徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔115〕親不知海岸・糸魚川駅・フォッサマグナミュージアム・月不見の池(只今、更新中です)

天険・親不知子不知海岸

 

◎親不知海岸を散策する

海岸線を国道8号線から眺める

 親不知・子不知海岸は、北陸本線青海駅から市振駅までの名称で、このうち、「天険・親不知子不知」として知られる断崖絶壁は約10キロほどの距離がある。親不知駅を起点として、西側の市振駅までが親不知、東側の青海駅までが子不知を指し示すそうだ。だとすると、糸魚川市街に近いほうが子不知、遠いほうが親不知となって、逆のような感じもするが、それは東京を日本の中心とする見方であり、明治維新以後の考え方であって、令制国の国名を考えれば分かるように、大和・奈良・京都が中心なのである。それゆえ、福井が越前、富山が越中、新潟が越後なのだ。そう考えれば、京に近いほうが親不知、遠いほうが子不知となづけられたのは当然のことである。

 なお、以下の説明文では親不知・子不知と記すのは面倒なので、一括して親不知海岸と表記することにした。

ブラタモリでも放映された海岸線

 親不知海岸は、北アルプス飛騨山脈)の北端が日本海の荒波によって浸食されてできたもので、高さ400~500mの断崖が絶壁となって海に落ち込んでいる。明治16(1883)年に道路が開通するまで、人々は約10キロの道程を海岸線を伝って移動したのである。

 写真からも分かる通り、ところどころに狭い砂利浜があるが、大半は浅瀬を絶壁に近い浅瀬を選んで移動し、波が高い時には移動はせず、波の親やかな日を選んで歩き始め、海が荒れ始めて移動が困難なときは、砂利浜や小さな海蝕洞に避難して波が収まるのを待ったのだ。

 写真の砂利浜は「大懐」と呼ばれていた避難場所で、NHKで放映されていた「ブラタモリ」でも紹介されていた。

 海岸線をよく見ると、海は結構、遠浅で、海底には大きな石や岩盤が多いことが分かる。だからこそ、どうにか通行が可能だったのだ。

 「親不知・子不知」の名の由来は諸説あるが、私がもっとも妥当性があると思うものは以下の通りである。

 平清盛の弟の平頼盛が越後に移り住んだので、彼の妻は2歳の子供を連れて訪ねることにした。ところがこの親不知海岸を行くときに子供は波にさらわれ行方不明になってしまった。そのことを憐れみ、妻は以下の歌を詠んだ。

 親知らず 子はこの浦の 波枕 越路の磯の あわと消えゆく

 この歌が広まったことから、いつしかこの地は、親不知・子不知と呼ばれるようになった。

日本アルプスの名を世界に広めたウェストンの像

 国道8号線沿いにある「親不知観光ホテル」の南側に車が10数台置ける駐車スペースが整備されているのでそこに車をとめて、少しだけ時間をとって周囲を散策してみることにした。

 親不知海岸に道が通ったのは明治16(1883)年のことで、それまでは江戸時代以前と同様に崖下の海岸線を人々は行き来したのだった。道路の開通を祝って、壁に「如砥如矢」の文字を彫った。その道は現在、コミュティロードとして親不知海岸を展望する遊歩道として整備されている。

 如砥如矢とは開かれた道は砥石のように平らで矢のように真っ直ぐだ、という意味のようだ。実際にはそれなりに曲がりくねっているのだけれど、今までの極めて危険極まりない海岸線に比べれば、天と地ほどの差がある道なのだ。私はその4文字を写真に収めたのだけれど、なんとピンボケで使い物にならなかった。ここで改めて、苦難の工事を続けて道を切り開いた人々にお詫びを申し上げたい。

 このコミュニティロードには、写真のように展望所(休憩所)と、その隣にウォルター・ウェストン(1861~1940)の彫像があった。ウェストンは1888から1915年にかけて日本に3度訪れた。キリスト教の宣教師であった彼は登山が趣味であったため、日本各地の山に登り、とりわけ飛騨山脈木曽山脈赤石山脈を気に入り、日本アルプスとしてその名を世界に広めた人物で、日本山岳会の設立も勧めた。いうなれば、日本近代登山の父ともいえる存在なのだ。彼の像は各地にあるそうだが、ここ親不知は先に触れたとおり北アルプスの北端に位置するので、この場所にあっても何の不思議はない。

眼下の海岸線で石を集める若者たち

 親不知海岸までは比高が80mほどもある。せめて旧北陸本線のトンネル跡ぐらいは見てみようと急な階段を下りてみた。すると、トンネルよりも先に、海岸線に集う若者のグループが目に入った。こうして海岸線を見下ろすと、私にも下りられるような気がしたので、意を決して海岸線を目指すことにした。

北陸本線のトンネル跡

 写真は、トンネル跡だが、こちらはがけ崩れが進んでいるので近づくことはできない。反対側にはレンガ造りのトンネルがきちんと残っていて、トンネル内を自由に行き来することが出来る。

 当初はトンネル巡りが目的で急坂を下りてきたのだが、ここで体力を消耗してしまうと帰りの登りが辛くなると考え、トンネル巡りはパスして海岸線を目指すことにした。

80m下の海岸線に下りてみた

 汀には砂らしきものも集まってはいるものの、基本的には砂利浜で、思った以上の広さがあった。が、ここは水遊びのための場所ではなく、もっとも古い北陸道の一部なのだ。こうした避難場所があるからこそ、人々はなんとか糸魚川と市振との間を往来することができたのだった。

芭蕉はこの海岸線を歩いて市振に向かった

 浅瀬を選んで写真の岩の向こうへ行く元気も勇気もなかったものの、約300年前に私が敬愛してやまない芭蕉師匠がここを歩いたのだと思うと感慨深かったので、この砂利道を何度も歩き回ってしまった。

波が高い時に人々は、こうした場所に避難した

 上の写真は、この浜の西側で、写真は東側(糸魚川方向)を展望したものである。若者たちはそちら側に集まって石拾いをしていた。初めはヒスイ探しをしていると思っていたのだが、実際には色々な模様の異なる石を集め、リーダーと思しき人が集めた石の成り立ちや特徴をかなり細かに説明していた。つまり、この若者たちは地質学を学ぶためにこの海岸に来ていたのだ。

 思えば、駐車場には3台の車がとまっていて、そのうちの2台が横浜ナンバーだった。つまり東京か神奈川近辺に住む若者がわざわざ親不知までやってきて調査をおこなっていたのだ。

 岩石の調査であれば三浦半島の城ケ島でも十分におこなえると思うのだが、太平洋側と日本海側との違いを知ることも、きっと大切なことなのだろう。

 思えば、足尾銅山鉱毒事件で国と争った田中正造は全財産をなげうって奮闘したため、彼に残されたのは小袋ひとつで、その中に小石が3つ入っていた。彼は石拾いが趣味だったようで、渡良瀬川の河原で変わった姿をしている石ころを探していたのだろう。石には無数の色や文様がある。一人として同じ人間が存在していないごとくに。

若者たちは岩石の調査をしていた

 調査を終えた若者たちが引き上げていったので、私は彼、彼女らが集っていた東側部分に移動した。写真の左手にある三角形をした岩の周りには、若者たちが集めた数多くの種類の石が並べられていた。そのひとつひとつについて、リーダーは説明を加えていたようだった。

海は案外、浅い場所が多い

 汀を覗いてみた。写真から分かる通り、やや沖目まで浅瀬が続いていることがよく分かる。こうした浅瀬と砂浜がなければ人々は往来できるはずもなかった。それでも、波にさらわれて行方不明になった旅人は大勢いたらしい。

 穏やかに見える日本海も豹変して荒れ狂うときがある。もちろん、晩秋から春にかけては北西の季節風と大雪のため、穏やかな日はほとんどないが、初夏であっても天候は急変する。実際、翌々日は北からの風が猛烈に吹き付けてきたため、私はすべての予定を変更して、上越市のホテルに逃げ込んだのだった。

いろんなところに海蝕洞がある

 写真のような小さな海蝕洞が、こちら側にもあった。子供ぐらいならば雨宿りができるだろうか。

滝を眺めながら急坂を上る

 この海岸では30分ほど過ごし、いよいよ車に戻ることにした。80mの高低差を一気にこなすことは不可能に近かったので、写真にある滝を眺めながら、牛歩戦術を用いてなんとか駐車場に戻り着くことができた。

糸魚川駅界隈を歩く

国道沿いにあった奴奈川姫と建御名方の像

 糸魚川駅の北側の海岸線沿いを走る国道8号線のバイパスに無料の駐車場があった。そこは、下の写真にある「日本海展望台」を訪ねる人のために整備されたものであるが、実際には、糸魚川駅界隈を散策する人が利用する割合が高いらしい。

 私はその場所に車をとめ、展望台に行く前に、駅に通じる道の反対側にある公園内に建つ「奴奈川姫像」を見物した。糸魚川を語る際には必ず、この姫の名前が登場するというのが、その像に接する理由だった。

 この姫は『古事記』では「沼河比売」、『出雲風土記』では「奴奈宣波比売命」の名で登場するらしい。それらによれば、大国主は日本中に沢山の妻を探したけれど満足できる女性に出会うことはなかった。おりしも、越(高志)国(広義では今の北陸地方)に賢くて美しい女性がいると聞き求婚のために越に足を運んだ。

 一日目の「夜這い」は失敗に帰したが、二晩目には成就し、やがてその女性は身ごもり、子は建御名方(たけみなかた)と名付けられた。この子は成長すると信濃から諏訪地域を開拓した。彼の末裔が諏訪氏だとのことだ。

 古事記出雲風土記には、大国主の夜這いが成功したところまでしか記述されていないようだが、糸魚川界隈にはこの奴奈川姫伝説が数多く残り、そこではヒスイを支配する祭祀女王として扱われているそうだ。糸魚川=唯一のヒスイ産地だけに、当地ではこの姫は絶対に欠かすことのできない存在なのである。

虹色?の「日本海展望台」

 向かいの展望台へは、地下道を通って海岸側に行く。アーチの下にある建物を出て、右手の階段を上がったところに展望台がある。

展望台から駅方向を眺める

 

 私は海側ではなく、まず糸魚川駅方向を眺めた。手前の小高い山のどこかにフォッサマグナミュージアム長者ケ原遺跡があるはずだ。

 その向こうにあるのが「妙高戸隠連山」だが、雲がかかっているために焼山(標高2400m)は見えず、その手前にある昼間山(1841m)と、右手にある雪を多く残している金山(2245m)がかろうじて姿わ現していた。

日本海の眺め~能登は見えなかった

 今度は海側を眺めた。海岸線には消波ブロックが並べられているために降りることはできない。はるか先に能登半島が見えることを期待したが、やはりその方向にも雲が覆っているためか、その姿は視認できなかった。

北陸新幹線駅もある糸魚川駅

 展望台を降りて地下道をくぐり、駐車場の東端にある道を真っ直ぐ南に進むと糸魚川駅に着く。その距離はわずか350mに過ぎない。

 駅舎が立派なのは、2015年に北陸新幹線が開通して新たに糸魚川駅が出来たことによる。この駅には、新幹線のほか、えちごトキめき鉄道(旧北陸本線)の「日本海ひすいライン」、JR大糸線、JR貨物が乗り入れている。ただし、新幹線駅だけが二階にあり、その他の駅は一階にある。

 左手にある建物には「ヒスイ王国館」の名前があるが、この中には糸魚川観光物産センターや観光案内所もあるらしい。 

8年前の大火災から復興を遂げた北口駅前

 糸魚川と言えば、8年前(2016年)の大火災が記憶に新しい。12月22日午後10時20分、ラーメン店から出火した火の手は折からの”姫川おろし”と呼ばれる南からの強風によって瞬く間に延焼し、鎮火までには30時間を要した。被害は147棟に及んだ。

 被災したのは、「魚民」の入っているビルのすぐ左手(西側)で、駅前ということもあって密集した家屋が並んでいたために被害が広がったのである。その被災地も大半は復興を遂げており、併せて被害を受けていない駅前通りも新たに整備されたようだった。

駅前ロータリーにも奴奈川姫像があった

 写真のようにこの駅前ロータリーにも「奴奈川姫像」があった。こちらの像には建御名方の姿はなく、代わって姫はこの地の名産品であるヒスイを手にしている。

駅舎内の一階にある大糸線の旧車両

 駅舎の一階をうろついてみた。この地の特産物なども展示されていたが、私の目を真っ先に止めたのは写真の大糸線で活躍していた車両であった。2010年の3月まで三両が活躍していたが、引退後はそのうちの一両がこうして駅舎内に展示してあり、車内に自由に入ることができる。

 フォッサマグナ・パークの項では根知川を渡る新車両を挙げたが、やはり、ローカル線にはこの写真のような車両がよく似あう。

ヒスイの原石が置かれていた

 ここにもヒスイの原石が置かれていた。小滝川から発見されたそうだが、やはりヒスイは「深緑」が見栄えが良く、展示してあった白色では貴重さは感じられない。

 なお、ヒスイにはこのほか、ピンク、ラベンダー、青、黒、黄色などがあるそうだ。

フォッサマグナミュージアム~少しがっかり

かなりの規模の建物だったが

 今回の旅でもっとも気になっていた存在が、写真の「フォッサマグナミュージアム」だった。フォッサマグナには東西問題と南北問題があり、南北問題は研究者の間では意見がほぼ一致しているものの、東西問題はまったくの解決を見ていない。それどころか、研究が進むほど混迷を深めていると思われる。

 「大きな地溝」というからにはそれなりの幅と深さがあるはずで、その西端は糸魚川・静岡構造線あることはほぼ一致を見ているのだが、東端については諸説あるというよりいささかあり過ぎるため、慎重な学者は東端については議論を避け、議論をほぼ北部と南部の相違に集中させているのである。

 もちろん、溝の深さについての研究もあり、何度かボーリング調査がおこなわれている。つまり、地中深く掘り下げて、基盤岩に到達すれば深さが分かるのである。しかし、6000mまで掘り進めても未だ基盤岩に突き当たらないため、現在のところでは、深さは6000m以上あるということ以上のことは言えないようだ。

 が、糸魚川フォッサマグナミュージアムでは、東端は「柏崎・千葉構造線」、深さは6000mと断定しており、実際、21年11月、NHKで放映された「ブラタモリ」では、ミュージアムの館長が登場してタモリにそのように解説をしていた。その記憶があったため、私はミュージアムに乗り込み、館長には会えなくとも、学芸員か誰かに、その論拠を質したいと意気込んでいたのである。

 男鹿や下仁田南紀熊野の各ジオパークでは見物客が少なかったこともあって、それぞれの場所で2~4時間程、学芸員や案内係の人にじっくり話を聞くことができたのだが、このフォッサマグナミュージアムでは大勢の見物客が訪れていたこともあって、係の人に質問することすらできなかったのある。

 また、大半の見物客はフォッサマグナよりもヒスイに関心があるようで、そちらの展示場のほうに人が多く集まり、そのために案内係の人はほとんどヒスイのほうにかかりっきりになっていた。

 結局、フォッサマグナについては何も質問できず、ただフォッサマグナの深さが6000m、東端は柏崎・千葉構造線という「ブラタモリ」でも紹介されていた展示を見るだけで終わってしまったのである。

フォッサマグナの南北は八ヶ岳で区分する

 上の写真は、JR小海線野辺山駅付近から八ヶ岳を望んだものである。なぜ、唐突にこの場所を紹介したかと言えば、フォッサマグナの「発見」者かつ命名者であるナウマンは、この小海線が通るルート(長野県小諸市から北杜市小淵沢駅)をフォッサマグナの東端と考えていたからである。

 また、先ほど、フォッサマグナは東西問題よりも南北問題のほうが遥かに重要であるということに触れたが、その南北の分岐点が写真の八ヶ岳にあるということはほぼ学者間では一致を見ているからである。

 このことは日本列島の成り立ち(約2000万年前から1500万年前)から触れなければならないので、今回は残念ながら述べることはできないが、いずれ折を見て、この点についてじっくり語ってみたいと考えている。

フォッサマグナよりもヒスイがメイン

 

新潟県の石に認定されたらしい

糸静線の西側で発掘された白亜紀の化石

色とりどりの石英

方解石は石灰岩の主成分

長者ケ原遺跡~ヒスイ加工の拠点

広大な敷地を有する遺跡

縄文時代中期の遺跡

竪穴の痕跡

発掘された数々のものが展示されている

縄文式土器の数々

大型の土偶

ヒスイはここから日本各地に広まった

半加工されたヒスイも数多い

◎月不見(つきみず)の池~地滑りによって生まれた池

こちらのほうが見応えがあった

この鳥居の先に池がある

池に「浮かぶ」転石

池を見守る弁才天

池の水の大半は湧水

樹木や蔦に覆われているので月は見えない

月は見えなくとも池の姿は美しい

池の周囲にも転石は数多い

いくら拝んでも、私のボケは治らない