徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔34〕多摩丘陵・「聖蹟桜ヶ丘」周辺散歩

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桜ヶ丘公園内にある「旧多摩聖蹟記念館」

聖蹟桜ヶ丘の「聖蹟」とは?

 京王線には「聖蹟桜ヶ丘」駅がある。府中駅から京王八王子駅方面に進むと、「分倍河原」「中河原」の次がこの駅になる。前々回の後半に書いたように、小学生のとき「ただ券」が入手できたときには中河原駅までよく行っていたので、次の駅が「聖蹟桜ヶ丘」であることは知っていた。「せいせきさくらがおか」と読むことも知っていた。しかし、「せいせき」が何を意味するかは知らなかった。「多摩聖蹟記念館」の最寄り駅であることは知っていた。実際には近いというほどではないし、何しろ徒歩で記念館に行くには丘に上がらなくてはならない(駅と記念館の比高は79m)ので、それはやや厳しい道のりなのだということは大人になってから知った。しかし、何を「記念」しているのかは知らなかった。というより、「記念館」と名前が付くものには何の興味もなかった。

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聖蹟桜ヶ丘駅前を望む。「せいせき」の文字が見える

 玉南電気鉄道(現京王線)の関戸駅が1937年に聖蹟桜ヶ丘駅に改称されたのは、30年に「多摩聖蹟記念館」が開館したことに由来する。しかし、この駅が現在のように多摩市の中心部として発展する切っ掛けとなったのは京王帝都電鉄(現京王電鉄)が多摩丘陵を切り開いて桜ヶ丘分譲地を建設したことによる。電鉄ではこの土地の価値を釣り上げるため、聖蹟桜ヶ丘駅を特急の停車駅とした。また、88年には新宿にあった電鉄本社を聖蹟桜ヶ丘駅前に移転したことも、この駅が京王線の主要駅になった要因だ。駅周辺には京王グループのビルや店舗が数多くあり、「せいせき」「Keio」の文字をよく見掛ける。

 「聖蹟」とは貴人などが訪れた史跡をあらわし、とくに昭和初期からは天皇行幸地を言うようになったそうだ。が、東京近辺で「聖蹟」の文字が残っている場所は意外に少なく、わずか4か所しか探すことはできなかった。「聖蹟」は1871年の太政官布告によって法律用語になったけれど、1945年には廃止された。天皇が「聖」なる存在から「人間」さらに「国民統合の象徴」になったのがその理由だろう。

 「聖蹟」の地名が残る場所では「聖蹟桜ヶ丘駅」がもっとも有名で、次に「旧多摩聖蹟記念館」、三番目に大田区蒲田3丁目にある「聖蹟蒲田梅屋敷公園」、四番目に品川区北品川2丁目にある「聖蹟公園」だろうか。「梅屋敷公園」へは明治天皇は9回、「聖蹟公園」へは1回行幸している。前者は「観梅」のため、後者は旧東海道品川宿の本陣があった場所のためなのか、即位後の1868年に1回だけ行幸している。

 一方、桜ヶ丘にはかつて「連光寺村御猟場」があった(1881~1910年)ので、明治天皇は1881年、82年、84年に兎狩のため、81年には鮎漁のためにその地を訪れている。これを記念して1930年、田中光顕や地元の人々の協力によって記念館が建設された。

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現在は旧多摩聖蹟記念館として幕末明治期に活躍した人の書画などが展示されている

 記念館がある一帯は都立桜ヶ丘公園として整備されている。後に挙げるように「ゆうひの丘」は展望が良く、都心部や多摩地区の街並みや多摩川の流れ、関東山地の山並みが見られるために人気スポットになっている。

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聖蹟記念館周辺の散策路

 記念館周辺は散策路が整備されている。多摩丘陵の尾根上をのんびりと歩ける道だけでなく、丘陵の麓にある公園に降りるコースが何本か整備されているため、体力増強目的の人も訪れている。また樹木がよく茂っているため、バードウォッチング目的の人も多く、高級カメラに超望遠レンズをセットし、頑丈そうな三脚を担いでベストポイントを探している人もよく見かける。

多摩丘陵について少しだけ考える

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ゆうひの丘から多摩の街並みを望む

 多摩丘陵を語るときは、必ずといっていいほど『万葉集』にある下記の歌が挙げられる。

 「赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ」

 7世紀半ばの朝鮮半島の戦乱によって九州北部にも動揺が伝わり、その防備のために防人(さきもり、ぼうじん)の制度ができた。武蔵国からも3年の任期で招集がかけられ、人々は多摩丘陵の尾根を伝って、あるいは尾根を越えて東海道に出て西進し、難波津からは船で瀬戸内海を進んで北九州に至った。防人に任じられた武蔵国の人々にとって多摩の横山(多摩丘陵)は旅立ちの地でもあり、永遠の別れの地でもあった。

 多摩丘陵の成立が古相模川に関係しているということは前々回(cf.32・普通の府中市)に少しだけ触れているが、今回はさらにもう少しだけ考えてみたい。

 500万年前頃、火山島だった古丹沢はフィリピン海プレートの移動によって本州弧の端にあった関東山地(小仏山地)に衝突した。この衝突によって海底谷が埋められて地上に現われ、これが古相模川となった。同じころ、火山島であった古伊豆の前域には西にあった火山からの火砕物が大量に堆積し、その一部が後に三浦半島の基盤となる三浦層群となった。

 300万年前頃からは現在、多摩丘陵の基盤となっている上総層群が火砕物によって堆積し、100万年前には古伊豆が丹沢に衝突し、伊豆半島として本州に付加される一方、その影響で丹沢山塊は激しく隆起した。

 50万年前頃、古相模川は東北東方向に流れていて、現在の東京湾あたりに注いでいた。また、相模湾の沖には隆起した海底が地上に現われ、三浦島を形成していた。古相模川は東北東側に扇状地を形成したが、これが開析されて多摩丘陵北西部(御殿峠礫層・多摩Ⅰ面)を造った。30万年前にはさらなる隆起によって三浦島は本州につながり、古三浦半島が出来上がった。この結果、多摩丘陵の南東部と三浦半島の丘陵部は細長くつながった。なおこの頃、現在の川崎市西部では古相模川の旧河口域に砂礫が堆積し、これが「おし沼砂礫層」(多摩丘陵・多摩Ⅱ面)となった。

 13万年前は最終間氷期で、温暖化による高海面期が続き、現在の川崎市鶴見区を中心とする下末吉地域は海進堆積物に覆われ、その後の隆起によって現在の下末吉台地が形成された。

 2万年前が最終間氷期の最盛期で、年平均気温が8度低くなったことで海面は現在よりも130mほど低くなった。このため、三浦半島は古東京川(多摩川と荒川が合流してできた)を挟んで房総半島と陸続きになった。一方、6000年前には温暖化が進み海面は現在よりも2~4mほど高くなった(これを縄文海進という)ため、東京湾は今以上に広かった。

 このように、プレート移動などによって地形は変化し続けているので、どの時点で多摩丘陵が形成されたのかを決定することは困難である。現在、多摩丘陵と三浦丘陵を一体のものとして捉える見方が一部に広がっている。双方を合わせて「いるか丘陵」というのだそうだ。下末吉台地を含めた広義の多摩丘陵三浦半島の丘陵地をある高さの線で囲むと、ジャンプしたイルカの形を描くことができるというのがその理由らしい。かなり強引な線引きのような気がするのだが。

 多摩丘陵と三浦丘陵は連続しているのは事実だが、多摩丘陵や三浦丘陵北部の基盤は上総層群であるのに対し、三浦丘陵南部の基盤はより古い三浦層群なので、成り立ちは前述したように異なっている。反面、どちらの層も海底堆積物から成立し、フィリピン海プレートに乗って北上し、プレートの沈み込みによって上部がはぎとられて本州弧の南面に付加されたことは確かなので、付加体という点では同属といえるかもしれない。

都立桜ヶ丘公園付近を歩く

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桜ヶ丘公園上の遊歩道から富士を望む

 冬になると、私は聖蹟記念館がある都立桜ヶ丘公園によく出掛ける。前回の「かたらいの路」よりも自宅から近く、公園内には無料駐車場があり、聖蹟記念館へは坂を上らずとも近づくことができるからだ。もっとも、記念館にはめったに近寄らず、次に挙げる「ゆうひの丘」からの展望を楽しむことが多く、丘に向かう途中では上の写真のような景色が望めるからだ。

 撮影場所は、公園のもっとも東にある「あそび広場」の上方にある遊歩道上で、写真のように丹沢山塊の最高峰である蛭が岳(標高1673m)やその左の丹沢山(1567m)やその右の大室山(1587m)、そしてその背後にそびえる富士山がよく見える。この写真にはないが、視線を少し右に向けると私の大好きな大菩薩連嶺も見て取れる。

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ゆうひの丘に続く遊歩道

 上の撮影場所から「ゆうひの丘」方向に進むと、今度は車道の反対側に写真のような木製の遊歩道が整備されている。ここから眺める丘陵の斜面もなかなかのものだが、今回はここではのんびりせずに先を急いだ。

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ゆうひの丘にある休息所

 遊歩道の終点から右手を見ると、ゆうひの丘にある休息所が見えてくる。その向こうに、多摩地区の街並みが広がっているのが分かる。

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ゆうひの丘のヘリ。展望は相当に良い

 ゆうひの丘は夜景ファンにはお馴染みの場所で、「夜景ランキング」で全国2位になったことがある。街の灯が点り、関戸橋を行き交う車のライトが交錯し、京王線が橋を渡る様子も幻想的だろう。とはいえ、私はその夜景に触れたことは一度もない。

 桜ヶ丘公園の駐車場は午後4時半に施錠される。そのため、夜間には路上駐車が絶えないようで、地元の人々は大変迷惑を被っているようだ。「夜景ランキング」で上位に入って以来、ネットでこの場所を検索して訪れるカップルが急激に増加したらしい。現在はかなり厳しい取り締まりをおこなっているので迷惑駐車は減ったらしいが、近所には個人住宅が多いため、騒音に悩まされている住民はまだまだたくさんいるようだ。

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丘の斜面にも降りられる

 丘の上(標高125m)からだと左右の林に視界が遮られるので、少し斜面を下ってみると眺めは一段と良くなる。あいにく、右手前方には「桜ヶ丘ゴルフコース」があってその丘陵地帯に都心の中心方向の視界は遮られるものの、都内のビル群の先には筑波山を見てとることも可能だ。

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聖蹟桜ヶ丘駅周辺の街並みと関東山地

 ゆうひの丘からやや西側を望むと、聖蹟桜ヶ丘駅周辺の街並みがよく見える。左にあるタワーマンションは天辺付近の造形が特徴的なので、遠くからでも「あれが桜ヶ丘駅近くにあるマンションだ」ということが分かり、格好のランドマークになっている。

 写真中央にある駅ビルの上方に写っている正三角形の頂を有する山が蕎麦粒山(1473m)で、この地点からは遠くに見えてその存在ははっきりしないが、羽村市飯能市日高市毛呂山町越生町などから望むと、その特徴的な山頂がはっきりと分かる。それは丁度、多摩地区からは大岳山がはっきりと見て取れるごとくにだ。

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正面には狭山丘陵の連なりが見える

 丘の北側を望むと、狭山丘陵の連なりがよく分かる。円形の屋根を有する建物は「メットライフドーム」(西武ドーム)だ。中望遠レンズを用いているのでやや大きく見えるが、その存在は肉眼でもはっきり分かる。空気が澄んでいれば、前回に挙げたように狭山丘陵の後方には、雪を抱く榛名山赤城山男体山、日光連山、足尾山地の姿が視認できるのだが。今冬は、例年に比べてその山容に触れられる機会はずいぶんと少ない。「赤城颪(おろし)」の空っ風はどこに消えてしまったのだろうか。木枯し紋次郎はいずこへ。

多摩丘陵の尾根道を進む

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聖蹟記念館交差点

 ゆうひの丘を離れて写真の交差点(標高136m)まで戻った。正面に見える道がゆうひの丘に至るもの、左に入ると駐車場、そして聖蹟記念館(132m)、右に降りると川崎街道・連光寺坂上交差点(124m)、手前側に進むと京王相模原線若葉台駅に至る。今回は尾根道を歩いて見たかったので、若葉台駅方向に進んだ。

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連光寺交差点

 尾根を走る都道137号線を南に進むと、写真の連光寺交差点(132m)に出る。写真は南側から北方向を見たものなので、右が東側になる。この丁字路を左(西側)に進むと連光寺聖ヶ丘にある住宅街に至る。

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連光寺交差点の東に広がるゴルフコース

 連光寺交差点の東側には「米軍多摩サービス補助施設」(Tama Hills Recreation 
Center)が広がっている。戦前には日本陸軍の弾薬庫があったところで、戦後に米軍が接収し、現在ではゴルフコースを中心としていろいろなレジャー施設がある。日本人の利用も認められているが、入場の際にはパスポートの提示を求められる。わが愛する多摩丘陵上にある広大な敷地(東京ドーム41個分)の主権はアメリカにある。

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多摩大学多摩キャンパスの東の高台にある八坂神社

 私のパスポートはとっくに有効期限切れになっているので「タマヒルズ」には入場せず、都道をさらに南に進んだ。道はゆっくり上り坂になり、右手には多摩大学多摩キャンパスの建物が見えてくる。といっても、大学の敷地は都道の西側にあって、そのベースの標高は139mで、一方、写真の八坂神社前は154mなので、大学の施設は上方だけ顔をのぞかせている。

 写真の神社はそれほど大きくはないが、右手に見える巨木(ご神木・スダシイ)は多摩市指定の天然記念物で、幹のウロの中には白蛇が住んでいるという伝説があるそうだ。階段を上がると小さな社がある。その左手(北側)に「天王森公園」の看板があり、「多摩市最高地点・標高161.7m」と表記されている。頂上は「公園」というほど広くはないが、「天王森」の名は、八坂神社の祭神が「牛頭天王素戔嗚尊(すさのをのみこと)」であるからだろう。

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橋上から尾根幹道路(稲城側)を望む

 八坂神社を出て少し南に進むと「南多摩尾根幹線道路」を跨ぐ橋に出る。その幹線道路は「尾根幹」と呼ばれていて、その道の北にある「多摩ニュータウン通り」と並んで、多摩地区と相模原とを結ぶ重要な道路になっている。かつてはそれらのさらに北側を通る野猿街道ぐらいしかなかったので、府中市から橋本・津久井方面に出掛けるのはとても不便だった。

 尾根幹道路は多摩丘陵の尾根上を走るというより、多摩丘陵の「多摩Ⅰ面」と「多摩Ⅱ面」を横切るように通っているためにアップダウンが激しく、なかなかスリリングな道になっている。もっとも、写真の辺りの区間については私はほとんど利用せず、もっぱらこの日のように橋上から眺めることがほとんどなのだが。

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都道から「みはらし緑地」方向を望む

 尾根幹道路を跨いでさらに南に進むと、右手側(道路の西側)に2つの大きなタンクが立っているのが見える。タンクがある敷地の入り口には「東京都水道局連光寺給水所」とあった。住所は多摩市聖ヶ丘4丁目である。タンクの向かい側(道路の東側)には高い電波塔がそびえていた。「東京都防災行政無線多摩稲城中継塔」の名があった。住所は稲城市若葉台4丁目である。つまり、私が歩いてきた都道は市境を通っていることになる。

 中継塔の南側には「みはらし緑地」があり、公園として整備されている。一番高い場所の標高は158mあり、稲城市の最高地点だそうだ。足下の若葉台住宅地の景観も興味深いが、ここからは都心や川崎、横浜方向の景色が一望できることもある。ただし、この日のゆうひの丘では男体山筑波山が見えなかったので、ここでの眺望もあまり期待してはいなかった。

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都心方向もなんとか確認することはできた

 写真のように、やはり空気は透明度がやや低く、都庁やスカイツリーはなんとか確認できたものの、前にここを訪れたときに比べて眺望はだいぶ劣っていたのが残念だった。この辺りには駐車場がないために今回のようにこの場所を訪ねる場合は都道をてくてくと歩く必要がある。次回は、ゆうひの丘の見通し具合でここまで来るかどうかを判断しようと思った。

 高台から降りて都道に戻り、また南へと進むことにした。「みはらし緑地」の南側にも電波塔がある。それがある敷地の入り口には「東京ガス多摩ガバナステーション」との表記があった。東京ガスと電波塔とは結び付きそうにないが、この塔は地デジ放送の中継基地としても使われているらしい。「地デジ」はあくまで間借りなので、東京ガスは何の目的でこの塔を建てたのかは不明のままだ。

 ひとつ上の写真は、都道を南に進んだところにある陸橋を越えた場所から「みはらし緑地」方向を眺めたものだ。左の白いタンクが水道局の、中央の電波塔が東京ガスの、右の電波塔が防災無線用のものだ。そして、その右側にある森が「みはらし緑地」の高台である。撮影地点の標高は140m、給水タンクと防災無線の電波塔がある位置は150m、東京ガスの塔の場所は146mだ。

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道は標高を下げつつ若葉台駅方向に進む

 都道をもう少し南に進むと道は左にカーブしながら尾根から下り始める。若葉台駅に行くには、左手に稲城台病院を見つつ「京王電鉄若葉台工場」の手前の交差点を右折する。その右折点(稲城台病院入口交差点)の標高は120m。そこは尾根からは離れたところなので今回はそれ以上先へは進まず、来た道を戻ることにした。

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「多摩よこやまの道」入口の標識

 みはらし緑地を撮影した場所(標高140m)の西側には写真の標識があった。多摩市が整備した「多摩よこやまの道」の入り口にあたる場所で、周囲は「丘の上広場公園」になっている。ここを始点として遊歩道は多摩丘陵の尾根伝いに約10キロ西へ進み、多摩市唐木田付近に至る。基本的には尾根幹道路の南側の尾根を進むことになる。以前から歩いてみたいとずっと考えてきてはいるのだが、まだ実現には至っていない。
葉っぱがなく見通しの良い今の時期が最適だと思ってはいるのだが。

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橋上から尾根幹道路(多摩市・町田市側)を望む

 帰りにも尾根幹道路を橋上から眺めた。今度は多摩市、町田市側である。遠くに見える山の連なりは丹沢山塊で、左の大山(1252m)から中央の丹沢山、蛭が岳、右の大室山まで山塊の全貌を見ることができる。蛭が岳と大室山の間には、ひょっこりと富士山も顔をのぞかせている。光線の具合でかなり見づらいが、空気が澄んだ午前中であれば山並みはずっとはっきり見て取れる。

聖蹟桜ヶ丘駅から桜ヶ丘を歩く

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いろは坂桜公園から聖蹟桜ヶ丘駅方向を望む

 スタジオジブリの作品はかなり見ているが、いずれもテレビ放映されたものだけで映画館で見たことは一度もない。テレビで見ているだけなので判断は一面的かもしれないが、とくに「傑作」と思えるものはひとつもなく、かといって「駄作」もなく、すべて「佳作」ぐらいだと考えている。仮に再放送があるにせよ2度目はまずない。ただし、以下の2作品以外は。

 2011年の作品である『コクリコ坂から』は今一度見る可能性は高い。ストーリーは平凡であるにせよ、主題歌が大好きだからだ。この作品では『さよならの夏』を手嶌葵が歌っているが、スローなテンポの編曲は映画の内容には合っていると思う。しかし、本家の森山良子バージョンは日本歌謡の最高傑作といっても過言ではなく、詞、曲、歌い手、編曲のすべてがほぼ完璧だ。これは1976年のテレビドラマの主題歌に用いられたが、当時はほとんど注目されなかった。私自身、この歌に接したのは80年頃だ。

 宮崎駿は早くから『コクリコ坂から』という漫画(1980年)に注目し、いずれはアニメ化したいと考えていた。その際、主題歌は『さよならの夏』を用いると心に決めていたらしい。アニメ作品の監督は凡庸な息子の宮崎吾朗がおこない、宮崎駿は脚本を書いた(丹羽圭子と共同)のだが、駿は吾朗に『さよならの夏』を主題歌にするよう提言した。『さよならの夏』のコクリコ坂バージョンは森山良子版とは詞が微妙に異なっている。先に述べたように曲調もかなり異なる。コクリコ(ヒナゲシ、ポピー、虞美人草を意味する)という語調からは手嶌葵バージョンでも十分鑑賞にたえるし傑作とも言いうる。それでも、森山バージョンを古くから知っている(ジブリ映画の前にこの曲を知っていた友人・知人は皆無だった)私としては満点は上げられない。それでも、この曲に触れられるというだけで、『コクリコ坂から』はまた見てみたいと思う。

 もうひとつのジブリ作品が『耳をすませば』(1995年)だ。この作品を知っている人は、「聖蹟桜ヶ丘」との関連はすぐに気付くに相違ない。というより、ジブリの名を本項で挙げた刹那にこのことはぴんと来るだろうし、それが直感されない人はジブリファンとは到底呼べない。

 このアニメ映画はその多くが聖蹟桜ヶ丘駅とその周辺を舞台に描かれている。映画での駅名は「杉の宮」だが、改札口や駅前の風景(アニメでもKeioの名が出てくる。cf.本項2枚目の写真)から明らかに「聖蹟桜ヶ丘駅」と分かる。さらに主人公(雫)が渡る橋、上る坂(いろは坂)や階段、地球屋があるロータリー、雫が歩く大栗川沿いの道など実在する場面がとても多い。このため、聖蹟桜ヶ丘は『耳をすませば』ファンの聖地になっており、今でも訪れる人は多い。「サンリオピューロランド」以外に「売り物」がない多摩市(聖蹟記念館や多摩ニュータウンではもはやあまり人は集まらない)でもこの映画の評判と聖地化を「売り」にしている。京王線でもこの映画の主題歌である『カントリー・ロード』を聖蹟桜ヶ丘駅の接近メロディーに用いている。

 2020年、『耳をすませば』の実写化が発表され、今秋にも公開されることが決まった。雫の10年後の姿が描かれるそうだが、私にはストーリーについてはとくに興味はない。どうせ凡庸なものに違いないだろうから。重要なのは、ロケ地として聖蹟桜ヶ丘が選ばれるかどうかだ。ただその一点だけに関心がある。

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聖蹟桜ヶ丘駅多摩丘陵との間を流れる大栗川

 聖蹟記念館周辺を歩いた翌日、今度は聖蹟桜ヶ丘駅から丘陵地付近を歩いた。前日はまずまずの天気だったが、当日は写真からも分かるとおりの曇り空。それでも雨に降られる心配はなさそうなので出掛けてみた。

 府中駅から京王線に乗り桜ヶ丘駅で降り、映画の場面そのままに駅前の風景を撮影し、主人公の雫が歩いたとおぼしき道(いろは坂通り)をしばしトレースした。雫は大栗川に架かる橋を渡っていろは坂に向かう。写真は、その橋(霞ヶ関橋)から大栗川上流とその南にある丘陵地を写したものだ。

 前々回にも触れたように、大栗川は古相模川の流路跡であり、八王子の御殿峠付近を水源として多摩市を東北東方向に流れ下り、多摩市連光寺1丁目付近で後述する乞田(こった)川と合流し、すぐに多摩川に至る。

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坂上からいろは坂を望む

 雫が上るいろは坂の右手には父親が勤める図書館があるが、現実の世界には存在せず、その空間には「いろは坂桜公園」がある。その公園前から道はぐんぐんと多摩丘陵を上っていく。Uの形をした急カーブが4か所ある。この風景が日光のいろは坂に似ているところからこの名が付けられた。大栗川に架かる霞ヶ関橋の南詰の標高は55m、撮影場所は95m、この道のピークは112mある。ちなみに駅前は53mなので、丘陵上にある住宅に行くためには59mの高低差を克服する必要がある。散策する人や「聖地」を訪ね歩く人以外は写真にある京王バスや自家用車を利用しているようで、私がここを歩いて上ったときには数人しか出会わなかった。

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いろは坂を直登する階段

 写真はいろは坂を直登する階段で、ここも聖地のひとつだ。アニメではここを雫が駆け下りる場面が印象的に使用されている。

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階段を上ったところにある金毘羅神社

 階段を上った左手にあるのが写真の金毘羅神社で、やはり映画では象徴的な場面に使われている。このためなのかどうかは不明だが、境内にはおみくじの自動販売機が設置されていた。人はどうして運不運を知りたいと思うのだろうか。写真の場所の標高は107mだ。

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映画ではもっとも重要な場面に使われているロータリー

 いろは坂を完全に登り切った場所(標高112m)には桜ヶ丘浄水場があり、そのまま道を進むと写真のロータリー(106m)に出る。映画にもロータリーが出てきて、そこに最も重要な舞台である「地球屋」があるのだが、実際には存在しない。地球屋のモデルになったのは「桜ヶ丘邪宗門」という名の喫茶店だが、10年ほど前に閉店し現在では「桜ヶ丘いきいき元気センター」に様変わりしている。

 その代わり、ロータリーに面した場所(写真右手の建物)にカフェやレストランがあり、聖地巡礼者はここで思いにふけり、またはしばしの休息をとっているようだ。ご苦労様である。

巡礼の旅から丘陵の徘徊者に戻る

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ロータリーと鎌倉街道の間にある原峰公園

 いろは坂通りはロータリーを過ぎて多摩ニュータウン方向に降りていくが、私はそちらへは進まず、桜ヶ丘住宅地から原峰公園に向かった。この公園は住宅地側はよく整備されていて、遊具施設や池、それに桜ヶ丘コミュニティーセンターなどが園内にある。しかし、雑木林を抜けて旧鎌倉街道方向に進むと未整備というか忘れられた存在というか、写真のような壊れたままの休憩所があったりする。今の時期は木々には葉がなく見通しはやや良いので森を抜けるにもさほど抵抗がないが、暖かくなって木々が葉をまとい虫たちも活動を始めると、雑木林を抜けるには大きな不安感・抵抗感を抱くことになると思えた。敷地は結構広く、鎌倉街道側に抜けるには便利なルートだと思うが、住宅地から私がたどった道を通る人は皆無だった。散策に訪れる人すら見掛けなかった。

 公園の整備された場所の標高は94m、写真の廃屋のある場所は79m、旧鎌倉街道に出た場所は66mだった。多摩丘陵の東斜面を利用した、やや不思議な存在感のある公園だ。

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乞田川の上流方向を望む。多摩ニュータウンの建物が見える

 原峰公園の旧鎌倉街道口から離れて、新鎌倉街道に出た。乞田川を見るためだ。写真の乞田川は多摩市の鶴牧あたりを水源とする小河川で、前述のように連光寺1丁目辺りで大栗川に合流する。水源とされる鶴牧付近はニュータウンの一角として開発が進んでおり、近くには小田急多摩線唐木田駅がある。鶴牧の南側には多摩丘陵が広がり、一帯はゴルフ場になっているため、丘の形は原型を留めていない。唐木田駅の南側には小田急唐木田車庫があり、その山側が多摩市と町田市との境になっている。その境界付近が丘陵の分水嶺と思われる。標高は高いところで153mある。この分水嶺の下辺りが乞田川の水源地と思われる。

 乞田川は大栗川と同様に古相模川の流路跡とされる。今回は取り上げていないが、町田市小野路付近(標高138m)を水源としてよみうりランドの北側を通り、川崎市多摩区布田付近で多摩川に流れ込む三沢川も、大栗川や乞田川と同様に古相模川の流路跡であると考えられている。

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武相霊場7番や多摩八十八か所霊場16番など由緒ある関戸観音

 乞田川を離れ、再び旧鎌倉街道に戻った。「霞ヶ関保全緑地」の存在が気になったからである。先述した金毘羅神社の東にあって開発の手を逃れているのがその保全緑地で、いちばん高い場所の標高は112m。桜ヶ丘住宅地の中では浄水場のある場所と並んで一番高い場所だ。ただし、この保全地区は北側が急峻な崖となっているため開発が不能なので、自然のままの緑地として保存されたようだ。旧鎌倉街道からその高台を見上げると、頂上付近(105m)には住宅がいくつか並んでいるが、その上方に緑地が残っているのが分かる。それらを間近に見たいと考えて旧道に戻り、高台を目指すことにした。

 写真の関戸観音は、旧道から住宅地に至る小道のすぐ北側にあった。寺は道の高台にあるが、入口付近の標高は62mで、旧道(54m)と高さにはさほどの違いはない。

 この寺の正式名は慈眼山唐仏院観音寺で、1192年、唐僧が聖観世音菩薩を草庵に安置したのが起源とされる。1333年の関戸合戦はこの寺付近でおこなわれた。北条泰家率いる鎌倉幕府勢は分倍河原の戦い新田義貞率いる反幕府側に敗れ、多摩川を渡ったところにある「霞ノ関」付近で再び相まみえた。が、北条軍は再度敗れ、結局、その戦いの6日後に鎌倉幕府は滅亡した。

 霞ノ関は関戸とも呼ばれ、多摩川の渡し場の要衝でもあった。関戸合戦では多くの死者を出したため、この寺では毎年の5月にその供養をおこなっている。このため「関戸観音」と呼ばれるようになったそうだ。

 写真のキャプションにあるように、多摩地区にある寺としてはかなり重要な存在のようで、上に挙げた以外にも、多摩川音霊場12番、多摩十三仏霊場5番、京王観音霊場23番の各札所になっている。

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関戸観音前から原峰公園を望む

 関戸観音がある高台の向かいにはかなり広い空き地があり、その先に原峰公園の森が見えた。その風景を撮影したのだが、実際には公園よりも手前の夏ミカンの存在が気になった。ミカンは柿に次ぐ第二番目の好物(果物の部)だからだ。

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昨日歩いた尾根筋が見えた

 桜ヶ丘2丁目住宅地に入った。東方向を眺めると昨日歩いた尾根筋が見えた。この日は曇っているために視界は良くないが、それでも先に挙げた建物群が視認できた。左から、多摩大学の校舎、連光寺給水所、東京防災無線の電波塔、みはらし緑地、東京ガスの電波塔が整然と並んでいる。

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霞ヶ関は多摩市が本家

 多摩市にも霞ヶ関があることは以前から知っていた。多摩市の中心地である「関戸」や府中市と多摩市とに架かる橋名は「関戸橋」なので、「霞ヶ関」は関戸の雅名ぐらいに考えていた。しかし今回、写真の「霞ヶ関公園」を訪れたことで、その名の由来を少し調べてみたくなった。

 広辞苑で「かすみがせき」を調べると、「東京都千代田区の一地区。桜田門から虎ノ門にかけての一帯。諸官庁がある。」と出ており、これ以下にも少し叙述があるが、いずれも千代田区のものにだけ触れており、多摩市の「霞ヶ関」はまったくでてこない。鉄道の駅には東京の地下鉄に「霞ケ関」があり、東武東上線には「霞ヶ関」がある。千代田区の地名は現在「霞が関」だが、駅名は旧来の「霞ケ関」を使用している。「霞ケ関」と「霞ヶ関」との違いは「ケ」と「ヶ」だ。

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京王バスの停留所には「霞ヶ関橋」がある

 京王線の駅名は「聖蹟桜ヶ丘」(かつては関戸)で「霞ヶ関」ではないが、いろは坂通りには写真のようなバス停がある。先述した、『耳をすませば』の主人公である雫がいろは坂に向かう途中で大栗川を渡った橋が「霞ヶ関橋」だ。

 千代田区の「霞が関」か川越市の「霞ヶ関」か多摩市の「霞ヶ関」のどれが本家であるかには論争があるようだ。このうち、『江戸名所図会』にある千代田区霞ケ関の記述には誤りがあるようなので、まず本家争いからは外れる。その誤りとは「霞が関は西に高き岳あり。東向きの所なればふじはみえず」とあるからだ。東京の霞が関の西には高い山はないからだ。高いビルなら無数にあるが。高い山が丹沢を指すにしても富士の姿は見えなくはない。一方、埼玉の「霞ヶ関」は『新編武蔵風土記稿』に「徒らに 名をのみとめて あつまちの 霞の関も 春そくれゆく」の歌が挙げられており、かつての信濃往還にある信濃坂の近くには「霞ノ関」があったらしいので、こちらが本命かもしれない。

 それに対し、群書類従に収録されている『廻国雑記』(1487年)には著者が駿河国から武蔵国を訪ね歩いた際、「霞ノ関、恋ヶ窪、宗岡、堀兼の井、入間川」の順に巡ったとあるので、この「霞ノ関」は多摩市の霞ヶ関であることは明らかだ。実際、霞ノ関の場所には1213年、鎌倉幕府の要請で関所が設置され、関戸地区には「霞ノ関南木戸柵」が復元されている。

 こんなわけで、写真の「霞ヶ丘公園」(標高71m)の存在が気になったので、霞ヶ関保全緑地の天辺方向には向かわず、公園のほうに立ち寄ってしまったという次第なのだ。

サクラ並木と大桜に出会う

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サクラ並木を下って霞ヶ関橋に向かう

 公園からは桜ヶ丘東通りを北に進んで大栗川に架かる霞ヶ関橋に向かった。その途中に、写真の桜並木があった。通りにあるヨメイヨシノはいずれも老木で、桜ヶ丘住宅地が開発された際に植えられたのだろうか。だとすれば樹齢は50年を超えているはずだ。ソメイヨシノは老いると背は高くならず、枝を横に広げるようになる。写真右手にあるサクラは電柱や電線、そして住宅に阻まれて十分に枝を伸ばすことは容易ではない。この点、写真左手のサクラは遮るものがほとんどないので、伸び伸びと枝を広げている。

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公園の斜面にあったサクラの大木

 前の写真の斜面側(左側)は桜ヶ丘1丁目緑地として整備されている。その斜面の中ほどに1本の大木があった。この古老のサクラは地面すれすれまで枝を広げ、鶴翼の陣の構えだ。花の頃は抜群の景観だろう。私は桜ヶ丘に関してもそれなりに歩き回ったつもりだったが、この老木の存在は知らなかった。偶然、この木に出会えたのは霞ヶ関公園が存在したお陰である。ときとして、寄り道は大きな発見に結び付く場合がある。
 開花までにはまだ2か月近くある。しかし、枝々の先にある花芽は少しだけ膨らみを見せている。今冬は寒さが続かないので、花芽の「休眠打破」は少し遅れるかもしれない。

 「耳をすませば」花が呼吸する音は、確かに聞こえる。いや実際に。これで、いいのだ。