徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔100〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(2)岩手県の海岸線・浄土ヶ浜から青森県八戸まで

あちらこちらの海岸線に設置してある慰霊碑

◎東北地方の東海岸を北上する

多くの海岸線に新設された巨大堤防

 14時46分、その時私は病院の待合室にいた。処方箋を貰うだけなのに非道く待たされていた。やっと自分の順番がやってきたときに揺れがはじまった。府中市震度5弱程度だったので揺れの大きさこそ強烈なものではなかったけれど、長さは強弱を繰り返しながら10分ほど続いたように思えるほどだった。

 診察室の棚からいろいろなものが落ちる音が聞こえ、待合室の天井に貼り付けられたパネルが何枚か剥がれて落ちそうになっていた。医者や看護師は、何かで頭を保護してと診察室から大声を出し続けていたが、私は自分の名前が呼ばれるのをそのまま待ち続けながら、パネルの剥がれ具合やテレビの画面、それに待合室にいた多くの人たちの表情を観察していた。

 揺れが収まると私は病院の入っている8階建てのビルから外に出た。結局、処方箋はもらえなかった。建物は京王線府中駅のすぐ近くあったので、外には府中名物の「くらやみ祭り」のときと同じぐらいに人が集まっていた。皆、周囲の建物から外に逃れたのだろう。

 恐怖心はまったくなかったが、自宅にある水槽が倒れているかもしれないということが最初に浮かんだ心配事だった。床が水浸しになることはともかく、ヒーターが露出して火事になることが気がかりだったのだ。

 が、家に戻ってみると、水槽は台から落ちて倒れるどころか、水は一滴も零れてさえいなかった。また、溢れかえるほど積み込んだ本棚から本が落ちた様子もなかった。もっとも、もともと床には本が散乱しているので、本当のところは不明だが。

 武蔵野台地は地盤が比較的強固だと言われてきたが、確かに、私の家や兄姉の家、そして友人の家にも被害はまったくなかったので、その日の地震に限って言えば、武蔵野台地強固説は事実であった。

 それからは睡眠時間を大幅に削ってニュースを見続けた。最初は津波の被害の大きさに驚愕したが、翌日からは原発事故が話題の中心になった。確かに地震やそれに付随した津波での犠牲者は非常に多かったが、復興が遅れ、またいびつな形で復興が続いて今日まで至っているのは、ひとえに原発事故が大きく影響している。

 現在、話題になっている「汚染水」問題もその象徴のひとつである。政府もマスコミも一部の識者も、さらにネットに書き込むことが好きな人も、「処理水」という言葉で統一し、「汚染水」という言葉を使う人を非難しているが、これは明らかに真実を隠蔽するための「言い換え」に過ぎないことは明白である。日本政府は、そしてそれに追随するマスメディアは言葉の言い換えが大得意で、琴の真実を覆い隠すことに全身全霊を傾けるのである。

 トリチウムの大半は生物濃縮はしないが「有機結合トリチウム(ОBT)」はその限りではない。また、他の国のトリチウム水は他の核種を含んでいない蓋然性が高いが、福島原発から発生する「汚染水」は、例え「ALPS」で処理したとしてもトリチウム以外の核種をすべて取り除くことはできず、一説には12種は残存するらしいのである。

 さらに、30年でタンク内の汚染水を処理すると喧伝されているが、現在でも汚染水は発生し続けており、さらに核燃料デブリの除去は不可能に近いゆえ、いずれ、30年が100年になり、さらに300年になることは確実である。そう考えるなら、核種による汚染も半永久的に続くことになる。

 それにしても政府による情報統制は恐ろしいし、市民がそれに同調する空気はさらに危険である。

 今回は、震災に関係する場所にはほとんど立ち寄っていない。来春に、千葉県から青森県の太平洋沿岸を久し振りに走破する予定なので、その際に、復興の姿を詳しく紹介するつもりでいる。

宮古市浄土ヶ浜を散策する

浄土ヶ浜の桟橋

 遠野から釜石に出て、次の目的地にしていた宮古市の「浄土ヶ浜」に向かった。今回は下北半島の西端にある「仏ヶ浦」にも立ち寄っており、いずれも奇岩が林立する浜として東北を代表する観光名所になっている。

 この場所に立ち寄るのは今回が5度目だが、いずれも好天に恵まれたので海の青、空の青と、流紋岩の比較的白っぽい岩肌とのコントラストが美しく思えたが、この日は生憎の雨降りで、傘なしにはとても歩けないほど強い雨にも遭遇した。それゆえ、記憶の中にある浜の姿とは異なり、薄ぼんやりとした景観が少し残念に思えた。

 土砂降りに近い状態もあったが、雨は強弱を繰り返していたので、写真撮影はどうにか可能であった。また、念のために防水カメラも持参した。

 写真は、遊覧船用の桟橋である。この日は休業日ということもあって人影はまったくなく、観光客が面白がって船上から空中に撒く餌(お菓子類)を目当てに集まるウミネコやウミウの数は少なく、姿もどことなく淋し気であった。

小型船舶用の桟橋

 こちらは、「青の洞窟」を見学するための小型船(さっぱ船)が発着するための桟橋。「青の洞窟」と呼ばれる波食洞は世界の至るところに存在する。洞窟の入口付近に光が差し込み海底に届き、青い光だけが反射するので、あたかも海が青く染まって見えるところから「青の洞窟」と名付けられている。これは澄んだ川の淵でも同じ現象が起こり、とくに有名なのは高知県仁淀川の支流で見られる「仁淀ブルー」である。また、私がよく出かける和歌山県南端にある古座川の支流の小川(こがわ)でも条件次第で見られる場所は多い。が、今季は悪天が多くてなかなか小川には出掛けられないため、気分がブルーである。

 なお、浄土ヶ浜の青の洞窟は、別名を「八戸穴」という。これは、この穴に入った犬が数年、行方不明になり、八戸で発見されたことで、穴は八戸まで通じているという俗説から名付けられそうである。

波静かな入り江にはスワンもある

 浄土ヶ浜の深い入り江は南東側だけ外海に開かれ、あとは浜や岩礁に囲まれていることからスワンボートも置いてあった。それでも、池や沼ではないので、私には利用する勇気はまったくない。なお、手漕ぎボートも置いてあった。

大小の岩礁が入り江を塞いでいる

 こうして、ボート乗り場から入り江の奥を覗いてみると、確かに岩礁は北側と東側を塞いでおり(西側は陸地)、波は極めて静かだ。この日、ボートが一隻も浮いていなかったのは、波ではなく雨降りのためだと思われる。

白い砂浜(小砂利も)が特徴的

 浄土ヶ浜の名は、約300年前に某僧侶がこの姿に触れ、「さながら極楽浄土のごとし」と述べたことから名付けられたとされている。

 確かに美しい景観だとは思われるが、どこをどう見立てると極楽浄土に見立てられるかは不明だ。そもそも、私には信心はまったくないので、ここが極楽浄土のようであろうがなかろうが関心はない。ただ、白い浜と青い海とナンブアカマツの緑を着たてた白く、かつ変化に富んだ岩礁が素敵だと思うだけである。

 1917年には宮沢賢治がここを訪れ、

 うるはしの海のピロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ

と、詠んだとされている。

海岸線には荒々しい岩礁

 海中に没する岩礁はやや黒っぽく見えるが、基本的に流紋岩は二酸化ケイ素(シリカ)が70%以上含んでいることから白っぽく見えることが多い。もっとも、縄文時代にナイフとして用いられた黒曜石も流紋岩の仲間なので、マグマの噴出条件や結晶度などから黒く見えるものもある。

 なお、流紋岩の名は、マグマが流れた模様(流理構造)からその名が付けられたとのこと。岩肌をよく観察すると、流理構造や節理を見ることができる。

浜の東側にある奇岩の列

 浜の西側を塞いでいる岩は変化に富んだ形をしている一方、いずれも三角形状に天辺が尖っている。とりわけ中間部はこの三角形の岩が列をなしているため、「剣山」と呼ばれているとのこと。針の山ほど尖ってはいないが、それでもその名で呼んだとしてもとくに疑問を抱くことはない。

奇岩に囲まれて

 浄土ヶ浜の先端部近くは、写真から分かるとおり、岩が極端に低くなっている場所があり、波の高いときはこの辺りから海水が流れ込む。これも一種の「タイドプール」なのかも知れない。水がかなり澄んでいるところから、海水は頻繁に出入りしているのだろう。

 こうした場所に出くわすと、私は必ず中を覗き込んで魚の姿を探すのだが、残念なことに一匹も見つけることはできなかった。

沖にも数多くの岩礁が存在

 浄土ヶ浜の沖にも小島が点在している。高台から浜周辺を見下ろすと、また違った顔をした姿に出会い、この浜に対する愛着は深まるはずだ。雨模様なので沖が霞んで見えるのが残念である一方、淡い墨絵が展開されていると思えば、晴れの時とは違う興趣が湧いてくる。

 そう思うと、この「浄土」に今一度、訪問しなければならないのかも。私には信仰心はないので、浄土そのものの存在には否定的なのだが。

◎震災遺構・たろう観光ホテル付近を歩く

震災の爪痕が当時のままに保存されている

 宮古市の田老地区には「震災遺構」のひとつとしてよく知られた「たろう観光ホテル」の建物が保存されている。1986年に建てられた6階建てのホテルだが、津波によって1,2階は外壁ごと流失し、3回は壁こそ残っているがガラスはすべてなくなってしまった。4階にも浸水の跡が残っている。

 2014年に宮古市が取得し、震災遺構として津波の脅威を構成伝えるために保存されている。 

津波によって破壊された姿がそのまま残る

 建物の中に勝手に入ることはできないが、見学の申し込みをすれば、たとえ一人であってもガイドの人の案内で内部に入ることができる。

 この写真を撮り終えた後、中学生の団体が数台のバスでやってきて建物の隣にある駐車場に集合していた。社会科見学か何かの行事として、津波の恐ろしさを学ぶのだろうか。

新設された巨大堤防

 田老地区といえば、度重なる津波の被害を受けている場所で、1896年の明治三陸津波では1859人、1933年の昭和三陸津波では911人の犠牲者を出している。そこで町では1978年に高さ10mのX字型の防潮堤を築いた。「万里の長城」とも言われた巨大な堤防だった。人々はこの堤防の存在に安心感を抱き、いつしか、堤防の間の敷地にも人が住むようになった。

 3.11の時、防災無線では津波の高さは3m、地元の消防でも高さは4mと発表していたため、10mもある堤防なら十分に安心できると考えた人は多かった。しかし、実際には17mの高さの津波が町を襲ったのだった。

 結局、181人の犠牲者を出すことになった。高い堤防が目の前に立ちはだかっていたために、海の様子を視認できなかった人も多くいたはずだ。

 写真は、3.11の後に建造された14.7mの高さの新堤防である。

堤防上から町側を眺める

 私はその新堤防の上に立ち、たろう観光ホテルと、その向こうの高台に造成された新しい住宅街を望んだ。観光ホテルのある場所の標高は3.3m、新住宅街は標高30m以上の場所にある。

堤防上から海側を眺める

 堤防内には数多くの港湾施設が立ち並んでいる。もちろん、この場所からいつでも避難できるように各所に鋼鉄の扉が設置されており、通常は扉が開いた状態になっており、津波警報が出されたときは扉が閉じられる仕掛けになっている。

港の近くにある「三王岩

 田老漁港の東側にあるのが写真の「三王岩」。震災以前は海岸線を歩いて行けたが、遊歩道が津波で大きく破損したために、現在では高台を走る市道を進んで、「三王眺望公園」または「三王岩展望台」からその姿に触れることになる。

 3つの大きな岩が海岸線近くに屹立し、中央の男岩は高さが50m、左手の女岩が23m、右手の太鼓岩が17mある。一億年前に出来た地層が浸食や風化によって、このような奇岩として残っている。

 男岩の上部は砂岩層、下部は礫層で、太鼓岩は男岩の転石だと考えられている。津波によく耐えてその姿を残してくれたのは見物人にはありがたいことだが、上部の砂岩層の風化具合を見ると、いつの日にか崩れ落ちることは必定であろう。

 もっとも、人間の寿命よりは長く生き残るだろうことは確かなことだが。

未だに崖崩れが続く

 眺望公園の東側を崖を望むと、至る所で崖崩れが発生していることが分かる。大震災による影響が崖に及んでいるのだと思われる。改めて、自然の大きさと猛威を実感させられる景観である。

鵜の巣断崖

海面からの高さが200mもある断崖

 陸中の典型的なリアス式の断崖が続く場所が、写真の「鵜の巣断崖」と「北山崎」。いつもは後者ばかり訪れているので、今回は初めて前者に立ち寄ることにした。どちらも田野畑村に存在するが、田野畑の中心部の北にあるのが北山崎で、こちらは南側にある。

 断崖の中腹にウミウやカワウの巣があることから「鵜の巣」と名付けられたと言われている。

高い断崖が北に向かって連続する

 作家の吉村昭はこの断崖からの景色を眺め、『星への旅』という作品を生み、太宰治賞を受賞した。

 「水平線に光の帯が流れている。漁船の数はおびただしいらしく、明るい光がほとんど切れ目もなく、点滅してつらなっている。……光が水平線から夜空一面に広がる星の光と同じまたたきをくりかえしている」。断崖の近くには、『星への旅』を一部を引用した文学碑が建てられている。

 展望台から北方向の断崖を眺めた。リアス式海岸というには少し単調な姿だが、ほぼ規則正しい姿で、断崖が浸食されている様子は、自然が生み出した芸術といっても過言ではないだろう。

 北方にある北山崎の断崖は、高さはここと同じく200mほどあるが、海成段丘が不規則に浸食されているため、崖下には数多くの岩峰や奇岩が連なっている。一方、こちらは壁面をスパッと切り取ったようで、豪快さと潔さを抱く。

足下に見えた奇岩

 隆起海岸であるこの場所は、三面からなっていたと考えられている。上面は200m地点、中面は160m地点、下面は海面近くにあった。それが鵜の巣断崖では激しい波の浸食作用によって大きく切り崩された一方、眼下を見下ろすと、写真のような海食洞を残した岩礁が確認できた。

南方向の断崖

 これは展望台の南側の海岸線ではやや顕著に現れている。海上に露出した岩場も、海中に没しながらも、海中スレスレに存在する岩礁が視認できる場所(これを沈み根と呼ぶ)もある。

 断崖の各所に崖崩れの跡が確認できる。これらは度重なる三陸地震(その代表が東日本大震災)の影響だろう。

岩手県小袖海岸から青森県種差海岸へ

小袖海岸にあった奇岩

 この日は久慈市に宿を取っていた。今にも雨が落ちて来そうな雲行きだったが、ホテルに入るにはまだ少し早い時間だったので、久慈漁港から南下して野田村まで続く県道268号線を走って見ることにした。道幅は狭く曲がりくねっているが、岩場の景色が見事な道路である。

 この小袖海岸は2013年に放送されたNHKの連続ドラマ『あまちゃん』のメインロケ地となった場所。といっても、ドラマ自体はまったく見たことはなかったが。そのドラマが好評を博したらしいことから、この道は通称「あまちゃんロード」と呼ばれるようになったそうだ。

 それはともかくとして、千変万化する岩礁帯は見応えは十分であり、撮影に適した場所は多数あったものの、道が狭くて車をとめる場所がほとんどなかった。

 写真の「つりがね洞」と名付けられた岩場の近くには駐車スペースが確保されているので安心してその姿に触れることができた。海食洞の上部からは釣鐘状の岩があったそうだが、1896年の明治三陸地震による津波によって破壊されてしまったそうだ。

 たとえ、その釣鐘が消失してしまったとしても、十分に見応えのある岩場であった。

追越漁港

 久慈ICから八戸久慈自動車道に入った。次の目的地は階上(はしかみ)町だった。三陸(陸前、陸中、陸奥)海岸のうち陸奥海岸はその階上から始まる。といっても、その階上には格別に目を惹くような海岸線がある訳ではなかった。おそらく、この階上の地名すら知る人はほとんどいないと思われる。が、私にとっては思い出深い場所なのである。

 階上の海岸に至るためには自動車道を「洋野有家IC」で下り、国道45号線に移ってしばらく北上し、青森県に入ったところで、県道1号線に移動し、海岸線を進むことになった。

 東北地方の太平洋側は親潮の影響を強く受けるために海水温がとても低い。例えば津軽海峡対馬暖流が流れ込むために意外にも温かいことから、三浦半島でよく見かけるような魚を目にすることができるが、三陸海岸では三浦では冬場のいっときにしかお目にかかれない魚が堤防釣りのメインの対象魚となる。投げ釣りではアイナメ、ウキ釣りではウミタナゴといった具合に。しかも、両魚ともにこちらでは巨大になり、前者は60センチ、後者は30センチにも成長する。

 そんな魚たちを狙うためには当然、関東とはやや異なった仕掛けを用いることから、私は三陸海岸の釣り具店を覗いて、いわゆるご当地仕掛けを探し歩いたのであった。

何度かお世話になった釣具店

 写真の釣り具店は、ご当地仕掛けをいろいろと見せてくれ、さらに、ひとつ上の写真の追越漁港がアイナメウミタナゴがよく釣れる場所であると教えてくれた。港内では多くの人が大型のウミタナゴ狙いで竿を出していた。25センチサイズはよく釣れていたものの、魚拓で見た30センチアップの魚に出会うことは叶わなかった。

 写真から分かる通り、釣り具店の店舗は私が訪れた当時とは異なって綺麗な建物に変わっていた。旧店舗は、3.11の津波によって破壊されてしまったからである。 

天然の芝生が広がる種差海岸

 県道1号線は「三陸浜海道」の別名があるが、今では「うみねこライン」の名の方が通りが良い。

 追越漁港からうみねこラインを北上するが、しばらくはさほど荒々しいとは思われない海岸線が続く。が、4キロほど先にある「大久喜」と呼ばれる地域に入ると、様相が一変する。この大久喜地区から北に12キロほどの場所に位置する「蕪島」までの海岸線が、国の名勝に指定されている「種差(たねさし)海岸」である。

 この種差海岸は4つのエリアに区分され、南から「大久喜エリア」「天然芝生エリア」「葦毛崎・大須賀海岸エリア」「蕪島エリア」と呼ばれている。個人的には天然芝生エリアと蕪島エリアが好みなので、この2か所を紹介する。

 芝生エリアは、一見するとゴルフ場の敷地と見紛うが、よく見るとあちこちに大岩が点在し、さらに海岸線には荒々しい岩礁帯が続いている。

芝生広場の下には荒々しい海岸線も存在

 司馬遼太郎は『街道をゆく』の「陸奥のみち」で、「どこかの天体から人がきて、地球の美しさを教えてやらねばならないはめになったとき、一番にこの種差海岸に案内してやろうと思った」と記している。確かに、天然の芝生と荒々しい海岸線のコントラストは美しいが、私であれば、やはり山陰海岸を一番に挙げるだろう。

北方向では一層、岩礁帯が目立つ

 そうは言っても、写真のような姿を目にしたときには、「ここでも良いかな」と思ってしまうことがなくはない。

 今回は触れていないが、芝生エリアの北側に伸びる2.3キロの白い砂浜も変化に富んだ種差海岸の素晴らしさを象徴するものであり、「鳴き砂」が存在することもその美しさの証左となっている。もっとも、第76回で紹介したように、白い砂浜と鳴き砂といえば、山陰の琴引浜にもあるのだが。

◎八戸・蕪島(かぶしま)~ウミネコの島

蕪嶋神社が見えてきた

 ウミネコの繁殖地としてよく知られている蕪島蕪嶋神社が見えてきた。この先は八戸港で、三陸海岸はここで終了となる。

どんな魚を狙っているのだろうか?

 近くの岩場では投げ釣りをしているオジサンがいた。おそらく、アイナメを狙っているのだろう。観光地の近くで竿を出すというのは結構、勇気がいることだが、そんなことはまったく気にならないのか、それとも釣果が上がるポイントなのかは定かではない。見ていた範囲では、前者である蓋然性が高かった。

観光客は結構、多かった

 私個人は蕪島そのものに興味があり、神社にはさほど関心を抱かなかったのだけれど、相当に多くの人が階段を上がって神社へ参拝しているようだった。

 蕪島はその名の通りにかつては島だったのだが、1942年に旧日本軍は2年がかりで工事を進めて陸続きとした。北の防衛には欠かすことのできない存在であると考えてのことだろう。その「お陰」もあり、島とは言いながらも歩いて簡単に上陸できるのである。

 蕪島とは奇妙な名前なので由来は諸説あるようだが、神島(かむしま)が蕪島に変化したという説が有力なようだ。

島はウミネコだらけ

 ウミネコの島というだけあって、至る所でその姿を見ることができる。毎年、3月上旬に飛来し、4月から産卵が始まり6月にはヒナがどんどん育ち、8月には旅立ちをする。3~4万羽のウミネコが暮らしているので、騒々しいこと、フンだらけであることがこの島の特徴である。

傘はウミネコの糞除けのため

 標高17m、面積1.8haの島の天辺には蕪嶋神社がある。1296年に江ノ島弁才天勧進して創建されたと言われている。宗像三女神を主神とし、海の守り神として信仰されてきた。

 弁才天は弁財天と表記されることがあるように、現在では商売繁盛の神として、かつて八戸藩主に子が授からなかったためにこの神社に祈願したところ男子が誕生したことから子授けの神としても崇められている。

 社殿は新しいが、これは2015年に全焼したものを5年がかりで再建し、2020年に落慶したものだからである。

 参詣者の多くは傘をさしているが、これは雨降りだったからではなく、ウミネコのフンから身を守るためで、鳥居の横に無料で借りられるビニール傘が備えられている。私は参拝はしないのでどうでも良いことなのだが、信仰心が篤い人なら傘は不要なのではないかと思われる。なぜなら、フンを浴びればウンが向くのではないのだろうか?

人前でも平気で巣作り

 周囲の草むらの中には至るところに営巣している姿があった。カメラを向けてもまったく動じることがなく、懸命に卵を温めていた。警戒心の強い海鳥のはずなのに大勢の人が訪れるこの地で、あたかも日常性の延長のごとくに人前で営巣する姿に、私は感銘を受けてしまった。

 そのため、この先数日は、トリのから揚げを食することを禁じることにした。