徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔93〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(4)しまなみ海道、そして大好きな尾道(渡船)

決して見飽きることがない尾道の渡船

しまなみ海道~まずは生口島

生口島の名荷港から下鷺島と佐木島を望む

 福山市のホテルを出発して尾道市へ向かった。いつもなら少し遠回りをして「鞆の浦」経由で行くのだけれど、そこには昨日に見学していることから、国道2号線(R2)に乗って西へ進んだ。

 尾道市街に入るならR2の本線を進むのだが、まずは「しまなみ海道」で生口島まで行く予定だったため、R2のバイパスを進んで、「西瀬戸尾道IC」から西瀬戸自動車道しまなみ海道)へ移った。

 まず生口島を目指したのは、その島までが尾道市で、次の大三島愛媛県今治市になるからだ。最初はせめて大三島までとも考えたのだが、そうなると伯方島、大島と進んで結局、今治まで行ってしまうことは大いに想像できた。その結果、尾道見物の時間が極めて少なくなってしまうことから、「今回は山陽路」と決めていたということを自分に言い聞かせて、生口島で下りることにした次第だった。

 この島の主な目的地は「耕三寺」だった。のちに見るように建物はなにやら「怪しげな姿」をしているため、今まで近寄らずにいたのだが、その由緒を知ったときに興味を抱いたので、今回、初めて見物することにした。

 しまなみ海道生口島北ICで下り、島の北海岸に沿って走る県道81号線を西に進んで耕三寺を目指した。途中に写真の港があり、そこからの景色が良さそうだったことから小休止し、海と島々とを眺めた。

 正面にある小さな島が「下鷺島」、その向こうにあるのが「佐木島」。この佐木島三原市に属している。左手の奥に見えるのは本州で海岸線に町並みがあることが分かる。そこが三原市の「本土」だ。

瀬戸田町にあった郵便ポスト

 生口島の大半は瀬戸田町で、島の南東部のほんの一部が何故か「因島」の字名が付いている。

 耕三寺は島の北側にあるので瀬戸田町に存在する。寺の近くの有料駐車場に車を置き、少しだけ町中を散策した。その時に目にしたのが写真の黄色いポストである。ポストの大半が赤色だが、これは必ずそうしなければならないと決まっている訳ではない。郵便制度を始めた際は黒色だったが、見づらいことからイギリスを真似て赤色にしただけだ。これがフランスに倣ったならば黄色になったはずである。

 このポストが黄色なのは、瀬戸田町が国産レモンの発祥地ということが関係しており、このポストは「幸せのレモンポスト」と呼ばれているとのこと。

瀬戸田町の料理店

 寺の前には、歴史を感じさせる料理店があった。1965年に開業したというから私よりは随分と新しい。定食が有名だそうで、看板にもあるようにとくに「たこ料理」が評判らしい。少し立ち寄ってみたい気もしたが、私は近年は一日二食にしていることから入店は断念した。というより、最近は「食」に対する欲望はほとんどなくなっており、お腹を適度に満たせば「美味しさ」にはほとんど拘らなくなった。

◎耕三寺~見掛けはド派手だが

山門からして派手な色使い

 耕三寺の堂宇はそのすべてがド派手である。これを”けばけばしい”とか”毒々しい”と解釈するか、”煌びやか”とか”艶やか”と取るかは人によって異なるだろう。私は当初は前者と思っていたが、この寺の由緒を知ると、後者に近い解釈をするようになった。

 考えてみれば、私たちが古い寺社に訪れたときに重厚さや歴史性を感じるのは、その建物自体が長い年月を経ているからである。例えば、古寺の本堂や山門が近年になって再建されたり大改修された際に、建物の色彩が意外にもカラフル過ぎるのではないかと感じてしまうことがしばしばある。

 すでに紹介した姫路城だって、白く化粧された天守を私は美しいと思うよりもある種の「安っぽさ」を感じてしまった。が、これは城が建造された当初の色だったはずで、寺社の建物も造られた当初は訪れる人を”圧倒”させるべく、派手な色使いをしていたはずである。

 もっとも、耕三寺の場合は「山門」が明らかに鉄骨を多く用いていることが見え見えなので、たとえこれが「京都御所紫宸殿」を模したものと言われても、やや興ざめであることは確かだ。

 それに対し、奥に見える中門は「法隆寺西院伽藍の楼門」を模したとしても、見慣れれば特に違和感はない。

室生寺の塔によく似ている

 このように、耕三寺の堂宇はそのすべてが名のある寺社の建造物を模して造られている。これはこの寺を開いた僧侶の耕三寺耕三が、自然の豊かさしか見るべき場所のない母の故郷である生口島瀬戸田町に「観光名所」を立ち上げるために意図して造ったものだからである。

 写真の五重塔だって、周囲の景観はまったく異なるものの、本ブログでも以前に紹介した室生寺の塔とそっくりに造られている。

 耕三寺耕三は本名を金本福松といい、実業家や発明家として財を成した。1934年に瀬戸田町に住む母親が亡くなると翌年、彼は出家して僧侶となった。36年に浄土真宗本願寺派の寺院としてこの寺を開山し、約30年をかけて堂宇を完成させた。こうした開山の契機から、この寺は「母の寺」とも呼ばれている。

法宝蔵

 五重塔の右手には写真の「法宝蔵」がある。これは四天王寺の金堂を模したもので、内部は近代美術展示館になっている。

こんなところに陽明門?が……

 五重塔の奥の一段高い場所に聳えているのが写真の「孝養門」で、見ればすぐお分かりのように日光東照宮の陽明門を模している。本家の陽明門自体がかなり派手だが、この門は本家を上回るほどの意匠が施されている。

 この門の存在から、この寺は「西の日光」という呼び方もされているとのことだ。

本堂

 孝養門の奥に本堂がある。これは「平等院鳳凰堂」を模したもの。本家は「阿字池」が取り囲んでいるが、こちらは前面に舞台と四角の蓮池が設置されている。

 本家の姿を見忘れた人は10円玉の表側を見ると思い出すだろう。

すべてが豪華絢爛

 本堂を斜め横から見たもので、建物自体の豪華さは本家と良い勝負だが、やはり池が取り囲んでない点や宇治川が流れていない点で、全体の見栄えとしてはやや負けている感はある。

 川の有無は仕方ないにせよ、さしあたり阿字池は整備していただきたいところだ。

 なお、本堂の右手には多宝塔が見えるが、そちらは石山寺のものを模倣している。

千仏洞地獄峡の内部

 池こそ存在しないが、本堂の地下には「千仏洞地獄峡」が掘られている。長さは350mあり、建設時には富士山の溶岩や浅間山の焼石が持ち込まれたそうだ。内部には地獄図絵や写真のような石仏が数多く置かれており、この寺の一番の見所だったように感じた。

 仏陀は地獄や極楽についてはなにも語っていないし、そもそも死後についても無記である。が、いつのまにかそれらが語られるようになるとともに、浄土教やその一派である浄土宗に至っては、仏教というよりキリスト教により近いように思われる。

◎寺の隣には未来の丘が

未来心の丘を望む

 寺の隣には、写真の「未来心の丘」がある。ここも耕三寺の敷地の中にあるので入園料はとくに掛かることはない。

 イタリアで活躍する日本人彫刻家の設計で、広さは5000平米、使用されている白大理石は3000トンにも及ぶ。耕三寺は芸術家の支援も行っているそうで、この庭園はその活動の象徴だとのこと。

 境内の標高は13m、心の丘の頂上は38m。もっとも庭園の入口まではエレベーターが設置されており、これを使えば比高は半分程度になる。

”光明の塔”と名付けられたモニュメント

 頂上には写真のモニュメントがある。周囲にもいくつかのモニュメントがあるが、やはりこの塔がこの庭園を象徴する存在だ。

周囲の景観

 周囲の景観もなかなか良く、正面に見える大理石の建物にはカフェ(カフェ・クオーレ)が入っている。そのずっと先に見える黄色い橋は「高根大橋」で、その向こうに見えるのは「高根島」の尾根である。この島は瀬戸田町の町名を有しているので、尾道市に属している。尾根の左手が高根山のピークで標高は310m。

 ともあれ、耕三寺の印象は徐々に良くなった。観光客の数は結構多いので、この寺の存在は地元経済にかなり貢献していることは確実だと思える。

 耕三寺は寺全体を「博物館」としていることから、拝観料ではなく入館料を徴収している。1400円は当初、高いように思えたが、いろいろな発見があったことから考えると、リーズナブルであるとも言えそうだ。

因島村上水軍の拠点

生口橋を渡って因島

 因島に渡る前に生口橋南西詰の下にある「生口橋記念公園」に立ち寄った。橋は高い位置から眺めるのもいいが、下から見上げると、また違った姿に触れることができるので、この方向から望むのも興趣がある。

因島水軍城を見上げる

 因島には「島四国」として、四国八十八か所霊場が整備されている。寺の名も本家と同じで一番札所は「霊山寺」から始まる。すべてを”順打ち”で巡ると84キロの行程になるというから、徒歩では一、二日ではとても回り切れない。それでも本家の1400キロよりは遥かに短い。

 私が霊場巡りを好むのは四国という土地が好きだからであって、いつも言うようだが寺そのものや何か格別な願い事があってのことではない。したがって、「島四国の霊場巡り」には今ひとつ興味が抱けないので、それに代わって、「因島水軍城」を訪ねてみることにした。

城内の建造物

 イエズス会の宣教師として日本に来て、信長や家康にも仕えたルイス・フロイスが著した『日本史』で「日本最大の海賊」と記されたのが、芸予諸島を「支配」していた「村上海賊(水軍)」だ。ただ、海賊と言っても「パイレーツ」の意味は少なく、瀬戸内海を往来する商船を水先案内(ただし通行料を徴収)したり、諸大名の依頼を受けて海上警固したりすることが多かった。

 村上水軍は三つの勢力から成り、主に本州側で活動していたのが因島村上氏、瀬戸内海の中央で活動していたのが能島村上氏、四国側で活動していたのが来島村上氏で、ときに戦ったり、ときに協力したりしていた。

本丸は資料館に

 因島では1983年、写真の場所に歴史家の奈良本辰也の監修によって、因島村上氏菩提寺である金蓮寺の境内の高台に因島村上水軍城を建造・開館した。

 この地に城郭があった訳ではないが、金蓮寺が村上氏との繋がりが深いということで、城郭風の博物館・資料館を設けたというのが正しい理解の仕方だろう。

 近年では「村上海賊」の表現が一般的になっているが、水軍城では「水軍」の名を用いているので、ここではあくまで村上水軍と表記している。

 建物は大きく3つあり、麓からでもよく目立つのが隅櫓、真ん中に本丸、そして平屋の二の丸である。

白滝山を望む

 水軍城からほぼ北側、2キロ離れた場所に写真の白滝山(標高227m)がある。この山には700体もの「五百羅漢像」があることで知られているが、それらが造られる前に、因島村上氏が最盛期であった第六代当主の村上吉充が山頂に観音堂を造営していた。

 山頂は360度見渡せる場所だけに、海を監視する場所としても最適だったはずだ。写真を大きく拡大していただければ、頂上付近に建物らしきものがあることが分かる。

藤と隅櫓と

 水軍城の敷地はそれほど広くはないので、資料館や展示物に触れることがメインとなる。それでも周囲の景色を眺めつつ、思いを戦国時代に馳せるには格好の場所のひとつだと言える。

 私は駐車場に戻る前に今一度、水軍城の姿を眺めた。隅櫓のある斜面では満開の藤の花が城に彩りを添えていた。

向島の護岸で渡船を眺める

因島大橋を渡って向島

 因島から向島に移動することにした。写真の橋を渡ることになるが、しまなみ海道の橋はそれぞれに特徴があるので、この橋も因島大橋記念公園に出掛けて橋下からの眺めを撮影してみた。やはり海峡はどこでも潮が速い。橋ばかりでなく、その潮の動きを観察しているだけでも見飽きることはない。

岩子島とを繋ぐ向島大橋

 向島と言えば、私の場合には大半が尾道市街とを通じる渡船の姿を見て過ごすが、今回ばかりはそれを少し後にして、向島の西隣にある岩子島に出掛けてみることにした。写真は、向島岩子島とを結ぶ「向島大橋」で、右手が岩子島になる。

 岩子島には初めて足を踏み入れた。が、この島でなければならないという特色のある場所は見当たらなかった。集落内にある道路の幅だけは以前からずっと変化はないようで、新築の住宅はそれなりに見掛けたが、道路の幅だけは軽自動車に適したサイズに留まっているようだった。

干潮時の水路

 私は車の幅より狭い道に入り込まないように十分な注意を払いながら亀の子のような速度で集落内を抜け、何とか島の外周道路に達し、無事、向島大橋を渡って向島にたどり着くことができた。

 因島生口島にはそれぞれの特色を見出すことができる場所があるが、この島の場合はあまりにも尾道市街に近いこともあって、この島でなければならないというところは島の南側にある「高見山展望台」ぐらいだろうか。

 しまなみ海道の中小の島々が無数に並ぶ雄大な景観については、今秋の西四国探訪の際に触れることになるので今回はその展望台には訪れず、私の大好きな尾道水道を行き交う渡船見物に専念することにした。

 写真は渡船の発着所近くにある水路の光景である。何度も言うように瀬戸内海は干満差が大きいので、干潮時は、水路の底が露出し、係留してある小型船は泥底に張り付いた状態になる。

満潮時の水路

 この写真は、同じ水路をほぼ満潮に近い時間に撮影したものである。私はこの撮影の為だけに渡船を使って次の日の朝、この場所にやってきた。撮影はついでのようなもので、本心は、尾道を離れる前に渡船に今一度、乗りたかったというのが真実に近い。

渡船発着所前の小さな店

 向島尾道市街とを結ぶ渡船は現在、3航路ある。最盛期には9航路あって1日に2万人近い利用者がいたそうだ。が、1968年に尾道大橋、1999年にしまなみ海道が開通したことにより利用者は激減してしまった。

 それでも、朝夕は向島から尾道市街の高校に通う生徒の姿、日中には買い物や病院通いする人々が利用し、さらに私のような渡船に著しい興味があってとくに島に用事がある訳でもないにも関わらず、渡船に興味や郷愁を抱く旅行客などが乗船している。

 3航路のうち、尾道水道の中央部を結ぶ「福本渡船」が船も大きく料金も安いこともあって利用者がもっとも多い。私も最初の頃はこの渡船ばかり利用していたが、いつしか、東側にある「尾道渡船」を使うことが多くなった。2003年に就航した「にゅうしまなみ」の船体が程よい大きさで、かつ、頻繁に行き来していることもあって、こちらに移り変わってしまったのである。

 写真の「島の駅むかいしま」の建物は、その尾道渡船を向島で下りたすぐ突き当りにある。店自体は一度しか利用したことはないが、その佇まいが私のお気に入りなのである。

島から千光寺方向を望む

 尾道渡船が行き来する姿を眺めるため、向島の岸壁から渡船が向かってくる様子を眺めることにした。対岸(尾道市街)には千光寺山(標高144m)が見える。中腹には千光寺があり、麓から山頂近くまでロープウェイが通じている。

 私はいつも車で千光寺山に上っていたので、中腹にあるお寺の境内に立ち入ったことはなかった。が、尾道を訪れる機会は今後、そう何度もあるとは思えなかったので、明日は初めてロープウェイを利用して千光寺を訪ねる予定でいた。

 その計画もあったことから、この日は渡船をじっくり眺めることにしていたのである。

 私と同じように、富山県から来たという若夫婦が岸壁近くに車を停め、船がやってくる様子を眺めていた。なんでも、岩国基地で開催された航空ショーを見物した帰りに立ち寄ったとのこと。しまなみ海道を少し走って、帰りは渡船を利用して尾道市街に行き、それから山陽道などを使って夜間に富山に戻る予定だそうだ。

渡船がやって来た

 「にゅうしまなみ」が向かってきた。もっとも、船は尾道水道を行ったり来たりしているだけだし、その距離はわず300m弱なので、渡船がどこに存在しているかはすべてお見通しなのだが。

 ただ、記憶にある「にゅうしまなみ」とは少しだけ姿が異なっていた。が、何が違っているのかすぐには判明しなかった。

人、自転車、車が上陸する

 写真のように、自転車に乗った人や歩きの人が下船したのちに車が降りてくる。それぞれの人がどんな用事で、どんな思いで渡船に乗って来たのかを想像するだけで、私の心は旅情でいっぱいになる。大半の人はただ必要があって利用しているだけなのだろうが。

 隣にいた若夫婦もこの光景に何かを感じたようで、初めはこの便を利用するはずだったのだが、もう一度、渡船が行き交う風景に触れるため、乗船を見送った。どのみち、船はすぐに出発するが、また8分後にはこちらの桟橋に戻ってくるのだ。

 次の便に乗るため、尾道市街側を出発した姿を見届けたのち、若夫婦はすぐ隣にある桟橋に向かった。

 二人が乗るはずの便が向島に到着する刹那、私は「にゅうしまなみ」にひとつ欠けていた事柄を思い出した。以前は、船体の横に大きく、「おのみち浪漫海道」の文字が書かれていたのだった。塗り直したのか、船体の白さが際立っていただけに、近々にその文字が書き加えるのだろう。

 若夫婦の乗った船は尾道市街の桟橋に向かっていった。二人は航空機のことだけでなく、小さな船での短い旅の記憶を、きっとしばらくの間は持ち続けながら、日常の中で時を過ごして行くのだろう。 

尾道駅周辺を散策

閑散としている本通り商店街

 この日の宿は尾道駅から尾道水道に向かった海岸沿いにあり、隣接している市営駐車場は、ホテル利用者は割引料金になることから明るいうちに車をとめ、チェックインを済ませて荷物を部屋に置き、リュックにカメラを入れて市街地の散策に出た。

 尾道らしい景色が展開されているのは駅の東側で、海岸沿いには「海岸通り」、線路沿いには国道2号線が通っている。私はその両通りの間にある「本通り商店街」をまず歩いてみた。

 写真から分かるとおり、立派なアーケードが整備されている商店街にも関わらず、通る人は少なく、店舗の多くはシャッターを閉じたままだ。大半の地方都市の中心街でよく見掛ける光景だ。

 地方都市の多くは公共交通機関の利便性が低いためにどうしても車利用が中心となる。そうなると郊外に大型のショッピングモールが建設され、大半の住民はそちらを利用することになる。一方で、駅前商店街は寂れるばかりなのである。

駅前広場から尾道駅舎を望む

 本通りをいくら歩いても、「尾道ラーメン」店以外は目新しいものはとくにないので、駅前まで戻り、国道2号線に海岸通りが合流している尾道駅前交差点を渡って、海岸沿いにある駅前広場に出た。

 上の写真はその広場から駅前ロータリーや尾道駅舎を眺めたものである。駅舎は4年前にリニューアルされたものであるから、この姿に接するのは今回が初めてである。2階には店舗や展望デッキがあり、南側に位置する尾道水道向島を眺めることができる。

 もっとも、私は海岸線を歩くのが趣味なので、駅には立ち寄らず、海岸から火灯し頃を迎えていた駅舎を見物した。

尾道水道を進む渡船

 一方、水道側を眺めると「駅前渡船」の船が向島方向に進んでいた。先に触れたように、市街と向島とを結ぶ渡船は3航路あり、写真のものはもっとも西側を通る。

 西側と言っても船の発着所は尾道駅の真南にあるので、駅若しくは駅周辺を利用する人にとってはもっとも利便性は高い。ただし、便数が少ないことと、車は乗ることができないため、私にとっては利用回数が一番少ない航路である。

 操縦席の屋根や船体の色使いは尾道渡船の”にゅうしまなみ”よりも目立つ姿をしているので、こうして眺める分には興趣が沸く。

 結局のところ、尾道市街見物と言っても私の場合、その大半は渡船の見物に費やしてしまうのである。

一番ホットなのが尾道ラーメン

 尾道で昨今、一番に話題となっているのは、渡船でも千光寺でも猫の細道でもなく、”尾道ラーメン”である。町中を歩けばすぐにラーメン店が見つかり、しかも多くの店に行列ができているのだ。そういえば、向島で会った若夫婦も、尾道ラーメンを食してから帰途につくというようなことを語っていた。

 私は10数年前、まだ”尾道ラーメン”が話題になる以前に尾道のラーメンを食べたことがある。その理由は簡単明瞭で、駅近くにはラーメン店ぐらいしか入りやすい店がなかったからである。そして、味と言えばごく普通のラーメンだったという記憶しかない。

 尾道ラーメンが話題に上るようになったのは、この7,8年前ぐらいではなかろうか?私が尾道を最後に訪ねてからは10年以上も経っているので、尾道ラーメンの隆盛に触れるのは今回が初めてとなる。

 私は若い時分にはラーメンをよく食していたが、現在は年に数回といったところ。折角、海岸沿いを歩いているのだし、夕食はどこかで済ませる必要があったことから、海岸線の近くにあった「尾道ラーメン」を名乗る店に入ってみた。

 時間がやや遅いこともあって写真の店は行列こそ出来てはいなかったが、「世界が認めた金賞受賞の味」という触れ込みがあったので、味には自信があるのだろうと思い、立ち寄ってみた。

 店内に入ってみると、「金賞」というのは例の「モンドセレクション」のことだった。私は普通サイズのラーメンに餃子を注文した。

 さすがにモンドセレクションの金賞を連続受賞したということだけあって、味はごく普通のラーメン(餃子も)であった。「尾道ラーメン」にどんな特徴があるかはほとんど気にならないが、この店に関する限り、奇抜なものでないことは確かだった。

夕暮れの尾道水道

 ラーメンを食したのち、腹ごなしも兼ねて散策を続けた。やはり足は自然に桟橋に向かってしまった。

尾道市街側の発着所

 ”にゅうしまなみ”は接岸し、軽自動車を送り出し、変わって自転車に乗った人を受け入れた。自動車に、はたまた自転車に乗った人々には、それぞれ日常的な行為なのであろうが、私のような旅人にとっては非日常的な光景である。

 けだし、日常であっても非日常であっても、この日のこの時間の営為は、生涯に一度しか起こり得ない場面なのである。

◎千光寺山を散策

千光寺山を望む

 翌朝、まずは渡船で向島に渡り、先に挙げたように向島の水道が満潮を迎えている姿を撮影した。すぐに市街に戻り、渡船発着所近くにある「尾道市役所」の駐車場に車をとめ、千光寺山ロープウエイに乗るために「薬師堂通り」を北に進んだ。

 この道は国道2号線を越えると「石見銀山街道」の名を有する県道363号線となる。薬師通りがR2に出会う交差点が「長江口」で、その西側にある歩道を渡ってJRの線路の下をくぐって抜けると、ロープウェイ駅に着く。

 薬師通りの途中に千光寺山を望むのに適した場所があったので写真撮影をした。それが上の写真である。

尾道名物の狭い路地

 私はすぐには駅に寄らず、駅の西側にある細い坂道を少しだけ歩いた。尾道の中心街こそ平地にある(一部は埋立地)が、住宅地の大半は山の斜面にへばりつくように存在している。

 尾道と言えば現在は「ラーメンの町」であり、私には昔も今も「渡船の町」なのだが、かつては、そして一般には「坂の町」であり「映画の町」であり「文学の町」であった。

 路地には「ねこ喫茶ユトレヒト」という店があった。尾道は「猫の町」でもあり、私が歩いた細道の先には「猫の細道」という、猫好きには絶対に寄りたくなるような坂道もあるらしい。

 もっとも、私には「ユトレヒト」の名が気になった。まさかスペイン継承戦争講和条約である「ユトレヒト条約」からその名を頂戴したわけではないだろうが。

ロープウェイ駅

 ロープウェイの山麓駅に向かった。先の細道のすぐ近くには「艮(うしとら)神社」があったが立ち寄らずに駅までやってきた。

駅から隣の神社を覗く

 しかし、階段を上がって駅舎から神社の姿を望むと、なかなか由緒ありそうな姿だったことから、ロープウェイの出発時間を確認したうえで、神社の境内を少しだけ歩いてみることにした。

樹齢900年のクスノキ

 この神社は806年に創建された尾道最古の神社らしいが、私がそのその存在が気になったのは写真の大クスノキだった。樹齢は約900年とのこと。私には記憶はないが、映画の『時をかける少女』(大林宣彦監督)の撮影に使われた場所としてよく知られているとのこと。

 大林監督の「尾道三部作」は『転校生』だけ見た(テレビで)記憶があるが、件の作品と『さびしんぼう』の記憶はまったくない。ただし、『時をかける少女』の主題歌だけは、下手くそな歌い方もあって今でも覚えているが。

山頂方向を望む

 先述したように、このロープウェイを利用するのは今回が初めて。片道500円、往復700円、僅か3分の短い旅だが、極めて特徴的な雰囲気を有する千光寺の真上を通過し、ロープウェイからでしか見ることのできない風景が眼前に展開されるため、料金設定は極めてリーズナブルだと思えた。

ロープウェイは寺の上を通過

 千光寺境内には巨石や奇岩が数多くある。いずれも花崗岩が浸食・風化して出来たもので、これらを目の当たりにするだけで、この場所に訪れる価値がある。

 写真にある天辺に丸い玉を載せた岩は「玉の岩」あるいは「えぼし岩」と呼ばれている。周囲50m、高さ15mで、この寺にある巨石では第三の大きさだとのこと。

 現在は岩の上に人工的な丸いオブジェが乗っかっているが、かつてはここの「如意宝珠」と呼ばれた光を放つ美玉があったそうだ。岩の天辺には直径14センチ、深さ17センチの穴があり、かつてはそこに輝く玉石が乗っていたとのこと。現在は写真からも分かるとおり人工的な丸い玉が置かれており、夜になると3色に輝く仕掛けになっているらしい。

 岩の直上に光を放つ美玉があったことから、寺は千光寺、山は大宝山、尾道水道は玉の浦と呼ばれるようになったという逸話がある。 

寺周辺には奇岩が多い

 写真にある奇岩は「御船岩」と名付けられている。下の岩が船体で上の岩が帆に見えるからだろうけれど、これは名前から想像しただけに過ぎず、実際のところは不明だ。ともあれ、変わった形の岩がたくさんあるということは確かな事実である。

山頂から南西方向を眺める

 ロープウェイは標高136m地点にある山頂駅に到着した。駅からの眺めでも十分に満足行くものであるが、頂上には昨年に造られた「頂上展望台PEAK」があり、その上からの見晴らしはさらに良い。周囲に遮るものがほとんどないことから多方向の景観が楽しめるのだ。

南東方向の眺め

 写真はその展望台から南東方向を眺めたもの。尾道大橋の向こう側に見える陸地は沼隈半島だと思われる。すでに触れているように、その半島の南端に「鞆の浦」がある。

水道を進む台船と渡船

 真下の尾道水道を望むと、向島に進み始めた「にゅうしまなみ」と水道を進む台船の姿が見える。尾道水道は海路の要衝であることから、大小さまざまな船が行き交う。

石には俳句が刻まれている

 標高144m地点にある展望台を下りて、標高92m地点にある千光寺境内に向かった。その途中に「文学のこみち」があり、写真のように尾道にゆかりのある文学者の作品の一節と、それを大きめの石に刻んだ碑が並んでいる。

 写真は正岡子規のものだが、その他、十返舎一九志賀直哉林芙美子緒方洪庵の碑が”こみち”の傍らに置かれている。

本堂へ向かう道

 平坦な場所に出ても、一部には写真のように巨石が建物に迫っている。向かって左手に客殿や大師堂が、山の斜面にせり出すように建てられている。

本堂

 写真の本堂もまた、斜面にせり出している。この寺は真言宗の単立寺院で806年頃に建立され、10世紀頃に源満仲多田満仲)によって再興されたとのこと。多田満仲といってもそれほど多くの人が知っている訳ではないだろうが、彼の長男の源頼光丹波大江山酒呑童子を討伐したことでよく知られた存在である。

本堂脇の奇岩

 本堂の際にも奇岩が存在する。その下には大きくはないが「修行大師」の像が置かれている。もちろん、修行中の空海の像である。

修行者はこの岩を登る

 写真のように「石鎚山」と名付けられた奇岩の山があり、天辺には社がある。千光寺の鎮守は熊野権現あるいは石鎚蔵王権現というから、この地は修験者の山でもあった。

 私には恐ろしくて上ることはとてもできないが、2005年から一般の人でもこの岩山に上ることができるようになった。確かに、岩からは上り下りするための「鎖(くさり)」が設置されている。そのために「くさり山」の別名があった。

 何人もの人が上ってみようと思案する姿があったが、いずれも同行者に引き留められていた。実際、途中で滑って落下したら大怪我は必至だろう。 

枝ぶりが特徴的な松

 巨石、奇岩だけではなく、写真のように枝ぶりが極めて面白い姿をしている松があった。気候や地形がこのような自然美を生み出している。

ロープウェイで山を下る

 このように素敵な景観が眼前に展開されているのならば歩いて下山するのも楽しいような気もしたが、折角、往復乗車券を買ったことだったので下りもロープウェイを使った。

 今回の旅で、尾道には巨石・奇岩が数多くあることを知った。今秋には西四国を旅する予定だ。当然のごとく、尾道が西四国の旅の玄関口になるはずなので、次回は巨石・奇岩をメインに尾道巡りをしたいと考えている。

尾道渡船、忘れがたく!

いま一度、向島

 市役所にとめていた車を取りに行った。次の目的地は竹原市と定めていた。が、尾道渡船から別れることに寂しさを感じてしまったため、今一度、向島との間を往復することにした。この日だけでも2往復することになった。

この風景が一番の好み

 そして、一便だけ遅らせて昨日同様、護岸で渡船の到着を出迎えた。

 今秋もまた渡船を利用する予定でいるが、徘徊老人には気力があっても体力があるかどうかは分からない。さらに言えば、明日が、いや次の瞬間が存在するかどうかも不明なのだ。

 それは私の存在だけに限らず、この地球に、この宇宙に、次があるか否かは誰にも分からない。未来は未だに来ない訳ではなく、単に無いだけなのだから。