酒田に泊まれば必ず視界には入った。

こちらが表側

 庄内平野日本海側有数の米どころで、その収穫した米を保管する倉庫が写真の「山居倉庫」である。酒田市の観光地としてはもっともよく知られている場所で、1893(明治26)年に旧藩主の酒井家によって建てられた。

 白壁、土蔵造りの倉庫は9棟あり、米18万俵(10800トン)が保管できるとのこと。ひとつ上の写真にあるように、倉庫内が高温にならないように南側にはケヤキが35本植えられている。今では樹齢は150年以上にまで生長しているため、このケヤキ並木単体でも十分に見応えがある。

湿気防止のための二重屋根

 倉庫の屋根は写真のように二重になっている。これは、内部の湿気を除去する働きをしている。

酒田では一番人気の景観

 新井田川に架かる山居橋から倉庫群を眺めるのが一番良い景観に思われた。2021年には国の指定史跡になったが、倉庫としての役割は翌22年に終えている。

 なお、建物の一部は観光物産館「酒田夢の倶楽」や「庄内米歴史資料館」に用いられている。

土門拳記念館

記念館の外観

 土門拳(1909~90)は1909年に酒田町(現在の酒田市)で生まれた。7歳の時には一家で東京へ、9歳の時には横浜に住んでいるので、酒田市との縁は短い。しかし、74年に酒田市土門拳酒田市名誉市民第一号に認定している。それだけ、写真家としての土門は数多くの名作を世に出しているからである。

 1980年に酒田市土門拳記念館の設立を決定し、83年に開館された。それにこたえ、土門は13万5千点にもおよぶ作品を記念館に寄贈している。もちろん、展示してあるのはその一部に過ぎないが、ほぼ全作品を貯蔵してあるのは写真家冥利に尽きるのではないか。

特別展示室

 私が訪れたときには、「名取洋之助土門拳」というテーマで二人の代表作が展示されていた。双方とも非常に強い個性の持ち主であった。1935年に名取が主宰する『日本工房』に土門が入社を許されたものの、39年には「喧嘩別れ」といった感じで、土門は日本工房を退社している。

 これはアメリカの『ライフ』誌に掲載された名取の作品の一部に土門のものが混じっていたことが切っ掛けとなっていたようだ。しかし、両人とも主義主張がはっきりしていただけに、いずれ分かれることは定めだったとも言える。

 しかし、喧嘩別れの状態になっていても、名取は土門の作品を、土門は名取の作品を、それぞれ激賞に近い形で評価し合っていたとのことだ。 

お馴染みの写真その1

 土門拳が最も愛してやまなかったのは1939年に初めて訪れた『室生寺』だった。

「たった一回の室生寺行が、ぼくに一大決心をなさしめた。日本中の仏像という仏像を撮れば、日本の歴史も、文化も、そして日本人をも理解できると考えたのである。」という言葉を彼は残し、それが1963年から75年に出版された『古寺巡礼』(全5巻)であった。

 78年には、初めて「雪の室生寺」を訪ねることができた土門は、上の一番左にある傑作をものにすることが出来た。

 ここに展示されている古寺の写真はすべて、あまりにも有名なので私が言葉を用いる必要はまったくない。

 私の姉が寺巡りが大好きだったこともあって、自宅には『古寺巡礼』が何巻か置いてあった。それを何度も目にしていたことで、私も長じてからは寺巡りが趣味のひとつになった。ただ土門のように、仏像から何かを引き出すような才能はまったくないため、私の写真に芸術性は全然といっていいほどなく、ただ単にシャッターを押しているというものばかりである。

お馴染みの写真その2

 この2枚の写真も、知らない人はほとんどいないと思われるほどよく知られた作品である。左が『筑豊のこどもたち』(1960年)、右が『ヒロシマ』(1958年)の代表作である。

 土門は「絶対非演出の絶対スナップ」をモットーに独自のリアリズム論を主張していた。その一方、「写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。そこが難しいのである。」とも語っている。

 それゆえ、彼の作品は「写真は肉眼を越える」という言葉通りのものが多い。

 私も仕事柄、「なんちゃってカメラマン」を数十年おこなってきたし、現在も本ブログのように写真を何枚も掲載しているが、腕のほうはまったく上達が見られない。「お前の写真は説明的で、学校の先生が撮るようなものばかりだ」と知人に言われたことがある。そういえば私は、「釣りバカ」一本筋になる前は学校の先生をやっていたのだった。現場では同僚からも生徒からも、もっとも先生らしくないと言われ続けたが、写真だけは先生らしかったのかも。それもダメレベルだったけれど。

サギも見学に来ていた

 記念館の横には大きな池があり、鳥たちもよく飛来していた。ときには、写真のようにサギも写真見物に来るようだ。今回のように特別展が開催されているとき、入場料は1200円となる。さすがのサギも詐欺を働くことはできないようで、このように場外から見つめるだけしかできないようだ。

いささか立派すぎる建物

 確かによくできた記念館であったが、こうした近代的な建物が土門拳には相応しかったのかどうかは少しだけ疑問が残った。

 もちろん、中身の問題ではなく、その佇まいである。なんとなく西洋美術館を想像させてしまうのだ。

 矢張り、土門拳の金字塔である『古寺巡礼』に倣い、お寺的な要素が欲しかった。あるいは、「山居倉庫」風でも……。

湯殿山総本寺瀧山寺大日坊

大日坊の山門

 出羽三山は西の熊野三山と並び称されるほど、古くから信仰の山として崇められていた。元来は自然崇拝の山岳信仰の地であったが、のちに仏教、道教儒教などが習合した修験道の山として無数の人々が、神々の峰、精霊の山としてこの地を訪れた。

 羽黒山(標高414m)は現世利益、月山(1984m)は死後の体験の場、湯殿山(1500m)は新しい命をいただく場所と考えられたようだ。羽黒山には出羽(いでは)神社、月山には月山神社湯殿山には湯殿山神社があり、芭蕉は当然ながらこの三社に詣でている。

 涼しさや ほの三日月の 羽黒山

 雲の峰 いくつ崩れて 月の山

 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもとかな

 信仰心はまったくなく、かつ体力もない私には山に登る気持ちを表出することはないが、せめてその麓ぐらいは訪ねてみようと、まずは湯殿山の遥か下方にある「湯殿山総本寺瀧山寺大日坊」(標高339m)へ出かけてみた。

 ここは「徳川将軍家祈祷所」を掲げているのであまりありがたくない気持ちもあったが、歴史は古く802年に空海が開山としたといわれる由緒のある寺なのである。かつては「教王喩迦寺」という寺号で、湯殿山が女人禁制であったために、空海はその麓に女人のための湯殿山祈祷所としてこの寺をひらいたのだとのこと。

 往時はかなり立派な建物が林立していたようだが、明治8年の火災によって焼失してしまったため、現在ある本堂などはその後に再建されたものである。しかし、山門(仁王門)だけは離れた場所にあったころから焼失を免れ、写真のように、歴史を感じさせる姿を今に残している。

 棟札には鎌倉時代のものが残されているが、専門家によればその造作などから、鎌倉時代以前のものと推察されている。開山当時のものかどうかは不明だが、1000年の時を経ていると考えても不思議ではない。

石仏群に魅了される

 下に挙げるように、本堂などは明治の大火以降のものなので、ごく普通の建物であってとくに目を惹くものはなかった。そうした建物群よりも、私は参道に並んだ写真の石仏群に関心を抱いた。この石仏はすべて表情が異なっている。それがどういう意味を有するのかは不明だが、それでもこの寺が掲げる以下の言葉に、この石仏たちが語る内容がしっかりと表れている。

 心を無にして瞳を閉じると 尊い仏の教えが聞こえてくる

本堂

 本堂はただ外から眺めただけ。相変わらずお参りはせず、少しだけ境内を散策した。大日坊といえば、真如海上人の即身仏があることでも知られている。他にも二体あったそうだが、それらは焼失してしまったとのこと。

 真如海上人は96歳のときに土中入定し、千日後に掘り出された。現代でも6年に一度、衣替えがおこなわれているそうだ。

 ともあれ、後述する月山も含め、神社には立ち寄らず、この大日坊訪問でお茶を濁した。湯殿山神社も、羽黒山の出羽(いでは)神社も、その近くまで道路が整備されているので、実際にはそれほど苦労せずとも訪ねることは可能だ。ただ、今回は時間の関係もあり、そちらは省略してしまった。再び東北を訪れることが可能であれば、次はその2つの神社を訪ねてみたいと思う。もちろん、参拝はしないけれど。

◎月山湖

月山湖の「月の女神」

 月山に向かった。それには国道112号線を使って、月山湖に至る必要がある。その湖の北側から国道112号線の旧道(六十里越街道)と県道114号線を北上すれば、月山湖スキー場まで車で行ける。旧道の入り口の標高は417m、スキー場の駐車場は1193mなので結構、高低差はある。その途中には、山形県立自然博物館(標高808m)があるので、そこにも立ち寄る予定でいた。

 その前に、月山湖(正式には寒河江ダム)のほとりで少しだけ散策した。休憩所には、写真の「月の女神」像があった。金色がこのモニュメントに相応しいかどうかは判断できないが、月山にはそれなりに似合うと、私には似つかわしくないやや甘めの判断をした。

大噴水

 月山湖でもっともよく知られているのは、写真の大噴水で高さ112mまで噴出され、これは日本一の高さを誇るとのこと。

 高さ112mの「112」は、いろいろな意味を持つ。寒河江ダムの堤高が112m、すぐ横を通る国道が112号線。これだけならそれほど感心しないが、ダム建設のために移転を余儀なくされた家が112戸となると、偶然にしてもあまりにも出来過ぎかと思える。そのためもあってか、この噴水の竣工は、11月2日の11時20分に敢えて設定したとのこと。

 この日は、この角度からでは光が足りないので、単なる水柱にしか見えないが、光の当たり具合では水たちは七色に輝くだろう。

こちらのモニュメントも気に入った

 別の場所には写真のモニュメントもあった。晴れ渡っていれば、モニュメントの背後には月山の姿が見えるはずだ。芭蕉の句の「雲の峰いくつ崩れて月の山」の通りの姿を月山はしている。私は、初めて月山を目にしたとき、すぐにこの句を思い出し、芭蕉の風雅な写実性に感心したものだった。

山形県立自然博物館

雪解け水が沢(石跳川)を生む

 私は月山を目指した。とはいってもスキー場付近までで、そこから頂上まではまだ比高は800mほどあるけれど。もっとも、山の姿を心に沁みさせるには、ある程度の距離が必要だ。例えば、私が富士山に登らないのは、登山道からは富士山の優雅な姿に触れることが出来ないからだ。とはいえ、本心は疲れるのを避けるためなのだけれど。

 標高808m付近に「山形県立自然博物館」があった。月山を目指す道からは少し離れるけれど、あえて立ち寄ってみることにした。月山登山は面倒でも、この自然博物館が整備した散策路は、月山が生み出した造形美の一端に触れることができる実に素敵な場所であった。

 写真のように山の雪解け水や伏流水が生み出した石跳川の清冽な流れに沿って散策路は続いており、トレッキング姿の老若男女が結構な数、訪れていた。私は軽装なので、ちょっぴり徘徊しただけだが、それでも十分に豊かな自然の中に身を置いていることを実感できた。

水芭蕉の群生

 写真のように、水芭蕉が群生している場所があった。水芭蕉のひとつひとつは決して美しいものとは思えないけれど、群生した姿は見栄えが全く異なり、集合美というものを表現してくれている。

山野草も多く咲いていた

 水芭蕉の咲いている場所は湿地帯に限られていたが、写真のオトメエンゴサク(ケシ科キケマン属の多年草)は至る場所に咲いていた。花言葉に「妖精たちの秘密の舞踏会」というのがあるが、それはそれはなかなか言い得て妙な表現であり、この場所に咲き誇るオトメたちはあらゆる場所で舞踏会を開催していた。

 私の目に簡単に留まるぐらいなので”秘密”でもなさそうなのだが。この花もまた、ひとつひとつではさほど目立たないが、これらが群生している姿は極めて艶なる景観であった。

残雪による造形美

 道々には残雪が多く、その中に朽ちかけた木々や岩たちが雪上に姿を現していた。写真の樹木は幹は枯れてしまったものの根は残り、そこから新しい枝を伸ばしつつあった。枝は雪の重みで曲がってしまっているもののその先は天上を目指している。光を求めて。

地蔵沼

 自然公園を出て県道に戻り、秋の紅葉が美しいと評判のある地蔵沼を少しだけのぞいてみた。もちろん、紅葉のシーズンではないので、ブナ林の緑が沼を囲んでいた。晴れていれば水面に月山の姿が映るはずなのだが、それが見られなかったのが残念ではある。

月山山頂を望んだのだが

 月山スキー場にある駐車場を目指した。スキーをする訳ではなく、少しでも山頂に近づきたいという一心であった。が、スキー場の姿は見えたものの、山頂付近は雲に覆われたままであった。

見えたのはスキー場だけ

 駐車場には結構な数の車がとまっており、雪上にも人の姿が散見された。私はスキーは生涯で2時間ほどしか経験した事がない。学校のスキー教室では、2時間程練習した後、無謀にも結構な角度の斜面を下ろうとしたとき見事に転倒し、足を捻挫したため、以後は宿泊所待機となったのだった。以来、スキーをやろうとは一度も思わなかった。

 思えば、学生時代に山中湖へスケートをしに行った帰りに中央道で大雪に見舞われて、見事にガードレールに激突したのであった。幸い、私を含めた4名に怪我はなかった。以来、スケートからも撤退した。それゆえ、私のウインタースポーツと言えば、磯での寒メジナ釣りを指すようになった。

 月山の山容を間近に見られなかったのは残念なことではあったが、その姿は頭の中にしっかり留めてあるし、雲に隠れていることは県道を走っている当初から、いや月山湖から望んだ時点から分かっていただけに、がっかり度はさほど大きくはなかった。

 次の日は山形市街や立石寺などを巡る。天気予報は晴れを告げていたので、月山の全貌に触れることは可能かと思われた。

 そうした期待を抱いて、私はスキー場から離れた。捻挫もせず、ガードレールに激突もせずに。