徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔95〕久し振りの山陽路、ちょっと寄り道も(6)錦帯橋、柳井、そして山口、秋吉台へ

秋芳洞・百枚皿

◎初めて錦帯橋を渡る

錦川左岸の河原から橋を眺める

 岩国市には取材で何度も宿泊したことがあるので、市内から10分程度の場所にあるこの橋は何度か見学したことがあった。もっとも、すべてその姿を眺めただけで、橋を渡ったことはなかった。

 が、今回は、橋の東詰め近くにある観光ホテルに宿を取ったことから、初めて橋を渡ってみることにした。対岸の横山の天辺(標高216m)に復元された「岩国城」にもロープウェイを使えば、さして苦労することなく出掛けることができるようなので、橋を渡ることとセットで城へも出掛けてみようと当初は考えていた。

 いずれにせよ、橋を渡ることは翌日の午前中と決めていたので、厳島神社から移動してきたこの日は、錦川の左岸にある河原から橋の姿を眺めるだけのつもりでいた。

初めて錦帯橋を渡る

 が、時間に少し余裕があったこと、観光客の数が少なかったことから、さしあたり橋を渡ることだけは済ませてしまおうとの考えが浮かんだ。そこで、入橋料310円也を払って東詰めから、全長193.5m、幅5m、アーチの高さ13mの木造の橋を初めて渡ってみた。

 5連の橋からなり、両サイドは桁橋、中の3つがアーチ橋となっている。写真のように桁橋はすべてなだらかなスロープなのに対し、アーチ橋は天辺付近以外は階段状になっている。 

木々の間から見た錦帯橋

 錦帯橋日本三名橋のひとつで、他の二つは東京の「日本橋」と長崎の「眼鏡橋」だそうだ。また日本三大奇橋のひとつでもあり、他の二つは山梨の「猿橋」と徳島の「かずら橋」である。という訳で、この橋だけがどちらにも選ばれている。それだけ貴重な存在だと言えるだろう。

 この橋は1673年、岩国藩主の命で建造された。岩国城が錦川の右岸側に、城下町が左岸側にあることから架けられたそうだ。しかし、錦川はよく水嵩が増すために、普通の橋ではすぐに洪水で流されてしまうために、こうした独自のアーチ型になったとされる。

 これには、中国の杭州にある西湖の中の島々を結ぶ橋が6連のアーチになっていることが『西湖遊覧志』に記されていたこと、それが大きなヒントになったと考えられている。

右岸でジャンプする女性

 錦川の右岸の土手には桜の木が多く植えられていた。花の季節には大勢の観光客で賑わうことだろう。私が訪れた時期には花の季節が終わっていたことから、思いのほか、訪れる人が少なかったのかもしれない。

 写真内にあるが、若い女性が石畳みの上で何度もしきりにジャンプしていた。最初は意味不明だったが、よく見てみると、手前側にスマホが置いてあり、カメラにタイマーをセットして、錦帯橋をバックにジャンプする自分の姿を撮影しているようだった。

 なかなか思い描いたような写真が撮れないようで、真剣な眼差しでスマホをセットする一方、ジャンプした際には最大限の笑顔をつくっていた。

 見物人は少ないとはいえ、大衆の面前で堂々と撮影するその姿に、私は感銘が半分とある種の鬼気を半分感じてしまった。

 何度か繰り返す内にどうやら得心出来る画像をえることができたようで、彼女は撮影を終え、何事もなかったかのように静々と河原を去っていった。私はその若い女性の勇気(蛮勇)へ、心の中で拍手を送った。

 橋の上から川の流れを見つめていると、7,8センチのアユがしきりに橋脚の基盤の石に付いた苔を食んでいた。この地では、錦帯橋を中心にして6~9月には「鵜飼い」がおこなわれるそうだ。錦川はアユ釣り場としても良く知られているようで、天然遡上のアユだけでなく幼魚や成魚の放流事業も盛んにおこなわれている。

 若アユたちは、たとえ眼前に強い瀬があったとしてもそれを力強く乗り越えて上流へと上ってゆく。きっと、あの若い女性のように高くジャンプして……まさか自撮りはしないだろうけれど。

◎岩国市ミクロ生物館~見学する価値が十分にある施設

潮風公園の施設内にあるミクロ生物館

 当初の予定では、朝に再び錦帯橋を渡り、ロープウェイを使って岩国城に出掛けることにしていたが、宿で周辺の見所を地図上で探していたところ、興味深い場所を発見した。そのため、錦帯橋は前日に十分に見物したことから岩国城行きは取りやめ、観光ホテルを出るとすぐに海岸線に向かった。

 国道188号線をほぼ南に進むと、昨晩に探し出した場所に到達した。そこは「潮風公園みなとオアシスゆう」という名前の砂浜のある公園内の建物の一角にあるはずだった。ちなみに「ゆう」というのは、この公園が「由宇町」に存在するからで、それ以上の理由はなさそうだった。

 細長い建物に中に、目的場所である「岩国市ミクロ生物館」があるはずだったが、すぐには見つからなかった。それほど大きな建物ではないので、なんとか見つけることは出来たが、想像していたより規模は小さく、中学校の理科室程度の広さだった。

顕微鏡でミクロの世界を観察

 それでも室内の設備や展示はかなり充実していた。山口大学神戸大学、それに水産総合センターや日本原生動物学会と連携し、「世界初のミクロ生物館」をうたうだけのことはあった。

 室内には4つのディスプレイと大型スクリーンが置かれ、「瀬戸内海のせん毛虫」「瀬戸内海のべん毛虫」と題した動画を随時、放映していた。

 また、大型スクリーンでは「海のふしぎなミクロの世界」「のぞいてみよう川・池・田んぼ」と題して、そこに住む藻類、アメーバ、せん毛虫、べん毛虫についてわかりやすく解説している動画が放映されていた。

世界で最初のミクロ生物館

 もちろん、顕微鏡もそれなりの数が置かれていて、ミクロ生物の生きた姿が観察できるようになっていた。さらに立体模型や標本も揃っており、ミクロの世界に興味を抱く人にとっては十分に見学に堪える展示がなされていた。

 夏休みなどには研究者によるセミナーもおこなわれるそうで、奥の部屋では数人の研究者が常駐して熱心に研究活動を進めているようだった。

 私にとってはとても価値のある見学施設だと思えたが、残念なことに私が滞在していた時間に限ってのことかも知れないが、私の他に見学者は一人も現れなかった。

大島大橋を渡る

周防大島側から大島大橋を眺める

 「屋代島」という正式名称より「周防大島」と言ったほうが通りが良いかも知れないので、ここでは後者の名を用いる。

 この島はかなり大きな面積を持ち、地図を見る限り磯釣りに適した場所は多いように思えたが、何故か地元の名人に何度か同行した限り、この島で釣りをしたことはまったくなかった。島が大きすぎるのでかえって魅力がないのかもしれないが、はっきりとした理由は不明のままだ。

 という訳で今回、初めて周防大島に渡ることにした。が、実はこの日の朝、ホテルで朝食をとっているとき、賄いのおばちゃんが「今日はどこへ行くの?」と尋ねてきたので、「周防大島」と答えた。そうしたら、そこより「角島の方がずっと海が綺麗なので、そちらに行った方が良い」とお節介なことを言ってきた。

 周防大島と角島とは直線距離にして130キロ以上あるし、そもそも角島は日本海側なので方角が異なっている。ただ、その前に私が東京から来たこと、この日の宿泊地は山口で、次の日は下関であるということを伝えていたので、折角、島に立ち寄るなら角島の方がずっと魅力的であるということを言いたかったのかも知れなかった。

 私自身、次の目的地が柳井市であったことから、その道すがらに行ったことのない周防大島に立ち寄るだけだったので、それほど大きく時間を割くつもりはなかった。一方、角島は今回の予定には入っていなかったけれど、調べてみると2000年に竣工した「角島大橋」が魅力的に思えたので、下関から萩までの道順を変更して角島を予定に入れることになった。

 もっとも、周防大島は柳井に行く途中にあるので、とりあえず「大島大橋」を渡ってみて、それから島見物を続けるか、それとも橋だけ立ち寄ってすぐに柳井に向かうかは出たとこ勝負という感覚で、大島大橋へ向かった。

潮の流れはかなり急だった

 大島大橋は1976年に完成した全長1020mのトラス橋である。幅は9m、高さは海面から32mある。下を流れる大畠瀬戸は最大流速が10ノットもある急流のため、世界で初めての試みとして、橋脚は多柱式基礎の上に連続トラスで構成されている。

 写真から分かるように、確かに大畠瀬戸は想像以上に流れが速い。50年近く前に建造された長い橋だが、流れによく耐えて本土と屋代島との間をしっかりと結んでいる。

 橋の姿を見物したことで、周防大島に来た価値が十分にあると思われたため、とくに島巡りはおこなわず、次の目的地である柳井市に向かうことにした。

柳井市古市金屋伝統的建造物群保存地区を訪ねて

伝統的建造物を見て回る

 柳井市室津半島の付け根部分に位置した港町で、農業産品の集積地として古くから栄えた。そのこともあって町中には室町時代以来の町割りが残っており、現在では白壁の建物に代表される伝統的な建物が良く保存されている。

 現在では花卉や果実生産が盛んだ。これは、この地域が典型的な瀬戸内式気候であって日照時間がとても長いことが理由になっている。

古い町並みが良く保存されている

 今回の旅では古い町並みが保存された場所をいくつか訪ねているが、他の場所と異なる点がひとつあり、それがこの地ならではの特色になっている。

軒に下げられた「金魚ちょうちん」

 すでにお分かりかと思うが、家並みの軒からは、おしなべて「金魚ちょうちん」が吊り下げられている。この「金魚ちょうちん」は柳井市の伝統工芸品として、現在ではネット通販などでも取り扱われている。

 割竹で組んだ骨組みに和紙を貼り、赤と黒の染料で色付けされている。これは幕末の頃、柳井の商人が青森県弘前市の「金魚ねぷた」にヒントを得て、伝統的な「柳井縞」の染料を用いて作ったことが始まりとされている。

 例年、お盆の時期には「金魚ちょうちん祭り」が開催され、4000個ものちょうちんが吊り下げられ、そのうちの2500個には明かりがともされるそうだ。写真でしか見たことはないが、誠に幻想的な風景が展開されている。

金魚ちょうちんは、この町を代表する特産品

 どの通りを歩いても、こうして間近に「金魚ちょうちん」の姿を見ることができる。白壁の町並みだけではそれがどの町のものか判別が付けづらいが、こうして金魚が風の中を泳ぐ姿が目に留まることで、ここが柳井市であることが分かるということは、とても素敵なことである。

路地を歩くカニに要注意!!

 写真の金魚は通常とは異なり、ピンク色をしている。これはこれでとても興味深いが、私の目を惹きつけたのは金魚の色ではなく、その右手にあった「カニが路上を横切ります…」の注意書きだった。町中を歩くと、金魚ちょうちんほどではないにせよ、至るところでこの注意書きを目にすることになった。

路地でカニの姿を探す

 注意書きがアチコチにあるということは、カニがたくさん歩き回っていることの証左でもあるので、私は視線を軒先から地面方向に移し、写真のような路地を歩き回ることにした。よく見れば、路地の至る所に側溝があることが分かったことから、今度は白壁通りではなく、金魚ちょうちん巡りでもなく、側溝にいると思われるカニ探しに転換した次第であった。

側溝でカニを発見

 ほどなく、開渠された側溝の中で写真のように小さなカニを発見した。ただ、愛想は決して良くなく、すぐに狭い溝の中に隠れてしまった。

人の姿を見掛けるとすぐに姿を隠そうとする

 側溝はいくらでもあり、その中にカニの姿はどこにでも見ることができた。写真のように少し大きめのカニが複数、見つけられることもあった。

 が、残念なことに道を歩く(走る)カニの姿を見ることはできなかった。これはカニが悪い訳ではなく、カニの姿をしきりに探す大きな動物(わたしのこと)がうろついているため、彼・彼女らは警戒心を抱いてしまって路上に姿を現さなかったのかもしれない。

 といって、私もカニを真似て側溝に隠れ、奴らが道を横断する様子を観察するほどヒマではなかったことから、そうした行為をとることは断念した。

日日新聞は週に3回発行される

 中心部からは少し外れた場所に、「柳井日日新聞社」の小さな建物があった。新聞は週に3回、発行しているそうである。柳井市で起こる日常や非日常を取り上げているようだ。

 この新聞社のスタンスは不明だが、親行政側であろうと反行政側であろうと、地元の情報が多く人目にさらされることで、意識ある人々は行政を監視することになる。

 「新聞のない政府か、政府のない新聞か、いずれかを選べと言われれば、後者を選ぶべきだろう」。このトーマス・ジェファーソンの言葉は、言論が持つ強さと怖さを鋭く指摘しているが、今日、問題なのは、言論そのものが空虚になっていることだ。

 林達夫の「空語、空語、空語……」という表現のもつ意味をネット文化全盛の今こそ、もう一度しっかりと噛みしめる必要がある。

◎常栄寺~またまた庭園に見惚れてしまった

残念過ぎた「一貫野の藤」

 柳井市の次は山口市街を目指すことにした。ただ問題は、それまでの経路をどうするかだった。通常考えうるのは瀬戸内海沿岸を進んで防府市に入り、そこから北上して山口市街に至るルートだ。しかし、沿岸にある光市、下松市、周南市の多くの海岸線は臨海工業地帯となっているので面白みは少ない。

 一部には、かつてクロダイ釣りのために渡船で渡った島がいくつか点在してはいるものの、水の透明度がかなり劣るため釣りには良いだろうが、観光には向かない。

 ということで内陸を走って山陽道のインターに出て、そこから一気に防府市に至るのが良いように思われた。地図を確認すると、柳井氏の北西方向に「熊毛IC」の存在を見つけた。山陽道を西に進んでいたときによく目にしたインターだった。その名が特徴的なので記憶にあったのである。

 そこで、この熊毛インターを目指して山中にある県道をナビにしたがってひたすら北西方向に進路を取った。熊毛ICから山陽道に入り、防府ICで下りた。このインターからは山口市街は近いが、すぐに山口に至るのも味気ないような気がしたので、改めて地図を確認した。すると、山中に「一貫野の藤」という「名所」があるのを見出した。写真で見る限りでは、藤の花と下を流れる川のコントラストが見事なのだった。

 ということで国道262号線で山口市街を進むルートをとらず、県道24号、27号の細い道を進んで、素敵な!?藤の姿を目に焼き付けることにした。

 が、上の写真のように藤の花は一部咲き程度で、ネットで調べた姿とはまったく異なる光景が展開されていたのだった。名前はよく知られた存在らしく、次々と細い道を経て車がやってくるのだが、一応にがっかりした様子で、何も撮影することもなく、この場を離れていった。

 満開時ならそれなりに見応えはあるだろうが、この日の時点では「はるばるやってきたのに、たったこれだけ?」という感想を、誰もが抱いたようだ。「開花前の藤には愕然とした表情が良く似合う」。

庭園と鐘楼門で名高い常栄寺

 寄り道は残念な結果に終わってしまったため、私はさっさと山口市街へと移動することにした。「西の京」と呼ばれる山口市だが、全国的な認知度はかなり低い。実際、山口県の都市の名を思い浮かべようとすると、出てくるのは下関や萩の名が先だし、山口市から連想される観光名所もなかなか思いつかない。実際、私自身は何度も山口県に足を踏み入れて入るし宿泊もしているが、山口市内に泊まったのはただの一度しかない。それも、40年近く前に湯田温泉を利用しただけだ。

 今回は、市内に宿を取り、「西の京」と称されるに相応しいと思われる場所をいくつか巡ってみた。その最初の場所が写真にある「常栄寺」だった。

 この寺自体は何度も名称が変わっており、常栄寺そのものもあちこちに移り変わっているようだが、現在の場所に落ち着いたのは大内政弘がこの地に別邸を建てたのが始まりとされている。 

池泉回遊式庭園は国の名勝に指定

 大内は水墨画家で禅僧でもある雪舟に庭の造営を依頼した。それが写真にある「雪舟庭」で、枯山水や石の配置など庭園造りの基本をきちんと取り入れた見事な作品となっており、国の名勝に指定されている。

庭園は「雪舟」が作庭

 「雪舟庭」が有名になり、訪れる人も多くなったことからか、常栄寺境内の入口には写真のような雪舟の胸像が置かれていた。

 雪舟(1420~1506)と言えば小僧時代に涙でネズミの絵を描いたことで良く知られている。大内氏に庇護されてからは遣明船に乗って中国に渡り、水墨画の修行をしている。『天橋立図』や『秋冬山水画』など6点が国宝に指定され、狩野派に大きな影響を与えた。

庭園をじっくり回遊した

 若いうちは庭園にはまったく興味がなかったが、近年になってその「良さ」が少しずつ分かりかけてきた。当然の如く、参拝はしないけれど、庭園巡りはじっくりとおこなった。

 写真奥には枯れ滝が写っているが、実際には少量であるが湧水が流れ込んでいた。どの角度から見ても破綻のない姿が印象的であった。

前庭も十分に美しい

 本堂の前面には1968年に造営された「南溟庭(なんめいてい)」があった。こちらは本堂から眺めるもので庭に降りることはできない。造園家で修復家として知られている重森三玲氏が常栄寺の住職から依頼を受けて作庭した。

 この際、常栄寺側は「雪舟庭より良い庭を造られては困る。恥をかくような下手な庭を造ってもらいたい」と要求したために一旦は固辞されたが、「上手に下手に造ってくれ」と何度も依頼されたために重森氏が受け入れて作庭したと言われている。

 庭は、雪舟が明に行き来するときの海をイメージしているとのことで、確かに、「荒海」が見事の表現されている。

瑠璃光寺~国宝は修復中

国宝の五重塔は修復中

 常栄寺が「雪舟庭」なら、瑠璃光寺は「五重塔」であろう。一般受けするのはもちろん後者で、この寺の塔は「日本三大名塔」に選ばれている。他の二つは法隆寺の塔と京都醍醐寺の塔である。

 が、国の国宝に指定されている瑠璃光寺五重塔は、写真から分かるとおり現在は修復中で、修理が終わるにはまだ数年は掛かるようだ。檜皮葺の屋根の葺き替えがおもな工事らしいが、この塔の姿を当てにして訪れた観光客(私もそのひとり)にとって、大型クレーンの存在はがっかり度が非常に高い。

 塔は1442年に落慶したとのこと。日本では10番目に古いものだそうだ。高さは31.2mある。写真のように、手前の池とのコラボレーションは、きっと見応えがあるだろうと思えた。

 寺は香山公園内にあり、園内には多くの梅や桜の木が植えられている。花に囲まれた五重塔の姿も優美であるに相違ない。

杓底一残水

 境内には、写真の「杓底一残水」の碑と手水場があった。「杓底一残酔汲流千億人」は道元の言葉で、仏前に供える水を川から柄杓で汲み、必要な分だけ使い、残った水は川に戻す。僅かな水でも大切にし、結果、それが多くの存在に役立つことがあるかも知れないとの考えによる。

 確かに、一滴の水であってもそれが無価値であるかどうかは誰にも分らない。水に限らず、あらゆるものは他との関係性が必ず存在する。仏陀の教えの要諦のひとつである「縁起」に通じる考え方である。

沈流亭~薩長の志士が密議した場所

 沈流亭は、薩長連合の密約を結ぶべく、小松帯刀西郷隆盛が長州に赴いて密議をおこなった場所とされている。ただし、元は別の場所にあり、それが香山公園内に移設されたとのことだ。

◎山口サビエル記念聖堂

2つの塔とテント型の屋根が特徴的

 山口市は、フランシスコ・ザビエル(1506~52)が日本に来て初めて住居兼教会を与えられた場所である。日本では一般的には「ザビエル」あるいは「ザベリオ」と呼ばれているが、山口では「サビエル」の名を用いている。これはイタリア語読みでは「サヴェーリョ」、カスティリア語では「シャビエル」となるので、「ザ」よりも濁らない「サ」のほうが原語に近いためらしい。

 ザビエルは1549年に日本で布教活動を行うためにインドのゴアから日本に向けて移動し、まずは鹿児島に上陸した。薩摩藩島津貴久の許可を受けて布教活動をおこなったが仏教勢力の反発を受けたことから成果は芳しくなかった。そこでザビエルは、天皇や将軍から許可をもらうために京に向かったが、謁見は叶わなかった。

 が、周防国では戦国大名大内義隆に謁見することができ、献上品として望遠鏡、メガネ、置時計などを差し出した。すると大内は大いに喜び、廃寺となっていた大道寺を与え、布教活動を許した。

 ちなみに、このときザビエルが大内に与えたメガネが、日本人が最初にメガネの存在を知ったと言われている。

井戸端で説教するサビエルの像

 前述したように大道寺に住居兼教会を建てたザビエルは一日2回、井戸端で説教をおこなった。この結果、山口では500~600人がキリスト教に改宗したと言われている。

 ひとつ上の写真で「サビエル記念聖堂」の姿を載せているが、ここはザビエルが住居兼教会を建てた場所である。現在、一帯は亀山公園として整備され、私のように信仰心がまったくない人物でも気兼ねなく訪れることができる。

盲目の琵琶法師ダミアン殉教の碑

 亀山公園には、写真の「ダミアン殉教の碑」があった。ダミアンは堺出身で、路上で琵琶を弾きながら旅をする全盲の琵琶法師。やがて山口に住み着くようになり、この地でキリスト教に出会い、25歳の時に洗礼を受けた。

 1587年の秀吉による伴天連追放令によって宣教師は平戸に移ったため、ダミアンが伝道師となって山口教会の中心的存在として活動を続けた。が、毛利輝元に睨まれ、1605年に斬首された。享年45歳。ダミアンは、「私には用意ができている。信仰のために死ぬことは大きな喜びである」と、従容として死を受け入れた。

中原中也の生誕地は現在、記念館になっている

 私はこうしたダミアンの生き様を知ると悲しみに暮れたが、無信仰者の悲しみなど所詮、「汚れちまった悲しみ」にすぎない。ちなみに、中原中也は現在の山口市湯田温泉出身だ。

 そんなとき、私はキルケゴールの言葉を思い出した。「人間的に言えば、死は一切のものの最後であり、人間的に言えば、生命があるあいだだけ希望があるにすぎない。しかしキリスト教的な意味では、死は決して一切のものの最後ではなく、死もまた、一切のものを含む永遠なる生命の内部におけるひとつの小さな出来事であるにすぎない。そして、キリスト教的な意味では、単に人間的に言って、生命があるというばかりでなく、この生命が健康と力とに満ち満ちてさえいる場合に見いだされるよりも、無限に多くの希望が、死のうちにあるのである。」『死にいたる病』より。

秋芳洞~もっともよく知られた鍾乳洞

稲川と秋吉洞入口

 秋吉台秋芳洞に出掛けるのは本当に久し振りだ。おそらく、前回に出掛けたときからは20年以上経ているはずだ。

 まずは秋芳洞を訪ねてみた。入口付近には立派な駐車場や新しめの秋吉台観光交流センターなどが建っていたが、洞窟入口までの売店などは閑散としており、想像以上に人気(ひとけ)がなかった。鍾乳洞はもはや人気の観光スポットではないのかも。ともあれ、駐車場の500円と入場料の1300円を払って洞窟内に入ってみることにした。

 秋芳洞日本三大鍾乳洞のひとつで、他の二つは岩手の龍泉洞や高知の龍河洞である。このなかでは秋芳洞知名度はもっとも高いと思われ、大半の人は鍾乳洞の言葉を聞くと「秋芳洞」を思い浮かべると思われる。

黄金柱(こがねばしら)

 秋芳洞秋吉台の地下100mほどのところにあり、判明している範囲でも総延長は11.2キロあり、その内の1000mが観光コースになっている。秋吉台の地下には約400もの洞窟があると考えられているが、その最大のものが秋芳洞だ。

 かつては「滝穴」と呼ばれ、1354年に秋吉村の禅僧の寿円が雨乞いのために入洞したという記録が残っている。また、19世紀半ばに記録された『防長風土注進案』には「壁石に種々の模様あり、仏像厨子其外諸々の器に似たる石多く、奇麗なる事言語に述べがたく……」などと記されている。さらに、幕末には32景、大正時代には39景の見所があると数えられている。

 鍾乳洞は百万年に渡る地下水の溶食作用によって石灰岩が溶け、地下水位の低下、砂礫の堆積、天井部の崩落、洞窟生成物の発達などによって形成された。

 その代表が写真にある「黄金柱」だ。約15万年の年月をかけて上方にある石灰岩が染み入った水によって溶け、その炭酸カルシウムが再結晶化して炭酸塩鉱物としてひとつの形を造ったものである。

百枚皿

 黄金柱以上に良く知られているのが写真の百枚皿。さながら棚田のようである。これは緩やかな斜面に出来るもので、地下水に含まれる石灰分が沈殿して二次生成物となり、それに縁どられた小さな皿状の池が何段にも積み重なったものである。リムスートンと言われ、日本語では畔石とか輪縁石と呼ばれるものに地下水が溜まり、棚田のような景観を形成しているのである。

 現在、棚田見物はブームになっており、「千枚田」などと呼ばれるものも多いので、こちらも百枚皿から千枚皿に変更すると良いかもしれない、と考えてしまった。

大松茸

 こちらは「大松茸」と名付けられているが、どちらかと言えば「カボチャ」のように見える。

大黒柱

 天井から滴り落ちてくる石灰分を含んだ水が鍾乳石となってつらら状に成長し、一方、下に落ちた水は少しずつ成長して「石筍(せきじゅん)」となる。このつらら石と石筍とが繋がったものが写真の「大黒柱」と呼ばれるもので、しっかりと天井を支えているように見えるところからそのように名付けられた。

巌窟王

 炭酸カルシウムの雨は石筍を造ることが多いが、時として不規則に積み重なると不思議な形状を生み出すことがある。「巌窟王」と呼ばれるものは、石筍の一種であろうが、あたかもどっしりと構えた人間のような姿を生み出してしまうのである。

クラゲの滝のぼり

 急斜面を下ってくる炭酸塩鉱物は、天井から伸びるつらら状のものとは異なり、壁にたくさんの細い管状のものを形成する。これがまるでクラゲの足のように見え、場所によってはそれらが幾重にも集結する。そこから、この場所は「クラゲの滝のぼり」と名付けられた。いささか不気味でもあるし、反面、自然が生み出す神秘的な造形でもある。

 まだまだ数多くの不可思議な姿をした自然の造形物に触れた。いずれ紹介することになるが、別の場所でも鍾乳洞に入ることとなり、秋芳洞とはまた異なる鍾乳石の姿を目にした。そこでは、ある面では秋芳洞以上に不可思議な姿に触れている。

秋吉台~日本最大のカルスト台地

カルスト台地の典型

 秋吉台といえばカルスト地形であまりにも有名である。秋芳洞日本三大鍾乳洞であるように、秋吉台日本三大カルストのひとつに数えられている。他の二つは、平尾台(福岡)と四国カルスト(愛媛・高知)である。なお、カルストはドイツ語で、語源はスロベニアのクラス地方の「クラス」にあって、この地方では石灰岩が表出した地形が有名だからだそうだ。

 秋吉台山口県美祢市にあり、北東に16キロ、北西に6キロ、面積は130平方キロもある。写真のように草原の中にピナクル(地表に現れた石灰岩)が林立するカレンフェルト石灰岩柱が林立する様)が見事である。こうしたピナクルが草むらに隠れてしまわないように、地元では毎年、山焼きをおこなっている。

 1970年に開通した秋吉台道路を走ることが大好きだった私は、広島や山口での取材を終えるとこのカルスト台地を走り、そして時間がある時は萩市まで出向いていた。

この台地の下に秋吉洞がある

 石灰岩柱は、赤道付近で3億5千年前頃に形成されたサンゴ礁が元になっており、2億6千年前頃に大陸の東側に付加した。地表に現れたのは2000万年頃というから、日本列島が大陸から分離したときとほぼ同じ時期に地上に姿を現したことになる。

 500万年前には標高が600mほどになった。現在は200~400mの標高なので、厚東川による浸食作用のほか、二酸化炭素を含む水によって石灰岩が溶食されたことも一因かも。もっとも、水による溶食は一万年で0.5から0.6m程度とされるので、川の浸食作用や地面の陥没(ドリーネ)のほうが標高を低くしている主因かも。

 ともあれ、いろいろな姿に変化している石灰岩の姿を見てるだけで満足度はとても高い。一方、秋芳洞にしても秋吉台にしても観光客の数が少ないことが気がかりでもあった。人が少ないほうがじっくりと見物できる反面、観光収入が少なくなると施設の維持管理が不十分になってしまい、安全性という観点から心配事が多くなる。

◎長登(ながのぼり)銅山跡~奈良の大仏に使われた銅の採掘場所

秋吉台のすぐ近くにある銅山跡

 秋吉台から下ると近くに「長登銅山跡」があることが分かった。国指定の史跡だということなので、車をとめてネットで調べてみると、奈良の大仏はこの銅山から採れた銅を使っているとのことだったので立ち寄ってみることにした。

ここでは鋳造体験もできる

 写真のようにここには鋳造体験ができる施設がある。また、2009年にオープンした文化交流館では、銅の精錬の過程や奈良の大仏との関連の説明だけでなく、長登銅山は、銅だけでなく鉛、コバルトなどの精錬がおこなわれていたこと、古代の須恵器や木簡なども多数発見されていることなど、長い歴史を有する場所であったことがよく理解できる。

精錬場跡のひとつ

 山中に銅山跡が多く残っているというので、緩い坂道を登ってみたが、銅山跡はまだまだ山の奥だということが分かったので途中で撤退した。

精錬の際に出来る不純物(スラグ)

 ここの鉱山では7世紀末から8世紀初頭にかけて銅をはじめとした鉱物の採掘がはじまった。前述のようにここで精錬された銅が奈良の大仏に用いられたということは、秋芳洞のところでも紹介した『防長風土注進案』に触れられていた。

 この地の銅鉱石にはヒ素の含有量が多いことで知られており、奈良の大仏に用いられている銅を調べたところ、やはりヒ素の含有量が多いことが判明したことから、1988年、長登の銅が大仏の銅であることが証明された。

 長登は「奈良登」が語源で、それが長登に変化したとの言い伝えがあったが、上記のことが証明されたことで、そのことも「事実」となった。

 長登銅山(鉱山)は1960年に閉山された。写真のように、精錬の際には不純物が多く出る。というより不純物の方が圧倒的に多い。鉱山の周辺には不純物が多く捨てられたことで、開発する場所に限りが生じたことも閉山された理由のひとつらしい。

 それを知ると、開発には必ず負の部分を併せ持つということを改めて実感させられる。