徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔78〕山陰の最後に丹鉄に乗る。そして琵琶湖へ

京都丹後鉄道・”あおまつ号”

◎京都丹後鉄道宮豊線に乗る~夕日ヶ浦木津温泉駅

夕日ヶ浦木津温泉駅

 以前からこの鉄道には乗ってみたいと思っていた(北近畿タンゴ鉄道の時代から)のだが、その機会はなかなかなかった。今回は必ず利用してみようとスケジュールを取っておいたので短距離ではあるがついに乗車が実現することになった。一番の希望は由良川を渡る区間だが、予定外の行動をいろいろとおこなってしまったため結局、宿泊地に近い、夕日ヶ浦木津温泉駅から豊岡駅間を往復することになった。

駅構内では足湯が楽しめる

 夕日ヶ浦木津温泉駅の北口前には無料の駐車スペースがあることを調べておいていたので、旅館をチェックアウトしてからすぐに駅前に向かった。

 この鉄道には無人駅が多いようだが(はっきりと調べた訳ではない)、この駅には女性の係員が一人いて、切符の販売から構内の清掃、それに観光客への案内や接待までをおこなっていた。

 列車の本数が少ないので、豊岡行きが来るには一時間近く掛かるようなので、駅前をうろついたり、駅構内をアチコチ見て回ることにした。

 写真のように、ホームには足湯の施設があった。いかにも「温泉駅」という風情だが利用する人は見掛けなかった。

かつては列車交換駅だった

 写真から分かるとおり、この鉄道は単線である。向かいにもホームはあるのだが、レールは撤去されていた。運行本数が少なくなったためか、ここは列車交換駅としての役割を終えたようだ。以前に挙げた「八高線」でもこうした風景はよく見かけたので、こうしたことはローカル線の宿命なのかも知れなかった。

八高線でもよく見たレールの形

 写真のようにレールはホームの先でS字のカーブを描いている。かつてはその部分に転轍機が存在していたはずだ。八高線では転轍機が使用されないまま残存している場所がいくつもあった。それに比べれば、この姿は「生まれ変わりましたよ」ということをしっかりと主張している。いささか寂しい光景ではあるものの。

今どきの切符としては珍しく硬券

 嬉しいことに、この駅で発効される切符は「硬券」だった。自動販売機がないのでこうした硬券がこの駅では扱われているのだろうが、昔のように切符切りをカチャカチャ言わせて切符を切る姿がないのが少し寂しい。もっとも、カチャカチャ音を立てながら入場者が差し出す切符を素早く切るほど利用者がいないのでこれは致し方ないことだ。

◎夕日ヶ浦木津温泉駅から豊岡駅まで~”丹後の海”号

水戸岡鋭治氏デザインの列車”丹後の海”が入線

 私が乗る予定の列車は「快速」だったが、とくに快速料金は不要だった。この鉄道には特別デザインの列車も用意されていることは知っていたが、まさか「丹後の海」号が入線してくるとは思わなかった。

 JR九州の豪華列車「ななつ星」の設計者としてよく知られている水戸岡鋭治氏が会社の依頼を受けて、既存の列車の内外を大幅にデザインしたものである。見た目の色使いから、水戸岡氏のデザインであることはすぐに判明できた。

車内は極めて豪華

 室内は極めて豪華な仕様で、吊り革の代わりに座席に独特の形をした突起物があることで、この車両が水戸岡氏のデザインであることがよく分かる。

最前列はゆったりソファ

 写真のように、最前列には意匠を凝らしたソファー席が設えてある。窓枠の装飾をみても水戸岡カラーが満載だ。こんな豪華な車両に特別料金なしに乗れたことには十分すぎるほどの満足感を抱いた。

久美浜湾東部に位置する「小天橋駅」

 「小天橋」については第76回で触れている。天橋立の小型版のような砂嘴砂州)からできているので「小天橋」と名付けられたのだが、写真の小天橋駅から小天橋海水浴場までは2.5キロほどの距離がある。最寄り駅と呼ぶにはあまりにも遠すぎる。もっとも、砂嘴の出発点?と思える場所までは850mほどなので、このくらいの距離であれば「小天橋」でも良いのかもしれない。

カブトにしか見えない「かぶと山駅」は通過

 写真の「かぶと山」はそう呼ぶほかには考えられないほど「カブト」の形に見える。実は2日前にこの山の全貌を探ろうと車で出掛けて周回道路を走ったのだが、あまりにも木々が多すぎてまったく展望が効かず、山頂方面を眺めることはまったくできなかった。標高192mで、山頂からは久美浜湾が一望できるという触れ込みなのだが、登頂する元気はまったくなかった。やはり、山は遠くから眺めるのに越したことはない。

一人の姫は「かぶと山」に関係する

 「丹後七姫伝説」というのがあって、乙姫や静御前、間人皇后、小野小町など錚々たる顔ぶれが並ぶ。これには安寿と厨子王の「安寿」も入っているが、写真の「京丹後七姫伝説」では、安寿に代わって「摩須郎女」が加わるそうだ。彼女は垂仁天皇に5人の娘を献上した丹波国主の妻とのこと。

 摩須郎女の孫娘が皇后になったことを喜び、かぶと山の頂上に熊野神社を建立したとのこと。こうした「伝説」から七姫の中に摩須郎女が加わったそうだが、全国的な知名度からは断然、「安寿」の方が高いと思われる。

久美浜駅久美浜湾奥に位置し砂丘までは遠い

 久美浜駅久美浜町の中心部にあるが、「久美浜」から連想する小天橋の砂丘からは4.1キロも離れている。もっとも久美浜湾奥までは700mほどなのだから、ここが久美浜駅を名乗ってもまったくおかしくはない。むしろ当然の命名だろう。が、旅行者としては「久美浜」と聞くと美しい山陰海岸を想像してしまうので、少し(大いに)違和感を抱いてしまう。

久美浜駅は列車交換駅

 単線の京都丹後鉄道では、この駅が列車交換駅になっている。私が乗っているのは豊岡駅行きで、お隣は西舞鶴行きである。カラーリングは一般的なものだが、一部に水戸岡色が見られる。

久美浜湾が少しだけ見えた

 車窓からは久美浜湾奥が少しだけ見られた。前述したように、山陰海岸はここから4キロ以上も先にある。それだけ奥行きのある入り江を小天橋は塞いだのだ。

快速列車なので「コウノトリの郷駅」も通過

 「コウノトリの郷」については第76回で紹介している。その場所には車で出掛けているので丹鉄を利用したわけではない。この駅から”郷”までは約2.2キロあるので歩くにはややきついかも。ただし、新興住宅地が少しは展開されてはいるものの基本的には里山風景に触れながらの歩きになるので、健脚の人には苦にならないかも。

円山川を越えて豊岡市街に向かう

 円山川を越えればまもなく豊岡市街地となる。この鉄橋の下流4キロのほどのところに以前に紹介した「玄武洞」があり、そのさらに下流に進むと城崎温泉に至る。

 写真に写っているのは国道178号線の「豊岡大橋」で、車で移動する私にとっては馴染みのある橋だ。

豊岡駅に到着した”丹後の海”号

 終点の豊岡駅に到着した。車窓からの風景は今ひとつ期待通りとはいかなかったが、 なにより「丹後の海」に乗車できたことは望外の喜びだった。紹介において今一度ぐらいは山陰を廻る旅をおこなえると希望的観測を抱いているので、次回はぜひともこの車両に乗って長区間、移動してみたいと思った。それほどに、この姿形を気に入ってしまったのだ。

豊岡駅で”丹後の海”とお別れ

 早ければ(または元気であれば、もしくは生きていれば)2024年には最後の(今回が最後かもしれないが)山陰旅行を企画したいと考えている。23年の長旅では、初夏は東北、晩秋は中国・四国地方を廻ろうと決意しているので、どうしても24年になってしまいそうだ。そのときにまた「丹後の海」に出会いたい。というより、時刻表を確認して利用する計画を立てたい。 

豊岡駅の大半はJRが使用

 豊岡駅にはとくに用事はなく、ただただ”丹鉄”に乗るためだけにやってきたのだ。すぐに夕日ヶ浦木津温泉駅に戻っても良いのだけれど、違う車両にも乗ってみたいという気持ちもあったため、次の列車を待つことにした。とはいえ、次の列車は1時間20分後の発車なのだ。それでも豊岡駅周辺を散策すれば時間はつぶせるだろうと思い、駅構内や駅前周辺をうろつくことにした。

 写真のように豊岡駅の構内はかなり広く、その大半はJRが使用している。いろいろな姿形の列車を見るだけでも興味は尽きないので、80分という時間はさして苦にならない。

丹鉄の豊岡駅は東隅にこれだけ

 広い駅構内にもかかわらず、丹鉄が利用できているのが写真にある場所だけだ。

豊岡駅を少しだけ散策

JR豊岡駅の駅舎。丹鉄は舎外に存在

 折角なので、駅の外に出てみた。やや大きめの駅舎が見えるが、その壁面には「JR豊岡駅」とある。丹鉄は舎外に追いやられているのだ。

 その壁面は、コウノトリの翼、もしくはコウノトリが飛翔する姿がモチーフになっているようだ。

駅前を散策~見掛けるのは老人ばかり

 駅前通りを少しだけ歩いてみた。写真の通り、午前11時過ぎに出会う人の9割以上が老人だ。もっとも、徘徊老人は少なく、写真の人々はすべて駅前のスーパーや市の諸施設が入っている建物を利用するため(あるいは利用後)に移動していた。ただし、その建物の中で何をしているかは不明だが。

駅前通りはシャッター街

 一方の駅前通り商店街は閑散としていた。というより、大半の店は閉じているため、この通りで用事を済ますことはほぼできないのだ。「こうのとりのまち」の文字がすこし悲し気である。

かばんの生産量は豊岡が日本一

 町中には刮目すべき場所はなかったので駅構内に戻り、東西連絡橋の上から構内を眺めて時間を潰すことにした。JR西日本の駅改札口はすべてこの連絡橋にあるので、どんな列車が到着したり発車したりするかの姿が見て取れる。

 また、私のようなぶらりと立ち寄った者にも豊岡市の特色がよく分かるようにと、当地の特産品が展示されている場所もあった。写真のカバンに象徴されるように、豊岡市はカバンの生産量が日本一を誇るそうだ。「豊岡鞄」は「今治タオル」と同じく地域ブランドとして正式に認定されている。

 私はカバンにはまったく興味がないので豊岡市が生産量は日本一で、一時は80%のシェアを誇っていたなどということはまったく知らなかった。

城崎温泉行のこの特急の名は「こうのとり

 京都駅や新大阪駅からは豊岡駅経由の城崎温泉駅行きの特急列車が走っている。前者は「きのさき」、後者は「こうのとり」という列車名が付けられている。姿形はまったく同じなので、列車名から写真の特急は新大阪発であることが分かる。 

豊岡駅から夕日ヶ浦木津温泉駅まで~”あおまつ号”に乗る

豊岡駅の切符は硬券ではなかった

 出発時間の12時に近くなったので連絡橋を降りて丹鉄のホームに向かった。切符は自販機で購入するので、来た時とは異なり残念ながら「軟券」だった。

復路は観光列車”あおまつ号”に乗れた

 発車の10分ほど前にホームに行くと写真の青い車両が停まっていた。車体には「青松」の文字があった。また、ガイド役らしい若い女性が乗客を誘導していた。「丹後の海」とはかなり異なるイメージだ。

”あおまつ号”の運転室周り

 乗ってみて分かったことだが、この車両も水戸岡氏のデザインだ。従来からある車両を使っているので外観はカラーリングが異なるだけだが、車内は水戸岡色が満載だった。

 写真は運転席周りなので、「青松」の文字と、右側のデスクにある突起だけが水戸岡色を感じさせるものだった。

”あおまつ”も水戸岡氏のデザイン

 しかし座席周りを見ると水戸岡色が満載で、これが普通車両とは思えないほど贅沢に造られていた。

長椅子席と木製の吊り革

 ソファー型式の長椅子も、木製の吊り革もいい感じに造られている。

車内トイレの入口

 車内にはトイレがあり、この暖簾も洒落ていた。

車内の売店~接客中のアテンダント

 中央部には写真のように洒落た形をした売店があり、さきほど乗客を誘導していた若い女性は「アテンダント」として車両に乗り込み、売店でいろいろなグッズを販売したり、走行中はアナウンスガイドもおこなっていた。

思わず小物も買ってしまった

 折角なので、私も何かを買うつもりで売店に立ち寄った。当初は、アイスコーヒーだけを注文したのだが、アテンダントに勧められるまま小物を数点、購入してしまった。彼女の笑顔と初々しさに敗北してしまったのだ。

”あおまつ号”との充実した32分間

 車窓からの景色は先に述べたように特筆すべきものはない。この一両編成のあおまつ号は普通列車専用なので時間がゆっくりと進んでいく。アテンダントのたどたどしい車内ガイドも極めて新鮮な響きだった。

 わずか32分の短い体験だったが、許されれば終点の西舞鶴駅まで乗り続けたいと思ってしまった。

 豊岡駅までの「丹後の海」号、夕日ヶ浦木津温泉駅までの「あおまつ」号。どちらも計画にあったわけではなく、ただ偶然に巡りあっただけだ。しかし、そのめぐり逢いの偶然に大きな意味を見出したとき、どことなく運命的な出会い感じてしまう。

◎丹鉄のポスター~やはり、売りは由良川橋梁

由良川橋梁を走る”くろまつ号”のポスター

このポスターも由良川橋梁

 夕日ヶ浦木津温泉駅の壁には上にある2枚のポスターが貼られていた。どちらも由良川橋梁を渡る「くろまつ」号がモデルになっている。私が乗ってきた「あおまつ」号の兄弟車両である。

 京都丹後鉄道の路線では、やはり由良川橋梁が白眉である。次回、山陰を訪れる際には必ず、この由良川橋梁を渡る区間に乗ろうと思う。そして、由良川橋梁を渡る水戸岡鋭治氏デザインの車両を撮影しようとも考えている。その2つを実現するだけでも、山陰を訪ねる価値は十分にあると思ってしまったほど、今回の丹鉄乗車は貴重な経験だった。

鯖街道を使って琵琶湖西岸へ

鯖街道・熊川宿の家並み

 望外の出会いを含め、念願の丹鉄乗車が成就したので山陰の旅は終了し、一路、琵琶湖西部に向かって車を進めた。

 若狭湾(中心は小浜市)から京都の出町を結ぶルートを「鯖街道」と呼ぶ。これは日本海で獲れた魚介類を京都に運ぶために造られた道の総称で、物資はサバがもっとも多かったことから「鯖街道」と呼ばれている。

 この鯖街道と呼ばれる道はいくつもある(主要には6つ)が、もっともよく知られているのが「若狭街道」で、熊川、朽木、葛川、大原を通って京都に出る。

 写真は、鯖街道ではもっともよく知られた「熊川宿」の家並みを写したもので、一帯は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。

平日なので観光客は少なめ

 私は少し遅めの昼食をとるためにその熊川宿に立ち寄った。家並みはよく保存されており、電信柱など余計なものは地中化されているために気持ちよく散策できる。

 土産店もいくつかあるが、この日は人影がとても少なかったこともあって、店員たちは皆、暇そうに観光客の姿を探していた。

古い町と言えば造り酒屋

 古い町の中心部には決まって造り酒屋がある。すっきりとした景観だが、ただ一点だけ邪魔な存在がある。自動販売機だ。

若狭塗箸も京へ運ばれた

 日本の箸の原点でもある「若狭塗箸」も取り扱われていた。以前触れたように、箸は朝鮮半島経由で若狭湾から「鯖街道」を通って近江に入ったものである。もちろん、鯖街道などと呼ばれるずっと前のことだが。 

鯖街道でサバの塩焼き定食を食う

 折角、鯖街道を通ってきたので、昼食には「サバの塩焼き定食」を食うことにした。私にとってはサバの塩焼きは定番中の定番なので、ここが仮に鯵街道であっても、アジの干物定食ではなくサバの塩焼きを注文したはずだ。

鯖味の珈琲か珈琲味の鯖か?

 街道沿いには不可思議な名のカフェがあった。サバ味のコーヒーを出すのかコーヒー味のサバを出すのかは不明だし、その存在に気付いたのはサバの塩焼きを食べたのちだったためにここには立ち寄らなかった。

 どちらの味も少し不気味な感じがする。とはいえ、私の場合、鯖の塩焼きを食べた後は概ねコーヒーを飲むので、どちらであっても問題は無いのかもしれない。

 あるいは、鯖街道沿いにあるから単に「saba」と付けたのか、それともご主人がカリブ海の島(サバ島)が好きなのか、または気管支喘息を患ってsaba(アドレナリンβ2刺激薬)を服用しているのかも。まあ、第一の説が本命だろう。

今夏は安曇川(あどがわ)に鮎釣りに出掛けるかも

 朽木にも立ち寄った。ここに来たのは「宿場町」目当てではなく、安曇川の流れに触れることが目的だった。琵琶湖に流れ込んでいる安曇川には琵琶湖産の鮎が多数、遡上するからだ。

 天然遡上鮎がなく養殖鮎の放流に頼る河川では、琵琶湖産の鮎を放流することが集客力に繋がる。山梨県桂川水系が近年大人気なのは、放流鮎の大半が琵琶湖産だからである。

 この安曇川の場合、その琵琶湖産の鮎が天然遡上するのであるから条件としては最高なのだ。それゆえ、安曇川は常に遠征釣行の候補地に挙がっているのだが、釣果よりもシチュエーションにより高いプライオリティを置く「ケンさん」(第61回参照)が好みそうもない景観なので、未だこの川への釣行は実現していない。

◎琵琶湖西岸に到達~今日は今津

琵琶湖の周囲には湿地が多い

 山陰の帰りは琵琶湖周遊の旅と決めていた。ただし、大好きな近江八幡彦根近辺ではなく、今までに立ち寄ったことのない場所を選ぶことにした。

 ”今日は今津か長浜か”と少し悩んだが、安曇川からは今津のほうが断然に近いので、この日は今津に宿をとることにした。

琵琶湖周遊は今津から

 ホテルの窓から小川が見え、かつ釣り人の姿もあったので、鮎の姿を探すために湖岸に降りてみることにした。やはり海岸線とは異なり湖岸は波静かだ。ときおり、散策に訪れる人の姿を見かけたが、基本的には「静寂」が支配する淡海であった。

小川にも琵琶湖産の鮎は遡上する

 小川をのぞいてみた。残念ながら小鮎の姿は見られなかった。しかし、ホテルの窓からのぞいたときには釣り人が一人いたし、写真にあるようにチュウサギが小魚を狙っている。

 確実に鮎の姿は見られるはずだ。それゆえ、明日の琵琶湖周遊の旅は鮎探しがメインになってしまうかも。

〔77〕若狭湾・山陰東部を旅する(5)豊岡市竹野町から夕日ヶ浦温泉まで~いよいよ東進

夕日ヶ浦の磯で釣りをする人

豊岡市竹野町の海岸を訪ねる

切浜海岸を国道から望む

 この日、最初に訪れる予定の切浜海岸を国道から眺めた。この海岸の先に「淀の洞門」という観光スポットがある。

小さな入り江の小さな港

 切浜海岸の手前にある小さな入り江に造られた小さな港。昨日、西方向に進んだ時にはその存在にまったく気づかなかった。すべての景色は(景色だけに限らないが)一方向から眺めるだけではだめで、いろいろな角度に視線を向けることで、そこに存在する風景はまったく異なるものになる。

切浜海岸でワカメを採集するオッサン

 切浜海岸にも白い砂浜が広がっている。小突堤横の岩礁近くで、お年寄りがワカメの採集をおこなっていた。道路脇に軽トラックがとまっていて、その助手席から彼が働く姿を温かく、かつ心配そうに見つめる家族と思しき人がいた。

海岸の先にあった「淀の洞門」

 切浜海岸の北側にある「黒鼻崎」は日本海に突き出ており、その岬の西端付近に写真の「淀の洞門」と名付けられた海食洞がある。幅は24m、奥行きは40m、高さは14mある(らしい)。その大きさは資料ごとに異なっているので、上記の数字は参考程度にしかならない。

 この洞門は、「淀の大王」を首領とする大鬼集団が金棒で穴を開け、根城にしていた。その鬼集団を退治したのがスサノオだという伝説が残っている。

落石がとても多い場所だ

 洞門の天辺をよく見ると中心部に断層が走っているのが分かる。そのため、洞門は崩落しやすく、写真からも分かるように周辺には大小の落石が数多く転がっている。洞門の中には海水が流れ込んでいるのでそれを間近で見たいと考えたのだが、いつ落石に襲われるか分からないので、洞門の中に立ち入ることは避けた。

 やや遠めから地層を見ると、花崗岩の土台に凝灰角礫岩が乗っていることが分かった。

猫崎半島付け根の波食台

 切浜海岸の東側1400mのところに「猫崎半島」がある。半島の東側には弁天浜、西側には竹野浜があるが、猫崎半島はその両浜の間から細長く1400mほど突き出ており、とりわけ西側は荒々しい見事な岩礁帯が続いている。

 半島西側の南半分は波食台が続いており、その隆起した岩礁帯の一部に無数の甌穴(おうけつ、ポットホール)が見られる場所がある。私は弁天浜の駐車場に車を置き、波食台の上をおっかなびっくり歩いていって、甌穴群を見物することにした。 

半島の甌穴群を訪ねる途中にあった祠

 波食台を500mほど進んだ場所に、自然が造形した「祠」があった。後で知ったのだが、この近くまで道が延びており、甌穴群を見るためだけなら半島内の道を少し北上すれば良いことが分かった。が、低い岩場を歩くことは決して嫌いではないし、ここまでの500mにもいろいろな発見・収穫はあったので決して無駄な歩みではなかった(でも疲労感はあった)。

この辺りは落石が多い場所

 凝灰角礫岩の岩場はかなり脆い状態なので、昨日に見た「はさかり岩」に似た姿がここにも存在していた。

波食甌穴をたくさん見つけた

 疑似「はさかり岩」の先からはいたるところで甌穴を見てとることができた。

甌穴群だけが見所ではない

 この辺りの地層は堆積岩から形成されているようで、それまでの波食台とはまた異なる岩肌が広がっていた。

下北半島の仏ヶ浦を思い出した

 写真の場所では下北半島最西端に広がる「仏ヶ浦」を連想してしまった。

この崖の美しさ!

 写真の岩肌に見とれてしまい、しばらくの間、じっとこの場に佇んでいた。自然が作り出す造形は、人間の想像(創造)力をはるかに超えている。

小さな穴は穿孔貝の仕業か?

 甌穴以外にも小さな穴は無数にあった。穿孔貝の仕業なのか、タフォニ現象のひとつなのか無知な私にはまったく理解不能だ。

次があれば、半島探訪だけで一日過ごせる

 半島の先端上部は火成岩が覆っており、流紋岩の柱状節理が見て取れた。

 この日は「城崎温泉巡り」などまだまだ課題多く残っているためにこの半島だけに多くの時間を割くわけにはいかなかった。残り短い人生ではあるが、今一度山陰海岸には訪れたいと考えているので、その際にはこの半島をじっくりと徘徊したいと心から思った。

◎城崎にて

温泉駅前にまず立ち寄る

 城崎温泉には何度も立ち寄ったことがあるが、温泉に浸かったことは一度もない。もっともそれはここに限ったことではなく、湯布院、別府(大分)、有馬(兵庫)、道後(愛媛)、草津(群馬)、下呂(岐阜)、和倉(石川)、皆生(鳥取)といった名だたる温泉地に宿泊したにもかかわらず、それらの名湯に体を浸したことはない。

 城崎は志賀直哉の『城の崎にて』の舞台としてあまりにもよく知られている。中学の国語の教師が何かというと志賀直哉の名を挙げ、文章力を身に付けるには、志賀の作品を読み込むべきとしばしば言っていたことを記憶している。

 私は5人兄弟の末っ子なのだが、5人ともすべて府中一中の出身で、皆、その教師に国語を習っていた。私以外の4人は比較的真面目に授業を聞いていたようで、「〇〇(教師の名前は完全に忘れている)は何かというと志賀直哉の名を出す」と私に言っていた。私は教師の話を聞くことはほとんどなかったが、その○○が志賀直哉の名前をよく挙げていたことだけは覚えている。それだけ、○○は志賀の名を連呼していたのだろう。

 その○○に敬意を表するわけではないが、志賀の代表作の舞台である城崎温泉に今回の山陰の旅でも立ち寄ってみた。温泉には興味はないが、温泉地をブラブラと歩くことはかなり好きなのだ。

閑散とした駅前風景

 城崎温泉駅近くのコインパーキングに車を置き、温泉街を徘徊してみることにした。コロナ禍が猖獗を究めている時期ではないにも関わらず、駅前も、そして温泉街にいたるメインロードも閑散としていた。通りを伸びり(のんびり)歩いていると、あちこちにある海鮮料理店から呼び込みの声が掛かった。屹度(きっと)、かなり暇に違いないと店内をちらりと覗いてみると、本統(ほんとう)に客の姿はほとんどなかった。

城崎はカニの水揚げ地でもある

 城崎温泉のすぐ北側にある津居山漁港は松葉ガニの水揚げ地として有名で、「津居山ガニ」の名で流通している。写真のように城崎温泉の商店街にはこのカニを前面に掲げた海鮮料理店もあった。

 私は数日前に間人(たいざ)温泉でカニを十分に食したので、もう暫くの間は食べたいとは思わなかった。なぜなら、カニは「カニの味」しかせず、同時に他のものを食しても全で(まるで)全部の食材が「カニ味」になってしまうからだ。 

大谿川を渡る山陰本線

 城崎温泉の中央部には大谿川(おおたにがわ)が流れており、この川の両側に温泉宿が立ち並んでいる。写真は、その大谿川の下流方向を眺めたもので、山陰本線の先で本流の円山川に合流する。

城崎温泉の代表的な風景

 私は大谿川に沿って整備された道を上流方向に進み、温泉寺まで温泉街を辿ってみることにした。

護岸には玄武洞の石が使われている

 川沿いの温泉街には写真のような木造の三階建ての旅館があって、いかにも歴史のある温泉地を粧(よそお)っている。

 川の護岸には近くの玄武洞から採集された玄武岩が綺麗に積み上げられている。柱状節理を横に切ったものが分明(はっきり)と並んでいる姿は、ここが城崎を流れる川の護岸であることを却々(なかなか)美しく主張されている。 

城崎文芸館の外観

 街中には写真の「城崎文芸館」があった。本統は立ち寄るつもりであったが、外から中をのぞいてみると見物客がいる様子がまったくなかった。そのこともあり、下の写真にある『城の崎にて』の碑だけに触れることにした。

 

志賀直哉の文学碑

 『城の崎にて』は20歳過ぎから何度も読んでいるが、当初はその良さがまったく理解できなかった。下根の質(げこんのたち)は昔も今も変化はないものの、自らの死が現実味を帯びる年齢になると、その文章に点頭(うなづ)くことが多くなってきた。

 死んだ蜂、死に直面している鼠、思いがけず殺してしまったイモリ、それに山手線にはねられて死に損なった作者、この4者の「死」の対比に「死の個別性」をじっくりと考えさせられた。先にあげた〇〇も、なかなか良いことを言っていたのかもしれない。もっとも、「死」についてなど、中学生の頃はまったく考えもしなかった。何しろ、「遊び」と「いたずら」で忙しい毎日だったから。

温泉寺の楼門

 城崎の町の散策も写真の「温泉寺」が終点だ。1300年ほど前に開基されたというこの寺は真言宗の別格本山で、城崎温泉の守護寺とされている。

温泉寺の薬師堂

 写真は温泉寺の薬師堂で、本堂は大師山(標高230m)の中腹にある。その本堂へは険しい山道を登るか、山に付設されたロープウェイを利用し中間駅で降りれば簡単に行くことができる。

 私は城崎温泉は幾度となく訪れているが、温泉には一度も浸かったことはなく、温泉寺の境内を覗いたこともなかった。温泉はともかく、温泉寺には少しだけ興味がわいたので、ロープウェイを使って大師山の山頂まで行くことにした。もちろん、このロープウェイも初乗りである。

城崎ロープウェイに初めて乗る

 ロープウエイとしてはそれほどの長さがあるわけではないが、中間駅があるのが珍しいらしく、案内でもしきりにその点を強調していた。

 密雲不雨というほどの曇り空ではないので、車内からは比較的、分明(はっきり)と温泉街や円山川の姿を見ることができた。

 写真にあるのが中間駅で、下りの際に立ち寄るつもりでいた。

山頂駅からの眺め

 山頂駅から温泉街を眺めた。円山川では新しい橋の建設が進んでいた。その1100mほど上流部に「城崎大橋」があるのだが、それは名ばかりの大橋で、実際には車がすれ違うのが困難なほど狭い。一方、津居山湾近くには「港大橋」があるのだが、こちらは温泉街に入るのには少し遠回りになるということで、新大橋の建設が急がれているのだろう。

温泉寺奥の院

 山頂駅付近には、先の展望台と写真の「温泉寺奥の院」しか存在しなかった。他には時間を潰せるような場所はなく、甚く(ひどく)落胆(がっかり)させられた。そのため、すぐに下界に戻ろうとしたのだが、時間帯が悪く、次のロープウェイはこのときだけ1本少ないため、40分ほど待たされることが分かった。

大師山の山頂にもあった!

 ここにも「かわらけ投げ」があったが、こんなもので40分という時間を費やすのは串戯(じょうだん)にもならない。そのため、歩いて中間駅に進むことにした。

下りは歩きに挑戦したものの

 一応、写真のように山道は整備されていたものの勾配はややきつく、また利用者が少ないためもあって道自体も荒れ気味だった。踉蹌け(よろけ)ながらなんとか下り始めたが、すぐに後悔した。が、もはや戻ってロープウェイの到着を待つ気持ちにもならなかったため、仮令(たとえ)時間が掛かろうとも、却々(なかなか)来ない乗り物を待つよりも焦心る(あせる)気持ちを抑え、伸びり(のんびり)と下ることに決めた。

石仏群その1

 不図(ふと)脇を見ると、山道にはいくつもの石仏が並んでいる姿が目に入った。

石仏群その2

 石仏は姿形がはっきりしているものもあれば、写真のもののように風雨にさらされたためか相当にくたびれたものもあった。

頭はなくとも

 なかには、頭部はすっかりなくなり、代わりに丸い石ころが載っているものもあった。

ロープウェイを見上げる

 そんな、ひとつひとつ姿形がまったく異なる石仏との出会いは私の心を豊かにしてくれ、その姿を凝然(じっと)見つめていたためか時が過ぎることを失念してしまっていた。

 頭上に下りのロープウェイが通り過ぎていく姿があったが、山道での豊穣な時間は分明(はっきり)と私の選択が間違いではなかったという思いが過り、ひとり点頭いた(うなずいた)。

温泉寺駅前の本坊

 到頭(とうとう)中間駅である「温泉寺駅」に到着した。駅前には温泉寺の本堂(本坊)があった。少し中を覗いてみようと考えたが、中には人気(ひとけ)がまったくなかったために断念した。 

温泉寺駅前の多宝塔

 次のロープウェイが来るまで周囲を少しだけ散策した。少時(しばらく)して下りがやってきたので乗り込んだ。

温泉寺駅から町並みを望む

 車内からの眺めは頂上駅からとさほど異って(ちがって)おらず、標高が下がっただけ温泉街の姿や建設途上の新大橋の姿が大きく見えただけだった。

 温泉街に降り立っても、もはや見るべきところがないように思われたので駅前の駐車場に戻り、城崎を離れることにした。

 *城崎の項では、志賀直哉がよく用いている漢字表記を用いてみた。城崎温泉にはほとんど感慨はないが、志賀直哉の文章には敬服しているのでそれを粧う(よそおう)ことにした。ただそれだけ。

◎丹後砂丘ふたたび

丹後砂丘の箱石浜から小天橋方向を望む

 この日の宿は丹後砂丘の東端にある夕日ヶ浦に決めていた。城崎訪問が淡泊と(あっさり)と終わってしまったため、丹後砂丘の中央部に位置する「箱石浜」に立ち寄ってみることにした。

 箱石浜には少しだけ岩場が露出している。また、陸地部分は少しだけ丘陵状になっているため、前に見た小天橋の海岸とは少し異なった姿を見せてくれる。この日は向かい風がやや強めだったので海中の様子は視認しづらかったが、海の透明度はしっかり保持されていた。

同じく夕日ヶ浦方向を望む

 箱石浜に少しだけ見られる岩礁部分から、今度は夕日ヶ浦方面を眺めてみた。山陰海岸を代表する景勝地のひとつであり、夕陽に接するには格好の場所でもあるため、宿泊施設が多いことは、ここからでも十分に得心できた。

砂浜は漂着ゴミだらけ

 この時期には少ないはずの「合いの風」が今季は多いためか、砂浜には多くのゴミが散乱していた。

韓半島からのゴミも流れ着く

 写真のように、ハングルが書かれた漁船の旗が打ち上げられていた。ここにはないが、壊れたコンテナもいくつか打ち上げられており、なかにはハングルが記されているものもあった。

 日本の文化の多くは大陸から渡ってきたものだが、文化だけでなくゴミも漂着していることが可笑しかった。

網野町磯の漁港にて

 宿に入るにはまだ少し早かったので、先に紹介した「静御前」の生誕地を再訪した。宿泊地から写真の「磯漁港」までは直線距離にして4キロほどである。もっともそこまでの県道の大半は九十九折なので、実際に走る距離はその倍ほどもある。ただ、他の車と出会うことはほとんどないため、時間にすれば10分ほどの移動にすぎなかった。

小さな棚田

 小さな棚田が目に止まったので、車を路肩に置いて少しばかり周辺を散策した。陽が少し傾き始めていたので、田の水面もやや色づいていた。

 薄曇りの空だ。夕日ヶ浦では夕陽は望めないかもしれない。今回の旅では一番ともいえる楽しみなのだが。

◎夕日ヶ浦にて

今回の旅では随一だった宿の玄関

 まずは宿泊する旅館にチェックインし、それから浜を散策することにした。 

私の部屋は「忘れな草」です

 私の部屋は402号室だが、その部屋は「忘れな草」と命名されていた。どうやら、この旅館ではすべての部屋に花の名が付けられているようだ。忘れな草は好みの花のひとつなので大歓迎である。もっとも、私には「ペンペングサ」がお似合いだ。

展望風呂付

 部屋は海岸に面しており、部屋からも、そして写真のように風呂からも海を、そして夕日を眺めることができる。室内は広く、アメニティグッズなども高級そうなものが用意されていた。今回の旅では一番の高級宿なので当然のことかもしれない。

 夕食はあえてここでは取らなかった。なにしろ、山陰の宿の夕食といえばカニと但馬牛と決まっているからで、それらは間人(たいざ)の旅館ですでに食していた。

 ちなみに、朝食はとても豪華なものであり、やや高級な旅館の夕食ほどの品数があった。宿の人も皆、好感が持てる応対をしてくれたので、もし、山陰に再訪する機会があったなら必ず、ここに宿泊しようと思った。そう考えてしまうほど、この宿は私のお気に入りとなった。

夕日ヶ浦海岸

 海岸にはサーファーが何人かいたが、この時期の日本海は波静かなことが多いため、サーフィンというより水遊びといった雰囲気であった。

旅館の名前は「静・花扇」

 部屋からは砂浜と、右手には岩場がよく見えた。岩場には磯釣りをしている人らしき姿があったので、私は宿を出て岩場の方へ向かった。

 写真は私が宿泊した「静・花扇」を写したもの。土台がピンク色している建物が私の「忘れな草」部屋がある別館で、その右手にあるのが本館だ。

岩場を見るだけでも楽しい!

 山陰海岸の岩場はとても変化に富んでいるので、こうした姿に触れるだけで嬉しくなる。

落陽はこの後、雲に隠れてしまった

 日がやや高いうちはおぼろげながら沈みゆく夕日が見えたのだが、低い空にはかなり雲が密になって来てしまったので、残念ながら水平線に落ち入る夕日を見ることは叶わなかった。それでも雲に霞む夕日は、ちょっぴり海を岩場を朱に染めてくれた。

 岩場にはメジナクロダイを狙っているであろう釣り人がひとりいた。私が見ている限りでは竿が曲がることはなかった。

 落陽にせよ、釣果にせよ、人には自由にコントロールできない。だからこそ、私は夕日を求めて、魚を求めて旅を続けるのだ。偶然の出会いを運命に転換するために。

〔76〕若狭湾・山陰東部を旅する(4)間人温泉から余部橋梁まで

鉄橋からコンクリート製に変わった余部橋梁

◎間人温泉から久美浜まで

間人漁港横の岩場

 間人(たいざ)温泉でゆったりとした時間を過ごした翌朝、再び漁港周辺を散策した。写真のように、漁港の西側には変化に富んだ岩場が広がっており、ここが紛れもなく山陰海岸であることが得心できる。

鳴き砂で有名な琴引浜

 R178を西に進んだ。京丹後市網野町には「鳴き砂」でよく知られた琴引浜がある。一部には岩場も広がっているが、その左右にはかなり広めの砂浜がある。海水浴シーズンには相当な賑わいを見せるそうだが、私が訪ねた時期にはまだ海水温が低いため、浜遊びを楽しむ人や「鳴き砂」の音色を体験する人が散見されただけだ。

この辺りの砂浜はよく鳴いた

 鳴き砂は、砂に含まれる石英分が多く、かつその表面に汚れのない場所でしか「キュッキュッ」という音を奏でられないため、管理にかなりの苦労が必要となるそうだ。琴引浜でも、よく鳴く場所とまったく鳴かない場所があった。

面白い形の岩場も多い

 ここでは砂の音に親しむだけでなく、写真にある岩場が形成する潮だまりを覗くという楽しみもあった。

海中写真にも熱心だった女性

 写真の女性は、水中カメラとしても使用できる「オリンパス・タフ」(私も持参していた)を使って、潮だまりの中の様子をしきりに撮影していた。かなりきれいな写真が撮れたとのこと。

潮だまりの中

 そこで、私もバッグからカメラを取り出して彼女の真似をしてみた。が、自分が濡れたくないものだから恐る恐る浅い潮だまりの中にカメラだけを入れてシャッターを押したので、なんとか見られそうなカットは上の写真だけだった。

漁師はワカメを採集

 後に触れる丹後砂丘同様に、海の中にはワカメがいくらでも生育している。写真の漁師は籠を手にしながらワカメを採集していた。

日本標準時最北端の塔

 琴引浜を離れ、R178を西に移動した。ただ、国道は網野町の中心部を目指してしばらくは海岸線を離れてしまうため、私は海岸線を走る県道665号線(r665)に移り、八丁浜や浅茂川漁港を通過した。

 次の目的地は、写真の「日本中央標準時子午線最北端の塔」がある広場だ。広場の最奥の崖近くにはかなり大きめの記念塔が建っていた。

最北端の塔である証明

 東経135度00分に位置するので、仮に真南に進むことができるとしたら明石市に至ることになる。

塔直下の海岸線

 公園は標高70mほどのところにあるため、眺めはかなり良好だ。まずは崖下の海岸線を恐る恐るのぞいた。

塔の広場から浅茂川漁港を望む

 次は公園の東側に位置する浅茂川漁港方向を眺めた。こうした眺めが延々と続くのが山陰海岸の面白さだ。

静御前を祀る静神社

 網野町の磯地区には、写真の「静神社」があった。主祭神源義経の側室となった「静御前」である。超有名人を祀る割には建物が質素なことに好感がもてた。

ここにも大河ドラマのキャンペーン

 静御前義経と離れ離れになったのち、出家して生誕地であるこの「網野町磯」で生涯を終えたとのこと。私にはまったく関心はないが、いかにも大河ドラマのキャンペーンとおぼしき幟が何本も立てられていた。 

静御前の生誕地・網野町

 静神社がある場所から、彼女が生まれ育ち、そして亡くなった集落である磯地区を撮影してみた。

義経静御前・泣き別れ岩(涙岩)

 写真中央の岩は、頼朝に追われている義経静御前が最後の別れを告げた場所とされており、「泣き別れ岩」または「涙岩」と命名されている。

五色浜の岩場

 磯地区を離れ、r665を西に進んだ。次の目的地は「五色浜」だった。県道は標高70mほどのところにあり、浜の駐車場は20mほどのところにある。かなり狭い道路を下っていくのだが、途中で自衛隊の車両と出会った。もちろん、こちらに優先権があるので、自衛隊の車両を路肩に退避させた。

 一帯にはチャート由来の色とりどりの玉石があることから五色浜と名付けられたそうだが、実際には、写真のような波食台の岩場が大半だった。

この浜でも自衛隊が訓練中

 岩場の上には広場や散策路が整備されており「五色浜園地」と名付けられている。広い駐車場があるが、一角には自衛隊の車両がとまっていて、ここでも経ヶ岬と連携した情報収集の訓練がおこなわれていた。

面白い形の岩が多い

 玉石探しはおこなわなかった。それ以上に、波食台に残る岩の形状が興味深かったためである。

最も興味深かった岩

 とりわけ、写真の岩がとても面白い形をしていたので、しばし、魅入ってしまった。成り立ちに興味があるものの私の知識ではまったく見当がつかなかった。

入り江も興味深い形

 写真の入り江とその周囲の岩場の姿にも感心してしまった。溶岩流とそれを削った波は傑出した造形家だ。

五色浜と通信していた自衛艦が帰港

 手前側の漁船ではなく、ずっと先に見える砂浜方面に進んでいく自衛艦も訓練に参加しているそうだ。双眼鏡でその行方を追っていた若い自衛隊員はとても気さくな人物で、どんな訓練をおこなっているかいろいろと教えてくれたのだ。お礼に、この近くには野生のサルが多いので、寝込みを襲われないようにと忠告してあげた。

久美浜小天橋にて

白い砂浜が続く丹後砂丘(小天橋から夕日ヶ浦海岸)

 夕日ヶ浦海岸近くでr665はR178と合流する。夕日ヶ浦は私が大好きな海なのだが、ここには翌日に宿泊する予定だったので立ち寄らず、国道を西に進んで「小天橋」に向かった。

 小天橋の名は「天橋立」に由来する。天橋立砂嘴を伸ばして宮津湾をほとんど塞いで内側(西側)に阿蘇海を造ったように、丹後砂丘は西に砂嘴を伸ばして久美浜湾を塞いだ。その姿が天橋立の小型版のようなので、湾を塞いだ部分の砂州を「小天橋」と呼ぶようになった。

 写真は小天橋から夕日ヶ浦(浜詰海岸)まで6キロ以上続く丹後砂丘の西半分を写したもので、一番手前側が小天橋海水浴場である。

波打ち際にもワカメがいっぱい

 私が山陰海岸にずっと憧れ何度も通い続けて来た理由のひとつは、20年ほど前に初めて見た、この砂浜の美しさにある。残念ながら、この日は向かい風がやや強いためにその透明度の高さを撮影することは叶わなかったし、繁茂するワカメの存在も少しだけ興趣を削いではいるものの、私の心の中では、あの時に触れた澄み切った海が展開されていた。

短時間で収穫されたワカメ

 私が小天橋に到着したときにはこのワカメの入ったカゴは並べられていなかったが、周辺を少し散策して戻ってきたときには、このように3ケースも並んでいた。

どれだけ採集するのだろうか

 写真から分かるように、若者はまだまだ収穫作業を続けていた。

久美浜湾の出入口

 小天橋の砂嘴よって塞がれた久美浜湾の出入り口は、写真から分かるように船が航行できるよう人工的に掘られたもののようだ。赤白の灯台の間が水路の出入口となる。

湾内につながる水路と背の高い歩道橋

 水路を南へ700mほど進むと久美浜湾に至る。比較的大きめの船も通れるようにと、青く塗られた歩道橋はかなり高めに設定してある。

湾の遥か奥に位置する係留場

 久美浜湾内はかなり広くそして複雑な形状をしているので、いろいろな場所が船の係留所として利用されている。写真の場所は湾のもっとも南奥に位置し、プレジャーボート専用の係留所に用いられている。

コウノトリと柱状節理

公園入口と研究施設

 海から離れ、R178を豊岡市街方向に進んだ。次の目的地である「コウノトリの郷公園」に立ち寄るためである。豊岡市街には何度か足を踏み入れたことはあるが、その場所に出向いたのは今回が初めてだ。

 写真は、駐車場からもっとも近い場所にある「教育・研究ゾーン」の入口で、正面に見える建物は県立大学の大学院施設だ。

コウノトリの郷公園の案内図

 郷公園は、「教育・研究ゾーン」のほか「飼育ゾーン」「観察ゾーン」「自然ゾーン」に分かれている。敷地はあまりにも広大なので、すべてを見て回るには一日かかりそう。私自身はとくにコウノトリには思い入れはなく、折角、この地に来たのだから一度ぐらいは足を踏み入れてみようという軽い気持ちで立ち寄った。それゆえ、のぞいたのは市立コウノトリ文化館と観察広場だけだった。

文化館内には模型がいっぱい

 文化館内にはコウノトリの模型があったので、それをしげしげと眺めるだけで、解説の部分はすべてパスした。

文化館内のはく製

 館内には模型だけでなくはく製もあった。想像していたよりも大型の鳥であることが分かった。それに鋭そうな眼付きには威圧感も抱いた。貴重な鳥なのだろうが、あまり”お近づき”になりたいとは思わなかった。

こちらは生きたコウノトリ

 観察広場には若いコウノトリが3羽いたので、動くコウノトリを間近に見ることができた。

森の巣から羽ばたく

 広場から観察ゾーンにある森を見上げると、数か所、営巣されている場所があった。若い個体なのか、巣から出たり入ったりを繰り返している姿を見つけたのでカメラを向けてみた。標準ズームしか持ち合わせがなかったが、なんとか飛翔する姿を捉えることができた。

里山の保存がコウノトリ繁殖の要

 敷地内には広大な「自然ゾーン」があり、その一部に「飼育ゾーン」がある。写真のような自然が良く残された場所であってこそ、コウノトリは生き残ることができるのだ。

玄武洞から玄武岩の名前が生まれる

 豊岡市には地質ファンにはお馴染みの「玄武洞」がある。私は「城崎温泉」方面を訪れた際には必ずこの場所に建ち寄るのだが、初期の頃の感動は薄れつつあり、今回が最後の訪問になると思った。

水平状態の柱状節理

 火成岩の柱状節理といえばこの玄武洞福井県の「東尋坊」が日本ではもっともよく知られている存在だろうか。だが実際には日本全国、いたるところで見ることできる。ただ、人々がその存在に関心を持つか否かだけであり、柱状節理の現存在は人がそれに意味を見出すかどうかにかかわっている。

 なお、玄武洞の名は、その形状が伝説上の動物である「玄武」に似ていることから、江戸時代後期の儒学者である柴野栗山が命名した。また、この岩石の和名はこの「玄武洞」の名から採られて「玄武岩」とつけられた。

城崎温泉に寄らずに日本海を西進

城崎名物、津居山ガニが水揚げされる漁港

 城崎温泉には次の日に立ち寄ることにして、私は円山川日本海方面に向かって下った。河口付近にはいくつかの漁港があり、この付近の地名(津居山湾)から「津居山漁港」と名付けられている。ここは松葉ガニの水揚げ港として知られており、この地で捕れたカニは「津居山がに」と呼ばれている。

御待岬から城崎マリンワールド近辺の海岸線を望む

 津居山漁港から西に向かった。県道11号線(r11、但馬漁火ライン)は香美町で国道178号線に出会うまで、山陰海岸沿いをうねうねと西へと続いている。先に挙げたr665とこのr11が私は大好きな道で、山陰海岸の魅力はこの2つの県道に多く詰まっていると勝手に思っている。

 津居山湾から西に1キロほど進んだところに「城崎マリンワールド」があった。水族館には興味があるので立ち寄るつもりでいたが、駐車場が大混雑していてすぐには入れそうになかったために通り過ぎることにした。

 写真は、マリンワールドを過ぎた先にある「御待岬」のヘアピンカーブ(見晴らしが良いので駐車スペースが確保されていた)から東方向を眺めたもの。海岸線の近くには波食台の名残りが数多く見えることから、一帯が隆起海岸であることが良く分かる。 

マリンワールド沖の島。竜宮城がある

 マリンワールドの沖合には「後ヶ島」が浮かんでいる。島には竜宮城が造られ、かつては遊覧船に乗って島に渡り、その姿を楽しむことができたらしいが、現在では廃墟になってしまっている。乙姫様が老いてしまったからだろうか。

 ただし、島には遊漁船で渡ることができるようで、現在では格好の磯釣り場になっている(そうだ)。もちろん獲物はタイやヒラメであるはずだ。

青井浜海岸

 御待岬から写真の青井浜海岸までは山間部を走る九十九折りの道が続いている。私がよく使う西伊豆の大瀬崎から戸田港に向かう道によく似ているが、ところどころで顔をのぞかせる海の色はやや黒みがかった伊豆の海の色とは異なり、相当に澄んだ明るい色をしている。また、海岸沿いには平べったい小さな岩が無数にちりばめられている点も違っている。

 写真から分かるとおり一帯は白い砂浜からできており、崖の下にもそうした白い浅瀬が続いているため、海を明るく輝かせているのだろう。

切浜海岸と集落

 青井浜のすぐ西隣には竹野海岸があってかなり広めの砂浜が展開されている。その横には猫崎半島が北に突き出している。この半島は西側の海岸線が魅力的なのだが、そこには翌日に寄ることにして、r11を西へと進んだ。

 写真の切浜海岸も美しい砂浜を有しているが、ここも次の日に立ち寄ることにしている。 

はさかり岩と呼ばれる奇岩

 写真は「はさかり岩」と呼ばれる奇岩で、切浜地区を代表する観光スポットである。この奇岩が見物できるようにr11の路肩には駐車スペースが整備されている。

 ”はさかり”とは但馬地方の方言で、「挟まる」を意味している。凝灰角礫岩の海食洞穴の浸食が進み、天井部分が崩落して両側の壁に挟まってできたと考えられている。偶然の産物なのだろうが、その造形はある種の物語を構成しているようだ。

◎余部橋梁と”空の駅”餘部(あまるべ)

40年近く前に列車転落事故を起こした余部鉄橋

 この日の宿泊地は香美町の香住地区。立ち寄る予定でいた何か所かの観光スポットを翌日回しにしたため、予定よりも3時間早く宿に着いてしまった。夕食は外でとることにしていたのでチェックインだけを済ませ、明日に出掛けることにしていた「余部橋梁」まで足を伸ばしてみることにした。この橋梁が、今回の山陰の旅の最西端となる。

コンクリート製になった余部橋梁

 旧余部橋梁は、1912年に完成した山陰本線の鉄橋である。この辺りの山陰本線はほとんど山の中を走るが、川(長谷川)が流れる部分だけ土地が平坦に開かれている。そのため鉄道は平らな陸上を通過することもできるが、そうなると東西に存在する山々に造るトンネルはどうしても長大になる。そこで設計者はトンネル部分を短くするため線路に傾斜を付けて標高を稼いだ。結果、橋梁は高い場所に設置することになった。

 11基の橋脚に支えられた鉄橋は、川からレールまでの高さが41.5mもあった。朱に塗られた橋脚はまことに見事な景観を構成したが、日本海から吹き付ける強い風に鉄橋はよく煽られ、ボルト、ナットなどの部品の落下などにより橋下の住民には迷惑な存在でもあった。

古い鉄橋も一部だけ保存されている

 1986年、機関車に牽引された回送中の客車7両が強風を受けて橋から落下した。回送列車であったために乗客はいなかったものの、車両の直撃を受けた橋直下にあった工場や民家は大きな被害を受け、死者6名、重傷者6名を出す大惨事となった。

 この事故を受けて橋は改良工事がおこなわれたが、その後、鉄橋からコンクリート橋に置き換えるため、2007年から工事がスタートし10年に完成した。これが現在の余部橋梁である。

新旧の橋梁が並ぶ

 橋梁の西側には餘部(あまるべ)駅があり、余部クリスタルタワーを使って(無料のエレベーター)上り下りができる。私のような徘徊者や見物者は自由に「空の駅」という愛称が付けられた餘部駅のホームに立ち入ることが可能なのだ。本当は列車に乗って隣の鎧(よろい)駅まで往復して橋梁上から日本海を眺めたかったのだが、列車の本数は日中の八高線並みの数しか運行されていないのでそんな時間的余裕はなかった。その体験は次回(その機会があれば)に持ち越すことにした。

専用のエレベーターで餘部(あまるべ)駅に上る

 コンクリート橋梁の隣には、旧鉄橋の線路と橋の一部が残されている。写真は、餘部駅の西側から東方向を望んだもの。

クリスタルタワーの隙間から残された線路をのぞく

 クリスタルタワーの隙間から、旧鉄橋部分の線路を見ることができる。

ホームから海岸線を望む

 ホームからは日本海を望むことができる。このとき、東側に小さな港があるのを発見した。

列車が橋梁を渡ってきた

 サラリーマン風の人がホームの東端に立ってカメラを構えていた。時刻表を確認すると、まもなく鳥取行きの普通列車が入線することが分かった。もっとも撮影に適した場所にはその人物がいたため、私は一歩退いた場所からカメラを構えた。

鳥取行きの普通列車

 その男性は愛知県の住人で、会社の出張で神戸に来ることになり、仕事を終えてから一日休暇を取り、余部橋梁まで写真を撮りに訪れたとのこと。その人物は己のもの好きなことを笑いながら語っていたが、私が東京の田舎からやってきたことを告げると、自分よりおかしな人物がいることを知り、いささか呆れたような表情を現わした。

かつての鉄骨も一部は残されている

 その人物にとって37年前の事故は少年期のことだったが、列車転落事故のことは今でも記憶に強く残っており、いつかはこの場所に訪れたいと思っていたそうだ。一方、私にはその前年の日航機墜落事故とともにこの事故についても鮮明な記憶があった。そんな話を彼と30分ほど語った。

保存された橋脚の土台

 エレベーターで地上に降り、彼と別れたのち、私は周囲を歩きまわった。ひとつ上の写真のように、橋脚の一部は現在でも残されており、また鉄骨が撤去された場所にも写真のような土台が残されていた。

餘部駅から見えた小さな漁港

 餘部駅のホーム上から見えた小さな漁港にも立ち寄ることにした。しかし、港に通じる狭い道路の上には数多くの落石が放置されており、崖は今にも崩れ落ちそうな様相を呈していた。道には「関係者以外立ち入り禁止」の看板もあったため、港まで行くことは断念した。

◎誰にでも分かる奇岩の名前~今子浦海岸

夕日を受けて赤く染まる今子浦の断崖

 宿に戻る途中、香住湾の東端にある今子浦海水浴場近くの岩場に立ち寄った。夕日が美しい名所として人気がのあるとの情報を得ていたからだ。波食台に立って落陽を待ち望んだのだが、夕日は断崖を少しだけ赤く染めただけで、霞の中に隠れてしまった。

今子浦の奇岩

 今子浦には奇岩があった。その名を聞かずとも、誰もが納得する姿をした「カエル岩」をしばし見物した後、浦を離れてこの日の宿に向かった。 

〔75〕若狭湾・山陰東部を旅する(3)舞鶴から間人(たいざ)温泉

京都丹後鉄道、由良川を渡る

舞鶴から天橋立まで

舞鶴でも人気の赤れんが倉庫

 この日はメニューが盛り沢山なので、早々と舞鶴を出発して大好きな由良川橋梁に向かうことにした。が、舞鶴で何も見学しないのも素っ気ない思いがしたので、「赤れんがパーク」に立ち寄ることにした。

 旧海軍軍需本部地区だったところに12棟の赤れんが倉庫が残っていて、その内の7棟を整備して「舞鶴赤れんがパーク」を発足させた。現在は5棟の内部が改装されてイベントホール、博物館、カフェなどに利用されている。

 天邪鬼な私は、整備された赤れんが倉庫には出掛けず、写真にある未整備の建物を見て回った。

端にある倉庫はゴミ捨て場状態

 写真のように、半ば廃棄場と化した倉庫もあり、こちらの方に歴史の重さを感じたのだった。

由良川の河口

 国道27号線を西に進み、西舞鶴地区からは国道175号線、由良川を渡った先にある八田交差点を右折し、今度は国道178号線を由良川左岸に沿って北上した。7キロほど北に進むと道は由良川の河口左岸側で左折するが、その直前に京都丹後鉄道の由良川橋梁がある。河口の手前に「照国稲荷神社」があり、その境内が有料駐車場になっているのでそこに駐車した。

 由良川橋梁を初めて目にしたのは今から20年ほど前だが、以来、この辺りを車で走る時は必ず止まって、しばし由良川左岸を散策するのである。写真は、由良川河口を左岸側から写したものだが、私のお目当ては、河口から僅か600mほど遡った地点にある橋梁である。当時は北近畿タンゴ鉄道の名称だったのでどうしても、今でもタンゴ鉄道と呼んでしまうが、現在は京都丹後鉄道に変わったので、タンゴ鉄道ではなく”丹鉄”と呼ばなくてはならないのだが……昔の癖はなかなか治らない。

こじんまりとした由良漁港

 左岸には小さな港があり、係留されているボート内の清掃がおこなわれていた。そのすぐ向こうに見えるのが丹鉄の由良川橋梁である。河口付近なので由良川の川幅は500mほどあるため、橋梁全体の長さは550mもある。

時刻表通りに列車がやってきた

 時刻表を確かめると、30分後に橋を通過する列車があることが分かった。丹後由良駅から丹後神崎駅に向かう列車なので、川の左岸から右岸に抜けていく。丹後由良駅は左岸から700mほどのところにあるので、列車の出発時間にはカメラを構えておく必要がある。

 出発時間直後から列車が近づいてくる気配が感じられた。まずは橋梁に入る前の列車を撮影することにした。それが上の写真なのだが、列車のペイントには少し(いやかなり)落胆した。 

イベント列車風のカラーリングが残念だった

 列車はいよいよ橋梁に進入した。”丹後の海”号であればもっとも良いし、せめて”青松”号か“赤松”号か“黒松”号であってほしかった。そんなことは時刻表を丹念に調べれば分かることなのだが。

今回は京都丹後鉄道に乗る予定

 列車のカラーリングはともあれ、やはり由良川橋梁を走る丹鉄には他の路線では味わうことができない魅力がある。なによりも非電化路線なので「すっきり感」があって良い。これが電化されてしまえば電柱やら架線やらで雰囲気は80%以上減じることになる。また、川から低い位置を走るのも良い。高さは僅か6mなので川の大増水が心配だが、河口付近ということもあって水敷が相当に広いのでそれは杞憂なのだろう。

 次回、この地区に訪れることがあれば、次はこの区間を乗車してみたいと考えている。今回は別の日に丹鉄に初乗車する予定だが、残念ながらこの区間ではない。

智恩院の楼門

 由良川河口を離れ、次の目的地である「天橋立」に向かった。有料駐車場に車をとめ、まずは写真の智恩院を訪ねた。というより、この寺の敷地内を通って下に挙げる「廻旋橋」を渡ると「天橋立」の砂州に至るからだ。

 写真の通り、この寺の楼門はかなり立派なものである。智恩院には文殊菩薩が本尊として祀られ、日本三大文殊のひとつに数えられるそうだ。「文殊の知恵」の言葉通り、ここには「学業成就」を祈願する人が多く訪れる。

うちは扇子のおみくじです

 写真の通り、ここのおみくじは扇子形をしている。末広がりなので誠に目出度いことであるが、願いが成就するかどうかは不明である。もちろん、おみくじにはまったく興味がない私は、ただその姿を撮影するだけである。

文殊の知恵の輪灯篭

 お寺の東側には小さな波止場があり、その中央に写真の「文殊の知恵の輪灯篭」が設置されていた。この知恵の輪を3回くぐると願いが叶うそうだが、残念ながら輪をくぐる行為は禁止されている。

天橋立とを結ぶ廻旋橋

 天橋立に行くためには写真の「廻旋橋」(小天橋)を渡る必要がある。このときは「文殊水道」(天橋立運河)を中型船が通過するため、橋は旋回していて水路が開放されているので、一時、人は渡ることができなかった。

船が通り過ぎると橋は橋の状態に戻る

 写真のように、船が通過すると橋は旋回して一本につながり、少しの間、待たされていた人々は天橋立に立ち入ることが可能になった。

天橋立の砂浜にも釣り人が

 写真のように天橋立砂州には投げ釣りをする釣り人がいた。観光客から注目を浴びる場所でわざわざ竿を出すことはないだろうと思うのだが……釣り人の心理は不可解である。

松林を北に進む修学旅行生

 日本三景のひとつである天橋立は全長が3.6キロ、幅は20~170m、松は5000本(8000本とも)以上が生育している。

 この日は修学旅行の中学生が大勢、訪れていた。彼・彼女らはこのまま歩いて天橋立を北に進み、その先にある「傘松公園」に向かうのだった。もちろん、このときはまだ彼・彼女らの行く先は不明だったが、下に挙げる「傘松公園」で、この一団に出会ったので、3.6キロ歩いてやってきたことがわかった。私の場合は、この場所から先には進まず、駐車場に戻って車で公園に向かった。 

 ちなみに、私が天橋立を訪れたのはこのときが5回目だったが、砂州を渡り切ったことは一度もない。中間点までが一度あったきりだ。

商店街からは「ビューランド」が見えるものの……

 廻旋橋を渡り、少しだけ商店街をのぞいてみた。商店街の南側の高台には「天橋立ビューランド」がある。ここからは天橋立が一望できるらしいのだが、一度も立ち寄ったことはない。

◎傘松公園

傘松公園へは府中駅から

 「股のぞき」の発祥の地として知られる「傘松公園」は、天橋立の北方に位置する成相山の中腹にある。麓から公園まではケーブルカーやリフトで安楽に行くことができる。

 写真は麓にある府中駅。駅周辺はかつて丹後国国府があったところなので府中の字名が付けられている。私はリフトには恐怖心を抱くのでケーブルカーを利用した。

私はケーブルカー、修学旅行生はリフト

 私がケーブルカーで公園に到達し、展望台から周囲を観察していたとき、件の修学旅行生の一団がリフトで公園に向かってきた。その集団が天橋立で出会った中学生たちと同一であることが分かった理由は、中学生の服装やら校章やらを記憶していたからではない。引率者の中に若く比較的美形の女性教員がいて、その人物がリフトに乗って登って来たからだ。写真の中の前から2番目の女性が、私の記憶にあった教員である。

公園から天橋立を望む

 傘松公園から望む天橋立は、龍が天に上っているように見えることから、「昇龍観」と呼ばれている。

公園名物の「股のぞき」

 天橋立の「股のぞき」は、この傘松公園から始まったとされている。股のぞきをすると単に景色が逆さになるだけでなく、通常よりも奥行が少なくなることで物がより近くに見えるという効果がある(らしい)。そのため、龍が天に上る姿も強調されるとのことだ。もっとも私は目が回りやすい性質があるため、自分で試みることはしなかった。

子どもたちは普通のポーズだけ

 写真の子供たちは「股のぞき」は試みず、近年、よく見掛けるポーズをとるだけだった。その姿を見守る父親の方は、やや残念そうだったが。

沖の小島にも神宿

 沖に見える冠島(かんむりじま)と沓島(くつじま)は宮津市にある丹後国一宮の籠(この)神社の奥宮とされ神域である。このため、写真のように傘松公園内に遥拝所が設置されている。

 なお、この島はオオミズナギドリの繁殖地として国の天然記念物に指定されている。

傘松公園の上方にある成相寺の本堂

 傘松公園のある成相山には成相寺(なりあいじ)がある。真応上人または聖徳太子が開基とされ、704年に文武天皇勅願寺になった。ここは傘松公園のずっと上にあるため、天橋立を含めた眺望はさらに良い。公園からは徒歩30分ほどだが、登山バスがでているので私はこれを利用した。

 本堂はさらに山の上にあったのだが、山崩れで崩壊したために現在の地に再建された。1774年のことである。

成相寺五重塔

 写真の五重塔鎌倉時代に建てられたものを復元した。かなり新しめなので、やや遠くから望むほうが趣きを感じる。

一願一言の地蔵さん

 写真のお地蔵さんは、唯一願を一言でお願いすればどんなことでも願いを叶えてくれるそうだ。「安楽ポックリ」の往生さえ叶えてくれるらしい。

山頂でかわらけ投げに初挑戦

 境内には弁天山展望台がある。「股のぞき」はこの地が発祥とのこと。ここにも「かわらけ投げ」があった。200円を料金箱に入れ、生涯初のかわらけ投げに挑戦した。一願一言地蔵には、自分の投げたかわらけが空中を飛翔する様をきちんとカメラに収めるという願いをした。が、3枚とも、はっきりと写すことはできなかった。お地蔵さんにも不可能なことはあるようだ。いや願いの言葉がやや長すぎたことに問題があったのかも。

府中駅の近くを散策

 傘松公園から戻り、府中駅周辺を少しだけ散歩して「府中」の文字を探した。

ここにも府中の名が

 当たり前だが、あちこちに「府中」の名があった。

ここは府中小学校

 府中小学校があった。私の出身校は府中市立第一小学校である。

◎伊根の舟屋群を訪ねる

道の駅から伊根の舟屋群(南側)を眺める

 ”日本で一番海に近い暮らし”がキャッチフレーズの伊根町の舟屋群には、若狭・山陰地方を訪れた際にはほとんど立ち寄っている。波静かな伊根湾に面した舟屋は230軒ほどある。かつては訪れる人も少なく海と共に暮らす人々の姿に接するのが楽しみだったが、近年はすっかり観光地化してしまった。

 私自身、高台に造られた「道の駅」から舟屋群を展望している。便利なようでいて相当に寂しい思いも抱いた。

こちらがよく知られる北側の風景

 写真は、道の駅から見た湾の北側の風景で、この辺りに最も多く舟屋が立ち並んでいる。かつてはこの辺りまで車で入り込んで、適当な場所に駐車して周辺を徘徊したものだった。

今回は南側の舟屋群を訪ねた

 が、今回はそちらには立ち寄らず、少し前の写真に写っていた有料駐車場に車をとめて湾の南側にある舟屋群を見て回った。

舟屋の道側

 舟屋の一階は船置き場で二階に漁具や網置き場になっている。

舟屋の向かい側

 住民は道路を挟んだ山側に住宅を建てそこで日常の暮らしを営んでいた。一方、引退した漁師は、舟屋の二階を改造して余生を過ごした。

 観光地化した現在では、舟屋の一部を改造してカフェを営んだり、全面改装し「舟屋で暮らす」をテーマにした旅館に変貌したものの見掛けた。漁で生計を立てるのは難しいだろうし、一方で、観光の波に乗って古い舟屋をアセットにするのは当然の成り行きだろう。

 ただ、こうした舟屋群の姿に触れてしまった私は、「もはやここを訪れることはないだろう」という確信を抱いた。

舟屋の隙間をのぞく

 舟屋と舟屋の間をのぞいた。向かいに見えるのは改築された観光客受け入れ施設である。

入り江奥の舟屋

 湾の一番奥にある舟屋群を眺めた。つぶさに観察すると、古さと新しさとが同居しているのがよく分かった。

傷付いたウミネコ

 駐車場内に車をとめ、護岸から竿を出している人がいた。釣果を訪ねると「小さなガシラ(カサゴのこと)が一匹だけ」との返事があった。

 釣り人のすぐ近くには主翼が傷付いたウミネコが一羽いた。左翼が大きく損傷しているため十分には飛翔できず、そのため、独りぼっちで堤防に佇んでいた。

 右翼が損傷しているのであればとくに気にならないが、左翼とあらば助けないわけにはいかない。とはいえ、私に出来ることはエサを与えることぐらいだ。だがそのときは水以外に持ち合わせはなかった。

釣り人からカサゴを貰ったのだが

 そこで、ウミネコに近づき、「それじゃぁ、エサを取るのも大変だろうな」とか「お腹が空いているだろうなぁ」など、釣り人にも聞こえるような大きさの声で鳥に話しかけた。

 私の思いが通じたのか、その釣り人はクーラーから唯一の獲物であるカサゴを取り出して、ウミネコの方へ放り投げた。最初はキョトンとした感じだったが、それが美味そうな魚だと分かると、懸命にくわえようとした。しかし、左翼が傷付いているためかバランスが悪そうに獲物と格闘していたため、結局、そのカサゴウミネコの腹に収まる前にトンビにさらわれてしまった。いろいろな面で、左翼は凋落気味である。

経ヶ岬から間人(たいざ)温泉まで

経ヶ岬灯台

 哀れなウミネコと気の毒な釣り人とを見続けるのは耐えがたくなった私は、車に戻り、伊根の舟屋群に別れを告げた。

 若狭湾西岸の走る国道178号線(R178)を北上し、丹後半島の最北端にある経ヶ岬(標高201m)に向かった。この岬の東側が若狭湾で、岬から西に進むと狭義の山陰海岸になる。

 駐車場から岬の灯台までは結構な距離と高低差があるため、灯台までは行かず、広場からその天辺を眺めるだけにした。 

 

ただいま情報収集の訓練中

 経ヶ岬の広場では自衛隊による情報収集訓練が行われていた。話によれば、3日間、ここでテント生活をおこない、海上を航行する自衛艦とのやり取りを行うそうだ。ここでも敦賀原発と同じく「機器の撮影はご遠慮下さい」との表示がしてあった。そのため、私は少し離れた位置からカモフラージュされた車両を撮影した。

断崖絶壁下の柱状節理

 広場から海面までは約100mの高さがある。柵ギリギリまではとても近づけないので、少し離れた位置から、断崖下の岩礁群を撮影した。

袖志海岸で岩ノリ乾燥中

 経ヶ岬広場を離れ、R178に戻って西進した。最初に出会ったのが写真の袖志海岸。ここから西の海岸が私が個人的には日本でもっとも美しいと思っている海岸線だ。10年ほど前まではほぼ毎年のように、この海岸線に触れるだけのためにはるばる東京の田舎から遠征してきたのである。

 道路沿いには岩ノリが干してあった。その先に見えるのが経ヶ岬である。

袖志海岸の奇岩

 山陰海岸には、写真のような奇岩が無数に屹立している。こうした変化に富んだ岩場と澄み切った海がこの地の最大の魅力だ。もっとも冬場は猛烈な北西風が海岸線を襲い続けるので、恐ろしくて私にはとても近づくことはできないが。

一帯のランドマークとなる犬ヶ岬

 経ヶ岬から直線距離にして西に8キロほどところに写真の犬ヶ岬(標高251m)がある。ほぼ真北に突き出ているので、この岬はこの地一帯のランドマークになる。この岬には遊歩道があるのだが、崩落の危険性が非常に高いそうなので近づいたことさえない。先端部は磯釣りには好適と思える形状をしているが竿を出す気には100%なれない。

竹野海岸近くの「屏風岩」

 写真は、竹野(たかの)海岸の名所である「屏風岩」。成り立ちは、第74回で「葉積岩」を取り上げたときに説明したものとまったく同様であろう。

犬ヶ岬を眺望する

 写真は、犬ヶ岬を西側から眺めたもの。この角度からだと、先端部が磯釣りに最適であることが良く分かる。

竹野漁港

 この日の宿泊地である間人(たいざ)地区までは思いのほか早く着きそうだったため、近くにある竹野(たかの)漁港に立ち寄ってみた。漁師が一人だけいて何やら作業をしていたが、山陰海岸の漁港としては極めて例外的に釣り人の姿がなかった。

 赤灯台の向こうに見えるのが犬ヶ岬。この角度からだと、先端部に離れの岩礁があるのが見て取れる。

漁港西隣の柱状節理群

 漁港の西隣には安山岩の柱状節理群があり、見応えは十分だった。竹野漁港にはとくに用事はなく時間つぶしのために寄っただけだったが、こうした素晴らしい景観に偶然出会えたのは僥倖というほかはない。 

竹野川河口にある立岩

 巨大な安山岩の柱状節理は間人(たいざ)地区の後ヶ浜で見ることができる。立岩の高さは20mあり、山陰海岸を代表する一枚岩である。夕日を見るならこの辺りだろうと見当をつけたのだが、後述するように機を逸してしまった。

立岩にあった祠

 立岩には上ることができる。途中に、写真にある小さな祠があった。ただし、これは自然できたものを利用したものではなくレンガを積んだ人工的なものである。それが少し残念だ。

こんな場所にも釣り人はやってくる

 立岩の周辺を歩いていたとき、写真な中にあるルアーマンを見つけた。西日本の釣り人は、こんな観光地にも魚を求めてやってくるのだ。釣れている様子はなかったが。

間人が「たいざ」と読まれるようになる由来の母子像

 間人(はしうど)皇后とその子・聖徳太子が曽我氏と物部氏との抗争を避けてこの地に身を隠していた。その後、親子はこの地を去ることになり、世話になったこの地に「間人(はしうど)」の名を与えた。が、住民たちはどうしても「はしうど」とは呼べず、その代わりにこの地から「退座」されたことに因んで「間人(たいざ)」と読むようになったとのこと。この話を知らなければ、どう考えても「間人」を「たいざ」と読むことはできない。難読地名のナンバーワンとされる。

 京都の「太秦」だって、そもそも「大和」だって「飛鳥」だって「斑鳩」だって由来を知らなければ「うずまさ」や「やまと」や「あすか」や「いかるが」とは読めまい。ただ、この4つは全国区なので、本来は難読地名なのだが、実際には読めない人はほとんどいない。

間人(たいざ)漁港

 この日は間人温泉の著名な旅館に泊まった。夕食はカニのフルコースだった。カニは食べづらいため、仲居さんが付きっ切りで面倒を見てくれた。当初は午後6時が夕食のスタートなので、食事は30分ほどで切り上げ、急いで立岩まで車で移動して日本海に沈む夕日を撮影する心づもりだった。

 しかし、仲居さんとすっかり話し込んでしまったため、食事が終わったのは午後7時半過ぎで、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。この日の日没は午後7時だった。

 この日の最後の写真は山陰海岸の落陽と決めていたが、その撮影機会を逸してしまったため、ここには食事前に漁港を散策したときのカットを掲載した。

 長話は私の悪い癖のひとつだ。

〔74〕若狭湾・山陰東部を旅する(2)敦賀半島から舞鶴港

何とか落陽に出会えた~舞鶴港にて

敦賀半島をめぐる

敦賀半島東部の港にて

 この日は敦賀半島巡りから始めて若狭湾沿いを西に進み、舞鶴港まで到達する予定。宿を9時に出発し、気比の松原の西側を通って敦賀半島東海岸を北上した。右手には敦賀港や敦賀新港がよく見える。

 海岸線には小さな入り江があり、その大半には漁村があって港を守るための防波堤が整備されている。堤防という堤防には立入禁止の措置がない限り釣り人がいるのは西日本特有の風景だ。

 沖には近海汽船の貨物船が停泊しているが、これは昨日、敦賀本港で目にしたものかも知れないと思った。

波静かな堤防にはほぼ確実に釣り人がいる

 この時期、若狭湾内はとても波静かだ。そのため、写真のような高さのない堤防の上でも釣りを楽しむことができる。日本海側は干満差が小さいことも、こうした低い堤防でも釣りが許されている理由なのだろう。これが太平洋側や瀬戸内海の堤防だったら、まず認められることはない。

敦賀港から新潟港に向かうフェリー

 新日本海フェリーはまなす」が次の目的地を求めて北に向かっていた。昨日、敦賀新港ターミナルでは船と出会えなかったが、今朝は目にすることができた。船に向かって、”おはよう”そしてすぐに”さようなら”と言った。井上陽水のごとくに。

この辺りの浜辺で芭蕉は句を詠んだ

 芭蕉気比神宮近くで句を詠んだ翌日(陰暦8月16日)、小舟で色の浜(現在の敦賀市色浜)に向かった。

 汐染むる ますほの小貝 ひろふとて 色の浜とは いふにやあるらむ

 これは西行の『山家集』にある歌だ。芭蕉西行の歌枕を求めて旅をするので、「ますほの小貝」に接するために、半島東岸にある「色の浜」に向かったのだった。

 寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋

 浪の間や 小貝にまじる 萩の塵

 芭蕉は色浜でこの二句を呼んだのち、次の目的地である美濃国に向かった。芸術の心をまったく有していない私は、ただ数枚の写真を撮っただけで浜を後にして敦賀原発に向かった。

写真撮影厳禁の敦賀原発

 いつもなら(といっても敦賀原発前まで来るのは今回が4度目だが)、原発の前でUターンをして今度は半島の西側に出るのだが、この日は原発前に来たという証を立てるために正門前を撮影することにした。正門を通り過ぎて20mほど進んだところに路駐して、カメラをぶらさげてトボトボと正門に向かった。

 上の写真にも写っているが、フェンスには「発電所関連施設等の撮影はご遠慮ください」という看板が何枚も掲げられていた。関連施設を撮影するために正門方向に移動して構内を撮影しようとしたら、守衛が2人あわてて近寄ってきて撮影の停止を命じた。おまけに課長補佐も現れ、3人で私の行動を阻止しようとしていた。

 若い自分なら彼らに「撮影禁止の理由を合理的に説明せよ」と詰め寄るのだが、老いさらばえた現在ではその気力はないので、正門の看板だけを撮らせてもらうことで妥協した。課長補佐としてもそれを止める理由は見当たらなかったようで、看板の撮影だけならOKということになった。

 したがって、上の写真には原発関連施設は写っていないはずだ。ただ、シャッターを押すときにレンズが少しだけ上に向いてしまったので、看板以外のものも写ってしまっていたが、これには他意はない。いや、他意しかない。

 ちなみに、敦賀原発は1号機は廃止措置で稼働してないし、2号機は2011年5月より放射能漏れ等の不手際のために現在に至るまで稼働していない。

半島先端部にある立石漁港

 敦賀半島の先端にある「立石岬灯台」は、日本人のみで建設された初の西洋式灯台ということで興味を抱いていた。そこで、敦賀原発の前を過ぎて立石漁港に向かってみたのだ。灯台に出掛ける前、少しだけ集落内を散策した。

立石漁港にあったカフェ

 小さな集落内には、写真のカフェ「マリーン」があった。残念ながら休業中だった。開いていれば、朝早くの仕事を終えた漁師が集まっている姿に触れることができたのにと、非常に残念に思った。漁師は大抵、雄弁なのだが、カウンターの隅には無口な人が座り、それは高倉健でなければならない。カウンター内に居るママは話好きのオッサン漁師の話を聞きながら時折、高倉健の様子を伺う。このママは倍賞千恵子でなければならない。

 そんな場面に接することができなかった。一生の不覚である。

立石岬灯台に行く予定だったのだけれど

 いよいよ灯台に向かうことにしたのだが、坂を上がる階段脇に写真のような「お触書」が出ていた。私はまだ旅を始めたばかりであり、ここで熊に食われる訳にはいかなので、不本意ながら灯台行きは断念した。

漁師たちの安全を見守る

 港の入口の高台には、写真の祠と石灯籠があった。漁師たちの安全を見守るという点では灯台と似てなくもないので、この祠を目にすることで、灯台見物の代わりとした、熊の餌食にならないためにも。

美浜原発は丸見え

 半島を横断する道路を使って、東海岸から西海岸に移動した。目の前に広がっているのは敦賀半島を代表する海水浴場である「水晶浜」だが、私はまず「美浜原発」の姿を写真に収めるために西岸の道路を少しだけ北に進んだ。ずっと先には白木集落がある。その名から分かるとおり、かつて新羅から渡来してきた人々が住んた場所なのだが、時間の都合上、その地までは出掛けなかった。

 ここには何度か訪れているので、美浜原発に関しては道路際からその姿を撮影することができることは知っていた。ここには3基の原子炉があるが、1,2号機は廃炉準備中で、3号機のみが40年越えの古い原子炉なのだが運転中である。

鳴き砂でも知られる水晶浜

 「日本の水泳場88選」に選ばれている水晶浜は、その名から連想できるように石英分が多く含まれているため「鳴き砂」を体験できる場所がある。しかし、砂浜でのバーベキューなどで砂の汚染が広がっているため、それを体験できる場所は限られている。なお、お隣にはダイヤ浜もある。この地には宝石がちりばめられているのだ。

大きな奇岩に神宿

 水晶浜の北側には写真のような岩場があり、とりわけ大きな岩は神格化されている。

大岩の上には祠もあった

 岩場の一部は石積護岸化され、その上部には祠がある。崩れやすい岩だが上ることは可能だ。

半島先端部は奇岩だらけ

 神の宿る岩の隣には写真のような奇岩が並んでいる。

半島の付け根の砂浜は黒い砂礫

 写真は、敦賀半島の付け根部分にあった砂礫浜。この辺りは先端部と岩質が異なるため、水晶浜とは異なり浜の石は黒っぽい。

三方五湖レインボーライン

山頂展望台へ向かう

 20年以上も前、初めて「三方五湖」を訪ねた時は、その変化に富んだ海岸線に驚嘆した覚えがある。しかし、山陰海岸などに何度も出掛けるうちに初期の感動は薄れ、いつしかここに立ち寄ることはなくなってしまった。

 写真の場所は「三方五湖レインボーライン」の最高地点で、そこからの眺めも十分に満足できるのだが、今回はおそらく最後の訪問となるので、ケーブルカーに乗って梅丈岳山頂(標高400m)まで上がってみた。

頂上からの眺め

 有料道路は1060円、山頂公園は1000円(ケーブルカー代を含む)と結構いい値段だ。梅丈岳山頂からは360度望むことができるのだが、私は後に触れる日向湖(ひるがこ)の見える方角が一番の好みなので、北東方向の眺めを掲載した。空気が澄んでいれば眺望はずっと良いのだけれど。

ここにもやっぱり

 こうした類のものが各地で増殖中だが、その端緒は能登半島の恋路海岸だったと記憶している。ここでは恥ずかしい想い出があるのでその内容については触れないでおく。

 そのうち、西伊豆に恋人岬が出来てグアムのそれと提携関係を結んだことから知名度が上がり、今でも訪れる人やカップルが多い。以来、各地に同種のものが発生し、気比神宮では「恋みくじ」、そしてここでは「恋人の聖地」が誕生している。まぁ、勝手にやって下さい。

レインボーラインから日向湖を眺める

 五湖を代表するのが写真の日向湖(ひるがこ、水深39m)で、断層湖と考えられている。古い資料では淡水湖とされているが、現在は水道が掘られ海とつながっているため塩水湖になっている。

日向湖のほとりにて

 レインボーラインを下りて、日向湖を周遊する道路を走ってみた。

海釣り筏は釣り人だらけ

 日向湖では海上釣り堀が整備されており、写真のように、平日だというのに大勢の釣り客が筏に乗っていた。5時間半釣り放題で、上級コースは11000円、マニアコースは6000円。上級コースにはマダイ、ワラサ、カンパチ、シマアジ、イシダイなどの高級魚が放流されている。釣った魚は全部持ち帰れるので釣果次第では割安になるかも。

日向湖畔の集落

 水道で海につながっているだけなので、沖合からの波の影響を全く受けないために日向湖は極めて波静か。そのためこの湖は海の漁師たちの格好の基地となっている。護岸には沿岸だけでなく沖合漁業船もかなりの数が係留されていた。

◎常神半島から小浜までの間に

世久見漁港と烏辺(うべ)島

 三方五湖は常神半島の付け根に位置する。ずっと以前、NHK特集で常神半島を秘境として扱う番組をやっていた。海は美しく周囲は自然だらけの半島と紹介されていたので、一度だけ、半島の先端付近にまで出掛けたことがあった。確かに感動的ではあったが、その後、若狭湾山陰海岸にある岩場へ釣りに出掛けるようになってからは、常神半島だけが特別な存在ではないことが判明した。

 今回は若狭・山陰の海を訪ねるのがメインとなる旅なので、あえて常神半島の先端には出掛けず、その代わりにずっと以前によく走った道路を使って次の目的地である小浜市街へと向かった。

 とはいえ、これが国道(162号線)なのと首を傾げてしまうほど狭くつづら折りの道はすっかり国道らしくなってしまったので、かつての風情はなくなってしまった。が、その方が安全度は高いし時間は大いに短縮できるので、ありがたいことではあるが。

 写真は常神半島の付け根に位置する世久見漁港の堤防。人工的な堤防とむき出しの自然が残る烏辺(うべ)島とのコントラストが素敵なので、いつもここで車を停めて写真撮影をおこなっていた。

田烏漁港と釣姫漁港

 食見(しきみ)トンネルを抜けると小浜市域に入る。といっても、小浜市街までは直線距離でもまだ10キロ以上ある。前方には矢代湾が広がる。旧道であれば海岸線近くを走るのだが、新道では山裾をトンネルを使って進むので、湾内にいくつかある漁港に立ち寄るのはやや面倒になる。

 わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

 この歌は『百人一首』にもある二条院讃岐の作品だが、写真にある田烏(他ガラス)の浜から詠んだものとされている。

 すぐ隣には釣姫漁港がある。残念ながら釣姫は「つりひめ」ではなく「つるべ」と読む。「つりひめ」ならば是非とも立ち寄らなければならないが、「つるべ」であれば妖怪を想像してしまう。

海岸沿いにあった棚田

 国道を少し進むと、「田烏の棚田」が見えてきた。規模はさほど大きくはないが、断崖のすぐ上にある姿が美しい。

 懐かしの矢代漁港

 奈胡崎トンネル、矢代第一トンネルを過ぎると右手に矢代漁港が見えてくる。この漁港には何度も訪れたことがあるので、旧道を使って海岸まで下りてみた。

 滋賀県に住んでいたTさんの案内で、矢代漁港から何度も湾沖にある磯場に渡りメジナクロダイ釣りの取材をおこなった。Tさんは磯釣りの全国大会で優勝を遂げたことのある名手だが、少しも奢るところのない紳士であった。彼には若狭湾の各所や三重県の尾鷲の磯、さらには高知県の磯まで案内してもらった。西日本の釣り名人と多く知り合えたが、その大半は彼の紹介だった。近江八幡市にある自宅にも何度も泊めていただき、近江の魅力を発見することにも役立たせてもらった。

 私が若狭湾山陰海岸に出掛ける切っ掛けを作ってもらった彼は、3年前、病のために逝去した。そのTさんの笑顔を思い起こすために、私は矢代漁港に立ち寄ったのだ。 

阿納尻湾に浮かぶ釣り筏だが

 写真の阿納尻は小浜湾の北東端に位置する。三方が陸で囲まれているために波静かで、それもあってクロダイの筏釣りが盛んだった。10数年前、一度だけだがここで筏釣りの取材をおこなったことがある。湾内なので波静かなはずだが、当時は筏釣りが盛んでしきりに筏渡しのためのボートが行き来しており、そのボートが立てる波が筏を大いに揺らすため、私はすっかに筏酔いしてしまった。

 久しぶりにこの湾に立ち寄ったが、そのときにお世話になった渡船業者は廃業していた。それもあって、沖に浮かぶ筏も朽ちてしまっていた。

小浜市にて

箸文化は朝鮮半島から日本に伝来

 阿納尻湾から小浜市街に向かう途中に、写真の「箸のふるさと若狭」館があったので少しだけ立ち寄ってみた。私は未だに箸をきちんと使えないので皆に笑われるため、箸にはあまり近寄りたくはない。が、若狭塗箸は小浜市の特産品で、日本の塗箸の8割のシェアを誇り、2008年にはオバマ米大統領小浜市の塗箸を進呈するなどこの地には欠かせないものなので触れないわけにはいかなかった。

若狭塗箸の名はあちこちで見かけた

 箸そのものは朝鮮半島から伝来し、平城宮跡では今日の割り箸の様なものが多数発見されているので、奈良時代には広まっていたと考えられている。

 若狭塗箸自体は400年ほど前、小浜藩支那漆器をヒントに意匠化したのが始まりとされている。上述のように、これは小浜市を代表する特産品なので、小浜市街ではあちこちで見掛けることになった。

小浜漁港の一角にあったフィッシャーマンズ・ワーフ

 ずいぶん前のことだが、小浜漁港に「フィッシャーマンズ・ワーフ」が出来たと聞いたので、私は釣り人たちの埠頭=海釣り施設と勘違いして出掛けたことがあった。実際には、写真から分かるとおり、お土産品やレストラン、観光案内所、遊覧船発着所などがある施設だった。

小浜といえばサバ

 小浜は「鯖街道」の起点で、サバを中心とする魚介類が京都まで運ばれた。その歴史は1200~1300年前に始まると考えられているので、鯖と一緒に箸の文化も運ばれたのかもしれない。

古い町並みをしっかり保存

 北陸の小京都とも呼ばれる小浜市は、写真のように古い町並みをしっかり保存しており、国の重要的建築保存地区にも指定されている。とくに、写真の場所は電柱の地中化が進められているので、すっきりとした美しい町並みに触れることができた。もちろん、保存地区以外にも古い家々は多く残っている。

小浜海岸の人魚たち

 海岸通りには、写真の「マーメードテラス」があり、ここから西にある「小浜公園」までは砂浜(人魚の浜)と遊歩道が整備されている。

小浜海岸の白砂を守るツルカメ

 小浜公園には写真の鶴のような亀のようなオブジェがあり、私はとても興味を惹かれてしまった。この像をいろいろな角度からバカ面をして眺めていたため、町並み保存地区の散策時間を短縮せざるを得なくなってしまった。

 この鶴亀がある一帯はマーメードテラスと対になって「翼のテラス」と呼ばれており、大空を目指す白鳥のオブジェらしいのだが、私にはその下半身はウミガメのようにしか思えなかった。

大島半島大飯原発は守りが厳重

深い入り江に造られた漁港

 小浜市を離れ舞鶴に向けて国道27号線(R27)を西進した。右手には、おおい町に属する大島半島が見える。小浜湾を西側から覆いかぶさるように北東方向に伸びている。元々は島だったものが、西側の若狭和田辺りの砂州が伸びて陸続きとなった陸繋半島である。

 東側には「青戸の大橋」が架かっており、半島の先端部に行くにはこの橋を渡るほうが早い。先端部近くには「大飯原発」があり、その姿を見学するために橋を渡って北上した。

 原発は山を越えた先にあり、その入り口に至るにはトンネルを通過しなければならないのだが、なんとトンネルの入口には厳重なフェンスが設置され、関係者以外はトンネルに入れないようになっていた。

 路肩に車を停めてその厳重な警備の様子を撮影しようとしたが、車を停車するやいなや警備員が数人こちらに向かってきた。敦賀原発のときは正門付近だけは撮影できたが、こちらは厳戒態勢のトンネル入口だけ。それだけを撮影するためにひと悶着するのは面倒なので、諦めて東海岸方向に進むことにした。心も体もすっかり老いてしまったことを実感した。

 東側、つまり小浜湾側には小さな入り江がたくさんあって、写真のような波静かな漁港が並んでいる。 

釣り禁止の漁港だけれど

 漁港の一部は釣り禁止になっているのだけれど、写真の左手にあるように、さすがに西日本だけにしっかり釣り人はいた。

半島先端部にある有料の釣り施設

 堤防群は釣り禁止の場所が多いのだが、その代わりに、先端部には「場違い」と思えるほど立派な有料釣り施設があった。「あかぐり海釣り公園」という名称で、手前の駐車場は有料だし、釣り公園には釣り人がほとんどいないようだったので、駐車場の手前から施設を撮影した。

せめて送電線だけでも

 青戸の大橋近くには「道の駅・うみんぴあ大飯」があり、3キロほど西に進んだところには「道の駅・シーサイド高浜」がある。R27号沿いには立派な町役場の建物があり、おおい町高浜町にはそれぞれ設備が整ったグラウンドや体育館がある。思えば、大島半島にあった漁港も綺麗に整備され、高級ホテルを思わせるような町の交流センターもあった。それらの大半は原発誘致に際しての落し金の成せる業なのだろう。

 私は休憩のために「道の駅・シーサイド高浜」に立ち寄った。写真は、その場所から大島半島を望み、原発からの送電線を撮影したもの。ちなみに、大飯原発は4機基あり、1,2号機は廃炉が決定、3号機は稼働中、4号機は定期点検中(3月より)である。

舞鶴に何とか到着

舞鶴に向かうときに必ず見える青葉山

 R27を高浜町から舞鶴市方向に進むとき、ほぼ正面に見え続けるのが写真の青葉山(標高693m)だ。東方向から見ると山容は三角形に見えるため、この山の姿に触れると「もうすぐ舞鶴なのだ」という感慨が沸く。

若狭和田ビーチと青葉山と恐竜と

 このときは、写真の若狭和田ビーチに寄り道をした。先に触れたように、この砂浜が沖に伸びて大島に繋がったため、大島は大島半島と呼ばれるようになったのだ。

 ここでも恐竜君が愛嬌を振りまいている。高浜町はまだ福井県なの。彼?の後ろには青葉山が見える。

和田漁港から葉積島を望む

 和田ビーチや和田漁港からは一直線に並んだ「葉積島」が見える。若狭・山陰の海ではよく見られる島(岩礁)の並びで、貫入した溶岩が差別浸食作用を受けて島(岩礁)が並んでいるように見えるのだ。この姿でもっとも有名なのは、本ブログでも紹介したことのある和歌山県串本の「橋杭岩」である。

閉館時間を過ぎてしまった引揚記念館

 舞鶴に出掛けたときは大抵、写真の「引揚記念館」に立ち寄る。もっとも、館内に入ったことは一度しかなく、広い駐車場や公園から周囲の景色を眺めることが主目的なのだが。

 私より上の年代では大陸からの「引揚者」の関係者が結構いたと記憶している。二葉百合子版の『岸壁の母』は1972(昭和47)年の発売なので、戦後まもなくという訳ではない。もっとも、オリジナルの菊池章子版は1949年の発売だ。

記念館の広場からクレインブリッジを望む

 私が記念館に到着したのは午後5時半。記念館は5時に閉館するので入場することはできなかった。そこで、記念館内の代わりに、広場から望む「クレインブリッジ」の姿を掲載した。

 これは私の完全なる勘違いだったのだが、「クレイン」を「クレーン」のことだとずっと思っていた。が、実際には、「クレイン」は鶴のことで橋の主塔が舞い降りた鶴の形をしていることから「クレインブリッジ」と名付けられたのだ。

 そういえば、この地は「舞鶴」なのである。

舞鶴港からクレインブリッジを望む

 引揚館から舞鶴港に移動した。ここにはいつも釣り人がいる。彼らの向かいに「クレインブリッジ」が見える。この風景に触れたとき、私はいつも「はるばる舞鶴にやってきた」ということを実感する。

 舞鶴港で釣りをしたことはないが、舞鶴に宿泊して翌朝に近江八幡からやってきたTさんと合流し、彼の案内で舞鶴半島の先端の磯で釣りをすることが何度もあった。私は大抵、明るいうちに舞鶴に到着しているので、今回と同じように舞鶴港界隈を徘徊するのであった。

舞鶴発小樽行きフェリー

 舞鶴港には自衛隊の車両がたくさん置いてあり、それらは自由に眺めることができる。舞鶴港日本海側を代表する軍港だったし、現在でも自衛隊の基地や訓練施設がたくさんある。神奈川県の横須賀市のごとくに。

 その自衛隊の車両のむこうに「任日本海フェリー」が停泊していた。このフェリーは舞鶴・小樽間の直行便とのことだった。

あかしあ”は23時50分、小樽に向かって出航した

 折角なので、船に限りなく近づいてみた。「あかしあ」は全長が224.82m、16810トンの大型船である。「あかしあ」の名は、札幌市の街路樹としても有名な「ニセアカシア」に由来するようだ。

 なお兄弟船に「はまなす」があり、こちらは敦賀・苫小牧航路に用いられている。

◎誠にリーズナブルなホテルです~ベルマーレ

格安なデラックスツイン~1泊朝食付で12650円。

 釣りのときは近くにある格安なビジネスホテルを利用していたのだが、今回は奮発して、舞鶴市唯一のシティホテルを利用した。予約したのはスタンダードツインだったが、ホテル側の御厚意でデラックスツインにグレードアップ(料金はそのまま)してもらった。

展望風呂付

 デラックスツインツインルームは海側に面しており、写真のように展望風呂(ジェットバス付)があった。もっとも、右手に見えるのは海上自衛隊の教育施設で、左手に停泊中の「あかしあ」号が見えた。

 風呂から「あかしあ」号を見送る予定だったが、出航時間が遅いこともあり、私はすっかり寝付いてしまった。

〔73〕若狭湾・山陰東部を旅する(1)敦賀編

気比の松原にて

 当初は、約2週間をかけて四国か東北の旅を計画していたのだが、どうしても外すことができない私用が入ったため、最長でも9日間しか取れなくなった。そのため、より近場を目的地にせざるを得なくなり、それならば日本一美しい海を有していると考えている(沖縄を含め)山陰海岸へ出掛けてみることにした。

 体力と気力がある時代であれば初日に兵庫県豊岡市まで出掛ける(府中から610キロ)のだが、すっかり老人になり果てた現在ではそれは無理な相談なので(もっとも、今夏も行く予定の古座川までだって590キロあるのだが)、初日は福井県敦賀市まで(440キロ)に留め、そこから徐々に西進することに決した。

◎5月15日の旅~府中から福井県敦賀市まで

走行距離・475キロ、歩行・13765歩、宿泊・敦賀市・ニューサンピア敦賀~一泊朝食付きで7810円

◎府中から敦賀まで

・府中発:6時35分

八ヶ岳PA(中央道)着:8時05分 府中から(以下同じ)127.3キロ

八ヶ岳PA

 敦賀でも少しだけ市内を見物するつもりだったので運転は無理せず、しっかり休息を取ることにした。まずは、写真の「八ヶ岳PA」で最初の休憩を取った。ここは周囲の景色が美しいところなので目を休めるにも都合の良い場所だ。

PAから八ヶ岳を望む

 八ヶ岳に初めて足を踏み入れたのは、小6のときの林間学校だったと記憶している。

お馴染みの甲斐駒ヶ岳

 本ブログでは何度も登場している「甲斐駒ヶ岳」だが、見る場所によって山の形に違いがある点(あたりまえだが)が趣深い。

・神坂(みさか)PA:9時38分着、259.7キロ

朝定食550円

 朝が早かったためにバナナ、キュウリ、トマトを食っただけだったので、神坂PAですこし遅めの朝食をとる。このPAはバカ長い「恵那山トンネル(下りは8489m)」を抜けた先にあるため、これまでに何度も利用している。ただ、周囲の景観については特記事項はない。空いている点に価値がある。

・賤ケ岳サービスエリア(北陸道):11時34分着、413.0キロ

賤ケ岳SA

 ここに停車したのは、最初に訪れる予定の「気比の松原」の駐車スペースまでのルートを確認するためにナビをセットする必要を感じたため。賤ケ岳は近くにあるはずだが姿は見えず(私には判断できないだけかも)。

気比の松原

・12時14分着、440.3キロ~16時20分に再訪

日本三大松原のひとつ

 あと2つは三保の松原静岡県)と虹の松原(佐賀県)。後者は未訪だ。ここは次に挙げる「気比神宮」の領地だったそうで、神宮の神職が管理していた。三保の松原との主観的な比較だが、こちらのほうが松の数は断然に多いように思われた。ただ、松林を散策する人は少なく、99%以上(個人の感想)は砂浜遊びが目的のようだった。

シロギス狙いの釣り人が多かった

 向こうに見えるのは敦賀半島。明日(16日)最初に訪れる場所。

 この砂浜に限ったことではなく西日本全体の印象なのだが、砂浜だけでなく堤防にも磯にも実に釣り人の数が多い。東日本では船釣りが中心だが、西日本で釣りというと陸からの釣りがメインとなる。

 この砂浜では投げ釣りの人が大半だった。誰も竿を曲げていないので、どんな魚を狙っているのか釣り人に聞いてみたところ「シロギス」との答えが返ってきた。

日曜日とあって子供連れも多かった

 訪れた日は日曜日ということもあって、家族連れで海遊びをする人が目立った。また、松林近くではキャンプをするグループも散見された。

松の数は三保の松原よりも多そう

 写真のように松林には散策路が整備されているのだが、歩く人は数少なかった。

白砂青松と言いたいところだが

 向こうに見えるのは敦賀本港。砂浜が延々と続いているのだが、波打ち際には海藻類が打ち上げられていたり、ゴミも捨てられていたりと、必ずしも「美しい」とは言い切れないところがあった。

気比神宮

・12時49分着、443.1キロ

越前国の一宮

 気比神宮は古くから北陸道の総鎮守として崇められ、越前国の一宮の地位にあった。写真の大鳥居は「日本の木造三大鳥居」のひとつ(あとは春日大社一之鳥居、厳島神社大鳥居)とされている。私はこの鳥居のある道は何度も通ったことがあるが、気比神宮の境内に足を踏み入れるのは今回が初めてだった。どのみち、私には信仰心はまったくないので参拝することはないのだけれど、折角なので由緒ある神社の中をのぞいてみることにした。

神宮の境内にある「猿田彦神社

 大鳥居をくぐったすぐ左手に「猿田彦神社」があった。猿田彦大神といえば、物事の最初に現れて万事を良い方向へ導いてくれる存在なのだが、信仰心のない私は「偶然の出会い」を最重要視しているため、この神に近づくことはなかった。

本殿で何を願うのか?

 ここでも若い人の参拝が目立つ。もちろん、私はのぞいたり撮影したりするだけ。

 気比神宮主祭神は「いざさわけのみこと」で、天日槍(あめのひぼこ)と同一視されている。もっとも天日槍はひとり?の神というより、朝鮮半島から北九州にやってきて当時の最新技術を日本に伝え広げるために東進した新羅系の集団(神武の東征との関連性も考えられている)と考える方が理にかなっている。

 その集団の族長とされる息長(おきなが)宿禰は琵琶湖周辺に居を構え、近江地方の発展に寄与した。息長氏は海の民でもあったため、近江に近い天然の良港を有する敦賀(旧名は角鹿)を重要視したことから、航海の安全を祈願するため、ここに神宮が建てられたと推察できる。

これは最近の流行り

 どこの寺社に出掛けてみても、近年は参拝者が増えている。とりわけ、若い人が激増していることは、将来に対する獏たる不安感の反映とも思われる。訪れる若者が増えていることから、この神社でも写真のような「恋みくじ」が取り扱われていたが、私が見ている範囲では、このおみくじを引く人はいなかった。賢明なことである。

本殿横にあった摂社群

 かつては相当に広い社領を有していた(なにしろ気比の松原社領だった)はずだが、諸般の事情で大きく減じられてしまったためか、境内摂社のいくつかは写真のようにコンパクトに取りまとめられている。

気比を詠んだ芭蕉翁の像

 芭蕉は「おくのほそ道」の旅で気比神宮に立ち寄っていくつかの句を詠んでいる。彼が敦賀に宿を取ったのは旧暦の八月十四日のことだった。

 「その夜、月殊に晴れたり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神サビて、松の木の間に月のもり入りたる、おまえの白砂霜を敷けるがごとし。……」

 月清し 遊行のもてる 砂の上

十五日、亭主の詞にたがわず雨降る

 名月や 北国日和 定めなき

芭蕉の句碑

 芭蕉像のすぐ脇には、句碑が設置されている。この芭蕉の句によって、昨年、「気比にのぼる月」は、「日本百名月」に認定された。

「日本百名月」認定が誇らしげ

 東門(ここが専用駐車場に一番近い)には、「日本百名月」に認定されたという事実を誇らしげに表記されていた。

亀の池

 最後に、東門の近くにあった「亀の池」に立ち負った。なぜか、色鯉は囲いの中に入れられ、真鯉だけが自由遊泳を許されていた。その不自然さをのぞけば、なかなか趣のある池ではあった。

◎横浜海岸

・13時30分着、455.0キロ

ここも横浜の海

 気比神宮を離れ、国道8号線を北上してみた。別に福井市に立ち寄るつもりではなく、この道は若狭湾の東岸を走っており、対岸にある敦賀半島がよく望めるからだ。ナビを見ながら進んでいると、「横浜海岸」の名が表示されたので、さしあたりその海岸まで足を伸ばしてみることにした。

 横浜といっても神奈川県横浜市があまりにも有名なのだが、その名の場所自体は日本にはいくらでもある。浜が横に長ければ横浜、あるいは横須賀という名前が付けられるのだ。

横浜である証拠その1

 横浜海岸は敦賀半島に向かって小さく突き出た半島の北半分で、南半分は「杉津」という字名になっており、そこには「杉津漁港」があった。

 小さな半島の北半分が横浜であることは、海岸の近くに「横浜集落生活改善センター」なるものが存在することで明らかだが、写真のように、海岸線にあった柱には、きちんと「ヨコハマ」の文字が掘らていて、ここが横浜である証拠になっている。 

横浜である証拠その2

 さらに、海水浴シーズンに営業されるのであろう建物(すぐ横にはトイレとシャワー室もあった)の売店の名は「よこはま」である。現在は敦賀市横浜だが、かつては「横浜村」だったことがこの看板からも分かる。

これは横浜の港?

 横浜海岸には港湾施設は見当たらなかったが、写真のように、消波ブロックにボートをつなぐことができるU字の金具が打ち込んであった。

海岸線は消波ブロックで守られている

 冬場の北風から海岸線を守るために、すぐ沖には護岸堤防と消波ブロックが何重にも並べられていた。横浜集落は標高の低い場所にあるため、波消しのためのブロック群は必須の存在だ。

これは横浜の家並み

 いかにも漁村、農村といった風情ではあるが、本家?の横浜だって開港前は寒村だった。

横浜を守る「剱神社」から海を眺める

 横浜の半島の先端部には小高い山がある。集落の標高は3.6m、先端部の高台は81mもある。それゆえ、先端部の高台はかつて島であり、そこに砂州が伸びて陸続きになったのだろう。これを陸繋砂州(トンボロ)という。

 先端部の麓には横浜集落を見守るように「劒神社」がある。劒神社の本社は丹生郡越前町にあるが、ここはその末社だと考えられる。ちなみに、劒神社の祭神は「気比大神」である。したがって、ここも新羅系渡来人の伝統を有している。

敦賀新港

・14時19分着、467.0キロ

敦賀新港の無料釣り場

 敦賀新港のもっとも北側の護岸には無料の釣り施設が設置されている。ここには10年以上も前に取材で何度か訪れたことがある。釣りをしたのは一回だけで小メジナがたくさん釣れたという記憶がある。

わざわざ消波ブロックの上から釣りする人も多い

 安全な堤防の上からではなく、わざわざ足元の悪い消波ブロック上から竿を出す人が何人もいた。その仕掛けからメジナ狙いであることは分かったが、釣果は芳しくないようだった。

フェリーターミナル

 敦賀新港の主目的は釣り場の整備ではなく、敦賀港と苫小牧港とを結ぶ新日本海フェリーが利用するためのもの。ここを出発するフェリーは舞鶴、新潟、秋田にも立ち寄る。

 私の場合、苫小牧発のフェリーと聞くと「仙台行き」を思い出す。吉田拓郎の『落陽』の歌詞だけれど。私の人生もサイコロを転がしているようなものなので。

敦賀本港~金ヶ崎緑地界隈

・15時01分着、469.5キロ

広々とした緑地公園

 敦賀本港の東側に整備された緑地公園で、2003年にオープンした。ボードウォークとボードデッキ、芝生広場といくつかのモニュメントからなり、港の景色に触れながら散策できる場所。

大半の人のお目当ては赤レンガ倉庫

 緑地広場に隣接していくつかの施設が整備・公開されているが、写真の「赤レンガ倉庫」に多くの人が集まるようだ。

赤レンガ倉庫を守る恐竜

 倉庫の目の前には白衣を着用した恐竜君が見学者を歓迎している。初めはこの存在の意味がよく分からなかったが、敦賀市福井県であることを考えれば答えは簡単に導き出せる。福井は恐竜を売り物にしている県だからである。なにしろ、福井県立大学では現在、恐竜学部(仮称)の創設を準備しているのだから。

かつての町並みをジオラマで再現

 赤レンガ倉庫は2棟あり、南棟はレストラン館、北棟はジオラマ館として公開されている。レストランは利用しなかったが、ジオラマ館(有料)に入場してみた。昭和初期の敦賀港周辺の町並みが再現されているのだが、私のお目当ては鉄道模型だった。 

ジオラマだけでなく記録フィルムも放映

 HOゲージの鉄道模型はとてもよく造られており、見飽きることはなかった。また、壁面には古い記録フィルムが上映されていた。

赤レンガ倉庫の隣には急行に使われた気動車が展示

 倉庫の北側には写真の気動車が展示されていた。通常は車内が公開されているのだが、時節柄か公開部分は限定的だった。

本港の一角を撮影

 ボードウォークから港の一角を撮影してみた。近海郵船日本郵船の子会社)はかつて旅客船も運行していたが、現在は貨物専用となっているそうだ。赤い船の向こう側に見える山は敦賀半島のもの。

敦賀港駅舎を再現

 本港にはかつて鉄道が敷かれていて、シベリア鉄道経由でヨーロッパにもつながっていた「欧亜国際連絡列車」も走っていた。敦賀港駅(敦賀ウラジオストク航路)はその列車の発着駅だった。

 写真の建物は1999年に再現されたもので、室内は鉄道資料館になっている。敦賀周辺を走っていた鉄道に関する資料が豊富にあるので、鉄道ファンには必見である。

往時の敦賀港駅周辺を模型で再現

 資料館内には、写真のように欧亜国際連絡列車が運行されていた当時の敦賀港の風景が模型で再現されている。

二階の床にあるだまし絵

 二階の床には、写真のような「だまし絵」が張られていた。床から機関車が飛び出してくるように見えるし、切符も立体的に見えるから不思議だ。

人道の港・敦賀ムゼウム

 緑地の北側には、写真の「敦賀ムゼウム」があった。他の場所で多くの時間を費やしてしまったために、ここに立ち寄ることはできなかった。

 基本的には敦賀市の地域歴史博物館だが、とくに杉原千畝の業績について詳しく紹介されている。ムゼウムはポーランド語。英語ではミュージアム。杉原が「命のビザ」で救済したユダヤ人はポーランド人が多かったこともあり、ムゼウムの語を使ったそうだ。解放された多くのユダヤ難民はウラジオストク経由で敦賀にたどり着いた。

扉の先に人道の港がある

 金ケ崎緑地に入り、最初にこれを目にしたときには意味不明だったが、杉原の行為と結びつけることができたとき、この扉の意味が得心できた。

 この日の旅は、この緑地の訪問をもって終了とした。

〔72〕八高線とその沿線を楽しむ(3)高崎駅から寄居駅と町。そして新しき村

ここにしかない八高線同士のすれ違い

寄居町散歩

荒川の流れを望む

 高崎駅に向かう前、少しだけ寄居町周辺を歩いた。といっても、南口ロータリー付近は再開発のための大工事がおこなわれているので、いにしえの面影を偲ぶことはできない。それゆえ、駅からそれほど遠い位置ではない「鉢形城跡」を少しだけ訪ねることにした。

 写真は荒川に架かる「正喜橋」から川の流れを眺めたもの。この辺り(鉢形河原)は岩盤と石の河原とで形成されているため、水遊び場として賑わう場所である。

鉢形城の復元地形模型

 荒川を渡るとすぐに鉢形城跡が見えてくる。その辺りは城の敷地の東側で(搦め手)で、大手門はずっと西側の八高線の線路近くにある。ただ、寄居駅からのアクセスは東側のほうが良いので、今回はこちら側を少しだけ散策した。

 四阿(あずまや)のある広場には、写真の「復元地形模型」があり、この城が、谷深い荒川と深沢川とに挟まれた断崖絶壁の自然の要害に築かれたということが、この模型からもよく分かる。

城跡内から荒川を望む

 広場から、荒川右岸に沿って整備された道を本丸方向に進んだ。四阿、正喜橋、荒川の流れが見て取れる。

かつて御殿があったとされる場所

 鉢形城は1476年、関東管領山内上杉家の家臣、長尾景春が築城したとされる。のちに北条氏康(小田原北条氏三代目)の四男である氏邦が整備拡充し、有数の平山城になった。

城跡から寄居市街方向を望む

 1590年、秀吉の小田原攻めの一環として、前田利家上杉景勝真田昌幸率いる北国支隊に浅野長政勢を合わせて5万ともいわれる軍勢が攻め込み、一方の鉢形城は3500人で守備していた。約一か月の籠城の末、6月14日に開城した。

本丸跡を示す碑

 鉢形城の本丸は、荒川右岸の断崖絶壁の上にあった。

建造物は一切、残っていない

 建築物はまったく残っていないが、その立地条件から、極めて攻めにくい城であることがよく分かる。

荒川右岸側に面した高台

 荒川に面した側は少し高台になっていて、周囲の様子がよく見渡せる状態にある。

本丸のある高台を見上げる

 御殿曲輪があったとされる場所から本丸があった場所を見上げた。このように変化に富んだ地形は、西側にある二の丸や三の丸に当時の土塁や堀が一層よく残っている。本来ならばそちらも訪ねたいところだが、私には八高線の旅が待っているので、今回は省略した(いつもは車で訪ねるのだが、今回は徒歩だったために歩くのが面倒だっただけ)。 

高崎行きの列車に乗り込んだのだが

 寄居駅に戻り、八高線に乗って高崎駅を目指す旅を再開した。寄居から先はまだ乗ったことがなかったので当然、前面が展望できる場所に位置して鉄路や周囲の様子を撮影するつもりでいたが、私が乗り込んだ列車の運転席の後ろの好場所には高そうなカメラをぶら下げている3人の少年が陣取っていた。

 そこは八高線の悲しさで、時間の関係上、次の列車に期待するという訳にはいかないために撮影は断念し、車窓から沿線の景観をよく観察し、帰りの列車で撮影したいポイントをチェックすることにした。

高崎駅周辺

花の街・高崎

 高崎駅に降りたのは今回が初めて。というより、市街地に足を踏み入れたことさえ一度もなかった。高崎と言っても、遠目に高崎観音を視認したぐらいだろうか。妙義山碓氷峠榛名山周辺は車でよく出掛けたのだが、宿泊地は決まって前橋で、そこから赤城山足尾銅山へと進むのが私のお定まりのコースだ。

 今回、八高線を利用して高崎駅にやってきたのだが、町並みが綺麗だったのには驚かされた。このときは「フラワーフェスティバル」が開催されていたこともあり、街中は”花だらけ”であった。

高崎城址の石垣

 特にあてはなかったが、とりあえず「高崎城址公園」に立ち寄ってみた。高崎城は1598(慶長三)年、家康の命を受けて箕輪城主の井伊直政が築城したとされている。現在は三の丸外囲、お堀、復元された石垣や乾櫓などが残っているだけで、約5haの広大な敷地は城址公園、21階建ての市役所、群馬音楽センターなどに利用されている。

乾櫓が残る

 写真は、復元された「乾櫓」。この櫓だけが、かつてここが城であったことが明確になる建築物である。

華(花)の卒業式

 城址公園の中を歩いてみた。この日は近くのホールで高崎経済大学の卒業式があったようで、袴姿に着飾った彼女を満開の桜の下に立たせて記念撮影をおこなうという微笑ましい姿があった。一方、後ろにいるオッサンは花壇の花たちをスマホで撮影していた。

 この日も、春は爛漫だった。 

賑やかな高崎駅構内

 折角なので、駅の東口ものぞいてみることにした。駅構内はかなりの人出があった。何しろ、この駅には北陸・上越新幹線も停車するのだ。

東口ロータリー

 東口には、整った街並みが広がっていた。近年、この辺りは再開発が急速に進んでいるようだ。駅前ロータリーは整然としており、周辺の道路の道幅もかなり広い。

ペデストリアンデッキ

 東口から伸びる屋根付き照明付きのペデストリアンデッキは、新設された高崎芸術劇場やGメッセ群馬(群馬コンベンションセンター)に通じている。

 駅前の街並みは立派になっているが、高崎市の人口は決して増えているわけではない。人が中心部に吸い上げられるということは周辺部の過疎化を推し進めることにつながる。それが人々にとってどう利益不利益になるのかは誰にも分からない。

高崎駅から児玉駅

寄居駅に向かいたいのだが

 八高線八王子駅に戻ることにした。次の列車は高麗川行きではなく児玉行きだった。これに乗っても児玉駅で次の列車を待つことになる。その一方、この列車ならば利用客は少なく、それゆえ運転席のすぐ後ろの場所に陣取る人はいないだろうと思い、とりあえず児玉駅まで利用することにした。

八高線のホームだけが短い

 高崎駅には、新幹線だけでなく湘南新宿ライン上野東京ライン高崎線上越線吾妻線両毛線信越本線が乗り入れている。それらの間に八高線の3番線ホームがあり、写真から分かるとおり、八高線のものだけが短く設定されている。

列車の入線

 児玉行きとなる列車が入線してきた。列車を待つ人は予想より多かったが、それでも、カメラを持参している少年の姿はなかったので、撮影場所は確保できそうだった。

まずまずの数の乗客

 乗客には若者の集団があったが、八高線には乗り慣れている様子だったので、私のライバルにはなりそうもないと判断した。

お隣のホームは0番線

 写真の上信鉄道上信線(高崎・下仁田間)は高崎駅の一番西にあり、そのホームは0番線となっている。ホームの反対側が1番線なのだろうが現在は使用されていない。

 車両に記されている「群馬サファリパーク」(1981年開業)は富岡市にあるので、確かに上信鉄道沿線には違いない。この手の場所には、はるか以前に「宮崎サファリパーク」に行ったことがある。1975年に日本で最初のサファリパークとして開業し86年には閉鎖されている。開業されて間もない時期だったので、おそらく75年に行ったはずだ。それ以外の記憶はほとんどない。

高崎駅を出発

 無事に運転席のすぐ後ろの場所が確保できた。列車は次の倉賀野駅に向けて出発した。

複雑な線路

 八高線八王子駅倉賀野駅とを結ぶ路線なのだが、実際には高崎駅に乗り入れている。この区間高崎線の線路を利用しているがホームは異なるため、写真のようにな複雑に線路を移動しながら高崎線へと乗り入れている。

間借りの線路ですれ違う

 単線のはずの八高線だが、この区間高崎線の線路を間借りしているので、この区間だけは複線になる。そのため、写真のように高崎行きの列車とすれ違う様子を目にすることができた。中央線や京王線ではごく当たり前の景色だが、八高線では貴重なカットとなる。

高崎線上を進む

 まだまだ高崎線の軌道を進み、次の倉賀野駅を目指す。

 

まもなく倉賀野駅

 まもなく倉賀野駅。ホームは長いが、八高線が利用するのはほんの少しだけの距離にすぎない。倉賀野駅八高線の終点駅(形式上の)であるが、駅としての所属は高崎線となる。

桃太郎参上

 倉賀野駅は貨物基地でもある。基地には写真の「エコパワー・桃太郎」の愛称があるEF210型電気機関車が停めてあった。

烏川橋梁

 倉賀野駅を離れると、すぐに利根川の支流である烏川を越える。この線路はまだ高崎線のものである。

まもなく高崎線から分岐

 写真の場所から八高線高崎線の軌道から離れ、独自の線路を進むことになる。

まもなく高崎線とお別れ

 しばらくは高崎線の道床を使って真ん中の線路を進む。ただし上方を見ると、八高線にだけは架線がないことが分かる。これを道床異無というのかも。

右に曲がって独自の道へ

 高崎線は東へ、八高線は南へ進むため、八高線の線路は高崎線の下り線路を越えて進むことになる。八高線が右に曲がる場所に古い転轍機が残されているが、いまやまったく用をなしていない。

ここからは自前の道を進む

 高崎線の道床を離れるとすぐに北藤岡駅に到着する。ここから八高線は南に進路を取り、秩父山地の東縁を目指すことになる。

まもなく北藤岡

 まもなく北藤岡駅。すぐ隣には高崎線が走っているのだが、そちらには駅はなく、ただ八高線にだけ「北藤岡」の名の駅がある。

上を走るは新幹線

 北藤岡駅を離れ、次の群馬藤岡駅を目指して進んでいく。前方には、北陸・上越新幹線の高架橋が見える。

まもなく群馬藤岡駅

 まもなく群馬藤岡駅に到着。この駅で、高崎駅から乗り込んだ若者たちが降りて行った。地図で確認した限り、近くに学校はなさそう。神流川左岸にはグラウンドがあるので、そこへ行くのだろうか。

意外に立派な設備があった

 利用客がそれなりに居る駅のようなので、非電化区間八高線には珍しく自動改札機が数列、整備されている。 

春の中を走る

 この辺りは平地が広がっているので、住宅地があったり田畑かあったりと、典型的は田舎の風景の中を八高線は進んで行く。

前方には秩父の山々が

 前方には秩父の山々が近づいてきたが、八高線はそれを避けるように進んでいく。

 

まもなく神流川橋梁

 神流川(かんながわ)橋梁が見えてきた。私にとって神流川はいろいろな体験をした思い出深い河川なのである。

下流部は緩やかに流れるが

 この辺りは緩やかな流れだが、数キロ上流からは急に山深くなる。上流部には下久保ダムがあってその上に神流湖がある。その先からはアユ釣り場としてよく知られた流れがあり、最上流部の上野村付近の流れでは渓流釣りが楽しめる。一時期、その一帯によく通ってヤマメ釣りをおこなった。神流川の名前がまだ多くの人に知られていない頃のことだ。

 1985年8月12日18時56分、神流川の源流のひとつであるスゲノ沢近くの尾根に日本航空123便が墜落した。以来、神流川の名前も上野村の名前もニュースなどでよく取り上げられ、一躍全国区的存在になった。事故後しばらくは神流川に通うことはなくなったが、数年後にアユ釣りを始めたこともあって、今度は友釣りのために出掛けるようになった。

 群馬県は雷が多いことでよく知られている。雷が大の苦手である私は、アユ釣りの際にもしばしば中断もしくは納竿を余儀なくされた。緑は深く、流れは清冽、魚体は美しく、村の人々はとても親切だった。ただ雷が多いことだけがこの場所の短所だと思っていた。

 そんな場所に、ジャンボ機は墜落したのである。

まもなく丹荘駅

 もうすぐ丹荘駅に到着。右手には列車交換用のホームが残っている。が、使われている様子はなかった。

交換駅だった面影が

 駅名表示板は外され、レールには錆が浮いている。

 JRでは不採算路線の廃線を進めている。旧国鉄の時代の廃線基準は一日の平均通過人数(輸送密度)が2000~4000人だった。八高線でいえば、八王子・拝島間は22689人、拝島・高麗川間は10220人、高麗川・倉賀野間は1672人である(いずれも2020年調査)。ちなみに同調査によれば、山手線は720374人、南武線は148630人、青梅線の立川・拝島間は140281人、青梅・奥多摩間は2897人、五日市線は18236人だ。

 もっとも、2020年はコロナ禍の影響でほとんどの路線で19年に比べて大きく減少している。たとえば山手線の19年は1121254人で、八高線高麗川・倉賀野間は2994人だった。山手線は前年の64%、八高線の非電化区間は56%(南武線は73%、横浜線は70%)なので、八高線の利用者減少はコロナ禍が理由とばかりは言えない。そもそも八高線では「密」になることは滅多にない。

 青梅線の青梅・奥多摩間は廃線の検討、八高線の非電化区間は運行困難路線として廃線が決定されてもおかしくない利用率である。地方のインフラは採算だけでその存在非存在を決定すべきではないはずだが、その一方で、企業である以上、赤字をそのまま放置することもできまい。

 そう遠くない何時か、八高線からは線路が撤去されて道床は舗装され、その上をバスが走っている姿を見るようになるかもしれない。私の場合、その前に神から「You are fired!」と宣告されているだろうけれど。

児玉駅に向かって出発進行

 次は児玉駅だ。真っ直ぐにレールが敷けるほど、周囲にはさしたる障害物はない。

美しい田園風景

 車窓からは、よく整った美しい田園風景を望むことができる。

メガソーラー施設も多い

 平地には工場が進出していたり、写真のようなメガソーラー施設を見掛けたりすることもある。

いつもなら列車は来ないはずなのに

 まもなく児玉駅。どこかの場所で故障が発生したらしく、この列車は数分遅れで駅に到着する。いつもとは少し違った時間に踏切が閉まったことで、自転車に乗った子供はちょっぴり怪訝そうな表情で列車を見つめていた。

児玉駅に入線

 児玉駅に入線した。この列車はここが終点になる。

◎児玉といえば

この列車はここが終点

 児玉駅で降りた乗客は数人。2両連結ではもったいないほどの余裕があった。

小さな駅舎

 一部の列車が終点にするほどの駅にもかかわらず、駅舎はかなり小さめ。無人駅だったので、この近くに売店やコンビニがあるかどうか尋ねたかったのだが。私は昼食をとることを失念していたのだ。

児玉町といえば塙保己一の生誕地

 児玉町と聞けばすぐに塙保己一はなわほきいち、1746~1821)を思い浮かべるほど、この町(現在は本庄市児玉町)にとって、いや、日本にとって彼は誇るべき存在なのだ。私は神流川に釣りに出掛ける際には関越道の本庄児玉インターを下りて、国道462号線を西に進んで川に向かう。その際、児玉町を通るときは必ず、塙保己一に黙祷を捧げる。

 彼は7歳の時に失明した。手のひらに文字を書いてもらって字を覚え、文章は読んでもらえば一度ですべて丸暗記できた。検校の道は彼には困難だったが、一方で学才が認められて学問の道に進むことにした。国学、和歌、漢学、神道律令、医学などあらゆる分野の学問を学び、そしてそのすべてを暗記した。

 水戸藩の『大日本史』の校正や歴史資料の編纂をおこない、彼のおこなった作業は現在の東京大学史料編纂所に受け継がれている。平田篤胤頼山陽は彼に多くを学んでいる。彼の業績は『群書類従』にまとめられ、彼のお陰で江戸時代後期までの日本の歴史や文化、文学について我々は知ることができるのだ。

 ヘレンケラーは彼の存在を知って人生の目標を立てることができた。現在では女性の医者は珍しくないが、その道を切り開いたのは彼の業績だ。原稿用紙が20×20の400字詰なのも『群書類従』の編纂過程で決まったものである。

売店を探したのだけれど

 それはともかくとして、私は塙大先生のことよりもこのときは空腹に苦しんでいたため、売店やコンビニを探して駅近くを歩き回った。駅前広場が写真の通りであるように、食品を扱う店は皆無だった。国道にも出て少し見渡してみたのだが、食べ物を入手できる店は見当たらなかった。残念至極だったが食料入手は諦めざるを得ず、私は駅に戻って次の列車を待つことにした。

児玉駅から寄居駅

 次の高麗川行きは10数分遅れて児玉駅に到着した。しかし、八高線は1,2時間に一本なので、次の列車に乗るはずの人が一本早い列車に乗れてしまったということはない。

小山川(利根川の支流)橋梁に向かう

 次の松久駅に向けて出発した列車は、利根川の支流の小山川を越えて行く。神流川と言い小山川と言い、この辺りには利根川の大支流が流れ込んでいるため、沖積平野が広がっているのだ。

松久駅に入線

 松久駅に入線。この付近にはまったく不案内なので、駅の周囲に何があるかは全く不明だ。

簡素な松久駅

 とてもさっぱりとした松久駅の改札口。この駅を利用する若者たちには、時間はゆっくりと流れているだろう。それが貴重な時間であったことは、彼・彼女らが都会に出てみるとよく分かるはずだ。

用土駅に向かう

 次の用土駅に向かって出発進行。前面には、八高線沿線ではすっかりお馴染みとなった景色が広がっている。

用土駅に入線

 

 用土駅に入線。ここも、かつては列車交換駅だったようだ。線路の曲がり具合と左手の空き地の存在が、かつてここにはホームがあったという証拠になっている。

用土駅の改札

 ここもまた簡素な改札口。用土、松久、丹荘の各駅の名前からはそこがどんな町(集落)だったのか全く見当がつかないばかりでなく、地理上の位置すら私にはさっぱり分からない。国道254号線が八高線の近くを通っているが、その国道は東松山から寄居までは使うことはあってもその先を使うことはないからだ。もっとも、富岡から下仁田に抜けて妙義山方向に進む際にはその国道を使うことになるが。

寄居駅に向かう

 用土駅から寄居駅に向かって列車は進む。西日が斜め右側から差し込んでくるので前方はやや見づらい。

秩父鉄道との出会い

 寄居駅に近づくと、左手から秩父鉄道の線路が迫ってきた。

秩父鉄道と並走

 寄居駅までは秩父鉄道と並走する。そちらは電化されているので電柱やら架線やらが賑やかだ。

まもなく寄居駅

 まもなく寄居駅に到着。線路は複雑に入り組んでいるが、これらの多くは、かつての黄金期(八高線にもあったはずだ)を物語っている。

寄居駅に入線

 寄居駅に入線。窓ガラスと運転席後ろのアクリル板に西日が反射するため、かなり見づらい前面展望になっている。

寄居駅を離れ、八王子駅

寄居駅を離れる

 すでに寄居駅には立ち寄っているため、帰りはこのまま高麗川駅まで乗っていくことにした。

荒川を渡る

 荒川橋梁を渡る。帰り(上り)は秩父山地を前方に見ることになるので、下り方向とは前方に展開される景色はかなり異なっている。

夕まずめ八王子駅

 寄居駅以南の撮影は、日が陰ってきたこともあって撮影はしなかった。高麗川駅で川越から来た電車に乗り換え、写真の八王子駅に無事到着した。

 夕方の八王子駅は、八高線と言えどもそれなりに混雑していた。もっとも、多くは拝島駅で降り、さらに高麗川駅に到着するまでに大半は消え去るはずだ。

 5回目の八高線乗車はあるかと聞かれたら、80%の確率で「否」と答えるだろうか。これからも八高線沿線には数多く出かけるだろうが、それと八高線を利用するということとは別だからだ。

 鉄道に乗るのは好きだが、鉄道のある風景に触れることのほうがより興味があるからだ。

新しき村を訪ねて

村の入口

 別の日に「新しき村」に出掛けてみた。近くを通ったことは何度かあったし、県道30号線を走っている際には「新しき村」の標識を幾度となく見掛けていたが、村の中に入るのは今回が初めてだ。

村の玄関口

 「新しき村」は1918年、武者小路実篤が中心となって格別の理念を掲げ、宮崎県に建設された村落共同体だ。が、近くにダムが建設されることになって農地の一部が水没してしまうため、39年、一部が毛呂山町に移転してきた。ここは10haの敷地を有し、最盛期には60人もの村人が居住していた。

 大きな養鶏場があって最盛期には5万羽以上飼育し、年間3億円もの収益を得ていた。現在は廃業し、代わって多くのソーラーパネルを敷地内に設置し、売電によって村費を得ているようだ。

村のギャラリー

 ギャラリーでは作品展が開催されていた。訪れる人は見掛けなかったが、誰でも自由に見学できるはずだ。

新しき村の精神を知る

 一角に、「新しき村の精神」が掲げられていた。自他共生は理念としては正しいが、いざ実践となると困難だらけとなる。顔が見える小さな集団では感情の対立が発生するだろうし、顔の見えない大きな集団では、何で俺が知らない奴のために努力しなければならないのかという疑問が必ず付き纏う。

 そうはいっても、理念なき社会では欲望がむき出しの新自由主義という最悪に近い価値観が幅を利かせてしまう。理念を実現するためには、自己を再帰的に見つめるということから始めるべきだろう。それが第一歩目だ。

入植当時の小屋

 入植当初に造られた小屋が展示してあった。こんな質素な小屋で気宇壮大な理念を抱く人々が生活していたのだ。

村の美術館

 美術館があった。少し広めの個人住宅といった風情。私は美術は(も)不得手なので入館はしなかった。

村の公会堂

 美術館の向かいには、写真の「公会堂兼売店兼食堂」の建物があった。

会合の案内

 写真の「大信荘」で毎月開催される「喜楽会」のお知らせ。第4日曜日の前の土曜日、夜7~9時に開かれる。参加費は100円。新しき村について知りたい人を歓迎するとのこと。

田畑とサギ

 南側には田畑が広がっている。作業する人の姿は見掛けなかったが、あぜ道を散策する近隣の人々と、餌を探すサギの姿があった。

寄贈された都電

 田畑の北側の高台には、写真の「都電」が展示してあった。新しき村の幼稚園児のために寄贈されたものだが、幼稚園が廃止されてからは近隣の子供たちの遊び場として利用され、古くなった後には多くの人々の手によって改修されて現在に至っているとのこと。

田畑から八高線を望む

 「都電」が見つめる先には八高線の線路があり、八高線の列車が走っていた。そのときはカメラを構えていなかったので撮影はできなかった。

 スマホで時刻表を調べると、20分後くらいに下り列車が通過することが分かったので、田畑を散策しながら時間をつぶし、そして撮影に適した場所を探した。

 背後にある埼玉医科大学のグランドには照明の火が入れられている。薄暗くなりはじめた時間帯なので列車の撮影は難しいかなと思ったが、何カットかのうち一枚だけ使えそうなものがあったので掲載した。

 一両編成の八高線は北に向かっていた。私は車に戻って南へと帰っていった。

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 5月15日から23日まで、若狭湾から山陰東部の海岸線(敦賀から余部まで)を散策します。今回は、できれば毎日、出掛けた場所の写真を数枚掲載し、帰宅後に探訪記を数回に分けて掲載する予定です。

 敦賀半島三方五湖、小浜、舞鶴由良川天橋立、伊根の舟屋、経ヶ岬、丹後松島、間人温泉、琴引浜、夕日ヶ浦、久美浜、タンゴ鉄道、玄武洞城崎温泉、香住浜、余部鉄橋などに立ち寄ります。帰りには、京都、近江八幡彦根醒井にも寄るつもりです。