徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔58〕過去と未来をつなぐ現在の流れ~江東区・小名木川(2)

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現代版ちょき舟、小名木川を行く

小名木川の旧中川口周辺を歩く

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旧中川口を南岸側から望む

 前回は隅田川口を出発点に小名木川周辺を訪ね歩いてみたが、今回は旧中川口から探訪を始めることにした。写真は、旧中川の右岸(西岸)から小名木川の最上流を望んだもので、橋は旧中川に架かる「中川大橋」、その先に地上に姿を現した都営新宿線東大島駅がみえる。

 小名木川北岸角に「中川船番所」があったはずなのだが、現在は標識以外、その姿を留める格別なものは何もない。代わって、次に挙げる「中川船番所資料館」が100mほど先にあり、船番所に関する資料等を見学することができる。

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中川船番所資料館と旧中川・川の駅

 写真の「中川船番所資料館」は都営新宿線東大島駅から南に300mほどのところにあり、中川大橋の西詰に建っている。前回に紹介した「深川江戸資料館」と同じ財団が管理運営をおこなっているが、規模はこちらのほうが少しだけ小さいようだ。

 小名木川は当初、行徳の塩を江戸城に運ぶために開削整備されたということは前回に触れている。もちろん塩だけに止まらず、房総方面から諸物資を運び入れるためにも利用された。それらの検査・監視をおこなうため、船番所が1630~40年代頃に隅田川近くにある萬年橋の北詰付近に置かれた。

 江戸府内の発展とともに、幕府は北関東や奥州地方からも多くの諸物資を運び込む必要性が生じてきた。もちろん家康は、当初からその点まで十分に考慮に入れており、江戸入府直後、早くも有力な上級家臣団を利根川筋に配置していた。それだけでなく、伊奈忠次らに命じて利根川東遷など関東平野を流れる河川の大規模改修事業(1650年代にほぼ完了)をおこなった。

 この結果、利根川は銚子港に注ぐことになり、北関東や東北の物資は利根川河口から関宿(現在の野田市関宿町)を経て今度は江戸川を下り、新川、小名木川、道三堀を通って江戸城の蔵前に運び込まれるという水上交通路が完成した。利根川を中心にして、北関東や南東北の諸河川を「奥川筋」と言うが、この奥川筋からの物資を含め、舟運の大半は小名木川を通過することになったのである。

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川の関所・中川番所を再現したジオラマ

 このためもあって、当初は萬年橋北詰の隅田川口近くにあった船番所は中川口に移されることになり、諸物資の点検のほか、「入鉄砲出女」の監視もおこなった。資料によれば、中川船番所は1661年(寛文元年)に設置されたとあるが、記録に残る船番衆は65年(寛文5年)に任命された杉浦市左衛門正昭という旗本(8000石)が最初らしい。船番衆(幕末まで51人の任命が判明)には5000石以上の旗本が選ばれたそうなので、相当に重要な任務であったことが分かる。

 写真は、資料館内に再現された船番所の姿である。資料館の南側100mほどのところ(小名木川北岸の中川河口付近)に番所があったということは、江戸時代に描かれた地図などから推定されていたが、1995年の発掘調査で、礎石の一部、多くの瓦、硯や下駄などがその地で発見されたため、そこが船番所跡であると同定された。

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江戸から東京へ、水運の変遷を知ることができる

 資料館内には多くの文書や古地図が展示されているので、船番所についてだけでなく、江戸時代から明治期以降の水運の変遷なども知ることができる。とりわけ古地図は、写真のように大きく展示されているので、東京湾だけでなく関東一帯における水運の全体像を把握するのにとても役立った。

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江戸和竿の展示と制作過程の解説

 一角には「江戸和竿と釣り文化」というテーマで、和竿や釣り道具が展示され、さらに和竿の製作工程が図入りで解説されていた。この和竿の製作工程に関しては、私自身、20年ほど前に関東各地に住む和竿作り名人の工房(主にイシダイ用の和竿師)を取材で何度も訪ねて詳細に伺ったことがあった。この展示には、そのときのことが懐かしく思い出された。船番所とは無関係でも、それはそれで興味深い展示であった。

▽少し寄り道~小名木川のハゼ釣り

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和竿でハゼ釣りを楽しむ知人(昨年の9月撮影)

 ところで、私が小名木川を訪ねるようになったのは、30年来の釣り仲間がこの川のすぐ南側にあるマンションに住んでおり、季節(夏から秋)になるとよくハゼ釣りを楽しんでいるということを聞き知ったことによる。上の写真は昨年の9月下旬に彼が、後に触れる「扇橋閘門(こうもん)」近くのポイントで竿を出していたときのものだ。

 彼が手にしているのは和竿で、魚が餌をくわえたときの微かなアタリでも手に伝わってくるそうだ。深川生まれの深川育ちの釣り人ゆえ、江戸以来の伝統である和竿に対するこだわりは強い。一方、多摩の山猿である私は、常に最新の釣り具に憧れる。それが「江戸っ子」と「田舎者」との間の、埋めることのできない差なのかも。

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右手に和竿、左手に美味しそうなハゼ

 毎秋、ハゼ釣りの取材のために小名木川を訪れるようになって何年にもなるが、魚影は年々、濃くなっている。それにつれて、訪れる釣り人の数も相当に増加しているようだ。家康の遺産はこんなところにも役立っているのだ。

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3階の展望室から旧中川と小名木川の中川口を望む

 3階の展望室からはガラス越しに、資料館の南側に広がる景色を見て取ることができた。左手にある丘は次に訪ねる「大島小松川公園」の「風の広場」と「展望の丘」で、旧中川に架かる平成橋や「荒川ロックゲート」の姿もよく見える。右手にある白い建物の向こうに「中川番所跡」や小名木川の流れがある。

◎旧中川河口と荒川右岸を歩く

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大島小松川公園から小名木川を望む

 中川大橋を渡り「大島小松川公園」に入った。旧中川をはさんで、江東区江戸川区にまたがる広大な公園で、平時にはレクリエーションの場、災害時には20万人の避難場所となる防災公園である。江東区にあるスポーツ広場の海抜は5.3m、江戸川区にある自由広場は4.8m、旧中川と荒川との合流点近くにある風の広場は12~13m、展望の丘は11~12mある。

 一方、公園のすぐ近くにある江東区立第三小学校の敷地の海抜はマイナス1.5m、第五小学校はマイナス2mと、一帯は基準海水面よりも低い位置にあるため、大洪水時には浸水が必至である。そのために、避難場所としての公園の敷地は、周囲よりもかなり高く土が盛られているのである。

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小松川閘門の上部が顔をのぞかせている

 今回は小名木川界隈を巡る徘徊なので広大な公園全体を歩くことはせず、小名木川の旧中川口にもっとも近い場所に位置する「風の広場」と「展望の丘」のみを散策した。その両者の間に保存されているのが、写真の「旧小松川閘門(こうもん)」(1930年完成)の上部である。旧中川と荒川とは最大の水位差は3mほどもあったため、両河川を行き来するための水路には、写真のような閘門が2門、造られたのである。

 閘門については、小名木川で現在も活躍中の「扇橋閘門」の箇所で後に触れることになる。パナマ運河(太平洋と大西洋とを結ぶ水路)のように大掛かりのものもある一方、旧小松川閘門や現在の扇橋閘門のように最低2つの水門があれば水位差を克服することが可能なのだ。

 なお、旧小松川閘門の水門のひとつは撤去されたが、写真にあるように残りの水門は、水路が埋められ、かつ一帯が高台のある公園に整備された際に下部は土に覆われてしまったものの、その上部(全体の3分の1ほど)は往時の姿を留めている。 

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小松川閘門の隣にあった不可思議な像

 旧小松川閘門のすぐ南隣に、写真の不可思議な形状をした魚?の像があった。製作者の意図は不明だが、私には公園下の土中に残る「六価クロム」の存在を暗示しているように思えてならなかった。

 公園のある場所は、1970年まで近隣の化学工場にてクロム鉱石を精錬した後に生じる鉱滓(こうし、こうさい、スラグ)の処分場であったのだ。それには多くの「六価クロム」が含まれていたため、東京都はこの地を公園に整備するときに対策として、無害化処理をおこなった上で盛り土をした。が、2011年に公園敷地の舗装路から六価クロムを含んだ水溶液が滲出(しんしゅつ)いたことが分かった。それは基準値の200倍を超える濃度であった。現在でも、とくに大雨後には高濃度の六価クロムの滲出が見られるそうだが、東京都の毎月のモニタリング調査ではすべて基準値内としている。

 東京都の調査結果が正しいかどうかは不明だが、都が現在行っている新型コロナウイルスSARS-CoV2)に対するPCR検査の推移、変異ウイルス調査の少なさを見れば、モニタリング調査の信用度の高低は容易に想像がつく。公園のある小松川地区は、江戸時代に「小松菜」を生んだ土地である。命名者とされる徳川吉宗も、地下で嘆いているのではないか。

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平成橋から小名木川の中川口を望む

 旧中川が荒川に合流する地点に、すぐ後で触れる「小名木川排水機場」と「荒川ロックゲート」がある。それらを見学するために、公園を出て旧中川最下流の橋である「平成橋」を渡ることにした(実際には橋を渡る必要はなかったと後で知った)。

 写真は、その橋上から小名木川の中川口付近を望んだものだ。写真の右端にある茶色の建物が船番所資料館である。

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平成橋から旧中川の上流方向を望む

 今度は旧中川の上流方向を眺めた。都営新宿線東大島駅の300mほど西側で地上に姿を現し、旧中川と荒川を越え、東隣の船堀駅の170mほど東でまた地下に戻り、終点の本八幡駅まで地下生活だ。一方、新宿線の2400mほど南を走る「東西線」も、やはり荒川の手前700mほどで地上に出るものの、そちらはそのまま終点の西船橋駅まで地上に出たままである。

 もっとも、老舗の「丸ノ内線」だって四ツ谷駅は堂々と中央線の上にホームがあるので、地下鉄だから地下生活のみであるとは決して断定はできない。それは、鉄道がすべて鉄路であるとは限らないのと同等かも。

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旧中川の河口にある「小名木川排水機場」

 写真の「水門」は旧中川が荒川に合流する100mほど手前にある。水門とは言わずに「排水機場」としているのは、旧中川の水位が上昇した際にだけ排水する機能を有したものであるからだろうか。竣工は1969年なのでやや古いものなのだが、旧中川側から見る限りにおいては新しい建物に思われる。外観をリニューアルしたのだろう。

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排水機場の水門部分をのぞく

 排水機場へ可能な限り近づいてみた。左側にある建物内には口径2800ミリのポンプが4台設置されていて、ディーゼルエンジンで動かしているとのことだ。

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旧中川にあっても小名木川を名乗る

 今度は荒川の右岸土手上から建物を見た。旧中川の河口近くにあるにもかかわらず「小名木川」を名乗っていることが興味深い。

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排水機場の水門を荒川右岸から望む

 荒川の右岸河川敷に降りて、排水機場の排出口を眺めてみた。写真では分かりづらいが、こちらはそれなりに古ぼけていた。排出口は四門あるが、右側の一門だけから排水されていた。この排出口を見学しているとき、ほぼ毎日のようにこの近辺を散策するという地元の中年「紳士」に出会った。彼も珍し気に眺めていた。聞けば、最近では排水される姿は見たことがないとのことだった。

 排出されている水の多くは旧中川のものだろうが、排水機場から小名木川の中川口までは370mほどの距離なので、いくらかは小名木川由来のものも混じっていると思われる。もっとも、小名木川は川といっても人工水路なので、その水は隅田川のものが大半なのだが。とはいえ、隅田川由来であっても、水たちは約5キロの旅をして中川口に到達したことは事実なので、小名木川色に染められていることは確かである。

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2つの水門が立ち並ぶ

 排水口のすぐ北側に見える建造物は「荒川ロックゲート」のものである。ロックゲートといっても、岩(rock)でできているわけでも音楽(rock)が流れるわけでも哲学者(Locke)に由来するわけでもない。デッドロック(dead lock、開けられない錠、解決の着かない難題)のロックで、ここでは「閘門」を意味する。

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水位が異なる2つの川を行き来するためのゲート

 閘門についてはすでに簡単に触れてあり、実際の場面は後述する「扇橋閘門」のところで紹介することになる。写真のゲートは2門あるうちの荒川側のものである。2005年の竣工なので、小名木川排水機場の排水口よりもずいぶんと新しい。

 ちなみに、排水機場は都が、ロックゲートは国土交通省が管理している。

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ロックゲート前から江戸川区船堀方面を望む

 荒川右岸から江戸川区船堀方向を眺めた。船堀駅前にある江戸川区の施設である「タワーホール船堀」(1999年開業)の展望塔(103m、入場無料)の存在が目立つし気にもなるが、今回は小名木川を徘徊するのが主目的なのでタワーには寄らず、小名木川と同時期に開削された新川の中川口だけを訪ねることに決めていた。首都高速中央環状線の下に見える黒い建物(火の見やぐら)のある場所が、新川の中川口だ。

 それにしても「荒川」の川幅は広く、写真の場所でも520mほどある。といっても、現在の荒川下流部(北区岩淵町近辺から下流)は1923年(周辺施設を含めると1930年)に完成した放水路で、元の荒川は現在の隅田川の流路をとっていた。その荒川の大氾濫(1907年)を受けて東京市会は新水路計画を要望し、10年の大氾濫後に放水路計画が策定され、11年に「河川法」が施行されて放水路事業が始まった。

 岩淵から鐘ヶ淵辺りまでは旧河道を整備したが、それ以南はまったく河道がない場所を掘土して新河道を造ったのだった。この放水路事業で掘られた土の量は「東京ドーム18杯分」あったそうだ。

◎新川(船堀川)の中川口?付近を散策する

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新川の中川口付近

 荒川に架かる「新船堀橋」を渡り、船堀橋東詰交差点を右折して都営新宿線船堀駅下を通って新川に向かった。駅から新川までは約400mである。

 写真の新川(船堀川)は、先述のように小名木川とほぼ同時期に整備された人工水路である。中川(旧中川)と江戸川(旧江戸川)との間をつなぐ運河で、新川の江戸川口の近くに関東随一の塩の産地であった行徳がある。

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明暦の大火直後に造られた「火の見やぐら」を再現

 新川の「中川口」と記してきたが、小名木川の中川口との距離は950mあり、しかも、両者間に荒川放水路、中川放水路が100年ほど前に掘られている。小名木川のほうは船番所の位置が特定されているため動かしようがない。ということは、新川の中川口は写真の場所ではなく、ずっと西にあったということは誰にでも想像できる。

 写真の「火の見やぐら」は、明暦の大火(1657年)の翌年に定火消し制度が始まった際、火消屋敷内に建てられた「火の見やぐら」を参考にして再現した観光用のものだ。高さは約15mあって、桜の開花期(つまり今の時期)には平日にも建物内が開放されており、誰でも櫓(やぐら)に登ることができる。なお、この櫓をシンボルとする新川西水門広場は2010年に完成している。

 櫓のあるこの広場は、あくまでも「新川西」であって、新川の中川口とは呼んでいない。賢明なことである。 

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新川・中川口から荒川ロックゲート方向を望む

 中川放水路左岸の土手から「荒川ロックゲート」方向を望んだ。撮影地点からロックゲートまで約790mある。小名木川の中川口はその右手の奥にある。荒川放水路も中川放水路もない時期の地図を参照すると、小名木川の東にある中川の川幅は100m前後だったようだ。そうであれば、先述した大島小松川公園に遺構として存在している「旧小松川閘門」辺りに新川の中川口があったと推定できる。

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新川沿いには千本桜が整備されている

 新川西水門広場内の「火の見やぐら」から始まる新川沿いの遊歩道にはソメイヨシノが植えられていて、それらは「新川千本桜」と名付けられている。写真は開花が始まる直前に出掛けた際に撮影したものなので花は写っていない(火の見やぐら前のものは開花が始まっていたが)。通りには何本の桜が並んでいるのか不明だが、なぜか桜並木には「千本」の言葉がよく用いられる。吉野山の影響だろうか?

◎中川口から小名木川沿いを西進する

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中川口にもっとも近い場所に架かる「番所橋」

 小名木川の中川口に戻り、まずは南岸の遊歩道を西(隅田川口方向)に向かって歩いてみることにした。写真は中川口にもっとも近い場所に架かる「番所橋」である。通りの名は「番所橋通り」とそのまんまだ。船番所跡や資料館は通り沿いにあるわけではないが、比較的大きな通りとしては船番所にもっとも近いところにある道なのでその名が付けられたのだろう。それしか考えようがない。

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番所橋下の向こうに見えるのが大島小松川公園の丘

 番所橋をくぐった先から中川口方向を眺めてみたのが上の写真。流れの先に見える丘が大島小松川公園の「風の広場」近辺である。

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人や自転車専用の「塩の道橋」

 番所橋から550mほど進むと次の橋に出る。「塩の道橋」と名付けられた人・自転車専用の橋である。2008年に架けられた新しめの橋で、この橋が出来たことで、北側の大島地区と南側の北砂・南砂地区との行き来がずいぶんと楽になったそうだ。先の写真から分かる通り、番所橋は結構、高い位置に架かっており、次に挙げる「丸八橋」はなお一層高い場所にあるので、人や自転車の往来は相当に不便だったそうだ。この橋ができる以前は、迂回だけでなく高所に登る苦労も強いられた。

 川の北側に住む人には都営新宿線東大島駅大島駅は近いが、一方、江東区役所や後述する「仙台堀川公園」は川の南側にあるので、行き来しやすい橋があるというのは助かるものだ。実際、番所橋と丸八橋との間は800mもある。前回に触れた隅田川口方面には橋がかなり多かったし、その位置もそれほど高くはなく南北の往来はかなり容易だった。それに比して中川口寄りは開発が遅かったこともあって橋の数はかなり少ない。塩の道橋が出来たことで、住民たちの行動(徘徊も)範囲が拡大した。そのことが何よりも重要なことだ。 

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小名木川=塩の道に架かる橋なので塩の道橋

 ちなみに塩の道橋の名は、近隣の小学校の児童たちの提案によって付けられたそうだ。小名木川は別名「塩の道」なので、その開削の歴史を学習すれば、その名前以外は思いつかないだろう。私だったら「黄金のうなぎ橋」の名を提案したのだが。

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埋め立てられてしまった「仙台堀川

 先の2枚の写真は川の北岸側から撮ったものだが、南側にある「仙台堀川公園」の存在が気になったので、南岸に戻って少しだけ公園内を歩いてみることにした。

 仙台堀川(仙台堀)は小名木川の南部にあって隅田川と中川とを結ぶ人工水路だが、東側では北上して、現在、塩の道橋が架かっている場所で小名木川と接していた。もっとも、そうなったのは昭和に入ってからだが。ともあれ、隅田川口には堀の北側に仙台藩蔵屋敷があったために「仙台堀(川)」と呼ばれるようになった。

 時代劇などではよく出てくる名前で、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出る前に芭蕉庵を処分していたため、この堀のほとりにある「採荼庵(さいとあん)」(芭蕉門下でパトロンでもあった杉下杉風の庵室)で過ごしてから旅立った。

 堀は隅田川口から大横川と交わるところまでは大半が残されているが、それ以東はすべて埋め立てられ、現在は仙台堀川公園として整備されている。

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埋め立てられた堀は公園やサイクリングロードとして整備されている

 全長3700mの細長い公園内には花壇、遊歩道、サイクリングロード、汐入の池、親子の森、釣り堀などいろいろな分野のものが整備されている(ようだ)。

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公園の脇には「流れ」が復活している

 写真のように遊歩道の傍らには狭いながらも水路が「復活」している場所もある。

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復活した流れは塩の道橋下の遊歩道脇に落とされている

 水路の水は途中から地下に入り、塩の道橋の橋脚近くに整備された別の水路に落とされている。

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堀からの水は少しの間だけ遊歩道の脇を流れる

 遊歩道脇に落とされた水路の水は少しの間だけだが遊歩道に沿って流れを造り、最終的には小名木川に落とされている。その様子は、6枚上の写真(塩の道橋について触れた最初のカット)に写っている。

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塩の道橋から西へ230mほどのところに架かる「丸八橋」

 塩の道橋の西に架かっているのが写真の「丸八橋」。川面から橋梁までは結構な高さがあり、遊歩道から側道に上がり、さらに歩道橋を登って橋上に出た。人の場合は歩道橋が使えるが、自転車の場合は側道を150mほど南に進まなければ橋に架かる通り(丸八通り)に出ることはできない。

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橋上から北方向に広がる海抜ゼロメートル地帯を望む

 橋上から丸八通りの北方向を望んでみた。少しわかりづらいが、橋の北詰にある横断歩道の海抜はマイナス2.7m、その先の十字路はマイナス2.9mである。一方、橋の南詰近辺ではマイナス3.5mのところもあった。この辺りが江東ゼロメートル地帯でもっとも海抜が低い場所のようで、ハザードマップを調べると危険度が一番高くなっている。かなり高い位置にある橋上は、洪水時の緊急避難場所になりそうだ。

 江東デルタ地帯が「海抜ゼロメートル地帯」なのは、ここが古利根川河口の三角州であったことに元々の原因がある。この地に住んだことのある俳人小林一茶は、この地域の様子を以下の句で表現している。

 萍(うきくさ)の 花より低き 通りかな

 江戸時代から埋め立てした低地で、しかも度々、洪水にみまわれているので、この地域の地べたは沈み込みやすいのだ。それが、明治期以降は一大工業地帯となって多くの被圧地下水が汲み上げられたことにより基盤内の難透水層(粘土層)が沈降した結果、地盤沈下がさらに進んだのだった。

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丸八橋の北詰横にある「大島稲荷神社」

 写真は橋の北詰というより、橋の東側直下にある「大島稲荷神社」の本殿だ。度重なる洪水を憂いた村人たちが平安を祈って相談し、山城国伏見稲荷大社御分霊を奉還して、この地の産土神として祀ったのがこの稲荷神社で、それは慶安年間(1648~52年)のことらしい。

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参道横に建つ「女木塚碑」と芭蕉

 境内は、周囲の場所より少し高い位置にある。現在でも周囲の土地の海抜はマイナス0.5mなのに対し、ここは0.5~1mほどある。少しでも高い場所を選んだのか土盛りしたのかは不明だが(おそらく後者)、写真の石碑にあるように、この場所は「女木塚」と名付けられた。

 秋に添て 行かはや末は 小松川

 1692年(元禄5年)、芭蕉は「女木沢洞奚興行」の中に上の句を残している。そのためもあって女木塚碑の隣には芭蕉像がある。まだ新しいようだが。

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北砂緑道から「進開橋」を望む

 次を急いだので、いくつかの橋を飛ばした。写真は「明治通り」の「進開橋」を西から東方向に見たものである。明治通りを北に進むとすぐに新宿線西大島駅があり、さらに進むと総武線亀戸駅に至る。一方、南に進めば夢の島に至る。江東デルタ地帯の東側地域ではもっとも主要な道路のひとつである。

 進開橋の南詰から「北砂緑道」が西に270mほど伸びていて、次の「小名木川クローバー橋」のたもとまで続いている。写真から分かる通り、川の南岸に沿って遊歩道があり、その南側のやや高い位置に緑道が、その南に車道がある。

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北砂緑道から「越中島支線」の鉄橋を望む

 同じ位置から西側を見ると、貨物線(越中島支線)の鉄橋がある。小岩駅越中島貨物駅とを結ぶ貨物専用線で、電化されていないのでディーゼル車と気動車が走っている(そうだ)。

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小名木川駅跡に建つ石田波郷の句碑

 小名木川の南岸には2000年まで「小名木川駅」があった。1929年に敷かれた貨物線は小岩駅小名木川駅とを結ぶ支線だった。当時の写真を見ると、南北にやや長めの大きな貨物駅だったことが分かる。その当時、小名木川は海運の一大拠点だったのだろう。

 小名木川駅の面影は残っていないが、この地に住み、讀賣新聞の江東版に『江東歳時記』というエッセイを連載した、俳人石田波郷の句碑が北砂緑道に建っている。

 雪敷ける 町より高し 小名木川

 これは波郷の句であるが、確かに小名木川は海抜0mを流れ、南側にある北砂地区では、川から100mほど離れた地点の海抜はマイナス2mである。

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小名木川駅跡地には大きなショッピングモールが建っている

 南北に長い小名木川駅の跡地の北側にはスポーツ施設、南側には大型マンションが建てられたが、中央には大型ショッピングモールの「アリオ北砂」が鎮座している。イトーヨーカドーがその中核であるが、その周りには100もの数の様々な分野の専門店が入っている。駐車場もとても広いので、災害時には格好の避難所になるのではないか。

 写真右端に写っている白壁の上には貨物線の線路がある。

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ショッピングモール横から貨物線路を望む

 今度は駐車場入口の西端から貨物線路と小名木川橋梁、超高層マンションスカイツリーの姿を望んでみた。超高層マンション横十間川のすぐ東(大島一丁目)にあって、小名木川沿いを歩いているときのランドマークになる。39階建ての同じ形をした建物が2棟、東西に100mほど離れた位置に並んでいる。写真では東棟の「サンライズタワー」しか写っていないが、西棟の名は記すまでもない。誰にでも分かるからだ。

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フードコートの名は「小名木川ダイニング」

 少し買い物をすれば駐車料金は無料になるということなので、モール内を見物しつつ購入する商品を物色した。こうした建物には付き物のフードコートがあった。写真から分かるように、店の名は「小名木川ダイニング」だった。

 ついでなので、モールの北側に出て進開橋の南詰付近を見て回ることにした。モールの北東角には明治通りの十字路があった。交差点の名は「小名木川駅前」。20年以上前に駅はなくなったのだが、交差点の名前の中に、駅の記憶は生き続けているようだった。”良いものを見た感”があふれて溺れかけたためか写真撮影を忘れてしまった。 

小名木川クローバー橋界隈

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鉄橋から320mほど西に「小名木川クローバー橋」がある

 小名木川横十間川とが交差する場所に架かっているのが「小名木川クローバー橋」で、小名木川沿いではもっとも賑わいを見せるところだ。観光名所として紹介されることがよくあり、ロケ地としても利用されている。1994年に竣工したX字形の橋で、猿江、大島、北砂、扇橋の4つの地区を結びつける”幸運”を生む可能性のある橋だ。それが名前の由来だろう。

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クローバー橋下の遊歩道から鉄橋方向を望む

 クローバー橋界隈は川筋ではもっとも多く人が集まる場所なので、遊歩道の幅も広めに設計されている。写真は中川口方向を望んだもので、「水道管橋」のすぐ向こうに越中島支線の橋梁が見える。

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川には「行徳船」はもはやなく、遊びの舟ばかり

 クローバー橋界隈は遊歩道や橋上に人が集まるだけでなく、流れの上でもレジャーを楽しむ人たちの姿をよく見かける。本項冒頭の写真も橋の近くで写したものだし、上の写真もそうである。橋下から横十間川に移動して北上し、北十間川に出て西に向かえばスカイツリーの真下に至ることができる。

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クローバー橋から横十間川を望む

 横十間川の北方向を望むと、左手にはスカイツリー、右手には「ザ・ガーデンタワーズ」がいやでも視界に入る。どちらも江東デルタ地帯のランドマークであり、若い(もはや若くない人も)カップルの大半は、この方角で記念撮影をおこなっている。

 ちなみに、この川を北に進めば亀戸天満宮亀戸天神)のすぐ近くに出る。江戸時代にはこの川を猪牙舟で進み、天満宮までお参りに出掛けた人が多かったはずだ。それゆえ、この川には天神川の別名がある。

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横十間川親水公園の水上アスレチック

 クローバー橋の北側の横十間川は流れが保存されているが、南側は、写真のように大きく改変されて「横十間川親水公園」に様変わりした。写真はクローバー橋に最も近い場所で、「水上アスレチック」施設になっている。

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横十間川の流れを使ったマイクロ発電施設

 親水公園にも流れは残っており、その水が小名木川に落ちる際のエネルギーを用いて「マイクロ水力発電」をおこなっている。ただし、親水公園の南側では現在、橋の付け替え工事をおこなっていて流れが塞き止められているので、この日の発電はお休みしていた。

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クローバー橋下の河原には草むらが多いのでヘビもいるらしい

 クローバー橋界隈には小さめではあるものの河川敷が整備されているためか、ヘビたちが住み着いているようだ。そのため、写真のような「粋な注意書き」がある。

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遊歩道のいたるところにある「高札」

 写真は小名木川の遊歩道でよく見かける高札で、今ではとりわけ「第四項」が守られていないようだ。

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四谷怪談のお岩さんに由来する「岩井橋」

 横十間川親水公園は南に伸びて、900m先のところで仙台堀川公園と出会う。今回はそこまでは移動せず、240mほど南下して、あまりにも有名な「岩井橋」を眺めることに専念した。現在は架け替え工事中なので情趣はやや低下するが、小名木川界隈について触れる際には、この橋を避けるわけにはいかないのである。

 橋は「清洲橋通り」に属するが、横十間川以東の現在の清洲橋通りは、江戸時代から明治期には砂村川(境川とも)が流れていた場所で、それは中川(現在の荒川)に通じていた。幸田露伴は『雨の釣』(1902年)という随筆でこの川のことに触れている。彼(が仕立てた船)は中川沖でキス釣りをおこなう予定で隅田川を南下したが、天候が悪くなったために河口まで進まず、小名木川に入って東進し、横十間川に移動してすぐに砂村川に入って東に進んで中川に出たのだった。随筆ではそこまで詳しく書いていないが、当時であればそのルートを利用したはずである。 

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この辺りが「十万坪隠亡堀」の場

 「小名木川を行く間は格別淋しさも感じなかったが、隠亡堀(おんぼうぼり)へ入るとひどく淋しくなった。昼でさえ余り人通りの無いところだったのに、川は狭いし、水は死んだようになっているし……」(口語体訳)と『雨の釣』にある。

 隠亡堀といえば、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の第三幕の「十万坪隠亡堀の場」でよく知られている。お岩と小仏小平の屍骸が戸板の表裏に打ち付けられて姿見川(神田川説もある)に流され、それがなんと、お岩の亭主だった民谷伊右衛門隠亡堀で釣りをしているところに流れ着き、その目の前で戸板が裏表に返るという有名な場面がある。

 疑問点は2つある。ひとつは隠亡堀の場所、もうひとつは戸板が流れたコースだ。

 私が参照している本では「十万坪隠亡堀の場」とあるが、「砂村隠亡堀の場」とするものも多い。底本の違いだろうか?隠亡堀は焼き場の俗称なので問題はないが、「十万坪」と「砂村」とでは場所が微妙に異なる。十万坪は「深川十万坪」とも言われるように現在の扇橋、海辺、千田辺りで、横十間川の西側である。一方、砂村は現在の北砂、南砂など横十間川の東側である。さらに、幸田露伴は「川は狭いし」と述べているので、これは砂村川のことのようだ。横十間川はその名の通り幅は十間もあるので「狭い」とまでは言えない。

 つまり、十万坪を採用すると戸板が返ったのは横十間川で、民谷は西岸から竿を出していた。一方、砂村を採用すると、横十間川であるとするなら民谷は東岸から竿を出し、砂村川なら両岸のどちらでも可となる。ちなみに、天地茂が民谷役をやっていた映画の『東海道四谷怪談』(1959年)では、狭い堀の左岸で民谷が竿を出している場面がある。これなら砂村川となる。もっとも映画では、その堀の両岸は比較的高くなっており、埋立地の人工水路としては変である。映画の時代考証は不十分だった。

 また、戸板の流路であるが、流された場所が神田川(姿見川だとしてもそれは神田川の枝流である)だとすれば、隅田川に至るまでの間には問題はない。また到達点が砂村川だとしても横十間川を通ることになるのでそれも良い。疑問なのは、隅田川から横十間川まで至るルートだ。ひとつは竪川から横十間川、もうひとつは小名木川から横十間川、さらに、竪川から大横川、小名木川横十間川というやや複雑なルートも考えられる。姿見川から横十間川(さらに砂村川)に流れ着き元亭主を驚かすお岩や小平の執念を考えると、第三案が妥当かも知れない。

 ともあれ死してなお、隠亡堀でフナやナマズを釣る元亭主のところまで戸板を運んだお岩の怨念に同情した地元の人々が、横十間川に架かる橋を「岩井橋」と名付けたとされている。真実かどうかは不明だが、大いにありそうなことである。今の時代のドラマであってさえ、死霊の多くは「お岩さん」の姿で現れるのだから。

◎扇橋閘門を眺める

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新扇橋上から扇橋閘門を眺める

 小名木川隅田川口の基準水位は2m、中川口は0mである。また、隅田川は感潮河川なので、潮汐によって水位は変化する。一方、中川口のある旧中川は河口を荒川ロックゲートと小名木川排水機場でほぼ塞がれているために潮汐の影響はない。

 荒川放水路ができる前までは、中川も感潮河川であったので、ほぼ同時に潮汐の影響を受けるために水位差の問題はほとんどなかった。ところが、旧中川になってからはいくつかの問題が発生することになった。隅田川と旧中川との最大水位差は3mにも達するのである。大潮の干潮時などをのぞくとほぼ大半は隅田川口のほうの水位が高いので、小名木川は常に東方向に流れることになり、しかも東側には海抜ゼロメートル地帯が広がっているのである。

 こうした点から、小名木川のほぼ中央部に位置する新扇橋と小松橋との間に「扇橋閘門」が造られることになり、それは1971年に竣工した。

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閘門の後扉を開けて水位を下げる

 小松橋上から、東側の水門(後扉)が開いて水位の低い中川口方向に流れ出てくる様子を見ていた。当然、西側の前扉は閉鎖されている。この間、多くの人が橋を通過したが、当地の人にとっては日常の光景のようで、とくに足を止める人はいなかった。

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水位が下がり切ると扉は全開となる

 やがて閘門内の水位が下がると後扉は全開となり、中に留まっていた船は小松橋方向に進んできた。

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閘門から出てくる清掃船

 閘門を通過してこちらに近づいてきた船は、小名木川横十間川、大横川などに浮かんでいるごみを拾い集める清掃船だった。

 この閘門は、カヌーやカヤック、遊覧船なども通過可能であり、「東京のミニパナマ運河の通航体験ツアー」までもおこなわれている。

 それにしても閘門の開閉は見ているだけでも飽きがこない。時間が許せば、私は何回でも新扇橋と小松橋の間を行き来してしまう。そして、私はこう叫ぶだろう。

 見た!閘門!!