徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔76〕若狭湾・山陰東部を旅する(4)間人温泉から余部橋梁まで

鉄橋からコンクリート製に変わった余部橋梁

◎間人温泉から久美浜まで

間人漁港横の岩場

 間人(たいざ)温泉でゆったりとした時間を過ごした翌朝、再び漁港周辺を散策した。写真のように、漁港の西側には変化に富んだ岩場が広がっており、ここが紛れもなく山陰海岸であることが得心できる。

鳴き砂で有名な琴引浜

 R178を西に進んだ。京丹後市網野町には「鳴き砂」でよく知られた琴引浜がある。一部には岩場も広がっているが、その左右にはかなり広めの砂浜がある。海水浴シーズンには相当な賑わいを見せるそうだが、私が訪ねた時期にはまだ海水温が低いため、浜遊びを楽しむ人や「鳴き砂」の音色を体験する人が散見されただけだ。

この辺りの砂浜はよく鳴いた

 鳴き砂は、砂に含まれる石英分が多く、かつその表面に汚れのない場所でしか「キュッキュッ」という音を奏でられないため、管理にかなりの苦労が必要となるそうだ。琴引浜でも、よく鳴く場所とまったく鳴かない場所があった。

面白い形の岩場も多い

 ここでは砂の音に親しむだけでなく、写真にある岩場が形成する潮だまりを覗くという楽しみもあった。

海中写真にも熱心だった女性

 写真の女性は、水中カメラとしても使用できる「オリンパス・タフ」(私も持参していた)を使って、潮だまりの中の様子をしきりに撮影していた。かなりきれいな写真が撮れたとのこと。

潮だまりの中

 そこで、私もバッグからカメラを取り出して彼女の真似をしてみた。が、自分が濡れたくないものだから恐る恐る浅い潮だまりの中にカメラだけを入れてシャッターを押したので、なんとか見られそうなカットは上の写真だけだった。

漁師はワカメを採集

 後に触れる丹後砂丘同様に、海の中にはワカメがいくらでも生育している。写真の漁師は籠を手にしながらワカメを採集していた。

日本標準時最北端の塔

 琴引浜を離れ、R178を西に移動した。ただ、国道は網野町の中心部を目指してしばらくは海岸線を離れてしまうため、私は海岸線を走る県道665号線(r665)に移り、八丁浜や浅茂川漁港を通過した。

 次の目的地は、写真の「日本中央標準時子午線最北端の塔」がある広場だ。広場の最奥の崖近くにはかなり大きめの記念塔が建っていた。

最北端の塔である証明

 東経135度00分に位置するので、仮に真南に進むことができるとしたら明石市に至ることになる。

塔直下の海岸線

 公園は標高70mほどのところにあるため、眺めはかなり良好だ。まずは崖下の海岸線を恐る恐るのぞいた。

塔の広場から浅茂川漁港を望む

 次は公園の東側に位置する浅茂川漁港方向を眺めた。こうした眺めが延々と続くのが山陰海岸の面白さだ。

静御前を祀る静神社

 網野町の磯地区には、写真の「静神社」があった。主祭神源義経の側室となった「静御前」である。超有名人を祀る割には建物が質素なことに好感がもてた。

ここにも大河ドラマのキャンペーン

 静御前義経と離れ離れになったのち、出家して生誕地であるこの「網野町磯」で生涯を終えたとのこと。私にはまったく関心はないが、いかにも大河ドラマのキャンペーンとおぼしき幟が何本も立てられていた。 

静御前の生誕地・網野町

 静神社がある場所から、彼女が生まれ育ち、そして亡くなった集落である磯地区を撮影してみた。

義経静御前・泣き別れ岩(涙岩)

 写真中央の岩は、頼朝に追われている義経静御前が最後の別れを告げた場所とされており、「泣き別れ岩」または「涙岩」と命名されている。

五色浜の岩場

 磯地区を離れ、r665を西に進んだ。次の目的地は「五色浜」だった。県道は標高70mほどのところにあり、浜の駐車場は20mほどのところにある。かなり狭い道路を下っていくのだが、途中で自衛隊の車両と出会った。もちろん、こちらに優先権があるので、自衛隊の車両を路肩に退避させた。

 一帯にはチャート由来の色とりどりの玉石があることから五色浜と名付けられたそうだが、実際には、写真のような波食台の岩場が大半だった。

この浜でも自衛隊が訓練中

 岩場の上には広場や散策路が整備されており「五色浜園地」と名付けられている。広い駐車場があるが、一角には自衛隊の車両がとまっていて、ここでも経ヶ岬と連携した情報収集の訓練がおこなわれていた。

面白い形の岩が多い

 玉石探しはおこなわなかった。それ以上に、波食台に残る岩の形状が興味深かったためである。

最も興味深かった岩

 とりわけ、写真の岩がとても面白い形をしていたので、しばし、魅入ってしまった。成り立ちに興味があるものの私の知識ではまったく見当がつかなかった。

入り江も興味深い形

 写真の入り江とその周囲の岩場の姿にも感心してしまった。溶岩流とそれを削った波は傑出した造形家だ。

五色浜と通信していた自衛艦が帰港

 手前側の漁船ではなく、ずっと先に見える砂浜方面に進んでいく自衛艦も訓練に参加しているそうだ。双眼鏡でその行方を追っていた若い自衛隊員はとても気さくな人物で、どんな訓練をおこなっているかいろいろと教えてくれたのだ。お礼に、この近くには野生のサルが多いので、寝込みを襲われないようにと忠告してあげた。

久美浜小天橋にて

白い砂浜が続く丹後砂丘(小天橋から夕日ヶ浦海岸)

 夕日ヶ浦海岸近くでr665はR178と合流する。夕日ヶ浦は私が大好きな海なのだが、ここには翌日に宿泊する予定だったので立ち寄らず、国道を西に進んで「小天橋」に向かった。

 小天橋の名は「天橋立」に由来する。天橋立砂嘴を伸ばして宮津湾をほとんど塞いで内側(西側)に阿蘇海を造ったように、丹後砂丘は西に砂嘴を伸ばして久美浜湾を塞いだ。その姿が天橋立の小型版のようなので、湾を塞いだ部分の砂州を「小天橋」と呼ぶようになった。

 写真は小天橋から夕日ヶ浦(浜詰海岸)まで6キロ以上続く丹後砂丘の西半分を写したもので、一番手前側が小天橋海水浴場である。

波打ち際にもワカメがいっぱい

 私が山陰海岸にずっと憧れ何度も通い続けて来た理由のひとつは、20年ほど前に初めて見た、この砂浜の美しさにある。残念ながら、この日は向かい風がやや強いためにその透明度の高さを撮影することは叶わなかったし、繁茂するワカメの存在も少しだけ興趣を削いではいるものの、私の心の中では、あの時に触れた澄み切った海が展開されていた。

短時間で収穫されたワカメ

 私が小天橋に到着したときにはこのワカメの入ったカゴは並べられていなかったが、周辺を少し散策して戻ってきたときには、このように3ケースも並んでいた。

どれだけ採集するのだろうか

 写真から分かるように、若者はまだまだ収穫作業を続けていた。

久美浜湾の出入口

 小天橋の砂嘴よって塞がれた久美浜湾の出入り口は、写真から分かるように船が航行できるよう人工的に掘られたもののようだ。赤白の灯台の間が水路の出入口となる。

湾内につながる水路と背の高い歩道橋

 水路を南へ700mほど進むと久美浜湾に至る。比較的大きめの船も通れるようにと、青く塗られた歩道橋はかなり高めに設定してある。

湾の遥か奥に位置する係留場

 久美浜湾内はかなり広くそして複雑な形状をしているので、いろいろな場所が船の係留所として利用されている。写真の場所は湾のもっとも南奥に位置し、プレジャーボート専用の係留所に用いられている。

コウノトリと柱状節理

公園入口と研究施設

 海から離れ、R178を豊岡市街方向に進んだ。次の目的地である「コウノトリの郷公園」に立ち寄るためである。豊岡市街には何度か足を踏み入れたことはあるが、その場所に出向いたのは今回が初めてだ。

 写真は、駐車場からもっとも近い場所にある「教育・研究ゾーン」の入口で、正面に見える建物は県立大学の大学院施設だ。

コウノトリの郷公園の案内図

 郷公園は、「教育・研究ゾーン」のほか「飼育ゾーン」「観察ゾーン」「自然ゾーン」に分かれている。敷地はあまりにも広大なので、すべてを見て回るには一日かかりそう。私自身はとくにコウノトリには思い入れはなく、折角、この地に来たのだから一度ぐらいは足を踏み入れてみようという軽い気持ちで立ち寄った。それゆえ、のぞいたのは市立コウノトリ文化館と観察広場だけだった。

文化館内には模型がいっぱい

 文化館内にはコウノトリの模型があったので、それをしげしげと眺めるだけで、解説の部分はすべてパスした。

文化館内のはく製

 館内には模型だけでなくはく製もあった。想像していたよりも大型の鳥であることが分かった。それに鋭そうな眼付きには威圧感も抱いた。貴重な鳥なのだろうが、あまり”お近づき”になりたいとは思わなかった。

こちらは生きたコウノトリ

 観察広場には若いコウノトリが3羽いたので、動くコウノトリを間近に見ることができた。

森の巣から羽ばたく

 広場から観察ゾーンにある森を見上げると、数か所、営巣されている場所があった。若い個体なのか、巣から出たり入ったりを繰り返している姿を見つけたのでカメラを向けてみた。標準ズームしか持ち合わせがなかったが、なんとか飛翔する姿を捉えることができた。

里山の保存がコウノトリ繁殖の要

 敷地内には広大な「自然ゾーン」があり、その一部に「飼育ゾーン」がある。写真のような自然が良く残された場所であってこそ、コウノトリは生き残ることができるのだ。

玄武洞から玄武岩の名前が生まれる

 豊岡市には地質ファンにはお馴染みの「玄武洞」がある。私は「城崎温泉」方面を訪れた際には必ずこの場所に建ち寄るのだが、初期の頃の感動は薄れつつあり、今回が最後の訪問になると思った。

水平状態の柱状節理

 火成岩の柱状節理といえばこの玄武洞福井県の「東尋坊」が日本ではもっともよく知られている存在だろうか。だが実際には日本全国、いたるところで見ることできる。ただ、人々がその存在に関心を持つか否かだけであり、柱状節理の現存在は人がそれに意味を見出すかどうかにかかわっている。

 なお、玄武洞の名は、その形状が伝説上の動物である「玄武」に似ていることから、江戸時代後期の儒学者である柴野栗山が命名した。また、この岩石の和名はこの「玄武洞」の名から採られて「玄武岩」とつけられた。

城崎温泉に寄らずに日本海を西進

城崎名物、津居山ガニが水揚げされる漁港

 城崎温泉には次の日に立ち寄ることにして、私は円山川日本海方面に向かって下った。河口付近にはいくつかの漁港があり、この付近の地名(津居山湾)から「津居山漁港」と名付けられている。ここは松葉ガニの水揚げ港として知られており、この地で捕れたカニは「津居山がに」と呼ばれている。

御待岬から城崎マリンワールド近辺の海岸線を望む

 津居山漁港から西に向かった。県道11号線(r11、但馬漁火ライン)は香美町で国道178号線に出会うまで、山陰海岸沿いをうねうねと西へと続いている。先に挙げたr665とこのr11が私は大好きな道で、山陰海岸の魅力はこの2つの県道に多く詰まっていると勝手に思っている。

 津居山湾から西に1キロほど進んだところに「城崎マリンワールド」があった。水族館には興味があるので立ち寄るつもりでいたが、駐車場が大混雑していてすぐには入れそうになかったために通り過ぎることにした。

 写真は、マリンワールドを過ぎた先にある「御待岬」のヘアピンカーブ(見晴らしが良いので駐車スペースが確保されていた)から東方向を眺めたもの。海岸線の近くには波食台の名残りが数多く見えることから、一帯が隆起海岸であることが良く分かる。 

マリンワールド沖の島。竜宮城がある

 マリンワールドの沖合には「後ヶ島」が浮かんでいる。島には竜宮城が造られ、かつては遊覧船に乗って島に渡り、その姿を楽しむことができたらしいが、現在では廃墟になってしまっている。乙姫様が老いてしまったからだろうか。

 ただし、島には遊漁船で渡ることができるようで、現在では格好の磯釣り場になっている(そうだ)。もちろん獲物はタイやヒラメであるはずだ。

青井浜海岸

 御待岬から写真の青井浜海岸までは山間部を走る九十九折りの道が続いている。私がよく使う西伊豆の大瀬崎から戸田港に向かう道によく似ているが、ところどころで顔をのぞかせる海の色はやや黒みがかった伊豆の海の色とは異なり、相当に澄んだ明るい色をしている。また、海岸沿いには平べったい小さな岩が無数にちりばめられている点も違っている。

 写真から分かるとおり一帯は白い砂浜からできており、崖の下にもそうした白い浅瀬が続いているため、海を明るく輝かせているのだろう。

切浜海岸と集落

 青井浜のすぐ西隣には竹野海岸があってかなり広めの砂浜が展開されている。その横には猫崎半島が北に突き出している。この半島は西側の海岸線が魅力的なのだが、そこには翌日に寄ることにして、r11を西へと進んだ。

 写真の切浜海岸も美しい砂浜を有しているが、ここも次の日に立ち寄ることにしている。 

はさかり岩と呼ばれる奇岩

 写真は「はさかり岩」と呼ばれる奇岩で、切浜地区を代表する観光スポットである。この奇岩が見物できるようにr11の路肩には駐車スペースが整備されている。

 ”はさかり”とは但馬地方の方言で、「挟まる」を意味している。凝灰角礫岩の海食洞穴の浸食が進み、天井部分が崩落して両側の壁に挟まってできたと考えられている。偶然の産物なのだろうが、その造形はある種の物語を構成しているようだ。

◎余部橋梁と”空の駅”餘部(あまるべ)

40年近く前に列車転落事故を起こした余部鉄橋

 この日の宿泊地は香美町の香住地区。立ち寄る予定でいた何か所かの観光スポットを翌日回しにしたため、予定よりも3時間早く宿に着いてしまった。夕食は外でとることにしていたのでチェックインだけを済ませ、明日に出掛けることにしていた「余部橋梁」まで足を伸ばしてみることにした。この橋梁が、今回の山陰の旅の最西端となる。

コンクリート製になった余部橋梁

 旧余部橋梁は、1912年に完成した山陰本線の鉄橋である。この辺りの山陰本線はほとんど山の中を走るが、川(長谷川)が流れる部分だけ土地が平坦に開かれている。そのため鉄道は平らな陸上を通過することもできるが、そうなると東西に存在する山々に造るトンネルはどうしても長大になる。そこで設計者はトンネル部分を短くするため線路に傾斜を付けて標高を稼いだ。結果、橋梁は高い場所に設置することになった。

 11基の橋脚に支えられた鉄橋は、川からレールまでの高さが41.5mもあった。朱に塗られた橋脚はまことに見事な景観を構成したが、日本海から吹き付ける強い風に鉄橋はよく煽られ、ボルト、ナットなどの部品の落下などにより橋下の住民には迷惑な存在でもあった。

古い鉄橋も一部だけ保存されている

 1986年、機関車に牽引された回送中の客車7両が強風を受けて橋から落下した。回送列車であったために乗客はいなかったものの、車両の直撃を受けた橋直下にあった工場や民家は大きな被害を受け、死者6名、重傷者6名を出す大惨事となった。

 この事故を受けて橋は改良工事がおこなわれたが、その後、鉄橋からコンクリート橋に置き換えるため、2007年から工事がスタートし10年に完成した。これが現在の余部橋梁である。

新旧の橋梁が並ぶ

 橋梁の西側には餘部(あまるべ)駅があり、余部クリスタルタワーを使って(無料のエレベーター)上り下りができる。私のような徘徊者や見物者は自由に「空の駅」という愛称が付けられた餘部駅のホームに立ち入ることが可能なのだ。本当は列車に乗って隣の鎧(よろい)駅まで往復して橋梁上から日本海を眺めたかったのだが、列車の本数は日中の八高線並みの数しか運行されていないのでそんな時間的余裕はなかった。その体験は次回(その機会があれば)に持ち越すことにした。

専用のエレベーターで餘部(あまるべ)駅に上る

 コンクリート橋梁の隣には、旧鉄橋の線路と橋の一部が残されている。写真は、餘部駅の西側から東方向を望んだもの。

クリスタルタワーの隙間から残された線路をのぞく

 クリスタルタワーの隙間から、旧鉄橋部分の線路を見ることができる。

ホームから海岸線を望む

 ホームからは日本海を望むことができる。このとき、東側に小さな港があるのを発見した。

列車が橋梁を渡ってきた

 サラリーマン風の人がホームの東端に立ってカメラを構えていた。時刻表を確認すると、まもなく鳥取行きの普通列車が入線することが分かった。もっとも撮影に適した場所にはその人物がいたため、私は一歩退いた場所からカメラを構えた。

鳥取行きの普通列車

 その男性は愛知県の住人で、会社の出張で神戸に来ることになり、仕事を終えてから一日休暇を取り、余部橋梁まで写真を撮りに訪れたとのこと。その人物は己のもの好きなことを笑いながら語っていたが、私が東京の田舎からやってきたことを告げると、自分よりおかしな人物がいることを知り、いささか呆れたような表情を現わした。

かつての鉄骨も一部は残されている

 その人物にとって37年前の事故は少年期のことだったが、列車転落事故のことは今でも記憶に強く残っており、いつかはこの場所に訪れたいと思っていたそうだ。一方、私にはその前年の日航機墜落事故とともにこの事故についても鮮明な記憶があった。そんな話を彼と30分ほど語った。

保存された橋脚の土台

 エレベーターで地上に降り、彼と別れたのち、私は周囲を歩きまわった。ひとつ上の写真のように、橋脚の一部は現在でも残されており、また鉄骨が撤去された場所にも写真のような土台が残されていた。

餘部駅から見えた小さな漁港

 餘部駅のホーム上から見えた小さな漁港にも立ち寄ることにした。しかし、港に通じる狭い道路の上には数多くの落石が放置されており、崖は今にも崩れ落ちそうな様相を呈していた。道には「関係者以外立ち入り禁止」の看板もあったため、港まで行くことは断念した。

◎誰にでも分かる奇岩の名前~今子浦海岸

夕日を受けて赤く染まる今子浦の断崖

 宿に戻る途中、香住湾の東端にある今子浦海水浴場近くの岩場に立ち寄った。夕日が美しい名所として人気がのあるとの情報を得ていたからだ。波食台に立って落陽を待ち望んだのだが、夕日は断崖を少しだけ赤く染めただけで、霞の中に隠れてしまった。

今子浦の奇岩

 今子浦には奇岩があった。その名を聞かずとも、誰もが納得する姿をした「カエル岩」をしばし見物した後、浦を離れてこの日の宿に向かった。