徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔07〕徘徊老人・越生~山吹、ツツジ、滝と峠と

越生町には訪ねたい場所がいろいろある

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越生は梅林と同じくらいツツジで有名

 埼玉県の越生(おごせ)町といえば、まず「越生梅林」を思いうかべる。ここは関東三大梅林のひとつとされている。また、梅の実の生産高でも、越生は埼玉県随一らしい。さらにいえば、ユズの生産高は関東一とのこと。

 ところで、三大梅林のあとの二つは「水戸の偕楽園」と「熱海梅林」らしいが、これは誤りの可能性が高い。なぜなら、熱海市静岡県なので中部地方に属するからだ。もっとも、関東地方の法律上の定義はないので、静岡を関東に含めても誤りにはならないだろうが。ウェブサイトで「関東三大梅林」を調べると、どうしても熱海を含めたいらしく「神奈川県熱海市」とある。確かに神奈川県であれば関東地方には違いないが、熱海が神奈川県に属するというのは、牽強付会という他はない。ここは素直に、神奈川県小田原市の「曽我梅林」を挙げておくのが無難ではないか。ことほど左様に、ネットの情報は「怪しい」ことが多々あるので要注意だ。

 私が越生町を目的地として初めて訪れたのは35年ほど前で、梅の花目当てだった。が、その後、越生には梅林以外にも訪ねてみたい場所が多々あることを知ったので、以来、数年に一度程度だが、梅の花の季節以外にもここを日帰り旅の目的地にするようになった。それが「五大尊つつじ公園」であり「山吹の里」であり「黒山三滝」であり「奥武蔵グリーンライン」である。

 越生町を訪れた5月2日は、雨のち曇り、ときどき晴れという「猫の目天気」だった。写真撮影には決して良いとはいえない天候だが、とにかく知人と「犬の駆け足」といった感じで、目的地を訪ねて歩いて(おもに車利用だったが)みた。

越生は「山吹の里」でもある

 兄や姉(全部で4人)に太田道灌の名をあげると、全員が「江戸城」と答える。別のときに山吹の花を指し示すと、今度は全員が「太田道灌」と答える。いずれも「パブロフの犬」状態の反応だった。この「江戸城太田道灌⇔山吹」というトリアーデは、他の人に尋ねてもほとんど同様の返答がある。かなり普遍性をもった三位一体なのかも。

 自生しているのか植樹したのかは不明だが、越生には山吹の花がとても多い。県道を走っていても、山里の道を走っていても、里山を歩いていても、やたら山吹が目に入る。これには太田道灌と山吹との関係を示す「逸話」が作用(反作用?)していることに間違いはないだろう。

 太田道灌越生に隠居していた父親のもとを訪ねる際(鷹狩りに来たという説もある)、不意の雨に遭ったので、茅屋(ぼうおく)に住む農家に立ち寄り、蓑(みの)を貸してもらうよう頼んだ。しかし、そこに住む小娘は、蓑を差し出す代わりに八重山吹の花を無言で道灌に指し示した。この予想外の行為に怒った道灌はその場を立ち去り、後にこの小娘の行為を非難する形で人に話したところ、皆から道灌の無知を指摘され、以来、道灌は武道だけでなく歌道にも励むようになったという、”いかにも”という出来過ぎた話だ。

  七重八重花はさけども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき

  兼明親王 『後拾遺和歌集』より

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県道沿いにある「史跡山吹の里」には茅屋と八重山吹の群生がある

 小娘はこの歌を材料に、「蓑」と「実の」とを掛詞(かけことば)にして、蓑を持ち合わせていないことの詫びを表したのだ。実際に八重山吹は実生しないのだが、田舎の農家の小娘がすぐさまこんな機転を働かせることができるとは考えられないので、後世に作られた小話にすぎないだろう。反面、太田道灌は武人としても歌人としても優れていたのだろうが、いささか功を誇り過ぎたために謀殺されたという事実と照らし合わせると、この話は出来過ぎ以上の意味を持つのかもしれない。

 太田道灌の墓は越生にもある。著名な人は分骨されることが多いので、何か所かに墓があることが多い。この地では「龍穏寺」の小高い墓所に埋葬されている。

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山間にある龍穏寺。境内には山吹とシャガが多く咲いていた

  前述したように、道灌の父親はここ越生で隠居生活を送っていたので、父子は並んで眠っている。太田道灌の往時の権勢を思うと墓はあまりにも小さいが、この謙虚さが彼にあったなら、もっと違った形の道灌像が歴史に残ったであろう。

 

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道灌とその父の墓。思いのほか小さい

五大尊のツツジは見事に咲き誇っていた

 五大尊の山すそにある公園には、10種類、約1万本のツツジが植えられている。”関東一”をうたっているが、その真偽はさておき、例年、大型連休時に咲き誇るツツジ群は今年も健在で、見事というほかはない。中には樹齢300年以上という”古木”もあるが、ツツジは樹齢が1000年といわれているので、300年といえばまだ”壮木”かもしれない。

 ツツジは普通の街中の街路樹や庭木としていたるところで見られるが、そのほとんどが刈り込まれているため、ツツジは低木と思っている人が多いようだが、実際には5mほどの高さになる樹木なのである。

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里山の斜面を利用して植えられている。見ごたえはあるが、”歩きで”もある

 五大尊の境内には、”札所巡拝碑”がある。四国八十八カ所霊場だけでなく、西国・坂東・秩父百観音霊場の「写し霊場」コースが整備されている。ツツジを見物しながらコースを巡ると、全国の霊場を巡るのと同じご利益があるとされている。私は本場の四国八十八カ所霊場をすべて回ったことがあるが、幼いころからの習性として、お参りは一度もしたことがないので、ご利益を受けたことがない。

 五大尊は密教系で、不動明王降三世明王大威徳明王、軍荼利(ぐんたり)明王金剛夜叉明王という五大明王を指すとのこと。五大尊堂と霊場写しコースを巡り、お祈りし、かつツツジの美しさに触れれば、きっと良い事があるだろう‥‥多分あるいは、もしかしたら、運が良ければ‥‥

小さな滝は深い森の中にある

 越生梅林のある里山道からゆっくりとすそ野を上って行くと、”黒山三滝”に通じる道に出会う。「黒山三滝入口」の標識があるのですぐに分かる。道の右手には駐車スペースがあり、この日は満杯に近い車が止まっていた。滝までは、ここから三滝川に沿うだらだらとした坂道を上って約15分で最初の滝である「天狗滝」の入口に到達。

 天狗滝は、三滝では一番落差があり約20m。が、岩石が崩落しやすい場所にあるため、滝近くまで行くことはできない。滝の近くまで寄らないとその全貌を見ることはできないのだが、”ここから先は立ち入り禁止”の言葉を無視してまで前に進むほどではないと思ったので、立ち入れるぎりぎりの地点から滝を見上げた。今年は川、沼、池、湖の多くで水量が不足しているため、この滝もかろうじて水が落下しているといった状態であった。

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左から女滝、男滝、天狗滝。水量の少なさが迫力を減じている

 天狗滝入口から男滝・女滝まではあと数分。昔ながらの風情の土産店の前を過ぎると滝に出会える。上方にあるのが男滝(落差10m)、その下にあるのが女滝(落差5m)。ここも水量が極めて乏しかったので、迫力という点では感じ入るものはなかった。が、周囲の森を見回すと、その急勾配といい、足場の悪さといい、整備されたハイキングコース以外、上るのは極めて困難と思えるほど森は深いようだ。

 それもそのはず、この黒山一帯は、以前から修験道の修行場として使われており、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が開いたとも言われている由緒正しい修行場なのである。

 滝自体はレッドチャートと御荷鉾(みかぶ)緑色岩との境に形成されている。特に天狗滝ではチャートの赤い岩肌がよく見えるはずだが、あまりにも苔むしているため確認は難しかった。一方、三滝川、その本流筋の越辺(おっぺ)川では、緑色岩が河原に多くころがっている。

 駐車スペースの車の多さに比べ、滝を訪れる人は極めて少なかった。黒山三滝からは奥武蔵グリーンラインの傘杉峠に抜けるハイキングルートがあるので、そちらに向かったのかもしれない。一方、駐車場で出会った人々はハイキングのいでたちではなかったので、近くの”古式ゆかしい”お店で時間をつぶしていたのかもしれない。

峠道にある奥武蔵グリーンラインを行く

 黒山三滝から東秩父村に抜ける”奥武蔵グリーンライン”は尾根筋を進む林道で、道はかなり細い。落石も多い。さらに何度もハイキングコースと交錯しているので、事故の危険性もある。が、ここをあえて進むのには訳がある。ところどころであるが、景色が素晴らしいのである。

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顔振峠からの眺め。大地の皺がよく見える

 三滝から林道を進み、最初に出会うのが顔振(かぶり、かあぶり、こうぶり)峠。標高は500m。この高さが具合良く、前方に広がる幾重もの尾根筋や丘陵が「大地の皺」のように見える。数年前、峠の茶屋で知り合ったお爺さんとその皺の数を数えたら13本もあった。ここより低い場所では手前の山が視界の先をふさぐので見える皺の数は少ない。ここより高い場所では、皺の凹凸がはっきりしなくなるので、皺を数える動機が希薄になる。

 義経や弁慶の一群は、奥州へ逃れる際にこの道を通ったそうな。この峠から見る景色があまりにも素晴らしく、前に進む足をしばしば休めてこの景色を見るために振り返った。ここから”顔振”の名がついたそうな。

 この日は雨あがりの束の間の晴れ間だったので水蒸気が立ち込めていたためか、視界良好とはいかなかった。それでも、13筋目の丹沢山塊もかすかながら見えた。写真の右手にある、この中では一番高い山が大岳山(おおだけさん、1267m)。私の地元では”キューピー山”と呼んでいて、多摩地区中部に住む人々にとっては自分の位置を知る”ランドマーク”になっている。が、ここからではとても”キューピー”の頭には見えない。ちなみに、峠の茶屋のご主人に山の名を尋ねると、「大岳山かも」という面白くもなんともない答えが返ってきた。確かに、ここからでは山のコブ程度にしか見えない。この写真にはないが、この右手には正三角形の頂上を持つ蕎麦粒山(そばつぶやま、1473m)がよく見え、これが顔振峠のランドマークになっているのだ。

峠道を歩く~峠の向こう

 道はかつて、異界につながる恐るべきものと考えられていた。漢文学者の白川静によれば、”道”の字の首は、異界の人の首という意味を表し、しんにょうは行くを表す。つまり、道を行くときは異界の人の首を捧げ持ち、それを呪力として邪気を払いながら進むのである。道は他者との交流によって豊かになるものとして存在するのではなく、なるべく忌避するものであったようだ。

 こんなことを最高の釣り仲間であったN氏(故人)に話をしたところ、「それなら、峠道であればもっと奇怪なものに多く出会えるはず」と言い、人生の最後に作る予定の映画を『峠の向こう』にすることにしようと、彼は決然した。

 良い景色を求めてグリーラインをさらに進み、関八州見晴台(標高771m)に行くことにした。車を路肩にとめ、約10分坂を上ると見晴台に着く。

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見晴台への峠道。雨上がりなのでやや滑る

 峠道を歩いていたとき、再びN氏のことを思い出した。

 N氏は都心の一等地に豪邸を構える大金持ちの映画監督(担当はドキュメンタリーと美術)。一方の私は、多摩のド田舎のあばら家に住む、しがない予備校講師(担当は数学と政治経済)。N氏は私の15歳上。普通なら一緒にいるはずのない二人を結びつけたのは”釣り”。大きな磯釣りクラブに入り、そこでN氏と出会い、意気投合した。磯釣りはクラブ員と出掛けることが多かったが、渓流釣りには二人で行った。彼の車で行くときはいつもクラシック音楽がかかり、私の車のときは中島みゆきオンリー。彼は大酒のみで私は下戸。

 彼は渓流釣りのときは、できるだけいろいろな山の渓谷に出掛けることを望んだ。よく釣れる場所に出会っても、同じ場所へ再訪することは望まず、常に新天地を求めた。その理由は、『峠の向こう』のロケ地探しも兼ねていたからだった。大金持ちの彼は、気に入った山があったらそれをひと山ごと購入するというのだ。そしてそれを自分の映画の舞台に適するように改造するらしい。実際、以前に山に立てこもるゲリラを描く映画を作るときも、山を買い取ったとのことだった。

 が、知り合いの釣具店の若旦那にそそのかされて二人は鮎の友釣りを始めると、完全に釣りの方に熱中し、映画のことが話題に上ることは少なくなった。それでも、鮎釣り場に出掛けるときには山々を通過し、釣りをしているときにも山は常に目に入るので、話題から消えることはなかった。

 小さな集落に住む少女は、自身の好奇心から峠の向こうにあるとされる村に出掛け、そこで修羅の世界に出会う。這う這うの体で逃げ出した少女は自分の集落に戻るが、そこはさらに過酷な修羅の世界に変化していた。峠を越えるたびに村の世界は畜生→餓鬼→地獄と落ち込んでいくというプロットをN氏は私に語り、「脚本は君に任せたから」といってイワナやアユの骨酒をひたすら飲みまくって寝てしまうという日々が続いた。

 結局、映画は完成することなく、N氏はすい臓がんでこの世を去った。彼が死の間際に残したテープには、中島みゆきの『誕生』がエンドレスに録音され、その音楽に重ね、私への感謝と映画が日の目を見なかった悔悟の言葉が語られていた。

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峠の向こうには、やはり魅力的な景色が広がっていた

 関八州見晴台に到着し、周囲を眺めた。ややガスっていたため決して眺望環境は良くなかったが、それでも東京都心、丹沢山塊、秩父連山、日光連山が見て取れた。

 峠の向こうには綺麗な景色が広がっていた。しかし、詳細までは見えなかった。

 細部(ディテール)に宿るのは、はたして神々なのか、それとも悪魔なのか、私には知る由もなかった。