◎松陰神社を巡って
私が萩を訪れる最大の理由は「松陰神社」に出掛けることだ。時間が無くて萩城や萩城下町を歩くことは省略しても、この松陰神社だけは必ず立ち寄る。もっとも、ここでも参拝はしないのだが。
松陰先生(1830~59年)と私とは価値観がまったく異なる。正反対であるといっても過言ではない。共通点があるとすれば、陽明学左派の「李卓吾」の思想に共感したこと、短期間ではあるが「教育者」であったことか。しかし、松陰先生は優れた人材を育てたが、私はほぼ誰にも影響を与えていない点は、やはり正反対の存在だと言えるだろう。
それでも松陰先生を尊崇するのは、その生き様にある種の”憧れ”をずっと抱き続けてきたことにあるのかもしれない。そのことについては、本ブログの第9回で東急世田谷線に乗って「松陰神社」に訪れた際に述べているので、ここではとくに触れない。
松下村塾跡の北側には新たに「学びの道」が整備されていた。碑にあるように、「学は人たる所以を学ぶなり」とあるが、この松陰先生の言葉が現代の政治家に伝わっているとはとても思えない。
明治維新以降現在に至るまで、山口県は数多くの政治家を輩出し、しかも要職につくものが多いものの、松陰先生の教えを忠実に実践した人物が登場した形跡はほとんどない。こうした反省もあって「松陰塾」が生まれたのだとすれば慶賀の至りだが、はたして現実はどうだろうか?
松下村塾は松陰先生の叔父である玉木文之進が始めた私塾。先生は5歳のときから玉木の英才教育(スパルタ教育)を受け、9歳のときに藩校の明倫館の兵学師範になり、11歳のときは藩主の毛利敬親に『武教全書』の進講をおこなうなど、早熟の天才であった。
ただ彼は勉学だけに勤しんだ人物ではなく「行動の人」でもあった。1850年には平戸藩に遊学、さらに江戸に出て山鹿素水、佐久間象山に学んだ。1852年には交流のあった宮部鼎蔵と東北旅行を計画するが、通行手形の発行が間に合わなかったため無許可で旅に出た。これは脱藩行為であったことから帰国後、士籍剝奪、世禄没収の処分を受けた。
1854年にペリーが下田に再来航すると、彼は金子重之輔とともに下田に出掛け、小舟を盗んで米船への乗艦を試みた。これは第9回のところでも触れているが、アメリカに渡航するという説とペリーを暗殺するという説があり、私は後者を支持している。この行為によって松陰先生は野山獄に幽囚された。
55年に出獄し、実家の杉家に幽閉されるが、そこで松陰先生は講義を再開し、57年に松下村塾で本格的に講義をおこなった。が、58年に日米修好通商条約が締結されるとこれに激怒し、倒幕論を展開するようになった。
この過激な思想が幕府から睨まれたために長州藩は先生を再び、野山獄に幽閉した。が、翌59年の「安政の大獄」によって処刑された。
身はたとひ 武蔵野の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
これが先生の辞世の歌である。
塾の講義室は八畳一間とかなり狭い。ここで高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、入江九一、山縣有朋などが学んだのかと思うと感慨は一入である。
なお、講義室はこの八畳の間のほかに十畳半の間も増築されている。総床面積は45.5平米というから、現在の2DKの安手の賃貸マンションほどの広さである。
参拝はしないものの、本殿を覗くと丁度、二人の巫女が手に鈴をもって奉納の舞(巫女舞、鈴舞)の練習をおこなっていた。まだ見習いなのか少しぎこちない動きをしていたが、こうした姿はとても美しいと思えた。
境内には松陰先生の、短いながら激しい生涯を20シーン、70数体の等身大?の蝋人形で再現?している。蝋人形はなかなかリアリティを感じるが、当時の写真などは存在しないので、考えてみればやりすぎの感はあった。が、先生を敬愛してやまない人々が想像力と創造力を駆使して作成したものだけに、吉田松陰という存在に関心があるが実際のところはよく知らないという人にはお勧めできるかも。ナレーションも分かりやすい。なお、入場料は500円とまあ妥当。
◎笠山~世界一低い(小さい)火山!?
松陰神社を離れ、私は国道191号線に出て山陰海岸を須佐まで東進することにした。写真は萩市街のほど近い場所にある「世界一低い(小さい)火山」と称されている笠山を望んだものだ。
もっとも、笠山の姿は萩城跡のすぐ横にある菊が浜からよく見えた(この浜にあるホテルに宿泊した)のだが、山全体の写真を撮り忘れ、かつ翌日に向かう途中でも撮影しなかった。そのため、笠山を離れた東側の海岸線からあわてて撮ったことから、山の南半分が険しい海岸線によって隠れてしまっている。
この山は名は体を表すのごとく、笠(市女笠)のような形をしているために左右対称なので姿形は容易に想像できると思う。
笠山は「阿武火山群」に属し安山岩質の単成火山である。約11400年前の噴火で厚い溶岩流ができ、8800年前の小噴火で中央にスコリア丘(噴石丘)ができたものである。そのため、溶岩流部分が笠の縁、スコリア丘部分が笠の頭部のように見えることから笠山と名付けられた。
スコリア丘という言葉は馴染みが薄いが、噴火の際に出る岩滓からなる丘(山)のことで、関東に住む人にはお馴染みの、東伊豆(伊東市)にある大室山(標高580m)を思い浮かべてもらうと分かりやすい。
阿武火山群には40もの単成火山があるが、玄武岩、安山岩、デイサイトからなるものがあることから姿形はそれぞれ異なる。なお、この火山群は2003年に活火山に指定された。
笠山の標高は112m。世界で一番低い火山との表記もあるが、火山の定義はいろいろあることから、現在ではこの言葉はあまり使われていないようだ。
写真にあるように、山頂一帯は「園地」として整備され、北麓にある野生のヤブツバキは25000本もあり、開花期には鑑賞に訪れる人が多いらしい。
ヤブツバキや国の天然記念物に指定されている自生のコウライタチバナ(現在は見学禁止中)の姿を見に行くのは大変だが、写真の噴火口は頂上のすぐ近くにある(当たり前だが)ので見物は容易だ。直径30m、深さ30mのサイズとのこと。
頂上には綺麗な展望台が整備されており、その3階からの眺めは一見の価値がある。何しろ、萩沖には阿武火山群の火山が数多く海から顔をのぞかせているため、いろいろな形をした島の姿を眺めることができる。
展望室には大きな写真とともに島の名前が記されているので島名はすぐに分かる。大きいほうは大島(人口586人)で小さいほうは櫃島(ひつしま、人口2人)だ。なお、人口は2023年4月1日現在のもの。
展望台からは指月山もよく見える。この山は阿武火山群には属さず、約1億年前にマグマだまりが冷え固まってできた花崗岩質の岩の塊りが浸食と風化によって山の形になったものと考えられている。
◎明神池をめぐる
本土と笠山との間にあるのが明神池。砂州が伸びて笠山が陸繋化した際に埋め残されたことで池ができた。池は溶岩塊の隙間から海水が入り込んでくる汽水湖である。地元の漁師が大漁を祈願してこの池にマダイ、イシダイ、クロダイ、ボラ、スズキなどを放流しているので魚影はかなり濃い。また、訪れる人が餌を与えているので、魚はよく人に懐いている。さらに、そのエサを狙ってトンビがやってくるので、そのことを知っている人はエサをあえて高く撒いて、トンビと魚との共演を楽しんでいる。
私はエサを与えるより、どんな魚が浮いてくるのか興味があったことから、エサを撒いている人を見つけるとその人の近くに寄って魚の種類を数えてみた。上記の魚のほか、クサフグやエイの姿を見つけることができた。
池の隣には厳島神社があった。萩の2代目藩主の毛利綱広が、元就が信仰していた安芸の厳島明神を勧請して分祀したものである。
神社の奥や笠山に至る遊歩道の脇には写真のような溶岩塊を積み上げたような場所があり、その隙間からとても涼しい風が吹き出していた。こうした場所は笠山には数多く見られるそうだ。
この風穴は、空気が冷たい冬には岩塊の隙間の奥にある広めの空間に冷気が入り込み、外界が暖かくなると中に溜まった空気が外に排出されるため、涼しい風が岩の隙間から噴き出てくる。天然のクーラーで、概ね15度ぐらいの風が出てくるので、夏場ならかなり冷たく感じるだろう。
◎険しい海岸線と惣郷川橋梁~橋は一見の価値あり
笠山・明神池を離れ、国道191号線を北北東に進んだ。海岸線がかなり変化に富んでいるために、ときには山の中を走り、ときには海岸線スレスレを走る。結構、海からの風が強くなってきているため、海がやや濁っているのが残念だが、波静かな時は澄んだコバルトブルーの世界と、その上に浮かぶ小島たちのコントラストが、心を芯から洗ってくれると思わせる山陰の世界がある。
写真にある姫島は、花崗岩からなり標高は91.6mある。「姫島樹林」と呼ばれ、海面からは3つの樹林帯にはっきりと分かれているそうだ。下位にはハマビワ、ヒサカキ、中位にはクロマツ、上位にはスダジイやホソバカナワラビがぞれぞれ群生しているとのこと。
宇田郷を過ぎると正面にはそれなりの高さを持った山々が海岸線にせり出しているため、山陰本線はトンネルでそれを抜け、国道は谷間を進みつつトンネルも利用しながら、須佐の町へと進んで行く。
写真に見える惣郷(そうごう)集落と尾無港に向かう道(県道343号線)があり、宇田郷を過ぎたあたりで、その道は国道と分かれる。県道は山中をうねうねと曲がりながら進んで須佐の町にたどり着くのだが、その途中、といってもそう遠くない場所にマニアにはよく知られた美しい橋梁があるというので、私は国道を離れて県道を進んでみた。
案の定、道は車のすれ違いが困難なほど狭い場所があったが、写真の場所からは道幅が広く取られていた。眼前にある惣郷川橋梁を眺めるためのスペースが取られていたのである。橋の向こう側には結構広めの駐車スペースも確保されていた。
この橋梁は、山陰本線の宇田郷駅から須佐駅の間にあり、白須川の上に架かる鉄筋コンクリート・ラーメンスラブ式の鉄道橋で、1932年に完成した。ちなみに、この橋が完成したことで山陰本線は全線が開通したとのことだ。
長さは189m、高さは11.6m。電化されていない区間なので、とても簡素な造りであることが素敵だ。この橋に並びたてるのは、本ブログの第75回で紹介した京都丹後鉄道の由良川橋梁ぐらいではないかと思われた。第76回で紹介した余部橋梁も、コンクリート橋になる前の姿であれば、これらと同等の美しさを有していたのだが。
こうして3つの橋梁の名を挙げてみると、すべて山陰地方にあるということに驚かされる。美しい海を有する山陰の海岸線には簡素な橋が良く似合うのだろう。
何もこれは、太宰が書いた「富士には月見草が良く似合う」という皮肉を込めた表現では決してない。
橋を列車が通る姿を見てみたかったが、時刻表を調べるとあと2時間以上は待つ必要があった。何しろこの区間の山陰本線は、一日8往復しかないのだ。
また、山陰海岸には夕日の美しい名所が数多くあるが、この橋と列車と夕日とを画面に入れることのできるのは1.5往復しか選択肢はない。もっとも、曇りや雨の日ではお話にならないが。
ともあれ、想像していたよりもはるかに素敵だった橋に触れることができたことから十分に満足した私は、県道を宇田郷まで戻って国道に移り、次の目的地である須佐を目指した。
◎須佐ホルンフェルスを見に行く
惣郷川橋梁を離れ、この日の本命場所としていた須佐に向かって国道191号線を進んだ。須佐は漁業が盛んでとくにケンサキイカの水揚げが多いことでよく知られており、地域ブランドとして「須佐男命(すさみこと)いか」の名で売り出しているとのことだ。
須佐の地名自体、「須佐之男命」の伝説にちなんでいる。スサノオが航海の途中で自分の位置が分からなくなったところ、船中にあった磁石が須佐高山の磁石石の方角を指したことで無事、入江に入ることができた。以来、スサノオはここを拠点として朝鮮半島と往来をしていたそうだ。こうした伝説から「須佐」という地名が付けられたという。実際、高山には磁石石があり、山頂付近はかなり強い磁気を帯びているが、その理由はまだ解明されていないそうだ。
もっとも、私が須佐を目指したのはイカを食べることでも高山の磁石石と対面することでもなく、「須佐ホルンフェルス」を見物するためであった。
ホルンフェルスとは「ホルン=角」+「フェルス=岩石」で、角のように尖った岩石のことである。
須佐にあるホルンフェルスは、マグマの熱による変成によって生まれた接触変成岩を指し、写真に見られるように白と黒の地層がその特徴を表わしている。
1500万年前に須佐層群に高温のマグマが貫入し、その熱作用によって泥岩と砂岩の互層からなる地層が変成岩に変化したものである。泥岩層の泥質ホルンフェルスは黒雲母が入り込んでいるため黒く、砂岩層の砂質ホルンフェルスは石英が入り込んでいるために白く変色している。
なお、熱編成によって地層は硬くなっているため節理が生じ、それによって写真のように浸食作用によって多くの断面を生じさせている。確かに、その断面は角のように尖っている。
写真から分かるとおり、ここは海岸線近くまで降りることができる。が、この日は波がかなり高いために岩は濡れている部分が多い。もしここで滑ったりしたら大怪我は必至である。
私は人一倍、臆病な点があり、恐ろしくてとても下まで降りることができなかった。そのため、350ミリのレンズでホルンフェルスの姿を確認した次第である。相当に風化が進んでしまっているものの、たしかに白黒の模様を見て取ることができた。
断崖の高さは40mで、ホルンフェルス部分だけでも12mの高さがある。上から見下ろすのは高所恐怖症なので恐ろしいし、下まで降りるのも滑りそうで恐ろしい。
須佐に来た甲斐は十分にあった。山陰の海岸とはここでお別れして、私は中国山地内にある津和野の町を目指したのだった。
萩と津和野は西山陰では代表的な観光地ではあるが、私は津和野にはきちんと立ち寄ったことがなく、一度だけほぼ素通り状態で町並みに触れたことがあるだけだった。萩は松陰先生の活動の場であったのに対し、津和野は森鴎外や西周の出生地に過ぎないと考えていたからである。わざわざ津和野に出掛けるよりは萩からそう遠くない秋吉台を巡ったほうが興味深いと思っていた。
が今回、津和野に宿泊してみて今までの考えが浅はかであったことが実感させられた。萩の城下町は良く整っているけれど、いかにも幕末・維新の偉人たちを輩出しましたという点がやや鼻に付くのに対し、津和野は商家の家並みが美しいし、何よりも堀にはコイがたくさん泳いでいることに好感が持てた。
街歩きは後で触れることにして、まずは津和野が生んだ二人の傑物の旧宅を訪れてみた。
森鴎外(1862~1922)は津和野藩の典医の嫡男として生まれた。早熟の秀才として藩校の「養老館」で学び、10歳の時に上京した。彼は軍医として文学者としてともに頂点を極めるほどの活動をおこなった。まるで二刀流の大谷翔平のような活躍ぶりだった。活動の場は津和野とは無関係な場所だっただけに、この地には写真の旧宅と下で触れる記念館、それに藩校の養老館が鴎外を偲ぶのに適した存在である。
旧宅はよく整えられ、とりわけ庭が素敵だった。いろいろな植物が植えられ、しかもそれぞれに名札が付けられていた。鴎外の家というより、牧野富太郎の家といった感がなくはなかった。
生家の隣には相当に立派な記念館があった。外観だけでなく、内部も美術館のような意匠が施されていた。幼い頃の鴎外の暮らしぶりや勉強ぶりがよく分かるような資料が多く残されていた。
そのひとつに、写真にある藩校時代の資料で、彼はここで四書五経を徹底的に学んだようである。10歳で上京し、11歳で東京医学校(現在の東大医学部)の予科に入学、15歳で本科、19歳で医学部を優秀な成績で卒業した。その下地が、幼い頃の徹底した基礎学習にあったと十分に考えられる。
私が本格的に読書を始めたのは20歳を過ぎてからで、まったく無知だったことを自覚したことからまずは基礎知識をを身に付けるために岩波新書を読み込んだ。一方、息抜きのために夏目漱石の小説を読んだが、その「冗長性」に嫌気がさしたことから鴎外派に移行したという記憶がある。
もっとも、鴎外に関して高く評価しているのはその作品群ではなく、薄幸の樋口一葉を援助したことだが。
あり余るほどの資料が記念館に展示されており、私はいつになく丹念にそれらを見て回ったのだが、私がここに滞在していたとき、見学者は私以外に誰もいなかったことに驚かされた。
鴎外記念館にほど近い場所に写真の西周(1829~97)の旧宅があった。西は鴎外とは姻戚関係にある。鴎外と同じく藩の典医の息子で、養老館で漢学や蘭学を学んだ。洋学に専念するために脱藩して江戸に出て、中浜万次郎に英語を学んだ。さらに津田真道の知遇を得て、哲学など西欧の学問を研究するようになり、オランダに留学した。
明治六年(1874)には福沢諭吉、森有礼などとともに明六社を結成し、彼はおもに哲学研究を進めた。哲学、理性、概念、命題、意識などの哲学用語の多くは西周の造語である。
私は西周の存在は小学生の時からよく知っていた。といっても哲学に興味があったからではなく、記念切手を蒐集していたからだ。1952年から発行された第一次文化人シリーズの18人の中に西周が含まれていた。その中では知名度が圧倒的に低いために彼の切手は高値で売買されていたのである。浮世絵シリーズの「月に雁」と並んで、集めたかった切手の筆頭だった。
子供の頃は「哲学」と聞いてもそれがどんなものなのかはまったく分からなかった。というより、「学」と聞いただけでも頭が痛くなった。なので、「てつがく」は鉄道のの学問ぐらいしか思い浮かばなかった。
西周は幕府の命令で津田真道、榎本武揚とともにオランダに留学し、カント哲学を学んだ。本ブログの第32回の「普通の府中市(2)」の最後に記したように、小学生時代、私は哲学者のカントの存在はまったく知らなかったけれど、鉄道用語の「カント」なら知っていた。まったく関係ないところで、私は西周と繋がっていたのである。
こうして西周の旧宅を訪ねた折り、私は切手の西周と、鉄路のカントのことを想い描いていたのである。
西周は「人世三宝説」を主張した。その三宝は「健康、知識、富」だとのこと。哲学用語を生み出した人物は案外、俗物だったのである。哲学者や哲学研究者の大半がそうであるがごとくに。
◎津和野・太皷谷稲成神社~千本鳥居が人気
津和野市街の南南西の山中にあるのが太皷谷稲成神社。日本五大稲荷のひとつだとされているが、この五大には諸説ある。京都の「伏見」は総本宮なので当然入るし、茨城の「笠間」や愛知の「豊川」も当確に近い。あとはいろいろありそうだが調べてみると佐賀の「祐徳」が入っていることが多いようなので、とりあえずここではこれらに「太皷谷」を加えた五社が相当すると考えておきたい。
島根県にある寺社では出雲大社の次に参拝者が多いそうなので、あながち五大稲荷に該当するというのも不思議ではないかもしれない。実際、森鴎外記念館の見学者は私ひとりだったが、ここでは結構な数の参拝者がいて、とくに若い人の姿が目立った。これには社殿の美しさや津和野の町並みを一望できるという環境の良さも貢献しているのかも。
ここでの名物は何と言っても「千本鳥居」で、263段の階段に約千本の赤い鳥居がぎっしり並んでいる。写真は境内側から写したものなので、ここが参道の終着点となる。
千本鳥居はそのまま参道になっており、麓から境内に向かって伸びている。写真はその鳥居の下段部分ではあるが、実際にはもう少し下まで続いていた。が、この日は結構歩いたこともあって、参道入口まで行くことは断念した。
この神社が創建されたのは1773年、津和野藩の第七代藩主の亀井矩貞(のりさだ)が伏見稲荷から勧請したもので、廃藩までは藩主だけが参拝できたそうだ。時を知らせる太鼓の音が谷に鳴り響いたことから「太皷谷」と呼ばれたこの地は、津和野(三本木)城の鬼門にあたる位置にある。
写真の本殿・拝殿は1969年に建てられたもので、それまでは境内の北側にある建物が社殿だった。現在でもその建物は残っていて「元宮」と名付けられている。
前回に「元乃隅神社」を紹介した際に、そこはかつて「元乃隅稲成神社」と名付けられており、通常の「稲荷」ではなく「稲成」と表記されていたということについて触れているが、その淵源はここの表記にあったのかもしれない。
ここの稲成神社は宇迦之御魂大神=稲成大神を祀っているが、ここではとくに「願望成就の神」として崇敬されている。確かに、商売繁盛も家内安全も「願望」のひとつには相違ない。ここが「稲成」と表記するようになったのは以下の伝説に由来するそうだ。
城の蔵番をしていた者が鍵をなくしてしまった。殿様にその旨を告げると七日間だけ待ってやると言われた。そこで蔵番は殿様しか参拝できないこの稲荷に七日間願を掛けてお参りしたところ、丁度七日目に鍵が発見できた。殿様がどうやって見つけたのかと問うと、蔵番は正直に話し、許しが得られた。殿様は「それにしても願望成就の御神威が高いお稲荷様だ」と感服して、稲荷を稲成と改めたとのこと。
お稲荷さんといえばキツネが眷属(けんぞく、神の使い)で、鳥居は赤く、キツネは白い(白狐=びゃっこ)というのがお定まりである。キツネも神と同格でキツネの霊は「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」というらしい。キツネが白いのは神と同じく姿が見えないということを表しているらしい。
写真のキツネの像は白くなかったが、これは人の目に敢えて触れられるように灰色をしているのであって、実際の姿(白狐)は人の目には見えないのだ。
この稲成では参拝のときには油揚げとローソクを奉納することになっており、実際、それらは売られていた。元来、眷属としてのキツネには、米を食うネズミを油で揚げたものを供えていたが、仏教伝来以降、殺生は避けられるようになったため、ネズミではなく豆腐に変えたという話がある。本当だろうか?トンビにさらわれないように変えたのではなかろうか?
◎津和野の通りを歩く
津和野は「山陰の小京都」の代表格として、とくに重要伝統的建物群保存地区に整備された町並みが人気がある。事実、私も散策してみたが、各地に残るこうした町並み保存地区の中でも際立った美しさを感じることができた。
町並みは大きく商家町と武家町とに分けられ、北側の商家町は大町通り、南側の武家町は殿町通りと区別されている。かつてはこの通りの間に惣門があったそうだが、現在はその姿は残されていない。
本町通りに並ぶ商家はいずれもひとつひとつの建物が大きいことが特徴的だ。酒造店や呉服店が目立つが、これは津和野が山陰と山陽とを結ぶ要所のひとつであったことも関係しているかもしれない。
一方の殿町通りは、なまこ壁や白壁が特徴的で、さらに掘割には豊かな水が流れ、その中に大きなコイが泳いでいる。
写真から分かると思うが、コイは50から80センチサイズのものが多く、しかも良く肥え太っている。これは、町並みにはコイのエサが売られており、観光客がこぞってエサを与えるからだろう。
コイは満腹感を覚えることが少ないようで、エサを与えればいくらでも食べてしまい、肥満化しすぎて死んでしまうことがよくある。いささか旧聞に属するが、前川清と藤圭子が離婚した原因は、前川が大事に育てていたコイを藤が餌を与えすぎて殺してしまったということらしい。もちろん、真偽の程は確かではないが。
離婚の後、ミュージシャンと再婚した藤圭子の子供が宇多田ヒカルだ。コイは儚いと同時に新たな歴史を生むのである。
私は年齢マイナス十年ぐらいの長さの魚の飼育の歴史がある。それゆえ、エサを与えすぎて魚を殺すという行為はほとんどなくなった。それゆえ、いささか肥満状態の津和野のコイには餌を与えない。
こうした掘割は閉鎖空間だし、観光名物のひとつなので、コイを放すことは決して悪いことではない。が、自然が良く残された池や沼にコイを放すことは生態系の破壊につながる。コイは悪食なので、泥の中や水中に住む小生物をほとんど食いつぶしてしまうため、生物の多様性が失われてしまうのだ。それゆえ、自然公園の中にある池には「コイを放さないで下さい」という注意書きを近年、よく見掛けるようになった。実に、コイには危険が付き物なのである。
それはともかく、掘割の一部には花菖蒲が数多く植えられている。6月の開花期の殿町通りは一層、華やいだ風景が展開されるはずだ。
殿町通りには写真の「養老館」があった。1786年、第8代藩主の亀井矩賢(のりかた)の時代に始まった藩校で、先に触れたように森鴎外や西周もここで学んでいる。現在は武術棟(槍術と剣術)と書物を保管した土蔵のみが残っている。
津和野には忘れてはならない負の歴史がある。江戸幕府は1867年に長崎で4回目のキリシタン弾圧をおこなった。これは維新政府にも引き継がれ、木戸孝允を中心とした政府の決定で信者は津和野、萩、福山に送られた。これを「浦上四番崩れ」と歴史上では呼ばれている。最も過酷な仕打ちをおこなったのが津和野で、その拷問は陰惨を極めたという。
不平等条約改正のを進める過程で政府は信教の自由を認めるようになった。津和野ではそうした歴史を忘却しないために1931年、写真のカトリック教会が建造された。ゴシック様式の建物ではあるが、内部は畳敷きになっている。
1873年に釈放された信者が中心となって、長崎に浦上天主堂が造られた。が、1945年、アメリカが投下した原爆によって天主堂は破壊され、多くの信者が犠牲となった。維新政府に信仰の自由を求めたアメリカは、その象徴であった浦上天主堂に原爆を投下したのである。
津和野川沿いには、写真の「鷺舞の像」が置かれていた。鷺舞神事は弥栄神社に伝わる古典芸能で、16世紀に山口の祇園社から移し入れられたそうだ。元々は京都の八坂神社で行われていたものだ。
津和野では毎年、7月20日と27日に鷺舞神事が行われ、2羽の鷺装束の子供が舞歩く。頭には高さ85センチの鷺の頭部を被り、桧で造った39枚の羽根を背負って歩くというのだからかなりの重労働である。
写真の鷺舞の像はサギの色をしていないが、実際に祭りで使用されるものは白色に塗られている。
現在では他の地域でも行われているようだが規模は小さく、鷺舞といえば今では「本家」となり国の重要無形民俗文化財に指定された津和野の行事を指し示す。
まだまだ津和野には見所がいくつかあった。山陰には私がまだ触れていない名所が数多くあるので、機会があれば再び山陰を訪れ、その際には見逃した津和野の名所も訪ねてみたいと思った次第である。