徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔05〕徘徊老人~沼津の海岸散歩する

ここに川終わり、海始まる

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川の左岸から河口方向を見る

 狩野川は、私に鮎の友釣りの楽しさと難しさ、奥深さを教えてくれた。鮎釣りは主に中流域で行うので、沼津市はいつも通過し、伊豆の国市の大仁から伊豆市の嵯峨沢橋の間で竿を出す。今回は、鮎釣りはまだ解禁されていないので通過はせず、沼津市の海岸線をあちこち訪ねて歩いてみた。

 まず、狩野川の河口付近を徘徊した。ここで川は終わり、海に注ぐ。「ここに川終わり、海始まる」は私の造語ではあるが、実を言えば、ポルトガルのロカ岬にある石碑の「ここに地終わり、海始まる」からのパクリだ。ロカ岬はユーラシア大陸の最西端にあるので、確かに「地終わる」は妥当なのだろう。さらに言えば、実際にロカ岬に行ったわけではなく、宮本輝という作家の小説の題名からこの言葉を知っただけなのだ。

 すべての川が海に注ぐわけではない。三日月湖のように、川が途中で消失したり、渇水期の大井川のように、流れが痩せて河口まで届かず、あちこちでプール状になってしまったりすることもある。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」ではなく、「濡れずに渡れる大井川」ということも夏にはよくあるのだ。

 狩野川天城山から一気に駆け下るため、下流域に大量の土砂を吐き出す。また、支流も多く、大見川(鮎釣り好きが喜ぶ)や柿田川(清流好きが喜ぶ)、黄瀬川(歴史好き、忍者好きが喜ぶ)などもあちこちから水を集めて狩野川に注いでいる。川からの土砂は平地を形成する一方、氾濫の危険性をいつもその沖積平野にもたらす。

沼津市の名前を勝手に推理する

 地名の由来を知るのは楽しい。ただすぐに調べるのでは面白くなく、まずは字面から勝手に推理してみることにしている。国立市大田区更埴市のように、字面からではまったく見当違いの推理になることもあるが、これはこれでいいのだ。

 この点、沼津はほぼ、字面から判断しても大筋は正しい答えが出せそうだ。さらに、今回のように沼津のあちこちを歩いてみると、その地形からも多くのヒントを得ることができる。

 「沼」は、上記のように狩野川の氾濫が下流域、つまり現在の沼津市街に湿地帯を形成したことから予想できる。また、富士山が蓄えた膨大な量の地下水が、扇状地の端で湧水となって地上に溢れ出ることも沼を形成する要因のひとつと考えられる。一方で、箱根連山からの火山灰や愛鷹山の山体崩壊などが氾濫原を埋めたので、平地のすべてに沼があるわけではないのも確かではあるが。

 「津」は簡単。津は狭義には港を表す。駿河湾は陸地を離れるとすぐに水深を増すので、港には格好だ。また、駿河湾の奥に位置するので、日和見港としても適地となる。また、水深のある海は、豊富かつ特有の海産物をもたらしてくれるので、漁業も盛んになる。このため、沼津のあちこちに良港が形成されている。

千本松原には何本の松があるのだろうか?

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松原は高い護岸で守られている

 千本松原は沼津市から富士市まで10キロほど続く。松は防砂林や防風林としてよく用いられるので、日本各地に「~の松原」の名がある。同じ静岡県には「三保の松原」があり、そっちは「日本三大松原」のひとつに数えられている。三保には羽衣伝説があるので知名度が高いのは致し方ないが、規模ではこっちの松原のほうが断然大きい。ただ、こちらは写真のようにかなり高い護岸が海岸との間にあるので、景観は劣るかも。 

 開発のため、この松原を伐採する計画が持ち上がったとき、先頭に立ってこれを阻止したのが、沼津の海をこよなく愛し、この地で生涯を終えた歌人若山牧水である。牧水は、酒と旅をこよなく愛した。肝硬変で43年で人生を終えたのは酒のせいだったのだろう。彼の旅は多くの地に足跡を残している。私自身、旅は大好きなのだが、いたる場所で、”牧水ゆかりの地”であることを証明するかのような碑を見ると、「こ奴、こんなところにも出没したのか」と感心するやら呆れるやら、だ。

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 牧水は10代のときから歌人として名をなしていたのでその作品は多いが、私が覚えているのはこのふたつの歌しかない。”幾山河”の方は、旅好きならばすぐに共感できるし自分でも似た作品は浮かびそうな気もするが、”白鳥(しらとりと読んでください)”の方は、天才的という他はない。海を眺めていると、たくさんの白鳥が飛ぶ場面によく遭遇するが、空の青が透き通れば通るほど、海の群青が濃ければ濃いほど、白鳥の存在は風景から浮き出てしまう。そんなとき、いつも「あれはオレなんだなぁ」と、心の中で牧水のこの歌をひとり語りしている。

 千本松原は「千本浜」ともいわれ、「白砂清松100選」に選ばれている。試しに100選を調べてみたら、私は75カ所、目にしたことがあると分かった。しかし、その風景を記憶に残しているものは意外に少ない、ということにむしろ驚いた。

 清松はともかく、白砂はここ千本松原には妥当しなくなっている。この海岸の砂や砂利は、富士川が海に送り出したものが海流によって東側に運ばれて狩野川河口までの一帯に蓄積されたものである。が、駿河湾沿岸は海流の影響が強いためか、今では砂は少なく、小砂利や中砂利ばかりとなっている。さらにその砂利ですら潮の影響を受けて量が減少している。「玉石を持ち帰らないでください」という注意書きを出さなければならないほどの減少なのだ。もちろん、県では海岸線を養生するため、適宜、小砂利を運び込んでいるようだ。

 一方、松の数は開発によって一部「虫食い」状態にはなっているものの、まだ30万本くらいはあるそうなので、「清松」は維持されている。

 西伊豆の一部も沼津市

 沼津市というと東海道にあると考えそうだが、行政区域はかなり広く、伊豆半島の西北部や西伊豆の一部も市町村合併によって沼津市域となっている。伊豆半島の成り立ちを語り始めると話の終わりが見えてこないので今回は避けるが、とにかく火山とプレートの移動が作り出した半島なので、海岸線はすこぶる変化に富んでいる。この変化が港を生み、また釣り場を生んでいる。

 北向きの海岸線には釣りに適した堤防が多かったのだが、釣り人の”マナーの良さ”が「釣り禁止」区域の爆発的増殖をもたらしたため、竿の出せる堤防は限定的となっているのがとても残念だ。

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木負(きしょう)堤防はイカ釣り師でいっぱい

 三津(みと)シーパラダイスを過ぎ、県道17号線を西へ向かうと、長井崎、赤崎という連続した岬に出会う。それまでも江浦湾、内浦湾と複雑な海岸線を通ってきているので、この辺りから、ここがかつて海底の火山群であったことが想像できる。

 赤崎の先端部から対岸の江浦湾方向に突き出ているのが、写真の木負堤防である。長井崎や赤崎辺りは木負という集落名を持っている。木負は「きしょう」と読むが、これは「スルメ」を「アタリメ」、「閉会」を「お開き」というがごとくなのだろう。言葉は言霊なのだ。

 私は、この堤防では釣りをしたことはないが、のぞき見は何度となくしている。かつては投げ釣り(シロギスなど底生魚を狙う)やウキ釣り(メジナクロダイなど宙層にも移動する魚を狙う)の釣り師が大半だったのだが、現在は、イカ(特にアオリイカ)を狙う人が圧倒的に多い。正にイカ様様なのである。

 対岸(内浦湾方向)の山々を見ても、その様相はやはり火山群か、プレートの移動が生んだ大地の皺か、なのであろう。

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足保港堤防。北向きの釣り場では一番人気

 西浦と言えば”寿太郎みかん”で有名だが、釣り場としては、足保港にある堤防がこの一帯では一番人気がある。とくにカゴ釣り(大きなウキと餌カゴを付けて遠投する)が盛んで、底近くを遊泳するマダイを狙う。港の前方には養殖イケスがあり、常時、餌が投入されているので、天然のマダイもそのおこぼれを頂戴しようと集まる。そんな欲張りというか横着というか、そんな魚たちを釣り上げようとしてイケスの周辺に仕掛けを投入するのだ。しかし、今春はどの海でも低水温に悩まされているので魚の動きは良くなく、どの釣り人に聞いても「全然ダメ」という返答ばかり。

 この港は景色も”いかにも静岡”というもので、対岸には沼津市が誇る愛鷹山、その向こうには頭を雲の上に出している富士山 が見える。この日(18日木曜日)は昼近くからどんどん雲が湧いてきたので、天辺が少し覗けるだけだったが。

海流が造った不思議な岬、大瀬崎

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すっかりダイビングスポットになってしまった大瀬崎

 大瀬崎(おせざき)は、伊豆半島の西北端にあって、対岸の沼津市街方向に突き出ている。南伊豆の石廊崎近くには同じ「大瀬崎」(こちらは”おおせざき”と読む)があり、磯釣りファンには「おおせざき」のほうが馴染み深い。が、近年、といってもかなり前からではあるが、「おせざき」は絶好のダイビングスポットとして知られるようになり、今では大瀬崎といえば「おせざき」を指すのが当たり前になっている。

 海の透明度はかなり高く、大瀬崎海水浴場は水質が日本一になったこともある。岬に抱かれている浜なので、波もかなり穏やか。それでいて、岸から少し離れると水深は相当あるので、初心者からベテランまでが安心して水中散歩を楽しめるそうだ。

 外海側は潮がかなり速いので、十分に訓練されたダイバーでないと危ないらしい。が、他のスポットでは船で沖に出てから海に入るというのが通常なのだが、ここでは浜からすぐに好スポットへ行けるというのが魅力とのこと。

 15年ほど前は、よくこの外側のゴロタ石浜で半夜釣りに出掛けた。15~20時頃まで竿を出し、10~15mほど沖にあるカケアガリ(水深が段々と増す斜面)を狙うのだ。支度が整い、これからが釣り本番という時間になるとダイバーが海から上がってくる。他の場所では、ダイバーに「魚はいますか」と聞くと、「この辺にはあまりいない」という返事が常なのだが、ここだけは必ず「たくさんいますよ」という答えが返ってくる。それほど魚影が濃いのだ。釣れないことには変わりはないのだけれど。

 大瀬崎は、海流が造った岬だ。元々、先端部にある部分は離れ小島(琵琶島といったらしい)だった。それが、海流が南から西伊豆の海岸に沿って砂を運び、その砂が伸びて (これを砂嘴”さし”という)小島との間をつなぎ岬を形成した。

 黒潮は日本列島に沿って南から北東方向に進むのだが、伊豆半島の先端部に当たった一部の流れは、分枝流となって伊豆半島の西側を北上する。この流れが、大瀬崎では北方向に砂嘴を形成したのである。

 岬の先端部(小島だった場所)には「神池」がある。この池は不思議なことに純淡水なのである。池には淡水魚がたくさん泳いでいる。この池の形成理由は不明だそうだが、湧水以外は考えられないだろう。入り口には元気そうなオバサンが受付(入場料100円)をやっているが、もしかしたら、このオバサンが毎日、バケツで水道の水を運んでいるのかもしれないが。

 戸田港~カニイカと夕照と

  戸田(へだ)地区は沼津市に入る。2005年以前は戸田村だったのが沼津に編入された。戸田の南は温泉と金山で有名な土肥である。沼津市の行政区域は西伊豆のかなりの部分まで伸びているのだ。

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タカアシガニは世界最大のカニ

 戸田といえば「タカアシガニ」が有名だ。最大幅は4m近くになるというから超大型のカニである。食用とされるのはそれほど大きくはないが、それでもズワイガニなどとは比較にならないぐらい大きい。深海性のカニなのだが、駿河湾は水深があるので、このカニが戸田ではたくさん水揚げされたのだ。大きい割には足が細く、味もやや水っぽいと最初は敬遠されたそうだが、食してみると案外おいしい。

 最初に食べたのは25年ほど前だが、値段の割にはおいしくないと聞いていたので注文をためらったのだが、同行の釣り名人が”意外においしいよ”というので、一番安いやつを頼んだ。いざ食べてみると相当においしかったので、これなら中ぐらいのを頼むべきだったと後悔した。

 近年は不漁とのことで、何軒かある食事処の水槽にも姿はほとんど見受けられなかった。店に入れば中にある水槽で実物が見られるのだが、今回は財布の中身と相談した結果、店の看板の模造物で我慢した。

 

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港内の突堤で釣り上げられた大きなイカ

 戸田港も他の港と同様に複雑な地形を有している。また、港の出口は大瀬崎同様の形をした砂嘴で大きくふさがれている。このため、港内はとても波静かなので、かなり大きな船が停泊している。40年以上も前、この港を初めて訪れたときはその透明度の高さに感激したものだが、その後に訪れるごとに透明性が減じていくのは寂しいものだ。

 波静かな港内では釣りが盛ん。水深のある港内には小魚が豊富なためか、大きなブリがよく入り込んでくるそうで、足保港で見たようなカゴ釣り仕掛けで、このブリやマダイといった魚を狙っている。

 港を大きくふさいでいる御浜岬にある諸口神社前の突堤では、ひとりの釣り人がイカを狙って竿を出していた。今の時期は大型のアオリイカが狙えるとのこと。アオリイカ(バショウイカともミズイカとも)は大型になり、イカとしてはもっとも美味とされている。釣り人の特権として何度も食べたことがあるが、この上なく上品な味わいだ。

 この釣り人の竿は大きく曲がっていた。活きたアジをハリに掛けて泳がせ、そのアジをイカが抱き着く。通常の釣りとは異なり、イカをハリに掛けるのではなく、アジに抱き着いたイカを少しずつ寄せてくるのである。このため、強引に糸を巻けばイカはアジを離し、糸を緩めすぎてもやはり離す。常に糸にテンションを掛けながらゆっくりと寄せてくるのである。

 私には絶対に真似のできないほど慎重に寄せてきた結果、見事に取り込んだのが3キロ近くある大型のアオリイカだった。海面近くまで来るとイカは最後の抵抗を示すように墨を何度も吐く。このときまではヤエンといってハリの付いた仕掛けを送り込んであるので、少々の抵抗ではイカは離れることはない。

 私は、その大きなイカを目の当たりにしたとき、感嘆の言葉を発するのではなく、ヨダレを漏らした。

戸田の夕照

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港内から御浜岬方向を望む

  18日は次の日の釣りに備え、戸田港にあるビジネス旅館に泊まった。部屋の窓からは沈みゆく夕日が見えたので、カメラを持って外に出てみた。下層に厚い雲が垂れ込めていたので金色に輝く海をとらえることはできなかったが、夕照を浴びる船と海とをなんとか押さえることはできた。

 イカと夕照は捕らえられたので、あとはカニだ。当然、夕食はタカアシガニという成り行きになるはずなのだが、近くにある漁協のス―パーのパンとおにぎりで、腹の虫を抑えることにした。

水門とメビウスの輪

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展望水門とメビウス

 沼津港の出入り口には津波の侵入と、避難所として役割を果たすための大型展望水門”びゅうお”がそびえ立っている。展望台の位置は30mの高さがあるので、避難所としての役割は十分に果たせそうだ。普段は観光客相手の展望台として公開されている。夜間にはライトアップもされるそうだ。

 水門は「みなと」とも読み、この文字だけで港を表すこともある。沼津市場内から歩いて水門を望んでいたとき、台船の上にあった小舟の名が「メビウスⅢ」であり、その横に「メビウスの輪」が描かれていることに気が付いた。

 舟は台船の上にあってはその役割は果たさず、海の上に浮かんでこその舟なのである。舟が水門を超え、海に出たとき初めて舟は舟としての命が始まる。この限り、水門は海への出口であり海への入口である。水門は出口であると同時に入口として存在している。

 メビウス号にとって、水門は「メビウスの輪」の表なのか裏なのかは誰にも分からない。もちろん、メビウス号自身にとっても。

〔04〕徘徊老人・国分寺崖線を歩く

崖線は私の青春の前に、いつも立ちはだかっていた

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国分寺跡から桜の向こうにある国分寺崖線の森を望む

 今ではとても信じられないことだが、半世紀ほど前の私にも青春時代があった。

 16歳のころ、市の北側に住む少女(同学年)の家を訪ね、国分寺跡のある方へ散策をした。今とは異なり、林や畑の中に住宅が点在している風景だったので、視界にはよく国分寺崖線の森が入ってきた。並んで歩いてはいるものの手をつなぐことはなく、緊張の壁がいつも二人の間にあった。道が細く時折、車や自転車が通りすぎる際、二人の肩が触れ合ったり、手が触れ合ったりすることもあったが、それ以上近づくことはなく、そんなときは決まって無言の状態が続いた。

 会話は少なかった。その少女はもともと口数は少なく、一方、私は男友達といるときは相当に雄弁であったものの、女性の前ではいつも緊張して寡黙になる。さすがに少女とは少しは話せるようになってはいたが、共通の話題を見出すまでには至らなかった。高校は別々だった。少女は学校生活の話を少しした。私と言えば、男子だけの学校だったし、学校生活には何の希望も抱いていなかったので、その手の話は何もなかった。

 私は大抵、前に連なる高台(国分寺崖線)を見て、その段丘崖の成り立ちを話した。また、小学生の時、その段丘崖の向こうまで遠征し、そこに住むベーゴマの名手(のちに中一で同級生になった)に勝利したこと、”たまらん坂”の近くの崖で「ターザンごっこ」をして遊んだことなどを話した‥‥まったく、場にふさわしくない、つまらない話題だった。

 国分寺跡が近づくと人影はほとんどなくなった。私の緊張感は高まり、ますます、話題は見いだせなくなった。思い切って少女の手を握り、明日に向かう覚悟を決めれば良いのにといつも思っていたのだが、それ以上、崖線に向かう勇気も一歩踏み出す覚悟もない私は「そろそろ戻ろうか」という言葉を口にするだけだった。少女のため息がかすかに聞こえた。

 もしもあの時に戻れたら、今度はきちんと前に進むことができるだろうか‥‥いや、戻れたとしても、今度は、カントの超越論的弁証論や『チボー家の人々』の読後感想を延々と語るに過ぎないだろう。

 あの日の胸の高鳴りや締め付けられるような胸の苦しみ~今は持病として不整脈を抱えているが、もしや、あの日々に発症したのかも~馬鹿な話だ。

崖線が私のメインフィールドだった

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幼少時、私を育ててくれた府中崖線

 自宅からすぐ近くに段丘崖があった。地元では崖のことを「ハケ」と呼んでいた。府中崖線である。大国魂神社裏や今では競馬場の駐車場になっているハケは、5~10歳ごろ、ほとんど毎日、遊んでいた場所だ。とくに後者(写真の場所)は今とは異なり、もっと崖は急で、もっと下草は少なく、もっと木が多かったので、ターザンごっこをするには最適な場所だった。木によじ登って縄を結び、その縄をつかんで、木から木へと移る修行をしていた。ほとんど猿のような生活だったので、のちのちも私は「多摩のサル」と呼ばれていた。

 もっとも、猿のようにうまく飛び移ることはできないので、ハケ下に落ちることがしばしばだった。絶えず怪我をしていた。「刷毛に毛があり、禿に毛がなし、ハケに怪我あり」が日常だったのである。

 

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国分尼寺跡から段丘崖へ

 小学校高学年からは国分寺崖線まで遠征することが多くなった。同級生が崖線の上に住む生意気なガキ(写真の場所の崖上方向にある団地に住んでいた)にベーゴマの勝負で負けたというので、その敵を討ちに出征した。その地域は小学校こそ学区が異なっていたが、中学校では同学区になるので、同窓生になる前に早めに勝負を決めておく必要があった。

 勝負はあっけなくついた。もちろん、私の勝ちである。なんとそのガキとは中一のときに同級になった。かつての敵もそれからは仲間となった。こちらとしてはベーゴマの技を伝授してあげたかったのだが、中学生になってからは、さすがにベーゴマ遊びはしなくなっていた。技術の継承はそこで絶えた。残念なことである。

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忌野清志郎の歌でも知られている「たまらん坂

 国分寺崖線もテリトリーに入って以来、急坂として名高かった「たまらん坂」にも出かけることがあった。ターザン仲間の親せきが坂上に住んでいたので、その家にお菓子をねだりにいった折に、「多摩のサル」としての務めを果たしたのだ。

 坂上から望むこの坂はとても急に見え、「これはたまらん」と思っていたが、こうして改めて見上げてみると、国分寺崖線を上り下りするよくある坂のひとつにすぎないと思えてしまう。実際そうなのだが。

国分寺崖線を知らない人々

 国分寺崖線の名前は意外に知られていない。地元から国分寺に出掛ける時も小金井に出掛ける時も坂を上ることは知っているのだが、その坂と崖線の関係は知らないのだ。兄に聞いても、姉に聞いても、小中学校時代の知人に聞いても、近所の知り合いに聞いても、その名は知らないのだ。みんな「多摩のサル」なのかもしれない。

 だから、「たまらん坂」は知っていても、府中街道を地元から泉町交差点に進むときに坂があることも、国分寺街道を国分寺駅に進むバスが、駅の手前で急坂を上ることも、小金井街道小金井駅手前に前原坂という長い坂があることも、東八道路を自動車試験場から三鷹方向に進むときに坂があることも、国立天文台の前に坂があることも、神代植物園に行くときも、深大寺へそばを食べに行くときも、国道20号線を柴崎から仙川方向に進むときも、おしゃれして二子玉川に出掛けたときもみな坂があり、等々力渓谷を散策するときも、東急目黒線多摩川駅から多摩川を渡るときの急カーブが切通しを通ることを知っていても、それが、国分寺崖線がもたらしたのだということはほとんど知らない。皆、すでに「猿の惑星」の住人なのである。

国分寺崖線の成り立ち

 国分寺崖線は、古多摩川の蛇行によって武蔵野台地が削られてできた段丘崖の連なりである。前に述べた府中崖線(立川崖線)も成り立ちは同様で時代が異なるだけだ。

 多摩川は「暴れ川」として古くから知られていた。今では小河内ダムや護岸の整備など治水が進んでいるが、近年では狛江市の氾濫(山田太一原作の『岸辺のアルバム』でも知られる)も記憶に新しい。

 多摩川は源流域から青梅付近までは相当の高低差を短い距離で一気に下る。そこから広い扇状地を作ったため、緩斜面では自分で行き場を見失い、おろおろと蛇行するのだ。ただし、右岸側(川が下るときの右手側。川の右岸左岸を知らない人は多く、釣り人でもほとんど知らない。釣り人も多くはサルなのだ)には今話題の『万葉集』に「多摩の横山」とある多摩丘陵があるので、川はいつも左岸側に寄って蛇行する。こうして国分寺崖線や府中崖線(立川崖線)を形成した。

 国分寺崖線の痕跡が分かるのは、武蔵村山市の国立村山医療センター付近から、大田区田園調布にある多摩川駅付近までだ。村山辺りでは高低差が少なく、その位置を断定するのは難しい。実際、村山説もあれば立川の砂川説もある。詳しい調査と同定は地質の専門家に任せるとして、私のような単なる”崖線好き”は高低差の連なりを探して徘徊するのが楽しいのである。

 詳細は省くが、明確な段差がある立川市幸町にある古民家園の横手からその段差の連なりをたどった結果、私は武蔵村山市の医療センター付近を国分寺崖線の始点と考えたのである(下の写真参照)。右手には「さいかち公園」がある。

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この道の下方に小さな段差がある。大きな樹木が崖線の森の名残り?

国分寺崖線の始点から国分寺跡までを歩く

 崖線の距離はとても長く、寄り道も多くなるので全部を完歩するには数日かかる。今回は崖線の前半戦ぐらいの長さでしかないが、それでも11日、12日の2日かかった。もっとも初日は3時間ほどしか掛けなかったが。

 崖線は「さいかち公園」あたりから始まり、南東方向に進み、大南公園から佼成霊園、西武線玉川上水駅付近を通る。さらにそのままの方向で立川市幸町にある古民家園辺りに出る。

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古民家園の西側の道。この辺りまで来ると崖線ははっきりと姿を現す

 古民家園の東側には「川越道緑地」があり、ここの雑木林は、いかにも段丘崖の森という風情を見せている。

 ここから段丘は南南東方向に進み、”けやき台小学校”の下から、中央線国立駅の東側までさらに高低差を形成していく。けやき台では段差が3~5mほどだったものが、国立駅横では10~15mにもなる。この辺りは宅地化が進んでいるので、崖は削られ緩斜面化されている場所が多いが、神社や寺がある場所では、かなり明瞭に崖の姿を見て取ることができる。

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国分寺市西町にある神明社。崖線の高低差が分かる場所

 また、崖線は交通路を複雑にすることもある。その代表が国分寺市光町にある五差路。崖線の下を走る通りと崖線を南に下る通りと東側から崖線を下ってきて崖下を沿うように走る通りが複雑な交差路を造っている。国立駅のすぐ東側を南北に抜ける道はとても複雑なのだが、これも崖線が東側に構えているためだ。

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複雑な光町五差路。朝夕はかなり混雑する

 南下する崖線はほぼ同方向に、多摩総合医療センターまで続く。ここから向きを東に変え、府中市の武蔵台を東西に横切る。ここでは、崖線の周囲は武蔵台公園、黒鐘公園、国分尼寺跡へと続く。この辺りでは段差は15m以上になるため開発の進みは遅く、また史跡によって崖線の緑が守られている。

 ここから少し北上し、武蔵国分寺跡を崖下に抱え込みながら、崖線はほぼ東西方向に国分寺駅の下、武蔵小金井駅下方向へと続く。

崖線は命の水を造る

 国分寺跡へとたどり着いた崖線は、ここからそれまでとは異なる姿を見せるようになる。湧水群の存在である。武蔵野面に浸み込んだ雨水は出口を求めて段丘崖から湧水となって姿を現す。大地に濾過されているので、水はかなり清らかだ。かつては、この清涼な水を求めて多くの人が集い、それを飲料水などに使っていたことがある。現在では、「この水は飲料水には適しません」などという無粋な表示をよく見かけるが。

 名水百選に選ばれたことがある「お鷹の道、真姿の池湧水群」は国分寺薬師堂、武蔵国分寺跡、都立武蔵国分寺公園などに通じる遊歩道が整備されており、絶好の徘徊路となっている。

 今春は湧水の量が少ないため、お鷹の道に沿う小さな流れは例年のようには澄んでいない。それでも大地から染み出た水を求めてペットボトルに集める老婆の姿があった。

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お鷹の道、真姿の池の原点付近

 私は、この小さな流れの前にたたずみ、しばし思いを半世紀前に戻した。

 水面を見つめ続けていたとき、突然、聖書の一節が浮かんだ

 

 ”わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。”

           コリント信徒への手紙 二 (1987 新共同訳より)

 

 見えないものを支えてくれるのは神なのだろうが、しかし、私には神はいなかった。

 

 

〔03〕徘徊老人・別所沼公園に行く

立原道造を知る

 教室に入ると、顔見知りになったばかりの女性がいた。クラスの中では一番幼そうな雰囲気だったが、一方で、整った顔立ちをしているという印象を抱いていた。彼女は一人で文庫本を読んでいた。私は「何読んでるの、プロレスの本?」と斜め前から声をかけると、彼女は私の顔の方を見て、「詩集、立原道造よ」と微笑みと一緒に優しい声で返事をしてくれた。

 件の詩人のことは全く知らなかった。私は高校を中退し(退学寸前だったので)、数年間は清き情熱をもって”プロボーラー”か”パチプロ”になるために勤しんでいたため、大学に入ったときは20歳を超えていた。彼女よりは2年ほど年長なのにも関わらず、著名な(後で知ったのだが)その詩人の名前すら知らないことがとても恥ずかしかった。親切なことに、彼女は、その詩人・詩集の概略を教えてくれた。あまり興味は持てそうにない内容だと思えたが、クラスの中では一番可愛らしい女性の前でこれ以上恥をかきたくないので、授業に出るのをやめて本屋に出掛け、早速、その詩集を入手した。

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立原道造の思いが形になった”ヒアシンスハウス”(別所沼公園内)

様式美を守りつつ、感情で歌う四季派の詩人

 わずか24年と8か月で夭折した立原道造は、新古今和歌集オーストリア生まれのドイツ詩人であるリルケの影響を強く受けている。このため、代表作の多くはソネット形式(14行詩)で書かれている。最も著名な詩集の「萱草に寄す」(風信子叢書第一篇)にはSONATINE No.1、No.2があり、作品のすべてが14行詩だ。ソナチネ形式ともいわれるが、リルケの影響下にあるならば、SONATINEはゾナティーヌと読むべきであろうか?

     

    晩き日の夕べに

大きな大きなめぐりが用意されてゐるが

だれもそれとは気づかれない

空にも 雲にも うつろふ花らにも

もう心はひかれ誘はれなくなった

 

夕やみの淡い色に身を沈めても

それがこころよさとはもう言はない

啼いてすぎる小鳥の一日も

とほい物語と唄を教へるばかり

 

しるべもなくて来た道に

道のほとりに なにをならって

私らは立ちつくすのであらう

 

私らの夢はどこにめぐるのであらう

ひそかに しかしいたいたしく

その日も あの日も賢いしづかさに?

 

 彼の歌には、なんの気取りもなく、難しい言い回しもなく、透徹な心で、感情で言葉をつづる。それは、彼の愛した新古今和歌集にある西行の歌にも通じるものがあると思われる。

 世の中を思へばなべて散る花の わが身をさてもいづちかもせぬ

 ながむとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ

 ねがわくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ

立原道造の名を久しぶりに見る

 そんなことがあって以来、しばらくは大事にしていた立原道造の詩もその心も、若さを失い始めてからは読むことはなくなっていた。多分、20年以上、その詩人の名を口にすることも、目に触れることもなくなっていた。それが近ごろ、インターネットニュースで、彼の名前を見かけた。「ヒアシンスハウスを見る」という記事には、道造が図案化しつつも具体化されるに至らなかった”ヒアシンスハウス(風信子荘)”が、別所沼公園に造られた詳しい経緯と多くの写真が掲載されていた。

 記事は昨年の6月に書かれたものだ。それが、今年になって目に付くようなったのは、もしかしたら、現在、国立西洋美術館で「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ~ピュリスムの時代」が開催されていることと関係があるのかも知れない。コルビュジエは建築家としてだけではなく画家としても名高い。一方、立原道造は建築家として将来を嘱望されていたにもかかわらず、早世したために実績はない。が、詩人としては作品数は少ないにもかかわらず、その詩は数多くの人に今でも愛されている。ピュリスム(純粋主義)は立原の作品にこそふさわしいのかもしれない。

沼の周囲を徘徊する

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南北に細長い沼。西側と北側に広場などがある

 別所沼近辺には数回出かけたことがあるが、いずれもハウスが造られた2004年以前なので、かりにその沼を見に行ったとしても、立原の詩を思い浮かべることはなかっただろう。

 立原と別所沼との結びつきは、彼が兄と慕っていた詩人の神保光太郎がこの沼のほとりに家を建て、そこを拠点に創作活動に励んでいたことにある。彼はよく神保の家を訪れていたそうで、いずれその近くに別荘(小屋)を建てようと構想していたのが、「ヒアシンスハウス」である。図面やスケッチはかなり残していたものの、実現には至らなかった。その思いが現実となったのは、彼を、その作品を愛した人々の尽力の結果であった。

 詩人の夢の継承事業として完成をみたこの小さな家は、現在、水・土・日・祝に内部が公開されているそうだ。内部には立原が残した多くの資料も見ることができるらしい。訪れたのは月曜日なので開放はされていなかったが、かりに開いていたとしても私は、中に入ることはなかっただろう。私にとっては、彼の14行詩だけで十分なのだ。

 別所沼は公園として整備されており、沼の西側や北側には広場があり、沼を取り囲むような遊歩道やジョギングコースもある。周囲に植えられている樹木が特徴的で、メタセコイアラクウショウといった高木がとても多く、それらが、他の公園とは違った雰囲気を醸しだしている。

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水あるところに釣り人あり

 水があるところでは、ほとんどと言ってよいほど、釣り人の姿を見つけることができる。これは釣り人の性というもので、どうかすると、雨後にできた水たまりにさえ、竿を出しかねないのである。

 釣り人の横にあるバケツをのぞいたところ、ヌマチチブ、クチボソ、タナゴが泳いでいた。いずれも5cmにも満たない小物だが、彼らが使っている仕掛けも繊細なものなので、釣りとして楽しみはかなりあるはずだ。

東西にある段差に沼の成り立ちを見る

 沼には川は流れ込んでいない。のちに造った排水路はあるものの、ここに流れ込むものはない。大宮台地から湧き出した水が台地を削って窪地をつくり、そこに湧水がたまって沼を形成したようだ。

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沼の東側の段差

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沼の西側の段差

 排水路は南に向かっている。現在は暗渠化され、その上は「花と緑の遊歩道」になっている。遊歩道の先には、武蔵野線武蔵浦和駅がある。

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別所排水路は遊歩道として整備されている

 私がここを訪れたのは4月8日。花祭り灌仏会)の日であった。沼の周囲を徘徊中、沼の湿地に、死者にか生者にかは分らぬが、祈りを捧げている小さな仏が数多く見られた。が、それは錯視にすぎず、ラクウショウの気根だった。

 仏の存在は空であり、無なのである。

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気根は仏のよう

 

 

  

〔02〕徘徊老人~スプリング・エフェメラル

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春の先駆け~オオイヌノフグリ

春を探しに徘徊する

 私にとって、春の到来をしみじみ感ずるのは、暦の上でも、日差しの温かさでもない。徘徊中、路傍にある草の花を見出した時である。彼女らが葉を伸ばし始めたことに気が付いたとき春が近いことを思い、その草の花を一輪でも見出した時、私は心に春の訪れを実感するのである。

 その花は「オオイヌノフグリ」であるが、ときには「ヒメオドリコソウ」や「ホトケノザ」、「オランダミミナグサ」であることも。いずれも、いかにも”雑草”という風情であり、ほとんどの人は目にとめることはないので、道の辺にけなげに咲いていても、踏みつけられてしまう場合が多い。それでも、彼女らは毎年、花を付け、私に春を告げてくれる。

スプリング・エフェメラ

 スプリング・エフェメラル~春は儚い。エフェメラルとは命の短さをいう。華やかな時期はいつも短いからこそ、そこに艶やかさと悲しみが同居している。

 中島みゆきの名作に『春なのに』がある。”春なのにお別れ”という表現が秀逸で、「春は別れ」と言ってしまえば、単に卒業を意味するだけだし、「春は出会い」ならば入学や入社を意味し、どちらも当たり前田のクラッカー。それを「なのに」と表したところに名作の名作たる所以がある。

 この心象は、仏詩人のコクトーの「人は多くの人々を知っているが、彼らがどうなったのかは知らない」という言葉にも通じていると思う。

 歴史上の出来事でも、春は「華やかと儚さ」が同居している事柄の場合に使われることがある。1848年の「諸国民の春」であり、1968年の「プラハの春」である。いずれも、背景は異なるにせよ、自由化を求めた運動が束の間の勝利を得たももの、その後はさらなる圧政を生んだという事件だ。自由を完全に勝ち取り、その後も発展を続けたのなら、決して「春」という言葉は使わないはずだ。ここにもスプリング・エフェメラルが含蓄されている。

スプリング・エフェメラル~儚い花たち

 エフェメラルは、生き物にも使われる。カゲロウは幼虫の時期はともかく、成虫の時期はとても短い。「カゲロウのようだった」という言い方は、カゲロウの成虫のように、華やかな時が短かったことを表現する時に使われる。 実際、カゲロウ目の学名はEphemeropteraであり、”エフェメラ”が用いられている。

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スプリング・エフェメラルの代表的な花

  狭義では、スプリング・エフェメラルは、3~4月ごろに咲く多年草の植物を指すことがある。大半はキンポウゲ科のもので、落葉林の多い里山や渓谷、野辺に見られた。が、自然のものは林の喪失、破壊、盗掘などで多くが失われており、今では、保護林や自然園、山野草店や園芸店、趣味人の庭などで見ることが多い。

 私も以前、庭のある家に住んでいたときは、カタクリフクジュソウイチリンソウニリンソウアネモネ、レンゲショウマ、ミヤマオダマキ、セツブンソウ、ミスミソウオキナグサラナンキュラスクレマチスなどを育てていたことがある。

 以上がすべて、スプリング・エフェメラルと呼ばれるわけではなく、特に、フクジュソウイチリンソウニリンソウ、セツブンソウ、オキナグサキクザキイチゲアズマイチゲなどが代表的な存在だ。アネモネオダマキラナンキュラスクレマチスは、今では改良園芸品種として、ガーデニングファンの家やホームセンターの園芸コーナーでは早春から初夏の間、かなり長い期間、見ることができる。

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エフェメラルは目覚め、春の日差しを浴びようと背伸びする

 花を落としたエフェメラルたちは、入梅のころまでは葉のみで生活し、日の光から活力を得る。 が、いつのまにか地上からは姿を消し、初夏から冬の間は根のみで土中にて栄養分を吸収し、春の訪れを待つ。

 多くは3月の初めころ葉を見せ始めるが、中には、花芽が先に伸びて地中から顔を出し、まずは花を開かせてから葉が広がり始め、その後多くの花を咲かせるという品種もある。いずれにせよ、開花期は短く、美しい時はとても儚い。

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イチリンソウは群生することが多い

 イチリンソウニリンソウは群生することが多いため、ひつひとつの花期は短くとも、全体を望めば、ある程度の期間、花に接することができる。

 スプリング・エフェメラルと呼ばれる花たちは、土中にいる期間が長く、その間に根を広げて仲間を増やしている。自然環境の急変がなければ、数株だった花でも、次の春には十数株に増えることが多い。その限り、”世界にたった一つの花” などというものはなく、花はあくまで”類として存在“しているのだ。

 この点、人もまったく同じで、”オンリーワン”を主張するのは幻想にすぎず、単なるエゴでしかない。

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エフェメラルではないが、私の最も好きな花。一人静(吉野静)とは、まさに私のようだ

 

 

 

〔01〕徘徊老人・城ケ島に行く

 ブログ、はじめました。

 「冷やし中華、はじめました」なら季節感を覚えることができるが、いまさらブログを始めたところで、関心を抱く人はほとんどいないと思う。

 日記など、生まれてから一度も書いたことはない。書きたいと思ったこともなかった。SNSにも興味は全くわかない。

 それが、この期に及んでブログをはじめるというのは、徘徊老人として、まだ何とか生きているぞ、という自身の実感を確認したいと思ったことからにすぎない。

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釣りは人生の半分!

 過日、中学校の同窓会があった。同級生から、「今何をしているのか」と聞かれたので、「夏から秋は鮎の友釣り、冬から春は磯や堤防でのメジナ釣り、以上」と答えたら、「ガキの頃と少しも変わらないな」と呆れられた。「相変わらず、お目出たいやつだ」とも。

 こんな時、少し知的なヤツは概ね、開高健の『オーパ!』にある中国の古諺なるものを引用し、「三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。永遠に幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい」とかいう名言(迷言)をのたまってくださる。いったい、何度同じ言葉を聞いたことやら。

 この言葉を聞くと、「幸福を求めるために釣りをするのではない、釣りの結果、幸福が生まれるのだ」と答えることにしている‥‥暇なときは。

 幸福を欲するから釣りをするというのは、仮言命法だ。釣りでなくて他のことでも良いことになる。これは、カント的に言えば非道徳的行為である。我が内なる実践理性は、「釣りをすべし」という定言的命令を私に与える。私にとって、釣りは道徳的義務なのである。「~を欲する」(wollen)としての釣りではなく、「~すべし」(sollen)としての釣りなのだ。この辺を話だすと、大体、自分の周りからは人がいなくなる。気を遣う必要がなくなるので、とても楽である。

 小学生前は近くの小川で、小学生時は主に多摩川で、18歳ころからは海釣りをはじめ、いつしか、日本全国を釣り歩くようになった。川や池、湖での釣りを含めれば、47都道府県のすべてで竿を出したことがある。

 ともあれ、長い人生の半分は釣りに費やしてきたことは確かで、残り少ない余生もまた、釣り中心の生活が続く。

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4月3日の唯一の釣果

城ケ島は今日も釣れず

 海釣りといってもほとんどウキ釣りしか行わず、対象魚はほぼメジナに限られる。関東ではあまり馴染みのない魚だが、西日本、とくに四国や九州では、釣りの一番のターゲットである。関東の海にもメジナはたくさんいるのだが、色が地味なこともあって、市場に出回ることは少ない。自分では釣っても食べることはまずないが、仲間の話では、かなり美味とのこと。少なくとも、タイよりはうまいようだ。

 釣りの対象としてはベストの存在で、釣れるときは馬鹿々々しくなるほどに釣れるが、海況のほんの少しの変化で全く釣れなくなることが多い。というより大抵は釣れず、数匹釣れればまずまず、2桁釣れれば大漁と言って良い。引きはかなり強く、掛けるまで、そして掛けてからも面白い。サイズは10~60cmぐらい。20~25cmは手のひら、30cm以下は足の裏、35cmほどで中型、40cm級が良型、50cm以上が大型、60cmを超えれば超大型だ。

 今回出掛けた三浦半島・城ケ島の磯では、35cm超で一応納得、40cmを超えれば満足といったところ。3月中は、40cm級が顔を出していたので、4月に入れば、40cmアップがわんさか、と期待したのだが、実際、姿を見たメジナは30cmが1匹のみ。私と仲間と3人で、朝7時から夕方6時まで粘っての結果がこれだ。今季は水温の変動が激しく、”4月は残酷な月”なのである。

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諦めの悪い釣友

釣り人はいつも、今日と格闘する

 帰途、釣具店や釣り餌店に当日の結果を報告することがある。ほとんどが最悪に近い釣果なので、励ましの意味だろうか、腕の悪さの指摘なのだろうか、「昨日は釣れたのに」だの「明日は良くなるよ」などとよく言われる。釣り人にとって大事なのは今日なのだけれど。

 昨日釣れていたとしても、昨日に戻って出かけることはできない。明日釣れるとしても、出掛けたときには、すでに今日になっているのである。釣り人に限ったことではないけれど、人は昨日に生きることも、明日に生きることもできず、永遠の今があるだけなのだ。

 東京郊外に住む私にとって、海はあまり近くはない。城ケ島までは約80キロ、要する時間は往復5時間。それでも、磯釣り場としては、城ケ島は自宅から一番近い所にあるポイントのひとつ。時間とお金をかけた結果が、メジナ1匹。

 それでも、後悔は全くない。帰りにはもう、次の釣りの予定と、食い渋ったときのメジナの攻略法を考えている。帰りの2時間半、運転中ずっと考えっぱなしなのだ。そうすべしと、わたしの実践理性はそう要請し続けているのだから。