徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔49〕3ケタ国道巡遊・R411(3)~奥多摩町、そして山梨へ

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”道の駅たばやま”に入るための丁字路

古里(こり)から奥多摩湖に向かう

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万世橋多摩川を渡り、吉野街道は青梅街道に吸収される

 古里駅前交差点で、国道411号線(R411)は吉野街道を吸収し、しばし一本道となって奥多摩湖を目指して西へ進む。この「古里(こり)」は行政区域名としては存在せず、JR青梅線古里駅や古里郵便局、町立古里小学校などにその名が残っているだけであり、それらの住所表記は「奥多摩町丹波」となっている。

 古里駅がある小丹波、前回に触れた川井駅のある川井などの大字は旧古里村に属していた。その古里村は、1953年に成立した町村合併促進法によって、55年に氷川町、小河内村と合併して奥多摩町となって発足したことで消え去った。もっとも、「古里」の名そのものは江戸時代の地図には現れず、旧古里村に属していた地域は「小丹波村」「丹三郎村」「梅沢村」「川井村」「白丸村」などと記載されている。古里の名が出てくるのは、1888年に市制町村制が定められた後のことであり、当該地域は1889年、7つの村が統合されて古里村となった。そこで初めて「古里」の名が出てくるようだ。

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万世橋上から多摩川の流れに目を向ける

 古里駅前交差点で終点となる吉野街道を少しだけ歩いてみた。ほどなく、多摩川に架かる万世橋に出た。橋上から多摩川の流れをのぞき込んでみた。橋の標高は281m、多摩川の流れは237mなので、橋上から川面まで47mある。後述するが、この高低差を利用して古里の地にダムを建設しようという案があった。ダムは結局、小河内村に造られたために古里村は湖底に沈まずに済んだ。もしその案が実行されていたら、万世橋はなくなっていた。そして古里は、ダムの名として、貯水池の名として現在に伝わり、その名の認知度は現在よりもはるかに高いものなっただろう。それが、仕合せの良いことであったか悪いことであったかは別にして。

 ところで、古里村の名は栃木県にもあった。こちらも1955年に消滅し、現在は宇都宮市編入されている。1889年、村の成立までは6つの地区に分かれていたようで、統合するにあたって新しい村名を採用することが決まり、古里村にしたようだ。場所は違えど、村の成立時期も消滅時期も、奥多摩の古里村とまったく同じである。ただし、栃木の古里は「ふるさと」と読むのに対し、奥多摩の古里は「こり」と読む。古くからある里が集まって新しい村となるのだが、すでにあった里の名のどれかひとつを採用すると、他の里からの反発が予想されるので、合併に際し新しい名称を考案したものと想像される。

 これは私の勝手な想像だが、奥多摩の「古里」は「ふるさと」ではなく、あえて「こり」と読むようにしたのは、古く、奥多摩の地は「氷川郷」と呼ばれており、その氷川の「氷」の訓読みである「こおり」から読み取ったのだと推察している。まったく見当外れかもしれないけれど。

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青梅街道は多摩川南岸道路というバイパスを育てている

 一本化された街道だが、道は曲がりくねっていて幅も狭いので、奥多摩湖へ進む道として行楽シーズンにはかなり渋滞する。点在する集落にとっては唯一の生活道路なので、住民には不便この上ない。前に触れたように、古里駅前以東であれば吉野街道が並行して存在しているので行き交う車は分散され、渋滞の頻度は低い。

 そこで計画されたのが「多摩川南岸道路」で、1998年に一部区間が開通し、現在は全長7キロのうち5.9キロまで完成している。写真にあるように、その南岸道路は都道45号線(r45)に指定されている。このr45は古里駅前まで通じていた吉野街道と同じナンバーである。南岸道路はまったく新規の道路ではあるが、その位置付けは、吉野街道の延長路線とされている。残りの1.9キロは未着工だが、計画では吉野街道とすでに完成している南岸道路とをつなぐものになっている。

 全区間完成後、奥多摩湖方面へ急ぐ人は、多摩川南岸を進む吉野街道を西進して後に触れる「愛宕大橋交差点」まで進み、そこでR411に合流することになるだろう。そのルートを使う人にとって、もはや古里駅前交差点も万世橋も遠い存在となり、古里が「こり」と読むことは忘れ去られるだろう。ふるさとを喪失した都会人のごとく。

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南岸道路を進む人はこの交差点を左折する

 古里駅前交差点から2キロほど進むと写真の将門交差点に出る。現在のところ、この交差点が「多摩川南岸道路」の起点で、鳩ノ巣、白丸、氷川(奥多摩駅がある)の各集落を経ずに西へ進むことができる。実際、私もこの道路が完成してからはこの交差点を直進することはまずなくなってしまった。

 交差点の名前は「将門」である。この交差点のすぐ北の高台に「将門神社」があることでそのように名付けられたのだろう。青梅や奥多摩には将門伝説が数多く残っているということは前回に少し触れている。

 今回はR411を辿ることが主眼なので、将門交差点を左折せずに直進した。鳩ノ巣や白丸の名に触れるのは久し振りだった。古里駅の西隣は「鳩ノ巣駅」だ。「鳩ノ巣渓谷」は多摩川上流部にある渓谷ではもっともよく知られている名称だと記憶している。私はその地を散策したことは一度もないが、多摩川上流の散策路として古くから人気場所であり、友人・知人から何度も鳩ノ巣散策に誘われたことがあった。面倒なので全部、断ったが。ただ、”鳩ノ巣”の名前だけはいつも気にはなっていた。少年期、私はレース鳩をかなりの数、飼育していたし、今でも鳩はお気に入りの動物のひとつだからだ。ゆえに、私に鳩の話をさせると留まるところがなくなる。

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知名度はかなり高い鳩ノ巣渓谷

 鳩ノ巣の名の起源は1657年の「明暦の大火」(振袖火事)が関係しているとされる。大火後の復興のために江戸市内では多くの材木を必要とした。そのため、奥多摩にある木々を多数伐採し、多摩川の流れを使って木材を江戸へ送った。伐採のための飯場小屋が作られ、その近くには安全祈願のために水神社が設けられた。その神社に番(つがい)の鳩が巣をつくった。仲の良い番を目にした人夫たちは、その鳩を霊鳥として崇めるようになった。以来、その地は「鳩ノ巣」と呼ばれるようになった。

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発電用に建設された白丸ダム

 鳩ノ巣駅の西隣が白丸駅。写真のダムは両駅の中間ほどのところにある。後述する小河内ダムは飲料水確保が第一目的だが、白丸ダムは発電用として東京都交通局の主導によって1963年に竣工した。蓄えられた水は導水管で下流にある多摩川第三発電所まで送水されている。発電所は、御岳橋の300mほど上流にある。発電されたものはトランプからバイデン、いや交通局から東京電力に売電され、奥多摩町などに供給されている。

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魚たちが上下流へ移動可能にするための長い道

 白丸ダム見学で忘れてはならない存在は、2002年に完成した「魚道」である。堤高が30mもあるダムの壁では、さしものアユ、ヤマメ、サクラマスなどの魚たちはとてもよじ登ることができないと考え、写真のような階段状の魚道を造って魚たちが上流に遡上(下へ流されることも)できるようにした。その長さは332m、高低差は27mある。

 魚道はまず下流方向に伸びていて、少しずつ高さを増していく。途中から上流方向にほぼ360度、折れ曲がってさらに高度を稼ぐ。ダム施設の内側はトンネルになっており、その中に魚道が通じていて、最終的に白丸調整池へ至る。このトンネル部分は一般公開されているが、いつでも見られるわけではない。4月から11月までの土日と祝日(夏休み期間は毎日)の10~15時に限られている。私が訪れたのは平日なので、残念ながら見学することはできなかった。折角、珍しくその気でいたのに。

 ダム施設はともかく、一般河川にある堰堤の大半には魚道が造られているので、その仕組み自体はさして珍しいものではない。問題は、魚にその魚道を利用する知恵と体力があるかどうかだ。さしあたり、魚というものは流れに抗して泳ぎたがるものなので、多くは魚道へ向かうことは事実だろうが、それを上り切るかどうかには魚種の差や個体差がある。私が魚だったら、遡上はすぐに諦める。上に行って苦労するより、下で威張っていたほうが楽だ。

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白丸ダム湖が満水のときは流れを失う数馬渓谷

 白丸ダムによって流れを遮られた多摩川の流れは、上流部に「白丸調整池白丸湖)」を形成している。その池の上流部に位置するのが「数馬渓谷(数馬峡)」で、上の写真は「数馬峡橋」から上流部を望んだもの。その渓谷に流れが生じるかどうかはダム湖が蓄える水量で決まる。先に挙げた白丸ダムの写真から分かるように、当日は水面がかなり高い位置にあったので、渓流は池の一部と化していた。水の色は「エメラルドグリーン」と言えば聞こえは良いが、やや白濁化しているために透明度は低い。

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苦難の末に開通した数馬隧道

 白丸ダムから奥多摩駅付近までの多摩川は南に大きく曲流している。これは、北にそびえる本仁田山(ほにたやま・標高1224m)の南側の尾根が大きく張り出しているためで、とりわけ尾根の南東側は急な崖を形成し、崖上の標高は340m、多摩川の川面は288mで、まさに断崖絶壁になっている。そのため、「青梅街道」は川沿いに道を造れず、かといって尾根もまた急な斜面なので、人や馬が通る山道も満足に造ることはできなかった。

 その尾根は「ゴンザス尾根」と呼ばれている。その名は山歩きフリークにはよく知られているらしいが、「ゴンザス」の意味は不明のようだ。ザスは連濁なので単独では「サス」になるが、それはこの地方では「焼き畑」を意味するらしい。ただし、ゴンは不明のままである。

 そこで、私は以下のように想像した。第一は、ゴン=「権」であり、権は「仮の」とか「仮初め」を意味するので、その斜面は他に利用方法はないので、当座は焼き畑に用いていたというもの。第二は、焼き畑は「権兵衛」がカラスに頭を突かれながら耕していたからというもの。第三は、スペイン系もしくはポルトガル系の農民が耕していたというもの。第四は、たまたま誰かがそう呼び、それが一般化されたというもの。いずれも、なさそうでなさそうだ。

 そのゴンザス尾根越えの道は難所で、白丸集落から氷川集落までは直線距離にすれば5.5キロほどだが、それをなんと3時間ほどかけて上り下りしなければならなかったそうだ。この尾根に17世紀末、切通しの道を造ったのは、神官を務めていた「河辺数馬」を中心とした地元の有志だった。硬い硅岩を人々の力によって切り開いた。それにより、青梅街道の利便性は飛躍的に高まったのだった。

 ところで、この地の大字名は白丸だが、切通し、隧道、橋、渓谷にのみ「数馬」の名が付けられている。数馬といえば檜原村の「数馬」がよく知られ、そこには字名として「上数馬」「下数馬」がある。奥多摩周遊道路に通じる檜原街道は南秋川沿いを走り、「数馬の湯」「兜屋旅館」などの施設もある。その数馬と白丸の数馬とはかなり離れた位置にあり、しかもその間には浅間尾根や大岳山があるので、私は両者の関係性について疑問を抱いた。実際のところは両者には関係性はなく、双方が「数馬」なのは「たまたま」であって、白丸は「河辺数馬」、檜原は「中村数馬」に由来するようだ。人生は「たまたま」であるが、世界もまた「たまたま」なのだ。

 上の写真にある数馬隧道は、1916年(大正5)に開通した。現在は遊歩道として利用されているが、1978年(昭和48)に白丸トンネルが開通するまで、R411(青梅街道)はこの写真のトンネルを使用していた。このトンネルを使って奥多摩湖へ行き来したという記憶は私の中にもあるのでゴンザス。 

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山小屋風の造りが特徴的な奥多摩駅

 ゴンザス尾根は氷川寄りに七曲りという難所も形成していたが、今では「新氷川トンネル」によってその苦難の道をパスしている。

 新氷川トンネルを抜けたすぐ先に奥多摩駅前交差点があり、それを右折すると写真の奥多摩駅が見えてくる。山小屋風の造りが特徴的で、ここが青梅線の終着駅となる。公共交通機関を使って奥多摩湖などを巡る人々の玄関口ともなる駅だけに、広場もよく整備されている。駅の向かいには奥多摩町役場もあるので、行き交う車の数も田舎駅前としては少なくはなかった。

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氷川郷の名前の由来となった奥氷川神社

 写真の奥氷川神社は、奥多摩駅入口交差点のすぐ南側にある。日本武尊が東国平定の折りに素戔嗚尊を祀って創建された、牟邪志国最初の国造であった出雲臣伊佐知直が、この地にある愛宕山を出雲の日御碕神社の神岳に見立てここに氷川神を勧請した、などの言い伝えがある。一方、『新編武蔵風土記稿』には「村名もこの神社より起こりしと云へば、旧き社なるべけれど、鎮座の年歴を傳へず、……神主河邊數馬」とあり、氷川郷の名前は神社名に由来するものの創建年は不明であるとされている。さらに、『奥氷川神社明細帳』には「武蔵國、氷川ノ社大小数十社アリト雖トモ就中足立郡大宮鎮座一ノ宮氷川神社ニ対シ入間郡三ヶ島村長宮ヲ中氷川神社ト称シ当社ヲ奥氷川神社ト称ス、一ツニ上氷川トモ称ス」とある。大宮ー長宮ー奥宮(氷川ー中氷川-奥氷川)と一直線に並んでいるので、この三社を「武蔵三氷川社」ということもあるようだ。

 なお、神社境内の西側には日原川が、南側には多摩川が流れ、南西側で両河川は合流している。駅入口交差点の標高は334m、神社境内は327m、両河川合流点は304mと神社はかなりきわどい場所に建っている。

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日原鍾乳洞へ行くためにはこの交差点を右折する

 奥多摩駅前交差点を直進すると、すぐに写真の「日原街道入口交差点」に出る。この交差点を右折して日原街道を進むと「日原鍾乳洞」に至る。交差点の標高は336m、鍾乳洞入口は633m地点にある。途中に石灰石の採掘場があり、狭い道を大型車が行き交っているので、運転にはかなりの注意力が必要とされる。

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日原川は雲取山周辺に源流がある

 私の場合、日原鍾乳洞には入ったことはないが、日原川から望む山々の景色は好みのひとつなので、鍾乳洞の臨時駐車場までは出掛けることがある。日原鍾乳洞巡りは鳩ノ巣渓谷散策と対になって、かなり以前から日帰り旅行の目的地とされていた。先に触れたように、私は鳩ノ巣渓谷に誘われても日原鍾乳洞に誘われてもすべて理由を付けて拒絶した。理由は簡単で、集団で観光するのが苦手だからだ。疲れることもだけど。

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多摩川南岸道路愛宕大橋交差点でR411に吸収される

 日原街道には向かわず、R411をそのまま「直進」した。1キロほど進むと、写真の「愛宕大橋交差点」に出る。ここでR411は「多摩川南岸道路」と合体し、一本道となって奥多摩湖へと進んでいく。ここから先は脇道がないので、紅葉シーズン、つまり、今どきの休日は大混雑必至である。愛宕大橋交差点の標高は343m、奥多摩湖ダムサイトパーキングは531m。R411は曲路とトンネルが多いダラダラとした上り坂(帰りは下り坂)を形成しており、道幅も決して広くないので、マイペースの車がいると渋滞に拍車を掛ける。

小河内ダム奥多摩湖を訪ねて

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ダム建設のためセメントや川砂を運ぶ専用鉄道の跡

 小河内ダム建設のためには多量の建設資材を運ぶ必要があった。大半はセメントと川砂で、その川砂の多くは下流の小作付近から採集されたものだった。運搬用として、氷川駅(現在の奥多摩駅)から建設現場のある水根駅まで6.7キロを結ぶ専用鉄道(東京都専用線小河内線)が建設された。計画が決まったのは1949年、起工は50年、開通は52年、役目を終えたのが57年だった。写真は、ダムにほど近い場所に造られた「第一水根橋梁」で、その先には水根トンネル、R411の上に架かる「第二水根橋梁」の姿も残っている。役割を終えた専用鉄道線は、観光目的のためにと西武鉄道が買収したが、結局は利用されることはなかった。

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1957年11月に竣工した小河内ダム

 飲料水確保のための大規模計画が持ち上がったのは、1916年(大正15)3月の東京市会だった。「将来大東京実現ノ場合ヲ予想シ、本市上水道事業上百年ノ長計ヲ樹テラレタシ」という要望が上がり、水道拡張計画への調査が始まった。当初は利根川に水源を求めたが水利権に支障があって断念。次に相模川を水源とする案が考えられたが、神奈川県との調整が不調に終わり、最後に多摩川を水源とする拡張計画を頼みとした。が、多摩川ではすでに羽村堰から村山貯水池への導水計画が進んでいたため、さらに大量の水源を確保するためには上流域に大規模ダムを建設するしか方法はなかった。

 築堤場所を選定するための調査会は27年(昭和2)に設置された。必要な水量が確保でき、かつ堰堤高(想定は150m前後)はできるだけ低く、堰堤容積が最小になる場所が候補地に選ばれることになっていた。地理的、地質的、経済的な面からの調査が進められ、候補地は以下の9地点に絞られた。(1)丹波山(山梨県丹波山村)(2)川野(小河内村)(3)麦山(小河内村)(4)河内(小河内村)(5)水根(氷川村、建設場所は小河内村)(6)中山(氷川村)(7)梅久保(氷川村)(8)海沢(古里村)(9)古里(古里村)。この中からさらに詳細な調査がおこなわれ、河内と水根の2か所が候補に残り、最終的には水根地区に決定された。31年(昭和6)、小河内村に築堤場所が決定されると、総予算を含めた計画案が策定され、翌年の7月に原案は決議されたのだった。

 この間、9か所の候補地からは賛成派、反対派の双方から陳情書が提出されている。例えば、古里村の賛成派からの陳情書には、「多摩川の最適地とせられ、府下西多摩郡古里村を中心とする山谿を御利用御設置の様拝聞致し候……」とある。その後に小河内村が有力であると漏れ聞いたので、「小河内村は氷川村を経て古里村を距る六里の山奥に有之候。斯かる地に膨大なる貯水池を実現し、一朝、天変地異に遭遇し、万一築堤の崩壊を見んか其の莫大なる落差を有する下流谿谷の氷川古里の両村如きは、驚天動地山岳を崩す濁流の為め、一瞬にして其の影を留めず……」と上流での事故を懸念する一方、古里の地は「東京市近接の地として自然の風光明媚なれば、御嶽山を含む大公園設置の前提とし……最前最適第一の地域と存候」など、古里貯水池が生み出す利点まで述べているのである。

 しかし、古里案はとくに経済的負担という点から不採用に至った。私は古里も候補地になっていたということは知っていたが、具体的な場所までは知らなかった。今回、当時の資料を調べてみると、古里といっても本項の冒頭に挙げた「古里駅前」付近ではなく、現在の御嶽駅から1キロほど上流の丹縄地区であることが分かった。その地点では堰堤の下部を211m、堰堤の最上部を330mとする計画だった。貯水池は堰堤いっぱいに水を溜めることはできないので、今の小河内ダムでも余水吐水口を5から10mほど下に設定している。これを参考にすると池面の高さは最高325mとなる。当然、周囲を走る青梅街道は330m程度に移動する必要がある。

 安全度を考え、330m付近まで水没すると考えれば、川井駅(265m)、古里駅(292m)、鳩ノ巣駅(319m)は水没し、白丸駅(340m)は助かるものの、数馬峡橋(たもとで315m)、数馬隧道(315m)という歴史遺産も水没し、数馬の切通し(340m)はギリギリ水没を免れるといった状態になる。さらに、奥氷川神社の境内も325から327m程度なので、満水時は日原川がバックウォーター現象を起こす可能性が高いので水没は必至となる。このように、古里案では水没する集落があまりにも多い上、歴史的建造物の水没・損失も発生する。一方、堤高は120m程度で済むので築堤工事は比較的容易であったとしても、結局、採用されることはなかった。

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1966年に建立された「湖底の故郷」歌謡碑

 1931年(昭和6)、小河内村にダム建設がされることが決定され、32年に計画案が成立したものの、多摩川の水利権を巡る東京府と神奈川県との交渉がなかなかまとまらず、合意に至ったのは36年(昭和11)2月のことだった。一時は、ダム建設の撤回案まで検討されていたのだ。

 この間、小河内村の人々は翻弄され続けた。当初は、「住み馴れた土地故、成くべく他にて間に合わせられたく、併し本村が貯水池計画に最適とならば致し方なく出来得る限り善意に努むべし」と、計画をやむを得ずに受け入れ、移転に向けた準備をしていた。が、計画はいっこうに進まず、かといって農作業する意欲は少しずつ減じていった。35年には「現状の儘にて尚一・二年を経過せんか、死屍を戦場に運ぶに等しく、小河内村三千村民の総てが、精神的にも経済的にも衰亡の極に陥り……」と記した懇願書を村長が提出し、同年の12月には決起した村民と防御する警察官との間で負傷者を出すほどの衝突まで起こった。

 37年、どうにかこうにかダム建設の基礎工事は始まったものの、建設に伴う移転補償に関する覚書が東京市長と小河内村村長との間で調印されたのは38年6月のことだった。38年11月、小河内貯水池綜合起工式・地鎮祭が挙行され本格的工事がスタートしたものの、日中戦争が拡大し、さらに第二次大戦がはじまって資力も人力も戦争へと駆り出されたため、工事はほとんど進捗せず結局、43年(昭和18)に工事は中断された。

 工事再開が議決されたのは48年(昭和23)4月だった。が、「49年以降の事業実施上、必要とする農地は都において買収ができるが、五カ年間、売り渡さず政府において保留する」という決定がなされ、補償問題はさらに先延ばしされ、最終的合意がなされたのは51年(昭和26)8月17日のことだった。

 1935年、小河内の鶴の湯温泉を訪ねた北原白秋は以下のような文を残している。「……。この鶴の湯、原は懸崖にあり、極めて寒村にして、未だにランプを点し、殆んど食料の採るべきものなし。ただ魚に山女魚あり、清楚愛すべし。此の小河内の地たる、最近伝ふるに、今や全村をあげて水底四百尺下に入没せむとし、廃郷分散の運命にあり。……」

 37年には『湖底の故郷』という歌謡曲が作られ、東海林太郎が歌った。一番の歌詞は「夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱く 頬濡らす さらば湖底の わが村よ 幼なき夢の 揺籠よ」である。写真の歌謡碑は1966年(昭和41)、大多摩観光施設協会が建立した。チャートの赤石に、「湖底の故郷」、湖側には上に挙げた歌詞が刻まれている。当初は文字部分が白く塗られていてはっきりと読むことができたが、写真のように今では読み取ることは難しくなっている。チャートは風化に強い石だが、文字も村人の思いも、今や人々の心に刻まれることはほとんどない。

 水没地域に居住していた945世帯は、204世帯が同じ村内に残り、他の741世帯は昭島市147、青梅市97、奥多摩町95をはじめ、東京都、埼玉県、山梨県など各地に移り住んだ。

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奥多摩・水と緑のふれあい館は1998年に開館した

 写真は、小河内ダム竣工40周年記念事業の一環として建設された「奥多摩・水と緑のふれあい館」の外観。ここには以前、奥多摩郷土資料館があった。館内には奥多摩の歴史や民俗資料、奥多摩の自然や郷土芸能を紹介する3Dシアター、ダムの仕組みの解説、水資源の大切さのアピール、レストラン、売店などがある。

 ふれあい館の上側に写っているのは水根集落の一部。写真の場所は標高600m地点にあるので水没は免れている。私が気に入っている小説家に笹本稜平がいて、彼の作品のひとつに『駐在刑事』という推理小説がある。テレビ東京でテレビドラマ化されたこともある。その中に「青梅署水根駐在所」という名前が出てくる。笹本は山岳小説の第一人者でもあり奥多摩の地理は相当に詳しいはずなので、水根駐在所のある場所は明らかに水根集落をイメージして描いている部分がある。が、実際の水根は谷間にある風光明媚な小集落であるし、テレビドラマは奥多摩駅周辺でロケされたようだ。奥氷川神社も登場していたし。

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ダムの堰堤上から多摩川が刻んだV字谷を望む

 ダムの堰堤上を散策した。多摩川関東山地をV字に刻み、刻まれた石や砂は下流に運ばれ、やがて武蔵野台地を形成した。この谷底に多摩川は今も流れ、その際を通るR411はうねうねとここまで上ってきた(標高530m)のであり、そしてさらに柳沢峠(標高1472m)を目指して進んでいく。

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堰堤上から直下をのぞき込む

 通常、ダムというと発電(黒部ダムが有名)か治水(川辺川ダム(未完成)が有名)のためのものが多いが、小河内ダム東京市民のための飲料水確保という利水目的で造られた。副次的に発電事業もおこなっているので、一応、多目的ダムに分類されるが、あくまで主目的は飲料水の確保である。小河内貯水池(以後、通称の奥多摩湖と表記)が「東京の水がめ」と言われるのはその為である。

 建設当時、奥多摩湖は世界最大級の貯水池と言われた。その池を支えるのが小河内ダムの堰堤で、その高さは149mもある。建設当時の技術では堤高は100mが限界と考えられていたが、「東京百年の計」として巨大な貯水池を造らざるを得ず、先述したように堤高150mを想定して築堤場所を検討していた。

 写真は堰堤上からダム直下の多摩川を写したもので、高所恐怖症の私はあくまでV字谷を眺め、カメラのレンズだけを直下に向けた。そのため、向きは出鱈目のものが多く、何度も取り直しをした。まさに、デジカメ様様であった。足場は530m、カメラの位置は531m、多摩川の川面は386m、カメラと川面の比高は145m。恐ろしい。

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主堰堤の北側にある余水吐水口

  奥多摩湖の満水位は標高526.5mに設定されている。堰堤は530mなので3.5mの余裕がある。というより3.5mしか余裕がない。それゆえ、水源地で大雨が降った場合には奥多摩湖の水位が上がり、オーバーフロー(越水)するか最悪、堰堤が崩壊する危険性さえある。すでにダムの完成からは60年以上経ているので、コンクリートの劣化も考えられる。点検上は問題点はまったく見つかっていないとのことだが、大地震や上流での山崩れなどによって、堤壁に想定外の圧力が掛かることも想定しうる。

 写真の余水吐水口は、貯水量が予定水位を越えないようするために造られたもので、水位が上がり過ぎた場合、上がる可能性が予想される場合(事前放流)に、5門ある水色の扉を上げて余水吐放流をおこなう仕組みである。これを実施すると多摩川の水位が一気に上がり危険性が伴うので、報道機関等を通じて(事前)告知されることになっている。沿岸地区(下流羽村市小作まで)では警戒のためのサイレンが鳴ったり、自治体を通じて緊急放送がおこなわれたりする。

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大麦代パーキングからダムを望む

 ダムサイトから離れ、R411に戻って柳沢峠へと向かうことにした。ダムサイトの駐車場を出てもすぐにはR411には入れない。湖岸にある都道を500mほど西へ進むと、大麦代トンネルを出たばかりのR411に合流できる。その合流点の湖側にかなり広めの駐車場があり、そこにはトイレや売店もある。その大麦代パーキングから今一度、ダム周辺を眺めてみた。上の写真がパーキングから見たものだ。

 R411は奥多摩湖の北岸に沿って走っている。もちろん、ダム完成以前の旧青梅街道は湖底に沈んでいるので、現在の道は奥多摩湖が出来る前後に造られたはずだ。奥多摩湖の北側には倉戸山(標高1169m)がそびえ、その南尾根が幾筋も湖に落ち込んでいるため、R411がその尾根筋を通過する場所にはトンネルが掘られている。上で触れた大麦代トンネルもそのひとつである。尾根があれば谷筋もあるので、岸辺はかなり入り組んでいる。それゆえ、R411は曲路続きで、直線的な場所はトンネル内に限られる。

 一方、奥多摩湖の南岸もダム近くはサス沢山(940m)、その西隣の月夜見山(1147m)、さらにイヨ山(979m)の各尾根筋が奥多摩湖に落ち込んでいるため、極めて変化に富んだ湖岸線を形成している。そちらには沿岸道路はないものの遊歩道が整備されているので、私には無謀としか思われないが、頑張ってチャレンジする人もいるようだ。 

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峰谷の三叉路が見えてきた

 写真の峰谷三叉路は峰谷川に架かる橋の北詰にあり、湖岸を進む場合は左に折れ、峰谷川に沿って峰などの集落へ進む場合は右折する。その三叉路の又の部分には狭いけれど駐車スペースやトイレがあり、峰谷橋の歩道上からは釣りが可能なため、たいていの場合、数台の車が停まっている。

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峰谷川に架かる峰谷橋。釣り場としても有名だ。

  私は柳沢峠方向に進むので左折して橋を渡るが、かつて、私がまだ渓流釣り師であった頃は、この三叉路を右に曲がり、ヤマメを求めて釣り場を探したことが何度かあった。 

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私が渓流釣り師だった頃に何度か竿を出した峰谷川

 峰谷川は谷が深かったためか、奥多摩湖が形成されたとき以降の下流部は湖の一部と化してしまったが、橋詰から600mほど道を進むと、本来の姿であった渓谷が見えてくる。私は渓流釣り師のときも横着だったので、入渓が容易で、かつ路肩に駐車できる場所を探し、竿を出した。そんな場所はほとんど他の釣り人も竿を出しているので「場荒れ」が進んで魚影は薄い。だが渓流釣りの場合、釣果そのものよりも美しい景色の中で竿を出すことが第一義なのだと、いつも自分で自分に言い訳をしていた。

 写真の場所は標高550m地点だが、川沿いの道を進むと、590m地点に「下り」集落、790m以高に「峰」集落、900m以高に「奥」集落があり、道路は途切れるものの山道はあり、それを頑張って登れば、東京都にある山として人気のある「鷹ノ巣山」(1737m)に至る。鷹ノ巣山のすぐ北側の谷筋に日原鍾乳洞がある。

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深山橋丁字路。大半の車はここを左折して奥多摩周遊道路に向かう

 奥多摩湖がもはや川の河口ほどに南北の山間が狭まる場所に、写真の深山橋丁字路があり、R411を進んできた90%以上の車やバイクは、この交差点を左折して深山橋を渡り、国道139号線(R139)を進む。私は柳沢峠を目指すので、ここは直進する。 

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深山橋のすぐ先にある三頭山橋。この橋の先に奥多摩周遊道路がある

 深山橋は奥多摩湖の「しっぽ」に架かる橋で、R139は深山橋交差点がそのルートの終点であり、起点は静岡県富士市にある。ひとつ上の写真にあるように、R139を10キロほど進むと山梨県小菅村にある「小菅の湯」に至る。その施設は府中市民にも結構知られていて、奥多摩湖観光に出掛ける風呂好きな私の知人もよく通っていた。

 R139も魅力的な3ケタ国道なので私もよく走る。深山橋・大月間もかなり魅力的な景色が続くが、一般的には富士吉田から富士宮までがとくによく知られていて、西湖、本栖湖朝霧高原、白糸の滝など有名な観光地は、いずれもこの3ケタ国道沿いにある。今は紅葉シーズンなので、かなり多くの車がそのR139を走っていることだろう。

 もっとも、深山橋丁字路から白糸の滝に向かう人はまずいないはずなので、左折したほんの少数は、小菅川を遡上して「小菅の湯」を目指し、大多数は深山橋を渡るとすぐ先にある丁字路をまた左折して、小菅川に架かる写真の「三頭山橋」を渡る。理由は明白で、奥多摩周遊道路を走りたいがためである。

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丁字路を直進した私は深山橋を振り返り見た

 深山橋丁字路を直進した私は、まだ奥多摩湖北岸にいる。名称が付されていない小さなトンネルを抜けると「小留浦」集落に出る。湖側に駐車スペースがあるので、そこから深山橋を振り返り見た。橋の向こうに見える大きな尾根は三頭山(1528m)へと続くもので、頂上に至るまでにイヨ山(979m)、ヌカザス山(1175m)という小ピークがある。

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小留浦の太子堂と庚申塚

 小留浦(ことずら)には写真の「太子堂舞台」がある。山間集落の娯楽として地芝居がおこなわれた建物であり、堂内には聖徳太子像があって、建物と太子像ともども東京都の有形民俗文化財に指定されている。1863年(文久3)に造られ65年(慶応元)に改修された。小河内ダム建造によって湖底に沈んでしまうため、1956年(昭和31)に現在の場所に移設された。

 R411沿いにあるが、道路(標高533m)より少しだけ高い場所(537m)にある。おそらく、奥多摩湖の氾濫から建物を守るためだろう。私はその建造物より、道路沿いにある庚申塚のほうに気を引かれた。

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山梨との都県境にある留浦集落

 写真の留浦(とずら)集落は、山梨県丹波山村との都県境近くにある。以前から、留浦の読み方は知っていたが、どうしてそのように読むのかは不明のままである。

 関東地方の方言のひとつに「べえ(べ)」があるのはよく知られている。「そうだ」とか「そうです」とは言わず、「そうだべえ」とか「そうだべ」と言うのだ。府中人もよくそう言っていた。知人は、今でもそう言う。一方、山梨では語尾に「ずら」を付けるので、「そうだべえ」ではなく「そうずら」となる。「留浦」を「とずら」と読むのは山梨の影響が強いからかも?まったく関係はないと思うが……。やはり、「たまたま」かもしれない。

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留浦の浮橋

 留浦には写真の「浮橋」がある。浮橋は峰谷橋の南詰のすぐ近くにも「麦山浮橋」があるが、車で訪れる人には駐車場やトイレが整備されている留浦のほうが、浮橋見物には便利だ。

 浮橋の向こうにチラリと見えるのは丹波山村の鴨沢集落。もう、山梨県はすぐそこにある。

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小河内ダムのダムサイトに展示してあるかつての「ドラム缶橋」

 浮橋は、現在は樹脂製の浮き箱に支えられているが、かつてはドラム缶が使用されていた。上の写真のドラム缶橋の一部は、小河内ダムの堰堤近くの広場に遺構として展示されているものだ。ドラム缶橋の時代を含め今回、私は浮橋を初めて渡ってみた。それなりに足元が揺れる点は吊り橋と同様だが、吊り橋は空中にあるのに対し、浮橋は湖面にあるので、怖さはそれほど感じなかった。こんなことなら、ドラム缶橋の時代に渡っておくべきだったと、少しだけ後悔した。

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浮橋は対岸の遊歩道につながっている

 浮橋は麦山、留浦の双方とも対岸にある遊歩道までつながっているが、奥多摩湖の水位が著しく減じると外されることになっている。写真のように橋が曲がっているのは、湖面が満水位に近いことを示している。

R411は、いよいよ山梨県に入っていく

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奥多摩町丹波山村とをつなぐ鴨沢橋

 写真は、留浦集落と鴨沢集落とを結ぶ鴨沢橋で、下には小袖川が流れて?いる。小袖川は鷹ノ巣山雲取山(2017m)との間にある七ツ石山(1757m)近くに源流点があり、この川の谷筋が東京都と山梨県との境になっている。橋の下は小袖川というよりまだ湖面があるといった風なので、渇水時でなければ川の流れを感じることはできない。

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橋の東詰にある多摩川都管理上流端の看板

 鴨沢橋の東詰はまだ奥多摩湖のしっぽの先ぐらいの位置にある。元来、小袖川は奥多摩湖ではなく多摩川に注いでいたので、橋の南にある水およびその周りは、制度的には東京都が管理する「川」のものであるらしい。

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この表示では、青梅街道はここで終わることになる

 多摩川都管理上流端の看板の横にあるのが上の標識。この表示では、青梅街道は鴨沢橋で終わることになる。もっとも、青梅街道の名称自体が通称でしかないのだから、さして問題はないのかもしれない。

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鴨沢橋を渡った先にある賑やかな標識

 鴨沢橋を渡ると、そこは山梨県。写真には3枚の看板が写っている。一番手前は、ここが丹波山(たばやま)村で、「釣りの名所ですよ!」というもの。次は山梨県の全体図で、県の周囲には富士山をはじめとして多くの山がありますよ、というもの。3番目は、ここから8キロのところに「道の駅・たばやま」がありますよ、というもの。

 鴨沢集落には雲取山登山口村営駐車場があり、登山客はそこに車をとめて山頂を目指す。今の季節は登山に適しているのでかなり混雑するようだ。

 鴨沢の名は、ここに鴨が多いからというわけではなさそうで、集落内に「加茂神社」があることから想像しうるに、賀茂神社つながりの可能性が高い。実際、この集落の加茂神社は、京都の賀茂神社末社に位置付けられている。

 集落の南側にあるのは多摩川の流れというより、まだ奥多摩湖の端っこあたり。湖底に沈んだ集落の一部には平地が少しあったそうで、そこでは畑仕事がおこなわれていたが、それに従事した人々は移転を余儀なくされた。今は、高台にあった家々がわずかばかりに残るだけ。清らかな流れの多摩川ではアユやウナギがたくさん捕れたが、いまでは淀んだ水ばかりで透明度は極めて低い。山は東京都の水源涵養林が大半なので、村人が勝手に手を入れることはできない。

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諸畑橋から奥多摩湖の端を望む

 鴨沢集落の上流側に架かる諸畑橋から多摩川の上流方向を眺めてみた。まだ貯水池の一部の様相だが、もうまもなく川の流れが見えてきそうでもある。釣り人たちは、こうした場所をバックウォーターと呼ぶ。本来は、支川が本川に突き当たる場所で起こる支川の水面上昇を意味し、河川氾濫のニュースでよく目や耳にする言葉だ。が、釣り人たちは、川が湖や池に流れ込む場所、支流が本流に流れ込む場所そのものをそう呼んでいる。今では釣り人以外にも浸透しつつある表現だ。

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諸畑橋の西側からR411は上り坂に入る

 諸畑橋の北詰を少し過ぎたところから橋とその周りの景色を眺めてみた。右側に見える建物はかつて鴨沢小中学校の校舎として使用されていたもの。黄色く色づいているイチョウは校庭を飾る樹木だ。学校にはイチョウがよく似合う。が、いまではイチョウの周りを走り回る子供たちはもういない。

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山梨からR411は大菩薩ラインを名乗る

 諸畑橋北詰を過ぎると、R411は上りに入る。橋の北詰の標高は537mだったが、そこから300mほどのところの撮影場所は549mなので、R411は明らかに高度を上げつつある。

 「大菩薩ライン」の標識が見える。山梨県を走るR411は「青梅街道」とは呼ばれず、山梨県東部にそびえる大菩薩連嶺からその名をとって「大菩薩ライン」と呼ぶのだ。この先にある丹波山村の中心地から先の山々は大菩薩連嶺に属し、R411はその際を進んでいくのである。

 大菩薩ラインは鴨沢橋の西詰から始まっている。それゆえ、東詰にあった青梅街道の標識の表示は、ある意味で正しいのだ。もっとも、広義の青梅街道は甲府市まで続いていることになっている。

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山の中腹にある小集落

 鴨沢から所畑を過ぎ、「お祭り」という名の地区を過ぎると丹波川が造る峡谷は一気に険しくなり、川の左岸側というより崖上をそろそろと走るR411は曲路の連続となる。写真は、その途中の道から望んだ集落(杉奈久保?)を写したもので、撮影地点は582m、集落は760m付近にある。川面は536m付近にある。

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R411の眼下にある保之瀬集落

 R411の左手に見えてきたのが保之瀬(ほうのせ)集落。丹波川が僅かばかりに形成した河岸段丘に集落がある。集落は標高590m付近にあるが、R411に造られた取り付け道路入口は636mのところにある。まさに谷間の集落である。 

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「道の駅たばやま」もまた、R411の下段にある

 その保之瀬から2キロほど進むと、やはりR411の眼下にある「道の駅たばやま」の施設が見えてくる。本項の冒頭に挙げた写真は、R411に造られた道の駅に至る取り付け道路の入口を写したものである。

 道の駅には軽食堂、農産物直売所、「のめこい湯」に至る吊り橋、河川敷広場、トイレなどがある。案内所もあるが、現在はコロナ禍のために閉鎖中のようだ。

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丹波川左岸からR411を望む

 丹波川の河川敷に降りてみた。吊り橋は「のめこい湯」に通じるもので、その上に見える道がR411だ。河川敷の標高は605m、のめこい湯は608m、R411は650mのところにある。吊り橋はのめこい湯とほぼ同じ高さなので、川面との比高は3mだから私でも渡ることができる。これが、ジーグリスヴィル橋のように比高が182mもあったら、一歩足を踏み入れただけで失神する。

 私には立ち寄りの湯を利用する習慣がないので「のめこい湯」は遠い存在だが、”のめこい”の言葉だけはいつも気に掛かった。これは方言で、元来は「のめっこい」と発する。「つるつる」「すべすべ」という意味なので、風呂には誠に具合の良い言葉だ。

 丹波川はアユ釣り場としても知られている。私の知人はよくこの川にくる。ただし、川の水は冷たく秋の訪れも早いので、実質的に釣り期は一か月もない。サイズは小さいがとても美しく美味しいアユが釣れるそうだ。

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道の駅たばやま軽食堂・R411

 この道の駅にはよく訪れるのだが、トイレを利用するか河川敷を散策するかだけで、軽食堂を利用したことはなかった。この施設の名前は「軽食堂・R411」であり、今回はR411を進む旅なので、その名に敬意を表するためもあって初めて利用してみた。のれんには「大菩薩ライン」ではなく「青梅街道」とあるし、街道をゆく旅姿の男の胸には「R411」と記してあるし。

 のれんにあるマスコットキャラクターは「タバスキー君」で、丹波山村ではよく見かける。「丹波好き~」から生まれたもので、「丹」の字が元になっているが、どことなく「アダムスキー型円盤」に似ているので、それをもじって「タバスキー」と呼ばれるようになったそうだ。ただし、この道の駅のものは鹿の角が生えている点で、原形とは少しだけ異なっている。

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軽食堂名物の「鹿ばぁーがー」を食べてみた

 軽食堂の名物は「鹿ばぁーがー」で税込み700円である。こうした「名物」には興味がないのだが、撮影のためと小腹が空いていたこともあり、あえて購入してみた。鹿肉を用いているのだろうが、とりたてて特徴的なものではなく、やや高級なハンバーガーといったところ。

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丹波山村の中心地は丹波川沿いにある

 丹波山村の中心地は、道の駅の少し上流側にある。川沿いの河岸段丘に家々が並んでいる。2020年11月1日現在、丹波山村の総人口は582人。17年4月は843人だったので、過疎化が一気に進んでいる。

 今更だが、丹波はここでは「たんば」ではなく「たば」と読む。”たば”とは川の奥まったところにある平地を意味するらしいが、それがなぜ「たば」という言葉になるのかは不明だ。一説には、”たば”は古朝鮮語で「峠」を意味するので、それが語源となったというものもある。

 いずれにせよ、この地は「たば」であり、古くは「多婆」「太婆」「田場」の漢字が当てられていたらしい。言葉は音から生まれ、そのあとから文字が作られたのだから、どの漢字を当てるにせよ、それは当て字に過ぎない。漢字を読むことは可能だが、漢字で読むことは不可能だ。

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R411は丹波山村を過ぎ、いよいよ山深くに分け入って進む

 R411は、これからが難所だ。甲府市まではあと55キロ。R411の旅は今、中間地点付近に達した。

 次回は柳沢峠、大菩薩嶺甲府盆地の入口などを取り上げる予定。

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 撮影は都合3回おこなっているので、撮影日には一か月ほどのズレがあります。その間に紅葉が進んでいるので、写真によっては色づく前のもの、かなり色づいたものがあり、撮影も往路、復路でおこなっているので、日の当たり方も異なっています。