徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔104〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(6)斜陽館、外ヶ浜、龍飛岬まで

龍飛岬から津軽海峡、北海道を望む

◎斜陽館~太宰治の生家を訪ねる

とても個人の家とは思えない大きさ

 五所川原市金木(かなぎ)町にある太宰治(津島修治、1909~48)の生家である『斜陽館』を訪ねた。金木町は何度も通過しているが、この大きな屋敷を見学に出かけたのは今回が初めてである。

 敷地680坪、1階は278坪で11室、2階は116坪で8室ある。青森ヒバで造られたこの屋敷の建築費は当時のお金で4万円。その頃の公務員の初任給が50円だったので、800倍もの費用が掛かっている。仮に現在の公務員の初任給が20万円とすれば、1億6000万円になる。まさしく豪邸である。

 これは父親の津島源右衛門衆議院議員貴族院議員を歴任)が青森でも有数の資産家であったからこそ建てることができたのであろう。なお、この豪邸が完成したのは太宰が生まれる2年前のことである。太宰はこの家で14歳まで過ごし、青森中学校に入学するために青森市内に寄宿することになって家を離れた。

 1950年に売却され、その後は地元の実業家が旅館と太宰治記念館として利用したが、1996年に廃業し、98年に「太宰治記念館=斜陽館」としてオープンし現在に至っている。

 入館料600円也を払って私も内部を見学したが、結構、若い人(とりわけ女性)が多く見学に訪れていることに驚かされた。3つある蔵のうちのひとつは太宰治に関係する資料が展示されてあるそうだが、私はそこには行かなかった。 

時代を感じさせる囲炉裏端

 太宰治の名を聞くと、すぐに連想されるのが『走れメロス』(1940年)だろう。この作品は現在でも中学2年生用の国語の教科書に採用されているので、大半の人の記憶に残っているだろう。次は「玉川上水」で、1948年の6月13日に太宰は三鷹市(当時は三鷹町)を流れる上水に愛人と入水心中をした。なお、太宰は35年に自殺を試みているが、このときは失敗している。もし成功していれば、太宰の名は全くと言っていいほど人の口の端に掛かることはなかっただろう。

 3番目は各人によって異なるだろうが、私は『津軽』(1944年)という作品を挙げたい。太宰の作品にしては「はみかみ」を意図的に表現することなく、自分の気持ちを正直に記述している名作である。他の人は、『富嶽百景』(1939年)か『斜陽』(1947年)を挙げるかも。とりわけ後者は、太宰の作品としては珍しく、当時からベストセラーになったからである。

二階の南側廊下

 『津軽』を読むと、彼の古典に対する知識の豊富さに驚愕される。確かに、彼は旧制青森中学ではほとんど首席で通し、4年修了で旧制弘前高校に入学している。ただここでは文学活動と高校紛争に興味が向けられていたため成績は中位だった。大学は東京帝大の仏文科に入ったが、フランス語はまったくできなかったらしい。

 その一方で、コミュニズム活動は熱心におこなっていた。自分がブルジョワ出身であったこともあり、その「反抗心」からそうした活動に嵌った可能性がある。大宰には相当程度「偽悪的」なところがあるからだ。

 太宰の名言のひとつに「文化と書いてハニカミとルビをふれ」というのがある。のちに、「私のはにかみが何か他人から見ると、自分がそれを誇っているように見られやしないかと気にしています」と述べているように、彼は自意識が過剰すぎるきらいがあったのである。もっとも、そうでなければ小説家などにはならなかっただろうけれど。

二階の応接間。調度品も上質なものが多い

 彼がコミュニズム運動から離脱したのは1933年ころである。小林多喜二が築地警察署内で虐殺されたことも一因と考えられている。そうした「気の弱さ」「お坊ちゃん育ち」が影響しているのかも。

 この挫折が、心に大きな傷痕を残すこととなり、35年には自殺未遂、36年にはパビナール(麻薬性鎮痛剤)中毒になり、何度か入院を繰り返していた。当時、パビナールはカレーライス2皿分の値段で簡単に入手できた。

二階の和室。襖を外すと大広間になる

 こうした自堕落な生活を続けていた太宰に「救いの手」を差し伸べたのが井伏鱒二で、彼の紹介で、甲府市で女学校の教員をしていた石原美知子とお見合いをし、38年に結婚をした。彼は、「人らしい人になりたい」という願望も有していた。

 しばらくは甲府で暮らしていたが、39年に東京の三鷹町に転居した。45年には空襲で危険を感じたために一時、金木町に疎開していたが、46年に三鷹に戻り、48年に自殺するまで、その地で過ごした。

二階北側廊下から庭を眺める。もう少し庭は広くても良いのに、と私は思った。

 三鷹駅と隣の武蔵境駅との間には「三鷹跨線人道橋」がある。この橋の上からの眺めが良いこともあって太宰はこの跨線橋にはよく出かけたそうだ。1929年に造られたこの建造物は、残念ながら強度不足のために今年の12月から撤去工事が始まることが決定された。

 武蔵境にはたまたま知人がいたために、その家を訪れた際に何度がこの跨線橋を渡ったことがあった。橋の上から富士山を望んだ時、太宰のことをちょっぴり思い出したという記憶が私にはある。

調度品や装飾品も豪華そのもの

 『津軽』では、その最後の部分で、小泊に住む乳母の越野たけと再開するシーンが登場する。彼の母親は病気がちであったため、太宰は乳母に育てられた。とりわけ、3歳から8歳まで世話になっていた「たけ」の存在は、太宰に大きな影響を与え、忘れることのできない存在として心に残っていたのである。

 そのシーンは、太宰らしくない(本来の太宰の姿)振る舞いで乳母と再会したときの様子がよく描かれている。この点については次回に触れることになっている。

 それは丁度、『走れメロス』の終わり方のようである。白樺派を敵視し罵倒を続けた大宰であったが、実は、太宰も心性は白樺派だったのである。

斜陽館前にある観光物産館

 斜陽館の無料駐車場は、道路の向かい側にあり、その敷地内に写真の金木観光物産館「産直メロス」がある。

 ここでは、地元野菜、総菜、馬肉、工芸品など金木で産出される商品が販売されているそうだ。また、”赤~いりんご”の関連商品、十三湖しじみなど、津軽の特産品も取り扱われている。

 ”メロス食堂”では「昔中華」が売りだったらしく、この存在を知った今となって、それを食さなかったことを残念に思えた。

物産館の隣にある津軽三味線会館

 写真の「津軽三味線会館」も同じ敷地内にあった。津軽三味線は金木が発祥の地と考えられていることから、そのルールや発展の歴史などが紹介されているそうだ。また、金木出身者ではないが、津軽三味線を全国的に広めた人物として、三橋美智也のステージ衣装などが展示されているらしい。

 津軽三味線の歴史は案外新しく、幕末の頃にボサマ(男性の視覚障碍者)の”仁太坊”が始めたという説が有力らしい。

 もっとも私としては、いささかしつこいようだが、松村和子の『帰ってこいよ』を聞くだけで十分に満足している。

津軽鉄道金木駅に向かう

金木といえば太宰治

 駅に向かう通りに出た。道路の傍らに写真のような案内標識があった。やはり、現在の金木にとっては太宰の存在は大きく、彼抜きでは「売り物」がないのかも知れない。

メロス坂通り~私は歩いた

 写真が先ほどの標識から金木駅へ向かう「メロス坂通り」である。標識のあった場所の標高は9.4mで金木駅前は15.1m。長さは320mなので、写真からもわかる通り、相当に緩い坂道である。

 『青春の坂道』ならばそこには古本屋があったり、ペンキの剥げたベンチがあったり,長い髪の少女がいたりするのだが、このメロス坂にはそうしたものは存在しなかった。

 メロスなら、暴君ディオニスのいる王宮まで半裸状態でセリヌンティウスとの約束を守るために走るのだろうが、私はただ、津軽鉄道金木駅を見物するのと、あわよくば「走れメロス号」に会うために行くのだから、「歩け、徘徊老人!」と自己に命じてのんびりと進んだ。

太宰が45年に疎開した家

 途中には、太宰が戦争中に疎開していた古い家があった。少しだけ立ち寄ってみたが、太宰の実家とは異なり、とても質素な造りであり、彼の生き方からすると、こちらのほうがお似合いだと思えた。

ローカル線とは思えない立派な駅舎

 メロス坂を進み、王宮ならぬ、金木駅舎前に到着した。津軽鉄道のイメージでは、あまり真っすぐではなく、かなり歪んだ鉄路と古ぼけた木造の駅舎を想像するのだが、金木駅に限っていえば立派な建物であり、さすがに太宰治ワールドの玄関口だと思えた。

五所川原行きが入線

 駅のすぐ隣の踏切の警報機が鳴り、上り列車が間もなく到着することを私に教えてくれた。私はすぐに踏切前に移動し、走れメロス号の姿を目撃した。車両もまた、私の思い描いていた使い古したものとは異なり、奇麗な姿に改造されていた。

金木駅は列車交換駅

 津軽鉄道は全線が非電化の単線である。唯一の列車交換駅がここなので、写真のようにメロス号が並んでいる。両者は全く同じ意匠なので、少し興ざめした。やはり、メロスは一人の存在であるごとくに、「走れメロス号」も一編成だけにしてほしいものだと誠に勝手ながら率直な感想をいだいた。

下り線(津軽中里行)が発車~走るメロス号

 終点の「津軽中里駅」に向かうため、まずは下り列車が先発した。

 『走れメロス』はもちろん太宰の作品であるが、すべてが彼の創作というわけではなく、最後に「古伝説と、シルレルの詩から」という断り書きがある。つまり、すでにあった作品を下敷きにして、太宰がそれをひとつの物語に仕立てあげたのである。

 このことを残念に思う人も多いようだが、これは盗作でもなんでもなく、ただ、古い作品に新しい魂を注入して太宰ワールドのひとつとして蘇らせたのである。つまり、この短編小説は100%、彼の世界の内にあるのだ。

 ちなみに、シルレルとはフリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)のことであり、彼の『真の知己』という作品が下敷きになっている。

上り線も発車

 下り列車が去ったのち、上り列車も金木駅を離れた。

 大宰が憧れた芥川龍之介は、元々、翻訳者として出発し、やがて短編小説家として世に出て、次々と素晴らしい作品を発表し続けた。その作品の多くは『今昔物語』や『宇治拾遺物語』を素材にしている。

 太宰に影響を受けた三島由紀夫は、最後の作品として『豊饒の海』四部作を書き、原稿を編集者に渡した後に自衛隊の市谷駐屯地に向かい、そこで割腹自殺を遂げた。この『豊饒の海』も、菅原孝標女(『更級日記』で有名)が書いたとされる『浜松中納言物語』から多くのヒントを得ている。

 三者の共通点は、かつての資料を基にして優れた作品を残したこと。それに、三人とも自殺していること、である。

◎外ヶ浜海岸を行く

蟹田港から夏泊半島を眺める

 「外ヶ浜」の原義は「最果ての地」だとのこと。確かに、青森は明治2年までは最北の地だった。令制国五畿七道に区分されているが、この中に北海道は含まれず、「令外の地」であった。それが、明治2年になって北海道が令制国に組み込まれ、五畿八道として日本国に加わったのである。ちなみに、武蔵国は当初、東山道のひとつであったが、のちに東海道に入った。

 それゆえ外ヶ浜は、かつての日本の最北端であった現在の青森県の海岸線全体をさしていたようだが、今日では、夏泊半島から龍飛崎までを言うようになった。ただ、現在ではその一部に外ヶ浜町(2005年に成立)があるし、しかもその町域は平舘(たいらだて)と三厩(みんまや)とに分かれ、その間に今別町があるので、結構ややこしい。そのため、本項では蟹田から龍飛崎を外ヶ浜として話を進めてゆく。

 蟹田には大きな港がある。下北半島の脇野沢港との間をフェリー(一日2往復)がつないでいて、60分で下北に出かけられる。この脇野沢については「仏ヶ浦」の項で少しだけ触れている。

 また、津軽山地名産の青森ヒバの積出港としてもよく知られている。が、蟹田の名の通り、ここでは毛ガニの仲間である「トゲクリガニ」が獲れることでも知られている。ただし、希少なカニのため、現在では1年でわずか10日間しか漁ができないことになっている。

 太宰は、この地に住む青森中学の同級生であったNさん宅を訪問し、山盛りのカニをご馳走になっている。なお、このNさんは太宰とともに、外ヶ浜を巡る旅に出て、龍飛崎まで同行している。

青函フェリー下北半島西岸

 津軽半島を南北に走る山地は、半島の中心ではなく大きく東寄りにあるため、外ヶ浜には平地が少なく、平野の大半は西側に存在する。それゆえ、西側の人は東部を「かげ(陰)の地」と呼んでいる。ただ、精米業を営むNさんが住む蟹田付近は蟹田川が形成した平野がそれなりの広さがあるため、米作も盛んである。が、蟹田から北は平地はほとんどなく、国道280号線はほとんど山の際を走っている。

 なお、このR280は、かつて松前藩の藩主が参勤交代のために使った道なので「松前街道」とも呼ばれている。

 太宰は津軽山地を「梵珠山脈」と呼んでいるが、厳密にいえば、梵珠山地は津軽山地の南側を指し、北側でYの字をつくるように山地は東西に分かれており、東側を「平舘山地」、西側を「中山山地」と名付けられている。

 津軽山地はいわゆる地塁山地で、南北に走る2つの正断層の間が盛り上がったものであり、標高は200~700m程度である。梵珠山地は梵珠山(標高468m)から北に向かい、途中に大倉岳(677m)がある。V字型に分かれる場所には小国峠(130m)があり、平舘山地には丸屋形岳(718m)、中山山地には増川岳(714m)がそれぞれピークを形成している。

  太宰の表現を借りれば、山地は海に転げるように落ち込み、一方は「高野崎」、もう一方は「龍飛崎」がそれぞれの終点になっている。

 平舘海峡を青森港に向かって進む写真のフェリーは「青函フェリー」の「はやぶさⅡ」で、津軽海峡フェリーの船よりかなり小さい。

平館(たいらだて)灯台

 私はトゲグリガニを食することなく、R280を北に進んだ。写真は、平舘海峡が最も狭くなる場所にある平舘灯台で、僅か標高2.5mの地点にある。対岸の下北半島との間は10.5キロほどしかない。

 かつてオランダ人が上陸したことから、守りを固めるために台場が造られた。一方、青函連絡船が通行する場所でもあるため、その航行を見守るために1899年に23mの灯台が造られたのであった。

 灯台のすぐ西側には「道の駅」が整備され、海岸線には散策路があり、砂浜も結構な長さがあるので、夏場にはかなりの賑わいを見せるらしい。

綱不知海岸

 R280をさらに北に進んだ。道は次第に北東方向に向きを変え、対岸の下北半島は徐々に遠い存在になる。

 地図を確認すると、「綱不知(つなしらず)海岸」という名の名所があることが分かり、少しだけ車を止めて海岸線を散策した。綱不知の語源は不明だが、場所柄からいって、潮の速い津軽海峡からはまだ少し離れているため、船を泊めておくために綱を張らなくても良いからか、あるいは浅瀬が多いので、船を留めて置くのが容易なので綱が不要なのかのどちらかであろう。

 なお、この綱不知海岸で外ヶ浜町平舘はいったん終わり、そのすぐ先は今別町の区域になる。

◎高野崎~津軽半島もうひとつの北端

高野崎灯台

 先に触れたように、津軽半島は先端部で東西に分かれており、東側の最北端が写真の高野崎である。岬は文字通り「みさき」であるが、先端部を意味する「先」に敬称の「御」をつけて「みさき」と言うようになっと考えられている。海から陸に戻る人にとっては「みさき」は大きな目安になる。それだけに「御」を付ける気持ちが分かるような気がする。

 東側の高野崎と西側の龍飛崎との間には大きな入り江があり、その開けた場所に今月町の中心街がある。この入り江は三厩湾と名付けられている。

 高野崎は東の先端であるが、西の龍飛崎ほど形状は険しくなく、長さもそれほどないので、知名度は龍飛崎に比べると圧倒的に低い。ただ、写真のように可愛らしい灯台があり、周囲の岩礁帯も見どころがないわけではないため、見学に訪れる人は決して少なくない。ちなみに、高野崎の標高は31m、龍飛崎は111mである。

西側を眺める

 高野崎の先端近くに立って、西側の海岸線を眺めた。左手に入り江があり、それが三厩湾であり、奥側に今別の街並みがあるはずだ。右手に長く伸びているのが中山山地で、その先端部が龍飛崎である。岬というより半島のように見える。

 ところで、「半島」という言葉を造語したのは、明治初期の啓蒙家である中村正直(1832~91年)で、サミエル・スマイルズの『自助論』を訳した『西国立志編』や、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を訳した『自由之理』がよく知られている。彼はスカンジナビア半島を訳すために、「ペニンシュラ」を「半島」に置き換えたのである。

東側の岩場を眺める

 東側を眺めると、まだまだ下北半島の姿が目に入る。手前側にある岩の上には、よく見ると、木で造られた鳥居や看板らしきものがある。高野崎周辺は浅瀬が続いているので、この比較的背の高い岩は浅瀬の存在を知らせる目印の役割を果していたのかもしれない。もちろん、鳥居は弁才天を祀るものだろう。漁師にとって、弁才天は「水の神」として極めて重要な神なのである。

先端部の岩礁

 先端部には平らな岩礁帯が露出しており、2つの溝には橋が架けられていた。ということは、その岩礁帯に行くことが可能なのであろう。

岩礁帯に降りようとしたのだけれど

 そのため、私はその場まで降りようとしたのだけれど、そこには誰もいないことで躊躇した。私の周りには若い人が何人もいたのだが、誰も降りようとはしないのである。一部の足場がやや悪い可能性はあるにしても、たかだか比高は30mほどである。

 年寄り夫婦が少しだけ足を踏み出したのだが、すぐに戻ってきてしまった。それを見た私は降りることを完全に断念した。きっと、見た目以上に坂はキツイのかも。

 けっして、そんな風には思えないのだけれど。「それならお前が行け!」という声が聞こえたような気がした。いや、それは海鳴りだろう、海は案外、穏やかだけれど。

青函トンネル・起点の今別側

青函トンネルの今別側

 青函トンネルは1961年に建設がスタートし、85年に本坑が全開通し87年に初走行が行われた。2006年には新幹線の工事が始まり、14年に試験走行が開始され、16年に正式開業した。これによって在来線は廃止され、旅客鉄道は新幹線だけとなり、その他としては貨物列車が走っているのみである。

 貨物列車は在来線の軌間1067ミリ、新幹線は標準軌の1435ミリを使用するため、レールは上下線とも3本ある。これを「三線式スラブ軌道」という。

こんな神社があった

 トンネルの入り口近くには、写真の「トンネル神社」があった。祠のカバーはトンネル型をしており、祠の中には本坑貫通時に掘り出された「貫通石」が安置されている。祭神は「叶明神」というらしい。なお、この神社は新幹線の開業を記念して建立されたものなので、まだ歴史は浅い。神社の横には小さな売店があり、そこで御朱印がもらえる(300円也)。

 折角なので、新幹線の姿も撮影したかったため、売店のおばちゃんにコーヒーを入れてもらいながら(もちろん有料)、時刻表を確かめたところ、新幹線の通過には相当な時間をここで待つことになるため、それは断念した。

残念ながら新幹線ではなかった

 おばちゃんとは話が弾み、娘が龍飛岬の売店で働いているので是非、寄ってみてと言われた。岬の売店は3軒並んでおり、その真ん中の店が娘のいるところだと念押しされた。

 そんな時に、列車が走ってくる音が聞こえたので、慌ててカメラをトンネル方向に向けたところ、機関車が顔を出した。

長い長い貨物車両

 機関車の後ろには、結構な数の貨物車がつないであった。JRのレールは全国に網羅されているので、鉄道による貨物輸送は相当に便利だろうと思えた。飛行機やトラックでは一度に運べる量は限られるし、青函連絡船ではやや時間が掛かってしまう。

 その貨物列車を見送った後、またまた売店のおばちゃんと話が始まりそうになった。そうしていれば新幹線もやってきそうだが、そうすれば龍飛岬に辿りつく時間が遅くなるため、適当なところで話を切り上げ、売店を離れ、次の目的地に向かうことにした。

 おばちゃんには、「真ん中の店だよ」としっかり、再度念押しされた。

三厩(みんまや)から龍飛崎に向かう

三厩(みんまや)にある義経

 三厩地区は今別町の西隣にあり、先にも触れたように外ヶ浜町に属する。今別町には取り立てて私の興味を惹くものがないように思われたので、国道280号線のバイパスを通って三厩地区に入った。

 三厩の名前は「義経北行伝説」に関連する。この伝説はあまりにも有名なので、わざわざここに記す必要はないと思えるが、その一方で、それに触れないと「三厩」などという不思議な名前がこの地区に付けられた由来が分かりづらくなるし、これから紹介する「義経寺」についても説明しづらくなっるため、あえて簡単に触れたいと思う。

寺は高台にある

 義経は1189年の衣川の戦いで自害し、また弁慶は戦死したことになっているが、実はひそかにこの地を離れ、三陸海岸を北上し、それから広義の外ヶ浜を移動し、津軽半島の先端部まで至った。

 この地から津軽海峡を渡ろうとしたところ、海が荒れてなかなか渡れず、やむなく義経は持参していた観音像に祈願した。満願の暁、夢に白髪の翁が現れ、竜馬を三頭与えると伝えた。

 目が覚めて厩石(うまやいし)をのぞくと、三頭の竜馬がつながれていた。それに義経、弁慶、亀井六郎の三人が乗り、無事に蝦夷地に渡ったという話だ。

 この厩石には浸食を受けて三つの洞穴があった。その中に一頭ずつ馬がつながれていたので、この石は三馬屋石と呼ばれるようになった。この三馬屋が三厩に転じたのである。

境内から港を眺める

 この北行伝説には続きがあって、義経一行はさらに大陸に渡り、義経はチンギス・ハン(1162~1227年)なったという話まである。これが広まるきっかけを作ったのは1823~30年まで日本に滞在して医学や植物学を教授したシーボルトだったという。彼は新井白石の『蝦夷志』の参考にして、義経北行説を主張し、それが明治時代になって広がり始め、1924年には『成吉思汗ハ源義経也』という本がベストセラーになったとのことだ。

 これに対し太宰は、「故郷のこのやうな伝説は奇妙に恥づかしいものである。」「どうも津軽には義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけじゃなく、江戸時代になっても、そんな義経とか弁慶が、うろついてゐたかも知れない。」と揶揄している。

山門

 頼朝との対抗上、後白河法皇義経を持ち上げ、左衛門少将・検非違使に任命した。検非違使令外官で、不法を検察する天皇の使者という位置づけである。別名を「判官」という。

 平家を打ち取ったのはひとえに義経の功績であったにもかかわらず、頼朝は彼の存在が自分の立場を脅かすということで、厳しい仕打ちを行い、結局のところ衣川の戦いで自害に追いやった。こうした義経の悲しい運命から、とりわけ東北の人々にとって義経奥州藤原氏に育てられ、そして頼朝の圧力があったものの藤原氏の手によって死に追いやられたということが誠に口惜しいために、心の中で義経を生かせて蝦夷の地に渡らせたのだろう。

 「判官びいき」という言葉は、こうした義経に同情する立場の人々から生まれたのだろう。本来、判官は権力側にあるのだから、人々にとっては決して好ましい存在ではないにもかかわらず。

 こうした北行伝説が影響したかどうかは不明だが、修験僧の円空(1632~95年)が三厩にやってきて、観音像を彫り、その中に義経が持っていたとされる観音像を収めた。そして小さなお堂を建てて、観音像を安置した。これが、写真の「義経寺」である。

 円空は北海道の松前にも渡ったという記録が残されているので、三厩の地を訪れたことは事実であろうし、義経のために観音像を彫った可能性は極めて高い。ただし、お堂を建てたことは定かではない。

弁財天堂

 義経北行伝説はともかくとして、この義経寺の境内は標高41mの地点にあるために見晴らしはとても良い。ここに写真の弁才天堂が建てられていることが義経に関係するかどうかは不明だが、水の神である弁才天が、津軽海峡を進む船の航海の安全を見守っていることは確かである。 

◎龍飛漁港にて

太宰治文学碑

 龍飛漁港は2カ所あって、双方は約500m離れた位置にある。写真の「太宰治文学碑」は手前側の漁港の傍らに設置されている。向かいには、太宰が宿泊した「奥谷旅館」を改修して設立された「龍飛岬観光案内所」があった。

 文学碑には『津軽』の一節が彫られている。「ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。諸君が北に向かって歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」

 このあと太宰に同行したN さんは「誰だって驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはひってしまった、と思ってひやりとしたからね。」と述べている。そしていつものように酒宴を重ねて寝入ってしまったが、翌朝、寝床の中で、童女が表の路で手毬歌を歌っているのを聞いた。

 「私は、たまらない気持ちになった。今でも中央の人たちに蝦夷の地と思ひ入まれて軽蔑されてゐる本州の北端で、このやうな美しい発音の爽やかな歌を聞かうとは思わなかった。」と感じ入っていた。

龍飛崎の先端にある帯島

 私はもう一つの龍飛漁港に向かった。この港のある集落こそ、太宰の言うまったく道が尽きる場所にある港なのだ。

 沖には「帯島」という名の岩礁があるが、現在は橋でつながっているため自由に行き来できる。

 帯島の名も義経北行伝説に由来し、義経がいよいよ津軽海峡を馬で渡るとき、この場所で、しっかりと帯を締めなおしたということからその名がつけられた。

海の安全を守る弁才天

 島には、写真のような「弁才天宮」が建立されていた。しつこく繰り返すようだが、「弁才天」は水の神様で、漁師たちの航行の安全を見守っている。

帯島から津軽海峡を眺める

 帯島は火成岩からなる岩場で、柱状節理がはっきりと分かる姿を見せていた。この岩で義経は帯をきりりと締め、一行(3人)は津軽海峡を渡って向かいに見える蝦夷の地を目指したのである。

 天が授けた竜馬なので、海を渡るぐらいは造作ないことかもしれない。私は小学生低学年のころ、多摩川の水の上を歩いて渡ることができないのか何度も試したことがある。理屈は簡潔で、まず片方の足を川面に乗せ、その足が沈まないうちに別の足を出せば良いのだ。これを素早く繰り返すことによって沈まずに川面を歩いて行けるという寸法だ。が、実際はなかなかの難題で、中学生の時は学校のプールでも試みたものの、やはり3歩ぐらいが限界だった。義経が乗った竜馬とは異なり、私は駄馬に過ぎなかったことを思い知らされた。

龍飛埼灯台は高台にある

 帯島から龍飛岬の高台を眺めた。前述したように、龍飛埼灯台は標高111mのところにある。確かに、太宰が言うように、奥羽山脈から梵珠山地を経て中山山地と続いてきた山の連なりは、この龍飛岬において海に転げ落ちるのである。

高台に至る階段~これが国道399号線

 三厩本町で、国道280号線からバトンを受け取った国道339号線は、引き続き外ヶ浜の海岸線を龍飛崎方向に進み、いよいよ太宰の言う「すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである」という岬の先端に到達する。

 しかし、この国道はここで終わるわけではなく、今度は津軽半島の西岸に出て、さらに五所川原市街を通過し、南津軽郡藤崎町で、国道7号線(新潟市青森市を結ぶ一般国道羽州街道羽州浜街道)に突き当たる。

 このため予定では、龍飛岬でUターンして岬の上に出る計画もあったらしいのだが、実現は困難ということで、その役割は別の取り付け道路にまかせ、R339は日本で唯一の「階段国道」になっているのである。

階段国道を歩いての上るつもりだったが

 写真は、階段国道の上り口付近のものである。最初はスロープだが、標高5.4mのところから、写真のような階段が始まる。もちろん当初は上まで行くつもりだったが、この日はまだまだ立ち寄る場所が多いことから、と自分に言い聞かせて、その無謀な試みは早くも挫折してしまった。

ここが階段国道の終点

 結局、車に戻って取り付け道路を走り、岬の上方に出た。ここは標高75.6mである。比高はたかだか70mなので根性を出せば(出さなくとも)十分に上ることができる(に違いない)。

◎龍飛崎にて

龍飛埼灯台

 龍飛埼灯台は高さが13.7mとそれほどの大きさはない。もっとも、すでに標高111mの地点に建っているため、海を照らし、また海からその位置を知るには十分な高さがあると言える。2005年までは一般公開していたが、無人灯台ということもあり現在は立入ることはできない。

 日本の灯台50選に入っているとのことだが、ここが選ばれたのは、やはり見晴らしの良さからくるもので、灯台そのものの姿ではないように思える。

津軽海峡の激流

 灯台の周囲には見晴らしの良い場所がいくつもある。写真はほぼ真下の海の様子を眺めたもの。西から対馬暖流が流れ込むため、その潮の速さがよく見て取れた。この潮は東に進んで陸奥湾の海水を温めている。

北海道がよく見える~最短距離で19.5キロ

 この日は晴天に恵まれたために北海道がよく見えた。案内図には写真にある山の名前が出ていたが、私はメモをしないし、記憶力は相当に衰えているため、その名は完全に失念してしまった。

 対岸の松前町にある白神岬が龍飛からはもっとも近く、その距離は約19.5キロである。義経御一行は、その岬を目指して竜馬を走らせたのだろうか?

西海岸と小泊半島

 西海岸を眺めた。横たわっているのは小泊半島で、私は何度か半島の先端まで船で渡って磯釣りを楽しんだ。現在は制約が多いらしいが、ここは磯からホンマグロが釣れる場所として知られていた。もちろん、私が使っていたタックルでは、一瞬でラインが切られるだろう。

 写真に見える道路は竜泊ラインと呼ばれており、相当に快適な道である。なお、太宰は知り合いを訪ね小泊まで出かけているが、当時は道はまったくなかったため、後日、列車とバスをを使って移動している。

 なお、吉田松陰は1852年に小泊から龍飛崎まで、相当な苦難の連続の末、龍飛に到達している。国防を憂える動機から、友人の宮部鼎蔵(ていぞう)とともに山や沢にしがみつくようにしてやってきたのである。しかも、松陰はこの旅のために脱藩までしている。

ほぼ真下に青函トンネルが走る

 私は、青函トンネル入り口にあった売店のおばちゃんとの約束を果たすため、三軒並んだ売店の真ん中の店に入った。女性店員にトンネルのおばちゃんの話をすると、「旦那の母なんです」と言った。折角なので、ホタテの串焼きの大を注文した。

 写真は売店付近から中山山地を眺めたものである。確かに、中山山地は龍飛まで続いている。正面に見える施設は、「青函トンネル本州側基地」である。この下の地中深くにトンネルは走っている。私は電車を使った長旅は苦手なので直接、トンネルにお世話になることはない。

龍飛岬といえばこの唄~実は一回しか出てこないけれど

 龍飛岬といえば『津軽海峡冬景色』の唄だろう。とくに龍飛岬をテーマにしたわけではない歌詞だが、「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと、見知らぬ人が指をさす」ので、「息でくもる窓のガラスふいてみたけれど、はるかにかすみ見える」だけだった。

 この日のような晴天であれば青函連絡船からも龍飛岬はかすかに見えるだろうけれど、雪の日であればおそらく見えないのではないか。これが下北半島やその北端の大間崎であれば見えるかもしれないけれど。ちなみに連絡船の航路から大間までは20キロ、龍飛までは27キロである。

 これは心象風景を唄ったものであろう。たしかに、龍飛なら情緒があるけれど、大間では、それはあまり感じられないからだ。

 なお、この歌碑は新しくできたもののようで、かつては道端にあった。また、この唄がガンガン流れるのが興ざめだった。今回はそれが気にならなかった。