徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔101〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(3)寺山修司記念館、尻屋崎、仏ヶ浦などなど

 下北半島の北東端に立つ尻屋崎灯台

八戸港にあった建物

 蕪島から次の目的地である「寺山修司記念館」に行くにはどうしても八戸港を通過しなければならない。この港は619haの敷地を持ち、東北では仙台塩釜港に次ぐ大きさである。広いことが特徴的な港だけにとくに立ち寄りたい場所はなかった。
 写真の建物は港湾施設の構内にある道路を走っていたときに目にしたもので、おそらくマルヨ水産の倉庫なのだろう。この道には倉庫らしき建物が数多く並んでいるので、それ自体は格別に特徴があるものではないのだが、壁に書かれた「かもめちくわ」の文字が気になったのだ。

 冷静になって考えれば「カモメ」を原材料としたちくわなどあるはずはないのだが、少し前に蕪島で無数のうみねこ(カモメ科カモメ属)を目の当たりにしたことから一瞬、あのうみねこが原料にされたのかと思ってしまったのだ。

 実際は、スケトウダラのすり身が100%使われているちくわで、DHCやハチミツが加えられて製造された「かもめちくわ」という商品の名前であった。考えてみれば、いや考えなくともカモメを原料とした食べ物などあろうはずがないのだが。それだけ、蕪島の光景が印象的だったのだ。

寺山修司記念館に立ち寄る

小川原湖畔に立つ記念館

 小川原湖下北半島の付け根付近にある汽水湖で、湖の大きさとしては日本で11番目である。もっとも、全国にある湖としては、その大きさに比して知名度はかなり低いだろうと思われる。ちなみに、私は上位25位までの湖はすべて訪ねているが、印象度はこの小川原湖がもっとも低い。実際、下北半島に出掛けるときは国道338号線か394号線を利用するが、そのどちらを使っても小川原湖がチラリと見えるのだけれど、わざわざ車を止めてまでその湖を眺めてみたいとはさして思わなかった。見物時間は数分程度が一二度あった程度。回数すら記憶にないほど印象は薄かった。

 小川原湖はワカサギ、シラウオヤマトシジミの水揚げ量が多いことで一部の人に知られているが、南側に自衛隊三沢基地や米軍基地があることがもっとも話題になる事柄かも知れない。自衛隊や米軍が事故を起こす際に、小川原湖の名が何度か登場したからである。今日では、米軍が排出する有機フッ素化合物(特にPFOSとPFOA)が話題になるかもしれない。

 今回、小川原湖畔を訪れる契機となったのは、湖畔に「寺山修司記念館」があることを知ったからである。記念館は1997年に開館しているので、私が寺山修司についてさほど関心を抱いていなかったことが、その存在を認知しなかった最大の理由だろう。

記念館の入口

 国道338号線を北上し、途中から県道170号線に移る。その道をさらに北に進むと、左手に「青森県立三沢航空科学館」がある。そのすぐ西側に三沢基地があることから、航空機好きの人々が集まることだろう。私の場合は特に関心はないのでそこは通り過ぎ、「三沢市民の森」に向かった。その敷地の一番北外れに記念館がある。

 平日の昼間だからか、場所が辺鄙だからか、寺山修司に対する人々の関心が年が経るにつれて薄くなっているからか、訪問者は私以外にはひとりだけしか居なかった。

舞台のセットその1

舞台のセットその2

 寺山修司が主宰した「天井桟敷」は唐十郎の「状況劇場」とともに60年代半ばから始まったアングラ演劇ブームをリードした。知人にはこうした流れに乗ってその世界に足を踏み入れた者もいたが、私はそもそも演劇というものにはまったく無関心だったため、アングラだろうが正統派だろうが、そちら方面に目が行くことはなかった。

 本ブログでは何度も記しているが、そもそも私は客席に落ち着いて座ることができない性分なので、集中して何かを見物するこということができず、いつも学校の友人と授業をさぼっては、あちこちを歩き回りながら馬鹿話に花を咲かせていたのであった。

 ただ、若松孝二の映画が好きな友人がひとりいたので、彼に誘われて映画館に入ったことがあったものの、相変わらず席に座り続けることができなかったことから、食い入るようにスクリーンを凝視していた友人を尻目に、館内をただうろつきまわるだけだった。少年時代には植木等主演の映画は何度も見たけれど。

 寺山修司の存在をはっきりと認知したのは、フォーク・クルセダースの『戦争は知らない』(1968年)からだった。これは前年に坂本スミ子が歌っていたのだが、多くの人に知られるようになったのはフォークルが歌ってからのことだろう。

 「野に咲く花の名前はしらない、だけども野に咲く花が好き」で始まるこの歌は「反戦歌」に位置付けられているが、そうした枠に閉じ込められない抒情的な詞に私は心を打たれ、そのときに初めて寺山の存在を意識したように思う。

私の知らない寺山の姿がたくさんあった

 寺山修司(1935~83年)は青森県弘前市紺屋町に生まれ、戦争中や戦後は現在の三沢市に住む。父は戦病死し、母は働くために福岡の米軍ベースキャンプに移ったため、彼は青森市の大叔父の家に引き取られた。

 中2のとき、友人の影響で俳句、詩、童話を創作するようになる。県立青森高校では1年生のときに全国学生俳句会議を結成した。

 1954年、早稲田大学教育学部に入った。そこで、私がもっとも高い評価をしている脚本家の山田太一と同窓になった。手紙魔と言われた寺山は、後で紹介するように山田とはよく手紙やはがきでやり取りをおこなっていた。

 学生時代に短歌作りに没入するようになり、『短歌研究』編集長である中井英夫から高い評価を得るようになった。

 57年からドラマの脚本を書き始め谷川俊太郎に認められたことから人脈が広がり、60年頃から浅利慶太篠田正浩の劇や映画の脚本を書くようになった。

ポスターの数々

 63年には『現代の青春論』と題して「家出のすすめ」をまとめた。64年にはNHKの放送詩劇『山姥』によりイタリア賞グランプリを受賞に注目を浴びた。そして67年に横尾忠則らと「天井桟敷」を結成した。

 先に触れたように、私が寺山修司に着目したのはフォークルの『戦争は知らない』の詞だったが、その後、67年に出版されていた『書を捨てよ、町へ出よう』を目にしたことで、ますます彼の存在が気になった。されど、演劇にまでは関心は至らなかった。

 それゆえ、写真に挙げたポスターの作品名は知っていたものの、実際に観賞したものはひとつもない。69年にカルメン・マキが歌った『時には母のない子のように』や六文銭の『さよならだけが人生ならば』の歌詞だけで彼の才能は十分に理解できた。

 70年代に入ると、私の関心は藤圭子と『男はつらいよ』に移り、また、車で各地を徘徊するか、ボーリングやパチンコに夢中になり、寺山の存在はほぼ完全に関心の外になってしまった。

寺山の詩

 今回、寺山の歌や詩に久し振りに触れてみて、改めて彼の才能の高さを再認識した。上にある詩は分かりやすさと奥深さが同居しており、誰もが作れそうに思える半面、いざ文章にしてみるとほとんどの場合、凡庸なものにしかならないと思える。

 詩だけでなく彼の評論の中にも、ドキリとさせられる文章がある。例えば、「死」について語っているものでも、以下のような思いつくようで意外に思いつくことのない言葉がある。

 「死者は、たとえば背広のポケットに入る位の大きさで充分だ。なぜなら、死者は最早、ただの〈ことば〉に過ぎないのだから。」

 「生が終わって死が始まるのではなく、生が終われば死も終わる。死は生につつまれていて、生と同時にしか実存しない。」

 「他者の死は、かならず思い出に変わる。思い出に変わらないのは、自分の死だけである。」

寺山と山田太一とのやり取り

 寺山は「手紙魔」であったらしい。手紙は「魂のキャッチボール」と考えていたようだ。私が記念館を訪れたときには、寺山没後40年の特別企画展として、寺山の送ったハガキや手紙が多く展示されていた。

 私がとくに印象に残ったのは、早稲田の同級生で後に脚本家として優れた作品を数多く残した「山田太一」とのハガキのやり取りであった。

 山田は数多くのテレビドラマの脚本を書いたが、とりわけ印象に残っているのは『岸辺のアルバム』『ふそろいの林檎たち』『男たちの旅路』で、同時代には倉本聰向田邦子がいたが、私にとっては山田が傑出した存在だと思えた。

 とくに『男旅の旅路』では、鶴田浩二や水谷豊を上手く使っており、今現在でも、ドラマとしては最高傑作だと思っている。

 寺山修司とは友人ではなく知り合い程度で十分だが、山田太一なら「お友達」になってみたいと思う。生きた時代が違うのだけれど。

散策路に並ぶ道標のひとつ

 記念館の裏手(小川原湖側)の森は散策路になっており、写真のような寺山の短歌を記した道標が15本あった。なかなか興味深い森で、寺山の歌に触れたり、小川原湖を望んだり、下の写真にある小田内沼を眺めたりできる。徒歩で20分程度の路だが、充実した時間を過ごすことができた。

散策路から小川原湖の内湖である小田内沼を望む

 池や沼を望むには、写真のところがもっとも良い場所であった。

寺山の顕彰文学碑

 小田内沼を望む場所の近くには、写真のような結構、大きめの文学碑があった。これには寺山の歌が三首、刻まれている。

 歌集『田園に死す』から谷川俊太郎が中心になって選んだ歌が刻まれているのだが、もっともよく知られているのが、三番目の歌だろう。

 「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」

 ちなみに、私が選者であったなら、以下の二つの歌を必ず選んだはずだ。

 「吸いさしの 煙草で北を 指すときの 北暗ければ 望郷ならず」

 「間引かれし ゆゑに一生 欠席する 学校地獄の おとうとの椅子」

◎六ケ所原燃PRセンターを訪ねる

PRセンターの標識

 寺山修司記念館を離れ、国道394号線に出て北上し、次の目的地の六ケ所村に向かった。「六ケ所村再処理工場」の建設現場を覗き見するためである。1993年に着工し97年に完成予定であったが、トラブル続きで現在に至っても完成せず、今のところ2024年の9月までに竣工することになっている。ただし、それまでに原子力規制委員会の審査が終わる見込みはなく、またまた延期されることはほぼ確実だろう。

 4年で完成するはずのものが、現実には30年以上かかっても完成の目途はたっていない。日本の原子力行政やその技術水準がいかに低レベルであるかを象徴している。この程度の技術力しか持ち合わせていない国が、福島原発から排出される汚染水を「処理水」と呼べと強くメディアに圧力をかけ、それを大半のメディアや国民が唯々諾々と従っているのだ。

 残念ながら建設現場の覗き見には失敗したが、その代わりに原燃のPRセンターが近くにあったことから、それを見学することにした。写真はその建物を示す看板で、「あぶにーる」は付設されたカフェの名のようだ。アブニールはフランス語で、日本語に直せば将来とか未来とかの意味になる。

 福島県双葉町には「原子力明るい未来のエネルギー」という標語が掲げられていた。3.11で判明したのは、原子力の未来は決して明るい未来はもたらさなかったということだ。それゆえ、このカフェの名も「あぶにーる」ではなく「危にーる」に変更したらいいのではないのか、と思った次第である。

PRセンターの外観

 PRセンターは1991年にオープンした。地下1階地上3階の建物で、黒川紀章氏の設計だとのこと。

 原子燃料リサイクルを推進する側のセンターだけに、どれだけ美辞麗句が並べられているのか楽しみにして見て回った。

再処理工程の図解説明

 写真の図解説明が「再処理工程」の基本図式である。図と解説文だけを見るととても分かりやすく、簡単に再処理ができそうである。

 簡潔に文章化すれば、再処理は以下の行程を経る。原子炉の炉心に挿入された燃料は3,4年燃やすと当初には3,4%含まれていたウラン235の濃度は1%にまで低下し、プルトニウム239が1%発生する。こうなるともはや燃料としては使用できず、ただの「死の灰」となる。

 この「死の灰」からウラン235とプルトニウム239を取り出して、これを新たな燃料にして使用するというのが核燃料サイクルなのである。

 しかし、この再処理はコストがかかり、より高度な安全保障施設が必要となり、さらに核セキュリティを確保しなければならないため、未だに日本原燃では実現できていないため、これをフランスやイギリスに委託しているのが現状である。

МOX燃料が造られる工程

 プルトニウム239は当初、高速増殖炉もんじゅ」で増やす予定でいたが、1兆円という途方もないお金を使った結果、失敗に終わって現在、その計画は休止中である。

 その代わりに、「死の灰」を処理してウラン235とプルトニウム239を取り出し、ウラン・プルトニウム混合酸化物にして軽水炉原発で利用しようと考えられたのが「MOX燃料」である。MOXとは「Mixed Oxide」の略語で、これにはプルトニウム239が4~9%含まれているので、原発の燃料として使えるのである。

 しかし、その技術も日本では実用化できていないため、主にフランスに依存している。つまり「死の灰」をフランスに送り、フランスでMOX燃料となり、残りの死の灰はガラス固化体にして、両者が一緒に日本に送られてくるのである。しかし、フランスでは再処理はコストが高く安全性にも問題があると考えられているので、いずれその作業はおこなわれなくなる可能性が極めて高い。

 現在、輸入しているMOX燃料は価格が非常に高く、通常のウラン燃料の約10倍もする。しかも、軽水炉発電所ではMOX燃料は10%しか利用できないことになっている。る。それゆえ、六ケ所村の再処理工場の完成が急がれているのだが、現実には完成の見通しはとても暗いのだ。 

再処理工場は極めて安全というPR

 この展示にも「安全神話」は遺憾なく発揮されており、再処理工場から発生する放射線量は約0.022ミリシーベルトで、公衆線量の上限である1ミリシーベルトを遥かに下回っているという「お触書」なのである。

 こうした安全神話は3.11を見るまでもなく、とっくに破綻しているはずなのに、今に至っても臆面もなくこうした表示を堂々と展示していることにある種の「哀れさ」を感じざるを得ない。

 もっとも再処理工場そのものが完成の目途が立っていない以上、こうした数値表示はまったく意味を有していないのだが。

 ともあれ、使用済み核燃料は現在、各地にある原子炉の敷地内のプールで保管しており、すでに容量の80%以上にも積み上がっている。それゆえ、「中間貯蔵施設」なるものの建設が急がれているのだが、ニュースでも山口県の上関町などが話題になっているが、いずれも不可思議な原発マネーを乱発することで、無理矢理に「過疎地」を候補に挙げているのである。

 しかし、そのマネーの原資は税金なのであって、国や原子力村のものではないということをきちんと認識しておかないと、全く信用できない現在の政権に任せることなど決してあってはならないことである。

下北半島北東端の尻屋崎周辺

青空によく映える尻屋埼灯台

 下北半島で唯一、訪ねていなかったのが尻屋崎であった。下北半島は斧や鉞(まさかり)の形になぞらえられるが、尻屋崎は斧でいえば「斧頭」に当たる。

 半島の北東端に位置するが、そこに至るまでにはさして魅力を感じるような場所がないように私には思えていたので、半島自体には10回以上訪れてはいたものの、尻屋崎まで足を運ぶことはなかった。その分、恐山には必ず立ち寄っているのだった。

灯台と記念碑

 岬の最先端には写真の「尻屋埼灯台」がある。津軽海峡に面した場所にあるので、どうしても龍飛岬からの連想で高い位置に存在すると考えてしまうのだが、実際には、灯台のある場所は標高16m地点に過ぎない。もっとも、下北半島最北端の大間崎は標高3m足らずの場所なので、下北半島北部の海岸線を走る道路(国道279号線)は全体的に低位置にあると考えて良い。

 また、地図で確認するとよく分かるのだが、岬は津軽海峡に、というより太平洋側にやや傾いて突き出ているため、岬の西側が津軽海峡、東側が太平洋と言ったほうが良いのかもしれない。

 津軽海峡には対馬暖流が流れ込んでおり、想像する以上に海水温は高い。一方、尻屋崎の東側には親潮が下ってきているため、海水温はかなり低い。それゆえ、岬周辺には霧が発生しやすく、「海の難所」と言われ、長い間、南回り航路は八戸が終点であった。

尻屋崎の東海岸

 尻屋埼灯台は1876(明治9)年に完成した。東北地方では第一番目に造られ、高さは32.8mある。灯台に上ることは可能なのだが、高所が苦手なので私は敬遠した。

 灯台の周囲、というより尻屋崎周辺は草原になっており、その地には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる農耕馬が放牧されている。藩政時代の南部馬を祖として明治時代に外来種との交配が進み、大型化して軍用馬にも用いられたことがあった。

 放牧地では人間を避ける訳ではないが、かといって人馴れしていることもないようなので、私が訪れたときには灯台がある場所からは相当に離れた場所にいたため、撮影をおこなうことができなかった。

 私は岬の西側から入ってきたので、帰りは東側、つまり太平洋側を通って尻屋崎を離れることにした。写真は、岬の太平洋岸の姿を写したもので、岸近くは浅い岩礁帯が続いていた。

尻屋漁港

 岬の先端から4.5キロほど南下したところに「尻屋漁港」があった。サケ、マイカ、コンブ、タコが主に水揚げされるもので、以前はアワビがよく獲れたそうだが近年は激減しているとのことだ。

 港を見ると釣り人の姿を探すのだが、わざわざ最果ての地?まで訪れる釣り人の姿はなかった。場荒れすることはまったくないので、こうした場所で竿を出してみるのも面白いかもしれない。次の旅では、釣り道具も持参しようと思った。といって、この場所を再訪することはないのだが。

石灰石の積出港

 尻屋漁港から岬を南下することはできないため、県道6号線に沿って進み、再び、津軽海峡側の海岸線に出た。

 津軽海峡側には尻屋岬港があり、ここは石灰石の積出港になっている。山側には相当な量の石灰岩があるらしく、工場設備はかなり大きなものだった。

 また、採掘した石灰石を船に運ぶために相当に長いベルトコンベアがあり、それは沖にある弁天島を中継点として、写真からも分かる通り、かなり沖合にまで伸びているのだった。この景色はなかなか見所があり、尻屋埼灯台周辺にいるときよりも長い時間をこの尻屋岬港で過ごしてしまった。

◎悲劇の斗南藩

悲哀に満ちた斗南藩の歴史

 この日の宿泊地はむつ市内のホテルで、そこに2泊して下北半島の名所を少しだけ時間を掛けて見物する予定だった。この日は尻屋崎訪問で予定を終えたので、県道6号線を南西方向に進んでむつ市内へ向かった。市街地に入る少し手前にあったのが、写真の「旧斗南藩墳墓の地」だ。

 斗南藩と言えば誰もが知っているように、戊辰戦争で敗北した会津藩が、維新政府から厳しい制裁を科され、火山灰層が積もり痩せた土地で、さらに冬にはマイナス20度まで下がるという土地に追われて立藩されたものである。保科家の会津藩の石高は23万石だったのに対し、斗南藩は名目上は3万石であるが、実際には7400石ほどの生産力しかない場所であった。

 そのため、会津藩の人々の中には、そのまま会津に残ったり、北海道に渡って新天地を求める人も多くいた。

 会津藩の家老職にあり、斗南藩でも中心的役割を担ったのが、のちに明治政府に招聘され、貴族院議員まで務めた山川浩(1845~98)である。彼は、斗南の地を以下のような歌にした。

 みちのくの 斗南いかにと 人問はば 神代のままの 国と答えよ

 斗南の貧しさは原始時代に比肩されると山川は嘆いたのである。実際、斗南の人は犬の死骸まで口にしていたのであった。

哀愁を誘う墳墓

 山川は後に谷干城に見いだされ、西南戦争では征討軍団参謀として活躍した。彼の活動の原動力になったのは「薩摩憎し」の一言であったようだ。

 彼は後に東京高等師範学校の校長、陸軍少将、貴族院議員を歴任した。ずば抜けた才能があったゆえに明治政府からは重用されたものの、こうした生き方ができたのはほんの少数であり、大半の人は飢えに苦しみ、多くの餓死者や人身売買の対象になったのであった。

 会津といえば白虎隊の「飯盛山の自刃」がよく知られているところだが、斗南藩の人々が強いられた大きな苦しみにも目を向けなければならない。会津の人が未だに長州人を認めない気持ちは心底から理解できる。

◎仏ヶ浦を散策する

やっと岩場が見えてきた

 翌日は下北半島の斧の歯にあたる場所にある「仏ヶ浦」に向かった。むつ市から大間崎を結んでいる国道338号線は、まず陸奥湾を南側に見ながら進む快適な道で、遠くに夏泊半島が望める。

 この国道は、斧の歯の最下部まで西進すると「脇野沢」に至り、今度は斧の歯に沿って大間崎を目指して北上する。北に向かう途上にここで紹介する「仏ヶ浦」がある。以前はこのルートを使って出掛けていたのだが、R338はまだ西進している途上にある「川内町」を過ぎると道が少し悪くなり、さらに北上を始めた際には上ったり下ったりを続けるワインディングロードとなる。それはそれで興味深いのだが、仏ヶ浦を目的地にするには少々、気力を使いすぎる傾向になるため、目的地を目指す道にはやや適さない。

 なお、脇野沢から北上を始めたR338は「海峡ライン」の別名が付けられているが、仏ヶ浦駐車場近辺までは海岸線には沿っておらず、山中をいやというほど曲がりくねりながら北に向かう。ただ、r253と合流する辺りから直線路が増えてきて、仏ヶ浦の先からは海峡ラインの名にふさわしく、海岸線に近い場所を進むことになり、その状態をほぼ維持しながら終点の大間町まで続く。

 川内町の中心部当たりから「かもしかライン」と名付けられた県道46号線(r46)が、斧の歯の中央部を北に突き抜けるよう整備されているので、3度目ぐらいからはR338をそのまま進まず、途中からr46に入り、さらに「かわうち湖」方面に進む県道253号線(r253)に移動して今度は西進する。するとこのr253は北上してきたR338に繋がるので、右折して国道に入り北に進み、やがて仏ヶ浦の崖上に整備された無料駐車場に到着する。

 ただ、この無料駐車場は標高113mの崖上にあり、初めこそ緩やかな下り坂なのだが、崖際に至ると九十九折りの階段が続くので、かなりの労力が必要となる。そのため、大半の観光客は、先に挙げた「脇野沢」の港、あるいは仏ヶ浦の先にある佐井村の港から発着する観光船を利用している。これらを使えば、海上から2キロ続く仏ヶ浦の雄大な景色が眺められるし、海岸には観光船が停泊できる堤防もあることから、楽して仏ヶ浦散策が楽しめる。

 もっとも、私は観光船は一度も利用したことがないので、海上からの眺めは体験していない。上の写真にあるように、急な階段のために膝をガクガクさせながら下り、やっと奇岩の姿が視界に入ってくるその刹那の感動を味わうために、船ではなく、陸路で海岸に進むのである。

 とはいえ、この道はクマが出ることも多いし、帰りの上りは大変だし、海上から眺めることも一度は体験したいような気がするので、来年には観光船を利用してみようかと思っている。実現するかどうかは、健康と体力と気力次第ではあるが。

脇野沢港や佐井港から発着する観光船だと楽に海岸に到着できる

 先に触れたように、観光船は脇野沢か佐井から発着している。やや距離のある前者は往復4370円、後者は往復2700円である。どちらの船も片道料金も設定されている。ただ、片道利用だと途方もない時間と体力を使って港まで帰る必要がある。2人以上で出掛ける場合は、誰かひとり(二人以上でも良い)が「犠牲」になって乗船は諦め、車で駐車場まで行く必要がある。

巨大な奇岩と出会う

 仏ヶ浦には大小さまざまな形の奇岩が多数存在する。これだけなら南伊豆の石廊崎の眺めとさして変わりがないと考えてしまうのだが、それとは決定的に異なるのは、後者が崖上からか遊覧船で海上から眺めることしかできない。しかし、この仏ヶ浦では、巨岩、奇岩の間を散策できるのである。前回に取り上げた宮古市浄土ヶ浜も奇岩が林立していたが、やはり基本は陸から眺めるという楽しみ方だった。その点で、仏ヶ浦の優位性は圧倒的なものであると考えられる。

自然の造形美

 国の名勝、天然記念物に指定されているこの地は、約400万年前(約2000年前や約1500万年前という説もある)の海底噴火によって発生した火山灰などが押し固められてできた緑色凝灰岩(グリーンタフ)から成り立っている。

 もっとも、地上に現われている部分は風雨にさらされているためか緑色に見える部分はほとんどなく、浅瀬に見える岩にその面影が残っている。浅場の海が淡いグリーンに見える場所は多いが、一部は藻の影響があるにしても、多くはグリーンタフによるものと思っても良いかもしれない。

 このグリーンタフについては、いずれ男鹿半島を紹介する項で触れることになるが、ここでは岩が熱水による変質作用で緑色に変性したということだけを押さえておきたい。

天辺の浸食に妙味有り

 特に目立つ岩には名前が付けられており、写真のものは「天龍岩」と呼ぶらしい。こうした大岩が崖から少し離れたところに屹立し、なおかつ海中から聳えるのではなく、海岸上に存在していることが、何度もこの場所に訪れたくなる最大の理由だ。

 仏ヶ浦が全国的に知られるようになったのは、1922年に発表された大月桂月の以下の歌によるところが大きいようだ。

 「神のわざ 鬼の手つくり 仏宇陀 人の世ならぬ 処なりけり」

 この歌には「仏ヶ浦」ではなく「仏宇陀」とこの地が記されているが、かつてはそう呼ばれていたからのようだ。「ウタ」はアイヌ語で「海辺」を表わすことから、仏の居ます海辺=仏宇陀、となったのではないかと考えられている。

 なお、国土地理院地図では仏宇多(仏ヶ浦)と表記されている。宇陀にしろ宇多にしろ「ウタ」に漢字を当てただけなので、どちらが正しいというものではない。

巨岩の間を抜けるとまた巨岩に出会う

 巨岩・奇岩が存在する場所には大抵、歩いて行ける。足場が低かったり悪かったりする場所には写真のような設備が施されているため、波が少し高かったりして海岸線が少し潮で洗われている場所でも行き来できるのだ。

岩の間の祠。これは素掘りかも

 この地は信仰上でも貴重な場所らしい。下北半島の斧の歯の中心部のやや北側にあるということは、全体が西海岸に存在している。一応、津軽海峡陸奥湾とを結ぶ平舘海峡に面しているとされているが、実際には津軽海峡に属しているといっても過言ではないほど、対岸の津軽半島の最北端よりは北に存在している。

 したがって、西側に開け、その先には西方浄土が存在するという、浄土への入口とも考えられてきた。仏にせよ、宇陀にせよ、岩の名称にせよ、仏教と関連付けられているのは、その姿が仏に似ているだけでなく、その位置関係も重要なのだ。

 仏ヶ浦を出発して西方に進む。すると地球は丸いので、元の位置に戻ってくる。その到着地点が、宮古市にある浄土ヶ浜なのであろう。もちろん、これは浄土ならぬ冗句ではあるが。

如来の首

 この姿をみれば、この岩が「如来の首」と名付けられているのは当然のことと思われるが、私が名付け親ならば「如来の横顔」とした。

雨水が造形した蓬莱山

 写真の岩の名は「蓬莱山」。これは仏教というより中国の神仙思想に由来する山の名前。三神山のひとつで、山東半島の東方海上にあり、不老不死の薬をもつ仙人が住む山のことである。

 蓬莱山といえば「徐福伝説」があまりにも有名だが、始皇帝に命じられた徐福は、もしかしたら和歌山の新宮ではなく、この場所に来たのかも知れない。

 それにしても、縦に入った無数の筋が特徴的で、これは雨水が長年かけて装飾したと考えられている。粒の細かい凝灰岩で、かつ、ここは非常に寒い場所にあるため、雨水は隙間に入り込んでやがて凍結し、それが亀裂を大きくしたと考えられている。

 ただ、それだけの理由であれば、これほど整った姿になるはずがないし、他の岩も同じようになるはずだ。こうした造形美を奇跡と呼ぶのかもしれない。もっとも、「たまたま」という考え方もあるが。

見飽きることのない奇岩群

 こうして、海岸から大小さまざまな形をもった岩たちを眺めているだけで、私の満足度は相当に高くなるのだが、それでも、この岩たちの成り立ちまで思いが及ぶと、いろいろな資料に当たりたくなる。

 400万年かけて造られた奇岩群だけに一年程度ではその変化を見つけるのは難しいかもしれない。が、かなり脆い凝灰岩であることは確かなので、もしかしたら、来年に訪れたとき、その僅かな変化に気付くことがあるかもしれない。実際、大岩の直下には小さく砕けた凝灰岩が散乱している場所もあった。そうした思いもあって、いろいろな場所をいろいろな角度から写真撮影をおこない、次回との比較を楽しむことにした。

 そうした期待があるからこそ、来年まで元気でいようという気持ちが沸き上がってくるのだ。

波食洞の中の祠

 仏ヶ浦の名の通り、各所に写真のような小さな仏さまと賽銭箱が置かれている。私は相変わらず、それらをじっくりと見ることはするが、拝むことや賽銭をあげることはしない。

 私はこうした景色が大好きなのだけれど、信仰心はまったくない。ましてや西方浄土の存在など決して認めることはない。

 死んだら、ただただ、無になるだけだ。それが仏陀の教えであると、私は確信している。