徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔35〕三匹のオッサン・旧東海道を少しだけ歩く

 

f:id:haikaiikite:20200210212445j:plain

川崎宿・宗三寺にある遊女の供養塔

三人のオッサンが旧東海道をダラダラと歩くことにしたのだが

 謹厳実直を形にするとSさんになり、変な哲人といえばKさんになり、ただ単に変な奴というと私になる。本ブログでは紹介していないが、昨年はこの三人で鎌倉の切り通しを2回(朝比奈と名越)探索した。Sさんは元日本史の教員で神奈川の歴史について精通し、Kさんは高校時代に日本史が赤点だったにも関わらず現在は非常勤講師として日本史を教えている。私は受験のときに日本史と地理を選択し、とくに日本史では古墳時代以前を得意とし「明石原人」の再来とまでいわれた。なお、地理は得意中の得意で、「ケッペン気候区」どんと来い、である。

 この三人による「歴史探訪」は今年も続けることになり、とりあえずは「旧東海道」を歩くことにした。この旧道歩きは私たち以外にも暇なオッサンやオバサンの格好の趣味となっているようで各種の案内書・手引書が出版されている。日本橋を出発点として53の宿場を訪ねつつ三条大橋を目指すのが定石なのだろうが、我がグループの3分の2はナマケモノなので、そんな面倒なことはまずしない。そもそも集合場所が京浜急行子安駅で、集合時間も午前11時と、ハナからやる気が感じられないのだ。

子安駅を集合場所としたのには訳があった

f:id:haikaiikite:20200210215922j:plain

尻手駅浜川崎駅とを結ぶ南武支線

 SさんとKさんは横浜市在住なので子安駅までは近い。しかし多摩の田舎に住む私は電車で行くとなると最低でも2回は乗り継ぐ必要があった。スマホの乗換案内で検索すると、京王線府中駅から分倍河原駅に行き、そこで南武線に乗り換えて川崎駅へ。京急川崎駅まで歩き、それから普通電車で子安駅に到着。府中駅を9時35分に発すると子安駅には10時55分に到着する。このほかに京王線で新宿に行き、山手線で品川に出て京急に乗り換えるという手もある。が、私が愛用するジョルダンの乗換案内は素晴らしいルートを紹介してくれた。第2案として示したそれは、南武線で終点の川崎駅までは行かずにひとつ手前の尻手駅で降り、浜川崎行きの南武支線に乗り換えてひとつ先の八丁畷(なわて)駅に行き、そこで京急に乗り換えるというものだ。乗換は1回増えるものの到着時間は変わらない。10時台の浜川崎駅行きは1本しかないので、待ち合わせ時間が異なっていたとしたらこの偶然には出会えなかったかもしれなかった。

 このルートであれば、3回の乗り継ぎ場所はすべて田舎駅となる。もちろん出発駅も田舎で到着駅も田舎なので、5回ホームに立つことになる私はすべて田舎駅の空気に触れることになる。これは素晴らしいことである。途中、都会に成り下がってしまった武蔵小杉駅を通ることになるが、これは致し方ない。そこでは目をつむってさえいれば、少し前まで煤けた工場街であった小杉の姿が脳裏に浮かぶのだから。ともあれ、ジョルダン『乗換案内』には大感謝である。

f:id:haikaiikite:20200210223724j:plain

八丁畷駅京急の到着を待つ

 南武支線の旅はわずか一駅。それでも初めての利用なので満足度は高い。今度は八丁畷駅京急に乗り換える。この駅の利用も初めてだ。この駅は普通電車しか止まらないが、待ち合わせ場所の子安駅も普通のみの停車なので何の問題はなかった。

f:id:haikaiikite:20200211211604j:plain

子安駅前。ここで二人のオッサンと合流する

 この駅を待ち合わせ場所にしたのは「旧東海道」歩きとはまったく関係がなく、単に「ウナギ」が食べたかっただけだ。駅前にはうなぎ料理の名店があり、リーズナブルな価格ですこぶる美味い蒲焼きが食べられるのだ。実は1月に、Kさんと私は旧東海道の下見はまったくせずにこの店だけを訪れ、下見ならぬ味見をしていた。一方、丁寧に下見と下調べをしていたSさんは京急川崎駅を待ち合わせ場所に考えていたようだ。

f:id:haikaiikite:20200213153221j:plain

駅前にある小さなうなぎ屋さん

 「うな清」は老夫婦が経営する小さな駅の前にある小さな店だが、口コミやSNSでその良好な評判はかなり広がっているようなので、開店時間の11時に合わせて集合時間を決めたのだ。私たちは開店と同時に飛び込んだので第一組となったが、ほどなく他の三組が現れたので店は満員御礼となった。集合が10分ほど遅れたならば、ウナギとの邂逅は断念せざるを得なかった蓋然性は高く、子安駅に午前11時少し前に集合という時間設定は非常に正しいものだった。もっとも、本来の目的は旧東海道歩きだったが。

f:id:haikaiikite:20200213154405j:plain

うな清のメニュー

 1月の下見ではKさんと私は「上うな重」を注文したのだが、これが涙が出てしまうほど美味しかった。このため、「蒲焼」だけをもう一皿追加注文してしまったほどだ。今回の本番?では「特白蒲重」を食することに決していた。

f:id:haikaiikite:20200213155051j:plain

特白蒲重に肝吸(プラス100円)

 うなぎは「蒲焼」が王道だろうが、ややさっぱりとした白焼きは店主の技が味を左右するので、今回は両方を楽しめるものにした。とても楽しみである。

f:id:haikaiikite:20200213155501j:plain

中とろ2人前分

 今回はウナギの追加は予定せず、店内のメニュー表にあった「中とろ」(1人前1300円)を同時注文した。こちらも店主の目利き、それに包丁さばきは冴えわたっており、ウナギと同様、とても上品な味わいだった。

 これでもう、この日の目的の大半は果たしたと思うのだが、せっかく、Sさんが念入りな下調べをして旧東海道ぶらり散歩の味わい深いルートを調査してくれていたので、腹ごなしが必要なこともあり、京浜急行を使って川崎宿へと向かうことにした。

f:id:haikaiikite:20200213161742j:plain

京急川崎駅。上が本線、下が大師線

 Sさんの当初の計画では京急川崎駅で降り、そこから多摩川右岸に向かい、「六郷の渡し跡」から旧東海道歩きを始めるというものだった。しかし地図を確認すると、川崎駅からだと「渡し跡」までは旧東海道を行って来いすることになる。このため、川崎駅では降りず、大師線に乗り換えてひとつ先の港町(みなとちょう)駅に向かい、そこから多摩川右岸に出ることにした。

f:id:haikaiikite:20200213162928j:plain

川崎と小島新田とを結ぶ大師線

 大師線の利用は今回で3度目だ。前の2回は川崎大師駅から京急川崎駅へ向かうときに利用したので、小島新田行き(下り)の利用は初めてだった。この日は南武支線大師線とローカル線を2度も利用でき、「白蒲重」ほどではないにせよ、満足度が非常に高い体験を得た。しかも、さら旧道歩きという”おまけ”(本当は主目的)付きなのである。

 大師線は川崎大師への参詣客か臨海地区にある工場街への通勤客が大半という印象が強いが、現在では多摩川右岸側に大規模マンションが林立し、大型ショッピングモールも進出が著しいため、家族連れの姿が多くなったようだ。といっても印象評価でしかないが。

f:id:haikaiikite:20200213165712j:plain

港町駅にあった美空ひばりの看板

 港町駅の北側にはかつて「日本コロムビア」があり、1957年、この町周辺を題材にした歌『港町十三番地』が作られ、美空ひばりが歌って大ヒットした。会社は九番地にあったそうだが、歌詞にはゴロの良い十三番地が用いられた。後述するうように多摩川右岸にある港町は六郷の渡しの発着所があったことから古くから港の町として栄えていたようだ。

 私は1回だけ、川崎港を利用したことがある。50年近く前のことだ。車で南九州まで友人と遊びに行き、帰りは運転するのが面倒だったので宮崎発・川崎行きのカーフェリーを利用した。値段は高かったものの僅か19時間で川崎港の浮島桟橋に着いた。現在はその航路は廃止され、浮島桟橋自体も残っていない。港町から浮島までは7キロほどある。浮島周辺であれば写真にあるレコードのカバーのような絵がかつては見られたかもしれないが、現在の港町の多摩川右岸は下の写真のようにすっかり様変わりし、内陸にある多摩川沿いの町といった趣だ。

 港町には港の風情はもはやないが、駅の接近メロディーには『港町十三番地』が用いられている。そこにだけ「港」は残っている。

f:id:haikaiikite:20200213173313j:plain

港町駅から多摩川右岸に出る

 港町駅から北に少し進むと多摩川右岸に出る。写真は上流方向を望んだもので、中央に見える橋は第一京浜国道(国道15号線)の「新六郷橋」だ。橋の南詰付近が本日の旧道歩きのスタート地点となる。

川崎宿をのんびりと散策する

f:id:haikaiikite:20200213174038j:plain

多摩川右岸側(川崎側)にある「六郷の渡し跡」

 旧東海道の整備が始まったのは1601年。当初には「川崎宿」はなく、設置されたのは1623年のことだ。多摩川には「六郷橋」が架かっていたので、川崎は単なる通過点でしかなかったようだ。しかし、暴れ川である多摩川はしばしば氾濫して橋が流され、そのたびに人々は右岸側に留め置かれた。そこで「川崎宿」の整備が始まったのだ。その後も橋の設置、流失が続いたが、1688年には橋の設置は断念され、船による渡しが明治初期(1874年)まで続いた。

  ところで、東海道とは何を指すのだろうか?道としての東海道であれば国道1号線や15号線、または東名高速を意味するのだろうし、東海道本線東海道新幹線など鉄道路を示すことがある。旧東海道と言うと通常は江戸時代に整備された53の宿場を有する日本橋から三条大橋までの道を指す。が、元々は律令体制における「行政区域」として定められた「五畿七道」のうちのひとつである「東海道」を表していた。畿内を中心としてその東側は日本海側が「北陸道」、内陸部が「東山道」、太平洋側が「東海道」に分けられた。

 東海道というと東京から神奈川、静岡、愛知、京都、大阪辺りをイメージするが、七道での東海道には当初、武蔵国(東京、埼玉、神奈川の一部)は含まれず、東山道に属していた。国府が府中にあったので、太平洋側というより内陸地という印象が強かったのだろうか?一方、千葉(上総、下総、安房)や茨城(常陸)は東海道に属していた。

 道の基本は国府をつなぐように(これを駅路という)整備されたので、今の東海道や江戸時代の旧東海道とは一致しない点も多々あるのだろう。反面、山野には「けものみち」が自然にできるように、人の移動も都合の良い場所が選ばれることが大半なので、律令国家時代の駅路とその後に整備された道には共通する部分はかなり多いとも考えられる。『更級日記』の作者の菅原孝標女や『とはずがたり』の作者の後深草院二条は千葉や東京、神奈川、静岡を歩いているが、そこに描かれている場所は今でもよく知られているところが多い。

 もっとも、都市は政治的に造られる(江戸府内がその典型)こともあるし、日本列島は隆起や火山活動、地震動、付加などで姿を変えやすいために、より高い利便性を求めてルート変更されることもありうることは容易に想像できる。また、海上輸送の進展・拡大によって内陸ルートより沿岸ルートがより繁栄しやすいという面があることも否めない事実だ。ことほど左様に「東海道」といってもいろんな道が考えられるのだが、それを言ってしまうとどこを歩いて良いのか迷うので、江戸時代に定められ、かつ「旧東海道」として世間一般に認められている道を下ってみることにした。しかし、一般常識を有しているのはSさんだけで、あとの二人は常識とはおよそ縁遠い存在であるゆえ、今までの来し方同様、行く末も道を踏み外すことは必至と思われた。何しろ、出発点が子安のうなぎ店なのだから。

f:id:haikaiikite:20200214144516j:plain

道を踏み外さないための案内標識

 六郷の渡し跡を離れ、いよいよ旧東海道を下ることにした。Sさんは今回の下見を含め何度も旧道を歩いているので間違いはないのだが、Kさんと私のような非常識人がルートから外れないように、渡し場の近くには写真のような案内標識があった。

f:id:haikaiikite:20200214144942j:plain

歩道に設置された石標

 矢印が示す通りに横断歩道を渡ると、写真の石標が見えた。このやや狭い通りが旧東海道のようである。

f:id:haikaiikite:20200214145224j:plain

通りは狭いがよく整備されている

 写真のように道幅は狭いが、車線幅に比して歩道幅はしっかり確保されており、旅人がゆったりと歩けるようになっている。また、電柱が地中化されていることも、歩道の表面が石畳風になっていることも、川崎市旧東海道に対する強い思いが散策者にも伝わってくる。

f:id:haikaiikite:20200214145655j:plain

歩道に鎮座する変圧器の側面も標識に使われている

 電柱が地中化されると変圧器は地上に置かれることになる。少し邪魔な存在ではあるが、こうしてその側面が案内標識に用いられると、違和感は大きく減じる。

f:id:haikaiikite:20200214150035j:plain

変圧器の正面のペイント

 変圧器の正面には二代目歌川広重が描いた「大師河原」の絵が忠実に復元されている。ヒロシゲブルーがなかなか見事だ。

f:id:haikaiikite:20200214150630j:plain

小さいが、由緒はあるらしい川崎稲荷社

 本町交差点の右手に写真の「川崎稲荷社」があった。1716年(享保元年)、紀州藩主の吉宗が八代将軍継承のために江戸下向の折、川崎本陣近くにあるこの稲荷社の境内で休息をとったとされている。この説明書きから、かつての境内はかなりの広さを有していたと考えられる。

 私たちが訪れた日の午前中は何かの行事があって、参拝者や参詣者には餅が配られたのだと、役員らしき人とすれ違った折に、彼はやや申し訳なさそうに告げてくれた。私たちは「大丈夫ですよ」と返答したのだが、もちろん、その時分はうなぎを食していたということは申し述べなかった。ましてや「特白蒲重」の肝吸付きであるということは。私にも、その程度の常識はある。

f:id:haikaiikite:20200214163324j:plain

東海道川崎宿交差点

 写真の場所は京急川崎駅のすぐ近くで、この近くに田中本陣や佐藤本陣があった。さらに高札場もあった場所なので、この周辺が川崎宿の中心地だったと考えられる。写真の左手、丁度、白い車が顔を出しているその後ろにあるベージュ色の建物が、今回の数少ない立ち寄り場所である「東海道かわさき宿交流館」である。

かわさき宿交流館にて

f:id:haikaiikite:20200214164218j:plain

東海道かわさき宿交流館

  Sさんが私たち二人に紹介したいと考えたのが写真の「東海道かわさき宿交流館」だ。2013年秋に開館したこの施設には、川崎宿に関連する資料だけでなく、川崎の今昔など市の歴史や文化、川崎ゆかりの人物紹介など、川崎宿川崎市の魅力を多角的に取り扱っている。

f:id:haikaiikite:20200214193906j:plain

2階展示室内の床。川崎宿の地図が描かれている

 川崎宿についての詳細な写真と解説だけでなく、情報装置や装置模型などをふんだんに使用してその魅力を分かりやすく表現している。床には川崎宿の地図が描かれており、道の絵の周りに主な見どころが紹介されているので位置関係がとても理解しやすくなっている。また、室内には解説員がいるので不明な点について尋ねると懇切丁寧に説明してくれる。

f:id:haikaiikite:20200214193810j:plain

川崎宿の史跡が写真付きで説明されている

 写真は、川崎宿の史跡を解説しているパネルがある場所。ここで宿場周辺の見どころがチェックできる。これを見ると、この交流館に来るまでには立ち寄っていない史跡が数か所あったようだが、道すがらSさんはそれらについて触れることはなかった。特に重要とは考えていなかったのか、それらはKさんや私が興味を示さないであろうということは先の2回の鎌倉散歩での経験で「お見通し」だったからなのか?たぶん、その両方が理由だったと推察した。何しろ、二人の話題の中心はうなぎや中とろが美味しかったということについてだったからである。

f:id:haikaiikite:20200214200506j:plain

記念撮影スポット「六郷の渡し」

 同階には「川崎宿模型」や「江戸時代の旅とその道具」の展示もあるが、私が気に入ったのは写真の記念撮影スポットだ。浮世絵に描かれた六郷の渡しの様子を拡大したものが置かれており、船頭と旅人の顔の部分がくり抜かれているというどこの観光地でもよくある装置だ。三人の中で女役にふさわしい容貌のものはいなかったが、船頭役となれば私以上に適する者は皆無なので、当然、私がモデル役となった。

 3階には川崎ゆかりの人物が紹介されていた。印象に残っているのは「坂本九」と「佐藤惣之助」だ。坂本九は歌手としても大活躍しヒット曲も多いが、私の中では「御巣鷹の尾根」に日航123便が墜落し、その犠牲者の一人であったということがもっとも印象に残っている。佐藤惣之助は偉大なる俗物ともいうべき存在で、文学史に残る傑作はものにしていないが、釣りに関する著書を数冊出していることを評価したい。一般には『赤城の子守歌』『人生の並木道』の作詞者として知られているかもしれない。ただ、これは高齢者にだけ知られている。それなら、『大阪(阪神)タイガースの歌』なら若い人にもよく知られているかもしれない。この歌の通称は『六甲おろし』である。川崎宿に関して言えば、佐藤惣之助は「佐藤本陣」直系の人物であって、この宿場では名家なのだ。何しろ彼の生家跡には現在、川崎信用金庫本店が鎮座している。

遊女の供養碑文に感動する

f:id:haikaiikite:20200214205728j:plain

宗三寺には遊女の供養碑(供養塔)がある

 写真の宗三寺は曹洞宗の寺で、京急川崎駅のすぐ南側にある。京急川崎駅に到着したとき、Sさんから宗三寺には「遊女の供養塔」があるということは聞いていたし、旧東海道を歩けばその寺の前を通るということも聞いていた。

 寺は「かわさき宿交流館」のすぐ近くにあった。Sさんから「宗三寺に寄りますか?」と尋ねられたとき、すぐには反応できなかった。が、「遊女の供養塔がある場所ですよ」と言われてその存在を思い出したのだった。

 本堂は少しだけ立派に見える程度で、他にいくらでもある寺ぐらいにしか思えなかった。しかし、境内の北外れ(つまり京急川崎駅寄り)にある「遊女の供養塔」まで案内され、その石碑を見た刹那、深い感動を覚えた。

f:id:haikaiikite:20200214224333j:plain

今回の徘徊で最高に感激した供養碑と供養塔

 川崎は宿場町であり、港町であり、漁師町でもあった。近代では工場の町でもあった。当然のように、そうした場所には花街、色町、歓楽街があったし現在もある。そこには望まざる事情で働いていた女性たちが多く存在した。彼女たちの荒まざるを得なかった心を鎮魂するための供養碑と供養塔が境内の片隅にあった。

 碑文の冒頭の三文字には「紅燈巷」とある。「紅燈巷=紅灯の巷(こうとうのちまた)=花街」で、つまり「紅灯の巷」は花街、色町の隠語なのだ。私が読んできた大衆小説には「紅灯の巷」という表現が何度か出てきたのでその意味するところは若い頃から知っていた。しかし、石に刻まれた三文字を見たのはこれが初めてだった。

 私はこの碑文を目にしたとき、すぐに中島みゆきの『紅灯の海』という作品を思い出した。1998年3月に発売されたアルバム『わたしの子供になりなさい』に収録されている曲だ。中島みゆきの作品の中でもっとも気に入っているのはアルバム『EAST ASIA』(1992年)に収録されている『誕生』だが、『紅灯の海』はその次に位置するほどの傑作だ。

 作品名を初めて見たとき、なぜ「赤灯」ではなく「紅灯」なのかと訝った。釣り人や船乗りにとって「赤灯」は港の出口の左側にある赤灯台を指すことは常識だったからだ。しかし曲を聴いたとき、これは「赤灯台」の「赤灯」のことではなく「紅灯の巷」の「紅灯」であることがすぐに了解できた。初見では「海」に引きずられて解釈しようとしたのだが、「海」は海そのものではなく「巷」の隠喩だったのだ。そのことは歌詞の全体を読めばすぐに分かることだった。一部には「紅灯の巷」に迷い込んだ男の切なさを表現したとあるが、これはもちろん誤りで、花街で働かざるを得なかった女性の切なさ、悲しみ、そして大いなる覚悟を表現したものであることは明らかだ。「巷」ではなく「海」という直截(ちょくせつ)的ではない表現に、中島みゆきの凄みが込められている。

 石碑と供養塔に触れた私は、旧東海道を歩いたことの意味と意義を深く理解し、形状しがたい満足感を得た。番外に極上の味わいを得て、本番では感性を揺さぶり、そして磨き、さらなる高みへ飛翔可能な出会いを得た。これらだけでも、今回の散策は100点満点の220点だった。まだスタートしたばかりだけれど。

道は続き、淡々と歩く

f:id:haikaiikite:20200215111047j:plain

八丁畷駅近くにある芭蕉の句碑

 宗三寺を離れ、旧道を西へ進んだ。砂子(いさご)通りを経て小土呂橋交差点に出た。旧道と直角に交わる新川通りの下にはかつて「新川堀」があった。堀があったころには「小土呂橋」が架かっていたようで、交差点の脇には、その橋に用いられていた2本の親柱が保存されている。横に当時の写真と由緒書があったが、堀はかなりの悪水路だったようだ。多摩川筋からはそう遠くはないので、その堀は旧多摩川が残した水路跡かもしれない。

 さらに西へ淡々と進み、私が南武支線から京浜急行に乗り換えた八丁畷駅近づいた。畷(なわて)とは「あぜ道」のことで、多摩川鶴見川に挟まれたこの周囲は平坦な土地なので田んぼとして利用されていたのだろうか。ここまで来ると、もはや川崎宿の賑わいとは別の世界が開かれている。

 旧道と京浜急行線との間に、写真の「芭蕉の句碑」があった。

「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」

 元禄七年(1694年)の5月、江戸を離れて故郷の伊賀上野に向かう際、川崎宿のはずれにあったこの地の茶屋で弟子たちと別れを告げ、上記の句を残した。その年の10月、伊賀上野の地で、芭蕉は51年の生涯を終えた。次の句を残して。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

 この二つの句は、芭蕉の作品でなければ後世には残らなかったと思われるほど感傷をそのまま表現したものだ。どんな天才であっても、晩年は普通の人として過ごすのかもしれない。死において、人の存在は平等なのだろう。

f:id:haikaiikite:20200215114148j:plain

八丁畷駅横にある「無縁塚」

 八丁畷というのは、川崎宿の端から市場村(鶴見)まで八丁(870m)ほど真っすぐなあぜ道が続いていたことから命名されたようだ。この辺りで働いていた庶民は、なんの名も残さずに生涯を終えた。そんな人々の冥福を祈るために写真の無縁塚が築かれた。遊女の供養塔といい無縁塚といい、川崎に住む人の心は優しい。というより、人は誰でも優しさと我欲を同時に有しており、たまたま優しさが表層に現われた際に、利他的な行為が具現化されるだけなのかもしれない。

f:id:haikaiikite:20200215114954j:plain

市場村に築かれた一里塚

 かつては街道の一里ごとに「一里塚」が道の左右に置かれていたようだが、現存するものはほとんどなく、写真の市場村の一里塚は日本橋から五里(約20キロ)のところにあり、日本橋から旧東海道を散策する人にとって初めて目にすることができる塚だそうだ。赤い鳥居には「稲荷社」の文字があり、その向こうに小さな祠がある。

 なお、市場はこの地区の旧名で、鶴見には大きな海鮮市場があったことから命名されたようだ。ここは鶴見区、私たちの散策は川崎市を離れ、横浜市に入ったのだ。

f:id:haikaiikite:20200215120052j:plain

鶴見川橋。下流は護岸整備が進み趣に欠ける

 鶴見川は「氾濫」と「汚染」のイメージが強い。長さは42.5キロありながら、源流域の標高は125mほどなので勾配が緩いためもあって蛇行しやすい。源流域にはいくつもの谷戸があるが、一般には町田市上山田町にある田中谷戸を源流点としている。同じ多摩丘陵谷戸から発した多くの中小河川を集めているため水の増減が激しく氾濫をおこしやすい。また、中下流域は大都市に近い場所にあるために開発されやすく、実際かなり市街化が進んでおり、それが河川の汚染につながっている。名前は優雅だが、それとは裏腹に汚染度は日本でも有数に高い。氾濫を防ぐために護岸化が進んでいるので興趣をそぐが、護岸整備が進んだことで散策路も多く造られており、流域に住む人の親水度は高いようだ。

f:id:haikaiikite:20200215123028j:plain

鶴見川左岸に咲く菜の花

 整備された護岸の傍らには菜の花畑があった。その先にある河津桜若木も開花を進めていた。今春は草花の開花が全般的に早いようなので、春の花探し散策を早めに始める必要がある。

f:id:haikaiikite:20200215123446j:plain

万延元年に造られた鶴見関門。慶応三年に廃止

 安政六年(1859)に横浜港を開港したことで幕府は世情の不安を感じ、万延元年(1860)に川崎宿保土ヶ谷宿との間に見張り番所(関門)を造った。文久二年(1862)に生麦事件が起きると幕府はさらに関門を増やし、川崎宿から保土ヶ谷宿の間には20もの関門が造られた。写真の鶴見関門は川崎宿から5番目に数えられるものだ。世情が安定化に向かった慶応三年(1867)に鶴見関門は廃止され、翌年に写真の碑が建てられた。関門がすべて廃止されたのは明治四年(1871)だった。

鶴見神社と総持寺

f:id:haikaiikite:20200215130414j:plain

川崎・横浜で最古の鶴見神社

 鶴見神社は7世紀の初め頃に創建された川崎・横浜では最古の神社とされている。古くは杉山神社と称され、武蔵国六の宮と考えられてきた。しかし、鶴見川流域には杉山神社は多く、この神社が六の宮かどうかは確定されていない。

f:id:haikaiikite:20200215130902j:plain

狛犬の台座は溶岩

 この神社でもっとも興味深かったのは狛犬の台座が溶岩であったこと。これは後述する富士講と関係があるのかもしれない。

f:id:haikaiikite:20200215131118j:plain

境内の東側には神社が整列している

 鶴見神社の本殿は改修工事中だったが、奥にある富士塚に少しだけ興味を抱いたので、本殿横を通って奥に向かった。途中、写真のように「大鳥社」「関神社」「秋葉社」などいくつかの神社が整列していた。私たちの前には信仰心が篤そうな人がいたが、彼はそれらのひとつひとつに参拝していた。信仰心のない私はそれぞれをちらりと見ただけで、ほとんど素通り同然だった。

f:id:haikaiikite:20200215131317j:plain

奥に鎮座する富士塚

 社殿の奥にはたくさんの溶岩が積まれており、その先にあったのが写真の富士塚である。富士山信仰(富士講)は江戸時代中期以降に盛んになったので、鶴見神社も旧東海道の近くに位置するために写真の富士塚を造営したのだろうか。狛犬の台座を始め、境内のあちこちに溶岩が多くある。富士山から運んだものだろうか?日本は火山列島なので、溶岩は何処でも入手できるが。

f:id:haikaiikite:20200215132758j:plain

なんでもでかい総持寺の建造物

 旧東海道からは少し離れるし、能登半島から移転してきたのは1911年のことなので、写真の総持寺は旧道とは何の関わりはないが、この機を逃すと立ち寄ることはないと思うので、今回の散策の終着点としてこの場所を選んだ。

 総持寺曹洞宗の寺なので「道元」の名が煌びやかに掲げられていると想像したのだが、その名は特に見当たらず、太祖瑩山の名のみがあちこちで見られた。総持寺は「総本山」を名乗っているが、曹洞宗の総本山といえば永平寺を思い浮かべるのだが、そちらは高祖道元の総本山で、こちらは太祖瑩山の総本山のようだ。

 曹洞宗と言えば他の鎌倉仏教が末法思想を背景に置くのに対し、あくまでも末法の世をであることを否定し、正法の時代に相応しい修行を推奨する。それは座禅に基づく「身心脱落(しんじんだつらく)」であり「修証一等」であると私は教えられ、そう理解してきた。それゆえ、総持寺の佇まいに触れた際には「違和感」以外の何物も抱かなかった。

 それは上の写真の「太祖堂」であり、以下に挙げる各建物のすべてに通じるものだった。何しろ、建造物のすべてが異常とも思えるほど壮大なのである。座禅であれば畳半帖でも広すぎるくらいであり、座禅修行そのものが悟り境地(四諦の了解)なのだから、大きな建物は、いや建物の存在すら不要なのだと思うのだが。

f:id:haikaiikite:20200215142652j:plain

広い参道を歩きまずは三松関へ

f:id:haikaiikite:20200215142755j:plain

三松関の先にある大きな三門(山門)

f:id:haikaiikite:20200215143056j:plain

かるた会がおこなわれていた三松閣

f:id:haikaiikite:20200215143145j:plain

歴史を少しだけ感じさせる仏殿

 JR鶴見駅のすぐ西側にある鶴見が丘(下末吉台地)にあり、参道口の標高は6m、太祖堂横の標高は36mと、沖積低地からでもその偉容を見て取ることが可能だ。

 宗教はその発展において世俗化は必至なのだろうか。キリスト教浄土真宗も世俗化することで規模が拡大した。もちろん、その過程で権力との結びつきを強めた。

f:id:haikaiikite:20200215143811j:plain

太祖堂内でお参りする人々

 私には信仰心はまったくなく、こうして堂内に立ち入ってもただ風景のひとつとして眺めるだけだ。神社仏閣にはよく訪れるのだが、最近はこうして参拝する人が増え、しかも若い参拝者を多く見かけるようになった。それだけ、先行きに対する不安が増大しているのだろうか。新型コロナウイルスへの異常なる恐怖心の流布も今の時代を反映している。

 脱呪術化は遠き道のりだ。