◎ジオパークと生態系公園
男鹿半島は私の〇番目の「ふる里」である。もっとも、私にとって本当のふる里は府中市であるが、放浪癖のある私には、居心地の良い場所を発見してしまうと、そこが〇番目の「ふる里」になってしまうのだ。
ここで紹介する男鹿半島も、いずれ触れる象潟も、すでに何度か紹介している和歌山県古座川町の小川(こがわ)も、奈良の山の辺の道も、長野の安曇野も、京丹後の久美浜も、倉敷、尾道、鳴門も、みな「ふる里」なのである。
男鹿の場合は、そのに住む人々があまりにも温かい心性を有しており、また地質学的に特異な存在であり、大型のクロダイが数釣れるところから、勝手に「ふる里」と称しているのだ。もっとも、男鹿の魅力はそんな半端な言葉では言い表すことができないほど深い魅力に満ちているのだが、心中を具現化する能力に乏しい私には、他の語を継ぐことができないのだ。
私が宿泊した大潟村のホテルからほど近い場所に「男鹿半島・大潟ジオパーク」があるとのことなので出掛けてみた。写真の庁舎の2階にあり、かなり広いスペースを取って様々な展示をおこなっていた。ただ、観光客には寄りにくい場所にあるためか、見学客は私ひとりだった。そのためもあって学芸員の方が懇切丁寧に説明してくれることになり、私にとっては歓迎すべき出来事となった。約2時間、付きっ切りで案内してくれ、また、私の拙い疑問に対してもきちんと回答してくれた。そのためもあって、私は話に夢中になってしまったことから、室内の写真撮影を失念したことを後で気づいたほどであった。
ジオパークは日本各地の至るところにあるが、内容が充実している点では、この「男鹿・大潟」と群馬県の「下仁田」が双璧であると思えた。
男鹿半島には、かつて日本がユーラシア大陸と陸続きであったころからの地層が数多く残っていることで、地質学ファンには堪らない場所である。
日本はかつて、海洋プレートの沈み込みのときに、その上部が削り取られて大陸の東岸に付加された。その最後の付加体が、中央構造線の下部(東京もその一部)である。もっとも、日本列島が形成されてからも、今度はフィリピン海プレートの沈み込みによって付加されたものとして伊豆半島や丹沢山地があり、いずれは大島も八丈島も付加されると思われるので、日本全体が付加体だといっても過言ではないのだけれど。
日本が大陸から離れたのは約2000万年前とされているが、その理由はまったくと言っていいほど解明されていない。さらに、日本海が現在のように広くなったり、列島がやや折れ曲がった形になっている原因も諸説ありすぎて定説と言えるものはまったくない。個人的には「ホットリージョンマイグレーション説」が正解に近いと考えているが、それはあくまで素人の推察にすぎない。
1500万年前は、まだ男鹿半島は浅い海の底にあり、1000万年前には沈降して、一時は海底2000mほどのところにあった。
それが徐々に上昇し、本州と陸続きになったのは1万年ほど前の縄文時代の頃だ。それが6000年前の縄文海進によって半島の付け根部分が水没して島となった。が、北からは米代川、南からは雄物川が土砂を海岸まで運んできたために砂州が伸び、2000年前の弥生時代には南北の砂州が島とほぼつながり、やがて現在のような長靴型の男鹿半島が形成されたのである。つまり、男鹿半島は陸繋島であり、南北の砂州が埋め残した場所が八郎潟だ。つまり、八郎潟は海跡湖に定義される。
こんな話を学芸員の方に教えてもらい、さらに大陸と陸続きであった痕跡の残る場所や、男鹿の変遷を見られる場所などを指摘していただいた。実は、その大半の事柄は私にとって既知のものであったし、とりわけ、海岸線については釣り場探しも兼ねてよく出掛けていて知っていたのだが、彼の熱心な説明に敬服して、私にとっては例外的なことであったが、その解説をひとつひとつ頷くように聞き入っていたのであった。
というわけで、ジオパーク見学は収穫の多いものであり、24年の5月にも男鹿に出掛ける予定でいるので、この場所には是非とも再訪したいと考えている。
八郎潟の多くは1957年に始まった干拓工事で埋め立てが進み、64年に工事が完了したときには、その規模はかつては琵琶湖に次ぐ大きさであったものが、現在では日本で18番目のサイズに縮小し、名前も「八郎潟調整池」に変更された。
その埋立地に写真の秋田県農業研修センター・生態系公園があるというので、初めて訪問してみた。公園自体は散策に適しているような場所だが、埋め立て地の多くが未開発の場所なので、わざわざ公園まで出掛ける必要はないと思えたが、そこに温室があるということなので、それを目当に訪ねてみた次第だ。
温室の中には、珍しい熱帯性植物や、普通の花壇でも観られるような数々の植物が育てられていた。ここは「研修センター」なので、普通の花の育成も重要なのだろう。とはいえ、花も私の趣味のひとつで、以前にこのブログでもしつこいくらいに花たちを紹介しているので、ここでは、以前に触れていない種類のものを取り上げてみた。
写真のマンデビラはキョウチクトウ科マンデビラ属の多年草。つる性で、高さは30センチから3mにまで伸びることがある。春から秋にかけて長い間開花する。南米原産の植物なので耐寒性は弱く、8度以下になると枯れてしまうことがある。
サントリーが「サン・パラソル」の名で発売して人気を博したことから、マンデビラの名よりもサンパラソルで流通していることが多い。
フトモモ科アッカ属の果樹。ウルグアイ、パラグアイなどが原産地。果実は10月下旬から12月中旬に収穫される。キュウイに続く果実として日本にも輸入されたがほとんど広がりを見せていない。
グレース、マンモス、トライアンフ、クーリッジなどの品種があり、写真のクーリッジが食味が良いとされている。写真のように花が美しく、丈夫な常緑低木なので、庭木や公園樹に用いられることがある。
キジカクシ科フォルミウム属の多年草。茎はなく、地面から革質の鋭い葉を扇状に伸ばす。葉からは繊維が採れ、織物、マット、漁網などの原料にもなり、原産地のニュージーランドでは重要な産品になっているとのこと。
花は40年に一度咲くといわれるほど珍しいそうで、この温室ではたまたま花芽を付けていたため、「注目」の張り紙が傍にあった。私にとってはとても幸運なことで、少なくともこの場所では二度と花を目にすることはできない。偶然の出会いに感謝である。
ヒガンバナ科キルタンサス属の球根植物で夏に開花する。原産地は南アフリカのケープ地方。属名のキルタンサスは花筒が曲がっているところから名付けられた。
写真のように、クンシランによく似た美しい花を咲かせることで、日本でもまずまずの人気がある。
◎男鹿駅界隈
大潟村を離れ、寒風山に今一度寄ったのちに、男鹿駅を目指した。写真は20数年前からお世話になっている男鹿を代表する釣具店で、店長は釣りの名手で磯釣りの全国大会で優勝した経験をもつ。
ここにくれば男鹿の釣況はすぐに入手できるが、今回は釣りで訪れたわけではないのでどこの釣り場が良いかの情報を聞くことはせず、まずは久方ぶりの邂逅を喜び、互いの近況報告をおこなった。とはいえ、店長は地元ラジオ局の取材、翌日は友人の結婚式への出席が控えていたため、ゆっくりと語り合うという訳にはいかなかった。
24年には釣り具を積んで、5月末の船川港祭りの時期に合わせてこの地に出掛け、久しぶりの男鹿磯でのクロダイ、メジナ、ホッケ釣りと、地域色豊かな祭りを楽しみにして再度出かけてくるという約束をして、私はすっかり様相の変わった男鹿駅周辺を探索することにした。
釣具店のすぐ西側にあるJR男鹿駅に立ち寄った。そのあまりの変貌ぶりに驚いた。かつての駅舎は古民家風を装っていたが、2018年に建てなおされたものは、いかにも今風という感じで、これが男鹿駅である必然性はまったく感じられないのである。
駅の利用者が急増して、今までの木造駅では乗降客が溢れかえってしまうのならば、防災上の観点からも致し方ないかもしれないが、実際には利用客は私がよく男鹿を訪れていた時に比べると急減している。
2000年代は1日の乗降客数は550~650人、10年代は270~550人に減り、22年は247人まで減じているのである。
この新駅舎は、駅前周辺の整備事業と関係しているものと考えられた。駅の南側には「道の駅・おが」が出来ていた。それと連携するためか、駅の出入口は、以前は西向きだったが、新駅舎は南向きになっているのである。
新駅舎の西側ロータリーには、写真のなまはげ像があった。これは男鹿の民俗を代表する存在なので、駅前にあって当たり前なのだが、以前にあったものより小振りになってしまったようで、もはや、なはまげだけでは観光客を呼び込めないと考えたのかもしれない。
そうだとすれば、残念なことである。
列車の姿も大きく変わった。かつてはローカル色豊かなディーゼル車(気動車)であったが、2017年に導入された「ACCUM」(交流用一般型蓄電池駆動電車)に置きかえられていたのである。
これならば、ディーゼルでなくとも架線は不要で、しかも音も静かだ。が、ローカル線のイメージが欠落してしまったため、情緒や郷愁を感じることはもはやできない。
私は男鹿線には一度も乗車したことがなかったが、下に挙げる定宿の古典的ホテルからはしばしば男鹿駅を眺めていたし、そもそも駅前ロータリーによく車を止めていたことから、いつかは男鹿線に乗ろうという思いがあった。が、この「電車」や駅舎からは是非とも乗ってみたいという気持ちは完全に消えてしまった。
かつて、駅の出入口は西向きだったことから、駅のすぐ北側には跨線橋が造られていた。しかし、出入口が南向きになってしまったために、跨線橋そのものはまだ残っていたものの、利用者はほとんど皆無に近い状態なので、それはすっかり古びたものとして放置に近い扱いになっているようだった。
その跨線橋から男鹿駅と電車を眺めてみた。電車の向こう側にある白い平面的な建物が新駅舎である。
跨線橋の近くには、写真の小さな水路がある。現在はコンクリートの三面張りになっているが、かつては自然のままの小川といった感じだった。そのためもあり、こんな小さな流れにも産卵のためのサケが遡上し、地元の釣り仲間はこのサケを網で捕獲して、卵を数多く手に入れていた。もちろん、違法行為なのだが地元の人々は結構、普通の行為として収穫していた。
写真は西側のロータリー兼駐車場に面した場所にある古いホテルである。私が初めて男鹿に宿泊したときこの古めかしいホテルを利用した。というより、男鹿駅近くにはこのホテルしかないため、朝早く起きて地元の釣り人とともに釣り場に向かうには便利な場所にあったからだ。
3階建てだが、宿泊できるフロアは3階部分だけだ。部屋は狭く、設備は相当に年季の入ったものであったが、昔の建物は壁が厚かったので、昨今のビジネスホテルとは異なり、隣の部屋の人が発生する声や物音はほとんど聞こえなかった。もっとも、宿泊客も少なかったというのが最大の理由だが。
今回の旅でも久し振りに利用してみる予定だったが、近年はレトロブームなのか、単に安いからなのかは不明だったが、部屋は埋まっていて予約することはできなかった。話によれば、息子の代になってサービスが良くなったというのも理由のひとつらしい。
駅の出入口の向きが変更されたためか、ロータリーに面した駅前通りはすっかり寂れ果てていた。その理由は簡単明瞭で、周囲に近代的施設ができたからである。
駅の向かいには「道の駅・おが」が出来、その中には観光施設の「オガーレ」がある。また、男鹿マリーナの北側には「ОGAマリンパーク」が新設され、船川港の構内には「男鹿ナマハゲロックフェスティバル」なる会場も造られていた。
こうして男鹿駅周辺は、もはやどこにでもある何の変哲もない場所に変わり果ててしまった。男鹿に限ったことではないが、日本全国、町は金太郎飴のようにどこに行っても同じような表情になってしまった。
◎鵜ノ崎海岸
男鹿駅周辺を歩いても私の目を惹くものは特になかったため、市街を離れて半島の魅力が満載の海岸線を見て歩くことにした。先にも触れたように、半島は長靴の形をしているが、見ごたえのある海岸線は靴のかかとからつま先部分にある。ただ、地層という点では甲の部分も見逃すことはできないが、それらについては次回に触れることになる。
最初に出会う魅力的な海岸線は”かかと”部分に位置する「鵜ノ崎海岸」だ。写真のように、ここは浅い海岸が沖合数百m続いており、傾斜した泥岩層の端の部分だけが顔を出し、干潮時には洗濯板状(鬼の洗濯板とも言われる)に見える。これは波によって削られたもので、波蝕台と呼ばれている。もっとも、1000万年前は水深2000mの地点にあり、それが次第に隆起して現在の位置まで盛り上がった。
深海層に在った際にケイソウ類の植物プランクトンが大量に発生し、その死骸が泥になって積み重ねられた。その時代には秋田県内の各地の海でも大量発生したことで、これが石油の源(石油根源岩)になった。そういえば、この海岸線に接したとき、かつて秋田は新潟と並んで石油の生産地として知られていたということを思い出した。
写真のように泥岩の固い部分がやや盛り上がって残っている部分がある。かつて、夏の暑い最中に、竿を担いでこの岩まで歩いて渡り、ここから溝(満潮時の水深は1.5mほど)にスイカを餌にした仕掛けを沖まで流し、クロダイを狙ったことが何度かあった。クロダイは悪食で有名なので、夏場はスイカを好物にしているのである。
写真のように、海をよく見ると、泥岩の端とは異なる半円形、もしくは球形をした岩が点在することが分かる。
その姿は望遠レンズでのぞいてみるとよくはっきりと分かる。この日のこの時間は生憎と満潮時なので半円状にしか見えないが、大潮の時、とりわけ春の大潮時には、この海岸線はほとんど干上がった状態になるので、その際には楽に沖合近くまで歩いて行くことが出来、かつ、球形をした数多くの岩の塊を間近で目にすることができる。
この丸岩は小豆岩と呼ばれ、形が可愛らしく見えることから「おぼこ岩(おぼことは小さい子を意味する)とも称されている。
岩が球形なるのは、ケイソウ由来の泥にカルシウムやマグネシウムを含む炭酸塩鉱物が混じるからで、とても硬い塊(ノジュール、コンクリーション)になる。
なお、カルシウムは死んだクジラ由来のものだという説がある。
私のように、満潮時に訪ねた見物客には、今一つ小豆岩のイメージが湧かないので、岸辺の公園には写真のような小豆岩が展示されている。大潮時の干潮時に訪れると、写真のような丸い岩があちこちに点在している姿を見て取ることが出来る。
洗濯板状の岩の行列だけであれば、この海岸が「日本の渚百選」に認定されることはなかったと思われるが、この小豆岩の存在が、この海岸が日本でも珍しい光景を展開し、人々の関心を惹きつける。
とはいえ、この日、海岸を見物していたのは私だけだったが。
◎館山崎のグリーンタフ
鵜ノ崎海岸を離れ、次の目的地に向かった。その場所は県道59号線(おが潮風街道)から少し離れた場所にあるため、先の鵜ノ崎海岸のように、海岸線を走って入れば自然と目に入るという訳ではない。そのため、よほど地質に関心がある人でなければ、わざわざ訪れることはないかもしれない。しかし、地質学にとっては極めて重要な役を果たした貴重な場所なのである。
ここへ行くためには県道から「椿漁港」に入って、しばらく構内を走ってから海岸線に出る必要がある。そうすると、写真のような崖が目に入る。ここが「館山崎のグリーンタフ」と呼ばれる火山礫凝灰岩が造った崖である。
この崖が存在することで、県道は海岸線から少し離れ、しかもこの崖の上あたりではトンネルになっているため、なんとなくそこには崖があることは分かっても、ここが世界的にも貴重な場所であることは、興味のある人にしか知られていないのだ。
ここは2100万年前の火山噴出物から形成されたもので、大量の火山灰や火山礫が積もってできた岩場である。
風化が進んでいるために少し分かりづらいが、岩はやや緑がかった色をしている。熱による変性を受けて緑色に変色したのである。これをグリーン(緑)タフ(凝灰岩)と地質学の世界では呼んでいるが、このグリーンタフの名は、この岩から名付けられたのである。緑色凝灰岩は日本、いや世界の至るところに存在するが、その英名であるグリーンタフの名は、この場所が嚆矢なのである。
林の中にもグリーンタフが存在していた。東北をよく旅行して数多くの記録を残した菅江真澄(1754~1829年)は、この岩を「まいたけ岩」と名付けたことで知られている。のちに、この緑色凝灰岩がグリーンタフと名付けられたということは、さしもの菅江にとっては想定外のことだっただろう。
◎潮瀬崎の奇岩~名勝・ゴジラ岩など
潮瀬崎は男鹿半島ではもっとも南に位置し、写真の「ゴジラ岩」があることから観光客がよく集まる場所として知られている。県道沿いに駐車スペースがあり、必ずと言って良いほど数台の車がとまっている。
もっとも、この辺りは基本的には波蝕台になっており、鵜ノ崎とは異なり足場が海面から1,2mあるので、磯釣りの名所としても知られている。そのため、訪れている人が皆、ゴジラ岩見物を目的としているわけではなく、ゴジラよりもメジナやクロダイを目当にやってくる人も少なくない。
晴れた夕方にここを訪れると、美しい夕陽をみることができ、さらに角度によってはゴジラが太陽をくわえていたり、口から火を放っているように見えることもある。
個人的には決してそうは思っていないのだが、一般には、男鹿半島の自然の景色と言えば、概ね、このゴジラ岩が第一に取り上げられる。
ゴジラ岩と並んでよく取り上げられるのが、写真の「双子岩」で、三角形の帆のような形をした岩が仲良く並んでいる。
写真の岩に名前があるのかどうかは不明だが、たまたま顔と思われる場所に小さな丸い穴が開いているため、何かの動物の顔のように見えるのだ。それはトカゲのようでもいありカエルのようでもある。
この潮瀬崎は3500万から3000万年前の噴火によって積もった火山礫凝灰岩から成り立っているが、写真のように凝灰岩の層の下の泥岩層が露出している場所も存在する。写真ではその層が整合的であるが、中には不整合に重なっている場所もある。
その他にも不思議な形をしている岩がいくつもあり、ゴジラ岩だけ見て帰るというのはとてももったいない。地質に興味がなくとも、いろんな形をした岩を見て回り、自分が興味を抱いた岩の姿に名前を付けてみるのも面白い行為である。
いざ名前を付けてしまうと、どんどんそのように見えてくるから不思議だ。それを他者に告げても多くは納得してくれないが。これも錯視のひとつだからだろう。
◎戸賀湾のマールと男鹿水族館
潮瀬崎の先から海岸線は断崖絶壁が続くようになるため、県道は山坂道に入ってゆくことになる。その坂道が始まった場所に、冒頭に挙げた「なまはげ立像」がある。私の場合、男鹿には両手両足の指を使っても数え切れないほど男鹿には立ち寄り、大抵、その像を目にしているのだが、写真撮影をおこなったのは、実は今回が初めてだった。
ただ、この像を目にすると、道はしばらくの間、山坂道になり、海は遥か下に存在することとなる。それはここに取り上げる戸賀湾まで続くことになる。もっとも、途中に海岸線に降りられる場所があり、そこは加茂漁港と言って磯釣りの基地としてはあまりにも有名な場所である。
その漁港から小さな瀬渡し船に乗って、眼下に続いている磯に渡礁して釣りをおこなうのだ。大半は地磯(陸続きの磯)なのだが、よほど根性があるか命知らずの人でない限り、歩いて磯に降りる人はいない。
今回は磯釣りにやってきた訳ではないので、加茂港には寄らず、戸賀湾の高台にあるマールを見物した。マールとは水蒸気爆発の結果で生まれた火口のことで、基本的には一回の爆発で形成されたものを指す。内陸にあるものはその河口に地下水などが溜まり湖や池を形成する。
日本でもっともよく知られたマールは伊豆大島の波浮港か、伊豆の伊東にある一碧湖だろうか。波浮港は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の『波浮の港』で、一碧湖は、昭仁上皇が皇太子の時期に、寄贈されたブルーギルを食糧増産のために放流し、その理念に反し、在来種を食い荒らす害魚となってしまった原点の湖として知られている。
男鹿半島の戸賀地区にはマールは4つあり、そのうちの3つは「目潟」と名付けられている。写真は「二ノ目潟」であり、「三ノ目潟」はその下方にあるはずだが、森の中を進まないと目にすることはできない。クマとは遭遇したくないので、「三ノ目潟」との対面は行わなかった。
写真の一ノ目潟は、直径が600m、水深が44.6mある。6~8万年前の噴火でできたと考えられ、噴出物のなかには地中深くにあるカンラン石が含まれており、日本でも貴重なマールとして注目されている。
実は、四ノ目潟も存在する。一つ上の写真に写っている入り江がそれであり、一般には戸賀湾と呼ばれている。マールの西半分が入り江になったためにマールだとは気付きにくいが、約42万年前の噴火で形成されたもので、航空写真や地図で湾の形を確認すると、確かに半円状になっていることが分かる。
男鹿水族館GAOは2004年に落成した。Gは地球、Aは水、Оは海を意味するとのことだ。この水族館に立ち寄るのは初めてだったが、映画の『つりバカ日誌・15・ハマちゃんに明日はない!?』の舞台になったことはよく知っていた。というより、男鹿での釣りでよくお世話になった人々がエキストラで撮影に数多く参加していただけでなく、知り合いの釣り人が「釣りの指導」をおこない、さらには、夜はしばしば西田敏行などと宴会を開いていたという話を聞いていた。西田は映画のまんまの人物で、三國連太郎は意外にもかなり気さくな人物だったという感想も聞いたことがあった。
あまつさえ、画面に登場する生きたマダイ(ハマちゃんが釣りあげた魚)を養殖場から数十匹仕入れることもしたという裏話も知人が話してくれた。
ということは、この水族館は鈴木建設が造り上げたことになっているのだ。
どこの水族館にもあるように、ここでも入り口付近に写真にある巨大水槽が設置されていた。この中には男鹿の海でよく見かける魚たちが入れられており、この点に好感が持てた。規模で言えばここよりも大きな水槽は全国各地で見ることができるが、地域に特化している場所は意外に少ないのだ。
何事も大きければ良いという訳ではなく、地域に根差した様態を有していることが重要で、巨大なものは地域性を失った大都会にある水族館に任せれば良い。
巨大水槽の中には、男鹿の岩場が再現されていた。写真の岩は明らかに潮瀬崎のゴジラ岩を模したものであろう。
チンアナゴは四国から沖縄にかけての暖かい海に生息するウナギ目アナゴ科の魚なので、男鹿の海に生息することはまず考えられないが、温暖化が進むにつれて、この海で見られるようになるのはそう遠くないことかも。
もっとも、この魚が正式に認知されたのは1959年のことというから、その生態については不明な点が多々あるので、もうすでに男鹿の海にいるという可能性はまったく排除はできない。
このヤドクガエルはコスタリカからブラジルの熱帯林に生息するので、男鹿とはまったく関係がないが、興味深い存在だったのであえて掲載してみた。
大きさは2.5センチほどだが、毒性はかなり強く、中には一匹で十人の成人を致死させることが出来るほど。毒は餌とするアリやカブトムシなどの昆虫を介して生成されるようで、生息域とは無関係な場所で育つと毒は持たなくなるそうだ。ということは、水族館にいるこのカエルは無毒だろう。
なお、この毒から抽出させる成分には鎮痛剤として利用できることが分かっており、現在、その研究が進められているとのこと。
クラゲを飼うことが静かなブームになっている。私としては、クラゲは敵のような存在で、泳いでいるときに何度が刺されたり、釣り場一面にクラゲの大群が流れ着いて数時間、釣りを中断させられたりしたことがあったからだ。それゆえ、クラゲを食べることはあっても飼育する気持ちはまったくない。
それにしても、水族館や熱帯魚店などでクラゲの姿を見るのは嫌いではなく、時には一時間以上も見入ってしまうことがある。その際は、クラゲそのものに興味があるというより、果たしてクラゲは「この私(この場合はクラゲ自身)の存在」を認知しているのか否かを考えさせられるからだ。
この私が私であるということは、私の過去の記憶に由来する。それは一時間前でも一年前でも五十年前のことでも良い。年々、物忘れが酷くなってはいるものの、それでも過去の、とりわけ象徴的な事柄は鮮明に記憶しており、それらのいくつかは同じ時を過ごした知人に聞いてみても確かな事実として私の内に存在する。
今から約60年前に流行った植木等の無責任男の映画は同級生の親が経営する映画館で、友人たちと無料で入り、大笑いをしながら見て、自分もあのような大人になりたいと一大決心したことは今でも鮮明に覚えているし、小学校時代の友人に尋ねても、確かにお前は植木等に憧れていたという証言を現在も得ることが出来る。その限り、「この私」は確かに現在しているのである。
しかし、海を(ここでは水槽の中)漂うクラゲたちは、「この私の存在」の自覚があるのだろうか、と、いつも気になるのである。犬や猫にも尋ねることはあるが、ほとんどの場合、答えの代わりに私の前から立ち去り、一部は吠え付くのだ。
が、クラゲの場合はまったく無反応で、ただ漂うだけなのである。その限りにおいてクラゲには「この私」の自覚はなく、現在そこに「ある」だけなのだろう。
この水族館で一番人気があるのは写真のホッキョクグマ(豪太くん)のようだ。水族館や動物園のクマというと寝ていることが多いのだが、私が訪れたときは結構、活発に歩き回っていた。
メスのマキとの間で繁殖行動が見られたようなので、長い間、マキの様子を観察していたが、今年(24年)になって、今回は行われなかったそうだ。
23年は「熊騒動」で日本中が沸きかえったが、それでも、こうしてシロクマ君の行動を観察していると、凶暴さよりも可愛らしさを感じてしまう。これも人間から見た意識に過ぎず、クマからしたら狭い場所に閉じ込められて見世物にされ、誠に迷惑な話だろうが。
それでも、彼の動作を見ていると愛着が湧いてくる。その不条理な点こそが人間らしさなのかもしれない。
水族館の裏手には、写真のような岩脈が幾筋も走っていた。凝灰岩の割れ目をマグマが貫入して冷え固まったものである。本ブログでは、和歌山県串本町の「橋杭岩」や古座川町の「一枚岩」(古座川弧状岩脈)をすでに紹介しているが、この岩脈はそれらの小型版といったところである。
ずっと先になるだろうが、いずれ周囲の凝灰岩が削り取られ、この岩脈が「橋杭岩」のような姿になる可能性は高い。もっとも、そのころには人類は絶滅しているので、それを目にするのは人間以外の存在だろうけれど。