徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔03〕徘徊老人・別所沼公園に行く

立原道造を知る

 教室に入ると、顔見知りになったばかりの女性がいた。クラスの中では一番幼そうな雰囲気だったが、一方で、整った顔立ちをしているという印象を抱いていた。彼女は一人で文庫本を読んでいた。私は「何読んでるの、プロレスの本?」と斜め前から声をかけると、彼女は私の顔の方を見て、「詩集、立原道造よ」と微笑みと一緒に優しい声で返事をしてくれた。

 件の詩人のことは全く知らなかった。私は高校を中退し(退学寸前だったので)、数年間は清き情熱をもって”プロボーラー”か”パチプロ”になるために勤しんでいたため、大学に入ったときは20歳を超えていた。彼女よりは2年ほど年長なのにも関わらず、著名な(後で知ったのだが)その詩人の名前すら知らないことがとても恥ずかしかった。親切なことに、彼女は、その詩人・詩集の概略を教えてくれた。あまり興味は持てそうにない内容だと思えたが、クラスの中では一番可愛らしい女性の前でこれ以上恥をかきたくないので、授業に出るのをやめて本屋に出掛け、早速、その詩集を入手した。

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立原道造の思いが形になった”ヒアシンスハウス”(別所沼公園内)

様式美を守りつつ、感情で歌う四季派の詩人

 わずか24年と8か月で夭折した立原道造は、新古今和歌集オーストリア生まれのドイツ詩人であるリルケの影響を強く受けている。このため、代表作の多くはソネット形式(14行詩)で書かれている。最も著名な詩集の「萱草に寄す」(風信子叢書第一篇)にはSONATINE No.1、No.2があり、作品のすべてが14行詩だ。ソナチネ形式ともいわれるが、リルケの影響下にあるならば、SONATINEはゾナティーヌと読むべきであろうか?

     

    晩き日の夕べに

大きな大きなめぐりが用意されてゐるが

だれもそれとは気づかれない

空にも 雲にも うつろふ花らにも

もう心はひかれ誘はれなくなった

 

夕やみの淡い色に身を沈めても

それがこころよさとはもう言はない

啼いてすぎる小鳥の一日も

とほい物語と唄を教へるばかり

 

しるべもなくて来た道に

道のほとりに なにをならって

私らは立ちつくすのであらう

 

私らの夢はどこにめぐるのであらう

ひそかに しかしいたいたしく

その日も あの日も賢いしづかさに?

 

 彼の歌には、なんの気取りもなく、難しい言い回しもなく、透徹な心で、感情で言葉をつづる。それは、彼の愛した新古今和歌集にある西行の歌にも通じるものがあると思われる。

 世の中を思へばなべて散る花の わが身をさてもいづちかもせぬ

 ながむとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ

 ねがわくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ

立原道造の名を久しぶりに見る

 そんなことがあって以来、しばらくは大事にしていた立原道造の詩もその心も、若さを失い始めてからは読むことはなくなっていた。多分、20年以上、その詩人の名を口にすることも、目に触れることもなくなっていた。それが近ごろ、インターネットニュースで、彼の名前を見かけた。「ヒアシンスハウスを見る」という記事には、道造が図案化しつつも具体化されるに至らなかった”ヒアシンスハウス(風信子荘)”が、別所沼公園に造られた詳しい経緯と多くの写真が掲載されていた。

 記事は昨年の6月に書かれたものだ。それが、今年になって目に付くようなったのは、もしかしたら、現在、国立西洋美術館で「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ~ピュリスムの時代」が開催されていることと関係があるのかも知れない。コルビュジエは建築家としてだけではなく画家としても名高い。一方、立原道造は建築家として将来を嘱望されていたにもかかわらず、早世したために実績はない。が、詩人としては作品数は少ないにもかかわらず、その詩は数多くの人に今でも愛されている。ピュリスム(純粋主義)は立原の作品にこそふさわしいのかもしれない。

沼の周囲を徘徊する

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南北に細長い沼。西側と北側に広場などがある

 別所沼近辺には数回出かけたことがあるが、いずれもハウスが造られた2004年以前なので、かりにその沼を見に行ったとしても、立原の詩を思い浮かべることはなかっただろう。

 立原と別所沼との結びつきは、彼が兄と慕っていた詩人の神保光太郎がこの沼のほとりに家を建て、そこを拠点に創作活動に励んでいたことにある。彼はよく神保の家を訪れていたそうで、いずれその近くに別荘(小屋)を建てようと構想していたのが、「ヒアシンスハウス」である。図面やスケッチはかなり残していたものの、実現には至らなかった。その思いが現実となったのは、彼を、その作品を愛した人々の尽力の結果であった。

 詩人の夢の継承事業として完成をみたこの小さな家は、現在、水・土・日・祝に内部が公開されているそうだ。内部には立原が残した多くの資料も見ることができるらしい。訪れたのは月曜日なので開放はされていなかったが、かりに開いていたとしても私は、中に入ることはなかっただろう。私にとっては、彼の14行詩だけで十分なのだ。

 別所沼は公園として整備されており、沼の西側や北側には広場があり、沼を取り囲むような遊歩道やジョギングコースもある。周囲に植えられている樹木が特徴的で、メタセコイアラクウショウといった高木がとても多く、それらが、他の公園とは違った雰囲気を醸しだしている。

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水あるところに釣り人あり

 水があるところでは、ほとんどと言ってよいほど、釣り人の姿を見つけることができる。これは釣り人の性というもので、どうかすると、雨後にできた水たまりにさえ、竿を出しかねないのである。

 釣り人の横にあるバケツをのぞいたところ、ヌマチチブ、クチボソ、タナゴが泳いでいた。いずれも5cmにも満たない小物だが、彼らが使っている仕掛けも繊細なものなので、釣りとして楽しみはかなりあるはずだ。

東西にある段差に沼の成り立ちを見る

 沼には川は流れ込んでいない。のちに造った排水路はあるものの、ここに流れ込むものはない。大宮台地から湧き出した水が台地を削って窪地をつくり、そこに湧水がたまって沼を形成したようだ。

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沼の東側の段差

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沼の西側の段差

 排水路は南に向かっている。現在は暗渠化され、その上は「花と緑の遊歩道」になっている。遊歩道の先には、武蔵野線武蔵浦和駅がある。

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別所排水路は遊歩道として整備されている

 私がここを訪れたのは4月8日。花祭り灌仏会)の日であった。沼の周囲を徘徊中、沼の湿地に、死者にか生者にかは分らぬが、祈りを捧げている小さな仏が数多く見られた。が、それは錯視にすぎず、ラクウショウの気根だった。

 仏の存在は空であり、無なのである。

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気根は仏のよう