徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔46〕野川と国分寺崖線を歩く(4)深大寺界隈(後編)

f:id:haikaiikite:20200919104033j:plain

お寺の鐘は三度、響き渡る

深大寺の歩みを概観する

 深大寺の開創は『深大寺真名縁起』では733年、『私案抄』では757~64年である。前者は深大寺の僧・辨盛が1650年に著したもので、1646年の火災により深大寺に存した縁起・経疏・霊仏・霊宝・梵器などがことごとく焼失したのち、古記を見聞した人や古老の伝語などを参考にして、寺の由緒をまとめたものである。これには、前回に触れた「福満伝説」などが記されている。後者は深大寺の僧・長辨(1362~1434?)が著した文集であり、深大寺の歴史のみならず、当時の多摩地域の風土についても記されており、『真名縁起』よりも史料的な価値は高いとされている。

 1722年、『真名縁起』を元に本文を和文に改め、絵画を加えて絵巻物形式をとった『深大寺仮名縁起』が著された。これは、より一般的な表現内容をもつものとして深大寺の創始期の出来事が表現されているゆえもあってか、現在の深大寺は、こちらに記されている733年説を採用している。ただし、満功上人が父親の福満の念願を果たすために社壇を建て、深沙大王の影向を感じて新羅国から送られた画によって多摩川で得た桑の木に大王像を彫刻したのは750年、淳仁天皇の御代(758~764)に「浮岳山深大寺」の勅額を下賜されたのは深沙大王の社壇であることから、750年を深大寺の創建年とする説もあるようだ。いずれにせよ、深大寺の創建は8世紀前半から半ばであり、それは深沙大王の霊場であり、鎮護国家の道場でもあった。

 前回にも記したように、深大寺は9世紀の半ばから後半の貞観年間に法相宗から天台宗の寺となった。『真名縁起』などによれば、「武蔵国司蔵宗叛逆。勅により恵亮和尚武蔵国分寺に至り、勝地を求めて宝剣を投げ、その落ちる所、深大寺の泉井の辺を霊場として調伏法を修する。凶徒降伏するにより深大寺を恵亮に賜る。これにより法相宗を改め、永く天台宗となる」とある。武蔵国司の反乱を鎮めるために天台宗の僧が深大寺に派遣され、それを契機に天台宗の寺となったとされている。ただし、『日本三大実録』の貞観年間の項には武蔵国司蔵宗についての記述はまったくないので、この反乱が真実であるかについては定かではない。深大寺は、この貞観年間に天台宗に改宗したと了解するにとどめておくのが無難かもしれない。

 天台宗は6世紀、智顗(ちぎ)によって開かれた大乗仏教の宗派だが、日本では中国で学んだ最澄が806年に伝え広めた。そのことから、最澄は「伝教大師」の諡号を得ている。最澄は秀才ではあったが密教研究では空海には遥かに及ばなかった。しかし、天台宗としてはこのことが「幸い」して、円仁や円珍という優秀な後継者が登場した。

 円仁(慈覚大師)は第3代の天台座主で、とりわけ東北巡礼と布教活動がよく知られている。「立石寺」「中尊寺」「毛越寺」「瑞巌寺」など、今日でも観光地として大人気の寺を開いている。円珍(智証大師)は讃岐国の佐伯一門の出身(空海の甥)であり、十二年間の籠山修行を満ずると、役行者の後を慕い、大峯山葛城山熊野三山を巡礼し、那智の滝に参籠している。円珍は後に近江の園城寺三井寺)を中興した。その園城寺は、壬申の乱大海人皇子天武天皇)に敗れた大友皇子の皇子であった大友与多王が創建したもので、父親の宿命のライバルであった天武天皇から「園城」の勅額を賜ったことから園城寺と呼ばれるようになった。ただし、一般的には三井寺の名で通っている。

 天台宗は円仁と円珍という極めて優秀な僧に恵まれたが、反面、その仏教観の違いから、円珍の死後、その門下は延暦寺から出て園城寺に入ることになり、比叡山に残る門流(山門派)と園城寺に移った門流(寺門派)との対立が深まった。山門寺門の抗争は武力衝突に至り、園城寺は何度も焼き討ちにあったがその都度、復興を遂げた。この抗争は源平の対立にも影響を与え、平清盛が出家の際に天台第55代座主の明雲に戒師を務めてもらった誼で山門派を支持した関係上、源氏は寺門派と結びつくことになった。

 仏教は「如是我聞」の世界ゆえ、その価値観は無数に生じ、ささいな違いから対立・抗争が生まれる。その背後には、自らを相対化できない人間の性に対しての超克困難性があるからなのだろうか。

 天台宗は世俗化・堕落化の道を辿ったが、これを立て直した?のが、第18代座主の良源(慈恵・元三大師)である。彼は荒れ果てた根本中道などの堂舎を再興し、学問振興を図った。『往生要集』を著した源信(恵心僧都)は彼の弟子である。良源の業績でもっとも有名、かつ定着しているのは、「おみくじ」を発案したことかもしれない。

f:id:haikaiikite:20200922151538j:plain

元三大師が「発明」したおみくじ

 深大寺には本堂の隣に「五大尊池」を挟んで元三大師堂がある。参拝客の多くは本堂の存在を無視してでもその大師堂に訪れて「おみくじ」を購入する。上の写真の文面にあるように、深大寺のおみくじは、他の寺社とは異なり「凶」の札数を減らしていないために「凶」を引き当ててしまうことが多いそうだ。しかし、「凶は吉に好転する力を秘めている」のでご安心、という具合らしい。ならば、「吉は凶に暗転する」ということも考慮する必要があるのではなかろうか?「おみくじ」の販売は、まさに世俗化の極みといえよう。

 かように、天台宗最澄の思想が十分な内容をもちえずにいたためにそれが幸いし、数多くの優秀な人材を輩出した。一方、最澄が勝手にライバル視した空海は、その天才性を発揮してきちっとした教義を確立したためにそれが災いしたのか?彼を超えるような人材が輩出されることは、なかなか生じなかった。最澄天台宗を開いた歴史上の人物に過ぎないが、空海弘法大師として現在も生きており、四国八十八か所霊場を巡るお遍路とは常に同行し(同行二人)、高野山奥の院にある御廟では今も瞑想修行をおこなっている。そのため、高野山では毎日、空海のために食事が運ばれており、ときにはパスタも供されるそうだ。空海はパスタも食うかい?

 真言宗でも傑物を輩出していないわけではない。覚鑁(かくばん、興教大師、1095~1142)は、荒廃した高野山を復興し、さらに途絶えていた伝法会を復活し伝法教院を設立して真言宗の立て直しを図った。それによって一時は院宣により金剛峯寺の座主を務めるまでになったが、保守派の衆徒によって高野山を追われることになり、覚鑁根来寺(ねごろじ)に移って新しい解釈(密教浄土教の融合=新義真言宗)による教えを打ち立てた。この点については本ブログでもすでに触れている(cf.17回浅川旅情)。和歌山県岩出市にある根来寺は1585年、豊臣秀吉に弾圧されるまで日本有数の大寺院に発展した。その後、徳川家によって再興され、1690年、覚鑁には興教大師の諡号が与えられた。

 中世の寺院の佇まいを残すといわれる根来寺は、私が訪ねたいと思いながらも未だに出掛けていない日本の景色のうちのひとつだ。高野山には何度も出掛け、その際は決まって橋本市に宿泊する。橋本市街から根来寺までは直線距離にして30キロ足らずだし、京奈和自動車道を使えば30分ほどで行ける場所にあるのだが、一方、奈良方面には吉野山、明日香、桜井、長谷寺室生寺など何度出掛けても飽きることのない魅力的な場所が綺羅星のごとくに聚合しているため、どうしても足は西ではなく、東ないし北東に向いてしまったのだった。残念なことではあるが、まだ時間がないわけではない。

 元三大師は953年、比叡山解脱谷にて大師像を自刻し、そのひとつが991年、恵心僧都などの手によって移安されたという記述が『深大寺仮名縁起』にある。それが事実であるかどうかは不明だが、この時期に深大寺は深沙大王像、阿弥陀如来像(深大寺本尊)にならんで、元三大師像を信仰の中心に据えたのかもしれない。

 中世の深大寺には大きな出来事があった。「仁王塚事件」と呼ばれているものである。『江戸名所図会』には以下の件がある。「何某の一子(鎌倉武士の子とされている)、当寺二王門の辺に遊ひてありしか、忽に姿を見失ふ。人々驚き一山大に騒動す。しかるに当寺二王門の二王尊の唇に、其児の常に着する所の衣服の残りとゝまりて、児を呑みたるに似たり。依って里民、此二王の像をこほちて門を破却し、土中に埋めたり……」。『真名縁起』ではさらにすざまじく、怒った武士の一族は寺に乱入し、仏閣を壊し、僧房を廃すなど、深大寺は滅亡の危機に瀕したと記している。

 荒廃した深大寺を再興したのが、世田谷城に居を構えていた吉良氏であったと『真名縁起』は記している。吉良氏の世田谷城については本ブログでも少しだけ触れている(cf.第9回世田谷線散歩)。深大寺の復興にとくに尽力したのは吉良頼康(?~1562)と考えられている。『世田谷吉良家旧事考』には、深大寺は吉良家の祈願所であり、五拾石を与えたとある。吉良氏は小田原北条氏と姻戚関係を結んでおり、頼康の「康」は北条2代の氏康から賜っている。なお、世田谷吉良氏は『赤穂浪士』に出てくる吉良氏(三河系)の縁戚である。

 1590年、小田原北条氏が豊臣秀吉軍に敗れると同時に北条側についた吉良氏も滅び、深大寺はその庇護者を失った。しかし、江戸に入府した徳川家康は翌年の1591年、関東一円の由緒ある寺社に領地を寄進し、深大寺もその中に加えられた。さらに、3代家光や5代綱吉、8代吉宗など14代の家茂まで大半の将軍は家康に倣って50石の領地を寄進した。江戸時代の深大寺は浮岳山昌楽院と号し、上野東叡山寛永寺の末寺であった。

 江戸時代の深大寺の中心的存在となったのは、厄除け大師として人気の高かった元三大師良源であった。彼は元日の三日が忌日だったので元三大師と呼ばれたのだったが、月命日には農具・古着類の市が立ち大いに賑わったらしい。近郷の道しるべにも、深大寺道とあるだけでなく元三大師道と刻されたものも多かったらしい。

 1865年(慶応元年)、深大寺は大火に襲われ、主要な建物を失ってしまった。さらに、明治初年の神仏分離令によって深沙大王堂は鎮守社の地位を失い、堂は廃墟と化してしまったのだった。

境内を徘徊する

 深大寺とその周辺の地形を概観したい。例によって、国土地理院の標高の分かるWeb地図を利用する。

 深大寺通りから山門に至る参道を仲見世通りともいうが、仲見世通りは標高41m(以下、標高の文字を省略する場合あり)地点で始まり、山門下は40m、階段を上がった山門の入口は43m、常香楼、鐘楼は43m、本堂前は44m、元三大師堂前は46m、開山堂は55m、釈迦堂前は43m、延命観音窟は46m、動物霊園は54m、深沙大王堂前は43m、神代植物公園(かつて深大寺のそば畑があった場所)は55mとなっている。深大寺通りの際を流れる逆川は40m地点となる。つまり、深大寺の境内は逆川が開析した緩やかな谷の底辺(40m地点)に参道があり、主だった建物は川面よりも少し高い43から46mの地点にあり、建物群の背後に国分寺崖線があり、その上に武蔵野段丘面がある。この武蔵野段丘面はほぼ平面なのだが、古い絵ではいかにも小高い山が連なっているように描かれている。深大寺は、他の寺の多くがそうであるように「背山臨水の地」に建立されている。

 ただし、南面は北西から南西に伸びる舌状台地(かつて深大寺城が築かれていた)が50~52mの高さで覆っているため、真南からでは深大寺の姿を望むことはできない。現在では中央高速自動車道が舌状台地の南側を走っているためその存在はさらに隠蔽されている。国道20号線から三鷹通りを北に進み深大寺の森を望もうとしても、中央道が視界を遮るのだ。

f:id:haikaiikite:20200923201805j:plain

山門をくぐると本堂と常香楼が目に入る

 1865年の火災によって本堂は焼失したが、すぐに小さな仮本堂が建てられたものの、現存する写真の本堂の完成は1925年まで待たねばならなかった。というのも、前述したように、江戸時代以降の深大寺は元三大師信仰が中心であったため、それを祀る元三大師堂の再建が優先されたためであった。

 本堂の本尊は像高約69センチの宝冠をいただく阿弥陀如来像である。『江戸名所図会』には「本尊は宝冠の阿弥陀如来。恵心僧都の作なりといふ」とあるが、正確なところは分かっていないらしい。専門家の分析によれば、鎌倉時代前期の作であると推定されている。

f:id:haikaiikite:20200923204344j:plain

常香楼に残る火災の跡

 焼香炉を覆う常香楼は1833年に建てられた。1865年の大火災では山門とこの常香楼だけが焼失を免れた。ただし写真にあるように、一部に炎を受けて焼け焦げた跡(焼痕)が残っている。古い写真を見ると焼香炉の台座は火山岩であったようだ。私が初めて深大寺を訪れた際は今の姿とは異なり古い台座のときだったと考えられるのだが、記憶にはまったく残っていない。

 山門をくぐった参拝者はまず、すぐ左手にある案内所でパンフレットをもらい、「手水舎」で手を、香炉で体を清め、それから本堂前に進んで手を合わせる。その流れは私のような不信心者以外はほぼ共通で、それからの行程は参拝者ごとに若干、異なる。

f:id:haikaiikite:20200924154847j:plain

神代名物の「おみくじ」を結ぶ

  深大寺は”そば”と”おみくじ”が同じくらい有名なので、初めて深大寺を訪れた人の多くは本堂を参拝したあとは再び山門近くの案内所に戻り、そこでおみくじを購入する(と思う)。おみくじは勝手に木々の枝に結ぶことは禁じられており、写真のような「おみくじ結び」場所があるので、そこに結び付ける。境内には、このような”施設”が数か所ある。カップルでおみくじを購入する場合、それぞれが買い求めるのだろうか?それとも自分たちの行く末を占うのだから、一枚だけ購入するのだろうか?コロナ禍でなければ写真のカップルにそれを問うのであるが、今はその行為が憚られるため聞くことはできなかった。

f:id:haikaiikite:20200924183625j:plain

梵鐘は2001年に2代目に変わった

 山門をくぐった右手には写真の鐘楼がある。深大寺では朝、昼、夕の3度、鐘撞がおこなわれる。本項の冒頭の写真は、昼の鐘撞の場面である。鐘楼は1865年の火災で焼失したため、1870年に再建された。1956年には茅葺の屋根から銅板葺きに改築された。梵鐘は2001年に新しく造られ、1376年に造られた旧梵鐘(国の重要文化財に指定されている)はその役目を終え、現在は釈迦堂に安置されている。

f:id:haikaiikite:20200924201855j:plain

参拝客の多くは元三大師堂が目当て

 元三大師良源は「厄除け大師」「角大師」「豆大師」としてもよく知られている。通常、関東三大厄除け大師というと真言宗の寺をいう場合が多く、その際は「西新井大師」「川崎大師」「観福寺」(千葉県香取市)を指すようだ。「大師」だけだとどうしても弘法大師を連想してしまうので致し方ない点もあるが、「厄除け大師」と聞くと元三大師をイメージする場合もあるので、関東三大厄除け大師ではなく「関東三大師」という場合は、天台宗でかつ元三大師像が安置されている名高い寺の中では「佐野厄除け大師」「川越大師」(喜多院)「青柳大師」(群馬県前橋市)の三寺を挙げる場合がある。 

 こうした「三大〇〇」というのは日本人は大好きだが、多くの場合、2つは大半の人が納得するものだが、3つ目に異論を唱える場合が多い。関東三大師でも佐野厄除け大師はCMで多くの人がその名を知っており、喜多院も観光地・川越の寺として名高いので合点がいくが、青柳大師が加わるかどうかは東京の田舎者にとって納得しがたいものがあるようだ。そこで多摩地区の住民は、青柳大師に替えて「拝島大師」か「深大寺」を名指しするのである。

 拝島大師と深大寺はライバル関係にあり、「だるま市」でも覇を競っている。が、「日本三大だるま市」では富士市の「毘沙門天祭」、高崎のだるま市(少林寺達磨寺)に並んで、深大寺の「厄除元三大師祭」が堂々のベストスリー入りを果たしているので、関東三大師の項では拝島大師にその席を譲ってもいいのではないかと思う。それが大人の知恵というものであろう。

 ともあれ先にも述べたように、江戸時代以降には、深大寺といえば元三大師堂が代表的存在であったため、おみくじにも魅せられて、さしあたり多くの参拝客は「凶」を引き当ててしまうにもかかわらず、本堂よりも大師堂に参じるのである。

f:id:haikaiikite:20200924210359j:plain

深大寺には、だるまのおみくじもある

 深大寺のおみくじは一般的なものだけでなく、名物のだるまの中におみくじが入ったものがある。こうした類のおみくじは、かつて三浦市海南神社を紹介したとき(cf.第24回岬めぐりは三崎めぐり)に「鮪みくじ」に触れたことがある。

 元三大師堂は、前述したように1865年の大火災にて焼失してしまったが、早くも3年後の1867年に再建された。旧大師堂は本堂の西南にあり、東向きに建っていたらしいが、再建時に本堂の西隣に移された。新堂建築の際、一部は国分寺崖線の斜面が邪魔になったので、下の写真から分かる通り、崖の一部を削って敷地面積を確保している。

f:id:haikaiikite:20200926163010j:plain

大師堂造営のために削られた崖線

 大師堂には当然のごとくに元三大師像がある。御本尊の大師像は秘仏となっているため、その姿を見ることはできない。記録によれば、日本にある元三大師像は13世紀初頭に像立されたのが最古とのことだが、『深大寺仮名縁起』には大師が953年に自刻し、991年に比叡山から深大寺にもたらされたとされている。

 通常の元三大師像はほぼ等身大に造られることがほとんどらしいのだが、深大寺のものは像高が196.8センチもある。実物を見ることはできないが、研究者が調査した際に撮影された画像をみると、目も鼻も唇もいささかはっきりしずぎており、やや異様な風体である。

 この大師像は、本来ならば今年の10月に開帳(一般公開)される予定であったが、コロナ禍のために中止されてしまった。が、来年(2021年)は最澄の1200年大遠忌を迎えることもあり、天台宗では東京国立博物館で秋に特別展が開催される予定で、そこに深大寺の元三大師像が展示(出開帳)されることになっている。この出開帳は江戸時代にもおこなわれたようで、来年、これが実施されると205年振りのことになる。

 大型の大師像だけではなく、像高12.3センチの小型のものもある。こちらも秘仏とされている。魔よけの力を有する元三大師をイメージした造りになっていて、頭には2本の角があり、歯牙をむき出し、上半身は裸で、右手には独鈷を持つというスタイルである。写真で見る限り、怖さは感じられず、かえって可愛らしさすら抱いてしまう。この像も来年の出開帳の対象になるのかもしれない。

f:id:haikaiikite:20200926094857j:plain

本堂と大師堂との間にある五大尊池

 本堂と大師堂との間には渡り廊下が造られている。手前の池の上方にあり、現存のものは1982年に改修された。廊下の下にある「五大尊池」も水が豊富な深大寺を象徴するもののひとつである。五大尊は本ブログでは以前(cf.第7回越生)にも触れているが、密教の信仰対象であり、「不動明王」を中心に「降三世明王」「軍荼利(ぐんだり)明王」「大威徳明王」「烏枢沙摩(うすさま)大王(真言宗では金剛夜叉)」を指す。池の周囲にはもみじが多いので、紅葉シーズンにはかなりの賑わいを呈するらしい。

f:id:haikaiikite:20200926103926j:plain

釈迦堂には国宝の釈迦如来像がある

 釈迦堂は、国宝(2017年に再指定)の「釈迦如来像」を火災から守るために1976年、鉄筋コンクリート造りのものに新築された。

 その釈迦如来像は飛鳥時代後期(白鳳期)に作製されたものと推定されているので、「白鳳仏」の名で呼ばれている。伝承では、法隆寺の夢違観音、新薬師寺の香薬師(現在行方不明)と同じ工房で作られたとされている。

 1865年の火災では焼失は免れたものの、67年に完成した大師堂の須弥壇の下に仮置きされたまま、ほぼ忘れられた存在になっていたが1909年に再発見され、13年には国宝に指定されたという数奇な運命をたどっている。反面、1895年の『深大寺創立以来現存取調書』には「釈迦銅̻▢ 壱軀 丈二尺余 座像ニ非ズ立像ニ非ズ 右ハ古ヘ法相宗タリシ時ノ本尊ナリト申伝ナリ」と記録されているので、必ずしもその存在は忘れ去られていたわけではなく、天台宗以前の本尊であるならば、優れて貴重なものであるという認識は有していたはずだ。

 釈迦堂に安置され、一般公開されているので誰もがその姿をガラス越しに触れることができる。拝観料は300円だが、お賽銭という形で支払うことになっているため、強制徴収されるわけではない。私はお賽銭を投げ入れる習慣はまったくないが、国宝仏に敬意を表するという形で支出をおこなった。写真撮影は禁止されているが盗み撮りは簡単にできるので、その行為に出ている不届き者を何人か見掛けた。私には記録に残すという考えは全くないので、撮影はおこなわなかった。

 像高83.9センチで、頭髪は螺髪ではなく平掘りである。1932年に新たに作成された台座の上に両足を開いた形で腰掛けている。こうした倚像(いぞう)は、日本では7世紀後半から8世紀初頭に作られているので、この釈迦像が白鳳期に作られ、のちに深大寺に持ち込まれて本尊になったということは確かなようである。

f:id:haikaiikite:20200926125221j:plain

大師堂の直上にある開山堂

 大師堂の西横にある坂を上り武蔵野段丘面に出ると、写真の「開山堂」が目に入る。名前の通り、ここには深大寺開祖の満功上人像、9世紀半ばに比叡山から深大寺に下り天台宗の第一祖となった恵亮和尚像が安置されている。両像は1986年に作られ、堂は87年に竣工している。堂の素材として、深大寺の森の中に生育していたケヤキやマツが用いられた。

f:id:haikaiikite:20200926134154j:plain

森の中にある動物霊園

 開山堂を出て大師堂から来た坂を少し下ると、右手に動物霊園の入口が見えてくる。階段を上がって敷地内に入ると高さ30mの萬霊塔や「南無十二支観世音菩薩」と書かれた数多くの幟旗が目に入ってくる。小鳥やハムスターなどの小動物、ネコやウサギ、小型から特大の犬といったペットのための霊園で、数多くある霊座の扉には、写真のような文字や絵などが彫刻されている。最近では、ペットは家族と同等の存在なので、このように死後も丁重に扱われている。訪れる人は多く、参拝客は本堂よりも多いほどだった。

f:id:haikaiikite:20200926135019j:plain

延命観音窟を望む

 延命観音窟は上に挙げた動物霊園の敷地の真下にある。1967年に造られた洞窟で、間口は4m、奥行きは5m、高さは3mのコンクリート製である。2010年に大改修されて現在の姿になった。

 1966年、秋田県象潟港の工事の際、事故があって海底にある大石を引き上げることになった。その大石に、なんと慈覚大師円仁が自刻したとされる延命観音像が彫られていたのだった。それを安置するために造られたのが延命観音窟であった。

 何故、それほど貴重な大石が東北地方の寺(東北には円仁ゆかりの寺が数多くある)ではなく調布の深大寺に安置されることになったのかは不明で、深大寺の資料でも「縁あって」としか記されていない。当然、ネット等で調べても「縁あって」以外の記載はない。

f:id:haikaiikite:20200926145718j:plain

洞窟内に安置されている延命観音

 延命観音三十三観音のひとつで、岩に肘をつき、そちらの手を頬にあてている姿をしているとされる。なるほど、洞窟内にある大石の表面には、かなり年季が入っているものの、頬杖をつく観音様の姿が彫られていることが分かる。

 素敵な女性(男性でも)が少し疲れた様子で頬杖をついている様子を目にしたとき、「延命観音のようですね」と話しかけてみる。相手がきょとんとした表情を見せたら、それ以上は話しかけないほうが良い。変態と間違えられるからだ。相手がニコッとしたら、それからは知的な会話が展開される可能性は大である。しかし、その人は信心に凝り固まっている可能性もあり、某宗派に勧誘されてしまうこともなくはないので、さしあたり、宗教以外の会話を展開してみる必要がある。会話が弾むとしたら、その出会いは、単なる偶然ではなく「運命」である。そう、ユン・セリとリ・ジョンヒョクとのように。

 三十三観音霊場巡りは全国各地にある。『妙法蓮華経』の中の「普門品第二十五」には、真心をもって一心に観音の御名を称えれば、その音声を観じてたちどころにわれわれの苦悩を観音菩薩は救いたもうとある。観音様の慈悲心が姿を三十三に変じてわれわれを救済するのである。ここから、三十三観音信仰が生じた。霊場が三十三あるのはここに淵源があり、修学旅行先でおなじみの三十三間堂もそこから発している。

 それにしても、「縁あって」が気がかりであった。ひとつだけ気付いたことがある。茨城県筑西市にある延命院観音寺(中館観音寺)に残る逸話である。中国から渡来した獨守居士が7世紀に観音寺を創建したのだが、寺のある地域で疫病が流行った。獨守居士が祈願したところ中館台地の崖下から清らかな水が湧き出てきて、その水のお陰で疫病が治まったという話だ。さらに、時の左大臣の姫君の熱病も平癒したこともあり、孝徳天皇から「延命」の称号を賜ったとされている。湧水が人々の命を救っている。湧水といえば深大寺もそれが極めて豊富な寺である。”湧水=延命”と考えるなら、延命観音深大寺にこそ相応しいと考えられることもできると思う……こじつけのようだが。

f:id:haikaiikite:20200926153724j:plain

延命観音窟の隣にある芭蕉の句碑

 延命観音窟のすぐ西隣に、写真の芭蕉の句碑がある。深大寺の境内には歌碑や句碑が数多くある。そのほとんどは深大寺に因んだものであるが、この句碑だけは深大寺に直接関係するというより、延命観音が彫られている大石が象潟港で発見されたという「象潟」つながりなのである。

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

 いうまでもなく、芭蕉の句であり、『おくのほそ道』の代表作のひとつでもある。この句の前に芭蕉は「松しまは、わらふがごとく、象潟は、うらむがごとし。さびしさに、かなしびをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と記している。「ねぶ」は掛詞で、西施が憂いに沈み目を閉じて悩む姿と、雨に濡れそぼる合歓(ねむ)の花の双方を表現しているのである。

 私は中学校を終えるまでに本を1冊しか読んだことがなかった。それは『次郎物語』の第一部だ。高校に入るとクラスには読書にふける者が散見されたので、私もそろそろサルからヒトへと変身しようと本を手にしてみた。それが『おくのほそ道』(解説付き)であり、作品の中でもっとも印象に残ったのが「象潟」の句であった。そしてすぐ、私は初めての放浪の旅に出た。15歳の梅雨期のことだった。残念ながら、象潟までは行き着けなかったが。

 深大寺芭蕉の句碑に出会ったときには違和感を抱いたが、延命観音像が象潟港で発見され、それが縁で芭蕉の句碑が建てられることになった。おそらく、深大寺の住職も若い時分、美しい西施の憂い顔に憧れたのかもしれない。

f:id:haikaiikite:20200927101509j:plain

深沙大王堂は水源地の近くにある

 深沙大王と深大寺の関係は前回に触れている。大王像は堂の厨子内に安置されており秘仏であって住職すら一代に一回しか拝すことができないといわれている。ただし、学術調査時に写真撮影されているので、その姿は画像で見ることはできる。像高は57センチ、総髪で目を見開き、髑髏を連ねた胸飾りを付け、上半身は裸である。寺伝によれば開基・満功上人の作とされているが、調査によれば、忿怒(ふんぬ)の相、肢体の動き、着衣の写実的表現から、鎌倉時代に制作されたものと推定されている。

 写真の大王堂は1968年に再建された。1868年の神仏分離令によって旧堂(深沙大王社)は取り壊され、鳥居も破壊された。大王像は厨子(宮殿)内に安置されたまま大師堂に置かれ、再建後に大王堂に戻った。かつての大王社は現在の元三大師堂ほどの大きさがあったらしいが、再建された大王堂はかなりこじんまりとした造りになっている。本堂や元三大師堂からは100m以上も離れた位置にあるため、参拝に訪れる人は少ない。ただし、深大寺では開基・満功上人の両親の仲を取り持った「縁結びの神」として重要な存在であるだけに、この寺の由緒を知っている若い女性(ときに若くない人も)が、その縁を求めて訪れる姿を見掛けることもあった(何しろ今回、深大寺には3回も訪れているので)。

f:id:haikaiikite:20200927105146j:plain

水源地に立つ小さな不動尊

 深沙大王堂のすぐ北側に「水源地」と呼ばれる一帯がある。この辺りから湧き出た豊富な水が開析谷を形成し、深大寺境内に用いられた低地や、前回に挙げた谷戸を生み出したと考えられている。深沙大王堂の西隣にはかなり大きな規模の日本料理店があるが、その敷地にはかつてマスの養殖池があった。そうした水源地とよばれる斜面の中に、写真の水源地不動尊はぽつんと立っている。

f:id:haikaiikite:20200927110444j:plain

開析谷を形成したほどの勢いはまったくない湧水の流れ

 水源地付近から流れ出た清水は深大寺通り沿いにある逆川に合流する。地元の人の話では、湧き水の量は年ごとに減少しているとのこと。とくに今春は流れがほとんど枯れてしまうほどだったそうだ。

 湧水は、武蔵野段丘に染み込む雨水がゆっくりと武蔵野ロームに浸透し、その下の武蔵野礫層に達したとき、ほんの一部が段丘崖の下層から姿を現すのである。かつて、武蔵野台地には林や森や野原以外ほとんど何もなかった。新田開発が進んでも、浅い井戸は掘られたとしても深層水まで手が加えられることはなかった。やがて工場ができたり宅地開発が進んだりしたときに、地下水は工業用水として、住民の飲料水として利用されることになった。例えば、武蔵野市では現在でも水道水の8割を深度250mの地下水を用いている。工場も敷地内に井戸を掘り、多くの地下水を利用している。深層の水が減れば浅い層の水は地中深くに向かい、表に現れる量は減少する。また、宅地造成の際は地中10mほどのところに上下水道の管を埋めることになるので、表層に近い場所にある水脈は工事によって寸断されるのである。こうして湧水量は年々、減っていく。

 以前に触れたように、八王子城の御主殿の滝は八王子城跡トンネルの工事によって流れの大半を失った(cf.第40回・悲劇の八王子城)。上野原や相模原を流れる中小河川は、リニア実験線のトンネル工事のために水量を激減させた。次は大井川の番である。NHKの「ブラタモリ」では最近、「熱海」の回を再放送したが、最後近くの場面で、丹那トンネル工事で地下水脈を掘り当てことによって、増加した熱海の住民のための飲料水が確保されたことを紹介していたが、地下水の大半が熱海側に湧出したために、西側の函南では農業用水が失われ、やむなく牧畜に転業せざるを得なくなったことには触れなかった。何事にも明暗はあるのだ。

深大寺境外を少しだけ歩く

f:id:haikaiikite:20200927151226j:plain

山門下の参道を歩く

 深沙大王堂を離れ、山門下まで戻るため参道を東に向かって歩いた。写真は、山門近くから大王堂方向に振り返って見たときの景色である。右手に境内があり、左手の垣根の内側に亀島弁財天池がある。

f:id:haikaiikite:20200927152537j:plain

仲見世通りを横切る逆川と福満橋

 仲見世通りを少しだけ歩いた。前回、紹介した「元祖嶋田家」と「鬼太郎茶屋」との間に、写真の逆川のか細い流れがある。小さな橋が架かり、それは「福満橋」と名付けられている。これまで何度も出てきた、満功上人の父親の名前から採られている。

f:id:haikaiikite:20200927153028j:plain

多門院坂近くにある「不動の瀧

 山門下の参道を東に進むと、写真の「不動の瀧」に出る。この西隣に不動堂があるので、「不動の瀧」と名付けられたのだろう。滝と呼ぶほどの流れはないが、これも湧水の減少が災いしているはずだ。

f:id:haikaiikite:20200927155654j:plain

多聞院坂。深大寺小学校は右手の高台にある

 不動の瀧の東隣に「多聞院坂」がある。多聞院は深大寺塔頭(たっちゅう)のひとつだったが廃されて、現在はその敷地に深大寺小学校が建っている。多聞天は四天王のひとつで、独尊のときは毘沙門天といい、四天王が揃ったときは多聞天と呼ばれる。「多聞」は日夜、法を聞くというところから名付けられた。深大寺小学校は多聞天との結び付きがあるので、ここの児童はさぞかし授業をよく聞くのだろう。

f:id:haikaiikite:20200927160223j:plain

神代植物公園・水生植物園の入口

 不動の瀧、多聞院坂の対面に写真の水生園の入口がある。本園の神代植物公園は有料だが、こちらの水生園は無料だ。園内の様子は前回に掲載した。今の時期は見ものは少ないが、深大寺湿地は通路がよく整備されているので散策に適している。意外な植物の姿や開花が発見できるかもしれない。

f:id:haikaiikite:20200927160741j:plain

深大寺城跡。森の中に第一郭(くるわ)がある

 深大寺城跡は水生園の敷地内にある。深大寺湿地の標高は37m程度だが、その西隣にある城跡は、第一郭(くるわ)の一番高いところで52m、広場になっている第二郭で50mある。この場所は、先にも述べたように北西から南東に伸びた舌状台地になっているため、丘城を築くには適した場所といえる。台地といっても、ここは武蔵野段丘面の南端にすぎず、北から東側を深大寺の湧水群が開析して低地になったため、相対的に高台になっているだけである。ここのすぐ南側に中央自動車道が走っている。

f:id:haikaiikite:20200927162129j:plain

建物は残っていないが土塁は残存している

 深大寺城は南西に突き出た地形の上にあるので、西からの守りには弱い。それゆえ、西側には写真のような土塁が築かれている。ここは第二郭と第一郭との間に築かれたもので、最後の防衛線ともいえる。

 深大寺城の主が誰であったかは諸説あり過ぎて特定されていない。初見は『河越記』とのことだが、それには上杉朝定(1546年、河越城の戦いで戦死、扇谷上杉氏14代)が深大寺城を再興したとある。が、再興というからにはそれ以前にも「城?」として造営したものがあったはずだし、1540年代といえばすでに小田原北条氏が武蔵国の多くを制覇していたし、その配下には深大寺を再興した吉良氏(世田谷城)の影響力もあったとすれば、深大寺城が上杉家の支配下にあったとする考えに反対する学説もある。

 発掘調査によれば、第一期の堀からは14世紀頃の青磁片が出土している。第二期の堀からの出土品によれば1500年前後の構築である蓋然性が高いらしい。上杉氏と北条氏の覇権争いは1524年の江戸城落城によって北条氏が優勢となり、1537年(天文六年)に上杉氏の河越城が落城したことを考えると、深大寺城は、初めは上杉方にあり、のちに北条氏の支配下に入ったとするのが妥当かも知れないと、まったくの素人はそう判断する。

f:id:haikaiikite:20200927175240j:plain

熱帯スイレン・ホワイトデイライト

 深大寺に行けば、当然のごとくに神代植物園に入ることになる。65歳以上は250円で見学できるのが嬉しい。折角なので、大温室に入ってみた。ランやベゴニアの華やか過ぎる花群だけでなく、写真のような可憐な熱帯スイレンが開花していた。

f:id:haikaiikite:20200927175734j:plain

フウリンブッソウゲ。こう見えてもフヨウの仲間

 風鈴仏桑花の漢字をあてる。アオイ科フヨウ属で、学名は”Hibiscus schizopetalus”という。ハイビスカスはフヨウのこと、スキゾペタルスは”切れ込みのある花弁”を意味する。東アフリカ原産で、日本でも暖かい地方では自然下で育てられている。神代寺、いや深大寺に相応しい名の花である。

 神代植物公園については、いずれ詳しく紹介する予定でいる。