徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔07〕徘徊老人・越生~山吹、ツツジ、滝と峠と

越生町には訪ねたい場所がいろいろある

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越生は梅林と同じくらいツツジで有名

 埼玉県の越生(おごせ)町といえば、まず「越生梅林」を思いうかべる。ここは関東三大梅林のひとつとされている。また、梅の実の生産高でも、越生は埼玉県随一らしい。さらにいえば、ユズの生産高は関東一とのこと。

 ところで、三大梅林のあとの二つは「水戸の偕楽園」と「熱海梅林」らしいが、これは誤りの可能性が高い。なぜなら、熱海市静岡県なので中部地方に属するからだ。もっとも、関東地方の法律上の定義はないので、静岡を関東に含めても誤りにはならないだろうが。ウェブサイトで「関東三大梅林」を調べると、どうしても熱海を含めたいらしく「神奈川県熱海市」とある。確かに神奈川県であれば関東地方には違いないが、熱海が神奈川県に属するというのは、牽強付会という他はない。ここは素直に、神奈川県小田原市の「曽我梅林」を挙げておくのが無難ではないか。ことほど左様に、ネットの情報は「怪しい」ことが多々あるので要注意だ。

 私が越生町を目的地として初めて訪れたのは35年ほど前で、梅の花目当てだった。が、その後、越生には梅林以外にも訪ねてみたい場所が多々あることを知ったので、以来、数年に一度程度だが、梅の花の季節以外にもここを日帰り旅の目的地にするようになった。それが「五大尊つつじ公園」であり「山吹の里」であり「黒山三滝」であり「奥武蔵グリーンライン」である。

 越生町を訪れた5月2日は、雨のち曇り、ときどき晴れという「猫の目天気」だった。写真撮影には決して良いとはいえない天候だが、とにかく知人と「犬の駆け足」といった感じで、目的地を訪ねて歩いて(おもに車利用だったが)みた。

越生は「山吹の里」でもある

 兄や姉(全部で4人)に太田道灌の名をあげると、全員が「江戸城」と答える。別のときに山吹の花を指し示すと、今度は全員が「太田道灌」と答える。いずれも「パブロフの犬」状態の反応だった。この「江戸城太田道灌⇔山吹」というトリアーデは、他の人に尋ねてもほとんど同様の返答がある。かなり普遍性をもった三位一体なのかも。

 自生しているのか植樹したのかは不明だが、越生には山吹の花がとても多い。県道を走っていても、山里の道を走っていても、里山を歩いていても、やたら山吹が目に入る。これには太田道灌と山吹との関係を示す「逸話」が作用(反作用?)していることに間違いはないだろう。

 太田道灌越生に隠居していた父親のもとを訪ねる際(鷹狩りに来たという説もある)、不意の雨に遭ったので、茅屋(ぼうおく)に住む農家に立ち寄り、蓑(みの)を貸してもらうよう頼んだ。しかし、そこに住む小娘は、蓑を差し出す代わりに八重山吹の花を無言で道灌に指し示した。この予想外の行為に怒った道灌はその場を立ち去り、後にこの小娘の行為を非難する形で人に話したところ、皆から道灌の無知を指摘され、以来、道灌は武道だけでなく歌道にも励むようになったという、”いかにも”という出来過ぎた話だ。

  七重八重花はさけども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき

  兼明親王 『後拾遺和歌集』より

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県道沿いにある「史跡山吹の里」には茅屋と八重山吹の群生がある

 小娘はこの歌を材料に、「蓑」と「実の」とを掛詞(かけことば)にして、蓑を持ち合わせていないことの詫びを表したのだ。実際に八重山吹は実生しないのだが、田舎の農家の小娘がすぐさまこんな機転を働かせることができるとは考えられないので、後世に作られた小話にすぎないだろう。反面、太田道灌は武人としても歌人としても優れていたのだろうが、いささか功を誇り過ぎたために謀殺されたという事実と照らし合わせると、この話は出来過ぎ以上の意味を持つのかもしれない。

 太田道灌の墓は越生にもある。著名な人は分骨されることが多いので、何か所かに墓があることが多い。この地では「龍穏寺」の小高い墓所に埋葬されている。

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山間にある龍穏寺。境内には山吹とシャガが多く咲いていた

  前述したように、道灌の父親はここ越生で隠居生活を送っていたので、父子は並んで眠っている。太田道灌の往時の権勢を思うと墓はあまりにも小さいが、この謙虚さが彼にあったなら、もっと違った形の道灌像が歴史に残ったであろう。

 

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道灌とその父の墓。思いのほか小さい

五大尊のツツジは見事に咲き誇っていた

 五大尊の山すそにある公園には、10種類、約1万本のツツジが植えられている。”関東一”をうたっているが、その真偽はさておき、例年、大型連休時に咲き誇るツツジ群は今年も健在で、見事というほかはない。中には樹齢300年以上という”古木”もあるが、ツツジは樹齢が1000年といわれているので、300年といえばまだ”壮木”かもしれない。

 ツツジは普通の街中の街路樹や庭木としていたるところで見られるが、そのほとんどが刈り込まれているため、ツツジは低木と思っている人が多いようだが、実際には5mほどの高さになる樹木なのである。

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里山の斜面を利用して植えられている。見ごたえはあるが、”歩きで”もある

 五大尊の境内には、”札所巡拝碑”がある。四国八十八カ所霊場だけでなく、西国・坂東・秩父百観音霊場の「写し霊場」コースが整備されている。ツツジを見物しながらコースを巡ると、全国の霊場を巡るのと同じご利益があるとされている。私は本場の四国八十八カ所霊場をすべて回ったことがあるが、幼いころからの習性として、お参りは一度もしたことがないので、ご利益を受けたことがない。

 五大尊は密教系で、不動明王降三世明王大威徳明王、軍荼利(ぐんたり)明王金剛夜叉明王という五大明王を指すとのこと。五大尊堂と霊場写しコースを巡り、お祈りし、かつツツジの美しさに触れれば、きっと良い事があるだろう‥‥多分あるいは、もしかしたら、運が良ければ‥‥

小さな滝は深い森の中にある

 越生梅林のある里山道からゆっくりとすそ野を上って行くと、”黒山三滝”に通じる道に出会う。「黒山三滝入口」の標識があるのですぐに分かる。道の右手には駐車スペースがあり、この日は満杯に近い車が止まっていた。滝までは、ここから三滝川に沿うだらだらとした坂道を上って約15分で最初の滝である「天狗滝」の入口に到達。

 天狗滝は、三滝では一番落差があり約20m。が、岩石が崩落しやすい場所にあるため、滝近くまで行くことはできない。滝の近くまで寄らないとその全貌を見ることはできないのだが、”ここから先は立ち入り禁止”の言葉を無視してまで前に進むほどではないと思ったので、立ち入れるぎりぎりの地点から滝を見上げた。今年は川、沼、池、湖の多くで水量が不足しているため、この滝もかろうじて水が落下しているといった状態であった。

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左から女滝、男滝、天狗滝。水量の少なさが迫力を減じている

 天狗滝入口から男滝・女滝まではあと数分。昔ながらの風情の土産店の前を過ぎると滝に出会える。上方にあるのが男滝(落差10m)、その下にあるのが女滝(落差5m)。ここも水量が極めて乏しかったので、迫力という点では感じ入るものはなかった。が、周囲の森を見回すと、その急勾配といい、足場の悪さといい、整備されたハイキングコース以外、上るのは極めて困難と思えるほど森は深いようだ。

 それもそのはず、この黒山一帯は、以前から修験道の修行場として使われており、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が開いたとも言われている由緒正しい修行場なのである。

 滝自体はレッドチャートと御荷鉾(みかぶ)緑色岩との境に形成されている。特に天狗滝ではチャートの赤い岩肌がよく見えるはずだが、あまりにも苔むしているため確認は難しかった。一方、三滝川、その本流筋の越辺(おっぺ)川では、緑色岩が河原に多くころがっている。

 駐車スペースの車の多さに比べ、滝を訪れる人は極めて少なかった。黒山三滝からは奥武蔵グリーンラインの傘杉峠に抜けるハイキングルートがあるので、そちらに向かったのかもしれない。一方、駐車場で出会った人々はハイキングのいでたちではなかったので、近くの”古式ゆかしい”お店で時間をつぶしていたのかもしれない。

峠道にある奥武蔵グリーンラインを行く

 黒山三滝から東秩父村に抜ける”奥武蔵グリーンライン”は尾根筋を進む林道で、道はかなり細い。落石も多い。さらに何度もハイキングコースと交錯しているので、事故の危険性もある。が、ここをあえて進むのには訳がある。ところどころであるが、景色が素晴らしいのである。

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顔振峠からの眺め。大地の皺がよく見える

 三滝から林道を進み、最初に出会うのが顔振(かぶり、かあぶり、こうぶり)峠。標高は500m。この高さが具合良く、前方に広がる幾重もの尾根筋や丘陵が「大地の皺」のように見える。数年前、峠の茶屋で知り合ったお爺さんとその皺の数を数えたら13本もあった。ここより低い場所では手前の山が視界の先をふさぐので見える皺の数は少ない。ここより高い場所では、皺の凹凸がはっきりしなくなるので、皺を数える動機が希薄になる。

 義経や弁慶の一群は、奥州へ逃れる際にこの道を通ったそうな。この峠から見る景色があまりにも素晴らしく、前に進む足をしばしば休めてこの景色を見るために振り返った。ここから”顔振”の名がついたそうな。

 この日は雨あがりの束の間の晴れ間だったので水蒸気が立ち込めていたためか、視界良好とはいかなかった。それでも、13筋目の丹沢山塊もかすかながら見えた。写真の右手にある、この中では一番高い山が大岳山(おおだけさん、1267m)。私の地元では”キューピー山”と呼んでいて、多摩地区中部に住む人々にとっては自分の位置を知る”ランドマーク”になっている。が、ここからではとても”キューピー”の頭には見えない。ちなみに、峠の茶屋のご主人に山の名を尋ねると、「大岳山かも」という面白くもなんともない答えが返ってきた。確かに、ここからでは山のコブ程度にしか見えない。この写真にはないが、この右手には正三角形の頂上を持つ蕎麦粒山(そばつぶやま、1473m)がよく見え、これが顔振峠のランドマークになっているのだ。

峠道を歩く~峠の向こう

 道はかつて、異界につながる恐るべきものと考えられていた。漢文学者の白川静によれば、”道”の字の首は、異界の人の首という意味を表し、しんにょうは行くを表す。つまり、道を行くときは異界の人の首を捧げ持ち、それを呪力として邪気を払いながら進むのである。道は他者との交流によって豊かになるものとして存在するのではなく、なるべく忌避するものであったようだ。

 こんなことを最高の釣り仲間であったN氏(故人)に話をしたところ、「それなら、峠道であればもっと奇怪なものに多く出会えるはず」と言い、人生の最後に作る予定の映画を『峠の向こう』にすることにしようと、彼は決然した。

 良い景色を求めてグリーラインをさらに進み、関八州見晴台(標高771m)に行くことにした。車を路肩にとめ、約10分坂を上ると見晴台に着く。

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見晴台への峠道。雨上がりなのでやや滑る

 峠道を歩いていたとき、再びN氏のことを思い出した。

 N氏は都心の一等地に豪邸を構える大金持ちの映画監督(担当はドキュメンタリーと美術)。一方の私は、多摩のド田舎のあばら家に住む、しがない予備校講師(担当は数学と政治経済)。N氏は私の15歳上。普通なら一緒にいるはずのない二人を結びつけたのは”釣り”。大きな磯釣りクラブに入り、そこでN氏と出会い、意気投合した。磯釣りはクラブ員と出掛けることが多かったが、渓流釣りには二人で行った。彼の車で行くときはいつもクラシック音楽がかかり、私の車のときは中島みゆきオンリー。彼は大酒のみで私は下戸。

 彼は渓流釣りのときは、できるだけいろいろな山の渓谷に出掛けることを望んだ。よく釣れる場所に出会っても、同じ場所へ再訪することは望まず、常に新天地を求めた。その理由は、『峠の向こう』のロケ地探しも兼ねていたからだった。大金持ちの彼は、気に入った山があったらそれをひと山ごと購入するというのだ。そしてそれを自分の映画の舞台に適するように改造するらしい。実際、以前に山に立てこもるゲリラを描く映画を作るときも、山を買い取ったとのことだった。

 が、知り合いの釣具店の若旦那にそそのかされて二人は鮎の友釣りを始めると、完全に釣りの方に熱中し、映画のことが話題に上ることは少なくなった。それでも、鮎釣り場に出掛けるときには山々を通過し、釣りをしているときにも山は常に目に入るので、話題から消えることはなかった。

 小さな集落に住む少女は、自身の好奇心から峠の向こうにあるとされる村に出掛け、そこで修羅の世界に出会う。這う這うの体で逃げ出した少女は自分の集落に戻るが、そこはさらに過酷な修羅の世界に変化していた。峠を越えるたびに村の世界は畜生→餓鬼→地獄と落ち込んでいくというプロットをN氏は私に語り、「脚本は君に任せたから」といってイワナやアユの骨酒をひたすら飲みまくって寝てしまうという日々が続いた。

 結局、映画は完成することなく、N氏はすい臓がんでこの世を去った。彼が死の間際に残したテープには、中島みゆきの『誕生』がエンドレスに録音され、その音楽に重ね、私への感謝と映画が日の目を見なかった悔悟の言葉が語られていた。

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峠の向こうには、やはり魅力的な景色が広がっていた

 関八州見晴台に到着し、周囲を眺めた。ややガスっていたため決して眺望環境は良くなかったが、それでも東京都心、丹沢山塊、秩父連山、日光連山が見て取れた。

 峠の向こうには綺麗な景色が広がっていた。しかし、詳細までは見えなかった。

 細部(ディテール)に宿るのは、はたして神々なのか、それとも悪魔なのか、私には知る由もなかった。

 

〔06〕徘徊老人~渡良瀬紀行

渡良瀬川との出会い

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渡良瀬川の右岸から流れを望む

 渡良瀬川の名前を知ったのは、小学生のときだった。本を読むことはまったくなかったが、地図や図鑑を見るのはさほど嫌いではなかった。悪天のために外で遊ぶことができなかったときは、兄と一緒に地図帳を広げ、地名探しゲームをよくおこなった。片方が地図帳の中から気になった地名や川、湖、山の名を読み上げ、それをもう一方が地図の中からそれを探すという他愛もない遊びなのだが、これが結構面白かった。地図の上だが、このころからすでに徘徊の兆しがあった。その遊びの中で、もっとも印象に残った川の名前が”渡良瀬川”だったのである。

 中学生になると、この川は「音の清らかさ・情緒深さ」とは異なり、長い間つらく厳しい戦いの舞台となっていた(現在も解決したわけではない)のだということを知った。断片的ではあるが、「足尾銅山鉱毒事件」「田中正造」「天皇への直訴」「谷中村の廃村」「渡良瀬遊水地」という言葉が情報として目や耳から入り込んだ。それでも「わたらせがわ」という音は、私にある優美で甘美な思いを抱かせ続けた。

 放浪が始まった高校時代からは、旅の友が『おくのほそ道』になったため、渡良瀬川についての思いは次第に消え、たとえ"マドレーヌを紅茶に浸し"ても、あの「音の清らかさ」は戻ることがなかった。もちろん、「鉱毒事件」は日本資本主義の典型的な汚点として満腔の怒りを込めて非難し、そのことを肌で感じ取るため足尾町へは何度も出かけていた。田中正造の”非立憲”に対する批判について学び、併せて田中正造の生家や墓地へも行った。当然、渡良瀬川にはかなり多くの回数、触れていた。しかし、川に対する抒情的な思いが蘇ることはなかった。

 それが、ある切っ掛けにより、渡良瀬川への切なる思いが再び私の心に生じたのである。それは、森高千里の傑作、『渡良瀬橋』を聞いたことからだった。

渡良瀬遊水地に立ち寄る

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遊水地の中核である谷中湖

 渡良瀬遊水地の南側にあって、その中核をなすのが”谷中湖(渡良瀬第一貯水池)”である。地図や航空写真で渡良瀬貯水池を見ると、ハート型をした池があるのがすぐに分かる。ハートの窪みあたりには史跡保存ゾーンがあり、遊水地を造るために廃村になった谷中村の役場跡や住居跡などが残されている。

 渡良瀬川利根川の支流だが、一級河川として流域面積は広く、沖積平野に流れ込むと高低差が小さいので、よく洪水・氾濫を起こした。鉱毒を含んだ水があふれ各地の田畑を汚染した。渡良瀬遊水地、とりわけ谷中湖はここで氾濫を抑え、また鉛毒を沈殿させて下流域、つまり利根川へ汚染が広がるのを防ぐ役割を持った。このために、利根川との合流直前の地にあった谷中村を潰したのだ。

 また渡良瀬川は、利根川との合流直前に思川(おもいがわ)と巴波川(うずまがわ)という大支流を合流させているので、水量は相当に豊富だったのだろう。このために、谷中村一帯が標的にされたのである。それにしても、渡良瀬川といい思川といい、なんて抒情的な名前を付けたのだろうか。

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写真右手が思川、左手が渡良瀬川

 私が出かけた日は午前中、雨模様であったので、谷中湖も両河川の合流点も雨に煙っていて見通しは悪かった。

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谷中村役場があったところ。土盛りされているのが分かる

 村役場や住居があった場所は必ず土盛りされている。これはもちろん、洪水から住居を守るための工夫である。史跡保全ゾーンには、こうした土盛りが点々として残っている。確かに、渡良瀬川の洪水・氾濫には厳しいものがあったことがうかがえるが、それだけなら、中部地方木曽川長良川河口付近にみられる”輪中”という対処の仕方があったはずである。やはり、「鉱毒の沈殿」という条件があったために、広大な湿地帯と沈殿池が必要とされたのだろう。

 谷中湖一帯は現在、運動公園や釣り場、散策路などが整備されている。また、渡良瀬遊水地は「ラムサール条約」の保全地に認定されている。しかし、土中には依然として多量の鉛毒が含まれていることを忘れてはならない。

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田中正造の墓がある雲龍寺には記念碑や救現堂もある

 田中正造の墓(他にもあるが)は、渡良瀬川左岸の雲龍寺(群馬県館林市)にある。ここは彼の運動の拠点でもあった。衆議院議員選挙に6回も当選した田中ではあったが、資産をなげうって反対運動を率いたため、72歳で病死したときは一文無しで、残ったものは袋ひとつ。中には聖書、大日本帝国憲法、小石3個などだけだった。

 私には墓参りの習慣はないが、ここ十数年、渡良瀬川を訪れたときは、ほとんどといっていいくらい、この寺に立ち寄り田中の活動のことを想う。そして、”小石3個”の重さをずっしりと感じる。

足利市の中央には渡良瀬川が滔々と流れる

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足利といえば足利学校をまず思い浮かべる

 足利市は観光地として年々、訪れる人を増やしているが、その多くは「あしかがフラワーパーク」で、今頃は”藤棚”で大賑わいだろう。私にとって花は好きなもののひとつだが、わざわざ混雑する場所にはいきたくないので、”日本一の藤棚”にはあえて近寄らなかった。

 足利市の中心部は渡良瀬川の北側(左岸側)にある。足利荘の発展に大きく寄与したのは足利尊氏だろうが、その基礎は彼の先祖が築いた。市街地の観光スポットとしては「足利学校」と「鑁阿(ばんな)寺」が代表的。これらはお隣同士なので、周囲の石畳の道ともども、散策には絶好の場所だ。ただし、学校の方は入学料(参観料420円也)を徴収される。

 学校事務局が発行するパンフレットによれば、この学校は”日本最古の学校”とのことだ。創建は奈良時代とも平安時代とも鎌倉時代とも言われてはっきりしないが、確実な資料としては室町時代の上杉憲実(のりざね)がこの学校を再興したことが記録にあるらしい。学校の住所は”足利市昌平町”とあるので、ここはすぐに「儒教」を中心にした学校であったということが分かる。昌平は孔子の生誕地だからだ。校内にある”孔子廟”は現在改装中なので、その姿を見ることはできないが、以前に見た記憶によれば、なかなか見事な建築物である。

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鑁阿寺の太鼓橋と山門。この奥に国宝の本堂がある

 鑁阿寺は学校のすぐ近くにある。元々は足利氏の居宅跡で、周囲を土塁と堀が取り囲んでいることから”城”とも目されており、実際、日本100名城のひとつに数えられている。鑁阿(ばんな)は難読漢字だし、難筆漢字ではあるが、何故か、漢字の書き取りテストではいつも平均点を下回っていた私はこれが書けてしまうのである。何しろ、”憂鬱”だって簡単に書けるのだから‥‥これにはトリックがあるのだが、これを教えると誰でも簡単に書けるようになるので内緒にしているが。

 鑁阿は、ここを寺とした足利義兼の戒名である。本尊が大日如来というから宗派は真言宗である。国宝(2013年に指定)である本堂と大きなイチョウが見事だが、私のお気に入りは入口にある橋と山門だ。そして堀には大きなコイ(人によくなついている)が多数泳いでいる。この日も、本堂を参拝する人より、写真のようにコイやハトに餌を与える人の方が多かった。仏のご利益よりも、現世の束の間の楽しみの方が価値が高いのだろう‥‥私も因数分解すれば同類項である。

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若者に人気がある織姫神社

 学校や鑁阿寺がジジババに人気があるとすれば、織姫神社は若者が多く訪れる場所だ。足利市は織物産業の長い伝統があるので、”織姫”を祭るのは当然のことだろうが、ここが人気スポットになっているのは、ここの地理的要素と派手な色彩と「宣伝上手」なことからであろう。

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織姫神社から渡良瀬川渡良瀬橋を望む

 ここは織姫山の中腹にあり眺めがかなり良い。なにしろ渡良瀬川のみならず、森高千里の「聖地」である”渡良瀬橋”を望むことができるからである。ここに来るには230段ほどの階段を上がるのだが、階段の装飾はとても良くできているので、疲労度を若干、和らげることができる。なお、この階段はトレーニングにもよく使われるようで、神社の御触れには「トレーニングより参拝客が優先」というのがある。

 朱塗りの派手な外装はふもとからもよく見え、入口には「ひめちゃんひろば」が整備されている。そして境内には「恋人の聖地」(2014年に選定)として「恋人の聖地の鐘」(西伊豆の恋人岬や能登の恋路海岸にあるのと同類)もある。縁結びの神としても知られ(何しろ織女といえば彦星なので)ここを訪れる若いカップルや良き出会いを求め祈る若い女性の姿も目立つ。

 ここ一帯は「織姫公園」としても整備され、またその周囲はハイキングコースにもなっているので、健康という病を罹ったジジババも多い。なお、神社裏や公園までは駐車場があるので車でも上がれる。楽をして上がる分、ご利益は少ないかも。

森高千里の聖地としての渡良瀬

 「わたらせ」という言葉の響きは森高千里をも惹きつけたようで、彼女は橋を題材にした詞を作る際、自分のイメージにあった橋の名を地図を手掛かりとして探したそうだ。そして、自分のイメージに合致する「渡良瀬橋」の名を見出した。たまたま、足利には学園祭等のコンサートで訪れる機会が何度かあり、その際には渡良瀬橋だけでなく、その周辺の街並みを散策し、歌詞の素材をあれこれ探した。そのひとつが”八雲神社”だった。

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森高千里の聖地のひとつである八雲神社

 八雲神社は「スサノオの命」を祭神とする。スサノオの歌の「八雲立つ」から採った神社名で全国各地にある。足利市にも数社(8社とも言われている)あるようで、神社本庁のサイトで調べたのだが、本庁に登録されているだけでも3社あることが分かった(同系の八坂神社を含めると4社)。したがって、名曲の『渡良瀬橋』の歌詞にある八雲神社がここであるどうかは分からないが、他の聖地との関係上、ここであるとの蓋然性は高い。

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床屋のかどにある公衆電話

 もうひとつの聖地とは、床屋の角にある公衆電話である。上の八雲神社のほど近い所にある。NTTとしては利用度の低いこの公衆電話を撤去する予定だったが、足利市や森高ファン、”渡良瀬橋”という曲のファン(私はここに属する)の強い要望もあって、今現在もポツンと立っている。交差点の近くにあり、かつ、ここは交通量が比較的多いので、写真を撮るにはかなりの勇気が必要だった。

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今回も渡良瀬橋と夕日とのコラボは撮れなかった

 午後2時頃からは渡良瀬川の右岸、5時頃からは左岸の河原に下りて、ずっと流れを見ていた。南風が心地よかったので、風邪をひかずに済んだ。

 夕日に映える渡良瀬橋を撮影したかったのだが、晴れ間は日中のわずかな時間だけで、午後5時前には雲が厚く空を覆ってしまった。川の左岸の砂利場から渡良瀬橋を見つめ、雲の切れ間から日が差して橋を金色に染めることを期待したのだが、西の空がほんのりオレンジ色になっただけだった。

 今回の渡良瀬の旅はここで終わった。

 善と悪、有と無、生者と死者、神の存在と非存在という命題であれば、弁証法的に答えを出すことは可能だろうが、渡良瀬川という名の「心地よい響き」と鉱毒が産んだ絶対悪との関係は、どうしても解きほぐすことはできない。

 それでも、その答えを探すべく、連休後、渡良瀬川の上流部を訪ねる旅が始まる。



 

 

〔05〕徘徊老人~沼津の海岸散歩する

ここに川終わり、海始まる

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川の左岸から河口方向を見る

 狩野川は、私に鮎の友釣りの楽しさと難しさ、奥深さを教えてくれた。鮎釣りは主に中流域で行うので、沼津市はいつも通過し、伊豆の国市の大仁から伊豆市の嵯峨沢橋の間で竿を出す。今回は、鮎釣りはまだ解禁されていないので通過はせず、沼津市の海岸線をあちこち訪ねて歩いてみた。

 まず、狩野川の河口付近を徘徊した。ここで川は終わり、海に注ぐ。「ここに川終わり、海始まる」は私の造語ではあるが、実を言えば、ポルトガルのロカ岬にある石碑の「ここに地終わり、海始まる」からのパクリだ。ロカ岬はユーラシア大陸の最西端にあるので、確かに「地終わる」は妥当なのだろう。さらに言えば、実際にロカ岬に行ったわけではなく、宮本輝という作家の小説の題名からこの言葉を知っただけなのだ。

 すべての川が海に注ぐわけではない。三日月湖のように、川が途中で消失したり、渇水期の大井川のように、流れが痩せて河口まで届かず、あちこちでプール状になってしまったりすることもある。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」ではなく、「濡れずに渡れる大井川」ということも夏にはよくあるのだ。

 狩野川天城山から一気に駆け下るため、下流域に大量の土砂を吐き出す。また、支流も多く、大見川(鮎釣り好きが喜ぶ)や柿田川(清流好きが喜ぶ)、黄瀬川(歴史好き、忍者好きが喜ぶ)などもあちこちから水を集めて狩野川に注いでいる。川からの土砂は平地を形成する一方、氾濫の危険性をいつもその沖積平野にもたらす。

沼津市の名前を勝手に推理する

 地名の由来を知るのは楽しい。ただすぐに調べるのでは面白くなく、まずは字面から勝手に推理してみることにしている。国立市大田区更埴市のように、字面からではまったく見当違いの推理になることもあるが、これはこれでいいのだ。

 この点、沼津はほぼ、字面から判断しても大筋は正しい答えが出せそうだ。さらに、今回のように沼津のあちこちを歩いてみると、その地形からも多くのヒントを得ることができる。

 「沼」は、上記のように狩野川の氾濫が下流域、つまり現在の沼津市街に湿地帯を形成したことから予想できる。また、富士山が蓄えた膨大な量の地下水が、扇状地の端で湧水となって地上に溢れ出ることも沼を形成する要因のひとつと考えられる。一方で、箱根連山からの火山灰や愛鷹山の山体崩壊などが氾濫原を埋めたので、平地のすべてに沼があるわけではないのも確かではあるが。

 「津」は簡単。津は狭義には港を表す。駿河湾は陸地を離れるとすぐに水深を増すので、港には格好だ。また、駿河湾の奥に位置するので、日和見港としても適地となる。また、水深のある海は、豊富かつ特有の海産物をもたらしてくれるので、漁業も盛んになる。このため、沼津のあちこちに良港が形成されている。

千本松原には何本の松があるのだろうか?

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松原は高い護岸で守られている

 千本松原は沼津市から富士市まで10キロほど続く。松は防砂林や防風林としてよく用いられるので、日本各地に「~の松原」の名がある。同じ静岡県には「三保の松原」があり、そっちは「日本三大松原」のひとつに数えられている。三保には羽衣伝説があるので知名度が高いのは致し方ないが、規模ではこっちの松原のほうが断然大きい。ただ、こちらは写真のようにかなり高い護岸が海岸との間にあるので、景観は劣るかも。 

 開発のため、この松原を伐採する計画が持ち上がったとき、先頭に立ってこれを阻止したのが、沼津の海をこよなく愛し、この地で生涯を終えた歌人若山牧水である。牧水は、酒と旅をこよなく愛した。肝硬変で43年で人生を終えたのは酒のせいだったのだろう。彼の旅は多くの地に足跡を残している。私自身、旅は大好きなのだが、いたる場所で、”牧水ゆかりの地”であることを証明するかのような碑を見ると、「こ奴、こんなところにも出没したのか」と感心するやら呆れるやら、だ。

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 牧水は10代のときから歌人として名をなしていたのでその作品は多いが、私が覚えているのはこのふたつの歌しかない。”幾山河”の方は、旅好きならばすぐに共感できるし自分でも似た作品は浮かびそうな気もするが、”白鳥(しらとりと読んでください)”の方は、天才的という他はない。海を眺めていると、たくさんの白鳥が飛ぶ場面によく遭遇するが、空の青が透き通れば通るほど、海の群青が濃ければ濃いほど、白鳥の存在は風景から浮き出てしまう。そんなとき、いつも「あれはオレなんだなぁ」と、心の中で牧水のこの歌をひとり語りしている。

 千本松原は「千本浜」ともいわれ、「白砂清松100選」に選ばれている。試しに100選を調べてみたら、私は75カ所、目にしたことがあると分かった。しかし、その風景を記憶に残しているものは意外に少ない、ということにむしろ驚いた。

 清松はともかく、白砂はここ千本松原には妥当しなくなっている。この海岸の砂や砂利は、富士川が海に送り出したものが海流によって東側に運ばれて狩野川河口までの一帯に蓄積されたものである。が、駿河湾沿岸は海流の影響が強いためか、今では砂は少なく、小砂利や中砂利ばかりとなっている。さらにその砂利ですら潮の影響を受けて量が減少している。「玉石を持ち帰らないでください」という注意書きを出さなければならないほどの減少なのだ。もちろん、県では海岸線を養生するため、適宜、小砂利を運び込んでいるようだ。

 一方、松の数は開発によって一部「虫食い」状態にはなっているものの、まだ30万本くらいはあるそうなので、「清松」は維持されている。

 西伊豆の一部も沼津市

 沼津市というと東海道にあると考えそうだが、行政区域はかなり広く、伊豆半島の西北部や西伊豆の一部も市町村合併によって沼津市域となっている。伊豆半島の成り立ちを語り始めると話の終わりが見えてこないので今回は避けるが、とにかく火山とプレートの移動が作り出した半島なので、海岸線はすこぶる変化に富んでいる。この変化が港を生み、また釣り場を生んでいる。

 北向きの海岸線には釣りに適した堤防が多かったのだが、釣り人の”マナーの良さ”が「釣り禁止」区域の爆発的増殖をもたらしたため、竿の出せる堤防は限定的となっているのがとても残念だ。

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木負(きしょう)堤防はイカ釣り師でいっぱい

 三津(みと)シーパラダイスを過ぎ、県道17号線を西へ向かうと、長井崎、赤崎という連続した岬に出会う。それまでも江浦湾、内浦湾と複雑な海岸線を通ってきているので、この辺りから、ここがかつて海底の火山群であったことが想像できる。

 赤崎の先端部から対岸の江浦湾方向に突き出ているのが、写真の木負堤防である。長井崎や赤崎辺りは木負という集落名を持っている。木負は「きしょう」と読むが、これは「スルメ」を「アタリメ」、「閉会」を「お開き」というがごとくなのだろう。言葉は言霊なのだ。

 私は、この堤防では釣りをしたことはないが、のぞき見は何度となくしている。かつては投げ釣り(シロギスなど底生魚を狙う)やウキ釣り(メジナクロダイなど宙層にも移動する魚を狙う)の釣り師が大半だったのだが、現在は、イカ(特にアオリイカ)を狙う人が圧倒的に多い。正にイカ様様なのである。

 対岸(内浦湾方向)の山々を見ても、その様相はやはり火山群か、プレートの移動が生んだ大地の皺か、なのであろう。

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足保港堤防。北向きの釣り場では一番人気

 西浦と言えば”寿太郎みかん”で有名だが、釣り場としては、足保港にある堤防がこの一帯では一番人気がある。とくにカゴ釣り(大きなウキと餌カゴを付けて遠投する)が盛んで、底近くを遊泳するマダイを狙う。港の前方には養殖イケスがあり、常時、餌が投入されているので、天然のマダイもそのおこぼれを頂戴しようと集まる。そんな欲張りというか横着というか、そんな魚たちを釣り上げようとしてイケスの周辺に仕掛けを投入するのだ。しかし、今春はどの海でも低水温に悩まされているので魚の動きは良くなく、どの釣り人に聞いても「全然ダメ」という返答ばかり。

 この港は景色も”いかにも静岡”というもので、対岸には沼津市が誇る愛鷹山、その向こうには頭を雲の上に出している富士山 が見える。この日(18日木曜日)は昼近くからどんどん雲が湧いてきたので、天辺が少し覗けるだけだったが。

海流が造った不思議な岬、大瀬崎

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すっかりダイビングスポットになってしまった大瀬崎

 大瀬崎(おせざき)は、伊豆半島の西北端にあって、対岸の沼津市街方向に突き出ている。南伊豆の石廊崎近くには同じ「大瀬崎」(こちらは”おおせざき”と読む)があり、磯釣りファンには「おおせざき」のほうが馴染み深い。が、近年、といってもかなり前からではあるが、「おせざき」は絶好のダイビングスポットとして知られるようになり、今では大瀬崎といえば「おせざき」を指すのが当たり前になっている。

 海の透明度はかなり高く、大瀬崎海水浴場は水質が日本一になったこともある。岬に抱かれている浜なので、波もかなり穏やか。それでいて、岸から少し離れると水深は相当あるので、初心者からベテランまでが安心して水中散歩を楽しめるそうだ。

 外海側は潮がかなり速いので、十分に訓練されたダイバーでないと危ないらしい。が、他のスポットでは船で沖に出てから海に入るというのが通常なのだが、ここでは浜からすぐに好スポットへ行けるというのが魅力とのこと。

 15年ほど前は、よくこの外側のゴロタ石浜で半夜釣りに出掛けた。15~20時頃まで竿を出し、10~15mほど沖にあるカケアガリ(水深が段々と増す斜面)を狙うのだ。支度が整い、これからが釣り本番という時間になるとダイバーが海から上がってくる。他の場所では、ダイバーに「魚はいますか」と聞くと、「この辺にはあまりいない」という返事が常なのだが、ここだけは必ず「たくさんいますよ」という答えが返ってくる。それほど魚影が濃いのだ。釣れないことには変わりはないのだけれど。

 大瀬崎は、海流が造った岬だ。元々、先端部にある部分は離れ小島(琵琶島といったらしい)だった。それが、海流が南から西伊豆の海岸に沿って砂を運び、その砂が伸びて (これを砂嘴”さし”という)小島との間をつなぎ岬を形成した。

 黒潮は日本列島に沿って南から北東方向に進むのだが、伊豆半島の先端部に当たった一部の流れは、分枝流となって伊豆半島の西側を北上する。この流れが、大瀬崎では北方向に砂嘴を形成したのである。

 岬の先端部(小島だった場所)には「神池」がある。この池は不思議なことに純淡水なのである。池には淡水魚がたくさん泳いでいる。この池の形成理由は不明だそうだが、湧水以外は考えられないだろう。入り口には元気そうなオバサンが受付(入場料100円)をやっているが、もしかしたら、このオバサンが毎日、バケツで水道の水を運んでいるのかもしれないが。

 戸田港~カニイカと夕照と

  戸田(へだ)地区は沼津市に入る。2005年以前は戸田村だったのが沼津に編入された。戸田の南は温泉と金山で有名な土肥である。沼津市の行政区域は西伊豆のかなりの部分まで伸びているのだ。

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タカアシガニは世界最大のカニ

 戸田といえば「タカアシガニ」が有名だ。最大幅は4m近くになるというから超大型のカニである。食用とされるのはそれほど大きくはないが、それでもズワイガニなどとは比較にならないぐらい大きい。深海性のカニなのだが、駿河湾は水深があるので、このカニが戸田ではたくさん水揚げされたのだ。大きい割には足が細く、味もやや水っぽいと最初は敬遠されたそうだが、食してみると案外おいしい。

 最初に食べたのは25年ほど前だが、値段の割にはおいしくないと聞いていたので注文をためらったのだが、同行の釣り名人が”意外においしいよ”というので、一番安いやつを頼んだ。いざ食べてみると相当においしかったので、これなら中ぐらいのを頼むべきだったと後悔した。

 近年は不漁とのことで、何軒かある食事処の水槽にも姿はほとんど見受けられなかった。店に入れば中にある水槽で実物が見られるのだが、今回は財布の中身と相談した結果、店の看板の模造物で我慢した。

 

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港内の突堤で釣り上げられた大きなイカ

 戸田港も他の港と同様に複雑な地形を有している。また、港の出口は大瀬崎同様の形をした砂嘴で大きくふさがれている。このため、港内はとても波静かなので、かなり大きな船が停泊している。40年以上も前、この港を初めて訪れたときはその透明度の高さに感激したものだが、その後に訪れるごとに透明性が減じていくのは寂しいものだ。

 波静かな港内では釣りが盛ん。水深のある港内には小魚が豊富なためか、大きなブリがよく入り込んでくるそうで、足保港で見たようなカゴ釣り仕掛けで、このブリやマダイといった魚を狙っている。

 港を大きくふさいでいる御浜岬にある諸口神社前の突堤では、ひとりの釣り人がイカを狙って竿を出していた。今の時期は大型のアオリイカが狙えるとのこと。アオリイカ(バショウイカともミズイカとも)は大型になり、イカとしてはもっとも美味とされている。釣り人の特権として何度も食べたことがあるが、この上なく上品な味わいだ。

 この釣り人の竿は大きく曲がっていた。活きたアジをハリに掛けて泳がせ、そのアジをイカが抱き着く。通常の釣りとは異なり、イカをハリに掛けるのではなく、アジに抱き着いたイカを少しずつ寄せてくるのである。このため、強引に糸を巻けばイカはアジを離し、糸を緩めすぎてもやはり離す。常に糸にテンションを掛けながらゆっくりと寄せてくるのである。

 私には絶対に真似のできないほど慎重に寄せてきた結果、見事に取り込んだのが3キロ近くある大型のアオリイカだった。海面近くまで来るとイカは最後の抵抗を示すように墨を何度も吐く。このときまではヤエンといってハリの付いた仕掛けを送り込んであるので、少々の抵抗ではイカは離れることはない。

 私は、その大きなイカを目の当たりにしたとき、感嘆の言葉を発するのではなく、ヨダレを漏らした。

戸田の夕照

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港内から御浜岬方向を望む

  18日は次の日の釣りに備え、戸田港にあるビジネス旅館に泊まった。部屋の窓からは沈みゆく夕日が見えたので、カメラを持って外に出てみた。下層に厚い雲が垂れ込めていたので金色に輝く海をとらえることはできなかったが、夕照を浴びる船と海とをなんとか押さえることはできた。

 イカと夕照は捕らえられたので、あとはカニだ。当然、夕食はタカアシガニという成り行きになるはずなのだが、近くにある漁協のス―パーのパンとおにぎりで、腹の虫を抑えることにした。

水門とメビウスの輪

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展望水門とメビウス

 沼津港の出入り口には津波の侵入と、避難所として役割を果たすための大型展望水門”びゅうお”がそびえ立っている。展望台の位置は30mの高さがあるので、避難所としての役割は十分に果たせそうだ。普段は観光客相手の展望台として公開されている。夜間にはライトアップもされるそうだ。

 水門は「みなと」とも読み、この文字だけで港を表すこともある。沼津市場内から歩いて水門を望んでいたとき、台船の上にあった小舟の名が「メビウスⅢ」であり、その横に「メビウスの輪」が描かれていることに気が付いた。

 舟は台船の上にあってはその役割は果たさず、海の上に浮かんでこその舟なのである。舟が水門を超え、海に出たとき初めて舟は舟としての命が始まる。この限り、水門は海への出口であり海への入口である。水門は出口であると同時に入口として存在している。

 メビウス号にとって、水門は「メビウスの輪」の表なのか裏なのかは誰にも分からない。もちろん、メビウス号自身にとっても。

〔04〕徘徊老人・国分寺崖線を歩く

崖線は私の青春の前に、いつも立ちはだかっていた

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国分寺跡から桜の向こうにある国分寺崖線の森を望む

 今ではとても信じられないことだが、半世紀ほど前の私にも青春時代があった。

 16歳のころ、市の北側に住む少女(同学年)の家を訪ね、国分寺跡のある方へ散策をした。今とは異なり、林や畑の中に住宅が点在している風景だったので、視界にはよく国分寺崖線の森が入ってきた。並んで歩いてはいるものの手をつなぐことはなく、緊張の壁がいつも二人の間にあった。道が細く時折、車や自転車が通りすぎる際、二人の肩が触れ合ったり、手が触れ合ったりすることもあったが、それ以上近づくことはなく、そんなときは決まって無言の状態が続いた。

 会話は少なかった。その少女はもともと口数は少なく、一方、私は男友達といるときは相当に雄弁であったものの、女性の前ではいつも緊張して寡黙になる。さすがに少女とは少しは話せるようになってはいたが、共通の話題を見出すまでには至らなかった。高校は別々だった。少女は学校生活の話を少しした。私と言えば、男子だけの学校だったし、学校生活には何の希望も抱いていなかったので、その手の話は何もなかった。

 私は大抵、前に連なる高台(国分寺崖線)を見て、その段丘崖の成り立ちを話した。また、小学生の時、その段丘崖の向こうまで遠征し、そこに住むベーゴマの名手(のちに中一で同級生になった)に勝利したこと、”たまらん坂”の近くの崖で「ターザンごっこ」をして遊んだことなどを話した‥‥まったく、場にふさわしくない、つまらない話題だった。

 国分寺跡が近づくと人影はほとんどなくなった。私の緊張感は高まり、ますます、話題は見いだせなくなった。思い切って少女の手を握り、明日に向かう覚悟を決めれば良いのにといつも思っていたのだが、それ以上、崖線に向かう勇気も一歩踏み出す覚悟もない私は「そろそろ戻ろうか」という言葉を口にするだけだった。少女のため息がかすかに聞こえた。

 もしもあの時に戻れたら、今度はきちんと前に進むことができるだろうか‥‥いや、戻れたとしても、今度は、カントの超越論的弁証論や『チボー家の人々』の読後感想を延々と語るに過ぎないだろう。

 あの日の胸の高鳴りや締め付けられるような胸の苦しみ~今は持病として不整脈を抱えているが、もしや、あの日々に発症したのかも~馬鹿な話だ。

崖線が私のメインフィールドだった

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幼少時、私を育ててくれた府中崖線

 自宅からすぐ近くに段丘崖があった。地元では崖のことを「ハケ」と呼んでいた。府中崖線である。大国魂神社裏や今では競馬場の駐車場になっているハケは、5~10歳ごろ、ほとんど毎日、遊んでいた場所だ。とくに後者(写真の場所)は今とは異なり、もっと崖は急で、もっと下草は少なく、もっと木が多かったので、ターザンごっこをするには最適な場所だった。木によじ登って縄を結び、その縄をつかんで、木から木へと移る修行をしていた。ほとんど猿のような生活だったので、のちのちも私は「多摩のサル」と呼ばれていた。

 もっとも、猿のようにうまく飛び移ることはできないので、ハケ下に落ちることがしばしばだった。絶えず怪我をしていた。「刷毛に毛があり、禿に毛がなし、ハケに怪我あり」が日常だったのである。

 

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国分尼寺跡から段丘崖へ

 小学校高学年からは国分寺崖線まで遠征することが多くなった。同級生が崖線の上に住む生意気なガキ(写真の場所の崖上方向にある団地に住んでいた)にベーゴマの勝負で負けたというので、その敵を討ちに出征した。その地域は小学校こそ学区が異なっていたが、中学校では同学区になるので、同窓生になる前に早めに勝負を決めておく必要があった。

 勝負はあっけなくついた。もちろん、私の勝ちである。なんとそのガキとは中一のときに同級になった。かつての敵もそれからは仲間となった。こちらとしてはベーゴマの技を伝授してあげたかったのだが、中学生になってからは、さすがにベーゴマ遊びはしなくなっていた。技術の継承はそこで絶えた。残念なことである。

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忌野清志郎の歌でも知られている「たまらん坂

 国分寺崖線もテリトリーに入って以来、急坂として名高かった「たまらん坂」にも出かけることがあった。ターザン仲間の親せきが坂上に住んでいたので、その家にお菓子をねだりにいった折に、「多摩のサル」としての務めを果たしたのだ。

 坂上から望むこの坂はとても急に見え、「これはたまらん」と思っていたが、こうして改めて見上げてみると、国分寺崖線を上り下りするよくある坂のひとつにすぎないと思えてしまう。実際そうなのだが。

国分寺崖線を知らない人々

 国分寺崖線の名前は意外に知られていない。地元から国分寺に出掛ける時も小金井に出掛ける時も坂を上ることは知っているのだが、その坂と崖線の関係は知らないのだ。兄に聞いても、姉に聞いても、小中学校時代の知人に聞いても、近所の知り合いに聞いても、その名は知らないのだ。みんな「多摩のサル」なのかもしれない。

 だから、「たまらん坂」は知っていても、府中街道を地元から泉町交差点に進むときに坂があることも、国分寺街道を国分寺駅に進むバスが、駅の手前で急坂を上ることも、小金井街道小金井駅手前に前原坂という長い坂があることも、東八道路を自動車試験場から三鷹方向に進むときに坂があることも、国立天文台の前に坂があることも、神代植物園に行くときも、深大寺へそばを食べに行くときも、国道20号線を柴崎から仙川方向に進むときも、おしゃれして二子玉川に出掛けたときもみな坂があり、等々力渓谷を散策するときも、東急目黒線多摩川駅から多摩川を渡るときの急カーブが切通しを通ることを知っていても、それが、国分寺崖線がもたらしたのだということはほとんど知らない。皆、すでに「猿の惑星」の住人なのである。

国分寺崖線の成り立ち

 国分寺崖線は、古多摩川の蛇行によって武蔵野台地が削られてできた段丘崖の連なりである。前に述べた府中崖線(立川崖線)も成り立ちは同様で時代が異なるだけだ。

 多摩川は「暴れ川」として古くから知られていた。今では小河内ダムや護岸の整備など治水が進んでいるが、近年では狛江市の氾濫(山田太一原作の『岸辺のアルバム』でも知られる)も記憶に新しい。

 多摩川は源流域から青梅付近までは相当の高低差を短い距離で一気に下る。そこから広い扇状地を作ったため、緩斜面では自分で行き場を見失い、おろおろと蛇行するのだ。ただし、右岸側(川が下るときの右手側。川の右岸左岸を知らない人は多く、釣り人でもほとんど知らない。釣り人も多くはサルなのだ)には今話題の『万葉集』に「多摩の横山」とある多摩丘陵があるので、川はいつも左岸側に寄って蛇行する。こうして国分寺崖線や府中崖線(立川崖線)を形成した。

 国分寺崖線の痕跡が分かるのは、武蔵村山市の国立村山医療センター付近から、大田区田園調布にある多摩川駅付近までだ。村山辺りでは高低差が少なく、その位置を断定するのは難しい。実際、村山説もあれば立川の砂川説もある。詳しい調査と同定は地質の専門家に任せるとして、私のような単なる”崖線好き”は高低差の連なりを探して徘徊するのが楽しいのである。

 詳細は省くが、明確な段差がある立川市幸町にある古民家園の横手からその段差の連なりをたどった結果、私は武蔵村山市の医療センター付近を国分寺崖線の始点と考えたのである(下の写真参照)。右手には「さいかち公園」がある。

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この道の下方に小さな段差がある。大きな樹木が崖線の森の名残り?

国分寺崖線の始点から国分寺跡までを歩く

 崖線の距離はとても長く、寄り道も多くなるので全部を完歩するには数日かかる。今回は崖線の前半戦ぐらいの長さでしかないが、それでも11日、12日の2日かかった。もっとも初日は3時間ほどしか掛けなかったが。

 崖線は「さいかち公園」あたりから始まり、南東方向に進み、大南公園から佼成霊園、西武線玉川上水駅付近を通る。さらにそのままの方向で立川市幸町にある古民家園辺りに出る。

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古民家園の西側の道。この辺りまで来ると崖線ははっきりと姿を現す

 古民家園の東側には「川越道緑地」があり、ここの雑木林は、いかにも段丘崖の森という風情を見せている。

 ここから段丘は南南東方向に進み、”けやき台小学校”の下から、中央線国立駅の東側までさらに高低差を形成していく。けやき台では段差が3~5mほどだったものが、国立駅横では10~15mにもなる。この辺りは宅地化が進んでいるので、崖は削られ緩斜面化されている場所が多いが、神社や寺がある場所では、かなり明瞭に崖の姿を見て取ることができる。

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国分寺市西町にある神明社。崖線の高低差が分かる場所

 また、崖線は交通路を複雑にすることもある。その代表が国分寺市光町にある五差路。崖線の下を走る通りと崖線を南に下る通りと東側から崖線を下ってきて崖下を沿うように走る通りが複雑な交差路を造っている。国立駅のすぐ東側を南北に抜ける道はとても複雑なのだが、これも崖線が東側に構えているためだ。

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複雑な光町五差路。朝夕はかなり混雑する

 南下する崖線はほぼ同方向に、多摩総合医療センターまで続く。ここから向きを東に変え、府中市の武蔵台を東西に横切る。ここでは、崖線の周囲は武蔵台公園、黒鐘公園、国分尼寺跡へと続く。この辺りでは段差は15m以上になるため開発の進みは遅く、また史跡によって崖線の緑が守られている。

 ここから少し北上し、武蔵国分寺跡を崖下に抱え込みながら、崖線はほぼ東西方向に国分寺駅の下、武蔵小金井駅下方向へと続く。

崖線は命の水を造る

 国分寺跡へとたどり着いた崖線は、ここからそれまでとは異なる姿を見せるようになる。湧水群の存在である。武蔵野面に浸み込んだ雨水は出口を求めて段丘崖から湧水となって姿を現す。大地に濾過されているので、水はかなり清らかだ。かつては、この清涼な水を求めて多くの人が集い、それを飲料水などに使っていたことがある。現在では、「この水は飲料水には適しません」などという無粋な表示をよく見かけるが。

 名水百選に選ばれたことがある「お鷹の道、真姿の池湧水群」は国分寺薬師堂、武蔵国分寺跡、都立武蔵国分寺公園などに通じる遊歩道が整備されており、絶好の徘徊路となっている。

 今春は湧水の量が少ないため、お鷹の道に沿う小さな流れは例年のようには澄んでいない。それでも大地から染み出た水を求めてペットボトルに集める老婆の姿があった。

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お鷹の道、真姿の池の原点付近

 私は、この小さな流れの前にたたずみ、しばし思いを半世紀前に戻した。

 水面を見つめ続けていたとき、突然、聖書の一節が浮かんだ

 

 ”わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。”

           コリント信徒への手紙 二 (1987 新共同訳より)

 

 見えないものを支えてくれるのは神なのだろうが、しかし、私には神はいなかった。

 

 

〔03〕徘徊老人・別所沼公園に行く

立原道造を知る

 教室に入ると、顔見知りになったばかりの女性がいた。クラスの中では一番幼そうな雰囲気だったが、一方で、整った顔立ちをしているという印象を抱いていた。彼女は一人で文庫本を読んでいた。私は「何読んでるの、プロレスの本?」と斜め前から声をかけると、彼女は私の顔の方を見て、「詩集、立原道造よ」と微笑みと一緒に優しい声で返事をしてくれた。

 件の詩人のことは全く知らなかった。私は高校を中退し(退学寸前だったので)、数年間は清き情熱をもって”プロボーラー”か”パチプロ”になるために勤しんでいたため、大学に入ったときは20歳を超えていた。彼女よりは2年ほど年長なのにも関わらず、著名な(後で知ったのだが)その詩人の名前すら知らないことがとても恥ずかしかった。親切なことに、彼女は、その詩人・詩集の概略を教えてくれた。あまり興味は持てそうにない内容だと思えたが、クラスの中では一番可愛らしい女性の前でこれ以上恥をかきたくないので、授業に出るのをやめて本屋に出掛け、早速、その詩集を入手した。

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立原道造の思いが形になった”ヒアシンスハウス”(別所沼公園内)

様式美を守りつつ、感情で歌う四季派の詩人

 わずか24年と8か月で夭折した立原道造は、新古今和歌集オーストリア生まれのドイツ詩人であるリルケの影響を強く受けている。このため、代表作の多くはソネット形式(14行詩)で書かれている。最も著名な詩集の「萱草に寄す」(風信子叢書第一篇)にはSONATINE No.1、No.2があり、作品のすべてが14行詩だ。ソナチネ形式ともいわれるが、リルケの影響下にあるならば、SONATINEはゾナティーヌと読むべきであろうか?

     

    晩き日の夕べに

大きな大きなめぐりが用意されてゐるが

だれもそれとは気づかれない

空にも 雲にも うつろふ花らにも

もう心はひかれ誘はれなくなった

 

夕やみの淡い色に身を沈めても

それがこころよさとはもう言はない

啼いてすぎる小鳥の一日も

とほい物語と唄を教へるばかり

 

しるべもなくて来た道に

道のほとりに なにをならって

私らは立ちつくすのであらう

 

私らの夢はどこにめぐるのであらう

ひそかに しかしいたいたしく

その日も あの日も賢いしづかさに?

 

 彼の歌には、なんの気取りもなく、難しい言い回しもなく、透徹な心で、感情で言葉をつづる。それは、彼の愛した新古今和歌集にある西行の歌にも通じるものがあると思われる。

 世の中を思へばなべて散る花の わが身をさてもいづちかもせぬ

 ながむとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ

 ねがわくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ

立原道造の名を久しぶりに見る

 そんなことがあって以来、しばらくは大事にしていた立原道造の詩もその心も、若さを失い始めてからは読むことはなくなっていた。多分、20年以上、その詩人の名を口にすることも、目に触れることもなくなっていた。それが近ごろ、インターネットニュースで、彼の名前を見かけた。「ヒアシンスハウスを見る」という記事には、道造が図案化しつつも具体化されるに至らなかった”ヒアシンスハウス(風信子荘)”が、別所沼公園に造られた詳しい経緯と多くの写真が掲載されていた。

 記事は昨年の6月に書かれたものだ。それが、今年になって目に付くようなったのは、もしかしたら、現在、国立西洋美術館で「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ~ピュリスムの時代」が開催されていることと関係があるのかも知れない。コルビュジエは建築家としてだけではなく画家としても名高い。一方、立原道造は建築家として将来を嘱望されていたにもかかわらず、早世したために実績はない。が、詩人としては作品数は少ないにもかかわらず、その詩は数多くの人に今でも愛されている。ピュリスム(純粋主義)は立原の作品にこそふさわしいのかもしれない。

沼の周囲を徘徊する

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南北に細長い沼。西側と北側に広場などがある

 別所沼近辺には数回出かけたことがあるが、いずれもハウスが造られた2004年以前なので、かりにその沼を見に行ったとしても、立原の詩を思い浮かべることはなかっただろう。

 立原と別所沼との結びつきは、彼が兄と慕っていた詩人の神保光太郎がこの沼のほとりに家を建て、そこを拠点に創作活動に励んでいたことにある。彼はよく神保の家を訪れていたそうで、いずれその近くに別荘(小屋)を建てようと構想していたのが、「ヒアシンスハウス」である。図面やスケッチはかなり残していたものの、実現には至らなかった。その思いが現実となったのは、彼を、その作品を愛した人々の尽力の結果であった。

 詩人の夢の継承事業として完成をみたこの小さな家は、現在、水・土・日・祝に内部が公開されているそうだ。内部には立原が残した多くの資料も見ることができるらしい。訪れたのは月曜日なので開放はされていなかったが、かりに開いていたとしても私は、中に入ることはなかっただろう。私にとっては、彼の14行詩だけで十分なのだ。

 別所沼は公園として整備されており、沼の西側や北側には広場があり、沼を取り囲むような遊歩道やジョギングコースもある。周囲に植えられている樹木が特徴的で、メタセコイアラクウショウといった高木がとても多く、それらが、他の公園とは違った雰囲気を醸しだしている。

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水あるところに釣り人あり

 水があるところでは、ほとんどと言ってよいほど、釣り人の姿を見つけることができる。これは釣り人の性というもので、どうかすると、雨後にできた水たまりにさえ、竿を出しかねないのである。

 釣り人の横にあるバケツをのぞいたところ、ヌマチチブ、クチボソ、タナゴが泳いでいた。いずれも5cmにも満たない小物だが、彼らが使っている仕掛けも繊細なものなので、釣りとして楽しみはかなりあるはずだ。

東西にある段差に沼の成り立ちを見る

 沼には川は流れ込んでいない。のちに造った排水路はあるものの、ここに流れ込むものはない。大宮台地から湧き出した水が台地を削って窪地をつくり、そこに湧水がたまって沼を形成したようだ。

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沼の東側の段差

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沼の西側の段差

 排水路は南に向かっている。現在は暗渠化され、その上は「花と緑の遊歩道」になっている。遊歩道の先には、武蔵野線武蔵浦和駅がある。

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別所排水路は遊歩道として整備されている

 私がここを訪れたのは4月8日。花祭り灌仏会)の日であった。沼の周囲を徘徊中、沼の湿地に、死者にか生者にかは分らぬが、祈りを捧げている小さな仏が数多く見られた。が、それは錯視にすぎず、ラクウショウの気根だった。

 仏の存在は空であり、無なのである。

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気根は仏のよう

 

 

  

〔02〕徘徊老人~スプリング・エフェメラル

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春の先駆け~オオイヌノフグリ

春を探しに徘徊する

 私にとって、春の到来をしみじみ感ずるのは、暦の上でも、日差しの温かさでもない。徘徊中、路傍にある草の花を見出した時である。彼女らが葉を伸ばし始めたことに気が付いたとき春が近いことを思い、その草の花を一輪でも見出した時、私は心に春の訪れを実感するのである。

 その花は「オオイヌノフグリ」であるが、ときには「ヒメオドリコソウ」や「ホトケノザ」、「オランダミミナグサ」であることも。いずれも、いかにも”雑草”という風情であり、ほとんどの人は目にとめることはないので、道の辺にけなげに咲いていても、踏みつけられてしまう場合が多い。それでも、彼女らは毎年、花を付け、私に春を告げてくれる。

スプリング・エフェメラ

 スプリング・エフェメラル~春は儚い。エフェメラルとは命の短さをいう。華やかな時期はいつも短いからこそ、そこに艶やかさと悲しみが同居している。

 中島みゆきの名作に『春なのに』がある。”春なのにお別れ”という表現が秀逸で、「春は別れ」と言ってしまえば、単に卒業を意味するだけだし、「春は出会い」ならば入学や入社を意味し、どちらも当たり前田のクラッカー。それを「なのに」と表したところに名作の名作たる所以がある。

 この心象は、仏詩人のコクトーの「人は多くの人々を知っているが、彼らがどうなったのかは知らない」という言葉にも通じていると思う。

 歴史上の出来事でも、春は「華やかと儚さ」が同居している事柄の場合に使われることがある。1848年の「諸国民の春」であり、1968年の「プラハの春」である。いずれも、背景は異なるにせよ、自由化を求めた運動が束の間の勝利を得たももの、その後はさらなる圧政を生んだという事件だ。自由を完全に勝ち取り、その後も発展を続けたのなら、決して「春」という言葉は使わないはずだ。ここにもスプリング・エフェメラルが含蓄されている。

スプリング・エフェメラル~儚い花たち

 エフェメラルは、生き物にも使われる。カゲロウは幼虫の時期はともかく、成虫の時期はとても短い。「カゲロウのようだった」という言い方は、カゲロウの成虫のように、華やかな時が短かったことを表現する時に使われる。 実際、カゲロウ目の学名はEphemeropteraであり、”エフェメラ”が用いられている。

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スプリング・エフェメラルの代表的な花

  狭義では、スプリング・エフェメラルは、3~4月ごろに咲く多年草の植物を指すことがある。大半はキンポウゲ科のもので、落葉林の多い里山や渓谷、野辺に見られた。が、自然のものは林の喪失、破壊、盗掘などで多くが失われており、今では、保護林や自然園、山野草店や園芸店、趣味人の庭などで見ることが多い。

 私も以前、庭のある家に住んでいたときは、カタクリフクジュソウイチリンソウニリンソウアネモネ、レンゲショウマ、ミヤマオダマキ、セツブンソウ、ミスミソウオキナグサラナンキュラスクレマチスなどを育てていたことがある。

 以上がすべて、スプリング・エフェメラルと呼ばれるわけではなく、特に、フクジュソウイチリンソウニリンソウ、セツブンソウ、オキナグサキクザキイチゲアズマイチゲなどが代表的な存在だ。アネモネオダマキラナンキュラスクレマチスは、今では改良園芸品種として、ガーデニングファンの家やホームセンターの園芸コーナーでは早春から初夏の間、かなり長い期間、見ることができる。

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エフェメラルは目覚め、春の日差しを浴びようと背伸びする

 花を落としたエフェメラルたちは、入梅のころまでは葉のみで生活し、日の光から活力を得る。 が、いつのまにか地上からは姿を消し、初夏から冬の間は根のみで土中にて栄養分を吸収し、春の訪れを待つ。

 多くは3月の初めころ葉を見せ始めるが、中には、花芽が先に伸びて地中から顔を出し、まずは花を開かせてから葉が広がり始め、その後多くの花を咲かせるという品種もある。いずれにせよ、開花期は短く、美しい時はとても儚い。

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イチリンソウは群生することが多い

 イチリンソウニリンソウは群生することが多いため、ひつひとつの花期は短くとも、全体を望めば、ある程度の期間、花に接することができる。

 スプリング・エフェメラルと呼ばれる花たちは、土中にいる期間が長く、その間に根を広げて仲間を増やしている。自然環境の急変がなければ、数株だった花でも、次の春には十数株に増えることが多い。その限り、”世界にたった一つの花” などというものはなく、花はあくまで”類として存在“しているのだ。

 この点、人もまったく同じで、”オンリーワン”を主張するのは幻想にすぎず、単なるエゴでしかない。

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エフェメラルではないが、私の最も好きな花。一人静(吉野静)とは、まさに私のようだ

 

 

 

〔01〕徘徊老人・城ケ島に行く

 ブログ、はじめました。

 「冷やし中華、はじめました」なら季節感を覚えることができるが、いまさらブログを始めたところで、関心を抱く人はほとんどいないと思う。

 日記など、生まれてから一度も書いたことはない。書きたいと思ったこともなかった。SNSにも興味は全くわかない。

 それが、この期に及んでブログをはじめるというのは、徘徊老人として、まだ何とか生きているぞ、という自身の実感を確認したいと思ったことからにすぎない。

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釣りは人生の半分!

 過日、中学校の同窓会があった。同級生から、「今何をしているのか」と聞かれたので、「夏から秋は鮎の友釣り、冬から春は磯や堤防でのメジナ釣り、以上」と答えたら、「ガキの頃と少しも変わらないな」と呆れられた。「相変わらず、お目出たいやつだ」とも。

 こんな時、少し知的なヤツは概ね、開高健の『オーパ!』にある中国の古諺なるものを引用し、「三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。永遠に幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい」とかいう名言(迷言)をのたまってくださる。いったい、何度同じ言葉を聞いたことやら。

 この言葉を聞くと、「幸福を求めるために釣りをするのではない、釣りの結果、幸福が生まれるのだ」と答えることにしている‥‥暇なときは。

 幸福を欲するから釣りをするというのは、仮言命法だ。釣りでなくて他のことでも良いことになる。これは、カント的に言えば非道徳的行為である。我が内なる実践理性は、「釣りをすべし」という定言的命令を私に与える。私にとって、釣りは道徳的義務なのである。「~を欲する」(wollen)としての釣りではなく、「~すべし」(sollen)としての釣りなのだ。この辺を話だすと、大体、自分の周りからは人がいなくなる。気を遣う必要がなくなるので、とても楽である。

 小学生前は近くの小川で、小学生時は主に多摩川で、18歳ころからは海釣りをはじめ、いつしか、日本全国を釣り歩くようになった。川や池、湖での釣りを含めれば、47都道府県のすべてで竿を出したことがある。

 ともあれ、長い人生の半分は釣りに費やしてきたことは確かで、残り少ない余生もまた、釣り中心の生活が続く。

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4月3日の唯一の釣果

城ケ島は今日も釣れず

 海釣りといってもほとんどウキ釣りしか行わず、対象魚はほぼメジナに限られる。関東ではあまり馴染みのない魚だが、西日本、とくに四国や九州では、釣りの一番のターゲットである。関東の海にもメジナはたくさんいるのだが、色が地味なこともあって、市場に出回ることは少ない。自分では釣っても食べることはまずないが、仲間の話では、かなり美味とのこと。少なくとも、タイよりはうまいようだ。

 釣りの対象としてはベストの存在で、釣れるときは馬鹿々々しくなるほどに釣れるが、海況のほんの少しの変化で全く釣れなくなることが多い。というより大抵は釣れず、数匹釣れればまずまず、2桁釣れれば大漁と言って良い。引きはかなり強く、掛けるまで、そして掛けてからも面白い。サイズは10~60cmぐらい。20~25cmは手のひら、30cm以下は足の裏、35cmほどで中型、40cm級が良型、50cm以上が大型、60cmを超えれば超大型だ。

 今回出掛けた三浦半島・城ケ島の磯では、35cm超で一応納得、40cmを超えれば満足といったところ。3月中は、40cm級が顔を出していたので、4月に入れば、40cmアップがわんさか、と期待したのだが、実際、姿を見たメジナは30cmが1匹のみ。私と仲間と3人で、朝7時から夕方6時まで粘っての結果がこれだ。今季は水温の変動が激しく、”4月は残酷な月”なのである。

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諦めの悪い釣友

釣り人はいつも、今日と格闘する

 帰途、釣具店や釣り餌店に当日の結果を報告することがある。ほとんどが最悪に近い釣果なので、励ましの意味だろうか、腕の悪さの指摘なのだろうか、「昨日は釣れたのに」だの「明日は良くなるよ」などとよく言われる。釣り人にとって大事なのは今日なのだけれど。

 昨日釣れていたとしても、昨日に戻って出かけることはできない。明日釣れるとしても、出掛けたときには、すでに今日になっているのである。釣り人に限ったことではないけれど、人は昨日に生きることも、明日に生きることもできず、永遠の今があるだけなのだ。

 東京郊外に住む私にとって、海はあまり近くはない。城ケ島までは約80キロ、要する時間は往復5時間。それでも、磯釣り場としては、城ケ島は自宅から一番近い所にあるポイントのひとつ。時間とお金をかけた結果が、メジナ1匹。

 それでも、後悔は全くない。帰りにはもう、次の釣りの予定と、食い渋ったときのメジナの攻略法を考えている。帰りの2時間半、運転中ずっと考えっぱなしなのだ。そうすべしと、わたしの実践理性はそう要請し続けているのだから。