転換の10世紀
菅原孝標(すがわらのたかすえ、10~11世紀の人)は菅原道真の直系という名門の出身でありながら平凡な人生を送った。受領国司として上総介・常陸介の任についたことは判明しているが、これは両国が「親王任国」だったからその記録が残っているにすぎない。晩年もどこかの国司として赴任しているが、その国名は定かではない。桓武天皇、平城天皇などが子沢山だったことから親王家に充てる官職が不足したため、「常陸国」「上総国」「上野国」の三国を「親王任国」に定め、親王をその国の「太守」に就かせた。親王は遥任(ようにん)であって、現地へは受領国司である「~介」が赴いた。菅原孝標は1017年、上総介として東国に向かい無事4年間勤め上げ1020年、京に戻った。特記事項はなく、その後も中級貴族として平凡な人生を送り没年は不詳である。
彼に娘がいなければ、孝標の名が歴史に残ることはなかっただろう。ただし娘の名は不詳だ。1020年、京に戻るときに13歳だったので、1008年生まれとされている。帰国途上、すみだ川を渡る際には在原業平の歌を思い浮かべ、竹芝の浜にも立ち寄っている。言問橋近くにはスカイツリーがあるし、竹芝には伊豆諸島に渡るための大きな桟橋があるが、彼女の場合、別に「東京ソラマチ」に行く用事も「八丈島」で磯釣りをする用事もなかっただろうし、そもそも11世紀にはそんな施設はなかった。大磯では「もろこしが原に、大和撫子しも咲きけむこそ」と周囲の人が言葉遊びに興じるさまに印象付けられ、噴火活動中の富士山に接し「山の頂の少し平らぎたるより、煙は立ち上る。夕暮は火の燃え立つも見ゆ」と記している。
彼女の残した『更級日記』は私が読んだことのある数少ない日本古典文学の傑作だ。彼女が記したとされる『浜松中納言物語』は三島由紀夫に大きな影響を与え、彼はその物語を下敷きにした四部からなる小説『豊饒の海』を創作し、入稿した日に自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した。
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律令国家の基盤であった班田制は口分田を支給される農民に租税を課するものであったが、重税に苦しむ人々は逃亡、浮浪、偽籍などで負担を逃れようとした。その結果、国家財政は疲弊し下級官人への給与の支給は困難になってしまった。このため、10世紀前半には寺田、神田、荘田以外の公田に税を課す制度に変わった。人に対する課税から土地に対する課税へと変更されたのだ。また、国家の政治体制も官僚制機構から摂関や令外官である蔵人など天皇の私的機関が政治の中心となり「王朝国家体制」へと変質した。
また地方支配制度も変質し、有力な寄生的官僚貴族が「守(かみ)」の地位を独占するようになり、各国には権限が集中化された受領国司が派遣された。国衙での政治は受領だけでは運営できないため、在地の有力者が郡司として官人化された。任用国司よりも地元の首長層を重用した理由は、彼らが土地の事情に詳しいということのみならず、経済的にも豊かだったからである。10世紀は地球規模での温暖化が進んでいたので開墾が積極的におこなわれ、「富豪の輩」が増加していた。一方で下層農民の困窮化もひどくなる一方だった。受領国司は地元の有力者を登用することで「私腹を肥やした」のである。中央政府にしても、受領の「私富」が増えることは、それが国宛の賦課の増大にも繋がると考えて黙認していたらしい。いわゆる賄賂政治が横行していた。政治家・官僚の頭の中はいつの時代も変わらないようだ。
上に挙げた菅原孝標もこのように専制化された受領の地位に就いた。1020年に京に戻った孝標は上皇の広大な邸宅を手に入れて住んだらしい(『更級日記』による)ので、平凡な人物であっても受領の立場は「甘い汁」が吸えたようだ。
こうして、「転換の10世紀」は政治経済社会体制を大きく変質させ、11世紀末の院政、12世紀末の鎌倉幕府誕生へと進む先駆けとなる時代となった。治安維持の専門職として武士階級が発生したのも、転換期によくみられる「政情不安」や「経済格差の拡大」が要因だったと思われる。
大國魂神社に出掛けてみた
大國魂神社は東京五社のひとつに数えられるそうだ。あとは「東京大神宮」「靖国神社」「日枝神社」「明治神宮」なので、五社の五番目だろう(個人の感想です)。7世紀には武蔵国府の「国衙の斎場」に位置付けられていたようだが、五社の仲間に入れるのは、源義家、源頼朝、北条政子、北条泰時、徳川家康、徳川家綱のお陰もあると思うので、先に少し触れた「転換の10世紀」の恩恵を得ていると言えなくもない。
今年の1月2日、大國魂神社に出掛けてみた。初詣というわけでは決してなく、すぐ近くに用事があったためコンパクトカメラ持参で「覗き」にいってみたという次第である。予想した以上の参拝客がいた。お参りする人の列は大鳥居までどころかけやき並木の途中まで続いていた。これには「源義家」もびっくりしていたに相違ない。
私には寺社にお参りするという習慣はまったくない。幼い頃や連れに強制される以外は、お賽銭をあげることもない。小さいときは大國魂神社で「賽銭拾い」に精を出していたので、生涯における賽銭の収支はたぶん「黒字」だ。元三大師・良源さんには申し訳ないが、おみくじも強制される以外は購入しない。枝などに結んであるおみくじを解いて見たことは何度もある。運勢を知るには「無料」に限るのだ。お守りを頂いたことは何度となくあるが、それを持って歩いたことも、車にくっつけたこともまったくない。幽霊もUFOも見たことはないし、そもそもその存在を否定している。
が、神社仏閣の存在は大好きで、恐山にも中尊寺にも毛越寺にも鹿島神宮にも靖国神社にも川崎大師にも延暦寺にも金閣寺にも東大寺にも薬師寺にも長谷寺にも伊勢神宮にも熊野速玉大社にも熊野那智大社にも四国八十八か所霊場にも松陰神社にも宗像大社にも何度も出掛けている。しかし、どこに行っても祈ることはない。神社仏閣がある風景が好きなのである。そこに神秘性を感じる。ただそれだけで十分なのだ。
大國魂神社の社史によれば、創建は景行41年(西暦111年)の5月5日とのこと。大國魂大神=大国主神の託宣によるらしい。7世紀半ばからこの地に武蔵国府が置かれたので、神社は国衙の斎場としての機能を果たすようになった。都より赴任した国司は、まず管内の神社に巡拝するという決まりがあったようだ。また、毎月の朔日(1日)には国内諸神を勧進して神事をおこなった。さらに、国衙はその付属神社(武蔵国では大國魂神社)を前提として、国内の主要神社の序列化を図った。これが一宮から六宮となり、国衙の近くにある大國魂神社は武蔵総社六所宮と呼ばれるようになった。一説には、毎年、国司が一宮から六宮まで巡拝するのが大変なので、それらを合祀した総社を設けて巡拝を省略したというものがある。11世紀後半、国府に近くに総社が設けられるという制度が全国に広まったという点を考えると、受領国司への権限集中が背景にあり、その権威の象徴としての地位が総社に与えられたと考えるほうが適切なように思える。
『源威集』によれば、奥州の安部一族の反乱を鎮める(前九年の役)ために北に向かう源頼義(陸奥守)が、武蔵総社に北方を見張らせるため、それまで社殿は南向きであったものを北向きに変えさせたという話がある(1051年)。南向きだと立川段丘の上から多摩川や多摩丘陵を望むだけだが、北向きになれば国分寺に対面し、目の前には広々とした平地がある。神社の前にはいつしか府中三町(本町、番場、新宿)ができ、けやき並木が北に伸びている。今日に至る府中市の小さな発展に、この北向きへの変更が大きく寄与しているようだ。
1062年、前九年の役で勝利をおさめ凱旋した頼義の息子の八幡太郎義家は大國魂神社に立ち寄り、けやきの苗1000本と供物として「すもも」を寄進した。並木を整備したのは徳川家康とされているが、府中とけやきの縁を生んだのは義家だったのかもしれない。また、大國魂神社では7月に「すもも祭り」が開催されるが、これも義家の寄進に淵源があるのだろう。
今ふたたび頼義・義家父子が現れたならば、奥州ではなく今度は長州に向かい「愛ある」政治ではなくIR利権に群がる安部一党の征伐をおこなうかもしれない。今度は神社は西向きとなり、凱旋のあかつきには苗1000本を寄進するだろう。もちろん、「けやき」ではなく「桜」であるに相違ない。
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武蔵国一宮は多摩市一の宮にある「小野神社」とされている。小野郷は日野市南部、多摩市、稲城市辺りにあったとされ、「小野牧」は931年、中央に馬を奉じる「勅旨牧(御牧)」となり、小野諸興(もろおき)が別当に就いた。諸興は武蔵国の権介にもなり、押領使として軍事指揮権を有した。この小野氏は11世紀頃から八王子の横山荘(船木田荘)に移り、横山氏を名乗ることになった。これが武蔵七党の代表格である「横山党」の端緒である。
武蔵国二宮は、あきるの市にある「二宮神社(小河神社)」とされている。現在の日野市を中心に勢力を拡大した日奉(ひまつり)宗頼は武蔵守に就き、勅旨牧である「小川牧」や「由井牧」を支配した。二宮神社はこの小川(小河)にあり、日奉氏は神社の地頭にも就いている。後に日奉氏は武蔵七党のひとつである「西党」を組織したが、これは本拠であった日野が府中の西にあったからとされている。二宮神社は『延喜式』の神名帳にはない式外社ではあったが、有力な武家の間ではよく知られていた存在だったらしい。後北条氏の氏照は八王子の滝山城を一時本拠にしたが、その際、二宮神社を祈願所にしていた。
武蔵三宮は大宮市にある「氷川神社」とされている。この神社は旧官幣大社で、大國魂神社は旧官幣小社なので、こちらのほうが格上と思われる。このためもあってか、氷川神社では武蔵国筆頭の神社として「武藏国一之宮」を名乗っている。初詣客も氷川神社は200万人以上なのに対し大國魂神社は50万人ほどなので、一般的な認知度は氷川神社のほうが上かも。それに、横浜市の山下公園につながれている船の名前にも採用されているし、おばちゃんたちに絶大な人気の「演歌」歌手も、本姓は山田だが、芸名にはその神社名を採用している。
武蔵四宮は秩父神社である。神社のサイトをのぞいてみたが、こちらも四宮では誇れないのか、知知夫国の総鎮守を冒頭に掲げ、由緒書には「武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至ってます」とあり、「四宮」は出てこない。秩父からは秩父将常(11世紀の人、平将恒とも、桓武天皇6世)が出ており、後の秩父氏、河越氏の祖となった。特に河越重頼は、源頼朝が伊豆国に流されている折に仕送りを続けたことでよく知られている。子の重員(しげかず)は「武蔵国留守所惣検校職」となり、武蔵国武士団の最高指揮官となった。川越市の基礎の基礎はこの時代に造られたといって良いだろう。
武蔵五宮は埼玉県児玉郡神川町にある金鑚(かなさな)神社だ。鑚(さん)の字が難しので「金佐奈」とも表記される。神流川(かんながわ)へ鮎釣りに出掛けるとき、関越道・本庄児玉ICで降り、国道462号線を西に進んで神流川に出る。その手前にある神社なので名前だけは以前からよく知っていた。五宮であることも知っていた。しかし、気持ちは釣りのほうへ完全に向いているので、この神社を見学(私の場合は参拝しない)したことはない。所在地は神川町字二ノ宮となっており、武蔵国の二宮を名乗っていたこともあったようだ。資料によると、金鑚(かなさな)は金砂が元になっていたそうだ。金砂は砂鉄を意味するように神流川は砂鉄の産地であったらしい。神流は「鉄穴(かんな)」つまり砂鉄の採集場を意味するので、川の名前自体が砂鉄が取れる場所ということを表している。この神社には本殿はなく背後にある御嶽山をご神体とする。こうした原始神道の例は奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社が最古のもので、そこでは背後にある三輪山をご神体とする。
武蔵六宮は横浜市緑区西八朔町にある杉山神社だと考えられている。鶴見川流域やその周囲には杉山神社が72社あると『新編武蔵風土記稿』にあるそうだが、この神社は武蔵国都築郡にある唯一の式内社なので、ここが六宮であるという蓋然性が高いらしい。大國魂神社の「くらやみ祭」では、ここの宮司と氏子会の代表が神事に参加しているので、大國魂神社側としてはこの杉山神社が六宮であると認定しているようだ。
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大國魂神社が武蔵総社六所宮として中世期に登場するのは1182年のことである。源頼朝の正室である北条政子の安産祈願に使節が摂社である宮乃咩(みやのめ)神社に派遣されたという記録がある。ところで、当時は夫婦別姓だったのだろうか?
1186年には頼朝の命により、武蔵守義信を奉行として社殿が造営され、1232年に北条泰時の命で社殿が修復されたという記録もあるらしい。
1591年には家康の命により六所宮に500石が寄進された。大宮の氷川神社には300石だったので、初詣客数では大きく負けているものの家康の寄進量では勝利したようだ。ちなみに、秩父神社は57石、神田明神は30石だったそうだ。また1606年には、「八王子千人同心」を組織したことでも知られる所務奉行(勘定奉行)の大久保長安によって社殿が新築された。しかし、46年に発生した府中本町で起きた火事によって社殿は消失してしまった。その後、4代将軍家綱の命により老中・久世広之の差配により67年、社殿が再建された。このとき建築されたものが現存する本殿である。46年のときの本殿は正殿が三棟あったが、67年に再建されたときは簡素化され、三殿を横に連ねた相殿(あいどの)造りになった。また、三重塔、楼門、鼓楼は再建されなかった。が、後に鼓楼が復活し、楼門は守護神像(矢大臣と左大臣)を配置した随神(身)門が造られ2011年、御鎮座壱千九百年事業として改築された。本項冒頭の写真が今現在ある随神門だ。以前のものは「くらやみ祭」の際に神輿が通りづらかったため、改築の際に間口が広げられた。
初詣には何の関心もない私だが、大鳥居から隋神門までの参道、並びに東西に並ぶ屋台には心惹かれるものがあった。しかしここを訪れた2日には直前まで昼食会があって、普段ならまず食すことのない「回らない寿司」を目いっぱい腹の中に入れていたため、焼きそばやたこ焼きの存在はさして気にならなかった。それより、この人込みから早く逃れたかった。
本殿裏にある社叢林(しゃそうりん、鎮守の森)は、子供時代の遊び場だった。ここで私はサルになったりターザンになったり鬼になったりした。しかし、現在は立ち入ることはできず、ただ柵の外から見上げることしかできない。写真のイチョウは樹齢900年とのこと。その他、ムクノキや大ケヤキもある。「大ケヤキ」と聞くと東京競馬場の名物をイメージするかもしれないが、あれは「大エノキ」であるということは以前の項で触れている(cf.26・多摩川中流散歩)。
府中名物・けやき並木
けやき並木は府中を代表する名所である。私自身は生まれたときからこの並木は身近にあったのでとくに強い思い入れはないが、府中以外に住む人がここにやってくると、「町中にこんな大きな木の並木道があるなんて!」と感動するようだ。国の天然記念物にも指定(1924年)されている。江戸時代、並木といえばかつてはスギやマツが定番で、ケヤキのような広葉樹が植えられている例は珍しいらしい。現在ではサクラ、プラタナス、ポプラ、ハナミズミなどの並木道は当たり前になっているが。
写真は国分寺街道を北から南方向に見たもので、「けやき並木北交差点」は「桜通り」と「けやき並木」が交差した場所にある。現在ではこの交差点が並木の終点とされ、大國魂神社の大鳥居が始点とされている。この600mの間の道の両側にけやきが植えられ、私が子供の頃は大木揃いだった。しかし、並木道のほとんどが舗装されてしまった現在、環境悪化で巨木は次々に枯れてしまい、多くは若木に植え替えられている。このため、かつてのような「鬱蒼とした」並木道とはなっていない。かつて府中の並木道の荘厳さに感動した人々が現在の姿を見ると、必ずや違和感を覚えるに違いない。
前述したように、府中とけやきとの結びつきは源義家の寄進が始原だったと考えられる。並木が現在のような姿になったのは徳川家康の命によるらしい。中央に本道(馬場中道)があり、東西の側道はそれぞれ東馬場、西馬場と呼ばれている。
写真のように本道だけでなく左右の側道もすべて舗装されている。これではけやきは呼吸困難に陥り、大きく育つことはもう望めないだろう。私が幼い頃は京王線は高架化されていなかったので写真の辺りには踏切があり、その南側に京王バスの停留所があった。側道は未舗装で、泥濘にならないように小砂利が敷かれていた。このため、けやきの巨木はまだかろうじて命を長らえることができていた。
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府中のもう一つの名物といえば「くらやみ祭」である。例年、5月5日の神輿渡御のときは大賑わいになる。府中が賑やかになるのは初詣、「くらやみ祭」ぐらいだろうか。もっとも、競馬場界隈は毎土日曜日、それなりの人出はあるが。
例大祭(俗称くらやみ祭)は例年4月30日から5月6日までおこなわれ、3日から5日が特に賑わう。5月5日は大國魂神社が誕生した日とされ、かつては「国府祭」として開かれていたようだ。3日の夜には「競馬式(こまくらべ)」がおこなわれる。武蔵国には「牧」が多かったことは先に述べている。「石川牧」「小川牧」「由井牧」「立野牧」「秩父牧」「小野牧」は勅旨牧に指定されていた。馬の名産地であっただけに、お祭りのときにもお披露目をおこなっていた。現在でも、6頭の馬が神社前の旧甲州街道を三往復する。4日は子供神輿、山車、そして大太鼓が拝殿前に集合する。
5日の夜が「くらやみ祭」の本番で、一宮から六宮、それに御本社と御霊宮の八基の神輿が拝殿前から旧甲州街道にある御旅所まで渡御する。かつては深夜におこなわれ、すべての灯火が消えた中、しずしずと進んだそうだ。資料には「暗夜の如く人ひそまりて、咳一つするものなく、おのおの息を殺せり」とある。いかにも「神事」らしい。その一方、6日の早朝には明かりを灯し、今度は威勢よく還御したらしい。が、神輿渡御はやがて神聖さを失い、賑やかそして喧騒の中でおこなわれるようになり、町中の風紀も相当に乱れたため、1959年に渡御は午後4時と明るいうちに開始されることになった。しかし、これでは「暗闇」での祭りではなくなったという声が高まったため、2003年からは午後6時開始となった。それでも特に大きな問題は起きてはいないようだ。皆、礼儀正しくなったのだろう。
なお、府中市では町おこしの一環として映画『くらやみ祭の小川さん』(主演六角精児、高島礼子)を製作し、19年の10月から上映されている。郷土愛の欠片もない私や私の友人は鑑賞していないが、兄や姉たちからも映画の話は聞いたことがない。人生の転機を向かえ生きる目標がなくなった主人公は、たまたま祭りの準備に参加することになり、その過程で地域の人々との交流が生まれ、新たな生きがいを見出したという、いかにも道徳の教科書の題材になりそうなストーリーを聞くと、ますます見る気が失せる。が、全編、府中市が舞台となっている(当たり前だが)らしいので、その点には少しだけ興味がある。
浅間山は古墳ではなかった
府中市の東北部の一角に浅間山(せんげんやま)がある。平らな立川段丘の上にそこだけが小高い丘なのだが、私や私の周辺の庶民はその姿を見て、皆が古墳であると信じていた。田舎の府中市とはいえ、さすがに周囲の開発が進み高めの建築物が多くなったためにその姿は遠目からは見られなくなったが、以前は集落を離れるとすぐに丘の形が視認できた。私や知人は北東方向にその姿を見ることが大半だった。丘からいえば私たちに南西側の姿を見せていた。
写真は、浅間山の姿を西側から見たものだ。ここもまもなく建売住宅が並ぶようなので、丘の全貌を見るためには、もはや高いビルに上がらなくてはならないだろう。この姿を遠目に見て、前方後円墳ではないのかと多くの人が思い、家でも何度かそうに違いないという話になった。皆、知っている古墳の姿は図鑑の中にしかなく、掲載された前方後円墳を横から見た写真と浅間山の姿は確かに似ていた。上から見た写真は仁徳天皇陵のものがほとんどで、一方、浅間山の航空写真はなかった。
自転車に乗って浅間山の周りを走ってみれば、前方後円墳のような縦長の姿はしていないことはすぐに分かるし、巨大な方墳と考えたとしても頂上が3つあるので、古墳とは全く異なる姿であるということはすぐに誰にでも分かる。が、誰も、その労を取ることはしなかった。私を含め、浅間山を古墳だと思い込んでいた人々は、ただ南西側の姿だけでそう判断していたのである。これは、〇が横に二つ並んでいれば「目に違いない」と思うのと一緒で、愚か者というほかはない。
浅間山は1970年に都立公園として整備された。ここにはニッコウキスゲの変種であるムサシノキスゲが日本で唯一自生しており、市民の有志がこの花を守り続け、絶滅の危機を救った。今では毎年の5月中旬頃、山の斜面のあちこちで黄色い花を咲かせる。また、キンランやギンランもほぼ同じころに開花するため、ゴールデンウィーク後からは散策者がかなりの数、集まってくる。
浅間山は私の散策コースのひとつになっており、自宅を出発して「府中の森公園」を抜けて浅間山に至り、まずは最高峰の「堂山」を目指す。その道の途中にあるのが写真の「おみたらし(御水手洗)」で、わずかではあるが湧き水が流れ出ている。小さな山だが広葉樹が多く茂っているので保水力があるためか、チョロチョロとではあるが湧き出ている様子を見ることができる(湧き出ていないときもある)。
頑張って坂道を上る(頑張らなくても上れるが)と、標高79.6mの堂山の頂上に着く。ここには浅間神社がある。写真からも分かるように祠のある場所は墳丘になっている。確かに、浅間山は古墳だったのだ、規模は小さいけれど。後述するように、この山からは富士山が望めるので、それで富士山信仰由来の浅間神社が造られたのだと考えられる。
標高約80m(麓は52m)、標高差28mの「登山」ではあるが、葉の落ちた冬場は周囲の景色に触れることができる。写真の中央やや右のツインタワーは国分寺駅北口に最近できたもの。遠くには関東山地の連なりが見え、中央やや左の三角形の頂をもつのは武甲山だ。
今度は武蔵小金井駅方向を望むと、手前には多磨霊園(多摩墓地)が見える。東京ドーム27個分の広さがある公園墓地で、ここもまた私の徘徊場所だ。著名な埋葬者が多いので、その墓を捜し歩くのが興味深く、私の趣味のひとつになっている。園内には桜が多く、花見シーズンには見物人が多く集まる。武蔵小金井駅の南口には新築のタワーマンションがある。古き良き田舎町の駅前商店街が近代化されたのには寂しさを強く感じる。ただし、中央線が高架化されたことは大歓迎で、小金井街道の踏切渋滞がなくなっただけでなく、そこを迂回する車による”もらい渋滞”が減少したのも大歓迎だ。武蔵小金井行きバスが早く着くようになったのも朗報のひとつだ。
浅間山は以前は「人見山」と呼ばれていたらしい。独立丘なので周囲がよく見渡せたからとのことのようだ。山の南側には「人見街道」がある。これは以前にも触れたことがあるが、大國魂神社と杉並区にある「大宮八幡宮」とを結ぶ重要な街道だったらしい。浅間山はその街道をゆく人の姿を監視するにはもってこいの場所だったのだ。
写真の標識は前山から中山にいたる途中にあるもので、ここから富士山の雄姿を望むことができる。私がここを訪れたのは午後3時過ぎなので逆光がまぶしくて富士の姿はかろうじて見えたものの、写真を撮ることは不可能だった。
晴れ渡っている日だったので、確かに富士山は見えた。ただし、時間帯が良くなかった。あと一時間遅ければ落陽とともに富士は見えるだろうし、丹沢山塊もよく見えるはずだ。朝早い時間であれば空気も澄んでいるので富士山を含めた山々はよく見えるはずだ。地方整備局も考慮して、この方角にある樹木は伐採して視界を確保してくれている。私の場合、午前中に散策することはないので、この地点からはっきりくっきりの富士を見たことはないのだが。
中山から下りはじめ、来た道を戻る。この散策をおこなうと、約8000歩を稼ぐことができる。帰途、大抵、浅間山の成り立ちを考えてしまう。平地に墳墓を築いたのではないことは分かった。次に考えるのが多摩川との関係だ。約3万年前、古多摩川は北方向に大きく蛇行して国分寺崖線を造った。その際、浅間山は削り残していた。2万年前の蛇行では立川崖線(府中崖線)を造っているのだから、もう浅間山には何の影響もない。
しかし、問題点がひとつある。浅間山の一番高いところは80m。例によって『国土地理院・標高の分かるweb地図』を参照すると、先ほど写真で見たツインタワーのある国分寺駅北口は73m、武蔵小金井駅南口は69mだ。浅間山最高峰と同じ経度の中央線沿線は、国分寺駅と武蔵小金井駅の間で、しかも小金井により近い場所なので標高は70mだ。とすれば、多摩川はその地点では標高70mの高さまで流れていたことになり、その際、浅間山は川面から10mほど顔を出していたことになる。つまり、国分寺駅や武蔵小金井駅のある武蔵野段丘とは別の成り立ちがあったと考えなければならない。山が武蔵野段丘の一部であるならば標高は70m前後でなければならないからだ。
そこで浅間山の成り立ちを調べてみると、ここの地質は、関東ロームの下に「御殿峠礫層」があり、その下の基底部が「上総層群」であることが分かる。「御殿峠」は国道16号線が八王子市街から南下し橋本方面に抜ける途中にある標高187mの峠だ。多摩丘陵にある峠としてよく知られた名前だ。この辺りの丘陵地は「多摩Ⅰ面」といわれるもので、丘陵は大栗川や乞田川に侵食されている。御殿峠がある舌状丘陵地は浅川と大栗川の間にあって北東方向に伸びており、多摩動物公園はこの丘陵地上にある。この丘陵は多摩川で遮られているものの、もし多摩川がないと仮定すると、まさに浅間山に至るのである。御殿峠礫層を含む「多摩Ⅰ面」は約50万年前、古相模川が造った扇状地と考えられている。その証拠として御殿峠礫層には丹沢山塊由来の「閃緑岩」や「緑色凝灰岩」が多く含まれている。浅間山を歩くと中腹に小石が多く含まれている場所が散見されるが、その中にそうした石を見ることができる。ちなみに、大栗川や乞田川の流路は古相模川の名残なのだ。
以上のように、浅間山は約50万年前、古相模川によって造られた扇状地の先端部と考えられ、後に多摩川が流路変更して狭山丘陵の北側から南側に流れを変えることによって古相模川が造った扇状地を削り、その上に古多摩川が造った扇状地が形成されたものの、浅間山だけが削り残されたと考えると合点がいく。武蔵野台地は多摩川が造った段丘化された開析扇状地だが、浅間山周辺だけは相模川と多摩川が造った合成扇状地の名残なのだ。こんなことを考えながら、浅間山から家までの時間を過ごす。
浅間山から富士山を望む人には、富士山の手前にある大室山をはじめとする丹沢山塊の山並みにも目を向けていただきたい。この山(浅間山)の故郷は丹沢にあるのだから。もっとも、御殿峠礫層の上にあるロームは富士山から飛んできたものだから、富士も故郷には違いない。
私は小学5年生の時に「カント」に魅せられた
子供の時は京王線も遊び場のひとつだった。写真は府中駅南口から今は亡き伊勢丹府中店方向に伸びるペデストリアンデッキから新宿方向を眺めたものだ。左側が府中駅のコンコース、右側が複合商業施設『くるる』で、その向こうにタワーマンションがある。私は、その『くるる』とマンションの間辺りで生まれた。もちろん当時、そんな建物はひとつもなく、京王線のすぐ南側にあった空き地の一角の「小屋」で生まれたのだが。3歳のときに京王線のすぐ北側の小さな家に越したのだが、生まれた「小屋」の記憶は微かにある。北側に移ったとはいえ、家の近くの踏切を渡ればすぐ生家に着くし、悪ガキ仲間の多くは南側にいたので、現在『くるる』がある場所辺りが私の最初の縄張りだった。京王線の線路内にもすぐに入れたので、釘を拾うと線路の上に乗せ、電車に轢かせてはそれを遊び道具に用いた。平らになった釘を曲げ、それを竹の棒の先に付け、それで近所の家の木に生っていた柿や栗などを盗むのである。
家の前のすぐに京王線が走るところに住んでいたので、電車が発生する音にはすっかり慣れ、静かな場所では眠れないほど、京王線は身近な存在だった。電車を見るのは大好きだったが、乗ることはあまりなかった。切符を買うお金がなかったからだ。それが、小学5年生のときに事情が一変した。近所に住むH君と同級になったからだ。彼が近くに住んでいることは知っていた。しかし、違う生活圏に居たため一緒に遊ぶことはなかった。それが同じ組になり話す機会ができた。彼は京王電鉄(旧京王帝都電鉄)の社宅にいた。ときおり彼の自宅にお呼ばれした。社宅とはいえ一軒家だった。彼の家の裏に京王バスの事務所があり、駅に近いこともあってか、電車の関係者も事務所に集まっていた。事務所の横には焼却施設(といってもドラム缶がいくつか並んでいるだけ)があり、そこで回収した切符などを燃やしていた。が、なぜか未使用のバスの回数券や電車の切符も捨てられており、中には燃えずにそのまま残っているものも数多くあった。H君はその存在を私や私の悪ガキ仲間に教えてくれたのである。
私は使用可能な回数券や切符を拾い集め、それを使って京王線や京王バスに乗ることにした。バスには弱いので友達と一緒のときだけ乗った。電車は大好きなので一人でも乗った。東京(区内に行くときは東京に行くというのが多摩の田舎者のしきたりだった)方面は自分には眩しすぎると思ったので、せいぜい調布までが限界だった。一方、八王子にはよく行った。京王八王子駅の終点に着くという到達感が得られるのが楽しみだった。というより、電車が止まらないのではないのかという不安感も起こりドキドキもした。終点の先に線路はなかった。「線路は続くよ、どこまでも」などという歌があったが、私は続かない線路があることをここで実体験した。歌と現実の世界は根本的に違うのだということを了解した。こうして子供は大人の世界に触れていくのだ。
一番よく出かけたのは「中河原駅」までだった。駅に近くには「矢部養魚場」があって、数多くあるイケスの中には色とりどりの鯉が泳いでいたからである。彼・彼女らが泳ぐ様子を見ているだけで楽しかったのだ。
が、中河原行きには鯉見学以上の楽しみがあった。分倍河原から中河原に向かうとき、線路はまず府中崖線を下っていく。それだけでも楽しいのだが、その先に大きな曲線路がある。そこで方向を70~80度変えるのだが曲率があまり大きくないため、電車はスピードをさほど落とさずカーブを疾走するのだ。電車はかなりの速さ(実際には時速80キロ程度だったが)で曲がるため、内側に傾きながらぐんぐん進む。この迫力に接するため、府中・中河原間を2、3往復することもあった。もちろん運転席のすぐ後ろに立って、前方を眺めながら直線路から曲線路に突入するときの傾きを体感した。運転手によって突入の仕方が違うことも知った。やや遅めにカーブに入り少しずつスピードを上げて抜けていく教科書タイプ、反対にスピードをむしろ上げながら突入し、上げ過ぎてブレーキを使用してしまうあわて者もいた。速度計も注視した。大半は75から78キロなのだが、なかには85キロでカーブに突入してしまう乱暴者もいた。速すぎるときは体が外側に投げ出されるような感じがあった。この遠心力を体感するのも楽しみのひとつだった。
私はH君にこの体験を熱く語った。小学5年生にもかかわらず塾に通っている勉強好きの彼は、電車が遠心力に負けないようにするため、曲線路では内側のレールと外側のレールとでは高さが異なり(これは事実として知っていた)、この高低差のことを「カント(cant)」というのだと教えてくれた。彼の父親は京王電鉄に勤めているので、その受け売りだったと思うのだが、それをわざわざ親に聞いたというのは、彼も私同様にカント主義者だったのかもしれない。
自転車やバイクでカーブを曲がるときは体と自転車やバイクを内側に傾ける。自動車ではハンドルとアクセルワークで曲線を曲がる。自動車のテストコースやインディ500のような周回路コースでは曲線路でも高速で走れるようにバンク(横断勾配)が設けられている。そして線路にはカントがある。ただしカントにも限界があり、2005年、JR福知山線が尼崎で脱線事故を起こし多数の死傷者を出したのは、電車が想定スピードをはるかに超えて曲線路に突入したためである。運転手は乗客の命を守るという基本を忘れ、「時間」にとらわれてしまったのである。
人は時間と空間という直観形式の中で生きているが、直観だけでは盲目であり、概念が人に内実を与える。運転手は「直観なき概念は空疎であり、概念なき直観は盲目である」というカント(Kant)の言葉を知るべきであったし、「理性の公共的使用」を心掛けるべきであった。人は「~できる」のではなく「~すべき」存在なのだ。
京王線は今日も私が大好きだった曲線路を疾走している。乗客はカント(cant)によって一定の安全性が確保されている。ただ、人には「悪への自由(根源悪)」があるため、絶対的安全性が担保されているわけではない。カント(Kant)はそう語っている。
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先日、三浦半島へ初釣りに行ってきました。釣果はともかく、景色はまずまずでした。何カットか写真を撮ったのでワンカットだけ掲載します。
本年はオリンピックという迷惑行事がありますが、それにめげず、良い年をお過ごしください。