この日はメニューが盛り沢山なので、早々と舞鶴を出発して大好きな由良川橋梁に向かうことにした。が、舞鶴で何も見学しないのも素っ気ない思いがしたので、「赤れんがパーク」に立ち寄ることにした。
旧海軍軍需本部地区だったところに12棟の赤れんが倉庫が残っていて、その内の7棟を整備して「舞鶴赤れんがパーク」を発足させた。現在は5棟の内部が改装されてイベントホール、博物館、カフェなどに利用されている。
天邪鬼な私は、整備された赤れんが倉庫には出掛けず、写真にある未整備の建物を見て回った。
写真のように、半ば廃棄場と化した倉庫もあり、こちらの方に歴史の重さを感じたのだった。
国道27号線を西に進み、西舞鶴地区からは国道175号線、由良川を渡った先にある八田交差点を右折し、今度は国道178号線を由良川左岸に沿って北上した。7キロほど北に進むと道は由良川の河口左岸側で左折するが、その直前に京都丹後鉄道の由良川橋梁がある。河口の手前に「照国稲荷神社」があり、その境内が有料駐車場になっているのでそこに駐車した。
由良川橋梁を初めて目にしたのは今から20年ほど前だが、以来、この辺りを車で走る時は必ず止まって、しばし由良川左岸を散策するのである。写真は、由良川河口を左岸側から写したものだが、私のお目当ては、河口から僅か600mほど遡った地点にある橋梁である。当時は北近畿タンゴ鉄道の名称だったのでどうしても、今でもタンゴ鉄道と呼んでしまうが、現在は京都丹後鉄道に変わったので、タンゴ鉄道ではなく”丹鉄”と呼ばなくてはならないのだが……昔の癖はなかなか治らない。
左岸には小さな港があり、係留されているボート内の清掃がおこなわれていた。そのすぐ向こうに見えるのが丹鉄の由良川橋梁である。河口付近なので由良川の川幅は500mほどあるため、橋梁全体の長さは550mもある。
時刻表を確かめると、30分後に橋を通過する列車があることが分かった。丹後由良駅から丹後神崎駅に向かう列車なので、川の左岸から右岸に抜けていく。丹後由良駅は左岸から700mほどのところにあるので、列車の出発時間にはカメラを構えておく必要がある。
出発時間直後から列車が近づいてくる気配が感じられた。まずは橋梁に入る前の列車を撮影することにした。それが上の写真なのだが、列車のペイントには少し(いやかなり)落胆した。
列車はいよいよ橋梁に進入した。”丹後の海”号であればもっとも良いし、せめて”青松”号か“赤松”号か“黒松”号であってほしかった。そんなことは時刻表を丹念に調べれば分かることなのだが。
列車のカラーリングはともあれ、やはり由良川橋梁を走る丹鉄には他の路線では味わうことができない魅力がある。なによりも非電化路線なので「すっきり感」があって良い。これが電化されてしまえば電柱やら架線やらで雰囲気は80%以上減じることになる。また、川から低い位置を走るのも良い。高さは僅か6mなので川の大増水が心配だが、河口付近ということもあって水敷が相当に広いのでそれは杞憂なのだろう。
次回、この地区に訪れることがあれば、次はこの区間を乗車してみたいと考えている。今回は別の日に丹鉄に初乗車する予定だが、残念ながらこの区間ではない。
由良川河口を離れ、次の目的地である「天橋立」に向かった。有料駐車場に車をとめ、まずは写真の智恩院を訪ねた。というより、この寺の敷地内を通って下に挙げる「廻旋橋」を渡ると「天橋立」の砂州に至るからだ。
写真の通り、この寺の楼門はかなり立派なものである。智恩院には文殊菩薩が本尊として祀られ、日本三大文殊のひとつに数えられるそうだ。「文殊の知恵」の言葉通り、ここには「学業成就」を祈願する人が多く訪れる。
写真の通り、ここのおみくじは扇子形をしている。末広がりなので誠に目出度いことであるが、願いが成就するかどうかは不明である。もちろん、おみくじにはまったく興味がない私は、ただその姿を撮影するだけである。
お寺の東側には小さな波止場があり、その中央に写真の「文殊の知恵の輪灯篭」が設置されていた。この知恵の輪を3回くぐると願いが叶うそうだが、残念ながら輪をくぐる行為は禁止されている。
天橋立に行くためには写真の「廻旋橋」(小天橋)を渡る必要がある。このときは「文殊水道」(天橋立運河)を中型船が通過するため、橋は旋回していて水路が開放されているので、一時、人は渡ることができなかった。
写真のように、船が通過すると橋は旋回して一本につながり、少しの間、待たされていた人々は天橋立に立ち入ることが可能になった。
写真のように天橋立の砂州には投げ釣りをする釣り人がいた。観光客から注目を浴びる場所でわざわざ竿を出すことはないだろうと思うのだが……釣り人の心理は不可解である。
日本三景のひとつである天橋立は全長が3.6キロ、幅は20~170m、松は5000本(8000本とも)以上が生育している。
この日は修学旅行の中学生が大勢、訪れていた。彼・彼女らはこのまま歩いて天橋立を北に進み、その先にある「傘松公園」に向かうのだった。もちろん、このときはまだ彼・彼女らの行く先は不明だったが、下に挙げる「傘松公園」で、この一団に出会ったので、3.6キロ歩いてやってきたことがわかった。私の場合は、この場所から先には進まず、駐車場に戻って車で公園に向かった。
ちなみに、私が天橋立を訪れたのはこのときが5回目だったが、砂州を渡り切ったことは一度もない。中間点までが一度あったきりだ。
廻旋橋を渡り、少しだけ商店街をのぞいてみた。商店街の南側の高台には「天橋立ビューランド」がある。ここからは天橋立が一望できるらしいのだが、一度も立ち寄ったことはない。
◎傘松公園
「股のぞき」の発祥の地として知られる「傘松公園」は、天橋立の北方に位置する成相山の中腹にある。麓から公園まではケーブルカーやリフトで安楽に行くことができる。
写真は麓にある府中駅。駅周辺はかつて丹後国の国府があったところなので府中の字名が付けられている。私はリフトには恐怖心を抱くのでケーブルカーを利用した。
私がケーブルカーで公園に到達し、展望台から周囲を観察していたとき、件の修学旅行生の一団がリフトで公園に向かってきた。その集団が天橋立で出会った中学生たちと同一であることが分かった理由は、中学生の服装やら校章やらを記憶していたからではない。引率者の中に若く比較的美形の女性教員がいて、その人物がリフトに乗って登って来たからだ。写真の中の前から2番目の女性が、私の記憶にあった教員である。
傘松公園から望む天橋立は、龍が天に上っているように見えることから、「昇龍観」と呼ばれている。
天橋立の「股のぞき」は、この傘松公園から始まったとされている。股のぞきをすると単に景色が逆さになるだけでなく、通常よりも奥行が少なくなることで物がより近くに見えるという効果がある(らしい)。そのため、龍が天に上る姿も強調されるとのことだ。もっとも私は目が回りやすい性質があるため、自分で試みることはしなかった。
写真の子供たちは「股のぞき」は試みず、近年、よく見掛けるポーズをとるだけだった。その姿を見守る父親の方は、やや残念そうだったが。
沖に見える冠島(かんむりじま)と沓島(くつじま)は宮津市にある丹後国一宮の籠(この)神社の奥宮とされ神域である。このため、写真のように傘松公園内に遥拝所が設置されている。
なお、この島はオオミズナギドリの繁殖地として国の天然記念物に指定されている。
傘松公園のある成相山には成相寺(なりあいじ)がある。真応上人または聖徳太子が開基とされ、704年に文武天皇の勅願寺になった。ここは傘松公園のずっと上にあるため、天橋立を含めた眺望はさらに良い。公園からは徒歩30分ほどだが、登山バスがでているので私はこれを利用した。
本堂はさらに山の上にあったのだが、山崩れで崩壊したために現在の地に再建された。1774年のことである。
写真の五重塔は鎌倉時代に建てられたものを復元した。かなり新しめなので、やや遠くから望むほうが趣きを感じる。
写真のお地蔵さんは、唯一願を一言でお願いすればどんなことでも願いを叶えてくれるそうだ。「安楽ポックリ」の往生さえ叶えてくれるらしい。
境内には弁天山展望台がある。「股のぞき」はこの地が発祥とのこと。ここにも「かわらけ投げ」があった。200円を料金箱に入れ、生涯初のかわらけ投げに挑戦した。一願一言地蔵には、自分の投げたかわらけが空中を飛翔する様をきちんとカメラに収めるという願いをした。が、3枚とも、はっきりと写すことはできなかった。お地蔵さんにも不可能なことはあるようだ。いや願いの言葉がやや長すぎたことに問題があったのかも。
傘松公園から戻り、府中駅周辺を少しだけ散歩して「府中」の文字を探した。
当たり前だが、あちこちに「府中」の名があった。
府中小学校があった。私の出身校は府中市立第一小学校である。
◎伊根の舟屋群を訪ねる
”日本で一番海に近い暮らし”がキャッチフレーズの伊根町の舟屋群には、若狭・山陰地方を訪れた際にはほとんど立ち寄っている。波静かな伊根湾に面した舟屋は230軒ほどある。かつては訪れる人も少なく海と共に暮らす人々の姿に接するのが楽しみだったが、近年はすっかり観光地化してしまった。
私自身、高台に造られた「道の駅」から舟屋群を展望している。便利なようでいて相当に寂しい思いも抱いた。
写真は、道の駅から見た湾の北側の風景で、この辺りに最も多く舟屋が立ち並んでいる。かつてはこの辺りまで車で入り込んで、適当な場所に駐車して周辺を徘徊したものだった。
が、今回はそちらには立ち寄らず、少し前の写真に写っていた有料駐車場に車をとめて湾の南側にある舟屋群を見て回った。
舟屋の一階は船置き場で二階に漁具や網置き場になっている。
住民は道路を挟んだ山側に住宅を建てそこで日常の暮らしを営んでいた。一方、引退した漁師は、舟屋の二階を改造して余生を過ごした。
観光地化した現在では、舟屋の一部を改造してカフェを営んだり、全面改装し「舟屋で暮らす」をテーマにした旅館に変貌したものの見掛けた。漁で生計を立てるのは難しいだろうし、一方で、観光の波に乗って古い舟屋をアセットにするのは当然の成り行きだろう。
ただ、こうした舟屋群の姿に触れてしまった私は、「もはやここを訪れることはないだろう」という確信を抱いた。
舟屋と舟屋の間をのぞいた。向かいに見えるのは改築された観光客受け入れ施設である。
湾の一番奥にある舟屋群を眺めた。つぶさに観察すると、古さと新しさとが同居しているのがよく分かった。
駐車場内に車をとめ、護岸から竿を出している人がいた。釣果を訪ねると「小さなガシラ(カサゴのこと)が一匹だけ」との返事があった。
釣り人のすぐ近くには主翼が傷付いたウミネコが一羽いた。左翼が大きく損傷しているため十分には飛翔できず、そのため、独りぼっちで堤防に佇んでいた。
右翼が損傷しているのであればとくに気にならないが、左翼とあらば助けないわけにはいかない。とはいえ、私に出来ることはエサを与えることぐらいだ。だがそのときは水以外に持ち合わせはなかった。
そこで、ウミネコに近づき、「それじゃぁ、エサを取るのも大変だろうな」とか「お腹が空いているだろうなぁ」など、釣り人にも聞こえるような大きさの声で鳥に話しかけた。
私の思いが通じたのか、その釣り人はクーラーから唯一の獲物であるカサゴを取り出して、ウミネコの方へ放り投げた。最初はキョトンとした感じだったが、それが美味そうな魚だと分かると、懸命にくわえようとした。しかし、左翼が傷付いているためかバランスが悪そうに獲物と格闘していたため、結局、そのカサゴはウミネコの腹に収まる前にトンビにさらわれてしまった。いろいろな面で、左翼は凋落気味である。
◎経ヶ岬から間人(たいざ)温泉まで
哀れなウミネコと気の毒な釣り人とを見続けるのは耐えがたくなった私は、車に戻り、伊根の舟屋群に別れを告げた。
若狭湾西岸の走る国道178号線(R178)を北上し、丹後半島の最北端にある経ヶ岬(標高201m)に向かった。この岬の東側が若狭湾で、岬から西に進むと狭義の山陰海岸になる。
駐車場から岬の灯台までは結構な距離と高低差があるため、灯台までは行かず、広場からその天辺を眺めるだけにした。
経ヶ岬の広場では自衛隊による情報収集訓練が行われていた。話によれば、3日間、ここでテント生活をおこない、海上を航行する自衛艦とのやり取りを行うそうだ。ここでも敦賀原発と同じく「機器の撮影はご遠慮下さい」との表示がしてあった。そのため、私は少し離れた位置からカモフラージュされた車両を撮影した。
広場から海面までは約100mの高さがある。柵ギリギリまではとても近づけないので、少し離れた位置から、断崖下の岩礁群を撮影した。
経ヶ岬広場を離れ、R178に戻って西進した。最初に出会ったのが写真の袖志海岸。ここから西の海岸が私が個人的には日本でもっとも美しいと思っている海岸線だ。10年ほど前まではほぼ毎年のように、この海岸線に触れるだけのためにはるばる東京の田舎から遠征してきたのである。
道路沿いには岩ノリが干してあった。その先に見えるのが経ヶ岬である。
山陰海岸には、写真のような奇岩が無数に屹立している。こうした変化に富んだ岩場と澄み切った海がこの地の最大の魅力だ。もっとも冬場は猛烈な北西風が海岸線を襲い続けるので、恐ろしくて私にはとても近づくことはできないが。
経ヶ岬から直線距離にして西に8キロほどところに写真の犬ヶ岬(標高251m)がある。ほぼ真北に突き出ているので、この岬はこの地一帯のランドマークになる。この岬には遊歩道があるのだが、崩落の危険性が非常に高いそうなので近づいたことさえない。先端部は磯釣りには好適と思える形状をしているが竿を出す気には100%なれない。
写真は、竹野(たかの)海岸の名所である「屏風岩」。成り立ちは、第74回で「葉積岩」を取り上げたときに説明したものとまったく同様であろう。
写真は、犬ヶ岬を西側から眺めたもの。この角度からだと、先端部が磯釣りに最適であることが良く分かる。
この日の宿泊地である間人(たいざ)地区までは思いのほか早く着きそうだったため、近くにある竹野(たかの)漁港に立ち寄ってみた。漁師が一人だけいて何やら作業をしていたが、山陰海岸の漁港としては極めて例外的に釣り人の姿がなかった。
赤灯台の向こうに見えるのが犬ヶ岬。この角度からだと、先端部に離れの岩礁があるのが見て取れる。
漁港の西隣には安山岩の柱状節理群があり、見応えは十分だった。竹野漁港にはとくに用事はなく時間つぶしのために寄っただけだったが、こうした素晴らしい景観に偶然出会えたのは僥倖というほかはない。
巨大な安山岩の柱状節理は間人(たいざ)地区の後ヶ浜で見ることができる。立岩の高さは20mあり、山陰海岸を代表する一枚岩である。夕日を見るならこの辺りだろうと見当をつけたのだが、後述するように機を逸してしまった。
立岩には上ることができる。途中に、写真にある小さな祠があった。ただし、これは自然できたものを利用したものではなくレンガを積んだ人工的なものである。それが少し残念だ。
立岩の周辺を歩いていたとき、写真な中にあるルアーマンを見つけた。西日本の釣り人は、こんな観光地にも魚を求めてやってくるのだ。釣れている様子はなかったが。
間人(はしうど)皇后とその子・聖徳太子が曽我氏と物部氏との抗争を避けてこの地に身を隠していた。その後、親子はこの地を去ることになり、世話になったこの地に「間人(はしうど)」の名を与えた。が、住民たちはどうしても「はしうど」とは呼べず、その代わりにこの地から「退座」されたことに因んで「間人(たいざ)」と読むようになったとのこと。この話を知らなければ、どう考えても「間人」を「たいざ」と読むことはできない。難読地名のナンバーワンとされる。
京都の「太秦」だって、そもそも「大和」だって「飛鳥」だって「斑鳩」だって由来を知らなければ「うずまさ」や「やまと」や「あすか」や「いかるが」とは読めまい。ただ、この4つは全国区なので、本来は難読地名なのだが、実際には読めない人はほとんどいない。
この日は間人温泉の著名な旅館に泊まった。夕食はカニのフルコースだった。カニは食べづらいため、仲居さんが付きっ切りで面倒を見てくれた。当初は午後6時が夕食のスタートなので、食事は30分ほどで切り上げ、急いで立岩まで車で移動して日本海に沈む夕日を撮影する心づもりだった。
しかし、仲居さんとすっかり話し込んでしまったため、食事が終わったのは午後7時半過ぎで、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。この日の日没は午後7時だった。
この日の最後の写真は山陰海岸の落陽と決めていたが、その撮影機会を逸してしまったため、ここには食事前に漁港を散策したときのカットを掲載した。
長話は私の悪い癖のひとつだ。