徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔103〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(5)三内丸山、弘前城、岩木山神社、立佞武多など

立佞武多の館に立ち寄る

三内丸山遺跡を見学

立派な建物が出入り口付近にある

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」は2021年に世界遺産に指定されているが、その遺跡群の中でもここで取り上げる国の特別史跡である「三内丸山遺跡」は群を抜く規模で、私たちがそれまでイメージしていた縄文時代の人々の生活様態を見事に打ち砕いてくれた。

 2017年に出版(日本語版は19年)されたジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』は、我々が抱いていた穀物生産が定住や国家の成立条件であったという見方に異議を唱え、狩猟・採集の時代の半定住生活こそ、人々の暮らしの「豊かさ」があったことを、多くの資料を提示しながら証明してくれた。

 三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期にかけての大規模集落跡で、現在から約5900年から4200年前(紀元前3900年から2200年)に存在したと推定されている。竪穴建物は550棟以上発見されており、一時期に存在した住居は20棟程度で、縄文集落としては稀に見る大きさであったと推察されている。

 現在では、人間が安定的な社会生活を維持できる規模は150人程度と考えられている。これをダンバー数といい、オックスフォード大学の人類学、進化心理学を専門とするロビン・ダンバーが提唱し、様々な資料から、この数値は現代社会でも当てはまると考えられている。確かに、人が他社の顔やその特徴をある程度認識でき、「仲間」だと思える上限はこの程度だろうし、私が個人的に仲間だと思っているニホンザルの群れも、100頭程度が上限と考えられている。

 が、この三内丸山では一度期に500人が暮らしていたと想定されている(異論も多い)。遺跡の規模は約40haと推定されているが、ここは青森の市街地に近いため、発掘できるのは今の規模が限界だと考えられるので、実際にはもっと広かったと考えるのが妥当だろう。とすれば、いくつかの集団が、たまたま同居していたとも想像しうる。

 なにしろ、縄文時代では、北東北が日本列島ではもっとも住みやすい地域だったと考えられているのだ。それだけ、海も野原も山も自然に満ち溢れていたのだろう。

遺跡のジオラマ

 出入口付近には立派な建物「縄文時遊館」があり、いかにも「世界遺産です」と言いたげな姿を誇っている。その建物の中に入り、「時遊トンネル」を通って遺跡と対面することになる。そのトンネルの前に存在していたのが、写真のジオラマである。

 これから分かることは、遺跡のある場所は広い丘だということだ。標高は17.2m地点にあり、北側にある最寄り駅の新青森駅は8.8m、フェリー港は2.2m、県庁は2.5m地点にある。

 この遺跡に人々が暮らしていたときには海面は現在よりかなり高く、青森市の中心部はほぼ海の中にあったと考えられている。それゆえ、「縄文のムラ」は丘に造られたのであろう。

 ちなみに、周囲の地名には、「石江」「両滝」「浪館」「沖舘」などがあり、いずれも水に関係している名前になっている。また、周囲には池や沼が多いことから、かつては海もしくは湿地帯であったことが想像できる。

縄文のムラに入る

 時遊トンネルを抜けると、広々とした「縄文のムラ」があった。林の右手は他でもよく見かける竪穴式住居跡だが、やはり、この遺跡を象徴する「大型掘立柱建物」の存在だ。もちろん、その先にある鉄塔は、遺跡とは何の関係もない。

竪穴式建物群(復元)

 竪穴式建物には、”茅葺き(かやぶき)”と”樹皮葺き”と”土葺き”の三種類が復元されているが、写真にあるのは茅葺きと土葺きの2つである。こうした建物はすべて住居用に建てられたものと考えられている。

大型掘立柱建物(復元)

 この遺跡でもっともよく知られているのが、写真の大型掘立柱建物だろう。この姿を見ただけで、それが三内丸山遺跡のものであるとすぐに判断できるほど、有名なものだ。

 6本の柱の間隔はすべて4.2mで、柱の穴の深さは2mである。このような建物が何故に存在するのかは不明だが、一説には、海で漁をしている船が自分たちの位置を知る上で役立ったのではないかというものがある。つまり、ランドマークとしての役割である。確かに、そう考える以外のことはなかなか思いつかない。

掘立建物(復元)が並ぶ

 掘立建物は、おそらく倉庫として用いられたのだろう。とりわけ、大型掘立柱建物のそばにある大型掘立建物は、長さが35m、幅が10mもある。もちろん、内部見学も可能だ。

竪穴式建物(復元)の内部に入る

 写真は、竪穴式建物の内部を撮影したもの。ここで、縄文人はひと家族5,6人が生活していたと考えられている。

小学生が造った竪穴式建物

 写真の樹皮葺き建物は小学生が中心となって縄文人の家づくり体験によって復元されたもののようだ。このような貴重な体験は、生涯、忘れることがないだろう。もっとも、私だったら、共同作業をしていると見せかけて、実はサボっていただろうけれども。

縄文のムラを今一度、眺める

 縄文のムラをひと通り見て回ったので、次は「時遊トンネル」をくぐり抜けて、様々な展示物を見て回ることにした。

 建物内からはムラの景色を見ることはできないので、トンネルに入る前に、その全体を今一度、目に焼き付けることにした。

縄文人の暮らしを再現

 常設展示室(さんまるミュージアム)には、縄文人の暮らしぶりを再現した展示がおこなわれている。漁労や狩猟、それに数々の土器製作などの様子が立体的に模してあるが、もちろん、私のお気に入りは釣りをする場面で、陸奥湾では多彩な魚が釣れたはずである。私は縄文人に生まれ、毎日のように釣りに出かけたかった。

縄文式土器がいっぱい展示

 いろいろな形の縄文土器が展示してあるが、「縄文」の言葉から連想される姿とは異なり、簡素な造りが多い。私たちがイメージする縄文土器は華美なものだが、それらは日用品というより、呪術的な要素が含まれているからであって、普段使いは「100円ショップ」で見掛けるような形のもので十分なのだろう。

糸魚川産・ヒスイの首飾り

 企画展示室ではヒスイの飾り物が多く展示してあった。ヒスイは現在の新潟県糸魚川市で産出されたもの。今から5000年ほど前に、新潟と青森とを結ぶ道(海の道だろうか)があったことに驚かされるが、極めて硬いヒスイを加工する技術をすでに有していたことにも驚愕せざるを得ない。

 狩猟・採集時代は実は豊かで、定住して稲作をせざるを得なくなった時代こそ階級格差が生まれ、大半の人は抑圧された暮らしを強いられたのかも。それでも、「ブルシット・ジョブ」が跋扈する現代社会よりは格差は小さかったことだろうけれど。

◎板柳から弘前城

板柳中学校付近から岩木山を眺める

 弘前へ移動中に板柳町に立ち寄った。連続射殺犯で小説家の永山則夫(1949~97)が育った土地に触れたかったからである。彼が板柳中学校の生徒だったのは約60年も前のことだったので、町の様子や中学校の校舎は今とはまったく異なるものであっただろうし、実際、彼はほとんど学校には通っていなかった。

 町の様子は変わったっとしても、おそらく、彼が毎日のように目にしていた岩木山の姿はほとんど変化していないだろう。

 時代は変わり、町は変わり、人は変わり、今ではこの土地にいっとき、永山が存在していたという記憶はほとんど消えかかっているはずだ。

 それでも、岩木山は変わらずに厳然として聳え、人々の営みを見守り続けてきた。その事実だけは、これからも続くことは確かであろう。

弘前城丑寅

 弘前藩津軽藩)は、南部藩の被官であった大浦為信が1590年に豊臣秀吉から4万5千石を賜って津軽地方を統一して、南部藩から独立した。さらに、1600年の関ヶ原の合戦では徳川家康側に味方して2千石を加増され、名実ともに弘前藩を確立した。

 初代藩主となった大浦為信は津軽姓に改称し、大浦(弘前)城の整備に専心したものの07年に死去したため、第2代目の信枚(のぶひら)の手によって本格的な工事が開始され、天守閣は11年に完成した。堀と石垣に守られた城は東西600m、南北1000mの広大な敷地を有し、現在では「弘前公園」となり、桜の名所としてよく知られている。

 大手門は敷地の南側にあるが、私は北側に車をとめたので、堀に架かる「一陽橋」を渡り、現在は青森懸護国神社のある旧四の丸から城内に入った。途中から進路を南に変えて本丸を目指した。

 賀田(よした)橋跡から賀田御門跡を過ぎ、物産館の前に出ると、写真の丑寅櫓が見えてきた。その櫓がある場所から二の丸になり、いよいよ城の中心は近くなってきた。

思いのほか小さい弘前城天守

 写真が、弘前城天守を正面から見たものである。三層構造のとても小さなものであるが、現存する木造十二天守のひとつで、司馬遼太郎は「日本七名城」のひとつだと述べている。

 本来の天守は五層の立派なものだったが、1627年に屋根の鯱に雷が落ち、火災が発生して焼失してしまった。1810年に辰巳櫓を改修して天守にした。それが現存するものなので、小さいのもやむを得ない。 

天守の内部

 内部は史料室になっており、往時に使われた籠などが展示してある。三階まで上がることは可能だが、階段は急で、かつかなり狭いことに驚かされる。

小型だが気品がある

 現在は石垣が補修されているため、本丸の中ほどに移動されている。補修完了後は、再び、その上に乗せられるので、本丸らしい姿に戻るのだろう。

 瓦は通常、粘土製のものが用いられるが、東北の厳しい寒さにあっては粘土では割れてしまう危険性が高いため、銅製の瓦が用いられているのも特徴的である、

 写真の角度から見ると、他の櫓とは出自は同じであっても、天守らしい意匠が随所に施されているため、規模は小さくとも気品を感じさせる美しい天守であることには間違いはない。

城内から岩木山を望む

 城内からは岩木山の姿が見て取れる。雄大、かつ秀麗な山と、小型であっても気高さのある天守との共演は、弘前の、いや津軽の宝であるともいえる。

岩木山神社(いわきやまじんじゃ)

岩木山神社に向かう

 「したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単の裾を、銀杏の葉を逆さに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟(せんけん)たる美女ではある。」

 これは、太宰治の小説『津軽』に出てくる岩木山(標高1625m)への賛辞である。『富嶽百景』では富士山に対し、「富士には月見草がよく似合う」とか、「これでは、まるで、風呂屋のペンキ画である。」などと揶揄した太宰だったが、故郷の岩木山に対しては、これ以上ない褒めようである。

 私個人としても、日本にあまたある山の中では、この岩木山大菩薩嶺がもっとも好みで、この二つの山に触れると、何やら敬虔な気持ちになってしまうのだ。もっとも、富士山は太宰が腐すほどありふれた山ではなく、いろいろな角度から眺めると結構、異なった姿に見えるので、興味ある山のひとつなのだが。

 弘前城を離れた私は、次の目的地である岩木山神社に向かった。写真は、その道中から眺めた岩木山の姿である。裾野はなだらかでありながら、山頂に近づくにつれて急速に姿かたちは変化に富み、しかも、見る角度によってはまったく異なった山と表現して良いほど、無数の顔を有しているのだ。

 写真は弘前方向から眺めたものだ。太宰は『津軽』では「弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿忘れられなかった。」と記している。

 ただし、「西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影はない。」と評している。この西海岸というのは「鯵ヶ沢」のことである。

一之鳥居

 岩木山神社にやってきた。近くの駐車スペースに車を置き、まずはなかなか格調のある「一之鳥居」を眺めた。参道はまっすぐに岩木山に向かう。実際、この道は岩木山頂までの登山道の一つにもなっているそうだ。私の場合は本殿までたどり着くのがやっとなので、登山道まで行くつもりはもうとうなかった。

五本杉

 参道の脇には土塁が整備されており、一角に写真の「五本杉」があった。樹齢は500年とのこと。名前は五本杉だが、根はひとつしかない。根元で芯止めをしたために幹が5本に分かれたそうで、杉の姿としてはなかなかお目にかかれないものだ。高さは24mで、幹回りは7.85mとのこと。

巨大な楼門

 岩木山津軽の地の神の山、霊山であって、伝承では780年に山頂に社殿が創建されたそうだ。800年には坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)がこの山を整備して、山頂には奥院、山麓に下居宮を建造したと伝えられている。

 坂上田村麿といえは、初代の征夷大将軍として東北の蝦夷征討が有名だが、実際には今の奥州市水沢に胆沢城、盛岡市の南に志波城を築いただけで、津軽地方にはまったく足を運んでいない。

 遣唐使が皇帝に言い伝えたことによると、蝦夷は大きく三つの勢力があり、南の熟蝦夷は従順であったが、北の荒蝦夷はあまり従わず、さらに北方の都加留はまったく従う様子はなかったという。つまり、田村麿は現在の岩手県の南側を「攻略」しただけで、岩手の北側やまして青森にはまったく手を付けることはなかったようだ。身の程を知っていた田村麿はなかなかの知恵者でもあったようだ。それだからこそ、彼は津軽の人々にも愛されているのだろう。

 1091年には神宣によって下居宮を現在の地に遷した。かつての地には現在、巌鬼山神社が建てられている。下居宮の地には百沢寺(ひゃくたくじ)が田村麿によって百沢の地に別当院として建てられていた。

 1589年 岩木山の噴火によって下居宮や百沢寺は焼失したが、1603年、津軽為信によって再建され、その後も歴代藩主によって整備された。

 写真の楼門は、かつては百沢寺の山門として1628年に造られた巨大な建物で、高さは18m近くもある。上層部には十一面観音や五百羅漢像が安置されていたが、明治の廃仏毀釈によって取り除かれてしまった。

中門と拝殿

 楼門のすぐ先に、中門と拝殿がある。私はいつもの通り、参拝はしないので中門のすぐ手前から中の様子をあちこちと窺がった。はた目から見れば怪しい人物と思われそうだが、私自身はずっと以前からそうした姿で、寺社とは対面していたのであるから、たとえ、そう思われていたとしても特段のことを感じることはない。

 中門は切妻造りの四脚門で、かつては百沢寺の大堂(現在の拝殿)の門として建てられた。柱の黒漆塗りが特徴的で、拝殿の丹塗りとは好対照になっている。

 拝殿は百沢寺の大堂(本堂)として、1640年、第三代の津軽信義のときに完成した。外部は全面丹塗りで簡素に見えるが、内部は極彩色に意匠された部分もあり、なかなかの見応えだそうだ。真言宗の寺院らしく、密教寺院本堂のとしての佇まいを有しているようだ。

末社の白雲神社

 本殿の東側に、末社の白雲神社があった。祭神は多都比姫神(たつひひめのかみ)といい通称は「お滝さま」だそうだ。神社そのものよりも白雲大龍神の幟の数の多さに驚かされる。裏手の森は深く、さぞかし湿気の多いところのようなので、霧が白雲となってお岩木様を守護するのだろうか。 

手水舎の水

 白雲神社の裏手に滝があるが、その水もまた伏流水となり、写真にある手水舎のところから再び姿を現す。長い年月をかけて雪解け水や雨水が地下に染み込み、それが清らかな水となって龍の口から吐水される。

 手や体、心を清めるには最適な水かもしれない。もっとも、私はただ、写真を撮っただけだが。

異なる角度から岩木山を眺める

 岩木山神社を離れ、次の目的地に定めた大森勝山遺跡に向かうため、県道30号線を北へ進んだ。この道は「岩木山環状線」の名がつけられているように、岩木山の東側の裾野を取り囲むように造られている。なお、山の西側には県道3号線(弘前鯵ヶ沢線)があるので、岩木山をぐるりと一周できる道が整備されていることになる。

 360度、どの角度から眺めても岩木山は美しい表情を見せてくれるが、活火山らしく、近くで見るとなだらかに思えた裾野はそれなりに変化しており、山頂は富士山の天辺よりも遥かに起伏に富んでいる。それだけに、独立峰でありながらも極めて豊かな姿を人々の前に展観してくれているのである。

 岩木山神社は山の南南東に、大森勝山遺跡は山の北東に位置するため、私はいろいろな角度から、”お岩木山”の姿に触れたのだった。『帰ってこいよ』の歌は流さなかったけれど。 

◎大森勝山遺跡(国の史跡)

環状列石

 写真の大森勝山遺跡は、縄文時代晩期の集落遺跡であり、紀元前1000年頃まで集落として存在していたと考えられている。岩木山の北東側裾野から伸びる舌状台地(標高143~145m)の上にあり、とりわけ環状列石(ストーンサークル)がよく保存されている。

 祭祀に利用されたと考えられている環状列石は、盛土された楕円状のサークル(長径48.5m、短径39.1m)の上に77基の石組みが置かれている。この石は、近くを流れる大森川や大石川から運ばれたもので、大きさは1から3mの輝石安山岩である。また、250点以上の円盤状石も発見されている。

 また、その他の遺物として石鏃、石斧、石皿、土偶なども発掘されている。 

冬至の日には山頂に太陽が沈む

 環状列石と岩木山との間では、大型竪穴建物の跡が1棟見つかっている。

 冬至の日には。集落から岩木山を望むと、ちょうど夕日が山の頂に沈むそうだ。縄文人(もちろん、彼・彼女らが自称していたわけではない)が、あえてこの地に集落を構成した意味が私にはよく理解できる。

津軽富士見湖に立ち寄る

ため池に架かる”鶴の舞橋”

 北津軽郡鶴田町に、岩木山からの流水を集めた人造湖の「廻堤大溜池」があり、その愛称が「津軽富士見湖」と言うらしいので、立ち寄ってみることにした。人造湖とそれに映る津軽富士(岩木山)の姿を眺めるためであった。

 が、溜池には写真の「鶴の舞橋」と名付けられた木造の美しい橋があり、良い意味で、その偶然に感謝した。

 溜池は1660年に津軽藩第四代の津軽信政が新田開墾のために造成を命じたもので、現在でも、津軽平野の田んぼ約400haに水を供給しているという、なかなか価値の高い人造湖である。

 江戸時代には、この地に鶴が数多く飛来したという記録があり、なかでもタンチョウヅルがもっとも多かったそうだ。こうした田んぼに鶴がやってくるという光景から、この地は鶴田と名付けられたそうだ。なかなかドラマチックな名前ではないか。

丹頂鶴自然公園内の鶴

 湖の一角には「丹頂鶴自然公園」があった。現在では、丹頂鶴は北海道にしか飛来しないため、1997年にロシアからつがいを譲り受けて開園した。その後、この地で生まれたり、多摩動物公園から借り受けたりして、現在では10羽の鶴が飼育されている。

端麗な橋と岩木山

 鶴の舞橋は、樹齢150年以上の青森ヒバを利用し、三連のアーチを描いている太鼓橋で、この手のものとしては日本一の長さ(300m)を誇っている。

 もっとも、誇示するべきは長さではなく、その曲線の美しさであり、何よりもその先には美しさを極めた山が存在しているのである。どこかの知事やそのシンパが「万博リング」とかいう無駄金を使って木造の日よけ・雨よけを造っているが、どう工夫したにせよ、この橋の美しさには遥かに及ばないはずだ。

 偶然とは言いながら、やや遠回りしてこの湖に立ち寄った甲斐は十二分にあった。もっとも、ツアー客は結構な数が訪れていた。つまり、私がその存在をただ認識していなかっただけだったらしい。

◎亀ヶ岡石器時代遺跡を少しだけ訪ねる

遮光器土偶のモニュメント

 現在、東京国立博物館に所蔵されている左足のない大型遮光器土偶が発掘された(1886年)のは、つがる市木造にある「亀ヶ岡石器時代遺跡」からである。眼窩が誇張され、両目は顔から大きくはみ出している。これが、イヌイットエスキモーが使用するスノーゴーグル(遮光器)によく似ていることからそう名付けられた。

 その後は各地で同様のものが発見されているが、亀ヶ岡からのものが最初だったことで、この遺跡の名は全国的に知られるようになり、2021年に世界遺産に指定された「北海道・北東北の縄文遺跡群」のなかでは、三内丸山遺跡につぐ知名度があると思われる。

 なお、亀ヶ岡の地名は、由来のわからない甕(かめ)が数多く出土するところから、“かめがおか”と呼ばれてたことによるそうだ。

 写真はその遮光器土偶のモニュメントで、この背後の台地から無数の遺物が発見されている。この地は縄文海進の時代に古十三湖が誕生し、現在でも数多くの池や沼が周囲に点在している。

 海と砂浜と内陸を分かつのは、屏風山と呼ばれる砂丘である。この砂丘のために内陸から流れてくる多くの小川は出口を失い、内陸部に広い湿地帯を生んだ。それが広大な津軽平野を形成したのである。現在でも、十三湖から鯵ヶ沢まで約30キロもの長い砂浜が続いており、その海岸線は「七里長浜」の名称を持っている。

 なお、亀ヶ岡はその長浜の少し内部にあり、かつ、やや台地状になっているため、集落を形成するにはとても利便性の良い場所だったのだろう。 

発掘後なので看板のみ存在

 亀ヶ岡の遺跡群は発掘が終わって、すべて元の姿に戻されているので、写真のような看板があるほかはここが著名な遺跡なのだという面影はない。ただ、遮光器土偶のモニュメントと、プレハブの小さな小屋とトイレがあるのみだ。それゆえ、ここを訪れる大半の人は、モニュメントをバックに記念撮影をおこなうだけである。

 もちろん、近辺では発掘は禁じられているので、新発見を期待するのは断念すべきだろう。

 なお、土偶の足が欠けているのは、たまたまのことではなく、儀式に用いられるときに、あえて体の一部を切断して供えたからだと考えられている。そのため、完全な形で発見されることはとても少ないそうだ。 

農薬散布用ドローン

 亀ヶ岡にいてもとくに目に付くものはないので、この地からは早々に引き上げ、津軽平野の真ん中の道を通ってホテルのある五所川原市街へと向かうことにした。

 その途中で、ドローンが田んぼの上を飛んでいるのを見掛けたので、車を路肩に止め、しばしその様子を見学した。数分後にドローンを操縦している人が私のところにやってきた。そして、田んぼに農薬を散布しているのだということを教えてくれた。

 どの農家も人手不足なので、ドローンが使えるようになって随分と作業が捗るようになったとのことだ。そういいながら、その人はドローンを写真にように軽トラに積んでしまった。それまで、私はただ口を開けたままドローンが飛翔している様子を見ていただけで、撮影することをすっかり忘れていたのだ。

農薬散布中のドローン

 もう作業は終わりなのかと尋ねたところ、奥のにある田んぼで作業するために軽トラで移動し、そこでまたドローンを飛ばすというので、私は今いる場所で待つことにした。少しばかり(実際には結構長かったかも)話をしたあと、彼は作業のために軽トラに乗り込んで、奥の田んぼへ移動した。私は、ドローンが働く姿をここで撮影しますから、と告げ、改めて謝意を表した。

 私は350ミリのレンズをセットし、ドローンが飛び立つのを待った。彼はまず、目的の田んぼには農薬を散布せず、私が撮影しやすい場所までドローンを飛ばしてくれた。それが上の写真である。

 何とか合点のゆくカットが撮れたと思ったので、私は彼に大きく手を振り、さらに何度もお辞儀をした。彼もそれが分かったようで、ドローンを奥の田んぼの上空に戻し散布作業を再開した。

 私は車に乗り込み、窓を開け、そして何度か大きく手を振った。エンジンに火を入れ、私はその場をゆっくりと離れた。

 こうした、偶然の小さな出会いが、心を温かく、そして豊かにしてくれる。

立佞武多(たちねぷた)の館内を見学

高さ20m以上の立佞武多

 ホテルに戻る途中の道に、「立佞武多の館」という6階建ての建物があった。駐車場の係員に聞くと、立佞武多の展示場は午後5時までだとのことだった。時間は50分ほどしかないが、どのみち私の場合はそれだけあれば十分すぎるくらいなので、入館してみることにした。

 立佞武多のことは、耳にタコができるくらい、五所川原に住む知り合いの釣り人から聞かされていた。「一度は見にきてくださいよ」と何度も言われていたが、8月4日から8日の五日間で160万人もの人出があるらしいので、混雑が苦手な私には到底、無理な相談だと思えた。

 しかもその時期は、アユ釣りのハイシーズンなのである。

館の内部は1階から4階まで吹き抜け

 建物自体は6階建てで、それそれの階にいろいろな施設もあるが、1から4階の半分以上は吹き抜けになっており、そこに3基の立佞武多が置かれている。高さは23mもあるので、4階までの高さが必要になるのだ。

 ちなみに、下部には「漢雲」の文字があるが、これは雲漢と読み、「天の川」を意味する。ねぷた祭りの淵源は諸説あるらしいが、ひとつ確実なことは、「ねぷた」とは「眠気」を意味するということだ。

 夏の暑い盛りの畑仕事は眠気をもよおす。眠気を吹き飛ばすために”ねぷけ流し”の行事が行われるようになり、いつしか旧暦の七夕の日にお祭りが行われるようになった。その眠気流しの行事が、やがて冒頭の「ねぷた」の言葉だけが残り、伝統的な催事になったのである。

見事な細工

 「ねぷた」、または「ねぶた」は現在、青森市弘前市五所川原市で、いずれも八月の初旬に催されているが、五所川原のものはとくに「立佞武多」といって、山車の上に高い細工物が置かれているのが特徴的だ。他の地域では横に扇型に広がるものが造作されている。これは津軽藩の初代藩主の津軽為信の幼名が「扇」であったことから、扇ねぷたが一般的なのである。

 五所川原だけは理由は不明だが、高さのあるねぷたが造られた。明治から大正時代にかけては高さが十間(約18m)の山車が造られたそうである。しかし、市内では電化が進み、至るところに電線が張り巡らされたために、立佞武多の運行は困難になり、他の町と同様に扇型のものになってしまった。

 それが、1993年に立佞武多の設計図と写真が古家から見つかり、有志がそれをもとに立佞武多を作製し、96年には岩木川の河川敷で披露した。こうしたことから町中で立佞武多を運行しようという気運が持ち上がり、98年には五所川原市の支援の下、夏祭りで立佞武多が復活したのであった。

 なお、意匠には坂上田村麿をモデルにした武家ものが多いそうだが、上の写真のような女性を描いたものもある。

金魚ねぷた

 立佞武多は三基あり、例年、一基づつ更新される。お祭りでは、立佞武多のほか、写真の「金魚ねぷた」も登場する。なぜ金魚なのかは不明ながら、藩主が津軽錦という品種の金魚を大切にしたからだという説が有力らしい。

 なおお、立佞武多の館の5階にある「遊楽工房かわらひわ」では金魚ねぷたの製作体験ができる(有料)そうだ。また、金魚だけでなく、団扇の製作も行われている。

館内には3基の立佞武多が並ぶ

 写真のように、館には三基のねぷたが収められており、8月4日から始まる祭りの際には、大きな扉が開かれ、ここから立佞武多が出陣するのである。

 なお、立佞武多の製作には半年掛かるそうで、50のパーツを製作し、最後にクレーンを使って2日かけて組み立てるそうである。

 また、4~6月の紙貼りの際には一般の人も無料でその作業を体験できるとのことだ。もちろん、私はたとえ請われたとしてもその紙貼りに参加することは絶対にない。理由は簡単で、不器用だからである。

 私が加わったならば、その立佞武多は質の悪い佞武多になってしまうのは確実である。

 ともあれ、短時間ではあったが、この館に立ち寄ったことは意義深く、件の釣り仲間が、しつこく私に見学に来ることを勧めた気持ちが、今になって分かるような気がした。