徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔28〕奇跡の玉川上水(1)~その流路と取水口が決まるまで

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江戸の奇跡的建造物・玉川上水の取水口周辺

玉川上水の謎に迫ろうとした訳は?

 水の確保に苦労した江戸府内は、3代将軍・徳川家光の時代に玉川上水の開削を決したとされる。明確な資料は残っていないが、慶安2~3年(1649~50年)頃のことのようだ。家光は1651年に死去したため、具体的な計画・実施・竣工は4代の家綱のときだった。53年4月4日に開削が始められ、同年11月15日に終了したとされている。わずか7か月余りで完成したことになる(異説は多い)。

 多摩川左岸の羽村取水堰から導入され、終点の四谷大木戸(現在の新宿御苑大木戸門あたり~桜を見る会にご出席される折には玉川上水のことも思い浮かべてください)まで約43キロ(一番新しい統計書では42.7382キロ)。この間の標高差は約92m(羽村堰125m、四谷大木戸33m)なので、1000m進むごとに2.2m下がるという極めて緩い傾斜の下で水が流れることになる。ちなみに、1813年の「上水さらい」(流れを全部止めて底にたまった土砂や汚物を取り除く作業)の際に羽村から四谷までどのくらいの時間で水が流れるのかを計測したところ、約7時間であることが判明した。つまり、平均時速約6キロで水が流れていることになる。現在とは異なり、”傾斜”以外には動力源がない「自然流下方式」なので、上水の流路の決定は最重要課題であった。

 残念ながら玉川上水の全体設計図面は残っておらず、後に書かれた『上水記』が重要な資料とされているが、なにぶん、開削から137年後(1791年)に記されたものなので、必ずしも正確な記録とはいえない。Web辞典の『ウィキペディア』には上水についての詳しい説明があるが、杉本苑子の小説『玉川兄弟』を参考にしたと思われる記載もあり、これも絶対的な信頼性は担保されていない。その他、羽村福生市の人々が残した資料も多く残っているが、やはりこれも伝聞が多いので妥当性があいまいな点も散見される。というわけで、玉川上水の流路決定には謎が多く、それだけに推理のし甲斐がある。私は土木工学についてはまったく無知で、地質学も同様に素人なので正しく考察することはできないが、とりあえず入手可能な資料を集め、さらに現地を徘徊し、その中で自分が理解可能な範囲でもっとも妥当性が高いと思われる「流路決定過程」を考察してみた。

玉川上水開削に至る過程

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玉川上水開削の最大の功労者、玉川兄弟の像

 徳川家康の江戸入府は1590年とされている。当時の江戸は「ここかしこも汐入の茅原」で、茅葺の家が100軒前後という寒村だった。家康はこの地を開発するために浅海を埋め立て、あわせて飲料水確保のため、配下の大久保藤五郎に命じて「小石川上水」の整備をおこなわせた。現在、東京ドームがある辺りが水源だったようで、ここの標高は10~12mほど、現在の神田駅付近は4~5mほどなので(今回も国土地理院の標高が分かるWeb地図を参照。以下、標高、”約”は省略する場合有り)、自然流下で真水を集めることができた。また、赤坂の溜池(桜を見る会の前夜祭が格安価格で行われた某ホテルの南側)は長さ1400m、幅は45~190mもあるかなり大きな「ひょうたん池」で、ここも標高10mほどあるため、やはり上水道として導入された。江戸幕府は1603年に始まり、当時すでに10万人が住むようになったため、飲料水の確保は喫緊の課題だったのだ。一方、開拓された下町の井戸といえば地下から湧き出るのは塩水ばかりで飲用にはまったく適さなかった。

 そこで、上水道の整備が拡大されることになった。井の頭池(50m)、善福寺池(47m)、妙正寺池(45m)からそれぞれ水路を造り、これらを小石川上水と合流させ、「神田上水」として1629年に整備された。いずれの池の水も武蔵野台地のヘリから湧き出る清水が元になっているため、赤坂の溜池の水のような泥臭さはなく、好評の内に多くの在府する大名家や武士、町人に受け入れられた。

 しかし、3代将軍家光が参勤交代制を1636年に確立すると江戸の人口は急速に増え、神田上水だけでは飲料水は絶対的に不足するようになった。浅草(3m)や向島(0m)あたりの下町であれば荒川の水(赤羽で0m)や石神井川の水(王子で5m)の導入が可能だったろうが、大名家の多い場所(例えば紀尾井町で11~17m)では「赤坂の溜池」以外に頼る水はあまりなかったと思われる。

 こうした経緯で、新たなる上水路の開発が企図され、標高20~30m付近に広がる武蔵野台地のヘリにも届く水源地が求められた。当然、目を付けられたのが台地の南側を流れる多摩川だった。先述のように、玉川上水の計画が浮上したのは1649~50年頃とされている。開削の依頼を受けたのは江戸の麹町辺りに住む町人で土木工事業を営んでいた庄右衛門、清右衛門の兄弟(以下、面倒なので「玉川兄弟」と記す)だった。この兄弟の詳細は不明だが、出身は羽村福生村、年齢は30代前半という説が有力だ。上の写真は羽村堰の横にある広場に1958年に建てられた像で、立って堰方向を指し示しているのが兄の庄右衛門、腰を落として測量している風なのが弟の清右衛門だ。この2人には、どんな困難が待ち受けていたのだろうか?

流路の決定過程を考える

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多摩川本流と右岸に連なる草花丘陵

  玉川上水の終点は四谷大木戸とあらかじめ決していたようだ。ここから地中に埋めた石樋を伝って四谷見附まで流し、そこから石樋や木樋を巡らせて各地域に水を運ぶ計画だった。問題は、多摩川からの取水口をどの場所にするのかということ、四谷大木戸までの流路をどのように決定するのかという2点にあった。開削のゴーサインが下る1652年12月までの数年間、2人には取り組むべき課題は多数あった。

 武蔵野台地多摩川が造った扇状地といっても過言ではないので、川が流れる方向と同じく台地は南東に向かって標高を下げる。台地の北東側には荒川が流れ、しかもその川の流域の標高は多摩川流域に比べるとかなり低い。ちなみに府中競馬場の南側において多摩川は標高40m付近を流れ、この場所と同じ経度上にある埼玉県の行田市は私の好きな餃子に似た地名だが、それはともかく、荒川は行田市の中心部の南側を流れるが、その場所の標高は17mに過ぎない。つまり、武蔵野台地は南側が高く北側がかなり低くなっている。当然、台地のどこかに分水尾根があり、ここを突き抜けてしまうと上水は北東方向にある荒川が生み出した低地に流れ下ることになり、標高33mのところにある四谷大木戸に達することは不可能になってしまうのである。

 それだけでなく、そもそも上水が分水尾根に至る以前に、2つの長く高い崖が立ちはだかっていた。暴れ川だった多摩川が3万から2万年前、武蔵野台地に刻んだ2本の崖線である。まずは立川崖線(府中崖線)で、現在のJR青梅線青梅駅の南側辺りで発生し、狛江市の元和泉辺りで消滅する。国分寺崖線武蔵村山市武蔵村山療養センター辺りから立ち現れ、大田区田園調布付近で多摩川左岸に合流する。つまり、上水のルートを決める際には、この2つの崖線を乗り越えるか、崖線が発生する前に台地に乗せるか、崖線が消滅した下流側からスタートするかの三者のどれかから選ばなければならないのであった。

 まず、崖線が立ち現れる前のところに取水口を決めるとしよう。青梅駅の南側が扇状地の出発点(扇頂)になるので、その少し西側を考えてみる。川の右岸側には青梅市の観光地としてよく知られた釜の淵公園がある。その対岸(つまり左岸側)にある青梅市立美術館付近が扇頂のすぐ西に位置する。釜の淵公園には河原がありその地点の標高は150mだ。一方、美術館は185m地点にある。谷を下ってきた多摩川はその強い流れで岸や川底を深く侵食し、急峻な崖を形成したのである。取水口をここにするなら、導水路は35mもの深さまで掘り込む必要がある。当時の素掘り技術では不可能に近い。したがって、この案が採用されることはあり得ない。

 次に、崖線が消滅した下流側を考えてみよう。大田区田園調布のすぐ東側には「丸子橋」が架かっている。この辺りの標高を調べると8mである。これでは四谷大木戸の33mより低いので取水口には無能な地点である。

 したがって、崖線発生前の地点も消滅後の地点も取水口に選ぶことはできない。さすれば、2つの崖線を越えやすい地点を選ぶしかないのである。

 さらに、必至の課題もあった。野火止用水の敷設である。玉川上水をどこかで分水し、一部(一説にはその3分の1)を現在の新座市にある「平林寺」付近まで流す必要があった。これは、玉川上水建設の総指揮者であった川越藩主・松平信綱の要請だった。「野火止」という地名から分かるようにその地域には乾燥した冬場には自然火災(野火)が多く発生していた。しかし、いずれ述べることになるが、その場所は2つの小河川に挟まれた台地にあって水が乏しかったのだ。そこで「知恵伊豆」と言われ、徳川家光の絶大なる信任をを受けていた松平信綱は、玉川上水建造後にはすぐに野火止用水工事に取り掛かる算段をしていたのだった。平林寺の標高は41mだ。したがって、分水のための堰をどこに決めるにせよ、これよりも高い場所が分岐点のメルクマールとなるのだ。

 以上の点から、玉川上水開削のための留意点を整理してみよう。(1)立川崖線(府中崖線)を越えること。(2)国分寺崖線を越えること。(3)標高41mより高い地点を流れ、かつ、埼玉県新座市に用水を引けるような場所を通ること。(4)分水尾根を越えないこと。この4点がとりわけ重要だった。さらに(5)立川断層を越えること。(6)小河川をまたぐ必要があること。これらが加わる。

 こうした幾多の難題を解決する場所は果たして見つかるのだろうか。

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福生市福生付近を流れる玉川上水を熊野橋から望む

流路を探すヒントになったものは?

 現代であれば詳細な地形図があり航空写真もあり、測量機器も技術もある。しかし、当時は詳細な地形図はなく、測量といっても提灯や線香の明かりを頼るか、素朴な水準器を用いるか程度だった。もちろん、開削の際はすべて人力で、ツルハシで掘ってモッコを担いで土を運び出すといった作業がおこなわれるのだ。全体が草原であれば地形の把握は視認でもある程度分かるが、当時の武蔵野の地は雑木林だらけである。「一眸(ぼう)数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃(けい)の畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在してさらにこれを分割している。すなわち野や林やら、ただ乱雑に入り組んでいて、たちまち林に入るかと思えば、たちまち野に出るというような風である。それがまたじつに武蔵野に一種の特色を与えていて‥‥」。これは国木田独歩が1898年に発表した『武蔵野』の一節である。明治30年でも武蔵野には多くの自然が残っていた。玉川上水開削計画はその250年近く前である。畑はほとんどなく、密な落葉樹林帯がほとんどであったはずだ。冬場こそ葉が落ちるので少しは見通せたかもしれないが、その時期以外は葉が満ちて、しかも地面には下草だらけであったはずだ。これでは提灯や線香の明かりを頼りにした測量ですら満足にはできなかったに違いない。

 流路策定には概念図が必要である。そうした資料はまったく残っていないらしいが、実際にはあったはずで、これなしにはおおよそのルートすら決められない。武蔵野のすべての樹木や草原を焼き払ってしまえば別だが。

 おそらく、概念図作成のための一番のヒントは「街道」の存在だったと考えられる。玉川上水の資料には伝承に基づくものが多いが、中には土木工学者の視点から記されたものもある。そうした人は地形をマクロに把握する視座を有しているので、東西を結ぶ玉川上水の流路策定過程を考察するとき、やはり東西を走る「街道」の存在から地形の有り様を参考にするようだ。

 都心から多摩川方面を結ぶ街道がいくつかある。代表的なものは甲州街道、青梅街道、五日市街道、それに人見街道である。街道は人や物資の移動のために用いられる。当然、人が歩きやすい場所、物資を運びやすいルートが選ばれる。それゆえ、街道はできるだけなだらかな場所を選んで通っていると考えられる。また、街道筋には集落が生まれるはずだ。宿泊場所、馬の交換場所、水飲み場、休憩施設、商店などは当然できるだろうし、そうした場所で働く人々が周辺に集まってくるだろう。水の確保のために井戸が掘られる。それによってその地域の地層が判明する。畑が作られれば樹木は切られ、わずかではあるだろうが見通しは良くなる。集落の人々に聞けば、周囲の自然環境がより明らかになる。流路の策定には、こうした情報が大いに役立ったと考えられる。

 甲州街道の道筋では国分寺崖線の高低差がかなりあることが分かる。その反面、崖線上にある武蔵野段丘に乗ってしまえば、例えば現在の京王線千歳烏山駅付近から新宿まで大きな障害はない。もっとも、野川や入間川、仙川もそれなりの高低差を生んでいるが。

 青梅街道は両崖線の北側を通っているため、高低差に関しては問題はない。しかし前述したように、青梅で上水を段丘上に乗せるのはまず不可能なので、この街道筋は流路として考察するに値しないと思われる。武蔵野台地の地形を知る一助にはなるだろうが。

 五日市街道は江戸城修復のための石材を運ぶために開発された。その後も江戸府内に木材や炭を運ぶために利用された。物資の運搬が中心だけに、当然なだらかな場所が選ばれている。この街道は多摩川を越えるため、主に「牛浜の渡し」が利用された。そこはJR五日市線多摩川橋梁と五日市街道の多摩橋との間にあり、現在では左岸側に「多摩川中央公園」が整備されている。ただし、この場所では立川崖線がすぐ東北東側に迫り、高低差は13mある。その一方、この街道が国分寺崖線を越える場所ではまだ高低差は少なく2mほどしかない。これが五日市街道の200mほど南側から崖線は急速に高低差を産み出し、街道から400mほど南側では5m以上の差が生まれている。さらにその1キロ南では10m以上の高低差がある。したがって、国分寺崖線を通るルートを考えたとき、五日市街道沿いを選ぶというのがヒントになるといえるだろう。

 上の3つの街道に比べると人見街道知名度は低い。しかし、府中市大國魂神社から杉並区の大宮八幡宮を結ぶ道としてかつては重要視されていたようだ。この道は府中市側から進むと野川、国分寺崖線、仙川、神田川を横切るので、甲州街道と五日市街道との間の地形を知るには絶好の道になっている。つまり、武蔵野台地の南北方向の「大地の皺」を知るにはとても具合の良い道なのだ。

 このように見てくると、玉川上水の大まかな概念図が浮かび上がってくる。多摩川のどこか(といっても「牛浜の渡し」より北側)で取水し、ゆっくりと台地へと導きながら五日市街道筋に乗せ、そして適度な場所で甲州街道方向へ誘導し、千歳烏山以東で甲州街道に合流し、あとは微低地や微高地をパスしながら四谷大木戸まで導くというコースになる。

 またこれは人見街道を進むと分かることだが、仙川は結構、谷が深く、また神田川神田上水)との交差も避ける必要がある。小河川ならそちらをアンダーパスさせることは可能だが、仙川を越えるためには高さのある導水路を整備する必要があり、神田上水との交差は玉川上水の存在自体が無意味となる。したがって玉川上水は、仙川が湧き出る場所、そしてそれが流れる川筋よりも北側を通り、かつ神田上水と交差しない地点で南下させて甲州街道まで至るルートを考える必要があった。つまり、どの地点で五日市街道を離れ、どの地点で甲州街道に合流させるかの重大なヒントが、人見街道にはあったのだった。

 仙川は小金井市にあるサレジオ学園あたりに水源があり、しばらくは東に進む。そして中央線・武蔵境駅の南側辺りから南東方向に下り、三鷹市上連雀下連雀を通り、新川にある杏林大学病院の東側を通過して京王線・仙川駅の東側で甲州街道と出会う。したがって、玉川上水が五日市街道と別れるのは武蔵境駅の北側辺りからでなければならない。といって、吉祥寺駅近くまで進んでしまうと、今度は井の頭池が駅の南側にあるので、その前に玉川上水も南下する必要がある。こうして、甲州街道との合流点が徐々に明瞭になり、結局、京王線桜上水駅の北側付近で甲州街道に至ることになるのが合理的だ。

 なお、この際、先に挙げた分水尾根が井の頭公園の南側にあり、玉川上水は実にスリリングなルートをたどるのだが、詳細についてはいずれ触れることになるので、それまで乞うご期待!

今度は取水口の決定過程を探ってみた

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台風19号がもたらした被害は羽村堰でも見られた

 玉川上水の大まかなルートは、上に挙げた理由でほぼ確定したと思われる。次に問題となるのが取水口の場所決めである。これには詳細は不明だが、前回のブログで紹介した「府中用水」の開削が参考になったようである。前回にも記したように府中用水ははじめ上水道の整備を企図していた節があった。しかし、国立市にある青柳崖線で甲州街道沿いに乗せても、いずれ国分寺崖線が立ちはだかって計画は頓挫するのは確実なので、この用水は結局、灌漑用水としてのみ用いられた。

 一方、伝承では、玉川兄弟は府中用水を現在、府中市清水が丘にある「東郷寺」辺りで立川段丘上に乗せる計画を進めたという話がある。しかし、工事中に砂礫帯に突き当たり、水をいくら流し込んでも川床が砂礫では水を吸い込んでしまうために、この工事は断念せざるを得なくなり、関わった人は責任を負わされて処刑されたらしい。このため、のちにその辺りは「悲しい坂」と呼ばれるようになったという話なのである。物語としては興味深いが、何度も言うように玉川上水計画であれば、この部分の工事が仮に成功したとしても、その先にある国分寺崖線のところで挫折するので、この工事と玉川上水計画とを結びつけるのは無理がある。玉川兄弟が本気で上水開削の一環としてこの工事を進めたのだとしたら無能の誹りは免れえないだろう。仮にこの工事が本当におこなわれたのだとすれば、それは府中や調布においてのみの上水計画だったのだろう。ともあれ、国立の青柳近辺や府中の清水が丘近辺は玉川上水の取水口にはならないのだ。

 取水口の位置は絞られてきた。青梅市では川の断崖がきつくてダメ、昭島市の多摩大橋辺りから下流は府中用水の経験でやはりダメ。さすれば、想定可能な位置は、河辺・小作から拝島までの間に絞られてくる。しかし、河辺辺りはまだ河成崖が30mもの高さがあって開削は不可能だ。一方、拝島付近は秋川との合流点があって水量の増減が読めないので、これらも候補地にはできない。したがって、小作から福生辺り(拝島駅西側にある睦橋の上流)が有力候補地になる。

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福生市熊川にある水喰土公園内に残る遺構

 JR五日市線拝島駅熊川駅との中間あたりに「水喰土(みずくらいど)公園」がある。玉川兄弟はこの辺りを取水口として開削を進めたところ、写真のあたりに砂礫層が広がっていたため、流した水はすぐに地中に染み込んでしまったという。そのため、ここは「水を喰う土地」=水喰土と呼ばれるようになり、玉川兄弟は2度目の失敗(1度目は府中用水)を犯してしまったとされる。しかし、この辺りを取水口とするためには先に挙げた五日市街道の「牛浜の渡し」辺りから掘り込む必要があるが、その地点の標高は109m、水喰土公園の堀は119mなので、この短い距離で10mの高低差を埋めるには無理がある。この点は後に研究されたようで、玉川兄弟が掘った場所は経路のひとつではあったが浸水が激しいためにやや上部に移し替えられた(実際、このすぐ上(標高121m)に玉川上水の流れがある)という説、この堀は水喰土だったからではなく玉川上水の分水跡という説の2つが有名だ。

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玉川兄弟はこの辺りを掘って岩盤に突き当たった?

 また、玉川兄弟が取水口に考えたのは今少し上流の「永田橋」のすぐ上辺りという説もある。実際、写真のように「堀」らしきものが残っている。写真の下方辺りに「福生かに坂公園」がある。2度目の失敗は「水喰土」だったからではなく、ここを掘り込んだところ岩盤に突き当たってしまったためにそれ以上掘り込むことを断念せざるを得なかったから、というのである。しかしこれも不思議な話で、ここはすでに立川段丘に入り込んでいるので、上はローム層、下は砂礫層で、そのさらに下が上総層群の基底部である。地中深く掘り込んでいくならこの上総層群に突き当たることもあるだろうが、崖を掘り込んでいくのだから砂礫層に出会うだけで岩盤に当たることはないはずだ。これも、玉川兄弟の苦難を「物語化」したものにすぎないだろう。

取水口はいよいよ絞られてきた

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羽村取水堰第一水門

 取水口の位置はさらに絞られてきた。小作から羽村までの間である。玉川兄弟の失敗により、松平信綱は配下の安松金右衛門に指揮をとるように命じた。安松は播磨出身で河内で育った。西国は水害の多い場所なので、その地で育った安松は土木事業に詳しかった。実際、玉川上水だけでなく、野火止用水新河岸川や川越街道の整備も彼が指揮している。そうであるならば初めから安松が出てくれば良さそうなのだが、当時の町奉行の神尾元勝が玉川兄弟を指名したので、いったんは信綱も彼らに任せたのだろう。しかし、失敗続きで業を煮やし、結局、安松に指揮をとらせることになったようだ。

 安松は取水口の候補を3つに絞った。上から羽西、羽加美、羽東である。羽西には現在、小作取水堰がある。ここから多摩川の水を取り込んで山口貯水池(狭山湖)に貯め、浄水場を経て東京都の水道に送られている。羽加美は阿蘇神社がある辺りで、羽東は現在の羽村取水堰がある場所だ。

 取水口からは長い導水路が必要である。現代であれば取り込む水量は機械設備によって調整できるが、江戸時代にはそうした技術はないので、長い導水路で水量を調整しなければならないのだ。しかも取り入れるのは常に水量に増減がある自然河川からなのだ。一か所の取水口だけでの水量調整は不可能で、水が多い場合は下流の何か所にも吐水口を設けて余水を多摩川に戻す必要がある。このためには、しばらくは多摩川に近いところを流れる必要がある。また、流れの速さも調整しなければならない。最新の研究では、玉川上水のようなローム層を流れる川の場合は時速5キロ程度が適正らしい。速すぎれば両岸や川底を掘ってしまい、遅ければ泥砂が底に堆積してしまう。先に触れたように、玉川上水は時速6キロ程度で流れていたらしいので、両岸を石で補強し、川底に小石を敷けば、なんとか課題はクリアーできると考えられたはずだ。

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取り込みすぎた水を多摩川に戻すための余水口

 3案とも、長い導水路を求めうる場所にある。しかも、この長い導水路は、立川崖線を越えていく役目も負わされている。そこで安松の3案を検討してみよう。

 まず上流の羽西だが、現在、小作取水堰の標高は131m、左岸上の台地は145mと14mもの差がある。江戸時代の多摩川の上流には小河内ダムがなかったので、今より水量は豊富だったから水面はもう少し高かったと考えられるが、それでも10m以上の差がある場所を掘り込むのはやや厳しい。この点、やや下流の羽加美辺りの水面は129mで、阿蘇神社下の台地は136mとなる。その差は7mあるが、かつての水面の高さを考えるとその差はもう少し縮まる。3案目の羽東は水面が125m、台地が132mで、差は7mと羽加美と同じだ。ちなみに、玉川兄弟が目星をつけたものの岩盤に阻まれたとされる「福生かに坂公園」辺りでは、水面が114mで台地が126mとその差は拡大している。これは、立川崖線が多摩川左岸に迫ってきているからだ。

 以上の理由から、取水口の位置は羽加美か羽東に絞られた。両者の条件は同じである。それならば、導水路がやや短くて済む羽東のほうが少しだけだが労力は節約できる。こうした経緯をへた結果、取水口は羽東、つまり現在の羽村取水堰がある位置に決まったと考えられるのだ。 

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流路を変えるための「牛枠」。今ならテトラポッド

 写真は多摩川の流路を変えるために使われた「牛枠」と呼ばれる川倉で、これを多摩川の右岸側に並べて流れを左岸方向に導き、水が取水口に入りやすいようにした。今ならコンクリート製のテトラポッドを用いるだろうが、当時はそのようなものはないので、木材を写真のように組んで、これが水流に耐えられるように重石として竹で組み中に石を入れた蛇篭(じゃかご)を積み上げた。

 現地に行くとよく分かるのだが、多摩川羽村堰の手前で大きく流れを変え、南向きだったものが東向きになって堰のほうへ向かっている。これは南下する流れの先に草花丘陵があったためにコースを東方向に変えざるを得なかったのだが、その流れを固定するように、丘陵の前にはこうした牛枠が並べられているのだ。一方、右岸側にはあとから造成したような(実際、造成したのだが)低い台地がある。これは明らかに流路変更の結果として生まれた空間で、その場所を宅地(かつては畑か?)として造成したと考えられる。

   * * *

 今回は導水路脇をたどり、拝島駅付近まで歩いた。が、その前に「立川崖線をいかに越えたのか」という大きなテーマが残っている。この点もやや長くなりそうなので、今回はこれにて終了です。撮影はほぼ終わっているので次回は早めに更新します(釣行が多く控えているので分かりませんが)。