徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔48〕3ケタ国道巡遊・R411(2)~青梅市から奥多摩町を行く

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軍畑駅入口交差点から御岳山頂を望む

R411は青梅街道となって西を目指す

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R411はこの交差点から青梅街道を名乗る

 写真は、国道411号線(R411)と、これまで都道5号線(r5)として西進してきた青梅街道とが出会う丁字路をr5側から見たものである。写真中の道標から、青梅街道はR411としてこの交差点から出発するということがわかる。一方、写真に見える稜線は加治丘陵(青梅丘陵とも)のもので、R411が道標のとおりに北上するとすぐに丘陵の南面に突き当たり、それを越えると埼玉県飯能市に入ってしまう。それでは青梅街道が目指す甲府市には至ることが難しくなり、あるいはひどく遠回りになってしまうため、すぐに西に転進する必要があった。

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R411はすぐに左折して西進する

 青梅街道としてのR411は上記の理由によって、青梅市文化交流センター南交差点からは僅か200mほど北上するだけで、写真の青梅市文化交流センター前の丁字路をすぐに左折することになる。ちなみに、この交差点を右折すると青梅市の中心街に至るのであり、その都道28号線(r28)こそかつての青梅街道であって、その旧道筋には古き良き青梅の街並みが部分的に残っている。私は少しだけ旧青梅街道筋を見物するため、丁字路を左折せずに右折してみた。青梅についてはいずれ詳しく紹介する予定でいるので、さしあたり、今回は青梅駅周辺に限って触れてみたい。

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青梅駅の南口広場

 先の丁字路を右折して旧青梅街道を300mほど東に進むと、青梅駅前交差点に出る。この交差点の北側に写真の青梅駅がある。私にとってJR青梅線はまず利用することがないので青梅駅には初めて立ち寄ったことになる。駅の北側はすぐ丘陵地なので、写真の南口に商店街が集まっている。ただし、青梅駅を利用する人は減少傾向(2000年は15718人、18年は12994人)なので、駅前広場にしては少し寂しさを感じさせる風景が展開されている。

 ちなみに、東隣の東青梅駅青梅市役所の最寄り駅)の利用者数は2000年が13413人、18年は13114人とほぼ横ばいだ。さらにその東隣の河辺駅は2000年が27415人、18年が27270人とやはり横ばいであるものの、青梅、東青梅の両駅よりも圧倒的に利用者数は多い。その理由は、河辺駅周辺のほうが平地が多いので開発がしやすいこと、立川駅新宿駅により近いので通勤に便利であることなどが考えられる。

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住吉神社の社殿は稲荷山と呼ばれていた高台にある

 写真の住吉神社は、青梅駅前交差点からさらに東に300mほど進んだ場所にある。社殿は稲荷山と呼ばれていた小高い丘の上にある。周囲の標高は197m、社殿のある場所は212mほどで、まさに鎮守の森と呼ぶに相応しい居住まいをしている。

 創建は1369年とされ、すぐ南側にある延命寺を開山した季竜が、寺背にあった稲荷山に寺門守護のため、故郷の摂津国住吉明神を祀ったのが始まりとされる。16世紀初頭にはこの地域を支配していた三田氏が社殿を改修したり社宝を奉納したりし、あわせて青梅村の氏神として祀った結果、青梅の総鎮守の地位につくようになった。

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旧青梅街道沿いにある昭和レトロ商品博物館

 住吉神社は旧青梅街道の北側にあるが、写真の「昭和レトロ商品博物館」は街道の南側に位置し、神社参道のほぼ対面にある。懐古される「昭和」といっても、おもに30年から40年(1955~65年)頃に限定されるらしい。その時期の駄菓子やお菓子、薬などのパッケージ、おもちゃ、ドリンク缶や瓶、映画のポスターなどが展示されているとのこと。入館料は350円。漫画『三丁目の夕日』の時代設定と同じで、昭和といえど戦前や戦時中でも、さらに占領期でもなく、朝鮮戦争特需によって高度成長を遂げ始めた時代のものが集められているようだ。

 博物館には入っていないので、どのようなものが実際に蒐集されているのか詳細は不明だが、私は同時期に幼少年期を過ごしたので、展示品についておおよその記憶はあるはずだ。ただし、私の場合は物への愛着(執着)心がほとんどない(不時着はある)ので、懐かしさまで覚えることはないと思う。私にとって大切なのは「もの」ではなく、「こと」への想起である。

 この記念館の東隣には「青梅赤塚不二夫会館」があったのだが、今年の3月27日に閉館された。建物自体は古い土蔵造りの屋敷が利用されていたので現存しているが、赤塚不二夫を思い起こさせるものは撤去されていて何も残ってはいない。私は大の赤塚ファンであったので、その点についてはとても残念に思った。

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青梅はネコの町でもある

 旧青梅街道には、2018年頃までは映画の看板があちらこちらに掲げられていた。青梅市は「最後の映画看板絵師」の出身地であったからだ。が、台風で多くの看板が吹き飛ばされてしまった結果、残された映画看板も含めてすべて撤去されてしまった。代わって、青梅では「猫町」を標榜し始めたようで、ネコにまつわる「作品」をあちこちで見つけることができる。写真のポスター?は、映画看板と猫町との融合作品である。

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昨年の3月に閉店したマイナー堂の看板

 マイナー堂はレコードCDショップで、昨年の3月、65年の歴史に幕を閉じた。『ベニーグッドマン・ストーリー』の看板だけが寂しく残されている。窓に掲げられている「帰ってこいよ」の横幕は、青梅マラソンのランナーたちへ呼びかけられたもので、同店では、マラソン当日には松村和子の『帰ってこいよ』の曲を流し続けたそうだ。今では、店の経営者自身への呼びかけになっている。ちなみに、『帰ってこいよ』は私のカラオケの持ち歌でもある。

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青梅坂下交差点を右折すると埼玉県飯能市に至る

 青梅市街はいずれ詳細に巡るつもりでいるので、今回は早々に切り上げ、R411の旅に戻ることにした。R411が西へ転進した青梅市文化交流センター前交差点から再スタートである。西へ300mほど進むと、写真の青梅坂下交差点に出る。この丁字路を右折し小曽木(おそき)街道を北に進むと、入間川の支流である成木川沿いに至り、そこは埼玉県飯能市となる。

 青梅駅から西武池袋線飯能駅までは、直線距離にして8.5キロほどで、これは青梅駅から福生駅までの直線距離より少し短い。もっとも、青梅市街と飯能市街との間には加治丘陵が横たわっているので、福生に出るよりは時間は掛かるかもしれない。

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材木や織物の商いで財をなした稲葉家の旧宅

 写真は、東京都指定有形民俗文化財に指定されている「旧稲葉家住宅」で、先に挙げた青梅坂下交差点の100mほど先のR411沿いにある。稲葉家は青梅宿の町年寄を務めた旧家で、江戸後期には材木商、青梅縞の仲買商として財を成した。

 青梅界隈は森林だらけなので木材を得るには困らなかった。もちろん、自然林だけでなく、人工造林も江戸時代には積極的におこなわれていた。江戸の開発・発展に材木はいくらでも必要とされていただろうし、青梅から江戸にそれらを運ぶには多摩川を使って筏流しをすれば事足りた。

 青梅は織物生産地として有名である。かつてこの地には「調布村」があったくらいなので。この点については本ブログですでに触れている(cf.26回・多摩川中流散歩)。江戸時代に記された『万金産業袋』(1732年刊)に「青梅縞」の名が表れている。18世紀中期の『江布風俗誌』に「町家正月の……衣服は絹袖花色黒青茶紋付にて大方二枚着す、間着なと云ふものなく、男児は松坂島桟留、青梅縞に限る……」とあるように、江戸時代に青梅の織物は全国的にも知られた存在であったようだ。それゆえ、青梅縞の仲買商人でもあった稲葉家が青梅を代表する豪商であったことは容易に想像できる。

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熊野神社前のクランク

 旧稲葉家住宅のすぐ西側に、写真のクランクがある。青梅市街からR411を奥多摩に向かって進むとき、いつもその存在が気になるクランクなのだ。R411の行く手には「熊野神社」があるため、それを避けるように道は右に曲がり、すぐに左に曲がって西進する。今では狭い境内の小さな神社に過ぎないが、かつて、ここには「森下陣屋」が置かれ、徳川家の天領であった「山の根」地区(八王子ならびに多摩川上流地域。2万5千石)を統轄していた。こうした町の要衝であったために道はわざわざクランク状に造られており、それが現在も往時の姿を留めているのだ。

 熊野神社について『東京都神社名鑑』には、「創立不詳。古老の説によると、慶安年間(一六四八~五二)徳川氏の代官大久保長安、大野善八郎尊長等が居住した陣営地にあったころの鎮守といわれる。明治三年、社号を熊野大神と改め、同二十五年、熊野神社と改称。大正十四年九月、覆社および拝殿を改築、同時に愛宕・琴平社を合祀した」とある。境内にあるシラカシ青梅市内でも最大級の大きさだそうだが、現在は幹から伐採されているので、以前のように成長するにはかなりの年月が必要とされるだろう。

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平将門が創建したといわれる金剛寺

 熊野神社のすぐ南側にあるのが、平将門が創建したといわれている金剛寺だ。すぐ南側といっても寺は「天ケ瀬面」と呼ばれる河岸段丘上にあるため、神社よりは10mほど低い位置にある。神社の境内の標高は202mなのに対し、寺は192mである。こうした配置は、以前から何度も述べているように、神社は町の高台、寺は町中というのが普遍的な実相なのである。

 多摩地区西部には「将門伝説」が多く残っている。金剛寺の創建もそれが関わっており、将門は承元年間(931~37)にこの地に来て、馬の鞭として使用していた梅の枝を地面に挿し、「我が望み叶うならば根付くべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓ったとされている。また「我願成就あらば栄うべし、然らずんば枯れよかし」と誓ったとも伝えられている。将門は朝敵とされ、天慶三年(940)に藤原秀郷平貞盛などによって討伐された。将門の願いは成就しなかったものの、梅の枝は根を張り成長した。

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将門誓いの梅の古木

 将門が挿し木した梅は実を付けるようになるまで成長したが、なぜか、その実はいつまでも青いままで熟さなかった。そのことから、この地は「青梅(あおうめ)」と呼ばれるようになったとされている。梅の木の中には確かに実が黄熟しないまま落実するものが他にもあるようで、それらは突然変異種と考えられている。なお、梅の寿命は100~400年ほどなので写真の古木は、挿し木もしくは接ぎ木で幾世代を経ているものと考えられるが、場合によっては将門の怨念によって生かされているのかもしれない。

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軍畑駅入口交差点からR411沿いの景観は様相を変える

 写真は「軍畑(いくさばた)駅入口交差点」(標高201m)の経路を示す道路標識である。本項の冒頭に触れているように、標識の下にあるピークは御岳山頂だ。

 青梅線青梅駅までは本数は多いが、青梅駅以西になると激減する。青梅駅の時刻表を調べてみると、平日の上り立川方面では、6、7時台は各8本、8から10時台でも5本ある。一方、軍畑駅(標高243m)では、6時台は4本あるが、7から9時台では各2本、10、11時台では各1本となり、通勤や通学に青梅線を利用するには相当な不便を強いられることになる。

 武蔵野台地青梅駅付近を扇頂として多摩川が形成した扇状地なので宅地開発は比較的容易だが、青梅駅以西は一部に狭いながらも河岸段丘は多少存在するものの、大半は傾斜地であって宅地開発が難しく、人口増加は望めない場所だからである。それゆえ、青梅線(旧青梅鉄道、旧青梅電気鉄道など)の開通に関しては、青梅駅までは旅客営業も考慮に入れられたものの、青梅駅以西は貨物利用を前提として敷設された。

 青梅鉄道は1894年、立川・青梅間に開通したが、翌年には青梅・日向和田間が貨物線として開業した。これは、日向和田にある石灰山から石灰石を運ぶために必要とされたからであった。日向和田の石灰は盛んに掘られ、約70年で完全に掘り尽くされた。

 そもそも、江戸時代には青梅北部の成木・小曾木の石灰は城などの白壁造りに大いに必要とされた。1606年の命令書には「今度江戸御城御作事、御用白土武州上成木村、北小曾木村山根より取寄候り。御急の事に候間、其方代官所、三田領、御領、私領まで道中筋より助馬出……」とある。石灰石運搬のために、成木から江戸府内までの街道が整備されたのだった。現在の青梅街道は、この成木街道が転用されたものとも考えられている。

 成木にせよ、日向和田にせよ、この辺りは関東山地の東縁にあたり、その地層はかつて「秩父古生層」と呼ばれていた。この「秩父古生層」の名称は、前回の項において「千代鶴」のところで触れており、「地下170mの秩父古生層の水を汲み上げて仕込水に用いている」と紹介している。「秩父古生層」はあきる野や青梅、奥多摩などの基盤岩の通称で、現在では古生代(約5億7千年前~2億2500万年前)の堆積層ではなく、中生代(約2億2500万年前~約6500万年前)のものであることが判明している。

 青梅や奥多摩の地層は成木層、雷電山層、高水山層、川井層、海沢層などに区分されるが、砂岩、頁岩、泥岩、礫岩に混じってチャートや石灰岩が含まれている。それゆえ、石灰岩の多い場所では石灰が採掘されたり、鍾乳洞が発見されたりしている。また、チャートや石灰岩は他の岩石に比べて侵食に強いために、それらを多く含む場所では山に独特の形状を与えている。私が大好きな大岳山(キューピー山)、高岩山などはその代表である。

 ともあれ、青梅市街から西側の多摩川は硬い基盤岩の中を縫うように流れており、谷底は深く河岸段丘を形成しにくいため、山での仕事を主とする人々以外には住みづらい場所になっている。それもあって人口は増えず、結果として電車の本数は少ないままなのである。

 宮ノ平日向和田、石神、二俣尾、軍畑、沢井、御嶽、川井、古里、鳩ノ巣、白丸、奥多摩の各駅が青梅駅以西にあるが、このうち、観光客が電車を使って利用するのは御嶽、奥多摩ぐらいだろうか。ここに挙げた駅のうち、JR東日本が乗降客数を公表しているのは奥多摩駅だけで、その数は1858人となっている。あとの駅は非公開とされている。少ない人数であることを公表すると廃線、廃駅の声が高まってしまうだろうことを警戒しているのかも。

 ところで軍畑(いくさばた)という地名は、三田氏と小田原北条氏との最後の決戦がおこなわれた場所であることから付けられた。ここには多摩西部を拠点にしていて上杉側についていた三田氏の最後の砦ともいえる辛垣(からかい)城(標高457m)があった。そこに小田原北条氏の北条氏照(本ブログではお馴染みの存在)軍が攻め入り(辛垣の戦い)、結果、1563年に三田氏は敗れて滅亡した。武蔵国内での攻防戦が展開された場所として一部の地域史ファンに知られた存在である。三田氏の詳細については、いずれ青梅の項を立てたときに触れたい。

机龍之介のふるさと・沢井

 軍畑駅入口交差点を過ぎてR411を奥多摩方向に進むと、もはや道の左右、多摩川の右左岸には平地はほとんどなく、右手はすぐ山、左手の谷底には多摩川といった風景が続くようになる。R411は奥多摩駅のすぐ先まではずっと多摩川の左岸側を走っている。一方、吉野街道はずっと右岸側を走っている。軍畑まではその間に多摩川の流れだけでなく道沿いや段丘上に宅地が結構あるので両道路間も距離はあるが、軍畑以西はその間隔が縮まり、R411は左岸すぐ横、吉野街道は右岸すぐ横を走ることになる。それゆえ、片方の道が工事か何かで滞ると、多摩川に架かる橋を渡って容易に対岸の道に移ることができる。

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沢井駅前を通過するR411

 青梅線では軍畑駅の次が沢井駅となる。沢井といえば、下に挙げる小沢酒造の「澤乃井」の醸造地として知られ、観光名所もいくつかあるので訪れる人も多いが、私にとっての沢井は、「机龍之介」が生まれ育った地であることだ。龍之介はここにあった「机道場」のひとり息子として成長し、「音なしの構え」の剣法を編み出した。ただ、彼は剣道の修行だけでは飽き足らず、大菩薩峠などでの試し切りなど、平気で人を殺すようになってしまった。

 中里介山の『大菩薩峠』は世界最大の大河小説といわれ、しかも作者死去のために未完である。大長編小説というと『失われた時を求めて』や『チボー家の人々』がよく知られているが、それらは内容がいささか高尚なので読み通すには忍耐力が必要であるが、『大菩薩峠』はあくまでも通俗時代小説なので気軽に読めるし、何よりも興味深い人物や場面が数多く登場するのが嬉しいのだ。私がR411をさして理由があるわけでもなく走りたいと思うのは、机龍之介の姿を追うため、大菩薩峠を間近に望むためということが心底にあるからなのかもしれない。もっとも、裏宿の七兵衛は青梅に実在した義賊であったにせよ、机道場や龍之介は架空の存在なので、沢井周辺をいくら歩いてもそれらの面影を見出すことはできないのだが。

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沢井には机道場はないが小澤酒造がある

 沢井駅入口交差点のすぐ手前右側に、写真の小澤酒造がある。「澤乃井」は多摩の地酒のブランド名としてはもっとも有名だと思われる。前回に触れた中村酒造同様、こちらも工場見学ができるそうだ。私は酒の匂いだけで酔ってしまうので見学はできないが。創業は元禄15年(1702)とのことなので、300年以上の歴史がある。元禄15年といえば、赤穂浪士討ち入りの年である。

 この小澤酒造も千代鶴の中村酒造と同じく、「秩父古生層の岩盤を140mもくり貫いた洞窟から湧き出る石清水を……」と地下水を仕込水に用いているとのうたい文句がある。先に述べたように「秩父古生層」は通称に過ぎないが、「中生代の川井層」というより、水は豊かで清らかな感じがする。

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清流ガーデン・澤乃井

 工場はR411の北側にあるが、写真の澤乃井園は南側にある。工場の入口の標高は213mだが、澤乃井園は道からやや下った204mのところにある。ちなみに多摩川の川面は197mほどなので、この園では、川のせせらぎを聞きながら軽食をとったり買い物を楽しんだりすることができる。紅葉の季節にはとりわけ景観が良くなるだろうが、大混雑は必至である。

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澤乃井園前に架かる吊り橋と右岸にある寒山

 川に沿って御岳渓谷遊歩道の一部として整備されているので川べりの散策が楽しめる。また澤乃井園前には写真の吊り橋(楓橋)が架かっているので、右岸側に移動することもできる。澤乃井園のすぐ隣には小澤酒造が運営する「きき酒処」、豆腐や湯葉のランチが楽しめる「豆らく」、豆腐懐石料理の「まゝごと屋」があり、橋を渡って吉野街道に出た先には、やはり小澤酒造関連の「櫛かんざし美術館」がある。

 写真の吊り橋の先に写っているのは寒山寺で、中国の蘇州にある寒山寺に因んで、1930年、小澤酒造の協力によって建立されたものである。この寺院の南側の高台に吉野街道が走っていて、多摩川側には無料の寒山寺駐車場(標高232m)が整備されている。

 私はこの周辺には散策場所としてよく訪れるのだが、小澤酒造関連の施設を利用するのはその駐車場とトイレと楓橋と遊歩道ぐらいで、各店や工場に入ったことはない。もちろん毎回、橋の上からは川の中をのぞき込んでアユなど魚の姿を探す。

御岳登山は来年の目標のひとつである

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JR青梅線御嶽駅

 沢井駅の隣が写真の御嶽駅。R411の御岳駅前交差点には「御岳駅前」と記されているが、青梅線の駅名は「御嶽駅」となっている。地名も山名も「御岳」であるが、御岳山頂にある神社名は「武蔵御嶽神社」と表記される。駅名が御嶽と表されているのは、レジャーとしての山登りのために設置された駅なのではなく、宗教行為として御嶽神社に参拝するための最寄り駅という位置づけなのだと考えられる。あるいは、”たまたま”かもしれないが。

 「嶽」は獄に「やまへん」が付いたもの。『詩経』には「崇高なるは、これ嶽、たかくして天にいたる、これ嶽……」とあるので、嶽には、ただ高いだけでなく神聖なるものという意味が込められているのかもしれない。一方の「岳」は、甲骨文字では山の上に羊の頭を乗せたものを表していた。中国では古くから羊は神聖な瑞獣と考えられており、それゆえ岳は聖地としての山を示すことになる。つまるところ、岳でも嶽でも、漢字の成り立ちは異なるにせよ、意味するところはさして変わりがないように思えるのだが。

 嶽の「獄」はけものへん=犬に、右の部首も犬で、その間に「言」がある。獄には「裁く」という意味があり、刑事裁判のことを古くは断獄(罪を裁く)と言っていた。人の罪を裁くにはまず原告も被告も双方が身を清める必要がある。そのために、汚れを祓う力があるとされる犬を生贄にして、その上で真実を述べる誓い=盟誓して証言したのだろうか?嶽には裁判とは関係がなさそうだが、山に登るためには身を清める必要があるとするなら、嶽=神聖な山と考えてもおかしくはない。富嶽=富士山だが、富嶽と記すと信仰対象(絵画の対象としても)としての富士山になり、富岳と記すとスーパーコンピューターになる。

 御嶽駅前の標高は232m、御岳山は929m、武蔵御嶽神社の境内は926~932m。御岳山に歩いて上るとすれば比高は697m。また、車で御岳登山鉄道の滝本駅(標高408m)までは行けるので、そこに駐車して徒歩で登るとしても比高は521mとなるので、私の徒歩による高低差克服の自己新記録となる。しかし、滝本駅まで行ったとなれば登山鉄道利用は必至だろうから、御岳山駅(標高831m)までは自力とはならず、結局、比高は98mにしかならない。

 御岳山は未登頂であると記憶しているので、本ブログで青梅の項を立てる際には必ず、初登頂を達成したい。さしあたり、徒歩は無理なのでケーブルカー利用となるが、それでも、武蔵御嶽神社を見物したいし、周囲の風景を楽しみたいと考えている。もっとも、晩秋は紅葉シーズンなので混雑は必至だし、熊に襲われる危険もあるので、来春にチャレンジしたいと考えている。春は木々が葉っぱを纏っていないので、見通しが良いという利点もある。

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駅前にある御岳橋

 御嶽駅前にはR411と吉野街道とを結ぶ御岳橋が架かっており、それは御嶽神社への参道としての役割を果たしている。ただし、徒歩で御岳山に登ろうとする人、もしくは、せめて滝本駅まではバス利用ではなく歩いて行こうとする場合(比高176m)は、この橋を用いずにR411を奥多摩方向に進み、御岳郵便局のすぐ先にある細道に入り、神路橋を渡って道なりに進むと吉野街道に出てそのまま直進すれば滝本駅にたどり着くことができる。

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御岳橋上から御岳渓谷を望む

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御岳橋から上流方向を望む

 上の写真は、御岳橋から多摩川の流れを望んだものだ。御岳橋の標高は232m、多摩川の川面は207mなので、高所恐怖症の私には真下をのぞき込むことはできない。それゆえ、視点はやや遠めに置いた。

 先にも触れたように、この辺りは御岳渓谷遊歩道が整備されている。渓谷美を楽しむ人をよく見掛けたが、写真のように急流をカヤックで下る姿も多かった。橋から多摩川左岸の崖を眺めると、川沿いに立ち並ぶ建物(これらはR411沿いにある)の多くは、御岳渓谷を眺められるような造りになっていることが分かる。その姿から、かつては旅館など宿泊所に利用されていたと思われるが、現在でも一部は食堂やレストランとして利用されているようだ。景観は良さそうだが、少し怖さも感じられる。

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玉堂美術館横から渓谷を眺める

 御岳橋を渡り、吉野街道に出ると多摩川右岸には「玉堂美術館」と小澤酒造が経営するお土産物店「いもうとや」がある。明治から昭和にかけて活動した川合玉堂は日本を代表する画家のひとりで、晩年(1944~57年)は御岳の地で過ごした。玉堂の死後、地元有志や全国の玉堂ファンなどによって61年、玉堂美術館が開館した。私は絵画にはほとんど関心がないのでこの美術館には入ったことはなかった。今回は折角なので入館するつもりでいたのだが、その日は閉館日だった。つくづく、絵画には縁がないらしい。

 気勢はそがれたものの、個人的には渓谷美により関心が高いので、少しだけ散策した。写真の下流には「オーストラリア岩」「溶けたソフトクリーム岩」「御岳洞窟」「忍者返しの岩」などと名付けられた奇岩が多い。それらは川の左右にあるため、両岸を行き来するための小さな橋が架けられていたのだが、写真のように、昨秋の大洪水で橋は流されてしまっていた。

R411は青梅市と別れ、奥多摩町と出会う

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R411から奥多摩大橋を望む

 R411に戻り、再び西に向かった。相変わらず、R411は多摩川青梅線との間を川の流れと同様に蛇行しながら進む。小さな谷川のあるところでは少しだけ標高を下げるものの、全体としては上り基調である。道は林と山の際を進むため、多摩川の位置は分かっても、流れは谷底深くにあるため、川そのものを視認することはできない。

 御嶽駅の次の駅は川井駅となるが、その途中で青梅線もR411も、そして私も青梅市には別れを告げ、今度は奥多摩町の旅が始まる。川井駅に近づくと多摩川は少しだけ河原を広げるためもあって、R411からの視界もまた開けてくる。上の写真は、川井駅の近くにあり、川井交差点(標高256m)と吉野街道の梅沢交差点との間を結ぶ「奥多摩大橋」を姿をR411の道路際から望んだものだ。

 大橋下の右岸側(吉野街道側)に、多摩川はより広い河原を形成しており、その周辺は「川井キャンプ場」として整備されている。キャンプ場には興味はないが、奥多摩大橋には大いに惹かれる。奥多摩辺りにはもったいないと思える(個人の感想です)ほど立派な斜張橋だからである。橋の全長は265mと川幅がそれほど広くない場所に架かっているので驚くほどの長さではないが、この橋で特徴的なのは主塔間の長さである。それを支間長(スパン)というが、この橋では160mほどもある。スパンが広いということはそれだけ主塔が立派でなければならない。橋好きにとっては、その雄大さに魅せられてしまうのである。

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奥多摩大橋上から青梅線を望む

 奥多摩大橋を渡った吉野街道側の字名は梅沢である。そこには約5000年前の縄文集落跡があるらしいので、少しだけ探したのだが見つからなかった。それもそのはず、こちらの勘違いで、「梅沢」ではなく「海沢」だったのだ。海沢は梅沢のさらに上流に位置し「奥多摩霊園」がある場所だが、その辺りを探すのには時間が不足しそうなので、今回は捜索を断念した。

 R411に戻るため、奥多摩大橋を往復することになった。その際に、川井集落の中を走る電車が見えたので、私の前後に他の車がいないことを確認してから車を橋上に停め、川井駅に到着するためにスピードを緩めた下り列車を撮影した。今となっては、青梅線であっても五日市線であっても八高線であっても、さらに南武線ですら現代風の車両が用いられている。もはや、焦げ茶色の車両に出会うことはないのかもしれない。 

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川井交差点の先に青梅マラソンの折り返し地点がある

 川井交差点に戻り、R411を西へ進むと、ほどなく左手に「松乃温泉・水香園」の看板が見える。かなり前になるが、母親が健在のときに何度か訪れたことがあったことを思い出した。多摩川左岸側にある温泉兼料亭は、川沿いの広大な敷地の中に離れが数棟建っていて、貸し切りで日本料理を堪能したり、温泉に浸ったり、川沿いを散策したりできるのだった。私の場合は温泉には入らず、ひたすら川べりを歩き魚影を探していた。水を見ると、条件反射的に魚を探すのだ。たとえ、雨が形成した水たまりであったとしても。それが釣り人の性なのだ。

 その水香園のすぐ先にあるのが、写真の「青梅マラソン・30キロ折り返し」地点を示す看板である。青梅マラソンは市民マラソンとして1967年に始まった。マラソンと言ってもフルマラソンではなく、メインの30キロの部と10キロの部とがある。私は中学生までは走ることが好きだったので、高校生になったら出場しようと考えていたのだが、あいにく、15歳の終わりごろから”放浪者”もしくは”浮浪者”になってしまったので、参加することはなかった。

 2020年は2月16日に15256人が参加して開催された。まだ新型コロナは大騒ぎになってはいなかったので中止にはならなかった。しかし、21年の第55回大会は2月21日に予定されていたのだが、早くも延期が決まっている。青梅は義賊の七兵衛を生んだ土地である。『大菩薩峠』の主人公のひとりでもある俊足の七兵衛に因んで始まった大会ではあるが、14年の大降雪による中止、21年のコロナ禍による延期、さらに言えば”市民マラソン”の地位を東京マラソン(2007年に始まる)に奪われてしまったことなど、七兵衛は草葉の陰で嘆いていることと思われる。

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青梅街道と吉野街道とが合体する古里駅前交差点

 多摩川右岸側を左岸のR411と並走してきた吉野街道は、万世橋多摩川を越えて写真の古里駅前交差点(標高288m)でR411に吸収される。車で多摩川沿いを遡って奥多摩湖を目指すには、もはや選択肢はR411しか残されていない(ただし暫くの間だけ)。

 前回に触れたように、R411は友田交差点から畑中一丁目交差点の間は吉野街道を称していた。吉野街道は畑中一丁目交差点からは都道45号線として古里まで進んできた。その間には「吉野梅郷」「吉川英治記念館」「寒山寺駐車場」「玉堂美術館」「武蔵御嶽神社一之鳥居」「川井キャンプ場」など、多くの観光施設や遊び場がある。しかし、多くは林の中を抜ける道であって、青梅街道としてのR411より遥かに信号機は少なく、またカーブも緩やかなため、吉野街道はバイパス的な機能も果たしている。

 それにしても、「吉野街道」の名の由来は不明のままだ。吉野山は奈良だし、吉野川は四国だ。が、由来は不明であっても想像することは可能だ。

 第一は、青梅の開拓に貢献した「吉野織部之助」に由来するもの。彼の父親は大和国の吉野出身で、忍(おし)城主の成田家の家臣であった。成田家は小田原北条氏側について秀吉軍と戦い城を死守し続けたものの、1590年に小田原城が陥落したため、忍城は開城された。このことについては本ブログではすでに何度か触れている。

 忍城から追われた吉野家は青梅の師岡村に移り住み、農業に励み、やがて青梅有数の豪農となった。さらに、吉野織部之助は新田開発をおこなった。1610年、この地に鷹狩りに訪れた2代将軍・徳川秀忠は「せめて一軒でも家があれば」と側近に嘆いたほど、当時、箱根ヶ崎と青梅宿との間にはまったく家がなかったらしい。織部之助はその未開の地を開拓し、新町村を誕生させた。現在、青梅街道沿いの新町周辺はかなりの賑わいを見せている(ドンキもある)が、その原形は織部之助が生み出したのだった。また、前述したように青梅市では河辺駅周辺にもっとも人が多く集まるが、その河辺も織部之助の開拓が起源となっている。さらに、織部之助は青梅宿以西の開拓にも寄与しており、下村、畑中村、日影和田村、柚木村は合併して吉野村と名乗っていたことがある。そうしたことから、吉野織部之助に因んで、彼が開発した地域を通る道は「吉野街道」と名付けられた。けだし、当然のことであろう。

 第二は、武蔵御嶽神社との関係だ。御岳山は修験者の霊場として古くから名高いが、その修験道の総本山と言えば役小角役行者)が開基とされる吉野の金峯山寺である。武蔵御嶽神社への道は修験道山岳信仰を通じて本家の吉野山につながる。その武蔵御嶽神社の「入口」にあるのが、現在の吉野街道である。それを思えば、道の名前は吉野街道以外に考えられない。

 そして第三は、「たまたま」である。

 古里から始まる道は奥多摩湖へと通じている。次回は奥多摩駅奥多摩湖小河内ダム)、多摩川の上流域である丹波川、青梅街道の分水嶺である柳沢峠、そして大菩薩峠などについて触れる予定。R411の旅は、まだ道半ばである。

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 10月30日は、「たまごかけごはんの日」でも「宇宙戦争の日」でも「教育勅語発布の日」でもあるが、何と言っても「初恋の日」なのである。これは、島崎藤村が『文学界』に「まだあげそめし前髪の……」ではじまる初恋の詩を発表した日であることによる。これは藤村ゆかりの老舗旅館である小諸市の「中棚荘」が制定して全国に広まった。

 私の「はつこい」は5歳のときであった。そのときはまだ漢字では書けなかった(読むことはかなりできた)ので、あえてひらがなにした。

 3歳上の兄を中心として、近所のガキンチョが5、6人集まって、林檎畑ではなく、府中崖線下にある小川でよく魚取りをした。網は2つしかなかったので、それらは年長者(といっても7,8歳)が使い、鼻たれ小僧の私は石を投げ入れて魚を脅し、兄たちが構える網に誘導する役か、もしくは「魚あるポイントと思ひけり」、「やさしく白き手をのべて」、手づかみで魚を捕らえるしかなかった。

 兄たちの休憩時、網を構える者がいなくなったので、それを借りて私は魚を追った。そして川のヘリで30センチもある大きなコイを網に入れることができた。私にとって、初めて捕まえたコイだった。

 当然、そのコイは私のものになると思ったのだが、私には小さなフナが数匹、与えられただけで、コイは兄と同年の者に奪われてしまったのだった。

 「コイは儚い」。私は実感した。それが10月30日であったかどうかまでは記憶にない。