徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔72〕八高線とその沿線を楽しむ(3)高崎駅から寄居駅と町。そして新しき村

ここにしかない八高線同士のすれ違い

寄居町散歩

荒川の流れを望む

 高崎駅に向かう前、少しだけ寄居町周辺を歩いた。といっても、南口ロータリー付近は再開発のための大工事がおこなわれているので、いにしえの面影を偲ぶことはできない。それゆえ、駅からそれほど遠い位置ではない「鉢形城跡」を少しだけ訪ねることにした。

 写真は荒川に架かる「正喜橋」から川の流れを眺めたもの。この辺り(鉢形河原)は岩盤と石の河原とで形成されているため、水遊び場として賑わう場所である。

鉢形城の復元地形模型

 荒川を渡るとすぐに鉢形城跡が見えてくる。その辺りは城の敷地の東側で(搦め手)で、大手門はずっと西側の八高線の線路近くにある。ただ、寄居駅からのアクセスは東側のほうが良いので、今回はこちら側を少しだけ散策した。

 四阿(あずまや)のある広場には、写真の「復元地形模型」があり、この城が、谷深い荒川と深沢川とに挟まれた断崖絶壁の自然の要害に築かれたということが、この模型からもよく分かる。

城跡内から荒川を望む

 広場から、荒川右岸に沿って整備された道を本丸方向に進んだ。四阿、正喜橋、荒川の流れが見て取れる。

かつて御殿があったとされる場所

 鉢形城は1476年、関東管領山内上杉家の家臣、長尾景春が築城したとされる。のちに北条氏康(小田原北条氏三代目)の四男である氏邦が整備拡充し、有数の平山城になった。

城跡から寄居市街方向を望む

 1590年、秀吉の小田原攻めの一環として、前田利家上杉景勝真田昌幸率いる北国支隊に浅野長政勢を合わせて5万ともいわれる軍勢が攻め込み、一方の鉢形城は3500人で守備していた。約一か月の籠城の末、6月14日に開城した。

本丸跡を示す碑

 鉢形城の本丸は、荒川右岸の断崖絶壁の上にあった。

建造物は一切、残っていない

 建築物はまったく残っていないが、その立地条件から、極めて攻めにくい城であることがよく分かる。

荒川右岸側に面した高台

 荒川に面した側は少し高台になっていて、周囲の様子がよく見渡せる状態にある。

本丸のある高台を見上げる

 御殿曲輪があったとされる場所から本丸があった場所を見上げた。このように変化に富んだ地形は、西側にある二の丸や三の丸に当時の土塁や堀が一層よく残っている。本来ならばそちらも訪ねたいところだが、私には八高線の旅が待っているので、今回は省略した(いつもは車で訪ねるのだが、今回は徒歩だったために歩くのが面倒だっただけ)。 

高崎行きの列車に乗り込んだのだが

 寄居駅に戻り、八高線に乗って高崎駅を目指す旅を再開した。寄居から先はまだ乗ったことがなかったので当然、前面が展望できる場所に位置して鉄路や周囲の様子を撮影するつもりでいたが、私が乗り込んだ列車の運転席の後ろの好場所には高そうなカメラをぶら下げている3人の少年が陣取っていた。

 そこは八高線の悲しさで、時間の関係上、次の列車に期待するという訳にはいかないために撮影は断念し、車窓から沿線の景観をよく観察し、帰りの列車で撮影したいポイントをチェックすることにした。

高崎駅周辺

花の街・高崎

 高崎駅に降りたのは今回が初めて。というより、市街地に足を踏み入れたことさえ一度もなかった。高崎と言っても、遠目に高崎観音を視認したぐらいだろうか。妙義山碓氷峠榛名山周辺は車でよく出掛けたのだが、宿泊地は決まって前橋で、そこから赤城山足尾銅山へと進むのが私のお定まりのコースだ。

 今回、八高線を利用して高崎駅にやってきたのだが、町並みが綺麗だったのには驚かされた。このときは「フラワーフェスティバル」が開催されていたこともあり、街中は”花だらけ”であった。

高崎城址の石垣

 特にあてはなかったが、とりあえず「高崎城址公園」に立ち寄ってみた。高崎城は1598(慶長三)年、家康の命を受けて箕輪城主の井伊直政が築城したとされている。現在は三の丸外囲、お堀、復元された石垣や乾櫓などが残っているだけで、約5haの広大な敷地は城址公園、21階建ての市役所、群馬音楽センターなどに利用されている。

乾櫓が残る

 写真は、復元された「乾櫓」。この櫓だけが、かつてここが城であったことが明確になる建築物である。

華(花)の卒業式

 城址公園の中を歩いてみた。この日は近くのホールで高崎経済大学の卒業式があったようで、袴姿に着飾った彼女を満開の桜の下に立たせて記念撮影をおこなうという微笑ましい姿があった。一方、後ろにいるオッサンは花壇の花たちをスマホで撮影していた。

 この日も、春は爛漫だった。 

賑やかな高崎駅構内

 折角なので、駅の東口ものぞいてみることにした。駅構内はかなりの人出があった。何しろ、この駅には北陸・上越新幹線も停車するのだ。

東口ロータリー

 東口には、整った街並みが広がっていた。近年、この辺りは再開発が急速に進んでいるようだ。駅前ロータリーは整然としており、周辺の道路の道幅もかなり広い。

ペデストリアンデッキ

 東口から伸びる屋根付き照明付きのペデストリアンデッキは、新設された高崎芸術劇場やGメッセ群馬(群馬コンベンションセンター)に通じている。

 駅前の街並みは立派になっているが、高崎市の人口は決して増えているわけではない。人が中心部に吸い上げられるということは周辺部の過疎化を推し進めることにつながる。それが人々にとってどう利益不利益になるのかは誰にも分からない。

高崎駅から児玉駅

寄居駅に向かいたいのだが

 八高線八王子駅に戻ることにした。次の列車は高麗川行きではなく児玉行きだった。これに乗っても児玉駅で次の列車を待つことになる。その一方、この列車ならば利用客は少なく、それゆえ運転席のすぐ後ろの場所に陣取る人はいないだろうと思い、とりあえず児玉駅まで利用することにした。

八高線のホームだけが短い

 高崎駅には、新幹線だけでなく湘南新宿ライン上野東京ライン高崎線上越線吾妻線両毛線信越本線が乗り入れている。それらの間に八高線の3番線ホームがあり、写真から分かるとおり、八高線のものだけが短く設定されている。

列車の入線

 児玉行きとなる列車が入線してきた。列車を待つ人は予想より多かったが、それでも、カメラを持参している少年の姿はなかったので、撮影場所は確保できそうだった。

まずまずの数の乗客

 乗客には若者の集団があったが、八高線には乗り慣れている様子だったので、私のライバルにはなりそうもないと判断した。

お隣のホームは0番線

 写真の上信鉄道上信線(高崎・下仁田間)は高崎駅の一番西にあり、そのホームは0番線となっている。ホームの反対側が1番線なのだろうが現在は使用されていない。

 車両に記されている「群馬サファリパーク」(1981年開業)は富岡市にあるので、確かに上信鉄道沿線には違いない。この手の場所には、はるか以前に「宮崎サファリパーク」に行ったことがある。1975年に日本で最初のサファリパークとして開業し86年には閉鎖されている。開業されて間もない時期だったので、おそらく75年に行ったはずだ。それ以外の記憶はほとんどない。

高崎駅を出発

 無事に運転席のすぐ後ろの場所が確保できた。列車は次の倉賀野駅に向けて出発した。

複雑な線路

 八高線八王子駅倉賀野駅とを結ぶ路線なのだが、実際には高崎駅に乗り入れている。この区間高崎線の線路を利用しているがホームは異なるため、写真のようにな複雑に線路を移動しながら高崎線へと乗り入れている。

間借りの線路ですれ違う

 単線のはずの八高線だが、この区間高崎線の線路を間借りしているので、この区間だけは複線になる。そのため、写真のように高崎行きの列車とすれ違う様子を目にすることができた。中央線や京王線ではごく当たり前の景色だが、八高線では貴重なカットとなる。

高崎線上を進む

 まだまだ高崎線の軌道を進み、次の倉賀野駅を目指す。

 

まもなく倉賀野駅

 まもなく倉賀野駅。ホームは長いが、八高線が利用するのはほんの少しだけの距離にすぎない。倉賀野駅八高線の終点駅(形式上の)であるが、駅としての所属は高崎線となる。

桃太郎参上

 倉賀野駅は貨物基地でもある。基地には写真の「エコパワー・桃太郎」の愛称があるEF210型電気機関車が停めてあった。

烏川橋梁

 倉賀野駅を離れると、すぐに利根川の支流である烏川を越える。この線路はまだ高崎線のものである。

まもなく高崎線から分岐

 写真の場所から八高線高崎線の軌道から離れ、独自の線路を進むことになる。

まもなく高崎線とお別れ

 しばらくは高崎線の道床を使って真ん中の線路を進む。ただし上方を見ると、八高線にだけは架線がないことが分かる。これを道床異無というのかも。

右に曲がって独自の道へ

 高崎線は東へ、八高線は南へ進むため、八高線の線路は高崎線の下り線路を越えて進むことになる。八高線が右に曲がる場所に古い転轍機が残されているが、いまやまったく用をなしていない。

ここからは自前の道を進む

 高崎線の道床を離れるとすぐに北藤岡駅に到着する。ここから八高線は南に進路を取り、秩父山地の東縁を目指すことになる。

まもなく北藤岡

 まもなく北藤岡駅。すぐ隣には高崎線が走っているのだが、そちらには駅はなく、ただ八高線にだけ「北藤岡」の名の駅がある。

上を走るは新幹線

 北藤岡駅を離れ、次の群馬藤岡駅を目指して進んでいく。前方には、北陸・上越新幹線の高架橋が見える。

まもなく群馬藤岡駅

 まもなく群馬藤岡駅に到着。この駅で、高崎駅から乗り込んだ若者たちが降りて行った。地図で確認した限り、近くに学校はなさそう。神流川左岸にはグラウンドがあるので、そこへ行くのだろうか。

意外に立派な設備があった

 利用客がそれなりに居る駅のようなので、非電化区間八高線には珍しく自動改札機が数列、整備されている。 

春の中を走る

 この辺りは平地が広がっているので、住宅地があったり田畑かあったりと、典型的は田舎の風景の中を八高線は進んで行く。

前方には秩父の山々が

 前方には秩父の山々が近づいてきたが、八高線はそれを避けるように進んでいく。

 

まもなく神流川橋梁

 神流川(かんながわ)橋梁が見えてきた。私にとって神流川はいろいろな体験をした思い出深い河川なのである。

下流部は緩やかに流れるが

 この辺りは緩やかな流れだが、数キロ上流からは急に山深くなる。上流部には下久保ダムがあってその上に神流湖がある。その先からはアユ釣り場としてよく知られた流れがあり、最上流部の上野村付近の流れでは渓流釣りが楽しめる。一時期、その一帯によく通ってヤマメ釣りをおこなった。神流川の名前がまだ多くの人に知られていない頃のことだ。

 1985年8月12日18時56分、神流川の源流のひとつであるスゲノ沢近くの尾根に日本航空123便が墜落した。以来、神流川の名前も上野村の名前もニュースなどでよく取り上げられ、一躍全国区的存在になった。事故後しばらくは神流川に通うことはなくなったが、数年後にアユ釣りを始めたこともあって、今度は友釣りのために出掛けるようになった。

 群馬県は雷が多いことでよく知られている。雷が大の苦手である私は、アユ釣りの際にもしばしば中断もしくは納竿を余儀なくされた。緑は深く、流れは清冽、魚体は美しく、村の人々はとても親切だった。ただ雷が多いことだけがこの場所の短所だと思っていた。

 そんな場所に、ジャンボ機は墜落したのである。

まもなく丹荘駅

 もうすぐ丹荘駅に到着。右手には列車交換用のホームが残っている。が、使われている様子はなかった。

交換駅だった面影が

 駅名表示板は外され、レールには錆が浮いている。

 JRでは不採算路線の廃線を進めている。旧国鉄の時代の廃線基準は一日の平均通過人数(輸送密度)が2000~4000人だった。八高線でいえば、八王子・拝島間は22689人、拝島・高麗川間は10220人、高麗川・倉賀野間は1672人である(いずれも2020年調査)。ちなみに同調査によれば、山手線は720374人、南武線は148630人、青梅線の立川・拝島間は140281人、青梅・奥多摩間は2897人、五日市線は18236人だ。

 もっとも、2020年はコロナ禍の影響でほとんどの路線で19年に比べて大きく減少している。たとえば山手線の19年は1121254人で、八高線高麗川・倉賀野間は2994人だった。山手線は前年の64%、八高線の非電化区間は56%(南武線は73%、横浜線は70%)なので、八高線の利用者減少はコロナ禍が理由とばかりは言えない。そもそも八高線では「密」になることは滅多にない。

 青梅線の青梅・奥多摩間は廃線の検討、八高線の非電化区間は運行困難路線として廃線が決定されてもおかしくない利用率である。地方のインフラは採算だけでその存在非存在を決定すべきではないはずだが、その一方で、企業である以上、赤字をそのまま放置することもできまい。

 そう遠くない何時か、八高線からは線路が撤去されて道床は舗装され、その上をバスが走っている姿を見るようになるかもしれない。私の場合、その前に神から「You are fired!」と宣告されているだろうけれど。

児玉駅に向かって出発進行

 次は児玉駅だ。真っ直ぐにレールが敷けるほど、周囲にはさしたる障害物はない。

美しい田園風景

 車窓からは、よく整った美しい田園風景を望むことができる。

メガソーラー施設も多い

 平地には工場が進出していたり、写真のようなメガソーラー施設を見掛けたりすることもある。

いつもなら列車は来ないはずなのに

 まもなく児玉駅。どこかの場所で故障が発生したらしく、この列車は数分遅れで駅に到着する。いつもとは少し違った時間に踏切が閉まったことで、自転車に乗った子供はちょっぴり怪訝そうな表情で列車を見つめていた。

児玉駅に入線

 児玉駅に入線した。この列車はここが終点になる。

◎児玉といえば

この列車はここが終点

 児玉駅で降りた乗客は数人。2両連結ではもったいないほどの余裕があった。

小さな駅舎

 一部の列車が終点にするほどの駅にもかかわらず、駅舎はかなり小さめ。無人駅だったので、この近くに売店やコンビニがあるかどうか尋ねたかったのだが。私は昼食をとることを失念していたのだ。

児玉町といえば塙保己一の生誕地

 児玉町と聞けばすぐに塙保己一はなわほきいち、1746~1821)を思い浮かべるほど、この町(現在は本庄市児玉町)にとって、いや、日本にとって彼は誇るべき存在なのだ。私は神流川に釣りに出掛ける際には関越道の本庄児玉インターを下りて、国道462号線を西に進んで川に向かう。その際、児玉町を通るときは必ず、塙保己一に黙祷を捧げる。

 彼は7歳の時に失明した。手のひらに文字を書いてもらって字を覚え、文章は読んでもらえば一度ですべて丸暗記できた。検校の道は彼には困難だったが、一方で学才が認められて学問の道に進むことにした。国学、和歌、漢学、神道律令、医学などあらゆる分野の学問を学び、そしてそのすべてを暗記した。

 水戸藩の『大日本史』の校正や歴史資料の編纂をおこない、彼のおこなった作業は現在の東京大学史料編纂所に受け継がれている。平田篤胤頼山陽は彼に多くを学んでいる。彼の業績は『群書類従』にまとめられ、彼のお陰で江戸時代後期までの日本の歴史や文化、文学について我々は知ることができるのだ。

 ヘレンケラーは彼の存在を知って人生の目標を立てることができた。現在では女性の医者は珍しくないが、その道を切り開いたのは彼の業績だ。原稿用紙が20×20の400字詰なのも『群書類従』の編纂過程で決まったものである。

売店を探したのだけれど

 それはともかくとして、私は塙大先生のことよりもこのときは空腹に苦しんでいたため、売店やコンビニを探して駅近くを歩き回った。駅前広場が写真の通りであるように、食品を扱う店は皆無だった。国道にも出て少し見渡してみたのだが、食べ物を入手できる店は見当たらなかった。残念至極だったが食料入手は諦めざるを得ず、私は駅に戻って次の列車を待つことにした。

児玉駅から寄居駅

 次の高麗川行きは10数分遅れて児玉駅に到着した。しかし、八高線は1,2時間に一本なので、次の列車に乗るはずの人が一本早い列車に乗れてしまったということはない。

小山川(利根川の支流)橋梁に向かう

 次の松久駅に向けて出発した列車は、利根川の支流の小山川を越えて行く。神流川と言い小山川と言い、この辺りには利根川の大支流が流れ込んでいるため、沖積平野が広がっているのだ。

松久駅に入線

 松久駅に入線。この付近にはまったく不案内なので、駅の周囲に何があるかは全く不明だ。

簡素な松久駅

 とてもさっぱりとした松久駅の改札口。この駅を利用する若者たちには、時間はゆっくりと流れているだろう。それが貴重な時間であったことは、彼・彼女らが都会に出てみるとよく分かるはずだ。

用土駅に向かう

 次の用土駅に向かって出発進行。前面には、八高線沿線ではすっかりお馴染みとなった景色が広がっている。

用土駅に入線

 

 用土駅に入線。ここも、かつては列車交換駅だったようだ。線路の曲がり具合と左手の空き地の存在が、かつてここにはホームがあったという証拠になっている。

用土駅の改札

 ここもまた簡素な改札口。用土、松久、丹荘の各駅の名前からはそこがどんな町(集落)だったのか全く見当がつかないばかりでなく、地理上の位置すら私にはさっぱり分からない。国道254号線が八高線の近くを通っているが、その国道は東松山から寄居までは使うことはあってもその先を使うことはないからだ。もっとも、富岡から下仁田に抜けて妙義山方向に進む際にはその国道を使うことになるが。

寄居駅に向かう

 用土駅から寄居駅に向かって列車は進む。西日が斜め右側から差し込んでくるので前方はやや見づらい。

秩父鉄道との出会い

 寄居駅に近づくと、左手から秩父鉄道の線路が迫ってきた。

秩父鉄道と並走

 寄居駅までは秩父鉄道と並走する。そちらは電化されているので電柱やら架線やらが賑やかだ。

まもなく寄居駅

 まもなく寄居駅に到着。線路は複雑に入り組んでいるが、これらの多くは、かつての黄金期(八高線にもあったはずだ)を物語っている。

寄居駅に入線

 寄居駅に入線。窓ガラスと運転席後ろのアクリル板に西日が反射するため、かなり見づらい前面展望になっている。

寄居駅を離れ、八王子駅

寄居駅を離れる

 すでに寄居駅には立ち寄っているため、帰りはこのまま高麗川駅まで乗っていくことにした。

荒川を渡る

 荒川橋梁を渡る。帰り(上り)は秩父山地を前方に見ることになるので、下り方向とは前方に展開される景色はかなり異なっている。

夕まずめ八王子駅

 寄居駅以南の撮影は、日が陰ってきたこともあって撮影はしなかった。高麗川駅で川越から来た電車に乗り換え、写真の八王子駅に無事到着した。

 夕方の八王子駅は、八高線と言えどもそれなりに混雑していた。もっとも、多くは拝島駅で降り、さらに高麗川駅に到着するまでに大半は消え去るはずだ。

 5回目の八高線乗車はあるかと聞かれたら、80%の確率で「否」と答えるだろうか。これからも八高線沿線には数多く出かけるだろうが、それと八高線を利用するということとは別だからだ。

 鉄道に乗るのは好きだが、鉄道のある風景に触れることのほうがより興味があるからだ。

新しき村を訪ねて

村の入口

 別の日に「新しき村」に出掛けてみた。近くを通ったことは何度かあったし、県道30号線を走っている際には「新しき村」の標識を幾度となく見掛けていたが、村の中に入るのは今回が初めてだ。

村の玄関口

 「新しき村」は1918年、武者小路実篤が中心となって格別の理念を掲げ、宮崎県に建設された村落共同体だ。が、近くにダムが建設されることになって農地の一部が水没してしまうため、39年、一部が毛呂山町に移転してきた。ここは10haの敷地を有し、最盛期には60人もの村人が居住していた。

 大きな養鶏場があって最盛期には5万羽以上飼育し、年間3億円もの収益を得ていた。現在は廃業し、代わって多くのソーラーパネルを敷地内に設置し、売電によって村費を得ているようだ。

村のギャラリー

 ギャラリーでは作品展が開催されていた。訪れる人は見掛けなかったが、誰でも自由に見学できるはずだ。

新しき村の精神を知る

 一角に、「新しき村の精神」が掲げられていた。自他共生は理念としては正しいが、いざ実践となると困難だらけとなる。顔が見える小さな集団では感情の対立が発生するだろうし、顔の見えない大きな集団では、何で俺が知らない奴のために努力しなければならないのかという疑問が必ず付き纏う。

 そうはいっても、理念なき社会では欲望がむき出しの新自由主義という最悪に近い価値観が幅を利かせてしまう。理念を実現するためには、自己を再帰的に見つめるということから始めるべきだろう。それが第一歩目だ。

入植当時の小屋

 入植当初に造られた小屋が展示してあった。こんな質素な小屋で気宇壮大な理念を抱く人々が生活していたのだ。

村の美術館

 美術館があった。少し広めの個人住宅といった風情。私は美術は(も)不得手なので入館はしなかった。

村の公会堂

 美術館の向かいには、写真の「公会堂兼売店兼食堂」の建物があった。

会合の案内

 写真の「大信荘」で毎月開催される「喜楽会」のお知らせ。第4日曜日の前の土曜日、夜7~9時に開かれる。参加費は100円。新しき村について知りたい人を歓迎するとのこと。

田畑とサギ

 南側には田畑が広がっている。作業する人の姿は見掛けなかったが、あぜ道を散策する近隣の人々と、餌を探すサギの姿があった。

寄贈された都電

 田畑の北側の高台には、写真の「都電」が展示してあった。新しき村の幼稚園児のために寄贈されたものだが、幼稚園が廃止されてからは近隣の子供たちの遊び場として利用され、古くなった後には多くの人々の手によって改修されて現在に至っているとのこと。

田畑から八高線を望む

 「都電」が見つめる先には八高線の線路があり、八高線の列車が走っていた。そのときはカメラを構えていなかったので撮影はできなかった。

 スマホで時刻表を調べると、20分後くらいに下り列車が通過することが分かったので、田畑を散策しながら時間をつぶし、そして撮影に適した場所を探した。

 背後にある埼玉医科大学のグランドには照明の火が入れられている。薄暗くなりはじめた時間帯なので列車の撮影は難しいかなと思ったが、何カットかのうち一枚だけ使えそうなものがあったので掲載した。

 一両編成の八高線は北に向かっていた。私は車に戻って南へと帰っていった。

  *   *   *

 5月15日から23日まで、若狭湾から山陰東部の海岸線(敦賀から余部まで)を散策します。今回は、できれば毎日、出掛けた場所の写真を数枚掲載し、帰宅後に探訪記を数回に分けて掲載する予定です。

 敦賀半島三方五湖、小浜、舞鶴由良川天橋立、伊根の舟屋、経ヶ岬、丹後松島、間人温泉、琴引浜、夕日ヶ浦、久美浜、タンゴ鉄道、玄武洞城崎温泉、香住浜、余部鉄橋などに立ち寄ります。帰りには、京都、近江八幡彦根醒井にも寄るつもりです。