徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔87〕よれよれ西国旅(7)山中の寺から鳴門スカイライン、そして最後は鮎喰川

 太龍寺~二十一番札所・またまたロープウェイに乗る

西日本最長のロープウェイに乗る

 太龍寺高野山奥の院と建物の配置がよく似ていることから「西の高野」と呼ばれているそうだ。本堂は標高500mのところにあり麓との比高は450mほどあるため「遍路転がし」のひとつと言われている。「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」という言葉があるように、阿波国では三番目に厳しい道程となる。

 現在はロープウェイが運行されているので私のような怠け者でも十分に見物に出掛けることができる。

 ロープウェイの長さは2775mで、これは西日本では最長だとのことだ。また、川を越え、尾根を越えて進んでいくというかなり珍しい造りになっている。

遍路転がしも楽々クリアー

 写真のように、かなり大きな乗り物で定員は101人。なかなか乗りごたえのある箱なのだが、床の一部がグレーチング(鋼材を格子状にしたもの)になっているので真下を見下ろすこともできる~恐ろしい。

ニホンオオカミの像が見える。立入禁止のはずだけれど……

 途中で、20世紀初頭に絶滅したと言われるニホンオオカミのブロンズ像が並んでいる岩山が見えた。ここは立ち入り禁止の措置が取られているそうだが、女性が上っていてこちらに手を振っていた。

ロープウェイ駅近くの階段

 道の駅・鷲の里にある山麓駅の標高は53m、山頂駅は475mのところにある。写真の階段を上がっていくと、いきなり本堂に出会う。

 本来の遍路道に仁王門があるのだが、道と駅とはほぼ反対の位置にあるためこのようになるのは致し方ないことだ。これは、本ブログの第82回で紹介した「八栗寺」でもほぼ同様の経験をしている。

本堂が見えてきた

 空海は19歳の頃、現在、「南舎心ヶ嶽」と呼ばれている岩場で100日間の「虚空蔵求聞持法」を修行した。

 のちに桓武天皇の勅願により793年に阿波の国司が堂塔を建て、空海が本尊の虚空蔵菩薩を彫像して開創した。それにより、本寺は「舎心山常住院太龍寺」を号することとなった。太龍寺の名は、空海が修行中に龍神が守護したことに由来する。

 「天正の兵火」で伽藍の大半は焼失したが、江戸時代に復興され、本堂と1852年に再建された。

駅から一番近い場所にある本堂

 ロープウェイ駅から本堂までの階段は108段ある。もちろん、これは人間の煩悩の数に由来する。もっとも私の煩悩は無数にあるので、麓駅から階段を造ってもまだ足りないかもしれない。

多宝塔

 写真の多宝塔は本堂よりもやや高い標高508mのところにあるが、それ以外の建物は先に触れたように概ね、500m付近のところにある。

大師堂

 ロープウェイは1992年に営業を開始した。それまでは中腹まで車で上がれる細い道があり、駐車場から徒歩30分(距離は1キロほどだが相当な急坂)で境内に到達できたそうだ。が、現在の私だったら絶対に無理であり、30数年前でも断念していたかも。そう、私がこの寺を最初に訪れたのは、ロープウェイが開通したという「吉報」を入手してからのことだったのだ。

 こうして、立派な大師堂を目の当たりにしても、拝むことも祈ることもせず、ただただ写真を撮るばかりの私には、30分の急坂登りは(下りもだが)、八十八か所を制覇してみようという軽い思いよりも、遥かに重く厳しい壁だったはずである。

鮎の友釣りでよく知られる那賀川

 ロープウェイの麓駅は那賀川のすぐほとりにある。川はこの辺りでは激しく蛇行しており、その変化に富んだ川筋は、鮎の友釣りには格好のポイントが数多くあるように思われた。

 そんな川の姿を目の当たりにすると、ロープウェイを何のために利用したのか、すっかり忘れてしまっていた。

鶴林寺~通称「お鶴さん」・二十番札所

山門

 太龍寺から鶴林寺までは直線距離にして3.8キロ。ただし、一旦、その間にある勝浦川の河原まで降りなければならない。その河原の標高は19m。そして標高486mのところに位置する鶴林寺境内まで上がる必要があるため、実際には6.7キロの道程になる。

 もっとも、これは逆打ちを想定してのことで、歩き遍路の大半の人は順打ちで回ることを考慮すると、十九番札所の立江寺からの道程を考えなければならない。

 立江寺については後に触れるが、小松島市の低地にあるこの寺の標高は何と2m以下だ。そして鶴林寺の標高は486mなので、比高は484mで、かつ歩く距離は13.1キロとなる。この点が、「二にお鶴、三に太龍」と言われる所以である。

 ただし、鶴林寺から太龍寺までの距離は6.7キロとはいえ、486mから19mまで下り、そして比高481m(標高500mなので)を上ることを考えると、太龍寺までのほうが厳しいように思われるのだが。

 これはあくまでも歩き遍路など考えただけで疲れてしまう、ただの怠け者の想像に過ぎず、長年、「お鶴」の方が遍路転がしの上位にあると言い伝えられてきたのだから、実践者の感覚の方が正しいのだろう。 

本堂

 前回、平等寺を紹介した際に「歩き遍路」に取りつかれた若者(現在はすっかりオジサンになっているだろうが)の話をしたが、彼がもっとも気に入っている霊場がこの鶴林寺とのことだった。彼も、また多くのお遍路さんも、この寺を「お鶴さん」と、愛情と思い入れを込めてそう呼んでいる。

 車でも最後はかなりの急坂で、しかも車がすれ違うのが困難なほどの隘路だが、歩き遍路の場合では最後の一時間が相当に厳しいらしく、それだけに二羽の鶴に出会ったときの喜びと達成感は、他では絶対に経験することができないそうである。

 ちなみに、太龍寺の境内からは鶴林寺の三重塔が見えるそうだ。あいにく、この日は空気がやや霞んでいたために視認できなかった。二十一番に出掛けても、二十番での体験がまだ心から離れ切らないため、多くの人が鶴林寺のある山の方に目を向けるとのことである。

 信仰心のない私が思うに、それも煩悩のひとつなのではないだろうか。 

本堂と三重塔

 鶴林寺は798年、桓武天皇の勅願により、空海が本尊である地蔵菩薩を彫像して開基した。

 言い伝えによれば、空海がこの地で修行をしたとき、2羽の白鶴が翼を広げて小さな黄金の地蔵を守護しているのを見た。そこで空海は霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩を彫り、その胎内に鶴が守っていた黄金の地蔵を納めたとのこと。

 なお、ここは「霊鷲山宝珠院鶴林寺」と号しているが、この霊鷲山(りょうじゅさん)とは釈迦が説法をおこなった霊鷲山に、鶴林寺のある山の姿がよく似ているからとのことらしい。  

名は体を表す

 本堂の左右には二羽の鶴が居て、中に納められている本尊を守護している。左手の鶴は羽を閉じ、右手の鶴は羽を広げている。他の霊場では見られない光景であり、このことも”お鶴さんファン”が多い理由なのかもしれない。

 なお、境内を見て歩くと、いたる場所に鶴が鎮座している。例えば、仁王門にも運慶作と伝えられる金剛力士像と並んで鶴が睨みをきかせている。

ここにも鶴が!

 本堂の彫刻にも、写真のように羽を広げている鶴の姿がある。

大師堂兼納経所

大師堂の左手には「桓武天皇勅願寺」の札が掲げられているが、ここが大師堂だ。ただし、案内の「小坊主」は「納経所」という札を手にしている。一部が納経所に利用されているからである。

焼山寺~十二番札所・”遍路転がし”と言えばこの寺!

ここまでくれば道は平坦

 歩き遍路にとって最初にして最大の難所が十二番札所の「焼山寺」(しょうさんじ)で ある。このことについてはすでに本ブログの第81回で触れている。始めの方に最大の難所があるというのは決して悪いことではない。半分以上すぎてから挫折するよりは、スタートして3日目に壁に突き当たって断念する方が後々まで引きずるものが少なくて済むように思える。

 月に向かって突き進んでいたロケットが、今一歩のところで月面着陸に失敗するより、打ち上げたロケットが二段目に着火せず、哀れにも数分で「打ち上げ失敗です」となった方が、がっかり度は小さくて済むだろう。「STAP細胞はあります!」と呑気に語った小保方元博士のように。

 もっとも、普通の科学者や技術者はそうは考えないだろうが、人生は良き結果が出る可能性は極めて少なく、さらに言えば、良きことと思ったことが後で間違いであったと思うことが往々にしてある。人生はしょせん、「無常無我」なのだから。

 という訳で、私は歩き遍路など初めから想定せず、車で「焼山寺」に向かった。途中からは相当の隘路が続くので、足腰の疲れはほとんどないが、その代わりに神経は結構、消耗する。ガードレールがない場所が多くあるため、気が緩むと、哀れ崖下に転落などという事態にならないとも限らないのだ。

参道沿いにも見所あり

 駐車場は標高676m地点にある。そこから境内までは、極めて緩い上り道が500mほど続いている。歩き遍路の人のための「焼山寺みち」も駐車場近くに出るので、この参道を歩くのは、歩き、自転車、バイク、自動車で来た人、いずれも皆、一緒になる。ただし、歩き遍路の人たちには彼ら彼女らが有する共通の連帯感があるように思われる。

石垣の間の不動様

 この500mの参道の脇には十数もの石仏が置かれている。これらを見ながら進んでいくと、今度はどんな像に会えるのかな?という淡い期待感を抱くようになってくる。車遍路の人は単に興味を抱くだけだろうが、歩き遍路の人には心身の疲れを癒してくれる効果があるのかも知れない。

寄進された弥勒菩薩

 写真の弥勒菩薩像のようにかなり最近に寄進されたと思われるものもある。

崖上にも像がある

 写真の「摩崖仏」もかなり新しめである。

参道にはこんな像も

 仏像だけでなく、動物の像もいくつかあった。この可愛らしい?お猿さんは、いくばくかの寄進を受けていた。 

山門が見えてきた

 このように、参道を進んでいくと、右手に階段が現れ、その先に山門がある。階段は70段ほどなので、私のような怠け者にもさほど苦にならない。

歩き遍路の皆様、お疲れ様

 かなりくたびれた山門(仁王門)には金剛力士像が安置されている。が、これも山門同様、やや色あせたものであった。

意外に広い境内

 山門をくぐると、また30数段の階段があり、その上にいろいろな堂宇がほぼ横一列に並んでいる。

 また、境内には樹齢が500年を超えた大きな杉がかなりの数(100本以上とも)、立ち並んでいるのが特徴的だ。

本堂

 この寺の「正式名称」は「摩蘆(まろ)山正寿院焼山寺」という。開山は701~704年頃と言われ、役行者役小角)が蔵王権現を祀ったのが始まりとされている。

 開創は815年。空海が村人を苦しめる大蛇を退治するために山に入ったが、大蛇は全山に火を放って抵抗した。そこで空海は摩蘆(水輪のこと)の印を結びながら進むと、大蛇は岩に籠った。そこで空海虚空蔵菩薩に祈願し、大蛇を岩に封じ込めることに成功した。

 現在でも「大蛇封じ込めの岩」が「名所」として残っている。また、奥の院には「蔵王大権現」を祀った祠もあるとのこと。どちらも山の頂上付近にあるため、私はそこまで行ったことはない。

 本尊は虚空蔵菩薩坐像であるが、秘仏のために非公開となっており、その代わりに前立本尊を拝顔することができるそうだ。私の場合は拝まないのでその姿を見たことはない。

大師堂

 本堂の左側には大黒天堂があり、右側には写真の大師堂がある。ここでも前立大師像を拝顔することになっている。 

歩きの人も車の人も皆、読経

 この寺までたどり着くのは車ですら結構な距離があるため、物見遊山で訪れるのは私ぐらいのようだ。他の人々はたどり着く手段は異なっても、皆、般若心経を読経し、さらに納経帳に記帳してもらっている。

建物は横一列

 奥の院を別にすれば、堂宇は写真のように横一列に並んでいるため、参拝儀式そのものは手軽に済みそうだ。

 ここで出会ったオッサンは、わざわざ徳島市内でハイヤーを調達して大坂方面からやってきたと話をしてくれた。いかにも懐具合が暖かそうな中小企業の社長といった風体だった。彼は時間を見て二泊三日から三泊四日程度の予定で、霊場巡りを始めたそうだ。ハイヤーはいずれも徳島市の個人経営のもので、ハイヤー料金だけでなく、運転手の宿泊代も負担しているそうだ(考えてみればあたりまえだが)。

 実は、彼とは翌日、後述する恩山寺でも出会った。実は、焼山寺に納経帳を置き忘れたため、次の日の朝早くにハイヤーを飛ばしてこの寺に取りに戻り、それから大日寺常楽寺国分寺、観音寺、井戸寺と急ぎ足(神風ハイヤー)で巡り、私とは偶然に十八番の恩山寺で再会したという次第だった。

 もっとも、十三番から十七番までは意外に近い場所に点在しているため、こちらの方はそれほど多くの時間を必要としない。それよりも、あの隘路を続けて二日も走らなければならなかった運転手が可哀そうに思えた。実際、その社長?が参拝しているときにハイヤーの運ちゃんと立ち話をしたのだが、「本当に朝早くから大変でしたよ」と、やや呆れ顔で顛末を語ってくれた。

 斯くの如く、焼山寺は「遍路転がし」な存在なのである。

どちらに進むにせよ下り道です

 順打ちならば次は十三番の大日寺。写真の石標にあるように距離こそ22.7キロもあるが、標高は35mのところに存在するので、ただひたすら下ってくるだけである。

 逆打ちでは十一番の藤井寺だが、この寺についてはすでに触れている。

あの人の名は佐村河内守

 十一番の藤井寺から十二番の焼山寺へ車で行く場合、藤井寺がある吉野川市から直接、山越えして焼山寺へ行くことができないわけではない。が、道が相当に荒れているため、一般的には国道318号線を東に進んで石井町まで行き、それから南下して鮎喰川を越え、国道439号線に出る。この通称、ヨサクは日本の三ケタ国道ではもっとも人気が高い道だが、この辺りではただの田舎の国道にすぎないので、さほどの感動は覚えず、ただひたすら神山町を目指して西進する。それはともかくとして、焼山寺がある神山町に行くためには、佐那河内村を通過することになる。

 かつては、さほど不思議な村名とは思わなかったが、聴覚障害をもった作曲家が一躍、世間に知られることになってから、「どこかで聞いたことのある名前だな?」と、私はしばし考え込んでしまった。それが、写真の佐那河内村だと気づいたのは、何度目かの焼山寺巡りのときだった。

 以来、佐村河内守の名前が週刊誌やワイドショーを賑わす度に、私は焼山寺を思い起こすことになった。

 焼山寺は「遍路転がし」として知られ、佐村河内はゴーストライター騒動と聴覚障害が軽度であったことが判明したことで人気作曲家の座から転がり落ちてしまった。

 いずれにせよ、佐那河内村とはまったく関係のないことではあるが。ただ、村役場が新品のものに変身していたことに少々、驚かされた。 

立江寺~十九番札所

山門

 小松島市にある立江寺は747年、聖武天皇の勅願によって行基が開基した。光明皇后の安産の念持仏として行基は一寸八分の延命地蔵尊を作り、併せて伽藍を整備した。

 815年、空海は一寸八分の小さな像では紛失してしまう恐れがあるとして自ら6尺の大像を掘り、胎内に行基の造った像を収めた。

本堂

 かなり由緒のある寺にもかかわらず、敷地はさほど広くない。これは16世紀後半の「天正の兵火」で伽藍が焼け落ちたため、今の場所に再建されたからだと言われている。かつてはもう少し山側に近い場所にあったそうだが、現在は標高がわずか2m以下の低地に再建されている。

大師堂

 大師堂には「黒衣大師像」が収められているが毎年、元日から10日までの間は開帳されるので、その姿を拝顔することができるとのことだ。

 当初はこの寺を訪れるつもりはなかったのだが、下に挙げる恩山寺と間違ってたどり着いてしまったため、折角の御縁ということで見物したという次第だった。

恩山寺~十八番札所

駐車場のすぐ横に建つ修行大師像

 この恩山寺が、今回の霊場巡りの掉尾を飾る予定だった。が、実際には下に触れる常楽寺が最後になったであるが。

 この寺と上に挙げた立江寺とはわずか4キロしか離れていない。にもかかわらず、立江寺は周りが開けた低地にあり、一方の恩山寺は山裾の風致地区に存在するため、全体の雰囲気はまったく異なる。この理由はすでに触れているように、立江寺が山裾から低地に移動したからである。

 写真のかなり大きな修行大師像は駐車スペースの脇に建っている。この地の標高は48mである。

境内へ上がる階段

 駐車場からは結構急な道があり、さらに写真にある階段を上ると堂宇が並ぶ場所にたどり着く。

 恩山寺の正式名称は「母養山宝樹院恩山寺」という。聖武天皇の勅願により行基薬師如来像を彫像して開基した当初はまったく異なる名称で呼ばれていた。

 814年、空海がここで修行していたおり、母(玉依御前)が善通寺からこの地にやってきた。しかし、ここは女人禁制の地であったために面会は叶わなかった。そこで空海は山門近くにある滝に打たれながら女人解禁の祈願を行い(7日という説と17日という説がある)それを成就したことによって、母を迎い入れることが叶った。

大師の御母公(玉依御前)ゆかりの地

 母の玉依御前はここで出家して剃髪し、その髪を奉納した。それにより、この寺は玉依御前剃髪所とも呼ばれている。写真の石柱に「弘法大師御母公玉依御前ゆかりのお寺」と刻んであるのは、こうした事情があったからだそうだ。

 そればかりか、空海山号を改め、「母養山」としたのであった。 

大師堂と御母公堂が並んでいる

 境内には大師堂と御母公剃髪所が並んで建っている。この場所の標高は67mだ。

大師堂

 本堂はさらに7m上の標高74mのところにある。この寺では本堂よりも空海の母想いが強く印象付けられたため、敬意を表して大師堂のアップを載せてみた。

 もちろん、空海の思いは母に向かっただけでなく、「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」ということにあったことは言うまでもない。

 一通り見物が終わったので駐車場に戻ったところ、先に挙げたハイヤーの運ちゃんと出会ったのだった。そして社長が納経帳を焼山寺に忘れたために朝早く、またあの狭い道を往復したという話を聞いたのだった。ついでに世間話を少しばかりしていたところ、お参りと記帳を終えた社長が山から下りてきた。

 奇遇としか言いようがない。社長が納経帳を忘れなければ、私が間違って立江寺に行かなければ、そのどちらかが発生していなければ、二人は再開することはなかった。

 人生は偶然に満ち満ちている。どんな出会いが生まれるかはまったく予想がつかないし、起こった結果をもはや消し去ることはできない。こんな出来事は、どんなにAIが進歩しようとも、チャットGPTが学習を重ねようと、生み出すことはできない。99.9パーセント可能性を予測できたとしても、偶然の出会いがあったというその事実は100%であり、かつ一回限りなのだから。

◎小鳴門海峡と鳴門スカイライン

泊漁港の赤灯台

 四国最後の日はよく晴れ渡ってくれたので、当初は淡路島の次に行く予定だった「鳴門スカイライン」と「小鳴門海峡」に出掛けることができた。大雨のお陰によって「大塚国際美術館」に立ち寄ることになり、「エデンの園」という作品に奇跡的に出会うことができた。そして、晴れてくれたことで、高台からの展望やもうひとつの海峡見物が実現できた。

 その意味で、大雨も晴天も、今回の私の旅にとっては「良い天気」だった。物事の良し悪しは後になってからでしか判断できない。つまり、私たちはすべて過去について評価を下しているのである。それは現在についても同じで、たった今がどうであるかは、今が過ぎたときに「どうであったか」の評定がなされるのである。

 という訳で、私はまず、小鳴門海峡の北の出入口に向かった。四国本体の北東端にあるのが写真の北泊漁港で、向かいに見えるのは島田島の西端である。

鳴門海峡の北玄関

 北泊集落と向かいの島田島との間は、もっとも狭い場所では100mほどしかない。ここに鳴門海峡の枝流が流れ込んで(流れ出て)行くために、潮流の速さは「鳴門の渦潮」にひけをとらないのだ。

 写真から分かるとおり、潮の流れはしっかりと「小鳴門の渦潮」を形成している。

小鳴門新橋上から北泊集落を望む

 今度は鳴門スカイラインの「小鳴門新橋」(四国本体と島田島とを結ぶ)から北方向を眺めてみた。左手に見えるのが北泊集落。島田島との間には、はっきりとした潮流が入り込んできている様子が見て取れる。

鳴門海峡の渦潮

 今度は橋の南側を俯瞰した。この橋が架けられている場所が小鳴門海峡では一番狭い場所なので、狭い場所からやや開けた場所に激流が走っていることが見て取れる。

渦がはっきりくっきり

 ときには、写真のように「小鳴門の渦潮」が海底から湧き出ていると思えるほどの勢いで大きな泡が形成される。こんな自然の偉大な営みに触れたいがために、私は小鳴門海峡見物によく出掛けて来たものだった。

展望台

 写真は、新橋の西詰付近から南東方向を眺めたものだ。ここで小鳴門海峡は一旦、湖のように大きな広がりをもち、潮の流れも緩くなる。海上に浮かんでいるのは釣り用の筏(いかだ)で、この上に乗って(船で渡してもらう。もちろん有料)、大型のクロダイ(この地方ではチヌと呼ぶ)を狙うのだ。

 この湖状の広がりは、四国本土と島田島、大毛島との間にある。一時、安らいだ潮の流れは、やがて大毛島と四国本土との間を通って、紀伊水道(もしくは瀬戸内海)に抜けて行く。

 つまり、大鳴門橋は淡路島と四国本土を結んでいる訳ではなく、淡路島と大毛島とをつないでいるのだ。

 ちなみに、大塚国際美術館は大毛島にある。もっとも住所は鳴門市鳴門町ではあるが。

◎亀浦観光港~観潮船の発着所

格好の釣り場

 鳴門スカイラインの堀越橋を渡り、島田島から大毛島に移動した。そのまま東に進めば第80回で紹介した「渦の道・展望室」のある岬に出るし、三叉路の先にある丁字路を右折すれば大塚国際美術館前に出る。

 私は丁字路の手前にある三叉路を左折して写真の「亀浦観光港」に向かった。この港は、やはり第80回で紹介した「うずしお観潮船」の発着所になっている。もっとも港に向かったのは、私は観潮船そのものに興味があったからではなく、港の東側にある護岸の様子を見たかったからだ。

 この堤防では以前、徳島の磯釣り場を案内してくれた若者たちとよく釣りをした。地形上、潮通しが良く、しかも風の影響を受けにくい場所なので、いろいろな魚が顔を出し、とりわけ大きなクロダイやマダイが釣れることもあった。が、残念ながらこの日は小魚ばかりだったようで、釣果は芳しくなさそうだった。

 10数年前、若者たちとここで徳島最後の釣りをして、それから皆を「食べ放題店」に招待し、釣りの話で大いに盛り上がった。その後、彼、彼女らは、わざわざ一緒に鳴門ICの入口まで同行してきて、私を見送ってくれたのだった。

 そんなことが何年か続いたが、いつの間にか私にとって四国は遠い場所になり、若者たちとの音信も途絶えるようになった。

 こうして、久しぶりに港にやってくると、彼、彼女らの笑顔が浮かんでくる。皆、今では良きオッサン、オバサンになっていることだろう。いや絶対に。

鳴門の渦潮見物へ出発

 目の前を観潮船が海峡を目指して進んで行った。渦潮が見られるかどうかは潮周りと時間帯による。見られれば良い体験になるし、見られなければ、それはそれで良き土産話になるだろう。

常楽寺~十四番札所

山門への階段

 亀浦観光港が四国最後の見物場所になるはずだったが、まだ日が高い位置にあったので、もう一か所ぐらいはどこか訪ねられそうだった。そんなとき、頭に浮かんだのが十四番札所の「常楽寺」だった。八十八か所霊場に選ばれた割には小さなお寺だが、境内の佇まいが特徴的だったという点を思い出したのだ。

 第81回で十五番札所の国分寺を訪ねたときには常楽寺のことはすっかり忘れていた。直線距離にして600m程度しか離れていない場所にあるにもかかわらず。

 かつては山門の前に狭い駐車スペースがあっただけだったが、現在は境内の裏手に広めの駐車場が整備されていた。また、狭い駐車スペースの横には小さな売店があったが、その姿は消え去り、そうしたものが以前から存在していなかったかのように、周囲はすっかり整えられていた。

 ここが常楽寺境内に至る階段。写真から分かるように、階段付近は新しくなっており、山頭火の「人生即遍路」の言葉が刻まれた新品の石柱が目に入った。かつては、この階段の横の崖に小さな店があったのだ。

淋しい山門

 山門にたどり着いた。ここには仁王門のような構造物はなく、ただ石柱門があるばかり。この点は以前と同じだった。

境内は岩盤の上に存在

 境内は結晶片岩で成り立っている岩盤の上にある。この寺はかつては大伽藍を有していたが、16世紀後半の「天正の兵火」(長曾我部氏による)ですべて焼失し、その後に再建された。が、1818年に谷底にあった境内を現在に遷した。その際、約5000平米の敷地を確保するために結晶片岩からなる岩場を削ったそうだ。

 写真から分かるとおり、境内の大半の場所に結晶片岩が露出している。

階段も削って造られた

 よく見れば、階段自体が結晶片岩を削って造られている。

流水岩の庭

 こうした結晶片岩の模様から、境内は「流水岩の庭」と名付けられている。確かに、岩の模様は水が流れ下っているようにも見える。

本堂

 本堂もこざっぱりしている。私が訪れたとき、参拝者は皆無だった。

大師堂

 が、私が結晶片岩を様子を見て回っているうちに、車で訪れた一人の老人が大師堂の前で般若心経を読経していた。

団体さんがご到着

 すると間もなく、マイクロバスで乗り付けた団体さんが、導師に付き従うように本堂の前に集まり、般若心経の「合唱」が始まった。こうなると、流水岩の寺も、ただ普通の霊場風景と化してしまった。

 私のように足元に目を配る輩は居そうになかったため、この場を立ち去ることにした。

鮎喰川(あくいがわ)の河原を散策

橋げたには多くのゴミが絡みついていた

 常楽寺のすぐ南側には吉野川の支流である「鮎喰川」(あくいがわ)が流れている。名称の由来は不明だが、吉野川から数多くの鮎が遡上してくるので、けだし当然、鮎に関連する名称が付けられてもおかしくはない。

河原には不思議な模様の石がゴロゴロ

 一見、河原は何の変哲もない小石や砂利石が堆積しているだけと思われた。が、数人の若者が石拾いをしていたので、私も見習って石ころ探しを始めた。すると、面白いようにいろいろな模様をもった石を発見することができた。

この沈下橋が四国最後の観光場所

 本流だけでなく、支流の鮎喰川も「暴れ川」のようで、橋桁には多くのゴミが絡み付いていた。

 この橋も「沈下橋」の姿をしている。私は、この橋を渡って、県道202号線に出て、さらに国道439号線を東に進み、徳島県庁横にある定宿へと向かった。

 明日の朝は、徳島港からフェリーで和歌山に渡る。今度は紀伊半島の旅が始まるのだ。