徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔30〕奇跡の玉川上水(3)~拝島から小平監視所まで

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昭島市昭和の森付近を流れる玉川上水

多くの分水を有する玉川上水

 玉川上水江戸府内への飲料水供給が主なる目的だったが、ほかにも生活用水、防火用水、庭園用水、濠用水などにも利用された。さらに、多摩地区の新田開発のために多くの分水路が造られた。分水口の数は33とも34ともあるとされている。

 大規模な分水路としては「野火止用水」「千川上水」「青山上水」「三田上水」が有名である。とくに野火止用水は、以前の回でも挙げたように、玉川上水開発の最高責任者であった川越藩主・松平信綱の要請によって上水完成(1653年)の2年後の1655年には開削が始まり、先に何度も挙げている安松金右衛門の指揮のもと、わずか40日で完成している。

 川越藩の南部にある野火止地区(現在の新座市)は松平信綱菩提寺である「平林寺」がある場所だが、この一帯は北西に柳瀬川、南東に黒目川が流れており、その間にあって高台に位置するため新田開発に必要な水の確保が難しかった。ちなみに、例によって「国土地理院・標高の分かるwebマップ」で調べてみると、野火止の中心地である平林寺付近の標高は約41m(以下、標高、約は省略する場合有り)、一方、寺と同緯度近辺の柳瀬川は19m、黒目川は17m辺りに位置するため、両河川から野火止台地に水を導入するのは不可能である。したがって、野火止開発には玉川上水からの分水路を掘り進めてくる必要があった。前にも述べたように、松平信綱玉川上水開発を指揮したのはこの「野火止用水」の確保が眼目にあったといっても過言ではない。実際、野火止用水玉川上水の水の3分の1をもらい受けることになっていた。そのため、玉川上水の流路は野火止用水の取水口が造りやすい場所が選ばれたということはすべに述べた通りである。

 今回の最後に挙げる予定だが、野火止用水の取水口は「小平監視所」(95m)付近に設置され、16キロ離れた平林寺(41m)まで流され、それ以降は3つに分枝され、最終的には荒川の右岸側にあって現在の志木市を流れる新河岸川に至る。

  1696年に完成した千川上水は、西東京市武蔵野市の境にある「境橋」辺りで玉川上水から分水され、豊島区西巣鴨辺りまで開削され、湯島聖堂寛永寺浅草寺六義園などの水源として利用された。なお、この上水の設計者は西回り航路や東回り航路を開拓した政商の河村瑞賢だった。この上水についてはいずれ触れることがあるだろう。

 その他、四谷から芝の増上寺辺りまで開削された青山上水、笹塚から白金の自然教育園辺りまで開削された三田上水もよく知られた分水路であった。

拝島駅北口から東に向かう

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平和橋のすぐ西側には拝島駅横田基地とをつなぐ引込線の鉄橋がある

 玉川上水の流れは拝島駅北口辺りで母なる多摩川とは完全に袂を分かち、今度は五日市街道に並行するごとく東方向に進んでいく。向きを南東方向から東方向に変える直前にあるのが写真の「平和橋」だ。橋の西隣には鉄道が敷かれている。横田基地内に引き込まれる鉄道路である。

 橋のたもとには「平和橋のいわれ」を記した石碑がある。地元の篤志家が資金を出して橋が建設されたのだが、その篤志家の子供が先の大戦で戦死していたことから、恒久平和を祈念して「平和橋」と名付けられたそうだ。その横に基地に物資を運ぶために敷かれた鉄道路がある。「平和」の名は、はたして「希求」を込めてなのか、「皮肉」を込めてなのかは不明だ。

 横田基地内には、在日アメリカ軍司令部だけでなく、2012年からは府中市にあった航空自衛隊総司令部がそこに移され、日米の連携が強化されている。今のところ、日本の「平和」は駐留米軍によって守られてきたことは事実だろうが、これからもそれが続くかどうかはまったく不明だ。だとすれば、これまでの平和は単なる「祈り」だっただけなのかもしれない。

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玉川上水を跨ぐ西武拝島線

 平和橋から、上水に沿った散策路は両岸に整備されている。左岸から流れを追うと逆光が差し込むために細部を伺うのが難しい場合もあるため、基本的には右岸側を歩くことにした。右岸の小道には樹木がよく茂っており散策にはもってこいの場所になっている。

 平和橋のつぎは「こはけ橋」で、その下流側に写真の西武拝島線玉川上水を跨いでいる。この鉄道は上水を横断するといったんは上水の北300mほどのところまで進むものの徐々に上水側に近づき、つぎの西武立川駅では200mほど北、さらに武蔵砂川駅では100mほど北、そして玉川上水駅では北側すぐを並走することになる。したがって、今回歩いた辺りを訪ねる際は、西武拝島線を利用するのが便利だ。

 なお、拝島線の手前で左岸側にもあった散策路はいったん途切れるので、上水に沿って下流側に歩くときはこはけ橋を渡って、右岸側に移動する必要がある。今回の場合はもともと右岸側を歩いてきたのでそのまま進むことができたのだが。

 拝島線玉川上水橋梁を過ぎ、その下流側に「ふたみ橋」があるので、ここを渡れば左岸側に出ることができる。拝島線の線路脇から上水の北側には無名の空き地がある。現在では空き地だった東側には日帰り温泉施設(昭和温泉『湯楽の里』)ができたので景観は少し変わってしまった。ここは地下1800m付近から湧き出た温泉を汲み上げて使用しているらしい。散策路を歩いているとき、たまたま声をかけられた81歳(自己申告)の女性は、週に3回程度、その施設に通っているらしい。道理でそのご婦人はとても若々しく、どう見ても79歳にしか見えなかった。もちろん冗句である。

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上水はいったん暗渠化される

 元は全面開水路であった玉川上水は、「昭和の森ゴルフコース」の北側で330mほど暗渠化される。これは、JR五日市線昭島駅の北側一帯には「昭和飛行機工業」の航空機製造工場および飛行場があり、その滑走路を整備するために玉川上水の一部が暗渠化され、それが現在も残っているのだ。

 昭和飛行機工業は1937年に設立され、38年にDC-3のライセンス生産を始めた。戦後は一時、航空機事業が禁止されたものの解禁直後からはYS-11の開発・生産を分担しておこなっていた。昭島市の工場は1969年に米軍から返還され、その跡地にゴルフ場が造られ、さらに84年には昭島駅寄りに大型ショッピングセンター「モリタウン」が開設された。その後も諸施設が続々と造られ、昭島市北口はかなりの賑わいを見せている。

 上水に戻るが、拝島上水橋の下流右岸側には上水公園、ならびに昭和の森ゴルフコースが広がっているため、散策路はこちら側にはなく、ゴルフ場の東側までは、遊歩道は左岸側のみとなる。このため、拝島駅北口からずっと上水の右岸側を歩いてきた私は、拝島上水橋を渡って左岸側に移動した。今回の冒頭に掲げた写真は、左岸側から上水を望んだもので、そのために光を正面から受けてやや見づらくなっていたものの、紅葉が美しいと思えた場所だったのであえて掲載してみた。

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暗渠の上には緑道公園が整備されている

 前述したように工場に敷設された滑走路部分の上水路は暗渠化されたままだが、現在はその上に写真のような緑道公園が整備されている。右手には工場跡地に造られたゴルフの練習場がある。写真左手にはマンションや住宅地があるがその北側に拝島線西武立川駅がある。

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暗渠から解放された上水の流れ

  写真は、約330mの暗渠から解放された玉川上水である。暗渠の対義語は開渠(もしくは明渠)なので、「解放」ではなく「開放」の文字が妥当なのかもしれない。しかし、暗闇から解き放たれて明るい日差しを浴びることができたと考えるならば、やはり解放のほうが好ましいと思った。そこで、ここではあえて「解放」を使った。ちなみに、「渠」は溝や水路を意味している。したがって、開渠=開水路となる。

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台風で倒された大木

 暗渠のすぐ下流には、台風15号による強風で倒された大木が横たわっていた。流れを塞き止めているわけではないのでそのまま放置されているが、かつてこの木が元気だったころ枝々がしっかり育んでいた葉たちはすっかり枯れてしまっていた。さらに、すでに命を落としてしまった小枝も流れに身を任せるままとなった。

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砂川用水取水口の清掃作業

 すぐ上流にあった倒木による影響だけでなく、初冬は枯れ葉や枯れ枝が多く流れ着くので、砂川用水取水口では担当者が懸命に取り入れ口を塞いでいる葉っぱや小枝や枯草を取り除く作業をおこなっていた。この取水口は昭島市つつじが丘に架かる松中橋の南詰西側にある。

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右手の柵の下に砂川用水、左手に玉川上水。その間に散策路が続く

 砂川用水は松中橋南詰で取水され、しばらくは玉川上水の右岸側に沿って東進する。その後、一番橋、天王橋まで並走し、今度は天王橋で出会った五日市街道に沿って立川市国分寺市小平市へと進む。小平市上水本町で今度は玉川上水が五日市街道に出会うので、砂川上水は再び玉川上水と並走することになる。しかし、小金井市梶野町付近で街道や上水に別れを告げて南進を始める。ここからは「梶野新田用水」と呼び名が変わり、最終的には三鷹市深大寺用水に合流する。

 写真は松中橋下流の散策路を撮影したものだ。右側に写っている柵の下に砂川用水の水路があり、左手のフェンスの向こう側に玉川上水が流れている。写真から分かる通り、この区間の散策路には上水側に大石が並べられている。近年では散策路はしっかり固められているので決壊の危険性は高くないだろうが、かつてはそうでなかったかもしれず、ならば、大石を並べて安定性を高めていたのかもしれない。

 ところで、1657年に開削された砂川用水が五日市街道に沿って流れているならば、その4年前に掘られた玉川上水はなぜこのルートを採らなかったのだろうか。それは、ひとえに今まで何度も挙げている「野火止用水」との関連である。

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渋滞ポイントとしてよく知られている天王橋交差点

 天王橋交差点はいつも混雑している。写真を左右に横切る道が五日市街道であり、斜め上方向に見えるのが武蔵村山と八王子とを結ぶ多摩大橋通りである。こちらは青梅街道と甲州街道を南北につなぐ道なので交通量が多い。もちろん、五日市街道の重要性は言うまでもない。天王橋交差点は交通の要衝であるために渋滞ポイントになってしまうのは致し方ない。私はこの交差点をできるだけ避ける道を通るのだが、やむなく通らざるを得ない場合は、日中でも4、5回の信号待ちを覚悟している。

 前述のように、この天王橋から玉川上水と砂川上水との並走はいったん終わり、同じ東方向に進むにせよ、玉川上水はやや北上し、砂川用水は街道に沿って気持ち南下する。砂川用水は元来、立川市の上砂町、砂川町、柏町、幸町付近を潤すために開削された水路なので、その先にある国分寺崖線越えは考慮されていなかったと思われる。それでも、五日市街道沿いに進んでいるので、崖線の高低差は了解済みだったのは確かだ。

 一方、玉川上水があえて街道沿いには進まず、やや北向きに進むのは、野火止用水の取水口を埼玉方向に近づけるためである。後述するが、その取水口は拝島線玉川上水駅付近にあり、ここは五日市街道とは約1キロ離れている。そして、分水という大事を果たした上水は少しずつ南下し、小平市の上水本町(一橋大学小平国際キャンパスの南側辺り)で五日市街道に再び出会う。

立川断層と立川崖線

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難関に挑む前の小さな障害、残堀川との交差

 天王橋からその下流にある「稲荷橋」の間はやはり右岸側には沿道がないため、暗渠下で松中橋を渡って右岸側を移動していた私は天王橋を渡って左岸側に移動し、少しだけ左岸側を歩いて稲荷橋北詰に至るとこの橋を渡って右岸側に移動した。この先はずっと右岸側を移動することができ、井の頭線三鷹台駅付近まで散策路が続いている。

 その稲荷橋から下流を望むと、写真の景色が目に入った。もっとも、写真は200ミリ(標準換算)の中望遠レンズで撮影したもので、実際に目にしたスリットはもっと小さく見えたのだが。そのスリットは残堀川との交差手前側にある。

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残堀川の下方に入る玉川上水

 写真は上に挙げたスリットへの進入口を右岸側から見たものだ。右手やや上方にある柵の下に残堀川の水路がある。玉川上水の流れは勢いをつけて残堀川の下に入り、それを過ぎたところで顔を出す。スリットはその間にゴミが溜まらないようにするためのもので、スリットの上に見えるゴミの山は、それから除去されたものが蓄積されてできている。

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水の流れがほとんどない残堀川

 写真のように残堀川にはほとんど水がない。下草の状態を見てみると、一時はある程度の水量があったことが分かる。しかし、雨量が少ないときは流れはほとんど見えなくなり、下流方向では「空堀」であることがしばしばある。

 この川は瑞穂町箱根ヶ崎にある狭山ヶ池を水源として立川断層に沿って南東に流れ、立川市柴崎町付近で多摩川に注いでいる。かつては湧水を集めたきれいな水が流れていて、多摩川中流の項で触れた「矢川」に流れ込み、そのまま府中用水の助水としての役割を果たしていたらしいが、玉川上水の完成に伴って流路変更され、先ほど挙げた天王橋付近で上水に流入した。

 しかし、近代に入って都市化が進むと残堀川の汚染がひどくなったために上水とは切り離され、再び流路変更されて現在の位置になったが、このときは上水の下を通ることになった。しかし、大雨が降ると水が溢れ、下水道化した汚水が上水に流れ込むため、1963年、付け替え工事がおこなわれ、今度は上水が残堀川の下に潜ることになった。なお、上水は「サイフォンの原理」を利用してその流れを維持している。

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新家橋から見た上水の流れ

 一番橋、天王橋、稲荷橋、残堀川との交差点、新家橋、見影橋まで、玉川上水は一直線に東北東に突き進んでいる。このまま進んでいけば現在の玉川上水駅南口に至ることができ、野火止用水の取水口に到達できる。しかし、事はそう簡単ではなかった。見影橋の先には、難関が待ち受けていた。

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見影橋の南詰西側にある源五右衛門用水取水口

 見影橋の手前には、写真の「源五右衛門用水」の取水口がある。この用水は、砂川の開拓者である砂川家が自分の敷地にある水車を回すために造ったものである。公の上水を個人的な目的のために使用できたのは、それだけ砂川家には政治的な影響力があったのだろう。そうした決定が他にはほとんど及んでいないのは、幕府の「閣議」で「砂川家は私人だが公人でもある」との答弁書が作成され、詳細な議事録はシュレッダーにかけられて処分されてしまったからだろう。しかし、写真のように、この場合は水門という実体は残っている。本陣新大谷での宴の領収書は見つからないにせよ。

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見影橋南詰から見た右岸の沿道

 写真は、見影橋の南詰から上水右岸に沿う道路を下流方向に見たものである。明らかに高低差が発生していることが分かる。この高低差は、「立川断層」がもたらしたと考えられている。

 広義の立川断層は、埼玉県の飯能市大字上下名栗(旧入間郡名栗村)から南東に進み府中市の西府町付近にある「立川断層帯」を指す。約33キロに及ぶ断層帯で、1000年に0.2から0.3m、上下のずれが発生していると考えられている。大きな活動は約2万年から約1万3千年前に起こり、東北側が約3mほど隆起した。こうした活動は約1万から1万5千年間隔で起こるとされてきた。今後30年以内に大地震が発生し、その大きさはマグニチュード7.4(最大震度7)とされ、その発生確率は0.5から2%らしい。

 しかし最近の研究には、断層の痕跡は12キロと短く、瑞穂町の箱根ヶ崎から立川より北の12キロにとどまり、しかもこの1万8千年の間に3回の地震があり、直近のものは14、5世紀に発生しているため、次の地震は相当先になるという説もある。それゆえ、立川断層の名は相応しくなく、「箱根ヶ崎断層」に改めるべきとも主張されてもいる。

 私は今秋、著名な地震学者の大地震の予測についての講演を聞いた。数万年前の記録というのは、それ1回限りの記録しか多くは残っておらず、それ以前の状態が分からない以上、次があるともないとも全く予測できないのが実情らしい。つまり、科学的な予測を立てるには、資料が限りなく乏しいというのが事実だとのことだ。

 とはいえ、日本列島は4つのプレート境界上、もしくはその近傍にあるのは確かなので、どこで発生するのかはともかく、いつ大地震が起きてもおかしくないというのも事実であろう。

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見影橋下流方向で右にカーブする上水

 見影橋下流200mほど先で上水は直進を止め、大きく右に曲がって南東方向に進んでいる。ここでまた、国土地理院のweb地図で周囲の標高を確認してみた。カーブ直前の標高は約103m、上水がそのまま直進するとすれば、その先の標高は106mで、3mほど高くなっている。この段差が立川断層のずれによって生じたとすれば、確かに北東側が3m隆起しているのは事実である。地震以外の原因による段丘崖の可能性は排除できないにせよ、上水が直進するとなれば、かなりの深さを切り通す必要が生じてくるのは確かなことである。

 一方、曲がった地点では右岸側が103m前後、左岸側が105m前後になっており、これならば上水の自然流下は可能になっている。しかも、この流路と立川断層帯の地図を重ね合わせるとピッタリ合致するのだ。

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上水は断層に沿って進み、ゆっくり左に曲がって断層帯を脱出する

 上水は断層帯に沿って150mほど進み、ゆっくり左に回りながら断層帯からの脱出を図っている。写真は下流側から上流方向を見たものなので、流れは手前方向にある。したがって、向かいの高い方が左岸側、手前の低い方が右岸側になる。左岸側の標高は105m、右岸側は103m。脱出のためには、やはりやや掘り込む必要があるようだ。

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断層帯に沿って進みやがて左に曲がる様子

 写真は、断層帯に沿って進み、その先で左に曲がり、それからの脱出を図っている姿を右岸側の道から見たものだ。今度は下流方向に見ているので、右手がそのまま右岸側になる。道の先が少し登っているのは、断層帯の上部に上がっていくからだ。もちろん、水は上ることはできないので、前の写真で見たように、掘り込みはやや深くなっている。

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今度は国分寺崖線を越える必要があった

 断層を乗り切った玉川上水は、向きを少しずつ東北東に変え、野火止用水取水口に定めた場所へと進んでいかなければならなかった。しかし、その前には国分寺崖線を越えて武蔵野段丘面に乗る必要があった。

 砂川町4丁目から6丁目付近の崖線の高低差は1~2mほどで、まださほどの段差はない。これが南にいくにしたがって差は増大するために、できるだけ北側の位置で崖線を越えたいのだ。

 写真は、砂川4丁目と6丁目との境辺りで、上水と住宅地の位置の高低差がもっともある場所だった。左手の林の横に上水のフェンスがあり、その左下に流れがある。堀は必ずしも深いというわけではなく、上水の水面のほうが側道面の位置よりも高い「天井川」的なところもあった。写真の土手の高さは104m、一方側道は102mほどで、上水は恐らく102.5mほどのところを流れていると思われた。

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玉川上水駅方向に進む上水と側道

 こうして上水はほんの少しずつでありながら高度を下げ、しかし崖線の下には降りず、ゆっくりと少しだけ北側に寄って流れていった。写真からでも、先のほうが少しだけ土手が低くなっていることが分かるだろう。これは、土手が低くなっているというより、上水路が段丘上に上がりつつあるということなのだ。この辺りの標高は100mほどで、上水の縁の高さでも101mほどなので、ここではもう上水路は完全に段丘上にあることが分かる。

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上水の堀は、川底は玉砂利、側面は玉石で補強されている

 川床をやや深めに掘る場合には、川床に玉砂利を敷き詰め、側面はやや大きめの玉石を並べて補強している。崖線を横切るということはローム層が薄い場所を通過することであり、場合によっては砂礫層にまで達してしまう危険性があるからだ。「水喰土」から流れを保守するため、多摩川に豊富にある玉砂利や玉石を運び込んで補強材として利用しているのだ。立川断層と国分寺崖線という難敵に対処するための工夫だ。

玉川上水駅小平監視所

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玉川上水駅南口。上が多摩都市モノレール、下が西武拝島線

 立川駅多摩湖とを結ぶ「芋窪街道」は、武蔵野台地を南北に行き来する人々にとっては重要な道だ。そのため交通量はとても多くよく渋滞が発生していた。特に写真の場所は今でこそ街道は拝島線をアンダーパスしているもののかつては踏切があったために渋滞のネックになっていた。

 気のせいかもしれないが、西武線の踏切は早めに閉じ、遅めに開くという印象がある。これはJR線でもよく感じる。この点、京王線小田急線は踏切が閉まっている時間はやや短いように思える。ともあれ、玉川上水駅横の踏切は駅に近いせいか電車の動きが遅いためにより閉鎖時間が長く、いつもイライラしていた。それが立体交差になったために踏切待ちという要因はなくなったものの、渋滞がすべて解消されたという訳ではない。やはり、根本原因は東西を結ぶ道に比べ、南北を結ぶ道が圧倒的に少ないということにあるのだろう。その大前提として、武蔵野台地多摩川が造った扇状地で、川も鉄道も道も皆、高いところから低いところに向かうせいだ。

 それはともかく、上水はこの玉川上水駅のすぐ南にある。ここの標高は98m。五日市街道から1キロ近く離れ、大役を果たすためにここにきたのである。

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玉川上水駅から東に300mほど進んだ場所に分岐点がある

 玉川上水駅の東側に野火止用水の取水口がある。ここで上水の流れの3分の1ほどが、埼玉県の新座市方向に進んで行き野火止台地の田畑や人々の喉を潤す。写真のように、分岐点は埋め立てられており、取水口の面影はまったくない。用水を埋め立てた場所には、帯状に樹木が植えられている。

 野火止用水跡に沿って松の木道路があり、また拝島線もそれに沿って次の駅である東大和市駅に向かう。一方、大役を務めた上水は最大の目的地である四谷大木戸に向かうために向きを少しずつ南側に修正し、とりあえずは五日市街道との合流を目指す。その追分場所が写真の辺りである。

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分岐点の手前にある小平監視所

 羽村取水口で取り入れられた多摩川の水は、現在ではこの「小平監視所」が上水としての終着点である。監視所内にはプールがあり、水に混ざった砂がそこで沈殿し、写真のスリットで浮遊物が除去され、水質を「監視」された後、水は地下水路へと流れ込む。地下の導水管を経て東村山浄水場まで進み、最終的には東京都民の飲料水となる。

 東村山浄水場には狭山湖多摩湖の水も集められている。狭山湖の水は多摩川の小作地区で取水されたもの、多摩湖の水は玉川上水第三取水口から流れて蓄えられたもの。つまり、別のルートを経ても、大本はすべて多摩川の水なのである。

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上水の堀には水はなく、遊歩道が整備されている

 玉川上水路に入ることは禁止されているが、ここ小平監視所下の堀にだけは立ち入ることができる。上水の水はすべて消え、空堀になっているからだ。そこには写真にあるような遊歩道が整備され、かつての上水の掘割を見て取ることができる。この辺りはローム層が深いためだろうか、川床は不透水粘土層でしっかり守られているためだろうか、ほぼ素掘りのままの姿をしている。

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整備された護岸から「湧き出る」新たな水

 遊歩道の左岸側(ここでは上流側に視線を向けている)にある石の間から水が湧き出ている。が、その周囲の堤壁といい、水の湧き出る様子といい、何やら不自然さがあるは否めない。それもそのはず、この水は、昭島市にある多摩川上流水再生センターで高度に処理された水が地下の導水管を伝ってここに流れ込んでいるのである。

 玉川上水の水は、1965年までは新宿区の淀橋浄水場まで流されていた。しかし、そこが廃止されたために上水も小平監視所で流れは止められ、しばらくは「空堀」状態だった。それが「清流復活事業」によって1984年、上記の処理水が監視所下から流されることになった。

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再生された上水の流れ

 こうして玉川上水の流れは復活し、現在では小平でも小金井でも三鷹でも杉並でもその流れを見ることができる。しかし、上水の流れは絶えないものの、しかし元の水にあらずなのだった。とはいえ、再生水といっても多摩川の水には違いなく、直接的な連続性は失われても間接的な連続性は保持されている。

 ともあれ、今現在、水は流れている。それは事実である。