金沢八景とその由来
金沢八景とは「小泉夜雨」「称名晩鐘」「乙艫(おつとも)帰帆」「洲崎晴嵐」「瀬戸秋月」「平潟落雁」「野島夕照(せきしょう)」「内川暮雪」の八つの風景をいう。17世紀末、心越禅師(中国からの亡命僧。水戸光圀に重用された)が、現在の金沢区の高台(能見台あたり)から海辺の景色を望み、かつて住んでいた中国杭州の西湖(せいこ)付近(風光明媚で世界文化遺産に登録済)を思い出させるほど美しい景観だったことから、それまでに「金沢八景」とされていた場所を上記の形に同定した。
「~八景」は、日本に無数にあるが、そのうち、「近江八景」と「金沢八景」が白眉とされている。これは前回も記したように歌川広重の八景図がとりわけ有名だからでもあろう。両作品とも、「ヒロシゲブルー」の美しさが如何なく発揮された優れたもので、見るものを深く感動させる。
「~八景」は金沢八景のように、「~夜雨」「~晩鐘」のごとく前半の「~」に地名を入れ、後半の「夜雨」や「晩鐘」につなげれば、ほとんどの場所で「八景」を構成することができる。たとえば私の地元では「是政帰帆」「浅間夕照」「高安晩鐘」というように。もっとも、それがヒロシゲブルーを用いたくなるほど美しい風景かどうかは別なのだが。
この「~八景」の原点は、中国北宋時代の「瀟湘(しょうしょう)八景」にある。これは、詩人蘇東坡のお友達であった宋迪(そうてき)(11~12世紀の官僚・画家)が、現在の湖南省岳陽市、長沙市辺りの風光明媚な場所を八カ所選び、それを風景画にしたことに始まったとされている。瀟(しょう)は瀟水という湘江の支流(湘江の本流は長江)で、瀟水と湘江との合流点辺りの風景は美しく神秘的であって、古くから詩や散文などに取り上げられてきた。屈原の『楚辞』や杜甫の『登岳陽楼』はこの地が題材にされ、これらの作品は日本の教科書にも出てくる。また、中国古代の名帝の堯(ぎょう)はこの地域の出身とされ、彼の娘は湘君、湘妃という名をもつといわれている。
ちなみに、湖南省の湖とは洞庭湖(長江の南岸にあり、湘江はこの湖に流入する)のことで、この湖の南側の地域(湖北省は湖の北側)を指す。また、湘南の湘は湘江のことで、その南側(長沙市周辺)も景勝地として名高い。日本の湘南はこれにあやかっており、元々は相模の国の南側、すなわち「相南」だったはずだ。
「称名晩鐘」で知られる称名寺は金沢北条氏の菩提寺
称名寺は、金沢(かねさわ)北条氏の初代である北条実時(さねとき、1224~76)が建てた阿弥陀堂を基に、鎌倉極楽寺を開いた忍性によって真言律宗の寺となったという。歴史のある寺だけに国宝や重要文化財に指定されているものが多数あるが、私のお気に入りは、国の史跡に認定されている「阿字ヶ池」を中心とする写真の「浄土式庭園」である。今では「都立府中の森公園」が私の徘徊場所であるが、金沢区に住んでいたときは、この称名寺の庭や森が身近な散策場所だった。
浄土式庭園というと岩手県平泉の毛越寺(もうつうじ)や京都府宇治の平等院のものがどちらも世界遺産に指定されるほど有名だが、ここの庭園はそれらに勝るとも劣らないと個人的には考えている。前二者は拝観料がかかるが、称名寺は無料なのも散策に適している点だ。気軽に行けるので、庭のもついろいろな表情に接することができるので、より魅力が深まるのだ。
私が以前に散歩していたときは、家が称名寺の西にあったために、前回紹介した赤門や写真の山門(仁王門)は通らず、西側にあるお墓の通路や金沢文庫から通じるトンネルを利用して庭園に入っていたため、しみじみと山門の金剛力士像を見上げることはなかった。両側にある力士像は1323年に造られたとのこと。ヒノキの寄せ木造りで高さは4mもあり、パンフレットによれば東日本にあるこの手の像としては最大級の大きさらしい。なるほど今回、改めて見てみると、その大きさは確かに他ではあまり見たことがない。
山門から金堂に通じる場所には「阿字ヶ池」があり、その中央には反橋(長さ18m)と平橋(長さ17m)が架けられている。これらは1986年に復元されたもので朱の色はまだ新しさを感じる。池の西側からは池面に映る橋の影が綺麗に見られるので、私が訪れたときにも10名ほどの写真愛好家らしき人がシャッターチャンスを狙っていた。そのうちの7名は女性であり、近頃はどこに行って女流写真家の姿が目立つ。
この日は生憎、やや風が強かったので池面はさざ波立っており、鏡面のときのような対象美を写すことはなかなかできず、大多数の人は風が収まる瞬間を辛抱強く待っていた。私といえば根が大雑把なので、先に挙げた写真で妥協した。
寺院の建造物には「朱」がよく用いられている。これは中国の伝統を受け継いだもので、湖南省の辰州で多く採られたことで名付けられた、硫化水銀の鉱物である「辰砂」を原料としているからである。日本でも古来から産出されており、「丹」や「丹生(にゅう)」などと呼ばれ、その鉱物が多い川は「丹生川」と名付けられていて、日本各地にその名をもつ川や地名は多い。
和歌山市に河口をもつ「紀ノ川」は奈良県に至って「吉野川」と呼ばれるが、その支流で西吉野地域を流れるものは「丹生川」と呼ばれる。また、東吉野村には旧社格が官幣大社であった「丹生川上神社(中社)」もある。もちろん近くには上社や下社もあり、5年ほど前までは、吉野山へ桜見物に出掛けた際には必ず、丹生川上神社のいずれかを訪れたものだった。
「称名晩鐘」はこの梵鐘から700年以上、奏でられてきた。1301年に鎌倉時代を代表する鋳物師が鋳造したもの。老朽化が進み、この鐘がつかれることはなくなったそうだが、鐘楼にあって、今でも晩鐘は人々の心の中に響き渡っている。
称名寺の北側を取りまくように金沢三山があるが、この山一帯は「称名寺市民の森」として散策路が整備されている。長さは約2キロ。道は狭く高低差があるので、ここを歩くのは、散歩というよりハイキングという言葉が相応しい。私も以前は何度も歩いたが、今回は他に寄るところが多いからという勝手な理由をつけ、その登り口をのぞくだけに済ませた。
山頂には「八角堂広場」があり、そこからの眺めは結構お勧めできるものだ。実は、この山の裏側(北側)は西柴町という住宅街になっており、こちら側から入るとかなり楽をして八角堂広場に行けることを知っているのだが、方向は異なるが同じような景色は後述する金沢自然公園からも眺められるので、裏口入場は取りやめにした。
「金沢文庫」は日本最古の武家文庫
称名寺は歴史好きにはよく知られているが、知名度の点では金沢文庫にはるかに及ばない。金沢文庫は北条(金沢)実時が金沢の地に隠居したとき(1275年)に創建されたらしい。実時は武将としてだけでなく文化人としても名高く、漢籍だけでなく和歌や散文などの造詣も深かった。そのため多くの典籍や和漢の書を収集・所有していた。金沢文庫は実時が隠居した際に、称名寺の隣地に多くの書物を所蔵するための書庫を造ったのがその始まりとされている。のちに、北条氏の第15代の執権となった(10日だけ)金沢(北条)貞顕がその拡充に努めた。彼もまた、文化人としても名を馳せていたのである。
北条政権は足利尊氏によって倒され、金沢の地は足利尊氏の所領となった。が、実際にこの地を支配したのは関東管領を世襲した上杉家だった。足利家と上杉家とを結びつけたのは、尊氏の生母(上杉清子)が上杉家出身であったことが大きく影響している。上杉は関東管領として鎌倉公方を補佐しただけでなく、守護大名として上野国・武蔵国・伊豆国を支配した。上野国(こうずけのくに)は現在の群馬県にあたり、栃木県足利市のある下野国(しもつけのくに)のとなりである。
この上杉家から上杉憲実(のりざね)が出て、荒廃しかかった金沢文庫(武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷)から多くの文献を持ち出し、それを足利学校の蔵書とした。憲実もまた北条実時同様、教養ある文化人でもあったのだ。かれは特に儒教に傾倒していたらしい。このブログの「渡良瀬紀行」では「足利学校を再興したのは上杉憲実」であると紹介したが、この学校の充実には金沢文庫の蔵書が相当数、貢献しているのである。
歴史には、このような思いがけない結び付きがある。これがあるから「歴史と旅」は面白い~浅見光彦みたいだが‥‥。
称名寺と金沢文庫との関係は、やはり「渡良瀬紀行」で取り上げた鑁阿(ばんな)寺と足利学校との関係に類似している。というより、実質的には後者の方が前者に似ているのだが。ただ、称名寺と金沢文庫との地理的関係は、足利の方とは大きく異なる点がある。それが、写真に挙げた「トンネル」の存在である。
寺は人が大勢集まるところ、あるいは政治的要素も多く持つところなので、常に火災の危険性が付きまとう。一方、文庫は紙類の集合体なので火災には極めて脆弱だ。そこで金沢北条氏は、称名寺と金沢文庫とを尾根ひとつ隔てた場所に造り、その間をトンネルで結んだ。一方での火災が他方に類焼することを予防したのである。
写真にはないが、往時のトンネルはすぐ北側に保存されている。現在のトンネルはよく整備され、その壁には8枚のプレート(写真では7枚しか写っていないが)が埋め込まれている。もちろん、ここには歌川広重の『金澤八景』の絵が複写されている。
現在の金沢文庫は1990年に建てられた近代的な建造物で、横浜市立の「中世歴史博物館」として、様々な資料展示や講演会活動に力を注いでいる。
金沢自然公園と動物園
金沢区釜利谷東にある「金沢自然公園」は三浦半島のほぼ中央を南北に連なる丘陵地帯に位置するため、眺めはとても良い。横浜横須賀道路から直接に入れる駐車場(料金600円)があるので、ここには区内の施設を巡り歩く前に訪れた。午前中は曇りがちだったので、見通しは少しはっきりしてはいないものの、それでも東京湾内を行き来する船舶や房総半島までよく展望できた。ほぼ中央に写っている「八景島シーパラダイスタワー」のすぐ右にある白い建造物は、千葉県富津市にある「東京湾観音(高さ56m)」だ。
写真にあるように、市街地には公共施設、商業施設、集合住宅や個人住宅などが密集しているが、「金沢八景」が同定された頃は入江の海か湿地帯だったはずだ。17世紀後半に永島祐伯(雅号泥亀)が干拓事業を進め、最終的にその事業が完結したのは20世紀に入ってからだ。金沢区役所は泥亀(でいき)2丁目にあり、この一帯が現在の金沢区の中心街になるが、この地名の由来は開拓者の永島泥亀にある。
自然公園は敷地が58万平米もあり、しかも起伏に富んでいるため、散策するには十分すぎるほど広い。私は、この近くにある老人保健施設で数年間ボランティア活動をしており、自然公園の一部はその活動もあってよく利用していたので馴染みは深い。が、この園内にある動物園は利用したことがなかった。今回が初入園である。
金沢動物園は自然公園の敷地内にある。ただし、動物園に入るのには料金(大人500円)が必要になる。自然公園の一部にあるので敷地内も起伏に富んでる。私にとって動物園とは多摩動物公園と同義語といえるほどの存在なのだが、この金沢動物園はその縮小版といった存在のようだ。反面、多摩動物公園の賑やかさと比較してこちらのほうは見物客が少ないので、ゆったり感は金沢の圧勝である。
希少な草食動物を中心に飼育しているので、50種310点と数はそれほど多くはない。展示ゾーンは「アメリカ区」「ユーラシア区」「オセアニア区」「アフリカ区」に分かれており、それぞれが広い飼育スペースを有している。アメリカ区ではカピバラ、ユーラシア区ではインドゾウ、タンチョウ、オセアニア区ではコアラ、オオカンガルー、アフリカ区ではクロサイ、オカピが印象的だった。
サイ(犀)を見ると、すぐに思い浮かべるのが『スッタニパータ』だ。小部経典(クッダカ・ニカーヤ)にあるスッタニパータ(経集)とダンマパタ(法句集)はブッダの言葉を伝える最古の仏典としてよく知られるが、中でも「犀の角のようにただ独り歩め」はあまりにも有名だ。写真のクロサイは角が2本(3本のものもある)あるが、ブッダが見たであろうインドサイは角が1本だ。またサイは単独行動を好むことで知られている。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。(40)中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫
これはブッダの最後の言葉として知られている「自灯明、法灯明」(自己を拠りどころとせよ、法(ダルマ=真理)を拠りどころとせよ)にも通じている。これらは一見「独我論」に思える。が、ブッダは究極的には「無我」を真理と考えており、独り歩めというのは無明=無知からの覚醒を意味しているのだろう。ゆえに、一方で、スッタニパータではこうも述べている。
もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。(45)同上書
この考えは孔子の思想にも通ずる。
子曰く、君子は和して同せず、小人は同じて和せず(子路篇) 加地伸行訳『論語』講談社学術文庫
ブッダの言葉も孔子の言葉も、今風に言えば「同調圧力に負けず、理性的に行動せよ」となるのであろうか。良き思想には差異はない。サイを見てこう思った。
インドゾウ(アジアゾウの亜種)はアフリカゾウに比べると大きさも耳も小さいそうだが、私はこのゾウを見て、これはアジアゾウの仲間であるとすぐに分かった。ユーラシア区にいたからである。
写真のボン(オス)は42歳。インドゾウは牙が短い個体が多いそうだが、このボンの牙は鼻よりも長く、国内では最長ともいわれているらしい。ヒンドゥー教の神の一人?であるガネーシャは商売の神として知られているが彼?はゾウの顔を持つ。ただし、片方の牙は折れているそうなので、金沢動物園のボンは神にはなれない。
同居しているヨーコとは夫婦関係にあるそうだが、残念ながら繁殖には至っていない。天は二物を与えない。
オセアニア区にはオオカンガルーがたくさんいた。うれしいことにこの動物園ではウォークスルー形式になっており、間近にカンガルーの生態を見ることができる。写真の子供を抱いたカンガルーは人を全く恐れず、写真撮影にも動じる気配はなかった。母親はただ餌を食べているだけだが、子供は何かを考えているようだった。「考える人」ではなく「カンガルーひと」のようだ。
カンガルーとは関係がないが、ロダンの「考える人」の姿勢を取るのはとても大変だ。ブラタモリの「パリ篇」ではタモリもそう言っていた。地獄の門を覗き込む苦悩の人がテーマなので、あえて苦しい姿勢を取っているのだろうか。写真の子供のカンガルーの姿勢もかなり大変そうだ。思考には理性だけでなく身体性も伴う必要がある、ということがよく分かる。と、子供のカンガルーを見てそう考えた。
姿勢といえば、考える際にはうつむきかげんになるが、うつむきかげんの花といえばパンジーがすぐに思い浮かぶ。この英名はパンセ(フランス語で思考の意味)からきている。ちなみに、和名の三色菫はシノニムのヴィオラ・トリコロールの直訳である。
瀬戸神社と琵琶島
今でこそ平潟湾は水路のような狭い入り江であるが、埋立事業が行われる前はかなりの幅を有していた。さらに一段奥に泥亀新田が造られる前は、今の釜利谷から泥亀辺りにも入り江があり、 それが写真の瀬戸神社付近で平潟湾と細い海峡でつながっていた。細い海峡は速い流れを生むので、「瀬戸」と呼ばれることが多い。広島県呉市にある「音戸瀬戸」や長崎にある「平戸瀬戸」は全国的に知られている急流海峡だ。
金沢の狭い海峡も瀬戸と呼ばれ、その近くに源頼朝が戦勝を祈願して創建したのが瀬戸神社である。ここには、源実朝が使用し、北条政子が奉納したといわれる舞楽面二面が保存され、国の重要文化財に指定されている。
この神社は国道16号線の西側にあり、南には金沢八景駅があるという賑やかな街中に位置するが、ここの境内に入ると権現造りの本殿、その横にありヤマアジサイが多く咲く小庭園、海の際だったことを示す高い崖など、ここだけは駅前の賑やかさ、国道の往来の激しさとは隔絶された時間が流れている。
国道を挟んだ平潟湾内には「琵琶島神社」がある。これは頼朝の瀬戸神社にならい、北条政子が信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して創建したといわれている。以前は島だったらしいが、現在は陸続きになっている。
瀬戸といえば八景には「瀬戸秋月」があった。広重はこの辺りを描いたのだろうが、残念ながら、その面影は皆無と言って良い。
平潟湾、そして野島~思いは八景図へ
平潟湾は徐々に埋め立てられ、1966年に湾の南西側、今の金沢区柳町一帯の埋め立てが完了したことで今の形(長さ1000m、幅250m)になった。埋め立てのための土砂は湾内の浚渫(しゅんせつ)土によってまかなわれた。ただ夕照橋(ゆうしょうばし)周辺は浅いまま残されたので、大潮の干潮時には、以前からおこなわれていた貝掘り(潮干狩り)が今でもよくおこなわれている。広重の「平潟落雁」図には潮干狩りを楽しむ様子が描かれている。周囲の景色は往時と全く異なるものの、貝を掘る人々の動きには共通するものがある。
「野島夕照」で知られる野島海岸は金沢区では唯一、自然のままの海岸線が残っている。ここでは平潟湾以上の人々が貝掘りに専念していた。これは平日の風景なので休日にはもっと多くの人が訪れる。平潟湾と異なるのは砂の色で、こちらのほうがより灰色に近い。また海の香りが強い。平潟湾は大海に通じる水路が細いので海水の入れ替えが少ない。また、住宅地から流れ込む川が幾筋もあるので汚染される程度が高い。
この点、野島海岸は直接、大海に開かれているし、波によって砂が撹拌される機会が多いので、汚染物が希薄化されるからだろう。野島海岸で海の香りを感じたのは、写真でも分かる通りアオサ(青ノリの一種)が繁茂しているせいでもある。海の香りというより、ノリの香りといったほうが妥当かもしれない。
シーサイドラインの先に見える森は称名寺市民の森。その先の高層マンション群は旧跡能県堂周辺の山を削り取って造成された新興住宅地のものだ。冒頭に挙げた心越禅師は、あのマンションの屋上辺りの高台からこの野島方向を望み、「金沢八景」を同定したのだ。
ところで、「能見台」の山を削ってできた残土はどこに行ったのだろうか。それは、前回に取り上げた「金沢地先埋立地」=福浦埋立地や八景島の造成に用いられたのだった。
1886年、伊藤博文は平潟湾沖にある夏島(現在は横須賀市夏島町)に別邸を建てた。この無人島だった夏島が全国的に知られるようになったのは、ここで伊藤博文、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4人が「合宿」をして大日本帝国憲法の草案(1887年)を作成したからである。「夏島草案」とか「夏島憲法」などと言われるものだ。その後、草案は修正され、1888~89年に枢密院で審議され、同年発布、90年に施行された。
伊藤博文はこの金沢の地をよほど気に入ったのか、1898年には野島にも別邸を建てている。写真の建物がそれである。大正天皇もここを訪れたことがあるそうだ。入館も含め、庭園にも無料で入ることができる。ひとつ前の写真(野島海岸の風景)は、この庭園付近から写したものだ。周囲の建造物こそ異なるが、称名寺の森の姿はほとんどこのまま、伊藤博文が目にしたはずだ。
野島は太平洋戦争前までは陸続きの島(砂州によってつながれた陸繋島)だった。が、戦争中に島の要塞化が進み、併せて横須賀側の埋立地にあった海軍施設とを結ぶ道路が建設されたため野島水路(平潟湾と東京湾をつなぐ)は船の行き来が不能となった。そこで島の北西側に掘られたのが野島運河だ。このため、野島は陸続きではなくなった(橋で結ばれている。現在は野島橋と夕照橋の2本ある)。
現在の野島は東側が野島町、西側が乙舳(おつとも)町になっている。この乙舳は乙艫を「簡略化」したものだ。が、厳密には意味が異なり、”舳”は「みよし」つまり船首、”艫”は船尾のことである。
運河によって旧乙艫は分かれたようで、陸側にある金沢漁港の野島向きには「乙舳公園」がある。写真は、遊漁船が東京湾から野島運河内にある船着き場(乙舳町にある)に帰港するところを公園側から撮影したものだ。写真にはないが、この右手奥に野島山がある。
乙舳に帰る船なので、現代版「乙艫帰帆」を撮影してみた。実際は、乙舳公園で休憩中に偶然、遊漁船が運河に帰ってきたのであわてて撮影をしたという訳なのだが。
「日本にある橋でもっとも好きなのは?」と聞かれたら、私が文句なく第一位に挙げるのがこの「夕照(ゆうしょう)橋」である。「是政橋」でも「横浜ベイブリッジ」でも「瀬戸大橋」でも「来島海峡大橋」でもなく、この橋だ。橋の白と野島山(標高57m)の緑とのコントラストが絶妙なのだ。
”夕照橋”の名は、もちろん「野島夕照(せきしょう)」に由来する。唯一の不満は「せきしょう」とは読ませないことだ。「ゆうしょう」では湯桶読みなるが、これは仕方がないとしても、由緒ある名称なので「せきしょう」と素直に読みたいものだ。
撮影時間は午後4時頃だが、夕方まで粘れば夕陽に映える橋と山と海面とを撮影することができる。金沢区に住んでいたときにはよく夕方に出掛けて撮影したものだった。雑誌にも、見開きのカラーページでそれを紹介したことがある。このときはブローニー版のリバーサルフィルムを使った。あの6×6カメラはどこにいったのだろうか?
建造物も見る角度も異なるが、この景色は広重の八景図にもっとも近いと思っている。「野島夕照」図には夕照橋はない。その代わりに「夏島」や今は無き「烏帽子岩」がある。それでも、野島山の形や家並みはどことなく広重の絵をイメージさせる。
* * *
金沢区を巡る旅は終わった。散策と写真撮影のために金沢へは3回出掛けた。金沢区の埋め立て事業の変遷を書物や地図で調べ、それを確認するために現地を歩いたこともあった。
金沢区周辺には特別に高い山はないものの平地は少なく、開発には困難を極めた。このことはJR横須賀線の路線を見るとよくわかる。横須賀線の開通は1889年であるが、横浜を出た横須賀線は南下せず、磯子区や金沢区を避けて、戸塚方向に進んでいる。そして大船を経て鎌倉、逗子へ、それから東進して三浦半島を横切り横須賀に至るのである。明らかに、磯子区や金沢区の起伏に富んだ地形を避けたルートに線路は敷かれているのだ。横須賀線が開通した結果、金沢周辺の海から人気(ひとけ)は途絶え、鎌倉や逗子、葉山の海へ人々は出掛けるようになった。
横須賀線が開通したころ、金沢に出掛けるには、横浜からは細い山道を通り、13もの峠を越える必要があった。また、鎌倉から金沢に抜けるためには「朝比奈切通し」を進まねばならなかったのだ。それで、一般の人には横須賀から船で行くことを勧められた。そうまでして金沢に行く人はあまりいなかったようだ。
湘南電鉄(京浜急行の前身のひとつ)が、金沢を通り浦賀に至る路線を開通させたのは1930年だった。当時、この線路を1キロ建設するには46万円かかったそうだ。一方、同時期、小田急が江ノ島線を建設するには1キロ25万円だったそうで、磯子や金沢の地形を克服するのには通常の約2倍の費用が必要だったのである。
鉄道が開通した結果、人々の利便性は高まったが、その一方で、海岸線の埋め立てが進み、大規模な工場が林立した。先述したように、自然の海岸線が残ったのは野島の一部だけになってしまったのだ。開発という美名のもとで失ったものは大きい。
何事も、「いいとこ取り」はできない。それは、自然環境だけでなく、人生もまた同じなのだろう。
***追記*** 親友から、タイトルがあまりにも不評だったので、このたび変更しました。 6月22日変更