徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔59〕水の郷・東京都日野市の清流と用水路を訪ねる

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日野市民にとって用水路は、日常の中に存在する

◎日野市は用水路網の中にあるといっても過言ではないのだ!

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日野市の住宅街ではごくありふれた風景

 日野市といえば、私が敬愛してやまない新撰組副長の土方歳三を生んだ町であるが、その地を訪れると、あちこちに掲げられた新撰組の旗と同じぐらいかそれ以上に網の目のように整備された用水路に会遇することになる。私の住む府中市にだって、かつて多摩川左岸の沖積低地には数えきれないほどの用水路があったのだが、現在ではそのほとんどが暗渠化されるか、埋め立てられて廃されるかしてしまった。

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1567年に開削が始まった日野用水

 日野市に未だ残る用水路の総延長は116キロとされている。これは江戸時代に「多摩の米倉」と呼ばれるほど稲作が盛んにおこなわれたその名残りである。最盛期には180キロもの長さがあったそうだが、近代化の波が押し寄せたことで都市開発が進み、用水路の埋め立てがおこなわれたが、それでもまだ116キロも残っているということは、住民による保存活動が奏功している証左であろう。

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要所には、こうした資料も掲示されている

 1995年、日野市は当時の国土庁(現在の国土交通省)から「水の郷百選」(全国で107地域)に選ばれている。東京都では墨田区と日野市だけで、他では「十和田市」「大子町」「香取市」「黒部市」「白山市」「安曇野市」「郡上市」「近江八幡市」「天川村」「津和野市」「四万十市」「柳川市」「日田市」など、水の町として全国的に認知されて都市・地域が選定されている。それらと比肩されるほど、日野市の用水路群は十分に全国に誇れる存在なのである。

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日野市は湧水にも恵まれている

 日野市は多摩川と浅川との合流点に位置しているために氾濫原が広がっている。沖積低地が多いので、両河川から水を導き入れて田んぼにすることが容易だった。多摩川左岸の砂川村の人々は「嫁に行くなら日野に行け」と言ったとされる。砂川がある立川段丘では水の恵みに乏しいために「陸稲」の育成が中心だったからだろう。

 日野は河川に恵まれているだけでなく、日野台地や多摩丘陵のへりからは多くの清水がコンコンと湧き出ている。これら湧水も用水路へと流れ込んでいる。そうした用水路の澄んだ水は稲作に用いられるだけでなく、生活用水にもなったのである。

◎黒川水路を散策する

 ▽まずは東豊田緑地保全地域の湧水を探す

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湧き水を蓄えた池は清水谷公園内にある

 日野台地の南斜面は浅川によって削りとられたもので、その崖線のキワからは豊富な湧き水が流れ出ている。とりわけ、中央線・豊田駅の北東側と国道20号線(日野バイパス)の南側との間の斜面は「黒川清流公園」としてよく整備され、湧き水観察には格好の場所になっている。

 写真の池は豊田駅から北東190m地点にあって、東豊田緑地保全地域の西端に位置する清水谷公園内にある。撮影地点の標高は90mほどだが、崖上にある「イオンモール」は105m地点に建っている。また豊田駅ホームは91m地点にあるものの、駅前北口ロータリーは101m地点にあるので、池は崖下かつ窪地に存在していることになる。それゆえ、周囲から湧き出た水がここに集結したと考えられる。残念ながら、保全地域ということもあって崖の斜面内に立ち入ることはできないため、湧出点を確認することは叶わなかった。

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池からの流れが黒川水路の出発点となる

 池の南側には水路(黒川水路)が造られており、池から流れ出た水が東方向へ流れ下っていく。写真のように、整備された小水門からだけでなく、池を取り囲む石垣の間からも水は流出していた。

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暗渠化された流れは山王下公園の西端で再び姿を見せる

 黒川水路は宅地開発された道路下を流れるために55mほど暗渠化され、写真の山王下公園の西端で姿を現し、さしあたり公園内の堀を流れ下る。

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公園内を横切る黒川水路

 小さな山王下公園内を横切る黒川水路は、あたかもそれが自然のままの姿であるかのごとくに演出されている。

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公園内を流れた水たちは整備された水路に落とされる

 しかし現実は写真のごとくで、公園内を流れた水たちは、公園の北西側に整備された水路に落とされていく。右手に公園、左手に宅地内を走る道路がある。

 地図を確認すると、この水路は豊田駅のすぐ東側から延びているようだ。だが大半は公有地や私有地内を通っているため、実際に見ることはなかなかできそうになかった。

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緑地保全地区にあった湧水の流れ込み

 山王下公園北側の道を40mほど東に進むと、写真の流れ込みが目に入った。この流れは明らかに崖線からの湧水に由来するものであった。崖の上には道路が通じているので、その道路からは湧水点が視認できそうだった。

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崖上から湧水点をのぞき込む

 湧水の流れ込み地点の標高は88m、上の写真の撮影地点は94m。緑地保全地域なので立ち入ることはできないが、湧水点は90m地点にあると思われた。

 この湧水も細い水路に落とされ、さらにすぐさま山王下公園の水と同じ運命をたどり、豊田駅方面から来ていると思われたやや深めの水路に落とされていった。

 ▽黒川清流公園を散策しながら黒川水路を追う

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清流公園の西隣にある「カワセミハウス」

 水路に集められた湧水は160mほどの距離、地下を北東方向に流れて黒川清流公園の西端にある池に流れ込んで再登場する。その池の西隣にあるのがコミュニティーセンターの「日野市立カワセミハウス」で、近隣の自然に関する資料展示や環境セミナーなどをおこなうための会議室がある。もちろん、散策者のための休憩室もある。なお、施設の電源はすべて再生可能エネルギーで賄われているそうだ。

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清流公園の西端にある「あずまや池」

 狭義の「黒川清流公園」は西端の「あずまや池」から東端の「ひょうたん池」まで約630mの細長い敷地を有し、日野台地の南斜面とヘリを流れる黒川水路、4つの池、2つの広場などから構成されている。その間に湧水点がいくつもあるが、現在はそれらを保存管理するために、立ち入り禁止区域が多く設定されている。

 写真の「あずまや池」は、先に挙げた緑地保全地域の湧水を集めるだけでなく、南斜面からくる幾筋もの湧水も集まるために水量は豊富である。ただし、水自体の透明度は高いものの、底には泥が堆積しているため濁りやすいのが難点ではある。

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池のコイたちは湧水の流れ込み付近を好んでいるようだ

 池の北側は立ち入り禁止になっているために湧水の流れ込みを探すことは難しいが、コイたち(魚一般)は流れに向かう性質があるので、写真の木の下辺りに流れ込みが存在すると思われた。

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ここのコイはよく肥えている

 近隣の人々が散策のついでにコイたち(カルガモにも)餌を与えることが多いので、彼・彼女たちはよく肥えている。というより、いささか肥満気味である。

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池からは水が流れ出して「黒川水路」を潤している

 池からは写真のように水が流れ出て、公園の南側に整備された黒川水路を潤している。

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黒川水路は「ひょうたん池」まで開渠状態で通じている

 水路に落とされた水の流れは、中央線の法面(のりめん)近くにある「ひょうたん池」まで開渠となって姿を現しているので、その流れを追うことができた。

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水路を覆うヤマブキ

 写真のように、水路を植物が覆っている場所もある。石垣の間からスミレなど春の花が流れに色を添えているところもあった。

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湧水が豊富だったころに造られた橋

 公園内の散策路には2か所、橋が架けられている。豊富な湧水が流れ下る場所だったからだろう。しかし、西側の橋の下には流れはなかった。台地上は宅地開発が進んでいるため、雨水が地下に浸透する量が激減してしまったからだろう。以前、落合川のところで触れたように、湧水を得るためには広大な涵養地が必要なのだ。

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東側にある清流広場の上部では湧水の流れが見て取れた

 その一方、東側にある「清流広場」に流れ下ってくる沢筋では、写真のような流れが見て取れた。

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清流広場では、沢の水を汲む人の姿が見られた

 写真のように清流広場は親水性が確保されているので、澄んだ沢の水を汲む人々の姿も見られ、子供たちが水遊びする光景にも触れることができた。

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茂みの中に小さな流れがあった

 散策路をアチコチ歩くと、写真のような崖線からの流れを見出すことができた。ここも、その流れの源は柵で完全に保護・管理されている。

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日野台地の地質

 崩れた斜面に近寄れる場所があった。日野台地を覆うローム層の下には写真のような砂礫層があり、それが帯水層になっている。

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台地の上では宅地造成が進んでいる

 台地の上では宅地がどんどん増殖している。写真の場所にも沢の痕跡はあるのだが、もはや完全に枯れてしまったようだ。斜面だけの保全では限界がある。

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大池のいち景色

 大池に生えていた樹木。この木は開発の歴史と緑地保全の進展を見続けているはずだ。

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黒川水路はまもなく中央線の高架(盛り土)に突き当たる

 写真のように、東進してきた黒川水路はまもなく中央線の高架に突き当たる。高架橋であればそのまま進めるのだろうが、土盛りではそれは難しい。

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中央線の手前まで進んだ水路

 中央線のすぐ近くにまで進んできた水路は、写真のような小さな池(ひょうたん池)を形成し、その末端で水たちは地下に潜ることになる。

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ひょうたん池の末端

 写真のように黒川水路は一旦、地上から姿を消す。

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中央線の東側で顔を出した黒川水路

 地下に潜った黒川水路は中央線の東側で再び、姿を見せる。ただし、すぐ東側という訳ではなく、ひょうたん池からは400mほど離れている。なお、ひょうたん池の標高は84m、顔を出した場所は82mである。

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宅地と畑の間をうろつく水路

 黒川水路は開渠の状態でしばらくは宅地と畑との間をうろつくが、標高72m地点まで下ったところで沖積低地の水田地帯に入り、やがて浅川左岸から取水された豊田用水と合流する。

◎日野用水の流れを追う

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日野用水の脇に整備された親水路

 日野用水の整備は1567(永禄10)年に始まったとされている。美濃国から移住してきた佐藤隼人が、滝山城主の北条氏照から罪人をもらい受けて開削を始めたという記録が残っている。美濃国には灌漑用水路が無数にあったので、佐藤はその地において灌漑土木技術を身に付けていたのであろう。また、北条氏照にとっても日野の沖積低地を開発することは、領地の経済的基盤を充実させるための必須な事業であったと考えられる。

 滝山城北条氏照に関してはすでに本ブログの第36回で触れている。日野用水の多摩川右岸取水口は八王子市平町地先にあるが、滝山城下と取水口との距離は2.5キロしかない。そもそも、滝山城は加住北丘陵にあり、日野台地はその丘陵の東延長上にあって、台地の東側に多摩川と浅川が造った沖積低地があるのだ。

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谷地川を渡る日野用水の水路橋

 多摩川の日野用水堰(八高線多摩川橋梁から430mほど上流)から取水(標高88m付近)された流れは、ほぼ都道169号(淵上日野線)に沿って東進し、写真の谷地(やじ)川に突き当たる。開削当時は水路と谷地川との水位はほぼ変わらない位置にあったために、谷地川の流れを利用して水路は川を越えることができた。が、近年には谷地川の河床が低下してしまったため、写真のような水路橋を渡して川を越えている。

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水路橋の中をのぞく

 水路橋の中をのぞくと、確かに用水の流れが視認できた。谷地川の河床には基盤が露出していることもよく分かる。これは、本流の多摩川での砂利採集が過剰におこなわれた影響なのだろう。

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復元された水車

 谷地川を越えて日野市に入った日野用水は、沖積低地に広がる田んぼを潤すためにあちこちに枝分かれする。そのひとつの流れの際にあったのが写真の水車小屋で、かつてこの辺りにあったものが公園内に復元された。なお、この辺りは台地のキワ近くなので、湧水(東光寺湧水など)も多かったらしい。とすれば、この水車は用水の流れではなく湧水の力で回転していたのかもしれない。

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「よそう森公園」内で用水路は幾筋もの流れに分かれる

 水車堀公園から東に280mほど進むと、写真の「よそう森公園」に出る。現在では宅地開発が進んで広さは感じられないが、以前はこの一帯が田んぼで、その広さから「八丁田」とも呼ばれていた。

 かつてこの近辺に塚(盛り土)があり、そこから八丁田一帯を見渡してその年の収穫高を予想した。そのため、「よそう森」と名付けられたと考えらえている。現在では、近隣の小学校の児童がここで稲作の体験学習をおこなっている(そうだ)。

 写真から分かる通り、用水路はここから幾筋にも枝分かれし、八丁田全域に水が行き渡るように工夫されている。

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日野用水下堰親水路を歩く

 日野用水は「上堰(堀)」と「下堰(堀)」とに区分されている。上堰は前述した八王子市平町地先から取水された流れ、下堰は谷地川が多摩川に合流する辺り(成就院の北側)から取水された流れだが、後者の取水口は河床が低下して水の取り入れが不能となったため、現在では上堰から分水されている。

 上堰は日野市の中心街方向に進み、下堰は多摩川右岸近くを進んでいく。もちろん、それぞれの流れは無数に枝分かれしているし、さらに地面の傾きの関係から、上堰の流れが下堰に入ったり、その逆もあったりで、私のような部外者にはほとんど区別がつかない。

 写真は下堰の流れが分枝する前の姿で、表示にも「下堰親水路」とあるので、この流れを日野用水下堰と呼んでも問題はなさそうだ。

 なお、この場所を(A)とする。

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上堰の流れが下堰に入り込む

 ところが、(A)の場所の80mほど下流に写真の合流点があった。左手からくるのが下堰幹線で、下から上に流れ込んでくるのが上堰の分枝流のひとつだ。この場所は先に挙げた水路橋から東へ900m地点にあるが、グーグルマップ(以下マップと表記)で確認できる範囲でも、上堰はすでに4つかそれ以上に枝分かれしているのである。

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都道169号線の北側に現われた用水路

 合流点から下堰の流れは北東に進んで、多摩川右岸近くを東進する。一方、合流点の東230m地点で、別の流れが都道169号線の北側に姿を現す。マップを見る限り、上堰の分枝流(先ほどとは別の)が北東方向に進んできて、都道を越えた辺りで2つに分かれ、そのひとつが写真の用水路(これを(B)とする)となり、もうひとつは北東に進んでいくことが分った。

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下堰の本流?は中央線の下を潜り抜ける

 下堰幹線を追うと、写真のように中央線の下を潜り抜けて、そのまま東進していた。写真は中央線下を流れる下堰を東側から西(下流から上流)方向を写したものだ。

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中央線・多摩川橋梁を眺める

 日野用水下堰が中央線の下を潜った場所から多摩川右岸の土手までは30mほどの距離にある。折角なので、用水の流れの親玉である多摩川をのぞいてみた。下堰の旧取水口は、この多摩川橋梁の1200mほど上流に位置する。

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下堰本流は住宅地の中を東進する

 下堰幹線は田んぼの中ではなく、写真のようにすっかり宅地化された中を、中央線下から360mほど東に進んで行く。なお、写真は下流から上流方向を望んだもの。

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下堰は90度曲がって東から南方向に向きを変える

 下堰幹線は、写真の地点で90度向きを変え、今度は南へと下ることになる。この流れを(C)とする。なお、この写真も、下流側から見たもので、赤い車の先にある土手は多摩川左岸のものである。

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住宅地に突如として現れた細い流れ

 下堰幹線の200mほど南に位置し、幹線と平行するように東へ進む細い流れ(これを(D)とする)が中央線の東側の住宅地に現われた。西から東へ流れていることは確かなのだが、中央線の西側に出てもその流れの元をたどることはできなかった。

 しかしマップを確認すると、これは想像に過ぎないのだが、いくつか前に挙げた都道脇に現われた流れ(B)と関係するように考えられた。その流れはファミリーマート野栄町店の下で地下に潜るのだが、その流れの筋を近隣の道などから(B)の位置に合致しそうなのだ。さらに、コンビニの北側にある宅地内の道はやや複雑に曲がっているものの、全体的には南東方向に向いているので、その道の下には暗渠化された別の流れがあるとも想定できる。その2つがどこかで合流して、中央線の東側に現われたのかもしれない。

 一方、中央線の東側の宅地は整然と区画されており、比較的新しく開発された住宅地と考えられるので、下堰幹線も写真の細流も開渠のまま直線化されたと考えられる。

 もっとも、写真から分かる通り道は真っすぐでも地面には凹凸が見受けられる。おそらく、この辺りには湿地が広がっていたのだと想像しうる。

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南下する下堰幹線

 南下を始めた下堰幹線は(D)と表記した細流に出会うまで約200m進んでいく。

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細流に出会う直前に下堰幹線は地下に潜る

 細流(D)に出会う直前に下堰幹線(C)は地下に潜り、やや斜めに向きを変えて細流と出会う。

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幹線と細流との「出会い」の場

 写真は、南下してきた下堰幹線(C)と東進してきた細流(D)とが出会う場面である。もっとも、中央に壁があるため、ここでは直に交わることはない。その壁は幹線からの流れの越水による被害を防ぐための工夫だろうか?

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幹線と細流との並走

 少しの間(30mほど)だが、幹線と細流とは壁を隔てて東向きに並走する。 

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公園の手前で向きを変える

 30mほど東に進んだ2つの流れは、後述する公園の手前で右折して南下を始める。

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2つの流れの合体

 南に向きを変えた場所で幹線と細流は合体し、そのまま都道169号線方向に進んでいく。 

◎仲田の森蚕糸(さんし)公園と日野市ふれあいホール前の流れ

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幹線の分枝点

 下堰幹線(C)が南下を始めた場所から130m地点で、幹線の一部は分枝されて東方向に進んでいく。

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分枝された流れは公園方向に進む

 分枝された流れは「仲田の森蚕糸(さんし)公園」方向に進み、公園内外を飾る水路の源になる。この流れを(E)とする。

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幹線から分岐された流れは公園の西で再分岐する

 流れ(E)は、公園の西端で2つに枝分かれする。写真左手に進む流れ(これを(F)とする)は公園内に、右手に下っていく流れ(これを(G)とする)は公園内の西端を南下する。

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公園内を流れる(F)の水路

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公園内の流れはゆったりムード

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公園内の流れで遊ぶ子供たち

 蚕糸公園の名があるように日野市では養蚕業が盛んであった。とくに1884,85年頃が最盛期だったそうだ。また、この地には1928年、旧農林省蚕糸試験場日野桑園が創設された。

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改装保存されている試験場の建物

 試験場は1980年に筑波に移転し、その跡地の一角に写真の「仲田の森蚕糸公園」が整備された。敷地内には改装された試験場の建物が保存されている。

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公園の一角には桑の木が植えられている

 公園の一角には、かつて桑園だったことの証として、いろんな種類の桑の木が植えられている。

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流れは少し絞られて駐車場の北側方向に進む

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流れは駐車場の北側に沿って東進する

 公園内を流れてきた水路は素掘りのままではあるが、駐車場近くで少し幅が絞られて進み、今度は駐車場の北側に沿って東へと進んで行く。

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「ふれあいホール」の手前で流れは右折する

 そのまま東進すると「ふれあいホール」に突き当たってしまうので、駐車場の北東角で流れは右にカーブする。ここでも素掘りのまま残されているのが喜ばしい。

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公園の西側に沿って南下するもう一つの流れ

 一方、公園の西側を南下する水路(G)は写真のように石垣護岸で整備されている。無機質な三面コンクリート護岸ではない点に、日野市の「用水愛」を感じる。

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やや東方向に向きを変えた流れ(G)

 公園の西側に沿って流れる水路(G)は南側にある都道169号線に突き当たる手前で少し東に進路を変え、さらに道路の北側でもう一度曲がって公園敷地の南端を、道路と並走するように東へ流れていく。

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自噴井を思わせる設え

 流れ(G)が方向転換している場所の内側にあるのが、写真の自噴井を思わせる「湧き水」だ。実は、ポンプを用いて地下水を常時、汲み上げているとのことである。地下水なので、(G)の流れより透明度は高い。ただし、飲料水には適さないそうだ。この「湧き出た」水がつくる流れを(H)とする。

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(G)の流れは2つに分岐する

 (G)の流れは道路に突き当たる直前で向きを東に変えるということはすでに触れているが、写真から分かるように、左折する(G)の流れとは別に、直進して道路の地下に潜っていく流れもある。この方向の流れを(I)として、それについては後述する。

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分岐点を別の角度からのぞく

 上で触れた分岐点を東側から眺めてみた。柵の向こう側の流れが(I)で、手前側に流れてくるのが(G)、右手から流れ落ちてくるのが、地下水由来の(H)である。 

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都道の北側に沿って流れる水路

 (G)の流れを追う。左側が、公園やその東側にある「ふれあいホール」利用者のための駐車場で、右手が都道169号線。その間に水路(G)と歩道がある。水路には飛び石が数多く配置されており、親水性を高めている。

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流れ(F)が(G)に合流

 駐車場の北側を流れてきた水路(F)は「ふれあいホール」入口の手前で都道に沿って流れてきた(G)に合流する。公園内を流れていたとき(F)はもう少し水量が多かったようだが、その水路は素掘りのために水の一部が地下に浸透していったと考えることもできる。

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水路はふれあいホールの南側を東進する

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水深のある場所に集まっていたコイたち

 ホールの南側を流れる水路(G)には飛び石があったり、少し深く掘り下げられたりして、水路の傍らを散策する人々の目と心に安らぎを与える。

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都道沿いを進んできた水路は旧甲州街道と交差する場所で地下に消える

 都道169号線は、「スポーツ公園前」交差点で旧甲州街道と交わる。この交差点の直前で私が追ってきた水路は地下に消えていく。旧甲州街道は北に進んで多摩川に架かる「立日橋」を渡るのだが、その橋のすぐ右手に「地下水路」の吐き出し口がある。おそらく、水路(G)の水たちはそこで多摩川に戻されるようだ。

 (G)の水たちはしばし地下を進むことになるため、開渠を進んできた「花筏」やゴミはここが終着駅に定められているようだ。

◎スポーツ公園の南側を進む水路(I)を追う

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スポーツ公園方向に向かう水路

 先に触れたように、(G)と分岐して直進して都道の下に潜る流れ(I)があった。この水路は、都道の南側に広がる「スポーツ公園」敷地内の南際を流れていく。都道の南側に出るために、水路(I)は一旦、地下に潜ったのだった。

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都道の南側で顔を出した水路

 都道の南側で水路(I)は地表に姿を現した。写真左手がコンビニの駐車場、右手がスポーツの森の敷地である。

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スポーツの森にある石碑

 写真はスポーツの森の敷地内にある散策路の傍らにあった石碑。これから分かる通り、この敷地も旧農林省蚕糸試験場日野桑園のものだった。マップを見れば一目瞭然なのだが、仲田の森蚕糸公園も、ふれあいホールも、その北にある市立仲田小学校も、そしてスポーツの森も、すべて「日野桑園」が移転した跡地に造られたのである。

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狭い水路にも意匠が施されている

 スポーツの森の中核は陸上競技場だが、その周りには遊歩道が整備されている。水路は遊歩道と南にある中学校や住宅街との間を進むのだが、狭い場所であっても一部には小さな意匠が施されていて、親水性を高めている。

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狭い水路を進むカルガモのペア

 狭い水路であってもカルガモたちには格好の御狩場のようで、写真のペアはここを縄張りとして住み着いているようだった。 

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住宅地への取り付け道路

 狭い水路であっても閉渠化されずに残っており、転落防止柵も住宅地に適した意匠のものが設置されている。

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水路はスポーツ公園の東側にもあった

 水路は公園の南のへりだけでなく、写真のように東のへりにもあった。極めて細い水路だが、この水路が有ると無いとでは、展開される風景への印象はまったく異なってくる。水路がなければどこの町にでもありうる歩道だが、歩道脇に水路があることで、日野の人々は日野市によくある風景を思い浮かべることができる。

 水路のある景色に触れた際、それがたとえ日野市ではない異郷の地であったとしても、日野市に住み馴れた人々には、常に故郷の風景が想起されるのである。それは私が、新鮮野菜の看板を見ただけで新撰組を、そして土方歳三を思い浮かべてしまうのと同じように……違うかも。いや、まったく。

◎日野用水下堰幹線の行方

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公園方向へ分水されなかった下堰幹線はさらに南下する

 一部を仲田の森蚕糸公園方向へ分水した下堰幹線の流れ(C)は、公園西端とは道ひとつを隔てた場所を南下して都道169号線下を閉渠で渡り、道路の南側で再び開渠を進む。写真は、都道を越えた先にある住宅地横を流れる下堰幹線である。

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下堰本流?は上堰の分枝流と合流する

 南下してきた下堰幹線の流れは、そのままずっと南へ進むと日野台地の北側のへりに突き当たってしまうため、向きを少し変えて台地のへりを南南東方向へ流れ下っていく。この向きを変えた場所で、西から下ってきた上堰の分枝流(これを(J)とする)が合流してくる。写真の左手に見えるのが上堰の分枝流だ。

 写真の場所はかつて「精進場」と呼ばれていたらしい。2つの流れが交わる場所なので、合流点付近は池のように広がっていたようで、富士山講に出掛ける人たちがここで心身の清めの儀式をおこなっていたことからそのように名付けられたとのことだ。

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精進場跡から上堰の分枝流を眺める

 上堰の分枝流(J)は住宅地の道路脇を下ってきているのが分かったので、少しだけその水路を辿ってみることにした。

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精進場跡から90m離れた地点から上堰の分枝流を望む

 分枝流(J)は精進場跡から90mほど先まで南西方向に伸びていて、その地点から90度、北西側に曲がっていた。

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水路脇に添えられたシバザクラ

 住宅地を流れる水路なので、自宅の前の水路脇に色とりどりの花を植えている場所を見掛けた。

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宅地の間を下ってくる上堰の分枝流

 分枝流(J)が北西方向に存在したのは20mほどで、今度は西方向に向きを変えている(実際には西方向から下ってくる)。しかし、写真のように宅地間の狭い場所を流れているため、これ以上、この水路を追うことは断念した。

 後でマップを確認すると、この分枝流はところどころで閉渠を進んでくるものの、何とか流れの元を辿ることが出来た。それは、本項の始めの部分で触れた「水車堀公園」横の水路の分枝流の末流であることが判明した。

 水車堀公園から写真の場所までは直線距離にして1450m。実際には蛇行したり、強制的に折れ曲げられたりしているため、それ以上の距離があることは確かだ。

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下堰幹線の流れは中学校の敷地内へと進んでいく

 下堰幹線の流れは市立第一中学校の敷地内へ進んでいったので、少しの間だが、流れを追うことはできなかった。

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台地のへりを東に進む水路

 それでも、下堰幹線は台地のへりを進むことは分かっていたので、その行く手を見出すことは容易だった。

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水路を遡り産卵場所を探す?

 水路の中では、腹をパンパンに膨らませたコイが遡上していた。産卵場所を探しているのか?それにしては単独行だったので、減量のために泳いでいたのかも?

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頑丈そうな水門があった

 立派な水門を見掛けた。仲田の森蚕糸公園に導水するための「仕切り板」とはあまりにも違いが大きかった。

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水門によって分岐された流れ

 写真は、立派な水門によって分岐された流れ。幹線は台地のへりを進んでいったために、こちらの流れは沖積低地の中心部にある水田を潤すための水路だったのだろう。

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下堰と住民の安寧を願う水神様

 幹線の傍らにあった水神様。水路を散策している際に小さな祠をあちこちで見かけた。沖積低地は水に恵まれているが、その一方で氾濫による被害も多発する。されど、氾濫は肥沃な土砂をもたらしてくれる。

 幸と不幸はいつも隣合わせなのだ。

落川集落と落川用水を訪ねる

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落川では道も用水路も入り組んでいる

 落川集落は程久保川と多摩川、川崎街道、野猿街道に囲まれた場所に存在し、日野市の最東端に位置する。地名が体を表しているように、多摩川と浅川、多摩川(かつては浅川)と程久保川の合流点のすぐ南に存在するため、常に氾濫の危険にさらされていた。そのためもあって集落内の道は複雑に入り組んでいる。

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川の跡だったはずの道

 落川集落を通るのは今回が初めてだと思っていた。しかし、実際には数えきれないほどこの集落内を通過していた。かつて、私が裏道としてよく使っていた、浅川に架かる新井橋南詰から京王線百草園駅西側に抜ける道は「落川通り」という名であったことに今回、改めて気が付いたのだ。

 その通りの名は何度も目はずなのだが、私が訪ねたいと思っていた落川と、通りの名にある落川との心象風景が一致していなかったのだ。落川通りは、いかにも裏道といった感じで道はくねくねと折れ曲がってはいるものの、道幅自体はそれほど狭くはなく、なんとか車が行き違うことは可能である。

 私が形象していた落川の道は、上の写真のようなもので、かつて小川や用水路であった流れの筋が道として利用されるようになったものであると、勝手に想像していたのである。自動車如きがすれ違うことなどできないはずであるものとして。

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何度も行き来してしまった道

 こんな道にも出会った。そう、これこそが私の内的形象としての「落川通り」であり、この道を通ったときに私は、方角が不得要領となり、目指していた「落川公園」に至ることがなかなかできなかった。結果、この道を何度も通ることになった。

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集落内にあった高札場跡

 写真は、「落川村高札場」跡である。落川村の多摩川右岸には「一ノ宮渡船場」があったので、落川村にはそれなり数、通行人がいたのだろう。村の人々だけでなく、そうした通行人に対して、掟書などをここに掲げていた。それが高札場だ。

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落川公園内の素掘りの用水路

 落川公園内外には3本の用水路がある。写真は、一の宮用水へと通じていく分水路からさらに分岐されたものであり、公園の西側を流れている。

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一の宮用水に向かう落川用水

 これが一の宮用水へ合流していく落川用水の分水路のひとつで、水量は少ないものの、草むらの中には確かに水の流れがあった。

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2つの水路の合流点

 写真は分水路のひとつで、公園の東側を南方向へと流れ下っている。左手から公園の西側を流れていた水路が合流し、この先、ひとつの流れとなって東方向へ進んでいく。 

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合流した水路は武蔵国一の宮方向に進む

 合流した水路は東側に進み、野猿街道の下を通って多摩市一宮へと入っていく。そこには「武蔵国一之宮・小野神社」が鎮座している。今はともかく、かつては武蔵国内に無数ある神社の中でもっとも格式の高い社とされていたのである。

 落川用水は、そうした格調高い神社の社域にある田んぼを潤していたのだ。今では、程久保川から直接水を取ることはできず、ポンプアップされた川の水が導水されているにしても、である。

 *  *  *

 今回、訪ねた日野市の用水は、全体から見ればほんのわずかなものでしかない。

 多摩川や浅川は、これから天然アユの遡上が本格化する。もちろん、日野の用水の中まで遡上してくるアユは相当数いる。それらの中には田んぼにまで入り込んでしまうものもいる。いずれ、そうしたアユたちの姿も紹介してみたい。