徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔77〕若狭湾・山陰東部を旅する(5)豊岡市竹野町から夕日ヶ浦温泉まで~いよいよ東進

夕日ヶ浦の磯で釣りをする人

豊岡市竹野町の海岸を訪ねる

切浜海岸を国道から望む

 この日、最初に訪れる予定の切浜海岸を国道から眺めた。この海岸の先に「淀の洞門」という観光スポットがある。

小さな入り江の小さな港

 切浜海岸の手前にある小さな入り江に造られた小さな港。昨日、西方向に進んだ時にはその存在にまったく気づかなかった。すべての景色は(景色だけに限らないが)一方向から眺めるだけではだめで、いろいろな角度に視線を向けることで、そこに存在する風景はまったく異なるものになる。

切浜海岸でワカメを採集するオッサン

 切浜海岸にも白い砂浜が広がっている。小突堤横の岩礁近くで、お年寄りがワカメの採集をおこなっていた。道路脇に軽トラックがとまっていて、その助手席から彼が働く姿を温かく、かつ心配そうに見つめる家族と思しき人がいた。

海岸の先にあった「淀の洞門」

 切浜海岸の北側にある「黒鼻崎」は日本海に突き出ており、その岬の西端付近に写真の「淀の洞門」と名付けられた海食洞がある。幅は24m、奥行きは40m、高さは14mある(らしい)。その大きさは資料ごとに異なっているので、上記の数字は参考程度にしかならない。

 この洞門は、「淀の大王」を首領とする大鬼集団が金棒で穴を開け、根城にしていた。その鬼集団を退治したのがスサノオだという伝説が残っている。

落石がとても多い場所だ

 洞門の天辺をよく見ると中心部に断層が走っているのが分かる。そのため、洞門は崩落しやすく、写真からも分かるように周辺には大小の落石が数多く転がっている。洞門の中には海水が流れ込んでいるのでそれを間近で見たいと考えたのだが、いつ落石に襲われるか分からないので、洞門の中に立ち入ることは避けた。

 やや遠めから地層を見ると、花崗岩の土台に凝灰角礫岩が乗っていることが分かった。

猫崎半島付け根の波食台

 切浜海岸の東側1400mのところに「猫崎半島」がある。半島の東側には弁天浜、西側には竹野浜があるが、猫崎半島はその両浜の間から細長く1400mほど突き出ており、とりわけ西側は荒々しい見事な岩礁帯が続いている。

 半島西側の南半分は波食台が続いており、その隆起した岩礁帯の一部に無数の甌穴(おうけつ、ポットホール)が見られる場所がある。私は弁天浜の駐車場に車を置き、波食台の上をおっかなびっくり歩いていって、甌穴群を見物することにした。 

半島の甌穴群を訪ねる途中にあった祠

 波食台を500mほど進んだ場所に、自然が造形した「祠」があった。後で知ったのだが、この近くまで道が延びており、甌穴群を見るためだけなら半島内の道を少し北上すれば良いことが分かった。が、低い岩場を歩くことは決して嫌いではないし、ここまでの500mにもいろいろな発見・収穫はあったので決して無駄な歩みではなかった(でも疲労感はあった)。

この辺りは落石が多い場所

 凝灰角礫岩の岩場はかなり脆い状態なので、昨日に見た「はさかり岩」に似た姿がここにも存在していた。

波食甌穴をたくさん見つけた

 疑似「はさかり岩」の先からはいたるところで甌穴を見てとることができた。

甌穴群だけが見所ではない

 この辺りの地層は堆積岩から形成されているようで、それまでの波食台とはまた異なる岩肌が広がっていた。

下北半島の仏ヶ浦を思い出した

 写真の場所では下北半島最西端に広がる「仏ヶ浦」を連想してしまった。

この崖の美しさ!

 写真の岩肌に見とれてしまい、しばらくの間、じっとこの場に佇んでいた。自然が作り出す造形は、人間の想像(創造)力をはるかに超えている。

小さな穴は穿孔貝の仕業か?

 甌穴以外にも小さな穴は無数にあった。穿孔貝の仕業なのか、タフォニ現象のひとつなのか無知な私にはまったく理解不能だ。

次があれば、半島探訪だけで一日過ごせる

 半島の先端上部は火成岩が覆っており、流紋岩の柱状節理が見て取れた。

 この日は「城崎温泉巡り」などまだまだ課題多く残っているためにこの半島だけに多くの時間を割くわけにはいかなかった。残り短い人生ではあるが、今一度山陰海岸には訪れたいと考えているので、その際にはこの半島をじっくりと徘徊したいと心から思った。

◎城崎にて

温泉駅前にまず立ち寄る

 城崎温泉には何度も立ち寄ったことがあるが、温泉に浸かったことは一度もない。もっともそれはここに限ったことではなく、湯布院、別府(大分)、有馬(兵庫)、道後(愛媛)、草津(群馬)、下呂(岐阜)、和倉(石川)、皆生(鳥取)といった名だたる温泉地に宿泊したにもかかわらず、それらの名湯に体を浸したことはない。

 城崎は志賀直哉の『城の崎にて』の舞台としてあまりにもよく知られている。中学の国語の教師が何かというと志賀直哉の名を挙げ、文章力を身に付けるには、志賀の作品を読み込むべきとしばしば言っていたことを記憶している。

 私は5人兄弟の末っ子なのだが、5人ともすべて府中一中の出身で、皆、その教師に国語を習っていた。私以外の4人は比較的真面目に授業を聞いていたようで、「〇〇(教師の名前は完全に忘れている)は何かというと志賀直哉の名を出す」と私に言っていた。私は教師の話を聞くことはほとんどなかったが、その○○が志賀直哉の名前をよく挙げていたことだけは覚えている。それだけ、○○は志賀の名を連呼していたのだろう。

 その○○に敬意を表するわけではないが、志賀の代表作の舞台である城崎温泉に今回の山陰の旅でも立ち寄ってみた。温泉には興味はないが、温泉地をブラブラと歩くことはかなり好きなのだ。

閑散とした駅前風景

 城崎温泉駅近くのコインパーキングに車を置き、温泉街を徘徊してみることにした。コロナ禍が猖獗を究めている時期ではないにも関わらず、駅前も、そして温泉街にいたるメインロードも閑散としていた。通りを伸びり(のんびり)歩いていると、あちこちにある海鮮料理店から呼び込みの声が掛かった。屹度(きっと)、かなり暇に違いないと店内をちらりと覗いてみると、本統(ほんとう)に客の姿はほとんどなかった。

城崎はカニの水揚げ地でもある

 城崎温泉のすぐ北側にある津居山漁港は松葉ガニの水揚げ地として有名で、「津居山ガニ」の名で流通している。写真のように城崎温泉の商店街にはこのカニを前面に掲げた海鮮料理店もあった。

 私は数日前に間人(たいざ)温泉でカニを十分に食したので、もう暫くの間は食べたいとは思わなかった。なぜなら、カニは「カニの味」しかせず、同時に他のものを食しても全で(まるで)全部の食材が「カニ味」になってしまうからだ。 

大谿川を渡る山陰本線

 城崎温泉の中央部には大谿川(おおたにがわ)が流れており、この川の両側に温泉宿が立ち並んでいる。写真は、その大谿川の下流方向を眺めたもので、山陰本線の先で本流の円山川に合流する。

城崎温泉の代表的な風景

 私は大谿川に沿って整備された道を上流方向に進み、温泉寺まで温泉街を辿ってみることにした。

護岸には玄武洞の石が使われている

 川沿いの温泉街には写真のような木造の三階建ての旅館があって、いかにも歴史のある温泉地を粧(よそお)っている。

 川の護岸には近くの玄武洞から採集された玄武岩が綺麗に積み上げられている。柱状節理を横に切ったものが分明(はっきり)と並んでいる姿は、ここが城崎を流れる川の護岸であることを却々(なかなか)美しく主張されている。 

城崎文芸館の外観

 街中には写真の「城崎文芸館」があった。本統は立ち寄るつもりであったが、外から中をのぞいてみると見物客がいる様子がまったくなかった。そのこともあり、下の写真にある『城の崎にて』の碑だけに触れることにした。

 

志賀直哉の文学碑

 『城の崎にて』は20歳過ぎから何度も読んでいるが、当初はその良さがまったく理解できなかった。下根の質(げこんのたち)は昔も今も変化はないものの、自らの死が現実味を帯びる年齢になると、その文章に点頭(うなづ)くことが多くなってきた。

 死んだ蜂、死に直面している鼠、思いがけず殺してしまったイモリ、それに山手線にはねられて死に損なった作者、この4者の「死」の対比に「死の個別性」をじっくりと考えさせられた。先にあげた〇〇も、なかなか良いことを言っていたのかもしれない。もっとも、「死」についてなど、中学生の頃はまったく考えもしなかった。何しろ、「遊び」と「いたずら」で忙しい毎日だったから。

温泉寺の楼門

 城崎の町の散策も写真の「温泉寺」が終点だ。1300年ほど前に開基されたというこの寺は真言宗の別格本山で、城崎温泉の守護寺とされている。

温泉寺の薬師堂

 写真は温泉寺の薬師堂で、本堂は大師山(標高230m)の中腹にある。その本堂へは険しい山道を登るか、山に付設されたロープウェイを利用し中間駅で降りれば簡単に行くことができる。

 私は城崎温泉は幾度となく訪れているが、温泉には一度も浸かったことはなく、温泉寺の境内を覗いたこともなかった。温泉はともかく、温泉寺には少しだけ興味がわいたので、ロープウェイを使って大師山の山頂まで行くことにした。もちろん、このロープウェイも初乗りである。

城崎ロープウェイに初めて乗る

 ロープウエイとしてはそれほどの長さがあるわけではないが、中間駅があるのが珍しいらしく、案内でもしきりにその点を強調していた。

 密雲不雨というほどの曇り空ではないので、車内からは比較的、分明(はっきり)と温泉街や円山川の姿を見ることができた。

 写真にあるのが中間駅で、下りの際に立ち寄るつもりでいた。

山頂駅からの眺め

 山頂駅から温泉街を眺めた。円山川では新しい橋の建設が進んでいた。その1100mほど上流部に「城崎大橋」があるのだが、それは名ばかりの大橋で、実際には車がすれ違うのが困難なほど狭い。一方、津居山湾近くには「港大橋」があるのだが、こちらは温泉街に入るのには少し遠回りになるということで、新大橋の建設が急がれているのだろう。

温泉寺奥の院

 山頂駅付近には、先の展望台と写真の「温泉寺奥の院」しか存在しなかった。他には時間を潰せるような場所はなく、甚く(ひどく)落胆(がっかり)させられた。そのため、すぐに下界に戻ろうとしたのだが、時間帯が悪く、次のロープウェイはこのときだけ1本少ないため、40分ほど待たされることが分かった。

大師山の山頂にもあった!

 ここにも「かわらけ投げ」があったが、こんなもので40分という時間を費やすのは串戯(じょうだん)にもならない。そのため、歩いて中間駅に進むことにした。

下りは歩きに挑戦したものの

 一応、写真のように山道は整備されていたものの勾配はややきつく、また利用者が少ないためもあって道自体も荒れ気味だった。踉蹌け(よろけ)ながらなんとか下り始めたが、すぐに後悔した。が、もはや戻ってロープウェイの到着を待つ気持ちにもならなかったため、仮令(たとえ)時間が掛かろうとも、却々(なかなか)来ない乗り物を待つよりも焦心る(あせる)気持ちを抑え、伸びり(のんびり)と下ることに決めた。

石仏群その1

 不図(ふと)脇を見ると、山道にはいくつもの石仏が並んでいる姿が目に入った。

石仏群その2

 石仏は姿形がはっきりしているものもあれば、写真のもののように風雨にさらされたためか相当にくたびれたものもあった。

頭はなくとも

 なかには、頭部はすっかりなくなり、代わりに丸い石ころが載っているものもあった。

ロープウェイを見上げる

 そんな、ひとつひとつ姿形がまったく異なる石仏との出会いは私の心を豊かにしてくれ、その姿を凝然(じっと)見つめていたためか時が過ぎることを失念してしまっていた。

 頭上に下りのロープウェイが通り過ぎていく姿があったが、山道での豊穣な時間は分明(はっきり)と私の選択が間違いではなかったという思いが過り、ひとり点頭いた(うなずいた)。

温泉寺駅前の本坊

 到頭(とうとう)中間駅である「温泉寺駅」に到着した。駅前には温泉寺の本堂(本坊)があった。少し中を覗いてみようと考えたが、中には人気(ひとけ)がまったくなかったために断念した。 

温泉寺駅前の多宝塔

 次のロープウェイが来るまで周囲を少しだけ散策した。少時(しばらく)して下りがやってきたので乗り込んだ。

温泉寺駅から町並みを望む

 車内からの眺めは頂上駅からとさほど異って(ちがって)おらず、標高が下がっただけ温泉街の姿や建設途上の新大橋の姿が大きく見えただけだった。

 温泉街に降り立っても、もはや見るべきところがないように思われたので駅前の駐車場に戻り、城崎を離れることにした。

 *城崎の項では、志賀直哉がよく用いている漢字表記を用いてみた。城崎温泉にはほとんど感慨はないが、志賀直哉の文章には敬服しているのでそれを粧う(よそおう)ことにした。ただそれだけ。

◎丹後砂丘ふたたび

丹後砂丘の箱石浜から小天橋方向を望む

 この日の宿は丹後砂丘の東端にある夕日ヶ浦に決めていた。城崎訪問が淡泊と(あっさり)と終わってしまったため、丹後砂丘の中央部に位置する「箱石浜」に立ち寄ってみることにした。

 箱石浜には少しだけ岩場が露出している。また、陸地部分は少しだけ丘陵状になっているため、前に見た小天橋の海岸とは少し異なった姿を見せてくれる。この日は向かい風がやや強めだったので海中の様子は視認しづらかったが、海の透明度はしっかり保持されていた。

同じく夕日ヶ浦方向を望む

 箱石浜に少しだけ見られる岩礁部分から、今度は夕日ヶ浦方面を眺めてみた。山陰海岸を代表する景勝地のひとつであり、夕陽に接するには格好の場所でもあるため、宿泊施設が多いことは、ここからでも十分に得心できた。

砂浜は漂着ゴミだらけ

 この時期には少ないはずの「合いの風」が今季は多いためか、砂浜には多くのゴミが散乱していた。

韓半島からのゴミも流れ着く

 写真のように、ハングルが書かれた漁船の旗が打ち上げられていた。ここにはないが、壊れたコンテナもいくつか打ち上げられており、なかにはハングルが記されているものもあった。

 日本の文化の多くは大陸から渡ってきたものだが、文化だけでなくゴミも漂着していることが可笑しかった。

網野町磯の漁港にて

 宿に入るにはまだ少し早かったので、先に紹介した「静御前」の生誕地を再訪した。宿泊地から写真の「磯漁港」までは直線距離にして4キロほどである。もっともそこまでの県道の大半は九十九折なので、実際に走る距離はその倍ほどもある。ただ、他の車と出会うことはほとんどないため、時間にすれば10分ほどの移動にすぎなかった。

小さな棚田

 小さな棚田が目に止まったので、車を路肩に置いて少しばかり周辺を散策した。陽が少し傾き始めていたので、田の水面もやや色づいていた。

 薄曇りの空だ。夕日ヶ浦では夕陽は望めないかもしれない。今回の旅では一番ともいえる楽しみなのだが。

◎夕日ヶ浦にて

今回の旅では随一だった宿の玄関

 まずは宿泊する旅館にチェックインし、それから浜を散策することにした。 

私の部屋は「忘れな草」です

 私の部屋は402号室だが、その部屋は「忘れな草」と命名されていた。どうやら、この旅館ではすべての部屋に花の名が付けられているようだ。忘れな草は好みの花のひとつなので大歓迎である。もっとも、私には「ペンペングサ」がお似合いだ。

展望風呂付

 部屋は海岸に面しており、部屋からも、そして写真のように風呂からも海を、そして夕日を眺めることができる。室内は広く、アメニティグッズなども高級そうなものが用意されていた。今回の旅では一番の高級宿なので当然のことかもしれない。

 夕食はあえてここでは取らなかった。なにしろ、山陰の宿の夕食といえばカニと但馬牛と決まっているからで、それらは間人(たいざ)の旅館ですでに食していた。

 ちなみに、朝食はとても豪華なものであり、やや高級な旅館の夕食ほどの品数があった。宿の人も皆、好感が持てる応対をしてくれたので、もし、山陰に再訪する機会があったなら必ず、ここに宿泊しようと思った。そう考えてしまうほど、この宿は私のお気に入りとなった。

夕日ヶ浦海岸

 海岸にはサーファーが何人かいたが、この時期の日本海は波静かなことが多いため、サーフィンというより水遊びといった雰囲気であった。

旅館の名前は「静・花扇」

 部屋からは砂浜と、右手には岩場がよく見えた。岩場には磯釣りをしている人らしき姿があったので、私は宿を出て岩場の方へ向かった。

 写真は私が宿泊した「静・花扇」を写したもの。土台がピンク色している建物が私の「忘れな草」部屋がある別館で、その右手にあるのが本館だ。

岩場を見るだけでも楽しい!

 山陰海岸の岩場はとても変化に富んでいるので、こうした姿に触れるだけで嬉しくなる。

落陽はこの後、雲に隠れてしまった

 日がやや高いうちはおぼろげながら沈みゆく夕日が見えたのだが、低い空にはかなり雲が密になって来てしまったので、残念ながら水平線に落ち入る夕日を見ることは叶わなかった。それでも雲に霞む夕日は、ちょっぴり海を岩場を朱に染めてくれた。

 岩場にはメジナクロダイを狙っているであろう釣り人がひとりいた。私が見ている限りでは竿が曲がることはなかった。

 落陽にせよ、釣果にせよ、人には自由にコントロールできない。だからこそ、私は夕日を求めて、魚を求めて旅を続けるのだ。偶然の出会いを運命に転換するために。