徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔94〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(5)竹原の町並みから原爆ドーム。そして厳島神社へ

厳島神社の大鳥居を望む

竹原市の「たけはら町並み保存地区」へ

三原市エヒメアヤメの自生南限地区

 尾道市を離れ、この日の宿泊地である広島市に向かった。基本的には海岸線を走るつもりだったことから、途中には三原市竹原市呉市がある。このうち、呉市というより音戸の瀬戸と早瀬の瀬戸の見物は外せないが、それ以外の場所ははっきりとは決めていなかった。

 三原市の海岸線には「筆影山展望台」があって、しまなみ海道の島々を見渡せる良い場所があるのだが、いつまでもしまなみ海道にこだわっていると次になかなか進むことができないことから、三原市ではなく竹原市に向かうことにした。

 そうなると、海岸線を走るよりも少しだけ内陸にある県道75号線を利用した方が距離が短くなりそうなので、その道を使うことにした。

 その道の途中で「えひめあやめ開花中」の立て看板を何度も見掛けたのである。始めはそれほど興味が湧かなかったが、いくつもの看板に接すると、「訪ねてみても良いかも」と思い、案内板にしたがって車を進めることとなった。

アヤメの仲間ではもっとも小型

 エヒメアヤメの自生地は結構な山の中にあった。案外、寄り道が過ぎたと思ったものの来てしまった以上は仕方ないので、広場に車をとめて山道をとぼとぼと歩いて開花場所を訪ねた。

 エヒメアヤメは日本では岡山県から宮崎県、アジアでは朝鮮半島や中国に自生している。私が訪ねた場所が自生の南限域だそうなので、三原市ではこの花を大切に扱っている。

 小型種で、移動能力が低いことから、かつて日本が大陸と陸続きであったことを植物的に証明していると考えられているようだ。日本では愛媛県で最初に発見されたことから牧野富太郎が”雑草”とは呼ばずに「エヒメアヤメ」と命名した。

 あまり人が訪れるような場所ではなく、かつ、艶やかに斜面いっぱいに咲き誇るという花でもないことから、訪れたのは私ひとりだけで、案内係の人も暇そうにしていた。さらに花期も終盤に掛かっていることから、花の姿を見出すことに苦労した。

 それでも、人が立ち入れない場所の数か所では開花している株を見出すことができ、足元近くでは、やや枯れ始めた花を少しだけ見つけることができた。

 管理地への入場料は無料ではあったが、この地はボランティアの人々が管理をしているとのことだったので、若干ではあるが入場料に見合うぐらいの寄付をおこなった。

竹原は頼山陽の祖父や父の故郷

 エヒメアヤメの自生地にたどり着くために細い道をあちこちと進んだことから、次の目的地に定めた竹原市にある「たけはら町並み保存地区」へのルートが不明になってしまった。そのため、ナビを頼りに目的地に向かうことになった。

 保存地区の近くには「道の駅・たけはら」があって、保存地区の見学者もこの場所の駐車場を利用することを推奨していたことからそこに車をとめ、保存地区に向かうことにした。

 横断歩道を渡ったときに、一角に写真の銅像があることに気付いたことから、信号待ちの間にそれが誰の像であるかを確認した。

 『日本外史』をまとめ、尊王攘夷運動の理論的支柱になった頼山陽の像であることが分かった。頼山陽は大坂生まれだったような記憶があったが、その活動の場が大坂であって、生まれはこの竹原なのかも知れないと思った。何しろ、「山陽」の名なのだから。ただ、実際はやはり大坂生まれで、祖父や父親が竹原出身であるとのことだった。

 頼山陽の名を聞くと、まずは「鞭聲粛粛夜河を過る」で始まる『不識庵機山を撃つの図に題す』という川中島の戦いをテーマにした詩吟を思い出す。母が詩吟に凝っていて、90歳を過ぎてかなりボケが進行していたときも、この「鞭聲粛粛……」だけはしっかりと覚えていたからだ。

 さらに、幕末の志士で”安政の大獄”の際に橋本佐内とともに処刑された頼三樹三郎の存在も連想された。彼は山陽の三男だったからである。

 竹原市にとっては故郷が生んだ傑物であると直接に語ることはできないが、傑物を間接的に生み出した町であるということは確かなのだ。

町並みは綺麗に保存されている

 竹原は「安芸の小京都」とも呼ばれ、写真のように古い町並みが綺麗に保存されている。これは石畳みの本通りだけでなく、脇の道でもよく保存が行き届いていた。このことから、2000年には「都市景観100選」に選ばれている。

初代郵便局跡

 写真の建物は、初代郵便局に用いられたそうだ。

明治初期の郵便ポスト

 建物の前には当時使われていた「郵便ポスト」(書状集箱)が復元されている。前回、生口島瀬戸田町にあった黄色いポストを紹介した際に触れているように、郵便制度が始まったときのポストは写真のように黒色だったのである。

 なお、このポストは現役なので、この集箱にハガキや封書を投函すると他のポストに入れたときと同様に集配してくれるそうである。

塩田の浜主(笠井氏)の旧宅

 竹原は古くから瀬戸内海航路の重要な港として栄えた。沖にある大崎上島大三島など多くの島々が風除け波除けになってくれるため、さぞかし便利な港であったことだろう。さらに、江戸後期には製塩業や酒造業が栄えた。

 写真の住宅は製塩業を営んでいた笠井氏の旧宅で、現在は歴史的建造物として無料で一般公開されており、室内に立ち入ることもできる。

 写真から分かるように、竹原の住宅では格子窓の存在がよく目に付く。これは「竹原格子」と名付けられているほど、この町の建物を象徴する仕様なのだそうだ。

旧宅の内部見学も無料

 室内に入るのは面倒だったので、玄関口から中を覗くだけにした。写真からだけでも分かると思うが、飾り物が多く並べられており、いかにも金持ちの旧家といった風情であった。

◎早瀬の瀬戸と音戸の瀬戸を眺める

江田島倉橋島とを結ぶ早瀬大橋

 竹原市を後にした私は、国道185号線をひたすら西に進んで呉市を目指した。呉といっても「軍港」としての有様に触れたい訳ではなかった。確かに、呉は横須賀や佐世保舞鶴と並んで帝国海軍の重要な港であり、それぞれに「鎮守府」が置かれていた。が、「軍港」であれば横須賀港を飽きるぐらいに見ているので、そうした風景に接しようという気持ちはほとんどなかった。目的地はその先にあったので、どのみち、港の景色は嫌でも目に入るだろうから、それで十分だと思った。

 私が目指したのは「音戸の瀬戸」と「早瀬の瀬戸」に架かる橋の姿だった。とりわけ、後者は”早瀬”と名付けられているのだから急流を進む船とその上に架かる橋とのコンビネーションを楽しむつもりだったのである。

 場所からいって、早瀬の瀬戸の方が遠くにあるのだからまずは音戸の瀬戸が先に目に入ったのだが、その橋には格別な雰囲気は感じられなかったため、先を急ぎ、早瀬の瀬戸に向かうことにした。

早瀬の瀬戸は意外に潮は緩やか

 早瀬大橋は1973年に完成したトラス橋で、全長は624m、限界高度は36mが確保されている。航路幅も200m以上ある。

 橋の近くでバイクを脇に置いて橋の姿を眺めている人がいた。話を聞いてみると広島市街から来たとのこと。私は思ったよりも潮が早くないと率直すぎる感想を述べたところ、その事柄についてはとくに触れず、橋の西側に聳える陀峯山(標高438m)の中腹に「天狗岩」と名付けられた比較的広い岩場があり、そこからの景色は圧巻だと話してくれた。

 ただし、道幅がとても狭いので、バイクでは問題は無かったものの、車ではかなり苦労するとのこと。ただし、自分の場合は上り下りとも一度も車に出会わなかったので多分、大丈夫だろうと教えてくれた。

陀峯山中腹の展望所から天狗岩を眺める

 教えてもらった通りに国道487号線を北に進むと、「天狗岩」の方向を示す小さな看板があった。そこで丁字路を左折して「隠地林道」を陀峯山方向へ進んだ。始めは道の脇に人家があることから道幅はそれほど狭くはなかったが、家の姿が途絶えた場所からは相当の隘路となった。対向車があった場合はどちらかがすれ違い可能な場所まで移動する必要があるのだが、そんな場所は滅多に見当たらないのだ。とにかく、退避可能な場所を常にチェックしながらゆっくりと前進した。

 幸いなことに対向車とは出会わず、標高246mのところにある駐車スペースまでたどり着くことができた。

 写真は、標高240mのところにある展望所のひとつで、上部が平らになっている花崗岩の大岩の上から、天狗岩とそのずっと先に見える倉橋島の「釣士田(りょうしだ)港」方向を眺めたものだ。

天狗岩から早瀬大橋を望む

 道を少し下ると、天狗岩に至る杣道があった。しばらくは林の中を進むが、岩場に近づくと急に視界が開けた。岩場はかなり広く、南側に比高が5mばかりの岩山があった。その岩が狭義の天狗岩と思われた。その天辺近くまで行ったが、岩山の南側で岩場は急に途切れ、その先は崖になっている(ように思われた)ため、頂上に達することは断念した。

 花崗岩の岩場は広いが少し前下がりになっているので、こちらも先端部まで出るのは恐ろしい。もっとも、前方を遮るものはないので、それほど前進しなくとも景観は十分に堪能できた。

 たまたまバイク乗りの人に出会ったことでこの場所に至ることができた。こうした邂逅があり、それがまた予想だにしていなかった景観とのめぐり逢いが生まれる。そもそも、音戸の瀬戸を先に見学していたら、バイク乗りの人とは出会えなかった。だとすると、天狗岩の存在は知らないままで見物を終えていた。これだからこそ旅は止められないのだ。

 下から見た早瀬大橋は期待したほどではなかったが、天狗岩からの橋の眺めは期待値を遥かに凌駕していた。

倉橋島の入り江(釣士田港)方向を眺める

 これもまた、先ほど挙げた釣士田港方向を眺めたものだ。先は平らな大岩の上からの撮影だったので落ち着いて写すことができなかったが、この岩場からなら、恐ろしさは著しく低減されたために、いろいろな方角から海を眺めることができた。

 海には筏が多く並んでいるが、当然のごとくカキの養殖のためのものであろう。もちろん、手前の江田島の海岸線にもカキの養殖筏が並んでいる。

天狗岩直下の入り江を見下ろす

 写真は、江田島から突き出た「常ヶ石崎」と名付けられた半島である。

天狗岩には奇岩が多い

 その常ヶ石崎の右手(南西側)には長浜という砂浜が続いている。その砂浜の近くにも筏がたくさん並んでいる。

 一方、天狗岩周辺には、写真のような出っ張った岩が多くあった。狭義の天狗岩はこうした出っ張りの親分で、その周囲に小天狗がたくさん集結しているのである。花崗岩は浸食作用を比較的受けやすいために奇岩が多いのだと思われる。

呉市本土と倉橋島とを結ぶ二つの音戸大橋

 天狗岩からの景色を十分に堪能したので、林道を下って次なる目的地である音戸の瀬戸まで戻った。音戸大橋の東詰には「音戸の瀬戸公園」が整備されており、その場所からの眺めに期待をしたのだが、音戸の瀬戸の景観はともかく、橋の姿は魅力的なものではなかった。

 そこで、橋の景観を楽しめる場所を探すことにしたのだが、音戸大橋の場合は二つの橋が架かっているため、適当な撮影場所はなかなか見つからなかった。そんなこともあって、音戸町の中心街からなら新旧二つの橋が重なって見えるだろうと、図書館が入っている公共施設の駐車場に車を置き、撮影に適した場所を求めて海沿いを歩いた。

 手前が古いほうの橋で1961年に、向こう側が新しい第二大橋で2013年にそれぞれ完成した。

 二つの橋だけでは少し物足りないと思っていたところ、小型のフェリーの走る姿が目に入った。この船を画面に入れれば少しはアクセントになるだろうと、橋の下に入る直前のときを狙って撮影した。

 これで一応、呉を訪ねた目的が最低限ではあるが達成できたことから、宿泊地である広島市街へ向かった。

◎日本最大の路面電車に乗る

路面電車の姿にワクワク

 広島市には20回近く訪れているはずだが、すべて釣り目的だったので、他に立ち寄る場所といえば平和記念公園原爆ドームを含む)と平和大通り、それに今も残っているかは不明だが、お好み焼き店だけが入っているビルぐらいだった。それも、ほとんどの場合、いろいろな釣り名人と同行しているために釣り以外の時間は少なく、平和記念公園へは3度、お好み焼きビル?は3回だけだった。

 前者は自分の意志で、かつ一人で出掛けたが、後者は東京からの同行者がお好み焼き好きであったため、広島市街に3泊した際に毎晩出掛けたことから3回になった。その時以外は地元の釣り名人とは釣りが終わると別行動になることから、お好み焼きに興味がない私は一度も立ち寄ることはなかった。

 お好み焼きが決して不味いということではない。一口目は美味とすら感じられるが、何せソースの味が濃いことからどんな具を口にしてもどれも同じような味わいになってしまうことが最大の欠点だと思えた。

 「名物に旨いものなし」と言ってしまえば身も蓋もないが、伊勢の『赤福』と下仁田の『こんにゃく』は相当に美味しいと思っている。

 写真の路面電車には、東京の友人と新幹線で広島に取材に来た時に乗った。駅からホテルの近くまで利用したのだから都合、2回だけ乗車したことになる。したがって、今回の利用は生涯3,4回目(往復乗るので)となる。ただし、竹原から来島海峡まで訪ねた日は、ホテル到着が夕方になってしまったことから、乗車は翌日になった。 

姿かたちはいろいろ

 広島電鉄路面電車の総距離数は19キロあり、これは軌道線としては日本で一番長いそうだ。距離が長いだけでなく、車両のバリエーションがとても多いことでも知られている。

 宿泊したホテルの前の道路にも路面電車が走っていた。夕食はホテル近くにあった『すき家』で済ませ、私は路面電車の通過に夢中になっていた。一体、どれほどの車両を目にしたのか数えきれないほどだった。

 路面電車岡山市でも見物したり乗車したりしたが、広島市の電車の数は断然に多いことから、見物を終える切っ掛けがつかめないでいた。明日、乗車するというのに。

広島(宇品)港駅に出掛ける

 この日の訪問地は平和記念公園厳島神社がメインだった。ホテルで朝食バイキングを食したすぐ後にチェックアウトをし、車で広島港へ向かった。平和記念公園はホテルのすぐ近くにあり、車を駐車場に止めたまま出掛けることは可能だったが、それでは路面電車に乗る切っ掛けを逸することになることから、わざわざ終点の広島港に出掛け、近くのパーキングに車を置き、広島港駅発の電車に乗って平和記念公園に近い駅まで行き、そこから公園や原爆ドーム平和大通りを散策し、また電車に乗って広島港駅に戻るという計画だった。

 当然のことながら、広島港駅に到着したからと言ってすぐに電車に乗った訳ではなく、駅を発着する様々な形をした電車を30分ほど見学してしてからやっと電車の乗り込んだという次第だった。

前面展望を楽しむ

 広島港は宇品海岸にあるので「宇品港」の名を使われることが多い。1932年に宇品港から広島港に改称されているのだが、宇品地区にあるのだから位置関係も含めて港を呼ぶときには「宇品」の名がどうしても出てくるのだろう。実際、広島港を発着する軌道線は「広島電鉄宇品線」と名付けられている。私のように他所から来た者にとっては「広島港線」と呼んでもらったほうが分かりやすいのだが。

 それはともかくとして、私はいろいろな姿の車両が駅に到着したり発車したりする姿をしばし味わったあと、「宇品線」に乗って平和記念公園を目指すことにした。

 始発駅は乗客がほとんどいなかったことから、私は運転席のすぐ後ろに陣取って、前面展望の撮影の準備をした。

 最初の駅は「元宇品口」になるが、駅の手前には道路が通っており、信号は赤になっていることから電車は信号待ちをしなければならない。 

いろいろな姿の車両とすれ違う

 先にも触れたように、広島電鉄にはいろいろな電車が走っている。写真の車両は、以前は京都市電で用いられた1900形で、1978年に広電にトレードされた。

徐々に市街地に近づく

 その一方で、写真の車両のように2013年に導入された1000形の新しいものも結構、多く走っている。

被爆電車と出会う

 写真は、1945年8月6日当時に現役として走っていて実際に被爆した650形(652)の車両である。この650形は5両製作されたが、現在でも3両(651,652,653)が頑張って市内を走っている。

平和記念公園原爆ドーム

平和記念公園を歩く

 広電からは「中電前駅」で降車して、平和大通りから平和記念公園に向かった。結構な数の観光客が訪れており、その半数近くが外国人旅行客であった。死没者慰霊碑とその向こうに見える原爆ドームの姿は、ヒロシマを語る際に必ず用いられる構図である。

 広島平和記念公園は、1949年7月7日、憲法第95条に基づく住民投票によって92%の賛成で可決された「広島平和記念都市建設法」によって建設された。

 なお、この法律の制定は、憲法第95条に定められた住民投票が初めておこなわれたこととしても知られている。私が都立高校の教員であったときも、釣り師の傍ら大学受験予備校の講師であったときも、必ず取り上げたテーマでもあった。

原爆死没者慰霊碑

 私は観光客が少し途切れたときを見計らって、死没者慰霊碑の間に原爆ドームが入る姿を写真に収めた。

未だに論争がある碑文の文言

 写真の碑文の文言は常に論争の的になっている。「過ちは繰返しませぬから」の主語が曖昧模糊としているからだろう。原爆が投下されたのは日本の侵略に原因があったのか、初めて人類の頭上に原爆を投下した米国に原因があるのか、はたまた人類全体に責任があるのか不明だからである。

 核兵器を造ったことも、核発電所を造ったことも、それ自体は時代の要請と科学者の探求心の成せる業であろうが、それを「実用化」してしまうことは政治・経済の力である。それゆえ、現代社会においてはそれぞれの国民の責任と考えるほかはないだろう。

 慰霊碑は日本の法律において造られたものなので、責任主体は日本もしくは日本人であるのは当然のことと思われる。それゆえ、過ちを犯したのは日本であることは論を待たない。

 この碑文を「過ちは繰り返させない」として米国に責任があるように表記を変更するべきという意見もあるらしい。そうであるなら、慰霊碑は日本の責任においてワシントンかニューヨークに造り、米国が過ちを繰り返さないような警告文にしなければならないだろう。

 私としては、この碑文には主語が表記されていないゆえ、人類全体に対する警鐘であると同時に、人間一人ひとりへの覚悟を促すという意味だと解している。

原爆の子の像と無数の折り鶴

 広島平和都市慰霊碑の北側には、写真の「原爆の子」の像と、その下には無数の折り鶴を収納したケースが並べられている。

折り鶴は一千万羽以上が収められている

 折り鶴の数は年々増え、現在では一千万羽以上が収められているとのことだ。また同時に、折り紙によって平和へのメッセージが描かれている。

原爆ドーム前の人だかり

 元安川を挟んだその先には、原爆被害の象徴である原爆ドームが保存されている。写真から分かるとおり、ドームの前にはもっとも多くの見物人が集まっていた。私もまた、この群衆の中に溶け込もうとした。が、日本人の多くは、記念撮影時に「笑顔」と「Vサイン」を被写体に求めていた。

 別に悲痛な面持ちで写される必要はないが、笑顔とVサインはいささか行き過ぎではないかと思い、私はとても悲しい気持ちになってしまった。

 その光景に触れてしまうと、やはり、「過ちは繰り返しませぬから」の文言は日本人自身に向けられているのではないのか、と考えてしまった次第だった。

人影のない場所から撮影する

 こうした有様を目にするのは相当に不愉快だったので、私はドームの裏手に移動して、人の姿が画面に入らないような場所から撮影した。

平和の鐘のつく人

 写真の「平和の鐘」は記念公園内の北端近くにある。1964年に、「原爆被災者広島悲願結晶の会」が中心になり、「反核と高級の平和」を願って建設された。鐘は人間国宝の香取正彦がデザインし、表面には国境のない世界地図が浮き彫りにされている。

 周囲にはハスの池がある。被爆当時、人々はハスの葉で傷を覆い、火傷の痛みをしのいだという体験から、ハスの池が設置されたという。

原爆死没者慰霊碑を横から眺める

 平和大通りに戻る際、今一度、原爆被爆者慰霊碑を眺めてみた。今でも世界の至る所で紛争が起こっている。ウクライナでは核が使われるのではないかという危惧もある。

 紛争は善と悪との戦いではない。事実、ウクライナもロシアも双方が自国の行為を正当化している。「地獄への道は善意で敷き詰められている」ということわざを今こそ深く認識する必要がある。

G7広島サミットの準備中(当時)

 私が平和記念公園を訪れたのは、G7広島サミットの開催前だった。この公園はサミットの主要会場のひとつとなることもあり、準備に余念がない状態であった。

 サミット・先進国首脳会議は1975年に始まったが、当時は第一次オイルショックの後だったことから経済問題が中心であった。それがいつしか政治問題が主要になり、今回はゲストとしてウクライナのゼレンスキー大統領まで招待された。

 広島で開催されたこと、豊富なゲストが参加したことなど、広島出身の総理大臣としては「してやったり感」が満載だったが、その効果もごく短期間しか続かなかった。所詮、無能な人物がショーを開催しても、観衆の熱(しかも微熱)はすぐに冷めてしまうのである。

嵐の中の母子像

 広島平和記念資料館本館前に「祈りの泉」と名付けられた噴水があるが、写真の『嵐の中の母子像』はその池のさらに前(平和大通り側)にある。

 1959年に石膏像として彫刻家の本郷新が製作したものだが翌年、ブロンズ像に生まれ変わり現在に至っている。

 嵐は被爆した広島を象徴し、そんな中にあっても乳飲み子を抱き、幼子を背負って立ち上がり、前に進もうとする母親の姿として、これ以上考えられないほどの苦難の中にあっても、生きる意志を決して失わない姿を見事に表現した作品である。

 平和記念公園の入口のすぐ前にこの像が置かれている。この姿に私は、絵画だけでなく彫刻のもつ表現力に圧倒されてしまった。

平和大通り

 平和大通りは全長が約4キロあり、橋の部分をのぞくと100mの幅がある。これは戦後の復興計画の一環として1946年2月に「100m道路計画」が持ち上がったかからである。ただ元をただせば、45年に始まった米軍の空爆による類焼を防ぐために100m幅の防火帯を作ったことに淵源がある。実際、この防火帯を作るために住宅などを取り壊す作業が8月6日にも行われていて、動員されていた5千人以上の人が犠牲になっている。

 なお、道路の名称そのものは51年11月に「平和大通り」に決まり、全線が開通したのは65年5月である。

 100mの幅があると言っても、実際には側道、緑道が含まれているし、橋の部分は中心部を走る車道がメインとなっていることからすべて100mの幅がある訳ではない。また、緑道部分だけで約50%を占めている。これは、原爆で焼け果てた場所に樹木を植え緑を復活しようという「供木運動」の成果でもあった。

 また、平和記念公園の南側では先に挙げた「嵐の中の母子像」は平和大通りの緑道部分に設置されている。

広島市立高女原爆慰霊碑

 緑道の一角には原爆の犠牲になった「広島市立高女」の慰霊碑があった。写真のように、ここにも多くの折り鶴が置かれていた。こうした姿に触れると、科学の負の部分を明瞭に理解することができる。

 現在は「生成AI」の話題一色で、なかには2045年には人工知能が人間の頭脳を上回るなどという、いかにも頭が悪そうな意見すらあるし、実際、そう信じている人は案外、多い。

 これは人間をどうとらえるかに懸かっている。「クイズ王」を頭の良い人と考えるなら、コンピュータはとっくに人間を越えている。 

市電に乗って広島港に戻る

 平和記念公園原爆ドーム平和大通りを一通り訪ねたので、今回の広島市街見物を終えることにした。車は広島港近くに置いてあるので、再び、路面電車に乗車することが叶った。

たくさんのフェリー航路がある広島港

 広島港を広義で考えるなら湾内にあるコンテナターミナルなども当然の如くに含まれるだろうが、狭義で考えるなら、写真にある旅客船のターミナルが中心になる。実際、路面電車の広島港駅前には「広島港宇品旅客ターミナル」の大きな建物とその海側には江田島似島厳島(宮島)に渡るフェリーの波止場がある。

 私の次の目的地は厳島なのでここからでも出掛けられるが、この日の宿泊地は岩国市なので、車で廿日市まで行って、宮島口からフェリーに乗る方が時間もお金も少なくて済む。

 という訳で、私は広島港から広島南道路、国道2号線を使って廿日市市にある「宮島口」まで出掛けた。

厳島神社を初めて訪ねる

宮島口と厳島とを結ぶフェリー

 「安芸の宮島」と日本三景にあるぐらいなので、宮島の方が通りが良いが、正式には厳島と呼ぶ。ただし、厳島全体は廿日市市宮島町という住所名になっている。

 私はこの厳島には何度も渡っているが、厳島神社を訪れるのは今回が初めてだ。宮島口から厳島の桟橋までは1700mしかないので、宮島口から遠目に厳島神社の姿は何度も目にしたことはあるが、境内に足を踏み入れたことはない。

 というのは、今まで厳島には磯釣りのために廿日市市の隣の大竹市の漁港から渡船に乗って出掛けており、しかも、神社は北側にあり、磯釣りポイントは南側にある。直線距離では、神社と釣り場では8キロも離れているため、釣り場はとても神域ではなさそうだった。

 天橋立や松島には何度も出掛けている。今回は山陽の旅なので、最初で最後となるであろう厳島神社に足を踏み入れることにした。もっとも、私の場合は参拝はしないので、あくまで神社見物が目的である。

広島湾と言えばカキの養殖

 宮島口から宮島桟橋までは「松大汽船」と「JRフェリー」の2本が出ている。桟橋は隣同士で海に向かって左手が松大、右手がJRとなっている。私としてはどちらでも良かったのだが、松大は一直線に宮島に向かうのに対し、JRの方はやや右手に進み、大鳥居の前を通って桟橋に向かうようだった。

 沖から厳島神社の社殿や大鳥居の姿を撮影したかったことから、私はJRの方を選んだ。到着時間や料金には変わりがないようなので、航路から考えるとJRの方がお得なように思えた。

 桟橋を出発したフェリーからまず目にするのは、やはりカキの養殖筏だった。

厳島神社の大鳥居を望む

 JRフェリーのサービスにより、海上から大鳥居と社殿の姿を眺めることができた。この時間帯は干潮時であったことから、大鳥居は砂の上に全体の姿を現していた。乗船前には潮回りのことを気にはしていなかったが、できることなら干潮時に宮島に渡りたかったので、今回の宮島行きは大正解だったかも知れなかった。

 それにしても、乗客の半数以上は外国人旅行客が占めていた。平和記念公園厳島神社参詣は当然の如くにツアーのセットになっているのだろう。

千畳閣と五重塔を望む

 桟橋近くの高台には大きな建物と五重塔があった。大建築物は豊国神社の本殿で、室内は900畳近い広さがあることから、千畳閣とも千畳敷とも言われているそうだ。いかにも秀吉好みの建造物である。

石の鳥居

 桟橋から神社を目指して歩いてゆくと、通りにはホテルや旅館、それに食堂や売店などがたくさん並んでいる。海岸沿いよりも一本奥の道が参道になっており、そちらは一層、賑やかである。多くの店前ではカキを焼いており、その香りはいやでも鼻や心を大いに刺激する。私は焼いたカキの匂いにはさほど誘惑されないけれど、多くの外国人旅行客はその限りではないようで、大方、店の前で焼き上がるのを待っていたり、食べ歩いたりしている。一方の日本人は食べ慣れているのか私のように懐具合と相談する必要があってか、カキに誘引されているのは外国人が圧倒的に多いようだった。

 そんな香しさを醸しだしている通りも、写真にある石の鳥居を過ぎると次第に厳かなムードへと変わってゆく。ここからは神域だからだろうけれど、実際には食べ歩いている人も多いので、鳥居の内と外で一気にカキからカミの世界に変貌するという訳では決してないのが私には愉快であった。

 参拝者と参詣者、さらに私のような物見遊山の人間が一緒くたになって、神社の拝殿入口のほうへ進んでゆく。

干潮時なので大鳥居まで歩ける

 私は拝殿入口には至らず、その手前で砂浜に降りて大鳥居に向かった。私のような不信心者にとっては拝殿や本殿、祓殿のような場所は無縁なので、この日、この時のように干潮時はとてもありがたく、砂浜にすぐに降りられる。

 これが満潮時であったならば、鳥居もそして社殿も陸から見物するほかはない。その時は、仕方なく私も拝観料を払って社殿を見て回った可能性もなくはなかった。

祓殿と高舞台を眺める

 砂浜に降りても大鳥居には向かわず、まずは高舞台、祓殿、その背後に控えている本殿を眺めた。本社の建造物の大半は海の上にある。これは、かつては島全体が神域と考えられたことから、樹木を切ったり、土を掘ったりする行為は神を穢す行為と考えられていたからだそうだ。

 しかしこれは、島にはたまたま広い砂浜があったからのことであって、大半の神社は樹木を切り倒し、地面を更地にして社殿を建造している。

 厳島神社は593年にこの地方の有力者であった佐伯鞍職が市杵島姫命を祀って創建したとのこと。天照大神素戔嗚尊といった神に斎く(いつく)=仕える島ということから”いつくしま”と呼ばれるようになったとの説がある。

 神社が現在のような姿になったのは安芸守に就いた平清盛によるとのこと。1168年に建造したという記録があるそうだ。

大鳥居と廿日市市本土

 社殿を眺めたあと、私にとって一番の興味がある大鳥居に向かった。現在の鳥居は1875年に造られた第9代目で、初代は清盛の時代に建造されたそうである。社殿からは108間(196.4m)の位置にある。

 素材はクスノキで、一部にスギが用いられている。高さは16m。鳥居の上部に掲げられた扁額には「伊都岐島神社」とある。

 鳥居の向こうには島に向かってくるJRフェリー、そして宮島口のある廿日市市の町並みも見える。

大願寺山門

 神社の西隣に真言宗の寺院である大願寺がある。開基は不明だが、13世紀初頭に僧の了海が再興したという。かつては厳島神社を取り囲むように広い境内を有しており、厳島伽藍と呼ばれた数多くの堂宇が存在してたらしい。現在の境内は西側に限定されている。

大願寺本堂

 大願寺の本尊は厳島弁財天で、江ノ島の弁財天、琵琶湖の竹生島の弁財天とともに日本三大弁財天とも言われている。秘仏ではあるが毎年、6月の大祭のときには御開帳されるとのことだ。

 本堂には、空海が彫ったとされる薬師如来坐像行基が彫ったとされる釈迦如来坐像など国の重要文化財が安置されている。

 また、厳島は山容が特徴的で、これは花崗岩質の岩山のために風化が進行しやすいからである。ピークは弥山(みせん)で標高は535m。山頂付近には806年に空海が開いた弥山本堂のほか、修行の場であった求聞持堂や大日堂などがある。

 さらに山頂には奇岩が配置されているが、これは磐座(いわくら)という自然信仰の名残りと考えられている。

 なお、山頂付近にはロープウェイが通じており、山麓の紅葉谷駅(標高62m)から山頂の獅子岩駅(430m)まで行けるので、機会があれば厳島神社見物ではなく、弥山見物もしてみたいと少しは考えた。実現の可能性は低いだろうが。

海側から大鳥居を眺める

 大願寺を後にして、私は再び砂浜に降りた。今度は大鳥居のさらに沖側に出て、大鳥居と神社の本殿が画面に入る位置から撮影をおこなった。沖側の扁額には「嚴嶋神社」の文字があった。

 それにしても大勢の観光客が砂浜に降りて、自分の姿と大鳥居が入るようにスマホで自撮りしている姿がやけに目立った。

陸から社殿を眺める

 砂浜から上がって、社殿が比較的良く見渡せる場所から撮影をおこなった。こうしてみる限り、社殿内には参拝客はそれほど多くはいないようだった。半数以上の人々は参拝でも参詣でもなく、ただの見物目的で島を訪れたのだろう。それはそれで健全な営為と言える。

潮干狩りを楽しむ人々

 大鳥居の近くではないけれど、砂浜には潮干狩りをするグループがいくつかあった。禁止区域の設定はあるようだが、それ以外の場所では無料で貝を採集することができるようだ。

 かく言う私だって、島の南側へ出掛けて何度も磯釣りを楽しんだ。ただし、観光客からは見られることのない場所で竿を出したのだったが。