徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔50〕3ケタ国道巡遊・R411(4)~柳沢峠から甲府盆地へ。そして少し寄り道

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R411最高地点の柳沢峠からの眺め

丹波山村の中心地から分水嶺へと向かう

 丹波山村の形はどことなく、しっぽの太いマンタが秩父市街に向かって遊弋するようでもあり、太った北海道のようでもある。仮にマンタに例えるなら、右(南東)の胸鰭は鴨沢集落の中心地付近、左(北西)の胸鰭の先に竜喰(りゅうばみ)山(2012m)、口の前にある頭鰭(とうき)の右は七ツ石山(1757m)、左は雲取山(2017m)、太すぎてごく短くなってしまったしっぽの中心部には大菩薩嶺(2057m)がある。

 村の中心はマンタの胴のほぼ中央に位置し、大菩薩嶺の北麓にあるサカリ山(1542m)の北裾を削った貝沢川やマリコ川と、本流の多摩川(地方名は丹波川)が合流するなどして形成された河岸段丘上に多くの家々を集めている。

 前回の最後に挙げた写真は、道の駅を出てR411が村の中心部を進み始めた場所のもので、丹波山村ではもっとも標高の低い620m地点である。ここから西に700mほど進むと家々はほぼなくなり、これからは、北から南へ押し寄せる奥秩父山塊と、南から北に迫り出す大菩薩連嶺の狭間にある渓谷の北側を、標高を稼ぎながらR411は進んでいく。

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谷間を進むR411を青梅向きに見たもの

 写真は標高662m付近を通るR411と周囲の山々を撮影したもの。たまたま北側の崖を整備するために造られたとおぼしき路肩に車をとめることができ、その付近から陽光の向きの関係で青梅方向を撮ってみた。坂は下りだが、R411ではこの向きが上り(八王子方面)となる。丹波山村の集落からここまでの間、北側の崖からは幾筋もの小滝が落ち、道の南側を流れる多摩川丹波川)の対岸の崖も急激に落ち込み、そちらにも無名の滝が数多く流れ落ちる姿を視認できた。今でこそ法面(のりめん)は固められ、落石防止のための防御ネットも張り巡らされているので安全・安心に走行することは可能だが、かつては、いつ落石の攻撃に出会うか、ハラハラドキドキしながらこの道を走ったという記憶は未だに鮮明にある。

 思えば、R411は青梅街道を名乗り始めてからずっと多摩川の左岸を走り続け、奥多摩駅の先で曲流する川の流れの上を直行するため一時的に右岸に移ったこともあるが、それもほんの短い区間だけでまた左岸に戻り、奥多摩湖沿いもずっと北岸(つまり貯水池を多摩川と考えれば左岸)に位置した。

 R411は山梨県に入っても、通称を丹波川に変えた多摩川の左岸を走り続けてきたが、奥多摩駅近くで少しだけ右岸に移ったことがあった以来、26キロぶりで右岸を走ることになった。それは、上の写真のすぐ上流側である。北からは前飛竜(1954m)の南面に源頭を有する「小常木沢」が比較的大きな流れを造って丹波川の流れ込み、合流点付近の左岸側に険しい峡谷を形成しているためであった。その険しさと岩盤の脆さを考慮すると、そこには道を削り出すことは困難だと認定されたのだろう。

 もちろん、右岸側であっても芦沢山(1272m)から下り落ちる尾根や谷筋が丹波川にせりだしている。が、前飛竜から続き小ピークの岩岳(1520m)から急降下してくる尾根や谷のほうが遥かに険しい存在であったため、道は川の右岸に造るよりほかはなかったのだろう。

 撮影地点の100mほど上流にある余慶橋でR411は右岸側に移動した。そこから後述する「おいらん淵」の先辺りまでがR411が辿るもっとも険しく厳しい道程である。とりわけ橋から上流の1.5キロほどの間は、南には高く切り立った崖、北の谷底には丹波川の流れ、その左岸にも切り立ちかつ脆そうな崖と流れ落ちる小滝の連続。道は昼なお暗いために車内からその景観を写すことは不可能で、かといって車道を確保するのが精一杯の道には車をとめるスペースは皆無なので、撮影場所を探すことはできなかった。

 しばし川の右岸に移ったR411だったが、その先にはムジナ沢が南から北へ下り丹波川を「不動滝」となって襲うため、道は右岸に位置し続けることは困難だった。そのため、羽根戸橋と羽根戸トンネルなどを使って、道は左岸に移動して、多くの難所を切り抜けた。

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東京市長だった尾崎行雄多摩川の水源地調査をおこなった

 1961年、浪商高(当時)の尾崎行雄は剛速球投手として活躍し甲子園で優勝を飾った。高校を中退した尾崎は東映フライヤーズ(当時)に入団し、62年に20勝9敗の成績で新人王を獲得。さらに64~66年には3年連続して20勝以上を記録した。私は当時、少年野球に参加しており投手で4番打者だった。球種は直球のみ。投球フォームは尾崎の真似をした。欠点は、投げた球は何処に行くか分からなかったこと。しかし、相手打者はそれを恐れて空振りを多発したため、何度かの試合を経験したが、幸いにも一度も負け投手にはならずに済んだ。

 ほどなく、尾崎行雄は肩の故障のために球界を去り、私は他の遊びのほうに夢中になってしまったため、野球からは離れた。

 ”怪童”と呼ばれた投手・尾崎行雄は、第2代の東京市長(任1903~12)だった「憲政の神様」咢堂・尾崎行雄に因んでそう名付けられたそうだ。その市長のほうの尾崎行雄は、東京市の水源地であった多摩川上流域の森林地帯が荒れ果てて保水力を失い、その結果がまねく水道水の枯渇と質の悪化を危惧した。「東京市民の給水の責務を負っている東京市が、水源林の経営を行うべきである」との考えから「水源地森林経営案」を作成し、その議決を得た尾崎は1909年(明治42)、自ら多摩川の水源域を5日間にわたって実地踏査した。

 本ブログでも「玉川上水」を扱った項で触れたことがあるが、江戸・東京の飲料水は玉川上水にほぼ頼っていた。玉川上水多摩川羽村で取水されていたので、多摩川本流の水量が減じ水質が悪化すれば、それはそのまま東京の水道水に悪影響を与えるのであった。

 多摩川の最上流の枝川のひとつである山梨県に属する泉水谷(せんすいだに)流域はすでに東京府の公有林であったが、最大かつ最重要の水源域である一之瀬川(多摩川最上流域の別称)一帯は山梨県が所有していた。そこで、尾崎は山梨県と粘り強い交渉をおこない、1912年(明治45)3月、当時は萩原山と呼ばれていた広大な水源地一帯を譲り受けることに成功した。そして同年7月、尾崎は偉大な実績を残して市長を退任した。

 尾崎の決断によって東京の水問題は解決の糸口を見出すことができた。以来、荒れ果てた水源域には植林・造林、崩壊地の修復などの手が入り、徐々に美しい混交林の森を形成するようになった。1963年(昭和38)、尾崎の栄誉を称える写真の「尾崎行雄水源踏査記念」碑が、一之瀬川と泉水谷との合流点付近に建てられた。それはR411と泉水谷を管理するための林道とが交わる丁字路のすぐ横にあり、広くはないが駐車スペースもある。

 林道には三条新橋が架かっている。この辺りから多摩川上流の通称は丹波川から一之瀬川に変わり、泉水谷以西と一之瀬川以西は山梨県甲州市に属することになる。ただし、R411は一之瀬川の左岸側を走っているため、もう少しだけ丹波山村を進むことになる。

 尾崎行雄の記念碑までR411は大方、西進してきたが、記念碑の先で北に向きを変える。西には鶏冠山(1716m、黒川山の別称)があるからだ。その山は大菩薩連嶺の最北端に位置し、標高はそれほどでもないが裾野が広い。かつての技術ではとてもその山腹にトンネルを掘ることはできなかったからか、R411はその山を避けるように、川の流れにしたがうように山の北側に迂回しているのだ。

 旧道は一之瀬川の左岸(791m)の崖上(823m)を走っていたが、道の山側は70m以上の高さがある切り立った崖になっており、極めて危険な区間だった。そのため、2018年に「かたなばトンネル」が開通し、落石、斜面の崩落などの危険性は著しく低下したが、反面、渓谷美を望みながらのドライブは叶わなくなった。そのトンネルを出ても、R411はすぐに「大常木トンネル」に入る。旧のトンネル(2010年)は、道路を崖沿いに建設することが不可能な短い区間だけに通っていたが、まだまだ急なカーブがいくつか残っていて危険なため、トンネル区間を長くする工事がおこなわれ、2018年に現在のトンネルに移行した。

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一之瀬高橋トンネルの甲州市側出入口

 さらに、一之瀬川と支流の柳沢川の合流点付近には一の瀬橋だけを架けて、あとは切り立った山肌(比高90m)を固めたり防御ネットを張り巡らしたりして崖下に道を通していたが、2011年、その場所近くに写真の「一之瀬高橋トンネル」を建設し、河川の合流点という極めて脆弱性の高い場所をパスすることになった。トンネルの甲州市側の出入り口のすぐ横には、支流の柳沢川が流れている。

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この流れのすぐ下側に、心霊スポットとして知られている「おいらん淵」がある

 一之瀬高橋トンネルを出たところに架かる橋上から柳沢川を撮影したのが上の写真。この川の左岸側に2011年まで通じていた旧道があり、今は使用されていない一の瀬橋の傍らに「おいらん淵」の碑がある(そうだ)。旧道との合流点付近(橋の西詰)には車を数台とめることの可能なスペースがあり、いつそこを通過しても、最低でも1、2台は車やバイクがとまっている姿を目にする。現在、一の瀬橋に至る旧道の路面は損傷が激しく、また切り立った崖からは無数の落石があり、さらに崩壊箇所もいくつかあるため、車はおろか人の通行も禁止されている。それゆえ、心霊スポットとして名高い「おいらん淵」に行くことはできなくなっている。

 しかし、侵入不可とするために設けられたフェンスの端のネットには人が通れるだけの穴が開けられている(人為的)ので、落石に襲われる危険を覚悟した「好き者」は、その穴を潜り抜けて300mほど歩き、「おいらん淵」まで出掛けて、「亡霊に遭遇する」という「恐怖」を味わうのだ。

 甲斐の国には金山が多く、武田家の繁栄はこの豊富な金のお陰だったとする説をよく聞く。代表的な金山として、富士川(ふじかわ)方面にある「湯之奥金山(中山、内山、茅小屋の総称。下部温泉の奥にある)」と、黒川山(鶏冠山)の谷筋にあった「黒川金山」のふたつがよく知られている。後者の黒川金山多摩川の水源域にある。武田家の金探しは黒川ではなく、まず一之瀬川流域でおこなわれていた。が、砂金は見つかるものの本格的な採掘をおこなうほどの量ではなかった。柳沢川流域や竜喰(りゅうばみ)谷でも同様で見通しは明るくなかった。黒川の谷筋では他の場所より砂金の量が断然に多かったことが判明したため、一之瀬川や柳沢川などでの探索を断念し、総力を黒川谷に集中して本格的な採掘がおこなわれることになった。

 最盛期には「黒川千軒」といわれるほど多くの人々が集められ、「金山衆」と呼ばれる土木技術者(もっとも有名な人物が江戸時代にも活躍した大久保長安)の指導で大量の金が掘られ、武田信虎・信玄・勝頼の軍資金を支えた。こうした場所には当然のごとく「女郎」が集められた。用済みとなった女郎は、金山の秘密を守るために断崖下の谷に落とされ殺害されたという言い伝えがあった。そうした遊女の悲劇話がいつしか「おいらん淵」伝説となったようだ。黒川金山跡は国の史跡に指定されているので、多くの学者・研究家によって現地調査がおこなわれているが、金鉱の採掘跡や住居跡はよく残っているものの、黒川谷に遊郭があったことを示す遺物は一切、発見されていないとのことである。

 「おいらん淵」伝説には明らかな誤りが2つある。ひとつは「おいらん」が間違いで、「おいらん」とは吉原遊郭の高級遊女を指すので江戸時代以降の呼び名であり、戦国時代にはそんな言葉はなかった。せめて「女郎淵」や「遊女淵」の名であれば少しは信憑性が増すのだが。もうひとつは、「おいらん淵」の場所で、伝承されているところは1、2キロ上流部の「ゴリョウの滝」付近とされている。つまり、現在「おいらん淵」とされ、多くの人々が心霊スポットと思い込んでいる場所は、後世の作り話によって設定された場所なのだ。まったく関係のない場所で多くの人々が「心霊現象」を体験する滑稽さ。恐怖は人の外にあるのではなく人の内部から生まれる。そのことに私は興味をいだく。

 一之瀬高橋トンネルからR411は丹波山村を離れて甲州市に入り、柳沢川の左岸近くを柳沢峠方向に進む。今度は行く手に藤尾山(天狗棚山、1606m)が形成した複雑な尾根筋が急な角度で迫ってくるため、道は2つのヘアピンカーブを造ってそれらをかわす。相当に見通しの悪い場所になっているため、そこでもトンネルで尾根筋をパスする計画が進んでおり、予定では2029年に改良工事が完成するとのことだ。

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落合集落を走るR411。写真は丹波山村方向を望んだもの

 ヘアピンカーブの先から少し視界が開けてくる。わずかではあるが平地があり、小さな集落(藤尾地区)が見える。標高1060mほどの場所で、R411が集落に出会うのは丹波山村の中心地以来である。さらに少し進むと落合集落があり、そこは藤尾よりはやや規模の大きい集落である。北からは高橋川と名付けられた小川が柳沢川と落ち合うために「落合」と名付けられたのだろうか。この集落に「東京都水道局水源管理事務所落合出張所」(標高1118m)がある。

 写真にある標識から分かる通り、落合出張所の近くには一之瀬高原に至る林道があり、多摩川の源流域まで進むことができる。出張所の真北を地図上で辿ると、多摩川の最初の一滴が生まれる水干(みずひ、標高1864m)があり、その直上に笠取山(1953m)がそびえている。 

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R411から鶏冠山の山頂付近を望む

 落合出張所辺りから視界はさらに開けてくるようになる。ダラダラと続く坂を上ると、左手に「鶏冠山落合登山口」の標識があるのが見て取れた。その先に広めの路肩があったので車をとめて、鶏冠山が望める場所(標高1160m)を探した。

 山梨には「鶏冠山」は2つあり、どちらも山頂の姿かたちがニワトリの「とさか」に似ているのでそう名付けられたそうだ。ひとつは前述した金山があった黒川山の別称がある鶏冠山(けいかんざん)で、もうひとつは甲武信ヶ岳(2475m)の南にある鶏冠山(とさかやま、山梨市)で、そちらは山容が相当に荒々しいためもあってクライマーに人気がある。

 上の写真は黒川山のほうの鶏冠山。ピーク付近はやや急峻だが、山裾は比較的なだらかで、とりわけ山の西側は傾斜が緩いこともあって、R411は視界が開けた場所を走ることが可能なのだ。道からは柳沢川の姿を見て取ることもできるが、その姿は優しい高原を流れる小川といった風情で、丹波川や一之瀬川が見せていた厳しい峡谷を感じさせるところはまったくない。 

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R411はヘアピンカーブを形成しながら上り下りする

 それでも、西からはときおり急峻な尾根が迫りくる場所があるので、そんなところではヘアピンカーブを造ってR411は標高を稼いでいく。写真は標高1280m地点から上ってきた道を振り返りみたもので、この下方に2つのヘアピンカーブがある。数台のバイクはかなり速いスピードで曲路に進入していった。

柳沢峠から今までとは異なる景色が展開される

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柳沢峠は明治時代に入ってから開削された

 高原を走るR411は近年になって道がよく整備され、道幅は広くなり新しく舗装された路面には凹凸が少ない。こうした道を上り続けてくると、写真の柳沢峠(標高1472m)にたどりつく。

 今でこそ柳沢峠が青梅街道の最高点であり、峠からは一気に坂を下って甲府盆地に入っていくが、この柳沢峠越えの道が開発されたのは明治時代に入ってからで、それ以前は大菩薩峠(1897m)越えが青梅街道のルートであった。かつての青梅街道は甲州裏街道とも呼ばれ、甲州街道の関所を通りたくない人(腕に入れ墨がある犯罪人など)にも利用されていた。そのルートについては後述するが、仮に丹波山ルート(もうひとつは小菅ルート)を使うにせよ、丹波山村の「のめこい湯」がある辺りから青梅街道は山道に入るため、一之瀬、高橋、藤尾、落合などは、まともな道が通じていない隔絶集落だった。

 そこで1873年(明治6)、山梨県令に就いた藤村紫郎はそれらの集落まで繋がる道を開発するための「道路開通告示」を発し、裂石(さけいし、大菩薩峠への登山口がある場所)から丹波山に通じる新たなルートの建設計画をスタートさせた。といっても、当時の技術ではすべて「手掘り」でツルハシや槌を使って山肌を開削していった。

 完成年次は資料によって異なり、78年説、79年説、80年説などがある。開通の祝典がおこなわれたとする関係者の記録(自伝や回顧録など)は残っているので完成年の同定は可能と思われるのだが、当時の役所は今の政府同様、文書保存という概念は有してなかったのかもしれない。この工事の完成によって青梅街道の最高地点は大菩薩峠から柳沢峠に変わった。なお、この峠道が自動車道となったのは、ずっと後の1960年(昭和35)のことであった。

 峠は地域の分かれ目になることが多い。大菩薩峠は小菅と塩山(現在甲州市)、小仏峠武蔵国相模国笹子峠は大月と勝沼(現在甲州市)との境だが、柳沢峠は近代に入ってから開発されたものなので、峠のこっちも向こうも甲州市である。

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峠にあった水道局の石標

 柳沢峠は人為的に造られたものであるにせよ、それに至る道は川の谷筋を利用してルート開発がおこなわれている。峠の北側には柳沢川、南側には重川(おもがわ)があるが、柳沢川は多摩川水系、重川は富士川水系なので、柳沢峠が重要な分水界であることは事実だ。それゆえ、柳沢峠の柳沢川側には写真の石標が建っており、そこら一帯が東京の水源林であることを誇示している。

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駐車場にとまっていた水道局の車

 峠の傍らには駐車スペースがあり、トイレに急ぐ人、峠の茶屋を利用する人、近くの山林を散策する人などの車がとまっていたが、その中に写真の水源管理事務所の車もあった。周辺の山林をパトロールするためか、トイレに駆け込んでいるのかは不明だが。

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峠から望遠レンズで富士山を望む

 本項の冒頭の写真は、柳沢峠の傍らに設えられた小さな展望デッキからの眺めだが、木々や周囲の山々が邪魔になって、それほど視界が効く場所ではない。それでも、富士山が見える場所に設置されているので、立ち寄ってみる価値はある。

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大菩薩ラインはヘアピンやループを使って谷筋を下る

 峠を越えて甲府盆地に向かう旧道の下り坂は、重川(おもがわ)が形成した谷底を這うように造られた道なので、坂は急でかつヘアピンカーブが多数あった。交通量はそれほど多くないにしても観光客がよく使う道なので危険性は高かった。それもあってか、近年は新道の整備が進んでおり、道は幾度も大きなカーブを造りながらも、できるだけ傾斜がゆるやかになるような設計になっている。快適な道である。

 写真から分かる通り、道は谷底近くではなく山の中腹に設えられ、あるときは大きなヘアピン、あるときはループを形成しながら標高を下げて(上げて)いく。このため、谷底を這っていた道では視界が開けてはいなかったが、今では遠望することも可能になった。景観に気を取られていると危険ではあるが。

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下り道の途中に車をとめて富士山を眺める

 新道になって路肩のスペースにも余裕が出来たので、適当な場所に車をとめて上の写真を撮ってみた。これからのR411は、富士山を望みながら甲府市街へと進んでいくことになる。

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閉館になって久しい介山記念館

 裂石温泉の看板が見える場所の先に駐車スペースがある。その対面にもスペースがあり、地図で確認すると、「裂石観音」の表示があった。その一角に建てられているのがあ、写真の「大菩薩峠・介山記念館」である。建物は新しめで、傍らには「机龍之介」の像もあった。だが、記念館は閉鎖されているようで人の気配はまったくなかった。龍之介だけでなく、記念館も「音なしの構え」だった。

 裂石温泉には「雲峰荘」という宿があるが、この記念館はその宿の主人が自費で建造したらしい。調べたところによるとかなり貴重な資料が集められていはずなのだが、県の観光課との対立が生じたためか地図にはまったくその存在は記載されていない。グーグルマップでも、「裂石観音」の表記はあるが「介山記念館」の名はない。そのためもあってか訪れる人は少なく、結果、閉館されてしまったようだ。『大菩薩峠』ファンの私としては、誠に残念な思いがする。 

大菩薩峠に触れるために上日川峠を目指す

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大菩薩峠入口交差点

 介山記念館の見学が叶わなかった私は、気を取り直してR411に戻った。大菩薩ラインが形成した最後から3番目(柳沢峠から数えて)のヘアピンカーブを曲がった先に見えたのが、写真の「大菩薩峠入口交差点」である。

 今回はR411を辿る徘徊だが、介山記念館を見学できなかった代わりとして丁字路を左折して大菩薩峠を「目指す」ことにした。県道201号線(塩山停車場大菩薩嶺線、r201)を進んでも大菩薩峠に至ることはできないが、峠に近づくことは可能だ。このr201は冬期に閉鎖されてしまう(昨年は12月10日から)し、かつては進入時間規制もおこなわれていたので、通る機会があまりない道なのだ。私がこの道に入るのは5年振りである。

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大菩薩峠登山口バス停

 交差点を曲がったすぐのところに写真の「大菩薩峠登山口」バス停(標高893m)がある。大菩薩嶺登山ではなく大菩薩峠登山であることが興味深い。裂石から柳沢峠を越えて丹波山に至る道ができる前は、私がこれから進むr201のある道筋が大菩薩峠(1897m)に至る(すなわち旧青梅街道)ルートだった。それゆえ、このバス停が存在する場所は、「これから大菩薩峠を目指して頑張って登っていくぞ」と気合を入れるところなのだ。なにしろ、比高(高低差)は約1000mもあるのだから。 

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県道201号線を上って上日川峠を目指す

 登山道(旧青梅街道筋)は途中から尾根筋を進むことになるので、r201からはまもなく離れる。一方、道路は一気に上り詰めることは不可能なので、曲路を形成しながら徐々に高度を稼いでいく。地図を確認すると、r201には裂石から終点の上日川峠(かみひかわとうげ、標高1584m)まで24か所ものヘアピンカーブが存在する。写真は終点に近い場所を撮影したものだが、これは上り下りする車の邪魔にならないような場所を選んだからであって、道の半分以上は車がすれ違えないほどの幅しかなかった。実際、下ってくる車とすれ違うために5回ほど道幅が広い場所までバックすることを余儀なくされた。そのすべては、対向車が幅広の場所で退避せず、しかも無灯火で突進してきたことによる。近年、アホウな運転手が激増している。困ったことである。

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上日川峠にある道路標識

 写真は上日川峠に建てられている道路標識。標識から分かる通り、峠方向に車が入ることのできる山道はある(標高1705mまで)が、それは登山道のところどころに山小屋があり、登山者の救助などに使用する車ための専用道なので、一般車両は進入できない。峠の周辺にはかなりの数の車がとめられる無料駐車場があるのだがほとんど満車状態で、路肩にとめている車も数十台はあった。

 峠の先は県道218号線(大菩薩初鹿野線、r218)になっていて、こちらはr201に比べるとはるかに道幅は広く路面もよく手入れがされている。何しろ、観光バスや路線バスも上り下りするぐらいなので。日川(ひかわ)沿いを走るr218は国道20号線(R20、甲州街道)に合流しており、新笹子トンネルのすぐ近くに出ることができる。路線バスは中央線の甲斐大和駅からやってくる。

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大菩薩の宿・ロッヂ長兵衛

 上日川峠には写真の「ロッヂ長兵衛」がある。宿泊だけでなく休憩所としても利用できるらしい。設備もよく整っており「山小屋」というよりペンションという感じとのこと。私が仮に大菩薩登山をおこなうにしても日帰りで十分なのでここを利用することはないだろう。が、好ましい評判を見聞きするにつれ、「そのうちに利用したい」とは思わないが、「以前に利用すれば良かった」という少しの後悔はなくもない。

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登山道の入口にある登山時間指標板

 ロッヂの横に登山道があり、その入口に写真の案内板がある。それによれば、大菩薩峠までは1時間15分である。比高は300mほどなので、高尾山よりも楽かもしれないと思ってしまった。大菩薩の頂上まではさらに65分もあるので、そこまでは考える必要はまったくないが、峠までなら「ありかも」。もっとも、「コロナ禍が収まれば来年の5月頃にチャレンジしたい」と考えているうちは、まず実現しそうもない。来年の事を言えば、鬼だけでなく菩薩も笑うだろう。

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上日川峠から大菩薩ラインを望む

 峠の駐車場からは「大菩薩ライン」が見えた。R411は、あのような曲路を形成しながら上り下りしているのだ。あの道を下って裂石に出て、そこからr201を上ってこの峠まできたのだった。

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上日川峠から南アルプスを望む

 峠からは南アルプスの連なりも視認できた。雲の上に雪を纏った岩肌を見せているのは農鳥岳(標高3026m)、間ノ岳(3190m)、北岳(3193m)の白峰(白根)三山だ。この山並みも富士山同様、R411を甲府市街に進んでいくときによく視界に入る。大学時代にこの山々に登ることを友人に誘われたが、私には高尾山が精一杯だったので丁重に断りを入れた。山は望むためにあり、臨むためにあるのではない。

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大菩薩湖と富士山

 上日川峠ではUターンせず、もう少しだけ県道を進んでみた。先述したように、峠の先はr218になり、道は格段に走りやすくなる。先に進んだ理由は簡単で、峠からは大菩薩嶺大菩薩峠も見ることはできないからだ。

 上日川峠の南側は下り斜面になるものの、r218は大菩薩嶺の8合目付近をしばらく東方向へ進むので、少しだけ上り道となり1625m地点まで進んで、それ以降に南に向きを変えて下っていく。下りはじめた先に見えてくるのが写真の大菩薩湖で、まずは湖の北岸に出てみた。ここからは富士山がよく見えるからだ。 

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大菩薩峠を望む

 大菩薩湖の北岸に至る道には大菩薩峠を間近に見ることができる場所がある。大菩薩嶺の南面にはミヤコザサに覆われる草原が広がり、カラマツやハリモリはまばらに育っているのみである。山の斜面が草原化するのは、過剰な焼き畑、地質、強風などが原因であることが多いようだが、大菩薩峠一帯が草原化した理由は不明だそうだ。

 草原化されたことで、登山客や峠を行き交う人には富士山をはじめとして周囲の山々の姿に触れることができるという楽しみがある。ただし、風を遮るものがほとんどないので大風のときは苦労するそうだが。

 「大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実らすと申し伝えられてあります。」

 これは中里介山羽村出身)が著した大河小説『大菩薩峠』の書き出しだ。このあとにも甲州裏街道の解説が少し続くが、第二節に机龍之介(竜之介)が登場し、峠で休んでいた老人を辻斬りする場面となる。

 『大菩薩峠』は原稿用紙15000枚にも及ぶ世界最大の「通俗大衆小説」と言われるが、介山自身は「大衆小説」と呼ばれることを嫌い、自らは「大乗小説」と語っていた。確かに、登場する人物はひとり(お松)をのぞいて、善悪では測り切れない価値意識を有し多面的な行動をおこなう。この小説を題材にして語り始めると本ブログでは10回程度の量が必要になるのでここではこれ以上、触れることはしない。

 大菩薩峠の名を『大菩薩峠』(小説ではなく紙芝居か映画)から知った人は多い(私もそのひとり)が、実は、小説では冒頭の部分以外に「大菩薩峠」はほとんど出てこない。しかし、「大菩薩」の名前が象徴する出来事は全編に渡って登場する。何しろ、「大乗小説」なのだから。そう考えると、題名は『大菩薩峠』以外にはなく、これが『柳沢峠』であったなら、まったく意味不明のものになるし、おそらく人気も出なかっただろう。

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石丸峠を望む

 大菩薩峠のすぐ南南東には写真の石丸峠(標高1910m)がある。写真の右手あたりに石丸峠があり、その左の小高いピーク(1990m)の左手に大菩薩峠がある。

 先述したように、かつての青梅街道は大菩薩峠を越える道筋をとっていた。江戸・東京からは現在の奥多摩湖西辺まで進み、前回に挙げた深山橋のところで道は二手に分かれる(もちろん、当時は奥多摩湖も深山橋も存在しない)。ひとつは丹波山ルートで、もうひとつは小菅ルート。丹波山ルートは直接、大菩薩峠に向かい、小菅ルートは小菅川沿いを遡上し、途中から尾根を伝って石丸峠に出てから大菩薩峠に向かう。大菩薩峠からはまた一本道になって上日川峠、裂石と下る。

 現在でも、かつての丹波山ルートや小菅ルートの大半は大菩薩峠登山道として利用されている。最初期の青梅街道は小菅ルートが主だったそうだが、途中からは丹波山ルートがメインになったと言われている。どちらにしても、厳しい道程であることは変わりない。

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上日川ダムから大菩薩嶺を望む

 折角なので上日川ダム(1999年完成)にも立ち寄った。写真はダムの堤の上から大菩薩嶺の姿を望んだもの。

 大菩薩湖は人造湖で、大菩薩連嶺の小金沢山(2014m)をはさんだ東側にある葛野川(かずのがわ)発電所の「松姫湖」と対になる湖である。葛野川発電所は揚水式発電をおこない、その上池が大菩薩湖で下池は松姫湖となる。夜間電力を用いて松姫湖の水を上にある大菩薩湖に送り、昼間は大菩薩湖から松姫湖に水を落とし、その水流で発電をおこなう。発電量は120万キロワット(最大出力は160万キロワット)もあり、大型原発一基分に相当する。

 上日川ダムの標高は1486m、葛野川ダムは740m。上池と下池との有効落差は714mもある。それだけに膨大な出力が稼げるので、120万キロワットもの発電が可能になっている。なお、日川は富士川水系葛野川相模川水系と、上池と下池の水系はまったく異なっている。この点も揚水式発電所としては珍しいらしい。

 上日川ダムには大菩薩を間近に目にするために出掛けることがよくある。葛野川ダムには出掛けないが、下流葛野川は私のアユ釣りのホームグラウンドである。

R411に戻って甲府市街を目指す 

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甲府盆地に向かってひたすら下るR411

 R411に戻り、再び甲府盆地へ落ち込むことにした。R411としては最後となる2つのヘアピンカーブがあり、そのカーブに入る手前に車をとめて、そこから望むことが可能な範囲の甲府盆地の姿を撮影してみた。

 街並みは甲州市塩山(旧塩山市)であり、塩山の名の由来となった「塩ノ山」(標高553m)も見て取ることができた。撮影地点の標高は833m、ゴール地点である甲府警察署前交差点は266m。まだまだR411は下り続けるのだ。

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R411から大菩薩嶺を望む

 R411最後のヘアピンカーブの場所に、写真の甲州市交流保養センター「大菩薩の湯」があり、そのほぼ真上に大菩薩嶺がそびえている。R411はこの大菩薩嶺を背負いながら甲府市街に進むのでその姿を目にすることはできないが、私はときおり車をとめて振り返り、菩薩様を拝見する。大菩薩を何度も眺めると、その山容は菩薩に見えてくる。というより、菩薩が存在しているとしか思えなくなる。もっとも、菩薩の姿などありはしないはずなのだが。

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甲府盆地の端を眺めながら大菩薩ラインを下る

 ずいぶんと下ってきた。塩ノ山の姿もよく分かる。その山の向こうには、雁坂峠(実際には雁坂トンネル)を下ってきた国道140号線(秩父往還)が走っている。R140も魅力的な3ケタ国道である。

 下るごとに甲府盆地の広がりを、よりはっきりと確認できるようになる。少しずつ盆地の全容に迫っていく。この点も、R411を走る喜びのひとつなのである。

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小田原橋から大菩薩嶺を眺める

 重川の右岸側を走ってきたR411は、写真の小田原橋で左岸側に移る。三叉路脇(標高626m)に車をとめ、再び大菩薩嶺を眺めた。

 手前にある黄色の警告表示板が目に入り、その文言の間違いに気が付いた。いや、それは2005年以前からあるもので、いまだ訂正がおこなわれていないだけかもしれない。それにしては新しいものに見える。

 そのことが気になり始めると、もはや私には、大菩薩嶺は非存在的存在になってしまった。

 些細なことが大いに気に掛かる。まだ、修行が足りないようだ。合掌。