徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔109〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(4)山形城、立石寺、亀岡文殊、米沢城跡など

この場所で芭蕉は「閑さや~」の句を着想したらしい

◎日本一公園(楯山公園)からの眺め

気宇壮大な公園名

 月山を離れ、この日に宿泊する山形市へ向かった。国道112号線を寒河江川に沿って東南東に進み、当初の予定では寒河江市に入り、その地の高台から月山の全容を眺めるつもりでいたが、相変わらず月山山頂は雲の帽子を被っていた。

 そこでルートを変更して、大江町にある「楯山公園」に向かうことにした。この公園の高台からは最上川の大蛇行が見られるとのことで、写真にあるように通称は「日本一公園」といい、「最上川ビューポイント」に認定されている。

 それにしても、「日本一公園」とはよく名付けたもので、その誇りの高さに敬服してしまった。

確かに眺めはかなり良い

 写真のように、北上してきた最上川は、この高台に衝突するために行く手を南方向に360度近く変更させられるのである。日本一はやや言い過ぎだとしても、確かに景観は相当に良い。

 公園一帯は地元の豪族である大江氏が城を築いた場所で、正式名称は「左沢(あてらざわ)楯山城史跡公園」と言い、この「日本一公園」はその敷地のほぼ南側に位置する。

 最上川左岸の左沢(写真では川の右手)をなぜ「あてらざわ」と読むのかには諸説あるようだ。一番説得力があるのは、左沢が川の左岸側にあり、右岸側を”こちら”とするなら、左岸側は”あちら”となり、川の”あちら”が転化して「あてら」になったとするものだ。

 ともあれ、「佐沢」は難読地名のひとつには違いない。

大蛇行する最上川

 川の右岸側(日本一公園からすればあちら側)の一部には河原があるが、蛇行直前の右岸には砂岩・泥岩の互層が見られ、しかもかなり褶曲していることがよく分かる。

 それはともかくとして、佐沢の崖が最上川を大蛇行させたことは事実であるにせよ、何故、こうなったのかはよく分からないというのが実感であった。

◎霞城(山形城)公園内を少しだけ歩く

山形城跡への出入口

 ホテルに入るにはまだ時間があったので、JR山形駅のすぐ北側にある山形城跡(霞城(かじょう)公園)に立ち寄ってみた。建造物はほとんどなく、いずれ本丸のあった場所を整備するための基礎的な発掘調査がおこなわれているばかりなので、城をイメージして出掛けるとがっかり度は高い。

 その一方、かつては51万石の大大名の城郭があった場所なので、敷地は広々としていて、散歩をする目的であれば失望感は少なくて済む。

 復興された建造物は敷地の東側に集中して存在するので、写真にある堀に架かった橋を渡って城の中に入ることにした。

橋の下には新幹線も走っている

 写真は堀に架かる橋だが、手前にはもうひとつ橋があり、その下には山形新幹線仙山線左沢線(あてらざわせん)が走っている。お堀の水は澱んでいて奇麗ではないので、私は鉄道の線路のほうに興味を抱いてしまって、そちらの見物に時間をかけてしまった。

二ノ丸東大手

 敷地内に入ると、写真の「二ノ丸東大手門」が姿を現した。もちろん、守りを重視するために枡形虎口をしている。往時はお堀に張り出す形の「外枡形」だったそうだが、1991年に竣工した現在のものは内升形という普通のものになってしまっている。

城主・最上義光顕彰詞碑

 二ノ丸に入ると、そこは広場になっていて、その中心には写真の「最上義光(もがみよしあき)」の像があった。後ろ足の2本で立ち上がっている姿はなかなか結構なものだったので、東大手門よりは存在感に溢れていた。

 最上義光(1546~1614)は山形藩51万石の初代藩主。関ヶ原の戦い(1600年)では、伊達政宗とともに東軍(家康側)につき、西軍側の上杉景勝と戦って(出羽合戦)勝利し、山形の地を安堵された。

 身長が180センチ(推定)もあった義光は武術はもちろんのこと、文化人としても優れており、『伊勢物語』や『源氏物語』を愛した。また数多くの連歌を残し、仏教の保護もおこなった。のちに挙げる立石寺の再建も、義光の時代におこなわれた。

 全国的な知名度はないが、なかなかの傑物であったことは確かである。

山形市立郷土館

 中には入らなかったが、建物自体には魅力を感じたことから、いろいろな角度から見て回った。1878年に洋風をまねて造られた県立病院(済生館)で、1904年に市立病院に移管された。1966年に国の重要文化財に指定されたことから、建物を霞城公園内に移設・復元されたとのこと。71年に市立の郷土館として利用され、郷土史や医療関係の資料が保管、展示されている。

 日本全国に増殖中の高層ビルはどれもみな同じような姿で誠につまらない造形物であるが、このような明治期の建物にはそれぞれ個性があって、見ているだけでも清々しい気持ちになる。 

山形城を発掘調査中

 山形藩は51万石を誇る大藩であったことから、さぞかし立派な城郭を有していたと思われるが、その大半は姿を消してしまっている。現在はその復元の第一歩として発掘調査などがおこなわれているようだが、私が見た限り、なかなかはかどってはいないようだ。写真の通り、半ば“ほったらかし”状態のところが大部分なので、「城」を期待して訪れるとがっかり度は高いが、公園として考えるなら、結構な広さを有しているので、足腰を鍛えるには格好な場所かもしれない。

立石寺(山寺)を散策

JR仙山線山寺駅

 芭蕉ファンにも関わらず、近くには何度も訪れているにも関わらず、立石寺(山寺)の境内に足を踏み入れるのは今回が初めてだった。何しろ、奥の院までは1050段の階段を上る必要があると聞いていたからだ。

 しかし、今回初めて立入ってみて、1050段といっても階段には段差があまりないので、その段数の割にはさほどの苦労はいらなかった。実際、写真の山寺駅や境内の一番下の標高は237mで、もっともよく知られている開山堂は367m、奥の院でも401mなので、比高は最大でも164mしかなののだ。

 ちなみに、東京郊外にある高尾山は標高は599mだが、その玄関口となる京王線高尾山口駅は190m地点にあるため、比高は409mとなる。それゆえ、立石寺奥の院までは高尾山登山の40%の労力で済むことになる。

 もっとも高尾山にはケーブルカーがあり、それを使えば比高270mを稼げるので、実質は139mとなるのだけれど。これは開山堂までの比高130mとほぼ同等である。つまり、ケーブルカーを使った高尾山登山と同程度の労力で立石寺の主だった場所が見物できるのだ。これを知っていれば、もっと早くに立石寺を訪ねていたはずだ。いまさらながら、自分の阿保度加減に呆れる始末だった。とはいえ、遅まきながらも立石寺訪問が実現したので、それはそれで満足度は高かった。

 写真は仙山線山寺駅で、山形駅からは20分、仙台駅からは50分の所にある。もっとも私は車で出掛けたので、駅はただその姿を見るだけに立ち寄ったのだけれど。

参道にあった看板

 平日にもかかわらず、立石寺には大勢の個人客、団体客、見物客、参拝客が訪れていた。860年に慈覚大師円仁が開基したといわれる天台宗の寺であるが、断崖の上に立つ見応えのある寺だから大勢の人が集まるという訳ではなく、やはりその大半は芭蕉の句に惹かれてこの地を訪れるのであろう。そんなことから、芭蕉は写真の看板のように団子にもなってしまうのであった。

 私はその看板に興味を抱いただけで、団子には関心がなかった。それゆえ、どんな形をした、あるいはどんな味の団子だかは不明だ。もしかしたら、セミの形をしていたかも知れない。食味は「セミ味」でないことは確かだけれど。

麓から釈迦堂を望む

 まずは麓から山を見上げた。以前に感じた時よりは高さはあまり感じられなかった。写真にある釈迦堂は修行者以外は立入ることのできない場所で、標高380mのところにある。私が撮影している場所は237m地点なので、比高は143mである。

 主だった建物は急峻な崖の上にあるので、どうしても山坂道を歩く必要がある。今回の旅の主要な目的地のひとつなので、麓から見上げて”はい、おしまい”という訳にはゆかない。

おくのほそ道の標識

 写真のように、参道には小さなお堂と、「奥の細道」の標識があった。芭蕉は『おくのほそ道』と記しているのだが、象潟にもあったように漢字で『奥の細道』と記している場所がかなりあった。どちらでもいいような気がしないではないが、芭蕉ファンとしては少し気になるところではあった。

いよいよ境内へと進む

 この場所に、立石寺の境内に入る階段がある。ここでは入り口と出口が分けられているので、「登山者」はここからお山に入ることになる。

 石標には「山寺」とあるがこれは通称で、正式には「宝珠山立石寺」という。芭蕉の頃は「りょうしゃくじ」と読んでいたようだが、現在では「りっしゃくじ」という。

最初に目に付くのが根本中堂

 まず最初に出会うのが、写真の「根本中堂」で、ここが33万坪の広さを有する寺全体の本堂である。1356年の建造で、ブナ材を用いた建物としては日本最古のものと考えられている。

 ここには慈覚大師作と言われる「薬師如来坐像」があり、比叡山延暦寺から分灯された「不滅の法灯」が灯っている。

 私は相変わらずお参りはしないので、ただ遠目から眺めただけで、すぐに次の場所に移動した。

芭蕉

 立石寺知名度を全国に広めたのは、ひとえに芭蕉の句であろう。

 閑さや 岩にしみ入 蝉の声

 この句を知らない人はまずいないと思うが、誰もが単純に疑問に思うのは、セミがガンガン鳴いているので、決して「静か」ではないだろうということだ。そのため、このセミニイニイゼミだろうかアブラゼミだろうかという実に下らない論争まで起こった。ニイニイゼミのほうが鳴き声が小さいので、大方はこちらのセミに軍配を上げているようだが、これはただ、この作品の表面をなぞった解釈に過ぎない。

 芭蕉の句が大きく変わったのは、以下の句からだと考えられている。

 古池や 蛙飛びこむ 水の音

 これは芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る3年前の作品である。件のセミ論争に加わる人は、この句をただ、古池にカエルが飛び込む音を聞いた、というように解釈しているのと同じことになる。そうであるなら、「古池や」ではなく「古池に」でよいことになる。

 「や」はいわゆる「切れ字」で、「古池や」と「蛙飛び込む水の音」とは次元の異なる表象なのだ。それゆえ、古池にカエルが飛び込んだという情景を句にしたのではなく、カエルが飛び込む音を聞いた時、芭蕉は古池を心象風景として抱いたのである。

お馴染みの句が刻んである

 同様に、「閑さや」は芭蕉が心に浮かんだ世界であって、実際にはどんなに騒々しくセミが鳴こうとも、彼が触れた立石寺の情景は、森閑とした世界として心に思い描かれ、それゆえにセミの鳴き声すら岩に染み入ってしまうほど静謐な景趣に思えたのである。

 これは余談ではあるが、下に続く写真から分かるように、立石寺の岩は角礫凝灰岩からなり、至るところにタフォニや風穴が存在する。そうした造形であればこそ、騒々しい音でさえ、それらに吸い込まれていくように思えた。岩肌が一種の吸音板のように。

随行者の曽良の像もあった

 芭蕉随行した曾良(河合惣五郎)は、深川を出る直前に髪を剃った。写真の像から分かる通り、旅の最中はずっと「くりくり坊主」で通したようだ。

 剃り捨て 黒髪山に 衣更

 これは、芭蕉一行が日光の黒髪山の麓に立ち寄った際、曾良が詠んだ句として「おくのほそ道」で紹介されている。芭蕉曾良についてはじめて紹介したもので、「このたび、松しま・象潟の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且は羇旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃て黒染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て(よって)黒髪山の句有。衣更の二字、力ありてきこゆ。」と記している。

念仏堂

 念仏堂は「常行念仏堂」とも言い、慈覚大師円仁が中国の五台山竹林院で授かった五台山念仏三昧法を日本に持ち帰り、比叡山に常行念仏堂を建てた。そして、この立石寺にもその必要性を感じて建立した。

 この念仏三昧法とは、90日間、阿弥陀如来の周りを念仏を唱えつつ、心に阿弥陀如来を念じながら歩くという修行法らしい。

 いよいよこの山門から立石寺登山が始まる。料金(ここでは巡拝料という)は300円と思ったよりも安かった。長い長い階段が始まるが、先に触れたように一段一段の段差はあまりないので、気苦労は不要だ。何しろ、ケーブルカーを使って高尾山に登る程度なので。

空也塔」が立っていた

 空也と言えば、称名念仏を日本で最初に唱えた人物としてよく知られている。空也塔は念仏信者が建てるものだが、念仏を最初に日本に導入した慈覚大師円仁との関係から、空也の存在も欠かせないと考えた人がここに建てたのかもしれない。もっとも、空也の場合はひたすら念仏を唱えさえすれば浄土にゆけるという信仰だったので、円仁の念仏三昧法とは異なるように思えるのだが。

奥の院まで続く階段。全部で1050段

 写真のような階段が、開山堂や奥の院まで続く。確かに一段一段の高低差は小さいので、考えていた以上に苦労は少なかった。

落石?の場所もある

 それに、写真のように落石なのか、あえてそのままにしたのかは不明だが、とても幅の狭い場所があったり、脇に塔婆が置かれていたりして、変化に富んだ道が続くので、次にはどんな景色が展開されるのだろうかと好奇心すら湧いてくる。

ところどころに石仏が置かれている

 写真のように、小さな石仏が置いてあったり、凝灰岩を削って磨崖碑を刻んだりしてある風景にも出くわす。

せみ塚

 せみ塚は、1751年に地元の壷中(こちゅう)をはじめとする芭蕉を敬愛する人々が、芭蕉の句をしたためた短冊を土中に納めるとともに写真の記念碑を建てた場所。ここから開山堂などがある百丈岩が眺められる。

 ここ辺りで芭蕉は「閑さや~」の句を着想したといわれている。先にも述べたように、一帯はいかにもセミが元気よく鳴きそうな場所である。芭蕉が訪れた時間には人気(ひとけ)が途絶え、境内は森閑とした空気に包まれていたため、たとえセミたち(どんな種類でも全く問題はない)が大合唱していたとしても、芭蕉の心の中の世界では、その声はすべて凝灰岩の岩肌の中に吸い込まれていったのである。

磨崖碑もよく見かける

 巨大な凝灰岩の岩肌が大きく削られ、写真のように数多くの磨崖碑が刻まれている場所が数多くあった。その下には、何本もの塔婆も捧げられていた。岩の上部にはセミの声を吸い込んだタフォニの存在も確認できた。

 なお、この岩の佇まいから「弥陀洞」とも呼ばれている。

仁王門が見えてきた

 標高329m辺りに至ると、336m地点にある仁王門が見えてきた。間もなく、私が目指す開山堂に到達だ。

立派な仁王門

 仁王門は1848年に再建された、山中の建物のなかではもっとも新しいものである。ケヤキ材がふんだんに用いられ、この仁王門は1848年に再建された、山中の建物のなかではもっとも新しいものである。ケヤキ材がふんだんに用いられ、左右の仁王尊像は運慶の弟子たちによって造られたとのことだ。

開山堂と納経堂

 芭蕉の存在をのぞけば、この開山堂と納経堂の姿が立石寺にある数多くの建造物の中ではもっともよく知られているだろう。この姿を見ただけで、ここは立石寺であると大半の人が判断できる。

 開山堂はその名の通り、百丈岩の上に立つ開祖慈覚大師円仁の御堂で、この崖の下の自然屈の中に大師の御遺骸が金棺に入れられて埋葬されている。

 御堂には木造りの円仁尊像が安置され、朝夕には食販と香が絶やすことなく供えられているとのこと。

納経堂は山寺のシンボル?

 隣にある納経堂は、山内にある建物の中ではもっとも古いものと考えられている。奥之院で4年かけて写経された法華経がこの中に納められている。

 この赤い小さな建物こそ、立石寺を代表する存在であり、私自身、この姿に触れるためにこの寺を訪ねたといっても過言ではない。

眺めが良い五大堂

 開山堂の隣にある五大堂には密教系の五大明王が奉られている。「不動明王」「降三世(ごうさんぜ)明王」「軍荼利(ぐんだり)明王」「大威徳明王」「金剛夜叉明王東密系)または烏枢沙摩(うすさま、台密系)明王」を言う。立石寺台密系なので、後者を奉ってあるのだろうが、実は、五大堂からの眺めがすこぶる良いので、肝心の五大明王には目を向けることはなかった。

修行者だけが立入れる釈迦堂

 開山堂近くからは釈迦堂の姿を見ることが出来る。先に述べたように、現在では修行者しか立ち入りができない。ましてや、私のような不信心者にはその姿を見ることすら許されないのかもしれない、そんなことはないだろうけれど。

五大堂から山寺駅を見下ろす

 写真は、キャプションにある通り、五大堂の舞台から仙山線山寺駅を望んだものである。私は車でやってきたので駅は眺めただけ。写真の左端にあるパーキング(個人経営)に駐車したので、この項の冒頭にあるように山寺駅に立ち寄るのは容易だった。

平安時代の摩崖仏

 山を下る途中で、写真の摩崖仏が目に留まった。上るときには気が付かなかったほど小さな存在ではあったが、なにしろ平安初期に彫られたものというから約1200年の歴史を経ているということになる。現在でも仏様に見えるように残されているのは奇跡としか思われない。

 左の柱には「伝・安然和尚像」と表記されている。ちなみに、安然(841?~915?)は円仁の弟子で、延暦寺で研究を続け、『大日経』を元に天台密教を完成させたといわれている人物だ。

立石寺の本坊

 出口付近には、立石寺の本坊が建っていた。本坊とは住職の住む僧院なので、一般の見物客には無関係な存在なので、写真撮影だけをおこなってすぐに移動した。

 初めての立石寺登山は実に実りが多かった。時間の関係で奥之院見物は省略してしまったが、開山堂、納経堂、五大堂には再度立ち寄ってみたいと考えているので、その際は奥之院ものぞいてみようと思っている。怠け者のたわごとかもしれないけれど。

◎天童公園

天童といえば将棋の駒の産地として有名

 将棋にも天童よしみにも特に興味はないけれど、立石寺から天童までは意外に近く、かつ、天童公園は高台にあるので、月山を眺めるには格好の場所と思い、「人間将棋盤」にも少しだけ興味があるので立ち寄ってみることにした。

 天童市は全国の約90%を超える将棋駒の産地で、天童織田藩が高畠にあったときから駒の生産を始め、天童に移ってからはこの地で生産を続けた。

 高級品にはホンツゲの素材を使い、文字を彫り上げた溝に漆を何度も入れ、木地の高さまで漆を埋め込む。さらにプロの棋士が用いる「盛り上げ駒」ともなると、さらにそれに蒔絵筆を使って、漆で文字を盛り上げる。

人間将棋

 天童市では毎年、桜の咲く時期に、天童公園にある人間将棋盤を使ってプロ棋士の対局がおこなわれる。駒には甲冑や着物姿に身を包んだ武者や腰元がなり、写真の白地の将棋盤が用いられる。階段には大勢の観戦客がそこに腰掛け、対局の様子を見物する。

 周囲には約2000本の桜があり、その開花期に催されるため、その様子はニュースなどで必ずと言って良いほど取り上げられる。

将棋塔

 写真は、人間将棋盤の上方にある「将棋塔」で、王将の文字は大山康晴十五世名人の揮毫が元になっているとのこと。現在では藤井聡太氏が棋界を席巻しているが、私が若いころは、将棋の名人と言えば大山康晴と伝説の坂田三吉であった。

 大山康晴氏はタイトル戦を19連覇したが、この2月に藤井聡太氏が20連覇を達成して大山氏の記録を更新した。そんなニュースに触れた時、久々に「大山康晴」の名前を聞き、とても懐かしく思った。

 ちなみに、私は将棋ではほとんど負けたことがない。なぜなら、負けそうにになると将棋盤をひっくり返すからだ。それゆえ、私と将棋を打つ相手は誰もいなくなった。

さくらんぼ畑と月山

畑から月山を眺める

 天童公園からでは月山の姿があまりよく見られなかったため、公園を離れて県道23号線を寒河江市方向に進んだ。とにかく西に進めば月山の姿は常に視界に入るので、撮影に適した場所を探すにも便利だったからだ。

 写真は最上川を渡る直前の場所から月山を撮影したものだ。白い雲が山頂にかかり始めたので、寒河江に行く前に撮る必要性を感じ、県道の路肩に車をとめ最上川右岸の土手近くで撮影ポイントを探した。

 左のビニールハウスはさくらんぼ用のもので、正面の土手は最上川右岸のもの。その向こうに月山の雄大な姿が存在している。

 雲の峰 いくつ崩れて 月の山

 『おくのほそ道』に芭蕉の句は50あるが、その中でもこの句はかなり印象に残る作品である。月山の姿を見るまではそれほど良い作品とは思えなかったが、実際に月山を初めて目にしたとき、この句の宇宙観を理解することができた。「不易流行」が『おくのほそ道』で芭蕉が追い続けた俳句における世界観であるが、この句においても、数多くの積乱雲が頂点にまで発達せず(流行)、月山として結実した(不易)という有様が見事に表現されているのだ。

朝日連峰を眺める

 高台に移動した。写真のように、西側には大朝日山を中心とする朝日連峰の山々も見られた。広義では月山も朝日連峰に連続すると考えられるが、狭義には、朝日連峰朝日山地)は隆起山地であるのに対し、月山は火山活動によって生まれたものなので「月山・朝日山地」と区別される。なお現在では、後者の考え方が主流になっている。

さくらんぼの里

 寒河江市(さがえし)の名を聞くとすぐに「さくらんぼ」を連想し、私が訪れた「さくらんぼの里」の石碑にも「名産日本一」とあるが、実際には、寒河江市の生産高は山形県でも第3位である。もっとも、山形県さくらんぼの収穫量は第2位の北海道の8倍、第3位の山梨県の10倍と他を圧倒しているので、山形で第3位ということは日本でも第3位であることは確実だ。

 日本一は言い過ぎかもしれないが、山形には「日本一公園」があるくらいなので、多少の誤差は十分に許容範囲であろう。あるいは生産量ではなく味が日本一かもしれないので。

山寺方向の眺め

 この「さくらんぼの里」の正式名称は「寒河江公園つつじ園」ということで、斜面には数多くのツツジが植えられている。その向こうには寒河江市街が見え、さらに最上川が造った山形盆地が広がり、その先に奥羽山脈の山並みが続いている。

これは出来が悪そう

 さくらんぼ畑を探した。別に盗み食いが目的ではなく、ただ山形の代表的農産物を目にしたかっただけである。ネットが張られているハウスの中にはサクランボが実っていたが、写真のものは身の付きがあまり良くなく、そんなことはしないけれど、盗み食いをする気持ちにもなれなかった。

これは美味しそう

 一方、写真のものがなかなかの実り具合で、これならば食べてみたいような気がした。

◎瓜割石庭公園

石切り場

 この日の宿泊地は奥羽本線高畠駅構内にあるホテルだった。今回の旅の最後の宿だ。本当は米沢市内に泊まる予定であったが、目ぼしいところはすべて満室だったことから高畠にしたのだ。もっとも、米沢市内までは南に10キロ弱なので、旅の最後の見学地である米沢城跡まではさほど遠くはない。

 折角、行ったことのない高畠に泊まるので、周辺に面白そうな場所がないかと調べてみたところ、ここに挙げた「瓜割石庭公園」が見つかった。写真にあるように、単なる石切り場跡なのだが、その壁面に特徴がありそうなので出掛けてみることに次第だ。

 ここでは「高畠石」が1923年から2010年の間に切り出されたそうだ。高畠石の名前は初めて聞いたが、「大谷石」と言えばかなり多くの人が認知していると思う。

 火山灰や砂礫が海中に沈殿・堆積しそれが凝固してできた石で、軽石凝灰岩とか浮石凝灰岩に区分されている。軽くて柔らかいので加工しやすい反面、耐火性や防湿性に優れているため、家の壁や塀などによく用いられている。古墳時代の石室もこの軽石凝灰岩でできているものが多い。

安全を祈願

 石切り場はとても危険で重量なことからか、写真のように安全を祈願するために多くの石仏が置かれていた。

石切り場の内部

 石切り場の内部はよく整備され、ここではいろいろなイベントが開催されるらしい。

 現在でも細々と石は堀り出されているそうだが、私が訪れたときには何も作業は行われていなかった。高さ30mの崖にはまだまだ多くの石が眠っているようである。大谷石のように地下から掘り出した結果、地面が陥没するといった事故が発生するという心配がないのが何よりである。

◎旧高畠駅~山形交通高畠線の名残

高畠駅

 写真の旧高畠駅は、1922年から74年でまで運行していた山形交通高畠線のもので、私がこの日に宿泊するJR高畠駅とは4キロ近く離れている。

 その高畠線は糠ノ目駅(現在の高畠駅)から二井宿との間、10.6キロを結んでいた。この地域は製糸業が盛んであったことからその運搬のために開通された。1929年には電化されたので、それなりに賑やかな路線だったのかも。

 ところで旧高畠駅舎だが、写真からも分かるように高畠石がふんだんに用いられている。この石は時を経るにつれて黄土色に変わってゆく。それゆえ、建物には重厚さを感じることができる。

かつて使用されていた車両を展示

 旧高畠駅の隣には広場があり、そこに写真のようにかつて使用されていた車両が展示してあった。前方は貨車をけん引する機関車で「モハ1」と呼ばれていた。一方、後方には客を乗せる電車で「ED1」と名付けられていた。いずれも、高畠線が開通したころから使用されていた車両である。

駅前広場は格好の遊び場

 駅前広場は写真のように結構な大きさの敷地があり、私が出掛けた時には小学生が5,6人、広場の端で遊んでいた。

 美しい駅舎と時代を感じさせる車両。その双方との出会いは私の心を決して少なくないほど豊かにしてくれた。

 なお、廃線となった路線跡の多くは、サイクリングロード「まほろば緑道」として整備されている。

◎亀岡文殊~日本三大文殊のひとつ

山門

 亀岡文殊(松高山大聖寺)は、旧高畠駅南側2キロほどのところにある。奈良の「安部文殊院」、京都の「切戸文殊」と並んで、日本三大文殊に数えられている。安部文殊は前を通っただけだが、切戸文殊は、本ブログの第75回で、天橋立を紹介した際に少しだけ紹介している。

 「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があるが、確かに「ノーム・チョムスキー」「エマニュエル・トッド」「マイケル・ハート」の三人が集まれば文殊菩薩には敵わないにせよ、相当な良き知恵が生み出されそうだ。一方、「森、麻生、二階」の三人が集まれば、金がらみの悪知恵しか生まれないだろう。ことほど左様に、ただ三人寄っただけでは良き知恵が生まれるとは限らないし、往々にして対立して喧嘩別れするのが落ちだろう。

なぜか八十八カ所の石仏が並ぶ

 文殊菩薩は「文殊師利」(モンジュシリー)と言われ知恵の菩薩と考えられ、慈悲の菩薩である「普賢菩薩」と並んで釈迦の脇侍(わきじ)を務めていた。

 知恵には縁遠い私であるし、また文殊堂をお参りしたぐらいでは知恵などつくはずはないと確信しているが、この境内を目にしたときになかなか興味深い風情を感じられたので、境内をじっくりと歩いてみることにした。

 まず最初に目に付いたのは、「四国八十八カ所霊場」から分霊されたとする石像が並んでいる場所に立ち寄った。とくに理由はなく、駐車場のすぐ目の前にあったからである。

 とはいえ、本ブログでは何度も紹介しているように、四国八十八カ所といえば私の大好きな場所のひとつで、もちろん、例によって訪れはするが参拝はしないものの、今までに何度となく出掛けているし、今年も5月に西四国見物をする予定なので、その際にも十数カ所の札所を見物するつもりだ。

すべてに霊場の名が刻まれている

 弘法大師像の隣から、一番の霊山寺から八十八番の大窪寺までの名前が刻まれた石像が並んでいる。寺の名前に触れただけで確固たるイメージが湧く場所、これが「本当に札所なの」としか考えられない場所、まったくと言って良いほど印象に残っていない場所、札所で出会った人々との会話など、いろいろな事柄が懐かしく思い出された。

これが本当の石灯籠

 参道の脇には、写真のような見事な石灯籠があった。大きな地震が来れば倒壊は必至だと思われるが、文殊の知恵で設計されているので、その点は了解済みなのかもしれない。

信夫の里の独国和尚像

 独国和尚は写真にあるように宮城県の女川出身で、1824年に女川山の尾根伝いに三十三観音碑を建てたことで知られている。晩年は福島の信夫山の麓で過ごしたことから「信夫の里の独国和尚」と呼ばれた。

 若い時は亀岡文殊のある松高山・大聖寺で修行したので、参道には和尚の石像が置かれている。

 私が気になったのは、その横にある「徳一上人碑」だ。「会津の徳一」と称された上人は807年に中国五台山から伝来した文殊菩薩平城天皇の勅命でこの地に安置した。

 もっとも、徳一は最澄との「三一権実論争」があまりにも有名なので、徳一側に味方する私としては、そのことばかりに関心を抱いていたので、彼と文殊菩薩との関係は、この地に来て初めて知ったことである。

 『法華経』を根本経典とする最澄は「一切悉皆成仏」という一乗論をとるのに対し、法相宗の立場をとる徳一は、声聞、縁覚、菩薩には悟りの境地は異なるという三乗説を主張した。これは論争というより、最澄が徳一にあてた手紙からそうした違いが明らかになったもので、特に両者間で論争があったわけではない。

 私はいくつかの資料を当たってみたが、どう考えても徳一の考えが正しいと思われたが、日本的な仏教としては最澄の考えのほうが分かりやすい。何しろ「草木国土悉皆成仏」といって、草や木、土にまで仏性があるというのだから。そうであるなら、修行などはまったく不要になってしまうのだ。いや、信仰心すら無用である。何しろ草や木や土には心識はないはずなので。

ここにも芭蕉の句碑が

 芭蕉の句碑があった。写真にある句だが、芭蕉がいつ詠んだのかは不明だ。彼の句としては凡作に属すると思われる。『おくのほそ道』にある50作品に比べると相当に見劣りがする。鬼才、芭蕉連句師として無数の作品を残しているので、このレベルのものも決して少なくはない。

十六羅漢

 参道の右手には、十六羅漢像があり、その後ろにかなり形の良い鐘楼堂があった。

本堂

 写真は、個々の本堂で、屋根の倒壊を防ぐための支えがやや邪魔に思えたが、それはそれで致し方ないことである。

清らかな水が誇り

 私は参拝する気持ちが全くないので、本堂の裏手にあるという清水を見にいった。写真のように「知恵の水・利根水」というらしいが、水道の蛇口のようなところから水が出ていたのには少し興ざめであった。

湧き水とエゴの花

 その利根水は小さな流れを造っていて、その清水の上にエゴの木の花が数多く浮かんでいた。私としては、知恵に恵まれなくとも、この姿を見られただけで十分に満足できた。

三尊

 本堂を一周して、参拝場所に再び出てきた。折角なので、大日如来(中央)、虚空蔵菩薩(左手)、普賢菩薩(右手)を眺めてみた。もう少し近づけば虚空蔵菩薩の顔が蝋燭に隠れてしまうことはなかっただろう。

 私が、いかに仏像を尊顔する気持ちが全くないという証拠写真でもある。

かなり侘しい大師堂

 参道には、写真のような大師堂があった。四国八十八カ所霊場を巡ることが大好きな私だが、これほど見栄えのしない大師堂を見た経験はまったくない。そのことがかえって新鮮な思いを抱くことになった。

名前は知らねども

 参道には、いろいろな姿の仏像が置かれていた。その中でも写真のものは白眉の存在であった。きっと、有名な僧がモデルになっているのだろうが、恥ずかしながら私の知識では名前は浮かばなかった。文殊堂にやってきて、何も拝まずに帰ってゆく不信心者には、さしもの文殊菩薩も知恵を授けることはできなかったようだ。

参道に並ぶ石仏

 参道には、いろいろな姿の石仏が置かれていた。すべて表情が異なるので、一体一体の姿をじっくりと眺めた。信仰心がない私のような人間にも、ここの石仏群には心を洗われる心地がした。

 そういえば、知恵のお寺ということで、合格祈願のお札が数多く納められていた。個人名が表記されていることもあって写真撮影はおこなわなかったが、苦しい時の「仏頼み」は決して卑しい行為ではないことは確かだ。

 この寺ではないが、国立市にある天神様も「学問の神様」として受験生やその関係者が数多く訪れることで知られている。私はたまたま受験シーズンのときにその場所を訪れたが、無数に奉納された合格祈願の札を見て回った。その一枚に「合格祈願」の格が木編ではなく人偏になっているものがあった。私の知識ではそれが間違いか否かは不明だが、おそらくこれを捧げた受験生は不合格だったに違いない。

 しかし、たかが受験である。失敗ぐらいは蚊に刺された程度のことだ。ただし、基本的な漢字ぐらいは正しく覚えよう。

◎米沢城跡公園を歩く

上杉鷹山座像

 今回の東北の旅の掉尾を飾るのは「米沢城跡」である。当初は折角なので、最後は会津若松にしようと考えていたのだが、翌々日に急用が入ったため最後の宿は高畠駅構内にあるホテルとなった。

 米沢城跡の前は何度か通ったことがあったが、城跡内に立ち寄るのは今回が初めてだった。旧二ノ丸にある駐車場に車をとめ、城の本丸跡を目指した。駐車場のすぐ近くには上杉神社の摂社である松岬神社があった。ここは上杉鷹山上杉神社から分祀するために建てられたもので、のちには直江兼続なども配祀された。

 その神社のすぐ近くに、写真の上杉鷹山の座像があった。鷹山と言えばすぐに藩政を立て直した名君として知られ、内村鑑三の著書『代表的日本人』で取り上げた5人の中に選ばれている。

 もっとも、私は個人的には本ブログの第98回で紹介した山田方谷のほうが圧倒的に優れた改革者だと思っている。

舞鶴橋の欄干の不思議な形の岩

 写真の舞鶴橋は二ノ丸と本丸との間にある堀に架けられたもので、この橋が大手口となる。なお、舞鶴の名は米沢城の別名が舞鶴城であったことからそう呼ばれるようになったとのこと。

 私は、橋の欄干に写真のような不思議な形をした岩が置かれていることに興味を抱いた。橋の長さは5m、幅員は7mと長さよりも幅のほうが広いという特色を有するが、そんなことより欄干の親柱に用いられている奇岩のほうがはるかに私の目を釘付けにした。

本丸内に入る

 本丸内に入ると、真正面に上杉神社の姿が目に入った。大きな灯篭の脇には「昆」と「龍」の文字が記された大きな旗が掲げられていた。これはもちろん、上杉謙信にちなむもので、彼は戦の際には必ず、この文字を記した旗を掲げていた。

 昆は軍神の毘沙門天を表わし、龍の文字はあえて「懸かり乱れ龍」の文字で書かれていて、不動明王を表している。謙信は真言密教に造詣が深かったことから、この二神を尊崇していたのだろう。

上杉神社

 大鳥居をくぐって上杉謙信が祀ってある上杉神社境内を少しだけ散策してみた。

 上杉謙信にはさほど興味を抱いてはいないが優れた武将であったことはいくつかの資料を当たってみるだけでその能力の高さを見て取ることが出来る。天下を取るだけの才はあったが、しかし、時代が悪かったし、越後を地盤としたこともその能力を十分に発揮できずに病没することとなった。

 何しろ、南西には武田信玄が、南東には北条氏康という、やはり謙信に勝るとも劣らない名将が同時期に存在したことも、謙信が苦労せざるを得ない情況を生んでしまったのである。

 もっとも、そうした名だたる武将が各地に存在したことで、ある種、彼らを華やかに見せたという側面も否定できない。言ってみれば、「面白い」「興味深い」時代であったればこそ、戦国時代の歴史を語る人々が彼らを名将に仕立て上げたことは事実である。つまり、混乱が名将を生んだのであって、名将が混乱を生んだわけではないというのが、歴史の正しい理解の仕方だと私には思われる。

 豊臣秀吉だって、今の時代に生まれていれば、ただのサルとして生涯を終えた蓋然性は極めて高い。

上杉鷹山立像

 神社の近くにも、上杉鷹山の像が置かれていた。彼の「なせば成る~」の言葉はあまりにも有名ではあるが、まあ、彼の政策がそれなりの結果を出したからこそ、この言葉の意味が価値あるものと解釈されるのであって、私のような凡人が何かをなしたとしても、誰にも評価はされない。もちろん、私にはそれで十分なのだけれど。

上杉謙信

 上杉鷹山以上に知名度の高い謙信だけに、やはりこうして立派な銅像が設置されている。

上杉景勝直江兼続

 謙信には実子がいなかったので、彼が病死したのちに家督相続の争いが起こり、その結果、上杉景勝が後を継ぐことになった。彼は豊臣秀吉五大老の一人として会津に入封したときは120万石の大大名であり、米沢6万石は配下の直江兼続に任せた。

 しかし、関ヶ原の戦いでは石田三成側の西軍に立ち、徳川側についた最上氏と争ったことで、景勝は30万石に減封されて米沢の地に入った。大幅に領地は縮小してしまったが、景勝は配下の者をすべて引き連れて米沢に入った。

 そこで、直江兼続は食料を増産するために最上川流域を整備して田畑を増やし、実質的には51万石の生産高を確保した。

 こうした景勝と配下の兼続との関係は非常に良好であって、兼続の功績によってなんとか米沢藩は人減らしをせずに維持することができた。こうした兼続は歴史通の人には良く知られる存在で、2009年のNHK大河ドラマ天地人』の主人公になった。

 なお上杉神社の隣には稽照殿(けいしょうでん)が1919年に、焼失した上杉神社の再建とともに創設された。ここには謙信の遺品をはじめとして景勝、鷹山の遺品だけでなく、直江兼続に関するものも数多く展示されている(らしい)。

 私が訪れた日には直江兼続展が開催されていた。結構な数の人が稽照殿に吸い込まれていったが、それだけ、直江兼続の存在、大河ドラマの影響は大きかったのだろう。ここ数年の作品は見る影もないが。

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 こうして、私の東北地方14泊15日の旅は終わった。6月から10月はほぼ鮎釣りに没頭するために観光の旅はほとんどしない。3月は近場を訪ね、4月は草加から松島まで、芭蕉の足跡を追う旅を予定している。もっとも、寄り道のほうがおおくなりそうだけれど。