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徘徊老人の小さな旅季行

〔37〕八王子の城跡を歩く(2)悲劇の八王子城(前編)

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8年前に建てられたガイダンス施設内の展示(現在はコロナ禍で休館中)

八王子城造営にいたる時代背景

 天正18年(1590年)6月14日、現在の埼玉県寄居町にある「鉢形城」は豊臣勢の北国支隊ら35000の兵に包囲されながら約一か月間の籠城戦を戦ったものの遂に開城した。城主の北条氏邦(氏照の弟)は降伏したが、北国支隊のリーダーであった加賀の前田利家豊臣秀吉に彼の助命嘆願をおこなったことで許され、後に氏邦は前田家の家臣となった。

  鉢形城が落ちたことで、残された北条側の支城は八王子城のほか、忍城(埼玉県行田市)と津久井城(神奈川県相模原市)だけとなった。忍(おし)城について本ブログでは、行田市古代蓮や古墳群を見るために訪れた際に触れている(cf.16・古代蓮の項)。忍城は北条氏に従属する国衆である成田氏の居城で、「浮き城」とも呼ばれた難攻不落の城だった。八王子城(6月23日)や津久井城(6月25日)が落城した後も石田三成率いる秀吉軍からの攻撃に良く耐え、結局、小田原城の開城(7月5日)が決定されたことで忍城も籠城を解くことになった。津久井城は北条家当主に支配権があるものの実際の領地運営の多くを城主(内藤家)に委任されていた。八王子城の落城後に徳川軍の本多忠勝が中心となって津久井城に攻め込んだが、大きな抵抗もなく落城した。

 八王子城北条氏照が造営した山城である。先の「滝山城」の項で述べたように、1569年の武田軍の侵攻によって滝山城は落城寸前にいたったこともあり、より守りが強固な城の必要性を氏照は痛感していた。その一方、彼は北条側の軍事外交権の一切を任される立場であったため、城建設に実際に着手したのは80年代に入ってからとされている。70年代は北条氏が4代当主氏政(氏照の兄)のもとで領域を下野(栃木県)や下総(千葉県)にまで広げた時期で、下野の小山領や下総の栗橋領は氏照の支配下に組み込まれた。かように氏照にはこの時期、頼りないダメな兄の氏政に変わって北条家の勢力拡大のために奔走していたので、八王子城の造営を指揮する余裕はなかったと考えられる。

 八王子城の構想自体は1570年代にはすでにあったとされ、77、78年頃には根小屋地区(家臣団の集落地)の建設が始まっていたという説がある。さらに、『新編武蔵風土記稿』には、「天正6年(1578年)北条陸奥守氏照、滝山の城をここに(深沢山のこと)引移しける時、當社(牛頭山神護寺のこと)を城の守護神と定めける」とあり、八王子城への移転を78年であると記している。もっとも、79年の武田勝頼との戦いではあくまで滝山城を本拠にする予定だったようなので、要害地区(城の中核部分)そのものの建設はまったくといいほど進んでいなかったと考えられる。80年の3月に氏照は、織田家へ家臣の間宮綱信を使者として派遣したが、その際、間宮は安土城をつぶさに見学し、その地で得た知見を八王子城の造営に生かしたとされている。とりわけ、石垣の構築法は安土城に酷似していると考えられている。このように、70年代には八王子城の萌芽はあったものの、本格的な工事は行われていなかったと思われる。

 氏照が八王子城造営に最終的なゴーサインを出したのは82年(本能寺の変があった年=”十五夜に(1582)本能寺の変を知る”と年号を暗記した)だという説がある。この年に武田軍は織田軍に攻め込まれ、武田側の要衝であった高遠城(長野県伊那市)を守っていた武田勝頼の異母弟である仁科盛信が、織田信忠(信長の長男)軍に殺害され僅か一日で落城した。この高遠城の敗北によって武田側は一気に劣勢に追い込まれ、同年に武田氏は滅亡したという経緯があった。これを知った氏照は織田軍、さらに豊臣秀吉軍に対抗するために鉄壁の守りを有する山城の建設を急ぐことになったと考えられている。

 八王子城が氏照の居城であったことを示す史料は『狩野宗円書状』が初見らしい。これは天正15年(1587年)3月に記されたもので、遅くとも87年には城としての体裁がそれなりに整っていたようだ。それより早い時期に氏照が八王子城に入っていたことを示す確実な証拠はないらしいが、史家の間では傍証から84年頃には滝山城から八王子城に移ったと考えられているようだ。これは、氏照に関して残されている史料からは84年以降、「滝山城」の文字が一切、現れなくなったからとのことだ。八王子城移転は84年説、87年説があるにせよ、この城の規模はとても巨大な(敷地面積は400ha以上)もので、しかも山城であるために、落城した90年6月の時点では未完成だったする説は非常に多い。

なぜ、八王子城なのか?

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八王子城は深沢山(現在は八王子城山)に造営された

 北条氏照はなぜ、平地にではなく、時代に逆行するような山城をあえて築いたのだろうか?なぜ、八王子の深沢山に城を築くことにしたのだろうか?

 戦国時代の後半期ともなると、城は軍事拠点としてだけでなく政治・経済の中心地的な意味を有するようになる。そもそも室町時代貨幣経済が急速に発展した時期でもあった。貨幣経済そのものは鎌倉時代に中国から「宋銭」が入ったことで盛んになり始めていたが、室町期は中国から「永楽通宝」が入って日明貿易勘合貿易)が盛んになり経済は大いに発展を遂げた。優美で煌びやかな北山文化金閣寺が代表的)、簡素で洗練された東山文化(銀閣寺が代表的)が室町時代に栄えたのは、その背後に経済発展があったからと考えられる。

 戦国時代は群雄割拠の混乱期であり経済発展は一時、停滞していたこともあったようだが、戦国大名はその力を蓄えるためにも農業政策を重視したことも確かである。当時の言葉に「ただ草のなびく様になる御百姓」というのがある。当時の農民はある点では身軽なので、領主の悪政に対しては、いつでも村を捨てる(逃散)覚悟があった。それゆえ、支配者は農民との良好な関係を保つよう努力した。氏照が築いた滝山城であれば、先の項で述べたように城内の中腹には2つの池があったのだが、これは家臣団のための溜池というばかりでなく、谷戸に住む農民のための農業用水としても用いられた。後述するが、これは八王子城でも同様で、城内を流れる城山川にはいくつか堰を築いて池を造り、この水を下流に住む農民に提供していたと考えられている。

 話を元に戻す。上記のように経済の発展から城は平地に造り、天守閣や御三階櫓(やぐら)から庶民の暮らしを睥睨するという姿が一般的になって来てはいたのだが、氏照には武田勢、さらに織田や秀吉勢の攻撃から守り抜かねばならないという事情と、安土城の鉄壁な防御態勢を学習済みであったことから、あえて守り優先の山城の構築を考えたことだと思われる。

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八王子城の出城があった小田野城

 八王子の深沢山は地理的に絶妙な位置にある。北側には案下道(現在の陣馬街道)、南側には古甲州道が通っている。いずれも、甲斐から武蔵に抜ける重要な道である。案下道には和田峠、古甲州道には小仏峠がある。1569年の滝山合戦では小仏峠を越えてきた武田勢の別動隊である小山田信茂の軍勢の奇襲に苦戦を強いられた。この反省から小仏峠側の守りを固める必要があったのだ。一方、案下道側には氏照が育った大石家の浄福寺城(八王子市下恩方町)があり、さらに家臣の小田野源太左衛門が居る小田野城(八王子市西寺片町、真下に都道61号線・美山通りのトンネルがある)という出城があった。

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深沢山九合目からの眺め。関東平野が一望できる

 後述するが、八王子城跡のある場所の多くは国有林となっているために現在は樹木の伐採が禁じられており、登山ルートの大半は見通しが良くない。しかし、写真の通り九合目付近(標高約430m)は足元が切り立った崖になっているためか樹木がほとんどないので関東平野がよく見渡せる。城があった当時は周囲の状況を知るために当然、樹木の大半は伐採されていたはずだ。西側には景信山(標高727m)、南側には高尾山(標高599m)があるために見通しは良くないが、北側の案下道方面、北東側の滝山城、拝島方面、東側の武蔵国衙(つまり府中)方面、南東の鎌倉方面は登山道の至る場所からはっきりと視認できたと考えられる。そうでなければ、敵の動きは察知できないからだ。

氏照と宗教

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八王子城中の丸跡に建つ修験者像

 氏照は小田原北条家の軍事外交権を掌握していた武闘派という面だけでなく、様々な宗教政策を用いて自らの領地に住む民衆の人心掌握を図っていた。実際、八王子城が落城する際の戦いには多くの宗教関係者が参加していた。 八王子市を代表する寺で、童謡『夕焼小焼』の鐘の音の候補のひとつとされる「宝生寺」(cf.18・浅川旅情後編)の十世頼紹、西蓮寺の六代住職の祐覚、大国魂神社(当時は六所宮)の大宮司の猿渡(さわたり)盛正はこの戦いに北条側で参戦して戦死している。

 また、氏照の配下には多くの修験者・山伏がいて、八王子城小田原城との伝令役、敵方(上杉勢、武田勢、豊臣勢)の動きを探る間諜役として活躍していた。そもそも、深沢山そのものが修験道の聖山であり修行場であった。八王子西部の山間地には熊野修験の霊場が多く存在し、もっともよく知られているのは深沢山の隣にある高尾山だろう。また、周辺には「今熊神社」や「熊野神社」が数多く存在している。

 修験道の開祖といえば有名な役小角(えんのおづぬ、役行者)の名が挙がる。奈良の吉野山から紀伊・熊野山中への大峰奥駈道を開拓したことで知られている人物だ。その流れをくむ本山派修験宗の総本山は京都にある聖護院である。聖護院といえば「聖護院八ツ橋」「聖護院大根」「聖護院かぶ」などがとても有名だが、私にとっては府中一中時代の修学旅行の宿泊先が「聖護院御殿荘」だったということにもっとも強い印象があり今でも記憶にある。京都や奈良で何を見学したのかは全く覚えていないが、修学旅行専用列車が「ひので」だったこと、その夜行列車「ひので」の車内で学年一の美少女に頭を強く叩かれたこと、そして件の御殿荘の部屋で枕投げどころか布団投げをおこない「ふとんがふっとんだ!」と叫んでいたことなどが懐かしき記憶として鮮明に残っている。

 15世紀後半に著された『廻国雑記』は北陸、関東、奥羽地域の寺や名所を巡った紀行文で、当時を知るための史料的価値はきわめて高いという評価があるが、これを著した道興准后は聖護院の門跡であった。この作品は表面的には歌枕を訪ね歩く旅の様子を記録したものとされているが、道興准后の真の目的は、各地を巡って熊野先達の組織化を図るというものだったとされている。こうしてこの時期に、八王子方面を支配していた大石氏、ついで北条氏照が修験者との結び付きを強固なものにしたのだろう。

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八王子城跡の登山道入り口にある鳥居

  深沢山には「八王子神社」がある。開祖は普賢菩薩・妙行で、山頂の岩屋で修行中に牛頭天王と八人の王子が現れ、八王子権現社の設立を勧請したという。牛頭天王は京都祇園社の祭神であり、日吉山王権現とも称される。日吉(ひえ)は比叡=比叡山を表し、天台宗の本山であると同時に山岳信仰の中心地でもある。また牛頭天王スサノオの本地とも考えられているので、この宗教的立場は山岳信仰天台宗神道が融合したものである。妙行が開いた八王子権現朱雀天皇に認知され、牛頭山神護寺(現在の宗閑寺)の名が与えられた。この信仰は八人の王子を祭神とするため、ここの地名は八王子と称されるようになった。

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八王子市の名の由来となった八王子神社

 八王子神社の社殿は八王子城跡・中の丸にある。なにやらうらぶれた様相ではあるが、この山は前述のように国有林となっているので改築・新築は容易ではないのかもしれない。屋根の一部が折れ曲がっているのは、昨年の台風15号の強風によるものだろう。

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隙間だらけの社殿の中をのぞく

 隙間だらけの社殿の中をのぞいてみた。中には小さいがそれなりの風格をもった社があった。バラック風の社殿はこの立派?な社を保護するための覆いと考えれば、うらぶれた外観も了解可能かもしれない。そう、平泉・中尊寺金色堂を守る「覆堂」のごとくに。いや、それにしてもみすぼらしい。ここは市名の発出点なのに!

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望遠レンズで高尾山方面をのぞいた

  二の丸(松木曲輪)からは八王子山岳信仰の親玉格である高尾山が見える。写真は標準換算350ミリの望遠レンズでのぞいたものなので、肉眼ではもう少し小さく見える。写真にある建造物はケーブルカーの駅舎かと思われる。

 深沢山(現在の八王子城山)と高尾山との間には古甲州道が通り、現在では中央自動車道首都圏中央連絡自動車道(通称は圏央道)とが通っている。中央道は古甲州道に並行しているので深沢山と高尾山との間の谷底を走っているだけだが、圏央道は両者をトンネルを使って串刺しにしている。ラジオで交通情報を聞いていると、高速道路の渋滞情報ではよく「圏央道八王子城跡トンネルで〇キロ渋滞」「圏央道・高尾山トンネルで△キロ渋滞」というアナウンスが流れる。両者のトンネルの間はわずかばかりだけ地上に顔を出し、そこには中央道とをつなぐ八王子ジャンクションがある。中央道のほうは地表を進むのでまだましだが、圏央道のほうは青梅側から合流するにせよ厚木側から合流するにせよ、トンネルを出るとすぐ側道に入らなければならないため、トンネル出口付近の事故はとても多い。心霊スポット好きの知人はこれを八王子城の悲劇の祟りだと言うのだが……お前の頭のほうが祟られているのでは、と反論したくなるが……最近では大人の対応をしている。

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神護寺があった場所には氏照と家臣団の墓がある

 氏照は1559年頃に由井(現在の八王子市域)の領主として浄福寺城に入り領国支配を開始した。それまでは由井源三を名乗っていたが、この時期からは養子先の大石姓を用いるようになった。

 61年には高尾山に椚田(くぬきだ)谷の一地域を寄進した。その背景には、当時は越後の上杉謙信と関東の地の争奪戦をおこなっていたため、武運を祈願し、あわせて人心収攬を図るという目的があった。62年には青梅の金剛寺に門内不入権を与え寺領を安堵した。65年には座間の星谷寺に竹林伐採を禁じる制札を立てた。これも寺領が外部の者に荒らされないよう保護したものだ。同年、府中の高安寺に寺中棟別銭免除を認めた。いわゆる不輸権の承認である。67年には八王子の大寺である宝生寺を滝山城下への移転を勧告した。これは未達成であったものの、城下に著名な寺を置くことで人心の掌握を一層、推し進めようする考えに基づいている。69年頃に牛頭山神護寺を深沢山の麓に建立した。さらに71年には神護寺境内での殺生、竹木伐採、乱暴狼藉の禁止をおこなった。81年には高麗郡(現在の狭山市)にある笹井観音堂の年行事職の任免権を氏照が得た。この観音堂は聖護院本山派の武蔵国の拠点のひとつであったため、氏照は修験者・山伏との結び付きを一層、強めることになった。

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神護寺は現在、宗閑寺と呼ばれている

 中世、寺社の力はとても強く、ときには将軍や朝廷の存在を脅かすほどの存在であった。鎌倉時代の初期には新仏教の浄土宗・浄土真宗臨済宗曹洞宗などが武家や庶民の間に広まり、それに対抗すべく、旧来からある天台宗真言宗も勢力を拡大し政治に対抗した。例えば1414年の『高野山文書』には以下の下りがある。「部外者の検断吏が境内に入り、そのに逃げ込んだ誰かを罪人だと称して、問答無用で理不尽に殺害することは認めない。犯罪者であることが事実だとしても、高野山の沙汰所の許可を得てから逮捕せよ」。これは、高野山境内の入口に立てられた制札の文言である。

 中世の寺社は「アジール」としての性格を有していた。アジールは「平和領域」「避難所」という意味がある。「駆け込み寺」「縁切寺」も一種のアジールである。一般には「平和聖性にもとづく庇護・およびその庇護を提供する特定の時間・場所・人物」とアジールは定義されている。

 アジールの背景には宗教的・魔術的観念が必要不可欠で、アジールには周囲よりもオレンダまたはハイル(ともに神的な力を意味する)が凝集されており、オレンダ・ハイルに接触した人間はアジールの保護を受ける。これを「感染呪術」とか「接触呪術」といい、人々が神仏に触れたり(ex.とげぬき地蔵)、神社仏閣に参拝したり(ex.初詣)、お札やお守りを有するのはオレンダに感染し、自己の安寧を図るためだ。

 塀に「立小便禁止」と記すより、鳥居の絵を描くと効果があるとされているようで、今でもときおり見掛けるが、これもアジールの一種と考えられる。観念的動物である人間は鳥居に立ションするのは憚られるが、犬には信仰心がないので効き目はない。私の場合はオレンダには感染しないので鳥居の絵は通用せず、むしろ的になる。とはいえ、緊急避難時以外は塀に立ションはしないが。近代になると社会は合理化が進み、政治も「伝統的支配」や「カリスマ的支配」から「合法的の支配」へと移行する。ウェーバーはこれを「脱呪術化」と呼んだ。

 氏照は先に述べたように寺社勢力を取り込むことによって領地支配の安定化を図った。しかし、それだけでは民衆の心を真に掴むことはできない。そのためもあってか、1573年には西蓮寺内にある「御嶽権現」の落成を祝って「龍頭舞」が氏照の命によっておこなわれ、以来、この行事は現在でも伝統芸能として八王子市石川町で挙行されているそうだ。また、やはり現在、狭間町でおこなわれている「獅子舞」は90年に氏照から獅子を拝領したことが起源とされている。このようの、民衆と一体となって祝い事をおこなう。これもまた「ハレの時と場所」を共有するアジールの一種と考えられる。

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宗閑寺の梵鐘は八王子城合戦に備えて供出させられた

 小田原北条氏とは直接のつながりはないが(最近の研究では伊勢新九郎は北条氏の遠縁であることが判明している)、鎌倉時代に執権政治をおこなった北条泰時は1232年に「御成敗式目」を制定している。この第一条は「神社を修理して祭りを大切にすること」、第二条には「寺や塔を修理して僧侶としての勤めをおこなうこと」とある。第三条に至って「守護の仕事について」の定めが出てくる。御成敗式目武家社会の伝統や慣習を明文化したものであるにも関わらず、冒頭には「宗教政策」についての定めがあるのだ。また、小田原北条家の祖である北条早雲伊勢新九郎)は北条家の家訓として「早雲寺殿二十一箇条」を定めたが、この第一条は「仏神を信じなさい」とある。やはり、冒頭には宗教について述べている。ことほど左様に、この時代は政治と宗教が密接に関係していた。

 「御成敗式目」は中学校社会科にも出てくる(多分?)ほど日本史では基礎中の基礎知識なのだが、これが制定されるようになった背景は案外、知られていない。当時、1230年に始まった「寛喜の飢饉」が猛威をふるっていたのだ。30年7月には岐阜や埼玉で降雪があるなど冷夏と長雨続きだった。だが、31年には一転して酷暑となり、「天下の人種、三分の一失す」と言われるほど不作の連続だった。こうした領民の苦難を精神的に救済するため、何よりもまず為政者が神仏の敬うという方策がとられたのである。併せて改元がおこなわれて「貞永」に変わった。「御成敗式目」が「貞永式目」とも呼ばれるのはこのことによる。

 氏照もまた早雲に倣い宗教や宗教家を保護したが、それには限界があった。豊臣秀吉との対立が深まりつつあった1587年、鉄砲、大筒、弾丸の材料が底をついたため寺社にある梵鐘の供出を開始したのである。牛頭山神護寺の鐘も例外ではなかった。さらに本来、公界者(俗界と縁を切った者)であるはずの修験者・山伏を伝令や間諜に使い、俗世間に引き戻した。また、農民も八王子城建設に駆り出され、さらには兵士に加えられた。

 アジールとしての八王子城は一転、戦場へと転化したのである。

 

*後編に続きます