徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔97〕山陽路の帰りに(1)松陰神社・須佐・津和野を訪ねる

山陰本線・惣郷川橋梁

松陰神社を巡って

松陰神社の大鳥居

 私が萩を訪れる最大の理由は「松陰神社」に出掛けることだ。時間が無くて萩城や萩城下町を歩くことは省略しても、この松陰神社だけは必ず立ち寄る。もっとも、ここでも参拝はしないのだが。

 松陰先生(1830~59年)と私とは価値観がまったく異なる。正反対であるといっても過言ではない。共通点があるとすれば、陽明学左派の「李卓吾」の思想に共感したこと、短期間ではあるが「教育者」であったことか。しかし、松陰先生は優れた人材を育てたが、私はほぼ誰にも影響を与えていない点は、やはり正反対の存在だと言えるだろう。

 それでも松陰先生を尊崇するのは、その生き様にある種の”憧れ”をずっと抱き続けてきたことにあるのかもしれない。そのことについては、本ブログの第9回で東急世田谷線に乗って「松陰神社」に訪れた際に述べているので、ここではとくに触れない。

松陰塾~学びの道

 松下村塾跡の北側には新たに「学びの道」が整備されていた。碑にあるように、「学は人たる所以を学ぶなり」とあるが、この松陰先生の言葉が現代の政治家に伝わっているとはとても思えない。

 明治維新以降現在に至るまで、山口県は数多くの政治家を輩出し、しかも要職につくものが多いものの、松陰先生の教えを忠実に実践した人物が登場した形跡はほとんどない。こうした反省もあって「松陰塾」が生まれたのだとすれば慶賀の至りだが、はたして現実はどうだろうか?

松下村塾

 松下村塾は松陰先生の叔父である玉木文之進が始めた私塾。先生は5歳のときから玉木の英才教育(スパルタ教育)を受け、9歳のときに藩校の明倫館の兵学師範になり、11歳のときは藩主の毛利敬親に『武教全書』の進講をおこなうなど、早熟の天才であった。

 ただ彼は勉学だけに勤しんだ人物ではなく「行動の人」でもあった。1850年には平戸藩に遊学、さらに江戸に出て山鹿素水、佐久間象山に学んだ。1852年には交流のあった宮部鼎蔵と東北旅行を計画するが、通行手形の発行が間に合わなかったため無許可で旅に出た。これは脱藩行為であったことから帰国後、士籍剝奪、世禄没収の処分を受けた。

 1854年にペリーが下田に再来航すると、彼は金子重之輔とともに下田に出掛け、小舟を盗んで米船への乗艦を試みた。これは第9回のところでも触れているが、アメリカに渡航するという説とペリーを暗殺するという説があり、私は後者を支持している。この行為によって松陰先生は野山獄に幽囚された。

 55年に出獄し、実家の杉家に幽閉されるが、そこで松陰先生は講義を再開し、57年に松下村塾で本格的に講義をおこなった。が、58年に日米修好通商条約が締結されるとこれに激怒し、倒幕論を展開するようになった。

 この過激な思想が幕府から睨まれたために長州藩は先生を再び、野山獄に幽閉した。が、翌59年の「安政の大獄」によって処刑された。

 身はたとひ 武蔵野の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂

これが先生の辞世の歌である。 

塾の講義室

 塾の講義室は八畳一間とかなり狭い。ここで高杉晋作久坂玄瑞吉田稔麿伊藤博文入江九一山縣有朋などが学んだのかと思うと感慨は一入である。

 なお、講義室はこの八畳の間のほかに十畳半の間も増築されている。総床面積は45.5平米というから、現在の2DKの安手の賃貸マンションほどの広さである。

本殿で舞いの練習

 参拝はしないものの、本殿を覗くと丁度、二人の巫女が手に鈴をもって奉納の舞(巫女舞、鈴舞)の練習をおこなっていた。まだ見習いなのか少しぎこちない動きをしていたが、こうした姿はとても美しいと思えた。

吉田松陰歴史館

松陰先生、ポーハタン号を目指す

 境内には松陰先生の、短いながら激しい生涯を20シーン、70数体の等身大?の蝋人形で再現?している。蝋人形はなかなかリアリティを感じるが、当時の写真などは存在しないので、考えてみればやりすぎの感はあった。が、先生を敬愛してやまない人々が想像力と創造力を駆使して作成したものだけに、吉田松陰という存在に関心があるが実際のところはよく知らないという人にはお勧めできるかも。ナレーションも分かりやすい。なお、入場料は500円とまあ妥当。

◎笠山~世界一低い(小さい)火山!?

笠山を東方向から眺める

 松陰神社を離れ、私は国道191号線に出て山陰海岸を須佐まで東進することにした。写真は萩市街のほど近い場所にある「世界一低い(小さい)火山」と称されている笠山を望んだものだ。

 もっとも、笠山の姿は萩城跡のすぐ横にある菊が浜からよく見えた(この浜にあるホテルに宿泊した)のだが、山全体の写真を撮り忘れ、かつ翌日に向かう途中でも撮影しなかった。そのため、笠山を離れた東側の海岸線からあわてて撮ったことから、山の南半分が険しい海岸線によって隠れてしまっている。

 この山は名は体を表すのごとく、笠(市女笠)のような形をしているために左右対称なので姿形は容易に想像できると思う。

標高は112m

 笠山は「阿武火山群」に属し安山岩質の単成火山である。約11400年前の噴火で厚い溶岩流ができ、8800年前の小噴火で中央にスコリア丘(噴石丘)ができたものである。そのため、溶岩流部分が笠の縁、スコリア丘部分が笠の頭部のように見えることから笠山と名付けられた。

 スコリア丘という言葉は馴染みが薄いが、噴火の際に出る岩滓からなる丘(山)のことで、関東に住む人にはお馴染みの、東伊豆(伊東市)にある大室山(標高580m)を思い浮かべてもらうと分かりやすい。

 阿武火山群には40もの単成火山があるが、玄武岩安山岩、デイサイトからなるものがあることから姿形はそれぞれ異なる。なお、この火山群は2003年に活火山に指定された。

 笠山の標高は112m。世界で一番低い火山との表記もあるが、火山の定義はいろいろあることから、現在ではこの言葉はあまり使われていないようだ。

 写真にあるように、山頂一帯は「園地」として整備され、北麓にある野生のヤブツバキは25000本もあり、開花期には鑑賞に訪れる人が多いらしい。

噴火口を覗く

 ヤブツバキや国の天然記念物に指定されている自生のコウライタチバナ(現在は見学禁止中)の姿を見に行くのは大変だが、写真の噴火口は頂上のすぐ近くにある(当たり前だが)ので見物は容易だ。直径30m、深さ30mのサイズとのこと。

阿武火山群を望む

 頂上には綺麗な展望台が整備されており、その3階からの眺めは一見の価値がある。何しろ、萩沖には阿武火山群の火山が数多く海から顔をのぞかせているため、いろいろな形をした島の姿を眺めることができる。

 展望室には大きな写真とともに島の名前が記されているので島名はすぐに分かる。大きいほうは大島(人口586人)で小さいほうは櫃島(ひつしま、人口2人)だ。なお、人口は2023年4月1日現在のもの。

指月山を望む

 展望台からは指月山もよく見える。この山は阿武火山群には属さず、約1億年前にマグマだまりが冷え固まってできた花崗岩質の岩の塊りが浸食と風化によって山の形になったものと考えられている。

◎明神池をめぐる

汽水湖の明神池

 本土と笠山との間にあるのが明神池。砂州が伸びて笠山が陸繋化した際に埋め残されたことで池ができた。池は溶岩塊の隙間から海水が入り込んでくる汽水湖である。地元の漁師が大漁を祈願してこの池にマダイ、イシダイ、クロダイ、ボラ、スズキなどを放流しているので魚影はかなり濃い。また、訪れる人が餌を与えているので、魚はよく人に懐いている。さらに、そのエサを狙ってトンビがやってくるので、そのことを知っている人はエサをあえて高く撒いて、トンビと魚との共演を楽しんでいる。

池にはボラやマダイやクロダイの姿が

 私はエサを与えるより、どんな魚が浮いてくるのか興味があったことから、エサを撒いている人を見つけるとその人の近くに寄って魚の種類を数えてみた。上記の魚のほか、クサフグやエイの姿を見つけることができた。

厳島神社

 池の隣には厳島神社があった。萩の2代目藩主の毛利綱広が、元就が信仰していた安芸の厳島明神を勧請して分祀したものである。

風穴からは涼しい風が

 神社の奥や笠山に至る遊歩道の脇には写真のような溶岩塊を積み上げたような場所があり、その隙間からとても涼しい風が吹き出していた。こうした場所は笠山には数多く見られるそうだ。

 この風穴は、空気が冷たい冬には岩塊の隙間の奥にある広めの空間に冷気が入り込み、外界が暖かくなると中に溜まった空気が外に排出されるため、涼しい風が岩の隙間から噴き出てくる。天然のクーラーで、概ね15度ぐらいの風が出てくるので、夏場ならかなり冷たく感じるだろう。

◎険しい海岸線と惣郷川橋梁~橋は一見の価値あり

樹林帯が特徴的な姫島

 笠山・明神池を離れ、国道191号線を北北東に進んだ。海岸線がかなり変化に富んでいるために、ときには山の中を走り、ときには海岸線スレスレを走る。結構、海からの風が強くなってきているため、海がやや濁っているのが残念だが、波静かな時は澄んだコバルトブルーの世界と、その上に浮かぶ小島たちのコントラストが、心を芯から洗ってくれると思わせる山陰の世界がある。

 写真にある姫島は、花崗岩からなり標高は91.6mある。「姫島樹林」と呼ばれ、海面からは3つの樹林帯にはっきりと分かれているそうだ。下位にはハマビワ、ヒサカキ、中位にはクロマツ、上位にはスダジイやホソバカナワラビがぞれぞれ群生しているとのこと。

尾無港と惣郷集落を望む

 宇田郷を過ぎると正面にはそれなりの高さを持った山々が海岸線にせり出しているため、山陰本線はトンネルでそれを抜け、国道は谷間を進みつつトンネルも利用しながら、須佐の町へと進んで行く。

 写真に見える惣郷(そうごう)集落と尾無港に向かう道(県道343号線)があり、宇田郷を過ぎたあたりで、その道は国道と分かれる。県道は山中をうねうねと曲がりながら進んで須佐の町にたどり着くのだが、その途中、といってもそう遠くない場所にマニアにはよく知られた美しい橋梁があるというので、私は国道を離れて県道を進んでみた。

簡素な美しさ

 案の定、道は車のすれ違いが困難なほど狭い場所があったが、写真の場所からは道幅が広く取られていた。眼前にある惣郷川橋梁を眺めるためのスペースが取られていたのである。橋の向こう側には結構広めの駐車スペースも確保されていた。

列車が通れば良いのだが

 この橋梁は、山陰本線宇田郷駅から須佐駅の間にあり、白須川の上に架かる鉄筋コンクリート・ラーメンスラブ式の鉄道橋で、1932年に完成した。ちなみに、この橋が完成したことで山陰本線は全線が開通したとのことだ。

 長さは189m、高さは11.6m。電化されていない区間なので、とても簡素な造りであることが素敵だ。この橋に並びたてるのは、本ブログの第75回で紹介した京都丹後鉄道の由良川橋梁ぐらいではないかと思われた。第76回で紹介した余部橋梁も、コンクリート橋になる前の姿であれば、これらと同等の美しさを有していたのだが。

 こうして3つの橋梁の名を挙げてみると、すべて山陰地方にあるということに驚かされる。美しい海を有する山陰の海岸線には簡素な橋が良く似合うのだろう。

 何もこれは、太宰が書いた「富士には月見草が良く似合う」という皮肉を込めた表現では決してない。

夕日が似合いそうな白須川と橋梁

 橋を列車が通る姿を見てみたかったが、時刻表を調べるとあと2時間以上は待つ必要があった。何しろこの区間山陰本線は、一日8往復しかないのだ。

 また、山陰海岸には夕日の美しい名所が数多くあるが、この橋と列車と夕日とを画面に入れることのできるのは1.5往復しか選択肢はない。もっとも、曇りや雨の日ではお話にならないが。

 ともあれ、想像していたよりもはるかに素敵だった橋に触れることができたことから十分に満足した私は、県道を宇田郷まで戻って国道に移り、次の目的地である須佐を目指した。

◎須佐ホルンフェルスを見に行く

まずは全体を眺める

 惣郷川橋梁を離れ、この日の本命場所としていた須佐に向かって国道191号線を進んだ。須佐は漁業が盛んでとくにケンサキイカの水揚げが多いことでよく知られており、地域ブランドとして「須佐男命(すさみこと)いか」の名で売り出しているとのことだ。

 須佐の地名自体、「須佐之男命」の伝説にちなんでいる。スサノオが航海の途中で自分の位置が分からなくなったところ、船中にあった磁石が須佐高山の磁石石の方角を指したことで無事、入江に入ることができた。以来、スサノオはここを拠点として朝鮮半島と往来をしていたそうだ。こうした伝説から「須佐」という地名が付けられたという。実際、高山には磁石石があり、山頂付近はかなり強い磁気を帯びているが、その理由はまだ解明されていないそうだ。

 もっとも、私が須佐を目指したのはイカを食べることでも高山の磁石石と対面することでもなく、「須佐ホルンフェルス」を見物するためであった。

海岸線近くまで降りられるのだが

 ホルンフェルスとは「ホルン=角」+「フェルス=岩石」で、角のように尖った岩石のことである。

 須佐にあるホルンフェルスは、マグマの熱による変成によって生まれた接触変成岩を指し、写真に見られるように白と黒の地層がその特徴を表わしている。

 1500万年前に須佐層群に高温のマグマが貫入し、その熱作用によって泥岩と砂岩の互層からなる地層が変成岩に変化したものである。泥岩層の泥質ホルンフェルスは黒雲母が入り込んでいるため黒く、砂岩層の砂質ホルンフェルスは石英が入り込んでいるために白く変色している。

 なお、熱編成によって地層は硬くなっているため節理が生じ、それによって写真のように浸食作用によって多くの断面を生じさせている。確かに、その断面は角のように尖っている。 

表面は滑りやすそう

 写真から分かるとおり、ここは海岸線近くまで降りることができる。が、この日は波がかなり高いために岩は濡れている部分が多い。もしここで滑ったりしたら大怪我は必至である。

やむなく望遠で撮影

 私は人一倍、臆病な点があり、恐ろしくてとても下まで降りることができなかった。そのため、350ミリのレンズでホルンフェルスの姿を確認した次第である。相当に風化が進んでしまっているものの、たしかに白黒の模様を見て取ることができた。

 断崖の高さは40mで、ホルンフェルス部分だけでも12mの高さがある。上から見下ろすのは高所恐怖症なので恐ろしいし、下まで降りるのも滑りそうで恐ろしい。

 須佐に来た甲斐は十分にあった。山陰の海岸とはここでお別れして、私は中国山地内にある津和野の町を目指したのだった。

◎津和野~森鴎外西周の旧家を訪ねる

津和野は森鴎外の生誕地

 萩と津和野は西山陰では代表的な観光地ではあるが、私は津和野にはきちんと立ち寄ったことがなく、一度だけほぼ素通り状態で町並みに触れたことがあるだけだった。萩は松陰先生の活動の場であったのに対し、津和野は森鴎外西周の出生地に過ぎないと考えていたからである。わざわざ津和野に出掛けるよりは萩からそう遠くない秋吉台を巡ったほうが興味深いと思っていた。

 が今回、津和野に宿泊してみて今までの考えが浅はかであったことが実感させられた。萩の城下町は良く整っているけれど、いかにも幕末・維新の偉人たちを輩出しましたという点がやや鼻に付くのに対し、津和野は商家の家並みが美しいし、何よりも堀にはコイがたくさん泳いでいることに好感が持てた。

 街歩きは後で触れることにして、まずは津和野が生んだ二人の傑物の旧宅を訪れてみた。

鴎外の生家

 森鴎外(1862~1922)は津和野藩の典医の嫡男として生まれた。早熟の秀才として藩校の「養老館」で学び、10歳の時に上京した。彼は軍医として文学者としてともに頂点を極めるほどの活動をおこなった。まるで二刀流の大谷翔平のような活躍ぶりだった。活動の場は津和野とは無関係な場所だっただけに、この地には写真の旧宅と下で触れる記念館、それに藩校の養老館が鴎外を偲ぶのに適した存在である。

 旧宅はよく整えられ、とりわけ庭が素敵だった。いろいろな植物が植えられ、しかもそれぞれに名札が付けられていた。鴎外の家というより、牧野富太郎の家といった感がなくはなかった。

森鴎外記念館の入口

 生家の隣には相当に立派な記念館があった。外観だけでなく、内部も美術館のような意匠が施されていた。幼い頃の鴎外の暮らしぶりや勉強ぶりがよく分かるような資料が多く残されていた。

記念館の展示品

 そのひとつに、写真にある藩校時代の資料で、彼はここで四書五経を徹底的に学んだようである。10歳で上京し、11歳で東京医学校(現在の東大医学部)の予科に入学、15歳で本科、19歳で医学部を優秀な成績で卒業した。その下地が、幼い頃の徹底した基礎学習にあったと十分に考えられる。

 私が本格的に読書を始めたのは20歳を過ぎてからで、まったく無知だったことを自覚したことからまずは基礎知識をを身に付けるために岩波新書を読み込んだ。一方、息抜きのために夏目漱石の小説を読んだが、その「冗長性」に嫌気がさしたことから鴎外派に移行したという記憶がある。

 もっとも、鴎外に関して高く評価しているのはその作品群ではなく、薄幸の樋口一葉を援助したことだが。

 あり余るほどの資料が記念館に展示されており、私はいつになく丹念にそれらを見て回ったのだが、私がここに滞在していたとき、見学者は私以外に誰もいなかったことに驚かされた。

西周の旧宅

 鴎外記念館にほど近い場所に写真の西周(1829~97)の旧宅があった。西は鴎外とは姻戚関係にある。鴎外と同じく藩の典医の息子で、養老館で漢学や蘭学を学んだ。洋学に専念するために脱藩して江戸に出て、中浜万次郎に英語を学んだ。さらに津田真道の知遇を得て、哲学など西欧の学問を研究するようになり、オランダに留学した。

 明治六年(1874)には福沢諭吉森有礼などとともに明六社を結成し、彼はおもに哲学研究を進めた。哲学、理性、概念、命題、意識などの哲学用語の多くは西周の造語である。

 私は西周の存在は小学生の時からよく知っていた。といっても哲学に興味があったからではなく、記念切手を蒐集していたからだ。1952年から発行された第一次文化人シリーズの18人の中に西周が含まれていた。その中では知名度が圧倒的に低いために彼の切手は高値で売買されていたのである。浮世絵シリーズの「月に雁」と並んで、集めたかった切手の筆頭だった。

鴎外の生家のすぐ近くにある

 子供の頃は「哲学」と聞いてもそれがどんなものなのかはまったく分からなかった。というより、「学」と聞いただけでも頭が痛くなった。なので、「てつがく」は鉄道のの学問ぐらいしか思い浮かばなかった。

 西周は幕府の命令で津田真道榎本武揚とともにオランダに留学し、カント哲学を学んだ。本ブログの第32回の「普通の府中市(2)」の最後に記したように、小学生時代、私は哲学者のカントの存在はまったく知らなかったけれど、鉄道用語の「カント」なら知っていた。まったく関係ないところで、私は西周と繋がっていたのである。

 こうして西周の旧宅を訪ねた折り、私は切手の西周と、鉄路のカントのことを想い描いていたのである。

 西周は「人世三宝説」を主張した。その三宝は「健康、知識、富」だとのこと。哲学用語を生み出した人物は案外、俗物だったのである。哲学者や哲学研究者の大半がそうであるがごとくに。

◎津和野・太皷谷稲成神社~千本鳥居が人気

美しい建物が並ぶ

 津和野市街の南南西の山中にあるのが太皷谷稲成神社。日本五大稲荷のひとつだとされているが、この五大には諸説ある。京都の「伏見」は総本宮なので当然入るし、茨城の「笠間」や愛知の「豊川」も当確に近い。あとはいろいろありそうだが調べてみると佐賀の「祐徳」が入っていることが多いようなので、とりあえずここではこれらに「太皷谷」を加えた五社が相当すると考えておきたい。

 島根県にある寺社では出雲大社の次に参拝者が多いそうなので、あながち五大稲荷に該当するというのも不思議ではないかもしれない。実際、森鴎外記念館の見学者は私ひとりだったが、ここでは結構な数の参拝者がいて、とくに若い人の姿が目立った。これには社殿の美しさや津和野の町並みを一望できるという環境の良さも貢献しているのかも。

名物の千本鳥居

 ここでの名物は何と言っても「千本鳥居」で、263段の階段に約千本の赤い鳥居がぎっしり並んでいる。写真は境内側から写したものなので、ここが参道の終着点となる。

千本鳥居の下段

 千本鳥居はそのまま参道になっており、麓から境内に向かって伸びている。写真はその鳥居の下段部分ではあるが、実際にはもう少し下まで続いていた。が、この日は結構歩いたこともあって、参道入口まで行くことは断念した。

立派な本殿・拝殿

 この神社が創建されたのは1773年、津和野藩の第七代藩主の亀井矩貞(のりさだ)が伏見稲荷から勧請したもので、廃藩までは藩主だけが参拝できたそうだ。時を知らせる太鼓の音が谷に鳴り響いたことから「太皷谷」と呼ばれたこの地は、津和野(三本木)城の鬼門にあたる位置にある。

 写真の本殿・拝殿は1969年に建てられたもので、それまでは境内の北側にある建物が社殿だった。現在でもその建物は残っていて「元宮」と名付けられている。

極太の注連縄

 前回に「元乃隅神社」を紹介した際に、そこはかつて「元乃隅稲成神社」と名付けられており、通常の「稲荷」ではなく「稲成」と表記されていたということについて触れているが、その淵源はここの表記にあったのかもしれない。

 ここの稲成神社は宇迦之御魂大神=稲成大神を祀っているが、ここではとくに「願望成就の神」として崇敬されている。確かに、商売繁盛も家内安全も「願望」のひとつには相違ない。ここが「稲成」と表記するようになったのは以下の伝説に由来するそうだ。

 城の蔵番をしていた者が鍵をなくしてしまった。殿様にその旨を告げると七日間だけ待ってやると言われた。そこで蔵番は殿様しか参拝できないこの稲荷に七日間願を掛けてお参りしたところ、丁度七日目に鍵が発見できた。殿様がどうやって見つけたのかと問うと、蔵番は正直に話し、許しが得られた。殿様は「それにしても願望成就の御神威が高いお稲荷様だ」と感服して、稲荷を稲成と改めたとのこと。

キツネは白くも赤くもなかった

 お稲荷さんといえばキツネが眷属(けんぞく、神の使い)で、鳥居は赤く、キツネは白い(白狐=びゃっこ)というのがお定まりである。キツネも神と同格でキツネの霊は「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」というらしい。キツネが白いのは神と同じく姿が見えないということを表しているらしい。

 写真のキツネの像は白くなかったが、これは人の目に敢えて触れられるように灰色をしているのであって、実際の姿(白狐)は人の目には見えないのだ。

 この稲成では参拝のときには油揚げとローソクを奉納することになっており、実際、それらは売られていた。元来、眷属としてのキツネには、米を食うネズミを油で揚げたものを供えていたが、仏教伝来以降、殺生は避けられるようになったため、ネズミではなく豆腐に変えたという話がある。本当だろうか?トンビにさらわれないように変えたのではなかろうか?

◎津和野の通りを歩く

整備された本町通り

 津和野は「山陰の小京都」の代表格として、とくに重要伝統的建物群保存地区に整備された町並みが人気がある。事実、私も散策してみたが、各地に残るこうした町並み保存地区の中でも際立った美しさを感じることができた。

 町並みは大きく商家町と武家町とに分けられ、北側の商家町は大町通り、南側の武家町は殿町通りと区別されている。かつてはこの通りの間に惣門があったそうだが、現在はその姿は残されていない。

津和野と言えばコイのいる堀

 本町通りに並ぶ商家はいずれもひとつひとつの建物が大きいことが特徴的だ。酒造店や呉服店が目立つが、これは津和野が山陰と山陽とを結ぶ要所のひとつであったことも関係しているかもしれない。

 一方の殿町通りは、なまこ壁や白壁が特徴的で、さらに掘割には豊かな水が流れ、その中に大きなコイが泳いでいる。

50~80センチの色鯉がいっぱい

 写真から分かると思うが、コイは50から80センチサイズのものが多く、しかも良く肥え太っている。これは、町並みにはコイのエサが売られており、観光客がこぞってエサを与えるからだろう。

 コイは満腹感を覚えることが少ないようで、エサを与えればいくらでも食べてしまい、肥満化しすぎて死んでしまうことがよくある。いささか旧聞に属するが、前川清藤圭子が離婚した原因は、前川が大事に育てていたコイを藤が餌を与えすぎて殺してしまったということらしい。もちろん、真偽の程は確かではないが。

 離婚の後、ミュージシャンと再婚した藤圭子の子供が宇多田ヒカルだ。コイは儚いと同時に新たな歴史を生むのである。

人によく懐いているコイ

 私は年齢マイナス十年ぐらいの長さの魚の飼育の歴史がある。それゆえ、エサを与えすぎて魚を殺すという行為はほとんどなくなった。それゆえ、いささか肥満状態の津和野のコイには餌を与えない。

 こうした掘割は閉鎖空間だし、観光名物のひとつなので、コイを放すことは決して悪いことではない。が、自然が良く残された池や沼にコイを放すことは生態系の破壊につながる。コイは悪食なので、泥の中や水中に住む小生物をほとんど食いつぶしてしまうため、生物の多様性が失われてしまうのだ。それゆえ、自然公園の中にある池には「コイを放さないで下さい」という注意書きを近年、よく見掛けるようになった。実に、コイには危険が付き物なのである。

 それはともかく、掘割の一部には花菖蒲が数多く植えられている。6月の開花期の殿町通りは一層、華やいだ風景が展開されるはずだ。

多くの人材を輩出した養老館

 殿町通りには写真の「養老館」があった。1786年、第8代藩主の亀井矩賢(のりかた)の時代に始まった藩校で、先に触れたように森鴎外西周もここで学んでいる。現在は武術棟(槍術と剣術)と書物を保管した土蔵のみが残っている。

津和野カトリック教会

 津和野には忘れてはならない負の歴史がある。江戸幕府は1867年に長崎で4回目のキリシタン弾圧をおこなった。これは維新政府にも引き継がれ、木戸孝允を中心とした政府の決定で信者は津和野、萩、福山に送られた。これを「浦上四番崩れ」と歴史上では呼ばれている。最も過酷な仕打ちをおこなったのが津和野で、その拷問は陰惨を極めたという。

 不平等条約改正のを進める過程で政府は信教の自由を認めるようになった。津和野ではそうした歴史を忘却しないために1931年、写真のカトリック教会が建造された。ゴシック様式の建物ではあるが、内部は畳敷きになっている。

 1873年に釈放された信者が中心となって、長崎に浦上天主堂が造られた。が、1945年、アメリカが投下した原爆によって天主堂は破壊され、多くの信者が犠牲となった。維新政府に信仰の自由を求めたアメリカは、その象徴であった浦上天主堂に原爆を投下したのである。

津和野川沿いに建つ”鷺舞”の像

 津和野川沿いには、写真の「鷺舞の像」が置かれていた。鷺舞神事は弥栄神社に伝わる古典芸能で、16世紀に山口の祇園社から移し入れられたそうだ。元々は京都の八坂神社で行われていたものだ。

 津和野では毎年、7月20日と27日に鷺舞神事が行われ、2羽の鷺装束の子供が舞歩く。頭には高さ85センチの鷺の頭部を被り、桧で造った39枚の羽根を背負って歩くというのだからかなりの重労働である。

 写真の鷺舞の像はサギの色をしていないが、実際に祭りで使用されるものは白色に塗られている。

 現在では他の地域でも行われているようだが規模は小さく、鷺舞といえば今では「本家」となり国の重要無形民俗文化財に指定された津和野の行事を指し示す。

 まだまだ津和野には見所がいくつかあった。山陰には私がまだ触れていない名所が数多くあるので、機会があれば再び山陰を訪れ、その際には見逃した津和野の名所も訪ねてみたいと思った次第である。

〔96〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(7)下関界隈から日本海、そして萩へ

馬関(関門)海峡を守る長州の大砲

◎長府庭園を散策

正門付近の景観

 山口市街からは山陽道を使って小月ICまで行き、そこから国道2号線で下関市街へと向かった。当初は海岸線に出て宇部や小野田を通ることも考えたが、やはりそこも工業地帯なので今ひとつ興趣が湧かないこともあり、結局、下関市域に入ってから国道2号線を市街へ向けて進むことにした。

 ということで、最初の訪問地は写真の「長府庭園」となった。ここかかつて長府毛利藩家老格の西運長(にしゆきなが)の屋敷があった場所で、広さはなんと31000平米もある。もっとも、そのまま屋敷跡として今日に至っている訳ではなく、大正時代には個人の所有地、戦後は進駐ニュージーランド軍司令官の宿舎などに使われ、1990年に下関市が買い上げて庭園として整備し、93年に長府庭園として開園したものである。

5月の花が満開

 園内には樹木が多く、私が訪れた際にはツツジやフジの花が満開期を迎えていた。敷地内には庭、滝、草花、蔵、屋敷、書院、茶屋などが整備されており、可能な限りかつての屋敷の姿を再現しているように思われた。

池をめぐる

 池泉回遊式庭園として庭はよく整備されているものの、インパクトはやや弱く、ここからの景色は素晴らしいと思わせるような場所は見当たらなかった。それゆえ、点としてではなく面として鑑賞するような庭であった。

 なお、池の一部には蓮池があり、孫文蓮が植えられているそうだ。

奥には谷川もあった

 庭園の背後には高台があることから、湧き水が生んだと思える、写真のような谷川の流れがあった。個人的にはこの場所が一番、風情を感じさせられた。

 全体として、確かに良い庭ではあったものの、盛りだくさんの施設があるためにひとつひとつの印象はどうしても薄くなってしまう。この点が残念であった。

◎火の山公園からの眺め

山頂から下関市街方向を眺める

 長府から国道は2号線と9号線とに分かれる。2号線は九州を目指すために少し山の中に入り、そこから関門海峡に突き進んでゆく。一方、9号線は海岸線を通って下関市街方向に進んでゆく。九州は指呼の間に存在するが、一旦、その地に入ってしまうと終わりが見えなくなる。今回は山陽の旅ということで下関を終点と考えているので、私は9号線を選んだのであった。

 そのまま進めば「壇之浦」に至るが、私はその手前の丁字路(みもすそ川交差点)を右に曲がって「火の山」を目指した。当初はロープウェイで山頂に至る予定ではあったが、山頂までは「風波のクロスロード」という道が整備され、おまけに山頂の駐車場は無料ということもあったことから、ロープウェイは使わずにそのまま車で進んだ。

 標高268mの火の山には「火の山公園」が整備されていて、周囲が良く見渡せる。上の写真は下関市街方向を眺めたもので、下関のシンボル的存在である「海峡ゆめタワー」や、下関市の西端にある「彦島」、それに北九州市の山並みまで見通せる。空気がやや霞んでいること、いささか逆光気味であることから「はっきりくっきり」とまではいかないが、まずまずの景観が楽しめた。

日本海方向を眺める

 今度は日本海側に目を向けた。沖に浮かんでいるのは六連島と馬島であろうか。空気さえ澄んでいれば対馬だって見えるだろう。

関門海峡を眺める

 今度は関門海峡に目を向けた。関門自動車道の関門橋が良く見える。その手前には国道2号線の関門トンネルがあるはずだが、もちろん海底にあるために視認できない。

 関門橋の先にある港は門司港。一段と高いのは超高層マンションの「門司港レトロハイマート」。最上階(103m)は展望室になっているそうだ。さらに屋上にはヘリパッドがある。

海峡の流れは速そう

 関門海峡は日本三大急潮流に数えられるだけあって、山の上からでも潮の流れが良く見える。

公園内には砲台跡がある

 ”火の山”といっても火山という訳ではなく、かつてここに狼煙台が置かれていたことからその名がついた。1890年からは要塞(下関要塞)が造られ、1945年までここへは一般人は入山できなかったのである。

 今も少しずつ戦争の影が忍び寄っているが、およそ百数十年前までは戦争は日常的で、幕末の戦争が終わると、今度は日清(1894)、日露(1904)、そして第一次世界大戦(1914)と、日本は10年ごとに戦争をおこなっていた。

 現在ではロシアのウクライナ侵攻が大きく取沙汰されているが、かつて日本は、現在のロシアがおこなっている残虐非道よりもっと激しい侵略戦争を仕掛けていたのである。

下関要塞のひとつ

 こうした経緯から、火の山公園内には下関要塞の遺構が点々として残っている。関門海峡を要塞化するというのは、侵略の矛先が朝鮮、中国、ロシアだったからであろう。

◎壇の浦古戦場跡

源平最後の決戦場

 火の山公園から下りて、今度は壇の浦古戦場址を訪ねた。もっとも、この戦いの主戦場は海上であったことから、写真の碑のある場所は戦いがあった場所というより、戦いを陸上から支援した場所ということになるだろう。

 戦いは当初、潮上(最初は上り潮、つまり西から東に流れる潮。私が火の山から見たような流れ)にいた平氏が優勢であったものの、途中で下り潮に変わったために源氏側が潮上になったことで平氏が劣勢となって敗北したと言われている。

 これは源平合戦とは全く関係がないことだが、磯釣りの場合は海上での戦とは反対に潮下が有利となる。理由は、潮下により多くのコマセが流れてくるからだ。それゆえ、磯釣りでは潮の見極めが何よりも重要なのである。こうしたことから、私は他人の何倍も、潮の流れに注視してしまうのだ。

御裳川(みもすそがわ)は五十鈴川の別名

 写真は「御裳川」に架かる赤橋。壇の浦の戦い以前の名前は不詳だが、この合戦の後に命名されたという。これは安徳帝を抱いて入水した二位尼平清盛の妻)が辞世の句として、

 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは

 という和歌を残したということから、「みもすそ川」と、のちに名付けられた。なお、「みもすそ川」とは伊勢神宮を流れる五十鈴川の別名である。

 現在では川の名前だけでなく、この広場がある場所周辺の地名にもなっている。つまり、ここの住所は「下関市みもすそ川町21-1」である。

安徳帝が入水した場所

 壇の浦の戦いが生んだ悲劇でもっともよく知られているのは、安徳天皇(満6歳4か月)の入水であろう。平家の敗北が確定的になった折、二位尼に抱かれて入水した幼帝は崩御した。二位尼が抱いていた三種の神器のうち、宝剣は行方不明となったが、神璽(しんじ)と神鏡は源氏が探し出した。

 同時に入水した安徳天皇の母親の徳子(とくし、のりこ)は救助され、京都の吉田の地に送られ、出家(建礼門院)して隠棲した。が、大地震のために吉田の地を離れ、大原の寂光院で余生を送り1214年頃に死没した。

 これらの話は誰もが知っていることなので、これ以上は触れないが、写真にあるように、安徳帝が入水した場所近くの陸には慰霊碑が置かれている。

関門海峡

関門橋を見上げる

 火の山から見下ろしても、こうして壇の浦の浜から眺めても、潮の速さはよく分かる。私が見ている間は上り潮(京・大阪方向に向かう流れ)だったが、これが一転、下り潮に変わるのだ。これは瀬戸内海の潮汐と外海の潮汐の時間差が生むものだが、日本三大急潮(鳴門、来島、関門)にいずれも瀬戸内海が関わっていることが興味深い。

海峡に並ぶ長州砲のレプリカ

 壇の浦を中心として海岸側に整備された公園には、写真のような長州砲のレブリカが並んでいた。1863年、攘夷を主張する長州藩は馬関海峡(当時)に向けて砲台や軍艦を配備し、米、仏、英、蘭などの船を攻撃した。いわゆる下関戦争で、この大敗北の結果、長州藩は攘夷を断念し、海外の知識や技術を取り入れる方向に大転換した。

関門トンネルの入口

 関門トンネルというと国道2号線と山陽本線の双方がある。新幹線もトンネルを使っているが、こちらは「新関門トンネル」と名付けられているので区別できる。また、高速自動車道は関門橋を使っているので、海底を通るトンネルは3本あることになる。

 このうち、国道のトンネルは2段の構造になっており、上が自動車専用、下が人、自転車、原付の専用トンネルになっている。写真は、関門トンネルの下段にある「人道」と名付けられたトンネルの下関側の出入口で、エレベーターを使って深さ55mまで降りてトンネルに達する。 

徒歩はタダ、自転車・原付は20円

 写真のようにエレベーターが設置されているが中は意外に狭い。歩行者には無関係だが、自転車、原付は20円の料金が必要で、写真にある料金箱に入れる。利用時間は6から22時とのこと。

 トンネルの長さは780m、自転車や原付は手押しで進む。常時、CCTVでモニターされているため、自転車に乗ったりするとすぐに警告されるそうだ。

 なお、関門トンネル山口県と福岡県をつないでいるので、途中に県境があり、道路上に県境が記されていることでもよく知られている。

赤間神宮

赤い建物がよく目立つ

 次の目的地は特に決めておらず、とりあえずは下関市街に向かうために国道9号線を西に進んだ。途中に「赤間神宮」や「唐戸市場」があることは知っていたが、前者はともかく、後者には人が溢れかえっているだろうし、「ふく」にはほとんど興味を抱いてはいなかったこともあり、ただ通り過ぎるだけの心づもりでいた。

 が、山側に見えた赤間神宮の赤い建物はともかく、海側にあった「碇」がやや気になったことから、唐戸市場入口付近で車をターンさせて少し戻り、神宮を見学することにした。ただ、駐車場は海側にあるため、神宮前を通り過ぎてから再度、車をターンする必要があった。

 赤間神宮の前身は「阿弥陀寺」といい、9世紀に奈良大安寺の僧、行教が開山した浄土宗の寺だったとのこと。1191年に後鳥羽天皇が一角に「御影堂」を建ててからは「天皇社」とも呼ばれるようになったそうだ。ここでいう「天皇」は、もちろん壇の浦の戦いで崩御した「安徳帝」を指すのだろう。

 1870年の「廃仏毀釈」によって阿弥陀寺は廃され、ここは赤間宮と称されるようになり、1940年には官幣大社として「赤間神宮」と称するようになった。

 下から見上げると、赤い「水天門」をはじめとして色鮮やかな建物群が美しい姿を現しており、信仰心はまったくない私でも、立ち寄って良かったかもしれないとの思いが沸き上がった。

大安殿

 相変わらず参拝はまったくしないのだけれど、一応、大安殿ものぞいてみた。人影は疎らではあったが、私以外の人はきちんと参拝していた。とりわけ、若い人ほど礼儀作法をわきまえているように思えた。

 これは赤間神宮に限ったことではなく、私の家の近くにある「大國魂神社」でも同様で、私はボーリング場からの帰り、随神門のすぐ前の参道を自転車に乗ったまま横切ってしまう(自転車からは下車してくださいとの注意書きがある)のだが、他の人はきちんと自転車から下り、とりわけ若者は一礼してから通り過ぎてゆく。

 もっとも、祭りのときはその門のすぐ前に立ち並んでいる露店で大酒をくらい、門の周りで馬鹿騒ぎをしている老若男女も多いのだけれど。

安徳天皇

 神宮の建物群の西側に、写真の「安徳天皇阿弥陀寺陵」がある。立ち入り不可であって門扉はしっかり閉ざされている。

平家一門の墓

 安徳天皇陵の北側に写真の「平家一門の墓」がある。壇の浦の戦いで戦死した平家一門の供養塔や石塚がある。敗北者たちはこうした淋しい境遇に置かれる。

耳なし芳一のお堂

 平家一門の墓の隣には、写真の「芳一堂」が置かれている。私が赤間神宮に立ち寄ったのは「碇」に惹かれたからだが、このお堂があることも理由のひとつであった。

 『耳なし芳一』の話はあまりにもよく知られているのでその内容は記すまでもない。ただ、その話の舞台が赤間ヶ関にある『阿弥陀寺』(現在の赤間神宮)であることはさほど認知されていないかと思い、ここに取り上げた次第である。

 写真の芳一堂は1957年に建てられたもので、この中に芳一の木像(もちろん耳はない)が置かれている。なお、赤間神宮では毎年の7月15日の晩に芳一を弔う「耳なし芳一まつり」がおこなわれているそうだ。 

水色のポスト

 写真の郵便ポストは赤間神宮の境内に置かれていた。色が青いのは海を表わし、上部には下関名物の「ふく」がある。極めて分かりやすい下関のポストであった。

神宮の参道は海に開かれる

 国道9号線を挟んで、赤間神宮の参道は海にまで開かれている。その中央には「碇」が置かれている。これは1980年に「海峡守護」として置かれたものであるが、平家最後の大将であった「平知盛」(清盛の四男)が、壇の浦の戦いの敗北を認め、安徳天皇の入水とともに碇を身に付け海底に沈んだという逸話にも由来している。

 歌舞伎では『碇知盛』、能では『碇潜(いかりかづき)』として有名な話のようであるが、歌舞伎にも能にも無知な私は、そんな物語があるということだけしか知らない。

 知盛は清盛から「武蔵守」を命じられていた。武蔵野の地といえば源氏の荒くれ者が多かったはずなので、父親から武蔵守を任されていたということは、知盛自身が優れた武芸者であった証左でもあろう。

 なお、この碇が置いてある海岸は、17世紀から10数回にわたって日本にやってきた朝鮮通信使が最初に上陸した場所でもある。この点から、赤間ヶ関が京・大坂に至る海の玄関口だったことが分かる。

近くには唐戸市場がある

 下関でもっとも有名な観光地といえば唐戸市場らしい。下関のホテルの大浴場で出会った広島市から来たというオジサンも、翌日にはこの市場に立ち寄って海産物を大量に買い込むと息巻いていた。私が、写真の「ふくのフクロ競り」の像だけを見て、市場内には立ち寄らなかったし、翌日も行かないと言うと、相当な呆れ顔になって、「それでは何のために下関に来たのか」と問い詰めてきた。

 ことほど左様に、中国地方の人にとって唐戸市場はもっとも重要な存在らしい。当然のごとく、「ふく」をメインに買い漁るのだろう。

 ちなみに、ホテルの朝食バイキングでは「刺身」をはじめとして「ふく料理」がいろいろと出たので私も食したが、どれも私の口には合わなかった。どうやら、私には「ふく(福)」は縁遠いらしい。私にとってフグは「ふく」ではなく、磯釣りでの外道的存在でしかない。

老の山公園~本州最南西端に到達

公園にはツツジがいっぱい

 「ふく」は食べないし、市場には寄らないし、「海峡ゆめタワー」には上らない。それでは何のために府中から1010キロもある下関にやって来たのかと言えば、それは下関が山陽道の終点だからであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 折角なので、下関市の最西端まで行くことにした。もっとも日本海に浮かぶ島までは行けないので、陸続きで車で行ける場所に限定した。

 現在では彦島下関市の、ということは本州の最南西端ということになっている。その名から分かるとおりかつては「島」であって源平合戦の際には平家側の最後の拠点になった場所である。

 本州との間には「小瀬戸」という海峡が通っているが、次第に砂州が伸びて陸繋化直前にまでなったために人工的に埋め立てて本土と繋がった。が、小瀬戸は小型船舶の航行に便利ということで再び本土とは切り離され、現在では3本の道路が島を結んでいる。それゆえ、実態としては彦島は島なのだが、現実的には本土と一体化していることから、ここを本州の最南西端としても問題はないだろうと思える。

 事実上、本土と一体化しているため、格別に特徴的なものは存在しない。つぶさに観察すれば島としての名残りがあるだろうが、私にとっては南西端に到達したということに意味を見出したので、とくに彦島見物はおこなわず、ただ海岸線を車で走っただけだった。

下関市街を展望する

 とはいえ、彦島にやってきた「証し」をひとつぐらいは残したいと考え、写真の「老の山公園」に立ち寄った。徘徊老人の旅に相応しい名前の公園である。

 写真のようにツツジの花が見事だった。園内には約4万本のツツジが植えられており、私が訪ねたときにはほぼ満開状態だった。

 本来なら、公園からは響灘か北九州方向を眺めるのが筋だろうが、後者はすでに火の山から眺めているし、前者はこれから日本海沿いを走ることになるため、それらは省略して下関市街を眺めた写真のみを掲載した。

 右手に見えるタワーが、1996年に完成した下関のランドマークで、「海峡ゆめタワー」と命名されている。高さは153mで143m地点に展望室がある(らしい)。

 少し見づらいが、関門橋も火の山も画面に収まっているので、いかにも下関の西端から市街方向を眺めたものだということが分かる。

 一応、山陽道の徘徊はこの「老の山」で終了することにした。私の人生の老の山はピークに近づいているが、旅はまだまだ続く。なぜなら、帰らなければならないからだ。「家に帰り着くまでが旅だよ」と、校長先生が言っていたような……。

日本海側の海岸線を進む~しばらくは山陰の旅となる

加茂島(賀茂島)

 山陽道の旅は下関で終了。でも家は東京の田舎にあるので帰らなければならない。山陽道から新名神名神、新東名と高速道を使えば、休憩を入れても13時間ほどで帰れるのだが、そこまでする必然性はなかった。

 そこで、帰路は日本海側や中国道などを使って東に進み、いつくか立ち寄ってみたい場所をセレクトし、数日掛けて帰ることにした。宿泊地は「萩」「津和野」「新見」「近江八幡」に決めた。始めはあと5泊する予定でいたが、何やら面倒な用事が入ったので4泊になった次第だった。

 萩に立ち寄ることに変更はなかったが、錦帯橋近くの旅館のオバサンが薦めた「角島」を見学することにしたため、ルートを変更した。元来は長門市までは中国山地の中を走り渓谷や滝を見物する予定でいたが、国道191号線を日本海沿岸沿いに北上することになったのであった。

 しばらくは砂浜が続く単調な景色が続いた。どうにか前方に岩場が見え始めたときに「下関フィッシングパーク」の看板が目に入った。小さな半島の一角にあるようなので、岩場見学も兼ねてその場所に立ち寄ってみることにした。やはり、釣り関係の施設には惹かれるものがある。

 残念ながらその釣り施設は興趣が湧くものではなかったが、その先に浮かぶ3つの岩が私の心を魅了した。第92回で触れた「三ツ岩」も印象に残っていたが、ここの「三ツ岩」は規模が大きく、さらに変化に富んでいたのだ。

 加茂(賀茂)島と名付けられたこの3つの岩は、「八重事代主」「大綿津見神」「弁財天」の3人?の神が祀られているそうだ。写真を拡大してみると、中央の岩の天辺には鳥居が建っている。冬の日本海は大荒れになるため、鳥居は何度も破損し、その都度建て替えられるそうだ。現在のものは昨年に新造したものである。

 島は神域として地元の漁師に崇められているため、特別な場合を除けば立ち入ることも、ましてや石などを持ち帰ることは禁じられている。さらに、岩の樹木は枯れやすいことから、植林活動も行われている。

 地元、吉見の漁師にとってこの島は、航行や漁の安全を見守ってくれる貴重な存在なのだそうだ。

夫婦岩

 吉見の地を離れ、再び国道を北上した。北側の海岸線はそれなりの険しさを示し始めていたことから、国道もほぼ並行して走る山陰本線も一旦は海岸線を離れて山間を進むようになっていた。

 両者が離れ離れになる直前の海岸線に、写真の「二見夫婦岩」があった。やや上り坂になっていた道路の際にその岩はあったために見落としそうになったが、すぐ先の山側に駐車スペースがあり、やや大きめの「二見夫婦岩」の碑があったことから、対向車が来ないことを確認して、そのスペースに車をとめて夫婦岩なるものを見物することにした。

 写真から分かるように、海岸線まで降りられる階段が造られていた。沖側にある男岩は高さ9m、陸側にある女岩は6mあり、その間を重さ100キロ、長さ27mの注連縄で結ばれている。なお、この注連縄は毎年、1月2日の朝に褌姿の男衆によって張り替えられるそうで、この行事は150年以上の歴史があるそうだ。

 伊勢・二見ヶ浦夫婦岩によく似ていることからその名が付けられたそうだ。本家の夫婦岩はがっかり度が高いが、こちらの夫婦岩は”よくぞ日本海の荒波に耐えた”という思いが胸を打つものがあるので一見の価値は十分にある。一方の伊勢は『赤福』で勝負するしかないかも。

しっかりと太い綱で結ばれている

 男岩にはいくつもの鎖が巻かれていた。これは注連縄の張替えの際の命綱になるものだろう。また、離れ岩の天辺には可愛らしい鳥居が据えられていた。

 この辺りの地質は、先に見た加茂岩同様に砂岩や泥岩、頁岩で出来ている。浸食や風化が激しいため、やや硬めの砂岩部分がこうして残存しているが、この形状から考えると、そう遠くない将来に崩れてしまう可能性は極めて大きい。実際、この辺りの海岸線は波食台が連続しているが、他の場所では大半が崩落してしまっているからだ。そうした点から考えると、この夫婦岩は”奇跡の夫婦岩”といっても決して過言ではないだろう。

◎角島に渡る~魅惑の角島大橋

2000年に開通した大橋

 錦帯橋の旅館のオバサンが推薦していた「角島」の前にやってきた。島を望むためには国道191号線から離れて県道275号線を北に進む必要があった。国道はこの辺りで進路を大きく曲がって東へとる。そのため、私は国道を何度か通っているにもかかわらず、角島の存在は知ってはいたが、その姿を見たことがなかったのだ。

 角島を有名にしたのは、ひとえに写真にある大橋の存在であろう。1993年に工事が始まり2000年に完成したこの橋は、その特徴的な形状とコバルトブルーの海の上を走るということもあって瞬く間に大人気観光スポットとなった。

 また、この姿に目を付けた自動車会社は、宣伝のためにこの橋を大いに利用した。レクサス、三菱、スズキ、日産が自社の車を走らせ、イメージアップにつなげようとした。もっとも、奇麗な橋によって車がその存在感をより際立たせることに成功したのか、橋の存在を人々に認知させるための補助役に留まったのかは不明だ。多分、後者の方であった蓋然性が高いと思うのだが。

 私が訪れたときは曇り、波風高しという悪条件下ではあったが、それでも雅趣に富んだ橋の姿を十分に堪能することができた。錦帯橋のオバサンに感謝である。

角島の夫婦漁師

 橋の長さは1780m。県道276号線に属するので通行料は掛からない。橋の姿に触れただけでも十分に満足できたのだが、折角なので島に渡ることにした。本土側の「海士ヶ瀬公園」の駐車場は満車に近い状態だったが、大半の人は橋の姿に見惚れるだけで、渡る人は少なかった。

 角島は4平方キロの小さい島で、西側の夢崎と東側の牧崎が牛の角のように響灘側に付き出ていることからこの名が付いたそうで、古くは『万葉集』にも登場するという。ワカメ、ウニ、グリーンピースが島の特産物らしい。

 私は車で島内を巡ってみたが、橋の存在に触れた後では、他の島であれば十分に誇れる景観を有していても、どことなく平凡な姿に見えてしまった。

 もっとも印象に残ったのは、老夫婦がワカメ漁(ウニ漁かも)をしている姿だった。かあちゃんが船を器用に操り、とうちゃんが海の幸を採集している。のどかな海人の姿に何かしらの郷愁を覚えた。二人にとって橋の誕生は生活をどのように変転させたのかは不明だが、少なくともこの姿を見る限り、当たり前の日常が続いているのだろうと思えた。こんな静かな日常こそ、人はもっと大切にしなければならないのだろう(お前がそれを言うか、という知人の声が聞こえてきそうだが)。

大橋横にある鳩島

 大橋の横に、写真の鳩島がある。この辺りには路側帯が設けられているため、車をとめることが可能だ。

 写真から分かるとおり、柱状節理が露頭している玄武岩から成り立つ島だ。当初の計画によれば、この島に橋脚を造る構想もあったそうだ。確かに、火成岩は地盤がしっかりしているので橋脚を建てるには都合が良いはずだ。しかし、国定公園の第一種保護地区に指定されていることから計画は断念された。

 この島をやや迂回するコースを橋が取ったことで、結果として橋の姿をより魅惑あるものにしている。島を避けた橋の緩やかな曲線が、見るものにとってはより素敵に思え、私のような岩場好きの人間にとっては、玄武岩の島の姿を間近で味わうことができるのだ。

動物に見える岩が並ぶ

 橋のたもと近くには、写真のような面白い姿をした岩があった。右手の岩は犬の顔に、隣はネコに、さらにその隣は魚に見えた。岩を眺めるのは本当に楽しい。

◎元乃隅神社~赤い鳥居と賽銭箱が有名

123基の赤い鳥居が海に向かう

 角島を離れ、再び国道191号線に戻って東進した。次の目的地は角島と青海島との間にある向津具(むかつく)半島である。毬と遊んでいるネコが西を向いているような形(いかにも稚拙な表現)をしている半島で、そこには「千畳敷」「東後畑棚田」「元乃隅神社」「楊貴妃の里」といった観光スポットがある。このうち、楊貴妃の里は”いかにも”といった感があるし、前三者とはやや離れた位置にあるため、時間が許せば立ち寄ることにして、まずは千畳敷に向かった。

 しかし、やや高い場所にあること、湿った海風が吹き付けていることから霧が発生し、一時は道路の白線さえ見えなくなってしまった。こうなると、展望が「売り」の千畳敷や棚田に出掛けても意味をなさないことから、元乃隅神社に向かうことにした。まったく、向津具半島は”むかつく半島”であった。

 交通の便がかなり悪い場所にあるにもかかわらず、観光客の数はかなり多かった。幸い、端のほうに空きがあったためにすぐに駐車できたが、休日では1,2時間待ちは当たり前だそうだ。

 アメリカのCNNが2015年に「日本でもっとも美しい場所31」を選んだ際に、この元乃隅稲荷神社(当時)も入っていることから分かるように、確かに極めて美しい景観が眼前に広がっていた。

 なお、この神社は宗教法人とは関りがなく、あくまで個人所有の寺である。法人としての「特権」は有さない反面、神社名も建造物もやりたい放題なので、極めて見応えのある風景が展開可能なのだった。

鳥居の中を歩く

 1955年、地元の網元であった岡村氏が、枕元に現れた白狐に「吾を此の地に鎮祭せよ」と告げられたことから、氏は海岸に面した土地に稲成神社の建立を始めた。主祭神は「宇迦之御魂神」で、この神の使いがキツネだとのこと。

 赤い鳥居は1987年から並べ始めた。一基25000円で奉納できるということで、10年で123基が建てられた。有名になるにしたがって希望者が増えたものの、岡村氏は123基の語呂が良いと考え、そこで打ち止めにした。

鳥居の出口

 写真は海側から境内方向を眺めたものである。2018年までは「元乃隅稲成神社」と名付けられていた。実際、やや古い写真を参照すると、扁額には「元乃隅稲荷神社」とある。が、理由は不明なことながら、2019年に現在の名に改めた。神社が改名するときは神社本庁の許可が必要になるが、ここはあくまで私的な神社のため自由に名前を変えることができた。

 なお、”いなり”は通常、稲荷と表記される。実際、全国に4万ほどある稲荷神社はほぼすべて”稲荷”で、例外は津和野町にある「太皷谷稲成神社」(のちに紹介)とここの2か所だけだそうだ。とはいえ、ここは稲成の名を取り去ってしまったことから、現在は例外はただひとつだけとなった。

潮吹き岩を望む

 境内は急峻な崖の上にある。この崖の下部は海食洞になっていて、強く高い波が打つ寄せるときは、潮が30mほどの高さにも吹き上がるそうだ。このことから「潮吹き岩」と名付けられているそうだが、この日の波の程度では、潮が舞い上がる姿はまったく見ることができなかった。

変化に富んだ海岸線

 先端部には離れ岩が2つ並んでいた。その岩までは行くことはできないが、手前側の高台からは海岸線まで降りる道があるようで、実際、釣り人がひとり、竿を出す姿があった。先端部の標高は28mある。荷物を持って坂を下るのは大変だろうし、釣果があれば、上ってくるのはさらに大変だ。が、私が見ている範囲ではまったく釣れていないようだったので、それは杞憂だろう。

神社の大鳥居

 標高40m地点にある大鳥居は高さが6m。ハートのマークのある箱らしきものをキツネが取り囲んでいるが、実は、この箱は賽銭箱なのである。高さは5m、サイズもかなり小さい。神社によれば、「日本一入れるのが難しい賽銭箱」だそうで、こうした仕掛けも個人所有の神社ならではである。

 これなら、子供時分に賽銭拾いを得意技にしていた私にも簡単に拾えそうだが、生憎、賽銭入れをチャレンジする人は見掛けなかった。

 かように、この神社は景観の素晴らしさと遊び心に満ちた誠に結構な存在であった。千畳敷や棚田に立ち寄れなかった分、この神社でゆったりした時間を過ごすことができた。”むかつく”半島は、決してむかつくことのない素敵な半島であった。

◎青海島を訪ねる

 次の目的地は青海(おおみ、おうみ)島に決めていた。長門市街の北方にある東西に細長い島である。角島は下関市だが、向津具半島はすでに長門市に属していた。

 長門市街あたりから大きめの砂州が島に向かって伸びているが、あと50mというところで止まっていて、青海島までは届いていない。が、なかなかしっかりした青海大橋が本土側の砂州(現在は埋め立てられ、仙崎と名付けられた町や大きめの漁港が整備されている)と島とを結んでいるのでアクセスは容易だ。

青海湖を造っている砂州

 青海島を訪ねるのは今回が初めて。が、その存在はずっと以前からよく知っていた。なにしろ「海上アルプス」の名で呼ばれるほど知名度の高い観光地なのだ。が、名所は島の北側にある長い海岸線(約16キロもある)で、断崖絶壁や洞門、石柱などが目白押しに続いている(そうだ)。しかし、陸からのアクセスが良くないため、その海岸線を目にするためには苦労して歩くか、それとも観光船に乗って見学するかのどちらかしかない。そのため、今回は時間の関係も(体力も)あることから、島の南半分を覗くだけになった。

 島の南西部には「青海湖」がある。これは入り江の沖から砂州が伸びて海を塞ぎ「潟湖」として生まれたもので、淡水湖としては山口県では一番大きいとのこと。写真は入り江を塞いだ砂州の姿を見たもので、この右手に青海湖が存在している。

 沖側には海流によって砂州の砂が流失しないように何本もの突堤が造られているが、場所によっては結構、危うい状態にまでやせ細っていた。

 また、湖のすぐ横にはホテルが建っていたものの営業している様子はなかった。 

クジラの模型

 主に島の南側だけになるが県道283号線が東端の通(かよい)漁港まで通じているので、出掛けてみることにした。

 この地では江戸時代から明治末期までは沿岸捕鯨が盛んにおこなわれていたそうだ。クジラを入り江まで追い込んで捕獲する漁法なので、それを現在行っていたら、世界中から非難を浴びることだろう。

 漁港の近くには『くじら資料館』があった。資料館の前と屋根の上にはクジラの模型が飾られていた。また、高台にある「清月庵」の隅には「青海島鯨墓」があった。ここには母鯨の胎内で死んだ胎児が70数体、墓碑の下に埋葬されているそうだ。

閉業した海の施設

 紫津浦と名付けられた入り江には、写真のような建物が残されていた。見た限りでは、かつてここには海上レストランのようなものがあったような気がした。

 この紫津浦の入り江付近は、青海島では南北の幅がもっとも狭くなっている。この辺りから「自然研究路」が整備され、北側の荒々しい海岸に出ることができるらしい。それでも、ザッと見学するだけでも50分ぐらいは歩くとのことだったのでパスをした。

金子みすゞ記念館

 島から離れ、仙崎地区を少しだけ散策した。この地は26歳で夭折した童謡作家の金子みすゞ(金子テル、1903~30年)の出身地である。写真のように、彼女が生まれた家は現在、「金子みすゞ記念館」になっている。

 彼女は『童謡詩人会』に属し、とりわけ西條八十の薫陶を受けた。この会には泉鏡花北原白秋島崎藤村、野口雨情、若山牧水など錚々たる詩人・作家が属していた。女性は与謝野晶子金子みすゞの2人だけだった。それだけに将来を嘱望されていたのだろうけれど、病気を苦に服毒自殺をしてしまった。

仙崎公民館の壁

 金子みすゞの作品と言えば『大漁』がもっとも有名だろう。というより、この作品が「発掘」されたことで、1980年頃から彼女は再評価されたのである。

 朝焼け小焼けだ、大漁だ 大羽いわしの大漁だ

 浜は祭りのようだけど、海の中では何万の

 いわしのとむらいするだろう

 近くの公民館の壁には、写真のように金子の作品とともに、子供たちが描いた絵が添えられていた。

 『大漁』は確かに見事な作品ではあるが、仙崎の漁師たちはどう感じるのだろうか?私が漁師であったなら、何やら自己の職業を卑しまれているように思うだろう。

◎萩城跡を訪ねて

萩城跡入口

 久し振りに萩城を訪ねた。以前に訪れてから20数年は経過していると思われた。そのためか、自分が抱いていた景観と随分異なるように感じた。これは城跡の姿が変わった訳ではなく、私の萩城や長州藩に対するイメージが変化したからに相違なかった。

天守台への階段

 萩城は1604年に毛利輝元の命で建設が始まり、08年に完成した。中国8か国を支配していた毛利家は、関ヶ原の戦いで西の総大将として指揮を執り、敗北したために周防国長門国の2か国に減じられ、それまでの居城であった広島城を去ることになった。新たな城の候補地はいくつかあったが、津和野の吉見氏が整備途上であった萩の場所を選択し、改めて城造りを始めたのだった。

 標高143mの指月山の南麓に本丸、二ノ丸、三ノ丸などを築いた。当時、指月山は阿部川が河口部に造った三角州とは完全には陸繋化していなかったようで、南東側は沼地、東側は菊が浜の海岸線が迫っていた。こうした場所を埋め立て、あわせて山には要害を整備した。

 萩城は1863年に藩庁が現在の山口市に移ったために廃され、1874年には天守閣を含め主な施設は解体された。そのため、写真にある「天守閣跡」に上っても五層の天守閣はまったく存在しない。

天守台跡から指月山を望む

 写真は、その天守閣跡から指月山を眺めたものだ。花崗岩からなる単成火山で、後で触れることになるが、一帯には小さな火山が数多く並んでおり、なかなかの風景が展開されている。

 山そのものには上ったことはないが、以前訪れたときには海岸線まで歩き、周囲の景観を十分に味わった記憶がある。

 指月山一帯は「萩城指月山公園」として整備され、志都岐山神社や、かつて庭園として利用されていた場所に池などが残されているが、訪れる人が少ないこともあってか、どことなく寂れた感じを抱いた。

 下で触れる「萩城下町」はそれなりの賑わいを見せていたのに対し、城跡は閑散としていた。やはり、他の場所で行われていたように、天守閣の再建がおこなわれないと、「集客力」には限界があるのかも知れない。私にとっては静かでいいのだけれど。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

 萩城跡に残された数少ない建物ののひとつが、大手門の南側(旧二ノ之丸)にあった写真の「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」だった。

 厚狭は現在の山陽小野田市辺りで、毛利元就の五男の元秋を祖とする名門。現存している長屋は1856年に造られた。厚狭毛利家の敷地は15500平米もあったが、他の建造物はすべて解体され、この長屋だけが残されている。

 いかにも「長屋」といった存在で、長さは51.5mもある。奥行きは5mしかないが内部は5つに区画され、毛利元就からの系図などが展示されている。一部はかなり豪華な造りになっていることから、地位の高い人の詰め所にも利用されていた可能性はある。

◎萩城下町を歩く

やや怪しげな姿の円政寺

 萩城跡は人気薄だが、かつて三角州であった場所に造られた武家屋敷町は当時の姿が良く残されていることから、大半の観光客は「萩城下町」と名付けられた通りを歩き、ときには著名人の生家などを訪ねる。

 全体の敷地は結構な広さがあるので、疲れ果てた私は、かつての記憶とグーグルマップを頼りに、とくに歩いてみたいと考えた場所だけをうろついた。

 写真の円政寺は、鳥居だけを見るとやや怪しげではあるが、かつては毛利家の祈願所でもあった由緒ある寺なのである。寺に鳥居は不思議な感じもするが、境内には金毘羅社があって、神仏習合時代の姿がそのまま残されている。

 また、近くに住んでいた高杉晋作や、雑用係として住み込んでいた利助(のちの伊藤博文)が遊んだり勉強したりした場所としてよく知られている。

木戸孝允生家

 長州藩薩摩藩とならんで明治維新の立役者を多く輩出したが、私が一流だと考えている人物の大半は維新前に死没している。吉田松陰高杉晋作久坂玄瑞、月性、河上弥市、吉田稔麿などが生きていたなら、維新政府はもう少しまともな政策がおこなえたのではないかと思える。これは長州藩に限らず、土佐の中岡慎太郎や少し劣るが坂本龍馬も同様であろう。 

歴史を感じさせる通りが数多くある

 もっとも、伊藤博文以下維新政府の中枢にいた二流どころの人物も、まだ吉田や高杉の良き影響が残っていたためになんとか踏ん張れたものの、それらの影響が失われた時代になるとどうにも表現しようのない「悪政」が展開されたように思える。

 とはいえ、現在の五流以下の政治家ばかりの現代に較べれば遥かにマシだともいえるが。

高杉晋作生家

 高杉晋作の生家だけはやや時間をかけて見物した。

晋作にまつわる資料が展示されている

 家の中には、高杉に関係する資料が数多く展示されていた。

通りを歩くだけで幕末の空気を感じることができる

 菊屋横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁など、通りを歩いているだけでも歴史に思いを馳せることができる。著名な人物の影には数多くの無名な人々の働きがあり、それらを含んだものが「時代」と呼ばれる存在なのである。

〔95〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(6)錦帯橋、柳井、そして山口、秋吉台へ

秋芳洞・百枚皿

◎初めて錦帯橋を渡る

錦川左岸の河原から橋を眺める

 岩国市には取材で何度も宿泊したことがあるので、市内から10分程度の場所にあるこの橋は何度か見学したことがあった。もっとも、すべてその姿を眺めただけで、橋を渡ったことはなかった。

 が、今回は、橋の東詰め近くにある観光ホテルに宿を取ったことから、初めて橋を渡ってみることにした。対岸の横山の天辺(標高216m)に復元された「岩国城」にもロープウェイを使えば、さして苦労することなく出掛けることができるようなので、橋を渡ることとセットで城へも出掛けてみようと当初は考えていた。

 いずれにせよ、橋を渡ることは翌日の午前中と決めていたので、厳島神社から移動してきたこの日は、錦川の左岸にある河原から橋の姿を眺めるだけのつもりでいた。

初めて錦帯橋を渡る

 が、時間に少し余裕があったこと、観光客の数が少なかったことから、さしあたり橋を渡ることだけは済ませてしまおうとの考えが浮かんだ。そこで、入橋料310円也を払って東詰めから、全長193.5m、幅5m、アーチの高さ13mの木造の橋を初めて渡ってみた。

 5連の橋からなり、両サイドは桁橋、中の3つがアーチ橋となっている。写真のように桁橋はすべてなだらかなスロープなのに対し、アーチ橋は天辺付近以外は階段状になっている。 

木々の間から見た錦帯橋

 錦帯橋日本三名橋のひとつで、他の二つは東京の「日本橋」と長崎の「眼鏡橋」だそうだ。また日本三大奇橋のひとつでもあり、他の二つは山梨の「猿橋」と徳島の「かずら橋」である。という訳で、この橋だけがどちらにも選ばれている。それだけ貴重な存在だと言えるだろう。

 この橋は1673年、岩国藩主の命で建造された。岩国城が錦川の右岸側に、城下町が左岸側にあることから架けられたそうだ。しかし、錦川はよく水嵩が増すために、普通の橋ではすぐに洪水で流されてしまうために、こうした独自のアーチ型になったとされる。

 これには、中国の杭州にある西湖の中の島々を結ぶ橋が6連のアーチになっていることが『西湖遊覧志』に記されていたこと、それが大きなヒントになったと考えられている。

右岸でジャンプする女性

 錦川の右岸の土手には桜の木が多く植えられていた。花の季節には大勢の観光客で賑わうことだろう。私が訪れた時期には花の季節が終わっていたことから、思いのほか、訪れる人が少なかったのかもしれない。

 写真内にあるが、若い女性が石畳みの上で何度もしきりにジャンプしていた。最初は意味不明だったが、よく見てみると、手前側にスマホが置いてあり、カメラにタイマーをセットして、錦帯橋をバックにジャンプする自分の姿を撮影しているようだった。

 なかなか思い描いたような写真が撮れないようで、真剣な眼差しでスマホをセットする一方、ジャンプした際には最大限の笑顔をつくっていた。

 見物人は少ないとはいえ、大衆の面前で堂々と撮影するその姿に、私は感銘が半分とある種の鬼気を半分感じてしまった。

 何度か繰り返す内にどうやら得心出来る画像をえることができたようで、彼女は撮影を終え、何事もなかったかのように静々と河原を去っていった。私はその若い女性の勇気(蛮勇)へ、心の中で拍手を送った。

 橋の上から川の流れを見つめていると、7,8センチのアユがしきりに橋脚の基盤の石に付いた苔を食んでいた。この地では、錦帯橋を中心にして6~9月には「鵜飼い」がおこなわれるそうだ。錦川はアユ釣り場としても良く知られているようで、天然遡上のアユだけでなく幼魚や成魚の放流事業も盛んにおこなわれている。

 若アユたちは、たとえ眼前に強い瀬があったとしてもそれを力強く乗り越えて上流へと上ってゆく。きっと、あの若い女性のように高くジャンプして……まさか自撮りはしないだろうけれど。

◎岩国市ミクロ生物館~見学する価値が十分にある施設

潮風公園の施設内にあるミクロ生物館

 当初の予定では、朝に再び錦帯橋を渡り、ロープウェイを使って岩国城に出掛けることにしていたが、宿で周辺の見所を地図上で探していたところ、興味深い場所を発見した。そのため、錦帯橋は前日に十分に見物したことから岩国城行きは取りやめ、観光ホテルを出るとすぐに海岸線に向かった。

 国道188号線をほぼ南に進むと、昨晩に探し出した場所に到達した。そこは「潮風公園みなとオアシスゆう」という名前の砂浜のある公園内の建物の一角にあるはずだった。ちなみに「ゆう」というのは、この公園が「由宇町」に存在するからで、それ以上の理由はなさそうだった。

 細長い建物に中に、目的場所である「岩国市ミクロ生物館」があるはずだったが、すぐには見つからなかった。それほど大きな建物ではないので、なんとか見つけることは出来たが、想像していたより規模は小さく、中学校の理科室程度の広さだった。

顕微鏡でミクロの世界を観察

 それでも室内の設備や展示はかなり充実していた。山口大学神戸大学、それに水産総合センターや日本原生動物学会と連携し、「世界初のミクロ生物館」をうたうだけのことはあった。

 室内には4つのディスプレイと大型スクリーンが置かれ、「瀬戸内海のせん毛虫」「瀬戸内海のべん毛虫」と題した動画を随時、放映していた。

 また、大型スクリーンでは「海のふしぎなミクロの世界」「のぞいてみよう川・池・田んぼ」と題して、そこに住む藻類、アメーバ、せん毛虫、べん毛虫についてわかりやすく解説している動画が放映されていた。

世界で最初のミクロ生物館

 もちろん、顕微鏡もそれなりの数が置かれていて、ミクロ生物の生きた姿が観察できるようになっていた。さらに立体模型や標本も揃っており、ミクロの世界に興味を抱く人にとっては十分に見学に堪える展示がなされていた。

 夏休みなどには研究者によるセミナーもおこなわれるそうで、奥の部屋では数人の研究者が常駐して熱心に研究活動を進めているようだった。

 私にとってはとても価値のある見学施設だと思えたが、残念なことに私が滞在していた時間に限ってのことかも知れないが、私の他に見学者は一人も現れなかった。

大島大橋を渡る

周防大島側から大島大橋を眺める

 「屋代島」という正式名称より「周防大島」と言ったほうが通りが良いかも知れないので、ここでは後者の名を用いる。

 この島はかなり大きな面積を持ち、地図を見る限り磯釣りに適した場所は多いように思えたが、何故か地元の名人に何度か同行した限り、この島で釣りをしたことはまったくなかった。島が大きすぎるのでかえって魅力がないのかもしれないが、はっきりとした理由は不明のままだ。

 という訳で今回、初めて周防大島に渡ることにした。が、実はこの日の朝、ホテルで朝食をとっているとき、賄いのおばちゃんが「今日はどこへ行くの?」と尋ねてきたので、「周防大島」と答えた。そうしたら、そこより「角島の方がずっと海が綺麗なので、そちらに行った方が良い」とお節介なことを言ってきた。

 周防大島と角島とは直線距離にして130キロ以上あるし、そもそも角島は日本海側なので方角が異なっている。ただ、その前に私が東京から来たこと、この日の宿泊地は山口で、次の日は下関であるということを伝えていたので、折角、島に立ち寄るなら角島の方がずっと魅力的であるということを言いたかったのかも知れなかった。

 私自身、次の目的地が柳井市であったことから、その道すがらに行ったことのない周防大島に立ち寄るだけだったので、それほど大きく時間を割くつもりはなかった。一方、角島は今回の予定には入っていなかったけれど、調べてみると2000年に竣工した「角島大橋」が魅力的に思えたので、下関から萩までの道順を変更して角島を予定に入れることになった。

 もっとも、周防大島は柳井に行く途中にあるので、とりあえず「大島大橋」を渡ってみて、それから島見物を続けるか、それとも橋だけ立ち寄ってすぐに柳井に向かうかは出たとこ勝負という感覚で、大島大橋へ向かった。

潮の流れはかなり急だった

 大島大橋は1976年に完成した全長1020mのトラス橋である。幅は9m、高さは海面から32mある。下を流れる大畠瀬戸は最大流速が10ノットもある急流のため、世界で初めての試みとして、橋脚は多柱式基礎の上に連続トラスで構成されている。

 写真から分かるように、確かに大畠瀬戸は想像以上に流れが速い。50年近く前に建造された長い橋だが、流れによく耐えて本土と屋代島との間をしっかりと結んでいる。

 橋の姿を見物したことで、周防大島に来た価値が十分にあると思われたため、とくに島巡りはおこなわず、次の目的地である柳井市に向かうことにした。

柳井市古市金屋伝統的建造物群保存地区を訪ねて

伝統的建造物を見て回る

 柳井市室津半島の付け根部分に位置した港町で、農業産品の集積地として古くから栄えた。そのこともあって町中には室町時代以来の町割りが残っており、現在では白壁の建物に代表される伝統的な建物が良く保存されている。

 現在では花卉や果実生産が盛んだ。これは、この地域が典型的な瀬戸内式気候であって日照時間がとても長いことが理由になっている。

古い町並みが良く保存されている

 今回の旅では古い町並みが保存された場所をいくつか訪ねているが、他の場所と異なる点がひとつあり、それがこの地ならではの特色になっている。

軒に下げられた「金魚ちょうちん」

 すでにお分かりかと思うが、家並みの軒からは、おしなべて「金魚ちょうちん」が吊り下げられている。この「金魚ちょうちん」は柳井市の伝統工芸品として、現在ではネット通販などでも取り扱われている。

 割竹で組んだ骨組みに和紙を貼り、赤と黒の染料で色付けされている。これは幕末の頃、柳井の商人が青森県弘前市の「金魚ねぷた」にヒントを得て、伝統的な「柳井縞」の染料を用いて作ったことが始まりとされている。

 例年、お盆の時期には「金魚ちょうちん祭り」が開催され、4000個ものちょうちんが吊り下げられ、そのうちの2500個には明かりがともされるそうだ。写真でしか見たことはないが、誠に幻想的な風景が展開されている。

金魚ちょうちんは、この町を代表する特産品

 どの通りを歩いても、こうして間近に「金魚ちょうちん」の姿を見ることができる。白壁の町並みだけではそれがどの町のものか判別が付けづらいが、こうして金魚が風の中を泳ぐ姿が目に留まることで、ここが柳井市であることが分かるということは、とても素敵なことである。

路地を歩くカニに要注意!!

 写真の金魚は通常とは異なり、ピンク色をしている。これはこれでとても興味深いが、私の目を惹きつけたのは金魚の色ではなく、その右手にあった「カニが路上を横切ります…」の注意書きだった。町中を歩くと、金魚ちょうちんほどではないにせよ、至るところでこの注意書きを目にすることになった。

路地でカニの姿を探す

 注意書きがアチコチにあるということは、カニがたくさん歩き回っていることの証左でもあるので、私は視線を軒先から地面方向に移し、写真のような路地を歩き回ることにした。よく見れば、路地の至る所に側溝があることが分かったことから、今度は白壁通りではなく、金魚ちょうちん巡りでもなく、側溝にいると思われるカニ探しに転換した次第であった。

側溝でカニを発見

 ほどなく、開渠された側溝の中で写真のように小さなカニを発見した。ただ、愛想は決して良くなく、すぐに狭い溝の中に隠れてしまった。

人の姿を見掛けるとすぐに姿を隠そうとする

 側溝はいくらでもあり、その中にカニの姿はどこにでも見ることができた。写真のように少し大きめのカニが複数、見つけられることもあった。

 が、残念なことに道を歩く(走る)カニの姿を見ることはできなかった。これはカニが悪い訳ではなく、カニの姿をしきりに探す大きな動物(わたしのこと)がうろついているため、彼・彼女らは警戒心を抱いてしまって路上に姿を現さなかったのかもしれない。

 といって、私もカニを真似て側溝に隠れ、奴らが道を横断する様子を観察するほどヒマではなかったことから、そうした行為をとることは断念した。

日日新聞は週に3回発行される

 中心部からは少し外れた場所に、「柳井日日新聞社」の小さな建物があった。新聞は週に3回、発行しているそうである。柳井市で起こる日常や非日常を取り上げているようだ。

 この新聞社のスタンスは不明だが、親行政側であろうと反行政側であろうと、地元の情報が多く人目にさらされることで、意識ある人々は行政を監視することになる。

 「新聞のない政府か、政府のない新聞か、いずれかを選べと言われれば、後者を選ぶべきだろう」。このトーマス・ジェファーソンの言葉は、言論が持つ強さと怖さを鋭く指摘しているが、今日、問題なのは、言論そのものが空虚になっていることだ。

 林達夫の「空語、空語、空語……」という表現のもつ意味をネット文化全盛の今こそ、もう一度しっかりと噛みしめる必要がある。

◎常栄寺~またまた庭園に見惚れてしまった

残念過ぎた「一貫野の藤」

 柳井市の次は山口市街を目指すことにした。ただ問題は、それまでの経路をどうするかだった。通常考えうるのは瀬戸内海沿岸を進んで防府市に入り、そこから北上して山口市街に至るルートだ。しかし、沿岸にある光市、下松市、周南市の多くの海岸線は臨海工業地帯となっているので面白みは少ない。

 一部には、かつてクロダイ釣りのために渡船で渡った島がいくつか点在してはいるものの、水の透明度がかなり劣るため釣りには良いだろうが、観光には向かない。

 ということで内陸を走って山陽道のインターに出て、そこから一気に防府市に至るのが良いように思われた。地図を確認すると、柳井氏の北西方向に「熊毛IC」の存在を見つけた。山陽道を西に進んでいたときによく目にしたインターだった。その名が特徴的なので記憶にあったのである。

 そこで、この熊毛インターを目指して山中にある県道をナビにしたがってひたすら北西方向に進路を取った。熊毛ICから山陽道に入り、防府ICで下りた。このインターからは山口市街は近いが、すぐに山口に至るのも味気ないような気がしたので、改めて地図を確認した。すると、山中に「一貫野の藤」という「名所」があるのを見出した。写真で見る限りでは、藤の花と下を流れる川のコントラストが見事なのだった。

 ということで国道262号線で山口市街を進むルートをとらず、県道24号、27号の細い道を進んで、素敵な!?藤の姿を目に焼き付けることにした。

 が、上の写真のように藤の花は一部咲き程度で、ネットで調べた姿とはまったく異なる光景が展開されていたのだった。名前はよく知られた存在らしく、次々と細い道を経て車がやってくるのだが、一応にがっかりした様子で、何も撮影することもなく、この場を離れていった。

 満開時ならそれなりに見応えはあるだろうが、この日の時点では「はるばるやってきたのに、たったこれだけ?」という感想を、誰もが抱いたようだ。「開花前の藤には愕然とした表情が良く似合う」。

庭園と鐘楼門で名高い常栄寺

 寄り道は残念な結果に終わってしまったため、私はさっさと山口市街へと移動することにした。「西の京」と呼ばれる山口市だが、全国的な認知度はかなり低い。実際、山口県の都市の名を思い浮かべようとすると、出てくるのは下関や萩の名が先だし、山口市から連想される観光名所もなかなか思いつかない。実際、私自身は何度も山口県に足を踏み入れて入るし宿泊もしているが、山口市内に泊まったのはただの一度しかない。それも、40年近く前に湯田温泉を利用しただけだ。

 今回は、市内に宿を取り、「西の京」と称されるに相応しいと思われる場所をいくつか巡ってみた。その最初の場所が写真にある「常栄寺」だった。

 この寺自体は何度も名称が変わっており、常栄寺そのものもあちこちに移り変わっているようだが、現在の場所に落ち着いたのは大内政弘がこの地に別邸を建てたのが始まりとされている。 

池泉回遊式庭園は国の名勝に指定

 大内は水墨画家で禅僧でもある雪舟に庭の造営を依頼した。それが写真にある「雪舟庭」で、枯山水や石の配置など庭園造りの基本をきちんと取り入れた見事な作品となっており、国の名勝に指定されている。

庭園は「雪舟」が作庭

 「雪舟庭」が有名になり、訪れる人も多くなったことからか、常栄寺境内の入口には写真のような雪舟の胸像が置かれていた。

 雪舟(1420~1506)と言えば小僧時代に涙でネズミの絵を描いたことで良く知られている。大内氏に庇護されてからは遣明船に乗って中国に渡り、水墨画の修行をしている。『天橋立図』や『秋冬山水画』など6点が国宝に指定され、狩野派に大きな影響を与えた。

庭園をじっくり回遊した

 若いうちは庭園にはまったく興味がなかったが、近年になってその「良さ」が少しずつ分かりかけてきた。当然の如く、参拝はしないけれど、庭園巡りはじっくりとおこなった。

 写真奥には枯れ滝が写っているが、実際には少量であるが湧水が流れ込んでいた。どの角度から見ても破綻のない姿が印象的であった。

前庭も十分に美しい

 本堂の前面には1968年に造営された「南溟庭(なんめいてい)」があった。こちらは本堂から眺めるもので庭に降りることはできない。造園家で修復家として知られている重森三玲氏が常栄寺の住職から依頼を受けて作庭した。

 この際、常栄寺側は「雪舟庭より良い庭を造られては困る。恥をかくような下手な庭を造ってもらいたい」と要求したために一旦は固辞されたが、「上手に下手に造ってくれ」と何度も依頼されたために重森氏が受け入れて作庭したと言われている。

 庭は、雪舟が明に行き来するときの海をイメージしているとのことで、確かに、「荒海」が見事の表現されている。

瑠璃光寺~国宝は修復中

国宝の五重塔は修復中

 常栄寺が「雪舟庭」なら、瑠璃光寺は「五重塔」であろう。一般受けするのはもちろん後者で、この寺の塔は「日本三大名塔」に選ばれている。他の二つは法隆寺の塔と京都醍醐寺の塔である。

 が、国の国宝に指定されている瑠璃光寺五重塔は、写真から分かるとおり現在は修復中で、修理が終わるにはまだ数年は掛かるようだ。檜皮葺の屋根の葺き替えがおもな工事らしいが、この塔の姿を当てにして訪れた観光客(私もそのひとり)にとって、大型クレーンの存在はがっかり度が非常に高い。

 塔は1442年に落慶したとのこと。日本では10番目に古いものだそうだ。高さは31.2mある。写真のように、手前の池とのコラボレーションは、きっと見応えがあるだろうと思えた。

 寺は香山公園内にあり、園内には多くの梅や桜の木が植えられている。花に囲まれた五重塔の姿も優美であるに相違ない。

杓底一残水

 境内には、写真の「杓底一残水」の碑と手水場があった。「杓底一残酔汲流千億人」は道元の言葉で、仏前に供える水を川から柄杓で汲み、必要な分だけ使い、残った水は川に戻す。僅かな水でも大切にし、結果、それが多くの存在に役立つことがあるかも知れないとの考えによる。

 確かに、一滴の水であってもそれが無価値であるかどうかは誰にも分らない。水に限らず、あらゆるものは他との関係性が必ず存在する。仏陀の教えの要諦のひとつである「縁起」に通じる考え方である。

沈流亭~薩長の志士が密議した場所

 沈流亭は、薩長連合の密約を結ぶべく、小松帯刀西郷隆盛が長州に赴いて密議をおこなった場所とされている。ただし、元は別の場所にあり、それが香山公園内に移設されたとのことだ。

◎山口サビエル記念聖堂

2つの塔とテント型の屋根が特徴的

 山口市は、フランシスコ・ザビエル(1506~52)が日本に来て初めて住居兼教会を与えられた場所である。日本では一般的には「ザビエル」あるいは「ザベリオ」と呼ばれているが、山口では「サビエル」の名を用いている。これはイタリア語読みでは「サヴェーリョ」、カスティリア語では「シャビエル」となるので、「ザ」よりも濁らない「サ」のほうが原語に近いためらしい。

 ザビエルは1549年に日本で布教活動を行うためにインドのゴアから日本に向けて移動し、まずは鹿児島に上陸した。薩摩藩島津貴久の許可を受けて布教活動をおこなったが仏教勢力の反発を受けたことから成果は芳しくなかった。そこでザビエルは、天皇や将軍から許可をもらうために京に向かったが、謁見は叶わなかった。

 が、周防国では戦国大名大内義隆に謁見することができ、献上品として望遠鏡、メガネ、置時計などを差し出した。すると大内は大いに喜び、廃寺となっていた大道寺を与え、布教活動を許した。

 ちなみに、このときザビエルが大内に与えたメガネが、日本人が最初にメガネの存在を知ったと言われている。

井戸端で説教するサビエルの像

 前述したように大道寺に住居兼教会を建てたザビエルは一日2回、井戸端で説教をおこなった。この結果、山口では500~600人がキリスト教に改宗したと言われている。

 ひとつ上の写真で「サビエル記念聖堂」の姿を載せているが、ここはザビエルが住居兼教会を建てた場所である。現在、一帯は亀山公園として整備され、私のように信仰心がまったくない人物でも気兼ねなく訪れることができる。

盲目の琵琶法師ダミアン殉教の碑

 亀山公園には、写真の「ダミアン殉教の碑」があった。ダミアンは堺出身で、路上で琵琶を弾きながら旅をする全盲の琵琶法師。やがて山口に住み着くようになり、この地でキリスト教に出会い、25歳の時に洗礼を受けた。

 1587年の秀吉による伴天連追放令によって宣教師は平戸に移ったため、ダミアンが伝道師となって山口教会の中心的存在として活動を続けた。が、毛利輝元に睨まれ、1605年に斬首された。享年45歳。ダミアンは、「私には用意ができている。信仰のために死ぬことは大きな喜びである」と、従容として死を受け入れた。

中原中也の生誕地は現在、記念館になっている

 私はこうしたダミアンの生き様を知ると悲しみに暮れたが、無信仰者の悲しみなど所詮、「汚れちまった悲しみ」にすぎない。ちなみに、中原中也は現在の山口市湯田温泉出身だ。

 そんなとき、私はキルケゴールの言葉を思い出した。「人間的に言えば、死は一切のものの最後であり、人間的に言えば、生命があるあいだだけ希望があるにすぎない。しかしキリスト教的な意味では、死は決して一切のものの最後ではなく、死もまた、一切のものを含む永遠なる生命の内部におけるひとつの小さな出来事であるにすぎない。そして、キリスト教的な意味では、単に人間的に言って、生命があるというばかりでなく、この生命が健康と力とに満ち満ちてさえいる場合に見いだされるよりも、無限に多くの希望が、死のうちにあるのである。」『死にいたる病』より。

秋芳洞~もっともよく知られた鍾乳洞

稲川と秋吉洞入口

 秋吉台秋芳洞に出掛けるのは本当に久し振りだ。おそらく、前回に出掛けたときからは20年以上経ているはずだ。

 まずは秋芳洞を訪ねてみた。入口付近には立派な駐車場や新しめの秋吉台観光交流センターなどが建っていたが、洞窟入口までの売店などは閑散としており、想像以上に人気(ひとけ)がなかった。鍾乳洞はもはや人気の観光スポットではないのかも。ともあれ、駐車場の500円と入場料の1300円を払って洞窟内に入ってみることにした。

 秋芳洞日本三大鍾乳洞のひとつで、他の二つは岩手の龍泉洞や高知の龍河洞である。このなかでは秋芳洞知名度はもっとも高いと思われ、大半の人は鍾乳洞の言葉を聞くと「秋芳洞」を思い浮かべると思われる。

黄金柱(こがねばしら)

 秋芳洞秋吉台の地下100mほどのところにあり、判明している範囲でも総延長は11.2キロあり、その内の1000mが観光コースになっている。秋吉台の地下には約400もの洞窟があると考えられているが、その最大のものが秋芳洞だ。

 かつては「滝穴」と呼ばれ、1354年に秋吉村の禅僧の寿円が雨乞いのために入洞したという記録が残っている。また、19世紀半ばに記録された『防長風土注進案』には「壁石に種々の模様あり、仏像厨子其外諸々の器に似たる石多く、奇麗なる事言語に述べがたく……」などと記されている。さらに、幕末には32景、大正時代には39景の見所があると数えられている。

 鍾乳洞は百万年に渡る地下水の溶食作用によって石灰岩が溶け、地下水位の低下、砂礫の堆積、天井部の崩落、洞窟生成物の発達などによって形成された。

 その代表が写真にある「黄金柱」だ。約15万年の年月をかけて上方にある石灰岩が染み入った水によって溶け、その炭酸カルシウムが再結晶化して炭酸塩鉱物としてひとつの形を造ったものである。

百枚皿

 黄金柱以上に良く知られているのが写真の百枚皿。さながら棚田のようである。これは緩やかな斜面に出来るもので、地下水に含まれる石灰分が沈殿して二次生成物となり、それに縁どられた小さな皿状の池が何段にも積み重なったものである。リムスートンと言われ、日本語では畔石とか輪縁石と呼ばれるものに地下水が溜まり、棚田のような景観を形成しているのである。

 現在、棚田見物はブームになっており、「千枚田」などと呼ばれるものも多いので、こちらも百枚皿から千枚皿に変更すると良いかもしれない、と考えてしまった。

大松茸

 こちらは「大松茸」と名付けられているが、どちらかと言えば「カボチャ」のように見える。

大黒柱

 天井から滴り落ちてくる石灰分を含んだ水が鍾乳石となってつらら状に成長し、一方、下に落ちた水は少しずつ成長して「石筍(せきじゅん)」となる。このつらら石と石筍とが繋がったものが写真の「大黒柱」と呼ばれるもので、しっかりと天井を支えているように見えるところからそのように名付けられた。

巌窟王

 炭酸カルシウムの雨は石筍を造ることが多いが、時として不規則に積み重なると不思議な形状を生み出すことがある。「巌窟王」と呼ばれるものは、石筍の一種であろうが、あたかもどっしりと構えた人間のような姿を生み出してしまうのである。

クラゲの滝のぼり

 急斜面を下ってくる炭酸塩鉱物は、天井から伸びるつらら状のものとは異なり、壁にたくさんの細い管状のものを形成する。これがまるでクラゲの足のように見え、場所によってはそれらが幾重にも集結する。そこから、この場所は「クラゲの滝のぼり」と名付けられた。いささか不気味でもあるし、反面、自然が生み出す神秘的な造形でもある。

 まだまだ数多くの不可思議な姿をした自然の造形物に触れた。いずれ紹介することになるが、別の場所でも鍾乳洞に入ることとなり、秋芳洞とはまた異なる鍾乳石の姿を目にした。そこでは、ある面では秋芳洞以上に不可思議な姿に触れている。

秋吉台~日本最大のカルスト台地

カルスト台地の典型

 秋吉台といえばカルスト地形であまりにも有名である。秋芳洞日本三大鍾乳洞であるように、秋吉台日本三大カルストのひとつに数えられている。他の二つは、平尾台(福岡)と四国カルスト(愛媛・高知)である。なお、カルストはドイツ語で、語源はスロベニアのクラス地方の「クラス」にあって、この地方では石灰岩が表出した地形が有名だからだそうだ。

 秋吉台山口県美祢市にあり、北東に16キロ、北西に6キロ、面積は130平方キロもある。写真のように草原の中にピナクル(地表に現れた石灰岩)が林立するカレンフェルト石灰岩柱が林立する様)が見事である。こうしたピナクルが草むらに隠れてしまわないように、地元では毎年、山焼きをおこなっている。

 1970年に開通した秋吉台道路を走ることが大好きだった私は、広島や山口での取材を終えるとこのカルスト台地を走り、そして時間がある時は萩市まで出向いていた。

この台地の下に秋吉洞がある

 石灰岩柱は、赤道付近で3億5千年前頃に形成されたサンゴ礁が元になっており、2億6千年前頃に大陸の東側に付加した。地表に現れたのは2000万年頃というから、日本列島が大陸から分離したときとほぼ同じ時期に地上に姿を現したことになる。

 500万年前には標高が600mほどになった。現在は200~400mの標高なので、厚東川による浸食作用のほか、二酸化炭素を含む水によって石灰岩が溶食されたことも一因かも。もっとも、水による溶食は一万年で0.5から0.6m程度とされるので、川の浸食作用や地面の陥没(ドリーネ)のほうが標高を低くしている主因かも。

 ともあれ、いろいろな姿に変化している石灰岩の姿を見てるだけで満足度はとても高い。一方、秋芳洞にしても秋吉台にしても観光客の数が少ないことが気がかりでもあった。人が少ないほうがじっくりと見物できる反面、観光収入が少なくなると施設の維持管理が不十分になってしまい、安全性という観点から心配事が多くなる。

◎長登(ながのぼり)銅山跡~奈良の大仏に使われた銅の採掘場所

秋吉台のすぐ近くにある銅山跡

 秋吉台から下ると近くに「長登銅山跡」があることが分かった。国指定の史跡だということなので、車をとめてネットで調べてみると、奈良の大仏はこの銅山から採れた銅を使っているとのことだったので立ち寄ってみることにした。

ここでは鋳造体験もできる

 写真のようにここには鋳造体験ができる施設がある。また、2009年にオープンした文化交流館では、銅の精錬の過程や奈良の大仏との関連の説明だけでなく、長登銅山は、銅だけでなく鉛、コバルトなどの精錬がおこなわれていたこと、古代の須恵器や木簡なども多数発見されていることなど、長い歴史を有する場所であったことがよく理解できる。

精錬場跡のひとつ

 山中に銅山跡が多く残っているというので、緩い坂道を登ってみたが、銅山跡はまだまだ山の奥だということが分かったので途中で撤退した。

精錬の際に出来る不純物(スラグ)

 ここの鉱山では7世紀末から8世紀初頭にかけて銅をはじめとした鉱物の採掘がはじまった。前述のようにここで精錬された銅が奈良の大仏に用いられたということは、秋芳洞のところでも紹介した『防長風土注進案』に触れられていた。

 この地の銅鉱石にはヒ素の含有量が多いことで知られており、奈良の大仏に用いられている銅を調べたところ、やはりヒ素の含有量が多いことが判明したことから、1988年、長登の銅が大仏の銅であることが証明された。

 長登は「奈良登」が語源で、それが長登に変化したとの言い伝えがあったが、上記のことが証明されたことで、そのことも「事実」となった。

 長登銅山(鉱山)は1960年に閉山された。写真のように、精錬の際には不純物が多く出る。というより不純物の方が圧倒的に多い。鉱山の周辺には不純物が多く捨てられたことで、開発する場所に限りが生じたことも閉山された理由のひとつらしい。

 それを知ると、開発には必ず負の部分を併せ持つということを改めて実感させられる。

〔94〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(5)竹原の町並みから原爆ドーム。そして厳島神社へ

厳島神社の大鳥居を望む

竹原市の「たけはら町並み保存地区」へ

三原市エヒメアヤメの自生南限地区

 尾道市を離れ、この日の宿泊地である広島市に向かった。基本的には海岸線を走るつもりだったことから、途中には三原市竹原市呉市がある。このうち、呉市というより音戸の瀬戸と早瀬の瀬戸の見物は外せないが、それ以外の場所ははっきりとは決めていなかった。

 三原市の海岸線には「筆影山展望台」があって、しまなみ海道の島々を見渡せる良い場所があるのだが、いつまでもしまなみ海道にこだわっていると次になかなか進むことができないことから、三原市ではなく竹原市に向かうことにした。

 そうなると、海岸線を走るよりも少しだけ内陸にある県道75号線を利用した方が距離が短くなりそうなので、その道を使うことにした。

 その道の途中で「えひめあやめ開花中」の立て看板を何度も見掛けたのである。始めはそれほど興味が湧かなかったが、いくつもの看板に接すると、「訪ねてみても良いかも」と思い、案内板にしたがって車を進めることとなった。

アヤメの仲間ではもっとも小型

 エヒメアヤメの自生地は結構な山の中にあった。案外、寄り道が過ぎたと思ったものの来てしまった以上は仕方ないので、広場に車をとめて山道をとぼとぼと歩いて開花場所を訪ねた。

 エヒメアヤメは日本では岡山県から宮崎県、アジアでは朝鮮半島や中国に自生している。私が訪ねた場所が自生の南限域だそうなので、三原市ではこの花を大切に扱っている。

 小型種で、移動能力が低いことから、かつて日本が大陸と陸続きであったことを植物的に証明していると考えられているようだ。日本では愛媛県で最初に発見されたことから牧野富太郎が”雑草”とは呼ばずに「エヒメアヤメ」と命名した。

 あまり人が訪れるような場所ではなく、かつ、艶やかに斜面いっぱいに咲き誇るという花でもないことから、訪れたのは私ひとりだけで、案内係の人も暇そうにしていた。さらに花期も終盤に掛かっていることから、花の姿を見出すことに苦労した。

 それでも、人が立ち入れない場所の数か所では開花している株を見出すことができ、足元近くでは、やや枯れ始めた花を少しだけ見つけることができた。

 管理地への入場料は無料ではあったが、この地はボランティアの人々が管理をしているとのことだったので、若干ではあるが入場料に見合うぐらいの寄付をおこなった。

竹原は頼山陽の祖父や父の故郷

 エヒメアヤメの自生地にたどり着くために細い道をあちこちと進んだことから、次の目的地に定めた竹原市にある「たけはら町並み保存地区」へのルートが不明になってしまった。そのため、ナビを頼りに目的地に向かうことになった。

 保存地区の近くには「道の駅・たけはら」があって、保存地区の見学者もこの場所の駐車場を利用することを推奨していたことからそこに車をとめ、保存地区に向かうことにした。

 横断歩道を渡ったときに、一角に写真の銅像があることに気付いたことから、信号待ちの間にそれが誰の像であるかを確認した。

 『日本外史』をまとめ、尊王攘夷運動の理論的支柱になった頼山陽の像であることが分かった。頼山陽は大坂生まれだったような記憶があったが、その活動の場が大坂であって、生まれはこの竹原なのかも知れないと思った。何しろ、「山陽」の名なのだから。ただ、実際はやはり大坂生まれで、祖父や父親が竹原出身であるとのことだった。

 頼山陽の名を聞くと、まずは「鞭聲粛粛夜河を過る」で始まる『不識庵機山を撃つの図に題す』という川中島の戦いをテーマにした詩吟を思い出す。母が詩吟に凝っていて、90歳を過ぎてかなりボケが進行していたときも、この「鞭聲粛粛……」だけはしっかりと覚えていたからだ。

 さらに、幕末の志士で”安政の大獄”の際に橋本佐内とともに処刑された頼三樹三郎の存在も連想された。彼は山陽の三男だったからである。

 竹原市にとっては故郷が生んだ傑物であると直接に語ることはできないが、傑物を間接的に生み出した町であるということは確かなのだ。

町並みは綺麗に保存されている

 竹原は「安芸の小京都」とも呼ばれ、写真のように古い町並みが綺麗に保存されている。これは石畳みの本通りだけでなく、脇の道でもよく保存が行き届いていた。このことから、2000年には「都市景観100選」に選ばれている。

初代郵便局跡

 写真の建物は、初代郵便局に用いられたそうだ。

明治初期の郵便ポスト

 建物の前には当時使われていた「郵便ポスト」(書状集箱)が復元されている。前回、生口島瀬戸田町にあった黄色いポストを紹介した際に触れているように、郵便制度が始まったときのポストは写真のように黒色だったのである。

 なお、このポストは現役なので、この集箱にハガキや封書を投函すると他のポストに入れたときと同様に集配してくれるそうである。

塩田の浜主(笠井氏)の旧宅

 竹原は古くから瀬戸内海航路の重要な港として栄えた。沖にある大崎上島大三島など多くの島々が風除け波除けになってくれるため、さぞかし便利な港であったことだろう。さらに、江戸後期には製塩業や酒造業が栄えた。

 写真の住宅は製塩業を営んでいた笠井氏の旧宅で、現在は歴史的建造物として無料で一般公開されており、室内に立ち入ることもできる。

 写真から分かるように、竹原の住宅では格子窓の存在がよく目に付く。これは「竹原格子」と名付けられているほど、この町の建物を象徴する仕様なのだそうだ。

旧宅の内部見学も無料

 室内に入るのは面倒だったので、玄関口から中を覗くだけにした。写真からだけでも分かると思うが、飾り物が多く並べられており、いかにも金持ちの旧家といった風情であった。

◎早瀬の瀬戸と音戸の瀬戸を眺める

江田島倉橋島とを結ぶ早瀬大橋

 竹原市を後にした私は、国道185号線をひたすら西に進んで呉市を目指した。呉といっても「軍港」としての有様に触れたい訳ではなかった。確かに、呉は横須賀や佐世保舞鶴と並んで帝国海軍の重要な港であり、それぞれに「鎮守府」が置かれていた。が、「軍港」であれば横須賀港を飽きるぐらいに見ているので、そうした風景に接しようという気持ちはほとんどなかった。目的地はその先にあったので、どのみち、港の景色は嫌でも目に入るだろうから、それで十分だと思った。

 私が目指したのは「音戸の瀬戸」と「早瀬の瀬戸」に架かる橋の姿だった。とりわけ、後者は”早瀬”と名付けられているのだから急流を進む船とその上に架かる橋とのコンビネーションを楽しむつもりだったのである。

 場所からいって、早瀬の瀬戸の方が遠くにあるのだからまずは音戸の瀬戸が先に目に入ったのだが、その橋には格別な雰囲気は感じられなかったため、先を急ぎ、早瀬の瀬戸に向かうことにした。

早瀬の瀬戸は意外に潮は緩やか

 早瀬大橋は1973年に完成したトラス橋で、全長は624m、限界高度は36mが確保されている。航路幅も200m以上ある。

 橋の近くでバイクを脇に置いて橋の姿を眺めている人がいた。話を聞いてみると広島市街から来たとのこと。私は思ったよりも潮が早くないと率直すぎる感想を述べたところ、その事柄についてはとくに触れず、橋の西側に聳える陀峯山(標高438m)の中腹に「天狗岩」と名付けられた比較的広い岩場があり、そこからの景色は圧巻だと話してくれた。

 ただし、道幅がとても狭いので、バイクでは問題は無かったものの、車ではかなり苦労するとのこと。ただし、自分の場合は上り下りとも一度も車に出会わなかったので多分、大丈夫だろうと教えてくれた。

陀峯山中腹の展望所から天狗岩を眺める

 教えてもらった通りに国道487号線を北に進むと、「天狗岩」の方向を示す小さな看板があった。そこで丁字路を左折して「隠地林道」を陀峯山方向へ進んだ。始めは道の脇に人家があることから道幅はそれほど狭くはなかったが、家の姿が途絶えた場所からは相当の隘路となった。対向車があった場合はどちらかがすれ違い可能な場所まで移動する必要があるのだが、そんな場所は滅多に見当たらないのだ。とにかく、退避可能な場所を常にチェックしながらゆっくりと前進した。

 幸いなことに対向車とは出会わず、標高246mのところにある駐車スペースまでたどり着くことができた。

 写真は、標高240mのところにある展望所のひとつで、上部が平らになっている花崗岩の大岩の上から、天狗岩とそのずっと先に見える倉橋島の「釣士田(りょうしだ)港」方向を眺めたものだ。

天狗岩から早瀬大橋を望む

 道を少し下ると、天狗岩に至る杣道があった。しばらくは林の中を進むが、岩場に近づくと急に視界が開けた。岩場はかなり広く、南側に比高が5mばかりの岩山があった。その岩が狭義の天狗岩と思われた。その天辺近くまで行ったが、岩山の南側で岩場は急に途切れ、その先は崖になっている(ように思われた)ため、頂上に達することは断念した。

 花崗岩の岩場は広いが少し前下がりになっているので、こちらも先端部まで出るのは恐ろしい。もっとも、前方を遮るものはないので、それほど前進しなくとも景観は十分に堪能できた。

 たまたまバイク乗りの人に出会ったことでこの場所に至ることができた。こうした邂逅があり、それがまた予想だにしていなかった景観とのめぐり逢いが生まれる。そもそも、音戸の瀬戸を先に見学していたら、バイク乗りの人とは出会えなかった。だとすると、天狗岩の存在は知らないままで見物を終えていた。これだからこそ旅は止められないのだ。

 下から見た早瀬大橋は期待したほどではなかったが、天狗岩からの橋の眺めは期待値を遥かに凌駕していた。

倉橋島の入り江(釣士田港)方向を眺める

 これもまた、先ほど挙げた釣士田港方向を眺めたものだ。先は平らな大岩の上からの撮影だったので落ち着いて写すことができなかったが、この岩場からなら、恐ろしさは著しく低減されたために、いろいろな方角から海を眺めることができた。

 海には筏が多く並んでいるが、当然のごとくカキの養殖のためのものであろう。もちろん、手前の江田島の海岸線にもカキの養殖筏が並んでいる。

天狗岩直下の入り江を見下ろす

 写真は、江田島から突き出た「常ヶ石崎」と名付けられた半島である。

天狗岩には奇岩が多い

 その常ヶ石崎の右手(南西側)には長浜という砂浜が続いている。その砂浜の近くにも筏がたくさん並んでいる。

 一方、天狗岩周辺には、写真のような出っ張った岩が多くあった。狭義の天狗岩はこうした出っ張りの親分で、その周囲に小天狗がたくさん集結しているのである。花崗岩は浸食作用を比較的受けやすいために奇岩が多いのだと思われる。

呉市本土と倉橋島とを結ぶ二つの音戸大橋

 天狗岩からの景色を十分に堪能したので、林道を下って次なる目的地である音戸の瀬戸まで戻った。音戸大橋の東詰には「音戸の瀬戸公園」が整備されており、その場所からの眺めに期待をしたのだが、音戸の瀬戸の景観はともかく、橋の姿は魅力的なものではなかった。

 そこで、橋の景観を楽しめる場所を探すことにしたのだが、音戸大橋の場合は二つの橋が架かっているため、適当な撮影場所はなかなか見つからなかった。そんなこともあって、音戸町の中心街からなら新旧二つの橋が重なって見えるだろうと、図書館が入っている公共施設の駐車場に車を置き、撮影に適した場所を求めて海沿いを歩いた。

 手前が古いほうの橋で1961年に、向こう側が新しい第二大橋で2013年にそれぞれ完成した。

 二つの橋だけでは少し物足りないと思っていたところ、小型のフェリーの走る姿が目に入った。この船を画面に入れれば少しはアクセントになるだろうと、橋の下に入る直前のときを狙って撮影した。

 これで一応、呉を訪ねた目的が最低限ではあるが達成できたことから、宿泊地である広島市街へ向かった。

◎日本最大の路面電車に乗る

路面電車の姿にワクワク

 広島市には20回近く訪れているはずだが、すべて釣り目的だったので、他に立ち寄る場所といえば平和記念公園原爆ドームを含む)と平和大通り、それに今も残っているかは不明だが、お好み焼き店だけが入っているビルぐらいだった。それも、ほとんどの場合、いろいろな釣り名人と同行しているために釣り以外の時間は少なく、平和記念公園へは3度、お好み焼きビル?は3回だけだった。

 前者は自分の意志で、かつ一人で出掛けたが、後者は東京からの同行者がお好み焼き好きであったため、広島市街に3泊した際に毎晩出掛けたことから3回になった。その時以外は地元の釣り名人とは釣りが終わると別行動になることから、お好み焼きに興味がない私は一度も立ち寄ることはなかった。

 お好み焼きが決して不味いということではない。一口目は美味とすら感じられるが、何せソースの味が濃いことからどんな具を口にしてもどれも同じような味わいになってしまうことが最大の欠点だと思えた。

 「名物に旨いものなし」と言ってしまえば身も蓋もないが、伊勢の『赤福』と下仁田の『こんにゃく』は相当に美味しいと思っている。

 写真の路面電車には、東京の友人と新幹線で広島に取材に来た時に乗った。駅からホテルの近くまで利用したのだから都合、2回だけ乗車したことになる。したがって、今回の利用は生涯3,4回目(往復乗るので)となる。ただし、竹原から来島海峡まで訪ねた日は、ホテル到着が夕方になってしまったことから、乗車は翌日になった。 

姿かたちはいろいろ

 広島電鉄路面電車の総距離数は19キロあり、これは軌道線としては日本で一番長いそうだ。距離が長いだけでなく、車両のバリエーションがとても多いことでも知られている。

 宿泊したホテルの前の道路にも路面電車が走っていた。夕食はホテル近くにあった『すき家』で済ませ、私は路面電車の通過に夢中になっていた。一体、どれほどの車両を目にしたのか数えきれないほどだった。

 路面電車岡山市でも見物したり乗車したりしたが、広島市の電車の数は断然に多いことから、見物を終える切っ掛けがつかめないでいた。明日、乗車するというのに。

広島(宇品)港駅に出掛ける

 この日の訪問地は平和記念公園厳島神社がメインだった。ホテルで朝食バイキングを食したすぐ後にチェックアウトをし、車で広島港へ向かった。平和記念公園はホテルのすぐ近くにあり、車を駐車場に止めたまま出掛けることは可能だったが、それでは路面電車に乗る切っ掛けを逸することになることから、わざわざ終点の広島港に出掛け、近くのパーキングに車を置き、広島港駅発の電車に乗って平和記念公園に近い駅まで行き、そこから公園や原爆ドーム平和大通りを散策し、また電車に乗って広島港駅に戻るという計画だった。

 当然のことながら、広島港駅に到着したからと言ってすぐに電車に乗った訳ではなく、駅を発着する様々な形をした電車を30分ほど見学してしてからやっと電車の乗り込んだという次第だった。

前面展望を楽しむ

 広島港は宇品海岸にあるので「宇品港」の名を使われることが多い。1932年に宇品港から広島港に改称されているのだが、宇品地区にあるのだから位置関係も含めて港を呼ぶときには「宇品」の名がどうしても出てくるのだろう。実際、広島港を発着する軌道線は「広島電鉄宇品線」と名付けられている。私のように他所から来た者にとっては「広島港線」と呼んでもらったほうが分かりやすいのだが。

 それはともかくとして、私はいろいろな姿の車両が駅に到着したり発車したりする姿をしばし味わったあと、「宇品線」に乗って平和記念公園を目指すことにした。

 始発駅は乗客がほとんどいなかったことから、私は運転席のすぐ後ろに陣取って、前面展望の撮影の準備をした。

 最初の駅は「元宇品口」になるが、駅の手前には道路が通っており、信号は赤になっていることから電車は信号待ちをしなければならない。 

いろいろな姿の車両とすれ違う

 先にも触れたように、広島電鉄にはいろいろな電車が走っている。写真の車両は、以前は京都市電で用いられた1900形で、1978年に広電にトレードされた。

徐々に市街地に近づく

 その一方で、写真の車両のように2013年に導入された1000形の新しいものも結構、多く走っている。

被爆電車と出会う

 写真は、1945年8月6日当時に現役として走っていて実際に被爆した650形(652)の車両である。この650形は5両製作されたが、現在でも3両(651,652,653)が頑張って市内を走っている。

平和記念公園原爆ドーム

平和記念公園を歩く

 広電からは「中電前駅」で降車して、平和大通りから平和記念公園に向かった。結構な数の観光客が訪れており、その半数近くが外国人旅行客であった。死没者慰霊碑とその向こうに見える原爆ドームの姿は、ヒロシマを語る際に必ず用いられる構図である。

 広島平和記念公園は、1949年7月7日、憲法第95条に基づく住民投票によって92%の賛成で可決された「広島平和記念都市建設法」によって建設された。

 なお、この法律の制定は、憲法第95条に定められた住民投票が初めておこなわれたこととしても知られている。私が都立高校の教員であったときも、釣り師の傍ら大学受験予備校の講師であったときも、必ず取り上げたテーマでもあった。

原爆死没者慰霊碑

 私は観光客が少し途切れたときを見計らって、死没者慰霊碑の間に原爆ドームが入る姿を写真に収めた。

未だに論争がある碑文の文言

 写真の碑文の文言は常に論争の的になっている。「過ちは繰返しませぬから」の主語が曖昧模糊としているからだろう。原爆が投下されたのは日本の侵略に原因があったのか、初めて人類の頭上に原爆を投下した米国に原因があるのか、はたまた人類全体に責任があるのか不明だからである。

 核兵器を造ったことも、核発電所を造ったことも、それ自体は時代の要請と科学者の探求心の成せる業であろうが、それを「実用化」してしまうことは政治・経済の力である。それゆえ、現代社会においてはそれぞれの国民の責任と考えるほかはないだろう。

 慰霊碑は日本の法律において造られたものなので、責任主体は日本もしくは日本人であるのは当然のことと思われる。それゆえ、過ちを犯したのは日本であることは論を待たない。

 この碑文を「過ちは繰り返させない」として米国に責任があるように表記を変更するべきという意見もあるらしい。そうであるなら、慰霊碑は日本の責任においてワシントンかニューヨークに造り、米国が過ちを繰り返さないような警告文にしなければならないだろう。

 私としては、この碑文には主語が表記されていないゆえ、人類全体に対する警鐘であると同時に、人間一人ひとりへの覚悟を促すという意味だと解している。

原爆の子の像と無数の折り鶴

 広島平和都市慰霊碑の北側には、写真の「原爆の子」の像と、その下には無数の折り鶴を収納したケースが並べられている。

折り鶴は一千万羽以上が収められている

 折り鶴の数は年々増え、現在では一千万羽以上が収められているとのことだ。また同時に、折り紙によって平和へのメッセージが描かれている。

原爆ドーム前の人だかり

 元安川を挟んだその先には、原爆被害の象徴である原爆ドームが保存されている。写真から分かるとおり、ドームの前にはもっとも多くの見物人が集まっていた。私もまた、この群衆の中に溶け込もうとした。が、日本人の多くは、記念撮影時に「笑顔」と「Vサイン」を被写体に求めていた。

 別に悲痛な面持ちで写される必要はないが、笑顔とVサインはいささか行き過ぎではないかと思い、私はとても悲しい気持ちになってしまった。

 その光景に触れてしまうと、やはり、「過ちは繰り返しませぬから」の文言は日本人自身に向けられているのではないのか、と考えてしまった次第だった。

人影のない場所から撮影する

 こうした有様を目にするのは相当に不愉快だったので、私はドームの裏手に移動して、人の姿が画面に入らないような場所から撮影した。

平和の鐘のつく人

 写真の「平和の鐘」は記念公園内の北端近くにある。1964年に、「原爆被災者広島悲願結晶の会」が中心になり、「反核と高級の平和」を願って建設された。鐘は人間国宝の香取正彦がデザインし、表面には国境のない世界地図が浮き彫りにされている。

 周囲にはハスの池がある。被爆当時、人々はハスの葉で傷を覆い、火傷の痛みをしのいだという体験から、ハスの池が設置されたという。

原爆死没者慰霊碑を横から眺める

 平和大通りに戻る際、今一度、原爆被爆者慰霊碑を眺めてみた。今でも世界の至る所で紛争が起こっている。ウクライナでは核が使われるのではないかという危惧もある。

 紛争は善と悪との戦いではない。事実、ウクライナもロシアも双方が自国の行為を正当化している。「地獄への道は善意で敷き詰められている」ということわざを今こそ深く認識する必要がある。

G7広島サミットの準備中(当時)

 私が平和記念公園を訪れたのは、G7広島サミットの開催前だった。この公園はサミットの主要会場のひとつとなることもあり、準備に余念がない状態であった。

 サミット・先進国首脳会議は1975年に始まったが、当時は第一次オイルショックの後だったことから経済問題が中心であった。それがいつしか政治問題が主要になり、今回はゲストとしてウクライナのゼレンスキー大統領まで招待された。

 広島で開催されたこと、豊富なゲストが参加したことなど、広島出身の総理大臣としては「してやったり感」が満載だったが、その効果もごく短期間しか続かなかった。所詮、無能な人物がショーを開催しても、観衆の熱(しかも微熱)はすぐに冷めてしまうのである。

嵐の中の母子像

 広島平和記念資料館本館前に「祈りの泉」と名付けられた噴水があるが、写真の『嵐の中の母子像』はその池のさらに前(平和大通り側)にある。

 1959年に石膏像として彫刻家の本郷新が製作したものだが翌年、ブロンズ像に生まれ変わり現在に至っている。

 嵐は被爆した広島を象徴し、そんな中にあっても乳飲み子を抱き、幼子を背負って立ち上がり、前に進もうとする母親の姿として、これ以上考えられないほどの苦難の中にあっても、生きる意志を決して失わない姿を見事に表現した作品である。

 平和記念公園の入口のすぐ前にこの像が置かれている。この姿に私は、絵画だけでなく彫刻のもつ表現力に圧倒されてしまった。

平和大通り

 平和大通りは全長が約4キロあり、橋の部分をのぞくと100mの幅がある。これは戦後の復興計画の一環として1946年2月に「100m道路計画」が持ち上がったかからである。ただ元をただせば、45年に始まった米軍の空爆による類焼を防ぐために100m幅の防火帯を作ったことに淵源がある。実際、この防火帯を作るために住宅などを取り壊す作業が8月6日にも行われていて、動員されていた5千人以上の人が犠牲になっている。

 なお、道路の名称そのものは51年11月に「平和大通り」に決まり、全線が開通したのは65年5月である。

 100mの幅があると言っても、実際には側道、緑道が含まれているし、橋の部分は中心部を走る車道がメインとなっていることからすべて100mの幅がある訳ではない。また、緑道部分だけで約50%を占めている。これは、原爆で焼け果てた場所に樹木を植え緑を復活しようという「供木運動」の成果でもあった。

 また、平和記念公園の南側では先に挙げた「嵐の中の母子像」は平和大通りの緑道部分に設置されている。

広島市立高女原爆慰霊碑

 緑道の一角には原爆の犠牲になった「広島市立高女」の慰霊碑があった。写真のように、ここにも多くの折り鶴が置かれていた。こうした姿に触れると、科学の負の部分を明瞭に理解することができる。

 現在は「生成AI」の話題一色で、なかには2045年には人工知能が人間の頭脳を上回るなどという、いかにも頭が悪そうな意見すらあるし、実際、そう信じている人は案外、多い。

 これは人間をどうとらえるかに懸かっている。「クイズ王」を頭の良い人と考えるなら、コンピュータはとっくに人間を越えている。 

市電に乗って広島港に戻る

 平和記念公園原爆ドーム平和大通りを一通り訪ねたので、今回の広島市街見物を終えることにした。車は広島港近くに置いてあるので、再び、路面電車に乗車することが叶った。

たくさんのフェリー航路がある広島港

 広島港を広義で考えるなら湾内にあるコンテナターミナルなども当然の如くに含まれるだろうが、狭義で考えるなら、写真にある旅客船のターミナルが中心になる。実際、路面電車の広島港駅前には「広島港宇品旅客ターミナル」の大きな建物とその海側には江田島似島厳島(宮島)に渡るフェリーの波止場がある。

 私の次の目的地は厳島なのでここからでも出掛けられるが、この日の宿泊地は岩国市なので、車で廿日市まで行って、宮島口からフェリーに乗る方が時間もお金も少なくて済む。

 という訳で、私は広島港から広島南道路、国道2号線を使って廿日市市にある「宮島口」まで出掛けた。

厳島神社を初めて訪ねる

宮島口と厳島とを結ぶフェリー

 「安芸の宮島」と日本三景にあるぐらいなので、宮島の方が通りが良いが、正式には厳島と呼ぶ。ただし、厳島全体は廿日市市宮島町という住所名になっている。

 私はこの厳島には何度も渡っているが、厳島神社を訪れるのは今回が初めてだ。宮島口から厳島の桟橋までは1700mしかないので、宮島口から遠目に厳島神社の姿は何度も目にしたことはあるが、境内に足を踏み入れたことはない。

 というのは、今まで厳島には磯釣りのために廿日市市の隣の大竹市の漁港から渡船に乗って出掛けており、しかも、神社は北側にあり、磯釣りポイントは南側にある。直線距離では、神社と釣り場では8キロも離れているため、釣り場はとても神域ではなさそうだった。

 天橋立や松島には何度も出掛けている。今回は山陽の旅なので、最初で最後となるであろう厳島神社に足を踏み入れることにした。もっとも、私の場合は参拝はしないので、あくまで神社見物が目的である。

広島湾と言えばカキの養殖

 宮島口から宮島桟橋までは「松大汽船」と「JRフェリー」の2本が出ている。桟橋は隣同士で海に向かって左手が松大、右手がJRとなっている。私としてはどちらでも良かったのだが、松大は一直線に宮島に向かうのに対し、JRの方はやや右手に進み、大鳥居の前を通って桟橋に向かうようだった。

 沖から厳島神社の社殿や大鳥居の姿を撮影したかったことから、私はJRの方を選んだ。到着時間や料金には変わりがないようなので、航路から考えるとJRの方がお得なように思えた。

 桟橋を出発したフェリーからまず目にするのは、やはりカキの養殖筏だった。

厳島神社の大鳥居を望む

 JRフェリーのサービスにより、海上から大鳥居と社殿の姿を眺めることができた。この時間帯は干潮時であったことから、大鳥居は砂の上に全体の姿を現していた。乗船前には潮回りのことを気にはしていなかったが、できることなら干潮時に宮島に渡りたかったので、今回の宮島行きは大正解だったかも知れなかった。

 それにしても、乗客の半数以上は外国人旅行客が占めていた。平和記念公園厳島神社参詣は当然の如くにツアーのセットになっているのだろう。

千畳閣と五重塔を望む

 桟橋近くの高台には大きな建物と五重塔があった。大建築物は豊国神社の本殿で、室内は900畳近い広さがあることから、千畳閣とも千畳敷とも言われているそうだ。いかにも秀吉好みの建造物である。

石の鳥居

 桟橋から神社を目指して歩いてゆくと、通りにはホテルや旅館、それに食堂や売店などがたくさん並んでいる。海岸沿いよりも一本奥の道が参道になっており、そちらは一層、賑やかである。多くの店前ではカキを焼いており、その香りはいやでも鼻や心を大いに刺激する。私は焼いたカキの匂いにはさほど誘惑されないけれど、多くの外国人旅行客はその限りではないようで、大方、店の前で焼き上がるのを待っていたり、食べ歩いたりしている。一方の日本人は食べ慣れているのか私のように懐具合と相談する必要があってか、カキに誘引されているのは外国人が圧倒的に多いようだった。

 そんな香しさを醸しだしている通りも、写真にある石の鳥居を過ぎると次第に厳かなムードへと変わってゆく。ここからは神域だからだろうけれど、実際には食べ歩いている人も多いので、鳥居の内と外で一気にカキからカミの世界に変貌するという訳では決してないのが私には愉快であった。

 参拝者と参詣者、さらに私のような物見遊山の人間が一緒くたになって、神社の拝殿入口のほうへ進んでゆく。

干潮時なので大鳥居まで歩ける

 私は拝殿入口には至らず、その手前で砂浜に降りて大鳥居に向かった。私のような不信心者にとっては拝殿や本殿、祓殿のような場所は無縁なので、この日、この時のように干潮時はとてもありがたく、砂浜にすぐに降りられる。

 これが満潮時であったならば、鳥居もそして社殿も陸から見物するほかはない。その時は、仕方なく私も拝観料を払って社殿を見て回った可能性もなくはなかった。

祓殿と高舞台を眺める

 砂浜に降りても大鳥居には向かわず、まずは高舞台、祓殿、その背後に控えている本殿を眺めた。本社の建造物の大半は海の上にある。これは、かつては島全体が神域と考えられたことから、樹木を切ったり、土を掘ったりする行為は神を穢す行為と考えられていたからだそうだ。

 しかしこれは、島にはたまたま広い砂浜があったからのことであって、大半の神社は樹木を切り倒し、地面を更地にして社殿を建造している。

 厳島神社は593年にこの地方の有力者であった佐伯鞍職が市杵島姫命を祀って創建したとのこと。天照大神素戔嗚尊といった神に斎く(いつく)=仕える島ということから”いつくしま”と呼ばれるようになったとの説がある。

 神社が現在のような姿になったのは安芸守に就いた平清盛によるとのこと。1168年に建造したという記録があるそうだ。

大鳥居と廿日市市本土

 社殿を眺めたあと、私にとって一番の興味がある大鳥居に向かった。現在の鳥居は1875年に造られた第9代目で、初代は清盛の時代に建造されたそうである。社殿からは108間(196.4m)の位置にある。

 素材はクスノキで、一部にスギが用いられている。高さは16m。鳥居の上部に掲げられた扁額には「伊都岐島神社」とある。

 鳥居の向こうには島に向かってくるJRフェリー、そして宮島口のある廿日市市の町並みも見える。

大願寺山門

 神社の西隣に真言宗の寺院である大願寺がある。開基は不明だが、13世紀初頭に僧の了海が再興したという。かつては厳島神社を取り囲むように広い境内を有しており、厳島伽藍と呼ばれた数多くの堂宇が存在してたらしい。現在の境内は西側に限定されている。

大願寺本堂

 大願寺の本尊は厳島弁財天で、江ノ島の弁財天、琵琶湖の竹生島の弁財天とともに日本三大弁財天とも言われている。秘仏ではあるが毎年、6月の大祭のときには御開帳されるとのことだ。

 本堂には、空海が彫ったとされる薬師如来坐像行基が彫ったとされる釈迦如来坐像など国の重要文化財が安置されている。

 また、厳島は山容が特徴的で、これは花崗岩質の岩山のために風化が進行しやすいからである。ピークは弥山(みせん)で標高は535m。山頂付近には806年に空海が開いた弥山本堂のほか、修行の場であった求聞持堂や大日堂などがある。

 さらに山頂には奇岩が配置されているが、これは磐座(いわくら)という自然信仰の名残りと考えられている。

 なお、山頂付近にはロープウェイが通じており、山麓の紅葉谷駅(標高62m)から山頂の獅子岩駅(430m)まで行けるので、機会があれば厳島神社見物ではなく、弥山見物もしてみたいと少しは考えた。実現の可能性は低いだろうが。

海側から大鳥居を眺める

 大願寺を後にして、私は再び砂浜に降りた。今度は大鳥居のさらに沖側に出て、大鳥居と神社の本殿が画面に入る位置から撮影をおこなった。沖側の扁額には「嚴嶋神社」の文字があった。

 それにしても大勢の観光客が砂浜に降りて、自分の姿と大鳥居が入るようにスマホで自撮りしている姿がやけに目立った。

陸から社殿を眺める

 砂浜から上がって、社殿が比較的良く見渡せる場所から撮影をおこなった。こうしてみる限り、社殿内には参拝客はそれほど多くはいないようだった。半数以上の人々は参拝でも参詣でもなく、ただの見物目的で島を訪れたのだろう。それはそれで健全な営為と言える。

潮干狩りを楽しむ人々

 大鳥居の近くではないけれど、砂浜には潮干狩りをするグループがいくつかあった。禁止区域の設定はあるようだが、それ以外の場所では無料で貝を採集することができるようだ。

 かく言う私だって、島の南側へ出掛けて何度も磯釣りを楽しんだ。ただし、観光客からは見られることのない場所で竿を出したのだったが。

 

〔93〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(4)しまなみ海道、そして大好きな尾道(渡船)

決して見飽きることがない尾道の渡船

しまなみ海道~まずは生口島

生口島の名荷港から下鷺島と佐木島を望む

 福山市のホテルを出発して尾道市へ向かった。いつもなら少し遠回りをして「鞆の浦」経由で行くのだけれど、そこには昨日に見学していることから、国道2号線(R2)に乗って西へ進んだ。

 尾道市街に入るならR2の本線を進むのだが、まずは「しまなみ海道」で生口島まで行く予定だったため、R2のバイパスを進んで、「西瀬戸尾道IC」から西瀬戸自動車道しまなみ海道)へ移った。

 まず生口島を目指したのは、その島までが尾道市で、次の大三島愛媛県今治市になるからだ。最初はせめて大三島までとも考えたのだが、そうなると伯方島、大島と進んで結局、今治まで行ってしまうことは大いに想像できた。その結果、尾道見物の時間が極めて少なくなってしまうことから、「今回は山陽路」と決めていたということを自分に言い聞かせて、生口島で下りることにした次第だった。

 この島の主な目的地は「耕三寺」だった。のちに見るように建物はなにやら「怪しげな姿」をしているため、今まで近寄らずにいたのだが、その由緒を知ったときに興味を抱いたので、今回、初めて見物することにした。

 しまなみ海道生口島北ICで下り、島の北海岸に沿って走る県道81号線を西に進んで耕三寺を目指した。途中に写真の港があり、そこからの景色が良さそうだったことから小休止し、海と島々とを眺めた。

 正面にある小さな島が「下鷺島」、その向こうにあるのが「佐木島」。この佐木島三原市に属している。左手の奥に見えるのは本州で海岸線に町並みがあることが分かる。そこが三原市の「本土」だ。

瀬戸田町にあった郵便ポスト

 生口島の大半は瀬戸田町で、島の南東部のほんの一部が何故か「因島」の字名が付いている。

 耕三寺は島の北側にあるので瀬戸田町に存在する。寺の近くの有料駐車場に車を置き、少しだけ町中を散策した。その時に目にしたのが写真の黄色いポストである。ポストの大半が赤色だが、これは必ずそうしなければならないと決まっている訳ではない。郵便制度を始めた際は黒色だったが、見づらいことからイギリスを真似て赤色にしただけだ。これがフランスに倣ったならば黄色になったはずである。

 このポストが黄色なのは、瀬戸田町が国産レモンの発祥地ということが関係しており、このポストは「幸せのレモンポスト」と呼ばれているとのこと。

瀬戸田町の料理店

 寺の前には、歴史を感じさせる料理店があった。1965年に開業したというから私よりは随分と新しい。定食が有名だそうで、看板にもあるようにとくに「たこ料理」が評判らしい。少し立ち寄ってみたい気もしたが、私は近年は一日二食にしていることから入店は断念した。というより、最近は「食」に対する欲望はほとんどなくなっており、お腹を適度に満たせば「美味しさ」にはほとんど拘らなくなった。

◎耕三寺~見掛けはド派手だが

山門からして派手な色使い

 耕三寺の堂宇はそのすべてがド派手である。これを”けばけばしい”とか”毒々しい”と解釈するか、”煌びやか”とか”艶やか”と取るかは人によって異なるだろう。私は当初は前者と思っていたが、この寺の由緒を知ると、後者に近い解釈をするようになった。

 考えてみれば、私たちが古い寺社に訪れたときに重厚さや歴史性を感じるのは、その建物自体が長い年月を経ているからである。例えば、古寺の本堂や山門が近年になって再建されたり大改修された際に、建物の色彩が意外にもカラフル過ぎるのではないかと感じてしまうことがしばしばある。

 すでに紹介した姫路城だって、白く化粧された天守を私は美しいと思うよりもある種の「安っぽさ」を感じてしまった。が、これは城が建造された当初の色だったはずで、寺社の建物も造られた当初は訪れる人を”圧倒”させるべく、派手な色使いをしていたはずである。

 もっとも、耕三寺の場合は「山門」が明らかに鉄骨を多く用いていることが見え見えなので、たとえこれが「京都御所紫宸殿」を模したものと言われても、やや興ざめであることは確かだ。

 それに対し、奥に見える中門は「法隆寺西院伽藍の楼門」を模したとしても、見慣れれば特に違和感はない。

室生寺の塔によく似ている

 このように、耕三寺の堂宇はそのすべてが名のある寺社の建造物を模して造られている。これはこの寺を開いた僧侶の耕三寺耕三が、自然の豊かさしか見るべき場所のない母の故郷である生口島瀬戸田町に「観光名所」を立ち上げるために意図して造ったものだからである。

 写真の五重塔だって、周囲の景観はまったく異なるものの、本ブログでも以前に紹介した室生寺の塔とそっくりに造られている。

 耕三寺耕三は本名を金本福松といい、実業家や発明家として財を成した。1934年に瀬戸田町に住む母親が亡くなると翌年、彼は出家して僧侶となった。36年に浄土真宗本願寺派の寺院としてこの寺を開山し、約30年をかけて堂宇を完成させた。こうした開山の契機から、この寺は「母の寺」とも呼ばれている。

法宝蔵

 五重塔の右手には写真の「法宝蔵」がある。これは四天王寺の金堂を模したもので、内部は近代美術展示館になっている。

こんなところに陽明門?が……

 五重塔の奥の一段高い場所に聳えているのが写真の「孝養門」で、見ればすぐお分かりのように日光東照宮の陽明門を模している。本家の陽明門自体がかなり派手だが、この門は本家を上回るほどの意匠が施されている。

 この門の存在から、この寺は「西の日光」という呼び方もされているとのことだ。

本堂

 孝養門の奥に本堂がある。これは「平等院鳳凰堂」を模したもの。本家は「阿字池」が取り囲んでいるが、こちらは前面に舞台と四角の蓮池が設置されている。

 本家の姿を見忘れた人は10円玉の表側を見ると思い出すだろう。

すべてが豪華絢爛

 本堂を斜め横から見たもので、建物自体の豪華さは本家と良い勝負だが、やはり池が取り囲んでない点や宇治川が流れていない点で、全体の見栄えとしてはやや負けている感はある。

 川の有無は仕方ないにせよ、さしあたり阿字池は整備していただきたいところだ。

 なお、本堂の右手には多宝塔が見えるが、そちらは石山寺のものを模倣している。

千仏洞地獄峡の内部

 池こそ存在しないが、本堂の地下には「千仏洞地獄峡」が掘られている。長さは350mあり、建設時には富士山の溶岩や浅間山の焼石が持ち込まれたそうだ。内部には地獄図絵や写真のような石仏が数多く置かれており、この寺の一番の見所だったように感じた。

 仏陀は地獄や極楽についてはなにも語っていないし、そもそも死後についても無記である。が、いつのまにかそれらが語られるようになるとともに、浄土教やその一派である浄土宗に至っては、仏教というよりキリスト教により近いように思われる。

◎寺の隣には未来の丘が

未来心の丘を望む

 寺の隣には、写真の「未来心の丘」がある。ここも耕三寺の敷地の中にあるので入園料はとくに掛かることはない。

 イタリアで活躍する日本人彫刻家の設計で、広さは5000平米、使用されている白大理石は3000トンにも及ぶ。耕三寺は芸術家の支援も行っているそうで、この庭園はその活動の象徴だとのこと。

 境内の標高は13m、心の丘の頂上は38m。もっとも庭園の入口まではエレベーターが設置されており、これを使えば比高は半分程度になる。

”光明の塔”と名付けられたモニュメント

 頂上には写真のモニュメントがある。周囲にもいくつかのモニュメントがあるが、やはりこの塔がこの庭園を象徴する存在だ。

周囲の景観

 周囲の景観もなかなか良く、正面に見える大理石の建物にはカフェ(カフェ・クオーレ)が入っている。そのずっと先に見える黄色い橋は「高根大橋」で、その向こうに見えるのは「高根島」の尾根である。この島は瀬戸田町の町名を有しているので、尾道市に属している。尾根の左手が高根山のピークで標高は310m。

 ともあれ、耕三寺の印象は徐々に良くなった。観光客の数は結構多いので、この寺の存在は地元経済にかなり貢献していることは確実だと思える。

 耕三寺は寺全体を「博物館」としていることから、拝観料ではなく入館料を徴収している。1400円は当初、高いように思えたが、いろいろな発見があったことから考えると、リーズナブルであるとも言えそうだ。

因島村上水軍の拠点

生口橋を渡って因島

 因島に渡る前に生口橋南西詰の下にある「生口橋記念公園」に立ち寄った。橋は高い位置から眺めるのもいいが、下から見上げると、また違った姿に触れることができるので、この方向から望むのも興趣がある。

因島水軍城を見上げる

 因島には「島四国」として、四国八十八か所霊場が整備されている。寺の名も本家と同じで一番札所は「霊山寺」から始まる。すべてを”順打ち”で巡ると84キロの行程になるというから、徒歩では一、二日ではとても回り切れない。それでも本家の1400キロよりは遥かに短い。

 私が霊場巡りを好むのは四国という土地が好きだからであって、いつも言うようだが寺そのものや何か格別な願い事があってのことではない。したがって、「島四国の霊場巡り」には今ひとつ興味が抱けないので、それに代わって、「因島水軍城」を訪ねてみることにした。

城内の建造物

 イエズス会の宣教師として日本に来て、信長や家康にも仕えたルイス・フロイスが著した『日本史』で「日本最大の海賊」と記されたのが、芸予諸島を「支配」していた「村上海賊(水軍)」だ。ただ、海賊と言っても「パイレーツ」の意味は少なく、瀬戸内海を往来する商船を水先案内(ただし通行料を徴収)したり、諸大名の依頼を受けて海上警固したりすることが多かった。

 村上水軍は三つの勢力から成り、主に本州側で活動していたのが因島村上氏、瀬戸内海の中央で活動していたのが能島村上氏、四国側で活動していたのが来島村上氏で、ときに戦ったり、ときに協力したりしていた。

本丸は資料館に

 因島では1983年、写真の場所に歴史家の奈良本辰也の監修によって、因島村上氏菩提寺である金蓮寺の境内の高台に因島村上水軍城を建造・開館した。

 この地に城郭があった訳ではないが、金蓮寺が村上氏との繋がりが深いということで、城郭風の博物館・資料館を設けたというのが正しい理解の仕方だろう。

 近年では「村上海賊」の表現が一般的になっているが、水軍城では「水軍」の名を用いているので、ここではあくまで村上水軍と表記している。

 建物は大きく3つあり、麓からでもよく目立つのが隅櫓、真ん中に本丸、そして平屋の二の丸である。

白滝山を望む

 水軍城からほぼ北側、2キロ離れた場所に写真の白滝山(標高227m)がある。この山には700体もの「五百羅漢像」があることで知られているが、それらが造られる前に、因島村上氏が最盛期であった第六代当主の村上吉充が山頂に観音堂を造営していた。

 山頂は360度見渡せる場所だけに、海を監視する場所としても最適だったはずだ。写真を大きく拡大していただければ、頂上付近に建物らしきものがあることが分かる。

藤と隅櫓と

 水軍城の敷地はそれほど広くはないので、資料館や展示物に触れることがメインとなる。それでも周囲の景色を眺めつつ、思いを戦国時代に馳せるには格好の場所のひとつだと言える。

 私は駐車場に戻る前に今一度、水軍城の姿を眺めた。隅櫓のある斜面では満開の藤の花が城に彩りを添えていた。

向島の護岸で渡船を眺める

因島大橋を渡って向島

 因島から向島に移動することにした。写真の橋を渡ることになるが、しまなみ海道の橋はそれぞれに特徴があるので、この橋も因島大橋記念公園に出掛けて橋下からの眺めを撮影してみた。やはり海峡はどこでも潮が速い。橋ばかりでなく、その潮の動きを観察しているだけでも見飽きることはない。

岩子島とを繋ぐ向島大橋

 向島と言えば、私の場合には大半が尾道市街とを通じる渡船の姿を見て過ごすが、今回ばかりはそれを少し後にして、向島の西隣にある岩子島に出掛けてみることにした。写真は、向島岩子島とを結ぶ「向島大橋」で、右手が岩子島になる。

 岩子島には初めて足を踏み入れた。が、この島でなければならないという特色のある場所は見当たらなかった。集落内にある道路の幅だけは以前からずっと変化はないようで、新築の住宅はそれなりに見掛けたが、道路の幅だけは軽自動車に適したサイズに留まっているようだった。

干潮時の水路

 私は車の幅より狭い道に入り込まないように十分な注意を払いながら亀の子のような速度で集落内を抜け、何とか島の外周道路に達し、無事、向島大橋を渡って向島にたどり着くことができた。

 因島生口島にはそれぞれの特色を見出すことができる場所があるが、この島の場合はあまりにも尾道市街に近いこともあって、この島でなければならないというところは島の南側にある「高見山展望台」ぐらいだろうか。

 しまなみ海道の中小の島々が無数に並ぶ雄大な景観については、今秋の西四国探訪の際に触れることになるので今回はその展望台には訪れず、私の大好きな尾道水道を行き交う渡船見物に専念することにした。

 写真は渡船の発着所近くにある水路の光景である。何度も言うように瀬戸内海は干満差が大きいので、干潮時は、水路の底が露出し、係留してある小型船は泥底に張り付いた状態になる。

満潮時の水路

 この写真は、同じ水路をほぼ満潮に近い時間に撮影したものである。私はこの撮影の為だけに渡船を使って次の日の朝、この場所にやってきた。撮影はついでのようなもので、本心は、尾道を離れる前に渡船に今一度、乗りたかったというのが真実に近い。

渡船発着所前の小さな店

 向島尾道市街とを結ぶ渡船は現在、3航路ある。最盛期には9航路あって1日に2万人近い利用者がいたそうだ。が、1968年に尾道大橋、1999年にしまなみ海道が開通したことにより利用者は激減してしまった。

 それでも、朝夕は向島から尾道市街の高校に通う生徒の姿、日中には買い物や病院通いする人々が利用し、さらに私のような渡船に著しい興味があってとくに島に用事がある訳でもないにも関わらず、渡船に興味や郷愁を抱く旅行客などが乗船している。

 3航路のうち、尾道水道の中央部を結ぶ「福本渡船」が船も大きく料金も安いこともあって利用者がもっとも多い。私も最初の頃はこの渡船ばかり利用していたが、いつしか、東側にある「尾道渡船」を使うことが多くなった。2003年に就航した「にゅうしまなみ」の船体が程よい大きさで、かつ、頻繁に行き来していることもあって、こちらに移り変わってしまったのである。

 写真の「島の駅むかいしま」の建物は、その尾道渡船を向島で下りたすぐ突き当りにある。店自体は一度しか利用したことはないが、その佇まいが私のお気に入りなのである。

島から千光寺方向を望む

 尾道渡船が行き来する姿を眺めるため、向島の岸壁から渡船が向かってくる様子を眺めることにした。対岸(尾道市街)には千光寺山(標高144m)が見える。中腹には千光寺があり、麓から山頂近くまでロープウェイが通じている。

 私はいつも車で千光寺山に上っていたので、中腹にあるお寺の境内に立ち入ったことはなかった。が、尾道を訪れる機会は今後、そう何度もあるとは思えなかったので、明日は初めてロープウェイを利用して千光寺を訪ねる予定でいた。

 その計画もあったことから、この日は渡船をじっくり眺めることにしていたのである。

 私と同じように、富山県から来たという若夫婦が岸壁近くに車を停め、船がやってくる様子を眺めていた。なんでも、岩国基地で開催された航空ショーを見物した帰りに立ち寄ったとのこと。しまなみ海道を少し走って、帰りは渡船を利用して尾道市街に行き、それから山陽道などを使って夜間に富山に戻る予定だそうだ。

渡船がやって来た

 「にゅうしまなみ」が向かってきた。もっとも、船は尾道水道を行ったり来たりしているだけだし、その距離はわず300m弱なので、渡船がどこに存在しているかはすべてお見通しなのだが。

 ただ、記憶にある「にゅうしまなみ」とは少しだけ姿が異なっていた。が、何が違っているのかすぐには判明しなかった。

人、自転車、車が上陸する

 写真のように、自転車に乗った人や歩きの人が下船したのちに車が降りてくる。それぞれの人がどんな用事で、どんな思いで渡船に乗って来たのかを想像するだけで、私の心は旅情でいっぱいになる。大半の人はただ必要があって利用しているだけなのだろうが。

 隣にいた若夫婦もこの光景に何かを感じたようで、初めはこの便を利用するはずだったのだが、もう一度、渡船が行き交う風景に触れるため、乗船を見送った。どのみち、船はすぐに出発するが、また8分後にはこちらの桟橋に戻ってくるのだ。

 次の便に乗るため、尾道市街側を出発した姿を見届けたのち、若夫婦はすぐ隣にある桟橋に向かった。

 二人が乗るはずの便が向島に到着する刹那、私は「にゅうしまなみ」にひとつ欠けていた事柄を思い出した。以前は、船体の横に大きく、「おのみち浪漫海道」の文字が書かれていたのだった。塗り直したのか、船体の白さが際立っていただけに、近々にその文字が書き加えるのだろう。

 若夫婦の乗った船は尾道市街の桟橋に向かっていった。二人は航空機のことだけでなく、小さな船での短い旅の記憶を、きっとしばらくの間は持ち続けながら、日常の中で時を過ごして行くのだろう。 

尾道駅周辺を散策

閑散としている本通り商店街

 この日の宿は尾道駅から尾道水道に向かった海岸沿いにあり、隣接している市営駐車場は、ホテル利用者は割引料金になることから明るいうちに車をとめ、チェックインを済ませて荷物を部屋に置き、リュックにカメラを入れて市街地の散策に出た。

 尾道らしい景色が展開されているのは駅の東側で、海岸沿いには「海岸通り」、線路沿いには国道2号線が通っている。私はその両通りの間にある「本通り商店街」をまず歩いてみた。

 写真から分かるとおり、立派なアーケードが整備されている商店街にも関わらず、通る人は少なく、店舗の多くはシャッターを閉じたままだ。大半の地方都市の中心街でよく見掛ける光景だ。

 地方都市の多くは公共交通機関の利便性が低いためにどうしても車利用が中心となる。そうなると郊外に大型のショッピングモールが建設され、大半の住民はそちらを利用することになる。一方で、駅前商店街は寂れるばかりなのである。

駅前広場から尾道駅舎を望む

 本通りをいくら歩いても、「尾道ラーメン」店以外は目新しいものはとくにないので、駅前まで戻り、国道2号線に海岸通りが合流している尾道駅前交差点を渡って、海岸沿いにある駅前広場に出た。

 上の写真はその広場から駅前ロータリーや尾道駅舎を眺めたものである。駅舎は4年前にリニューアルされたものであるから、この姿に接するのは今回が初めてである。2階には店舗や展望デッキがあり、南側に位置する尾道水道向島を眺めることができる。

 もっとも、私は海岸線を歩くのが趣味なので、駅には立ち寄らず、海岸から火灯し頃を迎えていた駅舎を見物した。

尾道水道を進む渡船

 一方、水道側を眺めると「駅前渡船」の船が向島方向に進んでいた。先に触れたように、市街と向島とを結ぶ渡船は3航路あり、写真のものはもっとも西側を通る。

 西側と言っても船の発着所は尾道駅の真南にあるので、駅若しくは駅周辺を利用する人にとってはもっとも利便性は高い。ただし、便数が少ないことと、車は乗ることができないため、私にとっては利用回数が一番少ない航路である。

 操縦席の屋根や船体の色使いは尾道渡船の”にゅうしまなみ”よりも目立つ姿をしているので、こうして眺める分には興趣が沸く。

 結局のところ、尾道市街見物と言っても私の場合、その大半は渡船の見物に費やしてしまうのである。

一番ホットなのが尾道ラーメン

 尾道で昨今、一番に話題となっているのは、渡船でも千光寺でも猫の細道でもなく、”尾道ラーメン”である。町中を歩けばすぐにラーメン店が見つかり、しかも多くの店に行列ができているのだ。そういえば、向島で会った若夫婦も、尾道ラーメンを食してから帰途につくというようなことを語っていた。

 私は10数年前、まだ”尾道ラーメン”が話題になる以前に尾道のラーメンを食べたことがある。その理由は簡単明瞭で、駅近くにはラーメン店ぐらいしか入りやすい店がなかったからである。そして、味と言えばごく普通のラーメンだったという記憶しかない。

 尾道ラーメンが話題に上るようになったのは、この7,8年前ぐらいではなかろうか?私が尾道を最後に訪ねてからは10年以上も経っているので、尾道ラーメンの隆盛に触れるのは今回が初めてとなる。

 私は若い時分にはラーメンをよく食していたが、現在は年に数回といったところ。折角、海岸沿いを歩いているのだし、夕食はどこかで済ませる必要があったことから、海岸線の近くにあった「尾道ラーメン」を名乗る店に入ってみた。

 時間がやや遅いこともあって写真の店は行列こそ出来てはいなかったが、「世界が認めた金賞受賞の味」という触れ込みがあったので、味には自信があるのだろうと思い、立ち寄ってみた。

 店内に入ってみると、「金賞」というのは例の「モンドセレクション」のことだった。私は普通サイズのラーメンに餃子を注文した。

 さすがにモンドセレクションの金賞を連続受賞したということだけあって、味はごく普通のラーメン(餃子も)であった。「尾道ラーメン」にどんな特徴があるかはほとんど気にならないが、この店に関する限り、奇抜なものでないことは確かだった。

夕暮れの尾道水道

 ラーメンを食したのち、腹ごなしも兼ねて散策を続けた。やはり足は自然に桟橋に向かってしまった。

尾道市街側の発着所

 ”にゅうしまなみ”は接岸し、軽自動車を送り出し、変わって自転車に乗った人を受け入れた。自動車に、はたまた自転車に乗った人々には、それぞれ日常的な行為なのであろうが、私のような旅人にとっては非日常的な光景である。

 けだし、日常であっても非日常であっても、この日のこの時間の営為は、生涯に一度しか起こり得ない場面なのである。

◎千光寺山を散策

千光寺山を望む

 翌朝、まずは渡船で向島に渡り、先に挙げたように向島の水道が満潮を迎えている姿を撮影した。すぐに市街に戻り、渡船発着所近くにある「尾道市役所」の駐車場に車をとめ、千光寺山ロープウエイに乗るために「薬師堂通り」を北に進んだ。

 この道は国道2号線を越えると「石見銀山街道」の名を有する県道363号線となる。薬師通りがR2に出会う交差点が「長江口」で、その西側にある歩道を渡ってJRの線路の下をくぐって抜けると、ロープウェイ駅に着く。

 薬師通りの途中に千光寺山を望むのに適した場所があったので写真撮影をした。それが上の写真である。

尾道名物の狭い路地

 私はすぐには駅に寄らず、駅の西側にある細い坂道を少しだけ歩いた。尾道の中心街こそ平地にある(一部は埋立地)が、住宅地の大半は山の斜面にへばりつくように存在している。

 尾道と言えば現在は「ラーメンの町」であり、私には昔も今も「渡船の町」なのだが、かつては、そして一般には「坂の町」であり「映画の町」であり「文学の町」であった。

 路地には「ねこ喫茶ユトレヒト」という店があった。尾道は「猫の町」でもあり、私が歩いた細道の先には「猫の細道」という、猫好きには絶対に寄りたくなるような坂道もあるらしい。

 もっとも、私には「ユトレヒト」の名が気になった。まさかスペイン継承戦争講和条約である「ユトレヒト条約」からその名を頂戴したわけではないだろうが。

ロープウェイ駅

 ロープウェイの山麓駅に向かった。先の細道のすぐ近くには「艮(うしとら)神社」があったが立ち寄らずに駅までやってきた。

駅から隣の神社を覗く

 しかし、階段を上がって駅舎から神社の姿を望むと、なかなか由緒ありそうな姿だったことから、ロープウェイの出発時間を確認したうえで、神社の境内を少しだけ歩いてみることにした。

樹齢900年のクスノキ

 この神社は806年に創建された尾道最古の神社らしいが、私がそのその存在が気になったのは写真の大クスノキだった。樹齢は約900年とのこと。私には記憶はないが、映画の『時をかける少女』(大林宣彦監督)の撮影に使われた場所としてよく知られているとのこと。

 大林監督の「尾道三部作」は『転校生』だけ見た(テレビで)記憶があるが、件の作品と『さびしんぼう』の記憶はまったくない。ただし、『時をかける少女』の主題歌だけは、下手くそな歌い方もあって今でも覚えているが。

山頂方向を望む

 先述したように、このロープウェイを利用するのは今回が初めて。片道500円、往復700円、僅か3分の短い旅だが、極めて特徴的な雰囲気を有する千光寺の真上を通過し、ロープウェイからでしか見ることのできない風景が眼前に展開されるため、料金設定は極めてリーズナブルだと思えた。

ロープウェイは寺の上を通過

 千光寺境内には巨石や奇岩が数多くある。いずれも花崗岩が浸食・風化して出来たもので、これらを目の当たりにするだけで、この場所に訪れる価値がある。

 写真にある天辺に丸い玉を載せた岩は「玉の岩」あるいは「えぼし岩」と呼ばれている。周囲50m、高さ15mで、この寺にある巨石では第三の大きさだとのこと。

 現在は岩の上に人工的な丸いオブジェが乗っかっているが、かつてはここの「如意宝珠」と呼ばれた光を放つ美玉があったそうだ。岩の天辺には直径14センチ、深さ17センチの穴があり、かつてはそこに輝く玉石が乗っていたとのこと。現在は写真からも分かるとおり人工的な丸い玉が置かれており、夜になると3色に輝く仕掛けになっているらしい。

 岩の直上に光を放つ美玉があったことから、寺は千光寺、山は大宝山、尾道水道は玉の浦と呼ばれるようになったという逸話がある。 

寺周辺には奇岩が多い

 写真にある奇岩は「御船岩」と名付けられている。下の岩が船体で上の岩が帆に見えるからだろうけれど、これは名前から想像しただけに過ぎず、実際のところは不明だ。ともあれ、変わった形の岩がたくさんあるということは確かな事実である。

山頂から南西方向を眺める

 ロープウェイは標高136m地点にある山頂駅に到着した。駅からの眺めでも十分に満足行くものであるが、頂上には昨年に造られた「頂上展望台PEAK」があり、その上からの見晴らしはさらに良い。周囲に遮るものがほとんどないことから多方向の景観が楽しめるのだ。

南東方向の眺め

 写真はその展望台から南東方向を眺めたもの。尾道大橋の向こう側に見える陸地は沼隈半島だと思われる。すでに触れているように、その半島の南端に「鞆の浦」がある。

水道を進む台船と渡船

 真下の尾道水道を望むと、向島に進み始めた「にゅうしまなみ」と水道を進む台船の姿が見える。尾道水道は海路の要衝であることから、大小さまざまな船が行き交う。

石には俳句が刻まれている

 標高144m地点にある展望台を下りて、標高92m地点にある千光寺境内に向かった。その途中に「文学のこみち」があり、写真のように尾道にゆかりのある文学者の作品の一節と、それを大きめの石に刻んだ碑が並んでいる。

 写真は正岡子規のものだが、その他、十返舎一九志賀直哉林芙美子緒方洪庵の碑が”こみち”の傍らに置かれている。

本堂へ向かう道

 平坦な場所に出ても、一部には写真のように巨石が建物に迫っている。向かって左手に客殿や大師堂が、山の斜面にせり出すように建てられている。

本堂

 写真の本堂もまた、斜面にせり出している。この寺は真言宗の単立寺院で806年頃に建立され、10世紀頃に源満仲多田満仲)によって再興されたとのこと。多田満仲といってもそれほど多くの人が知っている訳ではないだろうが、彼の長男の源頼光丹波大江山酒呑童子を討伐したことでよく知られた存在である。

本堂脇の奇岩

 本堂の際にも奇岩が存在する。その下には大きくはないが「修行大師」の像が置かれている。もちろん、修行中の空海の像である。

修行者はこの岩を登る

 写真のように「石鎚山」と名付けられた奇岩の山があり、天辺には社がある。千光寺の鎮守は熊野権現あるいは石鎚蔵王権現というから、この地は修験者の山でもあった。

 私には恐ろしくて上ることはとてもできないが、2005年から一般の人でもこの岩山に上ることができるようになった。確かに、岩からは上り下りするための「鎖(くさり)」が設置されている。そのために「くさり山」の別名があった。

 何人もの人が上ってみようと思案する姿があったが、いずれも同行者に引き留められていた。実際、途中で滑って落下したら大怪我は必至だろう。 

枝ぶりが特徴的な松

 巨石、奇岩だけではなく、写真のように枝ぶりが極めて面白い姿をしている松があった。気候や地形がこのような自然美を生み出している。

ロープウェイで山を下る

 このように素敵な景観が眼前に展開されているのならば歩いて下山するのも楽しいような気もしたが、折角、往復乗車券を買ったことだったので下りもロープウェイを使った。

 今回の旅で、尾道には巨石・奇岩が数多くあることを知った。今秋には西四国を旅する予定だ。当然のごとく、尾道が西四国の旅の玄関口になるはずなので、次回は巨石・奇岩をメインに尾道巡りをしたいと考えている。

尾道渡船、忘れがたく!

いま一度、向島

 市役所にとめていた車を取りに行った。次の目的地は竹原市と定めていた。が、尾道渡船から別れることに寂しさを感じてしまったため、今一度、向島との間を往復することにした。この日だけでも2往復することになった。

この風景が一番の好み

 そして、一便だけ遅らせて昨日同様、護岸で渡船の到着を出迎えた。

 今秋もまた渡船を利用する予定でいるが、徘徊老人には気力があっても体力があるかどうかは分からない。さらに言えば、明日が、いや次の瞬間が存在するかどうかも不明なのだ。

 それは私の存在だけに限らず、この地球に、この宇宙に、次があるか否かは誰にも分からない。未来は未だに来ない訳ではなく、単に無いだけなのだから。

〔92〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(3)吉備路から倉敷、そして福山まで

旧下津井駅と保存車両

吉備津神社~旧吉備国の総鎮守

吉備国の総鎮守。のちに備中国の一宮

 「吉備」の名を聞くと「吉備ダンゴ」や「吉備真備(きびのまきび)」をすぐに連想してしまうが、実際に吉備の地を訪れたのは今回が2回目。もっとも、1回目はほとんど通過しただけだったことから、「立ち寄った」のは初めてといっても過言ではない。

 吉備は古代の地方国家のひとつで、大和や出雲などに比肩されるほど大きな勢力を有していた。かつて「真金吹く吉備」と称されたが、真金とは鉄のことで、吉備は鉄の一大産地であった。

 諸説あるが、一般には製鉄技術は朝鮮半島新羅説が有力)から出雲に伝わり、砂鉄が多く産出される吉備の地が鉄と、同じく半島から伝わった須恵器の一大生産地として栄えたと考えられている。

拝殿までの長い階段

 今となっては吉備の名を聞いても、関東に住む人にとってはどのあたりに存在するか不明のようで、先に触れた「吉備ダンゴ」や「吉備真備」を知っていても場所は見当がつかないという人の方が圧倒的に多い。

 古代の吉備国は現在の岡山県全体、広島県東部、兵庫県西部、香川県島しょ部を支配していた。律令制が敷かれてからは令制国として備前、備中、備後、美作(みまさか)の4国に分けれらた。

 私が少しだけ歩いた「吉備路」は、岡山県北西部から総社市の間にあり、総延長21キロの「吉備路自転車道」が整備されている。また例年「そうじゃ吉備路マラソン」が開催され、フルマラソンから子供たちが参加できる中距離走などが行われているそうだ。

 吉備路には里山が多く、清々しい心持ちで散策できる。以前に紹介した「山辺の道」や「葛城の道」、はたまた「竹内街道」のように、古代の歴史に思いを馳せながら一歩一歩、踏みしめ噛みしめながらゆったりと歩んでみたい場所である。

拝殿まであと数歩

 と言いつつ、私の旅はいつも急ぎ足になってしまうので、今回は、旧吉備国の総鎮守にして、令制国時代は備中国の一宮であった「吉備津神社」を訪ねてみた。

 主祭神は、孝霊天皇の第3子であった大吉備津彦命。伝説によれば、鬼ノ城を拠点として周辺の地域を荒らしまくっていた温羅(うら、おんら)と弟の王丹(おに)を討ったのがこの大吉備津彦命であり、温羅の首はその怨念を鎮めるために吉備津神社の「釜の下」に封じてあるとのこと。

 その一方、温羅は半島(おそらく新羅)からの渡来人で製鉄技術を吉備に伝えた人物とされている。ともあれ、この温羅退治の話が「桃太郎伝説」の淵源になっている。

国宝の拝殿

 吉備津神社は吉備中山(標高162m)の西麓にある。駐車場は標高わずか3.1mのところにあるが、先に挙げた写真のようにやや長めの階段を上った場所(標高19.6m)のところに拝殿や本殿がある(ともに国宝)。

境内はちょっぴり今風

 下の写真にあるように本殿はいかにも由緒あり気なのにも関わらず、上の写真のように境内には「祈願トンネル」などという今風の名前を付けた絵馬を掲げる施設が設けられている。

国宝の本殿

 境内は山の斜面にあるので、少し高い位置に上がって、そこから国宝の本殿を眺めた。足利義満が造営を命じ、1425年に遷座した。信仰心がまったくない私が見ても、その姿を神々しく思えてしまうほど見事な建物である。

回廊

 神社の境内は南北に細長く、北側に本殿があり、南側に摂社が点在している。本殿と摂社群をつなぐためか、写真のような屋根付きの回廊が設けられている。一瞬、この姿に長谷寺の登廊が重なった。

回廊の総延長は398m

 回廊の長さは398mあり、回廊の左右に摂社が並んでいる。この回廊は天正年間(16世紀後半)に建造されたとのこと。いくつかの摂社を覗いてみたが、本殿の佇まいに圧倒された私には、さして興味を抱く建物は存在しなかった。ただ、回廊そのものに興趣があり、さらに一部に牡丹園があって開花を始めた花たちに関心を示した。

◎吉備路を少しだけ歩く

里山の風景が続く吉備路

 先述のように「吉備」の名を聞くと「吉備真備」を直ちに連想する。これはずっと以前からの条件反射で、山陽自動車道を西に進み、岡山ICを過ぎた先に「吉備SA」があるのだが、私はほとんど何の用事もないのだけれどそのSAに立ち寄ってしまうのである。

 それでは吉備真備(695~775)がどんな人物であったかと問われると返答に窮してしまうほど、彼の業績には関心がない。ただただ「きびのまきび」という音が好み名だけなのかもしれない。

 同時代の有名人で彼に直接関係した人物を挙げれば、「阿倍仲麻呂」「玄昉」「藤原仲麻呂恵美押勝)」「藤原広嗣」「鑑真」といった錚々たる人がいて、それぞれ日本史には欠かせない存在であり、出来事とも容易に結びつくが、はて、吉備真備が何をしたのかすぐには浮かんでこないのだ。それでいて、日本古代史で著名な人物を一人挙げよと問われたならば、私は聖徳太子ではなく真っ先に吉備真備と答えてしまう。

再建された備中国分寺の南門

 そんな吉備真備ではなく、よく整備された吉備路を散策すると、写真にある「国分寺」が見えてくる。奈良時代備中国分寺が廃されたのち、天正年間に備中高松城主の清水宗治が再興し、さらに18世紀前半の宝永年間に再建されたのがこの国分寺である。この寺は令制国時代の国分寺とは直接、繫がりがある訳ではなさそうだが、この名を冠する以上、概ねこの寺辺りにいにしえの国分寺があったと推察できる。 

再建された五重塔

 国分寺と言えば五重塔を欠かすことはできない。この塔は19世紀半ばに再建されたものであり、高さは20mある。

吉備路にはサイクリングロードが整備されている

 写真から分かるとおり、国分寺の前には「吉備路自転車道」が整備されている。道路脇には田畑があり、今では懐かしさを覚えてしまうほど姿を見ることが少なくなったゲンゲ(レンゲソウ)がよく咲いていた。

 こうして五重塔のある景色に接すると、心は8世紀に遡ってゆき、結局、吉備真備の名が浮かんでしまうのである。

◎下津井~私のすきなもうひとつの倉敷

むかし下津井回船問屋

 吉備路からは倉敷市街が近いのだが、まずは倉敷の南端部にある下津井に向かうことにした。国道429号線から山陽道の倉敷ICに入り、すぐに倉敷JCTから瀬戸中央自動車道に移り、その道路を南下して児島半島へ向かった。児島ICで下りて半島の南端にある下津井の町に入ったのだ。

 この下津井の町は私のお気に入りのひとつで、倉敷市の美観地区よりもこの港町に訪れた回数は断然に多い。もっともそのうちの7,8回は瀬戸大橋下周辺にある離島や岩礁に渡るため渡船の基地がある下津井港を訪れたのだが。が、そんなときでも釣りの取材を終えて協力してもらった地元の釣り名人と分かれた後は必ず、時間が許す限り町の中を散策したものだった。

 下津井は現在、倉敷市に属している(1972年以降)が、その前は児島市に、さらにその前(1948年以前)は児島郡下津井町として独立した自治体であった。

 地図を見ていただければすぐに分かることだが、下津井は四国の坂出にかなり近く、それゆえに瀬戸大橋の北端が下津井にあるのだが、その坂出との間には広島、本島、与島、釜島、六口島、櫃石(ひついし)島など塩飽(しわく)諸島が並んでいる。それゆえ下津井は漁業基地として、風待ち・潮待ち港として栄えたのである。

 かつては回船問屋や宿場、遊郭などが数多く立ち並んでいたようで、写真の「むかし下津井回船問屋」と名付けられた資料館には、往時の繁栄が偲ばれる史料の数々が展示されている。

町並みは少し寂しい

 町中の路地にも回船問屋だった建物は残っており、1986年には岡山県の町並み保存地区に指定された。が、私がよく通っていた頃に較べると町並みは徐々に寂しくなっている。また、訪れる観光客の姿はほとんど見掛けなかった。

1991年に廃止された下津井電鉄

 下津井に立ち寄ったときには必ず、下津井電鉄線の下津井駅跡に出掛けている。下津井電鉄軽便鉄道として1911年に開業しているが、写真の下津井駅は14年に開通された。

 この路線は、JRの茶屋駅まで続いていて、その駅で、「本四備讃線」や「宇野線」に接続していた。また途中には児島駅があった。

 児島の名前を聞くと、高齢層のほとんどは「児島湾の干拓」を思い浮かべるだろう。この地区の干拓は江戸時代の初期から始められ、1963年までその事業はおこなわれていた。

 また、宇野の名前からは「宇高連絡船」を思い浮かべる人は多いだろう。玉野市宇野港から高松港を結ぶフェリーがあり、四国から本州に渡るための重要な手段だった。が、1988年に瀬戸大橋が全線開通したために利用客は激減し、1991年に廃止されてしまった。その影響もあり、下津井電鉄線も役割を終えてしまったのである。

いろいろな車両が保存されている

 通常であれば、廃線となってしまえば車両は解体されるか朽ちてしまうかのどちらかであろうが、ここでは「下津井みなと電車保存会」が下津井電鉄株式会社(鉄道事業からは撤退したが、バス事業は継続している)の協力によって駅や車両の保存展示をおこなっているのである。そのため、廃止されてから30年以上たっても、車両は随時ぺインティングされていることで、往時の姿を保っているのである。

ホースヘッドが特徴的

 前述したように、下津井では瀬戸内海に浮かぶ島や岩礁に渡るために写真の渡船(瀬渡し船)を利用した。ここの船は他の地域では滅多に目にすることができない長い鼻(ホースヘッド)を持っている。これは、瀬戸内海は干満差がとても大きい(3mは当たり前)ために、磯に降りるときと磯から上がるときとでは場所も高さもまったく異なることが通常だからだ。

 潮が低いときに磯に渡った場合、潮が満ちてくるとその渡った場所がクロダイを狙う良いポイントになるのだ。このため、荷物は常に最上段に置き、必要なものだけをもって釣り座に向かうことになる。

 このように、干満差が大きいということは船は磯際まで寄れないことが大半となることから、このような長い鼻が必要となるのである。

 瀬戸内海で釣りをしなくなってからは十数年経つが、この長い鼻を持つ船を目の当たりにすると、この地域ならではの磯釣り体験をしたときの様子が、数日前の出来事であったかのように思い出される。

下津井田之浦港と瀬戸大橋

 下津井町は概ね4つの地域に分かれているが、田之浦と呼ばれている場所は低地が少なく、すぐ背後には鷲羽山が迫っている。人家は少ないが、写真から分かる通り「常夜灯」が設置されており、ここが天然の良港であったことの証左になっている。

 現在では、この港の真上に瀬戸大橋が架かっているが、よく見ると、手前側と島の向こう側では主塔の形が違うことに気付く。手前側は「吊り橋」で、向こう側は「斜張橋」なのである。

 田之浦の南沖には「櫃石(ひついし)島」と「岩黒島」があり、下津井から櫃石島までは「下津井瀬戸大橋」(吊り橋)で、その先が櫃石島高架橋と岩黒島高架橋(ともに斜張橋)となっている。

 なお、それぞれの島にはインターチェンジが設けられているが、住民や関係者しか利用できないため、観光客が島に渡るためには路線バスの利用が通常となる。もっとも、磯釣り客は前述の渡船で磯付けしてもらえるが、これは特殊な利用法である。

瀬戸大橋を通る本四備讃線

 瀬戸大橋の全貌を見て取るには鷲羽山(標高133m)の第一、第二展望台から眺めるのが通常だが、私は全貌よりも道路の下を走るJR本四備讃線に興味があるため、鷲羽山の中腹を走る県道393号線をを使って、大橋近くにあるパーキングに出掛ける。

 かつてはそのパーキングの近くに山に上る道があり、それを使うと鉄道のほぼ真横に出られたのだが、残念ながら、近くに市の施設が出来たこともあって道は消滅していた。それで仕方なく、さしあたり鉄道が一番見やすい場所を県道をうろついて探し、どうにか撮影できたのが上の写真である。

鷲羽山中腹から下津井の町を眺める

 県道393号線からは、下津井の町の姿も見渡すことができる。この写真から分かるように、下津井にはいくつもの港湾が並んでいる。

 下津井といえば晩秋のタコの天日干し(下津井ダコ)がとくに有名だが、ママカリ(サッパ、コノシロの子供)、トラフグなどもよく知られた存在だ。

 磯釣りのためにわざわざ遠征する機会が無くなった現在(鮎釣りでは各地に遠征するが)、こうして下津井の町を眺めるのはこれが最後となるかも知れない。そう考えると一抹の寂しさを覚えたので、今一度、下津井の町を車で走り、この日の宿泊地である倉敷美観地区へ向かった。 

倉敷美観地区を散策

美観地区と言えば倉敷川一帯

 倉敷市といっても面積はとても広くて約356平方キロである。東京の八王子市は広いことで有名だが、それでも186平方キロにすぎない。そのため、倉敷市の人口は約47万なので人口密度は1321人。対して八王子は約58万人で人口密度は3109人。倉敷市は、中心部以外は山ばかりと思える八王子市の3分の1の密度しかない。これは倉敷市が周辺地域の合併によって市域が拡大したこともひとつの要因と考えられる。ちなみに、我が府中市の人口は約26万で、人口密度は8900人である。

 先に紹介した下津井も行政区域としては倉敷市だし、干拓で有名な児島市もその一部は倉敷であり、水島コンビナートのある玉島市も現在は倉敷市に属している。さらに吉備真備を輩出した真備(まび)町も倉敷なのである。

 こうしてみると、倉敷といえば「美観地区」をまず思い浮かべるが、白壁の町並みだけが倉敷なのではなく、一大工業地帯も、綿花栽培地も、ジーンズの発祥地も、ブドウ栽培も、干しダコの町も、吉備真備も、横溝正史も、みんな今では倉敷なのである。

 とはいえ、今どき流行りの”夜の工場見物”のために倉敷まで出掛ける人は極めて稀で、やはり大半の観光客は「美観地区」の散策を目的にしているのではないか。

白壁ではない建物も魅力的

 現在の倉敷市街や工場地帯(水島コンビナート)、それに児島地区の多くは浅海か干潟だった。それらの干拓を進めたのが秀吉の五大老の一人である宇喜多秀家(1572~1655)であった。倉敷には「島」の名が付く町が多いが、それは実際に島だったからであり、それを陸続きにしたのは宇喜多秀家の業績である。ただ、秀家は関ヶ原の戦いで西軍に加担したために八丈島に遠島となり、そこで生涯を閉じた。

 美観地区周辺の標高を調べると、倉敷駅前は3.4m、大原美術館前は2.7m、アイビースクエアは4.5mである。また、鶴形山(標高40m)にある阿智神社の境内は38mなので、干拓前にはこの山は浅海に浮かぶ島だった。

今では当たり前の存在となった人力車

 干拓事業が進んで港が整備されると、倉敷は幕府の天領となり代官所が置かれた。そのため、この地には年貢米が集積されるとともに一大商業地として発展したのである。

 現在に残る白壁、なまこ壁、黒壁の建物は、江戸時代に建てられた大商家の蔵が元になっている。そもそも倉敷の名は、蔵屋敷町を語源としていると考えられている。

 倉敷の古い町並みが人気を博したためかどうかは不明だが、今では日本各地に古い町並みの保存がおこなわれ、その多くが観光地化している。今回の旅では、倉敷だけでなくいくつかの保存された町並みを紹介することになる。先に挙げた下津井も規模は小さいながらそのひとつに数えられる。

 美観地区だけではないが、ある程度の広さを有する町並み保存地区では近年、必ずと言って良いほど写真のような人力車が「活躍」している。私は利用したことも利用するつもりもまったくないが、一例として価格を調べてみると、1区間12分で一人4000円、二人5000円とのこと。

 また、美観地区の中心を流れる倉敷川には「くらしき川舟流し」があり、大原美術館前にある今橋から美観地区が終わる高砂橋の間300mを6人乗りの小舟で往復(20分)する。大人500円也。

 コロナ騒動明けということもあって、外国人観光客の姿が目立った。私が定宿にしているホテルは外国人観光客のツアーの団体が利用していたこともあり、8割近くが外国人だった。人力車ではそれほど多く見掛けなかったが、小舟のほうは外国人の姿の方が多いようだった。

細い路地に妙味有り

 倉敷川の両岸や道の両側に商店が並ぶ場所では観光客を溢れるほど見掛けるが、写真のような何もない路地には人影は疎ら。こうした場所にこそ町の良し悪しが表出する。倉敷では隅々に至るまで景観が整えられており、地域を挙げて「美観」を守っている点に好感が持てる。

 この地は全国的に知られる町になり、若い層も相当数、訪れるようになっている。その一方で年配者の姿も多い。「古き良き時代」が果たして実際に存在したのかは不明であるけれど、美観地区の現在を見る限り、そうした時代もあったのかもしれないという良い意味での幻想を抱くことができる。

メタセコイアと蔦の壁

 美観地区の隣にあり、倉敷紡績クラボウ)の工場があった場所に造られた「アイビースクエア」も人気の場所である。古い壁に蔦(アイビー)が絡み付いた景観は、白壁とは異なる印象を見る人に与える。白と緑と茶色の異なる姿が倉敷を訪ねる人々に強い印象を心に刻み付けるのである。

 私は美観地区側からこの場所に訪れたので、写真にあるメタセコイアの姿も目にすることができた。現在では至るところで目にすることができるが、少し前までは「生きた化石」と呼ばれた高木である。この樹木も幹や枝は茶色で葉は緑色であり、蔦の絡まる壁と同じ色彩なのがとても魅力的であった。

アイビースクエアは元クラボウの工場

 アイビースクエア内にはいろいろな店が並んでいるが、一部はホテルにもなっている。私は一度だけ利用したことがある。もちろん内部は他のホテルとさほど変わらないが、それでもレンガ壁がよく目に付き、ここがかつて工場に用いられた建物であったことを思い出させてくれた。

 なお、このアイビースクエアの敷地内に代官所跡が存在する。別の表現をすれば、代官所跡に工場が建てられたのだ。

鶴形山に鎮座する阿智神社

 先述したように、倉敷の市街の多くは浅海か干潟だった。が、写真の阿智神社は標高40mの鶴形山の山頂近くにあるので、古くから海上交通の守り神として崇められた。

 阿智の名は、4,5世紀に伽耶から渡来した阿知使主(あちのおみ)に由来する。半島から17県(あがた)の人々を連れてきて、吉備国などに機織りをはじめとする大陸の進んだ技術を伝えたとされる。

 写真から分かるように、境内には岩そのものを神として崇めている。これを磐座(いわくら)といって古神道における自然崇拝のひとつである。

 写真にはないが、本殿の裏手には「阿知の藤」と呼ばれる藤棚があった。満開前だったのでとくに掲載はしなかったが、アケボノフジとしては日本一の巨木で岡山県の天然記念物に指定されているそうだ。

神社境内から家並みを眺める

 標高38mの境内から美観地区の家並みを眺めてみた。このように、美観地区には歴史のある建造物がまとまった形で保存されているので、何度も散策しているはずなのだが、初めて見る路地と多く出会う機会がある。

雨の美観地区もまた良し

 私は美観地区にあるホテルに宿泊した。翌日は雨の予報だったが、まずはホテルの敷地につながった場所にある「大原美術館」を訪ねる予定だったので、とくに雨降りは障害にならなかった。写真のように倉敷川沿いのもっとも賑わいを見せるはずの通りにも人影はさほど多くはなかった。比較的早い時間なので、雨というだけあって出足が遅いだけかもしれないが。

人力車は商売にならず

 雨降りになってしまうと人力車を利用する人は少ないようで、あちこちで客待ちをする姿を見掛けた。写真のように、客を探すためか場所を移動する車夫もいた。

何故かデニムストリートは大人気

 倉敷川沿いにある「倉敷デニムストリート」だけは何故か混雑していた。倉敷市というより旧児島市は国産ジーンズ発祥の地とされている。児島は綿花栽培が盛んな場所であるため繊維の街として発展してきたこともあって、日本ではいち早くジーンズの生産に取り掛かったのだろう。児島は現在は倉敷市に属し、かつ児島よりも倉敷の方が通りが良いため、児島デニムではなく倉敷デニムを名乗っているのだと推察される。

大原美術館で名画に遭遇!!

 この日は大原美術館見物を予定していた。大塚国際美術館で『エデンの園』に出会って以来、遅ればせながら私の美術館通いが始まった。倉敷に、それも美術館の隣(同じ敷地)にあるホテルに泊まり、しかも美術館の入場券付きで予約していた。

 美術館に入る前に美観地区を散策したが、上に記したようにそれなりに強い雨だったこともあり、散策は早々に切り上げて美術館に入った。雨降りということもあり、美術館内は結構な混雑振りであった。

 大原美術館は、倉敷出身の実業家であり慈善事業家でもあった大原孫三郎(1880~1943)が設立した日本で最初の私立西洋美術館だ。慈善事業家として「大原奨学会」を運営していた彼は、現在の岡山県高梁市成羽町出身である児島虎次郎の絵の才能を見出し、奨学生のひとりとして財政援助をおこなった。

 児島は東京芸大飛び級で卒業し、大原の依頼を受けて西洋絵画の収集にあたった。もちろん、児島自身も画家としての能力を十分に発揮し、多くの名画を残している。

 1929年、児島が47歳の若さで死去したこともあり、大原はその翌年、児島が西欧で買い付けた数々の作品や児島の残した絵画を基にして「大原美術館」を開いた。

 この美術館にはモネの『睡蓮』、エルグレコの『受胎告知』、ロートレックの『マルトX夫人』などの名作が展示されていたが、私はさして感銘は受けなかった。

 が、館内の一角にあった児島虎次郎の作品群を目にしたとき、あの『エデンの園』に出会ったときに近い衝撃を受けた。大塚国際美術館は”本当の偽物”が展示してあるために撮影は自由だったが、ここでは撮影禁止のため、私が感動してしばしその絵の前に張り付いてしまった作品を撮影することはできなかったので、ここではその作品名を挙げるだけなのが残念だ。

 『里の水車』『朝顔』は今のところ、日本絵画では筆頭の作品だと個人的に思っている。もっとも、観賞歴が少ないので、これからまだまだ多くの名画を目にする機会があると思うが、これらの作品を超えるものにはまず出会えないと考えている。とにかく、光の扱い方が天才的なのである。

 私は物を立体的に認識する能力が欠落しているため、唯一、光の存在が欠損した能力を補ってくれるのである。それゆえ、上に挙げた児島の作品は光の取り入れ方が傑出しているため、私にも、その作品から多くの”物語”をイメージできるのである。

 大原美術館に入ったことは大収穫であった。児島虎次郎に出会えたことで、私の絵画に対する興味はいや増しになっただけでなく、今回の旅の後半には、児島の生誕地に造られた「高梁市成羽美術館」に立ち寄ったのだった。

◎笠岡でカブトガニに出会う

浅口市の三ツ岩

 大原美術館にて豊穣な時間を過ごしたことで倉敷を離れ、次の目的地に向かった。笠岡市にある「カブトガニ博物館」が興味深く覚えたため、そこに立ち寄ることにした。国道2号線を西に向かえば移動時間は短くて済むが、それでは単調すぎることから、途中から2号線を離れて南下し、瀬戸内海沿岸を走る県道47号線に出ることにした。

 途中には「沙美の浜」という洒落た名前の海岸線があるようだったが、小雨続きだったこともあって見晴らしは良くないために車を停めただけだった。その地で地図をよく見てみると「三ツ岩」という「名所」が寄島の地にあることが判明した。「外れ」の可能性は否定できなかったが、とりあえず立ち寄ってみることにした。

 地形からすると寄島は明らかに離れ小島であったはずだが、本来の海岸線から砂州が伸びたことで周辺を干拓して島とは陸続きになった。結構広い干拓地であったが、とくに利用されることなく、寄島近くにグラウンドと公園が整備されているだけでほぼ空き地になっていた。

 寄島は北東から南西に向かう細長い島で、北側は81m、南側は69mの山がある。その南西側の沖に、写真の三ツ岩があった。三つの岩はすべて幅15mで高さは10m。それが6mの間をおいて並んでいるのだ。花崗岩から成り立っているその岩へ干潮時には歩いて渡れるそうだ。

 生憎の天気のためにさほど綺麗には見えないが、明るい日差しを受けたときにはそれなりの見応えがあるように思えた。沖に突き出た寄島のさらに沖にあるため、瀬戸内海の海としては透明度が高かったことからそう考えられたのだ。 

カブトガニ保護の看板

 ずっと西に進んできた県道47号線は笠岡湾に突き当たると右に大きく曲がり、今度は湾内の「神島水道」と呼ばれる入り江の左岸を北上する。この水道は東の御嶽山(標高320m)と西に栂丸山(つがのまるやま、306m)をピークとする神島(こうのしま)との間にある。

 ただ、現在の水道はかなり幅が狭いが、神島の北側には広大な干拓地があるので、以前は相当な広さの干潟があったと思われる。この干潟が「カブトガニ」の生息地であった。

 カブトガニは食料にはならないために以前は厄介者扱いされてきたが、約4億年前から姿を変えずに現在まで生き続けてきたことが分かり、笠岡市では貴重な生き物として保護することになり、国の天然記念物に指定された。

 「生きた化石」とはいろいろなところで形容詞として用いられるが、この言葉が最初に使われたのはカブトガニについてだった。

この浜(神島水道)にカブトガニが生息

 写真のように神島水道には小さな島や入り江が存在するが、この場所の北側に前述した国が推進した広大な干拓地がある。そこには小さな空港や道の駅があるが大半は利用されず、荒地のまま残されている。しかもその干拓地の標高は-6mから-2mという海抜ゼロメートル地帯なのである。

 狭くなった神島水道に生息するカブトガニを守るべく、先の写真のように水道の浅瀬や砂浜での潮干狩りは「禁止」されている。

なかなか興味深かった博物館

 笠岡市では国の干拓事業のために激減したカブトガニの保護や育成、市民の啓発活動を推進するために1990年、写真の「笠岡市カブトガニ博物館」を設立した。カブトガニをテーマにした博物館は世界でもここだけにしか存在しないそうだ。

 建物自体もカブトガニの姿をモチーフにしているが、それだけでは集客力はあまり強くないと考えたのだろうか、隣には公園が整備され、そこには実物大の恐竜の模型が展示されている。

只今、包接(交尾)中

 カブトガニは水温が18度以上ないと活動しない。この辺りでは6月中旬から9月いっぱいまでが活動期で、それ以外の時期はやや深場の砂の中に潜って冬眠する。

 内陸性で泥の溜まった海底を好み、こうした場所は激減しているためもあって生息域は限られ、日本では笠岡市佐賀県伊万里市とが主な生息地になっている。

 カブトガニ命名されているがカニの仲間ではなく、私が大嫌いなクモの仲間(鋏角類)に属している。祖先は4億8千万年まで遡れることから「生きた化石」と呼ばれている。

生きた化石”の化石

 博物館には、写真のようなカブトガニの化石が展示されていた。カブトガニの仲間は現在、2属4種が発見されているが、日本には「カブトガニ」の1種だけが生息している。

博物館の隣にある恐竜公園

 先にも触れたように、カブトガニの祖先は4億8千万年前から生息し、一方、恐竜は2億4千年前から6600万年前まで(鳥類を除く)生息していたので、長い間、カブトガニと恐竜は同時期に活動していた。

 そうしたこともあってか、博物館の隣には恐竜公園が整備されており、また、博物館内にも恐竜の骨格などが展示されている。

 ここの恐竜は他に見られるような遊具として存在する訳ではなく、恐竜学者の協力を得て、細部にまでこだわり、かつ「実物大」に再現している。ただし、化石には色素は残らないので、体色だけは学者の想像によるものである。

 私が訪れたときには何組かの家族連れが見物に来ていたが、お目当てはカブトガニよりも恐竜の方であるように思えた。

博物館と首長竜

 博物館前には「海ゾーン」と名付けられた池があり、エラスモサウルスという首長竜が長い首を水面上に現わしていた。

福山市鞆の浦を散策

仙酔島に向かう市営渡船

 小雨模様ではあったが、私は宿泊地の福山駅前に直行せず、福山市の観光名所のひとつである「鞆の浦(とものうら)」へ向かった。その際、福山市街地は通らず、笠岡湾を埋め立てたまま半ば放置状態にある干拓地を通った。先に触れた海抜ゼロメートル地帯で、かつてはカブトガニの一大生息地であったことからなのか、この地は「カブト」という字名が付けられていた。

 鞆の浦は、福山と尾道の間にあって瀬戸内海方向へ大きく突き出た沼隈半島の南端に位置する。風光明媚な場所で、8世紀半ばの『万葉集』に8首登場するなど古くらか知られた場所であった。

 とりわけ、写真にある仙酔島方向の景観が美しい。その島には福山市の市営渡船が通じているが、その船は大洲藩所属で、坂本龍馬率いる海援隊が運行していたときに紀州藩の明光丸と衝突し、鞆の浦まで曳航中に沈没した「いろは丸」を模している。

 私が仙酔島を眺め始めていたとき、「平成いろは丸」は島に向かう最中であった。乗客は若い女性がひとり。画になりそうな光景だったことから私はシャッターを押した。

”対潮楼”がある福禅寺

 写真の福禅寺は、江戸時代に朝鮮通信使の一行が立ち寄って休息を取った場所である。写真のように高台にあって瀬戸内海に対しており、見晴らしのとても良い場所だ。

対潮楼に上がる

 福禅寺の瀬戸内海側は「対潮楼」と名付けられている。朝鮮通信使はこの景観に触れて「日東第一形勝」、すなわち日本で一番の景勝地であると言ったとされている。

対潮楼から仙酔島を眺める

 私も対潮楼に上がり、仙酔島をはじめとする島々の姿を眺めた。日本一美しいかどうかは別にして、確かに見応えのある景色であることは確かだ。

 実は、私は何度かこの仙酔島に渡ったことがある。ただし、市営渡船利用ではなく、福山港から磯釣りのための渡船で渡り、この島でクロダイ釣りをしたことが何度かあった。潮通しが良く、しかし、沖が荒れ気味でも内湾に近いために波静かなので、いつでも竿が出せるという魅力がある島なのだ。

 もっとも、島の南側で竿を出しているので対潮楼からは見られることはなかったが、市営渡船で島を訪れた人たちにはしっかり見られた。

鞆の浦には狭い路地がたくさんある

 鞆の浦には写真のような細い路地がたくさんある。なにしろ、福山から尾道に向かう主要な県道47号線ですら、市街地の一部では車がすれ違えないほど狭いのだから、市街地内の路地は車自体が進入できない道がたくさんあっても不思議はない。

 それらの道の一部は観光地にもなっており、多くの賑わいを見せるが、私は写真のような変哲のない路地が好みなのだ。

鞆の浦港の眺め

 瀬戸内海の中間に位置する鞆の浦は、江戸時代には港町として、潮待ち港として栄えた。現在ではその地位は尾道港に奪われたが、そのことがかえって江戸時代の風情を今に伝えることになっている。

 写真にある常夜灯はこの港のシンボル的存在であり、観光客がもっとも多く集まる場所だ。

 私はその場所には立ち入らず、対岸からその姿を眺めた。岸壁の足元にある海を覗くと、50センチほどのクロダイが海藻を食んでいた。この魚の姿に触れたとき、仙酔島で竿を出していたときの様子が鮮明に蘇ってきた。

福山城に初めて登城

ホテルの窓から城が見えた

 鞆の浦見物を終えて、この日の宿泊地である福山駅南口に向かった。途中で鞆の浦の磯へ向かう渡船の発着所になっていた福山フェリー港に立ち寄ってみたが、以前よりも一層、閑散としていた。さらに駅近くにある釣り仲間が経営していたビルの前を通ってみたが、テナントはほとんど撤退していて、彼が経営していたスナックも閉じていた。まったくもって、芭蕉の言葉ではないが、月日は百代の過客である。

 ホテルは観光客で大いに賑わっていた。禁煙室を希望していたが生憎の満室で、その代わり、最上階の広い部屋、おまけにキャッスルビュー側を用意してくれていた。

 写真は、ホテルの部屋からの眺めである。写真にはないが、ホテルと城との間に福山駅がある。

初登城

 雨が収まって来たようだったので、福山城まで出掛けてみることにした。ホームは高架上にあり、駅下には商店が並んでいた。その間を通って駅の北側に出るとそこに本丸に通じる坂道があった。

 坂を上ると筋鉄御門が見え、それをくぐると本丸広場に出る。天守は城主の水野勝成が造らせたもので、大規模な近世の城郭としては最後期になるもので1622年に竣工した。

 が、残念なことにアジア太平洋戦争で米軍の空爆によって焼失してしまった。そのため、現在の天守は1966年に造られた鉄筋コンクリート製である。中は博物館になっており、上層まで上ることができる。

八方よしの松

 博物館には入らなかったが、その周囲を散策してみた。一番気に入ったのは写真の「八方よしの松」だった。幹や枝が変化に富んでいるため、どの方向から見ても姿形は異なり、しかもそれぞれに美しさを見て取ることができるところから、そのように名付けられたそうだ。確かに名前負けしていない見事な肢体だった。

ライトアップされた城

 城内をうろついているときにまた雨が降り始め、今度はかなり強い降り方になってきた。そこで、城から引き上げホテルに戻った。

 室内からは椅子に腰掛けていても城郭がよく見えた。雨は止みそうになく、広場で遊んでいた子供たちも皆、姿を消した。

 私は溜まりに溜まった写真を整理することにした。それには城の姿が邪魔になるため、カーテンを閉めた。

 写真整理がひと段落したことから、雨の様子を伺うためにカーテンを開いた。明日は大好きな尾道しまなみ海道に出掛けるので、天気が気になったからである。

 そこに飛び込んできたのが、ライトアップされた福山城の姿であった。幻想的であり、その一方で玩具にも見えてしまう不思議な佇まいにしばし目を奪われた。

 キャッスルビューの部屋を開けてくれたことの感謝のために、夕食は駅中にある「すき家」ではなく、ルームサービスを利用することにした。それほど高額のものではなかったのだけれど。

〔91〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(2)太子町から岡山後楽園まで

閑谷学校のよく磨かれた講堂内

 ◎太子町の斑鳩寺を訪ねる

仁王門

 奈良の當麻寺の西には二上山があり、その西麓に太子町がある。こちらがより古い明日香だったと考えられており、奈良の明日香に対し「近つ飛鳥」とも呼ばれている。この辺りも大好きな場所のひとつなので、「太子町」と聞くと大阪にある町を思い浮かべてしまうのだが、今回に訪れたのは兵庫県の太子町である。

 うかつにも、私は兵庫に太子町があることをすっかり忘れていたのだが、姫路の宿で次の日の予定を考えていたときに太子町の存在を思い出したことから、まずはじめにそこを訪ねることにした。

講堂

 太子町というぐらいなので、もちろん聖徳太子に関係する場所であることは言うまでもない。7世紀初頭に太子が推古天皇勝鬘経(しょうまんぎょう)や法華経を講じたことから、播磨国の水田100町(360町とも)を与えられた。太子はその地を鵤(いかるが)荘と名付け、政所とひとつの伽藍を建てた。これがここで取り上げた斑鳩寺の淵源となった。

聖徳殿前殿

 最盛期には七の伽藍、数十の坊院を有していたそうだが、1541年、出雲尼子氏の侵入で全焼してしまった。再建されたのは1565年だったとのこと。その際、法隆寺の別院から天台宗の傘下に入ったという。

聖徳太子の愛馬

 聖徳殿前殿の左右には2頭の白馬が置かれている。確か、聖徳太子の愛馬は「甲斐の黒駒」だったはずだが、ここには白馬だった。もっとも、太子は甲斐の黒駒に乗って天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国に赴き、富士山を越えて信濃国に至り、3日を経て都に帰還したというから、黒駒は単なる伝説にすぎないのかも。

 一方、孔子の愛馬は白馬であったことはよく知られている。落語の『厩火事』のネタになっている。また、『絹本著色本證寺聖徳太子絵伝』には白馬に乗った聖徳太子が描かれている。こうしたことがごちゃまぜになって太子と白馬が結びついたのかもしれない。

三重塔

 1565年に再建されたもので現存しているのは、写真の三重塔だけである。高さは25mあり、細部の意匠も見事に施されており、なかなかの存在感があった。

奥殿と中殿

 法隆寺の夢殿を模した奥殿中殿があり、ここに木造の太子立像、日光・月光菩薩像など国の重要文化財が保存されている。

 地元の人々は、現在でもこの寺を「お太子さん」と呼んで大切にし、地元の誇りにしていることがうかがわれた。私にとっても望外の出会いであった。紙の方の聖徳太子はとっくに消え去ってしまったけれど。

兵庫県で一番低い山~唐船山に初登頂

唐船山の全貌

 赤穂城跡を目指した。その前に、千種川(ちぐさがわ)河口左岸にある兵庫県で一番低い山(全国では19番目)である「唐船山(からせんやま)」に登頂することにした。標高は19mで、登山口は5mの位置にあるので比高は14mだ。

 ところで、山はどのように定義するのだろうか。一般的には、高さがあってかつ他と区別されているものを言う。なので、子供が地面に土を盛ったものも立派な山である。ただ、他の山と比較するときはそれなりの基準が必要であって、兵庫県あるいは全国で、というときには国土地理院地図に掲載されていることが一応の目安になっているようだ。

 この点で言えば、日本一低い山は仙台湾にある日和山で、標高は3mである。ただこれは人工的に造られた「築山」で、自然に出来た山であれば、徳島市にある弁天山で標高は6.1mだ。 

登山道

 唐船山は赤穂海浜公園の西隣にある。公園の有料駐車場に車をとめ、私は登山を開始した。写真のように、この山には立派な登山道(階段)が整備されている。

山頂

 比高は14mなので、途中で休むことなく登頂に成功した。右側の標識にあるように、かつてここには番所が置かれていた。山頂近くに地面が少し掘られた跡が残っており、それが番所があった痕跡になっている。

 この山は「ドンドン山」の別名がある。地面が柔らかくなっている場所があり、そこを足で強く打ち付けるとドンドンという音がするのがその理由だとのこと。その昔、唐の船がこの浜に漂着し、やがてその船を覆うように土が積もったことで山が出来たため、山中には空洞があり、それゆえドンドンと響くのだそうだ。

千種川の河口

 山を観察すれはすぐに分かるが、周囲は砂岩が大きく露出している。この上に船が乗り上げるのはとても大変なことであろう。

 左岸の岩礁が少し沖にあり、千種川が運んできた砂が沖に伸びて陸続きになったというのが真相だろうが、それでは面白くもなんともないので、そうした言い伝えを今日まで継承しているのではないか。

◎赤穂大石神社と赤穂城

浅野、森家ならびに大石内蔵助など義士を祀る

 まずは赤穂城跡内にある「赤穂大石神社」を覗いてみた。ここは赤穂神社と大石神社が合体してできたもので、浅野家やその後を継いだ森家と赤穂浪士と中折した萱野三平を祀っている。

 鳥居前の参道の両側には四十七士の石像が並んでいる。写真からも分かるように、これは近年になって造られたものである。なお、下の写真は大石良雄(内蔵助)率いる表門隊で、反対側には大石主税率いる裏門隊の像が名前入りで並んでいる。

参道の左右に義士の石像が並ぶ

 以前は、年末になるとテレビでは赤穂浪士を扱った番組(忠臣蔵)をやっていて、私も少年時代には欠かさず見ていたものだった。なかでも堀部安兵衛がお気に入りで、動きの遅い大石良雄をもどかしく思った。

 もっとも、あまりにも事細かな描写に、いささか閉口したのも事実である。実際にあったことなど誰にも分からないし、そもそも討ち入りが正当か否かも賛否が分かれるところである。

 それゆえ、長じてからは赤穂浪士ものにはほとんど興味はなくなった。それでも何度も赤穂城跡に訪れており、今回もまた出掛けていったのは、彼らの行為がカントの言う義務にかなったものであるかどうかを考察したいからなのだ。

神社を少しだけ覗く

 写真の神門をくぐり中を少しだけ覗いたが、相変わらず、お参りはしなかった。写真にもあるが、「大願成就」の幟旗はいたるところに掲げられていた。確かに、身内にはひとりの犠牲者を出すことなく(二名が負傷しただけ)仇討ちを達成したとすれば「大願成就」には違いない(史実だとして)だろうが、そこには偶然性が大きく作用していたと考えられる。

 大きな願いを達成するには多くの幸運に恵まれなければならないし、仮に成就できたとして、それが本当に心底から願っていたものだったかどうかは後になってみなければ分からない。いや、それはずっと不明のままであろう。

赤穂城

 赤穂大石神社から移動して、写真の本丸門、本丸櫓門に向かった。本丸内に入っても建造物はほとんど残っていないが、どんな施設がどの位置にあったのかということは床面に記されている。

本丸内は庭園が良く整備される

 本丸庭園は美しく整備されている。その先に見えるのは天守台の石垣で、天守閣は存在していない。というより、元々、構築されなかったのだ。

天守台から本丸内を望む

 天守台は「展望台」として上がることができる。写真からも分かるように、本丸内にはいろいろな施設が存在していた。そのどれもが姿かたちを残していないため、私にはそれらを想像することさえできない。

厩口門と堀

 本丸厩口を出て、やはり施設らしいものがほとんど存在しない二之丸をしばし散策した。

山鹿素行

 山鹿流兵法や朱子学を批判して孔孟の思想に立ち返るべきとする古学派の祖である山鹿素行(1622~85)は赤穂藩との関りが深い。1652年に浅野長直(浅野内匠頭の祖父)に仕え、整備中であった二之丸の縄張りについて助言を与えた。また、古学を確立して朱子学を批判した(『聖教要録』の記述)ことで保科正之の怒りをかい、1666年から10年ほど、赤穂藩に配流されている。

 このときも浅野長直は彼を厚遇し、大石良雄大石内蔵助)はその門下に入った。一説には、赤穂義士の活動は山鹿素行の影響を強く受けているためだとするものもある。

 こうした赤穂藩と山鹿とは縁が相当に強いことから、二之丸跡の一角に写真のような像が建立されているのだった。

赤穂市立歴史博物館

 赤穂城跡の隣には、写真の歴史博物館があった。5連の土蔵の形をしているのは、この地に赤穂藩の米倉があったからだそうだ。

 赤穂義士にはやや食傷気味だったために立ち寄ることはしなかったが、後で調べてみると、「塩と義士の館」を謳い文句にしていることが分かった。義士はともかく、赤穂の塩に関しては興味を抱いていただけに、館内を覗かなかったことを反省した。

 製塩法については興味があり、今は地震騒動で揺れている能登の「揚げ浜式製塩法」を体験したことがあった。一方、赤穂の製塩法は「入浜式塩田法」でやり方はまったく異なっている。

 これは、日本海側は干満の差が小さい一方、瀬戸内海は干満差が非常に大きいことから入浜式を可能にしているのであって、赤穂の方式が効率的なのは、自然環境によるところが大きい。

 なお、赤穂藩が製塩で有名になったのは浅野家の時代ではなく森家からで、一説によれば、生産量は10倍ほど伸びたそうだ。こうしたことも、博物館に立ち寄って調べたり質問したりして理解が深まったかもしれない。残念なことである。

閑谷学校に登校

学校の公門

 海を離れ、今度は内陸に向かった。写真の「閑谷学校」を見学するためである。実は私は学校は大好きだった。ただ勉強が、授業が、あるいは人の話をジッとした姿勢で聞くのが大嫌いなだけなのだ。なので、私の学校生活は休み時間と放課後に力点が置かれていた。

 それはともかく、学校と聞くとまず「足利学校」を思い浮かべる。この学校については本ブログの第6回で触れている。一方、閑谷学校は1670年、藩主の池田光政によって開校された「日本で初めての庶民のために学校」だとのこと。

 足利学校の開校時期は諸説あるが、一般には1432年、上杉憲実によって再建されたとある。ということはそれ以前にもあったことになり、極端な説では、839年に小野篁が開いたというのがある。これなら最初の学校は「足利学校」になりそうだが、実は、空海が開いた「綜芸種智院」は828年に開学している。これが正しければ、足利学校よりも古いことになる。

 が、日本には天智天皇が開いた「大学」がある。これは671年に始まっている。それゆえ、日本最初の学校といえば「大学」にとどめを刺すようだ。それゆえ、閑谷学校では「庶民のための学校」という但し書きがあるのだろう。 

まずは閑谷神社へ

 閑谷学校の存在やその位置についてはずっと以前から知っていた。山陽自動車道を西へ進むとき、備前ICから和気ICとの間に「閑谷トンネル」があり、そのトンネルに入る直前に備前焼の煙突が見え、このトンネルに「閑谷」の名前が出ていることから、このトンネルの近くに閑谷学校があるということは見当がついていた。しかし、この辺りにとくに用事はなく、また焼き物は餃子や焼きそばならともかく、陶磁器についてはまず関心がなかったため、備前焼と言われてもどんな特徴があるかすら知らないままでいた。

孔子廟の屋根

 それが、山陽路を中心に巡る旅は今回が人生最後になるはずであることは確実そうなので、わざわざ閑谷学校まで足を運んでみた次第だった。

 古い時代に造られた建物の屋根にはその大半が備前焼の瓦が用いられている。一枚一枚、瓦の色は微妙に異なるため、素人の私にもその美しさに見惚れてしまったほどだ。

 備前焼の淵源は朝鮮半島から伝来した須恵器の製法にある。須恵器は窯を用いて高温で焼くことができるので水を通さない器や瓦を造ることができる。須恵器が伝わる前は土師器で、これは野焼きで火を入れるために低温でしか焼けないために水を通してしまうこともあった。須恵器の製法は平安時代に定着し全国に広まった。

 写真のように、備前焼の瓦は光の当たり具合でも見え方が変化するため、こうして屋根を見ているだけでも閑谷学校の良さを得心できるのである。

講堂は国宝に指定されている

 閑谷学校の建物の大半は国の重要文化財に指定されているが、写真の講堂は国宝に指定されている。通常、講堂は回廊のみが見学を許されているが、年に何度かは一般向けに講堂内で論語などの講義があり、その際はピカピカに磨かれた床に触れることができるそうだ。うらやましい。

講堂の窓

 通常、私はこうした施設には上がることはほとんどしないのだが、外から透明の漆が塗られた堂内の床の輝きを目にしたとき、まったく躊躇せずに上がる講堂、いや行動に出てしまった。

 ほとんどの窓が開放されているので、堂内をいろいろな角度から眺めることができた。光の当たり具合によって、さして変哲のない床や壁や天井やらがが、色鮮やかな装飾を施された煌びやかな内装よりも美しく見えるのである。

講堂の内部

 本項の冒頭の写真は、講堂の床の輝きがもっとも顕著に見える角度から見たもので、何もないことの豊かさが鮮明になる姿であった。

 上の写真は、また別の角度から眺めたものである。光線の具合によって、あるいは見る位置や角度によって、床があたかも生き物のように千変万化するのである。

 この講堂の姿に触れられたことだけでも閑谷学校にやってきたこと、いや山陽路を訪れた意味や意義を見出すことができたといっても過言ではないだろう。

特徴的な石垣

 石垣も写真から分かるとおりなかなか工夫されている。綺麗な曲線を描いているのである。もちろん、これは表面が磨かれているのだろうが、「庶民のための学校」のためにここまで意匠に凝るというのは生半可な覚悟で出来るものではない。

閑谷学校資料館

 閑谷学校は1870年に閉校となったが、73年に備中松山(現在の高梁市)から山田方谷を招聘して閑谷精舎として再開。1903年には旧制私立閑谷中学校となり、05年には写真にある新校舎が完成した。

 21年には岡山県に移管され、48年には学制改革によって閑谷高校となったが、64年に閉校となった。

 現在は閑谷学校資料館となって開放されている。この校舎は私の小学校時代の建物のようだったので、懐かしさを覚えたこともあり中を覗いてみた。こうしたことも普段ではなかなかしないのだが、どうやらすっかり講堂の床の美しさに魅入られてしまったようだ。

 美は、ときとして私を知性的存在にする。

◎”日本のエーゲ海”??牛窓の町を訪ねる

灯篭堂跡

 閑谷学校で豊穣な時間を過ごしたのち、再び海に向かうことにした。地図で場所を探しているときに”日本のエーゲ海”という言葉を見つけたからだ。閑谷から県道261号線を南下すると「岡山ブルーライン」と名付けられた播磨灘に近い場所を走る快適そうな道がある。その道を西に進み邑久(むらひさ)ICで下りて県道39号線を南下すると海岸線に出る。そこに”日本のエーゲ海”があるというのだ。

 エーゲ海と聞くと私の年代では「ポールモーリア」の楽曲を思い起こす。『エーゲ海の真珠』と『オリーブの首飾り』の2曲はとくによく聞いた。久し振りにこの2曲を聞こうとユーチューブで見つけ、スマホでその音楽を流しながら目的地をめざした。”牛窓”の地にはギリシャ風の建物やオリーブ園があることから、”日本のエーゲ海”と呼ばれているらしい。もはや本物のエーゲ海に行く気力や体力は残っていないが、日本にあるのなら行くことは可能だ。

 2曲のうち、とりわけ後者は”エーゲ海”をイメージさせるだけでなく、マジックの際のバックグラウンドミュージックの定番として流される。そのため、どちらかといえば海よりも手品を思い浮かべてしまうのだが。そうすると、耳元には『だめよあなた♪♪』という詞が入り込んでしまうのであった。

灯篭堂を見張るネコたち

 牛窓町の海岸線に到達した。いくつかオシャレな建物やカフェがあったが、取り立ててエーゲ海をイメージさせるものは存在しなかった。そこで私はヨットハーバーのある東海岸へ向かった。が、これもまたごくありふれたハーバーにすぎなかった。そのため、さらに車を東に向けると、古い漁師町のイメージをふんだんに纏った路地に迷い込んでしまった。かりに対向車があったとすればすれ違うことはまったくできないほど道は狭かった。

 やっとの思いで通り抜けた場所に建っていたのが、ひとつ上の写真にある「灯篭堂跡」の古めかしくもあり由緒あり気な建築物だった。エーゲ海というより、日本の田舎の古い漁村の原像といういうべき景観が、そこには展開されていた。

 エーゲ海はどこだ!

前島との間の水道は潮が早い

 対岸には前島という東西に細長い島が横たわっていた。ここを干満の差が激しい潮が行き来するため、写真のようにいつも急流が走っているようだった。

 私は灯篭堂横の小さな空き地に車をとめ、少しだけ猫たちと戯れた後、集落内をうろついてみた。ギリシャ風のものはまったく目に入らず、存在するものはすべて、日本の古き良き漁村の佇まいであった。

牛窓港はのんびりムード

 港には小さな漁船が数多く停泊していた。早い潮から港内を守るべく一本の長い突堤が潮の侵入を防いでいた。

 その堤防から一人の釣り人が竿を出していた。地元のオジサンといった風情だったので当地には詳しいだろうと思い、釣果だけでなく、エーゲ海はどこにあるのか訪ねてみた。

 おじさん曰く、そんなものは存在せず、ただ高台にある「オリーブ園」がしきりに”エーゲ海”を強調しているとのことだった。「俺はエーゲ海に行ったことがないのでそれが本当なのかどうかは見当もつかない」というような内容を、そのオジサンは地元言葉で話してくれた。

牛窓神社の一の鳥居

 そんなものより、牛窓神社の境内はヤマツツジが満開なのでそれを見に行った方が良い、という素敵なアドバイスを頂戴したので、砂浜海岸の先にある神社へと向かうことにした。

 海岸線近くに一の鳥居があり、それをくぐって緩やかな階段を上がり、森の中を進んだ先でヤマツツジが高台を覆っていた。

満開のヤマツツジ

 確かに、見事としか言い表せないほどツツジは満開だった。通常のツツジに較べると色の変化は限定的だが、こうして満開になってしまうと反って自然な造形美が目や心の中に入ってくる。

ヤマツツジと瀬戸内海

 境内は高台にあるので、眼前には前島だけでなく数多くの島の姿が視界に入ってきた。エーゲ海を「多島海」と日本語に置き換えるなら、たしかにこの牛窓の地はエーゲ海を名乗っても良いかも知れないとも思えた。

 そんなとき、またあの「だめよあなた♪♪」の歌詞とメロディが心と胸に浮かび上がってきた。

 そうなのだ。この景色はなにも”エーゲ海”に例える必要などまったくなかった。日本の瀬戸内海として十分に誇れば良いのだ。何しろ、ここ牛窓岡山県瀬戸内市にあるのだから。

路面電車岡山城

路面電車に出会う

 閑谷学校牛窓、この日は望外ともいえるとても良い出会いがあったので、いい心持で宿泊場所である岡山駅前のホテルに向かった。

 岡山市街に入った場所で、丁度その時に写真の路面電車に遭遇した。路面電車には広島市で乗る予定にしていたが、岡山市にも走っていたことをすっかり失念していた。それが、信号待ちをしているときにその姿に出会ったため、当初はホテルでゆっくり写真の整理をする予定だったことを変更して、路面電車に乗ることにした。

早速、路面電車見学

 ホテルは岡山駅のすぐ近くにあり、ホテルの玄関を出たところに「岡山駅前電停」があった。路線は2系統あり、ひとつは「東山電停」行き、もうひとつは「清輝橋電停」行き。といっても、それがどの方向に向かうのか不明だったため、地図で確認しつつ駅前電停を折り返す電車の姿を、写真にあるように撮影したり眺めたりしていた。

路面電車岡山城に向かう

 2系統のうち、東山行きには岡山駅前から二つめに「城下電停」があり、その停留所が岡山城と岡山後楽園の最寄り駅だということが判明した。当初は、翌日にそれらの見学に出掛ける心積もりであったが、何としても路面電車に乗車したくなった。それゆえ、岡山城見学だけなら比較的短い時間で済みそうだったことから、写真の車両に乗ることにした。

城と公園とを結ぶ無粋な橋

 城下電停といっても岡山城はすぐ近くにある訳ではなく、直線距離にして500mあった。おまけに駅は交差点のすぐ西側にあり、しかも幅広の道路の中央にあるため、信号を2つ越える必要があった。結局、徒歩では10分以上掛かった。

 信号待ちが面倒なので、地下に造られた通路を利用したが、これが結構な高低差があったため、日中にかなり歩いた体には結構、きついものに感じた。

 写真は、岡山城と後楽園との間を流れる「旭川」に架かる橋で、「月見橋」と名付けられている。この橋を使えば、岡山城の「北口」と後楽園の「南口」との行き来に便利なのだそうだが、何の風情も感じられない無粋な鉄橋であるのが残念だ。城も庭園も岡山市を代表する存在なのだから、両者を橋渡しする重要な建造物にはひと工夫もふた工夫も欲しいところだった。

黒いので烏城(うじょう)とも呼ばれる

 岡山城は「令和の大改修」で綺麗に復元され、昨年の11月にオープンしたばかりなので、建造物の多くは新品同様である。

 天守閣は黒塗りの下見板で覆われているため、写真から分かるとおり黒い姿をしている。このことから「烏城(うじょう)」という別名がある。これは姫路城が真っ白なので「白鷺城(はくろじょう)」と呼ばれていることと対になっている。

 宇喜多秀家が岡山という名の丘に秀吉の指導の下に1590年から天守閣の造営を始め、97年に完成したとされている。派手好みの秀吉が関わっているだけに金箔瓦が多く使われていることから「金烏城」とも呼ばれていたそうだ。

令和の大改修ですべてが綺麗になった

 私は旭川側から登城することになったため、写真の廊下門から城内に入った。廊下門の名は、藩主の御殿がある本段と政治をおこなうための中の段とを結ぶ藩主専用の廊下が櫓門の中にあったことが由来になっている。

この城も石垣に注目

 城内には見所がなかったわけではなかった。また、時間の関係で天守閣の中には入れなかった。もっとも、中には売店や博物館などがあるとのことだったので、とくに内部には興味を抱かなかったが。

 それに対し、写真の石垣は結構、見事なものだったのでしばし目を奪われた。この石垣がある側のすぐ横には旭川が流れている。このため守りがやや手薄になることから高い石垣を築いたのだと思われる。資料によれば、高さは14.9mあるそうだ。

帰りも路面電車でホテル前に戻る

 石垣を見上げ続けていたために少々、首が痛くなってきた。辺りも次第に暗くなってきたことからホテルに戻ることにした。もちろん、帰りも路面電車を利用した。運賃は120円だった。

 写真は横断歩道上から岡山駅前電停に入る電車を撮影したものである。後ろ側には岡山駅の姿が見えている。

 岡山城そのものにはさほど興味を抱けなかったが、路面電車に乗車できたことで満足度は決して低くはなかった。

◎岡山後楽園

日本三名園のひとつだが……

 翌日はまず、岡山後楽園に向かった。その後は吉備路に向かう予定だったので、路面電車ではなく車で移動した。

 後楽園は日本三名園のひとつに挙げられている。あとの二つは、金沢の兼六園と水戸の偕楽園である。さらに、この三名園を上回る庭園として高松の栗林公園が挙げられることもある。

 岡山後楽園に入るのは今回が初めて。これにより、上記の四名園にはすべて訪れたことになった。それぞれの庭園にはそれなりの趣があるが、私の好みで順位を付けるとすれば、栗林公園兼六園、後楽園、偕楽園の順番となる。もっとも、これは印象度の高い順番であって、死ぬまでにもう一度訪れてみたいかと聞かれれば、すべて否と答えるだろう。

 いずれの庭園も広さがあるので散策にはもってこいの場所ではあるが、庭園としての魅力はもっと小規模の場所の方が上回っている。大きな敷地で大きさを誇るより、小さな敷地で大宇宙を想像させることにより価値があると思えるからだ。もっとも、駄作も相当数あるのは事実だが。

一番の見所は「唯心山」か?

 庭園の中心に写真の唯心山(ゆいしんざん)がある。ここにはツツジやサツキ、それに石が適度に配置されている。ツツジの開花期が近かったこともあって、それなりの美しさを披露していた。

池を見ると魚を探す

 沢の池をはじめとして池も多く配置されている。ただしそれほど興趣が沸くものではなかったので、私は魚を探すことに専心してしまった。

山はツツジの名所

 唯心山に上った。山の上からは庭園の大半が展望できる。こうしてみると、庭内にはそれなりの変化があって、私のような素人には決して分からない良さを有しているのだろうか。所詮、私のようなサルには人間の造形を理解するのは困難なことらしい。

やはり後楽園はこの景観が一番かも

 後楽園を離れる前に、今一度、唯心山を眺めた。この角度から眺めると、その背後には岡山城のやや派手な姿も目に入ってくる。借景である岡山城もこの庭の引き立て役になっている。

 この部分だけを上手にまとめて造形してくれたならば、私はもう少し、この地を気に入ったかもしれない。

 133000平米もの広さは、権威を覚えてしまうので私には不要だ。もっとも、それはサルとしての私の感想にすぎないが。