徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔112〕碓氷峠(めがね橋)、横川(釜めし)、そして妙義山(日本三大奇景)

さくらの里から妙義山を望む

碓氷峠のめがね橋を歩く

碓氷第三橋梁~通称めがね橋

 昨年の初夏には下仁田町の地質を調べるために群馬県に出掛けた。もっとも半分は神流川での鮎釣りを兼ねていたので、下仁田周辺と妙義山にしか出掛ける余裕はなかった。そこで今回は、もう少しじっくりと妙義山下仁田町を見物して、ついでに碓氷峠の「めがね橋」や横川界隈にも足を伸ばしてみた。

 碓氷峠は片峠であるために、トンネルを掘って峠越をすることはできない。そのため、鉄道には独特の「アプト式」が採用された。が、現在は横川駅から軽井沢駅の間の信越本線は廃止され、代わりに北陸新幹線が通っている。もっとも新幹線は高崎から大きく北方向に迂回しているため、横川・軽井沢間には鉄道はまったくない。一方、軽井沢から先は「しなの鉄道線」が長野県の篠ノ井駅まで通じていて、これが信越本線を代替している。

 という訳で、かつての信越本線の線路があった場所は鉄路が撤去され、ここには「アプトの道」という名の遊歩道が整備されている。その白眉が、写真の碓氷第三橋梁で、私はこの優雅な姿に触れるために、これまで何度も出掛けてきた。

 片峠を登り切れば軽井沢に出るのだけれど、そこは私の生活空間とは全く異にした場所なので、今まで、その町を何度も通過したことはある(浅間山に触れるため)ものの、町中を歩いたことは一度もない。また、今後も断じてないと思っている。

廃線となった線路跡は「アプトの道」として整備

 写真のめがね橋は標高603m地点にある。ちなみに、横川駅は387m、碓氷峠の頂点は960m、そして軽井沢駅は942mとなっている。ということは、めがね橋は横川駅からまだ約200mほど高いところにあるだけで、峠の頂点に達するにはあと400m近く登らなければならないのだ。

 それゆえ、私は碓氷峠に出掛けてきた訳ではなく、ただ、その途中にある橋梁見物にやって来たことに過ぎないのである。

 廃線跡は「アプトの道」として遊歩道に整備されているということはすでに触れた。この道は横川駅横にある「鉄道文化むら」の敷地から始まり、ここで取り上げためがね橋を通り過ぎ、1.4キロ先にある「旧熊ノ平駅」まで通じている。その駅は691m地点にあるので、峠まではまだ300m近くある。こうした急峻な道(路線)であるがゆえに、「アプト式」という独特の技術が用いられたのである。

 私はめがね橋近くの駐車スペースに車を置いて、まずは国道18号線(中山道)から橋を眺めた。ここの標高は580mで、橋の上は603mのところにある。比高は僅か23mなので、わたしにでも十分に上がれる高さである。とはいえ、この橋には何度か訪れているにも関わらず、上がってみたのは今回が初めてだった。

トンネル内を目指す

 この第三橋梁は、1891(明治24)年に着工され、93年に竣工している。先の写真からもわかる通り4連のアーチ橋で、約200万個ものレンガが使用されている。 

 橋の下31mのところには碓氷川が流れている。高所が苦手な私は、道路からこの華麗な姿の橋を見上げることは可能だが、橋上から真下の碓氷川を見下ろす勇気はなかった。

 先にも触れたように、ここは「アプトの道」ではもっとも人気の高い場所なのだが、わざわざ横川駅から4.7キロの道のりを歩いてここまで訪れる奇特な人は少ないだろう。ほとんどの人は国道に整備された駐車場に車を置いてここを訪ねる。

 また、碓氷峠はサイクリングでチャレンジする人も意外に多いので、軽井沢までの急坂の途中にあるこの場所を休憩地点のひとつとして選び、ついでに橋を見学するという人たちも結構、見掛けた。

結構明るいので安心して歩ける

 日中には散策者のためにトンネル内の電灯に火が入れられているため、思いのほか明るい。もっとも、こうした閉所は私の好むところではないので、早々に引き上げたのだが。

写真撮影を終えるとすぐに転進

 トンネル内からこうして外部を見ると、木々たちの緑が一層、華やいで見える。

橋の下には碓氷川が流れている

 以前に訪れたときには「落書き」が目立つのがかなり気になったが、今回はとくに目立つものはなかった。それでも、一部にはレンガを切り刻んで自分の名前を残したと思しきものは残っていた。こういう馬鹿者には是非とも、橋上から下を流れる碓氷川へのダイビングもチャレンジしてほしいと思う次第である。

中山道から妙義山を眺める

 第三橋梁から上は目指さず、次の目的地である横川駅に行くために坂道を下った。途中で、明日に訪れる予定の妙義山の姿が目に入ったので、路肩に車をとめて少しだけ眺めることにした。誠に奇妙奇天烈な山容を有する妙義山は、どの角度から見てもすぐにそれと分かる。

 なお、木々の間に見える道路は上信越自動車道で、軽井沢へ急ぐ人はこの道を西(写真でいえば右手)に進み、少し先にある碓氷軽井沢ICで下りて、それから北上する。

◎横川駅~峠の釜めし

横川駅名物~1300円也

 信越本線には2回乗った記憶がある。当然のことながら、行きも帰りも横川駅名物『峠の釜めし』を購入した。もちろん、お土産として家に持ち帰った。中身は空の陶器の入れ物だけだったけれど。

 その後、何度かは国道18号線を利用したことがあるが、横川駅付近の売店で購入したこともあった。そのころは懐具合が多少、暖かったこともあったので、今度は中身の入ったものをお土産として購入した。

 今回は、宿での夕食にするつもりで購入した。税込み1300円は中身からするとやや高額のような気もするが、「名物に旨いものなし」の言葉がある以上に「名物に安いものなし」を無数に経験している私としては、横川に立ち寄った記憶のひとつに加えるために敢えて購入した次第であった。

 まあ、料金の中には高そうな容器代が含まれていることだし、味もまあ合格点は付けてもいいかも。 

国道18号線沿いにある「おきのや横川店」

 国道18号線を使って碓氷峠や軽井沢に向かう人で、先を急ぐ人は松井田妙義ICから上信越自動車道に移って峠までの難所をカットするだろう。が、のんびりと峠の麓にある坂本宿、そしてめがね橋など、碓氷峠の景観を楽しみながら軽井沢に向かう人は中山道を使う。その道は横川駅のすぐ南側を通っているが、わざわざ駅に立ち寄ってまで「釜めし」を購入する人はそれほど多くないかもしれない。

 そのため、「おぎのや」は中山道沿いに写真にある大きな店を構え、数多くの旅人を受け入れられるように準備している。ここには、釜めしだけでなく、ラーメン、うどん、カフェなどもあり、さらに地元の食材(有名なのは下仁田こんにゃく)などの販売もおこなっている。

 さらに、団体客も受け入れられるように、一度に600人を収容できるレストランまで備えているのだ。

 こうした場所は便利ではあるが旅情は感じられないので、私は駐車場だけを利用させてもらって、横川駅周辺を少しだけ散策し、釜めしは駅の北側にある本店で購入することにした。

横川駅

 横川駅は国道からは80mほど離れているし、道路よりも少し高い場所にあるため、駅の全貌に触れるためには少しだけ歩く必要があった。さらに、改札口は国道側にはないので、こちら側では上にある写真撮影だけをおこない、北側に移動した。

 横川駅は終点なので、踏切や跨線橋を渡る必要はなく、ただ、少しだけ西に進んで回り込めば、改札口のある北側に出ることができる。

横川駅舎と「おぎのや横川駅店」

 駅舎の西端にも釜めし店があったが、ここのメインは立ち食いうどんのようで釜めしはすでに売り切れだとのことだった。

駅舎とD51とアプト式

 駅舎入口の隣には、日本全国で活躍したD51の写真と、険しい碓氷峠を上るために造られた「アプト式」の車輪が置かれていた。

おぎのや本店と購入した釜めし

 駅前に「おきのや」の本店があった。電車の利用客は別として、わざわざこちら側までやってきて釜めしを購入する人は居ないようで、私以外には誰も(店の人は別にして)いなかった。

 信越本線が軽井沢まで通じていた頃にはここの本店が本拠地となって「峠の釜めし」を製造し、列車が到着すると待ち構えていた売り子たちが釜めしをもって、車窓から購入しようとする人、ホームに降りて購入しようとする人たちに売りさばいていたのである。この風景は、信越本線の一大名物となっており、テレビなどにもよく取り上げられていた。

 私も、その売り子から釜めしを購入したことが一度だけある。釜めしはズシリと重く、食い意地の張っていた私はそのことに欣喜雀躍したが、いざ中を覗いてみると、重さの多くは器のものであり、中身はそれほどの量はなかった。

 先に挙げた釜めしはその日の夕食用に購入したもので、食が細くなった私には丁度良い量であった。器は記念のために持ち帰ったが、戸棚に置いたままで、帰ってからは一度もその姿を見てはいない。

碓氷峠鉄道文化むら

横川駅の隣にある鉄道博物館

 横川駅の西側には広大な敷地を有する「横川運転区」があったが、横川・軽井沢間が廃線になったことから、その敷地に造られたのが、写真の「碓氷峠鉄道文化むら」(愛称・ポッポタウン)である。

 かつて碓氷峠で活躍していた車両だけでなく、全国から集めた車両が30以上も展示され、さらに大きなジオラマや、碓氷峠を越えた鉄道の歴史資料などを集めた「鉄道資料館」が併設されており、鉄道ファンには見どころが数多くある鉄道博物館である。

 私は小学生の頃、何度か神田駅近くにあった「交通博物館」に出掛け、巨大なジオラマをよだれを垂らしながら食い入るように見つめ、将来は新幹線の運ちゃんになるということを心に誓ったものだった。

 ただ、多摩のサルとして、府中の森や多摩川での遊びが中心だったため、鉄道に対する思いは消えなかったけれど、次第に別の道を歩むようになってしまった。思えば、どこかの動物園にはサルが運転するおもちゃの機関車があったような気がするが。

 今回は、少し時間があったために、交通博物館ならぬ鉄道文化むらに立ち寄ることを事前に決めていた。少年時代の夢はほぼすっかり消え去っていたいたものの、ここでいろいろな車両を目にしたとき、幼いころの思い出が少しだけ蘇った。

かつて信越線を走っていた189系特急あさま

 信越線は軽井沢や浅間山の麓を通るため、特急には「あさま号」というものがあった。ただし、急勾配の碓氷峠を自力で登ることはできないため、下の写真にある「EF63」という電気機関車の力を借りる必要があった。

碓氷峠越えのための直流電気機関車

  このEF63には粘着運行方式という装置が取り付けられている。ただの鉄輪ではレールとの摩擦力が小さいので、傾斜の強い場所では車輪が空回りして推進力を得ることができない。私たちでも、雨の日に電車に乗るとよく気が付くのだが、駅から離れるとき車輪がスリップしているような状態になり、なんとなくギクシャクした動きを感じることがある。平坦な場所でも鉄輪は必ず、少しは空回りしながら走っているのだが、坂になるとこの空回りが大きくなるので、通常は25パーミルパーミル、‰、千分率)、つまり1000mで25m登る坂が限度とされている。

 ただし、実際にはその限度は安全率を見積もっており、実際には、連続勾配では35‰、短い区間では38‰とJRは考えている。もっとも、場所によっては40~50‰の鉄路が日本にもあるそうだ。

 ところで、碓氷峠では最大66.7‰の場所があったために、ドイツで開発された「アプト式」を採用していたが、これでは最高時速でも9.8キロしか出せなかったため、車輪に電磁石を備えて車輪をレールに吸い付かせる粘着運行方式を採用した。この結果、横川から軽井沢まで80分掛かっていたものが、17分にまで短縮できたのである。

 この粘着運行方式を備えた電気機関車が写真の車両で、上り坂の時は「特急あさま」などの列車の後ろに連結して、車両を押し上げたのだった。また、下り坂の時は列車の前に連結して、後方の車両が滑り落ちるのを防いだのだった。

 写真の粘着運行方式を備えた電気機関車は横川・軽井沢間専用のものだったので、「能登」まで行くことはない。これは、今年の正月に発生した大地震によって大きな被害を受けた能登半島の人々を励ますために、あえてこのプレートを取り付けたのであろう。 

数々の車両が青空展示

 先に触れたように、この公園には数多くの車両が展示してあるが、大半は全国各地から集めたものなので、横川や信越線とはまったく関わりのないものである。

 写真の蒸気機関車D51は、荒川の長瀞でSLホテルとして利用されたものを移設したとのことだ。蒸気機関車といえばデゴイチが代名詞のような存在なので、ここに展示されるのは一般者向けには妥当なのかも。

左は関門トンネル用に用いられた電気機関車

 左側のEF30は関門トンネル専用に用いられたもの。これは山陽本線鹿児島本線との電化方式が異なるため、トンネル専用の機関車が必要となった。1200トンもの貨物列車が牽引でき、かつ22‰の勾配を乗り切る能力をもつものとして開発された。

 右側のEF58は旅客列車、とりわけ特急列車を牽引するために開発された。前面が流線形をしているため、それまでの武骨な機関車とは異なる形をしている。そのことから鉄道ファンには人気を博し、私が少年時代にHOゲージの模型に嵌っていたときに、この機関車(模型の)を購入した記憶がある。

昭和7年に製造された電気機関車(手前側)

 写真のEF53は旅客車を牽引するために1932(昭和7)年に製造が始まった。当初は東海道本線に利用され、のちには高崎線に移動された。

古い車両を見るだけで楽しい

 展示車両の多くには解説板が用意されている。その車両を眺めつつ解説を読み、どこで活躍していたのかを知ると、その地域の風景が脳裏に浮かんでくる。私の旅行は99%が自動車になったけれど、日本全国を回っているので、各都道府県の情景はすべて記憶の中に存在している。その旅先で、少しだけローカル線に乗車する。そのことは本ブログでも何度か紹介している。

アプト式鉄道を再現

 碓氷峠を乗り越えるために、アプト式のシステムが採用されていたことはすでに述べた。現在では大井川鉄道にのみ残っている方式だが、我々が通常「アプト式」と聞くと、すぐに思い浮かべるのは碓氷峠のもので、1893(明治26)年に採用された。

 写真のように、レールの間に3枚のラックレールを敷き、車輪に付けたピニオンギアを嚙合わせることで、66.7‰の急勾配を機関車が登って(下って)ゆくのである。 当初はドイツから輸入したアプト式蒸気機関車を輸入したが、のちに国産化した。

 なお、アプト式とは1882年にドイツの鉄道技師のカールローマン・アプト(abt)が開発したことからそう呼ばれる。かつてはローマ字読みで「アブト」と言われてきたが、のちにドイツ語の発音に近い「アプト」になった。とはいえ、私は今でも「アブト」と発音してしまうことが多い。これは、この方式を知った時には「アブト」と呼ばれていたからである。

 急勾配の山坂道を進む鉄道の方式としては、このほかに「スイッチバック式」「ループ式」などがある。

HOゲージの鉄道模型

 鉄道資料館にも入ってみた。資料を調べるためではなく、写真にあるHOゲージの鉄道模型レイアウトを見物するためである。いかにも群馬県らしい風景を造り出し、その中にいろいろな模型車両が走る姿を見るのはとても楽しい体験であった。

 先に触れたように、神田にあった交通博物館のレイアウトはさらに巨大であって、当時に走り始めた東海道新幹線の模型も存在した。新幹線は開通まもなく親に連れられて東京・京都間を乗車していた。

 それゆえ、私の子供時代の夢は新幹線の運ちゃんだった。けれど、日本の鉄道は時間を厳格に守る必要があるため、私は不適格者であることを知り、その夢は断念し、自由で気楽そうな教員になったものの、やはりそれなりに時間に縛られることから、最終的には漁師(実際は釣り師)の道を選んだのだが。

 本心を言えば、私はサルになりたかった

◎松井田城跡を少しだけ訪ねる

無人の案内所

 松井田城は松井田宿の北方の尾根(標高413m)にあって、北は東山道、南は中山道が通り、碓氷峠に抜けるルートの要衝に位置する。東西に1.5キロ、南北に1キロ、総面積75ヘクタールの広さを有する山城である。

 築城年は不明だが、1560年頃に地元の豪族であった安中氏が整備したとされているが、その後に城主は変遷し、最終的には小田原北条氏の氏直の配下であった大道寺政繁が主となった。

土塁

 尾根を城郭化した山城のため、目立った建造物は存在しないが、現在でも土塁や堀切、虎口、石垣などが残っている。麓から比高は130mもあるため、見学するには相当の覚悟がいる。

堀切

 河越(現在では川越)城主であった大道寺政繁(1533~90)は、1582年、信長を失った織田勢を率いた滝川一益神流川の戦いで、北条氏直・氏邦の下で勲功をあげ、さらに北条氏が家康勢と和解したことから、関東の要衝のひとつである碓氷峠の守りを固めるために、松井田城主も兼任することになった。

 ちなみに、関東と言えば「関所の東側」という意味になるが、この関所というのは箱根と碓氷峠を指すと考えられている。

クマに注意

 しかし、小田原北条氏は豊臣秀吉と対立を深め、ついに1590年、秀吉の「小田原征伐」が始まった。秀吉率いる本隊は東海道を東に下ったが、前田利家上杉景勝、真田正幸率いる北国支隊3万5千の軍勢は中山道を進み、遂に碓氷峠で北条側である大道寺政繁との決戦が始まった。

 大道寺側の勢力は約3000、一方の北国支隊は35000、これでは大道寺側に地の利があるとしても勝ち目はなく、約一か月は耐えたものの降伏のやむなきに至った。

 この戦いの後、大道寺は北国支隊側に付き、その先導役を務めることになった。その結果、忍城、武蔵松山城鉢形城が攻め落とされ、ついには武蔵国の要衝である八王子城まで攻め入られ、僅か一日で陥落してしまった。

 難攻不落と考えられていた八王子城だったが、大道寺が搦め手がこの城の唯一の弱点であることを教えたことが、短時間で落城したと考えられている。八王子城好きの私としては、この一点をもって、大道寺政繁を認めることはできない。

 なお、以上の流れは、本ブログでは第40回、第66回にやや詳しく紹介しているので、関心のある方は参照していただきたい。

これを叩きながら歩くそうな

 「裏切者」の居城であった松井田城だが、この日は安中市内のビジネスホテルに入るにはまだ少し早いということもあって、山道を登って(もちろん車で)松井田城見学を試みた。

地蜂も多いとのこと

 しかし写真に挙げたように、山道はすでに薄暗くなっており、おまけに「熊」「地蜂」「ヤマヒル」に注意の張り紙に怯えた私は、案内小屋のすぐ近くにあった土塁や堀切だけを見て、早々に退散することにした。

おまけに「ヤマヒル」もいっぱい

ヒル撃退用の濃塩水も準備

 ヤマヒルには「濃塩水」が効くとのことだが、いつ飛び掛かられるか分からない状態では、とても対応しきれない。ましてや地蜂の巣は至るところにありそうだし、熊との対面だって十分に考えられる。

 広大な松井田城を見学するためには、用意を周到におこない、かなりの覚悟を持って荒れた道を進まなければならない。

 臆病な私には、滝山城八王子城、あるいは鉢形城で十分に満足できる。

妙義山~日本三大奇景のひとつ

畑の脇から山を望む

  山に登るのは苦手だが、山を見るのは大好きだ。地元の府中市から見える丹沢山系、大菩薩連嶺、秩父山系を見ているだけでも飽きることはない。さすがに多摩丘陵浅間山(せんげんやま)だけでは満足できないが。

 もちろん、標高の高い富士山や日本アルプスも良いが、今回出掛けた妙義山は、標高こそ高くはないものの、その独特な山容は、一度見たら決して忘れることができないほど特異な形状をしているおり、私がもっとも好む山のひとつである。大菩薩嶺は私の心に安らぎを与えるが、妙義山は胸躍らせるものがあるのだ。

「大文字」がよく見えた

 妙義山にはピークがいくつもあるが、もっともよく知られているのは白雲山と金洞山であろうか。私は松井田側から県道191号(妙義山線)を進み、妙義山の南麓を走る県道196号線(上小坂四ツ妙義線)を南西に進んだ。そのため、まずは白雲山系が目に入り、その中腹にある「大文字」が目にとまった。

 「大文字」はここが修験道の山であったことから「妙義大権現」を省略して「大」の字を掲げたもの。妙義神社にお参りできない人のために大の字を山の中腹に掲げ、中山道からその大の字に向かって手を合わせて参拝できるようにしたものらしい。

妙義神社に参詣

 妙義神社は537年に創建されたとされている。古くは波己曽神社と呼ばれ、のちに妙義神社と改められた。

 古くより朝野の崇敬ことに篤く、開運、商売繁盛の神、火防の神、学業児童の神、縁結びの神、農耕養蚕の神として知られていたという。  

見事な総門

 その一方で、山岳信仰の山として修験者の修行の場ともなっていたようだ。かつては神仏習合が当たり前だったので、神も仏も同居していたのかもしれない。

 神社には上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺があり、写真の総門は、石塔寺の仁王門だったとのことだ。

総門から唐門までは約200段ある。

 総門からは長い階段が続く。といっても165段なので、私にも登れないことはない。そこには随神門があり、そして今度は短い階段があって写真の唐門にたどり着く。

極めて美しい拝殿

 唐門から中に入ると、そこには煌びやかな拝殿があり、その後ろに幣殿、本殿が鎮座している。例によって私は参拝はしないので、ただその美しい姿を眺めただけであった。

旧本殿

 周囲を散策した後、登ってきた階段とは異なる道を通って下った。総門と唐門との間には銅鳥居があった。その近くに写真の旧本殿があった。現在の本殿は先に挙げた拝殿の裏手に造られているため、写真の旧本殿は古の名を取って波己曽社と呼ばれている。

誠に奇異なる山容

 妙義神社を離れ、県道を南西に進み、今度は誠に奇異なる姿をした妙義の山々をじっくりと観察することにした。

 写真は金洞山と総称されているが、一つ一つのピークに名前が付けられている。このピークを縦走するのが登山家にとって「憧れ」のひとつになっているそうだが、転落事故がとても多く、登山の難易度は最上級クラスとされているそうだ。

 妙義山榛名山赤城山とならんで「上毛三山」と称されているが、榛名や赤城も見る方向によっては実に「へんてこ」な形をしているが、それでも妙義山の奇抜さには遥かに及ばない。

 「日本三大なんとか」というのはいろいろあるが、ここ妙義山は「日本三大奇景」のひとつとされている。あとの二つは、大分県中津市の「耶馬渓」、香川県小豆島の「寒霞渓」である。確かにこの二つも奇抜ではあるが、私個人としては妙義山がその第一だと思っている。

さくらの里から奇岩群を眺める

 「さくらの里」では八重桜が満開になっていたので立ち寄ってみた。ここではボリュームのある「カンザン」という種類の八重桜が多く、一つ一つの花がとても大きいので、ソメイヨシノとはまったく異なる景観を披歴してくれる。

 写真のように、奇岩とサクラのコラボはこの上もない見応えで、他の場所で同じような景色を見ることはまず不可能に近いだろうと思われた。

あちらに見える荒船山は平担

 県道に出てみると、サクラの向こうに平坦なピークをもつ荒船山が見えた。妙義山と同じ時期にできた山にも関わらず、あちらはギザギザした山容ではない点が興味深い。

 この辺りは600~500万年ほど前に陸地化して、500~200万年前に火山活動によって一部が陥没してカルデラ化したと考えられている。

 岩質は凝灰角礫岩が中心で、一部に砂質の凝灰岩や、火成岩である安山岩が含まれている。凝灰岩が風化しやすいために妙義山のような不思議な形をした山を生み出したが、その一方で、天辺を風化しにくい安山岩が偶然に乗ったために、荒船山のような形を造ったのだろう。本ブログでは第82回に四国の屋島を紹介したが、荒船山の形はそれと同じ成り立ちをしている。地質学の世界では、これを「メサ」と呼んでいる。

大國神社の鳥居

 白雲山系から西に移動し、今度は金洞山系を眺めることにした。もちろん、「さくらの里」からの眺めも金洞山系のものだが、中之嶽神社前の駐車場からはその姿がよりはっきり見えるだけでなく、そこには登山道があって、私のようなひ弱な人間でも少しだけだが登山気分を味わうことができるのだ。

日本一大きい大黒天

 中之嶽神社の登るために、まずは麓にある「大國神社」の参道を歩くことになる。その途中に、写真のような金ぴかの、しかも大型の大黒天が出迎えてくれる。いささか下品に見えなくもないが、かの奈良の大仏だってもともとは金ぴかだったので、神仏はきっと派手な色を好むのかも知れない。

 高さ20m、重さ8.5トンもあるだけでなく、手には小槌ではなく大型の剣を持っている。顔は笑っているが、実はとても怖そうに見える。病、厄、悪性を祓ってくれるとのことだが、あまりお近づきにはなりたくないと思った。 

大國神社

 わが府中には大國魂神社があるが、こちらは大國神社である。といって魂が抜けているわけではないだろうが。言い伝えによれば、藤原冬嗣空海が中之嶽神社に登獄した際に、大国主命を奉斎せよと命じたことから、麓にこの神社が建立されたとのことである。本当に空海がここまでやって来たかどうかは不明だが。

中之嶽神社を仰ぎ見る

 中之嶽神社までは、大國神社横にある急な階段を上る必要があった。始めは止めようかとも思ったが、階段の比高は29.2m(大國神社の標高は723.6m、中之嶽神社は752.8m)なので、手すりを掴みながらゆっくり上がってゆけば何とかなるだろうと思い、神頼みではなく自分頼みでごく低速で上ってみた。

岩の一部を削って建てられた社殿

 いざ上ってみると案外、楽なものであった。ここは金洞山登山道の出発点にもなっており、結構、道が整備されているので少しだけ歩いてみることにした。小さな沢が近くにあってなかなか清々しい気分になれた。

 しかし、ここは最上級の難度で、滑落死する人が絶えない場所ということなので、怪我をしないうちにと、早々に引き上げた。

 写真のように、神社の建物はローソクのような形をしている轟岩を少しくり抜いた形で建造されている。いかにも、奇岩だらけの山に相応しい造りをしている神社であった。

 私の知人(20歳ぐらい若い)が今度、妙義山登山にチャレンジするそうだが、はたして無事に帰還できるだろうか?個人的には止めたほうがいいと思うのだが、何ごとも理屈通りに行動できないのが人間の性なのである。