徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔102〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(4)大間崎、恐山、そして青森市へ

恐山の境内にあった石碑

佐井村願掛岩を訪ねる

国道の脇から願掛岩を望む

 仏ヶ浦を離れ、大間崎に向かった。仏ヶ浦駐車場は標高113m地点にあるが、それからしばらくはまだワインディングロードが続くものの、佐井村福浦漁港を過ぎたあたりから国道338号線は海岸線に沿って進むようになる。

 写真の「願掛岩」は何度も目にしていたはずだが、今までその存在はとくに気にかけていなかったようで、印象は極めて薄かった。が、今回は車を止めて観察してみたのだが、実際には相当に見るべき価値のある姿があちこちに存在していた。今まで、意識に上がってこなかったのは不思議というより、私がただ、迂闊なだけだったのだろう。

 ちなみに、右側が男岩、左側が女岩。男岩の方がやや高く標高は101mだ。

すぐ沖にあった柱状節理の岩

 願掛岩そのものも見応えはあるが、その手前の海岸線に点在している岩礁帯も見るべき価値は十分にあった。その代表が、柱状節理に満ち満ちた岩で、そのひとつひとつの向きが異なっていることから、大きな褶曲作用が働いて造られたことが分かる。

岩礁近くでコンブ漁をする漁船

 この浅い岩礁もすべて節理の姿がはっきり確認できる。表面が平らであることから人工的に切り取った可能性が高いが、そうした行為を行う必然性は感じられない場所にある。周囲には浅瀬が広がっているので、波食棚だとも思えるが。

 この不思議な岩礁帯の周囲にはコンブ漁?をしている漁船が幾艘も見られた。そのはるか先には陸地の姿がぼんやりとはしているが視認することができた。おそらく、津軽半島の姿だろう。

変化に富んだ岩礁が並ぶ

 これもまた柱状節理の姿が明瞭な岩礁だが、平らな部分は縦方向、一方、小山のような場所は横方向に節理が存在している。この小さな岩礁の中に、地球の表面の巨大な活動の痕跡が表現されていることには感動を覚えずにはいられなかった。

激しい褶曲があったことを示す

 願掛岩の近くには「佐井村がんかけ公園」が整備されており、駐車場もあったことからそこに車を止め、岩の姿をあちこちの方角から観察してみることにした。

 この岩は1000万年前に出来たと考えられており、岩質は流紋岩である。写真から分かる通り、各所に激しい褶曲の跡が見られる。

岩肌が見物

 流紋岩の岩肌が露出している場所では柱状節理が確認できる。こうした岩肌を見ているだけで、十分に満足できるため、私にはとくに願を掛ける事柄はない。

岩全体がご神体

 古くから神の宿る岩山として考えられていた。八幡宮の鳥居に鍵状の桜の枝を掛け、恋しい人への想いが叶うようにと願を掛けたという風習?があったことから「願掛」「鍵掛」といった名前で呼ばれており、現在は「願掛岩」の名前が定着している。

◎まぐろの町、大間崎を訪ねる

大間発北海道行きフェリー

 大間崎のフェリー港には、大間崎と函館港とを90分で結ぶ「大函丸(たいかんまる)」が停泊していた。このフェリーは1964年に就航した。長さ91m、1912トンのサイズで、一日二往復している。

 私は大学生のとき、友人と3人で北海道を一か月かけて車で巡り、帰りに函館からこの大函丸に乗って大間崎にやってきた。1929年に就航した歴史のある航路ということで「ノスタルジック航路」と運営会社が呼んでいるが、確かに私にもノスタルジーを感じさせるフェリーであった。

ここが下北半島の最北端

 大間崎は下北半島最北端、ということは本州最北端の地である。ただし、津軽半島最北端の龍飛崎のような哀愁を感じるような風景が展開されている訳ではない。それは、尻屋崎の項でも記したように、この岬の標高は3mほどしかないからであろう。

 大間といえば、現在では「まぐろの一本釣り」の町として全国的に知られている。例年、築地市場のマグロの初競りといえば、大間産のものが定番になっており、2019年には278キロの本マグロが3億3360万円で競り落とされた。ちなみに、2023年は212キロのものが3604万円であった。ここでも、日本経済の凋落が露呈している。

大間崎沖に浮かぶ弁天島

 大間崎には灯台はなく、600m沖合の弁天島に1921年に竣工したものが建っている。これは岬と島との間に「クキド瀬戸」という速い潮が走っていることから、島側に建設したのだろう。

 弁天島の名前はもちろん、島に弁才天が祀られているからであろう。弁才天は水の神なので、航海の安全を祈願する重要な存在なのである。しかし、現在では商売繁盛の神にもなっていることから弁才天ではなく弁財天と記されることがほとんどだ。確かに、大間では一匹数千万円もするマグロが釣れるので、安全よりも商売が優先されるのは致し方ないことかも。 

土産物店にはお年寄りがいっぱい

 大間崎周辺は観光地化しており、数多くの土産店や売店、食堂などが並んでいる。写真は、大間崎のモニュメントから一番近い場所にある土産店で、お金があって時間もあるお年寄りが土産品を買い漁っていた。

タコの足を焼いたものが多く売られていた

 一方、駐車場近くには小さな食堂や売店があった。店の人が焼いているのはタコの足で、結構な値段で売られていたため、私は購入には至らなかった。

 食堂ではマグロ定食が定番になっていると思われるが、昼食をとらない私には無縁の存在であった。大間に出掛けてもマグロを食べない。これは鮎を釣っても食べないし、先日は磯で型の良いイサキがたくさん釣れたが、全部、知人にあげてしまった。

マグロ漁の基地、下手浜漁港

 大間崎の東側に、写真の下手浜漁港があった。晩秋からは大型の本マグロを狙って一本釣りの船が多数出向し、一獲千金を夢見るのである。一方、私がありつけるのはせいぜいのところ、回転ずしのマグロぐらいである。

◎薬研温泉に立ち寄る

かつての賑わいは無かった

 大間崎を離れ、国道279号線を南下して、次の目的地とした「薬研(やげん)温泉」に向かった。むつ市大畑町に入ると、大畑川の流れが見える。その川の左岸側に沿って県道4号線を西に進むと、薬研温泉地区に到達する。

 薬研温泉は、大間崎のところで触れたように、大学生1年生の秋に秋休みを利用して小中学校時代の友人らと3人で北海道を約一か月掛けて車で旅をして、帰りは礼文島で知り合ったヒッチハイカーを2人加えて5人で札幌に至り、そこで一人を下ろし、4人で函館に出て、フェリーで大間崎に着いた。その道中で宿を物色したところ、薬研温泉の存在を友人が見つけたので、公衆電話で予約を取ったのだ。

 友人が薬研温泉に宿を決めた理由は実に明瞭至極で、その温泉地はすべてが混浴だったからである。思えば、北海道の温泉旅館も大半は混浴であった。友人は、現在ではアメリカンフットボールの不祥事で一層、名前が知られることとなった大学に在籍していたが、大学に通うのは年に10日ほどであったが、留年することなく3年生になっていた。一方、フーテン生活をしばらく送っていた私は彼より二年遅れて大学に入ることにしたので、まだ1年生だった。

 彼は大学には通わず、テレビ局などでアルバイトをしながら、ひたすら風俗の世界を探求していた。卒業後は風俗専門のライターを目指していた。それゆえ、宿泊地を決める基準は常に混浴であるか否かが最優先事項だったのである。

 そんなことを半世紀以上を経て思い出したことから、直接、恐山を目指さず、薬研温泉に立ち寄ってみた次第だった。

奥薬研には足湯場だけが存在していた

 私たちが宿泊したのは県道4号線よりもさらに奥にあった「奥薬研温泉」の旅館だったため、その地を訪れてみたのだが、旅館はまったく存在しておらず、ただ、写真の足湯場と、2か所の露天風呂があるだけだった。その露天風呂は最近までは混浴だったらしいが、現在はそうした風習はなくなってしまったとのことだった。

 ひとつ上に写真にあるように、薬研温泉地区には結構、大きなホテルがあったのだが、それも現在は閉鎖され、今では小さな旅館が一軒だけ残っているにすぎないが、そこすら、営業しているかどうかは不明だ。

 この場所に温泉があることは、恐山を開いた慈覚大師円仁が、この地で怪我をした際にカッパに運ばれて温泉で傷を癒したという伝説があるように、相当に古くから一部の人には知られていたようだ。そんな由緒ある場所も、現在では廃墟になりつつある。時の流れは、場合によっては深い哀愁を誘うことがある。

◎恐山を2回訪ねた~お参りはしないけれど

正津川は「三途の川」とも呼ばれる

 薬研温泉を離れた私は、県道4号線を下って恐山には北方向から入ることにした。薬研から恐山まで約15キロの間、車には一台もすれ違わなかった。道はかなり荒れており、落石も多く路上に転がっていた。途中では雨が激しくなってきたので、この道を選んだことを後悔していたが、その一方、次第に空気が硫黄の臭いを有し始めると恐山が近いことを感じらるため、選んだのは必ずしも不正解であったとは思えなかった。

 正津川に近づくと深い森が途切れ、あの独特な景観を有した恐山の姿が見えてきた。強い硫黄分が森を枯らしてしまうことから、その地だけ緑が消失するのである。

奪衣婆と懸衣翁

 正津川(三途の川)が宇曽利山湖に流れ込む場所の左岸側にあるのが、写真の奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)の像。今までその存在に気が付かなかったので、新しく建てられたのかもしれない。

 奪衣婆は三途の川で亡者の衣服をはぎ取る老婆の鬼で、衣領樹の上で待つ懸衣翁に衣服を渡す。衣領樹に掛けた衣服の重さによって生前の業が現れ、枝の曲がり具合で罪の大小が計られる。この二人?が、人が死んだあとに最初に出会う冥界の官吏である。

三途の川と太鼓橋

 写真の太鼓橋(反り橋)は三途の川に掛けられたもので、この橋を渡ると人は冥界に入る(実際には地獄?)ことになる。この日は修理中だったようで、歩いて渡ることはできなかった。もっとも、私の場合(ほとんどの人も同様だか)はこの橋のすぐ上流側に架けられた県道4号の橋を渡って、恐山の駐車場を目指した。

総門

 ”地獄の沙汰も金次第”と言われるが、恐山に入るには総門の右手にある受付で入山料500円を払う。とりあえず、境内の地獄を覗くのには一律の料金(個人の大人の場合)で済む。私のような罪深い存在であっても善良な市民と同様な金額で済むのは、恐山の鬼たちも意外に優しいようだ。

 半世紀前、薬研温泉に宿泊したのは、この恐山に寄るためでもあった。風俗ライター志望の友人は、その地では心霊写真を撮るのだと張り切ってシャッターを押していた。北海道旅行中はどんなに雄大な景色、心身が温まるような風景に接しても滅多に写真を撮ることはなかったにもかかわらず、恐山では撮影に夢中になっていた。

 彼は帰宅後すぐに写真屋に行き原像を頼んだのだが、数日後、がっかりした姿で私の家にやってきて、おどおどろしい写真は何もなかったと肩を落としていた。彼については、実は小学校の時からそう思っていたが、この日に、やはり彼は正真正銘のバカ者であると100%確信した。もっとも、そんなことは小学生の頃から知ってはいたが。

 バカは死んでも治らない!

総門から仁王門に至る参道

 恐山の開基は円仁(794~864、慈覚大師)とされている。下野国の出身であるためか、関東や東北地方には円仁が開基したと言われる寺は数多くある。すでに触れた中尊寺や、いずれ触れることになる立石寺がそうであり、松島の瑞巌寺も開基者になっている。また、遣唐使として中国に渡り、『入唐求法巡礼行記』という旅行記を表わしたことでもよく知られており、第3代天台座主も務めている才能豊かな人物であったようだ。

本堂

  恐山の名を聞くと、ほとんどの人は「イタコ」を連想するが、実際にイタコがこの地に集まるようになったのは大正時代の終わりごろからなので、まだ百年程度の歴史しかない。しかも、イタコがこの寺に集まるのは夏と秋の例大祭(通算7日)のときがほとんどで、境内に常駐している訳ではない。恐山としては、イタコがこの地で活動することを黙認しているだけで、この寺に所属しているのではない。したがって、イタコの口寄せを見物する、あるいは実際に行ってもらうためには、例大祭の日にこの地に立ち寄るのが確実だ。私自身、恐山には10回ほど訪れているが、イタコの姿を見たのは一度しかない。

本堂前の石灯籠や石積み

 イタコは東北地方の呼び名で、イタコと同じ活動をしている巫女の姿は日本全国で目にすることができるが、地域によって呼び名が異なっている。

 盲目もしくは弱視の女性の職業のひとつで、降霊術をおこなう。死者の霊がイタコに憑依するので、彼女が語る言葉は死者のものであり、これを口寄せという。私も一回だけ見物したことがあるが、強い東北弁の訛りがあるため、ほとんど何を語っているのかさっぱり分からない。しかし、口寄せを依頼した当事者(遺族)にとっては、イタコの口から出る言葉は身内だった者の言葉として理解、納得できるようだ。

 イタコが発する言葉が、事実であるかどうかはまったく問題ではない。遺族がその言葉をどう受け止めるかが重要なのであって、ありていに言えば、中身はどうでも良いのだ。大事なのは、死者が遺族の心の中に一時的に蘇るという事象が重要なのであろう。

塔婆堂横の卒塔婆

 もともと、下北半島にはイタコはほとんど存在していなかった。東北地方の紀行文を数多く残した菅江真澄は、1793年に恐山に立ち寄り、『奥の浦うら』にそのときのことを記しているが、イタコについての話はまったくない。

 東北地方では、津軽地方でイタコの活動が盛んであった。1920年に大湊線が開通し、津軽から下北までの交通の便が良くなった。そこで、イタコたちは恐山の地蔵会(じぞうえ)に参加するようになり、いつしか、恐山での活動が有名になり、あたかもこの地が「本場」であるように人の目に映るようになったのである。

 津軽のイタコにとって、恐山は重要な出稼ぎの場となったのである。ちなみに、現在の相場は一人、1時間で4000円前後とのこと。仮に父、母、兄の3人の口寄せをするとなると1時間で12000円となる。出稼ぎとしては悪くない仕事である。

 が、高齢化が進んだ現在では、イタコの数が激減しているようで、いつしか、その存在は伝説になってしまうかもしれない。

仁王門

 写真のように、仁王門(山門)はかなり立派なものである。恐山の本坊は円通寺曹洞宗)で恐山はその菩提寺として位置づけられている。院代の南直哉(みなみじきさい)氏が相当な「やり手」であるため、若い人が恐山を訪れることが多くなった。彼は数多くの書物を出版しているが、若者にも理解しやすいような仏教解説書を何冊も出している。そのことが、恐山の認知度を高めているのだろう。

 今どきの若者は私よりも遥かに信心深いたため、実際、この地では年配者よりも若い人の姿を多く見掛けた。心霊スポットという興味本位の人も多いのだろうけれど。 

恐山温泉の男湯

 恐山の境内には4つの温泉がある。「古滝の湯」「冷抜の湯」「薬師の湯」「花染の湯」と名付けられており、かつてはすべて混浴であったが、現在は、「花染の湯」以外は別浴らしい。

 写真は「薬師の湯」で、こちらは男湯である。入山料さえ払っていればこの湯には無料で入ることができる。もっとも、温泉にはほとんど興味がない私は、わざわざ湯に浸かる気持ちはまったくなかった。

恐山温泉の女湯

 参道の左手にあるのが女湯で、左側が「古滝の湯」、右側が「冷抜の湯」である。

 ちなみに、恐山には宿坊の吉祥閣があり予約すれば誰でも宿泊することができる。私は硫黄臭いのは我慢できないので、例え頼まれても宿泊する気にはなれない。その宿坊の右手に混浴の「花染の湯」がある。

地蔵殿

  仁王門の先に、本尊の地蔵菩薩が納められている地蔵殿がある。この裏山に奥の院があり、不動明王が安置されているが、雨で道がぬかるんでいたために、そこまでは行かなかった。

無間地獄入口

 恐山が心霊スポットなどと称されている所以は、境内の北東側に広がる割れた火山岩の山や岩の隙間から水蒸気や火山性ガスが噴き出ている異様な風景からであろう。確かに荒涼としたガレ場、きつい硫黄の異臭がする場所は、確かに恐ろしさを感じさせる場所である。半世紀ほど前はもっとガスが噴き出ていたという記憶があり、「無間地獄」に例えてもあながち見当外れとは言えない雰囲気を醸し出していた。

 が、近年では水蒸気や火山性ガス、硫黄臭はやや薄れているようで、いずれは地獄の言葉は適さなくなるかもしれない。

大師堂、宇曽利山湖、大尽山を望む

 写真は、無間地獄を少し進み、やや高い場所から大師堂、宇曽利山湖、そして恐山の最高峰である大尽山(おおづくしやま、標高827m)を望んだもの。ここからの景色は、地獄というよりもある種の美しさを感じてしまうほどだ。

 恐山は、ハート型をした宇曽利山湖を囲む八つの山の総称で、恐山という名の山はない。これは、八ヶ岳という山がないのと同様である。実際にはもっと多くの峰があるはずだが、あえて八つとしたのは、八葉の蓮華を例えたからだろう。

大師堂

 大師堂に立ち寄ってみた。もちろん、ここでいう大師は、この山を開いたとされる円仁・慈覚大師のことである。われわれは大師と聞くとすぐに空海を思い浮かべるが、それはミスターと聞くと長嶋茂雄を、メガネの間抜け野郎と聞くと岸田首相を連想するのと同様で、実際にはミスターは無数にいるし、メガネの間抜け野郎も国会内外にはたくさんいる。

 大師は天皇が高僧に授けた諡号で、日本には25人いる。最初の大師は伝教大師最澄)と慈覚大師(円仁)の2人である。また、法然は9つの大師号を授けられている。

 ちなみに、私は大師と聞くとマグマ大師とすぐに言いたくなるが、あれはマグマ大使であり、しかもそれは仏教とはまったく関係がなく、地球を救うために造られた人造人間である。

大師像

 円仁という人は、とても心優しい人柄であったと言い伝えられている。写真の像にもその心性がよく表現されている。最澄空海のように偉そうな感じがしないのがとても良い。

大平和観音像

 大平和観音像と永代無縁碑が並んでいた。ロシアのウクライナ侵略、そしてイスラエルパレスチナ紛争と、平和とは程遠い厳しい状況が続いている。出口はまったく見えず、場合によっては戦争が拡大する危険があり、関係者の中には核使用の声をあげる人物さえ増えてきている。

 こうした戦争で、真っ先に被害を受けるのは名もなき市民である。写真のように、平和を祈る像と無縁碑は一体となって、地上からも地下からも戦争終結の声が上がっている。

 されど、人間の歴史を見ると、平和が続いている状態は稀で、戦争の一時停止が平和であるに過ぎない。そう考えると、人類の歴史はそろそろ終末期に入っているのかもしれない。

八葉地蔵菩薩

 境内の西北端に建造されたのが八葉地蔵菩薩。先に触れたように八葉とは蓮華を表わし、泥沼から出て汚れることなく美しく咲く蓮の花は、仏陀の存在を象徴している。

慈覚大師座禅石

 八葉地蔵菩薩像のすぐ近くには、写真の座禅石があった。円仁はこの石の上で何を悟ったのだろうか。私が思うに、一切皆苦と無常無我という真理とともに、苦しむ衆生の救済であろう。

木に吊るされたワラジ

 木々には、写真のようなワラジがアチコチに吊るされていた。死出の旅に出た故人のために、お参りに来た人々が残したものである。

木に吊るされたタオル

 写真のタオルや手ぬぐいも同様で、故人の旅路には苦労が多いだろうから、汗をぬぐうためのものを枝に掛けたのである。これは死者への思いやりと同時に、自分もいずれ旅立つことは必然なので、自分自身のために用意したのかもしれない。

 恐山には、ワラジやタオル以外にもいろいろなものが林に置かれている。寺としては、こうしたものを置くことはまったく禁じていないし、撤去することもない。他の寺では許されそうにないことでも、ここでは格別に迷惑にならないものでない限り、黙認している。こうした点に、私は大いに共感するため、恐山に何度も足を運ぶのである。

木の下にはたくさんの小地蔵や飲み物や賽銭が

 木の根元には、小さな地蔵像や飲み物、賽銭などもたくさん置かれていた。また、積み石もあり、一見、雑然とした感じを受けるが、これもこの寺ならではの光景である。

 曹洞宗の寺なので、自力難行を旨とするはずではあるが、こうした大衆的な行為もまた受け入れている。

血の池地獄

 名前は「血の池地獄」となっているが、池の水はかなり澄んでいるので、その命名にはやや違和感を覚える。かつては硫黄分を多く含んだ水がこの池に流れ込んでいたので、水は血のような色をしていたのかもしれない。

東日本大震災供養塔と休憩所

 宇曽利山湖畔にでた。この辺りは極楽浜と名付けられている。地獄には不整形の石や岩が無数にあったが、この浜はそれらが湖の波で磨かれているため、浜辺は小石や砂で覆われている。

 右手にあるのは「東日本大震災供養塔」。左手には簡易休憩所。周囲には積み石があり、それらには風車が差されているものも多い。

 恐山ではあちこちで風車を見掛ける。これは風向きを知るにはベストのもので、かつては亜硫酸ガスが相当に多く噴き出ていたため参拝者の中にはガス中毒になる人も結構、多かったらしい。そのためもあって、風車が多用されているのである。

無縁仏のための石積み

 祀ってくれる人がいない場合の死者を無縁仏というのなら、私を含め、大半の死者は無縁仏になるだろう。写真の石積みは、そうした無縁仏を不特定の人が弔うためのものだそうだが、私に限って言えば、とくに祀ってもらおうとは思わないので、無縁の存在だ。というより、死んだらただ無になるだけなので、無縁であろうがなかろうが仏になることもない。

 とはいっても、こうした場所に立つと、私のような無信心者であっても、敬虔な気持ちにはなる。いずれ死んで行く大半の無名者に対し、幾ばくかの共感の気持ちがあるからかもしれない。

極楽浜と宇曽利山湖と大尽山(おおつくしやま)

 白砂に敷き詰められた極楽浜、強酸性のカルデラ湖である宇曽利山湖は光が差したときはコバルトブルーに輝き、その向こうに見える大尽山の存在。恐山にではもっとも美しい景色のひとつだろう。

胎内めぐり入口

 極楽浜から山門に至る「道」には「胎内めぐり」の道標が掲げられていた。この先がある種、もっとも恐山らしい景観が広がっている。すなわち、水蒸気や亜硫酸ガスが多く噴き出している場所である。

石の上に置かれた数珠

 「地獄」を思わせる場所であっても、写真のような光景に触れると、心は安らぐものである。

重罪地獄

 重罪地獄と名付けられた場所は、水蒸気やガスが多く噴き出ている場所で、極めて硫黄臭い場所だ。それでも、以前に訪れたときよりはずっと噴気は小さくなっている。

金掘地獄

 金掘地獄の名称の由来は不明だ。恐山の地下鉱脈には多くの金鉱が眠っているらしい。その一方で、硫黄分も非常に高い場所なので、コストの面から採掘はおこなわれていないとのこと。

 それゆえ、この地獄は、重罪を犯した死者が金の採掘に割り当てられ、金を掘りだせずに硫黄成分に苦しみ続けるところなのかもしれない。

 昨今は、金の亡者がどんどんと数を増しているので、この地獄は遠くない将来、満杯になってしまうかもしれないと考えられる。

あちこちから噴気が上がっている

 こうして、少し離れた場所から金掘地獄周辺を眺めてみると、減少したとはいえ、やはり噴気の量は相当に多い。こうした姿に触れると、心霊写真を撮影したくなる気持ちも分からなくはない。とはいえ、そんなものはただの錯覚に過ぎず、いわゆる地獄は、日常生活の中に常に存在している。

来年もまた訪れる予定

 帰宅後に、こうして恐山関連の写真を整理すると、まだまだ立ち寄っていない場所が数多くあることに気付いた。イタコの存在はともかくにして、恐山巡りはとても「楽しい」ので、来年もまた、訪ねてみようと考えている次第だ。鬼には笑われるかもしれないけれど。

◎ここも横浜

かなり立派な横浜町の漁協の建物

 恐山を離れ、私は次の目的地に考えていた夏泊半島に移動するために下北半島の付け根部分を南下した。

 その途中に「横浜町」があったので、少しだけ立ち寄った。そういえば、山陰の旅に出掛けた際にも「横浜」の名の場所に出掛けた。ことほど左様に、横浜とはありふれた地名なのである。

 横浜にはやや大きめの漁港があり、写真のような立派な漁業組合の建物があった。その名の通り、横浜は南北に長い砂浜海岸が陸奥湾側に続いている。西からの波を避けるように、長い沖堤防が横たわっており、また陸地の護岸や突堤も長い距離、整備されている。

 横浜漁港の名産品としてはナマコがよく知られ「横浜なまこ」として地域ブランドになっている。が、近年は水揚げ量が減少の一途をたどり、消滅の危機にさらされているようだ。気候変動は、こうした海の生き物にも大きな影響を与えている。

壁のいたずら書きは「よこはま」を強調!

 堤防の壁面では「横浜」を強調する落書きが多く書かれていた。「ヨゴハマ」の文字が東北らしさを感じさせる。この地の人と話す機会はなかったが、来年は是非とも話を伺って、「ヨゴハマ」が東北の訛りなのかどうかを確認したい。

 ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく (啄木)

夏泊半島を初めて訪ねる

半島の先端部東側の浜

 陸奥湾の中央部に青森側から突き出しているのが夏泊半島だ。その優雅な名称から、いつかは巡ってみたいと思っていたのだが、実際に訪れたのは今回が初めてだった。

 夏泊の名は小さい頃から知っていたが、少し興味を抱いたのは内田康夫の『夏泊殺人岬』を読んでからのこと。もっとも、内田の作品としては初期に属し、まだ「浅見光彦シリーズ」の前だったこともあり、私を惹きつけたのは名称だけで、それ以上の興味は湧かなかった。

平内町のホタテの養殖は日本有数

 半島は山がちなので、半島を取り巻く道路(県道9号線、夏泊ホタテライン)を走ることがメインとなる。陸奥湾の真ん中に位置するため、半島の東側を野辺地湾、西側を青森湾と呼ぶそうだ。東側には、椿山という椿の名所があり、7000本のツバキが開花したときはさぞかし美しいだろう。なお、この地がツバキの北限とのことだ。

 先端に近づくにつれ、東側の浜はひとつ上の写真のように浅い海岸線が続くようになる。周囲は公園になっており、そこに車を停めてしばらく海岸線を散策してみた。

 そこで目に入ったのが写真の「ほたて養殖・顕彰碑」だった。ここでは1960年頃から養殖事業が開始され、現在では、半島のある平内町は日本有数のホタテの水揚げ量を誇り、何度も日本一になったことがある。

 ただし、ホタテだけでは町民の所得を飛躍的に増やすわけにはいかず、町民所得の平均は全国平均の3分の2程度である。同じ頃にホタテの養殖を始めた北海道の猿払村が、貧乏村から日本有数の金持ち村に変貌(ホタテ御殿が並ぶ)したのとは勝手が違うようだ。

東浜から先端部にある大島を望む

 半島の先端部に近い場所から海を眺めると、比較的大きな島の姿が視野に入ってきた。そこで、私は車に戻り、先端部まで出掛けてみることにした。

大島へは橋で渡ることができる

 半島の先端と大島との間には長さ200mの大島橋が架けられていた。周囲約3キロの大島は、自然の宝庫(とくにカタクリが有名)と呼ばれているので、遊歩道以外の場所に立ち入ることは禁じられているそうだ。

 以前は、島との間に砂州が延び、大島は陸繋島であったが、やがて浸食されて砂州はその面影を残すばかりで、現在は干潮時でも橋を使って渡るしかないそうだ。

 ここからは見えないが、島の先端部には「陸奥大島灯台」が建っているとのこと。

青森市街に到着

青函連絡船は今何処

 青函連絡船は1988年にその役目を終えた。その後は道南自動車フェリー(東日本フェリーのグループ会社)が2000年から旅客輸送を開始し、08年に東日本フェリーから完全に青森・北海道間のルートを引き継ぎ、09年には名称を津軽海峡フェリーと改めた。

 写真は、「ブルーマーメイド」(8820トン)なので青森と函館を結ぶものではなく、青森・室蘭間を担当している。「ブルードルフィン」(8850トン)「ブルーハピネス」(8851トン)「ブルールミナス」(8828トン)の三隻が青森・函館間を担っており、現在では一日六往復している。

 大間で見た津軽海峡フェリー(大函丸)とは異なり、やはり利用者が多いことからかなり大きめの船舶が使われている。

フェリー港には釣り人が多くいた

 思えば、私は今まで5回しか北海道には渡っていない。その理由は明白で、北海道には寒流系の魚がほとんどだし、アユも道南の一部に生息しているだけなので、北海道に行く理由がないのだ。

 1回目は修学旅行、2回目は上に何度も挙げている友人との旅、その他3回は「行かされた」旅行だった。青函連絡船は1回目だけで、2回目は青森・室蘭、3回目以降は飛行機利用だった。6回目があるかどうかはまだ検討中だが、行くとすれば津軽海峡フェリーを使うことになるだろう。

 しばらくはフェリー港で船を眺めていたが、その東にある空き地に釣り人が並んでいたので、少しだけ見物していたが、釣れている様子はまったくなかった。

翌日はやっと晴天に恵まれた

 下北の旅を終えた私は、今度は五所川原に3泊し、津軽半島青森市街、岩木山弘前城などを巡ることにした。

 写真のように、青森市内の「三内丸山遺跡」も見学した。本当は、フェリー港の次に立ち寄ったのだが、生憎の休館日だったため見学は叶わず、日を改めることにして、この日は五所川原の宿に向かった。

ホテル内から眺めた岩木山

 五所川原では最上階の角の岩木山側の部屋を取った。私には、岩木山は富士山以上に美しい山に思えた。