徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔107〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(2)男鹿の地層や「なまはげ」に触れ、そして秋田市街へ

男鹿ならではの地層が見られる

◎半島の北端にある入道崎を見学

入道崎は半島の最北端に位置する

 男鹿半島の最北端に位置する入道崎にやってきた。眺めが良いだけでなく、磯釣り場が点在しており、のちに紹介する名礁の「水島」も存在する。この辺りは潮通しが良いので、釣り場としては魅力的だが、何しろ足場が低いためによほど好条件に恵まれないと磯に渡ることはできない。実際、私は何度もチャレンジしてみたものの、渡礁することはできていない。

 入道崎周辺は男鹿ではもっとも古い岩石から成り立っている。火山噴火物が固まってできた溶結凝灰岩は約7000万年前のものであり、一部には約9000万年前の花崗岩も残っている。

 日本海が出来始めたのは約2000万年前なので、この入道崎の前身はユーラシア大陸の東端にあった。恐竜が絶滅したのは約6600万年前なので、この辺りの岩場は恐竜が生きていた時代にあったことにある。

ここでも「なまはげ」がお出迎え

 入道崎の駐車場の近くには、写真のような店舗が並んでいる。ここでも男鹿名物の「なまはげ像」が出迎えてくれるが、「海鮮なまはげ丼」というのはいったい、いかなる代物なのだろうか。店舗の看板には「ウニいくら丼」とあるので、こうした海鮮品が盛られているのだろうが、もしかしたら、なまはげのミニチュアが添えられているのか、それとも店員がなまはげの恰好をしているのか少しだけ興味があったのだが、いざ、その実体を知ると「がっかり」する可能性が高いため、想像するだけに留めておいた。

灯台の配色はよく目立つ

 この入道埼灯台は「日本の灯台50選」に選ばれているが、確かに白黒の配色はなかなか素敵で、しかも夕陽を望むのには格好の場所に位置するため、選定された理由は十分に納得できる。

 入場料300円を払えば灯台に上ることはできるが、灯台に上らなくとも岬の先端部は標高22~33mあるので、周囲の眺めはすこぶる良い。

 なおこの灯台は北緯40度線上にあり、そのことを示す標識が置かれている。

岬の西側は浅瀬が続く

 写真のように、岬の西側の崖下には浅瀬が続いている。露出している岩礁が数多くあるが、沖にある横に長い岩場は周囲が比較的水深があるために磯釣りは十分可能で、実際、写真では少し分かりづらいが、2人の釣り人が竿を出していた。この日は凪が良いので、安心して釣りができそうだ。

標高僅か1mの水島

 秋田を好んで旅行をした菅江真澄はもちろん、この水島を目にしたはずだ。

 この島は標高1mしかないが、日本海は干満の差が小さいので、この日のような凪の日には渡礁してクロダイ釣りをすることが可能だ。入道崎からは660mの距離にあるが、島自体は、一帯が隆起したときに波蝕台となったその名残だろうか。

東側には急峻な崖が続く

 東側には急峻な崖が続く。崩れた溶結凝灰岩は荒波にさらされ、海岸線には丸くなった石が転がっている。この石は非常に硬く熱に強く一度熱すると冷えにくいので、石焼料理に用いられる。私も何度か、地元の釣り人にその石焼料理をご馳走になったことがある。

 ガスコンロで熱したフライパンで焼くのと同じことなのだが、やはりこの地ならではの石焼のほうが美味しく思えた。料理は舌だけで味わうのではなく、見た目や雰囲気でも味わいは随分と変わってくる。

 こうしたことは生成AIに読み込むことはできても、AIに実感させることは不可能である。

海底透視船乗り場

 4月中旬から10月までの季節限定だが、入道崎からは海底透視船が運行されている。写真に写っている水島との間を行き来するもので、海の底を眺めながら約30分の豊かな時間を過ごすことができる。様々な魚や海藻類の揺らめきなどとの出会いは良き想い出になることだろう。

この崖は「鹿落とし」と名付けられている

 この崖は「鹿落とし」と名付けられている。男鹿には多数の鹿が生息しており、ときには増えすぎてしまうことから、鹿たちをこの崖(海まで20から25mの高さがある)に追い詰めて海に落とすことで数を調節していたそうだ。今では多方面からの非難を受けるため、こんな営為はとてもできないだろう。

◎1500万年前の地層が見られる西黒沢海岸

西黒沢海岸の景観

 入道崎から次の目的地である西黒沢海岸に向かった。県道55号線(入道崎寒風山線)を西南西に4キロほど進むと、左手に海岸線に出られる細い道がある。小さな集落があるが、この道を使うのはそこに住む人か、西黒沢分港(畠漁港)に用事がある人か、私のようなその地の地層に魅せられた好事家ぐらいだろう。

 実際には、港には一人の漁師らしき人はいたが、海岸線を見て歩く”好きもの”は私だけであった。

広々とした波蝕台

 ここでは、写真のように約1500万年前の海底面が露出している。1500万年まえというと丁度、日本海が現在のような姿になった頃なので、海で堆積した地層をこうして目にすることが出来るのだ。

波蝕の様子がよく分かる

 波打ち際は段々になっており、波によって浸食された様子を見て取ることができる。

ここも大きな波蝕台だったのだろう

 目を少しだけ漁港方向に転じると、水面下ギリギリのところに広く、そして平たい沈み根を観察することが出来る。先に見た「鵜ノ崎」では岩場が洗濯板のようになっていたが、ここでは平らなまま残っていることから、この辺りは褶曲を受けていないことが分かる。

化石を探したのだけれど

 化石が多数発見されている場所なので、私も少し探してはみたものの、貝殻らしきもののほかは取り立てて特筆すべきものは見当たらなかった。資料によれば、ホタテガイの仲間、カキやウニ、松ぼっくりパレオパラドキシアというカバに似た哺乳類のあごの骨も発見されているそうだ。

 私にはじっくりと観察する能力が欠けているので、今までの長い人生でも「発見」というものを体験したことがない。ごく稀に未知のものに出会ってたと思っても、実は勘違いだったということがそのすべてで、せいぜいのところ、1円玉を見つける程度なのだ。

先端部はきれいに磨かれていた

 こうした地層面に出会うと、自然ほど芸術的なセンスを有しているものは存在しないということが理解できる。所詮、人間が生み出したものは、どんなに優れた作品であっても、せいぜいのところ、自然にとっては「染み」程度のものでしかないのだろう。

 もっとも、その「染み」ですら私には生み出すことはできず、はたまた、その「染み」にも、ときには大きな感動を受けてしまうのだが。本ブログで言えば、第80回で取り上げたリヴィエールの『エデンの園』のように。

◎安田(あんでん)海岸も地層の宝庫

50万から8万年前の地層が見られる安田(あんでん)海岸

 写真の安田海岸は、北浦と五合里との間にある。と言っても、地元の人以外はそれだけでは全く場所の見当が付かない。前回に男鹿半島の成り立ちに触れた際、半島は元々島であって、北側の米代川と南側の雄物川が運んだ土砂が砂州となって陸繋されてできたと説明した。その北側の砂州が伸びたところに五合里海水浴場があり、そのさらに先にあるのが安田海岸だ。

 それゆえ、西黒沢から安田までは直線距離で10キロ、実際には車で県道55号から国道101号を東に進み、浜田集落に入ってから左折して海岸線に出るため、実際には13キロほどの距離になる。もっとも、この辺りの道は混雑とは無縁なので、時間的には20分もかからずに移動できるのだが。

 海岸線には狭い駐車スペースがあるが、そこには地質に興味がある人しか訪れることはない(海水浴シーズンは別だろうが)ので、私が行ったときには他の車は見掛けなかったし、砂浜にも人影はなかった。というより、砂浜には人の歩いた足跡さえまったくなかった。

整然と並んだ地層もある

 駐車スペースから海岸に降りて、地層がよく見える場所まで数分、歩くことになる。それはどうということはないのだが、途中に小川があり、私の行く手を遮った。後で調べて分かったことだが、解説にはしっかり「途中に小川があるので、長靴の用意が必要」という但し書きがあった。

 小川の幅は狭いところで3mほどで、河口付近では浅いが幅は相当に広くなる。おまけに砂浜なので、足を取られることは必定だ。といって、幅の狭い場所は流れはやや早く、深さもそれなりにある。55年前なら私はスポーツが得意だったので、走り幅跳びの要領で飛び越えることは可能だろうが、今ではその半分の長さでも超えることは不可である。

 周囲を見回した時、太さが15センチで長さが3mほどの枝木が見つかった。それを渡せば良いと思ったのだが、それはなかなか重く、渡そうとしても流れに押されて向こう岸まで届けるのに難儀した。ただ、その枝はへの字の形だったので、向こう岸近くのに底に差すことは可能だった。ただ、それだけでは私が枝に乗ったときに動いてしまうので、周囲にあった細い枝を何本か集めて枝を固定した。その甲斐があって、私は小川を渡ることが出来た。なお、その太い枝は帰りにも必要があるため、流されてしまわないように渡った側の岸に引き上げておいた。そんな苦労の甲斐があって、私は上の写真のような地層を目にすることができたのだった。

 ここの地層は1万年から160万年前のものを見ることが出来るが、主なものは8万から50万年前の「鮪川(しびかわ)層」という砂層が主体のもので、その間に泥層や亜炭層(植物の炭化がやや進行したもの)がある。

 なお、安田海岸の地層は基本的には右肩(西側)上がりである。これは西側の地面の隆起が進んでいるからと考えられている。

不整合に重なる地層もある

 もちろん、長い年代を経ているのだから、地層は単純に右肩上がりになっているわけではなく、写真のように褶曲を受けた上に水平に重なった地層を見ることもある。

白っぽい帯が見える

 地層の重なりに中に白っぽいものが挟まれて帯のようになっている場所がある。

白いのは貝の化石

 この白いものの正体は貝の化石で、これが何層にも重なっているのである。資料写真で見ると、この化石の層ははっきりしているのだが、何らかの理由で化石の量はかなり少なくなっている。

この地層から、地球が生き物であることが想像できる

 ともあれ、写真のような地層を眺めていると、生き物は単に動植物だけでなく、地球全体が過去から現在に渡って生き続けていることが分かる。

 この安田海岸で地層を眺めていると、サピエンスが現在、この大地に跋扈していることなど、ほんの短期間に過ぎないことが実感される。その短期間に、サピエンスはこの地球環境を大きく改変してしまっているのだが。

真山神社と「なまはげ館」

真山神社の山門

 男鹿を代表する真山と本山は、第12代の景行天皇(70~130年)に仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)が男鹿山に立ち寄った際に、湧出山(現在の真山と本山)に登り、使命達成、国土安泰、武運長久を祈願するために、ニニギノミコトタケミカヅチノミコトの二柱を祀ったのが信仰の山となった始まりとされている。

 もちろん、景行天皇武内宿禰は伝説上の人物と考えられているので、上記の話ものちの人が作り上げたに相違ない。

 景行天皇の御代というと、わが府中市にある大国魂神社も、この天皇の代に始まったとされる。これほどこの天皇が持ち上げられるのは、その子にヤマトタケルがいるからであろうか。もちろん、それも伝説にすぎないのだが。

拝殿への階段

 それはともかくとして、平安時代初期に活躍した円仁(慈覚大師)がこの湧出山を二分し、北を真山、南を本山として山岳信仰霊場としたのが始まりともされている。

真山(標高567m)への登山道

 真山神社では、なまはげが登場する「なまはげ柴灯(せど)まつり」という特異神事が1月3日の夕刻に境内でおこなわれる。伝承によれば、平安時代末期から続く祭儀とのこと。境内に柴灯を焚き上げ、この火によってあぶられた大餅を受け取るために下山するなはまげは、この神の使者(神鬼)の化身だと言い伝えられているそうだ。

 また、2月の第二金から日曜日には、男鹿市の行事として、真山神社を会場に「なまはげ柴灯祭り」が開催される。

 かように、真山神社なまはげとは切っても切れない関係にあることから、下に挙げる「男鹿真山伝承館」や「なまはげ館」が、神社の麓に置かれているのである。

なまはげの玉」と名付けられたモニュメント

 なまはげ館に立ち寄る際、林の中に写真のようなモニュメントが置かれているのを見つけた。大理石の大きな球に、モザイクで男鹿の海と山と夜空、それに三体のなまはげが表現されている。

 初めは今一つピンとくるものがなかったが、一旦、海と山と夜空となまはげの姿を見出だしてしまうと、それは見事な意匠だと感心させられた。

 林の中にあるため、やや人の目に付きづらい場所に置かれているのが残念なことだと思った。なまはげ館に行く人は多いのだが、この「なまはげの玉」の存在に気付く人は意外に少なかったのだ。

男鹿真山伝承館

 2013年に下に挙げる「なまはげ館」がオープンしたので、写真の建物は「男鹿真山伝承館」として、なまはげの行事を体験できる「なまはげ習俗学習講座」などが開設されている。

なまはげ館」と名付けられた立派な建物

 ところで、「なまはげ」とは一体、何を意味するのだろうか?私は60歳過ぎからとみに頭髪が薄くなり、現在は「ぜんはげ」に近い状態になってしまったので、中途半端に頭髪を残していても往生際が悪いので、バリカンでわずかに残った髪の毛をほぼ頭から消し去っている。

 ただ、「なまはげ」はいわゆるハゲとは関係がなく、「ナモミを剥ぐ」というのが語源だそうだ。

なまはげ館」の入場口

 「ナモミ」とは、寒い日に囲炉裏端にかじりついて何もしないでいると手足に火斑ができる。これは怠け者の証拠なので、この温熱性紅斑=ナモミをはぎ取るというのが「なまはげ」の役割なのだそうだ。つまり、「ナモミを剥ぐ」ということから「なまはげ」という言葉が生まれたのだ。

 この「なまはげ」は国の重要無形文化財ユネスコ無形文化遺産に指定されているが、秋田県ではこれを「ナマハゲ」とカタカナ表記している。が、ここ男鹿では通常「なまはげ」と平仮名表記している。

入り口でお出迎え

 「なまはげ館」に初めて入場した。出迎えてくれたのは写真のなまはげ君で、髪の毛はフサフサなので、ハゲとは無関係であることがよく分かる。

色々なお面が手作りされている

 なまはげの風習は男鹿市のみならず、八郎潟にある三種町、のちに紹介する「道の駅・てんのう」がある潟上市などに伝わる民俗行事で、200年以上の歴史があると言われている。

 「泣くゴ(子)は居ねガー」「悪いゴ(子)は居ねガー」と、とくに子供たちを相手に脅す?風習は、おそらく知らない人は居ないであろうと思えるほど有名である。

 このなまはげが被るお面は手作りされ、写真のようにいろいろな表情のものがある。

地域によって異なる姿をしている

 先に挙げた地域には148もの地区があって、その80もの地域でなまはげの行事がおこなわれているそうだ。

私が子供だったら真っ先に襲われそう

 それゆえ、地区によってなまはげの姿や表情は相当に異なっており、私が想像していたなまはげの姿よりはるかに多種多彩で、誠に豊かである。

 私は「悪い子」の代表のような存在だったので、近所にあった幼稚園では兄や姉、また近所の同年代の子供たちがほとんど入園したにもかかわらず、私だけ入園を断られたと親から聞いたことがあった。もちろん、私にはそんな窮屈な場所に行くつもりもなかったが、今にして思えば、その幼稚園はキリスト教系であったので、信仰に反するのではないのかと思う次第である。

 もちろん、私が男鹿生まれだったとすれば、真っ先になまはげの標的にされたのではなかろうかと思う。

八郎潟調整池と道の駅・てんのうにある「天王グリーンランド

八郎潟調整池と水門

 八郎潟についてはすでに触れている。17000haもの広さが埋め立てられてしまったため、かつては日本で2番目の広さを誇った湖沼の面影はまったくない。南部の調整池はまだ幾分、かつての姿を少し残しているが、北部の東部承水路や西部承水路は埋立地の外周を取り囲んでいるだけなので、その名の通り、水路にふさわしい姿になってしまった。

 写真は、南部に残る調整池のもので、船越水道と調整池との間にある防潮水門の姿である。

水門のはるか先には寒風山が

 写真は、防潮水門を調整池側から見たものである。水門のずっと先には寒風山が見える。先には、その寒風山頂から見た調整池の姿を掲載している。

天王スカイタワーから白神山地を望む

 船越水道を越えると、地名は男鹿市から潟上市になる。写真に挙げた場所は「道の駅・てんのう」のもので、ここは相当な広さをもった場所で、道の駅としての施設のほか、「天王グリーンランド」という公園を有している。

 道の駅の象徴として高さ59.8mの「スカイタワー」があり、無料で最上階の展望室に上がることが出来る。写真はそのタワーの展望室から北方向にある白神山地を望んだものである。

公園内にある大きな沼(鞍掛沼)

 天王という地名は珍しいと思えるが、東京近辺には横浜市保土ヶ谷区にある。また、品川区にある「天王洲アイル」は新しい観光地として脚光を浴びている。ことほど左様に、「天王」と付く地名を全国で探してみると、意外にも多く見つけることが出来る。

 秋田県天王町は2005年に近隣の2つの町と合併して潟上市となったが、字名としてはしっかり残っており、「道の駅・てんのう」というように、潟上の名よりも天王のほうが現在でも通りはよいようだ。

 天王の地名の由来はすべて共通しており、「牛頭天王」に関係している。日本ではスサノオの化身が牛頭天王であり、神仏習合から言えばスサノオの本地が牛頭天王となる。それゆえ、全国各地に「牛頭天王社」が存在し、それがもとになって天王町を名乗っているのである。ただ、天王洲だけは、江戸時代に漁師の網に牛頭天王の面が入ったことから、そのあたりの海を「天王洲」と呼ぶようになり、それが今日まで至っているのだ。

いささか卑しすぎる沼のコイ

 「道の駅・てんのう」には、天王グリーンランドというかなりおおきな公園が付随されていたので、少しだけ散策してみた。写真のように公園には鞍掛沼という大きめの池があり、たくさんのコイが放流されていた。

 池には「鯉の鑑賞デッキ」が整備され、ここは餌やり場になっていることから、写真のように数多くのコイが蝟集していた。こうした姿はいろいろな池で見ることが出来るが、これほどまでに卑しく集まっている姿も珍しい。

意味不明のモニュメント

 池に掛かる橋を渡り、南側にある「八坂の滝」「歴史の広場」を訪ねてみることにした。写真のように池には船がつないであるが、マストには赤い身体をした人間らしきものが座っていた。解説文はなにも存在しないので、この存在の意味を理解することはできなかった。

三内丸山の大型掘立建物はここにあった!?

 「歴史の広場」には弥生時代を思い起こさせる竪穴式住居などが再現されていた。が、一番目に付いたのは写真の大型掘立建物で、これは明らかに「三内丸山遺跡」のものが元になっている。とするならば、ここは縄文の世界なのかもしれない。

スサノオの本地は牛頭天王

 「八坂の滝」の前には、いくつかのモニュメントが置かれていた。写真は橋の近くにあったものだが、スサノオが牛に乗って進軍している姿が再現されている。もちろん、スサノオの時代に馬は存在しない(日本に馬が入ったのは4世紀頃と考えられている)ので、牛が重要な乗り物?なのだ。

スサノオ櫛名田比売稲田姫

 スサノオは奥出雲に出掛けた際、老夫婦と一人の娘に出会った。老夫婦には8人の娘がいたがすでに7人が八岐大蛇に食べられ、今回も残った櫛名田比売も食べられてしまう運命にあるとのことだった。そこでスサノオはその娘を嫁にもらう代わりに大蛇を退治するという約束を得た。 

退治された八岐大蛇

 見事、スサノオは約束を果たし、写真の八岐大蛇を退治したのであった。

 こうした伝説を折角、モニュメントとして残したのだから、せめて、グリーランドの職員には、周囲の雑草を退治していただきたいと、切に願った次第である。

風力発電施設と久保田城

県道56号線(秋田天王線)に沿って並ぶ「大型扇風機」

 翌日は、昔からの知り合いが男鹿の磯で身内を中心にした釣り大会を開催するということなので、その様子を取材するために男鹿市に近い場所に宿を取った。が、当日は生憎の大雨となってしまったので、取材は断念し、秋田市内を少しだけ見て回ることにした。

 とはいえ、土砂降りの中で見学に回るのも気が進まなかった。とはいえ、宿にいてもすることがないので、車で少しだけ出掛けることにした。

 もっとも気になっていたのが、県道にずらっと並ぶ風力発電の風車で、寒風山の山頂から秋田市街方向を眺めた際には、必ず、この姿を撮影しようと心に決めていた。が、この悪天で見通しが相当に悪くなったことから、「ずらっと並ぶ」姿を撮影することは叶わなかった。

今後の主力となるだろう洋上風力発電

 一方、秋田沖では洋上風力の開発が本格化している。脱炭素には、太陽光と風力発電が主力になるのだが、日本では風力ではかなりの遅れをとっている。それを挽回するためには洋上風力の開発が必至なのだ。

 ただ、日本の海には遠浅の場所が少ないため、着床式を設置する場所には限りがあるので、どうしても浮体式が主力とならざるを得ない。が、技術的には困難な点が多いために計画されているほど進展は見られない。

 しかし、気候変動対策にはこの開発が不可避なので、技術者たちには頑張って効率が良く、しかも安全な浮体式の風力発電設備を多く完成していただきたいと切に願っている次第だ。

久保田城の本丸跡

 久保田城跡(千秋公園)に入ったのは今回が初めて。私の秋田市街における定宿はこのすぐ隣にあるホテルで、ホテル名にも「キャッスル」が付いているにも関わらず、城内に足を踏み入れたことは一度もなかった。

 今回もとくに興味があったわけではなく、ただ雨が非道くて行き場所がなかったことから、時間つぶしをするために立ち寄ったというのが実際なのであった。

 城主の佐竹氏は江戸時代の大名の中では最も由緒があり、それに次ぐのは薩摩の島津氏で、後の大名は、戦国時代の混乱に乗じて成り上がった者たちばかりで、ほとんど「どこかの馬の骨」が、たまたま成功して城持ちになっただけだ。

久保田城表門

 佐竹氏は長い間、常陸国にいて、54万石とも80万石とも言われるほどの大勢力を誇っていた。が、関ヶ原の戦いでは西軍についたために本来ならば大名の地位を追われるはずであったが、家康が「名門好き」であったことが幸いして、1602年に秋田に移封され、かつ20万5千石に減じられたものの、大名の地位は守られた。

 もっとも、秋田は米、木材、金銀が豊富にとれる場所であったため、実際には20万石をはるかに超える豊かな藩だった。

 1603年に窪田にある神明山に城造りを始め、翌04年には完成した。これは石垣はほとんど使用せず土塁で済ませたこと、天守はなくていくつかの櫓(やぐら)を建造しただけだったことから完成が早かったのである。

 1645年に窪田城から久保田城に名称変更した。このため、一般には久保田藩と呼ばれている。

 1880年の大火で、城内の建造物はほぼ焼失した。それゆえ、写真の本丸表門は2001年に再建されたものである。 

復元された隅櫓

 写真の隅櫓は1989年に再建されたもので、こちらは表門のような木造ではなくコンクリート造りになっている。

千秋公園の胡月池

 本丸・二の丸は千秋公園として無料で公開されている。二の丸には写真のような池が整備され、大雨でなければゆっくりと散策したいと思わせるような造りである。

久保田藩最後の藩主・佐竹義堯(よしたか)像

 本丸の中央には、最後の藩主である佐竹義堯公の像があった。ちなみに、現在の秋田県知事は佐竹敬久氏であるが、名字から分かる通り、佐竹一族の出身である。

 いよいよ次回は、半世紀以上前から私がもっとも行きたいと思っていた象潟から始めることになる。