◎長府庭園を散策
山口市街からは山陽道を使って小月ICまで行き、そこから国道2号線で下関市街へと向かった。当初は海岸線に出て宇部や小野田を通ることも考えたが、やはりそこも工業地帯なので今ひとつ興趣が湧かないこともあり、結局、下関市域に入ってから国道2号線を市街へ向けて進むことにした。
ということで、最初の訪問地は写真の「長府庭園」となった。ここかかつて長府毛利藩家老格の西運長(にしゆきなが)の屋敷があった場所で、広さはなんと31000平米もある。もっとも、そのまま屋敷跡として今日に至っている訳ではなく、大正時代には個人の所有地、戦後は進駐ニュージーランド軍司令官の宿舎などに使われ、1990年に下関市が買い上げて庭園として整備し、93年に長府庭園として開園したものである。
園内には樹木が多く、私が訪れた際にはツツジやフジの花が満開期を迎えていた。敷地内には庭、滝、草花、蔵、屋敷、書院、茶屋などが整備されており、可能な限りかつての屋敷の姿を再現しているように思われた。
池泉回遊式庭園として庭はよく整備されているものの、インパクトはやや弱く、ここからの景色は素晴らしいと思わせるような場所は見当たらなかった。それゆえ、点としてではなく面として鑑賞するような庭であった。
なお、池の一部には蓮池があり、孫文蓮が植えられているそうだ。
庭園の背後には高台があることから、湧き水が生んだと思える、写真のような谷川の流れがあった。個人的にはこの場所が一番、風情を感じさせられた。
全体として、確かに良い庭ではあったものの、盛りだくさんの施設があるためにひとつひとつの印象はどうしても薄くなってしまう。この点が残念であった。
◎火の山公園からの眺め
長府から国道は2号線と9号線とに分かれる。2号線は九州を目指すために少し山の中に入り、そこから関門海峡に突き進んでゆく。一方、9号線は海岸線を通って下関市街方向に進んでゆく。九州は指呼の間に存在するが、一旦、その地に入ってしまうと終わりが見えなくなる。今回は山陽の旅ということで下関を終点と考えているので、私は9号線を選んだのであった。
そのまま進めば「壇之浦」に至るが、私はその手前の丁字路(みもすそ川交差点)を右に曲がって「火の山」を目指した。当初はロープウェイで山頂に至る予定ではあったが、山頂までは「風波のクロスロード」という道が整備され、おまけに山頂の駐車場は無料ということもあったことから、ロープウェイは使わずにそのまま車で進んだ。
標高268mの火の山には「火の山公園」が整備されていて、周囲が良く見渡せる。上の写真は下関市街方向を眺めたもので、下関のシンボル的存在である「海峡ゆめタワー」や、下関市の西端にある「彦島」、それに北九州市の山並みまで見通せる。空気がやや霞んでいること、いささか逆光気味であることから「はっきりくっきり」とまではいかないが、まずまずの景観が楽しめた。
今度は日本海側に目を向けた。沖に浮かんでいるのは六連島と馬島であろうか。空気さえ澄んでいれば対馬だって見えるだろう。
今度は関門海峡に目を向けた。関門自動車道の関門橋が良く見える。その手前には国道2号線の関門トンネルがあるはずだが、もちろん海底にあるために視認できない。
関門橋の先にある港は門司港。一段と高いのは超高層マンションの「門司港レトロハイマート」。最上階(103m)は展望室になっているそうだ。さらに屋上にはヘリパッドがある。
関門海峡は日本三大急潮流に数えられるだけあって、山の上からでも潮の流れが良く見える。
”火の山”といっても火山という訳ではなく、かつてここに狼煙台が置かれていたことからその名がついた。1890年からは要塞(下関要塞)が造られ、1945年までここへは一般人は入山できなかったのである。
今も少しずつ戦争の影が忍び寄っているが、およそ百数十年前までは戦争は日常的で、幕末の戦争が終わると、今度は日清(1894)、日露(1904)、そして第一次世界大戦(1914)と、日本は10年ごとに戦争をおこなっていた。
現在ではロシアのウクライナ侵攻が大きく取沙汰されているが、かつて日本は、現在のロシアがおこなっている残虐非道よりもっと激しい侵略戦争を仕掛けていたのである。
こうした経緯から、火の山公園内には下関要塞の遺構が点々として残っている。関門海峡を要塞化するというのは、侵略の矛先が朝鮮、中国、ロシアだったからであろう。
◎壇の浦古戦場跡
火の山公園から下りて、今度は壇の浦古戦場址を訪ねた。もっとも、この戦いの主戦場は海上であったことから、写真の碑のある場所は戦いがあった場所というより、戦いを陸上から支援した場所ということになるだろう。
戦いは当初、潮上(最初は上り潮、つまり西から東に流れる潮。私が火の山から見たような流れ)にいた平氏が優勢であったものの、途中で下り潮に変わったために源氏側が潮上になったことで平氏が劣勢となって敗北したと言われている。
これは源平合戦とは全く関係がないことだが、磯釣りの場合は海上での戦とは反対に潮下が有利となる。理由は、潮下により多くのコマセが流れてくるからだ。それゆえ、磯釣りでは潮の見極めが何よりも重要なのである。こうしたことから、私は他人の何倍も、潮の流れに注視してしまうのだ。
写真は「御裳川」に架かる赤橋。壇の浦の戦い以前の名前は不詳だが、この合戦の後に命名されたという。これは安徳帝を抱いて入水した二位尼(平清盛の妻)が辞世の句として、
今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは
という和歌を残したということから、「みもすそ川」と、のちに名付けられた。なお、「みもすそ川」とは伊勢神宮を流れる五十鈴川の別名である。
現在では川の名前だけでなく、この広場がある場所周辺の地名にもなっている。つまり、ここの住所は「下関市みもすそ川町21-1」である。
壇の浦の戦いが生んだ悲劇でもっともよく知られているのは、安徳天皇(満6歳4か月)の入水であろう。平家の敗北が確定的になった折、二位尼に抱かれて入水した幼帝は崩御した。二位尼が抱いていた三種の神器のうち、宝剣は行方不明となったが、神璽(しんじ)と神鏡は源氏が探し出した。
同時に入水した安徳天皇の母親の徳子(とくし、のりこ)は救助され、京都の吉田の地に送られ、出家(建礼門院)して隠棲した。が、大地震のために吉田の地を離れ、大原の寂光院で余生を送り1214年頃に死没した。
これらの話は誰もが知っていることなので、これ以上は触れないが、写真にあるように、安徳帝が入水した場所近くの陸には慰霊碑が置かれている。
◎関門海峡
火の山から見下ろしても、こうして壇の浦の浜から眺めても、潮の速さはよく分かる。私が見ている間は上り潮(京・大阪方向に向かう流れ)だったが、これが一転、下り潮に変わるのだ。これは瀬戸内海の潮汐と外海の潮汐の時間差が生むものだが、日本三大急潮(鳴門、来島、関門)にいずれも瀬戸内海が関わっていることが興味深い。
壇の浦を中心として海岸側に整備された公園には、写真のような長州砲のレブリカが並んでいた。1863年、攘夷を主張する長州藩は馬関海峡(当時)に向けて砲台や軍艦を配備し、米、仏、英、蘭などの船を攻撃した。いわゆる下関戦争で、この大敗北の結果、長州藩は攘夷を断念し、海外の知識や技術を取り入れる方向に大転換した。
関門トンネルというと国道2号線と山陽本線の双方がある。新幹線もトンネルを使っているが、こちらは「新関門トンネル」と名付けられているので区別できる。また、高速自動車道は関門橋を使っているので、海底を通るトンネルは3本あることになる。
このうち、国道のトンネルは2段の構造になっており、上が自動車専用、下が人、自転車、原付の専用トンネルになっている。写真は、関門トンネルの下段にある「人道」と名付けられたトンネルの下関側の出入口で、エレベーターを使って深さ55mまで降りてトンネルに達する。
写真のようにエレベーターが設置されているが中は意外に狭い。歩行者には無関係だが、自転車、原付は20円の料金が必要で、写真にある料金箱に入れる。利用時間は6から22時とのこと。
トンネルの長さは780m、自転車や原付は手押しで進む。常時、CCTVでモニターされているため、自転車に乗ったりするとすぐに警告されるそうだ。
なお、関門トンネルは山口県と福岡県をつないでいるので、途中に県境があり、道路上に県境が記されていることでもよく知られている。
◎赤間神宮
次の目的地は特に決めておらず、とりあえずは下関市街に向かうために国道9号線を西に進んだ。途中に「赤間神宮」や「唐戸市場」があることは知っていたが、前者はともかく、後者には人が溢れかえっているだろうし、「ふく」にはほとんど興味を抱いてはいなかったこともあり、ただ通り過ぎるだけの心づもりでいた。
が、山側に見えた赤間神宮の赤い建物はともかく、海側にあった「碇」がやや気になったことから、唐戸市場入口付近で車をターンさせて少し戻り、神宮を見学することにした。ただ、駐車場は海側にあるため、神宮前を通り過ぎてから再度、車をターンする必要があった。
赤間神宮の前身は「阿弥陀寺」といい、9世紀に奈良大安寺の僧、行教が開山した浄土宗の寺だったとのこと。1191年に後鳥羽天皇が一角に「御影堂」を建ててからは「天皇社」とも呼ばれるようになったそうだ。ここでいう「天皇」は、もちろん壇の浦の戦いで崩御した「安徳帝」を指すのだろう。
1870年の「廃仏毀釈」によって阿弥陀寺は廃され、ここは赤間宮と称されるようになり、1940年には官幣大社として「赤間神宮」と称するようになった。
下から見上げると、赤い「水天門」をはじめとして色鮮やかな建物群が美しい姿を現しており、信仰心はまったくない私でも、立ち寄って良かったかもしれないとの思いが沸き上がった。
相変わらず参拝はまったくしないのだけれど、一応、大安殿ものぞいてみた。人影は疎らではあったが、私以外の人はきちんと参拝していた。とりわけ、若い人ほど礼儀作法をわきまえているように思えた。
これは赤間神宮に限ったことではなく、私の家の近くにある「大國魂神社」でも同様で、私はボーリング場からの帰り、随神門のすぐ前の参道を自転車に乗ったまま横切ってしまう(自転車からは下車してくださいとの注意書きがある)のだが、他の人はきちんと自転車から下り、とりわけ若者は一礼してから通り過ぎてゆく。
もっとも、祭りのときはその門のすぐ前に立ち並んでいる露店で大酒をくらい、門の周りで馬鹿騒ぎをしている老若男女も多いのだけれど。
神宮の建物群の西側に、写真の「安徳天皇阿弥陀寺陵」がある。立ち入り不可であって門扉はしっかり閉ざされている。
安徳天皇陵の北側に写真の「平家一門の墓」がある。壇の浦の戦いで戦死した平家一門の供養塔や石塚がある。敗北者たちはこうした淋しい境遇に置かれる。
平家一門の墓の隣には、写真の「芳一堂」が置かれている。私が赤間神宮に立ち寄ったのは「碇」に惹かれたからだが、このお堂があることも理由のひとつであった。
『耳なし芳一』の話はあまりにもよく知られているのでその内容は記すまでもない。ただ、その話の舞台が赤間ヶ関にある『阿弥陀寺』(現在の赤間神宮)であることはさほど認知されていないかと思い、ここに取り上げた次第である。
写真の芳一堂は1957年に建てられたもので、この中に芳一の木像(もちろん耳はない)が置かれている。なお、赤間神宮では毎年の7月15日の晩に芳一を弔う「耳なし芳一まつり」がおこなわれているそうだ。
写真の郵便ポストは赤間神宮の境内に置かれていた。色が青いのは海を表わし、上部には下関名物の「ふく」がある。極めて分かりやすい下関のポストであった。
国道9号線を挟んで、赤間神宮の参道は海にまで開かれている。その中央には「碇」が置かれている。これは1980年に「海峡守護」として置かれたものであるが、平家最後の大将であった「平知盛」(清盛の四男)が、壇の浦の戦いの敗北を認め、安徳天皇の入水とともに碇を身に付け海底に沈んだという逸話にも由来している。
歌舞伎では『碇知盛』、能では『碇潜(いかりかづき)』として有名な話のようであるが、歌舞伎にも能にも無知な私は、そんな物語があるということだけしか知らない。
知盛は清盛から「武蔵守」を命じられていた。武蔵野の地といえば源氏の荒くれ者が多かったはずなので、父親から武蔵守を任されていたということは、知盛自身が優れた武芸者であった証左でもあろう。
なお、この碇が置いてある海岸は、17世紀から10数回にわたって日本にやってきた朝鮮通信使が最初に上陸した場所でもある。この点から、赤間ヶ関が京・大坂に至る海の玄関口だったことが分かる。
下関でもっとも有名な観光地といえば唐戸市場らしい。下関のホテルの大浴場で出会った広島市から来たというオジサンも、翌日にはこの市場に立ち寄って海産物を大量に買い込むと息巻いていた。私が、写真の「ふくのフクロ競り」の像だけを見て、市場内には立ち寄らなかったし、翌日も行かないと言うと、相当な呆れ顔になって、「それでは何のために下関に来たのか」と問い詰めてきた。
ことほど左様に、中国地方の人にとって唐戸市場はもっとも重要な存在らしい。当然のごとく、「ふく」をメインに買い漁るのだろう。
ちなみに、ホテルの朝食バイキングでは「刺身」をはじめとして「ふく料理」がいろいろと出たので私も食したが、どれも私の口には合わなかった。どうやら、私には「ふく(福)」は縁遠いらしい。私にとってフグは「ふく」ではなく、磯釣りでの外道的存在でしかない。
◎老の山公園~本州最南西端に到達
「ふく」は食べないし、市場には寄らないし、「海峡ゆめタワー」には上らない。それでは何のために府中から1010キロもある下関にやって来たのかと言えば、それは下関が山陽道の終点だからであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
折角なので、下関市の最西端まで行くことにした。もっとも日本海に浮かぶ島までは行けないので、陸続きで車で行ける場所に限定した。
現在では彦島が下関市の、ということは本州の最南西端ということになっている。その名から分かるとおりかつては「島」であって源平合戦の際には平家側の最後の拠点になった場所である。
本州との間には「小瀬戸」という海峡が通っているが、次第に砂州が伸びて陸繋化直前にまでなったために人工的に埋め立てて本土と繋がった。が、小瀬戸は小型船舶の航行に便利ということで再び本土とは切り離され、現在では3本の道路が島を結んでいる。それゆえ、実態としては彦島は島なのだが、現実的には本土と一体化していることから、ここを本州の最南西端としても問題はないだろうと思える。
事実上、本土と一体化しているため、格別に特徴的なものは存在しない。つぶさに観察すれば島としての名残りがあるだろうが、私にとっては南西端に到達したということに意味を見出したので、とくに彦島見物はおこなわず、ただ海岸線を車で走っただけだった。
とはいえ、彦島にやってきた「証し」をひとつぐらいは残したいと考え、写真の「老の山公園」に立ち寄った。徘徊老人の旅に相応しい名前の公園である。
写真のようにツツジの花が見事だった。園内には約4万本のツツジが植えられており、私が訪ねたときにはほぼ満開状態だった。
本来なら、公園からは響灘か北九州方向を眺めるのが筋だろうが、後者はすでに火の山から眺めているし、前者はこれから日本海沿いを走ることになるため、それらは省略して下関市街を眺めた写真のみを掲載した。
右手に見えるタワーが、1996年に完成した下関のランドマークで、「海峡ゆめタワー」と命名されている。高さは153mで143m地点に展望室がある(らしい)。
少し見づらいが、関門橋も火の山も画面に収まっているので、いかにも下関の西端から市街方向を眺めたものだということが分かる。
一応、山陽道の徘徊はこの「老の山」で終了することにした。私の人生の老の山はピークに近づいているが、旅はまだまだ続く。なぜなら、帰らなければならないからだ。「家に帰り着くまでが旅だよ」と、校長先生が言っていたような……。
◎日本海側の海岸線を進む~しばらくは山陰の旅となる
山陽道の旅は下関で終了。でも家は東京の田舎にあるので帰らなければならない。山陽道から新名神、名神、新東名と高速道を使えば、休憩を入れても13時間ほどで帰れるのだが、そこまでする必然性はなかった。
そこで、帰路は日本海側や中国道などを使って東に進み、いつくか立ち寄ってみたい場所をセレクトし、数日掛けて帰ることにした。宿泊地は「萩」「津和野」「新見」「近江八幡」に決めた。始めはあと5泊する予定でいたが、何やら面倒な用事が入ったので4泊になった次第だった。
萩に立ち寄ることに変更はなかったが、錦帯橋近くの旅館のオバサンが薦めた「角島」を見学することにしたため、ルートを変更した。元来は長門市までは中国山地の中を走り渓谷や滝を見物する予定でいたが、国道191号線を日本海沿岸沿いに北上することになったのであった。
しばらくは砂浜が続く単調な景色が続いた。どうにか前方に岩場が見え始めたときに「下関フィッシングパーク」の看板が目に入った。小さな半島の一角にあるようなので、岩場見学も兼ねてその場所に立ち寄ってみることにした。やはり、釣り関係の施設には惹かれるものがある。
残念ながらその釣り施設は興趣が湧くものではなかったが、その先に浮かぶ3つの岩が私の心を魅了した。第92回で触れた「三ツ岩」も印象に残っていたが、ここの「三ツ岩」は規模が大きく、さらに変化に富んでいたのだ。
加茂(賀茂)島と名付けられたこの3つの岩は、「八重事代主」「大綿津見神」「弁財天」の3人?の神が祀られているそうだ。写真を拡大してみると、中央の岩の天辺には鳥居が建っている。冬の日本海は大荒れになるため、鳥居は何度も破損し、その都度建て替えられるそうだ。現在のものは昨年に新造したものである。
島は神域として地元の漁師に崇められているため、特別な場合を除けば立ち入ることも、ましてや石などを持ち帰ることは禁じられている。さらに、岩の樹木は枯れやすいことから、植林活動も行われている。
地元、吉見の漁師にとってこの島は、航行や漁の安全を見守ってくれる貴重な存在なのだそうだ。
吉見の地を離れ、再び国道を北上した。北側の海岸線はそれなりの険しさを示し始めていたことから、国道もほぼ並行して走る山陰本線も一旦は海岸線を離れて山間を進むようになっていた。
両者が離れ離れになる直前の海岸線に、写真の「二見夫婦岩」があった。やや上り坂になっていた道路の際にその岩はあったために見落としそうになったが、すぐ先の山側に駐車スペースがあり、やや大きめの「二見夫婦岩」の碑があったことから、対向車が来ないことを確認して、そのスペースに車をとめて夫婦岩なるものを見物することにした。
写真から分かるように、海岸線まで降りられる階段が造られていた。沖側にある男岩は高さ9m、陸側にある女岩は6mあり、その間を重さ100キロ、長さ27mの注連縄で結ばれている。なお、この注連縄は毎年、1月2日の朝に褌姿の男衆によって張り替えられるそうで、この行事は150年以上の歴史があるそうだ。
伊勢・二見ヶ浦の夫婦岩によく似ていることからその名が付けられたそうだ。本家の夫婦岩はがっかり度が高いが、こちらの夫婦岩は”よくぞ日本海の荒波に耐えた”という思いが胸を打つものがあるので一見の価値は十分にある。一方の伊勢は『赤福』で勝負するしかないかも。
男岩にはいくつもの鎖が巻かれていた。これは注連縄の張替えの際の命綱になるものだろう。また、離れ岩の天辺には可愛らしい鳥居が据えられていた。
この辺りの地質は、先に見た加茂岩同様に砂岩や泥岩、頁岩で出来ている。浸食や風化が激しいため、やや硬めの砂岩部分がこうして残存しているが、この形状から考えると、そう遠くない将来に崩れてしまう可能性は極めて大きい。実際、この辺りの海岸線は波食台が連続しているが、他の場所では大半が崩落してしまっているからだ。そうした点から考えると、この夫婦岩は”奇跡の夫婦岩”といっても決して過言ではないだろう。
◎角島に渡る~魅惑の角島大橋
錦帯橋の旅館のオバサンが推薦していた「角島」の前にやってきた。島を望むためには国道191号線から離れて県道275号線を北に進む必要があった。国道はこの辺りで進路を大きく曲がって東へとる。そのため、私は国道を何度か通っているにもかかわらず、角島の存在は知ってはいたが、その姿を見たことがなかったのだ。
角島を有名にしたのは、ひとえに写真にある大橋の存在であろう。1993年に工事が始まり2000年に完成したこの橋は、その特徴的な形状とコバルトブルーの海の上を走るということもあって瞬く間に大人気観光スポットとなった。
また、この姿に目を付けた自動車会社は、宣伝のためにこの橋を大いに利用した。レクサス、三菱、スズキ、日産が自社の車を走らせ、イメージアップにつなげようとした。もっとも、奇麗な橋によって車がその存在感をより際立たせることに成功したのか、橋の存在を人々に認知させるための補助役に留まったのかは不明だ。多分、後者の方であった蓋然性が高いと思うのだが。
私が訪れたときは曇り、波風高しという悪条件下ではあったが、それでも雅趣に富んだ橋の姿を十分に堪能することができた。錦帯橋のオバサンに感謝である。
橋の長さは1780m。県道276号線に属するので通行料は掛からない。橋の姿に触れただけでも十分に満足できたのだが、折角なので島に渡ることにした。本土側の「海士ヶ瀬公園」の駐車場は満車に近い状態だったが、大半の人は橋の姿に見惚れるだけで、渡る人は少なかった。
角島は4平方キロの小さい島で、西側の夢崎と東側の牧崎が牛の角のように響灘側に付き出ていることからこの名が付いたそうで、古くは『万葉集』にも登場するという。ワカメ、ウニ、グリーンピースが島の特産物らしい。
私は車で島内を巡ってみたが、橋の存在に触れた後では、他の島であれば十分に誇れる景観を有していても、どことなく平凡な姿に見えてしまった。
もっとも印象に残ったのは、老夫婦がワカメ漁(ウニ漁かも)をしている姿だった。かあちゃんが船を器用に操り、とうちゃんが海の幸を採集している。のどかな海人の姿に何かしらの郷愁を覚えた。二人にとって橋の誕生は生活をどのように変転させたのかは不明だが、少なくともこの姿を見る限り、当たり前の日常が続いているのだろうと思えた。こんな静かな日常こそ、人はもっと大切にしなければならないのだろう(お前がそれを言うか、という知人の声が聞こえてきそうだが)。
大橋の横に、写真の鳩島がある。この辺りには路側帯が設けられているため、車をとめることが可能だ。
写真から分かるとおり、柱状節理が露頭している玄武岩から成り立つ島だ。当初の計画によれば、この島に橋脚を造る構想もあったそうだ。確かに、火成岩は地盤がしっかりしているので橋脚を建てるには都合が良いはずだ。しかし、国定公園の第一種保護地区に指定されていることから計画は断念された。
この島をやや迂回するコースを橋が取ったことで、結果として橋の姿をより魅惑あるものにしている。島を避けた橋の緩やかな曲線が、見るものにとってはより素敵に思え、私のような岩場好きの人間にとっては、玄武岩の島の姿を間近で味わうことができるのだ。
橋のたもと近くには、写真のような面白い姿をした岩があった。右手の岩は犬の顔に、隣はネコに、さらにその隣は魚に見えた。岩を眺めるのは本当に楽しい。
◎元乃隅神社~赤い鳥居と賽銭箱が有名
角島を離れ、再び国道191号線に戻って東進した。次の目的地は角島と青海島との間にある向津具(むかつく)半島である。毬と遊んでいるネコが西を向いているような形(いかにも稚拙な表現)をしている半島で、そこには「千畳敷」「東後畑棚田」「元乃隅神社」「楊貴妃の里」といった観光スポットがある。このうち、楊貴妃の里は”いかにも”といった感があるし、前三者とはやや離れた位置にあるため、時間が許せば立ち寄ることにして、まずは千畳敷に向かった。
しかし、やや高い場所にあること、湿った海風が吹き付けていることから霧が発生し、一時は道路の白線さえ見えなくなってしまった。こうなると、展望が「売り」の千畳敷や棚田に出掛けても意味をなさないことから、元乃隅神社に向かうことにした。まったく、向津具半島は”むかつく半島”であった。
交通の便がかなり悪い場所にあるにもかかわらず、観光客の数はかなり多かった。幸い、端のほうに空きがあったためにすぐに駐車できたが、休日では1,2時間待ちは当たり前だそうだ。
アメリカのCNNが2015年に「日本でもっとも美しい場所31」を選んだ際に、この元乃隅稲荷神社(当時)も入っていることから分かるように、確かに極めて美しい景観が眼前に広がっていた。
なお、この神社は宗教法人とは関りがなく、あくまで個人所有の寺である。法人としての「特権」は有さない反面、神社名も建造物もやりたい放題なので、極めて見応えのある風景が展開可能なのだった。
1955年、地元の網元であった岡村氏が、枕元に現れた白狐に「吾を此の地に鎮祭せよ」と告げられたことから、氏は海岸に面した土地に稲成神社の建立を始めた。主祭神は「宇迦之御魂神」で、この神の使いがキツネだとのこと。
赤い鳥居は1987年から並べ始めた。一基25000円で奉納できるということで、10年で123基が建てられた。有名になるにしたがって希望者が増えたものの、岡村氏は123基の語呂が良いと考え、そこで打ち止めにした。
写真は海側から境内方向を眺めたものである。2018年までは「元乃隅稲成神社」と名付けられていた。実際、やや古い写真を参照すると、扁額には「元乃隅稲荷神社」とある。が、理由は不明なことながら、2019年に現在の名に改めた。神社が改名するときは神社本庁の許可が必要になるが、ここはあくまで私的な神社のため自由に名前を変えることができた。
なお、”いなり”は通常、稲荷と表記される。実際、全国に4万ほどある稲荷神社はほぼすべて”稲荷”で、例外は津和野町にある「太皷谷稲成神社」(のちに紹介)とここの2か所だけだそうだ。とはいえ、ここは稲成の名を取り去ってしまったことから、現在は例外はただひとつだけとなった。
境内は急峻な崖の上にある。この崖の下部は海食洞になっていて、強く高い波が打つ寄せるときは、潮が30mほどの高さにも吹き上がるそうだ。このことから「潮吹き岩」と名付けられているそうだが、この日の波の程度では、潮が舞い上がる姿はまったく見ることができなかった。
先端部には離れ岩が2つ並んでいた。その岩までは行くことはできないが、手前側の高台からは海岸線まで降りる道があるようで、実際、釣り人がひとり、竿を出す姿があった。先端部の標高は28mある。荷物を持って坂を下るのは大変だろうし、釣果があれば、上ってくるのはさらに大変だ。が、私が見ている範囲ではまったく釣れていないようだったので、それは杞憂だろう。
標高40m地点にある大鳥居は高さが6m。ハートのマークのある箱らしきものをキツネが取り囲んでいるが、実は、この箱は賽銭箱なのである。高さは5m、サイズもかなり小さい。神社によれば、「日本一入れるのが難しい賽銭箱」だそうで、こうした仕掛けも個人所有の神社ならではである。
これなら、子供時分に賽銭拾いを得意技にしていた私にも簡単に拾えそうだが、生憎、賽銭入れをチャレンジする人は見掛けなかった。
かように、この神社は景観の素晴らしさと遊び心に満ちた誠に結構な存在であった。千畳敷や棚田に立ち寄れなかった分、この神社でゆったりした時間を過ごすことができた。”むかつく”半島は、決してむかつくことのない素敵な半島であった。
◎青海島を訪ねる
次の目的地は青海(おおみ、おうみ)島に決めていた。長門市街の北方にある東西に細長い島である。角島は下関市だが、向津具半島はすでに長門市に属していた。
長門市街あたりから大きめの砂州が島に向かって伸びているが、あと50mというところで止まっていて、青海島までは届いていない。が、なかなかしっかりした青海大橋が本土側の砂州(現在は埋め立てられ、仙崎と名付けられた町や大きめの漁港が整備されている)と島とを結んでいるのでアクセスは容易だ。
青海島を訪ねるのは今回が初めて。が、その存在はずっと以前からよく知っていた。なにしろ「海上アルプス」の名で呼ばれるほど知名度の高い観光地なのだ。が、名所は島の北側にある長い海岸線(約16キロもある)で、断崖絶壁や洞門、石柱などが目白押しに続いている(そうだ)。しかし、陸からのアクセスが良くないため、その海岸線を目にするためには苦労して歩くか、それとも観光船に乗って見学するかのどちらかしかない。そのため、今回は時間の関係も(体力も)あることから、島の南半分を覗くだけになった。
島の南西部には「青海湖」がある。これは入り江の沖から砂州が伸びて海を塞ぎ「潟湖」として生まれたもので、淡水湖としては山口県では一番大きいとのこと。写真は入り江を塞いだ砂州の姿を見たもので、この右手に青海湖が存在している。
沖側には海流によって砂州の砂が流失しないように何本もの突堤が造られているが、場所によっては結構、危うい状態にまでやせ細っていた。
また、湖のすぐ横にはホテルが建っていたものの営業している様子はなかった。
主に島の南側だけになるが県道283号線が東端の通(かよい)漁港まで通じているので、出掛けてみることにした。
この地では江戸時代から明治末期までは沿岸捕鯨が盛んにおこなわれていたそうだ。クジラを入り江まで追い込んで捕獲する漁法なので、それを現在行っていたら、世界中から非難を浴びることだろう。
漁港の近くには『くじら資料館』があった。資料館の前と屋根の上にはクジラの模型が飾られていた。また、高台にある「清月庵」の隅には「青海島鯨墓」があった。ここには母鯨の胎内で死んだ胎児が70数体、墓碑の下に埋葬されているそうだ。
紫津浦と名付けられた入り江には、写真のような建物が残されていた。見た限りでは、かつてここには海上レストランのようなものがあったような気がした。
この紫津浦の入り江付近は、青海島では南北の幅がもっとも狭くなっている。この辺りから「自然研究路」が整備され、北側の荒々しい海岸に出ることができるらしい。それでも、ザッと見学するだけでも50分ぐらいは歩くとのことだったのでパスをした。
島から離れ、仙崎地区を少しだけ散策した。この地は26歳で夭折した童謡作家の金子みすゞ(金子テル、1903~30年)の出身地である。写真のように、彼女が生まれた家は現在、「金子みすゞ記念館」になっている。
彼女は『童謡詩人会』に属し、とりわけ西條八十の薫陶を受けた。この会には泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、若山牧水など錚々たる詩人・作家が属していた。女性は与謝野晶子と金子みすゞの2人だけだった。それだけに将来を嘱望されていたのだろうけれど、病気を苦に服毒自殺をしてしまった。
金子みすゞの作品と言えば『大漁』がもっとも有名だろう。というより、この作品が「発掘」されたことで、1980年頃から彼女は再評価されたのである。
朝焼け小焼けだ、大漁だ 大羽いわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど、海の中では何万の
いわしのとむらいするだろう
近くの公民館の壁には、写真のように金子の作品とともに、子供たちが描いた絵が添えられていた。
『大漁』は確かに見事な作品ではあるが、仙崎の漁師たちはどう感じるのだろうか?私が漁師であったなら、何やら自己の職業を卑しまれているように思うだろう。
◎萩城跡を訪ねて
久し振りに萩城を訪ねた。以前に訪れてから20数年は経過していると思われた。そのためか、自分が抱いていた景観と随分異なるように感じた。これは城跡の姿が変わった訳ではなく、私の萩城や長州藩に対するイメージが変化したからに相違なかった。
萩城は1604年に毛利輝元の命で建設が始まり、08年に完成した。中国8か国を支配していた毛利家は、関ヶ原の戦いで西の総大将として指揮を執り、敗北したために周防国と長門国の2か国に減じられ、それまでの居城であった広島城を去ることになった。新たな城の候補地はいくつかあったが、津和野の吉見氏が整備途上であった萩の場所を選択し、改めて城造りを始めたのだった。
標高143mの指月山の南麓に本丸、二ノ丸、三ノ丸などを築いた。当時、指月山は阿部川が河口部に造った三角州とは完全には陸繋化していなかったようで、南東側は沼地、東側は菊が浜の海岸線が迫っていた。こうした場所を埋め立て、あわせて山には要害を整備した。
萩城は1863年に藩庁が現在の山口市に移ったために廃され、1874年には天守閣を含め主な施設は解体された。そのため、写真にある「天守閣跡」に上っても五層の天守閣はまったく存在しない。
写真は、その天守閣跡から指月山を眺めたものだ。花崗岩からなる単成火山で、後で触れることになるが、一帯には小さな火山が数多く並んでおり、なかなかの風景が展開されている。
山そのものには上ったことはないが、以前訪れたときには海岸線まで歩き、周囲の景観を十分に味わった記憶がある。
指月山一帯は「萩城指月山公園」として整備され、志都岐山神社や、かつて庭園として利用されていた場所に池などが残されているが、訪れる人が少ないこともあってか、どことなく寂れた感じを抱いた。
下で触れる「萩城下町」はそれなりの賑わいを見せていたのに対し、城跡は閑散としていた。やはり、他の場所で行われていたように、天守閣の再建がおこなわれないと、「集客力」には限界があるのかも知れない。私にとっては静かでいいのだけれど。
萩城跡に残された数少ない建物ののひとつが、大手門の南側(旧二ノ之丸)にあった写真の「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」だった。
厚狭は現在の山陽小野田市辺りで、毛利元就の五男の元秋を祖とする名門。現存している長屋は1856年に造られた。厚狭毛利家の敷地は15500平米もあったが、他の建造物はすべて解体され、この長屋だけが残されている。
いかにも「長屋」といった存在で、長さは51.5mもある。奥行きは5mしかないが内部は5つに区画され、毛利元就からの系図などが展示されている。一部はかなり豪華な造りになっていることから、地位の高い人の詰め所にも利用されていた可能性はある。
◎萩城下町を歩く
萩城跡は人気薄だが、かつて三角州であった場所に造られた武家屋敷町は当時の姿が良く残されていることから、大半の観光客は「萩城下町」と名付けられた通りを歩き、ときには著名人の生家などを訪ねる。
全体の敷地は結構な広さがあるので、疲れ果てた私は、かつての記憶とグーグルマップを頼りに、とくに歩いてみたいと考えた場所だけをうろついた。
写真の円政寺は、鳥居だけを見るとやや怪しげではあるが、かつては毛利家の祈願所でもあった由緒ある寺なのである。寺に鳥居は不思議な感じもするが、境内には金毘羅社があって、神仏習合時代の姿がそのまま残されている。
また、近くに住んでいた高杉晋作や、雑用係として住み込んでいた利助(のちの伊藤博文)が遊んだり勉強したりした場所としてよく知られている。
長州藩は薩摩藩とならんで明治維新の立役者を多く輩出したが、私が一流だと考えている人物の大半は維新前に死没している。吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、月性、河上弥市、吉田稔麿などが生きていたなら、維新政府はもう少しまともな政策がおこなえたのではないかと思える。これは長州藩に限らず、土佐の中岡慎太郎や少し劣るが坂本龍馬も同様であろう。
もっとも、伊藤博文以下維新政府の中枢にいた二流どころの人物も、まだ吉田や高杉の良き影響が残っていたためになんとか踏ん張れたものの、それらの影響が失われた時代になるとどうにも表現しようのない「悪政」が展開されたように思える。
とはいえ、現在の五流以下の政治家ばかりの現代に較べれば遥かにマシだともいえるが。
高杉晋作の生家だけはやや時間をかけて見物した。
家の中には、高杉に関係する資料が数多く展示されていた。
菊屋横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁など、通りを歩いているだけでも歴史に思いを馳せることができる。著名な人物の影には数多くの無名な人々の働きがあり、それらを含んだものが「時代」と呼ばれる存在なのである。