徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔29〕奇跡の玉川上水(2)~取水口から拝島まで

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羽村取水堰を望む

頑張った人々、そして地域

 奇跡の玉川上水の完成は、庄右衛門、清右衛門の兄弟(以下、玉川兄弟と略す)の努力によるところが大きいとされるが、実際には無数の人々の多大なる苦労の末に成し遂げられたと表するのが妥当だろう。川越藩主・松平信綱の配下の安松金右衛門はもちろんのこと、羽村取水堰の工事には羽村、川崎村(現羽村市)、五ノ神村(現羽村市)、草花村(現あきる野市)、熊川村(現福生市)、福生村、箱根ヶ崎村(現瑞穂町)、河辺村(現青梅市)、千ヶ瀬村(現青梅市)など12ヵ村の人々が関わった。ここでは「檜原村の鬼源兵衛」の活躍もあった。寒村である檜原村ではとても工事に人を送る余裕はなかった。そこで村を代表して源兵衛一人が参加した。彼は大岩を軽々と持ち上げては川岸に放り投げ、一人で九人分の仕事を成したとされている。もちろん伝説にすぎないだろうが、こうした話が残るほど、工事には多数の人々が強制参加させられたようだ。

 開削は取水堰付近から始められて、順次、四谷大木戸まで掘り進められたとされているが、こうした手順では僅か7か月で完了することはなかったと思われるので、上水の経路にあたる村々の人々が強制的に駆り出されて、図面にしたがって同時並行的に開削していったと考えるほうが適当だろう。

 羽村を起点に、川崎村、福生村、熊川村、拝島村、上河原村、砂川村、小川村、鈴木新田、小金井新田、大小金井村、田無村、保谷村、梶野新田、境村、西窪村、上連雀村、吉祥寺村、牟礼村久我山村、上高井戸村、和泉村、代田村、下北沢村、幡ヶ谷村を通って四谷大木戸に至る。ここに挙げた村々(享保以降に開拓された場所は村ではなく新田と称する)の住民の多大な労苦の末に「奇跡の玉川上水」は完成した。

 もっとも、開削が終わっても水がすぐに四谷大木戸まで届いたというわけではなかったようで、最低でも半年、後に現われた新井白石の記述によれば完全通水には約3年掛かったとされている。最新の技術を用いて造られた大型ダムですら試験湛水(たんすい)に半年から数年かけて安全性をチェックするのだから、約370年前の素掘りで造った上水道がそう簡単に通水するはずがないのは当たり前のことだ。ローム層は火山灰なので透水性が高く、きちんと高低差が測られて水が自然流下したとしても途中で土中に染み入ってしまう水は多かったはずだ。また、前回に触れた「水喰土(みずくらいど)」のような砂礫層を通過する場所もあっただろうし、ローム層と砂礫層との間にある薄い「沖積粘土不透水層」を開削中に誤って突き破ってしまったことだってあっただろう。

 そんなときは、多摩川に無数にある小砂利を川床に敷いたり、堤壁に玉石を並べたりして透水量を減らしていったようだ。さらに、赤土に石灰を混ぜると二和土(にわど)といってセメントのように固くなることは古くから知られていたので、この技法も用いられていたのかもしれない。

 いずれにせよ、不備が生じる度に周辺の村人は幾度となく工事のために招集(この場合は召集か?)されたはずである。なにしろ、玉川上水江戸府内の文字通り「生命線」だったのだから。

玉川上水、立川崖線を乗り切る旅にでる

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羽村取水口第二水門

 第一水門で多摩川の水を取り入れた玉川上水は余水があればすぐ下にある小吐水門で多摩川に戻し、主流は写真の第二水門を通過する。いよいよ43キロ、7時間の旅が始まった。

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上水の右岸側にそびえる調圧水槽

 第二水門のすぐ下流の右岸側には、150トンの水を貯水できる「調圧水槽」がある。この設備は、台風19号の際に江戸川の氾濫を救った「地下神殿=外郭放水路調圧水槽」と役割は同じで、緊急時にはこの設備に水を溜め込むことで流量を調整するのだ。あっちは地下に造った広大な貯水槽だが、こっちは高さ約25mの貯水塔だ。

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東京水道取水口。ここから導水管を伝って多摩湖

 第二水門から300から400m下流には写真の東京水道取水口がある。第二水門を通過した主流は早くも分岐される。ここまま玉川上水を流れ下ることができる水はそれほど多くなく、かなりの量は写真の正面に見える水門から地下水路(東京水道)に流れ込み、東大和市北部の狭山丘陵にある「村山貯水池=通称・多摩湖」に蓄えられる。そして東村山浄水場や境(武蔵野市浄水場に送られ、都民の飲料水となる。

 ちなみに、狭山丘陵は古多摩川が削り残した丘で、ある時期、多摩川は丘陵の北側を通っていたことがあるようだ。狭山丘陵の標高は150から160mあるのに対し、早稲田大学の所沢キャンパスは110m地点にあり、西武線所沢駅は73m、清瀬駅は55mと、青梅を扇頂とする扇状地は狭山丘陵の北側にも広がっている。丘陵の南側には、言わずと知れた武蔵野段丘や立川段丘がある。つまり、武蔵野台地は段丘化した扇状地であり、こうしたものは開析扇状地と呼ばれる。

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東京水道取水口を逃れた水たちは第三水門を通過して主流へ進む

 手前の貯水プールの向こう側に見えるのが玉川上水の主流で、左に見えるのが東京水道取水口だ。選ばれし水たちだけが第三水門を下って上水道を進み、最初の難関である立川崖線との闘いに挑むことになる。写真からも分かるように、崖線は上水近くに迫ってきている。というより、実際には上水道が崖線に近づいているのではあるが。

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右岸側に整備されている遊歩道。春は桜花が楽しめる

 第一水門から下流の宮本橋まで約1キロの間には右岸側に遊歩道が整備され、傍らには桜が植えられている。春には桜花が満開となり、大勢の花見客で賑わう。この遊歩道を進むと、上水が立川崖線を切り通して立川段丘面に乗る様子を見ることができる。

 写真の左手が立川崖線で、遊歩道は明らかに盛り土され、この間を上水は流れている。写真の場所は羽村大橋下流辺りで、第三水門を少し下ったところだ。上水は標高125m、崖線上を走る奥多摩街道は132m、右手に見える住宅は122m。取水口の標高は125m、ここまでは誤差の範囲でしかない。前回述べたように、玉川上水は1キロ進むごとに2.2m下るという極めて緩やかな斜度なのだ。第三水門手前では多くの水を蓄えられるように深く、そして広く設計されているので、そこの水面は取水口よりやや高くなっている。それゆえ、第三水門直下では流れにやや勢いがついている。

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遊歩道の盛り土は少しずつ高度を増しているように見える

 写真は羽村大橋の次にある堂橋の下流辺りを見たものである。上水は124m、崖線上は132m、遊歩道下は121mと、さほどの変化はないようだが、実際に歩いてみると、右手の住宅街は遊歩道より高低差が少しだけ増したように思える。少しだが、確実に上水は段丘崖に切り込んで進んでいる。

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堂橋と新堀橋の中間辺り。すでに上水は崖中にある

 堂橋と新堀橋の中間点付近。崖線上は131m、上水は124m、崖下の集落は120m。崖線との差はまだ7mのままだが、集落との差は少しずつ広がっている。上水が沖積低地を流れるだけでいいのなら、この地点で取水口(標高125m)からはすでに5m下っていることになるが、課題はただ流れることにあるのではなく、崖線を乗り切ることなのだ。「水たちにとっては小さな一歩だが、上水にとっては偉大な飛躍なのである」。アームストロング船長なら、さしずめこう語るに違いない。

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遊歩道はすでに土盛り上ではなく、崖中を切り通す

 新堀橋まで来ると、遊歩道は細くなり、すでに盛り土上ではなく崖中を通ることになる。右手には高台が現れ、そこの最大標高は128m、一方、上水は123m、左の段丘上は129mである。上水は少しずつ崖を切り通し、その流れの位置は取水口より2m下がっており、水が自然流下する状態を保ち続けている。

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新堀橋から上流部を望む

 新堀橋から上流部をのぞくと、切り通しを流れる上水の左右の堤壁には無数の樹木が茂っていて、さしずめ、渓谷を思わせる景観が広がっている。こうした景色は下流の加美上水橋、そして宮本橋近くまで続いている。しかし、ここは自然美を親しむために整備された流れではなく、あくまで、目的は江戸府内の飲料水確保のためなのだ。

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宮本橋から上流方向を望む

 宮本橋近くまで来ると、どうやら上水は立川段丘上にほぼ乗ったようであり、右岸側(写真では左側)に続いていた遊歩道はもはや舗装された道になっていて、その脇には住宅も散見されるようになった。その住宅地の標高は125m、上水は122m、左岸側(写真では右側)にあったはずの断崖はもはやなく、右岸側の住宅地と同じ高さの125mになっている。ただし、水面は若干深い位置にあるが。

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宮本橋から下流方向を望む

 右岸側に続いていた遊歩道は宮本橋で途切れ、上水に沿って歩くためには、写真の左手に写っている奥多摩街道の歩道を使わなければならない。しかし、歩道橋の少し先では歩道がなくなるので、川沿いというより車道を隔てた歩道を進む必要があった。

 ここで、この宮本橋周辺の地形を確認しておこう。宮本橋の東側(上水の左岸側)の標高は124m、西側も同じく124m、上水は122m。多摩川本流は橋の西側200mほどのところを流れ、標高は113m、橋の東側600mほどのところにある福生駅は131m程度だ。さらに福生駅の東側600mのところにある八高線東福生駅は138m地点にある。つまり、玉川上水は立川段丘に乗ったとはいえ、まだまだ段丘のヘリをたどっているにすぎないのだ。この辺りの段丘崖は急峻なものではなく、やや緩やかに傾斜し、そして多摩川に近づく場所で一気に河川敷まで落ち込んでいるという二段構えになっている。

 上の3枚の写真を今一度、目にしていただければ分かると思うが、上水は一直線には掘られておらず、小さなカーブが連続している。これは、段丘崖が緩やかに下り、そして一気に落ち込んでいくその間を求めながら進んできたからである。多摩川に寄り過ぎれば流下速度は確保できるものの、もはや立川段丘に上がることは不可能になる。一方、福生駅側に寄れば下流側のほうが高度が増してしまうために流れは止まってしまう。自然流下を確保するためにはさらに切り通していく必要性が出てくるのだ。それも、かなり下流まで。

 簡素な水準器、そして夜間に使用した線香や提灯の明かり、こうしたものだけを頼りにして計測した絶妙なルートを選んで掘り進められた。これが可能であったのは、この地域の出身であったとされる「玉川兄弟」の知識と、開削に駆り出された地元民との協力が奏功したと考えられる。むろん、川越藩の安松金右衛門の英知がここに加わったことはいうまでもないが。

清岩院橋から水喰土公園まで

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清岩院橋西詰南にある中福生公園

 奥多摩街道玉川上水に沿って熊川方向に進むのは、福生駅から圏央道・日の出インター方向へ西に伸びる通りが上水を渡る新橋までで、次の清岩院橋までのわずかの間だが、街道は上水沿いから離れる。したがって、羽村取水口から遊歩道や街道を歩くことで常に目にすることができた上水の流れは、ここで初めて視界から離れることになる。しかし、清岩院橋を渡るときに上水と再び出会い、今度は右岸側に沿った細い道を歩けば、その流れと同伴しながら下ることができる。

 その細い道と、今度は上水の右岸側を走ることになった奥多摩街道との間にある公園が、写真の「中福生公園」である。写真では見えないが、画面の右手側に細道と上水、左手に奥多摩街道が走っている。玉川上水は標高122m付近を流れ、この公園は117m付近にある。この辺りの地形を広くみると、公園の北東側100m付近にある福生市役所は128m、上水左岸にある墓地は127m、奥多摩街道は盛り土上にあるので120m、街道の西側にある住宅街は117m、そのさらに西にある福生高校は115m、そして多摩川河川敷は110mとなっている。ここでも立川崖線は二段構えになっていて、丁度、上水はその一段目の際にあり、中福生公園から二段目がはじまり、緩やかに下りながら河川敷の手前で一気に落ち込んでいる。

 公園には緑と水が多く、湧水を集めた池と噴水設備がある。この湧き水は崖線の一段目の下、つまり上水の右岸下から染み出ているようで、この公園だけではなく、前述の「清岩院橋」の名の由来になっている清岩院の境内もまた上水の右岸側にあるため、湧水の恵みを受けている。

 玉川上水の左岸側を走っていた奥多摩街道が、清岩院橋を渡って今度は上水の右岸側を走るようになった、つまり道がクランク状になったのは、公園の東側にある墓地を避けるためだったと考えられる。というより、そこが墓地になったのは丘状になった地形とも関係があるのかもしれない。丘の手間では、街道は123m地点を走っている。しかし、丘は127mの高さがある。その高台を避けるために、上水の左岸側から右岸側へ移動したのだろうか。が、そうであるならば、今度は「盛り土」が問題となる。丘を切り通すのか、117mの高さの場所に3mの盛り土をするのとでは、どちらが合理的なのだろうか?

 これを説明可能にするのが、上水の右岸にある細い道だ。この道は清岩院橋の下流にある熊野橋の手前で奥多摩街道に合流する。わずか150mほどの長さしかない短い小径なのだ。小径の標高は123mで、合流する熊野橋の西詰も標高は123mである。つまり、この公園の東側の高台にある小径こそ、かつての奥多摩街道だったのではないのだろうかと考えると、すべて合点がいく。盛り土された現在の街道は、最近になって造られた「新道」なのであろう。 

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熊野橋の次にある「かやと橋」から見た上水

 熊野橋西詰で街道と上水とは沿って走っている、しかしこの並走はわずか200mしか続かず、「かやと橋」から下流五番目にある「五丁橋」までの間、上水沿岸を通る道はない。もっともその橋のひとつ上流側にある「山王橋」の左岸上流側に、上水に沿った100mほどの道があるが、これは生活道路ともいうべき存在で、散策路的なものではなく、たまたま左岸に沿って造られたにすぎない。散策路として整備された沿岸緑道は、五丁橋のすぐ下流側にある「水喰土公園」に至らなければ出合わないのだ。この間、約1.3キロ、上に挙げた例外的な100m以外、上水に沿う道はなく、上水の流れに触れるためにはその間にある「牛浜橋」「青梅橋」「福生橋」「山王橋」「五丁橋」の上に立つ必要がある。

 もっとも、玉川上水に緑道が整備されていないのはこの区間までで、水喰土公園からは上水の片側、もしくは両側に散策路が整備され、上水が暗渠化される杉並区上高井戸付近までは、三鷹駅付近をのぞけば、ずっと下流まで上水に沿って歩くことができる。

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沿岸路がないので、気分転換に崖線下まで降りてみた

  約1.3キロもの間、上水に沿った道がないので、すでに上水が乗り越えてしまった立川崖線の様子を探るために「かやと橋」の西詰から続く道を下って崖線下まで降りてみた。写真は、その降りた地点からやや南に進んだ場所で、崖線の様子がよく分かる所だ。私が立っている場所は福生市南田園三丁目辺りで標高は110m、崖上に見える住宅地は122m。崖線の段差は12mもある。

 ちなみに、私が立っている場所から西へ300mほど進むと多摩川左岸の河川敷に出る。そこには多摩川中央公園があり、園内には前回に触れた五日市街道の「牛浜の渡し」跡がある。

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立川崖線下にある「ほたる公園」

 崖線からは多くの清水が湧き出ている。崖線の直下には小さな流れがあり、それが南に下りにつれて明瞭な流れを形成する。その湧水を集めてほたるの養殖をおこなっているのが、写真のほたる公園である。園内には立派な温室があり、それを取り囲むように散策路が整備されている。例年、6月の中旬にはこの公園を中心として「福生ほたる祭」が開催されているそうだ。園内で育てられた500匹ものゲンジボタルが幻想的な光を放ち、人々はその仄かな明かりに酔わされるかのように、特設ステージで繰り広げられる催し物や路地に設えられた模擬店で初夏のいっときを興じている。

 崖線下の流れを追うのは私の趣味のひとつだが、これに心を奪われると上水の行方を見失ってしまう可能性があるので、正気を取り戻した私は、公園の近くにあるスロープを登って奥多摩街道に出た。スロープ下の標高は109m、上の街道筋は121mである。その街道沿いには一度は入ってみたいと思いながらも未だに実現していない「幸楽園」という料亭がある。同じ音だが、表記がやや異なる格安中華チェーン店なら何度も入ったことはあるのだが。

 格安ではないほうの「幸楽園」の南側には「ほたる通り」があり、その道を東に進むと上水に架かる「青梅橋」に出会う。いつもの上水散策なら、橋の先にある熊牛会館前交差点を右折して新奥多摩街道を南に進んで五日市線熊川駅の南側から「山王橋」に至るのだが、今回はそのまま直進して山王橋通りに出会い、その道を南下して山王橋に至った。

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山王橋から青梅線の鉄橋方向を望む

 山王橋は五日市線青梅線とに挟まれた場所にあり、どちらの鉄道も橋からは100m前後の位置にある。両線が近くに走っているということは、拝島駅が近いということだし、そうであるならば、「水喰土公園」はより近いところにある。とはいえ、前述したようにこの橋ではまだ沿岸を歩ける道はない。また、水喰土公園は青梅線八高線に挟まれた場所にあるので、その入り口にたどり着くためには青梅線を越える必要がある。そのため、山王橋の東詰を東進し、青梅線の踏切を渡ってから今度は青梅線に沿って南下し、五丁橋の東詰に出た。

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五丁橋から上水の上流方向を望む

 五丁橋周辺の住宅地は細い道が入り組んでいて、これを迷路と呼んでも誇張ではなく、むしろマイルドな表現であると思えるほど複雑怪奇な町並みなのだ。もちろん、これは拝島駅から北に伸びる三本の鉄道路がそうさせたのかもしれないし、玉川上水の流れがそうさせたのかもしれない。ただし、俯瞰すると、この交錯した迷路は拝島駅の西側まで続いているので、この土地はパズル好きの人が集まって造成したのかもしれない。

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やっとたどり着いた水喰土公園の入り口

 五丁橋を西に進み、青梅線の踏切手前を左折して進むと公園の入り口に至る。前回も述べたように、この奇怪な公園名は決して奇をてらったものではなく、ここの地面は透水性が高いために水をすぐに吸い込んでしまうというところから命名されている。伝承には、玉川兄弟は福生から多摩川の水を取り入れ、ここで砂礫層に突き当たり流した水はすべて土中に吸い込まれてしまったために失敗した、いうものがある。福生から掘り進めたというのは事実とは思えないにせよ、この公園内に残る開削跡は玉川兄弟が上水路として掘り進ませたという可能性はある。実際、古い写真を参照すると、ここの前後600mほどに開削跡が残っているのが分かる。一方、この開削跡は分水路跡という説もあるのだが。

 実際の玉川上水はこの開削路のすぐ北を通っている。位置は最大でも20mほども違わない。しかし、地形の違いは明らかだ。失敗したとされる開削路はそれまでと同じ高さの場所を通っている。一方、実際の上水路は東側に広がる高台を切り通している。標高でいえば、失敗した開削路は標高121から120mのところを通っており、先に挙げた五丁橋付近の121m前後と同じ高さにあり、決して間違いとはいえない。それに対し、際の上水路は125mの高台を切り通している。しかもこの高台自体そう長くは続かず、拝島駅北側ではその姿を消している。

 考えうるに、ここでの失敗はルート選択にあったのではなく、開削自体に問題があったと考えられる。この場所付近は立川段丘のヘリ近くにあるため、ローム層がさほど厚くはないと考えられる。それでも、ローム層の下には必ず沖積粘土不透水層が薄いながらも積もっており、この下に透水性の高い砂礫層がある。一定の流量を確保するためには水路の幅と深さの割合を考慮する必要がある。粘土層までの深さがあまりない場合は水路の幅を広げることを重視し、くれぐれも粘土層までツルハシの先を入れてはならないのだ。おそらく、この場所では誤って粘土層を傷付けてしまい、砂礫層にまで達してしまったのだろう。それゆえ、水が土中に一気に吸い込まれて水路としての役目を果たすことができなくなったと考えられる。仕方なく、この区間では流路変更がおこなわれ、東側にある高台を切り通すことで新しい流路を造りあげたのだろう。

 一部の記録によれば、この600mの区間の移し替えはわずか4日間でおこなわれたとされている。おそらくこうした区間の微調整はあちこちでおこなわれたと考えられる。上水の開削は7か月でおこなわれたとはいえ、通水にはそれから最短で半年、最長では3年掛かったとされている。この半年から3年間がこうしたファインチューニングに費やされたはずだ。こうした改修工事はやはり、土木事業に精通した川越藩の安松金右衛門が主導したと考えられる。

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修正された流路とその上を走る八高線

 前述した理由から、水喰土公園の東側を流れる上水は写真のように切り通しの中を進んでいる。この上を八高線が通っている。折角なので、橋を通過する電車を写そうとその瞬間を待ち構えていたのである。それを思い立ったのは前の電車が通過した直後だった。5~10分ほど待てば次の電車が通過すると軽く考えていた。八高線は単線なので、同じ場所を上下線とも通過する。いくら田舎の電車でも15から20分間隔ぐらいで走るのだろうから7~10分ごとに電車は通るだろうと考えていたのである。

 写真のように、玉川上水沿いの散策路はこの公園内から復活している。撮影場所から拝島駅北口までは900mほどある。細く、そして暗い散策路なのだが、長生き好きの老人や賑やかな親子連れが結構、通るのだ。そのたびに、それらの人々の通過を妨げないように傍らに身を寄せなければならなかった。八高線を甘く見ていた。20分待っても電車が来る気配がなかったのでスマホを取り出し、ジョルダンの乗換案内で時刻表を確認した。日中の八高線は30分間隔の運行だった。私は勝手に、八高線南武線と同格だと思っていたのだ。そういえば、昨今の南武線は扉の横にあるボタンを押さなくても自動に扉が開くのである。25分後、やっと電車が来る気配がした。そして目の前を通過したのが近代的な姿を有した八高線だった。車体はこげ茶色ではなかったのだ。昭和は遠くなりにけり、である。

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玉川上水の上を通る国道16号線

 拝島駅北口付近まで来た。八高線の鉄橋の下をくぐると、今度は右手の高台に「玉川上水緑地日光橋公園」が上水と八高線との間に細長くある。そこは子供たちの格好の遊び場になっているようで、国道16号線の武蔵野橋に近づくにつれ、彼ら彼女らの歓声が聞こえ、橋下近くでは自転車に乗った子供たちとよくすれ違った。同行する母親の姿もあった。

 だれも玉川上水の流れには関心を示さなかった。日常化して全体風景に溶け込んでしまったためなのか、人々の視線は上水の流れには向いていなかった。それでも、上水は流れている。370年近く、ほぼ絶えることなく。

 *  *  *

 ”ホーキングの再来”と評される天才物理学者が著した『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ・NHK出版・2019)という本が評判だ。私も読んで見た。量子論の見地からは「時間は存在しない」と言えることがよく分かった。確かに、現代物理学の立場では「時間は存在しない」らしい。

 にもかかわらず、こよなく愛した人と過ごした時間は、今でも限りなくいとおしい。思い出の中に、しっかり時間は生きている。

〔28〕奇跡の玉川上水(1)~その流路と取水口が決まるまで

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江戸の奇跡的建造物・玉川上水の取水口周辺

玉川上水の謎に迫ろうとした訳は?

 水の確保に苦労した江戸府内は、3代将軍・徳川家光の時代に玉川上水の開削を決したとされる。明確な資料は残っていないが、慶安2~3年(1649~50年)頃のことのようだ。家光は1651年に死去したため、具体的な計画・実施・竣工は4代の家綱のときだった。53年4月4日に開削が始められ、同年11月15日に終了したとされている。わずか7か月余りで完成したことになる(異説は多い)。

 多摩川左岸の羽村取水堰から導入され、終点の四谷大木戸(現在の新宿御苑大木戸門あたり~桜を見る会にご出席される折には玉川上水のことも思い浮かべてください)まで約43キロ(一番新しい統計書では42.7382キロ)。この間の標高差は約92m(羽村堰125m、四谷大木戸33m)なので、1000m進むごとに2.2m下がるという極めて緩い傾斜の下で水が流れることになる。ちなみに、1813年の「上水さらい」(流れを全部止めて底にたまった土砂や汚物を取り除く作業)の際に羽村から四谷までどのくらいの時間で水が流れるのかを計測したところ、約7時間であることが判明した。つまり、平均時速約6キロで水が流れていることになる。現在とは異なり、”傾斜”以外には動力源がない「自然流下方式」なので、上水の流路の決定は最重要課題であった。

 残念ながら玉川上水の全体設計図面は残っておらず、後に書かれた『上水記』が重要な資料とされているが、なにぶん、開削から137年後(1791年)に記されたものなので、必ずしも正確な記録とはいえない。Web辞典の『ウィキペディア』には上水についての詳しい説明があるが、杉本苑子の小説『玉川兄弟』を参考にしたと思われる記載もあり、これも絶対的な信頼性は担保されていない。その他、羽村福生市の人々が残した資料も多く残っているが、やはりこれも伝聞が多いので妥当性があいまいな点も散見される。というわけで、玉川上水の流路決定には謎が多く、それだけに推理のし甲斐がある。私は土木工学についてはまったく無知で、地質学も同様に素人なので正しく考察することはできないが、とりあえず入手可能な資料を集め、さらに現地を徘徊し、その中で自分が理解可能な範囲でもっとも妥当性が高いと思われる「流路決定過程」を考察してみた。

玉川上水開削に至る過程

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玉川上水開削の最大の功労者、玉川兄弟の像

 徳川家康の江戸入府は1590年とされている。当時の江戸は「ここかしこも汐入の茅原」で、茅葺の家が100軒前後という寒村だった。家康はこの地を開発するために浅海を埋め立て、あわせて飲料水確保のため、配下の大久保藤五郎に命じて「小石川上水」の整備をおこなわせた。現在、東京ドームがある辺りが水源だったようで、ここの標高は10~12mほど、現在の神田駅付近は4~5mほどなので(今回も国土地理院の標高が分かるWeb地図を参照。以下、標高、”約”は省略する場合有り)、自然流下で真水を集めることができた。また、赤坂の溜池(桜を見る会の前夜祭が格安価格で行われた某ホテルの南側)は長さ1400m、幅は45~190mもあるかなり大きな「ひょうたん池」で、ここも標高10mほどあるため、やはり上水道として導入された。江戸幕府は1603年に始まり、当時すでに10万人が住むようになったため、飲料水の確保は喫緊の課題だったのだ。一方、開拓された下町の井戸といえば地下から湧き出るのは塩水ばかりで飲用にはまったく適さなかった。

 そこで、上水道の整備が拡大されることになった。井の頭池(50m)、善福寺池(47m)、妙正寺池(45m)からそれぞれ水路を造り、これらを小石川上水と合流させ、「神田上水」として1629年に整備された。いずれの池の水も武蔵野台地のヘリから湧き出る清水が元になっているため、赤坂の溜池の水のような泥臭さはなく、好評の内に多くの在府する大名家や武士、町人に受け入れられた。

 しかし、3代将軍家光が参勤交代制を1636年に確立すると江戸の人口は急速に増え、神田上水だけでは飲料水は絶対的に不足するようになった。浅草(3m)や向島(0m)あたりの下町であれば荒川の水(赤羽で0m)や石神井川の水(王子で5m)の導入が可能だったろうが、大名家の多い場所(例えば紀尾井町で11~17m)では「赤坂の溜池」以外に頼る水はあまりなかったと思われる。

 こうした経緯で、新たなる上水路の開発が企図され、標高20~30m付近に広がる武蔵野台地のヘリにも届く水源地が求められた。当然、目を付けられたのが台地の南側を流れる多摩川だった。先述のように、玉川上水の計画が浮上したのは1649~50年頃とされている。開削の依頼を受けたのは江戸の麹町辺りに住む町人で土木工事業を営んでいた庄右衛門、清右衛門の兄弟(以下、面倒なので「玉川兄弟」と記す)だった。この兄弟の詳細は不明だが、出身は羽村福生村、年齢は30代前半という説が有力だ。上の写真は羽村堰の横にある広場に1958年に建てられた像で、立って堰方向を指し示しているのが兄の庄右衛門、腰を落として測量している風なのが弟の清右衛門だ。この2人には、どんな困難が待ち受けていたのだろうか?

流路の決定過程を考える

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多摩川本流と右岸に連なる草花丘陵

  玉川上水の終点は四谷大木戸とあらかじめ決していたようだ。ここから地中に埋めた石樋を伝って四谷見附まで流し、そこから石樋や木樋を巡らせて各地域に水を運ぶ計画だった。問題は、多摩川からの取水口をどの場所にするのかということ、四谷大木戸までの流路をどのように決定するのかという2点にあった。開削のゴーサインが下る1652年12月までの数年間、2人には取り組むべき課題は多数あった。

 武蔵野台地多摩川が造った扇状地といっても過言ではないので、川が流れる方向と同じく台地は南東に向かって標高を下げる。台地の北東側には荒川が流れ、しかもその川の流域の標高は多摩川流域に比べるとかなり低い。ちなみに府中競馬場の南側において多摩川は標高40m付近を流れ、この場所と同じ経度上にある埼玉県の行田市は私の好きな餃子に似た地名だが、それはともかく、荒川は行田市の中心部の南側を流れるが、その場所の標高は17mに過ぎない。つまり、武蔵野台地は南側が高く北側がかなり低くなっている。当然、台地のどこかに分水尾根があり、ここを突き抜けてしまうと上水は北東方向にある荒川が生み出した低地に流れ下ることになり、標高33mのところにある四谷大木戸に達することは不可能になってしまうのである。

 それだけでなく、そもそも上水が分水尾根に至る以前に、2つの長く高い崖が立ちはだかっていた。暴れ川だった多摩川が3万から2万年前、武蔵野台地に刻んだ2本の崖線である。まずは立川崖線(府中崖線)で、現在のJR青梅線青梅駅の南側辺りで発生し、狛江市の元和泉辺りで消滅する。国分寺崖線武蔵村山市武蔵村山療養センター辺りから立ち現れ、大田区田園調布付近で多摩川左岸に合流する。つまり、上水のルートを決める際には、この2つの崖線を乗り越えるか、崖線が発生する前に台地に乗せるか、崖線が消滅した下流側からスタートするかの三者のどれかから選ばなければならないのであった。

 まず、崖線が立ち現れる前のところに取水口を決めるとしよう。青梅駅の南側が扇状地の出発点(扇頂)になるので、その少し西側を考えてみる。川の右岸側には青梅市の観光地としてよく知られた釜の淵公園がある。その対岸(つまり左岸側)にある青梅市立美術館付近が扇頂のすぐ西に位置する。釜の淵公園には河原がありその地点の標高は150mだ。一方、美術館は185m地点にある。谷を下ってきた多摩川はその強い流れで岸や川底を深く侵食し、急峻な崖を形成したのである。取水口をここにするなら、導水路は35mもの深さまで掘り込む必要がある。当時の素掘り技術では不可能に近い。したがって、この案が採用されることはあり得ない。

 次に、崖線が消滅した下流側を考えてみよう。大田区田園調布のすぐ東側には「丸子橋」が架かっている。この辺りの標高を調べると8mである。これでは四谷大木戸の33mより低いので取水口には無能な地点である。

 したがって、崖線発生前の地点も消滅後の地点も取水口に選ぶことはできない。さすれば、2つの崖線を越えやすい地点を選ぶしかないのである。

 さらに、必至の課題もあった。野火止用水の敷設である。玉川上水をどこかで分水し、一部(一説にはその3分の1)を現在の新座市にある「平林寺」付近まで流す必要があった。これは、玉川上水建設の総指揮者であった川越藩主・松平信綱の要請だった。「野火止」という地名から分かるようにその地域には乾燥した冬場には自然火災(野火)が多く発生していた。しかし、いずれ述べることになるが、その場所は2つの小河川に挟まれた台地にあって水が乏しかったのだ。そこで「知恵伊豆」と言われ、徳川家光の絶大なる信任をを受けていた松平信綱は、玉川上水建造後にはすぐに野火止用水工事に取り掛かる算段をしていたのだった。平林寺の標高は41mだ。したがって、分水のための堰をどこに決めるにせよ、これよりも高い場所が分岐点のメルクマールとなるのだ。

 以上の点から、玉川上水開削のための留意点を整理してみよう。(1)立川崖線(府中崖線)を越えること。(2)国分寺崖線を越えること。(3)標高41mより高い地点を流れ、かつ、埼玉県新座市に用水を引けるような場所を通ること。(4)分水尾根を越えないこと。この4点がとりわけ重要だった。さらに(5)立川断層を越えること。(6)小河川をまたぐ必要があること。これらが加わる。

 こうした幾多の難題を解決する場所は果たして見つかるのだろうか。

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福生市福生付近を流れる玉川上水を熊野橋から望む

流路を探すヒントになったものは?

 現代であれば詳細な地形図があり航空写真もあり、測量機器も技術もある。しかし、当時は詳細な地形図はなく、測量といっても提灯や線香の明かりを頼るか、素朴な水準器を用いるか程度だった。もちろん、開削の際はすべて人力で、ツルハシで掘ってモッコを担いで土を運び出すといった作業がおこなわれるのだ。全体が草原であれば地形の把握は視認でもある程度分かるが、当時の武蔵野の地は雑木林だらけである。「一眸(ぼう)数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃(けい)の畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在してさらにこれを分割している。すなわち野や林やら、ただ乱雑に入り組んでいて、たちまち林に入るかと思えば、たちまち野に出るというような風である。それがまたじつに武蔵野に一種の特色を与えていて‥‥」。これは国木田独歩が1898年に発表した『武蔵野』の一節である。明治30年でも武蔵野には多くの自然が残っていた。玉川上水開削計画はその250年近く前である。畑はほとんどなく、密な落葉樹林帯がほとんどであったはずだ。冬場こそ葉が落ちるので少しは見通せたかもしれないが、その時期以外は葉が満ちて、しかも地面には下草だらけであったはずだ。これでは提灯や線香の明かりを頼りにした測量ですら満足にはできなかったに違いない。

 流路策定には概念図が必要である。そうした資料はまったく残っていないらしいが、実際にはあったはずで、これなしにはおおよそのルートすら決められない。武蔵野のすべての樹木や草原を焼き払ってしまえば別だが。

 おそらく、概念図作成のための一番のヒントは「街道」の存在だったと考えられる。玉川上水の資料には伝承に基づくものが多いが、中には土木工学者の視点から記されたものもある。そうした人は地形をマクロに把握する視座を有しているので、東西を結ぶ玉川上水の流路策定過程を考察するとき、やはり東西を走る「街道」の存在から地形の有り様を参考にするようだ。

 都心から多摩川方面を結ぶ街道がいくつかある。代表的なものは甲州街道、青梅街道、五日市街道、それに人見街道である。街道は人や物資の移動のために用いられる。当然、人が歩きやすい場所、物資を運びやすいルートが選ばれる。それゆえ、街道はできるだけなだらかな場所を選んで通っていると考えられる。また、街道筋には集落が生まれるはずだ。宿泊場所、馬の交換場所、水飲み場、休憩施設、商店などは当然できるだろうし、そうした場所で働く人々が周辺に集まってくるだろう。水の確保のために井戸が掘られる。それによってその地域の地層が判明する。畑が作られれば樹木は切られ、わずかではあるだろうが見通しは良くなる。集落の人々に聞けば、周囲の自然環境がより明らかになる。流路の策定には、こうした情報が大いに役立ったと考えられる。

 甲州街道の道筋では国分寺崖線の高低差がかなりあることが分かる。その反面、崖線上にある武蔵野段丘に乗ってしまえば、例えば現在の京王線千歳烏山駅付近から新宿まで大きな障害はない。もっとも、野川や入間川、仙川もそれなりの高低差を生んでいるが。

 青梅街道は両崖線の北側を通っているため、高低差に関しては問題はない。しかし前述したように、青梅で上水を段丘上に乗せるのはまず不可能なので、この街道筋は流路として考察するに値しないと思われる。武蔵野台地の地形を知る一助にはなるだろうが。

 五日市街道は江戸城修復のための石材を運ぶために開発された。その後も江戸府内に木材や炭を運ぶために利用された。物資の運搬が中心だけに、当然なだらかな場所が選ばれている。この街道は多摩川を越えるため、主に「牛浜の渡し」が利用された。そこはJR五日市線多摩川橋梁と五日市街道の多摩橋との間にあり、現在では左岸側に「多摩川中央公園」が整備されている。ただし、この場所では立川崖線がすぐ東北東側に迫り、高低差は13mある。その一方、この街道が国分寺崖線を越える場所ではまだ高低差は少なく2mほどしかない。これが五日市街道の200mほど南側から崖線は急速に高低差を産み出し、街道から400mほど南側では5m以上の差が生まれている。さらにその1キロ南では10m以上の高低差がある。したがって、国分寺崖線を通るルートを考えたとき、五日市街道沿いを選ぶというのがヒントになるといえるだろう。

 上の3つの街道に比べると人見街道知名度は低い。しかし、府中市大國魂神社から杉並区の大宮八幡宮を結ぶ道としてかつては重要視されていたようだ。この道は府中市側から進むと野川、国分寺崖線、仙川、神田川を横切るので、甲州街道と五日市街道との間の地形を知るには絶好の道になっている。つまり、武蔵野台地の南北方向の「大地の皺」を知るにはとても具合の良い道なのだ。

 このように見てくると、玉川上水の大まかな概念図が浮かび上がってくる。多摩川のどこか(といっても「牛浜の渡し」より北側)で取水し、ゆっくりと台地へと導きながら五日市街道筋に乗せ、そして適度な場所で甲州街道方向へ誘導し、千歳烏山以東で甲州街道に合流し、あとは微低地や微高地をパスしながら四谷大木戸まで導くというコースになる。

 またこれは人見街道を進むと分かることだが、仙川は結構、谷が深く、また神田川神田上水)との交差も避ける必要がある。小河川ならそちらをアンダーパスさせることは可能だが、仙川を越えるためには高さのある導水路を整備する必要があり、神田上水との交差は玉川上水の存在自体が無意味となる。したがって玉川上水は、仙川が湧き出る場所、そしてそれが流れる川筋よりも北側を通り、かつ神田上水と交差しない地点で南下させて甲州街道まで至るルートを考える必要があった。つまり、どの地点で五日市街道を離れ、どの地点で甲州街道に合流させるかの重大なヒントが、人見街道にはあったのだった。

 仙川は小金井市にあるサレジオ学園あたりに水源があり、しばらくは東に進む。そして中央線・武蔵境駅の南側辺りから南東方向に下り、三鷹市上連雀下連雀を通り、新川にある杏林大学病院の東側を通過して京王線・仙川駅の東側で甲州街道と出会う。したがって、玉川上水が五日市街道と別れるのは武蔵境駅の北側辺りからでなければならない。といって、吉祥寺駅近くまで進んでしまうと、今度は井の頭池が駅の南側にあるので、その前に玉川上水も南下する必要がある。こうして、甲州街道との合流点が徐々に明瞭になり、結局、京王線桜上水駅の北側付近で甲州街道に至ることになるのが合理的だ。

 なお、この際、先に挙げた分水尾根が井の頭公園の南側にあり、玉川上水は実にスリリングなルートをたどるのだが、詳細についてはいずれ触れることになるので、それまで乞うご期待!

今度は取水口の決定過程を探ってみた

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台風19号がもたらした被害は羽村堰でも見られた

 玉川上水の大まかなルートは、上に挙げた理由でほぼ確定したと思われる。次に問題となるのが取水口の場所決めである。これには詳細は不明だが、前回のブログで紹介した「府中用水」の開削が参考になったようである。前回にも記したように府中用水ははじめ上水道の整備を企図していた節があった。しかし、国立市にある青柳崖線で甲州街道沿いに乗せても、いずれ国分寺崖線が立ちはだかって計画は頓挫するのは確実なので、この用水は結局、灌漑用水としてのみ用いられた。

 一方、伝承では、玉川兄弟は府中用水を現在、府中市清水が丘にある「東郷寺」辺りで立川段丘上に乗せる計画を進めたという話がある。しかし、工事中に砂礫帯に突き当たり、水をいくら流し込んでも川床が砂礫では水を吸い込んでしまうために、この工事は断念せざるを得なくなり、関わった人は責任を負わされて処刑されたらしい。このため、のちにその辺りは「悲しい坂」と呼ばれるようになったという話なのである。物語としては興味深いが、何度も言うように玉川上水計画であれば、この部分の工事が仮に成功したとしても、その先にある国分寺崖線のところで挫折するので、この工事と玉川上水計画とを結びつけるのは無理がある。玉川兄弟が本気で上水開削の一環としてこの工事を進めたのだとしたら無能の誹りは免れえないだろう。仮にこの工事が本当におこなわれたのだとすれば、それは府中や調布においてのみの上水計画だったのだろう。ともあれ、国立の青柳近辺や府中の清水が丘近辺は玉川上水の取水口にはならないのだ。

 取水口の位置は絞られてきた。青梅市では川の断崖がきつくてダメ、昭島市の多摩大橋辺りから下流は府中用水の経験でやはりダメ。さすれば、想定可能な位置は、河辺・小作から拝島までの間に絞られてくる。しかし、河辺辺りはまだ河成崖が30mもの高さがあって開削は不可能だ。一方、拝島付近は秋川との合流点があって水量の増減が読めないので、これらも候補地にはできない。したがって、小作から福生辺り(拝島駅西側にある睦橋の上流)が有力候補地になる。

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福生市熊川にある水喰土公園内に残る遺構

 JR五日市線拝島駅熊川駅との中間あたりに「水喰土(みずくらいど)公園」がある。玉川兄弟はこの辺りを取水口として開削を進めたところ、写真のあたりに砂礫層が広がっていたため、流した水はすぐに地中に染み込んでしまったという。そのため、ここは「水を喰う土地」=水喰土と呼ばれるようになり、玉川兄弟は2度目の失敗(1度目は府中用水)を犯してしまったとされる。しかし、この辺りを取水口とするためには先に挙げた五日市街道の「牛浜の渡し」辺りから掘り込む必要があるが、その地点の標高は109m、水喰土公園の堀は119mなので、この短い距離で10mの高低差を埋めるには無理がある。この点は後に研究されたようで、玉川兄弟が掘った場所は経路のひとつではあったが浸水が激しいためにやや上部に移し替えられた(実際、このすぐ上(標高121m)に玉川上水の流れがある)という説、この堀は水喰土だったからではなく玉川上水の分水跡という説の2つが有名だ。

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玉川兄弟はこの辺りを掘って岩盤に突き当たった?

 また、玉川兄弟が取水口に考えたのは今少し上流の「永田橋」のすぐ上辺りという説もある。実際、写真のように「堀」らしきものが残っている。写真の下方辺りに「福生かに坂公園」がある。2度目の失敗は「水喰土」だったからではなく、ここを掘り込んだところ岩盤に突き当たってしまったためにそれ以上掘り込むことを断念せざるを得なかったから、というのである。しかしこれも不思議な話で、ここはすでに立川段丘に入り込んでいるので、上はローム層、下は砂礫層で、そのさらに下が上総層群の基底部である。地中深く掘り込んでいくならこの上総層群に突き当たることもあるだろうが、崖を掘り込んでいくのだから砂礫層に出会うだけで岩盤に当たることはないはずだ。これも、玉川兄弟の苦難を「物語化」したものにすぎないだろう。

取水口はいよいよ絞られてきた

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羽村取水堰第一水門

 取水口の位置はさらに絞られてきた。小作から羽村までの間である。玉川兄弟の失敗により、松平信綱は配下の安松金右衛門に指揮をとるように命じた。安松は播磨出身で河内で育った。西国は水害の多い場所なので、その地で育った安松は土木事業に詳しかった。実際、玉川上水だけでなく、野火止用水新河岸川や川越街道の整備も彼が指揮している。そうであるならば初めから安松が出てくれば良さそうなのだが、当時の町奉行の神尾元勝が玉川兄弟を指名したので、いったんは信綱も彼らに任せたのだろう。しかし、失敗続きで業を煮やし、結局、安松に指揮をとらせることになったようだ。

 安松は取水口の候補を3つに絞った。上から羽西、羽加美、羽東である。羽西には現在、小作取水堰がある。ここから多摩川の水を取り込んで山口貯水池(狭山湖)に貯め、浄水場を経て東京都の水道に送られている。羽加美は阿蘇神社がある辺りで、羽東は現在の羽村取水堰がある場所だ。

 取水口からは長い導水路が必要である。現代であれば取り込む水量は機械設備によって調整できるが、江戸時代にはそうした技術はないので、長い導水路で水量を調整しなければならないのだ。しかも取り入れるのは常に水量に増減がある自然河川からなのだ。一か所の取水口だけでの水量調整は不可能で、水が多い場合は下流の何か所にも吐水口を設けて余水を多摩川に戻す必要がある。このためには、しばらくは多摩川に近いところを流れる必要がある。また、流れの速さも調整しなければならない。最新の研究では、玉川上水のようなローム層を流れる川の場合は時速5キロ程度が適正らしい。速すぎれば両岸や川底を掘ってしまい、遅ければ泥砂が底に堆積してしまう。先に触れたように、玉川上水は時速6キロ程度で流れていたらしいので、両岸を石で補強し、川底に小石を敷けば、なんとか課題はクリアーできると考えられたはずだ。

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取り込みすぎた水を多摩川に戻すための余水口

 3案とも、長い導水路を求めうる場所にある。しかも、この長い導水路は、立川崖線を越えていく役目も負わされている。そこで安松の3案を検討してみよう。

 まず上流の羽西だが、現在、小作取水堰の標高は131m、左岸上の台地は145mと14mもの差がある。江戸時代の多摩川の上流には小河内ダムがなかったので、今より水量は豊富だったから水面はもう少し高かったと考えられるが、それでも10m以上の差がある場所を掘り込むのはやや厳しい。この点、やや下流の羽加美辺りの水面は129mで、阿蘇神社下の台地は136mとなる。その差は7mあるが、かつての水面の高さを考えるとその差はもう少し縮まる。3案目の羽東は水面が125m、台地が132mで、差は7mと羽加美と同じだ。ちなみに、玉川兄弟が目星をつけたものの岩盤に阻まれたとされる「福生かに坂公園」辺りでは、水面が114mで台地が126mとその差は拡大している。これは、立川崖線が多摩川左岸に迫ってきているからだ。

 以上の理由から、取水口の位置は羽加美か羽東に絞られた。両者の条件は同じである。それならば、導水路がやや短くて済む羽東のほうが少しだけだが労力は節約できる。こうした経緯をへた結果、取水口は羽東、つまり現在の羽村取水堰がある位置に決まったと考えられるのだ。 

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流路を変えるための「牛枠」。今ならテトラポッド

 写真は多摩川の流路を変えるために使われた「牛枠」と呼ばれる川倉で、これを多摩川の右岸側に並べて流れを左岸方向に導き、水が取水口に入りやすいようにした。今ならコンクリート製のテトラポッドを用いるだろうが、当時はそのようなものはないので、木材を写真のように組んで、これが水流に耐えられるように重石として竹で組み中に石を入れた蛇篭(じゃかご)を積み上げた。

 現地に行くとよく分かるのだが、多摩川羽村堰の手前で大きく流れを変え、南向きだったものが東向きになって堰のほうへ向かっている。これは南下する流れの先に草花丘陵があったためにコースを東方向に変えざるを得なかったのだが、その流れを固定するように、丘陵の前にはこうした牛枠が並べられているのだ。一方、右岸側にはあとから造成したような(実際、造成したのだが)低い台地がある。これは明らかに流路変更の結果として生まれた空間で、その場所を宅地(かつては畑か?)として造成したと考えられる。

   * * *

 今回は導水路脇をたどり、拝島駅付近まで歩いた。が、その前に「立川崖線をいかに越えたのか」という大きなテーマが残っている。この点もやや長くなりそうなので、今回はこれにて終了です。撮影はほぼ終わっているので次回は早めに更新します(釣行が多く控えているので分かりませんが)。

〔27〕多摩川中流散歩(2)~水と府中崖線と

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復旧未定の日野橋を望んで

川の氾濫が生み出す功罪

 川の氾濫は人々に災いをもたらす。台風19号による大雨で数多くの河川が決壊や越水、逆流したことで流域に住む人々に多くの被害を与えた。反面、歴史的に見れば川の氾濫は流域の土地や人々に幾多の富をもたらしてきたという面も否定はできない。農地には水が不可欠だが、その源は川から引き込まれた水路であることが多い。近年では化学肥料の使用が当たり前だが、かつては洪水によって上流部から肥沃な土が田畑に運ばれたことで、中下流の農地では連作が可能になったという点も見逃せない。

 「暴れ川」だった多摩川でいえば、度重なる氾濫と流路変更で武蔵野の扇状地が形成されただけでなく、その地形に「起伏」という刻印を残し、厳しくもあるが豊かな自然環境を人々や動植物のために創造したのだった。ずっと以前に取り上げた国分寺崖線も、今回少しだけ触れる府中崖線も、わざわざ削り残したために多くの自然が残されている「狭山丘陵」や「浅間山」も、水の町といわれる東久留米市の地形も、玉川上水や野川の流れも、東京競馬場多摩川競艇場が沖積低地に造られたことも、皆、多摩川の恵みによると表しても決して過言ではない。この川の躍動が多くの犠牲を産み出したことも事実ではあるのだが。

 前回は多摩川中流域の川沿いを京王線多摩川橋梁から是政橋まで歩いたが、今回は府中四谷橋から日野橋まで、さらに範囲を少し広げて、古多摩川が約2万年前に削り出した府中崖線と流路が固定しつつある多摩川との間の沖積低地(氾濫原)を散策してみた。多くは川が育んだ「実り」に触れているが、やはり大増水がもたらした負の側面も語らないわけにはいかなかった。冒頭の写真は、そのマイナス面の現代の象徴で、一本の橋脚(写真では右から3本目)が流れの圧力によって沈降したために橋げたが少し傾き、それゆえに通行止めが続いている日野橋の現在の様子である。撮影日には点検車両が2台、橋の上に止まっていたが、まだまだ復旧活動へは一歩も前進してはいない。

府中四谷橋から日野橋まで

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1998年に開通した府中四谷橋

 前回に触れた京王線多摩川橋梁の上流側にあるのが写真の「府中四谷橋」で、1998年12月に開通した。府中市の四谷地区と多摩市の一の宮地区とを結ぶこの橋ができたことで、中央道・国立府中ICから多摩センター方向への移動がスムーズにおこなえるようになった。お陰で前回に触れた「関戸橋」の渋滞が減り、個人的にはとても助かっている。

 この橋を車で通ることはあまりないが、橋の北詰近辺に小中学校時代の友人が住んでいるので、彼の家に出掛けたときにはついでにこの橋まで足を伸ばし、橋上から多摩川や浅川、さらに西に広がる山々の景観に触れることがよくある。私にとってこの橋は、自動車のための通行路というより景色を眺めるための散策路として存在している。

 ところで「四谷」という地名だが、江戸時代初期に作成された『武蔵田園簿』には「四ッ屋村」の名で記載されている。この周辺には「谷」はとくに見当たらないので、のちになって「屋」がたまたま「谷」と記されるようになったのだろう。わずか四つの家から始まったとされるこの村の石高は『武蔵田園簿』によれば田方が83石、畑方が36石とあるので稲作の割合が高かったようだ。もっとも、同じ時期の是政村は田方が244石もあったので、その時期の「四ッ屋村」はまだかなり小さな集落だったと考えられる。

 京王線中河原駅から西に伸びる道がある。これは「四谷通り」と呼ばれているが、四谷4丁目辺りにはこれに直行する「三屋通り」がある。この通りのどこかに3軒の家から始まった集落があったのだろうか。それにしても、こちらの通り名にはまだ「屋」の名が残っているから面白い。

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汚水処理水の放流口

 府中四谷橋の北詰から多摩川左岸の土手(府中多摩川かぜの道として整備されている)を上流に向かって歩いた。次に目に留まったのが「北多摩二号水再生センター」で処理された水を多摩川に放流するための水門設備である。このセンターには国立市の大半、それに立川市国分寺市の一部の汚水と、この地区では合流式下水道方式を採っているために道路の汚れを飲み込んだ雨水が合わさって流入し、それを最新の技術で処理した上、この場所で多摩川に放流している。もちろんこの水門は、多摩川本流が大増水した場合の放水路への逆流を防ぐ役目も担っている。

 この水門のすぐ向こうの土手下側には多摩川沿線道路が走っていて、その道と北へ向かう道との丁字路(四谷五丁目交差点)がある。その北へ向かう道が先に触れた「三屋通り」であり、その交差点が通りの起点になっている。

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2007年に完成した石田大橋

 日野バイパスは、国道20号線の「国立インター交差点」から八王子にある「高倉西交差点」まで通じている。このバイパスが開通する前の国道20号線は、日野橋交差点から日野橋、中央線日野駅付近を通って八王子方向に進んでおり、かつ日野橋交差点以西は片側一車線であるためにかなり混雑していた。それが、バイパスが開通することによって渋滞がやや緩和された。バイパスの完成と同時に、その間の甲州街道都道256号線に格下げされ、代わってこの日野バイパスが国道20号線になった。

 写真の石田大橋(国立市谷保・日野市石田間)のすぐ下流には「西府本宿床止め」がある。写真左手にその一部が見える。水が高いのでブロックの頭は少ししか姿を見せていないが、平水時にははっきりとその存在を誇示している。この床止め(とこどめ)とは、早い流れによって河床が洗堀(せんくつ)され、川の傾斜が変わって流路が不安定になることを防ぐための構造物だ。このときのように、増水中に姿を隠すことで役目を果たしている。姿を見せているときには役に立たない。忍者のような存在なのかも。

 川の右岸側(日野市側)には高圧送電塔が2基見えるが、その間には雪を被った富士山の姿が現れている。これからの季節は空気が澄んでくるので、こうして河原の土手を散策しているとき、しばしばその存在に触れることができる。写真ではやや見えづらいが、富士山の姿を一部塞いでいるのが丹沢山塊の大室山で、この山は府中市近辺から富士山の姿を探すときの目印となっている。

 ところで、この石田大橋を見ている辺りはすでに市境を越え、国立市に入っている。

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中央道多摩川橋

 石田大橋の次の見えるのが中央自動車道多摩川橋だ。私の場合、中央自動車道は高速道路の中ではもっとも利用頻度は高く、自宅から中央道に入るときもそれから降りるときも国立府中ICを利用する。この橋を渡って山々の方角に進むときは高速道路の流れに乗り始めるときであり、山々を背中に背負いながらこの橋を渡るときは、もう出口が近いので追い越し車線から走行車線に戻ることにしている。写真撮影の前日にもこの橋を渡っているが、こうして橋を眺めていると、またすぐに出掛けたくなってしまう。山の連なりが視野に入るときは、私にとって出陣のサインだからだ。

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河川敷まであふれた水によって破壊された国立中央グラウンド

 前回にも触れたように、ここでも河川敷にあるサッカー場や野球場は台風による大増水で破壊され使用不能になっている。それでも河川敷に茂るハリエンジュ(ニセアカシア)は無事だったようで、来年の初夏には香りの強い白い花を纏うことになるだろう。木々が無事だったのは、この辺りの川幅は下流域より広がっているためだろう。土手自体もこの先でいったん途切れ、しばし青柳崖線(府中崖線の南延長線)が土手の役目を果たすことになる。

 この川幅の広さから流れも緩やかなことが多かったためか、かつて、ここには「万願寺渡船場」があったとされる看板がある。江戸時代のある時期には、この辺りに甲州街道の渡り場があり、人々は日野宿を、あるいは府中宿を目指して川を渡った。

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少し向斜している日野橋

 日野橋(立川市錦町・日野市日野間)は1926年に完成した。8月に開通したのでまだ元号は大正だ。昭和は同年の12月25日に始まる。それまで甲州街道を行く車は「日野の渡し」で、いかだの上に乗せて対岸まで行き来した。冒頭の写真にもあるように日野橋は台風19号の影響で橋脚が少し沈降したため、橋げたはその部分から少し向斜してしまった。これにより日野橋は通行不能となり、現在でも復旧の目途はまったくたっていないようだ。

 日野橋が通行不能となったために、車は再びいかだに乗って行き来するようになった、というわけではない。前に挙げた石田大橋、それに多摩都市モノレールの下には立日橋(立川市柴崎町・日野市日野本町間)があるので、これらが利用できるまでは”いかだの復活”はないだろう。

 ところで、「日野の渡し」はいつごろから「万願寺渡し」にとって代わったのだろうか?「万願寺渡し」は多摩川の北上によって府中崖線下を通っていた甲州街道そのものが崖線の上への移動を余儀なくされたために1684年に廃止され、代わって日野橋と立日橋との間にすでにあった「日野の渡し」が甲州街道の渡船場に格上げとなったのだった。

 石田大橋の完成が日野橋を格下げし、日野橋の完成が「日野の渡し」を格下げし、「日野の渡し」が「万願寺の渡し」を格下げした。そして今年、日野橋が陥没した。多摩川の流れは、こうして歴史を翻弄する。

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立川公園には野球場と陸上競技場がある

 日野橋北詰の東側に立川公園がある。野球場には入ったことはないが、陸上競技場には何度か入ったことがある。いや、入っただけでなく走ったこともある。はるか昔、私が中学生のときたまたま陸上競技部の部員だったので多摩地区の競技会に参加しここを走った。また、高校教師のとき、これもたまたま陸上競技部の顧問だったので、ここには引率という立場で来たことがあった。いずれも遠い昔のことなので記憶は鮮明ではなく、ただ何度かここに入り、そして走ったことがあるというだけ。それでも、少しは懐かしさを感じる。

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立川公園の北東端にある根川貝殻坂橋

 サイクリングロードにもなっている多摩川左岸の土手は、前に触れたように国立中央グラウンドの先で途切れている。このため、土手上を府中から立川方向に走ってきた自転車好きはいったん土手を離れて青柳崖線の上を少し西に進み、貝殻坂という名のついた細い道を多摩川方向に下り、根川に架かっているこの橋を渡って立川公園の南側に出ると、復活した左岸の土手に出る。

 貝殻坂の名の由来は、この辺りでシジミやハマグリ、イガイ、カキの貝殻が多く見つかったことにあるらしい。『新編武蔵風土記稿』には「土中をうがてば蛤の殻夥しく出づ。土人の話に古へはこの辺も海なりしと伝ふ」という記述があるという解説が橋のたもとにあった。実際には貝塚があったようで、しかも出土した貝殻の大半はカキだったらしい。ともあれ、橋の主塔にはカキ殻ではなさそうな貝のオブジェが付けられている。

 橋の下を流れる根川は、もともとは立川崖線から湧き出た水が集まったもので、途中で残堀川と合流し分水されて立川公園の北側、つまり青柳崖線下を東に進んで府中用水取水門の手前で多摩川に戻されている。根川自体は湧水が源になっているので清流だったらしいが、汚水を相当に含んだ残堀川に合流してからはかなり汚れが目立つようになったため、後には埋め立てられてしまった。しかし、かつての清流を懐かしみ復活させる動きがあったことから、水再生センターで高度に処理された水を下流側に流すとともに、かつてあった河道を含めて根川緑道として整備された。根川貝殻坂橋は、この「復活」した流れの上に架かっている。

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府中用水青柳取水口

 府中用水は、府中三村(本町、番場宿、新宿)、是政村、上谷保村、下谷保村、青柳村の七ヵ村の灌漑用水の確保のために、江戸時代の初期に開発されたとされている。しかし、別の資料によれば、現在の国立や府中、さらには調布や三鷹、ひいては江戸市中の上水確保のための開発計画が元になったとされている。何のことはない、玉川上水の先駆的計画だったようだ。

 現在の昭島市にある多摩大橋付近から多摩川の水を引き入れ、これを根川に流し込んで青柳崖線下に導き、写真にある青柳取水口から崖線を少しずつ切り通して青柳段丘、立川段丘に用水路を甲州街道まで導き、あとはほぼ街道に沿って東に流せば江戸市中まで流せると考えたようだ。そこで、国土地理院が公表している「標高がわかるWeb地図」で関係する場所の標高を調べてみた。

 府中用水の取水口の標高は約65m(以下標高と約は省略)、谷保天神の大鳥居付近は70m、青柳崖線上は68m程度なので、切り通せばなんとか谷保天神までは流せる。さらに現在の南武線西府駅は63m、府中駅は56mなので青柳段丘さえ越えられれば、立川段丘上へは容易に導ける。味の素スタジアム前は43m、調布駅前は37m、京王線柴崎駅は32mなので楽勝だ。しかし、京王線・仙川駅付近は49m、千歳烏山駅は48m、現在の玉川上水甲州街道に合流する桜上水付近が47mと柴崎から東に流すのはまず不可能に近い。立川段丘から武蔵野段丘との境に国分寺崖線が立ちはだかっているのだ。

 ちなみに、現在の玉川上水を見ると、早めに立川段丘に乗り、さらに国分寺崖線が高まる前の場所(玉川上水駅付近)で武蔵野段丘に乗っている。このため、小金井公園前で70m、三鷹駅で60m、井の頭公園(実際にはここは相当の難工事だが)で56m、そして桜上水で47m、明大前で44m、笹塚で42m、新宿駅南口で37m、終点の四谷大木戸で33mと順調だ。つまり、府中用水の上水化計画は国分寺崖線の存在がそれを白紙にさせたのだ。国分寺崖線は、私の青春だけでなく(本ブログ第4回参照)、府中用水の前にも立ちはだかったのだ。

 こうしたわけで、府中用水は結局、府中や国立近辺の田畑を潤すための灌漑用水路として開発が進められた。江戸初期は多摩川の流路が現在の位置に定まりつつあり、しかし、それまでの古多摩川の流路も網状流路として残っていたため、古多摩川が沖積低地に刻んだ河道を利用して開発されたのだった。後述するが、府中用水は実に多くの分枝流を有しているが、これは残されていた網状流路がそうさせたのだ。

 ところで、写真にあるように11月現在では取水口は閉じている。ここが開けられるは5~9月頃で、農業用水が不要な時期は手前の余水口から多摩川に戻されている。なお、取水口付近に流木などが多く散らばっているのは台風19号の際の大増水によるものだ。

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青柳崖線を刻んだ緑川排水樋管

 緑川は旧陸軍立川飛行場の排水のために造られた人工河川で当初は立川排水路と呼ばれていた。米軍が占領した時期は相当に汚れた水や油が流されたらしい。現在は全区間が暗渠化されており、写真の排水樋管からだけその流れを見ることができる。なお、府中用水はこの施設の下を横切り、青柳崖線に沿って東に流れる。写真左手の土手下あたりに府中用水取水口の設備が少し見えている。

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青柳段丘上に移設した青柳稲荷神社

 多摩川左岸から貝殻坂を上り、青柳段丘の際を東方向に進み、上記の府中用水取水口と緑川排水樋管に立ち寄ってからさらに府中方面に戻ることにした。写真の神社は段丘崖上にあるが、1671年の 大洪水によって多摩川の氾濫原にあったとされている青柳島が流失してしまったため、村人ともどもここに遷宮されたらしい。『新編武蔵風土記稿』によれば、「この社は府中本町安養寺の持」とある。府中の安養寺といえば、私の父母が眠っている天台宗の寺だ。東京競馬場のすぐ横にあり、競馬開催日は寺自体が現世利益を求め境内は有料駐車場と化す。

府中用水の流れを追って

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青柳取水口が閉じているため水がほとんどない府中用水

 稲荷神社を後にして、帰りは多摩川沿いには戻らず、府中用水の行方を追うことにした。用水は少しずつ青柳崖線から離れ、沖積低地の田畑を潤すために南東方向に向きを変える。写真は、用水が向きを変える直前の場所を撮影したものだ。河道はあるが水はほとんどない。もちろん、これは青柳の取水口を閉じているためだ。わずかに水があるのは、ここを訪ねる前の日にやや多めの雨が降ったのでそれが残したものだろう。開門される来年の5月には流れは復活するはずだ。

 この河道は前述したように古多摩川の流路であり、多摩川が現在の位置に移った後にも、増水時にはここにも流れは来ていたと考えられる。仮に先述の上水計画が成功したとしても灌漑用水も必要なことは確かなので、やはりこの河道は使用されているはずだ。

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府中用水谷保堰

 南東向きに進んできた府中用水は中央道の手前で二手に分かれる。写真は二手に分かれたすぐ下流で、写真左の空堀が府中用水本流、右手の水を少しだけ残しているのが谷保分水だ。ここの数百m手前を写した前の写真では水がほとんどなかったのに、ここにはやや濁った水とはいえカルガモが水遊びできる程度には水があるのは少し不思議だ。理由は、谷保分水のほうが灌漑用水として利用度が高いことから谷保堰では優先的にこちら側に導水していること、谷保分水のこの辺りはやや川床が深いので残り水が多いこと、前日の雨の影響、青柳崖線の湧水が少しずつ府中用水に流れ込んでいることなどが考えられる。

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青柳崖線から湧き出た水はやがて小川を形成する

 青柳崖線下にある特別養護老人ホーム国立市泉)の裏手あたりから清水が湧き出し、崖線に沿って湧水を集め小さな流れを形成している。この小川は清水川と名付けられているようだ。名は体を表すの言葉通り、湧水を集めた水だけにとても清らかだ。甲州街道の矢川三丁目交差点を南に下った「いずみ大通り」の下をこの小川は通過するのだが、その手前付近が小さな公園になっており、そこは「ママ下湧水公園」と名付けられている。”ママ”とは”崖”を意味しており、国分寺崖線の項で挙げた”ハケ”と同じく「段丘崖」を表している。写真のように、崖のいたるところから清水が湧き出している。とくに老人ホーム裏や大通り下で顕著なのだが、いずれも昼なお暗い場所なので撮影は難しかった。

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谷保分水ではもっともよく知られた「矢川おんだし」

 上に挙げた「いずみ大通り」を抜けた清水川は約60mほど崖下を進むと90度右に曲がる。この川が曲がる理由は写真からも分かるかもしれないが、北から南に下る、やはり湧水を集めた矢川の勢いに負けて曲げられてしまうのである。

 矢川は立川市羽衣町辺りの立川崖線から湧き出た清水を集めた小川で、源流域は「矢川緑地保全地域」として環境整備がおこなわれている。散策には絶好の場所で、私は立川や昭島方面に出掛けた帰りによく立ち寄っている。この場所を知らない人は案外多く、実際「グーグルマップ」ですらこの緑地を「羽衣公園」と誤って記載している(11月14日現在)。このブログを読んでいる奇特な方は、グーグルに訂正を求めてみると面白いかも。私はその緑地を大切にしたいためにあまり多くの人には知られたくないと思っているので、この間違いをそのままにしているのだが。

 ともあれ、西からきた清水川と、北からきた矢川が青柳崖線下で出会い、そして南に並走し、今度は西からきた谷保分水と出会い、ひとつの流れになって東へ進んでいく。写真でいえば、左下に少し顔を出しやや淀んでいるのが、府中用水から分岐した谷保分水、上方左手の流れが清水川、右手が矢川である。この出会いの場をこの地の人は「矢川おんだし」と呼んでいるそうだ。”おんだし”とは「押し出し」のことらしい。この名前からは三者の出会いの場というより、矢川が清水川の行く手を阻み南に押し出している状態を表していると思えるのだが。

 ちなみに、先述した緑川は人工河川なので北から南へ流れても問題はないが、湧水を集めた矢川が北から南へ流れるのは不自然なような気もする。武蔵野台地を流れるなら、やはり西から東方向に進むのがあるべき状態だと思うのだが。一説には、矢川が流れている辺りには立川断層が走っているので、その断層に沿ってこの川は南に下っているのではないか、というものがあるようだ。

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青柳崖線の段丘崖周辺にある城山公園

 青柳段丘上は多摩川の流れを見下ろせるので城を築くにも適地だったようで、国立市谷保には「谷保城」があった。現在は「三田氏館跡」として東京都の史跡に指定されている。館跡には現在も三田家の住まいがあるために城の本郭を見学することはできないが、周囲の山は「城山(じょうやま)公園」として環境保全されている。一帯は緑が色濃く残っているので、遠目でも公園の所在地が分かるほどだ。

 写真にあるようにここには湧水が流れ込んでいる。この流れの源も青柳崖線下にある。前述の清水川は矢川に押し出されてしまったが、その東側の崖線下からは少しずつ清水が湧き出し、それがひとつの流れとなって東に進み、中央高速道からもよく視認できる「ヤクルト中央研究所」の北側ではっきりとした流れとなり、その小川に沿って「ハケ下の散策路」が整備されている。その小川は城山公園に流れ込み微低地に浅い池を作り、そして水たちは短い表層の旅を終えて砂礫層に染み入り伏流水と交わる。

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城山公園内にある古民家

 城山公園の南端には写真の古民家がある。この旧柳澤家住宅は国立市に唯一残る茅葺屋根の建物だそうで、元は甲州街道沿いの青柳地区にあったものを移築復元したとのこと。ここを訪れた日には着付けのイベントがおこなわれていた。外国人観光客(留学生かも)も数人訪れていて、これから十二単の着付けを体験する様子だった。

 この建物の横には「城山さとのいえ」があり、公園の南側に残る農地で農業体験ができるそうだ。国立というと文教都市のイメージが強いが、かつては谷保地区が町の中心であって、多摩川左岸に広がる沖積低地での実りが長年、人々の暮らしを支えていたのである。

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ヤクルト中央研究所前を流れる谷保分水

 ”矢川おんだし”で水量を増した谷保分水は、その100mほど下流で「あきすい門」に出会う。ここで一部は「あきすい堀」に流れ込んで南へと下る。一方、谷保分水は水量を減らしながらも東に進み中央高速道に近づく。ほぼ同時にヤクルト中央研究所の南側にも出る。写真は中央道と研究所がもっとも接近した場所で、その間を分水の流れが抜けていく。最新の研究所と流通の大動脈との間を抜ける灌漑用水路。もちろん、ここで一番存在を誇示しているのは谷保分水の清き流れである。この景色も私が好むもののひとつなので、この日のように空気が比較的澄んでいる日にはここ辺りまで出掛けてきてのんびりと徘徊することがある。研究所の建物は見栄え良く、中央道は旅情を誘い、城山の森は子供の頃の遊びを思い出させる。が、やはり小川の流れに私は魅せられる。もっとも、大方は魚影を探しているのだが。

 中央研究所の東側は区画整理がおこなわれていて農地はすっかり整地されてしまった。ここで谷保分水は二手に分かれるのだが、この辺りは暗渠化されてしまったためにその分岐場所を見ることはできない。

 北東方向を目指す流れ(田中堀)は住宅街の北に姿を現し、周囲にある農地や市民菜園などの灌漑用水となっている。一方の三田家堀は住宅地や中学校の南側に姿を現しつつ、中央道国立府中ICの北側で田中堀と合流する。

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あきすい堀は寺之下親水公園脇を通って府中用水に合流

 谷保分水から”あきすい門”で分岐した「あきすい堀」は南に流れて国立市泉の農地を潤す予定で造られた水路なのだろうが、「あきすい」=「悪水」、つまり湧水を源にしているために水温が低く農業用水には必ずしも適していなかったことからこの名が付けられてしまったという説がある。

 農業には不向きだったためか、日野バイパスが開通したことで利便性が飛躍的に向上したためか農地は著しく減少し、大半は自動車会社や流通系会社の営業所、倉庫、流通拠点などに変じている。写真の「寺之下親水公園」は芝生広場と北側を流れる”あきすい堀”の流れからなる公園だが、周囲には住宅地は少ないため、はたしてどれだけの人がここを利用しているのだろうか?利用目的が先にあったのではなく、企業団地だけでは無味乾燥なので緑と清流を残しましたというお題目がまず優先したのだろう。

谷保天満宮に立ち寄る

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谷保天満宮の拝殿。七五三の祝いに集まる人が目立った

 谷保天満宮(谷保天神)の存在は、私にとってとても重要である。ここが「学業の神様」であるからというわけでは絶対にない。崖線好きにとって極めて大事な場所だからである。甲州街道は現在、天神様の北側を通っているが、江戸期以前は南側を通っていた。だから写真の拝殿は崖のやや下にあるのだ。それが多摩川の大洪水で甲州街道が流されたために段丘の上の今の場所に移された。このため、天神様の大鳥居は境内の北側、つまり甲州街道に面した場所に設置されている。

 もっとも、それも私にとってはさして重要な話ではない。大事なのは、その甲州街道が立川方向に進むとき坂を下っているということだ。多摩川の大洪水を避けるために甲州街道を段丘上に移設したにもかかわらず、天神様を通り過ぎるとまた崖を下るのでは、何のための移設だったのか意味不明と思えてしまう。

 ここでまた国土地理院のWeb地図が登場する。まず谷保天神前の標高は70.4m、天神下は57.1m。なので、かつての甲州街道と今とでは13mの差がある。確かにこの差があれば、段丘上に乗せたという安心感がある。問題は下り坂の存在だ。坂下の甲州街道沿いには国立天神下郵便局があるが、ここの標高は64mである。そしてその先にある矢川駅入口交差点では69.3mまで回復しており、日野橋交差点にいたっては74.9mもある。つまり、坂を下ったといっても多摩川の沖積低地までには降りていないのだ。甲州街道を段丘上に移した英知は確かに感じられた。

 この項の前から青柳崖線の名が何度も出てきている。ここでその正体が明らかとなる。府中崖線は東に進むと狛江付近で消える。狛江から西に崖線をたどると、谷保天神前あたりで崖線は南北2つに分かれる。北側を本線と考れば南側の崖線にも名前が必要になり、これを通常、青柳崖線と呼んでいる。北側の崖線は西北西方向に進み国立市富士見台から東京女子体育大学下、さらに矢川緑地上へ。それからほぼ真西に進み、多摩都市モノレール柴崎体育館駅辺りから少しずつ南に下り、中央線に突き当たる手前あたりで青柳崖線と合流する。つまり、青柳崖線は谷保天神辺りが東限、立川市柴崎町が西限となり、この間の立川崖線(府中崖線)との間を、通常、青柳段丘と呼んでいるのだ。青柳段丘以西の立川段丘崖は立川崖線、青柳段丘以東の立川段丘崖は府中崖線と呼ぶことが多い。その中間はどちらとも呼ばれているが、「立川段丘」の名に敬意を表して、ここでは立川崖線と呼んでおこう。

 ともあれ、先に述べたように崖下では府中用水がいろいろ分岐していたが、崖上でも崖線が分岐している。その分岐点が谷保天神なので(もう少し東の西府辺りという説もある)、私にとってこの天神様は重要な存在なのだ。というより、この辺りの地形が、なのだが。

 谷保(やぼ)天満宮に触れたのなら菅原道真について、あるいは谷保(やぼ)がどうして谷保(やほ)に変わったのかについても述べたいが、そうなるとこの2点だけでも膨大な量になるので、野暮なようだがここでは触れないことにした。

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崖下にある厳島神社

 写真の厳島神社は弁財天を祭っている。日本の海上神は「市杵嶋姫命(いちきしまひめ)」と考えられ、これが弁財天と同一視されてきた。「いちきしま」が「いつくしま」となり、厳島の漢字が当てられるようになったとされている。弁財天に「いつく=使える」のは蛇で、干ばつのときに蛇が現れると近いうちに雨が降ると農夫は信じてきた。弁財天信仰は農業と結びつけられてきたのである。このため、弁財天は池や沼、清水が湧くところに祭られることが多い。谷保天満宮のこの神社は段丘崖の下に建てられ、その周りには弁天池がある。

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崖線の生んだ湧水からなる弁天池は透明度が高い

 弁天池は府中崖線から集めた湧水からできており透明度が非常に高い。「常盤の清水」の名があるように、この池の水は絶えることがないそうだ。流木の上ではカメが甲羅干しをしており、池の鯉は気持ちよさそうに泳ぎ回っていた。

再び、府中用水の流れを追って

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北多摩二号水再生センター前の道路の下に府中用水が流れている

 空堀が続く府中用水だが、寺之下親水公園のところで触れた「あきすい堀」の流れが日野バイパスの南側で用水路に入るため、ここから水を得た水路となる。しかしバイパス下に潜るあたりから暗渠化され、その流れを追うことはできない。しかし、少し不自然な形で道路が造られているので、その行方を追うことはまったく不可能というわけではない。とにかく開渠場所を探せば良いのだ。

 この項では府中四谷橋の次に水再生センターの水門に触れたが、「北多摩二号水再生センター」は中央道・国立府中ICのすぐ南西側の日野バイパスにほど近い場所にあるが、その敷地の北側を取り囲むように府中用水は流れている。しかし、暗渠化が続いてので、府中用水の資料と航空写真とを照らし合わせて初めて流れを追うことができる。

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国立府中インター下から顔を出した府中用水

 府中用水が再び地上に現われるのは写真の場所である。国立府中インター料金所のすぐ南側で、写真の上方にある道路は、料金所のゲートを過ぎて新宿方向に進むための流路である。流路の下にコサギがいた。小魚を探しているようだ。「白鳥は哀しからずや」で、青くない水にも差し込む陽光にも染まらず、魚が見つからずにおろおろするだけだった。

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府中用水と国立府中インター

 姿を現した府中用水は住宅地脇を流れ、そしてインターの料金所の東側を進みつつ東方向に向きを変えていく。護岸上にも流れの中にもカルガモがたくさん集まっていた。今回はあまり見つからなかったが、いつもは小魚の姿をよく見かける場所なのだ。

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府中用水は府中崖線に向かって進む

 府中用水はインターチェンジを離れたのち、青果市場と都立高校との間を進み、野猿街道下を過ぎてひたすら府中崖線下方向に進む。写真にあるように住宅の向こうには地球防衛軍施設(本当はNEC府中事業場)が間近に見えるので、崖線はもうすぐだ。

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府中崖線下を流れる「市川」

 府中用水は日新町一丁目北交差点で崖線下の流れと出会う。しかし合流点直前で暗渠に潜り写真の市川とは合流せずにしばらくは並走する。が、府中用水は地上には姿を見せず、市川のみが開水路のまま、しばし分倍河原方向に進む。

 この市川は府中崖線下の湧水が集まったもので、この流れを遡ると谷保天満宮下に出る。ただし湧水の多くは府中用水方向に地下で導かれているため、水量は上流に比べるとそれほど多くはない。このため、湧水を集めたとは感じられないほど透明度はあまり高くはない。小川の両岸にはツワブキの黄色い花が咲いている。すでに晩秋だ。

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市川に沿って緑道公園が整備され、その一角に「河童公園」がある

 崖線上には南武線西府駅ができた。市川緑道をまたぐように陸橋ができ、その陸橋へ上るためのエレベーターも設置されている。緑道は崖の下、駅は崖の上にあるためだ。その陸橋のすぐ東側に写真の「河童公園」がある。暖かい日には子供たちがよく水遊びをしている。

 河童の像がある。近づくと、その顔は知り合いのMさんによく似ているので、思わず「Mさん」と声をかけそうになってしまった。河童がMさんに似ているのか、Mさんが河童に似ているのか?そもそも河童は架空の生き物なので、姿形は想像するものの自由である。であるならば、この像の製作者はMさんの知り合いで、その作者はMさんが河童の化身と信じているのかもしれない。そう考えることがあり得ると思えるほど、Mさんには人間離れしたところが多分にあるのだ。

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御猟場道は府中本町駅方向へ進む

 市川は、新府中街道に出会う直前に姿を隠す。しかし暗渠化される以前はこのまま姿を現し続け、鎌倉街道との交差点(分梅駐在所交差点)まで崖線下を流れ、交差点以東は崖線から少し離れ、鎌倉街道沿いを府中本町駅方向に進み、そして駅手前から少し南側に迂回し、府中街道辺りから再び崖線下を流れ、東京競馬場の正門前を通過していった。その姿を今では詳しくは記憶していないが、暗渠化される以前、この小川は幼いころの私の遊び場だったことは確かで、特に東京競馬場付近は、私が初めて川というものに触れた場所であり、そして魚採り、さらに釣りを覚えた水の流れなのだった。

 写真の御猟場道は、市川が暗渠化された場所に沿って新府中街道の本町一丁目交差点から鎌倉街道に出会うまでを指す。上に述べたように「御猟場道」の名こそ付されてはいないものの、この道はそのまま府中本町駅まで続いている。

 御猟場道の名は、現在の府中本町駅東側に徳川家康が建てたといわれる「府中御殿」があり、家康や秀忠はたびたび訪れて鷹狩りに出掛けたという話が元になっているそうだ。府中御殿跡は駅前にありながら最近になるまで格別に有効利用はできないでいた。が、いざ大型スーパーの進出が決定されたことで試掘調査が始まり(府中市には武蔵国国府があったため、開発の際には必ず史跡調査がおこなわれる)、国府跡であったと考えられる重要な史跡が見つかったためにスーパーの進出は沙汰止みとなり、結局、武蔵国府史跡広場という、いかにも府中市らしい半端な姿で現在に至っている。

 写真の御猟場道の下には私の幼い頃の思い出がたくさん埋まっている。しかし、それを掘り起こすことはない。過去なんかより、今日、そして、あるかもしれない明日が楽しいからだ。

 本ブログではいつもの通りの終わり方。これでいいのだ。いや、これがいいのだ!  

〔26〕タマちゃんを求めて~多摩川中流散歩(1)

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多摩川中流に架かる是政橋

 「タマちゃん」そして「ウタちゃん」は何処に?!

 2002年8月、アゴヒゲアザラシ多摩川の丸子橋付近に現われて大騒ぎになったことがある。新聞やテレビではその海獣の動向が連日のように報道され、多摩川の河原は見物人や報道陣や私のようなやじ馬で大賑わいとなった。その迷入アザラシは「タマちゃん」と名付けられ、「タマちゃんソング」や「タマちゃん音頭」など便乗企画まで現れた。

 この動きは東北地方にも広まり、同年9月に宮城県歌津町(当時、現在は南三陸町歌津)を流れる伊里前川の河口付近にはワモンアザラシが現れ、ここでは「ウタちゃん」と名付けられた。河口近くにあった汐見橋は「ウタちゃんはし」と名付けられ、そう呼ぶことで歌津の名を全国に広めようとしたかったのか、青く塗られた橋の主桁には白いペンキで「ウタちゃんはし」と書いてあったような記憶がある。実際、このころは取材でこの近辺を年に数回は訪れ、わざわざ何度かこの橋を渡ったことがあった。ウタちゃんを探すことはなかったが。

 石巻市から国道398号線を北上して女川町、雄勝町を抜けて北上川の河口付近を抜け、現在の南三陸町の中心である志津川そして歌津、本吉町を通過し、気仙沼市に入った。2011年、東日本大震災による津波でもっとも大きな被害を受けたところへ、2000年代前半にはよく通っていたのだった。それゆえ、ニュースでよく取り上げられた被災前の女川や雄勝の町並みも、北上川右岸にある「大川小学校」の校舎も、町ごと流された志津川も、奇跡的に橋は残ったが家並みは完全に流失した歌津もすべて記憶にしっかりと収納してある。写真データもPC内や外付けハードディスクに残してあったはずだが、どちらも故障して今現在は復元不可となっている。

 「タマちゃん」や「ウタちゃん」に人々は何故、あれほど熱狂したのだろうか?それには大きく、時代背景に要因があると思われる。1990年ころにバブルが崩壊し、人々は夢から覚め、一転、今度は冷水を浴びることになった。それでもなんとか名目GDPは97年まで増加した。が、その年を頂点に2016年まで、1997年の実績を上回ることはできなかった。17、18年こそ1997年をわずかながら超えているが、これは実に「統計上のからくり」ともいうべきもので、内容不明な「その他項目」が増加した(1997年は減少された)ためであって、実質的にはまだ超えてはいないのだ。

 こうした閉塞状況を打ち破ってくれるだろう存在に人々は期待を抱いた。「異なるもの」の到来を希求する心性が「メビウスの輪」のように働き、従来の感性では否定的であったものへの肯定感が現実を揺り動かす要因になった。それが小泉政権民主党政権誕生につながり、また日常の中に非日常を求める心情が「タマちゃん」や「ウタちゃん」現象として現れたのだった。

 しかし、東日本大震災を経験した私たちは、大きな非日常は幸福ではなく大なる災いをもたらすことを知り、やがて日常の中に埋没するとこで些細な幸せ感を抱くことに満足することになった。それが現在まで続く「奇妙な安定」意識であり、何もしないことが現政権の支持理由になってしまったのだ。反面、50年に一度という災害が毎年発生するようになった今日、人々は内奥に「異化」を再び求める傾向性が生じ始めている。この「異化現象」を善き方向に導くため、今こそ新たなる「タマちゃん」の顕在が必要になってきているのである。

 そこで私は、多摩川の河原や土手、その周囲を歩き、真なる「タマちゃん」がこの地上に再びめぐり来る気配を探し求めることにしたのだ。

多摩川について知っていることなど

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多摩丘陵に登り、多摩川を概観した

 多摩川は私の育ての親である。小学校に入る前から多摩川の河川敷、砂利穴で遊び、小中学生の時は流れの緩い場所を探してフナやコイを釣り、南武線の鉄橋に無断侵入して多摩丘陵側に行って山でターザンごっこをした。高校の教員を辞して後、半年間、コイ釣りに専念した。河川敷に居住するホームレスといわれる素敵な人々とも仲良しになった。彼らの幾人かは川の増水で流され行方不明となり、人の存在の不条理を知った。ここで半年間学んだことが、その後の釣り人生を決定づけた。今、私がこうして立派な怠け者になれたのは、多摩川が育んでくれたお陰なのである。

 多摩川山梨県甲州市笠取山(標高1953m)にある水干(みずひ、標高1865m)に源を発し、138キロの旅を経て東京湾に注ぐ。江戸時代は都市部の重要な水源であって、豊かな水を保持するために水源付近は天領となり森林地帯はしっかり管理されていた。明治期になり一時、荒廃したものの20世紀に入り、東京府が本格的に水源地森林経営案を具体化し、1913年には青梅町(現在の青梅市)に水源林事務所を置き、多種類の広葉樹による混交多層林を維持管理することで水源地の保水力を守ってきた。

 多摩川でよく知られているのは、流域で織物業が盛んだったこと、アユが名産だったこと、砂利の採集がやり放題だったことなどだ。

 万葉集に「多麻河に さらす調布(てづくり) さらさらに 何ぞこの児の ここだ愛しく」(詠み人知らず)とあるように、この川に面する地域では古くから織物が盛んだった。調祖にはその地の産品が選ばれるが、「調布」の地名から分かるように多くの流域では「布」が納められていた。川の名にあるごとく、ここでは「麻布」が特産品(葛布も)であり、のちに綿布、さらに絹織物が盛んになった。「調布」の名は現在では調布市が有名であるが、古くは青梅市の南部一帯も「調布村」であって、現在でもこの地に架かる橋の名前に「調布橋」として残っている。また下流部では高級住宅地として知られる田園調布の名もある。その他、府中にある「染屋」、調布にある「布田」「布多」「染地」などの地名は、織物業が盛んだったころの名残といえる。

 多摩川がかつて「清流」(玉のように美しいので玉川と呼ばれたという説もある)だったころは天然アユの遡上が多く、とくに府中付近はアユ漁が盛んで、将軍に献上されたり、租税としてアユが納められたりした。また、長良川でおこなわれている「鵜飼い」と同様なものがおこなわれていたこともあったらしい。工業化・都市化が進んで川が汚染され、アユの遡上は絶滅状態にあったが、最近では水質がかなり改善され、それに伴って天然アユの姿が多くみられるようになった。

 砂利採集はかつてとても盛んであり、一時は日本の採集量の3分の1ほどがこの川から運び出された。多摩川に沿って鉄道が何本か走っているが、その起源は川の砂利を運搬するために敷かれたものであった。河川敷の多くには砂利を掘った穴が残り、「砂利穴」として、大きなものは「競艇場」になるほどであり、小さなものは子供の遊び場となった。しかし、砂利穴にたまった水の低層はとても冷たく、ここで遊ぶ子供が犠牲になったこともあった。このため、私の子供時代は「砂利穴遊び」は禁止されていた。が、もちろん、そんな決まりを守るはずはなく、水遊び、釣り、度胸試し(蟻地獄のように穴から這い上がるのが難しかった)などの道場として盛んに利用した。

 府中市には武蔵国国府があった。というより、国府があったから「府中」と呼ばれるようになった。国府跡は大國魂神社付近にあるが、この神社は国府ができる500年以上前に創建されたという説がある。「たま」は霊魂の魂であり、聖なるもの、清らかなものを象徴している。この神社は府中崖線のすぐ上にある。ということは、かつて、多摩川はこの神社のすぐ下近くを流れていたこともあったのだ。それゆえ、この川は魂の下を流れる川、すなわち魂川⇒玉川となったという説もある。なお、国府につきものの国分寺はこの神社から2キロほど北にある。このことに関しては、すでにこのブログの「国分寺崖線」の項で触れてある。

多摩川の渡り方

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関戸橋は現在架け替え中

 府中付近の多摩川には深場はあまりなく、増水時以外は歩いて渡ることも可能である。今回挙げた写真は台風19号後のものなので、平水時より水は高く、また濁りが強いので渡渉は不可能だが、普段なら浅瀬を選べば出来なくはない。もちろん、現在の私は絶対におこなわないが。

 子供のころはこの川をよく渡った。理由はとくになく、あるとすれば向かいにある多摩丘陵(私たちは向山と呼んでいた)で遊ぶためだった。府中崖線や国分寺崖線での遊びは日常化しつつあったので、異界を求めて向山まで出かけたのである。今思えば、これもひとつの「タマちゃん現象」なのであった。

 川の渡り方は幾通りもあった。一番簡単なのは写真の「関戸橋」か下流にある「是政橋」を徒歩か自転車で渡るもの(もっと簡単なのは電車に乗ることだったが子供のときはすこぶる貧乏だったので電車賃がなかった)。次は両橋の間にある「大丸用水堰」付近を徒歩か泳ぎで渡るもの。さらに、自転車を曳いて渡ることもあった。

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南武線多摩川橋

 最も危険だったのは鉄道の橋の端を歩いて渡ることだった。橋上の端には点検作業のための狭いスペースがあり、電車が通過するときには作業員の身を守るための待避所もあった。このため、もちろん違反行為なのだが、かつては運行本数がかなり少なかったので見つからずにここを歩くことが可能だった。今なら常時監視されているため逮捕されることは必至だろうが、私が子供のころはこの困難に挑むことが誇りだったのだ。

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京王線多摩川橋

 南武線の橋梁のほうは何度か成功した。しかし、京王線のほうは運行本数がやや多かったためかいつも失敗に終わった。途中で必ず電車と出会い、大きな警笛を鳴らされるのである。そうなると急いで走って逃げるしかなく、かといって川に飛び込むわけにもいかなかった。このときほど、川の水深の浅さを恨んだことはない。京王線に乗ってこの橋を渡るたびに、あの頃の悔しさが蘇ってくる、今に至っても。

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左岸の土手上から関戸橋と向山を望む

 今回は京王線多摩川橋梁から下流の是政橋との間を歩いた。まず憎っくき京王線の橋梁を左岸の土手上から撮影し、すぐ下流にある関戸橋方面に向かった。 関戸橋の向こうには多摩丘陵の連なりが見える。今は公園や住宅、それにゴルフ場が造成されているが、かつては樹木に覆われた、ただの小高い山だった。その山に分け入り、ターザンとしての修行やタマのサルとしての自立を画していたのだった。今は昔である。

台風に荒らされた河川敷を歩く

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河川敷から橋と山々を望む

 台風19号がもたらした大雨によって多摩川は増水し、知人が住む府中市四谷辺りでは越水まであと1.5mほどにまで迫り避難指示が出されていた。写真はその12日後の関戸橋下の河川敷の様子だが、そこにはまだ多くの爪痕が残っていた。この日は空気が比較的に澄んでいたため、橋の向こう側には私が大好きな山並みがかなりはっきりと見て取れた。手前側の山並みは左から景信山、陣馬山、醍醐山、生藤山、市道山、臼杵山、さらに馬頭刈山から多摩地区のランドマークである大岳山(キューピー山)が見える。中ほどには三頭山や御前山があり、左手後方には大菩薩連嶺が姿を見せている。右手の白い建物が視界を遮っているが、もう少し上流側から見れば東京都の最高峰である雲取山(標高2017m)も望める。多摩川左岸の散策は、これらの山々に接することができる(蓋然性がある)のですこぶる楽しいのだ。

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左岸の河川敷にある木々の根元は流れ着いた枯草や小枝に覆われていた

 少しだけ下流に移動した。この辺りには、沖積低地のすぐ下を流れる伏流水が河原から顔をのぞかせる場所があるはずだ。しかし、河川敷の様子は大増水前とは一変してしまったため、目印となっていた樹木たちの姿を見出すのに苦労した。上流から流れ着いた草や枝やゴミが木々にまとわりつき、かつての容貌を失わせてしまっていたからだ。

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伏流水はこんこんと湧き出し、汚れてしまった水たちを清めていた

 それでも本流に近づくと、その手前に、透き通った湧水が美しい流れを形成している場所が見て取れたので、自然の回復力に安堵した。

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以前より湧き出る水の量は多かった

 湧き出し口を探すと、かつて見ていたときよりその数は多く、そして流量も増していた。大量に降った雨が地面に染み込み、その圧力で地下に蓄えられていた清水を普段より強く押し出していたのだろう。それは、汚れ切ってしまった流れを早くに清めようと、見えざる力が湧水に勇気を与えているかのようだった。

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私が釣りバカへの道の第一歩を踏み出した場所

 この辺りの様相はかつてとは大きく変わってしまったけれど、決して忘れることができない場所なので、全体像からここであることは十分に認識できた。35年前、私はここで釣りへの接し方を大転換させた。よくある釣り好きから「釣りは人生そのものである」というコペルニクス的転換を図った場所なのである。私は単なるバカから、釣りバカへと大跳躍した。 

  * * *

 元大工の棟梁は非常に辛口で、いつも私が仕掛けを投じる姿を見ては「下手くそ!」と背後から罵声を浴びせてきた。棟梁の横にいる元職人のゲンちゃんは、毎度のことながらゲラゲラと笑うだけだった。それを気に留めることなく、私の左隣で竿を出している支店長は黙々と川面を見つめコイからの魚信をひたすら待っていた。一方、右隣りにいる久我山の旦那は、ホームレスのノボルさんに豪華弁当を与えていた。

 35年前の8月、事情があって教員を辞めた私は、本格的に釣りバカへの道に踏み出そうと思案していた。目標は磯釣り師であったが、まずは修行の第一歩として多摩川の河原でコイ釣りに専念することにした。9月1日に修業が始まった。まだまだ仕掛けの投入が不得手だったので、コイ釣りはその練習に最適だったのだ。当時、多摩川左岸の脇を走る沿線道路は未完成で、車止め付近は路駐可能だった。コイ釣りは意外に荷物が多いので、土手近くに止められるのはとても便利だった。

 先客がいた。2人が竿を並べ、あとの3、4人は見物人のようだった。いずれも顔見知りのようなので少し割り込みづらかったが、これも修行の道と考え、彼らの脇で竿を出すことにした。餌のダンゴを作り仕掛けをセットした。一投目、ポイントがよくわからないので正面20m沖に仕掛けを投じることにした。しかし、人指し指で押さえていた道糸を離すタイミングが早すぎ、餌は右手のほうに飛んで行ってしまった。

 「素人だな」。見物人のひとりが私にはっきり聞こえるようにその言葉を投げつけ、そしてすぐ脇まで近づいてきた。彼の横には背の小さな職人風の男がいた。そ奴は無礼にもただゲラゲラ笑うだけだった。私を罵倒した男は少しだけ右足と右手が不自由なようだった。私は彼が命じるまま仕掛けを再度セットし、竿を構えた。「初心者は斜めから投げるより、竿を真後ろに構えて正面に振り下ろすように餌を投じればいい。それなら距離はともかく正面に飛ぶから」と、私の構えを修正させた。確かに正面に飛んだ。しかし、道糸を離すタイミングが少し遅れたため、仕掛けを川面にたたきつけるような勢いで飛んでしまったため、餌のダンゴは割れて釣りにはならなくなった。あの小男はさらに大声で笑った。

 そんなこんなで、私は彼の前で30回ほど仕掛け投入の練習をさせられ、少しだけだがコツをつかんだような気がした。そのあとも夢中で練習を続けたが、いつのまにか2人は姿を消していた。隣りで釣りをしていた折り目正しそうな老釣り師が私に声をかけてきた。「あの人は脳梗塞を患う前は大工の棟梁をしていて、横にいた小男は彼のところで働いていた職人です」と教えてくれた。私が指導されたように、その老紳士も彼に馬鹿にされ、揶揄われながら釣りの指導をしてくれたそうだ。元日銀マンだったその人物は、定年退職後に彼の地元にある小さな銀行に勤め、その年の3月末で仕事を辞し、4月からコイ釣りを始めたそうだ。棟梁からはなぜか支店長と呼ばれていると教えてくれた。私は当初、きちんとYさんと呼んでいたのだが、いつの間にか棟梁に倣い、私もYさんのことを「支店長」と呼ぶようになってしまった。

 もう一人の商人風の男は有名メーカーの高級磯竿をずらりと並べ、餌作りや仕掛けの投入はすべて、彼に付きしたがっている若い男(ノボルさん)にやらせていた。コイがハリに掛かり、道糸が走り出して竿が大きく曲がり始めると、それまで用意していた椅子に座ってのんびりと構えていた商人風の男の出番となった。この釣り人もここの常連のようで、支店長の話によれば、久我山に住む金持ちで、自宅の庭には大きな池があり、全長70センチ以上の大型ゴイが釣れたときだけそれを持ち帰り、池に放すそうだ。すでに50匹以上いて、100匹になるまでそれを続けるとのことだった。

 ノボルさんは釣り場の近くにあるアパート暮らしだったが、仕事を辞め家賃を滞納しているうちに河原に住み着いてしまったそうだ。2年ほど前から、久我山の旦那が釣りに現われると釣りの世話をするようになったという。旦那が居眠りをしているときは魚の取り込みまで自分でおこなう。そんなときは、旦那にもらう豪華弁当を受け取ったときよりうれしそうな顔になる。彼もまた、大いなる釣りバカだった。それを旦那も知っているようで、時折、ノボルさんが魚が掛かったことを彼に告げたときも、わざと寝ているふりをしていた。

 たまに現れるホームレスのAさんとBさんは、釣ったコイを欲しがった。30センチほどのものが好みのようで、いつもそれを持ち帰って、橋の下の「自宅」で焼いて食べるそうだ。ある時など、よほどお腹がすいていたのだろうか、魚を渡すとAさんはその場で生のままかぶりついたことがあった。私はそれを止めるように言い、「ここで少し待ってて」と告げて、車で当時、関戸橋横にあったスーパーまで行き、弁当2個とワンカップ大関2本を購入して釣り場に戻った。弁当はA、Bさんに渡し、日本酒は棟梁とゲンちゃんに渡した。A、Bさんはすぐに無言で立ち去り、ゲンちゃんはいつものように酒を一息で飲み干した。

 翌日、Aさんだけが現れ、昨日のお礼だと言って、手にしていた折詰を私に差し向けた。中河原にあった「大国」という料亭から(正式にはそのゴミ箱から)もってきたとのことだった。「なかなか旨いぞ」というのだが、私は彼に「今は満腹なので後で食べます」と告げて有難く頂戴した。本当に有難い(滅多にないという意味)経験だった。

 * * *

 こんな風に、左岸の河原ではこれらの人々と約半年付き合い、私は釣りの技術を磨き、人の存在の深奥を知った。人生は不可解であるが大いに愉快でもあった。そして翌年の4月から予定通り磯釣りの世界に飛び込み、今度は式根島神津島、新島、八丈島などへほぼ毎週通うという生活を始め、またまたヘンテコな人々と出会うことになった。

 多摩川左岸でのあの風変りな人々との触れ合いは、今でも決して忘れることのない素敵な半年間であった。高校教師という日常化された生活から飛び出した私は、河原に通い続け、そこで多くの「タマちゃん」と邂逅し人生の目的まで見出すことができたのだった。

府中市郷土の森公園を訪ねてみた

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府中市郷土の森博物館の本館

 多摩川の左岸にある府中市の是政地区には数多くの砂利穴があった。それを埋め立てたのちにできたのが府中市郷土の森公園である。1987年に開園したというから、その近くで釣りの修行をしていた時期の2年後である。その際に、未開通だった川の左岸の沿線道路が開通した。もし、この計画が2年前に完成していたら、私はあの場所ではコイ釣りをしてはいなかっただろうし、そうであるならばあの素敵な人々との出会いはなかった。そう思うと、少しだけ「運命」というものを感じた。また本来、存在しないはずの時間の存在を、理性ではなく感性は受け入れた。

 郷土の森公園には「交通公園」「市民プール」「総合体育館」「バーベキュー場」「観光物産館」などがあるが、なんといっても「郷土の森博物館」がここの中心的存在だ。博物館といっても建物内にすべてあるというものではなく、野外型の施設で、14haある敷地全体が「博物館」なのである。もちろん、郷土資料展示施設とプラネタリウム施設は写真の本館内にあるが、その他は府中市の自然の有り様を敷地内にコンパクトに再現し、そのなかに様々な移築復元建築物、遺跡、崖線、小川などが展示されているのだ。樹木や花々も多く、とくにウメやアジサイの開花期は見事だ。博物館の入場料は大人300円で、プラネタリウムは別料金となっている。

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母校の一小の旧校舎の一部

 博物館に入ると右手に本館があり、左手に移築復元建築物の並びがある。最初に目にするのが「旧府中町立府中尋常高等小学校校舎」の玄関周りと教室の一部だ。校舎そのものは1935年に造られ、79年まで現役だった。途中から市立第一小学校(私の母校)の校舎として使われた。もちろん、保存されているのはほんの一部にすぎず、私が通っていたころは6学年で千数百人の児童が在籍していたので、かなり細長いコの字型の校舎だったと記憶している。この中にも入ることは可能で、教室内の造作も見ることができる。私の場合、授業を聞いた記憶がほとんどないので、教室に入ってもとくに感慨はなかった。わずかにあるとすれば、それは叱られた記憶のみである。

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府中町町役場庁舎

 写真の建物はなんとなく覚えているような気がした。もっとも、昭和の時代に造られた(今だって変わらないが)公共施設の外観はどれも似たり寄ったりなので、記憶違いかもしれない。

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旧島田家。商家。

 この建物はかつて旧甲州街道沿いにあったような気がする。しかし、この建物の様相も「歴史的町並み」が保存されている地区に行くと、多くの場所でよく見られるようなものなのかもしれないため、記憶の混同が作用している可能性もある。身も蓋もない話だが。

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旧田中家住宅。呉服店

 呉服店を営む大商家で、たぶん、府中を代表するお大尽だったのだろう。この建物の奥座敷は、明治天皇の御座所としても使われていたそうなので、格式も高かったはずだ。当方にはまったく無縁なことなのだが。

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旧河内家。ハケ(崖)上にあった養蚕農家

 説明書きには「ハケ上の養蚕農家」とある。ハケとはずいぶん前の「国分寺崖線」のところでも述べているが、段丘崖の地方語である。この家の場合は立川段丘にあったはずなので、このハケとは府中崖線を指すことになる。上の4つの復元建築物とは異なり、この農家の佇まいだけには感慨を覚える。私には田舎が似合うし、こうした風情の他人の家で、よく悪戯をした記憶があるからだ。これだけは間違いのない思い出だ。

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府中の誇り、川崎平右衛門

 川崎平右衛門定孝(1694~1767)は立派な人物だったようだ。府中にはもったいないくらいの存在である。しかし、彼がいなければ多摩地区や川崎市は今とは異なる風景が展開されていたかもしれないということを考えると、少しぐらいは感謝の念を抱く必要はあるかも。しかし、彼がいなければ私は別の私であったかもしれず、それはそれで少し残念なような気もする。もっとも、そうであれば別の私は今の私の存在を認知できるはずはないので、そう考える必然性はないと言えるだろう。

 閑話休題。押立村の名主の長男として生を受けた定孝は、1742年に発生した多摩川の大飢饉に際し、貧窮した民を救うべく私財まで投じて、多摩川の治水や武蔵野新田の開拓を推進した。武蔵府中の郷土かるたの「き」の項には「ききんを救った平右衛門」とある。また、大国魂神社の修復にも尽力している。

 のちには、現在の岐阜県瑞穂市において長良川の逆水で苦しんでいた農民の田畑を救う治水事業をおこない、また島根県にある石見銀山の経営にも従事した。写真の定孝像の右手は瑞穂市石見銀山方向を指し、かの地の安寧を祈っている彼の心情を表現しているとのことだ。

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崖線から湧き出た滝を模したらしい

 府中市には滝らしい滝はないはずだが、府中崖線には「瀧神社」(府中市清水が丘)があり、小規模とはいえ絶えることのない清水が湧き出てわずかな段差を作って流れ落ちているので、これを「滝」と呼んでも間違いであるとは言えない。博物館内の庭にある段丘崖を模した場所では明らかに立川段丘から落下している様子を表現しているのでやり過ぎの感はなくもない。が、こうしたデフォルメは私は嫌いではないので、瀧神社への敬意を込めて、「よくできました」の判を押すことにしよう。 

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水遊びの池にある噴水

 上の「滝」から流れ下る沢の先には「水遊びの池」があり、暖かい最中には多くの子供たちがこの池の中に入り、写真の噴水を浴びたりしながら愉快そうに遊んでいる姿を見かける。が、この日は晴れていたとはいえ気温は20度前後だったこともあり、さすがに子供をこの中で遊ばせている家族はいなかった。背後から日が差し込んでいたため、噴水が作る霧の中に小さな虹が見えたので写してみた。

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郷土の森公園内には古代蓮などが植えられている池がある

 先述したように、「博物館」は郷土の森公園内にある有料施設で、一方、写真の広場は出入り自由な公園になっており、その中心に写真の蓮池があり、「行田蓮」を紹介した回のときに触れた「大賀博士の胸像」はこの池の傍らにある。今の時期のハスはすっかり枯れていてみすぼらしいが、来年の夏にはまた見事な花を咲かせてくれる。もちろん、ここの蓮池の中心は「大賀ハス」である。大賀博士も府中に所縁がある人で、やはり郷土の誇りだ。

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郷土の森公園には「つり池」がある。貸し竿、餌、利用料はすべて無料

 公園の北側には写真の「つり池」がある。開園期は4~10月なので現在は閉園期に入ってしまったので利用できないが、なんと、ここは利用料だけでなく貸し竿、餌、タマ網まで無料で借りることができる。池にはかなり大きなコイが泳いでいるので、手軽な場所でコイ釣りの醍醐味を体験することができる素敵な場所だ。撮影日は10月後半の平日だったので、釣り人はほとんどが常連さんのようだった。

大増水が残した爪痕

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バーべキュー場として開放されている河川敷にも増水の跡が残っていた

 郷土の森公園の南側にある多摩川左岸河川敷の一角はバーベキュー場として開放されている。写真のようにまだまだ増水後の荒れ果てた様子が残っているものの、平日にもかかわらず結構な人数が野外活動を楽しんでいた。写真手前側に大きく写っている樹木はクルミで枝々には多くの実を付けていた。もうすぐ「収穫期」を迎えるので、例年、たくさんの人々がクルミを求めて集まってくる。

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整備された河川敷の土台部分の「蛇籠」が露出していた

 ずっと以前の是政の河原は、写真のような「蛇籠(じゃかご)」が敷き詰められていた。石をぎっしり詰めた金網の籠を並べて河原の土台にしていたのだ。私が子供時分に遊んだこの河原はこの蛇籠だらけであり、かなり歩きづらかった。それが面白かったのたが。昨今はこの上に小石、さらに土で固められているので表面は平らになっているため、バーベキュー場として利用しやすくなっている。子供たちがこの広場内を走り回っても比較的安全なのだ。しかし、この度の増水で表面が削り取られ、かつての姿が露出した。凹凸があるので遊び場としては少し危険だが、河川敷などというものは自然に土が積もって草木が育つか、人の手が加わったとしても、こうした蛇篭河原のままでいたほうが変化があって素敵なように思えるのだが。

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河川敷に整備されたサッカー場や野球場は無残な姿になっていた

 多摩川の河川敷の多くは公園・広場としてだけでなく野球場やサッカー場としてよく利用されている。上に挙げたバーべキュー場から武蔵野南線橋梁との間にはサッカー場と野球場があって、とくにサッカー場は平日にもよく利用されていたようだ。しかし、台風19号の増水によってしっかり洗い流され、写真のような無残な姿をさらけ出してしまっていた。当面、復活する状況にはないようだ。ここをよく利用する人には残念なことだが、優先順位の高い復興事業があるので致し方ない。

 河川敷は増水時の湛水(たんすい)場所として確保されている。こうした場所は自然のままが一番良いのだ。浸透性が高いため保水力が確保されるので越水や決壊を防ぐ可能性が高まるからだ。しかし、こうしてグラウンドとして整備されてしまうと浸透率は低くなり、その結果、水位は容易に高まり越水の危険性が増加する。

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野球場の東端。橋梁の乱流を受けたためにとくに被害はひどい

 野球場の東側はかなり深くえぐられていて水圧の威力を実感させられる。前の写真から分かるようにこの場所のすぐ下流側には武蔵野南線南武線の橋梁がある。川の流れは橋脚にぶつかり乱流を発生させる。このため、橋脚の前方にある部分の土地がより大きな水圧を受け、このように被害を増大させるのだ。橋脚があることで流れの断面積が小さくなるので乱流の発生は必至で、だからこそ、川の氾濫はこうしたこうした構造物の前後でよく発生する。野球場の破壊だけで済んだのは幸いだったのかもしれない。

是政橋から多摩川右岸方向を散歩する

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是政橋は府中に掛かる橋とは思えないほど端正だ

 府中街道に架かる是政橋は長い間、粗末なコンクリート橋で、しかも片側一車線しかなかったため、いつも混雑していた。もっともこれは是政橋に責任があるわけではなく、府中から川崎方向に進むには、橋の先に南武線の踏切があり、さらに大丸交差点という渋滞ポイントがあったためだ。写真から分かるように南武線南多摩駅周辺やさらにその先の多摩丘陵一帯は宅地開発が進み、かつての「のどかな風景」を望むことはできなくなってしまった。そしてこの是政橋の美しい姿だ。もはや「多摩の田舎」とは表現しづらくなった。一方、外観だけ整えることを優先するのは田舎者の性といえなくもないが。

 是政橋は2011年に完成し、4車線となった。また、わが愛する田舎電車の南武線も高架となったため踏切もなくなり、東京競馬場の開催日を除けば渋滞は激減した。橋の工事は1998年に始まった。13年かかって完成にこぎつけたのである。全長は約400mの斜張橋だ。

 ところで、是政は人の名前である。かつて横山村と呼ばれていた土地を開拓したのが井田是政で、是政の地名は彼の名にちなんでいるのだ。是政の祖先をたどると「板東武士の鑑」といわれた畠山重忠にいきつく。是政は小田原北条氏の家臣だったが、北条氏が豊臣秀吉によって滅亡したとき、彼は八王子城を離れて横山村に移り住み、その地を開拓した。地名から姓を受けたり、姓から地名がつけられたりすることはよくあるが、名からつけられた地名というのは珍しいかもしれない。

 井田是政の墓所東京競馬場のコース内にある。競馬好きや呪い話が好きな人なら誰でも知っている話だ。東京競馬場の第3コーナーはこのコース特有の最後の長い直線が控えているため、ここで各馬はペースを上げてレースの主導権を握ろうとする。そんな重要な場所なのに内側に大きな樹木があるため、客席からはとても見づらくなっている。この木は「府中の大ケヤキ」と呼ばれているが実際にはエノキだ。当然、伐採対象になるはずなのだが、井田家の子孫が日本刀をふるって反対しつづけ、さらにその木の枝を切った職人が急死したという話も流布し、その後、伐採を引き受ける人はいなくなったらしい。その樹木のある場所こそ、井田是政の墓所なのだ。

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右岸側から見た南武線橋梁

 是政橋を渡り、今度は多摩川右岸側を大丸用水堰方向へ西進した。再び南武線橋梁に出会った。川の本流は右岸側を流れているので、増水跡がこちら側からよく分かった。橋脚のかなり高い部分に枯草や小枝が絡みついているので、そこまで水かさが増したようだ。橋梁の真下辺りの土手は他の部分よりやや低くなっているので、ここでは土手まで水が上がった痕跡があった。

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柿の木の向こうを走る南武線

 橋梁をくぐった。橋の南詰に数本、柿の木があった。秋は柿の実の季節だ。ポピュラーな果実は周年、市場に出回っているが柿の大半は季節限定だ。大好きな果物なので、手に入る時期にはほとんど毎日のように食する。食べるだけでなく、柿が実っている木を見るだけでも嬉しくなる。写真の木は実が少なかった。それでも青空にはよく映えていた。そこで、南武線の電車と一緒に写そうとカメラを構えて電車が来るのを待った。かつての南武線であればそれは一日仕事になるが、近年の南武線はまるで都会の電車のように本数が多くなった。少しだけシャッタースピードを抑え、南武線が鉄橋上を疾走する躍動感を演出した。今、南武線は疾走するのである。時代は確かに進んだ。この電車は、私が時代を認識するためのメルクマールなのだ。

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大丸用水堰を右岸から見る

 是政付近の河原で象徴的存在なのが写真の大丸用水堰だ。稲城市川崎市方面に多摩川の水を送るための取水口がこの堰にある。向かいの府中市側は固定堰だが、手前側は可動堰になっている。この写真は可動堰を管理するための建物の脇から写したもので、ここから上流部には土手はなく、多摩丘陵の崖が堤防の役目を果たしている。このため、ここから上流部に移動することはできない。

 増水時の写真なので水は濁りその量も多いが、通常は比較的透明度は高く、歩いて渡ることが可能なほど水量は少ない。私が子供のころはこんな立派な可動堰はなかったし、管理も行き届いてはいなかったので、渇水時には、この堰堤下を歩いて、あるいは自転車を曳いて府中と多摩丘陵との間を往復したものだった。 

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助かった人の新居

 堰より上流側には行けないので、左岸まで戻ることにした。右岸の土手上には一軒?の新居があった。少し前まで左岸側の河原にはテント小屋やあったが、台風襲来前にここに移動してきたのだろうか。上流にある日野市の河原では一人の犠牲者がでたが、ここに転居してきた住人は無事だったようで安心した。 

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大空に向かう練習をする人

 左岸に戻り、郷土の森公園付近まで来たとき、パラグライダーを広げて風を把捉する練習をしている人の姿が目に入ったのでしばらく様子を見ていた。風はさして強くない日だったが、パラグライダーがうまく風をつかむと上昇する気配を見せる。河原では上昇気流はほとんどないので大空に舞い上がることはできないのだろうし、この老人?も地面から離れる気持ちはないようだった。あくまでも訓練にすぎないのだろう。

 それにしても、あの「風船おじさん」は今、どの空を飛んでいるのだろうか?1992年11月23日が旅立ちの日だったので、もう27年間も飛行を続けていることになる。飛び立った2日後には消息が不明となった。大半の人は墜落したと考えている。しかし、船の名は「ファンタジー号」である。船長の鈴木さん(本名は石塚)はまだ79歳だ。十分に飛翔し続けることは可能だ。たかだか食料がなくなったくらいで、ヘリウムガスがなくなったぐらいで飛行を中断するわけがないのだ。今風に言えば、鈴木さんは星になっているのかもしれないが、しかし、日本の、いや世界の危機に際しては必ず、天から舞い降りてくるはずである。彼もまた、「タマちゃん」なのだから。

 それが、異能の人の宿命なのだ。 

〔25〕岬めぐりは三崎めぐりなのだ(後編)でも、それだけではないのだ!

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城ケ島の名勝・馬の背洞門を望む

城ケ島めぐりは三崎めぐりだし岬めぐりでもある

 三浦半島へ磯釣りに行くといえば城ケ島へ出掛ける、ということと同義語というほどではないが、その確率はかなり高い。思えば、このブログの第1回目は城ケ島釣行を素材にしたものだった。もちろん、三浦半島には城ケ島の磯に匹敵する磯釣り場はいくつかある。前回に少し触れた諸磯(もろいそ)がそうであるし、近々に触れることになるだろう剣崎(つるぎざき)や毘沙門の盗人狩(ぬすっとがり)、それに宮川湾にある観音山下の磯などは釣り人だけでなく、ハイカーにもよく知られている存在だ。ただ、城ケ島の磯によく出掛ける理由は、よく釣れるからというより、上記の場所に比べるとアクセスが良いというのが一番だ。ただそれは、釣り人のために提供された利便性の高さというわけではなく、この島を訪れる観光客を当てにして整備されたものなのだが。

 城ケ島は三崎港の南沖にあり、おおよそ300~500mほど離れている。三崎港も城ケ島の北側も埋立地なので、両者の距離を正確に定めることはできない。島の面積は約1平方キロ(このうちの約20%が埋立地)、周囲の長さは約4キロで、東西は1.8キロ、南北は0.6キロと東西方向に細長い。城ケ島の住所表記は三浦市三崎町城ケ島なので、城ケ島めぐりは三崎めぐりの一環になる。城ケ島に行くには1960年に完成した城ケ島大橋を利用するか、三崎港の観光施設でもある「うらり」横から出ている城ケ島渡船を利用するか、あるいは京浜急行三崎口駅からバスにて出掛けるかのいずれかになる。

 島の東側には安房崎、西には長津呂(ながとろ)崎、南には赤羽根崎、北には遊ヶ崎があり、島めぐりは十分に岬めぐりとなる。今回はすべての岬をめぐったが、移動にはそれなりの距離と途中の岩場にはかなりの凹凸があるので、島内各所にある駐車場を利用した。現在、島内にある県営駐車場はすべて関係づけられているので、最初に停めた場所でワンデーパス(1日450円)を購入すると、その日の内ならどこの駐車場もパスが通用するために余計な駐車料金が掛からないようになった。今回は4か所の駐車場を利用したが、安価で便利な反面、めぐるポイントと駐車場との間は必ず往復しなければならないので、歩く距離の短縮には決してなっていないのも事実だ。ただ、往復行動は同じ通過点でも景色の見え方が異なるため、一方通行では見逃してしまうポイントの発見という楽しみがあった。

まずは安房崎周辺を徘徊した

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南房総方向に突き出た岬の先端にある安房灯台

 城ケ島は神奈川県の南端にあり、かつ東京湾口に近いため、航海者にとっては重要なランドマークなのだろう。大きな船舶であれば島のはるか沖合を通るのでさほど問題はないが、小さな船は岸近くを通るので、ここに島がある(浅瀬も多いので)という目印は安全のために必要だ。そのためか、1648年、この安房崎に最初の「のろし台」が設けられた。のちに島の西側にある高台(現在、城ケ島灯台がある場所)に「のろし台」が移されたため、ここのものは廃された。

 写真の安房灯台は1962年に造られた。高さは約12mある。標高1.5mのところに設置されたいるが、南の風をまともに受ける場所にあるので、波が荒いときには灯台に近づくことは出来ない。私が訪れたときは波は高くなく、しかも干潮時だったこともあって近づくのは容易だった。

 この灯台は、かつて「のろし台」があった場所に建てられたわけではない。理由は簡単で、この場所は1923年9月までは海中にあるか海面ギリギリのところにあったからだ。つまり、関東大震災によって三浦半島の南部は隆起し、約1.4m高くなったため、写真にある岩場はほとんど被り根(干潮時に露出する岩礁帯=暗礁とも)だったものが、灯台を建設できるほどの海岸段丘に変化したのだ。

 前述のように、最初の「のろし台」は1648年に造られている。城ケ島は1703年に1.6m、1923年に1.4m隆起しているので、380年ほど前というと現在の海面より3m高い場所が当時の汀線だ。したがって、それより少なくとも10mほど高い場所でなければ「のろし台」の役目は果たせないだろう。すなわち、現在の汀線のより13mほど高い位置にあったと推察できる。といっても、さほど根拠のある設定ではないのだが。

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安房崎ではもっとも人気のある釣り場=潮見の鼻

 灯台のある先端部より北側に位置し、同じように房総半島方向に突き出しているのが、「潮見の鼻」と釣り人が呼んでいる岩場だ。安房崎周辺では磯際の水深が一番あるために人気場所なのだが、この日は海が凪いでいるためか、ここのような北側(写真でいえば左側が深く右側が浅い)を狙う釣り場は敬遠されたようで、釣り人の姿はなかった(奥まった水垂れ方向のところに一人だけいた)。

 地層を見れば、ここの成り立ちはすざまじいものであることが分かり、小さな断層があれば、岩場を2つに割いてしまうほどのやや大きめの断層がある。黄土色の斑点はマッドボール(偽礫)といって、未固結のシルト(砂泥)がちぎれて礫のようになったものだ。

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水垂れ近辺から安房灯台方向を望む

 写真にはないが、左手にはやや高い岩場があり、そこが釣り人の間で「水垂れ(みずったれ)の磯」と呼んでいる場所だ。その磯に上がる手前から安房崎方向を見たのがこの写真で、城ケ島の東側は三浦層群のうちの「初声層(400~300万年前)」から形成されているのだが、一部にはスコリア質凝灰岩(黒めの層)と黄土色のシルトの堆積層が露頭している。通常、初声層はスコリアと軽石質砂礫の互層が多いのだが、安房崎でもこの水垂れ近辺には後述する「三崎層(1200~400万年前)」で顕著な地層が見られる。それにしても、数多くの断層といいスランプ構造といい褶曲といい差別侵食といい、大いに興奮してしまう景観である。いやまったく。

 城ケ島は地質学の教科書的存在なので釣り以外の目的でも訪れたくなる。が、私の場合、磯釣りのほうがプライオリティは断然高いので、今回のような徘徊目的でなければなかなかこうした場所に目をやることはない。この島には地学の教科書的な特徴が多く見出せる場所があるのだが、そこを訪れると地質学の話ばかりになり、それでは「ブラタモリ」の二番煎じになるので、そういった「名所」はあえて避けているのだが。

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水垂れの磯から水垂れ方向を見る

 水垂れとは、岩の隙間から湧き出る清水のことで、城ケ島をこよなく愛した源頼朝は、茶をたてるときも書をしたためるときも、この清水を使ったとされている。 頼朝の時代からこの石清水は絶えたことがないとされてきた。大正時代の初期に三崎に住み、やはり城ケ島を愛した北原白秋は「水っ垂れの 岩のはざまに 垂る水の せうせうとして 真昼なりけり」と歌っている。

 右手に見える小さな港は、水産技術センター横から入り、新潟造船の南側に至る道の突き当たりにある。かつてはこの港横から遊歩道が整備されていて、汀沿いに歩くと水垂れの磯や安房崎まで進むことができた。かつて、安房崎での釣りの際にはよく使っていた小径だった。しかし、2002年の台風によって岩や崖が崩れたり橋が崩落したため、遊歩道は使用不可となってしまった。写真にあるコンクリート橋はその名残だ。

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水っ垂れに近づいてみた

 水垂れの石清水が湧き出る部分には、さらなる崩落を防ぐために金網フェンスが張り巡らされている。この日は写真にある穴から水がチョロチョロと流れ出ていたが、実は、頼朝も白秋も見ていて決して絶えることはないと考えられていた石清水も、2011年に途絶えてしまったそうだ。2011年といえば東日本大震災があった年で、5月頃に清水が湧き出ていないことが発見されたそうだ。私が訪れたのは台風19号の大雨の後なので、大雨によって地中内に溜まっていた地下水が圧力を受けた結果、浸み出てきたのかもしれない。ここでも地層について触れたいが、長くなりそうなので止めた。

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安房崎から赤羽崎方向を望む

 安房崎の南側に出た。潮見や水垂れのある北側とは異なり、南からの荒波を受けるために切り立った海食崖が続いている。足元の海岸段丘は大地震で海岸が隆起したからこそできたものなので、関東大震災前はこうして岩場を歩くことは出来なかったに違いない。初声層の上にはローム(赤土)が高く積もっているのがはっきりと分かる。ただし上部には樹木が見られない。これは南からの風があまりにも強いので木々が育つことを許さないためだろう。右手前の岩場からは大きなトカゲが顔を出している。というより、岩がトカゲの顔のように見えるというのが正解で、前回に紹介した諸磯の犬やウサギと同様、自然は優れた芸術家でもある。

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城ケ島公園から海を望む

 安房崎を離れ、直上にある県立城ケ島公園に戻った。この公園は城ケ島の頂上部にあり、標高は約30mで上部は比較的平らだ。城ケ島はかつて海底にあり、堆積物がフィリピン海プレートの沈み込みによってできた付加体だ。海底にあったときに波の浸食作用によって上部が平らになり、それがそのまま地上に現われて島となったと考えられている。現在の高さは約30mだが、前回に述べたように三崎の地形は紀元後に起きた4回の大地震によって約7.5m隆起している。城ケ島には弥生時代の遺跡がある。したがって、そのころの人々がここで生活していたときは、この島の標高は約20mだったのだ。

 東京湾の玄関口に近い場所にあるこの島は軍隊にとっても格別に重要な存在であったようで、1899年には明治政府によって要塞地帯に指定され、1905年には望楼ができ、1927年には砲台が設営されている。現在、砲台は残っていないものの、軍隊が使用していた場所は、1958年に県立公園として整備された。

 もっとも、こうした地理上の特性を利用したのは明治以降の政府だけではなく、すでに16世紀、安房の当主であった里見義弘はこの島に砦を築いていた。そのため、以来ここは城ケ島と呼ばれるようになったらしい。

 公園の高台から崖下をのぞいてみた。高所が苦手なので、やや腰を引いた場所から撮影した。それゆえ、海食崖の様子は写ってはいない。代わりに、少し沖に点在する岩礁帯が入っている。次に大地震が来た場合には(そう遠くないことかもしれない)、かつてがそうであったように、海岸線は1~2mほど隆起するので、写真にある岩場は海岸段丘として顕在化し、ここを観光客や釣り人が歩きまわるだろう。

 なお、この海食崖はウミウの生息地として知られ、冬場には多くのウミウたちが崖で群れを作る。

遊ヶ崎に白秋碑を訪ねる

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白秋碑と城ケ島大橋

 城ケ島大橋は、遊ヶ崎の直上を走っている。岬のような陸の出っ張りを利用するとピーヤ(橋脚)の建設が容易になるからだろう。なお、向かいは三崎町の中心街のひとつで、向ヶ崎地区である。

 詩人の北原白秋は1910年に初めて三崎や城ケ島を訪れ、とても気に入ったそうだ。私的なもめ事があり、13年に白秋は向ヶ崎にある異人館に移り住んだ。一年弱であったが、この地域にいろいろな足跡を残している。もっともよく知られているのが「城ケ島の雨」という詩(詞)で、これは芸術座の音楽会に用いる舟歌として創られた。やがてレコードが発売されて大ヒットしたらしい。当然、スタンダードナンバーになったはずなので、私も小さい頃に聞いたことがあるような気もする。しかし、どんな歌だったかまったく記憶になかった。そこでユーチューブで探し、美空ひばりバージョンで聞いてみた。なるほど、聞いたことがあるような気はした。感想はただそれだけ。

 詞の中に「利休ねずみの雨が降る」というのがある。当然、「利休ねずみ」とは何だということになる。雨だから「音」か「色」か、だ。ねずみはチューチューとうるさいので大雨かもしれないが、利休は茶人だから静寂を好みそうだ。ということは音ではない。すると色に相違ない。スリランカなら「赤い雨」が降るが、城ケ島の雨は何色か?ねずみだから灰色だろうが、利休がよく分からない。茶人だから茶色か?ウーロン茶ならそれでよいが、利休とは結び付かない。やはり茶は緑色と考えてよいだろう。調べてみると、「緑がかった灰色」とある。やはり利休=緑だった。しかし、利休とは直接、関係はないようで、江戸時代の後期に流行った色らしい。城ケ島は岩礁帯=灰色と、草や樹木=緑に覆われている。無色透明な雨が城ケ島の風景を映し出して「利休ねずみ」の色に見えたと考えるのが妥当だ。これでは、ごく当たり前の答えで面白くないのだが。

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白秋碑と三崎港

 白秋碑は、彼が住んだ向ヶ崎を見通せる場所である遊ヶ崎に建てられた。1949年のことだ。白秋は42年に没しているが、戦争中だったために碑の建設は遅れた。また、城ケ島大橋建設のために碑は遊ヶ崎から少しだけ移動させられ、岬の西側の現在地にある。夏場であれば観光客はこの砂浜で水遊びをするので少しだけ賑わうが、それ以外の時期には訪れる人は少ない。北原白秋の名を知る人は確実に減っているだろうし、ましてや「城ケ島の雨」を知る人はもはや圧倒的少数派だろう。

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大橋下から通り矢岸壁をのぞむ

 対岸に見える岸壁は「通り矢」のもので、三崎港ではもっとも東に位置する。もちろんここも隆起した海岸線を造成したもので、白秋が作詞した時代にはこのような岸壁はなく、写真に見える海食崖が連なる荒々しい海岸線だったはずだ。だからこそ、「城ケ島の雨」の2番には「通り矢」の名が出てくるのだろう。

城ケ島の住宅街を歩く

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島の住宅街は北側にある

 城ケ島地区の人口は600人ほどだろうか。観光地だけに昼間人口はもう少し多いと思えるが。南側は荒々しい海岸線が続くので居住には厳しいために住宅はほぼない。大半は島の北側斜面のふもとの平地に住宅がある。宅地から北側を望むと三崎の中心街にある建物や、三崎港に係留されている大型船舶の姿を見ることができる。かつては大半の人が漁業に従事していたのだろうが、住宅街を歩いてみると、さほど漁師町という感じはしない。海岸線にあるごく普通の住宅地という趣である。

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常光寺と保育園

 住宅地の奥に常光寺があった。浄土真宗本願寺派の寺で、境内には遊具施設があった。東側にある建物は保育園として使われているようで幼子の声が聞こえた。写真の遊具はここの子供たちが利用しているのだろう。寺や神社の境内は、いつの時代も子供たちの格好の遊び場である。

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住宅街の正面にある城ケ島漁港

 住宅地を出て北に向かうと目の前に城ケ島漁港がある。対岸は三崎港なので、こちらの漁港には小さな漁船があるばかりだ。この港は少しずつ綺麗に整備されつつあるが、対照的に賑わいはなくなりつつあるようだ。一方、向かいに見える三崎町の中心街は、一時よりも回復傾向にあるのかもしれない。

 沖では水中観光船の”にじいろさかな号”が花暮岸壁前に差し掛かったところであり、これから城ケ島大橋を潜り抜けて宮川湾方向に進んでいく。その船の向こう側には「うらり」の建物が見える。右手には出航を待つマグロの遠洋漁業船が停泊している。

 少しずつ寂しくなっていく城ケ島漁港だが、三崎港が波静かでいられるのは城ケ島が南からの風や波を防いでいるおかげでもある。三崎港の発展は、実に城ケ島に支えられているといっても過言ではない。

島の賑わいは西側に集中している

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この商店街を抜けると城ケ島灯台や長津呂崎に出る

 土産物店、食堂やレストラン、ホテルや民宿などは島の西側に集中する。バスの終点は西側にあり、観光名所もこちら側に多い。車で島を訪れる人は先に述べたようにあちこちの駐車場を一括料金(ワンデーパス)で利用できるので東西南北の各名所をわりに手軽に散策できるが、バスや三崎港からの渡船利用の場合は西側を起点とせざるを得ない。それゆえ、どうしても店もまたこちら側に集まってしまうという具合である。

 写真は、観光地・城ケ島のメインストリートとでもいうべき小径で、バス停からこの道を使うと城ケ島灯台や長津呂(ながとろ)崎に比較的早く行くことができる。以前はこの道の両側にほぼ隙間なく土産物店や食堂が並んでいたのだが、近年は観光客の減少からか高齢化で後継ぎがいないためかで店の数はかなり減っている。さらに、ここ数年、台風による高波がしばしば店の中まで押し寄せ、多くの店舗が浸水被害を受けていることも、この動きに拍車をかけているようだ。

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荒波にも比較的強く、駐車場からも近い灘ヶ崎の磯

 写真の「灘ヶ崎」は城ケ島バス停のすぐ西側に伸びている岩場で、水深は北側(三崎港向き)のほうがあるためもあり、南からの強風で長津呂崎では釣りが不可能なときにも磯釣りが可能なポイントとして知られている。また、写真のように地層の露頭が明瞭なため、城ケ島の地質の特徴を容易に知ることができる場所としてもよく知られている。

 先にも述べたように、島の東側は「初声層」だが、ほぼ中央の赤羽崎付近を境に西側はそれよりも古い三崎層が露出している。黒っぽいスコリア質砂礫岩と黄土色のシルトの層が明瞭で、スコリア層はやや硬くシルト層はやや柔らかいために差別侵食されて凹凸が激しいのでとても歩きづらい。地層の傾斜は70度から60度あり、写真の左側(南側)にいくにしたがって傾斜は緩くなる。

 右側(北向き)で何人もの釣り師が竿を出している。ここは先端部のほうが水深があるからだ。観光客はこの様子を見るためか灘ヶ崎の付け根から先端部に向かって歩き出すのだが、たいてい、激しい凹凸に負けて途中で戻ってくる。私はもちろん、面倒なので一歩も進まずに撮影した。磯の先に見える赤灯台堤防は居島新堤といい、南西から寄せてくる荒波から三崎港内を守っている。写真では分かりづらいが、磯と堤防とは離れているので、ここを小型の船舶が行き来する。大中型船舶は赤灯台の右手を通過する。三崎町側には歌舞島堤防があり、もちろん、そちら側には白灯台が立っている。

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灘ヶ崎から京急ホテル方向を望む

 灘ヶ崎の付け根付近から南側を見ると、城ケ島を代表する宿泊施設とレストランがある「城ケ島京急ホテル」、それに高台にある城ケ島灯台の上端部が視界に入る。この辺りは海岸段丘が明瞭で、ホテルの前の磯が一番低く、ホテルがある場所はそれより二段高く、そして灯台はさらに高い場所にある。

 灘ヶ崎の付け根からホテルや灯台方向に行けなくはないが、海岸線は非常に複雑に入り組んでおり、かつ道なき道を進むことになるので、無謀なことが好きな私でもその行動をとったことは一度しかない。上に紹介した小径を通り、観光橋方向に進めばホテル脇に、直進して右手にある階段を登れば灯台に出る。

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現存する城ケ島灯台は二代目だ

 城ケ島灯台は、1870年、日本で5番目の洋式灯台として造られた。一番目は以前に「横須賀」の項のところで紹介した観音埼灯台である。いずれもフランス人技術師のヴェルニーの設計によるものだ。ここの灯台は初代が1923年の関東大震災で倒壊したのち、27年に再建されたものである。

 灯台に付属する設備が入っている建物の壁には、「JOGASHIMA」の文字でかたどった城ケ島の図があり、2つの赤いハートは灯台のある場所を示している。ハートの上には「JOGASHIMA   LIGHTHOUSE」の文字がある。右が安房灯台で、左がここの城ケ島台だ。

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灯台本体にもペイントがある

 城ケ島灯台がある場所は「西山」といって、かつて安房崎にあった「のろし台」に代わってここに「のろし台」が作られた。東京湾に入る船はおおむね西側からくるので、安房崎よりもこちらの場所のほうが船員にとって見やすかったのだろう。その「のろし台」が廃されて、明治初期に洋式灯台が造られた。

 灯台本体にはペイントがある。長津呂(ながとろ)湾とそこから伊豆半島方面を望むと富士山が見えるので、それをデフォルメしたものが描かれている。灯台の管理者はなかなか粋な計らいをする。

 ここは高台にあるので長津呂の磯の景色が一望できる。灯台があるのだから当たり前の話かもしれないが。ところで、長津呂は「ながつろ」ではなく「ながとろ」と読む。釣り人の大半は「ながつろ」と言っているが。伊豆の石廊崎にも長津呂があり、こちらは「ながつろ」と読むようだ。おそらく、ここでも以前にはそのように呼んでいたに違いない。土地の人もほとんど「ながつろ」と言う。しかし、行政側の誰かが秩父の「長瀞」があまりにも有名なので、ここもそれにあやかろうと「ながとろ」と読むように統一したらしい。これはあくまで土地の人に聞いた話だが。ありそうな話だし、実際、市や県が設置する看板や地図には必ず、「ながとろ」という”かな”が振ってある。

長津呂から赤羽崎まで

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奥深い入り江になっている長津呂湾

 灯台から階段を下って長津呂の磯に降りた。写真の入り江が長津呂湾で、この奥深く波静かな入り江が長津呂の名の由来だ。津は入り江や港を表わし、呂は元来は背骨を意味するが、風呂のように「室」を表わすようなときにも用いる。また、津は「津代(つしろ)」と表現されることも多く、「つしろ」が「つろ」に短縮され、「津代」に代わって「津呂」と表記されるようになったとも考えうる。

 この湾は長津呂の丁度、中央部に深く切れ込んでいて、湾の北側(京急ホテルがあるほう)が長津呂崎、南側が長津呂の磯と釣り師の間では区別している。本ブログの第1回目は長津呂湾口の北側で釣りをした場面が題材になっている。その際の写真は長津呂崎方向を写したものだ。

 上の写真の地層の向きを見ていただきたい。右(海側)からの地層はやや左下に傾斜し、左(陸側)からはやや右下に傾斜している。こうして向かい合って傾斜した状態を「向斜地形」という。つまり地層が横からの圧力を受けたために褶曲(しゅうきょく)し、その中央部分がへこんでいるのだ。それが波に侵食されて割れ目となり、さらに広がって深い入り江になったと考えられる。仮にこの褶曲が上方に働けば(これを背斜地形という)長津呂湾は出来なかった、もしくはまったく異なった湾形になっていたかもしれない。

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長津呂の磯の釣り場

 長津呂の磯は写真のように足場が高い位置にあるので釣りやすい。もっとも、ここは南からの荒波をまともに受ける場所なので、足場が低くては危険極まりない。この日は「べたなぎ」といってよいほど波静かなので写真右手に立っている人は余裕の構えだが、通常でも波しぶきぐらいはかかる場所で、少し風が出てくると足場を波が洗うようになる。北西の季節風が強くなる11月後半からは岩場が乾いている状態などまずはない。それに、岩の表面にはノリが生えるのでとても滑りやすい。

 写真からも分かるように、岩場は右にいくほど低くなっている。この傾斜は背後にある長津呂湾まで続いている。これが逆向きに褶曲していたならば釣り場の足元は前下がりになってしまう。すると容易に波が這い上がってくるために危険性が極めて高まる。岩場がこうした状態であったならば、ここが釣り場として選ばれることはまずなかっただろう。

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やや内陸側から長津呂の磯を眺める

 この写真は、やや内陸側から長津呂の磯を撮影したものだ。岩肌の色に注意していただきたい。先の写真のように波打ち際の岩は黒っぽいが、内陸部の岩は黄土色の部分が多いことが分かる。これもまた差別侵食によるもので、波打ち際は常に荒波にさらされるので硬めのスコリア質部分が残り、内陸部は波が届かない位置にあるので、柔らかめのシルト層でも侵食されにくいためである。もっとも、今後、風雨にさらされ、人の行き来も無数に行われれば、やがて黒い岩肌が現れるようになるだろう。そんなときまで、人類が存在していればの話だが。

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長津呂崎から赤羽崎を望む

 長津呂崎が島の西側に突き出している岬なら、赤羽根崎は南に突き出している岬である。長津呂崎は海岸段丘といっても凹凸がかなりありとても歩きにくい。赤羽根崎に近づくと今度は砂浜があるので地面は平らになる。しかし、砂浜は足を取られるので、やはり歩くのは大変だ。長津呂から赤羽根崎までは500mほどの距離なのだが、こうした道行なので荷物なしでも15分ほどの”苦難”を覚悟しなければならない。それでも老若男女が赤羽根崎を目指すのは、そこが「エルドラド」であるからではなく、写真にある洞門があるからだ。

 人は何故、岬を目指すのだろうか。理由は単純。それは、他の人が目指すからだ。という訳で、私も目指した。

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馬の背洞門は島随一の観光名所

 海食洞門である「馬の背洞門」は城ケ島の象徴的存在で、古くから人気スポットだったらしい。関東大震災前は、この穴を通る小舟が観光名物だった。震災前は海岸線が今より1.4mほど高かったため、小舟がこの穴を通過することができたのだ。今は徒歩で通過する。

 写真をよく見ると、左端にも小さな穴があることが分かる。穴を塞ぐ岩状のものが見えるが、これは岩ではなく釣り人の姿だ。この赤羽根崎周辺も磯釣りのポイントなのである。周囲の水深はあまりないが、滅多に釣り人が出掛けることがないので”場荒れ”していないのだ。私もここで2回釣りをしたことがある。両回ともまずまずの釣果だったが、3度目は絶対にないと断言できる。荷物がなくても、駐車場からの距離まで考慮に入れると20分ほど掛かる。これに釣り人はチョー重い荷物が加わるので30分間の「死の彷徨」を覚悟しなければならない。しかも、後半には恐怖の砂浜歩きが待ち構えているのだ。洞門というより地獄門である。しかも、この門をくぐり抜けても待っているのは大型魚ではなく中小の魚の大群である。これなら、さして苦労のいらない長津呂湾での釣りのほうが格上のような気がする。数は少ないものの、型物はこちらのほうが多い(と思う)し。

 この赤羽根崎は島の東側の「初声層」と西側の「三崎層」との境になるので、地質学的にも貴重な存在だ。写真にはないが、左手には大きな断層が見える。洞門の地層はこの島では珍しく水平である。左手には火炎構造らしきものも見える。その他、ここは城ケ島の地質の特徴がすべて揃っていて、フルコースを堪能できる。ただし、その分、健脚を強いられるが。

 私には、まだ訪ねるところが残っていた。ここで疲労度100になるわけにはいかないので、今回は洞門には近づかず砂浜の手前から望遠レンズで洞門周辺を撮影した。次回があるかどうかは不明だが。

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釣り人の帰還。いかにも”疲れた”という感じが表出されている

 城ケ島最後の徘徊場所として、私は三崎港向きの岸壁を選んでいた。赤羽根崎近くから海岸段丘を上り下りしながら長津呂崎まで戻り、そして商店街のある小径を南に向かった。前方に、長津呂崎付近で釣りをしていたのだろうか、重い荷物を背負った老釣り師がとぼとぼと歩いていた。荷物はだらしなく傾いている。今にも落ちそうだが、もはや彼にはそれを直す気力もなく、ただただ駐車場にたどり着こうとあえぐばかりだ。

 そう、これが釣り人の典型的な姿である。何故、これほどくたびれ果てるまで釣りをするのだろうか?朝方には颯爽として磯に向かったはずなのに。この敗残兵はきっと今は後悔しているに違いない。それでも懲りずに、明日には次回の釣行に希望を抱き始めるのだ。そしてまた次回も敗れ去る。釣りはまったく非合理である。非合理ゆえに、釣りの道は極楽には向かわず、地獄の一丁目へと続くのだ。釣りは自虐的趣味なのである。

三崎港向きの岸壁で見たことなど 

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三崎港向きの岸壁はお手軽釣り場として人気がある

 この岸壁は北向きなので波静かなことが多い。本当は違反なのだが、車を横付け可能なので徒歩10歩程度で竿を出すことができる。平日のためか年配の常連が多いが、休日には家族連れで大賑わいとなる。この時期は一年でもっとも小魚が多く、そして足元にも無数の魚が寄ってくるので、お手軽仕掛けでも簡単に釣ることができる。多くの人の狙いはアジで、10~15センチ程度のものが数釣れていた。

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有料釣り場。マダイやハマチが釣れる

 初めて知ったのだが、岸壁には「海上釣り堀」が出来ていた。2015年オープンというからもう4年前である。そういえば、この岸壁をのぞくのは久し振りだった。いつもはバス停横の駐車場に車をとめ、長津呂崎に向かい、そして敗れて帰還するので、岸壁をのぞく機会はなかった。10数年前まではよく堤防釣り場の取材をおこなっていたので、年に数回はこの岸壁を見て回ったものだったが。

 マダイ、ハマチ、シマアジ、ヒラメなどが狙える釣り堀で、竿は無料で借りられる。釣り放題3時間の料金は入場料込みで11000円(税込み)、エサは別料金がかかる。釣った魚はスタッフが活締めしてくれる(無料)。何も釣れなかった場合でもマダイを一匹もらえるらしい。

 こうした釣り場は西日本で盛んだったが、十数年前から東日本の湾内でもあちこち見かけるようになった。ここの釣り場は平日でもそれなりに人の姿があったので、休日はかなりの賑わいを見せるのだろう。私は房総半島や伊豆半島の某所で2度、海上釣り堀釣りを体験したことがある。双方とも某釣り具メーカーのテスト兼取材だったために無料で釣りが出来たが、自腹ならまずやることはないだろうと思った(個人の感想です)。理由は簡単で、私は釣った魚は食べないからだ。つまり、食べる目的で釣りをしたことはないのだ。

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ハマチ、マダイの養殖イケス

 岸壁の一角には三重県漁連が経営する「養殖イケス」があった。正式には駿河湾で養殖したものをここに運び込み、出荷調整するためのイケスのようだ。このイケスの存在は前から知っていた。一時は下火になっていて”廃業”したのかと思ったが、久し振りにのぞいてみると、以前より盛んになったように思えた。三重には釣り仲間が何人もおり、そして何十回となく釣りに出掛けていた(主に尾鷲や志摩半島方面)ので、「三重漁連」の名を見ただけで、なぜか親近感がわいてしまうから不思議だ。

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この日の出荷品目は活締めハマチ

 一匹ずつ発泡に入れられたハマチは3キロクラス。箱に「30」「31」とあるのは重量表記なのかは不明だが、私のような釣り人の感覚からすると魚の重さに違いないと思った。「沼津」とあるのは、駿河湾で育てられた魚であることを意味しているのだろう。

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死んだ養殖魚。これも台風の被害のひとつだ

 イケスを丹念にのぞくと、死んだ魚が浮いているのがあちこちで見られた。これは病気によるものではなく、台風15、19号の影響と考えられる。普段は波静かな場所でも、台風による大きなウネリで湾内は相当にざわつき、イケスは大揺れだったはずだ。そのため、魚同士の衝突、魚体が網に擦れることによる傷害、それにイケスの揺れによるストレスなどが複合的に作用して死に至ったと考えられる。自然界であれば、魚は海中深く潜ることにより、上記のトラブルはすべて防ぐことができる。

 そういえば、15号来襲直後のニュースで、南房総・勝山漁港のマダイの養殖イケスが壊滅的被害受けたことを報じていたことを思い出した。人知はまだまだ自然には遥かに及ばないのである。

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城ケ島から三崎口へ向かう路線バス

 城ケ島めぐりを終えたので帰途につくことにした。城ケ島バス停には多くの観光客がいて三崎口行きのバスに乗り込む最中だった。ややくたびれたオジサンとますます元気なオバサンの姿が目立った。普段より利用客が多いような気がしたが、この日は城ケ島と三崎港を結ぶ渡船・白秋号が運休していたのもその理由のひとつかもしれない。

 城ヶ島めぐりという岬めぐりを終え、三崎口に向かうのか、それとも途中下車して三崎港に向かい三崎めぐりをするのかは不明だが、旅は家に帰るまでが旅で、それは運動会と一緒だ、と、校長先生は朝礼台の上から定型文を語るのだろうか。

三崎周辺の岬めぐり最終章

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三崎の玄関口・三崎マグロ駅

 京浜急行三崎口駅は三崎めぐりの玄関口である。過疎化や観光客減、それに自然保護によって京浜急行の油壷までの延伸計画は断念されたようなので、この三崎口駅がこの先もずっと京急の終点であり続けるようだ。かくなる上はこの駅をもっと売り出す必要があり、写真からも分かるように三崎口駅は「みさきまぐろ」駅を名乗るようになった。「口」をカタカナの「ロ」と読ませ、三崎マグロ駅に変更された。当初は2017年10月から12月までのリニューアルキャンペーンの一環としておこなわれたものだが、好評だったためか、現在でも駅名標は三崎マグロ駅のままである。たしかに、三崎といえばマグロであり、マグロの文字を前面に押し出すことによって、観光客にマグロを食べさせたり土産に買わせたりする印象操作なのだろう。効用がありそうなキャンペーンだ。

 2008年から電車の接近メロディとして「岬めぐり」が採用されたが、17年に「城ケ島の雨」に変更された。前回述べたように、三崎口から三崎港行きのバスからは海は見えないし、城ケ島行きなら城ヶ島大橋を渡る刹那に「窓に広がる青い海」を望むことはできるものの、「砕ける波の激しさ」までは見て取ることはまずできない。強風時ならそれも可能かもしれないが、今度は大橋は通行禁止になるので、「それも叶わないこと」なのである。三崎口は終点なので、電車はゆっくりと入線する。ならば、「城ケ島の雨」のようなゆったりとしたテンポの曲でもいいのかもしれない。

 もっとも、「岬めぐり」は京急から消えたわけではなく、三浦海岸駅の接近メロディとして採用されたようだ。三浦海岸駅からなら三崎東岡行きに乗れば、金田湾や江奈湾辺りで「窓に広がる青い海」を見ることができるし、「幸せそうな人々たちと岬を回る」こともできる。

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黒崎の付け根にある旧初声港

 三浦市の北外れにある黒崎を訪ねた。城ケ島は曇天だったのにここに来てから晴れてきたのではない。単に別の日に訪れたからである。初声(はっせ)は開発が進んでいない場所で、以前から高校はあったもののそれ以外には建物は少なく、やがて東側に総合体育館はできたが、国道の西側は野原のままだった。それが、広大な野原の一角に大きなホームセンターができたことにより、国道もやや混雑するようになった。

 ホームセンターに車をとめ、海に向かった。海近くまで車を入れることは可能だったが、戻る際には黒崎の上部にある畑を歩く予定だったので、ここにとめても大差はなかったからだ。もちろん、駐車料金の代わりにホームセンターで少し買い物をしたので、「無断駐車」ではなかったはずだ(と思った)。

 写真の旧初声港は小さなボートが幾艘かあるばかりで、ほとんど使われている形跡はなかった。かつては堤防からの釣りは可能だったが、現在は金網フェンスに囲まれており釣りは禁止されているようだ。扉が少し開いていたので港に三歩だけ足を踏み入れ、写真を撮った。右手に見えるのが和田長浜、左が荒崎に続く磯だ。高台の「ソレイユの丘」にある観覧車も見える。

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黒崎海岸から和田長浜を望む

 海岸伝いに歩き黒崎の先端方向に向かった。海岸からは和田長浜海岸の全貌が見て取れた。右手奥にはうっすらとだが大楠山の姿もある。

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黒崎海岸から先端方向を見る

 前方左手に見えるのが黒崎だ。黒崎はドラマの撮影場所として有名で、海岸線には人工物が少ないので、時代劇で海岸のシーンを撮影する舞台としてよく使われている。最近ではテレビそのものを見ないが、以前は時代劇だけはよく見ていたので、「また黒崎が使われているよ」と何度も思ったものだ。ただし、写真の黒崎は北方向から見たもので、ドラマに使われているのは南側である。

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黒崎の鼻は磯釣りの名所

 黒崎の高台から先端部を見た。「黒崎の鼻」と呼ばれている海岸段丘で、上部が比較的平坦なのは、ここが海中にあったときに波によって削られたためだろう。それが隆起して釣り人のための大舞台となった。ただし、北西の風には弱いので、冬が本番の磯釣りには不向きな場所だ。季節風が吹く前の今ならカツオやイナダといった回遊魚が狙えるはずだ。

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黒崎の天辺に広がる大根畑

 ドラマの舞台となる南側の海岸線には寄らず、細道を登って黒崎の天辺にでた。一面に広がる畑では大根の苗が植わっていた。三浦市と言えば大根が有名である。しかし、根の太い三浦大根はほとんどなく、青首大根が大半である。三浦大根は根が深く、掘り起こすのが大変だ。一方、青首大根は根が浅いから収穫が容易なのである。というより、根の上部が出てきて浅く植わるから首回りが青く(ほんとは緑)なるのだが。

 写真の電柱が続く道を東に進むと三崎マグロ駅に至る。私が写真を撮っているこの場所は黒崎の天辺ではあるものの、もはや岬の上部ではなく、初声の畑の大地そのものでもある。

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黒崎の南にある三戸浜海岸

 黒崎の南にある三戸浜海岸にも立ち寄った。以前にはよく、三浦市に住む知人と堤防釣りに出掛けた場所だ。お手軽釣り場だが、メジナクロダイの良型が釣れるのでかつては穴場的存在だった。大根畑の先にある小さな港だけに、地元の釣り人以外にはほとんど認知されていなかった。また、港の北側には写真のような砂浜が広がっているので、堤防釣りには不向きとも考えられていたのである。

 ところで、三戸浜は「みとはま」と読む。三戸は「みと」もしくは「みなと」の短縮形に漢字を当てたもので、地域(例えば静岡県沼津市)によっては「三津」を使う。津だけで港を意味するということは長津呂の項で述べた。それでは「三」は何を意味するのだろうか。港は三方を陸に囲まれているからという訳ではない。二方では港にならないし、四方では船が入れない。そもそも、三方を囲まれているからこそ港なのだ。なので、”三”をわざわざ強調する必然性はない。つまり「三」は単なる接頭語で「御」で表すこともあるものに過ぎない。そもそも、三浦もかつては御浦と表記されていた。「津」や「浦」だけでは場所の特定が難しいし、とくに「津」だけでは使用しづらい。三重県の津市は例外的に「津」だけだが、これは県庁所在地になるほど全国的知られているので、三や御を付ける必要がなかったのだろう。

 「御」は尊敬語というより丁寧語として用いられる。食べ物は貴重で有難さを感じる必要があるので「御飯」であり「御味噌汁」であり「御付け」である。朝と夕または夜は日常の一環なので御はつけない。しかし、昼は日常の中の非日常的存在なので、御昼と言われる。同様に、港は重要な存在なので「みと」=御津=三津になったのだろうし、これが転じて「三戸」にもなり「水戸」にもなったと考えられる。 

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初声港(三戸浜漁港)は釣りが盛ん

 港内側は小物釣りを楽しむ人が大勢いた。夕暮れ時はアジ釣りの地合いなので、続々と人も魚も集まってくるようだ。堤防の高いところにも人がいる。海側には大きな消波ブロックが入っているのでそこに降りるのは危険極まりない。そのブロック上にも釣り人は数人いたが、大半は、夕日を眺めるために堤壁の上部に乗っているようだ。

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三戸浜から夕陽を望む

 私は高所が怖いので、堤防の付け根にある小さな浜から夕陽を眺めた。三崎めぐりと岬めぐりはここが終点だ。

 心はすでに、次に徘徊する場所を求めている。明日もまた徘徊できるかと夕陽に尋ねた。オレンジ色の光の中から哲学者カントが現れ、次の言葉を私に告げた。

 きみはできる、なぜならすべきだから

 

〔24〕岬めぐりは三崎めぐりなのだ(前編)

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網代湾を望む

岬(三崎)めぐりを三崎港から始める

 今から40数年前、「岬めぐり」なるフォークソングが流行った。ギター1本あればスリーフィンガーで簡単に演奏できるので、友人らとよく唄った記憶がある。どこにでもある若者の感傷をテーマにした曲だが、よく話題になったのが「この岬はどこを舞台にしているのだろうか?」ということだった。曲調と歌詞ともどもやや軽めの内容であることから(1)特定の場所はなく、どこの岬でも妥当しうるというもの。(2)東京から比較的手軽に行ける伊豆半島や房総半島で、伊豆なら石廊崎、房総なら野島崎あたりと主張するもの。(3)軽さを擬しているところが怪しく、実は心に相当なダメージを受けているはずなので、津軽の龍飛崎とか高知の室戸岬、それとも能登の狼煙崎、果ては北海道の宗谷岬礼文のスコトン岬であると強く語るもの、などがあった。私はもちろん(3)を主張した。私には歌詞と同じような経験があり、実際に龍飛崎や下北の大間崎に出掛け、さらに恐山にも行った。さすがに「いたこ」の口寄せまでは体験しなかったけれど。

 この歌に触れたときにはいつもこうした議論になってなかなか収拾がつかないので、私が実相を究明することになった。コウタローはもはや東京競馬場を走ってはいないだろうが、コウタロウーと大学の同窓だった知人がたまたま音楽の業界にも足を踏み入れていたこともあって、彼ならば調査可能だろうと考え真相究明(というほどおおげさなものではないが)のための調査を依頼した。彼とは北海道の礼文島のボロ民宿で知り合い、それから何度か国分寺界隈で会うようになっていた。彼は私以上に放浪癖があるためなかなか捕まえることができなかったが、いざ対面が実現すると、その馬鹿々々しい頼みにはあっさりと応じてくれ、さらに答えもすぐに出してくれた。

 「三浦半島だよ」と知人は告げた。以来、「岬めぐり」は私の持ち歌からは消えた。

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三崎港と京浜急行三崎口駅とを結ぶバス。岬には寄らない

  私は使ったことはないが、電車・バス利用で三崎港に行くとすれば京浜急行三崎口駅からバスを利用することになる。バスは国道134号線を進み、引橋交差点を右折して県道26号線を南に進んで三崎港に至る。このバスには乗ったことがないので詳細は不明だが、普通の車でこの道を使った場合には道中では海を見ることはできない。高さがあるバスの車窓からならばちらりと海を見かけることはあるかもしれないが、いずれにせよ、「窓に広がる青い海」には出会えない。つまり、このバスでは「幸せそうな人々たち」と同行する可能性はあったとしても「岬めぐり」はおこなえない。その代わり、三崎港バス停で降りれば、三崎めぐりが堪能できる。

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三崎フィッシャリーナ・ウォーフ(うらり)の全景

 「うらり」は海(う)を楽(ら)しむ里(り)、魚(う)を楽(ら)しむ里(り)から作られた言葉らしい。「すかなごっそ」といい「うらり」といい、三浦半島の人は造語が好きなようだ。ここはまた「みうら・みさき海の駅」としても登録されている。最近では「うらり」よりも「みさき海の駅」のほうが認知度は高いかもしれない。いずれにせよ、この館内には産直センターがあり、「さかな館」「やさい館」として、三浦半島で採れた新鮮な農水産物を販売している。

 この写真からも分かるように現在、三崎港がある場所の大半は埋立て地で、関東大震災によって隆起(1.4mも高くなった)した海岸線を埋立てて造成したものである。

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三崎港といえばマ・グ・ロ

 三崎港の水産物といえば、すぐにマグロが思い浮かぶ。マグロの水揚げ量だけでいえば銚子港や焼津港、清水港には劣るかもしれないが、漁港の規模を考慮に入れると、これら三港より単位面積当たりの水揚げ量は上回っているだろうと勝手に想像している。

 さかな館にはマグロを取り扱う卸問屋がいくつも店を構えており、良心的な価格でいろいろなマグロの部位や加工品を入手することができる。私自身は購入したことはないが、マグロ好きの知り合いは、かなりお買い得だと語っていた。

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三崎館本店の歴史を感じさせる佇まい

 三崎港の周囲にはマグロ料理店が多く軒を並べているが、もっとも目立つ存在が港の前にある写真の店だ。ここは日本で最初に「まぐろのかぶと焼き」を提供した老舗で、いろいろなマグロ料理を食することができる。私は一度だけこの店に入ったことがあるが、個室でゆったりと料理を味わうことができたという記憶がある。

 この店は明治期の創業だが、関東大震災によってかつての建物は倒壊し、震災後に建てられたものである。正面の板壁の建物がもっとも古いように思えるが、実はここがもっとも新しく1955年頃に建てられた(正式には大幅な増改築)ようだ。わざわざ古風に見えるように造られているところが興味深い。

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海中散歩?が楽しめる「にじいろさかな号」

 うらりが「海の駅」を名乗るとおり、すぐ横にある岸壁からは写真の水中観光船「にじいろさかな号」が運行されている。ここを出て花暮岸壁の横を通り、城ケ島大橋をくぐって三崎港を離れる。といっても港のすぐ東側にある八景原の磯の前で停泊して船内展望室から海中を観察することになる。

 八景原の磯は宮川湾の西側にあり、磯際は水深があまりないので釣り場としてはC級ポイントだったが、この観光船が運行されるようになってからはよく「餌付け」(釣り人はこれをコマセと呼ぶ)が施されるために魚影が濃くなった。このため、釣り場の格付けもCマイナスからBマイナスに上昇した(私の勝手な判断だが)。

 この観光船は利用したことがないのでどんな魚を見ることができるのかは不明だが、この辺りの磯ではメジナクロダイウミタナゴが常連で、ときにはマダイやイシダイが顔を見せるかもしれない。観光船は全行程が40分で、利用料金は大人1300円とのこと。

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三崎港と城ケ島とを行き来する城ケ島渡船

 水中観光船の隣からは対岸にある城ケ島とを結ぶ船が出ている。正に「うらり」は海の駅である。三崎港めぐりだけでは物足りないと思う人はこの渡船「白秋」を利用して島に渡る。城ケ島へ歩いていくためには城ケ島大橋を利用するしかないが、三崎港の中心街から橋の北詰までは結構な距離があるので、城ケ島にもちょっと出掛けてみたいと考える向きには渡船利用が無難だ。片道は大人300円だ。私は取材で2度ほど利用したことがあるが、波静かな湾内の行き来なので船が苦手な人にも、ごく小さな船旅を体験することができる。

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釣り場としても人気がある花暮岸壁

 三崎港内には堤防釣りができる場所があるので、家族連れや仲間同士でここに出掛けてくる人が結構いる。写真の花暮岸壁は大型マグロ船が遠洋航海に出掛けるときに利用される桟橋だが、そのとき以外は一般にも開放され、かつ構内には駐車スペースやトイレもあるので、平日でもかなり賑わう。秋は一年でもっとも小魚が多い時期なので、簡易な仕掛けでもイワシ、小サバ、小アジなどがよく釣れる。

 花暮の名の由来は不明だが、ここから城ケ島の桜を眺めつつ日々この地で暮らした、ということから花暮と呼ばれるようになったという俗説があるらしい。

 なお、写真に見える橋が「城ケ島大橋」だ。島に渡るときは有料(歩行者、自転車は無料)だが、来年には無料開放される予定とのこと。橋上からは三崎港の全貌に接することができるので、歩いて渡る人を案外、見かける。

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中型マグロ船の停泊地にもなっている北条湾

 三崎港の中心街を離れ少し東側に進むと北条湾にでる。かなり奥深い入り江のため、湾内はとても波静かだ。ここは狭塚(さつか)川(鮫川)が造った入り江で、紀元後、4回の大きな地震で三崎地区が隆起(紀元前より7.5mも高くなった)する前はもっと大きくそして深い入り江だったようで、ここがかつて三崎港の中心だったと考えられている。

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漁港の市場横にある超低温冷凍倉庫付近にも釣り人が多い

 三崎漁港の西側にはマグロを冷凍保存するための大型倉庫がいくつもある。写真は市場横にあるもので製氷設備などもある。この倉庫の周辺は午前中には大型トラックが行きかうが、午後からは仕事の車の数はめっきり減り、代わって釣り人の車が増え、岸壁のいたるところでのんびりと竿を出す風景が展開される。この岸壁は大型船も接岸されるので足元から水深がある。このため、お手軽釣り場といってもときには望外の大物が顔を出すこともある。 

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相模国三浦総鎮守に位置付けられた海南神社

 三崎町のやや高台にある海南神社は、藤原資盈(すけみつ)や地主大神などを祭神として866年に創建されたとされている。当初は花暮の磯(資盈が漂着した場所)付近に御本宮が建てられたが、982年に現在の地に移転したとされている。本殿は朱に塗り直されているのでやや軽めに見られがちだが、三浦郡の総社であったという風格は境内のあちらこちら、そして参道の風情などから見て取ることができる。

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海南神社のおみくじはマグロ形

 三崎を代表する古い神社だけに、おみくじもまたマグロ風だ。もっともこれは昨年からはじまったばかりのようで、町興しの一環だそうだ。この「鮪みくじ」は日本ではここだけとのことだが、それはそうだろうと思うほかはない。が、三崎といえばすぐにマグロを連想するので、こうした形になるのも当然とも思えてしまう。写真のものはおみくじが引かれた後で、原形はおみくじが腹に入ったマグロがビニール袋に入っていて、これを横に置いてある小さな釣り竿でこれを釣り上げる。おみくじ釣りの初穂料は300円也。

三崎港を離れて西海岸線を北上する

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三崎港のすぐ北にある二町谷漁港

 三崎港バス停がある場所から旧海岸線を西に進み、造成中?の三崎新港に突き当たると半島の西海岸に沿って油壷方面まで北上する道路がある。その名も西海岸線である。住所名は三崎町ではない場所もあるが、その辺りの店名などでも「~三崎店」と名乗る場合が多い。あまり認知されていない町名を付するよりは三崎店を名乗るほうが地理的には分かりやすいとの合理性からきているのだろうか。ともあれ、今回は岬めぐりでもあり三崎めぐりでもあるので、海岸線を移動してあちこちをめぐり訪ねてみた。

 三崎新港のすぐ北にある小さな漁港が二町谷(ふたまちや)港だ。現在では南側は新港に抱かれているが、かつては南北を西に突き出た岩礁に抱かれていた小さな入り江だった。

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堤防釣り禁止の海外(かいと)港

 二町谷港のすぐ北側にあるのが海外(かいと)港だ。南側は小さな岩礁帯の上に造られた突堤、北側は西に大きく突き出た諸磯(もろいそ)の岬に包まれている。ここの突堤はかつてクロダイの港釣り場であったが、不埒者が続出したために現在は釣り禁止の措置がとられている。

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地質学的にはとても貴重な海外のスランプ構造

 海外港の北側には、地質学フリークにはつとに有名な露頭がある。「海外のスランプ構造」といえばその世界の住人にはすぐにピンとくる。スランプは「不調」と置き換えられるのが通常だが、地質学でもそれは同じで、ただし人間では精神面だが、地質には心がないので、堆積層の乱れを指すことになる。

 写真の斜面は西海岸線の北側にある切通しのもので、1000万年ほど前の「三崎層」の断面である。以前にも述べたことがあるが、この三崎層はフィリピン海プレートの沈み込みによってこれより古い葉山層群に付加されたもので、大地震などによって隆起して地上に姿を現したものだ。

 地層をよく見ると、層のずれ、つまり断層があることが分かる。学者の分析では、この横幅約30mの露頭の間に10数か所の断層があるとされている。また、地層の液状化とにともなった褶曲(しゅうきょく=地層の乱れ=スランプ)構造が数か所見られる。

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とくに貴重な褶曲面を拡大

 写真は、その褶曲構造がもっともはっきり分かる場所で、液状化した地層が海の深い側(左側)にすべり落ちるときにこの部分に負荷がかかり乱れが生じたものと考えられている。今一度、全体を確認すると、ここのものより規模は小さいものの、いろいろな場所でこうした乱れを発見することができる。

 私は元来磯釣り師なので、こうした露頭には随所で触れることがあり、とくに三浦半島伊豆半島の岩場では当たり前のように見かけてきた。いずれも、その形成が付加体だからである。というより、日本列島そのものが付加体なので、こうした「地の乱れ」はどこでも見られるだろうし、今、私がいる足元の土中にもこうした乱れは必ずあるだろう。いや、日本全体にこのスランプ構造は広がっていて、これが日本社会全体を「スランプ」状態に落とし込んでいるのかもしれない。

歴史、地質学、そして釣り人にとっての宝庫、諸磯(もろいそ)

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独特の形状を有する諸磯埼灯台

 諸磯(もろいそ)は観光地として名高い油壷のすぐ南にあり、西に大きく突き出した岬がある。現在はこの岬一帯に観光資源があるが、人家の多くは内陸(というほどでもないが)の高台にある。磯からは少し離れているように思われるが、この高台に「諸磯貝塚」や「諸磯隆起海岸跡」といった遺跡がある。今回は岬を中心にめぐったためここには立ち寄らなかった(思いのほか、海岸付近で時間を取ってしまったのが本当の理由)。貝塚が内陸にあるということは、ここが紀元前には汀線であることの証だし、隆起海岸跡には穿孔貝(せんこうがい)があけた穴が4段に渡って存在する。穿孔貝は汀線に沿って岩などに穴をあけて生息するので、ここがかつての汀線であり、4段あるということは、紀元後の大地震によってここが4回隆起したことの証拠にもなっている。

 今回はその遺産には直接触れず、諸磯の海岸線を散策した。20世紀末頃によく、ここの岩場で釣りをした経験を思い出したからである。かつては磯近くまで車で入り、空き地に駐車して釣りに出掛けたのだが、やはりここでも不埒者が多く、別荘地の入口付近に無断駐車するものが増えたために現在では駐車スペースはほぼなくなった。このため、磯までは民宿街にある有料駐車場に車をとめて少しだけ歩くことになる。

 細い道を海岸に向かって歩き岩場に出ると、写真の諸磯埼灯台が目に入る。細身で真っ白に塗られたその姿は蝋燭のようで趣き深い。伊豆半島や富士山の姿、そして落陽が望めるので一度、ここを訪ねたことのある人は晴れた夕間暮れどきには何度も出掛けたくなるそうだ。

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諸磯の岩場は磯釣りの好場所

 灯台のある場所から少し南に進む。岩礁帯は相当に不成形なので、断崖下を歩くことになる。このため、見た目以上に時間がかかり、かつ釣り道具などの重い荷物がある場合はかなりの苦労を強いられる。今回は釣りのために訪れたわけではないので荷物は少ないが、それでも移動には老骨に鞭打つことになった。

 ここでのA級ポイントである先端部には釣り人がいた。この周囲は比較的水深があるので釣りやすいはずだ。写真でもわかる通り、ここに行くにも凹凸が激しい場所を歩く必要が生じるため、中望遠レンズを使ってズルをして撮影した。

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諸磯の断崖

 断崖部分に目を向けた。この様相から、諸磯が隆起海岸であることがよく分かる。露出した断面から、地層の不整合やスランプ構造がいたるところにあることが確認できる。この地層の成立過程を考えるだけでも頭が痛くなりそうだが、それでも見とれてしまうのである。

 この断崖の上にはまばらだが人家や別荘地がある。よく見ると屋根部分に被害の跡がある建物が確認できた。やはり、台風15号の被害は大きかったようだ。なにしろ、この高台には風を遮るものはなにもない。海や地面が穏やかであれば、のんびりと日の暮れる景色を眺め、ときには崖下で釣りを楽しむという生活も良いであろうが、日本の場合は常に地震や台風に留意しなければならないので、時折、訪ね歩いてみるというのが無難だろう。それにしても、さらに台風19号の被害を受けなければ良いのだが。

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磯の岩場が造成する生き物たち

 スコリア凝灰岩と泥岩、砂岩からなる岩場は比較的脆いので、風雨そして激しい波にさらされるために変形が激しい。それはときとして自然の芸術家になる。何度もここを訪れているはずなのだが、写真にある造形には初めて気が付いた。釣り出陣のときは海の様子ばかり気になり、帰りはとぼとぼと敗残兵のように下ばかり向いて歩くので、今まで気が付かなかったのだろうか。

 波打ち際には大きな犬が鎮座し、その上には小ウサギが乗っていた。足を前方に投げ出した犬の前にはアダムスキー型円盤が墜落している。ただし、この犬は朽ち果てかけたUFOには興味がないようで、磯の先端で釣りをしている人の姿をずっと見つめ続けていた。もしかしたら、かの釣り人はこの犬の飼い主なのかもしれない。すると、犬の上にいるのはウサギではなくネズミなのかも。とくに理由はないのだが。これも一種のゲシュタルト崩壊なのだろう。

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諸磯港岸壁はのんびり派向きの釣り場

 諸磯港岸壁の先端部ではウキ釣りと投げ釣りを楽しむ人の姿があった。向かいに見える岬は網代崎の先端部で、さらにその先には荒崎海岸が見える。冬場は北西の風が吹き荒れるので大波が立ち釣りどころではない。この冬の季節風から港を守るために、沖には消波ブロック帯が形成されている。が、南風が多い今の時期はとても穏やかだ。というより、いささか穏やかすぎて魚たちものんびりとときを過ごしているようで、3人のおじさんたちの遊びには参加する気分にはなっていないようだった。

油壷界隈を歩く

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諸磯湾奥には諸磯ヨットオーナーズクラブがある

 油壷湾は狭義には北側の網代崎と南側の名向(なこう)崎との入り江を指すが、広義には名向崎と諸磯との間にある諸磯湾を含む場合がある。名向崎は網代崎と諸磯との間にあって長さは両岬より短く、油壷湾と諸磯湾の出入口は共通だからである。とくに網代崎の南端部が大きく諸磯側に張り出しているため、この出入口をかなり塞ぎ、荒波の侵入を防いでいる。地図や航空写真で見ると、狭義の油壷湾の出入口は大きくL字状になっていることが分かる。したがって、油を流したような靜かな入り江を指し示すこの表記は、こちらが元祖と考えられる。

 ちなみに、油壷京急マリーナは諸磯湾内に位置するが、諸磯ヨットオーナーズクラブよりも停泊地は沖側に位置するため、諸磯ではなく油壷を名乗っている。まぁ、浦安にあっても東京を名乗る遊具施設場もあるので、細部は問わないのが大人の対応だろう。 

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名向崎の先端部に至るためのトンネル

 名向崎は、私が釣りによく通っていたころは秘境の趣きがあった。以前からヨットクラブはあったが、岬の先端方向に向かう道は狭く、そして昼なお暗く、進むにはある程度の覚悟を必要とした。途中には写真にある素掘りのトンネルがあり、その先に小さな造船所があるばかりだった。その手前の空き地に車を置き、磯伝いに歩いて先端部に出て釣りをした。また、写真のトンネルの手前にも素掘りのトンネルがあり、それを使うと油壷湾沿いに出ることができた。道には草が深く茂り、ヘビの姿もよく見かけた。何やら恐ろしげで、一人では絶対に行くことができない釣り場だった。いずれの場所も他に釣り人の姿は見かけたことがないというほどで、三浦に住んでいる知人ですら、ここの存在を知らない人がほとんどだった。

 今回、久し振りに訪ねてみたが、昔日の面影はさほど残ってはいなかった。先端部に至るトンネルこそ残ってはいたが、油壷湾側に出るためのトンネルは通行禁止の措置がとられていた。高台には現代的な、いかにも保養地といった風情の建築物があって、もはや私にとって、名向崎は秘境ではなく、油壷湾を形成する片方の岬という存在以上ではなくなってしまったようだ。 

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西海岸線から油壷湾を眺める

 侵食谷によって形成された油壷湾は名前が先行し、多くの人はその存在を知っているが、ここを訪ねる人はそう多くはないようだ。後出するマリンパークはよく知られた存在だが、昨今では他に大きな水族館が多数造られている以上、ここの存在価値は相対的に低下しているようだ。したがって、油壷を訪れる人はヨット関係者以外はそれほど多くはないのかもしれない。

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油壷湾の湾口付近。左手が名向崎

 網代崎先端にはマリンパークがあるが、その手前の左側に「油壷駐車場」がある。マリンパークを利用するならこの先にある専用駐車場が便利だが、網代崎一帯を散策する場合はいつも、この駐車場を利用している。

 駐車場のすぐ先には国土地理院の験潮場へ降りる道がある。これを使うと油壷湾の岸辺に出ることができる。周辺は平らな岩場が多いので、かつてはここでクロダイ釣りをよくおこなった。写真は験朝場前から湾口を眺めたものだ。左手の森が名向崎の先端部、右手が網代崎の南突端で、正面に見える高台は諸磯の岬である。こうして3つの岬が出入口を塞いでいるために油壷湾内はいつも波静かなのだ。 

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油壷湾の湾奥を眺める。右手が名向崎

 一方、こちらの写真は上同所から湾奥を眺めたものだ。右手の高台が名向崎で、かつてはみられなかった新しめの別荘?が建っていた。

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京急油壷マリンパークの入口

 網代崎の先端部にあるのが京浜急行が出資しているマリンパークだ。かつては先進的なイベントをよくおこなっていて話題になったが、現在は大規模な水族館が東京・横浜などに続々と登場したため、こうして入口を改めて眺めていると、ひと時代前の水族館であるとの印象は否めない。私は2度だけここに入ったことがあるが、とくに印象は残っていない。規模がさほど大きくないため、生物の存在を身近に感じることができたということ、周囲の眺めが良かったことなどがわずかに思い出される。それすら、記憶違いである可能性もなくはない。

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マリンパーク下にある胴網海岸

 マリンパークの駐車場横から北側の海岸線に降りることができる。正面に小さな砂浜があり、左右に岩場がある。ここは知る人ぞ知る磯釣り場で、大型魚こそ望めないが、中型の魚たちは結構、釣れるので、のんびり竿を出したいと思うとき、初心者に釣りを教えるときなどに訪れたことがある。

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新井城跡下の岩場

 こちらは胴網海岸から初声地区方向を望む場所だ。やはり磯釣りの穴場的存在で、先の場所に先行者がいる場合はここで竿を出すことになる。もっとも、自分の経験ではそのようなことは一度もなかったが。この辺りも土地の隆起が顕著なので、かつては断崖絶壁であって、こうして海岸線の岩場に降りることはできなかったはずだ。

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石碑だけが残る新井城跡

 小網代崎にはかつて「新井城」があった。写真の碑はマリンパークの駐車場のすぐ脇にある。マリンパークがある場所も、東大の臨海実験所がある場所も、かつてはここに新井城があった。その遺構も残っているようだが、一部は実験所の構内にあるために開放日以外には見ることができない。

 新井城は三方を海で囲まれた天然の要塞といった趣が感じられる、ここにあったとすればの話だが。東側のみ陸続きで、大手門の前には「引橋」があった。「国道134号線から引橋交差点を右折して県道を進むと三崎の市街地に出る」という三崎港までの案内によく出てくる、あの”引橋”である。 

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相模三浦氏最後の当主、三浦道寸の墓

 小名を荒井といったらしいので荒井城とも呼ばれる新井城は、1247年頃、三浦介を継いだ佐原盛時の時代に築城されたと考えられている。最後の城主である義同(道寸)は養父である三浦時高を1494年に討って城主となった。その後、小田原北条氏を成立した伊勢新九郎北条早雲、伊勢宗瑞)と戦い、三年の籠城の末、1516年に落城した。道寸は自害し、息子の義意(よしおき)は討ち死にした。義意(荒次郎)の首は小田原まで飛んで行ったという伝説が残っている。また配下の者は揃って自害し油壷の海に身を投じた。彼らの血潮が湾の海に油のように漂ったということから、油壷と呼ばれるようになったという説もある。

網代湾あれこれ

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網代湾にある高級リゾート、シーボニア

 初声(はっせ)地区と網代崎の間にある入り江が小網代湾で、ここも冬季をのぞけば波静かな場所である。諸磯や油壷がそうであるように、この湾にも有名なマリーナがある。シーボニアマリーナといい、シー(海)とボーン(生まれる)から作成された名前だとのこと。マリーナのほか、リゾートマンションや宿泊施設、レストランなどがある。実は、ここには入ったことはなく、今回もまた、ただ見るだけだった。駐車料金の1000円を払って敷地を徘徊しようとも一瞬だけ考えたが、リゾートマンション群だけ撮影すれば十分と思えたので節約した。

 葉山マリーナや逗子マリーナには何度も出掛けたことがある。そこに行くときは「観光」目的なのでそれなりの風体で臨むが、シーボニア近辺に出没するときはすべて釣り目的のため、小汚い服装では入ることが躊躇われたからだ。思い返せば、こうした贅沢な場所を訪れることは可能な限り避けてきた。というより高級な場所のほうが私を拒絶したというのが正解かもしれない。結構、毛だらけである。

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こちらは庶民的な小網代

 一方、隣にある小網代港は釣り船が多く、庶民的な場所だ。この堤防には何度か釣りで訪れたことがある。釣れたという記憶はない。一度など、私にはネコザメの死骸が掛かり、同行者には生きた猫が掛かった。死んでいても魚は魚と私の勝利を主張し、彼はたとえ猫でも生きているので俺の勝ちを主張した。釣り人というのは自我の塊なのである。

 この堤防は現在でも全面釣り禁止という訳ではないようだが釣り人の姿はなかった。いたるところに釣りを制約する看板があるため、トラブルを避けてこの場を選択しないのだろうか。それとも、死んだ魚や生きた猫はターゲットではないと考えてのことなのだろうか。

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網代港から小網代の森を望む

 小網代湾の奥には大きな森がある。小網代の森といって70haの敷地がある。森の中央には「浦の川」が流れ、森林地帯、湿地帯、干潟があり、その中を散策できる。ありのままの自然というより、よく管理された自然が維持されているといった風情だ。現在(10月10日)は台風15号の被害によって入場口や散策路が制限されている。今回の最後にはこの森を散策する予定だったが、その日は全面立ち入り禁止だったので、やむなくこの写真をもって旅の終わりとした。

 三崎(岬)めぐりは想像していたより時間がかかった。今回の項だけでも2日間を要したが、まだ超大物の城ケ島めぐりが残っている。その前に、台風19号が新たに刻む危険性のある、苛虐された地を訪ねるのが先になるのだろうか。

〔23〕見捨てられた半島~親愛なるものへ

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市原市のゴルフ場横にある住宅地。今もそのまま!

 台風15号の襲来は間違いなく天災である。人の力では台風の上陸を阻止することも、家を担いで他地域に移動することもできない。

 だがしかし、台風による被害の多くは、そして人々の苦難の大半は人災である。停電や断水は大きな自然災害である以上、完全に避けることはできない。復旧の遅れも、技術的困難さを考えると致し方ない面もある。が、政府や各自治体や東電の対応には誠意が感じられず、被害者の苦悩を一層深めている。菅官房長官は9月20日の記者会見で、「最も適切な態勢を構築‥‥」と語り政府の対応には問題がなかったと語った。これだけで、政府の対応は0点だったということが分かる。まだ被害者の苦労は始まったばかりである。先の見通しがまったく立たない中で、政府の側が今までの措置を「適切な態勢」だったと判断したことは、もはや国はこれ以上何もしないということと同義だからである。

 実際、政府に何が出来たかと言えば、おそらくそれほど多くのことはできなかった蓋然性が高い。しかし、為政者は謙虚でなければならない。常に、もっとより良い行動ができなかったのかということを己に問い続けなければならない。人間の行為ゆえに100点満点の達成は絶対にありえないが、しかし満点を目指さずして何を目指すのだろうか?

 そういえば、いつごろからか、この国は「自己責任」の社会となってしまった。被害者は常に自己責任を要求される。しかし、統治者側には自己責任意識はなく、他者にのみ自己責任を強要するのだ。もはや、この国は「希望の国」ではないのかもしれない。

 25,26日の両日、房総半島の西南地区を回ってみた。メディアだけの情報では現地の実情が分からなかったからだ。2日間ではほんのわずかな地域にしか触れられなかったが、かつてよく出掛けていた場所を中心に立ち寄ってみた。記憶にあるかつての姿と、台風15号による痛恨の爪痕が残る今日の姿との落差に愕然とせざるを得なかった。停電は大方、解決したとはいえ、まだ電力復旧のための人や車が多くいて、作業を続けていた。被害を受けた建物の屋根や壁はブルーシートで覆われていたが、改修作業自体はほとんどおこなわれてはいなかった。

 「ぜんぜん職人の数が足りず、修復工事を頼むことすらできない」と住人は語ってくれた。今年中の修理はまず無理で、来年のいつ頃になるかもまったく見通しが立たないようだ。「修理もだけれど、それよりもパートの仕事がなくなったことの方が心配」と語る人もいた。確かに、店の多くは閉じたままだった。観光地の被害も大きいため、これからの行楽シーズンには多くの集客を望めないようだ。

市原市のゴルフ練習場鉄柱倒壊による災害

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練習場から住宅地方向を見る

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練習場と住宅地との境にある道路から

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鉄柱が破壊した住宅と車

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ネットに覆われた住宅

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鉄柱が屋根に突き刺さる

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こちらの家も鉄柱の被害を受ける

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被害を受けた電柱を取り換える工事

鹿野山神野寺君津市)の被害状況

 神野寺は鹿野山中にあり、6世紀末、聖徳太子の開創によるとされ、関東最古の寺といわれている。境内は広く、また周囲の眺めも良く、晩秋の紅葉の季節に出掛けてみたい場所だ。近くにはマザー牧場もある。

 神野寺の被害は大きく立ち入れない場所があるが、それでも境内には散策可能な場所も多いので、復興協力のためにも参拝に出掛けてほしいと思う。

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山門はとくに被害はない

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本堂の外観にも被害は見られなかった

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本堂横にある旧護摩堂は倒木による被害を受けていた

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鐘楼は屋根の被害が激しい

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重要文化財の表門は完全倒壊した

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奥の院は屋根の被害を受ける

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道場も屋根に被害

内陸部の被害

 今回は主に海沿いを見て回ったが、神野寺に立ち寄った折に、内陸部も少しだけ見て回った。房総半島には険しい山こそ少ないが、丘陵地帯が多いので電気の復旧作業には多くの困難を伴ったようだ。

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電柱を新設するために切り倒された木々

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丘陵間の平地には風が吹き抜け、家屋に大きな被害をもたらした

 房総を訪ねたときはよく「久留里城」に立ち寄った。城自体というより城周辺の眺めが良いからだ。しかし、今回は城までの道路が崩落の危険性が高いとして通行禁止の措置が取られているため、城に近づくことはできなかった。

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眺めの良い久留里城の天守

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この崖崩れの影響で、道路が崩落する危険性が高まった

金谷港と保田港周辺

 金谷港(富津市)は、先の回で紹介した横須賀の久里浜港とを結ぶ東京湾フェリーの発着所があるところだ。ここでは港近くの観光施設で大きな被害が発生した。また、金谷の南にある保田港(鋸南町)では漁協直営店で房総の海の幸をリーズナブルな価格で提供してくれた「ばんや本館」が大被害を受け、営業再開の見通しはたっていない。

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金谷港に入るフェリーと、復旧活動に尽力する自衛隊

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屋根に大被害を受けた観光施設(25日)

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めくれ上がった屋根の鉄板を取り除く作業がやっと26日に始まった

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合掌造りの古民家で極上のコーヒーを提供していた人気店も甚大な被害を受けた

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浜金谷の通りで復旧作業をおこなう消防団自衛隊

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保田港の「ばんや」の再開時期は不明

安房勝山港(鋸南町)周辺の被害

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勝山漁協周辺

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屋根が吹き飛ばされた漁港の水産施設

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港の北側にあった施設も完全倒壊。そこに行くための道は崖崩れで通行不能

 富浦(南房総市)周辺

 富浦といえば「房州びわ」の産地として名高い。びわの収穫期は5,6月なので台風による直接的な被害は受けなかったものの温室などの設備が大きなダメージを受けたため、来年以降の収穫への影響が気がかり。また、富浦には豊かな漁場もあるが、港の施設が大きく破壊されたため、水産業への悪影響も心配だ。

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電線、電話線の復旧作業

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国道沿いの商店はほとんどが休業中

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被害を受けた中学校の校舎

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中学校の体育館は使用不可に

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温室の被害が大きいびわ農家

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満杯になりつつある災害ゴミの臨時集積場

那古船形港(館山市)と北条湾岸(館山市

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船形漁港にある直売所。東側から見ると被害は少ないようだが

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南側から見た直売所。当分の間、休業を余儀なくされた

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漁港北側にあるごみ集積場

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大きな被害を受けた漁港北側にある住宅

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館山北条海岸沿いにある釣具店。以前、よく立ち寄っていた店

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北条海岸沿いにある不動産店。いまだにこの姿

南房総最南端の白浜町周辺

 25日は野島埼灯台が目の前に見えるホテルに宿泊した。8階建てのこのホテルは海に面しているため南からの強風をもろに受けたため、1階のガラスが全部破損し、フロントや売店が使用不能に。運よく業者による応急の復興工事がおこなわれ、21日に営業を再開したとのこと。それでも、上階のガラスの一部が破損したため使用不能の部屋がかなりあるとのこと。まだ宿泊客数は例年の半分以下なので風評被害が心配とのことだった。

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白浜の旅館の被害。まだ後片付けの途上

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ホテル裏の住宅にも被害は広がっていた

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被害を受けた住宅の後片付けをするボランティア

館山市布良(めら)港周辺の被害状況

 被害の大きさに圧倒されたのが館山市の布良地区。国道410号線は白浜の海岸線から右の大きく曲がり、高台を北上し館山市街地に向かう。その曲線部の下の段にあるのが布良地区で、その存在を知らない場合はまず目に留まることはほとんどないと思われる場所にある。しかし、私のような釣り人には良い堤防釣り場として広く認知されているため、当然のことながら、今回も港に至る細い道を下って家が立ち並ぶ地区まで入り、そこで被害の大きさを知ったのだった。車を港の構内に置き、カメラを持って歩き回ってみた。

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ブルーシートに覆いつくされた町

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漁どころではないということがよく分かる

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災害ゴミの山はいたるところにあった

 以下、町中を歩いたときに目に留まった様相を並べてみた。

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岩井袋~捨てられそうになった集落

 岩井袋は安房勝山と岩井海岸の間にある小さな集落である。台風の被害はまず市原市君津市木更津市などの様子がニュースで伝えられ、次にネットの世界で南房総の被害の甚大さが広まるにつれ、館山市南房総市鋸南町の被害が報道されるようになった。小さな集落だが、もっとも壊滅的な被害を受けたのは岩井袋だった。これもネットから発信されたことで、ようやくニュースにもその名が挙がるようになった。私自身、岩井袋をすぐに思い浮かべることはなかった。かつて、堤防釣りや磯釣りでよく通った場所なのに。

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ドコモの移動基地局車によってかろうじて通信手段が確保されていた

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嵐によって傷付いた車はいたるところに見られた

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役所による聞き取り調査がやっと始まった

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漁が再開されるのはいつになることやら

 一人の男性が集落を歩いていた。私は少しだけ話を聞いた。家の中は滅茶苦茶。ブルーシートだけでは雨を遮ることは出来ず、家の中はカビだらけ。漁に出掛けることもままならず、ただ毎日、隣人と愚痴をこぼすだけ。
 この自己責任の国は弱者に厳しい。被災者は「棄民」と同義語だ。いずれ、そう遠くない時期に東京を直下型地震が襲う。一部の富裕者は外国にのがれ、大半の一般人は見捨てられる。

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 親愛なるものへ、こう告げよう。千葉の「棄民」は明日の自分である、と。