城ケ島めぐりは三崎めぐりだし岬めぐりでもある
三浦半島へ磯釣りに行くといえば城ケ島へ出掛ける、ということと同義語というほどではないが、その確率はかなり高い。思えば、このブログの第1回目は城ケ島釣行を素材にしたものだった。もちろん、三浦半島には城ケ島の磯に匹敵する磯釣り場はいくつかある。前回に少し触れた諸磯(もろいそ)がそうであるし、近々に触れることになるだろう剣崎(つるぎざき)や毘沙門の盗人狩(ぬすっとがり)、それに宮川湾にある観音山下の磯などは釣り人だけでなく、ハイカーにもよく知られている存在だ。ただ、城ケ島の磯によく出掛ける理由は、よく釣れるからというより、上記の場所に比べるとアクセスが良いというのが一番だ。ただそれは、釣り人のために提供された利便性の高さというわけではなく、この島を訪れる観光客を当てにして整備されたものなのだが。
城ケ島は三崎港の南沖にあり、おおよそ300~500mほど離れている。三崎港も城ケ島の北側も埋立地なので、両者の距離を正確に定めることはできない。島の面積は約1平方キロ(このうちの約20%が埋立地)、周囲の長さは約4キロで、東西は1.8キロ、南北は0.6キロと東西方向に細長い。城ケ島の住所表記は三浦市三崎町城ケ島なので、城ケ島めぐりは三崎めぐりの一環になる。城ケ島に行くには1960年に完成した城ケ島大橋を利用するか、三崎港の観光施設でもある「うらり」横から出ている城ケ島渡船を利用するか、あるいは京浜急行・三崎口駅からバスにて出掛けるかのいずれかになる。
島の東側には安房崎、西には長津呂(ながとろ)崎、南には赤羽根崎、北には遊ヶ崎があり、島めぐりは十分に岬めぐりとなる。今回はすべての岬をめぐったが、移動にはそれなりの距離と途中の岩場にはかなりの凹凸があるので、島内各所にある駐車場を利用した。現在、島内にある県営駐車場はすべて関係づけられているので、最初に停めた場所でワンデーパス(1日450円)を購入すると、その日の内ならどこの駐車場もパスが通用するために余計な駐車料金が掛からないようになった。今回は4か所の駐車場を利用したが、安価で便利な反面、めぐるポイントと駐車場との間は必ず往復しなければならないので、歩く距離の短縮には決してなっていないのも事実だ。ただ、往復行動は同じ通過点でも景色の見え方が異なるため、一方通行では見逃してしまうポイントの発見という楽しみがあった。
まずは安房崎周辺を徘徊した
城ケ島は神奈川県の南端にあり、かつ東京湾口に近いため、航海者にとっては重要なランドマークなのだろう。大きな船舶であれば島のはるか沖合を通るのでさほど問題はないが、小さな船は岸近くを通るので、ここに島がある(浅瀬も多いので)という目印は安全のために必要だ。そのためか、1648年、この安房崎に最初の「のろし台」が設けられた。のちに島の西側にある高台(現在、城ケ島灯台がある場所)に「のろし台」が移されたため、ここのものは廃された。
写真の安房埼灯台は1962年に造られた。高さは約12mある。標高1.5mのところに設置されたいるが、南の風をまともに受ける場所にあるので、波が荒いときには灯台に近づくことは出来ない。私が訪れたときは波は高くなく、しかも干潮時だったこともあって近づくのは容易だった。
この灯台は、かつて「のろし台」があった場所に建てられたわけではない。理由は簡単で、この場所は1923年9月までは海中にあるか海面ギリギリのところにあったからだ。つまり、関東大震災によって三浦半島の南部は隆起し、約1.4m高くなったため、写真にある岩場はほとんど被り根(干潮時に露出する岩礁帯=暗礁とも)だったものが、灯台を建設できるほどの海岸段丘に変化したのだ。
前述のように、最初の「のろし台」は1648年に造られている。城ケ島は1703年に1.6m、1923年に1.4m隆起しているので、380年ほど前というと現在の海面より3m高い場所が当時の汀線だ。したがって、それより少なくとも10mほど高い場所でなければ「のろし台」の役目は果たせないだろう。すなわち、現在の汀線のより13mほど高い位置にあったと推察できる。といっても、さほど根拠のある設定ではないのだが。
灯台のある先端部より北側に位置し、同じように房総半島方向に突き出しているのが、「潮見の鼻」と釣り人が呼んでいる岩場だ。安房崎周辺では磯際の水深が一番あるために人気場所なのだが、この日は海が凪いでいるためか、ここのような北側(写真でいえば左側が深く右側が浅い)を狙う釣り場は敬遠されたようで、釣り人の姿はなかった(奥まった水垂れ方向のところに一人だけいた)。
地層を見れば、ここの成り立ちはすざまじいものであることが分かり、小さな断層があれば、岩場を2つに割いてしまうほどのやや大きめの断層がある。黄土色の斑点はマッドボール(偽礫)といって、未固結のシルト(砂泥)がちぎれて礫のようになったものだ。
写真にはないが、左手にはやや高い岩場があり、そこが釣り人の間で「水垂れ(みずったれ)の磯」と呼んでいる場所だ。その磯に上がる手前から安房崎方向を見たのがこの写真で、城ケ島の東側は三浦層群のうちの「初声層(400~300万年前)」から形成されているのだが、一部にはスコリア質凝灰岩(黒めの層)と黄土色のシルトの堆積層が露頭している。通常、初声層はスコリアと軽石質砂礫の互層が多いのだが、安房崎でもこの水垂れ近辺には後述する「三崎層(1200~400万年前)」で顕著な地層が見られる。それにしても、数多くの断層といいスランプ構造といい褶曲といい差別侵食といい、大いに興奮してしまう景観である。いやまったく。
城ケ島は地質学の教科書的存在なので釣り以外の目的でも訪れたくなる。が、私の場合、磯釣りのほうがプライオリティは断然高いので、今回のような徘徊目的でなければなかなかこうした場所に目をやることはない。この島には地学の教科書的な特徴が多く見出せる場所があるのだが、そこを訪れると地質学の話ばかりになり、それでは「ブラタモリ」の二番煎じになるので、そういった「名所」はあえて避けているのだが。
水垂れとは、岩の隙間から湧き出る清水のことで、城ケ島をこよなく愛した源頼朝は、茶をたてるときも書をしたためるときも、この清水を使ったとされている。 頼朝の時代からこの石清水は絶えたことがないとされてきた。大正時代の初期に三崎に住み、やはり城ケ島を愛した北原白秋は「水っ垂れの 岩のはざまに 垂る水の せうせうとして 真昼なりけり」と歌っている。
右手に見える小さな港は、水産技術センター横から入り、新潟造船の南側に至る道の突き当たりにある。かつてはこの港横から遊歩道が整備されていて、汀沿いに歩くと水垂れの磯や安房崎まで進むことができた。かつて、安房崎での釣りの際にはよく使っていた小径だった。しかし、2002年の台風によって岩や崖が崩れたり橋が崩落したため、遊歩道は使用不可となってしまった。写真にあるコンクリート橋はその名残だ。
水垂れの石清水が湧き出る部分には、さらなる崩落を防ぐために金網フェンスが張り巡らされている。この日は写真にある穴から水がチョロチョロと流れ出ていたが、実は、頼朝も白秋も見ていて決して絶えることはないと考えられていた石清水も、2011年に途絶えてしまったそうだ。2011年といえば東日本大震災があった年で、5月頃に清水が湧き出ていないことが発見されたそうだ。私が訪れたのは台風19号の大雨の後なので、大雨によって地中内に溜まっていた地下水が圧力を受けた結果、浸み出てきたのかもしれない。ここでも地層について触れたいが、長くなりそうなので止めた。
安房崎の南側に出た。潮見や水垂れのある北側とは異なり、南からの荒波を受けるために切り立った海食崖が続いている。足元の海岸段丘は大地震で海岸が隆起したからこそできたものなので、関東大震災前はこうして岩場を歩くことは出来なかったに違いない。初声層の上にはローム(赤土)が高く積もっているのがはっきりと分かる。ただし上部には樹木が見られない。これは南からの風があまりにも強いので木々が育つことを許さないためだろう。右手前の岩場からは大きなトカゲが顔を出している。というより、岩がトカゲの顔のように見えるというのが正解で、前回に紹介した諸磯の犬やウサギと同様、自然は優れた芸術家でもある。
安房崎を離れ、直上にある県立城ケ島公園に戻った。この公園は城ケ島の頂上部にあり、標高は約30mで上部は比較的平らだ。城ケ島はかつて海底にあり、堆積物がフィリピン海プレートの沈み込みによってできた付加体だ。海底にあったときに波の浸食作用によって上部が平らになり、それがそのまま地上に現われて島となったと考えられている。現在の高さは約30mだが、前回に述べたように三崎の地形は紀元後に起きた4回の大地震によって約7.5m隆起している。城ケ島には弥生時代の遺跡がある。したがって、そのころの人々がここで生活していたときは、この島の標高は約20mだったのだ。
東京湾の玄関口に近い場所にあるこの島は軍隊にとっても格別に重要な存在であったようで、1899年には明治政府によって要塞地帯に指定され、1905年には望楼ができ、1927年には砲台が設営されている。現在、砲台は残っていないものの、軍隊が使用していた場所は、1958年に県立公園として整備された。
もっとも、こうした地理上の特性を利用したのは明治以降の政府だけではなく、すでに16世紀、安房の当主であった里見義弘はこの島に砦を築いていた。そのため、以来ここは城ケ島と呼ばれるようになったらしい。
公園の高台から崖下をのぞいてみた。高所が苦手なので、やや腰を引いた場所から撮影した。それゆえ、海食崖の様子は写ってはいない。代わりに、少し沖に点在する岩礁帯が入っている。次に大地震が来た場合には(そう遠くないことかもしれない)、かつてがそうであったように、海岸線は1~2mほど隆起するので、写真にある岩場は海岸段丘として顕在化し、ここを観光客や釣り人が歩きまわるだろう。
なお、この海食崖はウミウの生息地として知られ、冬場には多くのウミウたちが崖で群れを作る。
遊ヶ崎に白秋碑を訪ねる
城ケ島大橋は、遊ヶ崎の直上を走っている。岬のような陸の出っ張りを利用するとピーヤ(橋脚)の建設が容易になるからだろう。なお、向かいは三崎町の中心街のひとつで、向ヶ崎地区である。
詩人の北原白秋は1910年に初めて三崎や城ケ島を訪れ、とても気に入ったそうだ。私的なもめ事があり、13年に白秋は向ヶ崎にある異人館に移り住んだ。一年弱であったが、この地域にいろいろな足跡を残している。もっともよく知られているのが「城ケ島の雨」という詩(詞)で、これは芸術座の音楽会に用いる舟歌として創られた。やがてレコードが発売されて大ヒットしたらしい。当然、スタンダードナンバーになったはずなので、私も小さい頃に聞いたことがあるような気もする。しかし、どんな歌だったかまったく記憶になかった。そこでユーチューブで探し、美空ひばりバージョンで聞いてみた。なるほど、聞いたことがあるような気はした。感想はただそれだけ。
詞の中に「利休ねずみの雨が降る」というのがある。当然、「利休ねずみ」とは何だということになる。雨だから「音」か「色」か、だ。ねずみはチューチューとうるさいので大雨かもしれないが、利休は茶人だから静寂を好みそうだ。ということは音ではない。すると色に相違ない。スリランカなら「赤い雨」が降るが、城ケ島の雨は何色か?ねずみだから灰色だろうが、利休がよく分からない。茶人だから茶色か?ウーロン茶ならそれでよいが、利休とは結び付かない。やはり茶は緑色と考えてよいだろう。調べてみると、「緑がかった灰色」とある。やはり利休=緑だった。しかし、利休とは直接、関係はないようで、江戸時代の後期に流行った色らしい。城ケ島は岩礁帯=灰色と、草や樹木=緑に覆われている。無色透明な雨が城ケ島の風景を映し出して「利休ねずみ」の色に見えたと考えるのが妥当だ。これでは、ごく当たり前の答えで面白くないのだが。
白秋碑は、彼が住んだ向ヶ崎を見通せる場所である遊ヶ崎に建てられた。1949年のことだ。白秋は42年に没しているが、戦争中だったために碑の建設は遅れた。また、城ケ島大橋建設のために碑は遊ヶ崎から少しだけ移動させられ、岬の西側の現在地にある。夏場であれば観光客はこの砂浜で水遊びをするので少しだけ賑わうが、それ以外の時期には訪れる人は少ない。北原白秋の名を知る人は確実に減っているだろうし、ましてや「城ケ島の雨」を知る人はもはや圧倒的少数派だろう。
対岸に見える岸壁は「通り矢」のもので、三崎港ではもっとも東に位置する。もちろんここも隆起した海岸線を造成したもので、白秋が作詞した時代にはこのような岸壁はなく、写真に見える海食崖が連なる荒々しい海岸線だったはずだ。だからこそ、「城ケ島の雨」の2番には「通り矢」の名が出てくるのだろう。
城ケ島の住宅街を歩く
城ケ島地区の人口は600人ほどだろうか。観光地だけに昼間人口はもう少し多いと思えるが。南側は荒々しい海岸線が続くので居住には厳しいために住宅はほぼない。大半は島の北側斜面のふもとの平地に住宅がある。宅地から北側を望むと三崎の中心街にある建物や、三崎港に係留されている大型船舶の姿を見ることができる。かつては大半の人が漁業に従事していたのだろうが、住宅街を歩いてみると、さほど漁師町という感じはしない。海岸線にあるごく普通の住宅地という趣である。
住宅地の奥に常光寺があった。浄土真宗本願寺派の寺で、境内には遊具施設があった。東側にある建物は保育園として使われているようで幼子の声が聞こえた。写真の遊具はここの子供たちが利用しているのだろう。寺や神社の境内は、いつの時代も子供たちの格好の遊び場である。
住宅地を出て北に向かうと目の前に城ケ島漁港がある。対岸は三崎港なので、こちらの漁港には小さな漁船があるばかりだ。この港は少しずつ綺麗に整備されつつあるが、対照的に賑わいはなくなりつつあるようだ。一方、向かいに見える三崎町の中心街は、一時よりも回復傾向にあるのかもしれない。
沖では水中観光船の”にじいろさかな号”が花暮岸壁前に差し掛かったところであり、これから城ケ島大橋を潜り抜けて宮川湾方向に進んでいく。その船の向こう側には「うらり」の建物が見える。右手には出航を待つマグロの遠洋漁業船が停泊している。
少しずつ寂しくなっていく城ケ島漁港だが、三崎港が波静かでいられるのは城ケ島が南からの風や波を防いでいるおかげでもある。三崎港の発展は、実に城ケ島に支えられているといっても過言ではない。
島の賑わいは西側に集中している
土産物店、食堂やレストラン、ホテルや民宿などは島の西側に集中する。バスの終点は西側にあり、観光名所もこちら側に多い。車で島を訪れる人は先に述べたようにあちこちの駐車場を一括料金(ワンデーパス)で利用できるので東西南北の各名所をわりに手軽に散策できるが、バスや三崎港からの渡船利用の場合は西側を起点とせざるを得ない。それゆえ、どうしても店もまたこちら側に集まってしまうという具合である。
写真は、観光地・城ケ島のメインストリートとでもいうべき小径で、バス停からこの道を使うと城ケ島灯台や長津呂(ながとろ)崎に比較的早く行くことができる。以前はこの道の両側にほぼ隙間なく土産物店や食堂が並んでいたのだが、近年は観光客の減少からか高齢化で後継ぎがいないためかで店の数はかなり減っている。さらに、ここ数年、台風による高波がしばしば店の中まで押し寄せ、多くの店舗が浸水被害を受けていることも、この動きに拍車をかけているようだ。
写真の「灘ヶ崎」は城ケ島バス停のすぐ西側に伸びている岩場で、水深は北側(三崎港向き)のほうがあるためもあり、南からの強風で長津呂崎では釣りが不可能なときにも磯釣りが可能なポイントとして知られている。また、写真のように地層の露頭が明瞭なため、城ケ島の地質の特徴を容易に知ることができる場所としてもよく知られている。
先にも述べたように、島の東側は「初声層」だが、ほぼ中央の赤羽崎付近を境に西側はそれよりも古い三崎層が露出している。黒っぽいスコリア質砂礫岩と黄土色のシルトの層が明瞭で、スコリア層はやや硬くシルト層はやや柔らかいために差別侵食されて凹凸が激しいのでとても歩きづらい。地層の傾斜は70度から60度あり、写真の左側(南側)にいくにしたがって傾斜は緩くなる。
右側(北向き)で何人もの釣り師が竿を出している。ここは先端部のほうが水深があるからだ。観光客はこの様子を見るためか灘ヶ崎の付け根から先端部に向かって歩き出すのだが、たいてい、激しい凹凸に負けて途中で戻ってくる。私はもちろん、面倒なので一歩も進まずに撮影した。磯の先に見える赤灯台堤防は居島新堤といい、南西から寄せてくる荒波から三崎港内を守っている。写真では分かりづらいが、磯と堤防とは離れているので、ここを小型の船舶が行き来する。大中型船舶は赤灯台の右手を通過する。三崎町側には歌舞島堤防があり、もちろん、そちら側には白灯台が立っている。
灘ヶ崎の付け根付近から南側を見ると、城ケ島を代表する宿泊施設とレストランがある「城ケ島京急ホテル」、それに高台にある城ケ島灯台の上端部が視界に入る。この辺りは海岸段丘が明瞭で、ホテルの前の磯が一番低く、ホテルがある場所はそれより二段高く、そして灯台はさらに高い場所にある。
灘ヶ崎の付け根からホテルや灯台方向に行けなくはないが、海岸線は非常に複雑に入り組んでおり、かつ道なき道を進むことになるので、無謀なことが好きな私でもその行動をとったことは一度しかない。上に紹介した小径を通り、観光橋方向に進めばホテル脇に、直進して右手にある階段を登れば灯台に出る。
城ケ島灯台は、1870年、日本で5番目の洋式灯台として造られた。一番目は以前に「横須賀」の項のところで紹介した観音埼灯台である。いずれもフランス人技術師のヴェルニーの設計によるものだ。ここの灯台は初代が1923年の関東大震災で倒壊したのち、27年に再建されたものである。
灯台に付属する設備が入っている建物の壁には、「JOGASHIMA」の文字でかたどった城ケ島の図があり、2つの赤いハートは灯台のある場所を示している。ハートの上には「JOGASHIMA LIGHTHOUSE」の文字がある。右が安房埼灯台で、左がここの城ケ島台だ。
城ケ島灯台がある場所は「西山」といって、かつて安房崎にあった「のろし台」に代わってここに「のろし台」が作られた。東京湾に入る船はおおむね西側からくるので、安房崎よりもこちらの場所のほうが船員にとって見やすかったのだろう。その「のろし台」が廃されて、明治初期に洋式灯台が造られた。
灯台本体にはペイントがある。長津呂(ながとろ)湾とそこから伊豆半島方面を望むと富士山が見えるので、それをデフォルメしたものが描かれている。灯台の管理者はなかなか粋な計らいをする。
ここは高台にあるので長津呂の磯の景色が一望できる。灯台があるのだから当たり前の話かもしれないが。ところで、長津呂は「ながつろ」ではなく「ながとろ」と読む。釣り人の大半は「ながつろ」と言っているが。伊豆の石廊崎にも長津呂があり、こちらは「ながつろ」と読むようだ。おそらく、ここでも以前にはそのように呼んでいたに違いない。土地の人もほとんど「ながつろ」と言う。しかし、行政側の誰かが秩父の「長瀞」があまりにも有名なので、ここもそれにあやかろうと「ながとろ」と読むように統一したらしい。これはあくまで土地の人に聞いた話だが。ありそうな話だし、実際、市や県が設置する看板や地図には必ず、「ながとろ」という”かな”が振ってある。
長津呂から赤羽崎まで
灯台から階段を下って長津呂の磯に降りた。写真の入り江が長津呂湾で、この奥深く波静かな入り江が長津呂の名の由来だ。津は入り江や港を表わし、呂は元来は背骨を意味するが、風呂のように「室」を表わすようなときにも用いる。また、津は「津代(つしろ)」と表現されることも多く、「つしろ」が「つろ」に短縮され、「津代」に代わって「津呂」と表記されるようになったとも考えうる。
この湾は長津呂の丁度、中央部に深く切れ込んでいて、湾の北側(京急ホテルがあるほう)が長津呂崎、南側が長津呂の磯と釣り師の間では区別している。本ブログの第1回目は長津呂湾口の北側で釣りをした場面が題材になっている。その際の写真は長津呂崎方向を写したものだ。
上の写真の地層の向きを見ていただきたい。右(海側)からの地層はやや左下に傾斜し、左(陸側)からはやや右下に傾斜している。こうして向かい合って傾斜した状態を「向斜地形」という。つまり地層が横からの圧力を受けたために褶曲(しゅうきょく)し、その中央部分がへこんでいるのだ。それが波に侵食されて割れ目となり、さらに広がって深い入り江になったと考えられる。仮にこの褶曲が上方に働けば(これを背斜地形という)長津呂湾は出来なかった、もしくはまったく異なった湾形になっていたかもしれない。
長津呂の磯は写真のように足場が高い位置にあるので釣りやすい。もっとも、ここは南からの荒波をまともに受ける場所なので、足場が低くては危険極まりない。この日は「べたなぎ」といってよいほど波静かなので写真右手に立っている人は余裕の構えだが、通常でも波しぶきぐらいはかかる場所で、少し風が出てくると足場を波が洗うようになる。北西の季節風が強くなる11月後半からは岩場が乾いている状態などまずはない。それに、岩の表面にはノリが生えるのでとても滑りやすい。
写真からも分かるように、岩場は右にいくほど低くなっている。この傾斜は背後にある長津呂湾まで続いている。これが逆向きに褶曲していたならば釣り場の足元は前下がりになってしまう。すると容易に波が這い上がってくるために危険性が極めて高まる。岩場がこうした状態であったならば、ここが釣り場として選ばれることはまずなかっただろう。
この写真は、やや内陸側から長津呂の磯を撮影したものだ。岩肌の色に注意していただきたい。先の写真のように波打ち際の岩は黒っぽいが、内陸部の岩は黄土色の部分が多いことが分かる。これもまた差別侵食によるもので、波打ち際は常に荒波にさらされるので硬めのスコリア質部分が残り、内陸部は波が届かない位置にあるので、柔らかめのシルト層でも侵食されにくいためである。もっとも、今後、風雨にさらされ、人の行き来も無数に行われれば、やがて黒い岩肌が現れるようになるだろう。そんなときまで、人類が存在していればの話だが。
長津呂崎が島の西側に突き出している岬なら、赤羽根崎は南に突き出している岬である。長津呂崎は海岸段丘といっても凹凸がかなりありとても歩きにくい。赤羽根崎に近づくと今度は砂浜があるので地面は平らになる。しかし、砂浜は足を取られるので、やはり歩くのは大変だ。長津呂から赤羽根崎までは500mほどの距離なのだが、こうした道行なので荷物なしでも15分ほどの”苦難”を覚悟しなければならない。それでも老若男女が赤羽根崎を目指すのは、そこが「エルドラド」であるからではなく、写真にある洞門があるからだ。
人は何故、岬を目指すのだろうか。理由は単純。それは、他の人が目指すからだ。という訳で、私も目指した。
海食洞門である「馬の背洞門」は城ケ島の象徴的存在で、古くから人気スポットだったらしい。関東大震災前は、この穴を通る小舟が観光名物だった。震災前は海岸線が今より1.4mほど高かったため、小舟がこの穴を通過することができたのだ。今は徒歩で通過する。
写真をよく見ると、左端にも小さな穴があることが分かる。穴を塞ぐ岩状のものが見えるが、これは岩ではなく釣り人の姿だ。この赤羽根崎周辺も磯釣りのポイントなのである。周囲の水深はあまりないが、滅多に釣り人が出掛けることがないので”場荒れ”していないのだ。私もここで2回釣りをしたことがある。両回ともまずまずの釣果だったが、3度目は絶対にないと断言できる。荷物がなくても、駐車場からの距離まで考慮に入れると20分ほど掛かる。これに釣り人はチョー重い荷物が加わるので30分間の「死の彷徨」を覚悟しなければならない。しかも、後半には恐怖の砂浜歩きが待ち構えているのだ。洞門というより地獄門である。しかも、この門をくぐり抜けても待っているのは大型魚ではなく中小の魚の大群である。これなら、さして苦労のいらない長津呂湾での釣りのほうが格上のような気がする。数は少ないものの、型物はこちらのほうが多い(と思う)し。
この赤羽根崎は島の東側の「初声層」と西側の「三崎層」との境になるので、地質学的にも貴重な存在だ。写真にはないが、左手には大きな断層が見える。洞門の地層はこの島では珍しく水平である。左手には火炎構造らしきものも見える。その他、ここは城ケ島の地質の特徴がすべて揃っていて、フルコースを堪能できる。ただし、その分、健脚を強いられるが。
私には、まだ訪ねるところが残っていた。ここで疲労度100になるわけにはいかないので、今回は洞門には近づかず砂浜の手前から望遠レンズで洞門周辺を撮影した。次回があるかどうかは不明だが。
城ケ島最後の徘徊場所として、私は三崎港向きの岸壁を選んでいた。赤羽根崎近くから海岸段丘を上り下りしながら長津呂崎まで戻り、そして商店街のある小径を南に向かった。前方に、長津呂崎付近で釣りをしていたのだろうか、重い荷物を背負った老釣り師がとぼとぼと歩いていた。荷物はだらしなく傾いている。今にも落ちそうだが、もはや彼にはそれを直す気力もなく、ただただ駐車場にたどり着こうとあえぐばかりだ。
そう、これが釣り人の典型的な姿である。何故、これほどくたびれ果てるまで釣りをするのだろうか?朝方には颯爽として磯に向かったはずなのに。この敗残兵はきっと今は後悔しているに違いない。それでも懲りずに、明日には次回の釣行に希望を抱き始めるのだ。そしてまた次回も敗れ去る。釣りはまったく非合理である。非合理ゆえに、釣りの道は極楽には向かわず、地獄の一丁目へと続くのだ。釣りは自虐的趣味なのである。
三崎港向きの岸壁で見たことなど
この岸壁は北向きなので波静かなことが多い。本当は違反なのだが、車を横付け可能なので徒歩10歩程度で竿を出すことができる。平日のためか年配の常連が多いが、休日には家族連れで大賑わいとなる。この時期は一年でもっとも小魚が多く、そして足元にも無数の魚が寄ってくるので、お手軽仕掛けでも簡単に釣ることができる。多くの人の狙いはアジで、10~15センチ程度のものが数釣れていた。
初めて知ったのだが、岸壁には「海上釣り堀」が出来ていた。2015年オープンというからもう4年前である。そういえば、この岸壁をのぞくのは久し振りだった。いつもはバス停横の駐車場に車をとめ、長津呂崎に向かい、そして敗れて帰還するので、岸壁をのぞく機会はなかった。10数年前まではよく堤防釣り場の取材をおこなっていたので、年に数回はこの岸壁を見て回ったものだったが。
マダイ、ハマチ、シマアジ、ヒラメなどが狙える釣り堀で、竿は無料で借りられる。釣り放題3時間の料金は入場料込みで11000円(税込み)、エサは別料金がかかる。釣った魚はスタッフが活締めしてくれる(無料)。何も釣れなかった場合でもマダイを一匹もらえるらしい。
こうした釣り場は西日本で盛んだったが、十数年前から東日本の湾内でもあちこち見かけるようになった。ここの釣り場は平日でもそれなりに人の姿があったので、休日はかなりの賑わいを見せるのだろう。私は房総半島や伊豆半島の某所で2度、海上釣り堀釣りを体験したことがある。双方とも某釣り具メーカーのテスト兼取材だったために無料で釣りが出来たが、自腹ならまずやることはないだろうと思った(個人の感想です)。理由は簡単で、私は釣った魚は食べないからだ。つまり、食べる目的で釣りをしたことはないのだ。
岸壁の一角には三重県漁連が経営する「養殖イケス」があった。正式には駿河湾で養殖したものをここに運び込み、出荷調整するためのイケスのようだ。このイケスの存在は前から知っていた。一時は下火になっていて”廃業”したのかと思ったが、久し振りにのぞいてみると、以前より盛んになったように思えた。三重には釣り仲間が何人もおり、そして何十回となく釣りに出掛けていた(主に尾鷲や志摩半島方面)ので、「三重漁連」の名を見ただけで、なぜか親近感がわいてしまうから不思議だ。
一匹ずつ発泡に入れられたハマチは3キロクラス。箱に「30」「31」とあるのは重量表記なのかは不明だが、私のような釣り人の感覚からすると魚の重さに違いないと思った。「沼津」とあるのは、駿河湾で育てられた魚であることを意味しているのだろう。
イケスを丹念にのぞくと、死んだ魚が浮いているのがあちこちで見られた。これは病気によるものではなく、台風15、19号の影響と考えられる。普段は波静かな場所でも、台風による大きなウネリで湾内は相当にざわつき、イケスは大揺れだったはずだ。そのため、魚同士の衝突、魚体が網に擦れることによる傷害、それにイケスの揺れによるストレスなどが複合的に作用して死に至ったと考えられる。自然界であれば、魚は海中深く潜ることにより、上記のトラブルはすべて防ぐことができる。
そういえば、15号来襲直後のニュースで、南房総・勝山漁港のマダイの養殖イケスが壊滅的被害受けたことを報じていたことを思い出した。人知はまだまだ自然には遥かに及ばないのである。
城ケ島めぐりを終えたので帰途につくことにした。城ケ島バス停には多くの観光客がいて三崎口行きのバスに乗り込む最中だった。ややくたびれたオジサンとますます元気なオバサンの姿が目立った。普段より利用客が多いような気がしたが、この日は城ケ島と三崎港を結ぶ渡船・白秋号が運休していたのもその理由のひとつかもしれない。
城ヶ島めぐりという岬めぐりを終え、三崎口に向かうのか、それとも途中下車して三崎港に向かい三崎めぐりをするのかは不明だが、旅は家に帰るまでが旅で、それは運動会と一緒だ、と、校長先生は朝礼台の上から定型文を語るのだろうか。
三崎周辺の岬めぐり最終章
京浜急行・三崎口駅は三崎めぐりの玄関口である。過疎化や観光客減、それに自然保護によって京浜急行の油壷までの延伸計画は断念されたようなので、この三崎口駅がこの先もずっと京急の終点であり続けるようだ。かくなる上はこの駅をもっと売り出す必要があり、写真からも分かるように三崎口駅は「みさきまぐろ」駅を名乗るようになった。「口」をカタカナの「ロ」と読ませ、三崎マグロ駅に変更された。当初は2017年10月から12月までのリニューアルキャンペーンの一環としておこなわれたものだが、好評だったためか、現在でも駅名標は三崎マグロ駅のままである。たしかに、三崎といえばマグロであり、マグロの文字を前面に押し出すことによって、観光客にマグロを食べさせたり土産に買わせたりする印象操作なのだろう。効用がありそうなキャンペーンだ。
2008年から電車の接近メロディとして「岬めぐり」が採用されたが、17年に「城ケ島の雨」に変更された。前回述べたように、三崎口から三崎港行きのバスからは海は見えないし、城ケ島行きなら城ヶ島大橋を渡る刹那に「窓に広がる青い海」を望むことはできるものの、「砕ける波の激しさ」までは見て取ることはまずできない。強風時ならそれも可能かもしれないが、今度は大橋は通行禁止になるので、「それも叶わないこと」なのである。三崎口は終点なので、電車はゆっくりと入線する。ならば、「城ケ島の雨」のようなゆったりとしたテンポの曲でもいいのかもしれない。
もっとも、「岬めぐり」は京急から消えたわけではなく、三浦海岸駅の接近メロディとして採用されたようだ。三浦海岸駅からなら三崎東岡行きに乗れば、金田湾や江奈湾辺りで「窓に広がる青い海」を見ることができるし、「幸せそうな人々たちと岬を回る」こともできる。
三浦市の北外れにある黒崎を訪ねた。城ケ島は曇天だったのにここに来てから晴れてきたのではない。単に別の日に訪れたからである。初声(はっせ)は開発が進んでいない場所で、以前から高校はあったもののそれ以外には建物は少なく、やがて東側に総合体育館はできたが、国道の西側は野原のままだった。それが、広大な野原の一角に大きなホームセンターができたことにより、国道もやや混雑するようになった。
ホームセンターに車をとめ、海に向かった。海近くまで車を入れることは可能だったが、戻る際には黒崎の上部にある畑を歩く予定だったので、ここにとめても大差はなかったからだ。もちろん、駐車料金の代わりにホームセンターで少し買い物をしたので、「無断駐車」ではなかったはずだ(と思った)。
写真の旧初声港は小さなボートが幾艘かあるばかりで、ほとんど使われている形跡はなかった。かつては堤防からの釣りは可能だったが、現在は金網フェンスに囲まれており釣りは禁止されているようだ。扉が少し開いていたので港に三歩だけ足を踏み入れ、写真を撮った。右手に見えるのが和田長浜、左が荒崎に続く磯だ。高台の「ソレイユの丘」にある観覧車も見える。
海岸伝いに歩き黒崎の先端方向に向かった。海岸からは和田長浜海岸の全貌が見て取れた。右手奥にはうっすらとだが大楠山の姿もある。
前方左手に見えるのが黒崎だ。黒崎はドラマの撮影場所として有名で、海岸線には人工物が少ないので、時代劇で海岸のシーンを撮影する舞台としてよく使われている。最近ではテレビそのものを見ないが、以前は時代劇だけはよく見ていたので、「また黒崎が使われているよ」と何度も思ったものだ。ただし、写真の黒崎は北方向から見たもので、ドラマに使われているのは南側である。
黒崎の高台から先端部を見た。「黒崎の鼻」と呼ばれている海岸段丘で、上部が比較的平坦なのは、ここが海中にあったときに波によって削られたためだろう。それが隆起して釣り人のための大舞台となった。ただし、北西の風には弱いので、冬が本番の磯釣りには不向きな場所だ。季節風が吹く前の今ならカツオやイナダといった回遊魚が狙えるはずだ。
ドラマの舞台となる南側の海岸線には寄らず、細道を登って黒崎の天辺にでた。一面に広がる畑では大根の苗が植わっていた。三浦市と言えば大根が有名である。しかし、根の太い三浦大根はほとんどなく、青首大根が大半である。三浦大根は根が深く、掘り起こすのが大変だ。一方、青首大根は根が浅いから収穫が容易なのである。というより、根の上部が出てきて浅く植わるから首回りが青く(ほんとは緑)なるのだが。
写真の電柱が続く道を東に進むと三崎マグロ駅に至る。私が写真を撮っているこの場所は黒崎の天辺ではあるものの、もはや岬の上部ではなく、初声の畑の大地そのものでもある。
黒崎の南にある三戸浜海岸にも立ち寄った。以前にはよく、三浦市に住む知人と堤防釣りに出掛けた場所だ。お手軽釣り場だが、メジナやクロダイの良型が釣れるのでかつては穴場的存在だった。大根畑の先にある小さな港だけに、地元の釣り人以外にはほとんど認知されていなかった。また、港の北側には写真のような砂浜が広がっているので、堤防釣りには不向きとも考えられていたのである。
ところで、三戸浜は「みとはま」と読む。三戸は「みと」もしくは「みなと」の短縮形に漢字を当てたもので、地域(例えば静岡県沼津市)によっては「三津」を使う。津だけで港を意味するということは長津呂の項で述べた。それでは「三」は何を意味するのだろうか。港は三方を陸に囲まれているからという訳ではない。二方では港にならないし、四方では船が入れない。そもそも、三方を囲まれているからこそ港なのだ。なので、”三”をわざわざ強調する必然性はない。つまり「三」は単なる接頭語で「御」で表すこともあるものに過ぎない。そもそも、三浦もかつては御浦と表記されていた。「津」や「浦」だけでは場所の特定が難しいし、とくに「津」だけでは使用しづらい。三重県の津市は例外的に「津」だけだが、これは県庁所在地になるほど全国的知られているので、三や御を付ける必要がなかったのだろう。
「御」は尊敬語というより丁寧語として用いられる。食べ物は貴重で有難さを感じる必要があるので「御飯」であり「御味噌汁」であり「御付け」である。朝と夕または夜は日常の一環なので御はつけない。しかし、昼は日常の中の非日常的存在なので、御昼と言われる。同様に、港は重要な存在なので「みと」=御津=三津になったのだろうし、これが転じて「三戸」にもなり「水戸」にもなったと考えられる。
港内側は小物釣りを楽しむ人が大勢いた。夕暮れ時はアジ釣りの地合いなので、続々と人も魚も集まってくるようだ。堤防の高いところにも人がいる。海側には大きな消波ブロックが入っているのでそこに降りるのは危険極まりない。そのブロック上にも釣り人は数人いたが、大半は、夕日を眺めるために堤壁の上部に乗っているようだ。
私は高所が怖いので、堤防の付け根にある小さな浜から夕陽を眺めた。三崎めぐりと岬めぐりはここが終点だ。
心はすでに、次に徘徊する場所を求めている。明日もまた徘徊できるかと夕陽に尋ねた。オレンジ色の光の中から哲学者カントが現れ、次の言葉を私に告げた。
きみはできる、なぜならすべきだから